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09月01日
Vol. No.2(通巻38) 10 美術館の活動 次回展示のお知らせ 子供向けワークショップ「粘土で作ろう! ―ひと、からだ、しぐさ―」 展覧会「上原コレクション名品展’ 08―ひと、からだ、しぐさ―」にあわせて、子供向けワークショッ プ「粘土で作ろう!―ひと、からだ、しぐさ―」を7月26日(土)、8月2日(土)に開催しました。 ワークショップでは最初に展示中の作品を取り入れた「ひと、からだ、しぐさ」に関するゲームを楽 梅原・安井・須田展―京都が生んだ三巨匠― 2008年9月10日(水)∼12月15日(月) しんだ後、カラフルなこむぎ粘土(小麦粉を原料に作られた粘土)を使って親子で自由に粘土制作を体験して ともに明治20年代の京都に生まれた梅原龍三郎、安井曽太 いただきました。粘土に触れるのがはじめてのお子様もいましたが、さまざまな色の粘土を使って混 郎、須田国太郎。彼らはそれぞれの画業を歩みながら、日本 ぜたり、ちぎったり、重ねたりと手先を器用に使って楽しく制作していました。 の画壇に大きな足跡を残しました。豪快奔放な作風を展開し 開催中の展覧会より 上原コレクション名品展’ 08―ひと、からだ、しぐさ― た梅原、独自のリアリズムを確立した安井、西洋と東洋の芸 術の統合を目指した須田、彼ら三巨匠の作品から、日本洋画 サーカスや道化師をテーマに躍動感あふれる軽快な人 の確立と成熟の過程を辿ります。 体表現を繰り広げたシャガールやマリーニ。特にシャガ ールの作品にみられるユーモアあふれる描写と魅惑の色 彩は、私たちを幻想的な世界へと導きます。その一方で、 ルオーは彼らとテーマを同じくしながらも、道化師の姿 休館日のお知らせ を悲哀に満ちた眼差しで捉え、重厚で深遠な画面に描き 2008年12月16日(火)は展示替のため休館します。 はじめに人のしぐさを当てるゲームを行いました。 出しました。また、ピサロやルノワールは日常的な光景 須田国太郎≪烈日下の鳳凰堂(平等院)≫昭和11(1936)年 の中にある女性の姿やしぐさをやわらかな色彩で描きと 粘土制作のようす。 ワークショップ参加者の声 ●親子一緒に参加できる今回のような企画を定期的に行ってほしい。(保護者) ●こむぎねんどだったので、安心して作ることができました。(保護者) ●もっとつくっていたかった。(6歳) めています。そしてマティスやピカソは写実的な人物表 ■講演会『梅原龍三郎―生い立ちとその芸術』 講師:嶋田華子氏 (東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、梅原龍三郎曾孫) 日時:10月5日(日)午後1時30分−3時 場所:下田セントラルホテル コンベンションホールにて、聴講無料 ■レクチャー『京都が生んだ三巨匠―梅原龍三郎・安井曽太郎・須田国太郎』 講師:土森智典(本展覧会 担当学芸員) 場所:上原近代美術館 会議室にて、聴講無料 日時:9月20日(土)、10月26日(日)、午後2時−3時 ●すごくたのしかった。(10歳) 現を極めたと同時に、単純化した線描や画面にも身体の 動きや存在感を巧みに捉え描き出しました。 本展では画家たちが捉えたひとやしぐさの表現を、上 展覧会場のようす 原コレクションのフランス近代絵画、日本近代洋画より、 4つのテーマ「Ⅰ.日常にみるしぐさ」、「Ⅱ.サーカスと道化師」、「Ⅲ.聖書・神話物語」、「Ⅳ.モデルとの対話」にわけ て紹介します。 また、第2、3展示室では、クロード・モネ≪雪中の家とコルサース山≫や安井曽太郎≪ダリア≫、横山大観≪夜 博物館実習生の受入れ ご利用案内 一層充実しつつある近年の当館コレクションをお楽しみいただけます。 ●開 館 9:00 ∼ 17:00(入館は16:30まで) 博物館・美術館などで資料の収集、保管、調査 ●入館料 大人800円 / 小人400円 研究などに携わる専門職員を「学芸員」と呼びま す。学芸員資格取得を目指して博物館学を学ぶ方 伊 豆 半 島 に対して、当館では博物館実習生の受け入れを行 っています。今年度は8月11日から19日のうち7日 間実習が行われ、受付業務、野外彫刻の清掃、美 術品の扱いや調書の作成、仮想展覧会の企画やギ ャラリートークなど、美術館や学芸員の業務を体 交通のご案内 ■伊豆急下田駅 車15分 逆川行・上箕作下車 (徒歩約15分) ■松崎よりバス アンケートの声 ●今回初めてジョルジュ・ルオーの≪キリスト≫を拝見して釘づけになってしまいました。ゆっく りとした素敵な時間を頂きありがとうございました! ●岸田氏の麗子像は教科書にも良く出されるため、子ども達も「どこかで見たような感じがする」 と目にとめていました。印象的な表情ですが、本物を見たのははじめてでした。 ●以前から来たいと思っていました。作品1点1点が感動を覚えます。のんびりと拝見致しました。 マルク・シャガール ≪サーカス≫ ■蓮台寺駅より 車10分 堂ヶ島行・相玉下車 (徒歩約15分) 実際の作品を前にして、調書の取り方を学びました。 作品解説 (団体20名以上10%割引) ■伊豆急下田駅よりバス 験しました。 ありがとうございます。 桜≫ほか近年の新収蔵品を一堂に紹介します。画家たちがそれぞれの視線で捉え、追求した身体表現のほか、なお 下田行・相玉下車 (徒歩約15分) 1927年、画商アンブロワーズ・ヴォラールの提案から『サーカス』 の版画集を手掛け始めたシャガールは、ヴォラールとともにサー カス場「シルク・ディヴェール(冬のサーカス)」に通い、19点のグワ ッシュを制作します。以降サーカスは、シャガールにとって重要 なモティーフとなり、晩年に至るまで多くの傑作が生み出されま した。しかし、他の制作に没頭していたシャガールは版画集『サ ーカス』の制作に打ち込めず、ヴォラールが存命中に完成するこ 上原近代美術館ホームページアドレス とはありませんでした。その後、創案から40年後の1967年、版画 www.uehara-museum.or.jp 集『サーカス』は刊行されました。 版画集制作の折に描かれた19点のうちの1点とされている本作品 2008年9月1日(季刊 年4回発行) では、こっけいな衣装を身につけた道化師を中心に、曲芸に登場 するロバやニワトリ、それを見守る観衆が描き出され、サーカス 編集・発行 財団法人上原近代美術館 〒413-0715 静岡県下田市宇土金341 TEL 0558‐28‐1228 FAX 0558‐28‐1227 全体の愉快な光景を伝えています。シャガールが描いたサーカス・ シリーズは、ユーモアあふれる描写と魅惑の色彩で私たちを幻想 的な世界へと導いてくれます。 マルク・シャガール≪サーカス≫1937年 上原近代美術館蔵 No.2(通巻38) ジがありますけど、小品も多いですよね。また、動物がと ても好きで、ラクダの絵やカバの絵などあります。これは 上野の東京美術学校の教授をしていた頃、往復に上野動物 園に立ち寄って写生していたものです。一度、梅原の動物 の絵を集めて「空想動物園」という展覧会を企画すると面白 いと思っています。 嶋田華子氏インタヴュー 9月10日から始まる特別展『梅原・安井・須田展―京都が生んだ三巨匠―』に合わせて、講 演会を開催します。今回、講師にお招きするのは、梅原龍三郎画伯の曾孫で、美術史家・展覧 会コーディネーターとしてご活躍中の嶋田華子さんです。 講演会に先立ち、嶋田華子さんにご家族から見た梅原龍三郎画伯の思い出や京都との繋が り、嶋田さんのお仕事などについてお伺いしました。 〈講演会のお知らせ〉 演題:『梅原龍三郎と京都―その芸術と生い立ち』 講師:嶋田華子氏(東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、梅原龍三郎曾孫) 日時:2008年10月5日(日) 午後1時30分―午後3時 場所:下田セントラルホテル コンベンションホール *聴講無料 −曽祖父・梅原龍三郎の思い出− ●嶋田さんの曽祖父・梅原先生の思い出について、教えてく ださい。 物心ついたときに、梅原が家の差し向かいに住んでいた ので、幼稚園から帰ってくると手を洗って、斜め向かいの 梅原の家に行って、まず台所に行っておやつを食べていま した。その頃の梅原は90歳を過ぎていたので、割とゆった りとしたガウンを着ていました。丸い大きな机の上に座ら せてくれて、顔のスケッチをしてくれたりとか。ある時、 梅原が私の顔を描いてくれたのですが、私が落書きという か、自分のマークをボールペンで書いたら、親が慌てて取 り上げたことがあって(笑)、すごく懐かしいですね。 あと、華子という名前も梅原が付けてくれて、幾つか漢 字と名前を見せて、梅原がこれと選んでくれて、墨で名前 も書いてもらいました。 ●いろいろなことを覚えていらっしゃいますか? もう90歳を過ぎていたので、一緒に遊んだりとかではな いですけれども、ちょっと絵を描いてくれたり。 曾祖父の家はベンガラ色*の壁だったので、そういうもの は子供心に印象に残っています。お家は吉田五十八さんが 作ってくださった平屋です。庭先にアトリエがありました が、晩年は母屋の方で静物などを描くようになっていまし た。その庭で遊ん だのも懐かしいで すね。あと、落雷 か何かで半分に折 れてしまった紅梅 があって、紅梅は 木の中も赤くて、 それにびっくりし た思い出とか。 やっぱりちょっ と変わったお家で すよね。絨毯があ って、絵がいっぱ いあって。お家に 行くとチーズを食 べさせてくれるん ですよ。私はそこ で人生で初めてカ 自宅居間の梅原龍三郎、1976年。(二村次郎 マンベールチーズ 撮影) を皮を剥いて食べ 嶋田華子 氏 て、大人の味って感じがしました(笑)。 梅原は晩年まで健康にいいとお医者さんに言われて、牛 乳を飲んだり、洋食を食べていました。だから梅原の家に 行くとハイカラなものが食べられて、チーズやチョコレー トなど素敵なものがあって、食べ物の思い出がたくさんあ ります(笑)。 ●梅原先生はお酒も豪快に飲まれたそうですね。 そうですね。普段は12年物のシーバスリーガルやブルゴ ーニュの赤ワインが好きだったそうです。ただ梅原はお酒 を飲んで豪快というイメージもありますけど、朝は5時に起 きて、富士山にお日様が差してくるのを待って描くとか、 朝一枚描いて、お昼を食べて、元気だったら午後も一枚描 いて、夜になるとお友達とお食事をしたり、お芝居に行っ たりとか。やはり明治の人で、朝一枚描く、描けても描け なくても制作する、すごく勤勉だなという感じがします。 あと、梅原の家の引き出しを開けると、薄い紙束があっ て薄い銀の紙が挟んでありました。小さい頃は分からなか ったのですが、それは銀箔や金箔、箔だったことに後で気 付いて、当時はきれいで何だろうって思っていました。あ と鳥の子紙とか。引き出しを開けるといろんなものが入っ ていました。大人になってそれを何に使うのか、絵のベー スに押して使っていたと分かるのですが、当時はすごくき れいなアルミホイルと思っていました。 また、学校で配られる筆は小さくて細い水彩用でしたが、 梅原の所にはとても太い墨で描くような筆があったり、汚 れを落とすふさふさとした羽根など、面白いものがいっぱ いありました。 ●年表を改めて見て驚いたのですが、お年を召されてから 外国にかなり行ってらっしゃいますね。 艶子(註:梅原龍三郎夫人)が付いて行って、途中で私の祖母と 入れ替わって行ったりしています。 艶子はミッションスクール、次に日本女子大学で後の山 下新太郎の奥さんの後輩となります。山下新太郎さんが梅 原に紹介してくれて、二人は結婚します。ちなみに山下新 太郎と梅原が最初に知り合ったのは1908年、山下は東京美 術学校から、梅原は京都から留学した先のパリで初めて知 り合いました。 艶子はとても綺麗で色の白い人で、庭を歩くときにも日 傘を差していたというエピソードがあります。 ミッションスクール時代は外国人の先生から英語を習っ ていたので、西洋への憧れは強く、1956年に初めて梅原と 海外に行ったときは大喜びでした。とはいえ、英語ではな くフランス語なので、フランスで梅原が絵を描いている間 に艶子はフランス語を習いに語学学校へ行っていました。 毎日たくさん出される宿題ができなくて、梅原が全部夜中 に宿題をやってあげて、何のために通わせているのか分か らないと梅原が言ったという話があって(笑)。 ●梅原先生はやはりフランス語が流暢だったのですね。 そうですね、1908年に留学するときに田中喜作と一緒に 京都にあった教会に通って勉強していますし、フランスへ 行ってからも下宿の息子さんに毎晩フランス語のレッスン をしてもらっていて、単語の練習帳などたくさん残ってい ます。 梅原の家庭生活ですが、艶子は梅原より先に亡くなるの ですが、この時に艶子を残して自分が先に死ぬのが一番心 配だから、自分が見守る中で艶子が生涯を終えられてよか ったということを梅原は言っています。 梅原の人生は揚々としているようでいて、家族を失った り、すごく苦しいこともあったり。特に成四(註:梅原龍三郎の 長男) は戦争に行って、もう死んだのだろうとみんな思って いて、ある日突然帰ってきて、両親が号泣したそうです。 あと彼が出征するときに日本刀のいいものを買って持たせ たり、出征のときに千里を駆けて千里を帰るという虎の絵 ●晩年はご自宅の居間で制作をされていたのですか? そうですね、そこで薔薇を描いたり、飼っていた犬を描 いたり。 ●薔薇は毎日取り寄せていらっしゃったのですか? 林緑敏さんが作って届けてくださる薔薇を好んでいまし た。あとはローズギャラリーの薔薇など。安井さんは枯れ るまでひとつの薔薇を描かれたそうですが、梅原はどんど ん描いて。お花はたくさんありました。 また、岡山県立美術館にカボチャの絵など20点くらいあ ります。地元の八百屋さんが寄託されているそうですが、 当時梅原に静物の素材となる野菜や果物を贈って、その縁 で描いたものだそうです。伊豆に疎開していた頃は、地元 の人から鯛などを頂いて、それを絵にしていますね。 どうしても裸婦とか富士山とか北京秋天のようなイメー ヴェニス、サン・マルコ広場にて艶子婦人と、1966年 を描いてあげたり、そういったことに目が向いた人だと思 います。 また、私の祖母も小さい頃に机の角に頭をぶつけて泣い ていると、梅原が画室から飛んで来て、自分もごつんと角 に頭をあてて、こんなに痛いのかと心配してくれたそうで す。 また梅原は娘をピアニストにしたくて、ピアニストのレ オ・シロタ(1885-1965)の所に通わせて、送り迎えをしてレッス ンを見守っていました。ショパンの「ノクターン」などは梅 原も弾けたそうです。ピアノを弾いてみたり、お稽古の送 り迎えをしたり、父親らしいことをしていたのですね。 ―梅原龍三郎と京都― ●梅原先生と京都という繋がりを感じることはありますか。 一つは家が悉皆屋ということで越後上布(註:麻織物の一種で、 小千谷市などで生産される夏用の着物)など、趣味の良い和服を着 ていました。ほとんど洋装ですが、中には和服にたすき掛 けで絵を描いている写真があります。東京の小石川に父が 店を出していたので、三十歳から画業で生計を立てるので すが、それまで実家の援助を受けていて、多分そういう着 物も実家が良いものを揃えてくれたのでしょうね。 もう一つは、ベンガラ色に対する関心。壁は赤い色に塗 っていました。もう一つ、三番目は初瀬川の漆塗りの漆器 の類で、指物や食器、お椀などがあります。 ●梅原先生のご自宅やアトリエの写真を見ると、食器や指 物など京都の古いものが写っていますね。 数年前に京都の生家を探しに行ったことがあります。油 小路は繊維問屋街になっていて、今でも建物が残っていま す。生家が芦刈山という山鉾を祇園祭りに出していたのを ヒントに探したところ、芦刈山保存会という家があり、そ こが梅原の生家でした。事情をお話ししたら、今のオーナ ーの方が中に入れて下さいました。一階は工場のようにな っていて、二階は事務所のように使っていらして、内装は 変わっていますが、二階から坪庭を見下ろせる吹き抜けな どがありました。当時から畳ではなく板の間に椅子を置い たり、アール・ヌーボー風のちょっと洋風でモダンなお家だ ったようです。京都らしく奥へ奥へと深くなっていくよう なお家です。 また、そのときには関西美術院へも行きました。そこで 入学証など見せてもらい、月謝をいつ払ったとか、フラン スに渡航する前にちょっとまとまったお金を寄付してなど、 そういう記録が残っていて、やはり京都は探せば色々な資 料があるのだなと思いました。東京は空襲があってあまり 残っていないので。 ●梅原先生の足跡を一度、たどられたのですか。 やはり一度見てみないとと思いまして。関西美術院まで 歩いて通えるのかなとか、安井の家ってどのくらい遠いの か、ご近所なのか、ちょっと自転車に乗って会いに行くく らいなのか。ちょっと河原町まで洋食を食べに行けるのか なとか。 実は同じことをパリでもやってみて、梅原のいたモンパ ルナスからアカデミー・ジュリアンまで歩いたことがありま す。サン・シュルピス教会の通りに面したアカデミー・ジュ リアンから30分くらい歩くと、梅原がいたというカンパー ニュ・プルミエール通り17番地というのを見つけました、今 はマンションみたいになっていますが。そうすると、本当 にリュクサンブール公園が目の前で、ここでルノワールの ブランコの絵を見たんだなとか。入口にカフェ・リラという のがあって、ここのリラで高村光太郎らと集まって話して いたんだなとか。位置関係が分かって初めて日記の意味が Vol. 10 分かりました。 ―嶋田さんのお仕事― ●嶋田さんの最近のご活動について、教えてくだ さい。 今夏はフランスのカーニュにあるルノワール美 術館で展覧会『ルノワールと梅原龍三郎 その友情 展―出会いから100年―』を企画しました。今年は ルノワールがカーニュにアトリエを構えて100周年 ということで、幾つかイベントがありその一つで す。梅原とルノワールのコーナーを作り、二人の 作品、書簡、写真を展示しました。 また今回、梅原の『ルノワルの追憶』(梅原龍三郎 『ルノワールと梅原龍三郎 その友情展―出会いから100年―』 著、昭和19年) という本の抄訳を現地のカタログに 開会式風景、フランスカーニュ市のルノワール美術館にて、2008年6月28日 掲載してもらいました。その時に、梅原が自分の パレットの色並びをルノワールと同じにした、と 色並びが書いてあったりすると、そういうパレッ トを使っていたのねと、フランスの方にとっても 初めて知ることがあったそうです。 今年は梅原の生誕120年なので、何かしたいなと 思っていたので、梅原の敬愛する師匠ルノワール のアトリエに梅原の作品を並べることが出来て、 嬉しいです。 小さな企画なのですが、地元の方がとても喜ん で下さって、やはりゆかりのある所で実現できて よかったと思います。ご好評頂き会期が1ヶ月延 長となりました。 ●嶋田さんがこのような研究に入るきっかけはあ ったのですか? ルノワール美術館にて展示解説をする嶋田華子氏 梅原が1908年はじめてパリに行ったときの日記 を見つけたのがきっかけですね。 ので、多くの方に見ていただきたいです。愛されると 20歳頃の日記を見ると、今日はルーヴル美術館 いう意味ですが、絵が明るいので、誰かの一日を明る に行って、日本の美術館と違って絵が三段がけに く照らすような存在になれればと思います。作品が五 なっていて、見上げているうちに首が痛くなった 十年後にも変色、褪色がなく綺麗な色であるように、 とか、ライヴ感があって面白いなと思いました。 梅原は画材や支持体の研究をし、例えば白は油絵具で、 お小遣帳も兼ねていて、銭湯が1フラン、アカデミ 群青や緑を岩絵具で描くといった工夫をしています。 ー・ジュリアン授業料が29フランなど、お金の出納 百年後に自分の受けた感動をそのまま伝わるようにい が付けてあって、これは社会風俗史や社会学とし い色で描いていきたいという、彼の色彩に対するこだ て面白いのではないか、整理しようと思って、翻 わりが見えます。それを考えても、作品を見ていただ 刻を始めました。すると、梅原は京都出身ですが、 くのが一番だと思っています。 山下新太郎や高村光太郎など東京出身の人に会い、 (当館文責) 東京に眼が向く時期があります。また、一人でモ ンマルトルに住んで、フランス人の画家たちと付 き合ったり、俳優さんと付き合ったりして、パリ に馴染む過程など興味深く、どんどんひきこまれ 『ルノワールと梅原龍三郎 その友情展 ていきました。 ―出会いから100年―』 その次に日本でのデビューを実現してくれた白 場所:ルノワール美術館(フランス・カーニュ市) 樺の同人とどのような付き合いがあったのか気に なりました。例えば梅原が志賀直哉の『暗夜行路』 会期:2008年6月28日―10月6日 梅原龍三郎生誕120周年、また梅原とルノワールとの出会 の見返しの絵を描くなど、同人の著作の装丁をし いから100周年を記念して、彼らの交流や芸術に焦点を当て ています。梅原と志賀さんがそれぞれ所蔵してい た展覧会。会場のルノワール美術館は、ルノワールが晩年に住 たポンペイの壁画や、梅原と柳宗悦の趣味の共通 んでいた家(レ・コレット荘)とアトリエをそのまま利用してお 性も興味深いですね。私の知らない梅原という人 り、ちょうど百年前に梅原がルノワールを訪ねた場所である。 がいて、すごく生き生きしていて面白く、そのま 好評のため1ヶ月会期を延長し、10月6日まで開催している。 ま抜けられなくて現在に来たという感じです。 いま梅原関係でしたいことは二つあって、一つ は資料整理などアーカイブスをしっかりと作るこ *ベンガラ:黄土を焼いて作る赤色の顔料。インドのベンガル地 とですね。もう一つは画家なので、絵を見ていた 方に産した。ポルトガル語でbengalaと表記。ベンガラを紅殻と だく事がとても大事だと思っています。梅原の残 当て字したことから「べにがら」とも呼ぶ。京都の花見小路にある した言葉に「自分の作品が五十年、百年後の人にも 茶屋「一力」の壁の色にしたいという梅原の希望で用いられた。 愛されたい」とあります。一生をかけてした仕事な