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足錬鉄製のテーブル

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足錬鉄製のテーブル
平 成 25年 7月 1
1日
彰会会報
根本正
第 7 3号
根本正顕彰会
発行者
目次
1 ごあいさつ
1頁
会長宮津義雄
2 平 成 25年 度 総 会 報 告
2頁
3 ブラジル茨城県人会受流会報告
4頁
4 明 治 38年 (1905)の 日 本 の 禁 酒 問 題 幹 部 違
曾津義雄
5頁
斎藤郁子
12頁
小祢茂雄
29頁
一日本基督教団銀座教会の貴重な史料からー
5 【研究ノート】
『桑原政遺影』に見る根本正と豊田芙雄
附 : 根 本 正 「 経 済 偉 人 桑 原 政 君 j、 桑 原 政 履 歴
r
笑 い Jのある楽しい人生を送りましょう
6
7 トピックス
30頁
『朝日新聞』茨城版
f根 本 正 と 時 計 と マ ッ チ 」
8 お 知 ら せ ① 根 本 正 フ ェ ス テ ィ パ ル ②根本正ゆかりの地を訪ねる旅
3
1頁
3
1頁
績集後記
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1
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回公開園庫
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118日{日 L
13:30~15:30
那 珂 市 中 央 公 民 館 (1階大会讃室〉
f
輝ける那珂市の政治家 一根本正と岩上二郎一 j
平 成 25
年
理事小林茂雄氏
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根本正と公平選挙法
根本正顕彰会会長舎薄義雄
参議院議員選挙が 7月 21日と決まりました。今後の国政を担って頂く私達の選良を
選ぶ大切な選挙です。棄権しないで参政権の一つである選挙権を行使しましょう。
根本正は幕末の水戸藩で考え方の違えから天狗・諸生派に分かれ血で血を洗う政争を
見てきました。そのような時代、根本正は東京に出て苦学しながら箕作秋坪の三文塾、
中村正直の同人社で英学を学び、明治 12年 (1879)、 27歳の時渡米し小学校・中
学校・大学と 10年間の留学生活を送り、本場の民主主義を学んで帰国しました。アメ
リカは多民族国家で利害が入り乱れ、宗教や民俗、人種が対立することも多いが、議会
政治が激しい対立や争いを調整し、テロや暴動を防止している様子を見てきました。そ
こで根本正は近代国家を目指す日本に健全な議会政治が根付くことを熱望していました。
根本正は民主政治の基本は議会政治にあると考えていました。議会の場でお互いに議
論を深め何事も決めて行く。その討論の場である議会は、公平な選挙で選ばれた代表で
構成されるべきであると考えました。そして清潔な選挙が行われなければ、議会政治は
ゆがめられてしまうと考え、その実現に努力しました。多くの人達に選挙法を知っても
らい、よりよい選挙法の在り方の研究を進めるために『公平選挙法Jという本を著して
います。板垣退助はこの本の序文で「選挙法は立憲国の基礎であり、国民の生命・財産
の安全や危険につながるので選挙法の制定は重要…わが国は立憲政体をつくり議員選挙
法も決まっているが、改正を要する点も非常に多い。従ってこれを研究するのは急を要
する。正君は先進地のアメリカで研究してきたので、この本を参考にするとその利益は
大なるものがある j と推薦しています。
根本正は、この本の中で代議政治はと実によい政体(仕組み)である。この基礎を為
すのが選挙の方法であるが、これが不完全であると国民多数の意見が政治に生かすこと
が出来ないばかりか、議会も世論代表としての実をあげることができない。だから選挙
は公平でなければならない。しかし現状を見ると、三重県 2区では 3763人の有権者
で 1人の議員を選出、島根県 6区では 26入で 1人の議員を選出している。その差は 1
4分の 1であります。選挙は有権者と議員の人数をきちっとしないといけないと主張し
ています。
そしてイギリスの法律家トマス・へアの比較選挙法を紹介したり、大選挙区制、小選
挙区制の短所・長所などを紹介しています。
(1) 小選挙区制
1位になった人だけの意見だけが反映され、他の候補に投票した人
の意見は反映されない。また投票の売買や賄賂などが行われやすいと述べています。
(2) 大選挙区制
従来の選挙法では、学問・見識共に優れ、国家のためになる有為
な人材の当選が難しいので、選挙区を拡張して大選挙区にした方がいろいろな人材が
網羅されて、選挙民各人の意見が代表されると述べています。選挙法の問題は当時の
政界に大きな影響を与えると共に、今尚選挙区制、 二院制の在り方などが議論されて
y
いる問題でもあります。この機会にじっくり選挙について考えてみてはどうでしょう
か
。
平成 25年鹿根本E顕彰会総会栂告
総会は、 5月 26日(日)午後 1時 3 0分から那珂市中央公民館に於いて開催された。
出席者 35名、委任状 37名で成立。会は、以下の内容で進められた。総合司会山田正巳
理事、開会のことば増子輝雄副会長、会長あいさつ、来賓あいさつ海野徹那珂市長、メッ
セージ先崎光茨城県議会議員(代読)、祝電披露衆議院議員梶山弘志国土交通省副大臣、
紹介那珂市議会議員遠藤実・寺門敦両氏、
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事墜喫妻鐸s悶亨苧J繋豪薫襲黛;:.~土三:謹;ヤ;んr 根本正はクリス対チヤV
ンの叩
t江工原麻素六刈らとc!:: r
大畑日本平和
持協会」を設立し、国際友好の推進と戦争の防止を自
指し、国際平和に努力された。協会の会員には大隈
重信、板垣退助、渋沢栄ーなどそうそうたるメンバ
ーが参加した。根本正は未成年者の禁酒・禁煙、教
育にと大きな功績を残されたが、さらに国際平和に
も努力され、郷土の那珂市・茨城県ばかりでなく、
日本でも誇れる政治家であると改めて根本正の存在、
顕彰の意義を称えられた。
また、第 4回根本正顕彰フェスティパルは瓜連地区で行った
が、多くの参加者があり質疑も活発であり盛会裡に終えること
が出来たことに感謝し、資料の収集と保存については発行され
た『会報~
72号までを 5冊に製本し、ブラジノレ・メキシコ探
検調査報告書も 2冊に製本して併せて 7冊を那珂市立図書館に
寄贈することを明らかにされた。
最後に、「とても嬉しいニュースがありました J と平成 2 4年度の「輝く郷土の先人」
新聞等コンクールで優秀賞の輝いた芳野小学校 6年生(現那珂第三中生 1年)仲田桃子さ
んを紹介、新聞は県内各地で展示される、これによって広く根本正についての理解が深ま
るとその成果を称えられた(後掲参照)。
海野市長は、加藤純二氏の『根本正伝』に啓発されて顕彰会発足に尽力された一人で
あることから切り出された。以来、会が資料の収集・調査研究を継続して根本正代議士の
功績を紹介され、さらに移民・禁酒・禁煙団体と提携して広く活動を進め、根本先生の精
神を全国に、世界に発信して行くことを期待したい。自分も市長としてその心構えで日々
遁進している。また、平成 27年度の教科用副読本に代
議士根本正が掲載される。これには本市の秋山和衛教育
長の尽力によるところが大きい。また、来年平成 26年
度は、市制 10周年、水郡線全通 8 0周年に当たる。現
在、市として名誉市民を亡くなられた方にも贈る計画を
進めている。是非実現し、これら先人の心を受けながら
市制発展にも努めてまいりたい。顕彰会のますますの発
展を祈りますと結ぼれた。‘
2
【嘩案審信】(議長:仲間義一副会長)
①
平成 2 4年度事業報告(仲田昭
一事務局長)、決算報告(横地富子
理事)、会計監査報告(川上清監事)、
②
平成 25年度事業計画案(事務
局長)、予算案(横地理事)、
③
役員改選(任期 3カ年)
会長:曾津義雄、
副会長:仲田義一・増子輝雄、
理事:根本正治・鈴木正矩・横地富子
(会計担当)・小林茂雄・山田正巳・仲田昭一(事務局長)、監事:武藤正夫・川上
清
理事会で協議を重ねた提案議案はいずれも全会一致で承認された。
④
平成 25年度事業にある根本正顕彰フェスティパノレは、これまで市内 4地域を対象と
していたが、一巡したこともあり大旦に市外へ進出することに踏み切り、まず最初の実施
地を大子町とした。その理由は、来年平成 26年は根本正が敷設に全力を尽くした水郡線
が全通して 8 0周年を迎えること、大子駅前にはその恩に酬いるために根本正の胸像まで
建っていることなど、根本正代議士に対する思いが熱い血であることなどにある。
⑤
会員の中からは、鉄道開通時の喜びや感激など当時を知る人々の声を求めること、関
係者を訪ねて関連史料を蒐集すること、鉄道関係者にも開催を周知して広く活動を P Rす
ることなどの提案が出されてより内容の充実を図ることとなった。
⑥
また、現在那珂市の上菅谷駅広場や駅前通りを会場として開催されているイベント「カ
ミスガまつり J に参加して、根本正顕彰会活動の存在と活動を P Rするよう提案があり、
これも年度内に参加できるよう準備を進めることとなった。
仲間桃子さんに奨励賞を授与
前号でお知らせした茨城県・茨城県教育委員会
主催の「輝く郷土の人々の新聞コンクール J (
小
学生対象)に「根本正新聞」を作成して応募し、
優秀賞に入選して茨城県知事から表彰された仲田
桃子さん(当時小学校 6年生)に、「代議士根本
正の存在 J を県内外に広く知らしめることになっ
たとして顕彰会としてその功を称え表彰した。桃
子さんは、「こんなすばらしい表彰を受けありが
とうございました。根本正さんの人にやさしく、
人を大切にする心をもって今後もがんばっていきたい J とお礼のことばを述べられた。
- 3 -
平成 25年鹿総会鵠演会
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大河のー泊ー令に組<.*lEの現・ー』
講師
理事鈴木正矩氏
総会に続いて行われた鈴木理事による講演会。
1T関
係のプロだけにその専門性をフルに活用し、映像を主に
した内容で根本正の生涯、およびこれまでの顕彰会の活
動と課題を紹介したものであり、顕彰会の継続的発展の
一助として提言されたものである。
1 根本正生涯については、これまで作成された「不屈
の政治家根本正伝 J (DVD版)を再編成し、さらに
敷設に貢献した水郡線の現状と沿線の現風景を紹介し
てその課題を提言。今後如何にして水郡線の利用向上
を図り、永続的存続へと結びつけていくか。これは地域の活性化を図ることと深く関連することで、
ぷ明醐峨錦繍鱗鶴鶴轍纏輯盟組
今世紀の大きな課題でもある。
2 海外移民に関連して、ブラジノレ移民 100周年記念行事に湧く
ブラジルの様子を紹介、皇太子殿下の訪問を歓迎する現地の映像
をたっぷりと堪能できた。
3 知的財産としての顕彰会の実績
①単行本『根本正伝』等の刊行
③動画 f
根本正の生涯J 等の作成
② 年 3回の『会報』発行
④ホームページ作成
顕彰フェスティパルj、「公民館まつり展示発表」
⑤行事「ゆかりの地を訪ねる旅 J、 f
これらの管理はパソコンに入力して管理し保存、また刊行物の一部は製本化を進めている
4 顕彰会を取り巻く環境(課題とその解決に向けて)
①進む活字離れの傾向(文字情報伝達の形骸化)
②会員の高齢化、継承者を如何に育成していくか。イベントへの参加者が漸減してきている
③顕彰会活動範囲の限定傾向を脱して、外に打って出る活動意欲を持つ(高齢化との関連)
④学術研究者の世代交代、後継者育成との関連。一朝一夕には育たない
⑤動画的活動記録が皆無である。ビデオカメラを活用して記録保存に努める
⑥世界に発信する情報管理、および公開システムを構築する。画像編集等の予算化が必要
根本正を世界に紹介する発想、そのためのユーチュープ活用を図ること。
これには、現在の会員の中で堪能な人材をフルに活用していく協力態勢が必要である
5 効果
①根本正がローカルな存在から世界の根本正となっていく。それにより彼の「生き方Jが見直
され、世界共通の理想像のーっとなっていく。
②情報の共有化と管理の一元化が図られ、知的財産の再利用によるニューリーダ}の負担軽減
となる
こうり工費認識すてるとともに、今後への意欲を喚起さむた講演でしたa
※ 顕彰会会員が会の在り左 i
ブラジル茨城県人会支満会報告
報告仲田昭一
1 期日
2 会場
茨城県県庁舎 2階
3 参加者
鈴木康夫ブラジル県人会会長夫妻、小林操同第一副会長夫妻はじめ橋本昌
平成 2
5年 4月 22日(月)
午後 5時 30分から午後 7時まで
カフェテリアひばり
茨城県知事、山口副知事、泉生活環境部長、多木生活環境部国際課長、川
俣勝慶茨城県国際交流協会理事長、井上栄子相談員、横田議会事務局係長
ほか県庁職員およびその他各種団体など。根本正顕彰会からは曾揮義雄会
長、山田正巳理事、仲間昭一事務局長。全体の参加者は 38名
。
4
内
容
今年の県人会交流会の特色は、鈴木会長および小林第一副会長ご夫妻を迎
えたことである。鈴木康夫会長は今年新たに就任
したが、昨年までは小林操氏が会長を務めていた。
ヲ撃事内政織弘会総会
2
0
1
2
) は、「ブラジル茨城県人会創
昨年平成 24年 (
立 5
0周年」に当たる記念の年であり、現地では盛
子大に記念式典が開かれた。茨城県からは、山口や
ちゑ副知事等が出席している。当顕彰会としては、
遠路の参加は無理であったのでお祝いを届けてい
る。また、ブラジル茨城県人会創立 50周年記念 (
1
9
6
2
'
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'2
0
1
2
) Wブラジルの茨城』と題した A四版・ 252頁の立派な記念誌を刊行した。
すばらしい意気込みを実感させてくれる。橋本知事からは、東日本大震災に際し、
いちはやくご支援をお届けいただいたことへの謝意が述べられた。
交流会で鈴木会長は、祖国ふるさとの大震災の被害は如何ほどであるかと心配で
ならなかった。このたび方々を案内していただき、すばらしい復興ぶりに驚きなが
らも安堵している。また、これまで茨城県とブラジルと相互に 2名ずつ研修生を交
流してきたが、このところブラジルからの一方的となっている。どうか県側からも
希望する意欲的な者を送って欲しいとの要望が出された。
小林副会長は、苦労した先輩たちに恥じない記念式典をと思い、万端の準備をし
てきたが、おかげで無事に開催できたことを嬉しく思う。また、東日本大震災の報
に接し唯々驚くと同時に、何か少しでもお役に立ちたいとささやかな贈り物をさせ
ていただいた。祖国ふるさとの地を踏んでみると、すばらしい復興を遂げつつある
ことに喜びを感じている。 5
0年誌も発刊できたこと、玉稿をお寄せいただいたこ
とに感謝する旨のあいさつを受けた。
二組のご夫妻のお顔やお姿には、これまで
に積み重ねてこられたご苦労とそれらを乗り
越えた自信とがにじみ出ていた。
テーブルを屈んだ川俣理事長からは、国際
交流は相手方にこの「茨城県人会」のような
しっかりした母体がないと長続きしないとの
国際交流の現状を窺うことができた。
(写真上は鈴木康夫会長ご夫妻との記念撮影、下は小林副会長に『根本正伝』を渡す舎漂会長。)
- 4 一
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.
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明 治 3 8隼 (190 1
5
)の
潤関車'宇宙E遺
一日本基督教団銀座教会の貴重な史料からー
曾津義雄
こ の 史 料 は は 明 治 38年 (1905) の 日 本 禁 酒 同 盟 幹 部 の 写 真 で あ る か
ら 設 立 さ れ て か ら 7年 後 の 貴 重 な 写 真 に な る 。 。 前 列 が Ju 1iu s • S0
p e r (ジュリアス・ソーパー)・安藤太郎・矢嶋楊子・ MiSS.Sma
r t、後列が鵜飼猛・樟回仙・根本正・小林富次郎・美山賀ーらである。
ジaリ ア ス ・
νー パ ー 実 曹 は 、 ア メ リ カ の メ ソ ジ ス ト 教 会 か ら 派 遣 さ
れ て 明 治 6年 (1873) 8月 8日 、 日 本 に 到 着 し て い る 。 同 年 の 6月 11
日にはマクレイ牧師夫妻が到着しており、日本におけるメソジスト派の開拓
者をなした人である。 8月 8 日 の 晩 に は 横 浜 山 の 手 6 0番 地 の マ ク レ イ 宅 で
開 か れ た ミ ッ シ ョ ン ( 伝 送 団 ) 組 織 会 議 に 出 て い る 。 ソ ー パ ー は 明 治 1 1年
までは東京メソジストミッションの最初でしかも唯一の宣教師であったとも
云われる。さらに東京における教会とその教育施設の創設に大きな役割を果
たしている。
明治 8年 1月 3 日にはソーパーは日曜の集会で、津田仙夫妻に洗礼を授け、
始めて日本語で聖餐式を行っている。またアメリカで授洗した津田梅子とソ
ー パ ー 来 日 前 に 死 亡 し た 双 生 児 を 除 く 津 田 家 の 13人 の 子 供 遣 に 洗 礼 を 授 け
ている。ソーパーは長老司として東京の業務を指揮し、横浜教区・西東京教
区の長老司を務め、一時帰国するが戻り長崎の長老司も務めている。明治 2
7年 (1894) に は カ ナ ダ ・ メ ソ ジ ス ト 系 の 東 京 英 和 学 校 は 青 山 学 院 と 改
称 さ れ 、 同 校 で は 神 学 部 で 組 織 神 学 を 教 え 、 明 治 34年から 40年 ま で は 神
学 部 長 と し て 学 生 の の 指 導 に 当 た っ て い る 。 同 3 9年 青 山 学 院 は 法 人 組 織 に
なりキリスト教に基づくことが定款の中に下記のように明記された。
「背山学院の教育は永久に基督教主義にして、その教義の標準はメソジス
ト ・ エ ピ ス コ パ ル 教 会 条 例 第 1章 の 信 仰 箇 条 い 拠 る べ き も の と す J (
銀
座 教 会 90年 史 資 料 『 米 国 メ ソ ジ ス ト 監 督 教 会 等 の 明 治 初 年 に お け る 東
京 の 伝 道 (18 73-19 0 7)J
)
矢島揖子{幼名膨子}は横井小楠の門下生と結婚したが、酒癖が悪く離
婚している。我が国の矯風会運動はアメリカの影響で始まっている。アメリ
カ社会は南北戦争で飲酒の害が社会を蝕んでいた。さらに西部社会の開拓と
工業化により賭博・売春・暴力事件が多発していた。このような風潮にピュ
ーリタン精神の崩壊を憂えた一人の青年牧師が立ち上がり、オハイオ州の教
会の婦人たちが連携し禁酒運動はアメリカ社会に野火のように広がった。そ
して 1874年 11月 fア メ リ カ キ リ ス ト 教 婦 人 矯 風 会 J が 設 立 さ れ た 。 我
が 国 で は 明 治 19年 (1886) 12月 、 矢 島 揖 子 他 21名が発起人となり
- 5
ー
日本経潤 ri~ 醗幹部〈明治 3 肢を手(
90~5 智〉
東京婦人矯風会が設立され、日本橋教会で発会式を上げた。矯風会初代会頭
は 矢 島 梼 子 (50歳 ) で あ る 。 矢 島 は 日 本 近 代 化 の 中 で 女 性 の 痛 み を 供 に 背
負い、その救済のため女子教育の普及に努め、女性の権利を主張した代表的
な先駆者の一人である。
翌年、アメリカ留学中の根本正を介して東京婦人矯風会の設立を世界キリ
スト教婦人矯風会本部部会頭ミス・ウイラードに報告している。
.薦*.の父文鐸は長崎で蘭学を学び我が国で最初に種痘を行った人と
云 わ れ る 。 安 藤 は 根 本 正 よ り 5歳 年 上 で 同 じ 箕 作 秋 坪 の 英 学 塾 f三 文 塾 j で
-
6 -
時期は異なるが学んでいる。
17歳の時幕府の海軍操練所には入っている。
初代頭取は勝海舟で、後に日本最初の天文台長を務めた荒井都之助が頭取に
なっている。安藤の姉とみ子は荒井に嫁ぎ、荒井の妹文子は安藤に嫁いでい
る
。
安藤は坂本龍馬が航海術を学ぶため時々荒井家を訪ね寝食を共にし交
遊があったという。
元 治 元 年 (1864) 幕 府 の 洋 業 扶 持 を 受 け 、 横 浜 の パ ラ の 所 で 英 語 を 学
日幕臣の新天地を目指した榎本武揚と共に五稜郭で戦っ
んだ。戊辰戦争では i
たが、明治政府は安藤の語学力を買い最初は大蔵省、後に外務省に異動し f横
文 反 訳 通 弁 課 j に 勤 務 と な る 。 明 治 4年 の 岩 倉 具 視 使 節 団 一 行 に は 4等 書 記
官として随行している。反乱軍に属した安藤が選ばれたのは明治政府にとっ
て有能な人材だったからである。根本正は「先見もって早く英語を学びたる
良果なり J と述べている。
安 藤 は 明 治 7年 香 港 副 領 事 、 向 17年 上 海 総 領 事 に な り 、 同 19年ハワイ
総領事に任命された。当時ハワイ移民が国際間題になっていた。明治元年(1
8 6 8) に ア メ リ カ 人 ヴ ァ ン ・ リ ー ド に 率 い ら れ 密 航 し た 153人 の 最 初 の
移 民 ( 元 年 者 ) を 始 め ハ ワ イ に は 3000人 の 日 本 移 民 が サ ト ウ キ ピ 栽 培 に
従事していた。しかし移民と言っても労働者仲介業者が奴隷を買い集めるよ
うにして斡旋したと云われる。言葉は通じず、労働条件も悪く、生活習慣も
異なり農園主と対立し、賭博や飲酒に耽り荒んだ生活を送り内外で問題にな
っていた。移民の生活は一向に改善しないので井上外務郷は安藤に望みを託
し、ハワイ総領事に任命した。しかしながら移民の生活は予想以上に悪く解
決は難しく困り果てていた。
1887年 ( 明 治 20) 9月 、 サ ン フ ラ ン シ ス コ 福 音 会 会 長 で メ ソ ジ ス ト
教会牧師の美山貫ーがハワイにやってきた。美山は安藤総領事に日本人移民
救済のため日本人共済会の必要性を説き成立にこぎつけると、ハワイ諸島を
廻り移民遣に熱心に優しく説教したので賭博や酒を止める人が多くなり、農
園主の評判も良くなった。安藤は喜び美山のことを外務省に公報で報告して
い る 。 ま た 明 治 20年 12月 、 榎 本 武 揚 な ど か ら 菰 被 り の 酒 2樽 が 送 ら れ て
きた。安藤は大変喜んだ。安藤の妻文子は移民の新規取締に禁酒事業を推進
しようとしているし、鯨飲家の夫の健康も心配していたので、どうしたもの
かと悩んでいた。そこで美山に相談したところ「煙草なら人にやって済みま
す が 、 酒 は ど う も 捨 て る よ り 外 致 し 方 が あ り ま す ま い j との助言もあり、安
藤が政庁に出掛けて留守の時に馬丁に酒樽を裏庭に運ばせ流してしまった。
話を聞き最初は激怒したが妻の真心が分かり、これを機に一生涯を禁酒で通
したのである。明治 2 1年 7月 、 安 藤 は 美 山 貫 ー か ら 洗 礼 を 受 け て い る 。 時
事 新 報 に f安 藤 総 領 事 日 本 酒 を 棄 つ J と 掲 載 さ れ 、 こ れ が ア メ リ カ 新 開 に 転
載され賞讃されたという。
根本正はパーモント大学在学中、安藤の偉業がアメリカの新聞に報道され
- 7 ー
たのに感激し、安藤太郎に手紙を書いたのが最初の出会いになり、根本正と
安藤太郎が禁酒運動を通して紳を強める運命的出会いになったのである。明
治 2 3年 東 京 禁 酒 会 が 結 成 さ れ 、 会 長 安 藤 太 郎 、 副 会 長 根 本 正 が な り 、 明 治
3 1年 に は 7つ の 異 な っ た 教 派 か ら な る 日 本 各 地 の 禁 酒 会 が 連 合 し 日 本 禁 酒
同盟が結成された。会長安藤太郎、副会長根本正・津田仙・伊藤一隆・ソー
ノ屯ーなどである。根本正は副会長として安藤を支え、率先して弁士を務め禁
酒運動を推進したのである。
鶏 山 賀 ー は 嘉 永 元 年 (1848) 10月 生 ま れ で 、 山 口 県 萩 の 士 族 の 出
身。者くして上京し海軍にはいることを目指したが望みかなわず、実業につ
い て 学 ぶ た め 明 治 7年 に 渡 米 し た 。 同 郷 の 友 人 (Asami) でカナダ・メ
ソジスト・ミッション(伝道団)のカクラン牧師の日本語教師になり、キリ
スト教に入信した人がいた。その友人の影響でキリスト教の価値は知ってい
たようである。アメリカでの美山の生活は苦しく、ある夜深酒し目が覚める
と彼の枕元に中村正直の訳した小冊子が置かれていた。その中に「キリスト
が園の中で兵卒に捕えられ、くわたしがそれである>と去われたことが記さ
れていた J という。この言葉に深い感銘を受けたという。欧米にあのような
カを与えたのはキリストへの信仰であると確信したという。サンフランシス
コの農場で働いている時、孤独感の襲われ、宗教誌を読むとその中に「わた
し が 聖 な る 者 で あ る か ら 、 あ な た 方 も 聖 な る 者 に な る べ き で あ る j という言
葉があって少し安らぎをいた。
渡米後しばらくたってから、日本の同郷の友人にサンフランシスコの牧師
を紹介してくれるよう依頼したところ、カクランからハワード街にあるメソ
ジスト教会のトマス・ガード博士が紹介された。美山は紹介状を手に教会を
訪れガード樽士やオーチィス・ギプソン博士に始めてお会いした。ギプソン
は中国の宣教師をしていたが、この時はサンフランシスコのメソジスト中国
ミッション(伝道団)の責任者を務めていた。ギプソン博士の教えを受けた
美 山 は 他 の 2名 の 日 本 人 青 年 と 共 に 1877年 ( 明 治 10) 洗礼を受けた。
ア メ リ カ 西 海 岸 で 最 初 に 受 洗 し た 日 本 人 で あ っ た 。 こ の 3人 は 中 国 ミ ッ シ ョ
ン館の地下室を借りて福音会を創立した。日本から専任のハリスが到着し、
1886年 ( 明 治 19) 9月 、 メ ソ ジ ス ト 中 国 ミ ッ シ ョ ン は 、 日 本 人 と 中 国
人を対象とする事業に分かれた。この年日本ミッション館がセントラルチャ
ーチの礼拝堂と牧師舘を借用し創立された。また美山はギプソン博士が若い
中国人や日本人移民のために経営する学校に入学したある夜、ギプソン博士
から呼ばれ、「回心したか j、 fキ リ ス ト を 愛 し ま す か j、「あなたの全生涯を
キ リ ス ト に 捧 げ ま す かJ など尋ねられ、「わたくしは全生涯をキリストに捧
げます」と答え、ギプソンと一緒に祈ってから私のイエスキリストへの服従,
- 8 -
という問題は永久に解決されたと述べている。
※福音会
サンフランシスコのメソジスト中国ミッション(伝道団)地
下室で日本から来る苦学生を保護し、勉学させるためハリス監
督 が 明 治 19年 日 本 か ら 帰 国 し た 時 設 け た 施 設 で 、 隣 家 な ど を
借 り 受 け 常 時 15、 6名を宿泊させていたという。
サンフランシスコの福音会で問題が起き、美山に対し重大な告発が行われ
た。そして教会の審問会が開かれた。告発者の発言のあとギプソン博士は、
私は美山を引き受けます。私は彼を信頼しているし、彼が正しくないと知る
るまでは私は彼を信じますと。美山はギプソン博士の行為が自分をメソジス
ト教会につなぎ止めた。私の潔白を信じてくれたギプソン博士のために私の
生涯を教会に捧げなければならないと決意したという(前掲書『銀座教会 9
0 年史資料~)。
ギプソン博士は金時計を肌身離さず持っていた。それは自分の息子を罪の
生活から救ってくれたのを深く感謝して、中国在住のヨーロッパ人から贈ら
れたものであった。臨終の時何か言い残すことはないかと尋ねると、気力を
振り絞り、 f金 時 計 を 私 の 息 子 美 山 に 渡 し て く れ 。 彼 に 祝 福 あ ら ん こ と を J
と述べたという。美山はハワイ伝道の旅にあり、西海岸日本ミッション監督
のハリスが預かり届けたという。
美 山 は 明 治 17年 頃 一 度 帰 国 し 横 浜 と 東 京 に 福 音 会 を 設 立 し て い る 。 ま た
三河岡崎の士族の娘青山トヨ結婚し、アメリカに戻っている。
明治 2 0年 (1887) ハ ワ イ 在 住 の 日 本 人 移 民 へ の 伝 道 の た め サ ン フ ラ
ンシコから派遣された。神戸から届いた『七一雑報』という宗教誌にハワイ
で日本移民が虐待されているという記事を読み、サンフランシスコでも日本
人排斥の動きがあったので同胞を救うため、伝道かたがたハワイに向かった。
苦 学 生 活 の た め 15 ド ル し か な か っ た と い う 。 船 上 で は 甲 板 に 寝 た り 、 馬 の
餌の人参を食べたりしたという。
9月 30 日 ホ ノ ル ル 到 着 。 最 初 ハ ワ イ 総 領 事 安 藤 太 郎 は 警 戒 し た よ う で あ
る 。 欧 米 人 は ア ジ ア 人 の 宗 教 を 偶 像 宗 つ ま り f野蛮の異名 J と 云 い 、 自 分 遠
の 信 仰 す る キ リ ス ト 教 を 「 開 花 の 別 号J と 称 し て い る の で 痛 に さ わ る か ら で
あ る と 述 べ て い る 。 美 山 は Y M C Aで 日 曜 日 の 説 教 を 聞 き に 通 っ た が 、 そ れ
は総領事としての体面上のことであった。安藤夫人も最初は余り期待してな
かった。美山が説教で「この世には多くの危険な動物がいます。例えば熊・
ライオン・虎……私たちの知る限りで最も危険な動物は無宗教の人間ですj
と話すと夫人の顔は蒼白になったという。領事館で懇談したとき美山は移民
救済のため日本人共済会を提言し、安藤は苦慮していたので数日後には設立
され、病人への援助、帰国旅費の援助などを行った。その傍ら熱心に伝道に
努めた結果、移民遣の信頼を得、賭博・飲酒なども止める人が多くなり風紀,
も改善されるようになったという。
9 -
明 治 2 1年 (1888) 4月 に は 美 山 牧 師 の 感 化 に よ る 禁 酒 事 業 の 董 要 性
在ノ、ヮイ日本人禁酒会 J を立ち上げた。 7月 15 日、安藤は
に鑑み安藤は f
洗 礼 式 で 、 美 山 牧 師 に よ り 馬 2頭 を 除 く 領 事 館 全 員 が 洗 礼 を 受 け た と 挨 拶 し
ている。同じ日にハワイ最初の日本人教会であるハワイ・メソジスト教会が
設 立 さ れ 、 通 算 1年 8ヶ 月 の 伝 道 で あ っ た が 、 美 山 の 果 た し た 功 績 は 大 き か
った
(
W安 藤 記 念 教 会 70年 史 J
)。
揚 鍋 認 は 明 治 16年 (1883) に上京し、ミッションスクールで学び、
回心を経験した。
2年 後 渡 米 し サ ン フ ラ ン シ ス コ の 福 音 会 に は 入 り 洗 礼 を 受
け、西海岸とハワイの日本人専任の伝道師になった。
※回心
キリスト教などで過去の罪の意志や生活を悔い改めて神の正し
い信仰へ心を向けること。
鵜 飼 は 明 治 2 8年 (1895) ア イ オ ワ 州 の シ ム プ ソ ン 大 学 を 卒 業 し 、 日 本
に 戻 り 青 山 統 一 教 会 の 牧 師 を 2年 間 務 め て い る 。 明 治 2 9年 に 銀 座 教 会 の 牧
師 に 任 命 さ れ 10年 間 仕 え て い る 。 普 通 は 3年 を 超 え る こ と は な か っ た と い
う 。 希 望 の 星 だ っ た の だ ろ う か 。 明 治 4 0年 に は 当 時 中 央 メ ソ ジ ス ト 教 会 と
して知られていた銀座教会の牧師を任命されている。
美 山 貫 一 の 最 初 の ハ ワ イ 伝 道 は 3ヶ 月 で あ っ た が 、 安 藤 総 領 事 の 要 請 で 明
治 2 1年 3月に妻トヨと鵜飼猛を連れて訪れた。日本移民共済会を成立させ、
そ し て 7月 に は 「 在 ハ ワ イ 日 本 人 禁 酒 会 j が 設 立 さ れ 、 鵜 飼 猛 は 書 記 を 務 め
ることになった。
禁 酒 運 動 の 中 心 で あ っ た 銀 座 教 会 の 牧 師 を 創 立 以 来 務 め 、 明 治 26年 長 老
司なった小方仙之助は、 f鵜 飼 い 兄 弟 は 牧 師 と し て の 本 来 の 職 務 の ほ か 、 福
)
音 会 と 禁 酒 会 の た め に 絶 え 間 な く 働 い た J(前掲書『銀座教会 90年 史 資 料 J
と賞讃している。
明 治 3 1年 10月 1 日 、 九 段 メ ソ ジ ス ト 教 会 で 各 教 派 の 代 表 に よ っ て 日 本
禁酒同盟が結成された。会長は安藤太郎、副会長は根本正・伊藤一隆・津田
仙 ・ ソ ー パ ー ら で 、 そ の 時 鵜 飼 猛 は 書 記 を 任 命 さ れ て い る 。 ま た 明 治 32年
には日本年会の常設禁酒委員会の委員長であった。
海国値は女子英学塾(今日の津田塾大学)を創設した津田梅子の父であ
る 。 樟 田 仙 は 天 保 8年 (1837) 7月 、 佐 倉 の 佐 倉 藩 士 小 島 善 右 衛 門 の 4
男 に 生 ま れ た 。 嘉 永 4年 桜 井 家 の 養 子 に な る 。 安 政 4年 江 戸 に 出 て 儒 学 を 学
ぶ と 共 に 英 語 ・ オ ラ ン ダ 語 を 学 ん だ 。 徳 川 幕 府 に 認 め ら れ 文 久 元 年 (1 8 6
1) 幕 臣 津 田 大 太 郎 の 婿 養 子 に な り 、 津 田 家 の 初 と 結 婚 し て い る 。
津田は幕府の翻訳所(外国奉行通弁)勤務を命じられ、外国人の世話も行
っている。同僚の杉田廉郷の関係でキリスト教を知り学ぶようになったとい
う 。 明 治 元 年 (1867) に は 勘 定 吟 味 役 小 野 友 五 郎 の 随 員 と し て 福 沢 諭 吉
-
10 -
らと共に軍事関係を研究する使節団の通訳としてアメリカに派遣されてい
る。明治 2年 に は 政 府 が 築 地 居 留 地 に 開 設 し た 外 国 人 用 の 築 地 ホ テ ル の 管 理
を 任 さ れ て い る 。 明 治 6年 に は ウ ィ ー ン 万 国 博 覧 会 の 委 員 と し て え ら ば れ て
いる。そこで西洋の文化・技術・キリスト教について再認識させられた。特
に博覧会で展示されていた聖書に多大な感銘を受けたという。「信者が…世
界中の国語に訳し、全世界に広めるため、こんなに時と金を掛けるようにさ
せるには、この宗教には何かすぐれた、真実なものがあるに違いないと思う
j
(
r銀 座 教 会 9 0 年史資料~)と妻に感激して手紙を送っている。津田は東
京メソジスト監督教会ミッションで最初に洗礼を受けている。
明治 4年 北 海 道 開 拓 使 嘱 託 を 命 じ ら れ て い る 。 明 治 7年 に は 自 分 の 麻 布 の
実験農場に最初の農学校、労農舎を開設した。農業に新しい科学技術を取り
入れた先駆者で、だいおう・いちご・アスパラガス・キャベツなどの新しい
野 菜 を 導 入 し た 。 明 治 1 1年 に 駒 場 に 政 府 が 農 学 校 を 開 設 る と 生 徒 数 も 減 少
し、明治 16年には解散のやむなきにいたった。
津田は教条主義者でなく
青山学院の前身である男子校や女子校の創立にも深く関係すると共に、教派
相互の運動である禁煙・禁酒運動や聖書を広める運動にも積極的に関わって
い る 。 特 に 明 治 3 0年 以 降 は 一 切 の 事 業 か ら 退 き 禁 酒 ・ 禁 煙 運 動 な ど の 社 会
活動にカを入れている。
明 治 2 3年 (1890) 国会で最初の衆議院の副議長になった。
下 の 写 真 の 鐘 は 「 銀 座 の 鐘 j で第 3次 会 堂 (1928) 建設の時の鐘である。
1 8 7 8 (明治 1 1) 年 パ ー ミ ン ガ ム 市 プ リ ュ ウ ス ・ ア ン ド サ ン ス 社 製 で 重
量 5 0 0ポンド、 2 2 7キログラム。
-
1
1
【研究ノート]
r
桑原政遺影』に見る根本正と豊田芙雄
はじめに
芙雄の父は桑原治兵衛信毅、母は藤田東湖の妹雪子、桑原政は豊田芙雄の弟に当る。
豊田英雄は根本正が徳子と結婚の際の媒酌人として知られているが、芙雄の実家桑
原家について調べていくうちに、英雄の弟政と根本正は、英学・数学の研究を志して
ともに上京し、暫くの問、藤田東湖の子であり、政の義兄、従兄でもある藤田健の長
屋に住んでいたことが分った。
根本正と意気投合し、未来に希望をもって上京した桑原政どはどのような人物であ
ったのかを調べてみた。
誕生
安 政 3年 2 月 24 日 江 戸 小 石 川 水 戸 藩 邸 内 に お い て 、 御 用 調 役 桑 原 治 兵 衛 信 毅 の 二 男
として生まれる。幼名は政治郎。母は同藩藤田東湖の妹雪子である。
雪子は、政を妊娠中水戸城下にある八幡宮に、男子が生まれることを祈願して、同
社騎馬祭に用いた弓絃を乞い得て、之を密かに腹帯に入れて巻いているほど誕生を楽
しみにしていた。
政誕生においては母子ともに健康であったが 5月初旬より母雪子は病に躍り医薬療
養することとなった。藩主(烈公)より、日々牛乳を賜い、恭なき仰言をもしばしば
蒙りたしを見聞したが、病気が癒えることはなかった。
生後間もない政は駒込水戸藩中屋敷詰御膳所役鈴木吉兵衛方に里子として預けられ
る。鈴木吉兵衛の妻せいは女を亡くし、乳呑児を探していたので、親族坂部氏の世話
により、そこに預けられたのだ。その家において政は、本当の子のように愛情を受け
て育てられ、桑原家も、それを喜んでいた。
8月 19 日 母 雪 子 臨 終 の 際 、 政 は せ い に 抱 か れ て 最 期 を 看 取 っ た 。 享 年 42歳。
水戸へ
父桑原治兵衛信毅は、御軍司役、御用調達役、御用人、寄合差引きを経て、寄合差
こ預けていた政も桑原家に戻り、一家挙げて水戸
引に転職。そのため、鈴木吉兵衛方l
へ帰ることとなった。
政が家に戻ると、姉の立子が母代りになって養育し可愛がった。
この頃の桑原家の家庭環境、特に子どもの養育について、政の姉芙雄は、「家庭の撲
は厳格であって、長幼の序が殊に厳正でありました。家長である父、家督を継ぐべき
長兄に対しては格段の尊敬心を持ち絶対に服従しました。たとえば長寝して居る兄を
起 し に い き f馬 術 の 稽 古 に 後 れ ま す か ら お 起 き な さ い ま せ j と い っ て も 起 き な い の で
- 1
2 -
幾度も繰返すと、にらみつけて叱り飛ばされたので、恐くてそのまま引下がるのでし
た。文姉と一緒に手習御匠の許へ通う時に、常に姉より一二歩後に下って、ついてい
かなければならなかった。それで時に姉が道に立止った際、私が一歩でも先に出ると
姉からひどく叱られるといふ風でありました。 Jと、厳しいものがあったことを述べて
いる。
母 親 代 わ り の 姉 立 子 は 、 万 延 元 年 庚 申 の 年 ( 政 5才 ) に は 藤 田 家 へ 嫁 ぐ た め 兄 力 に
付き添われて東京へ旅立った。まだ幼かった政は婚に負われて桜山付近、好文亭の下
あたりでそれを見送るのであった。
それから後は、継母松岡照子に養育された。
6才 か 7才 の 頃 の こ と だ と 恩 わ れ る が 、 政 は 芙 雄 子 の 針 仕 事 の そ ば で 、 千 文 字 、 孝 経 、
南朝百人一首などの素読を始めた。翌年頃から青山佃弦先生の門に入り漢籍を修め始
めたようだ。
そ う い う 穏 か な 日 を 過 ご す 中 、 文 久 元 年 10月 10 日 父 治 兵 衛 咽 喉 癌 の た め 永 眠 享 年
62 才 だ っ た 。 家 督 は 長 男 の 力 が 相 続 し 、 そ の 後 目 付 役 と な っ た 。 翌 年 、 英 雄 は 豊 田 氏
に嫁した。
元 治 元 年 か ら 2年 の 頃 は 、 藩 政 が 騒 が し く 、 子 年 戦 争 後 、 反 対 派 で あ っ た 力 は (7月 ?)
瀧田の揚がり屋に入れられるが、当時の様子を芙雄は「実兄桑原力太郎(渋田の揚屋)
と 兄 藤 田 健 二 郎 ( 宍 倉 の 揚 屋 ?) は 揚 屋 に 入 れ ら れ て し ま っ た 。 揚 屋 は 現 日 赤 支 部 病
院のある宍倉にあって士分で罪あるものを入れる所であり、牢は赤沼にあって庶民の
罪ある者を入れる処であります。力太郎の入った柴田の揚屋に衣服などを持たせてや
った事もありました。その当時は監視が頗る厳重なので高声で藩政の事などは話す事
が出来ない有様でありました。」と語り、家の様子については、すでに、豊田家に嫁し
ていた芙雄によると、「…ある日目付役が来て明日欠所にすると申置いて行く一切合切
取上げられるのでそこで夜分に隣の矢田登エ門の家に書物や色々な物を垣根を破って
頼み込んで何も知らぬ振りして居た。藤田も桑原も欠所になったが桑原に行ったら以
心伝心その様子がわかった。それで皆家で話しするのも隠密などが居ないとも限らぬ
のでひそひそとしていた
その時を考えるとぞっとするのです。 j と当時の物々しさを
伺い知るような出来事を語っている。
(欠所:江戸時代の刑罰の一。田畑・家屋敷・家財などを没収すること。)
しかし、その数年後、世の中の代わるさまを喜ぶとともに、兄達が帰ってくる歓び
を芙雄は、「慶応四年、王政維新の声が高くなり、私どもは夜が明けた様な気持ちにな
り、真に平和の世の有りがたみが感ぜられました。藤田健二郎や桑原力太郎等が帰っ
てきました。 J と語っている。
兄力は権問より家に戻ると、家禄も復し、先手物頭となり、磯原浜台場の護りとな
り組兵若干を常時指揮することとなった。芙雄によると、兄力のことを伯父の東湖は、
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「自分の後には力が居るから j と期待された程の偉才であったようだ。
政は、兄幽閉中は家に潜んでいたが、維新となってからははれて、諸種の修業に身
を 入 れ ら れ る よ う に な り 、 手 塚 陽 軒 先 生 に 就 き 学 び 始 め た 。 明 治 4,5 年の頃からは、
長久保猷先生の皇華塾へ通うようになる。
皇華塾の頃の塾友、親友吉見輝によると、政は漢学を修め、少年ながら大義名分を
明らかにする道に進むとともに、頗る勉強家で当時塾の日課であった朝護みと冬季の
夜学など欠席することは殆どなく、塾生同士で議論を戦わすことがある時も、いつも
意見を述べていた。 15 才 の 時 、 弘 道 館 に 通 学 を 許 可 さ れ た 時 も 塾 生 と し て 共 に 通 う こ
とになったが、幾年もしないうちに政は上京してしまった。と述懐している。
政は学聞に熱心だったようだが、これは家庭環境によるものが多いと思われる。
芙雄によると「…当時父は長沼流の兵法を学んで軍師をして居た。母は仲間の子女
を集めて手習いを教えて居たので私もそれに加はって学びました。 j また、水戸にいた
芙雄 7
'
"
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8 才の頃は、「近所の常磐小路柴田政右衛門夫人が書に巧みであったので姉と
共に通って手習いをしました。五軒町に移ってからは前述のように母について手習い
をし、江戸に移つては深作治十の夫人深作ふで子について手習裁縫及小笠原流の女礼
式 を 、 新 井 氏 に 薙 万 を 午 後 は 槍 山 氏 に 裁 縫 を 水 戸 へ 帰 る 14才 の 頃 ま で 習 い ま し た 。 そ
れから又蝦名手本の女大学や女今川を誰におそわるともなく習いました。…水戸の生
家に帰った時は後の母が来て居りました。後の母も近所の娘に手習、讃物などを教へ
て居たので、私も自然それを見習うことになりました。水戸に帰ってからは姉と共に
父より経書を教へられたが、私は太平記が好きで繰返し愛請しました。和歌は実母が
していたので習うともなく見習ったのが始めで、幼い頃から覚え始めたのであります。 J
と、政に限らず家族のみなが学問に関心があったようだ。
東京へ
明 治 5年 、 政 は 1
7才 に し て 自 ら 髪 を 断 ち 、 根 本 正 、 清 水 某 ら と 上 京 、 英 学 と 数 学 の
研究を志し上京する。
若宮町(牛込二十騎町)の藤田健(伯父藤田東湖の子であり、姉立子の夫でもある)
の家に宿して学業に励んだ。
明 治 7年 4月 1
6日 工 部 省 工 部 寮 ( 後 の 工 部 大 学 校 ) の 募 集 に よ り 、 試 験 を 受 け 及 第
し、工学生徒として官費入寮を許可される。(伊藤博文の虎の門工部大学)
根本正は、政が藤田健氏の家から虎の門工部大学へ通学している時代、同長屋で自
炊しながら同人社へ通学していたので、政がいかに非凡な学生であったかを記憶して
し1 る
。
こ の こ ろ の こ と を 、 工 学 寮 友 達 邑 容 吉 は 、 入 学 し て l年 後 、 虎 の 門 内 に 生 徒 館 が 新
築されたので、そちらの方に引っ越した。その時に政と同室(一室 6人)になり、親
- 14 一
しくなったので、休日ごとに打ち連れて、郊外の遠足を試みることもしばしばあった。
と、政が寮友たちと過ごした時間について書いている。
政 は 明 治 9年 3月 、 工 部 大 学 予 科 を 卒 業 し て 専 門 科 に 入 り 、 採 鉱 冶 金 学 ( 鉱 山 で 鉱
石の採掘をしたり、鉱石から金属を取り出し精製する技術)を修めた。
そ の 聞 の 出 来 事 で あ る が 、 兄 力 は 明 治 10年 2月 、 天 皇 陛 下 畝 傍 山 稜 に 行 幸 に 際 し 護
衛を命じられ、東京六番町の家を出発するにあたり、政のことを「弟は他日学業の成
るを期せよ。 J と 家 族 に 督 励 す る こ と を 委 嘱 し た 。 他 日 の こ と で あ る が 、 兄 力 は 家 族 に
「我家常に財乏し。因って弟(政)は鉱山学を修めて、国及び家を富まさんことを期
せよ J と 、 政 の 得 意 を 理 解 し た う え で ど 思 わ れ る よ う な 、 言 葉 も 残 し て い る 。
兄 力 は 明 治 10年 2月 に 起 っ た 西 南 の 役 に 、 歩 兵 第 8連 隊 大 隊 長 と し て 出 征 、 田 原 坂
にて戦士した。
余談にはなるが、芙雄によると、芙雄が明治 1
2年 文 部 省 の 令 に よ り 鹿 児 島 幼 稚 園 創
設に赴く際「鹿児島行の船は大阪から出るといふので岩村懸令のお供をして大阪に行
きました。船は島津侯の船でたしか千住丸といったと思ふが鹿児島に着くまでに一週
間もかかった。暫らく大阪に滞在してゐたが船が神戸から出るといはれて神戸に行く
と運よく弟の政と避遁する事が出来ました。」と、政が神戸に来ているところ偶然に会
うことが出来た喜びを語っている。そして、着任した鹿児島を芙雄は「当時鹿児島は
西 南 戦 争 の 直 後 で ま だ 血 腫 い 風 が 吹 い て 居 た J と当時の様子も語っている。
政 は 明 治 13年 5月 15 日 工 部 大 学 校 を 卒 業 に あ た り 工 学 士 を 授 与 さ れ た 。
工学寮後の工部大学校時代の友人仙石亮氏によれば、「政は水戸丸出しの田舎者で、
御国靴りも遠慮なく出して居られました。私も固より福井言葉がまだ抜けなかった時
代でありましたから、お互い真似し合って笑い合っていました。」と、学友と親しく交
わっていたようだ。また、学問の方は、「…入学当時の政の学力は、学年の平均以下で、
後年まで親友でいた安永君や達邑君と一緒にやっていくのは大変なことだったと思う
・
1
0
年生の頃は物理学や数学について私に質問していたのですが、非常な記憶力と、非
凡 な 勉 強 家 だ っ た の で 、 2年 ご ろ か ら ど ん ど ん 学 力 が 上 が り 成 績 を 追 い 越 さ れ て し ま い 、
沖龍雄君に次いで優等となり工学土の学位を受けるまでになった。」と、粘り強く努力
家 で あ っ た よ う だc また、「…入学当時東湖先生の書風を用いていたが、その後私が使
っていた文徴明の書風を好みともに習い、どちらが書いたか間違うほどでありました
…j と、物理や数学ばかりに偏っていなかったようでもあった。
仙石氏から見た政は、「…同君は頗る凡帳面な性質でありました。いつも書籍其の他
の物をきちんと整理しておかれました。頭髪もこはかったに拘わらず、正しく椀って
居られて、衣装もだらしない着ようなどはされませなんだ。」と、実に九帳面だったよ
う で 、 性 格 の 方 は f水 戸 気 質 と で も い う の か 窮 屈 な ほ ど に 厳 格 で あ っ た … 、 一 面 決 し
いゅう
て友人間に衝突など起ることもありませず、何人でも畏友(尊敬する友)として重ん
- 15 一
じて居りました。 J と あ り 、 自 分 に 厳 し く 友 人 を 大 切 に す る 人 物 で あ っ た よ う だ 。
仙 石 氏 と は 、 夏 の 休 暇 を 利 用 し て 兄 力 の 遺 跡 を 訪 ね た こ と も あ っ た 。 f… 同 君 の 御 令
兄桑原力君の遺跡を訪はんがため、同君と輿に古戦場にまいりました。そして有名る
激戦地、田原坂の少し北の木場といふ地に於いて、陸軍歩兵大尉桑原力の墓とある四
角な目標を拝しました時には、共に感激に堪へられませぬでした。 J と墓標を見た時の
感慨深い風景が自に浮かぶようである。仙石氏は政の兄力について、「このころは、徴
兵制度が出来たばかりで、将校が先頭に立って進まねばならない状況で、将校が戦死
したわけで、力君も亦、或はこの不幸に躍られたのかと考えました。」としている。
技術者として
明治 1
3年 5月 8 日 25歳 に し て 茨 城 県 土 族 加 藤 木 峻 竪 の 女 直 子 と 結 婚 し 、 芝 佐 久 間
町に住むことになる。
仕事の方は、工部大学校特待生規定により、明治 1
3年 5月 初 日 三 池 鉱 山 分 局 勤 務
を命ぜられた。翌年には工作局勤務を命ぜられ、同年教授補として大学勤務も命ぜら
れ 、 明 治 15年 9月 11 日 に は 工 部 大 学 助 教 授 に 任 ぜ ら れ た 。
このころ、住友家より大学に宛てて別子銅山を開発するために担任の技師を招待す
る旨交渉があり、学生時代実地調査をして頗る有望な鉱山であることを知っていた政
は、自ら進んでその任を受けたのだ。
明治 1
6年 3月 9 日 工 部 大 学 校 を 依 願 退 職 す る 。 3月 3
1日には、住友左衛門に迎え入
J
r子 銅 山 技 師 と な り 、 今 ま で 蓄 積 し て き た 斬 新 な 学 理 と 経 験 に よ る 技 能 に よ
れられ、J.l
I子 を 中 心 と し 、 付 近 の 田
り 、 開 削 機 械 の 据 え 付 け や 、 そ の 他 諸 種 の 計 画 を 遂 行 し 、 日J
地を開拓して機会を据え付ける等、岡山今日の設備の基礎を形作った。殆どが政の創
意によるもので、その熱意と勤勉さは周囲を敬服させた。
しかし、銅価が下落し、同銅山経営も礎鉄をきたし、諸種の計画を中止しなければ
ならなくなった。政は自身の豊富理想も、暫く実行することが出来ないことを看取し、
明 治 18年 9月 15 日、自ら住友家を去った。
その頃、藤田組では、鉱山を専門とする会社を設立するために、人材を探していた。
藤田組の社員西崎氏は生野鉱山実地研修の時の様子をよく知る仙石氏を採用するべ
く、同社員川辺氏と佐渡を訪れた。
両氏は仙石氏に藤田組に来ないかと誘うが、佐渡で新事業を始めたばかりだったの
で、断ったところ、誰か紹介してはもらえないかというので、桑原政氏がいいと思う
が、彼は今住友において重要な人なので難しいだろうと話した。
しかし、政は別子銅山で失望の時でもあったため、藤田組に招待を受けることにし、
大阪(今橋一丁目)に移り住むことにしたのだ。
- 1
6 一
「藤田組 j 社 主 藤 田 伝 三 郎
桑原政の雇われた「藤田組J どのような会社なのか、社主の藤田伝三郎とはいった
いどのような人物なのか紹介しておく。
山口県萩で造り酒屋をしていた藤田伝三郎は、時代が明治にかわると同時に、家業
を捨て大阪に出て、全く経験したことのない新しい事業につぎつぎと挑戦した。
大阪府から頼まれて鋼鉄製としては日本で三番目に当る高麗橋を施工し、新政府の
鉄道当局に依頼されて大阪一京都間の鉄道建設を請け負い、陸軍当局からの注文で兵
士の履く軍靴を試作して納入し、大蔵省の次官から下野した井上馨に誘われて、総合
商社の先駆けとなる先収会社(三井物産の前身)の大阪の責任者まで引き受けた。西
南戦争では陸軍の御用達として軍靴などの軍用品などを大量に納入し、三井、三菱と
並 ぶ 利 益 を 上 げ て 一 躍 大 富 豪 に の し あ が っ た 。 ま だ 30代半ばの事だった。
しかし、贋札事件の容疑者になり、真犯人が出てきて事件が解決されたものの、世
間からは不信の目で見られるようになった。このことに関して伝三郎は一切何も言わ
ず、このマイナスをプラスに転じるべく、それまでの藤田伝三郎商社を藤田組(同和
鉱山の全身)という組織にかえて再出発をし、高い信用度を武器に、関西ーの建設請
負業者として、官営の鉄道を請け負う一方、鉱山業にも進出して小坂鉱山(秋田県)
を日本一の銅山へと発展させ、大阪では住友に次ぐ富豪までなった。
建設、鉱山を中心にした一方で、伝三郎は渋沢栄ーや大倉喜八郎らと日本で初めて
の 民 営 大 規 模 紡 績 会 社 「 大 阪 紡 績 会 社J (東洋紡の前身)を創立して、その頭取を引き
受け、大阪財界人を誘って関西初の私鉄である阪堺鉄道会社(南海電気鉄道の前身)
を創立した。さらに、三菱の岩崎弥之助や横浜正金銀行の原六郎らにも資本を出資さ
せて山陽鉄道会社を設立し、神戸から下関までの幹線鉄道を実現させた。藤田組の建
設 部 門 を 大 倉 組 の そ れ と 合 併 さ せ て 、 日 本 初 の 法 人 建 設 企 業 「 日 本 土 木 会 社 J (大成建
設の前身)を設立し、湊)
1
1改 修 会 社 を 創 立 し て 、 神 戸 と 兵 庫 の 境 界 に な っ て い た こ の
)
1
1を 、 新 運 河 ( 新 湊 )
1
1) に よ っ て 神 戸 港 の 外 に 迂 回 さ せ る 大 工 事 を 実 現 さ せ た 。 関 西
電力の前身である宇治川水力発電機を創立した中心人物もまた伝三郎である。大正の
初期、京都と大阪の電気は宇治川の発電所から送られたのである。大阪株式取引所の
幹部でもあった藤田伝三郎は、その機関銀行としての北浜銀行(三和銀行の前身)も
設立し、当初は影の頭取でもあった。
毎日新聞社の前身に当る大阪毎日新聞社もまた、伝三郎と大阪の財界が投資して発
足した会社である。
伝三郎は教育の分野にも関与している。大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)は、
f日 本 の 商 業 の 中 心 地 で あ る 大 阪 に 商 業 学 校 が な い の は お か し い J と 主 張 す る 福 沢 論
吉の門下生で『大阪新報』主筆・加藤政之助と、材木商・門田三郎兵衛らが、大阪経
済界の支援を得て創立したのである。この時伝三郎は、五代友厚や中野梧ーらととも
- 1
7 -
に設立委員を引き受けている。
伝 三 郎 の 特 徴 的 な 行 動 様 式 は 「 非 社 交 主 義 J で か つ 「 籍 城 主 義 J だったことである。
普段は会社に出勤することさえしないで、自宅に引龍ったままほとんど外出しなか
った。財界のパーティーはもちろんのこと、関係会社の重役会にさえ顔を出さなかっ
た。重要な問題が起れば、公私を間わず政府の要人に会ったりするために上京もした。
しかし、事業の前線基地であった小坂鉱山でさえわずか三回、大阪から近い児島湾(藤
田独力での干拓事業)へも一回しか足を運ばなかった。
伝三郎が外出しなくても人々が彼の家へやってきた。大阪網島における藤田邸は、
「さながら関西における公会堂 j で 「 春 夏 秋 冬 、 朝 か ら 晩 ま で 公 私 の 来 客 は 陸 続 と し
て引きも切らぬ有様Jだった。伝三郎はいちいち丁寧に彼らの話を聞いてやり、彼ら
がよく納得するまでわかりやすく意見を述べた。
桑原政が晩年事業に行き詰った時、一日網島の藤田邸に男爵(伝三郎)を訪ね、胸
中の苦闘を訴えると、「ま、そう心配するな。お前は正直すぎる。いよいよ困った時は、
何 と か 考 え て や る か ら J と優しく慰められたという。
伝三郎は、適任者と信じて責任を預けたものに対しては、いっさい委任して疑うこ
とをせず、時々報告を受けて、もし注意すべき点があれば、簡単にそれを言う程度に
とどめた。したがって、一度、伝三郎に登用された者は彼の度量の大きさに感激し、
責任の重さを自覚し、格段の熱意を持って事に当ったという。
現在、伝三郎の住んでいた本邸は藤田美術館に、本邸東にある藤田家東邸は藤田観
光が経営する太閤園(結婚式等の宴会場)になっている。ワシントンホテルなどを経
営する藤田観光は藤田別邸を椿山荘とし、箱根別邸を箱根小涌園にかえ、京都の別邸
をホテノレフジタ京都にするなど、藤田家の不動産を観光資源にすることによって事業
を成功させている。
小坂鉱山
政は、藤田組から小坂鉱山の課長として当時破格の月報百円で迎え入れられる。小
坂鉱山は、明治 1
7年 政 府 か ら 藤 田 組 に 払 い 下 げ ら れ た も の で 、 政 は 、 そ の 整 理 と 新 経
営業務にあたる。
佐渡に勤務していた仙石氏は、この年の末に官等俸給令が発せられたことで、官吏
生活が嫌になり、政と河家の狐崎氏に採用の道は無いかとの書状を出すと、両方から、
「早く来れ」との電報が来たが、桑原氏の方が少し早かったので、藤田組ヘ入ること
となった。
藤田組では、桑原氏は技師長として本庖で勤務していた。仙石氏は小坂鉱山の長と
なって桑原氏を補佐した。
払い下げられた当時の小坂鉱山は、日本でももっとも高い技術水準を持つ山で、他
- 1
8 -
の官営鉱山がほぼ赤字続きだったのに、経営状態も良好だった。経営が藤田組に移っ
てからは設備の改良などによって操業はさらに安定し、銀の生産量は官営時代に比べ
て大幅に増加した。
小坂鉱山の重要問題は、主として銀を採掘してきた鉱床が、数年後には掘り尽くさ
れてしまうことだった。ただし、かすかな望みはあった。金・銀・鋼・鉛・亜鉛をわ
ずかながら含んだ黒色の鉱床(黒鉱)なら無尽蔵といえるほど存在していたことであ
る。しかし、その品位はきわめて低劣で、精錬法はまだなかった。これを完全に製錬
する技術を得ることが必要と考えた政は、仙石氏と相談し、標本を大学の研究室や欧
米の精錬所に送り、懸賞をかけて精錬法を募集した。また、自ら研究もしたが容易に
見付けることはできなかった。この黒鉱の精錬を可能にした最大の功労者は、帝国大
学工科大学(東大子学部の前身)採鉱冶金学科を卒業した武田恭作である。彼は始め、
大森鉱山に赴任するが、 4年 後 の 明 治 26年 に 小 坂 鉱 山 に 転 勤 し て 技 師 長 を 勤 め 、 黒 鉱
精錬の陣頭指揮を執ることになり、ようやく黒鉱の精錬が可能になった。後に小坂鉱
山が大きな利益を上げることが出来たのは、政治川、ち早く黒鉱製錬法に着目したから
である。(桑原政遺影では黒鉱を黒物としている。)
五大橋架け替え工事
明 治 18年 、 大 阪 で 大 洪 水 が あ り 甚 大 な 被 害 を う け た 。 そ の た め 、 五 大 橋 を 鉄 橋 に 架
け替えることになり、藤田組が請け負うこととなるが、藤田組ではこれを設計するこ
とが出来ず、政にその任が与えられた。政は設計書を作成し英独その他諸国錨工場に
しめし、見積書を取り寄せて、その最も多低価でかつ信用のおけるものを選んだ。
そ し て 、 そ の 工 事 の 監 督 を 兼 ね 9月 3 日 藤 田 組 の 請 け 負 う 天 満 天 神 木 津 三 大 橋 改 築
の鉄材購入と欧米鉱山業視察のため神戸港より西航する。
滞欧中、余暇には各地の鉱山を視察し、その設計並びに採掘について調査研究し
た 。 明 治 21年 3月 3年 間 の そ の 生 活 を 終 え 米 国 を 経 て 帰 朝 。
藤田家における信頼はますます厚くなり、政もそれにこたえるがごとく献身的に仕
事に従事した。
大森鉱山
室町時代以来、石見銀山として知られていた山で、明治維新以降政府の管理となっ
て い た が 経 営 が 振 る わ な か っ た た め 、 明 治 20年 藤 田 組 が 全 工 区 買 収 す る こ と に な っ た 。
この鉱山は銀山と銅山があり、銀山は命脈付きかけていたが、銅山にはまだ望みが
あった。藤田組は資本を投下して新しい設備を施し、採算の合う山にかえていった。
明治 25年 1月 12 日 政 は こ の 大 森 鉱 山 事 務 所 長 を 任 ぜ ら 、 小 抜 鉱 山 か ら 大 森 鉱 山 へ
転勤することとなった。
-
19
一
政はいつごろからか、長く他の顕使に甘んずることなく、むしろ難しいことが多か
ろうとも、自ら独立して一旗揚げることを望むようになっていた。
我国工業事務所の始まり
明治 2
6年 7月 独 立 す る た め に 藤 田 組 を 辞 職 し た 翌 月 、 河 野 、 藤 井 、 山 口 、 岡 、 そ の
他 都 合 7名 の 工 学 士 ら と と も に 、 民 間 有 利 の 事 業 を 発 起 し 「 工 学 士 桑 原 政 工 業 事 務 所 」
創立した。事業内容は、建築、鉄道、鉱山、機械等各専門に別れ、それぞれが担当し
た。いわば関西の工業会の総顧問といった感じであった。しかし、その後同士は退散
していくが、政一人は残り粘り強く事業を発展させていった。
ま た 、 「 工 学 士 桑 原 政 工 業 事 務 所 J 創 立 し た 年 の 10 月 に は 豊 州 鉄 道 株 式 会 社 取 締 役
に選任されるとともに、顧問技師を嘱託されている。
明 治 32年 10月 に は 、 荒 川 天 津 領 事 の 紹 介 に よ り 、 清 国 天 津 海 開 道 台 成 宣 懐 氏 ( 李
鴻章とともに経営)の招きに応じ山東省の炭鉱視察を委託されて渡航し、江蘇省の鉱
山調査を行うとともに、農商務省の内示を受け、漢陽製鉄所を視察する。しかし、日
2月帰朝することとなる。
清戦争が始まり各事業も中止となり 1
明 治 40年 4月 、 明 治 炭 鉱 株 式 会 社 取 締 役 社 長 に 選 任 さ れ る と 、 そ の 炭 鉱 の 採 掘 と そ
れに伴う豊州鉄道の施設を計画し、実行に移した。
この頃は、戦争の影響による経済界が活発になり、諸種の事業勃興し工業所も各方
面から依頼が増加し、頗る繁忙を極め、民間の有利なる事業にも関係して少なからざ
る利益を得ることができた。
政 は 次 第 に 業 務 を 拡 張 し 、 工 務 所 を 堂 島 に 移 転 し た 。 社 名 も 「 桑 原 商 会 j と称し、
工業部と営業部に別れ、鉱山業務の相談に応じるとともに、諸機械用品の輸入、並び
に自家販売を経営し、紡績用、鉄道用機械、チーズ、エルボウ類等の重なるものにし
て、さらに独力銅山、染工場、可鍛錦織所等を経営するほか、明治製錬所所長、京阪
電鉄取締役も兼ねていた。
※ 「 工 学 士 桑 原 政 工 業 事 務 所 J は 、 後 の 「 桑 原 商 庖 J、「桑原伸鍋所可鍛錦織所」、
「天満染工場」の母体にあたる。
社会への貢献
政は、実業家として認められるにつれ社会的貢献も大いに期待されるようになった。
明治 28年 3 月 24 日 第 四 回 内 国 勧 業 博 覧 会 ( 京 都 ) で は 審 査 官 を 内 閣 よ り 仰 せ 付 け ら
れ る 。 そ の 功 績 を 讃 え ら れ 、 明 治 29年 3月 2 日 に は 、 第 四 囲 内 国 勧 業 博 覧 会 審 査 事 務
に勉励した賞として銀牌一個を内閣より授けている。
続 い て 明 治 36年 2月 17 日 、 第 五 回 内 国 勧 業 博 覧 会 ( 大 阪 ) 審 査 官 も 内 閣 よ り 仰 せ
付 け ら れ 、 同 年 12月 14 日 に は 、 第 五 囲 内 国 勧 業 博 覧 会 の 審 査 官 と し て の 職 務 遂 行 が
- 20
一
認 め ら れ 藍 綬 褒 章 ( 明 治 14年 勅 定 ) を 賜 い 内 閣 よ り 表 彰 さ れ て い る 。
そ の 後 、 明 治 38年 5月には、 5月 大 阪 商 業 会 議 所 特 別 議 員 に も 推 薦 さ れ た 。
時機は不明であるが藩主徳川公の家政評議員としても重視されていたようだ。
衆議院議員として
政 は 、 独 力 で 銅 山 経 営 を す る 傍 ら 染 工 場 と 可 鍛 鐸 鍍 所 を 経 営 す る の み な ら ず 、 3度 選
ばれて衆議院議員としても活躍した。当時の当選者を見ると、旧友の根本正も衆議院
議員としての活動を始めていた。
明治 3
1年 3月 第 3次 伊 藤 博 文 内 閣 第 ( 第 5回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 ) 茨 城 県 第 一 区 選 挙
区 無 所 属 桑 原 政 初 当 選 (43才)。茨城 2 区 選 挙 区 立 憲 自 由 党 根 本 正 初 当 選 。
同 年 8月 第 1次 大 隈 重 信 内 閣 ( 第 6回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 ) 。 桑 原 政 は 無 し ( 不 出 馬 か
落 選 か は 不 明 ) 。 茨 城 2区 選 挙 区 憲 政 党 根 本 正 当 選 。
政は、この年の 1
0月 8 日 大 阪 高 等 工 業 学 校 商 議 員 を 嘱 託 さ れ 、 翌 32年 1
0月 に は 清
国へ鉱業視察のため出張している。
明 治 35年 8月 第 1次 桂 太 郎 内 閣 ( 第 7回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 ) 水 戸 選 挙 区 壬 寅 会 桑 原
政 当 選 。 郡 部 5立 選 挙 区 憲 政 友 党 根 本 正 当 選
同 年 3月 第 1次 桂 太 郎 内 閣 ( 第 8回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 ) 。 水 戸 選 挙 区 中 正 倶 楽 部 桑 原
政 当 選 。 郡 部 3選挙区根本正当選。
しかし、政は「自今専心実業に従事すJ との新聞広告を最後に、政界との交渉を断
つことになる。
第 9回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 か ら 以 降 も 根 本 正 は 衆 議 院 議 員 と し て 活 動 を 続 け て い る 。
根 本 正 は 、 桑 原 政 に つ い て 、 「 帝 国 議 会 に お い て 、 国 利 民 福 の 大 本 を 建 議 し j として
いるが、詳細までは不明である。
実業に専念すると発言した政は、文字通り次々と事業を遂行する。
明 治 37年 桑 原 伸 銅 所 を 設 立 、 同 年 9月 関 西 商 高 学 校 理 事 に 選 任 さ れ る 。
明 治 39年 11月 栄 口 水 道 電 気 株 式 会 社 監 査 役 に 選 任 さ れ る 。
明 治 36年 京 阪 電 鉄 を 「 京 畿 鉄 道 」 と い う 名 称 で 軌 道 敷 設 申 請 を し た 当 初 か ら の 発 起
人 と し て 関 わ り 、 明 治 39年 に こ れ が 許 可 さ れ る と 、 創 立 委 員 と し て 会 社 の 成 立 に 奔 走
し
、 11月 19 日には取締役に就任した。
明 治 40年 3月 発 動 機 製 造 株 式 会 社 取 締 役 に 、 4月 明 治 製 錬 株 式 会 社 取 締 役 社 長 及 び
九州炭鉱汽船株式会社監査役に選任される。
明 治 42年 に は 、 株 式 会 社 バ ー ナ ー 販 売 庖 監 査 役 に も 選 任 さ れ る 。
実業家として多忙な日を送っていた中、同年 7月大阪北区に大火災があり、堂島浜
通り二丁目私邸は焼失してしまうという不幸に見舞われ、邸を西成郡神津村今里に移
すとことになるという出来事もあった。
2
1 ー
明 治 43年 6月 7 日 京 阪 電 気 鉄 道 株 式 会 社 専 務 取 締 役 に 就 任 し 、 そ れ が 開 業 す る と 、
その沿線に大遊園地を開園して乗客の吸収策を講じた。それが現在も残る「枚方パー
クJ ( 日 本 で 最 も 古 い 遊 園 地 ) で あ る 。 当 時 、 東 京 両 国 国 技 館 で 開 催 さ れ て い た 菊 人 形
に 着 目 し 、 国 技 館 の 経 営 者 を 招 待 し て f菊 人 形 」 を 創 設 し た 。 現 在 も 、 通 称 「 ひ ら パ
ー 」 と 呼 ば れ 大 阪 の 人 々 に 親 し ま れ て い る 。 入 園 者 数 を 見 る と 毎 年 コ ン ス タ ン ト に 120
万 人 前 後 あ り 、 そ の 数 は ユ ニ バ ー サ ル ス タ ジ オ ジ ャ パ ン に 次 い で 、 大 阪 府 第 2位 を 誇
っている。
明 治 44年 1月 17日 京 阪 電 気 鉄 道 株 式 会 社 専 務 取 締 役 辞 任 す る が 、 4月 病 気 の た め 臥
床する。
大 正 元 年 9月 9 日 永 眠 。 享 年 五 十 七 才 。 別 れ の 式 に は 、 交 友 関 係 が 広 い ば か り で な
く、多くの会社などにも関わりが多かったため、二千人ほどの人達が焼香に訪れた。
天満別院境内に埋葬される。
政の年譜を追うと学業に専念し、仕事一途の人間像が浮かぶのは私だけだろうか。
「桑原政遺影」では、政の人間についても感じ取ることが出来る分が掲載されてい
るので、その一部を紹介しておく。
交友
工部大学校時代は、仲間が詩歌散文の編修をすることになると、政は園心猛史とい
う名前で投書していた。また、寮友とは週末になると遠足に出かけることもあったと
いうと、好青年時代を思わせるが、寮の取り締まりや警備を困らせることも多かった
ようだ。
工部大学校を卒業してからと思われるが、政は有志らと友好親善を目的とする、工
学会員を中心とするクラブを創設した。
名を「工士会j とし、四通八達の梅田駅に近い静観楼(現在のサンケイピルの場所
にあった料亭。庭園に木造二階建ての洋館。)の隣地にある静観楼所有の別邸を借り受
け ( 政 の 自 宅 で も あ っ た か ?) 、 玉 突 台 他 の 娯 楽 具 を 備 え 、 会 員 た ち は 日 々 十 分 に 楽 し
んだ。また、地方会員のために宿泊の便宜を図るため数室をそれに充てた。食事につ
いては、隣家の静観楼または、その他に注文することにし、世話役の老夫妻を雇い入
れた。
毎 年 l月 5 日 に は 、 工 士 会 新 年 会 を 開 催 す る こ と が 定 め ら れ て お り 、 一 家 挙 げ て 参
加することを恒例としていた。そのような時、政やその仲間たちは仮装するなどして
皆を楽しませたという。
堂島の本邸では、度々に大勢のお客を招待し、派手でにぎやかな酒宴を催した。
常陸山谷衛門には、同郷の関係上、後援を惜しまなかったそうだ。
- 22 -
家族
家庭においては昔流の厳格な夫であり父であったが、女しげるが村山令蔵に嫁にあ
たり、 fそ な た は 今 度 村 山 家 に 嫁 ぐ に つ き 、 心 得 る べ き 候 々 は 、 良 人 た る べ き 令 蔵 、 只
今は一介の書生成れど、将来有望と見て、そなたを遣はすれば、何事も実家にありし
時の事は忘れて、記者も三等に乗り、すべての上に、倹約して、よく家を興すべし。
殊 に は 苦 労 に 苦 労 を 重 ね 、 6人 の 子 女 を 苦 し き 中 か ら 教 育 し 玉 ひ し 姑 君 に と り で は 、 さ
ぞかしそなたのようなる懐子は、御眼だるき事ならん。そなたは一通りの辛抱にて叶
うまじきぞ。されど特にそなたに申渡したき事は、たとへ知何につつましき生活をな
すとも、出るべき席へは必ず出てくれよ。一年中通どの下ばかりに通ぶって暮らすなよ。
又思案に齢る事は、いつにでも親の許へ相談にこよ。何とか考えてやらんJ と、これ
からの生活を誠めるとともに、恩愛に充ちた、人間味あふれる言葉を贈っている。
また、晩年には、昔風の父親であり夫であった厳格さは失せ、心機一転非常に変わ
ったと伝えられている。
親類に関しては、水戸市田見小路に家作を有し、姉芙雄などを住まわせるなどした。
また、母や姉だけではなく、乳母せいに至るまで養老金を年々送った。
母の喜寿の祝いは盛大なものだったという。
おわりに
京阪電鉄当時を知る後輩の太田氏は桑原政について「先賢藤田東湖先生の骨肉とし
て、よくその衣鉢を承けられ、資性閤達にして果断に富み、風采堂々として自ら人を座
する概があった。 j と、印象を書いている。
政は藤田東湖の甥である。彼の工学への道は根本正らと英学と数学を志し上京し、
藤田東湖の子で従兄の藤田健を頼るところから始まった。
政は東の藤田の血を受け継ぎ、西の藤田の大きな懐で実業家として成長したといえ
よう。
参考引用
桑原直子(編集発行) r
桑 原 政 遺 影 j 昭 和 6年 1
2月 1日
茨城県立麗史館蔵「豊田英雄からの聞き取り記録J
砂 川 幸 雄 「 藤 田 伝 三 郎 の 雄 揮 な る 生 涯j 草 思 社
1995/5/10
根 本 正 顕 彰 会 編 纂 委 員 「 不 屈 の 政 治 家 根 本 正 伝 j 根 本 正 顕 彰 会 平 成 20年 6月 30日
前 村 晃 「 豊 田 芙 雄 と 草 創 期 の 幼 稚 園 教 育 J 2010/3/1
ウィキベディアフリー百科事典「ひらかたパーク J
同 上 「 第 5回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 J '
"r
第 9回 衆 議 院 議 員 総 選 挙 j
n
/
-
qu
経済偉人桑原政君
根本正
桑原政君は水戸藩の名門に生る。父君は勤王愛国の士にして、嚢に贈位
の光栄を負ふ。母君は藤田東湖先生の令妹にして、夙に水戸撃を修め、
明治維新の際世人未だ海外の撃を顧みざる時、先見以て英皐研究、殊に
工撃に着目し、伊藤博文公工部卿の嘗時、虎の門工部大撃に入り、採鍍
冶金を修め、後大阪に於て汎く事業を開始し、欧米に渡航、文明精華を
掌握して蹄朝し、直に大阪市に於ける最大繊橋を建設するの重任を完成
したるが如き、嘗時工皐士の遂行し難きことも、君の智能と技術とに依
って賓現せしめたるのみにでも、偉人と言はざるを得ず。君は先見決断
及賓行の三大要礎を脳裏めたる人傑なり。君は明治初年英皐勉強の為め
東京に出て、牛込二十騎町に住居せる君の従兄にして且義兄たる藤田東
湖先生の長男藤田健先生の寓所より、虎の門工部大皐へ通撃の時代、余
も亦藤田先生の長屋にて自炊、同入社へ通撃したるを以て、桑原政君が
知何に非凡の皐生たりしかを克く記憶に存す。その他君は麻布我善坊に
寓居せる兄君桑原力太郎先生が、陸軍隊長の嘗時に在りても、君と余は
共に薪水の勢を執りたることあり。君は皐生時代に於て、特に英敷の科
目の主席を占めたるのみならず、慈愛の情深く、常に友誼に濃なり。加
之君の才能抜群たりしことに封し、皐友常に敬慕措く能はざりき。是れ
余が哀心より君を信愛して永く忘る〉能はざる所以なり。
明治維新以来、水戸の偉人として知られたるは、桑原政君なり。故に藩
主徳川公に於ても深く君を信用し、家政評議員として重視せられたり。
君は賓に帝国工業界の重鎮にして、又賓業家として国家経済を稜展せし
め た る 勲 功 敷 ふ る に 違 あ ら ず 。 君 は 常 に 祖 先 の 遺 司1 を 確 守 し 、 忠 君 愛 園
の士たりしは、其理由なきにあらず。君の賓兄桑原力太郎先生。賞姉豊
田芙雄先生、何れも東湖先生の血肱を特有せし家に生まれたる故なれば
なり。桑原政君は単に其の皐識才能を社曾に活用して民衆を利せしのみ
ならず、君は嚢に衆議院議員に暴げられ、帝園議曾に於て園利民福の大
本を建議し、以て明治聖代を扶翼せられたる功労も亦大なるものなり。
斯くの知く君が国家に忠賓たりし所以のもの、直子夫人の助力多大なる
を知る。夫人は水戸の大人として、又篤農家として嚢に朝廷より褒章を
拝受したる加藤木峻史先生の女にして、畢業優秀の賢夫人たり。
葱に君の二十周忌に方り、追慕の念禁する能はず。一言以て追悼の意を
表す。
出典:編集者・発行人
桑 原 直 子 「 桑 原 政 遺 影 j 昭 和 6年 2月 1 日
A﹃
2
桑ゑ忌え昼虚
安 政 3年
2月 24日 江 戸 小 石 川 水 戸 藩 邸 内 に お い て 、 御 用 調 役 桑 原 治 兵 衛 信 毅 の 二 男 と
して生まれる。幼名は政治郎。母は同藩藤田東湖の妹雪子。
5月 初 旬 よ り 母 雪 子 が 病 床 に 伏 し 、 駒 込 水 戸 藩 中 屋 敷 詰 御 膳 所 役 鈴 木 吉 兵 衛
方に里子として預けられる。
8月 19日 母 雪 子 永 眠 享 年 42才
。
安 政 5年
父治兵衛寄合差引に転職のため、一家全員で水戸市五軒町邸に移り住む。
文久元年
10月 10日 父 治 兵 衛 咽 喉 癌 の た め 永 眠 。 享 年 62才
兄力(目付役)家を継ぐ。
文 久 3年
青山延光の門に入る。 (8才)
元治元年
この頃藩論両立して決せず。加えて武田耕雲斎の挙兵あり。
兄力は反対派のため、渋田の揚がり屋に囚へられ、家族は大いに窮す。
慶 応 3年
王政復古により、兄力の閉居は解かれ、晴れて種々の修業に見を入れられる
ようになり、手塚恵進、長久保猷に就き勉学する。
明治 5年
志 を 立 て 根 本 正 、 清 水 某 ら と 上 京 し 、 英 学 と 数 学 を 研 鎖 す る 。 ( 17才)
明治 7年
4月 16日 工 部 省 工 部 寮 ( 後 の 工 部 大 学 校 ) に 工 学 生 徒 と し て 官 費 入 寮 を 許 可
される。
明治 10年
2月西南の役起こる。兄力歩兵第八連隊大隊長として出征、田原坂にて戦死。
明治 13年
5月 8 日 茨 城 県 士 族 加 藤 木 酸 受 の 女 直 子 と 結 婚 (25才
)
。
5月 15日工部大学校を卒業、工学士を授与される。
5月 26日七頭義手に任ぜられ、鉱山局出動、三池鉱山分局勤務を命ぜられる。
明治 14年
3月 26日工作局出勤を命ぜられる。
3月 28日教授補として大学勤務を命ぜられる。
- 25 一
明 治 14年
6月 9 日工部六等技手を任ぜられる。
明 治 15年
7月 15日工部五等技手を任ぜられる。
7月 21 日長女茂誕生。 (27才)
9月 1
1 日工部大学助教授に任ぜられる。
明 治 16年
3月 9 日依願退職。
3月 31 日住友吉左衛門に迎え入れられ、日I
J子 銅 山 技 師 と な り 、 採 鉱 事 業 に 従
事する。
明 治 17年
4月 27 日 長 男 毅 誕 生 (29才)
明 治 18年
9月 15 日辞職
9月 25 日 藤 田 組 に 招 か れ 、 大 阪 に 移 り 住 む ( 今 橋 一 丁 目 に 居 住 )
明 治 19年
7月 27日 二 男 信 二 誕 生 (31才)
9 月 13 日 大 阪 よ り 藤 田 組 の 請 け 負 う 天 満 天 神 木 津 三 大 橋 改 築 の 鉄 材 購 入 と
欧米鉱山業視察のため神戸港より西航する。
明 治 20年
欧米各国を視察中。
明 治 21年
3月米国を経て帰朝。
明 治 25年
1月 12 日大森鉱山事務所長を任ぜられる。
明 治 26年
7月藤田組を辞職。
8月 大 阪 市 東 区 西 横 堀 1丁 目 に て 、 工 学 士 桑 原 政 工 業 事 務 所 を 創 設 (38才)
我国工業事務所の始まり。
10月 清 国 天 津 海 闘 道 台 成 宣 懐 氏 の 招 き に 応 じ 渡 航 、 江 蘇 省 の 鉱 山 調 査 を 行 う
と と も に 、 農 商 務 省 の 内 示 を 承 け 、 漢 陽 製 餓 所 を 視 察 。 12月帰朝。
10月 豊 州 鉄 道 株 式 会 社 取 締 役 に 選 任 さ れ る と と も に 、 顧 問 技 師 を 嘱 託 さ れ る 。
明 治 28年
3月 24日第四囲内国勧業博覧会(京都)審査官被仰付。(内閣)
。
円2
明 治 29年
3月 2 日 第 四 囲 内 国 勧 業 博 覧 会 審 査 事 務 に 勉 励 し た 賞 と し て 銀 牌 一 個 を 授 け
る。(内閣)
4月 明 治 炭 鉱 株 式 会 社 取 締 役 社 長 に 選 任 さ れ る 。
明 治 31年
4月 1日茨城県第一区において、衆議院議員に当選。 (43才)
10月 8 日大阪高等工業学校商議員を嘱託される。(文部省)
明 治 32年
10月鉱業視察のため清国へ漫遊する。
明 治 35年
8月水戸市より衆議院議員に当選。
明 治 36年
2月 17日 第 五 回 内 国 勧 業 博 覧 会 ( 大 阪 ) 審 査 官 被 仰 付 ( 内 閣 )
3月水戸市にて衆議院に当選。
12月 14日 第 五 回 内 国 勧 業 博 覧 会 の 審 査 官 と し て の 職 務 遂 行 が 認 め ら れ 藍 綬
褒 章 ( 明 治 14年勅定)を賜い内閣より表彰される。 (48才)
明 治 37年
桑原伸鍋所を設立する。
9月関西商工高学校理事に選任される。
明 治 38年
5月 大 阪 商 業 会 議 所 特 別 議 員 に 推 薦 さ れ る 。
明 治 39年
1
1月 栄 口 水 道 電 気 株 式 会 社 監 査 役 に 選 任 さ れ る 。
1
1月 19日京阪電気鉄道株式会社取締役に就任。
明 治 40年
3月 発 動 機 製 造 株 式 会 社 取 締 役 に 選 任 さ れ る 。
4月明治製錬株式会社取締役社長及び九州炭鉱汽船株式会社監査役に選任さ
れる。
5月 大 阪 商 業 会 議 所 特 別 議 員 に 再 選 さ れ る 。
明 治 42年
株式会社バーナー販売店監査役に選任される。
7月 大 阪 北 区 に 大 火 が あ り 、 堂 島 浜 通 り 二 丁 目 私 邸 焼 失 す る 。
西成郡神津村今里に移る。
明 治 43年
6月 7 日京阪電気鉄道株式会社専務取締役に就任。
- 27 -
明治 4
4年
1月 17日京阪電気鉄道株式会社専務取締役辞任。
大正元年
4月病気のため臥床す。
9月 9 日 永 眠 。 享 年 五 十 七 才
天満別院境内に埋葬される。
編集・発行人
桑 原 直 子 「 桑 原 政 遺 影 」 昭 和 6年 1
2月 1日より
今〆﹄
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理事
小林茂雄
「笑い j のある楽しい人生を送りましょう。
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私は 1回笑えば寿命が 1日延びると信じることにしている
・・快活な日常、笑いの
ある日々がストレスを発散させ、食欲を増進し、皮膚の色艶をよくし、人間関係を楽しいも
のにする。 J斎藤茂太医博はこう話す。「笑う門には福来る J、「笑いは健康の素 j などといわ
0 .
れるように笑いには心身の健康に欠かせない効力があります。笑うとストレスは解消され、
強壮剤などになり元気になり、エンドルブインが分泌され、 N K
細胞が活性し免疫力が向上
します。大笑いすると血圧・心拍数が増加し、筋緊張を高め、酸素消費が増加し、交感神経
優位となります。そして笑った後には、血圧・心拍数が低下、呼吸はゆっくり、血中の酸素
濃度が上昇し、副交感神経優位となり、運動後と同じ効果となります。
笑うと免疫力は上がり、血棒値は下がり、血液はサラサラ、筋肉はリラックス、脳波はア
ルハ一波になり気分爽快、チャレンジ精神旺盛になるといわれ、良いことばかりです。笑い
を取り入れている医療・病院、笑いの効能・効果を説き勧める大学教授・著書なども沢山あ
ります。
笑いは長生きの健康五郎の一つである。
健康五則
一考
十笑
百気
千字
万歩
一考
一日一回考える 夕方今日一日を振り返って考えてみる
十笑
一日十回、出きれば声を出して笑う
百気
一日百回深呼吸する
千字
一日千字書く
万歩
一日一万歩歩く
人生いろいろあるが、困難、苦労、心配事などに直面しても、余りくよくよしないで、ス
トレスをためず、物事は良い方に解釈し、良いことがあった時、嬉しい時、楽しい時などは、
大いに笑い、健康づくり、趣味、講座、気の合う仲間との交流など、楽しく充実した毎日を
過ごしていきたいものです。
(参考) 私の現在の生活
1. 健康づくり
趣味
毎朝片足 6 0回の両足のハムストリングスのストレッチ
毎朝、犬の散歩、 (15分位)、シルバーリハビリ体操(随時)
詩吟(月 2回、教室でのマンツーマン練習、受講。コンクール出場、
3.
講座、講演会
発表会への参加、各詩吟大会の見学、毎日 2時間自宅での練習)
旅行(月 1--2回の 1泊旅行、年間 3回の 3泊旅行)
時間の許す限り、講演会、講座への参加、受講
4.
仲間との交流 参加している各会の人々との交流、現役時代の支応の人達とのー
2
.
泊しての交流、近所の人達との日帰り温泉入浴、趣味の会の人達
との交流、
(県総合福祉会館での講演「笑いと健康J参考)
- 29
ー
情熱と努力の政治家・ J R水郡線の﹁父い
明治・大正期に、義務教育の無償侶をはじめとする﹁教青立国﹂づくりに尽く
した郷土の政治家・根本正 (185111933)J その功績を調べて語り継ぞ
活動が、出身地の那珂市の人たちを中心に続けられている。今のJ R水郡線の
自由民権運動の板垣退助
らの勧めで政界入りを志
し
、 3度目の挑戦で189
8(明治担)年、必歳で衆
院議員に初当選っ i924
(大正日)年にかけて初年
問、衆院議員を務めた 3
この間、小学校の授業料
の欝止や、未成年者の喫煙
a
飲酒を禁じる法律の制定
に尽力。地元では、水郡線
の敷設、東海村村松海患の
砂防林植栽事業の推進、大
量海難事故を教劃とした高
層気象台(つくば市)の設
置などに動いた。
こうした功績を広く後世
に怯えようと、生誕150
ツチは、ほかの人も見ただ一一
ろうが、根本正にはハlト
一
に火がつく感受性があっ一
た。それをきっかけに夢と一
情熱を抱き、努力を惜しま一
なかった生き方は今でも模一
範になる﹂と話す。一
ささやかでも、常設の顕一
彰記念館を造ることが、今一
後の大きな目標という。一
(羽揚正浩)一
多いという。一
年には生い立ちから功一
績をまとめて、﹁不屈の政一
治家根本正一径を出版し一
(
ω
)
た。顕彰会事務局長の伸田一
は﹁かつて自一
昭一さん
にした西洋文明の時計とマ一
ω
て根本正を知った人は多一
く、世界平和、不戦、平等一
といった今に通じる価値観一
を早くから唱えていた先見一
性に、改めて感心する人も一一
ことから、今年は初めて市
外での顕彰フェスを計画。
かつて水郡線の大きな恩恵
を受け、地元に胸像もある
大子町で9月却日に開催す
る。根本正の生き様や功績
を、映像や講演会を通じて
伝えることにしている。一
こうしたイベントで初め一
周年に向けて1997年に
根本正顕彰会(会沢義雄会
長)が那珂市に設立され
た。約的人の会員は全閣に
散らばる。根本正に関する
調査の成果や、米国で世話
になった実業家の子孫な
ど、ゆかりの土地や人を訪
ねる旅の報告などを、年3
回発行する会報に掲載。 2
009年からは毎年、市内
で顕彰フェスティバルを開
いてきた。
市内での開催が一巡した
30
﹁生みの親﹂であることも広く知ってもらいたいと、この秋には初めて市外で顕
リスト教に出会って自由、
平等、博愛の精神を学ぴ、
苦学の末に幻歳を過ぎてか
ら米国に渡った。
貧しくても実力と努力が
あれば成功できることや、
開かれた議会政治の大切さ
も学び、その向上心とまり
めさに感心した実業家の資
金援助を受けてパiモント
大学を卒業。帰国後、海外
移民の可能性を探る圏の調
査員として、メキシコやザ
ラジルなどを調査し、のち
の移民政策に生かされた。
功績・生涯 語り継ぐ
出身地那珂市の人たち
出した英語圏の国で学ぽ?っ
と決意して上京した。
地元の水一戸藩では、天狗
党と諸生党の対立で報復が
繰り返される悲惨な状祝を
目の当たりにしていた。キ
那 珂 市 役 所 の 近 く に2
0
0
1
年に建立された顕彰碑
彰イベントを開く。
根本正は幕末の嘉永4
年、現在の那珂市東木倉の
庄屋の家に生まれた。青年
期にパリ万博の土産品であ
る時計とマッチを見せられ
て驚嘆。高度な文明を生み
ど
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事業のお知らせ
(1]根本Eフzスティパル
1 日 時
平成 2
5年 9月 2
9日(日)
午後 1時から午後 4時まで
2 会場
茨城県久慈郡大子町
文化福祉会館「まいん J 大ホール
3 内容
(1)テーマ 水郡線全線開通 8
0周年記念「根本正フェスティパル」
(2) 内 容
① 映像で見る「根本正の生涯 J
②講演
(会長曾漂義雄氏)
ア)青少年健全育成の精神と業績
(副会長仲田義一氏)
イ)水郡線敷設事業の業績
(元県立高校長 野内五美氏)
ウ)水郡線開通と大子町の人々
[2]根本Eゆかりの地を訪ねる旅
1 期 日 平 成2
5年 10月 27日(日)
2 研修先
東京都内=上野寛永寺(谷中墓地)、根津神社、六義国
3 定 員
45名
など
4 参加費用
3, 500円〈予え)
E
編集後記】
①総会も順調に終了し、今年度の事業がスタートしました。根本正の業績については、
『朝日新聞』茨城版に大きく紹介されましたが、担当された記者は「まだまだ知られてい
ませんね。このような人物はもっともっと広く知らせる必要がありますね。」との感想を
届けてくれました。そのような意味からも、今年は那珂市外に出てフェスティパルを開催
します。顕彰会の活動をより能動的にしていこうとの意気込みを見せるところです。
② 曾津会長の「日本禁酒同盟の幹部達J からは、明治初期のキリスト教への憧様、宣教
師の献身的な布教活動を再認識すると共に、英語力の偉大さを痛感させられる。日本では
いよいよ小学生から必須教科となる。それにしても、成果の上がらないこれまでの日本の
英語教育の反省を経てのことなのか、果たして成果が期待できるのかどうか。
③ 斎藤さんの「研究ノート」は貴重なものです。桑原政は藤田東湖の甥に当たる人物、
東湖亡き後東湖を街梯とさせる活躍をします。東湖の長男健を通して根本正とも深い交流
があり、根本正志一目置いていました。曾津会長の論文と合わせて、根本正研究の広がり
を進めていかなければならない使命を痛感させられるものである。
④ 参議院選挙があります。「国家の品格」、「国民の品格J が関われています。政府も丁
寧な説明が必要です。原発は無くとも電力は足りているのか、またそれは何故か。円高と
円安では、国民にとってはどちらが望ましいのか、またそれは何故か。 TPP参加・不参
加、本当はどちらがよいのか。これなどは幕末開国の判断に似ている。
それぞれの今日の課題、根本正なら果たしてどう判断するだろうか。
小林理事のエッセイのように「ゆとり j をもって判断していきたい。(仲田(昭)記〉
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1 一
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