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日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会

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日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会
Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 69 pp.25 〜 36 2014
日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会について
森 田 信 博 About the Volleyball Spread in Japan and Far Eastern Championship Games Nobuhiro MORITA
Abstract
F.H. Brown which visited Japan in 1913 instructed Volleyball in earnest in Chinese YMCA of Tokyo, Kanda.
He tried for the instruction such as Volleyball, Basketball, Track and Field in Kobe Commercial College (existing
Kobe University) while going around YMCA of Kobe, Osaka and Kyoto from the next year in addition. Far
Eastern Championship Games (the first: Orient Olympic) was begun in 1913 with carnival centrally Manila
YMCA. And the Volleyball competition will participate when it is natural that the third Games is held in Tokyo. It
was the first international Games, but a team was made led by a person concerned with lower YMCA of the
instruction of F.H. Brown and participated but, without Association of Volleyball, was over for a crushing defeat.
Volleyball aimed at the first ever victory in the only international Games. It was to revise "Far Eastern rule" in "a
Japanese style rule". Specifically, it suggests the number of people, the reduction of the coat, a Japanese method
including the side-out system abolition by Nine System adoption. The result to go to the satisfaction did not appear
and other competitions were based on an international rule (Olympic event serious consideration). Far Eastern
Games was called off with the Tenth and then Volleyball was established "a standard volleyball competition rule"
and established Nine System Volleyball in Japan.
はじめに
1911 年7月に大日本体育協会が設立されたが,その準
バレーボールは,アメリカ,マサチューセッツ州スプ
備会から大森も参加し,協会の総務理事の一人となった。
リングフィールド国際 YMCA トレーニングスクール1)
肺結核の病状はかなり進んでいたが,第5回ストックホ
を 卒 業 し, ホ リ ヨ ー ク YMCA の 体 育 主 事 に な っ た
ルムオリンピックの日本選手団の監督として大会に赴い
W.G. モーガン(モルガンとも呼ばれる)によって 1895
た。帰国に際して,同行したアメリカ人の夫人の故郷に
年に考案された。翌 1896 年同トレーニングスクールの
たちより,帰国途中サン・フランシスコで病死している。
北米 YMCA 体育担当主事総会で公開され各地の YMCA
享年 37 才の若さであった。大森の活動はこのような状
に普及していった。初めて日本にバレーボールを紹介し
況で日本でバレーボールやバスケットボールを普及させ
たのは,1905 年から 1907 年までスプリングフィールド
るまでにはいたらなかった。
の同トレーニングスクールに在籍した大森兵蔵といわれ
その後,1913 年 10 月に来日した F.H. ブラウンが東京
ている。国際 YMCA トレーニングスクールを卒業し,
神田の中華 YMCA で本格的にバレーボールを指導して
誕生まもないバレーボールやバスケットボール等スポー
いく。翌年から施設の整った関西に居を移し神戸,大阪,
ツ全般を学んだ大森は帰国後,1909 年東京 YMCA の初
京都の YMCA を巡回しながら,神戸高商(現神戸大)
の体育主事となり活動を始めた。体育館もなく屋外の空
でも陸上競技,バレーボール,バスケットボール等の指
き地で指導したようだ。しかし大森は一年たらずで
導に努めた。そのバレーボールは 1912 年ころのアメリ
YMCA を辞職することになった。肺結核の発病や「セ
カでのルールであったが,まだ遊戯性の強いレクレー
ツルメントハウス」の経営という新しい事業への取り組
ショナルなゲームであり YMCA を中心としたもので
みが理由であった 。
あったことから,広く一般に知られることになった訳で
同じ 1909 年には嘉納治五郎に対して国際オリンピッ
はなかった。1913 年にフィリピンのマニラで始まった
ク委員への招聘と日本国内のスポーツ団体を統轄する組
極東選手権競技会(第1回の名称は,東洋オリンピック)
織の結成さらには第5回オリンピックへの参加要請が届
の第3回大会(1917 年)が東京で開催されたことが一
けられた。 1912 年のオリンピックにあわせるように
般にバレーボールが知られることになったといえる。当
2)
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秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 69 集
時バレーボールの唯一の国際大会であり,フィリピン,
中国との力の差に圧倒されながら極東競技会とともにバ
ラインの幅は2インチ(約5cm)以下。
2.ボールは,円周 26 ~ 27 インチ(約 66 ~ 67cm),
レーボールは国内に普及していった。極東競技会は第
重量7~9オンス(約 198 ~ 255g)と規定幅が狭
10 回までしか開催されなかったが,バレーボールとの
関係を見ることにより日本式といわれる9人制バレー
められた。
3.公式試合は,各チーム6名で,試合中の選手交代
ボールの成立発展の過程を明らかにできる。
も可能。
4.主審1名,線審2名。
1.日本へ紹介された頃(1917 まで)のバレーボール
5.サーブは,サービングオーダーにそって,片足ま
1896 年7月スプリングフィールド,国際 YMCA ト
たは両足をエンドライン上に置くか,その後方から
レーニングスクールで全米 YMCA 体育担当主事総会が
であればよく,片手または両手で打ってよい。
開 催 さ れ,W.G. モ ー ガ ン に よ っ て「 ミ ン ト ネ ッ ト 」
6.アウトになった側は,そのつど列ごとでなく,ポ
(Mintonette)と名付けられた,ネットを鋏んでの5対
5人のボールゲームのデモンストレーションが行われ
た。同スクールでは 1892 年1月
3)
ジションを左回りにローテーションする。
7.ボールは,ネットを越して打ち返されるまで,何
にバスケットボール
人のプレーヤーによってプレーされてよい。
を誕生させ広く普及させていたが,冬季体育館でのバス
ケットボールに替わる中高年向けの新たなスポーツの提
6人制採用,ローテーション方式,オーバーネットの
案でもあった。教官のひとり,A.T. ハルステッドから
禁止などのいわゆる6人制バレーボールの基礎が規定さ
運動の特徴から「ネット越しにヴォレー(Volley)を繰
れたと同時にほぼこのルールが,F.H. ブラウンによって
り返すボールゲーム(Ball Game)」ではと改名の提案
日本に紹介されたバレーボールといえる。
がなされた。その案をうけいれモーガンが考案した「ミ
ントネット」は「ヴォレー・ボール」(Volley Ball)と
1)東洋オリンピックの発足
改称され普及していき,1900 年,1912 年と YMCA 内
北米 YMCA 同盟からフィリピンに派遣(1910 年から
でルール改正が行われた 。1900 年の初のルール改正
1918 年)された,E.S. ブラウンにより 1910 年にマニラ
の主な点は以下のようなものである。
YMCA でバレーボールが紹介された。戸外で一チーム
1. ゲームは9イニング制を改め,21 点制となり,
20 名前後でゲームが行われ,とりわけ政府関係職員に
サイドアウト制(サービングチームのみ得点できる)
よって楽しまれた。1913 年には,文部局が,正課教材
となる。
として採用したのをきっかけに広く普及していった5)。
4)
2.ネットの高さは,7フィート6インチ(約 2.29 m)
頭初は相手方に返球するまでの回数には制限もなく,
となり,頭初より1フィート(約 0.30 m)高くなっ
1912 年までは一方のコートで 50 回以上のラリーが続け
た。
られ,キャプテンが「オーバー」と叫ぶと相手方にボー
3.ドリブルラインの規定が削除され,コートの区画
ルが返球されたという6)。このような状況を見た「フィ
線は側面より3フィート以上離れて引き,ネットも
リピン体育協会のルール委員会のメンバーはプレーの回
サイドラインより1フィートまで外に張るように規
数を3回に制限」することを決めた。つまり相手方に返
定された。
球する前に 3 回まで触れることができ,もしネットに打
4.ラインに触れたボールは,グッドとなり,コート
ち込まれた場合はもう1回プレーすることができるとい
外の物体にふれでコート内に戻ったボールはアウト
うルールであった。このルール改正はズムーズに受け入
となった。
れられこの回数制限によりバレーボールはスピーディで
5. 相対するプレーヤーが同時にネットに触れた時
技巧的なスポーツへ変わっていった。と同時に,いわゆ
は,ノーカウント。試合中,主審や相手方を誹謗し
る「三段攻撃」による競技性をより強くしていった。こ
たプレーヤーまたボールを蹴ったプレーヤーは失
の回数制限という大きな変化は,アメリカでは 1920 年
格。他のプレーヤーや物体を利用してプレーするこ
のルール改正まで行われなかった。
とは禁止となった。
E.S. ブラウンは 1910 年着任早々,極東諸国のスポー
ツ向上と国際親善さらにオリンピック参加への推進をね
さらに 1912 年の改正では,それに加えて次のような
らいに,フィリピン体育協会さらに極東体育協会(Far
点が規定された。
Eastern Athletic Assciation)をフィリピンに結成させ
1.コートの大きさは,35 フィート× 60 フィート(約
た。1912 年9月には E.S. ブラウンは日本を訪れ「東洋
10.67 × 18.29 m)で天井まで 15 フィート(約 4.57 m),
オリンピック」への参加要請を大日本体育協会にも行っ
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た。「フィリピン,北部支那(上海),南部支那(香港),
であった。このルールはフィリピンでの実施状況にそっ
日本,マレー半島,タイの六区分をもってその覇権を行
た極東体育協会制定ルールであり,以後通称「極東ルー
い,種目も国際オリンピック大会のは勿論,チーム・ゲー
ル」として適用されていく。フィリピンは,「広東チー
ムとして野球,蹴球,籠球,排球」を実施するというも
ムが代表として」参加した中華民国(支那)を圧倒し
のであった 。しかしながら創設から間もない大日本体
た 11)。
育協会であり,しかも会長の嘉納治五郎が第5回オリン
しかしこの敗戦が中国のバレーボール普及にが大きな
ピックの団長として渡欧しており,視察先のフランスで
刺激となったと多田は述べている。「広東及び香港地方
この件を知った嘉納は次のような否定的な意見を明らか
に於ける学生は,特に排球に興味を持ち,その上に広東
にしている。「日本は世界的な国際オリンピック大会に
基督教青年会書記ウイルパー氏は,学生団と協力一致し
出場する事は望む所であるが,些々たる極東競技に加入
て前回の屈辱に報ゆべく臥薪嘗胆の苦をなめ,只管次回
7)
することは望まない。且つ既に大きな国際競技の協会
の極東大会の準備を怠らなかった。東洋オリンピックは第
(IOC)もあり,世界的に開催して居るのあるから,そ
2回から極東選手権競技会(Far Eastern Championship
の上に限局された極東競技会を別に組織しないでも良い
Games)と改名され,1915 年5月に上海で開催されるや,
だろう」 。その時点では会長の意向で極東体育協会へ
中華排球ティームはストレートでフィリピンティームを
の加入は保留されたままとなった。「アメリカ主義の首
撃退し物美事に前回の復讐を遂げたのである。この試合
脳者たちは総督の文化政策と共にフィリピン体育協会
を見物した多くの中華民国人は無論であるが,その勝利
(PAAF)の競技会をして極東に於ける権威あるものた
を知った多くの民国人は排球に就いて多大の興味を感
らしめ,延いては比島がその主権を獲得することを目論
じ,これが動機となって民国の排球は急速な普及をした
んだ。これには競技自体に対する優越性と共に基督教伝
のである。特に広東地方はその中心となり,如何なる競
導の任務もあったことは否定出来ない。」 これが大日
技よりも排球に最も興味を有するに至った」12)。 これ以
本体育協会の極東体育協会に対するおおかたの本音で
後極東競技会ではフィリピン,中華民国(支那)の二強
あった。
対戦が続いていく。
8)
9)
日本の態度は保留のままで大日本体育協会としては大
会不参加であったが,第1回東洋オリンピック大会は,
3)第3回極東選手権競技会東京大会の開催
1913 年1月極東体育協会主催でマニラのカーニバルに
第2回極東選手権競技会終了後に E.S. ブラウンは,第
あわせて開催された。日本から野球で慶応大が招聘に応
3回東京開催の打ち合わせのために来日した。しかし大
じなかったため,明治大が遠征の形式で参加し,さらに
日本体育協会は従来どおりの無関心な姿勢であったため
陸上競技に,E.S. ブラウンが折衝して大阪毎日新聞から
に,E.S. ブラウンは関西の YMCA を足がかりに開催依
2名が派遣された。結局,フィリピンと中華民国(支那)
頼に努めた。その結果,「一回だけは日本で開催し,其
と協会参加保留の日本の三ヶ国の参加にとどまり,大会
後は充分日本の要求を容れた規則に改正することを条件
後の総会では以後2年ごとに持ち回りで開催し,次回は
に」13)大日体協は従来どおりの開催を承諾する事になっ
上海開催が決まり,その際の副会長に嘉納治五郎が推薦
た。
された。参加国は,フィリピン,中華民国(支那)そし
1917 年5月8日から 12 日まで芝浦の埋め立て地を会
て参加保留の日本の三ヶ国対抗の形で開催が進められ
場に,日本,フィリピン,中華民国(支那)の参加で,
た。
陸上競技,自転車,水上競技,庭球,野球,蹴球,籠球,
大会直後に,E.S. ブラウンは再度日本を訪問し大会参
排球の各競技が行われ日本は全競技に参加した。日本で
加を要請したが,大日本体育協会は積極的な参加に傾か
開催された初の国際競技大会であり,5月 15 日には,
なかった。しかし翌 1914 年秋までに,一応第2回大会
三国委員会で日本は次にような提案をして第4回大会よ
には参加の意向を示したが,「永久的参加と云う点は何
り正式に参加することになった。日本の提案は,「蹴球,
等考慮せられなかった」10)。
籠球,排球の如き一国の特技に属すべきものを採点せず
して番外競技となし同時に総得点式の採点法を改めて,
2)東洋オリンピックのバレーボール
次回からは陸上,水上,野球,庭球,マラソンを夫々独
第1回東洋オリンピックのバレーボール競技は,フィ
立した一選手権となし,選手権争覇となすこと」14)であっ
リピンと中華民国(支那)の二国のみの参加で,一チー
た 15)。そして第4回大会はマニラを会場に 1919 年5月
ム 16 人制(4人×4列),サイドアウト制,21 点3セッ
に開催予定となった。
トマッチであり,コートは 80 × 40 フィート(24.38 ×
12.19 m),ネットの高さは7フィート6インチ(2.29 m)
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4)第4回,5回極東選手権競技会の開催
阪,京都の関西地区の YMCA から体育・スポーツを指
正式参加を決めた大日本体育協会であったが,第4回
導することになった。さらに YMCA 以外の神戸高商で
大会を直前にした 1919 年3月に極東体育協会に脱会を
陸上競技のほか,バレーボール,バスケットボールを指
通告し,大会不参加を表明した。東京大会での第一副会
導した。熱心な指導ではあったが,
「アメリカでリクレー
長であり,「日本青年運動倶楽部企画人総代」の武田千
ション的バレーボール」ともいえるスポーツであった。
代三郎による「第四回極東競技大会選手派遣報告書」に
大日本体育協会は,バレーボールに最も精通している
よれば,「大会開催期日を秋季に延期せんことを主催国
F.H. ブラウンにチーム編成,指導を依頼することになっ
に交渉し,其の聴かれざるに及びて,突如として極東競
た。ブラウンは,わずかな経験の関西と東京の YMCA
技会より脱会し,出場の準備を為しつつありし選手等を
の教え子を選抜してチームを編成した。選手 19 名中,
して痛く失望せしめたり」という状況であった。さらに
バスケットボール兼任選手4名,陸上競技兼任選手3
大阪の大日本体育協会西部支部関係者は「頗る之を遺憾
名であった 21)。しかも「ただボールを打ってネットを
なりとし」,「協会本部と内議し,その認諾を経て大日本
超せばよいくらいのこと」の理解で「球をネット際にあ
体育協会に代わり臨時に一有志団たる日本青年運動倶楽
げてスマッシングすることや,サーブを拳固でしても構
部を設け,日本不参加を遺憾とする主催国の快諾を得」
わぬなどの平凡の事ですら試合をして分かった程であっ
て,関西地区の新聞社の援助をうけ選手 16 名の派遣を
て」22),勝敗以前の問題であった。サイドアウト制,1
実現している
。
チーム 16 人制3セットマッチであったが,中華民国(支
16)
大日本体育協会はすでに第4回大会から正式に参加す
那)から4点,2点,フィリピンから7点,0点の得点
るにあたり,極東大会の内容,組織を再検討して関係国
に終わった。初参加の意味は,バレーボール競技を「始
(フィリピン,中華民国(支那))と交渉をかさね国内で
めて我国に広く紹介してくれた事は何よりの収穫で」23)
は次のような結論に達していた。
であり,観戦した多くの体育指導者が,「女子に適した
一,開催期五月は本邦代表チームの主力を成す学生選
運動」と受け止め,見よう見まねで指導に取り組んでいっ
たことであろう 24)。
手にとり学業の支障あること
二,文部省及び外務省は本邦の参加を望まざること
第4回極東大会は,前述のように大日本体育協会が不
三,第五回大会が支那に於いて開催せらるる際日中間
参加を決め,日本青年運動倶楽部が寄付を募って個人競
に紛擾を生ずるの怖れあること
技の一部に参加したのみであった。
17)
開催時期を「八月の夏期休暇中」に変更希望を開催国
1921 年6月に上海で開催された第5回極東競技会か
のフィリピンに打診したが中華民国(支那)も不賛成と
ら,コートの大きさはそのままに,12 人制に改正された。
なり脱会,不参加を表明した
。ただし理由の二,三は
18)
「個人技の進歩向上に伴い,各プレーヤーにより奔放な
国内にのみ発表された。
活動の広さを与えるため」25) という理由であった。雨
つづいて第5回極東選手権競技会は,会期決定の不手
中の芝生のコートであったとはいえ,フィリピンに4点,
際もあったが,1921 年5月 30 日から6月4日まで上海で
0点,中華民国(支那)に3点,0点の得点であった。
開催されることになる。日本国内では大日本体育協会か
あらためて両国の鮮やかな「ストップ,トス,キルの三
ら選手団を派遣する方向に向かったが,前回参加の「日
段返し」の戦法に対して惨敗に終わった。
本青年運動倶楽部」との関係の調整が必要となった
。
19)
しかし結果的に全八競技参加の大選手団の海外派遣と
なった
。
バレーボールに関しては,当初から好成績を期待して
の派遣ではなかったことも理由となる。大日本体育協会
は,第5回極東競技会派遣の経費削減としてバスケット
20)
ボールの選手がバレーボールを兼ねて参加することに
2.第3回から第5回極東選手権競技会におけるバレー
ボール
なった。選手として出場し,後にバレーボール協会の副
会長となる坂本郵次は,「座談会」の中でこの経緯につ
極東選手権競技会が始まった 1913 年に,F.H. ブラウ
いて述べている。「バスケットボールの方がやや望みが
ンの来日とともにバレーボールが実質的に日本に紹介さ
り,バレーボールもひととおり YMCA で心得があった。
れた。1917 年第3回の極東競技会が,上述のようにやっ
しかしバレーボールを練習したのは出発前に一度だけブ
と東京で開催されることが決まると,主催国として全競
ラウンに指導を受けた。形式的に参加したような形で
技に参加する方針が打ち出された。海に近い芝浦の急造
すね」26)と,参加は将来のバレーボールの普及を期待し
の埋め立て地に陸上競技場をつくり,その中にバレー
てものであった 27)。
ボール,バスケットボールの会場が設けられた。
F.H. ブラウンは比較的体育施設が整っていた神戸,大
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日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会について
3.第6回極東選手権競技会(1923 年)における日本
領や攻撃法および防御法を学び」その後の「熱心な練習
のバレーボール
と研究」が続けられていくきっかけとなったとしている。
1)第6回大阪大会に向けて 一方,エキシビションとして行われた女子バレーボー
第6回極東大阪大会を前に,極東体育協会が開催され,
ルは,中華民国(支那)上海 YWCA と日本の姫路高女(関
「陸上,水上を始め,庭球,野球,蹴球,籠球は夫々イ
西代表)と竹早高女(関東代表)の三チームが参加した。
ンターナショナルの規則を採用し,排球は排球委員会に
日本の両チームは,中華女子を破り,さらに姫路高女が
よって作成された」 。日本の提案であった競技での
竹早高女を下し優勝した。中華女子の技能が未熟でも
「メートル制」が第7回大会から採用されることになっ
あったが,この結果は国内の女子のバレーボール普及に
た。また女子のエキシビションとして,日本,フィリピ
大きな影響をあたえ,各地で女子バレーボール大会が開
ン,中華民国(支那)の庭球,日本,中華民国(支那)
催されていく 32)。
28)
のバレーボール,日本のみの水泳が始めて行なわれるこ
とになった 29)。さらに優勝国に,天皇杯が授与される
3)第6回極東競技会のルール
ことにもなった。そして「大阪の斯道熱心家の希望によ
この大会で適用されたルールは,従来どおりであるが
り,大阪に完全なる競技場が建設せられ,且責任ある斯
次のような改正がされた。12 人制と明記されたが,室
道団体の設立を待て,」30)極東競技会は大阪開催が予定
内を想定して「最も小さきコートにては一組6人とする
された。
を普通とす」と,1923 年からアメリカで6人制が固定
第5回極東競技会後の 1921 年 11 月に大日本体育協会
されたことに対応している。ただし戸外のコートの大き
は,極東競技会での惨敗を受け,バスケットボールとと
さは従来どおり,80 × 40 フィート(24.38 × 12.19 m)
もに,「第1回全日本排球選手権大会」を主催し国内の
であり,ネットの高さも7フィート6インチ(2.29 m)
普及に努めた。バレーボールの全国統括団体もないなか
と同様である。ボールの円周が 26 ~ 27 インチと範囲が
での開催であったが,東京,大阪,横浜の各 YMCA と
1インチ少なくなった。競技役員は,レフリー1名,ラ
神戸高商の四チームの対戦で,神戸高商が横浜を破り初
インズマン2名の他に,得点の記録員1名が追加された。
優勝した。さらに 1922 年3月大日本体育協会は,F.H. ブ
また「一方のチームが 11 点を得たる時直ちにコートチェ
ラウンと西村正次に原案作成を依頼し「ヴァレーボール
ンジを行い,ゲームの終わりにはコートの交代をしない」
規定」を編纂している。ただしこれは,1917 年の第3
ことが一般規定となった。オーバータイムスに関して,
回極東競技会のルールを成文化したものでいわゆる「極
「最高4回までとする」と明記されたが,3回目にボー
東ルール」であった。第2回全日本選手権は,横浜,東
ルがネットに触れた場合のみあと1回プレーできる意味
京の YMCA のみであったが,1923 年4月第3回全日本
であり,1回目,2回目にネットに触れた場合は3回目
選手権は,極東競技会の予選会として開催された。
で返球しなくてはならなくなった。
1923 年4月,極東競技会の一ヶ月前に,東京 YMCA,
陸軍戸山学校で予選会が開催された。関西代表の神戸高
4.第 7 回極東選手権競技会(1925 年)における日本
のバレーボール
商が決勝で,関東代表の満州大連 YMCA を下し,日本
1)第7回マニラ大会に向けて
選手権とともに代表権を獲得した。第6回大会にして初
めて兼任ではないバレーボール専門チームの初の代表選
1924 年 11 月明治神宮競技大会(内務省主催)が開催
手団が結成された。
され,バレーボールも関東,関西から男女各二チームづ
つ代表チームが参加した。「大会参加の意義は,当時の
2)第6回極東競技会の結果
日本として最高のものであったし,また予選を経て代表
1923 年5月,大阪築港に建設された競技場を中心に
が出場するという形式も,揺籃期のバレー界にとっては
7競技が開催された。バレーボールの結果は,対フィリ
極めて好都合」33)で,普及に大きな役割を果たしていっ
ピン戦 21 対2,21 対2,対中華民国(支那)戦,21 対
た。1925 年 10 月の第2回の明治神宮競技大会では,特
10,21 対1の完敗に終わった。神戸高商の監督として
別ルールとして次のような国内規定が採用された。
参加した多田徳雄は,「敗因は全く戦法の相違であった。
即ちフィリピンや中華選手がネット附近に於いて直上に
トスしたボールを中衛が高くジャンプし渾身の力で打ち
込むに反し我選手はジャンプもしないで平凡なボールを
コートの大きさ
ネットを超えて対手コートに打返すのみであった。」
ボールの円周
66 ~ 69cm
60 ~ 66cm
と反省し,予想された結果であるが,「始めてパスの要
ボールの重さ
280 ~ 340g
227 ~ 284g
31)
男子
女子
一チーム人数 9人 9人
ネットの高さ
2.3m
2m
− 29 −
21 × 10.5m
17 × 8.5m Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 69 集
この9人制(3人×3列)の採用は,第7回の極東競
れた。「極東大会の選手推薦等を大日本体育協会から委
技会にも提案したが「時期尚早」を理由にフィリピン,
託を得ようすることも意図され」ていたが,東京,横浜
中華民国(支那)から否決され,再度提案への資料集め
YMCA など「僅かに五,六の競技チーム」しか無かった
のための国内実施であり,「極東ルール」からの脱却へ
関東の早急な設立に「積極的事業は行ひ得ず,同好者の
の試みでもあった。第7回極東競技会からは,二回戦方
集団として小範囲に限られたもの」となり,前年から開
式に改正された。
催された明治神宮競技大会の運営にとどまった 35)。そ
日本代表戦は,関東,関西,東海で予選会を開催し,
れに対し同年 11 月に結成された関西協会は,バレーボー
1925 年4月名古屋市 YMCA 開会で決勝戦が行われ,神
ルの中心的な役割をにない,会長,多田徳雄を筆頭に神
戸高商が東海商業を下し代表権を獲得した。この大会も
戸高商の出身者で構成された協会は極めてまとまった組
女子エキシビションが行われたが,日本は参加せず,フィ
織となった。そして直ちに第1回関西男子選手権大会を,
リピン,中華民(支那)の対戦となった。
翌 1926 年には第1回関西女子選手権大会を開催するな
ど活発に活動していった。
2)第7回極東競技会の結果
1927 年5月,第8回上海極東競技会を前に大日本体
競技会の結果は以下のようであった。
育協会は「排球に関しては統括団体を欠く為従前通り体
一回戦 フィリピン 21−6,21−5 日本
育協会にて予選会を行う旨」の発表がされた。これに対
中華民国 21−8,21−6 日本
して関西排球協会では,
「統轄団体設立」の計画を表明し,
次のような要望を大日体協に具陳した。「予選会は各地
二回戦 フィリピン 21−4,21−2 日本
予選を廃し全日本予選を大阪に於いて開催する事,及び
中華民国 21−6,21−4 日本
予選会は大日本体育協会にて主催,関西排球協会後援の
下に之を行ひ,時,場所,審判其他一切の事務は関西排
監督の多田徳雄は次のような戦評をしている
。 球協会に一任され度きこと」36)と,予選会は,関東,東
34)
前大阪大会で比華の新戦法所謂三段返しで学び鋭意こ
海,関西で行われ、 決勝は大阪で開催されることになっ
れが練習につとめ,大いなる自信を以って試合に望んだ
た。その後,関東,関西の協会に東海の関係者を交え,
のであるが,体格に於いて技量に於いてまだ相当の懸隔
大日本排球協会の設立協議をすすめた。1927 年7月 31
があった。ただ従来の試合に於いては対手から打込まれ
日に大日本排球協会が会長,副会長欠員のまま設立され,
たボールを打返した事が無かったのであるが,この大会
関西,関東,東海に支部を設置し,本部は神戸となった。
では対手からの強いボールを受けてこれを攻勢に転ずる
そして 10 月には大日体協に加盟申請することになった 37)。
事,これに依てお互いにボールが打続けられ希にファイ
ンプレーもあった。又サーヴに於いても従来は三,四人
2)第8回極東競技会の結果
のサーヴで一ゲームが終わった物であるが,八,九人も
第8回極東競技会は,1927 年8月上海で開催された。
のがサーヴし或いは一ゲームで二回もサーヴが続けられ
日本での予選会決勝が大阪で,各支部代表によって開催
るような事もあった事は我排球が非常な進歩を遂げてい
された。関西代表の多田監督の神戸高商が三たび代表
る事を立証するよい実例だった。
チームとなった。大会直前に日本のかねてからの要望で
しかし,相手の戦法を学び,自信を強めていたが,両
あった,9人制が採用されることが連絡された 38)。女
チームは新しい戦術で大会に臨んできた。
子もエキシビションではあったが,県立神戸第一高が初
フィリピンは前衛中からトスを左,右にながして攻撃
の海外遠征を行うことになった。女子は従来通り 12 人
し,中華民国は中衛から中衛へトスをあげて,打ち込み
制でコートの大きさも男子と同じであった。
とタッチ攻撃をからめてきた。多田は,体格,体力,技
男女の試合の結果は次のようである 39)。
量においての差を実感しながら縮まらない格差に「一抹
男子
の悲哀を感じないわけにはいかない」とも漏らしている。
一回戦 中華民国 21−2,21−3 日本
しかしその経験と理解が国内での普及につながっていっ
フィリピン 21−17,21−4 日本
た。
二回戦 中華民国 21−3,21−9 日本
フィリピン 21−4,21−17 日本
5.第8回極東選手権競技会(1927 年)における日本
のバレーボール
女子
一回戦 日本 21−12,21−0 中華民国
1)関東,関西および大日本排球協会の設立
二回戦 日本 21−5,21−4 中華民国
第7回極東競技会の直前5月,関東排球協会が設立さ
− 30 −
Akita University
日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会について
日本の提案した9人制は,明治神宮大会の特別ルール
して「改正規則案」を提案した。極東競技会と明治神宮
として実施していた実績の結果であったが,第8回極東
大会さらには女子競技,中等学校競技の規定も統一する
大会での採用決定は大会3週間前であり,急な変更で日
必要もあったからである。
本に有利な条件とはならなかった。この代表チーム監督
この「改正規則案」は,実は「日本独自の関西支部案」
の多田は試合結果を次のように分析している。
として,各支部に送付され,この発表に関連して,関東
「前回の大会の反省で練習と研究を続けたことは,攻
支部の理事薬師寺尊正は,「サイドアウト制廃止説」を
撃法であり,ネットに沿ふて左右に流したものを打つこ
打ち出し 45),賛同を得ながら排球協会の方針とした。
と前衛のタッチであった。(中略)殊に従来の大会にて
薬師寺の案は次のような提案であった 46)。
彼等が学んだ攻撃法が折角我選手に依て熱心に練習せら
(一)従来のサイドアウトがなされる場合は全部之を
レシーヴ側の得点とす。
れ日華比三国が同様の戦法で争はんとすれば比華は常に
一歩先んじて新戦法で戦ひ,我選手は何時も彼等のあと
(二)サーヴィスは一人のサーヴィスに於いて両ティー
を追っていたのである。」という不安を持って試合に臨
ムの得点合計三点となりたる場合には 相手方に
み「試合に於いて緊張し過ぎたため」敗れ,さらに「未
移る。
熟な技量で上気して攻撃が十分発揮できなかった」。一
(三) 一競技は原則としてファイヴセット・マッチと
方,「此の大会での中華ティーム,比軍ティームには大
して場合によりスリーセット・マッチを許す。
した変化,目新しいものはなく」,「我選手は敗退したの
その理由を,「競技者の努力の成果を示さない」,「両
であるが,従来の惨敗に比すれば我攻撃が相当の進歩を
チームの優劣の差を表さない」,「競技規則を複雑にして
なし幾分の自信を得たのである。」 というものの成績
いる」,「観衆の興味を半減させる」,「レフェリーの判定
では従来の反省の繰り返しであったが,「フィリピンに
を複雑にする」の五つ視点をあげている。廃止した場合
対して実に 17 点を得ること二回に及び足ることは未曾
には,試合を五セットマッチとしサーブを平等にすれば
有の事であり,技量の点に於いては相当進歩していたこ
影響は少ないと考えている。これによりバレーボールは,
とは確かである。」41)と体力,体格の違いに敗因を求め
常に緊張しスピーディとなり,競技をする者も観衆も妙
ている。しかし「中華ティームはジャンプトスが比較的
技を満喫する事ができるのである 47)。
多かったこと,ジャンプして左右ネットの際に低く流し
この新ルールを極東競技会に提案するために,早々
たものを打ち込む方法であった。即ち前衛センターが
1929 年の明治神宮体育大会で実施した。10 月に男子 27
ジャンプ右方ネットに沿ふて約一米位流すや否や,中衛
チーム,女子 38 チームが参加し,新ルールを採用し,
がジャンプしてして打ち込む方法で,トスとキルの間は
第9回極東競技会の予選会として実施された。神戸商大
極めて短く相当有効なる方法であった」。タッチ攻撃を
(旧神戸高商)が五連覇を達成した。新ルールの成功で
40)
多用するフィリピンを,中華民国(支那)は早キル,即
一部を修正して,大日本排球協会は「標準排球競技規則」
ちジャンプトスによるクイック攻撃で破った 42)。女子
として 1930 年2月に公表した。9人制,サイドアウト
チーム中華女子を破り二度目の優勝となったが,「殆ど
廃止を採用し,サーブのみ,1点交代とした。
問題にならぬ程度であった。けれども中華ティームはこ
公表の一ヶ月前に,サイドアウト廃止,サーブ制の改
れまでと比べれば相当の進歩をなし,稍強いスマッシン
正など七項目の日本案をフィリピン,中華民国(支那)
グも時々見受ける程であった」 。
に送付し,第 9 回極東競技会での採用を求めた 48)。両
国からの回答は,改正の趣旨には賛同するがなお十分の
6.第9回極東選手権競技会(1930 年)における日本
検討を必要とする,というもので第9回競技会は従来ど
43)
のバレーボール
おりの規則で開催されることになった。これまでの参加
1)改正規則案とサイドアウト廃止
三ヶ国のほかに,インド,タイ,ジャワおよびフランス
第8回極東競技会後日本国内では,広島を中心に中国
領印度支那に招待状が発送された。しかし陸上競技にイ
支部の結成,日本女子排球大会,全国高専排球大会,ネッ
ンドが参加したのみであった。
トの高さを 2.15m に下げての全国中等学校排球選手権大
会,大日本排球協会主催の全日本排球選手権大会さらに
2)第9回極東競技会の結果
の刊行な
東京神宮外苑相撲場特設コートで開催された第9回極
どが続いた。また排球協会では,人数,コートの大きさ
東競技会の日本チームの試合は次のような結果であっ
の一部暫定修正があったが 1923 年制定のままの「極東
た。
ルール」を採用している状況を問題とした。試合中に起
男子
こりうるさまざまな事柄に適切に対応する規定の整備と
一回戦 フィリピン 21−18,21−14 日本
1929 年3月には協会の機関誌『排球』4号
44)
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Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 69 集
中華民国 20−22,21−8,21−8 日本
心に活動してきた大日本排球協会の本部が神戸から東京
二回戦 フィリピン 21−17,21−12 日本
へ移転された。明治神宮体育大会や極東競技会への参加
中華民国 21−18,21−19 日本
問題に関して,大日本体育協会との事務連絡の利便性と
女子
スムーズな対応によるものであったが,依然バレーボー
一回戦 日本 21−0,21−4 中華民国
ルの活動の中心は関西以西にあった。他方 1932 年に日
日本 21−0,21−0 フィリピン
本の傀儡国家,満州国が成立するとその余波はスポーツ
二回戦 日本 21−4,21−7 中華民国
界にさまざまな影響を及ぼした 50)。翌 33 年には日本の
日本 21−0,21−2 フィリピン
各競技団体を集め,アジア全域を含んだ「極東競技会改
造案」を説明了承を得ている。また「極東体育協会改造
男子は二次の強化合宿を経て,初の選抜チームを編成
案」「満州国参加」をはらんで極東競技会が開催されて
し多田徳雄を監督に大会に臨んだ。強化の成果が表れ,
いった。オランダ領インドネシア,フランス領インド支
極東競技会で初めて一セットを奪ったが,全敗に終わっ
那が会員と承認され,インドネシアが参加した。
た。女子はエキシビションであったが見事なタッチ攻撃
で予選会を制した愛知淑徳高女が代表となり,三度目の
2)第 10 回極東競技会の結果
制覇をとげた。
男子
大会中の5月 27 日から三ヶ国での極東排球競技規則
一回戦 フィリピン 3(21−18,18−21,
21−7,21−14)1 日本
改正委員会が開催された。改正原案の協議の結果,第
10 回マニラ極東競技会から採用が決定された。日本が
中華民国 3(21−18,13−21,21−17,
10−21,21−14)2 日本
強く要望していた改正案が極東式として採用されたとい
える。日本委員の西川は,現行の標準規則との相違点を
十七項目あげている
二回戦 フィリピン 3(15−21,21−17,
が,主なものは次のようである。
21−18,21−17)1 日本
49)
一,コートのサイズを 22 × 11m(女子は不変)
日本 3(22−20,27−25,
二,ネットの構造を規定
15−21,21−17)1 中華民国
三,ボールの色及びその空圧を規定
四,競技者に番号をつけることを規定
日本の提案の9人制,サイドアウト廃止,5セットマッ
五,ラインズメンを4名に増加し,必要に応じで増加
チの規則による大会で,初の1勝をあげることができた。
し得ること,さらに彼等に一定の決定権を与える
二次におよぶ長期の強化合宿と選抜チームの編成の成果
六,新たにアンパイヤをおく
であったが、 参加した極東競技会ではすべて最下位に
七,サービングチームに反則の場合は,レシービング
終った。その原因について,池田はエースの力不足,チー
チームにポイントとサービスを与える(ポイントと
ムワークの不備,チーム強化と編成の問題さらに微妙な
サイドアウトが同時に宣せられる)。サービングチー
審判の判定などをあげている 51)。女子の派遣は全競技
ムは「サイドアウト」の宣言があるまでサービスを
を通し皆無であった。
継続することができる
七項目は,「サイドアウト廃止」であるが,それに伴
3)満州参加問題と極東体育協会の解散
うサービスの平等性までは考慮されなかった。
バレーボール競技終了の翌日5月 19 日,極東体育協
会の定時総会が日本,フィリピン,中華民国(支那)の
7.第 10 回極東選手権競技会(1934 年)における日
本のバレーボール
三ヶ国で開催された。「日本は規約改正を提案,全会一
致の加盟条件を,多数決に改めようとした。こうすれば
1)第 10 回マニラ競技会に向けて
中国が賛成しなくても、 日本とフィリピンが賛成すれば
極東競技会の規則が修正されると,大日本排球協会は
満州国の参加は承認される。中国側は反対したが,不利
1931 年それを全面的に採用しながら国内の9人制標準
な立場に立たされていた。規約改正は三分の二の賛成で
競技規則を発効した。コートの大きさを 21 × 10.5m を
可能であり,日本とフィリピンが賛成すれば、 その条件
22 × 11m に拡張しネットの高さも 2.28m から 2.30m に
を満たすことができたからである。中国代表は退席する
改正した。同年には,関東学生連盟が結成され,
「1ゲー
が,脱退はしないと宣言して」52) 席を立ち去り総会は
ムに1回,2分以内の作戦タイムを設ける」という特別
中断した。フィリピンの折衷案も不調に終ったが,21
ルールを採用した。2年後には関西学生連盟も結成され
日に日本とフィリピン代表の間で極東体育協会の解散と
リーグ戦が行われた。さらに 1932 年には関西支部を中
東洋体育協会の創設が決議された。そして 1938 年に新
− 32 −
Akita University
日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会について
たに東洋選手権競技大会を東京で,1942 年にはマニラ
体力のほか新しい攻撃法に敗戦が続いた。女子は初
で開催予定とし,満州国が加盟申請をした場合はこれを
の遠征を行い優勝している。
承認することなどが申し合わされた
。こうして極東
53)
6.第 10 回極東競技会では,日本の提案でサイドア
選手権競技会は第 10 回で幕を閉じることになった。
ウト廃止などのルール改正が行われたが,満州国の
参加問題で以後極東競技会が中止となってしまう。
8.極東選手権競技会以後の日本のバレーボール
日本のバレーボールは,唯一の国際大会であった極東
1934 年 11 月には大日本排球協会はかねて申請中の満
競技会を通して,
「極東ルール」から「日本式9人制ルー
州支部(関東州,満鉄属地を管轄)の加盟を承認し朝鮮
ル」を作りあげていった。そして国内での小学校から一
支部を含め計 12 支部体制をとった
。1938 年大阪で第
54)
般男女の「標準排球競技規則」として普及させていった。
1回東洋選手権競技大会の開催が決定されたが、 直前に
フィリピンの不参加声明を受け,日中戦争の悪化により
註および引用
大会は無期延期となった。さらにオリンピック東京大会
1)1851 年ボストンでキリスト教青年会(YMCA)が
の返上により,世界から「東亜」に重点が移った。傀儡
誕生。当初はキリスト教の布教活動のみであったが,
政権の満州国,中華と対抗競技ではなく交驩競技大会の
南北戦争後の社会変化とともに経済的な余裕が生じ,
開催を大満州体育連盟主催で 1939 年に「日満華交驩競
余暇を利用してスポーツを楽しむ人々が増加していっ
技大会」として新京で開催した。さらに 1940 年「紀元
た。YMCA も社会体育・スポーツ施設的な役割を果
2600 年東亜競技大会」が大日本体育協会主催で東京,
たすようになり,体育・スポーツ活動がしだいに盛ん
大阪で,日本,満州国,中華民国(支那),タイ,フィ
になっていく。増えつづける YMCA では,そこで働
リピンの参加で開催された。バレーボールは両大会とも
く主事の本格的養成と研修のための学校の必要性がで
日本と満州国のみの参加であった。そして 1942 年8月
てきた。1885 年,ボストン近郊マサチューセッツ州
満州国新京で建国 10 周年記念慶祝第2回東亜競技大会
スプリングフィールドにキリスト教奉仕者学校
が,日本,満州,中華民国(支那)の参加で開催された
(School for Christian Workers)が創設された。1887
のが戦前最後の「国際試合」となった。国内ではこれよ
年,YMCA における体育・スポーツの担当主事の養
り前 1936 年に戦前の基準となる規則改正が行われ,男
成と研修も始め,体育部主事養成科を併設しアメリカ
女一般,中等,小学校の規定も整備され大会の普及が進
内外からの入学者を育て始め,国際 YMCA トレーニ
めたれた。
ングスクール(International YMCA Training School,
1891 年)と改称された。その後,1954 年にはスプリ
おわりに
ングフィールド・カレッジとなった。
バレーボールが日本に紹介されてから,極東選手権競
2)水谷豊:白夜のオリンピック 幻の大森兵蔵をもと
技会との関係で普及の経緯を考察した結果次のようなま
とめができる。
めて,1986,平凡社 p.156
3)1891 年 6 月からスプリングフィールド,トレーニ
1. 日本へは,1912 年頃のアメリカのルールによる
ングスクールの教官に採用された J. ネイスミスらに
バレーボールが紹介され,戸外での多人数しかも返
課せられた課題は「体操に替わる,冬季の体育館での
球 回 数 も 無 制 限 な レ ク レ ー シ ョ ン 的 な も の が,
興味ある体育プログラム」であった。毎年夏に開催さ
YMCA を中心に行われていった。
れた全米 YMCA 体育主事講習会で公開されることが
2.第3回極東選手権競技会の東京開催で初めて,競
求められた。ネイスミスは試行錯誤の末,冬休みも間
技としての 16 人制,サイドアウト制のバレーボー
近い 1891 年 12 月 21 日に,13 ヶ条からなるルールの
ルが披露され,普及のきっかけになった。
バスケットボールのゲームを行った。冬休み明けの翌
3.とりわけ,女子に適した球技と理解され各地で普
年 1892 年1月 15 日のトレーニングスクール研究報告
及が進んでいった。
書に「BASKET BALL」としてルールが公刊された。
4.第5回極東競技会から 12 人制となり,第6回極
(水谷豊:バスケットボール その起源と発展,1983,
東競技会が大阪で開催されると,それまで兼任の代
表選手が専門チームとなったが,差を埋めることは
日本 YMCA 同盟出版部,p。81)
4)水谷豊:バレーボール その起源と発展,1995,平
できなかった。エキシビションとして行われた女子
競技は,日本が勝ち,国内での普及に弾みをつけた。
凡社,p.48 ~ 49
また「ミノネット」(Minonette)という表記も,池
5. 第8回極東競技会からは,日本の提案で9人制
となったが,フィリピン,中華民国(支那)の体格,
− 33 −
田(1985)は誤植の理由にとどめているが,水谷(1995)
は「ミントン」まで明らかにしている。ともに,「ミ
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秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 69 集
ントネット」(Mintonette)が正しいとしている。
七回国際オリンピック大会とに二重に出資を求むるに
5)多田徳雄:排球競技法,昭和6年,平凡社,p.23
は成算が無かったのである。此等の内部の事情が有力
6)池田久造:バレーボール ルール ルールの変遷と
な因を成し,会期変更問題を契機として脱会という形
その背景,1985 年,日本文化出版,p.33
式をとることに至った(大日本体育協会編:前掲書,
7)大日本体育協会編:大日本体育協会史 上巻,昭和
11 年(昭和 58 年復刻,第一書房)p.737-728
p.40)。
19)大日本体育協会としては極東競技会には不参加を表
8)大日本体育協会編:前掲書,p.738
明したが,第7回国際オリンピック(1920)の成績か
9)大日本体育協会編:前掲書,p.737
ら未だ国際的のレベルに達せず,東洋に於いて更に錬
10)大日本体育協会編:前掲書,p.739
磨する必要を感じたが,強く青年学生より極東競技会
日本側は,陸上,水泳,庭球のわずか 14 名であっ
参加の熱望があって,第5回大会には大選手団を派遣
たが,派遣もとは大日本体育協会,大阪毎日新聞,在
する方向に変わった。しかし日本青年運動倶楽部が日
上海邦人からであった。大日本体育協会の冷淡な態度
本代表として参加し次回大会の日本代表として承認を
は,「大会諸規約が在比支の米人が作製したものであ
受けたことから両者の協議調整が必要となった。妥協
ること,然もその米人が基督教関係でありその宣教に
案として,「双方から選手を選抜し,臨時に特別の名
利用するというような漠然たる与論につられ,当時東
目を附け一団となって上海に選手を送る,但し此の際
洋に於ける唯一の IOC メンバーを有していた日本と
は原則として選手は各々半数宛とする。」(大日本体育
しては極東大会よりは国際オリンピックと云う優越感
協会編:前掲書,p.41)という覚書を取り交わすこと
も含まれていた。」という表向きの理由と日本の面目
になりその後数度にわたり東京側(大日本体育協会)
を維持するためには不十分な協会の財政難が関わって
と大阪側(日本青年運動倶楽部)の会合がもたれてい
いたといえる(大日本体育協会史編:前掲書,p.740)。
く(大日本体育協会編:前掲書,p.42-43)。1921 年3
11)池田久造:前掲書,p.35
月に評議委員会が開かれ,規約の改正と嘉納会長の辞
12)多田徳雄:前掲書,p.24-25
任が承認される。嘉納治五郎自身は次のように辞任の
13)大日本体育協会編:前掲書,p.741
経緯を述べ,名誉会長に推薦されている。「余は体協
開催の決定は,「本会側としても,大国としての衿
創立以来十年間会長として我が国スポーツ界の発展の
度を示して従来の比支米人に依って作られた諸規則,
為に尽くして来た。最近には大正九年アントワープの
競技種目に全然条件を附けず」に,体協の理事と有力
国際オリンピック大会に十五名の代表選手を参加せし
な実業家を加えて,神田 YMCA で決定した。
め,余も亦参加して競技会を見,且つ諸種の会合に樽
14)大日本体育協会編:前掲書,p.742
俎折衝した結果,我がスポーツ界を一層発展向上させ
さらに「特技を加入するならば日本は柔道等の武道
るには更に一段の奮励を必要とし全力を傾倒せねばな
を加えることを条件」として実施種目に条件をつけた。
らないことを痛感した。顧るに余には如何にしても余
15)1917 年に東京・芝浦で開催された第3回極東選手
自身が為さねばならぬ講道館柔道がある。然るに大日
権競技会では,「ヴォレー・ボール」あるいは「ヴォー
本体育協会の事業は余が為さずとも余に代わって為す
レー・ボール」と表記されていたが,翌年 1918 年に
べき相当の人物が有り,且つ此等のスポーツは既に欧
は「女学校排球大会」と漢字表記が用いられた。中国
米に或る程度の研究が逐げられ,これを基礎として研
ですでに「排球」と使用されていたことからこれにな
鑽すれば軈がて欧米のレベルに到達する見込みがあ
らったか,国内の関係者が競技特徴から名付けたのか,
る。其處で大正九年以来辞意を固め今回評議委員会の
この頃から「排球」表示が一般化していく(水谷豊:
承認を得たのである(大日本体育協会編:前掲書,
バレーボール,前掲書,p.179)。
p.44-45)」。
16)大日本体育協会編:前掲書,p.743
20) 嘉納治五郎は IOC の代表として,三国委員会に出
陸上,水上,庭球に 16 名の選手が出場した(大日
席し,大会におけるメートル制の採用,競技の統制,
本体育協会編:前掲書,p.762)。
大会に参加する各国の国際オリンピック参加を提唱し
17)大日本体育協会編:前掲書,p.39
た(大日本体育協会編:前掲書,p.747)。この大会か
18)会長嘉納治五郎は国際オリンピック大会参加に主力
ら極東体育協会として正式の代表委員会を開催し,職
を注ぐことを希望し,比支に依って創設された此大会
制規約の改正(名誉会長及び副会長一名は主催国以外
に参加することに物足りなさを感じてをり又他方実際
の国より選出),憲法委員,規則委員などの特別分科
問題として本会の財政状態が未だ調整せず,且つ大戦
委員会を組織された。またタイ,ジャバ,マレー,イ
後の日本経済界の恐慌は此の年の極東大会と明年の第
ンドセーロンに大会参加の勧誘状が送られた。
− 34 −
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日本におけるバレーボールの普及と極東競技選手権大会について
21)大日本体育協会編:前掲書,p.762
案があったが,日本,中華民国(支那)は庭球のみ賛
22)大日本体育協会編:前掲書,p.1150
成した。また中華民国 YMCA の,ミス・バーガーか
23)多田徳雄:前掲書,p.33
ら女子バレーボールの強い提案があり,日本の賛成で
多田徳雄は,第4回マニア極東競技会の陸上,水上
エキシビションとなり,日本から二チームが参加する
競技に出場して活躍したが,バレーボールに特に関心
ことになった。
を持ち,中華民国対フィリピンの試合を見学して帰る。
30)大日本体育協会編:前掲書,p.750
そして大正9年に神戸高商に勤務し,研究と指導に力
31)多田徳雄:前掲書,p.42
を入れ,神戸高商の監督と共に黄金時代を築いたばか
また,全国に於いて僅か数ティームあるか無きかの
りでなく,日本排球教会の設立と初期の中心的人物と
有様でそれが極めて貧弱なる実力を備えていると考え
なる(日本バレーボール協会:日本バレーボール協会
ている(同,p.60)。
五十年史,p.17)。
32)1923 年6月に大阪毎日新聞社および健母会は,大
24)上野和恵,下谷内勝利:日本における女子バレーボー
阪府下の女学校に巡回コーチを行い,12 月には第1
ルの普及過程に関する研究(1908-19 25)日本体育
回ヴァレーボール大会を開いたのであるが,32 チー
大学紀要 26 巻1号,1996,p.21
ムと云う実に多数の参加があり頗る盛会であった(多
女子競技としての普及は次のことが明らかにしてい
田徳雄:前掲書,p.62)。また5月に行われた全国女
る。「大正7年4月に大阪朝日新聞社広島通信部が主
子排球大会,6月に行われた日本女子オリンピック大
催となって始めて女学生の陸上競技会を開き競技種目
会,11 月に行われた女子中等学校排球大会の全国的
中に排球も加へられて試合が行われてのが我国に於け
競技会を始め各地に開催せられた地方的競技会は殆ん
る排球試合の最初である。当時の体育指導者の中には
ど枚挙に遑がない(大日本体育協会編:前掲書,p.456)。
女子の対抗競技が学校と学校との感情問題を惹起する
33)池田久造:前掲書,p.48
ことがあってはと云ふ事を恐れていたため,一ティー
34)多田徳雄:前掲書,p.221-222
ムを二三校の生徒を以て編成して試合をしたのであ
35)大日本体育協会編:前掲書,p.1151
る。(中略)大正 8 年秋から大阪毎日新聞社神戸支局
36)大日本体育協会編:前掲書,p.1152
主催のもとに兵庫県女子中等学校の排球競技会が開催
37) 会長は 1929 年,平沼亮三,副会長高松定一。理事
されたのであるが,単独の排球競技会としてはこれが
として多田徳雄,江藤順蔵,西川政一(以上関西支部),
我国の最初であろう(多田徳雄:前掲書,p.58)」。
薬師寺尊正,柳田享,坂本郵次(以上関東支部),佐
25)池田久造:前掲書,p.44
藤金一,増田健三,西村正次(以上東海支部)。九州
26)日本バレーボール協会:日本バレーボール協会五十
朝鮮,満州,台湾を本部統轄として,次のように各支
年史,日本文化出版,昭和 57 年,p.50
部が全国を分割統轄した。関東支部:関東一圓,新潟
27)第5回極東大会へのバレーボールチーム派遣に消極
以東東北,北海道,樺太,東海支部:滋賀,三重,岐
的な体育協会に,ブラウン,近藤重吉(体協理事)ら
阜,愛知,静岡,山梨,長野,福井,石川,富山,関
の強い要請もあり 1921 年4月予選会が開催されてい
西支部:九州,大阪,奈良三府県以西,中国四国一圓。
る。関東予選で東京 YMCA が東京高師,横浜 YMCA
事業として,一,全日本排球選手権大会の開催,二,
を破り,関西予選の神戸高商が棄権したため,東京
国際的競技会に対する選手の派遣並びに招聘をあげて
YMCA が代表になっている(大日本体育協会編:前
いる(大日本体育協会編:前掲書,p.1153)。
掲書,p.451)。「バレーボール座談会」で当時選手で
38)9人制でコートの大きさは,70 × 35 フィートと改
あり理事の渡辺逸郎はその棄権のいきさつについて次
正された(池田久造:前掲書,p.59)。
のように述べている。「関西で予選会があるが,大阪
39)第8回極東競技会の予選会は,関西から鐘紡(京都),
YMCA 以外にチームがなかった。そこで神戸高商に
香川師範,神戸高商,呉王子倶楽部,五条中学が参加
予選にでてみないかという声がかかり,ルールもよう
し神戸高商が勝ち,東海は東海商業と八高の参加で八
知らんので,前日に習ったですよ。翌日試合をしたら,
高が勝ち,関東は明治学院,ジュピター,浦和高校,
ふしぎなことに神戸が勝ってしまった。初めから予選
よこはま YMCA の参加で明治学院が支部代表となり
に参加する気もなかったから,東京まで決勝に行くお
大阪で日本代表戦がおこなれ、 神戸高商が三度目の代
金もないし、 心に準備もできていなかった。それで棄
表となった。女子は,兵庫県立神戸第一高女,櫻井高
権したわけね(日本バレーボール協会:前掲書,p.51)」。
女,竹早高女,郡山高女,金蘭会工事,京都府立第一
28)大日本体育協会編:前掲書,p.749
高女,大手前高女,八幡高女の9チームで予選会が行
29)女子の競技として,フィリピンから庭球と野球の提
われ,神戸第一高女が代表となった。中華民国(支那)
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Akita University
秋田大学教育文化学部研究紀要 教育科学部門 第 69 集
は華南と華北が決勝隣,華南チームが中華女子として
6,フォトフォールトに関する規定の改正
出場した(多田徳雄:前掲書,p.47-48)。
7,ドロンゲームの制定
40)多田徳雄:前掲書,p.225-227
さ ら に 採 用 が 見 送 ら れ た 場 合 を 想 定 し て, 顧 問
41)多田徳雄:前掲書,p.47
F.H. ブラウンも参加し日本規則準備委員会を開催し,
42)多田徳雄:前掲書,p.225。ここで言う「タッチ攻撃」
折衷案として『サイドアウト制は存置するもサーヴィ
とは,ボールを打ち込むのではく,上肢を急速度に下
ングチームの反則にたしてはレシーヴィングチームに
方に引き下ろす途中に於いて五指に依り一瞬間ボール
対しポイントを与へ同時に,「サイドアウト」を宣す
に触れてボールを時分の臨むところに落とすのある。
ること』を提案することも準備した(西川政一:極東
換言すれば五指でボールを速やかに掻き下ろし対手を
排球競技規則の改正,大日本排球協会編,排球,第 7 号,
攻撃するのである(多田徳雄:前掲書,p.317)。
1930 年,p.123-124)。
43)多田徳雄:前掲書,p.49
49)相違点としてあげられている八項目以降は次の通り
44)1927 年から関西排球協会の機関誌として発行され
である。
てきた『排球』第4号が,大日本排球協会の機関誌と
八,ダブルファウルの制定
位置づけられた。
九,輿(従来は膝)以下のプレーを反則
45)池田久造:前掲書,p.73
十,サイド・コーチを反則
46)薬師寺尊正:サイドアウト制の廃止に就て,大日本
十一,妨害はその手段,方法を問わず反則,不正な交
排球協会編,排球,第5号,1929 年,p.14
代も反則
47)薬師寺尊正:前掲誌,p.17-23
十二,サービング・オーダーを誤った場合には,次の
また,別の箇所では次のような本音を述べている。
サーバーを明示
サイドアウト制廃止を思いついたのは,第8回上海極
十三,タイムアウトを制定
東大会で日本チームの対比,対支の排球選手権競技を
十四,補欠選手及びコーチの行動に関して規定
見て,しみじみと此制度廃止の要を感じたのである。
十五,没収試合の時間的制限の明示
極東大会に於ける優勝と迄は飛躍し得ないでもせめて
十六,延長試合の点数の踏襲
一セットでも取る事が急務であると考へて居る私の今
十七,レフェリーの決定に対する抗議の解決方法の規
迄心中に朦朧たる形をなして居たサイド・アウト制度
定
の心持を刺激し急に判然たる私見を形づくり,之を思
(西川政一:前掲誌,p.125-126)
切って外部に発表する迄に至らしめたのであった。
50)高嶋航:帝国日本とスポーツ,塙書房,2012,p.23-
その後6人制では,1998 年に世界バレーボール連
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盟総会でサイドアウト制を廃止したが,そこではメ
51)池田久造:前掲書,p.107-108
ディアを強く意識した試合時間短縮のための議論に終
52) 高嶋航:前掲書,p.32,高嶋航:「満州国」の誕生
始した。
と極東スポーツ界の再編,京都大学文学部研究紀要,
48)大日本排球協会理事西川政一は,「半年余りの後に
2008,47,p.170-171
怪異せえられんとする第9回極東大会に此の新規則の
53)高嶋航:「満州国」の誕生と極東スポーツ界の再編,
採用を要求することは聊か無理な注文であることも認
p.173。しかし 1942 年1月,日本軍はマニラを占領,
めない訳ではなかった。」としながらも,日本提案を
同年8月に東亜競技大会が満州国建国 10 周年と記念
次の七項目としている。
して満州国新京で盛大に行われた戦前最後の国際試合
1,サイドアウト制の廃止
であった(高嶋航:同誌,p.175)。
2,メートル制の採用
54)関東,東海,関西,中国,四国,北陸,北九州,南
3,サイドアウト制の廃止に伴うサーヴィス制の改正
九州,山陰,北海道,朝鮮,満州の 12 支部である(池
4,レフェリーの権限拡張
田久造:前掲書,p.111)。
5,ネットのサイズ及ボールの位置の制定
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