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no6 - FC2

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no6 - FC2
中国芸能通信
-- ̄ ̄ ̄ ̄■■■■■■■■- ̄ ̄-- ̄ ̄--■■■■--- ̄ ̄--■■■■■■■■
1N0.61991.1.311
1〒221樹浜市ネホ奈川区六角橋31
I神奈川大学中園電研究室気付!
 ̄ ̄■■-■■■■ ̄ ̄■■■■ ̄'■■■■■■■■■■■■ ̄ ̄ ̄■■■■ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄■■■■-- ̄
1灘騨鐵!;蕊鍵蕊鍵i灘蕊蕊騨蕊籔灘鍵欝蕊騨鑿鱸
拐るが6会場を見渡して肝ラヒ遇[民、
曲芸家は八台(八グループ)に編成され、二台が
神奈川大学尾上謙笑
同時並行でそれぞれ劇場に分かれて公演した。AB
どちらかの系列を通して参観すれば、今回参加の曲
神奈川大学の学生の短期語学研修の引率者として、
H1雪二八月北京に赴いた折に山口Hg治氏から耳よりな
傭報を得た。秋に南京で「曲芸節」が挙行されると
いうのである。ソースは中国曲芸家協会であったろ
芸の全容を知ることになっているのであるが、予定
された演目とはかなりの変更があった。高齢者の出
演が時として中止されたためでもあろうが、そもそ
も-台の演目数が多く、二時間の公演時間におさま
り切らなかったためのようでもある。どの会場でも
うと思うのだが、許光遠氏が入院中とのことで詳細
は分からないという。早速山口氏が、旧知の曲芸家
演目力配られた形跡はないので、聴衆は来てみて舞
台に現れる曲芸芸人に満足したのであろう。中国流
の臨機応変というのであろうか。`また折角各地から
名人が集まっているので、六日間の日程のうちの空
き時間を狙って、芸術節の上演とは別に出演依頼を
した例もあったようである。それらしい広告を秦繼
協会、国簾分会の盧明副秘欝長に連絡をとったところ
突然日程の連絡があり、国外からの参加は予定して
いないが、来るのなら入場券は用意するとの回答を
得た‘主催地の事務局からのW,報なので、とにかく
行けば何とかなるだろうと、弥次聾参よろしく慌て
てヴィザの申醗をし、学期の途中でもあるので、公
演の日程に合わせて出張期間をぎりぎりきりつめて
で目にした。
芸術節の目的は「経験交流」ということにあった
ようで、いくつかのグループに分かれて座談会が開
かれた。われわれは二回参加したが、-回は「老郎」
と研究者の座談会であった。二回目は、北京大学に
留学中のアメリカ人男性、日本人女性、それにわれ
われを加えて外国人から感想を聞き出そうとする企
出国した。(日程は別記)
南京に藩いて事務局のある江蘇姻盲に連絡すると、
すぐ来いとのことで駆けつけた。すでに「開幕典礼」
が開かれているというので、遅ればせながら参加し
た。埋上の名士が次々に挨拶や祝辞を述べている。
きちんと記録しておけば、これも-資料となるので
-1-
のであろうがく曲芸本来の節度というものがありそ
画であった。
さて印象記であるが、-日に二度参観すると疲労
も重なり、日時の鋒渦とともに薄オLてきた寵憧を取
うに思われる⑤
て参観全日のヴィデオ録画をしているので、それを
眺めて当時の興奮を再H露gしたが、各鈍の方言、な
老大家では京韻大鼓の酪玉嬢氏、蘇州W、詞の楊乃
珍氏、高元鈎氏の快響、馬三立氏の単口租声が印象
まりが入り交じっているので、貧弱な頭脳の混乱を
に残った_いずれも磨き抜かれた芸の深みを感じさ
ますばかりである。
せるものであった。演目には相声が比較的多かった
「四川籟f音Iも初めてであったので、珍しさが先
に立ち、89甑rというには至らなかった.
り戻すのは容易ではない.幸い山口氏が許可をとっ
が、くすぐりで笑わせるので、ワシと羨蕊が挙がる
が線香花火のような悪じであり、出演者はそれぞれ
葵達書であるが余韻が乏しいという感想をもった。
馬三立氏の芸に対しては、ジワッーと笑いがこみあ
げてくるという反応で、この辺りに年期の相違力窺
座談会でも方言が問題になったが、『W飴家(?)
らしい人にその点をこっそり質したところ、我也聴
不憧といったので安心したがⅥ聞き取れない芸につ
いて意見をいうのは大胆だと感心した。蘇州需活の
金声伯氏は普通話(標噸霞)で語ったが、一B街二五
月に岡本文弥師匠を団長とする訪中団に臨時に参加
れているのではないかいう気がする。
概して党、党員への賛美をテーマにするものが多
して、蘇州露場で聞いたときとは印象が違った。や
はり地方性を捨象すると違和感は歪めないと思った
かったようであり、また開放政策の余波を受けた開
放的な演目もあったが--「入洞房」のように新婚
が、一般聴衆にとってはどうなのであろう。「双関
語」(掛け言葉)など、方言の妙味は微妙に変化す
初夜の各国女性の対応など、中国ではきわどいとい
うことになろう--鍛え抜かれ洗練された伝統演目
のほうに軍配を挙げたい気持ちは押さえきれなかっ
た。これは好みの問題でもあり、時事を鋭く面白さ
るのではなかろうか。地方劇種が多いのは方言のた
めといわれているが、鰭芸もおそらく同織ではなか
ろうか。普通震に置き換えられるためには、相当の
時間を要するのではないかというのが素朴な感想で
を背ヨ:tまで含めて十分理解できぬ者の無責任な感想
のそしりを免れないかもしれない。
ある。
芸術節に参加しての喜びは、旧知の演者との再会
も含まれる。路さん、馬さんの他に邪兄妹、金さん、
紹輿蓮花落のグループ等、また新たに知った人たち、
高老、石小傑氏、季仁珍女士等枚挙に霞がない。こ
各種演目のうち、初めて見たということもあり、
「二人転」の華麗な上演が最も印象に残った。八角
のハンカチを手で、足で回転させ、ブーメランのよ
うに飛ばしたり、走ったり転んだり、なかなかにぎ
やかな芸である。もともと話芸は語りで聞かせるも
のなので、しぐさが過度になると興味の持ちかたも
れらの曲芸家が同じ飯店(ホテル)に滞在している
のであるから、聯歓会で紹介された人を宿舎に訪ね
変わってくる。中国のiiiBluの系譜を辿れば、元鼎騨H1
以来の正統派は別として、人形劇から人間の劇へ
て新交を結び、また旧交を唾める絶好の擾会でもあ
る。連日連夜の公演参観で疲れ、その掻会を利用し
なかったのは今思うと`、残りであるが、私につきあ
って訪問を遠慮した山口氏には気の毒であったと反
かろうか。あるいはすでにその域に入ろうとしてい
省している。
民謡の対喝から演劇へ転化したケースが考えられる。
「二人稜」も演劇に転化する可罷住をもつのではな
座談の進行では小発見をした。二六日の場合、出
席者が順次発言したあとで栄高薬氏が講話をした。
愛国か愛民かといった趣旨は余り理解できたとはい
えないが、座麟会が偉い人の鱗話でしめくくられる
というのは、「延安における文芸座談会」が毛主席
の「講話」で閉じられ、それが文芸の方向を定めた
るともいえそうである。「南音」をかつて歴門で見
た時に、対唱、対白にしぐさが加わり寸劇のような
印象をうけた一一シンガポールの「禰唱」は座唱な
のでしぐさはないが、彼らは劇団に所属していた-
-.今回はしぐさに重点はなく、これが正統であろ
うと感じた。「操長補短」で、いろいろ工夫される
-2-
3)相声「我是測絵兵」
456789u
唐文光
京韻大鼓
相声「遊楽夢」
故事「尋人啓事」
相声「華山群英」
評書[武松打店」
対ロ単絃「傾圏新曲」
》 》 韓亟
ともあれ、二五息n余の曲芸形式を一時に見る機会
に恵まれることは多くはあるまい。また、蕊jH評弾
学校の在校生という新進から中堅第一腺の脂の乗り
きった葵逮妻たち、枯れて肉体を感じさせない至芸
の境地に達した老郎と、閥の厚いことを目の当りに
したことも大収穫であった。華南からは温ソH鼓詞、
南音が参加したが、芸種はまだまだあるに違いない。
開催地との関係で、今回は長江沿岸にやや偏ってい
たという感じがしないでもない。この地域の曲芸で
(解放軍女工隊)
牽糯辨港糯慰
たるような気がした。
張迎祷洋
快板轡「軍営新歌」
JJJ1JjJ
というのも、こういう雰囲気であったろうかと麗手
に納得した。間違っているかもしれないので博雅の
士の御教示を仰ぎたいが、臨席していて何か思い当
10月23日(火)19:30~21:45
延安劇場
(第八台)
は弾詞が中軸であると印象づけられた。
1)弾詞開繍「碧螺春爪」王建中仲蔚蔚
2)徐州琴籍「王二通家」蒋麗侠魏雲彩
今年の五月には天津で曲芸節を開くと、北方曲芸
学校の王済校長から予告があった。場所柄からみて、
華北の曲芸が主となるのであろうが、今回上演され
なかった芸極も多いので楽しみなことである。日程
や内容についての情報が得られれば、本誌でお知ら
せする予定である。こうした機会に日本芸能の研究
者が参加されると、日中芸能の交流史に新たな局面
が開かれるのではないかという期待もある。
なお、今回は日程の都合で、二八日公演の二台分
を割愛せざるを得なくなったのが邊念であった。今
回の経験に照らして、次回は週漏のないことを期し
たい。目くるめくという感じで、折角の参観が十分
に生かしきれず、報告も隔靴掻痒の盛を免れないの
は申し訳ない次第であるが、そもそも-度ですべて
分かろうというのは無理な注文であると自らを慰め
張巧玲
樹明坤
3)揚州評話「圃府」
4)山東決瞥「路打不平」劉翻岡
5)蘇州弾詞「智斬安徳海」呉迪君趨麗芳
6)相声「150844」李国光梁尚義
王麗堂
7)揚州評露「武松」
8)揚州弾詞「送花楼会」顧詳李来
金声伯
9)蕊ナH用鬮舌「包公」
楊魯。悟韓B、成
10)相声「連隊楽」
安永生尹卓林
10月24日(水)14:30~16:45
延安劇場
ている。ただ、雑鑑「曲芸」露L上で、文字から想像
(第六台)
胡希華劉明霞
1)河南堅子「算卦」
2)揚州評話「教場比武」黄俊章
黄霞芥
3)弾詞開繍「味梅」
4)相声「比丈夫」*馬璽路劉際
5)京東大鼓
京甑大鼓「人民解放軍占領南京」湯敏
していたのが一面的であったという発見は最大の収
穫であったと思っている。陳腐な諺であるが、「百
閃は一見に如かず」を報告の結びのことばとする。
10月23日(火)14:30~16:45
人民劇場
6)
(第七台)
7)
1)河南堅子「魂系南海」王莉王鄭光
葉景林
2)評書「孔雀開屏」
8)
-3-
爾雍…」.露I霞か
単絃「地下蒼松」
蓮花落「阿Q与辮子」*俔斉全
巳◆
‐
10)
11)
睦月蛾
揚州評話「陳毅進書」恵兆竜
相声(遼寧)「誰鯉女子不如男」金炳昶
6)弾詞開篇「唱支山歌給党聴」沈燕ヲi5
7)藤ヅH評話「荒唐県令」周玉峰
8)京駒大鼓「虎帳譲兵」種玉傑
9)湖北小曲「南鳳突囲」*何忠蕊
10)相声「歌的故事」*邪瑛瑛劉立新
u)四川揚琴「澆花夫人保成都」*田茂君
常鳳業
10月24日(水)19:30~21:45
南京市体育鐘.
(第一台)
主鉄軍
1)弾詞小合唱「絲網之郷」蘇州評弾学校学生
12)京蘭大鼓堅主笙
2)譜劇「抓壮丁」沈伐
3)単絃「体埋新曲」
樹子春史林
4)蘇州評話「石秀売肉」*全戸伯
5)揚州清曲「歌吹毎鍔州」季仁珍
6)相声「録音蔵諦内幕」石小傑李世明
10月Z7日(土)19:30~21:45
7)四川清音「摘海薬」「金銀塔」程永玲尖
8)山東快書「小段築錦」高元鈎
2)相声「徴婚啓騨F」尹卓林呉慶瑞
3)弾詞開篇摩福的晩年」鄭桜
4)揚州評話「武松打虎』李償堂
5)京駒大鼓「大西廟」王哲
6)弾詞開篇「索iiE月」場乃珍
7)湖1回泙留「mHj謎理事」何iFi昌歓
8)四川清音「峨蝋茶」「小放圖騨E」
9)相声「入洞房」師勝傑子浮生
秦繼目、場
(第四台)
1)四川揚琴「船会」劉時蕊万i8K孫雲全
(煤砿文エ団)
張引i鰐祥
9)相声唾与歌」
11)評懲「第一次接吻」劃蘭芳
10月25日(木)19:30~21:45
人民大会堂
(第二台)
1)好来宝(内設)「騰飛的駿馬」道'『;吉仁欽
2)上海説唱「山」*「金銀j答」黄永生
*印の台木は涜料として入手した。ビデオとと
もに事務局にあります。賛
3)二人転「猪八戒拱地」李雷李暁霞
4)評欝「事故的故事」田迎元
邪姿芝邪晏春
馬三立
5)弾詞「楊乃武」
6)相声「片段」
7)相声「学習」
豐塗醤::汗ジミ会書記曇
白樺2M妹
8)京筒大鼓「人民解放軍占領南京」藷玉笙
発表者:孫玄齢氏
題目:語り物音楽からみた中国語と音楽の
10月26日(金)19:30~21:45
関係
簗i働倒場
日時:12月21日(金)6:30-8:O0pm
(第三台)
場所:法政大学富士見校舎80年館7F中会
1)山東琴書「冤家親」挑仲賢楊柏
職室
趨栄郷魏務良
【報告概要】
2)弾詞開篇「憶秦蛾」「婆山関」徐祖林
3)相声(湖北)「説与唱」陸鳴趙衛国
4)温州鼓詞「山路」
中国霞は戸・韻・鯛からできており、声・韻は発
音の正確さと関係し、認は旋律と関係する。この三
つの部分は露U物音楽において大切であるが、旋律
王含華陳守鏡
5)蘇ナH弾詞「北劇Z河毒相見君」潜祖強
-4-
いう。その歌いかたの特徴は“字TE睦同”(歌詞は
に関係する鯛は特に重要である。
中国語と音楽は古くから注目され、その関連で韻
欝が書かれたが、それには二つの系統がある。一つ
は、平灰系統のもので、詩を作るときに利用された
ものである。そこで、詩を吟鋪する場合には平灰に
正確にふしは美しく)にあり、これは四声とも関連
従って行い、平声の字は低く、、(声の字は高く吟ず
ある。これも北京語で演じられるが、歌詞の中に襯
している。
もう一つは、北京単弦であるが、これはもともと
清代の八旗が演じていた子弟書の流れをひくもので
字がよくでてくる。
る。民謡の中でもこれに従って歌われる歌もいくら
還後に快板書を紹介する。これはすべて歌でなく、
かある。
リズムに合わせて語るものである。ふるくは乞食が
もう一つは、元の頃から四声系統の韻欝が醤かれ
だした。曲の中に、.四声をとりいれて表現するため
この芸を演じていた。
に、以前より複雑になってきた。そこで、いうUVにす
一一一快板書以後はビデオを見ながらの紹介であっ
れば優れた曲を作ることができるかという、曲諭が
多く著された。実際、楽譜に従って歌ってみると微
たため、活字化しにくいので割愛させて頂きました。
また、報告の内容も、実際はテープを聞いたり、孫
妙な旋律を表していることがよく分かる。
氏自身が実演されたりで、もっときめ細かいもので
四声をとりいれた曲に関して様々な意見力窺れた
が、とくに代表的なものとしては、昆曲に対する明
代の相対する二つの主張であった.一つは湯顕祖を
代表とする鬮Ⅱ派で、歌詞と四声を割と綬占Pかに結
び付け、音楽性よりも文学住を重視すべきだという
主張である。いま一つは、沈瑠を代表とする呉江派
で、歌詞と四声を厳格に結び付け、文学住より音楽
性妄霞U2せよという主喪であり、湯頴担の歌詞では、
したがく紙面の都合上記録者がその概要を記すにと
どめました。ここにお詫びを申し上げます。
記録者:氷上正
》一
百大
一一議
章蒜
歌うことができないと言及した。
しかし、実際のところ湯顕祖の作った昆曲は、十
分歌うことができるが、これは芸人の力鐡によって
歌詞をどのようにも歌うことができるからである。
すなわち、音楽によって言葉をいかに表現するかが、
け」
早稲田大学演劇Np物館細井尚子
寒風肌を刺す北京で年もおし詰まった12月20
日、中国京劇院、北京京劇院、中国戯曲学院、戦友
京劇団、上海京劇院の合同公演「魍鳳呈祥」が公演
された。場所は北京展覧館劇場。約半年間の箪臓を
要したという「紀念徽班進京二百周年振興京劇観摩
研討大会」の開幕式である。私は21日にやっと北
京入りしたのでこの舞台はみられなかったが、張飛
役の童世海の被りものが外れてしまい、約十分間幕
を閉じて芝居を中断したとか。もちろんテレビのニ
ュースではこの公演と記念活動の開幕について何度
か報道されていたが、そんなハプニングには触れな
かった。しかしこの芝居中断という出来事、「さも
ありなん」と人を納得させるほど、今大会は何だか
バタバタした感じがつきまとっていた。
芸人にとっては重要なのである。
芸人は、様々な音楽的方法によって語りものを作
り出している。わたした色が、通常研究する語りも
のといえば、北京のものと蘇州のものであるが、-今
から紹介するのもこの二つの地域の語りものである。
まず蘇ヅHの評弾であるが、これは蘇州語独特の柔
らかく<美しい言葉にぴったりとする語りものであ
る。徐麗仙の演じる〈情深><新木田i辞>にその特
徴がよく表れ、ことに後者のほうは、その詞の意味
がメロディーでよく表現されている。
次に北京の語りもので、京韻大鼓を紹介するが、
これは北京語の美しさをよく表しており、なかで話
すように歌うところがある。これを“半説半唱,,と
-5-
b
qO
-.--- ̄--
I.
これには不満が集中したらしく、高占祥氏の「素晴
らしい演目は第二輪(12月27日-1月2日)第
三輪(1月3日-1月12日)に集中しており、チ
ケット販売方法を改良するとともにすでにチケット
のない「紅灯記」などは今後も公演するようにする。
この記念行事は年を越して1月12日の閉幕式「
名家演唱会」までの24日間を会期とし、公演、展
覧会、学術討論会、関係脅籍の出版などの活動が展
開された。毎日夕夜2本の舞台中継、紀念委員会の
記者会見、また京劇の名優達や各流派の紹介番組な
」という談話が報道されたほど。(北京日報12月
30日版)しかしこの談話、:第一輪の参加団体には
どもテレビで放映され、新聞にも関連記事が必ず複
数蔵っていた。木大会の目的の一つである「宣伝」
の効果はかなり著しく、演日、関係者とか芝居好きの
人打以外の一般の人々にも、この記念行事のことは
失礼だし、いかにもお役所的である。
公演は参加団体力Y46寸演目は120余りにのぼ
さて、規模の上でも力の入れようでも芸術節や各
種記念行事とは桁違いだった本大会の意義・目的・
(高占祥氏談)で、年齢が高く、舞台の少ない名優
杜近芳、尚長栄、李鳴盛、王金瀦、関粛霜、何玉蓉
等諸氏も若い6鰹とともに芸を競った。劇場は民族
宮繼、人民劇場、吉祥戯院、首都劇場、北京市エ
人倶楽部、中山公園音楽堂、し中国青年芸術劇場、北
京展覧館劇場(開幕式のみ)の9ヶ所、毎日数ヶ所.
った。(需iIIは別紙リスト参照)拶纒も「四世同堂」
割合浸透していたようである。・
内容等について報告しよう。
まずその意義.目的について、徹]Hf進京200周
年紀念委員会主任・中央文化部副部長の高占洋氏が
インタビューに応えて述べたものからまとめると(
人民日報9月13日版参照):「200年前入京し
た徽班は一世を風廓、その後約半世紀余りの間に他
で公演が行われていたので、「どれにしようか…
。」という賛沢な悩みを味わえた。私の見た範囲で
“‐lⅢ旧I‐11‐細川Ⅲ!Ⅲ1いhll1即I’‐liIIlIlIl‐11‐IiIIil1I‐11‐,111’1’111‐1111
は、「宇宙鋒」の杜近芳氏汀r李逵探母」の尚長栄
氏、秦腔の「戯妖」、戦友京劇団の「将相和」張春
劇種の長所を吸収、融合し、変容、発展してその偉
大なる子孫である京劇が誕生した。」こ(術dfE入京2
00周年を護う理由)「特定の民族文化はその民族
の労働と生活の歴史の結晶であり、その民族の成員
間を結ぶJ心理的、精神的紐帯である。従って民族の
優秀なる文化を向上させることは、民族精神を奮い
華の「時遥艫」、大連京劇団の「九江ロ」などに
久しぶりの満足感を与えられた。~
展覧会は恭王府で行われた。了恭王府は博儀の祖父
の甥にあたる突祈(和碩恭忠親王)の住居だった所
で、戯台と花園があり国家重点文物保護単位に指定
されている。この花園に配された部屋を展示室とし、
たたせ、民族の自尊、を高め、民族の結集力を強め
る上で重要なのである。京劇は中華民族文化におい
て最も代表的な芸術であり、.…略・…今回の
記念活動で京劇の振興、宣伝、普及を行うことは、
「徹〕Hf進凉至京劇形成」(1790-1850頃)、
「京劇的成熟与発展」(1850-1942)、「
京劇的推陳出新」(1842-現在)の三つの部分
に分けられた展示が計12室あった。これは紀念委
民族の優秀なる文化をさらに高め、社会主義精神文
員会が主催で中国芸術研究院戯曲研究所が担当した。
明を建設するという中央の呼びかけを具現化する-
つの重要な施策なのである。.…略・…ゆえに
写真やパネルが多かったが、楊鳴玉(1815-?
昆曲丑脚の§鰻)の水衣(衣裳の下に着る肌漬)
今大会は単に京劇界における事なのではなく、我国
人民の文化生活においても重大な行事なのだ。」と
いうわけで、今回の大会は中央文化部、北京市政府、
北京市文化局等の国の機関が深く参画していた。特
に公演のチケットはその大部分を文化部がおさえて
おり、客席は半分位がいつもあいているのに、劇場
の入り口ではチケットのない人々と彼らをめざして
集ってくるダフ屋でごった返すという有様だった。
や清代に宮廷惇出入りする際用いた腰牌、宮中の舞
台で用いた衣裳などもあった。何といっても衝撃的
だったのは古への梨園公会にあったという壁画であ
る。これはケースに入れるでもなく、実物をそのま
ま壁に掛けて展示していた。担当者は参観者が手で
触れ,るし、乾燥しているので痛んできたと困ってい
る様子だったが、余りにも大胆な展示方法だった。
-6-
’
鶏謹蕊蕊議雲
スチームのない展示室は、参観に約一時間半を要す
るので、恭王府を後にする頃にはすっかり凍えてし
まった。
学術討誼会は中心テーマを「京劇の形成h発展の
れて挙行された今大会、題Fとも総括し、何らかの
歴史と芸術の鶏成を基に京劇擾輿の途を探る」とし、
京劇形成の歴史的過程、徽遜の性質と特点、京劇形
形で残してほしいと思った。_
成における漠調の作用、及び京劇の演目、演技術、
音楽、立ち回り等各方面の特色、重要な俳優と流派
公演参加団体と演目(資料)
の分析、京劇の観客のfN里、劇団管理等かなり広範
囲の諭文が集まっており、大会後爵i文選集を出版す
ただし演目(特に一幕物)は変更なども行われてい
る予定という。12月28日の北京日報にばく巖中央
たので全部を網羅していない。
政治局常委の李端藻氏が学術討麓会上で述べた長い
5.京劇演目の整理と創作
中国京劇院「紅灯記」「楊門女将」「白毛女」「
宝麺灯」「四郎探母」「武則天験事」「玉樹后庭花」
「宇宙鋒」「時遷倫鶏」「虹寛関」「目蓮救母」等
北京京劇院「趨氏孤児」「画龍点購」「黒木国」
「大奥外伝」「智闘」「棒打薄情郎」「坐富」
北京市青年京劇団「昭君出塞」「小宴」「望江亭」
「文昭関」等
6.京劃人材の選抜と育成
天津市i嵐出団(天津H冠崗劇団、天津H冠;(劇三団、天
7.京劇院b団の調整と改革
津青年京HMI団で鰯成)「大保国・探皇陵・二進宮」
「六号門・売子」「三盆口」「望江楼」「文昭関」
「桃滑車」「秦香蓮」上海京劇院「盤絲洞」「白
談話が掲栽された。その内容は、
1.京26Mは中華民族文化の珍貴な宝である
2.京劃が直面している問題と鰻会
3.京劃伝統の継承と発展
4.京劃芸術の普及とレベルアップ化
8.心を合わせて京劇を振興する
以上はまさに学術討論会のテーマと重なっており、
「学術」というと実践から離れた理論的な討論会を
連想させるが、本学術討論会は実践、現状と密接に
蛇伝」「李逵探母」「臥龍吊孝」T五台山」「火凰
結び付いたものだろたようだ。諭文選集の刊行が待
上海島劇団「十五賞」
たれる。
中国戯曲学院「契丹英后」「春闘夢」「六月雪」
「強項令」「八大錘」「天女散花」「函花蕩」
鳳」「銀屏公主」
さて、関係欝籍の展示と販売は梨園書店で行われ
戦友京劇団「呂布与詔蝉」「将相和」「時麗lmi鍋」
た。出版された書籍は『中国四大名且』許姫伝、許
国航、胡金兆他撰、河北人民出版社90.7、等『
「万花亭」「笑秦庭」
香港創腕霞京昆劇団「大英傑烈」
山東省京劇院「将相和」「状元媒」「秦書蓮」(
台湾新生代劇坊と合同公演)‐
青島市京劇団「火焼袈元慶」
烟台市京劇団「望江塵」
雲南省京劇院「盗庫銀」「伯牙砕琴」「戦洪州」
中国京劇服装図譜』中国戯曲学院撰、認元傑絵、北
京工雲美術出腫社90.11の他、臓譜関係の学
術轡響s数種あるという。
最後に今大会の徽章についてbこれは古文字の「
京」の字をデザイン化、上半分に伝統演劇の特徴で
ある水袖を用いる人物を、下半分を門にし、北京城
と京劇の舞台を表す。北京城、京国Ⅱ、i闘旺E進蒙の三
厨のイメージを持たせているそうだ。また背景に輝
く星は蕊狂入京以来の200年、各劇極がさんさん
と輝いてきたこと、又京劇が擾輿、発展する未来を
描いたという。デザインは劃杏林氏。
「南囲血碑」
内蒙古京劇団「北国情」
廿粛省京劇団「盗御馬」「i藤i圖戯Z9L」「徐策鉋城」
「孫悟空借扇」「覇王別姫」
寧夏回族自治区京劇団「Hii碑」「乾元山」「除三
-7-
夛震ゴヒロヮ「ニニノ、。=」
害」「断構」「釣金魚」
を呵霞‐司苣
吉林省京劇団「火焔山」
田大学岡崎由美
吉林忽fdii曲学校「圏家庄」
江西磐5京劇団「突祖廟」
江蘇省京I、屍「宝燭記」
江蘇省南通7筋(劇団「端午門」(徽劇)
●
安徽省徽劇団「水掩七軍」(吹腔)「貸妃酔酒」
(青陽腔)「突剣飲恨」(二黄)「臨江会」(西皮)
祷陽京劇院「雁蕩山」「古城会」「両狼関」
大連市京劇団「九江ロ」
河北省京劇団一団「八仙過海」
知ったのは、84年に遼寧へ留学してからのことで
ある。ラジオの放送でも、今なお根強い人気の評話
河北省唐山同扇ぐ劇団「&離職E」
や既に幻の芸能になりつつある東北大鼓と共に、二
河南省京劇団「戦宛城」
陳西省京劇団「別宮祭江」「生死恨」
人転の演目が頻繁に流れていたが、実物に接する機
陳西省戯曲研究院「打鎮台」「断橋」「殺廟」「
や茶館でよく演じられていたと聞いたが、私が滞在
桃園」「戯妖」
陳西省西安易俗社「虎口縁」「蔵舟」「走雪」
していたころ、劇場は話劇と京劇ばかりだったし、
茶鎗は喫茶店に変りつつあって、二人転の上演は開
侠西省西安市五一劇団「侮路」
店休業という有様であったらしい。農閑期には、二
断江省京劇団「明末遺恨・雪夜訪卿」
人緩の業余芸人が農村を回るという話も聞いたが、
断江婆劇団「対諜」「拷打・提牢」「輯門斬子」
断江省捕江県劇団「打電分家」,
漸江省東陽市萎劇団「三打王英」
塁趨江省崔木斯京劇団「超王与無容」
湖北省京劇団「徐九経昇官記」「薬玉廟伝奇」
怠け者の感は、情報を収集して農村で張り込むこと
掴北省漠BIl団「宇宙鋒」
を聞いたので、中国曲芸家鰹会遼寧分会の馬力先生
武澳市漠BBI研究院「宇宙鋒」「秦瓊表功」
武漠漠EOM院「璽台別」
武漢京劇院「洪荒大裂変」
湖南省京劇団「下欝殺惜」
に連れていって亙った。お恥ずかしい話だが、なに
せ東北に来るまで、二人転の存在すら知らなかった
新劉烏魯木斉市京劇団「西天飛虹」
出版されている今さら、とんだ受け売りになりそう
台湾新生代iM坊「秦香連」(山東省京劇院と合同
公演・王海波女史が包公)
北京il弱く劇昆曲振興協会「詩画聯姻」「廉錦楓」
「打神告廟」「昭君出塞」「麺、:嫁妹」
だ。
中国京劇院・北京京劇院・江藤省京劇院合同優秀中
される四つの種類がある。「単」は-人の演者が一
東北地方に、「二人綾」という芸能があることを
会は;なかなか無かった。以前は、溶陽市内の劇場
はおろか、街中をめぐって、二人転をやっている茶
館を捜す根性すらなかったので、なんとなく「棚ボ
タ」を待っていた。
そのうち、鉄嶺で二人転を上演しているという話
ド素人なので、鉄嶺市民間芸術団の方に、あれこれ
教わったものの、既に、二人転の解鋭欝や作品集が
二人転というのは、解放以後の命名だそうで、今
でも、「鼠BNI戯」という呼び方もされている。一口
に二人転といっても、広義には「単双群戯」と一括
人称で語る「単出頭Jのことで、単ロ相声の要素を
青年俳優公演「四郎探母」
持つ。「双」は「双玩露児」で、これが狭義の二人
伝である。男女一組みが掛け合いで演じるもので、
-人が何人もの役を一人称で取つ換え弓1つ換え語る
ほか、三人称の鱒談的要素も入る。形式は、いわゆ
-8-
るマクラに当たる「21幅」「説ロ」と本題の「正文」
チを新体操のように自由自在に操っているのを見て、
から成る。私が見たのは、『梁山伯と祝英台』の一
幕「十八里相送」で、古典的衣装を着けた男女が登
場し、結構大きな振りで、舞台を動き回っていた。
これのことかと思づた゜外に、電気照明の無かった
昔は、七つの抽灯を載せて、灯を消さずにトンボを
東北の農民は、動作が派手で、視覚を楽しませるも
たとのこと。雑戯の要素も豊富で、とにかく見てい
のを好むと聞いたが、そのせいか、「戯曲」と中国
て飽きない、にぎやかな芸能だ。
でいう「曲蕊」の合いの子のような印象を持った。
二人輯の来源は、河北地方から東北に流れてきた
人々が伝えた「蓮花落」と土地の「狭歌(田植え歌)
切る「七蓋燈就地十八猿」といった派手な技もあっ
女:書、鋼B門前mlB-楳槐野1
男:一対児欝生’1K出湯来1
」が結びついたものと聞く。五大主要曲調の下で、
女:前辺走的梁山伯畷。〆
穣々なメロディのパターンが、場面にふさわしく配
男:後辺走的祝英台野。 ̄‘‐
されるわけだが、洗練された伝統戯曲のように、「
喝」の真髄が分からないと通とはいえないといった
女:三年前草橋亭上曾結拝冴。~
鍵しいものではなく、観客は、とにかく軽快なメロ
男:他二人朝夕相処両無糖冴。
という三人称の「喝」は、(
ディに乗って、滑稽な掛け合いや地ロ、愉快なしぐ了
男:賢弟I
さを楽しんでいる様子だったし、「唱」の味わいなJ
女、:梁兄!
ど到底聞き分けられない外国人の私でも、上演中何~‘
度も繰り返される「秩歌」のメロディは、今も耳に;ザ
残っている。曲のバリエーションが多く、規制が少~趣
といった呼びかけから、お互いが梁山伯と祝英台に
扮しての、対話風の掛け合いに入っていった。「十
八里相送」はもともと登場人物が二人しかいないが、
ないので、流行のポップスでも取り入れられると開灘
もっと多くの人物を扱う演目でも、このように、三
いた。それが、いいか悪いか、私には一概に判断が-町
人称から一人称へ、ある役から他の役へと、自由自
下せないが、ともあれ、やろうと思えば何でもやつf$
在に変化するものという~
ちゃいますよ、と.いうのが二人輯のノリの良さらし~翼
い゜--←’γ芥
「単双群戯」の「群」は、民間歌謡であり、,「戯」
は、-人が一役になりきって、一人称で演じる「拉
場戯」を指す。劇場で演じたものは、前座に「単出
頭小中トリに「双玩藝児」、大トリに「拉場戯」、
適度に歌謡を配すといった構成だった。鉄嶺で見た
「泣場戯」は、現代作品で、都会に憧れる農村娘と
結婚詐欺の都会青年のドタバタを描いたものだづた。
こうした二人軽の人材養成は、団の中に訓練鉦が息
ある外、吉林省には、二年制と専科の養成学校があ「鋳
るという。募集は、変声期以後の人物を対象に、適升:
正テストを行う。芸術団の団員は、固定収入がある.
わけだが、退職した老人や、「紅高梁唱手」と呼ばゴ
れる業余芸人の稼ぎ時は、春節と秋の収穫期で(裕
頬を真っ赤に塗った、いかにも田舎娘のカリカチュ
福な農村では、こうした民間芸人の曲芸班を招いて
アという女性演者が、ディスコに行こう、と叫ぶや、
が、娘の珍妙なダンスに、場内は大ウケで、やんや
演じさせる。当時の相場で、-幕60元、一般に三
幕を行なうので、180元といったところだが、奮
発して-幕120元ということもあるとのことだっ
の喝采だった。
た。
二人転の五大要素というのが、「説・喝・扮・鐸
・角」だそうで、まさに娯楽のてんこ盛りのような
芸龍である。<「角」というのは、四枚の竹板やハン
する賑やかさは、まさに民間のもの。照明がなけれ
ドラムとエレキギターががなり出したのには驚いた
耳から目から、徹底して客に娯楽を提供しようと゛
ば、それも芸にしてしまい、京劇が流行れば、その
曲を取り込んでしまい、ディスコもまた然叺アド
リブで聴衆に話しかけ、歴史上の文人も宰相も農民
言葉でわかりやすく喋ってしまうのが二人転の身上
カチを操る芸で、「ハンカチをくるくる回したり、
飛ばしたりする」と説明を受けたものの、よく分か
らず、結局、舞台で、女性演者が踊りながらハンカ
-9-
■心
そして中国文化についても根本的には玄人となり得
ない多重素人の我々が、全身異文化まみれにならな
ければ不可能な伝統演劇の上演においてぶつかった
幾つかの問題、それが今後、京劇、中国戯曲、そし
である。どう転んでも、 ちゃっかりと生き残っても
らいたい。
露
'て伝統芸能そのものについて思考する際の糧となれ
{ぱ、高すぎた入場料金のわずかながらの還元になる
識
と思ったからである。
フ寺重麗、」ニミ震越壱三億言已
物語以前一一舞台の歩き方
早稲田大学大学院演劇科平林宣和
役者の「花」の有る無しについての観客の判断は、
意識的であれ無意識的であれ、大脳を経過していな
いのではないかと思えるほど騨涛に行われてしまう。
役者は舞台に歩み出た瞬間、キャラクターとして物
語の世界に参入する手前で、すでにその残酷な視線
「台上-秒鐘、台下三年功」という言葉があって、
演劇当討交の教室の壁などに、今月の目標風に貼られ
ているのを何度か見たことがある。表現が時折「台
上三分鐘」や「台下十年功」に入れかわるあたり、
に晒されるわけだが、特に京劇のような伝統演劇の
場合、この役者の身体があらかじめ備えるべき匿名
口訣というほどの威厳もなく、やはりどこか評語総
の表現力とでも言うものの有無が、天賦の才よりも
としているのだが(由来をご存じの方は教えてくだ
訓練の多寡、程度に依存する度合が大きいように思
さい)、ただ戒めの言葉としては至極もっともで、
京劇役者の修練の凄まじさを知っている者なら、舞
う。ただ、立ち姿だけであれば、素人でもなんとか
ごまかす余地があるだろうが、歩き出したらもうだ
台に立つには数年単位の厳しい修行が必要ですよ、
めで、訓練を受けた役者かどうか、どの$劃度修練を
という意味のこの言葉、誰もが納得のいくところだ
積んだかがたちどころにばれてしまう。その意味で、
ろうと思う。
全面的:111線不足は今さらいうまでもないし、「花」
この言わば「常識」を敢然と覆す、というほどの
を云々できるレベルでもないのだが、我々の舞台を
積極性もなく、むしろほとんど気にとめる様子もな
多少なりとも京劇風にするために、もう少し練習し
いまま挙行されてしまったのが、昨年(1990年)
ておくべきだったと今にして思うのが「圃場」であ
11月の京劇研究会による公演、第二回「京劇に親
る。T
しむ集い」である。副題に「日中青年俳優による、
日本語と中国語の共演」とあるように、日本人と中
圃場というのは中国の各地方劇にも共通の台歩(
歩き方)の-種なのだが《筆者の知るかぎり、この
国人の役者の合同公演という形式をとり、秘もメン
圃場には少なくとも二つのレベルの意味がある。-
バーの-人として、全8演目のうち3演目(盗仙草、
日本人側の半分以上が舞台経験すらない素人ばかり、
つは文字どおり舞台上を円を描いて歩き回ることで、
この動作は日本の龍と同様、躍護の長短にかかわら
ず物語の中技法そのものを指す場合である。京劇の
さらにはほとんどぶっつけ本番という有様だったの
舞台を-度でもご覧になった方ならば、膝から下を
で、わざわざお金をだして見にきてくださった方々
忙しく動かしながら、しかも上半身にその揺れを現
御馬監、覇王別姫)に参加したのだが、実をいうと
には大変申し訳のないことをしたように思う。
さず、滑るように移動してゆく例の歩き方を、容易
今回この紙上をお借りして、恥の上塗りともとれ
に思い浮かべることができるだろう。「百練走為先」
るあら捜しをさせていただくことにしたのは、別に
と言われるほど重視される台歩の中でも、圓場は特
自虐的になってのことではなく、京劇にも演劇にも、
に京劇役者の存在証明のようなもので、学校に入る
-10-
とすぐさま練習が始められる最も基本的な動作であ
外国の演劇を上演する際、きまって問題になるの
ると同時に、最終的には舞台の上で役者の「花」と
キャラクターの形象とを崩さず運ぶための器という
が翻訳だが、今回の上演について言えば、何度か議
論になりかけはしたものの、結局問題自体は等閑に
付される形で、出演者がやりたいようにやりましょ
重要な機能を担うのである。(戯曲曲芸辞典では前
者の意味、最近出版された京劇知識詞典では後者の
う、ということになってしまった。最終的にとった
意味で、それぞれ紀職があるが、知識飼典では基本
方式は、日本人は日本語、中国人は中国語(秋江)、
功ではなく程式くtii式化された演技>の項に分類さ
歌は中国語、セリフは日本語(覇王別姫)、オール
れているので少々ややこしい。)
中国霞(その他の演目)の三つである。ただ問題と
今回の公演では、あらゆる場面でこの圖場の練習
不足が露になってしまったが、i硬者の気付いたなか
で-つ顕著な例を挙げてみよう。「濁山草」で劉童
の役を演じた女性は、幸いなことに擬械体操の基礎
があったため、台の上から空中側転で飛びおりる「
台漫(蜜)」など、実にこともなげにやってのけ、
日本人の中では最も「技不驚人不挑簾」という言葉
にかなった人材だった。ただ、ほぼ一ケ月半の練習
で舞台に立ってしまったため(冒頭の「台上一秒鐘
いっても実は二つのレベルがあって(字幕につ1,1て
はとりあえず除外)、一つはどのように翻訳するか、
漢文鯛か和語風か、脚韻はどうするか、といった技
術的なレベル、もう一つはそもそも翻訳すべきかど
うか(日本語で歌いかつ話すぺきか)、という問題
である。自然主義の演劇ならば、基本的に前者のレ
ベルだけでことが済むのだが、歌はもちろんのこと
セリフまでもが極度に音楽化された京劇の場合、後
者の問題がかなり本質的なところでかかわってくる
ことは言うまでもないだろう。日本語で上演すれば、
・・・」破りの典型)、圓場の練習などほとんどし
ておらず、それゆえ「台漫」の後、白蛇に詰めよっ
てキツと睨みつけるところなど、歩き方がスタスタ
と完全に日常に戻ってしまい、舞台の緊張感をそくP
物霞の内容はほぼ確実に伝わりはするが、その代償
として、中国の日常言語を舞台上の言語へと加工、
蔚練するための吐字、咬字といった特殊な技術、そ
して何よりもそうした加工を通して得られた「声」
そのものを放棄せざるをえない。そして「声」の放
棄は、それを好み育ててきた文化的風土をも丸ごと
捨て去ることに等しいのであるbこの問題は別に今
に始まったものではなく、また京劇だけに限られた
問題でもないのだが、少なくとも西洋のオペラとは
普及度の点で全く比較にならない京劇にとって、当
面の大問題ではある。端的に言えば、物語を理解す
ることと、京劇そのものを理解することとは、全く
別の次元に属することだし,さらに謝曇だけれども
わかりやすい言い方をすれば、日本語で上演しても、
少なくとも歌やセリフに対しては、本物の「好!」
は貰えないということだ。もちろん今の我々のレベ
ルでは、前述の「花」と同犠、「好!」など鏑外な
のだが、少なくとも「京劇に親しむ集い」が、「京
劇に断片的に親しむ集い」にならないよう、何らか
の方策を練らねばならない。回場のようにただ練習
をすれば良いのとは遮って、頭の痛い問題である。
もう少し具体的な話をするつもりだったが、紙幅
結果となってしまった。この場合、「台漫」との落
差が激しいため特に筆者の印象に残っていたのだが、
このスタスタ歩きによる日常化現象は、日本人によ
って演じられたパートの随所に見られたはずである。
練習段階ですでに圃場の重要性には気付いていた
のだが、いかんせん時間の制約上解決しきれなかっ
た。入場料をとる以上、圓場ぐらいは壌低限身につ
けておくべきだと、深く反省する次第である。また、
この圃場については、意味論的に幾つかの角度から
検討してみる価値があるのだが、今回はそのために
用意されたスペースではないのでまたの機会に譲る
ことにしておく。
物語以前Ⅱ--声か言葉か
-11-
の関係上できなくなってしまった。これも又の機会
るようになったので、二つめの「美星天」をやって
いる。このほか、木鬮日の午前に「京劇芸術」課が
あって、京劇の歴史、脚色、臆譜Jや服装など、理論
方面の鱒護をしてくれる、という具合である.
そういう関係もあってか、楽器をやったり、京劇
に譲ることとしたい。
京劇W闇F1会では新年度より、京劇の身体剛|練、歌、
セリフ、音楽の各方面にわたって、より体系的な練
習を始める予定なので、興味のある方はぜひご連絡
を。.
可ゴ当塞虚麓虜則書生匿苣彊雪零全=仁霊三墾陸薑亘
(-)
東京都立大学竹越孝
や良劇を習ったりしている人がとりわけ多いのも、
ここの留学生の特色だろう。中国霞クラスの人たち
でも、自分で先生を探してやっている人はずいぶん
いる。なかでも特別熱DなのはMさんという女の人
で、,この学佼に来て1年半になるそうだが、北方箆
劇院の先生について嶌劇を習っていて、昼も夜もな
く皆があきれるほど一生懸命練習している。このあ
いだ、彼女が『醸海記』の「思几」や『jiW阿山』の
「凝夢」などを先生たちの前で演じるのを参観させ
てもらったが、外国人がやっているという感じはま
ったくなく、実にすばらしいものだった。もつと訓
現在、北京の中央戯劇学院で、戯劇文学系の留学
練を積んでいけば、そのう壱本当の舞台に立てるか
生として生活している。この当詞交は規模自体が小さ
も知れないという。こういう人を見ると、本当に応
いので、留学生の数も少なく、全部で30人程度、
援したくなる。
さて、この学校で暮らすことになって何よりもよ
ほとんどは中国霞クラスであり、戯劇文学系の留学
生は5人しかいないbこの5人、ドイツ人が3人、
かったと思うのは、観劇の便がすこぶるいいという
日本人が2人で、年齢も専門も中国語のレベルもば
ことである。中国美術館にほど近い東棉花胡同の中
らばらだが、とりあえずは一つのクラスとして同じ
にあるので、ほとんど毎晩のように京劇を上演して
授業に出なくてはならない。
もともと話劇の専門学校として設立され、現在も
いる王府井の吉祥戯院までは、自転車で10分もあ
れば瀞いてしまう。そこで何人かで徒党を組み、『
多くの俳優や演出家を輩出している号貴史なので(『
北京日報』あたりから情報を仕入れて、順番で発売
紅いコーリャン』で共演した美文、愛荊がともにこ
日の朝「戯票」を買いにいく、ということになる。
の今剣交の卒業生であることは、ここの学生たちが鼻
吉洋戯院の場合だと上演二日前の朝8時からだが、
高々で語るところである)、中国人学生の授業には
10分前ぐらいに着くとすでに「戯迷」のオジイチ
中国の芸能に関するものはないようだが、留学生の
ヤンたちがたむろして発売になるのを待っているの
授業の方はむしろそちらが中心で、週5課のうち京
で、-列目の真ん中などという席を取るのはなかな
劇に関するものが3つもある。月趨日の午前は「京
か大変なのだ。ごくたまに、一番先に到着して売り
瑚表漬」課で、歩き方から「雲手」、槍を使っての
、面単な演技まで、京劇の基本動作を習う。先生は5
場にひつついて待っていることがあると、オジイチ
0霞程度の元京劇役者。非常に熱心な人なので、ち
笑されたりする。授業は8時半から始まるので、首
ヤンたちに「この‘小i妻児,に先を越された」と苦
ょっとでもだらけていると、すぐに軽い叱責が飛ん
尾よく買ってすぐに戻れば遅れないですむわけだが、
でくる。また、月鰯日の午後は「京劇音楽」課で、
だいたいなんだかんだで8時半は過ぎてしまう。そ
こちらは二胡の演奏である。「小開門」という簡単
ういう時は寝坊しましたと謝って教室に入るか、あ
松曲牌からはじめ、これを二黄、反二黄、西皮三種
るいはやっぱり中途半端はよくないよな、などと変
の曲調で弾くのを練習した。いまはなんとかこなせ
ないいわけをしてまたベッドにもぐりこんでしまう。
-12-
そして、劇のある日は夕方6時ぐらいに出かけ、夜
って、・顔先生に僕をしっかりと育てるように、きち
店の「d吃」をいくつかつまんだ後に劇場に入る、
んと教えるようにと伝えた。.
それでも僕はだいぶん殴られた。
ということになるわけである。
留学前にはさして興味のなかった世界だが、いま
は中国の芸能、とりわけ京劇の魅力にとりつかれた
ような感じである。僕も1年間の留学生活が終るこ
ろには、「戯迷」の駆け出しぐらいにはなれるだろ
うか。
。 ̄・・
信章こ=本木
僕が先生の家で学ぺば、先生の家に召使が-人増
匠毛ムロロ子零名J>ミニ犀デイ巳』
えたことになるから、当然喜ばれた。しかし、先生
の奥さんは僕がたくさん食べると思っていたため、
(その4)
僕にわずかな金をくれて、別に飯を作るように、或
いは外で買って食べるようにさせた。
僕は腹いっぱい食べることができず、仕事はきつ
く、また殴られるので、生きていけないような気が
菅野零・菅野幸子訳
O「平地茶園」
顔家に京劇を学びにいったのは1-歳を過ぎたと
きだ。当時、顔澤南先生に対して、わが家は証文を
書いた。それは身売り証文のようなものだった。僕
は中に次のような文句が露いてあったことを憾えて
して、逃げたことがある。天機から福寿里まで、一
晩の半分以上の時間をかけて歩いたが、家の者が僕
を送り返したb
当時、殴られることに耐えられず、自殺をする者
が出てもおかしくなかった。
僕がいつも殴られるのは、僕が不器用のせいだろ
うか。僕は違うと思うb国内外の聴衆たちも、この
点を証明してくれるだろう。僕が京劇を学び始めて
から、三か月で舞台に上がった。-年たたずで出演
料をもらえるようにもなった。
いる。
「身を投げても溺れても、死んでも逃げても、師
匠には一切の責任はない。もし稽古に途中で挫折し
たら、損害(食費)の賠償をしなければならない」
こんなに凄いことを書くなんて、今日の若者には
まったく理解できないだろう。ただ京劇を学ぶだけ
のことなのに、なぜこんなに厳しいことを書くのか。
僕は怠けものといえるだろうか。そうではない。
それは当時京劇を学ぶことを「打戯」(ダーシー;・
僕の一日をみれば、僕は怠け者じゃないことがわか
戯は芝居のこと)どもいい、殴られるのに耐えられ
なくなって自殺する者が出る可能性があったため、
上のようなことを明砿に鶴いたのである。
僕は京劇を二年半稽古したが、確かにずいぶん殴
る。
空が明るくなると僕は起き、まず豆炭のコンロを
きれいにしてから火を着け、運が出た後に水を入れ
た大きなやかんを腫くが、火が消えないように注意
られた。
して見ていなければならない。
顔先生は京西藍B2i5【の人だ。前に述べたが、中国
それから発声練習に出掛ける。先生の家は天橋市
場付近、福長街二条東口内路の南の二番目の門内に
で最も有名な刎生である程縫先も藍H定廠の人であり、
顔先生と同じ付の出身だ。
あった。僕はそこから出発して天鬮の西北の角に行
き、発声練習を始めるのだ。
まず「引子」(インズ;登場吟詠)や長い独白を
読み、歩きながら練習する場合もあり、立ち止まつ
おじは僕が顔家で京劇を学んでいるのを聞いて、
わざわざ程継先に頼んで、顔先生に僕をよろしくど
の-首をいわせようとした。程壁先は本当に人をや
-13-
て大声を出す場合もあった。それは時間を見て決め
は良い人で、人を殴る趣味もない。たぶん先生は京
ることだった。なぜならば、発声練習をするときに、
劇は殴って勉強させるという“伝統,,を守ったので
僕は家にあるあの大きなやかんのことがいつも頭か
あろう。それから経済的な理由もあっただろう。
らはなれなかった。万が一やかんを焦がしたら、間
僕の稽古期間は三年と-シーズンと決められ、そ
の間の収入は一切先生のものになる。先生は食べ物
違いなく殴られるのだ。
天壇の西門に着いたら、西の先農趨Iに向かい、四
と着るものを与えてくれるが(衣Hi1は皆兄弟子のお
面鐘(1)まで叫んで歩く。そこで止まって「起霧」
(チーバー)、「山膀」(シャンパン)、「馬溜子」
(マーリュウズ)(2)の練習をし、それから戻る。
古だ)、もし僕ができなかったり、覚えがのろかっ
たら、先生が損するのだ。それが堪らないから、速
く芸を身に付けるように殴るのだ。・
やかんの湯が沸く頃に家につくようみはかるのだ。
人を殴るという“教育方法”は当然よくないが、
その後の庭掃除、ゴミ捨てなどは、皆物音を立て
生徒に厳しさを要求するその精神は受け継ぐべきだ
ずにやらなければならない。もし誰かが目を覚まし
と思う。おかげで僕はなんでも速く身に付けるコツ
たら、これまた恐ろしい結果になる。
を覚えた一
例えぼ、北方の漫才師で越劇のまねをしたのは、
大ざっぱな仕事は比較的簡単だが、細かい仕事に
なると更にぴくぴくする。例えば、認識や急須の温
僕が最初だ。
め、これは汚れる仕事を終えて、手を洗ってからし
1950年、僕が天津で公演していたとき、争同僚
なければならない。北京には「砂鍋浅児」(シヤー
が「上海から趣劇団が来ている。主役は筏紹卿と棗
グォーチアル)(3)という専用の道具があり、茶碗
愛花で、天津の人々に大受けだ」と僕にいった。僕
や急須をその中に入れ、湯を温めて洗うのだ。洗う
は観衆に受けるものならやってやろうと考えた。そ
とき、少しでも欠けたり、また茶渋がわずかに残っ
れは越劇の宣伝にもなり、彼女らが北の地方でも根
てもだめだ。本当に高度な集中力が必要だった。
を下ろせるよう一役買うことにもなる。
そのとき、僕は天祥市場の大観園で出演していて、
先生は歯を磨き、顔を洗ったらお茶を飲むが、そ
ろそろ僕が正式に殴られる時間が来る。先生はお茶
とりを務めていた。僕は人に頼んで前の席の越劇観
を飲みながら我々に発声練習をさせ、それから新し
賞券を買ってもらった。その日のプログラムは『庵
い内容を教える。僕は更にぴくぴくしてくる。なぜ
堂認母」だった。
ならば、毎日いつもここから殴られるからだ。
僕はお茶の道具を洗うときよりも更に精神を集中
小生(シアオション;若い男役)が上がって歌い
だした。あっ、まずい1紹輿の方言なのでさっぱり
し、覚えが遅かったり、しっかり覚えれないことが
わからん。
暫く聴いていて、やっと一つの法則を見つけた。
ないよう昶頑張るのだが、それでも殴られるのだ。
先生の理論は「殴らなければろくな者にならん」で
越劇のメロディは四句で-括りする。だいたいこの
ある。利口な奴も馬鹿な奴も皆殴る、「打戯」(タ
単位で繰り返していた(原注;当時の歌は割合と単
純だったが、その後大きな発展をしている)。
ーシー)だからだ。
ほとんど毎日殴られるが、抵抗はなかった。恐ろ
~ことばがわからないからどうしよう。僕は毎日舞
しいが、殴られるのは当たり前だと考えていた.そ
台があるので、何回も越劇を見に行くわけにはいか
れは天地の大義であり、耐えなければならないと思
僕には金なんかない。
ない。それに、ことばの問題が解決できなければ、
毎日行っても無駄だ。だが、僕はなんとかして越劇
の基本メロディを覚えたかった。あの四句を何回も
繰り返せばきっと身に付く。
後に先生がなぜ僕を殴るのかについて考えたこと
がある。先生は僕になんの恨みもなく▼それに先生
僕は方法を考えた。自分ができる詞に曲を付ける
のだ。そうだ。「清明の時節雨紛々、路上の行人魂
った。もし逃げて家に帰っても、食い物がなく、更
に契約に従って先生に食費を払わなければならない。
-1坐
を断たんと欲す。借問す酒家何処仁か有る、牧童・
僕を芸の社会に導いてくれたのは先生であり、先
生に感謝しなければならない。先生は僕に大道芸人
になるための教育を施し、勉学に関して良き基礎を
かに指さす杏花村」を使うことにした。やがて、僕
は身に付けた越劇のメロディを漫才の中に採り入れ
作ってくれた。それは後に僕が転業して漫才をやる
ようになっても、大いにプラスになった。
た。
このような勉学の精神があるのは、先生が基礎を
北京が爆ii[された後、先生は敬老院に入った。と
作ってくれたからだ。
きどきぼくを尋ねてくれて、先生が病気で亡くなる
さて、午前中は二時間京劇を学ぶが、この時間は
いつも嫌だと思っていた。先生の奥さんが「もうい
いよ、買い物に行かせたら」というのを待ち望み、
そうなると、僕は囚人が出獄するような気分になる
まで、僕はわずかながら孝鍵を尽くすことができた。
「平地茶園」に連れてってくれたのは先生だった。
「平地茶園」なるのこの名は芸人らが自分で付けた
もので、自分たちに対する一つの惨めな自噸であっ
た。後にこれを対句に改めた者がいる。
のだ。
買い物や飯の支度をし、昼食を食べたら見世物の
平地茶園爾来就散
広場に行って芸を売る。
刮風減昌陰下寶全完
(平地の茶園、雨来れば解散、風だと半減、雪降
兄弟子は軟骨病の患者で、せむしだった。家での
生活は独りでもほとんど不自由はないが、長く歩け
ないため、出掛けるときは僕が背負った。兄弟子は
軽且だから助かったが、当時僕はまだ十一歳を過ぎ
ればおじゃん)
たばかりで、たいへんだった。
以上の回想を通じて、我々芸人、特に大通芸人が、…
昔は飢えてあがき、どんなに辛かったかを理解して…
我々は「雲裏飛」の劇団に加わっていた。「雲裏
飛」は天橋で有名な「八大怪」(バーダーグァイ)
の-人だった。広場は天橋三角市場内の西南の角に
やっと待ちに待った新中国がやってきた。今日のパ
幸福な生活は本当に得難いものでありⅥ我々の世代…
もらえるだろう。
はこの幸福な生活をとても大切にしている。…
あり、それが「平地茶園」だった。
開演は昼飯が終わってから夕食の前まで続く。夜
を食べたら、僕は兄弟子を背負い、師弟三人で妓楼
を回って流しをする。天橋の福長街二条から石頭胡
同に行き、南口から入って流しを始める。
一軒一軒、着けばまず兄弟子を降ろし、先生は京
胡、兄弟子は二胡を引き、僕は板(バン;カスタネ
ット)を叩き、「小開門」(シャオカイメン)かF
夜深、(イェーシェンチェン;二曲とも京劇の下
座音楽)を演奏する。続いて、僕は曲目のリストを
〔原注〕,
(1)「四面錘は地名。先慶壇の北側にあり心・鐘楼港
があるからその名がついた。新中国が成立する前に、脈…
そこに国民党の布団エ場があった。現在は北緯旅燵i
と北京市立第七十中学技が建ち、鐘はもうない。
(2)「起鰯」、「山勝」、「馬溜子」は共に京劇で
するlilI作。?
(3)茶碗や急須を温めるための道具であり、直径は
四十箪前後、高さは約二寸、厚さは-掌ある。茶碗
を洗う時は割れやすいので、充分気を付けなければ
もって各部屋に行って尋ねる。
「大國、K橇、二賛(原注。アルホァン,京劇)を
ならない。この道具は今はもうない。
-曲いかがでしょうか」
どの庭でもこのようにした。石頭胡同の興中から
束へ向かい、王慶福斜街、博輿胡同、大李紗綱胡同、
イごE紗棡胡同、火神廟爽道を経て、向きを西に変え
てまた石頭胡同に戻ってくる。流しは真夜中までや
る。ほとんど毎日この調子だった。
だから僕は怠けものでないと言うのである。
麹嗜hAl、:宝==<`自邑=
-15-
【開篇】語り物の用語。以前、蘇州弾詞、紹輿平
胡調、四明南詞などの語り物と、越劇や週劇などの
断江、江藤の地方劇では、正式演目の上iii前に付け
厚戸團三三首f三月ヨ信壱雪繧(3)
【揚琴】①``琴書,'の別称。四川、雲南などの地
方では琴欝をまた“揚琴”という。例えばく四川揚
琴><雲南揚琴>・②打弦楽器。“洋琴',“胡蝶琴
',“扇面琴”ともよぶ。ペルシャ、イラクに発し、
明末頃に広東沿海地域につたわり、のち全国に広ま
った。サウンドボックスは木製で扇状をしており、
その上に銅線かスチール弦を八から十組を張る。各
組は二から四弦で、それを竹製のステック(-名“
琴竹")で撃つ。後に改良し、弦数を増やして十三
から十八組までにし、音鐡と音域を拡大した。ある
ものは特殊な附属品をつけ、転調に便利なようにし
てある。またペダルをつけて弦音の消音が出来るも
のもある。語り物の“揚琴,,類における主要な伴奏
楽器として今日重要な位置にある。
【牌子曲】語り物の一類別。各種の曲牌(字句の
規定された旋律型)を連ねて事を述べ、情を伝え、
道理を鋭くものは、すべてこの類にはいる。楽式の
櫛成は、通鴬“曲頭',“曲尾,,の中間にいくつもの
加える短編歌詞を“開篇,,と称す。内容はふつう正
式演目とは無関係で、枕の役目をする。新中国にな
ってからは、ある種の演劇、語り物においてこの開
篇形式を政治宣伝に用いたことがある。現在ではお
おく蘇ヅH弾詞の短篇歌唱を指し、“弾詞開鬮”とい
う。これはふつう独立した演目として、あるいはそ
れだけを槙ずる。さらに掛合、三人以上のや、グル
ープでやったり、台詞をふくむ掛合ものもある。弾
詞開篇は蘇州弾詞の歌唱発展にある種の役割を果た
した。
【開詞】語り物の用語。往時、講釈師が本題には
いる前に枕としてひとくさり朗唱した詞を“開詞”
という。その節には「西江月」「鴎江仙」「鬮鶴天」
などを用いる。律詩や絶句も使うことがある。内容
は本題と必ずしも関係ない。語り物のなかには、こ
れを“定場時,,ということがある。_
【定場詩】語り物の用語。往時、講釈師や“大鼓
類慰の芸人が長篇物を語る前に、朗唱する四句ある
いは八句の詩を“定場詩,,という。その役割は.`開一
曲牌を挿入して連ねた“聯曲体”形式となる。<単
弦><大調曲子><四川清曲><湖南糸弦><江西
文湯>などがこの類に含まれる。ふつう-人の演唱
によるが、五から六人になることもある。伴奏もい
ろいろで北方の“牌子曲,'はおおく三弦を主とし、
南方のはおおく揚琴、琵琶、二胡などを主とする。
各種曲牌の数はまちまちだが、“銀紙総”“寄生草
”“剪剪花”‘・曇圏麟,,“満江紅”など、各地で共
詞河に似る。
.【摘卑l
お知らせ
O入会金不用、年会費2000円を納めていただ
ければ、自動的に会員になれます。
通の曲牌もある。
【時鬮小曲】語り物の用語。‘`時調,,と“小曲,,
を合わせた呼称。時調はふつう新しい曲調を指す語。
かつて流行した伝統曲調に対してこういう。小曲は
また“小調”といい、民間の歌曲のこと。語り物で
は、時調小曲を曲牌にしているものが少なくない。
広西の“零零落''、安徽の“四句推子,'のように同
じ曲牌を反復して歌うものもある。こうしたものを
璽時調小曲類"と称する。もしいくつかの曲牌を連
ねるのなら、それは“牌子曲”と呼ばれる。前者は
単曲体で、後者は聯曲体である。時調小曲の曲牌は、
“掛枝児',“羅江怨”“打棗竿”“銀絞絲',などと
○会費の納入は郵便擾替でお願いします。
口座番号は横浜2-24295です。
O会費領収書の発行はいたしておりません。あし
からずご了承下さい。なお、行き違い、疑問な
点が生じた場合は、神奈川大学中国語学科
mO45-481-5661(内線)4525
にお問い合わせ願います。
○1991年度会費納入については次号でお知ら
せします。
ても多い。
ブ
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