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七学年模範的解釈による詩学習と短いロシャ文学史﹂(㊥二六ペ) と修辞学 五・六学年文や短詩の論理的修辞的解釈の練習の伴う論理学 四学年格文法、脚怒組立て、やさしい小詩の晴雨 ﹁三学年 文法の学習 になっていた。 三三年の﹁教授計画規則﹂ (YSTAVPROGRAMM這次のよう ソビエトにおける文学教育の研究者・ゴループコフによればT八 育というより文学望洲のつめこみといった性質をもっていたo 十九世紀の六〇年代までにおけるロシャの文学の教育は,文学教 ・ソビエトの文学教育においてどのような歴史的意義をもっている か'などを考察してみたい。 のような関わりにおいて生み出されたか,糾そして,それはロシャ 学教育論がどのような内容のものであったか・物それが時代とのど 浜 本 純 逸 -十九位紀におけるpシャの文学教育- スタユーニン の文学教育論 魁娼fsms ロシャ'ソビエトを通じてへ文学教育における広大の関心は内容 と形式の統TPあった。文学作品のもつ豊かな忠恕内容と言語芸術 としての文学がもつ芸術性との二側面をどのように把捉し,どのよ ぅに文学教授の対象とするかの問題である。 ここでとりあげるスタユーニンは一八二六年十二月に生まれ・ペ テルブルグ第三ギムナジウム卒業後へセント・ペテルプルグ大学で 歴史と文献学を専攻して、ふたたび母校のペテルプルグ第三ギムナ ジウムに帰り'文学の教師となりへべ-ンスキ-チェルヌイシェ フスヰ-'ドプロリユーボフら革命的民主主我者たち,教育学者で はピロゴ7、ウシンスキーらの思想の影響を受けつつ世界初を形 成し'六四年には﹃ロシャ文学の教授について﹄を著わした。この古 はその後何度も板を重ねたO彼は晩年まで教育界に発言をつづけ た。 ここでは彼の﹃ロシャ文学の教授について﹄を中心に,の彼の文 68- 文法,精文法,論誓言修辞学および文学史というふうに文学知 識の教授が中心である。その教授法は、同じくゴループコフによれ ばきわめてスコラ的であった。 言 ! ∴II ∴ ﹁その内容の根本は、文学作品の古-さい教典を知らせることに 規則ず-めの強制的な詩的古典主童にもたれかかることにある。 ・-︰中略-棒暗記は中学生にとって何らかの他の教科書習得の方法を想供す ることが困難であるまでに習慣的になっていた。﹂ (㊥-二六ペ) 修辞上の規則を柁暗記していたのである. ロトコヴィッチによれば、スタユーニンはこのようなドグマ的な ﹁第1の思糊の代表者たちは、芸術文学の中に'主として思想と 形象の苗および力を評価し'文学作品の中に社会的-政治的訓育 つきで教化的 - 訓育的読みと呼びうる. の手段を兄いだした。この見解の支持者の理解する文学読みを条件 軍一の思潮は'文学テキス-の美的本質を第1プランに引きあげ t¥'A伯的1菜的汁 雲蝣-"﹂.'0- た。この見解の代表者たちの視点からの文学読みは、なによりもま 教授法学者の第三のグループは、文学読みの基環として、プラン (諸部分の論理的結びつき)と作品の言語の分析をとりあげ、テキ スト学習の基礎的課題を生徒の思考と話すことの技能の発達に兄い だした0第l,第二とは異なって、この第三の思潮は論理的1文 ウシンスキー-スタユII一ン、ピロゴ7、-ルストイたちの主張が 体論的と呼びうる。﹂ (①-一三ペ) 学んだのであった。﹁修辞学と詩学1十九世紀の六〇年代まで中 修辞や詩学をセン-・ペテルプルグ第三ギムナジウムの生徒として 第一の﹁教化的-訓育的読み﹂に屈し、オストロゴルスキIの論 ムナジウムの課程﹄がギムナジウムでの義務的な任用のために発行 うことは、当時の普通の教師、また当局者たちの考え方は文学の形 に代表される墾一石﹁論理的-文体諭的読み﹂に屈していた。とい じめ、当時の1股の教授法研究者たち'教師たちは'ポリヴァノフ - - - . v い . I 学校において教授されていた文学のドグマ的な部門。一八五一年に されていた。スタユーニンは、セン-・ペテルプルグ墾ニギムナジ 式面を重視して、内容面はた誠的あるいは醸意識的に軽くみていた はいまだに国民教育者によって、佃署名の教科討﹃文学の堅剛、ギ ウムの生徒として、このスコラ的な教科書で学んだo﹂ (e-三八 築かれていくのである。 糊の革命的飛躍の上に1九I七年必後のソビエトの史学教育望卵が このような三つの流れの時間的延長の上に'質的にはこれらの思 ことを想像させる。 f m n ドグマ的な内容のスコラ的な教授法がしだいに克附されていく過 控的な時代が五〇年ころから七〇年代であったと思われる。﹁規則 ずくめ﹂と﹁棒暗記﹂の文学教育を克服するために'五〇年代から 七〇年代さらには八〇年代にかけて、いろいろな文学教育理論が主 張され、試みられたoそれらの聖榊的な営みを現在からみると、ゴ ループコフによれば、次の三つの思料に大きく分けられる。 -69- 7 スタユーニンの論の特質 スタユーニンは、農奴制の行なわれていたロシャにあって、その 社会の近代化の担い手としての﹁近代的市民﹂の育成を教育の目標 と考えていた。 過去を確実に認知することも必項である。さもなければ、たやすく 個人的な興味に心を奪われるか'あるいは現代の社会の必要に不調 和しはじめるか'あるいは、結局は'歴史は何ものをもたらさなか 一l二三二ペ)彼は、文学作品が先進的な社会理想を只硯している ったというような飛躍をなすことに努めるのである。﹂ (⑧-三三 望思義を見出していた。﹁それぞれの教師は,その教科の中に生徒 この二つの側面の融合した具現休(文学の授業)が教科としての文 いう知的側面とを文学教育の特質であると見なしていたのである。 スタユーニンは'言語芸術としての美的側面と社会理想の認知と と考えており'市民的感情を育てると考えていた。 を幸せにするように働きかける三つの生きた力を見つけるべきであ 学教育の陶冶的ならびに訓育的・u義を実現すると考えたのである。 スタユーニンは各教科の授業に次の三つの陶冶的ならびに訓育的 る。つまりtの彼は自然と人間に関しての百石認識を生徒たちに伝 が'われわれが文学科を迅徒的な哲学またはモラルの課業に変えよ 文学作品の内容および形象の与える力を重視するのであるが,﹁だ スタユ土二は'第1の思潮に位軍つけられる者の特長として, 育つtと考えるのである。 解釈をとおして、また、解釈の結果として生徒たちに道徳的感情が に関しての首・IQ美的評価をなすことの可能性﹂を与えるのである0 茄礎的な解釈は知的追求といえよう.その知的追求が作品の﹁形式 けあうものとしてI-統7されている.﹂ (③-三三ペ)内容の して、ここでは、知的、道徳的、および美的発達がー一つが他を助 に関しての真の美的評価をなすことの可能性を与える。このように 釈は'裏の詩的作品において常に内容に依存しているところの形式 ﹁理憩的ならびに現実的な側面の教示をともなう内容の共礎的な解 スタユーニシは文学の授業の中に解釈作業をとり入れている。 二 作品解釈作業における知育・徳育・芙青の統一 え'ii彼らを発達させ、川仕事へdryg)に慣れさせるべきである。 教材へその伝達と知覚、およびそれらに対する合増的な作業1こ れが教科に陶冶的ならびに訓育的意義を与えるための授業において 結合されるべき三つの力である。これらを分離するかまたは他のも のから二ノだけを抽出することは'教授の真の目的を理解しないこ と、ならび花達成するのに必SKなことを迂しないことを意味する﹂ (⑧I三7六ペ)この三つのR東の総合的な達成を授業に求めたの である。 文学科の授業には'二つの点でその特質を兄いだしていた。その 言は'﹁文学科は美的ならびに国民的な作品が美的感覚を育て るという点に他の何よりも敬志をはらうべきであるo他の教科で は'発達のこの側面を考頗していないのであるから,美的感情これは教育活動における文学科の特殊性である﹂ (0-三二〇ペ) という実的感情の教育である。いまTつは、文学作品をとおしての 現在にいたる過去の生活の認識で.ある。﹁市民的な働き手であるた めには'市民的感情を育てることが必朝であるだけではな-、その - 70 - うと欲していると考えてはいけない。そうではな-て、教師と生徒 との対語は文学的な解釈の範囲からはみ出すべきではないのであ る。﹂ (◎-三三ペ)と言っているように、作品の中から単に遺 文学の授業における'内容と形式の1元的な把握の理論化がスタ ユーニンによってなされているのである. いう。﹁どのようなE霜篇'そしてどのように述べられているか、 解釈作業はあくまで文学作品をとおして行なわれるべきであると 作業が重要なのであるOこれが'われわれが頁の認識と呼ぶその怒 び詩的作品の解釈と結びついているところの諸問題に対する生徒の ﹁われわれにとって内容自体ではな-、それに対する作業へおよ 三 作品分析法の探求 若者は生活のどの面に触れているか、そしてそれにどのように関係 徳的に、そして美的に発達させる話力を含んでいるから。﹂ (◎- ・味である。なぜなら、それは人間自身を解明し'人間を知的に、道 棟的内容を取り出して'それを与えようと考えるのではない. しているか、どのような性棺を育てているか'そしてそれと現実と 三二1ペ)スタユーニンの考える文学の授業では、作品解釈の作業 の結びつきをどのように見ているか、など。このような解釈から審 が中心的な位置を占める。 それでは、そのような作品解釈をどのように行なうべきかという 美性を帯びた一般的望謁命題を引き出すことは難しくないであろ 問いを自らに課してヘ スタユーニンは'作品解釈の方法を明らかに うO記憶に留めるために1定の語句を暗記することはもはや抽象的 であるとは思われないであろう。ここでまだ抽象的思考に慣れてい しようと試みたOプーシキンの﹃大尉の娘﹄. 'フォンピジンの﹃未 成年﹄へ ツルゲ-ネフの﹃ページンの野﹄などの作品研究がそれで ない生徒の知力は一連の実際的な観察によって、そこまで段階的に 推論をとおして、生徒たちはしだいに本の中で抽象的思考をするこ ていた新聞﹃ロシャ的世界﹄に拓哉され、のちに教材研究の視点か ある。これらの試みは'まず彼が1八五九年∼一八六〇年に発行し 迂するであろう。--(中略)-=このような論理的な結論づけと とに憤れ,さらに本に興味を見出しさえする。そのことによって自 ら手が加えられて、﹃ロシャ文学の教授について﹄にとり入れられ 己の知的発達を証明しうるのである。﹂ (①-三二二ペ)つまり' うな解釈作業が生徒に﹁美的評価をなす﹂可能性を与えへ遺徳的感 作品の解釈作業の目的は、文学作品を深-知ることにある。このよ スタユーニンは'教科としての文学科の陶冶的ならびに訓育的意 的およびその他の諸問題を反映している。このような作品を解明す 身の中に'生活、現実、それらと結びついている多-の道徳的社会 まることにあるようである。﹁それぞれの真の美的作品は、それ自 スタユーニンの解釈の方法は作品形象をとおして作者の思想にせ た。 義は、文学作品の解釈作業によって実現されると挙見る.このよう るばあい、われわれはそれなくしては菜的評価さえも不可能である 情を育てる、と考えるのである。 に琴見てへ彼は、解釈作業において、﹁知的、道徳的'および美的 ところのその内容の詳細な検討を行なうべきである。したがって、 発達が1一つが他を助けあうものとして1統一されている﹂と 主張するのである。 -71 - それは諸事実か、人物とその性質か、詩人自身の理想かに関係して いて'生活の多面的な諸問題と関係を持っているにちがいない。基 本的な彼の思想'現実への彼の関係、また彼の世界観を検討するこ とになろう。すべてこれらのことは'われわれを身近なそれぞれに ペ)作品内の 山諸事実へ偽人物とその性雪間詩人自身の理想, 興味ある問題へ'生活の問題へ向けるであろうO﹂ (㊥I三二〇 糾錐活の多面的な詔間嬰芋がかりに,韮本的な作者の思想、現実 J f L への作者の関係'また作者の世界観を検討することを彼は考えてい ぉそらくは'生徒たちの現実の問,一望冨*蝣*!て生活の問題を究明し ょぅとする彼の立場の現われと思われるが、彼は作家の生活と作品 との関係の追求を禿祝しているo ﹁人間と外的世界との関係、つま り'どのような手段で自分の中に仝外界を感知するか,そして、自 己の内的清動をどのように表現するか、を明らかにする必要があ る。それは'多様な人間関係つまりナイーブな・センチメンタルな・ 皮肉な・および誼刺的な、いろいろな成薮と生涌環境との影響によ る性柏の形成、作家はどのような目的を持つことができ,どのよう にそれを達成するか'どのような形式で自己の思想を表現しうる か、そしてそこには形式の美は含まれうるのか、などである。﹂ (①-三二六ペ) 川多様な人間関係、脚性棺の形成、川作家の目 的へ糾その達成方塗堅衣硯形式、脚形式美への六つの作品分析の 視点を析出している。 これはへ当時の細部にわたって'語、文を話しかえるのみの語 釈的方法や'全体的な印象を話し令っのみの高槻的方法に対して 大きな進歩である。ここでは'近代的な作品研究の実証的方法が 方法として自覚されていることがわかる。また,ロシャ・ソビエト の作品研究の方法の特質である作者および読者の実生活との結びつ いることもうかがえるO生Hの反映として文学現象を見る反映理論 きとの関わりにおいて作品を解釈しようとする方法がうちだされて のさきぶれのような見解が見られ'唯物論的な作品研究の先駆をな す方法の自覚であると亭見るかと思う。 もっとも'彼のばあいへこのような方法論が十全にその作品解釈 において生かされているかと注意してみると、そこには、やはり疑 たとえば、ここにツルゲ-ネフの﹃犯人日記﹄の中の短篇﹃ペー 問なしといえないところもある。 ジンの野﹄のスタユーニンによる解釈をとりあげてみる。この作品 のあらすじは'1人の獅師が猟に旦し道に迷い、不気味な滞米の繁 みをさまよったあげ-馬番の子どもたちが焚火をかこんでいる場に である。 出あいへ子どもたちのお化けの詔などを聞きながら一夜を過ごす詔 その前半の次の部分を引用して検討していく。 構成に注目して前半JJt後半に分けている。 ﹁早くもコウモ-が眠りについた梢の上を飛びまわっているo薄 暗い空にあやしげな輪を描いて、身体をばたばた謡わせながら-・・・ 中略(スタユーニン)・--すべてのものが黒-なってゆき,小さ な夜の馬が要りかな異をひろげてヘ音もなく,低-飛んできたが, ぉびえたようにわきへそれて姿を消した。まわりの畑がほの白く見 (スタユーニン)--窪地の中がそれほどひっそりと静まりかえ ぇる0考えてゆ-空気の中に、足音がうつろに聞える。 中略 り'その上には空があまりにも平べったくあまりにもわびしげに -72- 垂れ下がっているので,私の心は締み上る思いであった。﹂(佐々 木彰訳﹃猟人日記﹄岩波文肺一四三上四八ペ) ﹁薄暗い空に﹂﹁あやしげな輪を描いて﹂﹁冷えてゆく空気の中 に﹂﹁それほどひっそりと静まりかえり'その上には空があまりに も平べったくあまりにもわびしげに垂れ下がっているので私の心 それによって得られた偶灘の幸福を顕し、あるいはそれを許されな いのであることがわかる。したがって堅実な幸福はこういう環境で ペ)このように分析して、スタユ-ンは、堅実な幸福は迷信の信 は不可能なのである0 これが作品の思想である。﹂ (0-三三 な命題の析出へと折れまがっていることがわかる。﹁話部分の分析 しているのである。 て,とり出し,迷信否定の教訓小説として﹃ページンの野﹄を把握 じられている環境にはありえない、七いうことを作品の思想とし そして,﹁この聖の場面で子どもたちに魅惑的な好意を持たれる あらゆるもの,子どもたちの想伶力に神秘的に強-働きかけるあら は柄み上る思いであった﹂などの描与や形容語句に注目している。 ゆるものが現われるように自然の各側面を描くことに作者が努力 から導かれ,すべての細部によってたしかめられるべきである﹂ た,といえようO彼の啓豪的合理主義志向が、作品の中に公式的な 彼の﹁近代市民﹂を噂求する性急な心が'彼の方法論を裏切っ は生かされていないといえる。 の作品分析の方法論は,その実践においては,まだその意図ほどに (①-三三ペ)実証精神がくもっているといえよう。つまり'彼 ここでは、作品の実証的な検討が'途中から急に道徳的・教訓的 しているのである。﹂ (Ol至ペ)と抽象化して解釈してい また・﹁少年たちの話しあいそのものも、時おり自然の描写やそれ SB らが少年たちにどのように神秘的に働きかけているかの指摘によっ このことは,自然の描与によって作者がここで一定の目的に集中し て中断されている。﹂ (①一五二ペ)ことをとりあげて'﹁すべて・ 市民思想を探し出すことへ傾かせ,その作品解釈空面的図式的に しているのであるoおそらく、文化的に遅れた農業国ロシャに生き ていたこと,それがたしかに物語の本質的部分をなしていることを 示しているo﹂(①一五子亘ニペ)とも言っている.作者が神 のような彼の姿勢を生み出していった背景をなしていたのであろ て,科学的合理主義に目ざめた啓慧家の位置にいたということがこ う。スタユーニンの稗設家としてのあせりが、このような理論と実 秘的な自然を描こうという目的に集中している、というのである。 践の背反をもたらしたと考えられる。 後半部については,科学の発達していない所では迷信がはびこ る,という意見を拙さ出しているo ﹁もう三の部分(人間を描い として,スタユ土ンは批判的対眉の方法を提唱している。生徒と 教室において、作品を的釈していく具体的な教授=学習の方法 四 批判的対話による学習 ている)は、1定の環境の中のお-れた考え方の人間生活に触れて いる。おくれた人たちに迷信上の恐怖を与えることによって、自然 は彼らの想偉力に強く働きかける。科学の完全な欠除のもとでは' 自然は諸現象の多様性を解釈する人間の志向に対してたえず迷信を 支持する。このことから人間のいろいろな歩みは生活への誤った関 係にもとづいた側からの迷信をともなっているのでありへしばしば -73 教師の対話によって文学の授業をすすめていくのである。作品分析 ら自らの知力でたえず作業し、人間生活のあれこれの側面を説明す 人間生沼について'あれこれと考えへ新しい見方,新しい概念を身 (③-三二六ペ)対話の過程をとおして、生征は、人間について、 る新しい概念の狩得の中に自己の作業の目的を兄いだすのである﹂ ﹁観察を集める可能性を与えられずに自分の定見を述べることを につけていくのである。それは近代的な市民としての自己の世界観 JQ視点を学習する作品に適用して'生徒と教師が作品を槻察し,検 討しっつ対話を行なう。 余儀なくされたとき、生徒は対象に対⊥て十分知ることはできない を形成していく思考法でもあった。 ﹁教師の指導による教室におけるこれらの作業の後に,生徒たち のである0はたしてこれが批判であろうかP わたくしの意見によ れば判断とは多-集められた根拠をもとにした判断である。根拠を 厳密な結びつきで文章に叙述し、たとえば形式を対話的_なものから に家庭作業が残っているQそれは全般的な努力でな汚れた全結論を 独自的なものへ琴えることである。.そして,それは彼に全問題と結 集め'それを厳密に考察することに慣れるのは厳密な思考ときびし ンは言っている。これは合理主義'実証主義の主張である0日分で い判断に慣れることを意味する。﹂ (⑧-三二三ペ)とスタユ土l 論をさらに熟考する可能性を与え、時として,彼が教室対話の対象 における学習法であったともいえる0 資料を集めて自分の判断を行なう近代的独立市民育成の,文学教育 自分の祝祭で文章に叙述させる。﹂(◎-三二七ペ) に教室で読ま滋い何らかの小さな作品を考察することが委ねられ, となしうる新しい問題を生むであろう。教室解釈の型の他に、生徒 令は何ら定義を持たず'また大きな力をもってそれを留めない.つ 対話による授業は'﹁自分の観察で文章に叙述する﹂作文によっ て終結する。 このことを、﹁愛国心と偉人への尊敬の問題において,官憲の命 まり、.自分自身の確信が必要なのである。そしてへそれは対象のさ 然のこととして、教材には作品の抜翠ではなく作品全休を与えるこ 文学豊玉の芸術として扱おうとするスタユー一フの考えは、当 びしい分析の結栄に現われる。﹂ (⑧-三二四∼三二五ペ)という スタユ土lンのことばと考え合わせると、スタユーニンは,当時 とを等求する。﹁数百の作品の抜茸よりも,十分にできもだけ詳し スクエ土lンのいう、﹁仕事に慣れ﹂るてとは、文学の授業におい ては具体的にはこのような対話の営みにおいて実現するのであるO ても、人間についてへ人間生活について観察し・検討し・対話する ことはできなかったからである。 が'それは修辞法を調べたり名文を暗謁したりするのには通してい 時の教科か音へ数百の作品からの抜葦を集めたものからなっていた く解釈して'二、三の作品を読む方がよいo﹂ (①-三二八ペ)当 の、7方的な押しっけの注入教育が、無批判な人間の育成を饗求す S蝣:る。 る絶対王政のツァー-ズムの所産であることに気づいていたようで 根拠をもとにしての思考は'対話によってより確かにされ,深め られ'発展させられる、とスタユーニンは考える0 ﹁観察をとおし て、そしてへ作品の形式と内容の問の'1定の人相と社会的生活と の間の生きた結びつきを忘れないで、教師はたえず対話のおもしろ さを保つ。一方、生徒は論理的な方法で7定の結論を引き出しなが -74- まとめ∼文学教育史上の位把 ローコヴィッチによれば,スタユーニンは授業の形態を方法論的 に主張しただけではない。﹁スタユIIIンによる文学の批判的原則 の弁護は,六〇年代に行なわれ、教育学的・社会的∼政治的意義 とは別把,その後の十年間にも続けられた。スタユーニンは授業の 方法論的な目的にかなった形態を主張しただけではない。反動的な 政府官僚の後見から教育を独立させるために,芸ナ作品の解釈に官 僚的な内容ではな-教師が自己のそれを含める権利のために、﹃賢 る0﹂ (◎-二八ペ)このようにロトコザィッチはスタユーニンの 察的教育学﹄の有害な影響から生徒を解放するために闘ったのであ 文学教育望芸の観点から、その特質として次の三っのことを指 摘しうるかと思う。 川近代的市民の育成を教育の目標としたスタユーニンは、文学教 育において個人の独自性を育てることを志向していた。 解釈作業において一元的に把握した. 脚文学教授における内容と形式の問題をスタユ土ンは'作品の 川六〇年代から七〇年代にあって,文学作品を形象に即して実証 の進歩を示すものであり,いま一っには当時の官僚の教育支配に 的に合理的に検討してい-方法の主張は,一つには、文学研究上 スタユーニンの略年譜 対する抵抗の意味をもあわせもっていたのであるO 参考資料 ウラヂミール・ヤコプレヴィッチ タユーニンの生後に没落.スタユーニンは豊かなはき物 一八二六年十二月十六日生。コストロムスキー県。父は商人。ス 霊与コフによれば,ロシャ十九世紀の七〇-九〇年代は帝 祈動を官忍との闘いとして把えている0 政下に形式的にギリシーヤ正教を信仰している時代であった。﹁十 セント,ペテルプルグ第三ギムナジウムの二学年に転 アンネンスキー・ドイツ語学校入学。二年後退学。 商人の祖父にひきとられる。 九世紀の七〇-九〇年代においては,文学空投的訓育の重項な手 段の一つであるとする見解がひきつづき支配していて'このことは とを凡帳面に行なう者の準傭教育をすることが執劫に項求されてい 校へは市民でなく、国家と工業にとって必要な官吏ならびにものど しむO図書館にひまを見て通いへ歴史の本を多く読む〇 入。文学教師<・o蝣ウラソフと親しくなり、卒業まで親 直接に新しいプログラムと教科雷に反映している。 中略--学 た。文学教育においては,君主制的感覚へ排外的愛国主義'形式的 日学叫V.J。 (二〇歳) セン-・ペテルブルグ大学入学。哲学科で歴史-文 一八四六年 ギムナジウム卒業 信心深さを助成することが第1プランに引き出されたo﹂ (㊥-四 三ペ) このような全般的な時代の流れに接続する六〇-七〇年代にスタ ユーニンの文学敬重鐙,この流れに抗して教育ならびに文学墾胃 の官僚支配からの独立を求めて長閑されたのである. 75 大学卒業後しばらく個人教授を行なう。 ノ7<四八年 ﹁古い世界と新しい世界の芸術および文学﹂を発表 (二二歳) (﹁謡か文庫﹂). 7<五二年 五〇年代の後半へと-にロシャにおける革命的状況の (二六歳)数年(1<五九∼六7)にスタユ11ンの社会的ならび に教育学的諸兄姉が形成されたoベ-ンスキーの影空を t/ける0 1八五九年 新開﹃ロシャ的世界﹄を発行o反農奴制の立場をとる。 ∼ チェルヌイシェフスキーの﹁経済活動と立法者﹂に応 六〇年 答、支持。後に著臼﹃ロシャ文学の教授について﹄に入 (三三歳) れられた多くの作品解釈は'最初は別の形で冒シャ的 ∼ 世界﹄に載せられた。ヴィシユネグラドスキ-女学校に (三四歳) おいても働く. 論文﹁わが国のギムナジウムについての意見﹂。論文 ﹁﹃国民教育省雑誌﹄の新しいプログラムについて雑誌福袋者カ・デ・ウシンスキIの新しいプログラムに 関して--﹂ T八六四年 ﹃ロシャ文学の教授について﹄初駁発行〇六六八年 (三九歳)第二頓発行o T八七四年第三版発行。1八七九年第四駁 発行。一九111一年第八校発行。 1八七一年 政府上層部と設見衝突。撃ニギムナジウムを免略され (四六歳)るoニコラエフスキー孤児イ・)スチチユ1-(モスク トルストイに対する独特のデモストレーションとして利 用された。 > 蝣 . . ' ・ 蝣 ・ ・ 蝣 _ - . : . . 蝣 新設のエム・エヌ・スクユl妄女子ギムナジウムに [ T八七四年 l t n ラ エ フ ス キ I 孤 児 イ ン ス チ チ エ 1 - を 追 放 さ れ (四九歳) る。 T八七九年 (五四歳) T八八四年 十二月四日没(六三歳) (五九歳) おいて'視学官ならびに教師として働く。 T八八八年 4 ; , ¥ ギ 文 机 授﹂V.YA.STOUNIN.'Izbrannyie pedagogicheskieso =ヴエ・ヴエ・ゴループコフ著﹁革命前の中学校における文学教 chineniya、ロシャ共和国教育科学アカデ,,,ヤ出版所完四六年 はエヌ・ア・コンスタンチ-ノフ監修,ヤ・ア・ロトコヴイツ子 序﹁ヴエ・ヤ・スタユーニン教育学選集﹂へPrepodavanielitera tyryivdorevolutionnoisredneischkole、ロシャ共和国 教育科学アカデ-ヤ出版所丁九五四年 は ヴエ・ヴエ・ゴループコフ著﹁文学教授法﹂ >Metodika (引用は番号によって示した。) prepodavaniyaliteratypyi遠立教育図書出版所一九六二年 おいて報告したものに手を加えて清塙としたものであるo 付記 これは、教育史学会第九回大会(T九六五二〇二八)に ヮ)の視学官に怒る。女子孤児の教師への教育に熱心に あたる。論文﹁カ・デ・ウシンスキー﹂ T八七三年 ペテルブルグ第三ギムナジウム五〇年祭式典に招かれ T九六七・八・四 (広島大学助手) (四八歳)る0彼の式典への参加は教師と生徒との先進的な分子に ょって'反動的な古典主義とその宣布老・大臣デ・ア・ -76-