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織田信長は、なぜ 室町幕府をほろぼしたの
6年 学研教育情報資料センター 社会 学習相談 小/社会/6年/日本の歴史/ 安土桃山時代/理解シート お だ の ぶ な が むろまちばくふ 織田信長は、なぜ室町幕府をほろぼしたの あしかがよしあき 自分をたおそうとたくらんだ足利義昭を追放したこ とが、室町幕府をほろぼしたことになったんだよ。 ●信長にとって、義昭はただのかざりだった とういつ 当事の京都は、日本の中心だったので、天下を統一するには、京都を支配するこ とが、ひじょうに大切なことでした。信長にとっても、大切なのは京都であって、 かた が 肩書きはえらいが、実力をもっていない足利義昭に頭を下げる気持ちは、まったく しょうぐん なかったようです。そのため、京都に入ってから、義昭を 将軍 としてかざってお くだけで、政治からしめ出しました。 ●義昭は、信長をたおそうとたくらんだ 義昭は、何の力ももっていなかったので、信長のほかにも有力な大名を集め、お たがいをけんせいさせて、力のバランスをとり、自分がその上に乗っかろう、と考 しょだいみょう えたようです。その目的で、 諸大名 に手紙を送ったりしましたが、信長から止め えんりゃくじ ほんがんじ られました。そこで義昭は、諸大名や仏教勢力(延暦寺・本願寺など)を連合させ ほういもう うら て、信長包囲網をつくり、信長をたおそうとしました。正面から戦わず、裏でたく らみ事をする義昭は、信長にとって、やっかいな人物になりました。 めつぼう ●義昭を追放したことが、室町幕府の滅亡とされた たけだしんげん みかたがはら とくがわ 1572年12月、京都へ進軍する武田信玄が、三方ケ原で徳川・織田連合軍を よくねん 破りました。これを伝え聞いた義昭は、翌年3月に、京都で兵をあげました。これ う じ まきしまじょう が失敗すると、7月にまた、宇治の 槇島城 で兵をあげました。信長は城を落とし、 さい ちょうてい 2歳の子を人質に取って、義昭を追放しました。義昭は、 朝廷 によって将軍をや めさせられたわけではないのですが、世間の人々は、幕府がほろびた、と思ったよ うです。今でも、この追放が、事実上の室町幕府の滅亡とされています。 無断複製:転載:翻訳を禁ず Gakken B026109040