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Title 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立
Title Author(s) Citation Issue Date URL 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立 - 日曹コンツェルン 形成史(1) - 下谷, 政弘 經濟論叢 (1981), 127(2-3): 141-171 1981-02 https://doi.org/10.14989/133864 Right Type Textversion Departmental Bulletin Paper publisher Kyoto University ~'> 香時 第 1 27巻 第 2・3号 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立・・・・・…・・下 弘 1 ・木崎喜代治 32 .. . .. . .. . .. . .. . . . . ・ ・成生達彦 50 マノレゼノレブと出版統制 ( 3) ・・…・・・…・・ 企業組織における雇用ーー 谷 政 H マックス・ウヱ パーにおける 理解社会学の形成・・・・・・ ー ・ … . . . ・ ・.....奥田 男 6 8 宏 8 6 産業革命期フラ y スにおける . . . . . . . . . . … …清水克洋 労働者の貧困問題…・回目…...・ ・ 1 1 1 H 現代世界経済における 社会主義的国際分業(上)…....・ ・ … . . . . . . . .. 田 中 H H u 昭 和 56年 2・3月 草郡大事経掛事審 隆 ( 1 4 1 ) 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立 一一日曹ヨンツ ι ノレン形成史 ( 1 ) 一一 下 谷 政 弘 IEEWV 対象の限定 第一次大戦期までのわが国ソ 日本曹達の成立 可莱会と晒粉連合会 曹達晒粉 l 大主年間における日本曹達 ダ企業 I 対象の隈定 電解法ソーダ工業主中心とする日本曹達 f 株 〕 が 創 立 さ れ た の は 大 IE9 ( 19 2 0 ) 年のことである。以降,同社は大正年間には低迷を余儀なくされたも のの,満州事変(昭和 6 ・1931年〉を機に上昇気運に乗り,その後, 旺 盛 な 多 角的展開によってほぼ昭和 1 2年頃までには,いわゆる「日曹コンツエル / ' Jと して新興財闘の一つにまで急膨張した。同コンツエノレンがカずァーした産業分 野はソーダ類・塩素利用工業はもち論のこと,非鉄金属・製鋼・染料・人絹パ ノレプ・油脂工業その他多岐にわたっている。しかし, 日本曹達〔株), および目 曹コンツエノレンの詳細については未だ明らかにされていない部分がはるかに多 し 、 。 そこでまず本稿では,新資料の追加によって,従来の研究の薄みを幾らかで も補う ζ とを目的としたし、。その場合, 日本曹達〔株), および同社を中心とし て形成された日曹三 γγ ェノレンの両者に関ずる従来の研究をみると, 少 な い な がらも後者に関するものがほとんどを占めている。 したがって口曹コ Y Y ヅエル そのものについての概観はある程度は Eえられていると言ョてよい 130 しか 1 ) 日曹コンツェルンに関する ιれま Cの主要な文献としては,三宅晴輝『新興コンツェルン罰γ 第 1 2 7巻 第 2・ 3号 2 ( 1 4 2 ) し,それとであくまで昭和 12年頃に確立以後の日曹コ Y ツヱルンの規模と内容 を示すにすぎず,果たしてそれがどのように生成発展してきたかについての立 ち入った研究は全〈ない状態である。かかる日曹コンツエノレン形成史について の研究の立ち遅れは,そのまま前者たる日本曹達(株)という企業そのものの発 展史(創立以降の大正年間および昭和初年〕についての研究の空白を意味して し 、 る 。 最近の「絢煽たる財閥史研究の活況J "の中にあって,旧財閥の形成史研究に 比べて新興財閥のそれが不十分なままで取り残されていることは否めない。新 興財閥の中でし、かにも新興財閥らしい特色と展開史を有した日曹コ γ ツエノレ y の形成史研究。空白こそが,何よりもそのことを物語っている。しかし,研究 の空白には理由がある。日本曹達あるいは同コンツェノレンの場合,それはほか でもない,そり形成史に関す石基本的資料の致命的な欠落である。 そこで,本稿の目的は,乏しい資料にもかかわらず,旧来の研究に新資料を 付け加えることによって, とりあえず「日曹ヨ Y ツエノレ y 前史」の叙述を試み ることであ品。すなわち,その対象は =>Yツェノレ Y レ ベ ル で は な 〈 円 本 曹 達 〔株〉という 企業レベルでの形成発展過程に限定され,併わせて聞社の形成 発展過程を取り巻いた業界全体の動きをも追跡することにしたい。その時期も 創立以降り大正年聞が中心となる。 I I 第一次大戦期までのわが国ソーダ企業 わが国のソ ダ工業の発達は,まず明治期にルプラ Y 法が導入され,のち第 次大戦中にアンモ竺ア(ソルベー〉法と電解法がほとんど同時に開始された。 それらの技術は,いずれも先進国から D 直接的導入かあるいは自主的改良を加 叩,渡辺徳三編『現代日本産業発達史JiII(化 、本j 1937,松下伝吉『化学工業財閥の新研究~ 19 学工業〉上Jl1968,その他,日本曹達刊の各年版「日本曹連株式会社概況」など。と〈に昭和国 年版「日曹事業航観(稿)Jは詳細であるー 2) 轟川笑正『財閥経嵩史の研究J I1 9 8 0,はしがき巴 大正期ソ ダ業界と日本曹達の成立 ( 1 4 3 ) 3 えた変種として,世界的趨勢からは一定時期を置いてもたらされたものであ る凡そこで,第一次大戦後に電解法によって出発することになった日本曹達 の 「ソーダ企業」として の 性 格 を 明 ら か に す る た め に も,ご〈簡単に,それま でのわが国ソーダ工業に登場した主要企業についてふれておくことにしたい刊 4 わ が 国 に お い て 基 礎 的 工 業 薬 品 た る ソ ー ダ の 製 造 が 開 始 さ れ た の は 明 治1 ( 1881) 年 の こ と で あ り , 官 営 事 業 ( 大 阪 の 造 幣 局 , 東 京 の 印 刷 局 〕 と し て 出 発した。ソーダの製造開始に至るまでの経緯を述べれば,まず明治元年に設立 さ れ た 造 幣 局 は 鋳 貨 用 の 金 銀 地 金 の 分 析 精 製 用 原 料 と し て 同 5年 に 硫 酸 ( 鉛 室 法〕の製造を開始した。ところが当時のわが国では硫酸を必要とする他の化学 工業部門が未発達であったにも拘らず,この硫酸上場はイギリス技術の導入に , より当時の世界的能力規模(日産 51,50'Be) で建設されたのである。そ ζ で 余 剰 と な っ た 硫 酸 D消 化 策 の 環として, 1 4 年に局内に曹達製造所が設けられ ることになコたのであり,これこそわが国ソーダ工業の最初であった九片や 印 刷 局 〈 明 治 4年紙幣寮として発足, 10 年紙幣局, 1 1 年印刷局〉でも紙幣・公 債 評 書 な Eの用紙の抄造用原料止して 1 4 年より同局内にてソーダ製造を開始, 造幣局の過剰硫酸は印刷局へも廻されることになった。印刷局は,その後四年 に丸の内から豊島郡王子の新工場へ移転され,その際に独自の硫酸工場をも建 設したことにより本格的なソーダの生産は造幣局から印刷局へ移されたのであ る。ところで,わが国で明治期に採用されたソーダの製造法はいずれもノレプラ ン法であった。同法採用の第一の理由は,上述の官営に限らずその後の民間企 め たとえば N i c o l a sLeblancによるルブヲン法が発明されたのが 1 7 8 7 年,その本格自工業化 の開拍が 1823 年であり, また ErnestSolvay によるア γ モニア法が発明されたのが 1861年,そ の工業的基礎が確立されたのが 1866年であった。さらに電解法〔直立隔膜法〕の工業化は 1893年 でありその後各種の技術的改良が加えられてきた。 の 以下の叙述には主として次の文献を参照した.曹達晒掛同業会『日本曹達工業史 11931, 同 『司女訂増補円本曹達工業史~ 1 田8 ,R本ソ ダ工業会『続円本ゾ ダ工業史I19問 。 5 ) r ,全力を挙げて製造する時は製品[硫陵〕は兎角余り勝ちであった,故に局内で消費した以外 に内曲7 " ' ; : 支那方面にも販売したのであるが,支に其消化策とし,又方化学工業に関係せる者 へ 少。[ )内引 の興味としてルプラン曹達工業の計画を立てた」ョ前掲『日本曹達工業史 148 用者,以下同様。 4 ( 14 4 ) 業においても, 第1 2 7巻 第 2.3号 ひ と し < (過剰〕硫酸の処理〔多目的利用〕に求められる。 ノレプ ラン法の主要原料は周知のように工業塩とともに硫酸であり,かくして明治期 ソーダ工業は硫酸工業と密接な関係をもって誕生したのであるヘ さて官営事業として始められた硫酸およびソーダ工業はその後に民間へ払い 8 年に硫酸事業を硫曹製造会社へ払い 下げられていった。まず大阪造幣局では1 下げ,同時に小規模だったソーダ事業の方は廃止された九また東京印刷局8l においてもお年に硫酸工場は陸軍省(板橋火薬製造所〉へ移管され,他方のソ . 5 力円〕 ーダ・晒粉工場は新設の(資)王子製造所(資本金 9 へと払い下げら れ た 。 同 社 は 翌 29 年私に関東酸曹〈株)(資本金 50万円〉と改称され, 30 年には 新工場(東京府北豊島郡王子村〕に移転し硫酸工場を新設,続いてソーダ・晒 粉 も 製 造 再 開 し 31年 6 月 に は 旧 工 場 に お け る 操 業 を す べ て 廃 止 し た 。 こ の よ う に,官営事業として始められたソーダ工業は,結局は関東酸曹に受け継がれて いぐこ左になったのである。 他方,民間においてもノレプラ γ 法ソ ダ企業がいくつか誕生した。その先頭 を 切 っ た の が 明 治 22年設立の日本舎密(株)(資本金 50万 円 〉 で あ る 。 同 社 は 24 年 4月 か ら 山 口 県 小 野 田 で 硫 酸 の 製 造 に 着 手 , 引 き 続 い て 本 来 の 目 的 た る ソ ー ダ ・ 晒 粉 な ど の 生 産 を 開 始 し た 。 こ の 日 本 舎 密 と 前 記 ・ 関 東 酸 曹 の 2祉 こ そ が第一次大戦までのわが国ソーダ企業の代表であり r 東の関東酸曹・西の日 r この期日本で建設されたルプラン法ソ ダの製造部門は過剰硫酸処理のための硫酸工場のー 加工部門にすぎなかった L 中村忠一『日本化学工業資本の成立と発展J '1 9 6 1 .6 へージ固なお, ここでルプラ L 法とほ s まず 1 1 1 塩と硫酸との複分解により苦硝〈硫酸ソーダ)左塩酸とを作る, 1 2 1 芭硝を右炭および右灰右と熔融 L r 黒 灰J (炭酸ソ ダと硫化石灰とからなる〕を作る, ( 3 ) 黒 灰を水で抽出し炭酷ソ 〆溶液を得, ζ れを煩蝿して目的のソ ダ灰(炭酸ソ ダ〉とする,の 以上 3主要工程をもっ.さらに, (~)炭酸ソーダ抽出液に石灰を加えて分解〔いわゆる苛性化)す れば苛性ソーダが侍 bれる。また ( 1j(T)塩酸から塩素を発生させ亡石灰に吸収させれば晒粉が得ら れる。 7 ) 造幣局の場合,硫酸事業の払い下げの理由は以下の 2点であった. r ,造幣局は硫酸の製造を継 続して来たが,其間 [IJ 民聞に酷ても同業を開始するものを生じた事と,又 [2J伺局として 余り多岐に捗る事業の経営は之を困難とする事情等も生じたので、 民間に移すことになった J . 前掲『日本曹達て業史j 5 0ベ ジ 。 8 ) 印刷局の工場はそ¢産管轄替えとなり. 2 3 年に御料局佐渡支庁の王子硫酸製造所'. 2 5 年には同 主子製造所となコてい否。 6 ) 大正規ソ ( 1 4 5 ) 5 ダ業界と日本曹達の成立 木舎密J "と植われたのである。その後,数社がソ ダ工業へ進出した。その内 主要な企業としては明治 25年に大阪硫曹(株〕が硫酸およびソーダの製造を目 的に設立された。同社はソーダ類の製造の外, 3 0 年からは余剰硫酸の多目的利 用の一環として過燐酸石灰〔肥料)の製造を開始した。当時,この過燐酸石灰 工業は最大の硫酸利用工業として興隆しつつあった則。その後,同社は「肥料 の販売高が逐次増加し硫酸に不足を感ずる有様であったから,自然ソータ会工業 を廃し肥料専業となるに至J l 1 } っ た 。 同社が結局,ソーダ工業を廃止する羽田 に陥ったのはルプラン法が全く不振を極めた ζ とが大きな原因であった。同様 の理由から過燐酸石灰工業へ転換した例として夫政子ノL 占~ (株〕がある。同 社の前身は明治 12年設立の硫酸製造会社(資本金 M 万円,俗にいう「川口硫酸 製造所J ) ーであり, 造幣局目技術を導入し亡翌日年から操業開始 て硫酸を製造せる鴨矢 J12)であった。 I 民間に於 同社は 22年,前山の硫曹製造会祉を吸収 し硫酸の製造企業としての基盤を固めた。そこで「将来の発展を期するために はソーダ工業に進むを得策と信じ」山 26 年にソーダ〈その他,塩素酸カリな ど〕の製造を同的として大阪アノレカリ(株)(資本金 70万円〉と改称, 28年には それら製品の発売を開始したのである。しかし周知のようにルプラン法は既に 世界的に旧式の技術であった。すなわち「当時欧米に於ては既にノレプラン法に よるソーダの製造は,製品の品質に於てもまた製造費に於ても新進のアンモニ 7 ・ソーダ法に圧倒せられつふあって,ノレプラン法は過去の余勢と塩素製品の 価格を調節する ζ とふによってその立場を維持するの外なき時勢に到達してゐ たのである。故に独り我固に於てのみんプラン法によってソーダを大規模に製 造しても海外の輸入品に対抗し得べ雪道理はない」凶。 結局,同社のソー夕、事 9 ) 日本ソーダ工業会『ソーダと塩素』第 3巻 第 5号 I 1 9 5 2 .3 0ペ ジE 1 0 ) 硫酸の多目的利用としての過燐酸石灰工業については,拙稿「大日本人造肥料トラストと過燐 酷石灰工業J W円本史研究」第 1 4 6 号. 1 9 7 4 ,毒照 1 1 ) 前掲『改訂増補日本曹達工業史Jl 1 8 7へ 一 式 1 2 ) 前掲『日本曹達工業史~.ll 5 2 . : . -: : ' 0 13) 前掲『改訂増補日本曹達工業史~ 1 8 4ベ ク 図 1 4 ) 向上, 281 ベージ。,苛性ソーダは帽うかと申しますと晒加に反して終拍輸入品の EE~自を受/ 6 ( 1 4 6 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 業 は わ ず か 2年で工場閉鎖され,以後はその硫酸を過燐酸石灰へと向けること になったのである。 明治期にはこれら主要なルプラン法ソーダ企業の外に「晒粉専業企業」があ ったことにも注目すべきである。すなわち,第一次大戦後に電解法が開始され るまでの晒粉製造法としては,いわゆる硫酸法〔原塩と二酸化マンガンとの混 合 物 を 硫 酸 で 分 解 Lて塩素を発生させる〉が行われており, ら晒粉専業企業はルプラ したがって,これ γ 法ソーダ企業とは別個に存在しえたのである。["明 治1 0 年代のなかは,東京及ひ大阪に数コ 0)晒粉〔専業〉工場があった J15)。 そ の主たるものとし亡,まず大阪晒粉。同社の前身は明治 15年設立の銀雪館(資 本 金 1万円,大阪〉であり,その後,大口本銀雪館を経て 26年に大阪晒粉(株〕 (5万円)と改称された。晒粉専業であった同社は 4日午 (20 万円〕に帝国製薬 所を買収して硫酸自給体制を整えた 1へ そ の 後 , 同 社 は 第 一 次 大 戦 中 の 大 正 6 年 ( 3 0 0 万円〉 にノレプラン法によるソーダ製造を開始して「ソーダ企業」へと 転向し,さらに翌 7年には電解法ソーダにまで進出したのである l7) (なお同社 は同 9年にラサ島燐噴により吸収された〉。 次に南海晒粉。明治 3 9 年に硫酸・ 人造肥料・晒粉の製造を企図した南海流肥(株)(和歌山〕が設立されたものの 挫折, 翌 40年 3 製品を晒粉に限定して再建された南海晒粉〔株)(百万円〕が操 業開始した。 43 年(15 万円〉には硫酸の自給体制を整え晒粉専業企業としての 地位を固めた。 第一次大戦勃発するや大正 5年(100 万円〉に電解法ソーダ工 業への進出を決定,同 7年より操業開始することによって同社も晒粉専業から 「ソーダ企業」への進出を行ったのである o 、けまして英国のユ ナイテッド・アルカリ社のものを初めとして各輸入品の競争が撒 L < そのために内地の方は品質の改良どころではなくなり常にギ ウギュツいは注れてをったム 同 上 , 6 0 1へー ν。 1 5 ) 庄司務寺田英樹『日本の曹達工業.!l1 9 6 2 . 7へ一三人 1 6 ) 明治4 1 年当時の同社「事業報告書」によれば,その当時,晒粉部硫陸部副産部の 3部門が あった。 L 1 7 ) 大正 7 年と半期の同社「事業報告書」は次のよ弓にし,~.遅来電気化学工業ノ勃興ニ依リ晒 粉ノ供給増大三需要之レニ伴ノ、サルノ憾ミアルノミナラス苛性曹達ノ暴騰ハ 層電気化学工業ノ 発達ヲ助長セノレノ観ヲ呈 V 本社従来ノ製法ハ:也ェフ「不Uノ時運ニ際会セリム 大宣期ソ さて,こう ダ業界と日本曹達の成立 ( 1 4 7 ) 7 Lて 見 て く る と , 明 治 期 に 開 始 さ れ た わ が 国 の ソ ー ダ 工 業 の 特 徴 は次のように要約しうる。①まず何よりも,ソーダ工業はそれに先行した硫酸 工業の多角化(硫酸の多目的利用〉の一環として緒についたこと。その結果が ルプラン法の採用であった。①しかし一方の硫酸工業が比較的に順調な発達を たどったのに対 L, 既 に 旧 式 技 術 た る ノ レ プ ラ ン 法 に よ る わ が ソ ー ダ 工 業 は 欧 米 諸国の庄迫によって全〈低迷し,気息奄々としてその存在を辛ラじて維持しえ たにすぎなかったこと。③かかるノレプラン法の低迷は,硫酸の過燐酸石灰への 振りかえによる「ソーダ企業」の肥料兼営企業もしくは肥料専業企業への転換 〈すなわちソーダ工業からの撤退〉を強制したこと'"である。もち論,かか る世界の大勢に遅れをとったんブヲ ν法 に 代 わ っ て ア ン モ 三 ア 法 あ 号 い は 電 解 法 ソ ー ダ の 企 業 化 を 目 指 す 試 み が 当 時 全 〈 行 わ れ な か っ た わ け で は な い 。 Lか し 明 治 30年 代 よ り 行 わ れ た 幾 つ か の 挑 戦 は 機 末 だ 熟 き ず , い ず れ も 挫 折 せ ざ る 専なかった問、 をf こうして,第一次大戦を迎えるまでには,ノレプラン法ソーダの生産を継続し え た の は , わ ず か 「 東 の 関 東 酸 曹 ・ 西 の 日 本 舎 密 」 の 2社 の み 四 九 そ の 生 産 量 1 8 ) ,レプラン法企業の最大手たる関東酪曹も明治 4 1 牛には過燐酸石灰工業ヘ多角化せざるを得なか った。また日本舎密も大戦佳の大正 8年には同工業へ進出して日本音密閉料と改称,さらに翌 9 年には 2 コの過ド捕監右灰企業を吸収して日本化学肥料と改称し急速に過蝉離石灰企業、と転向し ていった@なお同社と前記・関東酸曹の 2社は結局,大正 12 年 5月,過燐酸石灰企業の最大手た る大日本人造肥料と古叶したロ 1 9 ) まず,アンモニア法については,周知のソルベ--:/ンジヶー iによる技術独占のほか,大資 本の必要性,技術上の複雑さ,原料塩の品質・価格などの阻害要因が多しその導入はもとより 困難視きれていた。電解法については明治 2 9 年に対阪硫曹がイギリスより導入を図ったが,欧米 3 年に梅津製i 紙所(京都〉がエレクトロ a ケ ミ カ においても緒についたばかりで不成功。続いて 3 ノ L社より特許権を買収して製造試験を開始, 35"'1'から日本舎密ヘ暮して拘 2年間続けられたが失 敗して放棄。また京都帝大吉川 l 亀次郎教授らが日本舎密や関東都督府の委嘱を受け試験研究を行 ったがいずれも大戦まで工業化に至らなかった その他,千書製紙(小企), 台宵総督府,関東 酸曹,東京工業試験所などで実験研究が積み重ねられ,その内のいぐっかは大戦開始後によう やく工業化されるに至った. 2 0 ) r 日本舎密製造株式会社及関東酸曹株式会社の両社相並心て益々其の事業を拡張したりしも, 如何にせん原料食塩の高価と技術の幼稚なるに加へ安価なる外国品の圧迫に逢ひ,其の姉妹工業 " , ~叩F是非予手Jこ弄 !>r ア歩十年の長きに豆り一つの新 たる硫酷工業が症〈独立したる 句 す 曹達起業者の現わるふなし前二者の産額が同時に園内全産高を示し ム臨時産業調査局『調 2 号 , 1919 ,90ベ -;?o 傍点引用者,以下同様。 査資料』第3 6 F i1 0 : 8 ( 1 4 8 ) 第1 2 7巻 第 2,3号 第 1表 苛 性 ソ ー タ ・ ソ ー ダ 灰 ・ 晒 粉 の 生 産 量 ・ 輸 出 入 量 (単位トン〕 ソ 苛 性 ゾ ー ダ 生産量│輸入量│輸出量 冒 月 , 古 43 44 大正ヌじ 2 3 4 5 3, 664 850 2, 4, 211 325 4, 204 5, 7, 297 1 1, 644 1 1, 443 1 0 , 767 1 2 , 161 1 3, 829 1 0, 852 ーダ灰 晒 生産量│輸入量 粉 生産量│輸出量 1, 305 487 1, 18, 638 20, 499 2, 106 26 , 828 2, 158 750 1, 3 1, 081 9, 989 1 0, 4 日8 1, 013 3 2, 961 30 , 642 9, 391 1 2, 906 765 1 , 912 2, 642 454 3, 3, 048 38, 408 1 8, 795 5, 369 44, 480 56, 318 19, 734 2 1, 298 6, 468 4, 946 53, 658 6 1, 718 44, 117 23, 391 732 24, 689 20, 2, 431 2, 667 1, 829 496 6, 737 9, 062 10 , 553 1 0, 083 2 1, 717 7, 41 6 400 660 776 10, 36, 051 26, 349 1, 304 498 3, 829 10 8, 629 715 9, 812 5, 080 7, 112 7, 112 11 776 8, 2 1, 138 150 7, 811 90, 890 1 6, 1 2 8 2, 803 12 595 1 9, 684 2 1, 20 , 045 1 5, 701 165 70 7, 458 2, 002 90, 606 114 , 279 29, 027 3 6 t l 3 3, 2, 5 5 3 2, 646 2 2, 378 1 1, 162 17, 318 23, 130 1 3 1, 773 37, 004 1 0 1, 449 2, 567 36 , 574 4 1, 361 218 43 54 890 36, 昭和元 2 423 25, 25, 341 24, 094 2, 643 2, 613 3 7 口0 28, 6 1, 741 33 30, 928 79 , 443 3 3, 2 8 8 37, 381 3 2 5 46, 6 7 8 9 13 14 2, 859 3, 111 備考前掲『改訂増補日本曹達工業史.ll3 0 3, 3 0 4 , 3 0 7 , 3 2 9 , 3 3 0 , 3 7 5 ベーク。 も第 1表 に 見 る よ う に , 苛 性 ソ -!iは 内 需 の 3害日目足らず, ソーダ灰に至っては 1割 足 ら ず を 満 た す の み と い う 有 様 で , 残 余 は す べ て 輸 入 品 に 依 存 し て き た の で あ る 21 ) 。 こ の よ う に 第 一 次 大 戦 ま で の わ が 国 ソ ー ダ 工 業 は ほ と ん ど 見 る べ き 発展をなし得なかった。 か か る 輸 入 依 存 度 の 高 か っ た ソ ー ダ 工 業 に と っ て , 大 正 3 (1914) 年 に 勃 発 2 1 ) たス乙ひとり咽粉のみはそ¢製品本来の性質土斗輸入が困難であったため早〈カら自給自足の 域に達していた.先の「晒粉専業企業」が存立しえたのもこの事情による。 i 輸入品に圧倒され 2割のシェアながら存続しえたのは,まった〈菖l た条件のなかで,旧来のノレプヲユ法ソ ダが 1 産物である晒粉が長距離輸送の困難な品目であるため輸入がなかったからである L 前掲『現代 日本産業発達史xm~ 2 2 1ベータ. 戦前に於てはルプヲン法に拠り晒崎を副度物として得られたる 3ベー ρ。 が故 k遭って行けたのであるム 『東洋経詰新報』大正 8年 1月5日号付揖, 7 r ( 1 4 9 ) 9 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立 した第一次大戦の与えた影響は大きかった。ソーダ類の輸入量の減少に加えて ソーダ利用産業(たとえば繊維・染料・製紙その他〉の興隆による需要激増は 極端な品不足をよび,その結果,第 2表に見るように,たとえば苛性ソーダの 第 2表苛性ソーダ市価。推移 ( 単 位 革 1 トン, 1 1月 大正 3 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 1 1 0 1 1 1 1 1 2 1 1 3 1 1 4 1 1 1 1 0 1 1 2 4 6 5 3 0 4 6 1 2 3 4 8 2 5 7 1 5 0 2 7 9 2 1 3 2 2 3 2 2 5 2 1 昭和元 2 2 1 1 8 1 3 1 1 8 5 2月 1 1 0 8 1 1 2 5 9 2 3 0 1 6 1 2 2 7 5 2 4 2 1 5 4 2 5 3 2 1 3 2 3 2 2 2 7 2 0 9 1 7 6 1 8 1 3月 1 4月 1 5月 1 0 8 1 1 0 8 1 0 8 1 1 2 1 9 8 1 6 7 5 8 3 4 4 9 3 2 6 2 9 7 3 1 9 3 5 2 6 6 0 6 9 3 6 3 8 2 4 8 2 4 2 2 2 0 2 5 3 2 3 8 1 8 7 1 5 4 1 5 4 1 7 6 2 4 2 2 3 8 2 3 8 2 0 9 2 1 3 2 0 5 4 3 2 4 3 2 4 3 2 2 3 2 2 2 5 2 2 5 2 0 9 2 0 9 2 0 9 7 2 1 8 4 1 7 6 1 9 0 1 8 1 1 8 3 1 6月 1 1 0 5 1 8 7 2 8 2 3 5 6 6 7 8 2 8 2 + 5 8 2 2 0 2 2 4 2 0 9 2 3 8 2 2 1 2 0 5 1 8 1 1 9 0 7月 1 1 0 3 1 3 2 2 6 ( ) 4 6 0 6 8 2 2 6 0 1 5 4 2 5 3 2 3 5 1 9 8 232 2 2 1 2 0 5 1 7 9 1 9 6 8月 1 9 月│曲月 2 4 2 1 8 1 1 9 1 1 9 8 2 8 2 2 7 5 5 0 6 5 1 7 7 5 5 7 7 0 2 4 2 2 3 1 1 5 4 1 5 1 2 3 5 2 5 3 2 3 5 2 4 0 2 0 2 2 2 0 2 3 2 2 3 2 2 2 1 2 2 9 1 8 7 1 8 5 1 8 1 1 7 6 1 9 8 2 0 1 1 2 5 1 9 8 3 0 8 5 9 4 7 2 6 2 2 4 2 0 9 2 7 5 2 0 9 2 2 0 2 2 7 2 2 7 1 8 3 1 8 3 1 9 8 川町 1 1 1 1 6 1 9 8 3 5 6 5 5 0 5 0 6 2 2 6 1 4 7 2 7 9 2 0 5 206 2 3 2 2 2 5 1 8 3 1 8 5 1 9 8 1 1 4 2 1 3 3 8 0 5 9 4 4 1 8 2 5 3 1 5 4 2 7 9 2 2 0 2 0 9 2 4 3 2 1 6 1 8 3 1 8 7 1 9 8 備考前掲『改訂増補日本曹達工翼史Jl3 2 2 ,3 3 6へ -;/0 場合その市価は戦前に比べ最高 7倍にまで暴騰したのである(その他ソーダ灰 は 5倍,晒粉は 3倍一後掲第 4表 〉 。 かくて日増しに激しさを加える輸入減と 需要増との絡み合いの中から,わが国にも 30 数年にわたるルプラン法時代を終 えて,アンモエ 7法あるいは電解法ソーダの企業化の気運が急速に醸成されて いったのである。 1 1 1 日本曹達の成立 さて, 日本曹達が創設されたのは大戦後の大正 9年であるが,まずここでは その成立に至るまでの経過を述べておこう。 1 0 ( l 町1 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 ともの b そ れ は 同 社 の 創 設 者 ・ 中 野 友 礼 (1887-1965) とともにある'"。 彼は会津中 学 を 卒 業 後 , 一 高 の 臨 時 中 等 教 員 養 成 所 へ 入 学 , 明 治4 1 年に卒業と同時に新渡 戸稲造(一高校長〕の紹介により磯村音介(大日本製糖取締役〕から学資の提 供を受けて京都帝大理学部助手となり化学研究室へ入った。そこで友礼は当時 の電解法ソーダ研究の権威たる音川亀次郎教授(応用電気化学〕の指導のもと に ア ル カ リ 電 解 の 研 究 に 没 頭 L, つ い に 大 正 2年 に は 中 野 式 食 塩 電 解 法 〈 水 平 隔膜式電槽,ピリター・ジ メソス式の変種〕を完成し特許を得たのである。 そして,この中野式電槽の発明こそが,のちに巨大な日曹コンツェル γ を築き 上 げ る べ 青 そ も そ も の 契 機 と な る ' " 。 し か Lな が ら , 工 業 化 の 資 金 を 持 た な い 友礼にとっては,当面,自分の技術を採用してくれる出資者に依存しなければ ならない時代が続いた。 特 許 獲 得 の 大 正 2年 , 吉 川 教 授 の 退 官 と と も に 研 究 室 を 去 っ た 友 礼 は , 磯 村 音 介 の 誘 い に 応 じ て 早 速 上 京 , 彼 の 経 営 す る K .Y舎 ( ガ ス ・ マ ン ト ル 製 造 , 東 京本所〉の工場敷地の一隅に研究室を設けて電解法の工業化実験を開始した。 , 折 り し も 実 験 継 続 中 に 第 一 次 大 戦 が 勃 発 し 経 済 界 混 乱 す る 中 で , 翌 4年 3月 磯 村 は 8万 円 の 出 資 で 程 ヶ 谷 曹 達 工 場 〔 神 奈 川 県 程 ヶ 谷 町 〕 を 設 立 , 友 礼 は 技 術 出 資 の 形 で 技 師 長 に 就 任 し た 船 。 ソ ー ダ 工 場 は 同 年 9月 に 完 成 し て 直 ち に 製 2 2 ) 中野五礼については,中野友礼伝記刊行会『中野友礼伝I 1 9 6 7 ,のほか,友礼の白著『これか ,Ir;続これからの事業.! 1944,I J ' 東 北 の 旅 . ! l 1955,などを参照した らの事業これからの経営I 1938 2 3 ) ここで電解出とは,食塩水培液に 2個の電極を入れ直流を通じると,陽極〔黒鉛〕からは塩素 Q } :棄を生じる。この 3者をそれぞれ分離採異する仕方に が,陰極(銑〉からは苛性ソー〆および7 よって電解槽の型はい〈っかに分かれる。また陰極に水銀を用いる水銀法もある。電解法は,ノレ プラン法あるいはァ γ モエア法のようにソ ダ灰の苛性イじを経ることなく直接に苛性ソーダを得 ることができ,また,置接に塩素を発生するので晒舶の製造も容易である。このように同法はル プラン法やアンモニア法に比べ工程が簡単な上,小規模経営も可能なため所要資金も少額ですみ, 字訟をもっ図 ソーダ(あるいは塙素〉刺用産業においてぞの自給目的のため付帯工諜河七されやすい4 「電解法ば比較的小規模で経済的単位となるので,旭の 諸工業に於てその原料を供給するた ,庄司務『曹達と工業Jl1942,1 73 4 へ -;;'0 ぽ め付帯工業として桂営される場合が掴当に多い J お本稿ではアンモニア法についての詳轟H は不要のため略す.同法については,注ののほか,たと J l1951,などを参照。 えば榎本情吉「曹達.Il1938,山田清『ソーダJl 1950,同『塩'ソ タ 2 4 ) 程ケ替に立地したのは隣接の富士瓦鮒漬から」同首長高弘前が得られたことによる。前 掲『日本曹達工業史 j 1 6 3く ージ, r ソーダと塩素』第 3巻第 3号 , 1952,2 7ベ ジa なお,この B万円は日糖事件に連座検挙された磁村が,出揖t f k . 事業家としての再出発のため鈴木商庖ノ 大正期ソ ダ業界と日本曹達の成立 ( 151) 1 1 造を開始したが,同社こそ「我国に於て電解曹達法を工業的に経営して成功し た 鳴 女J '日である。 当初,製品として発売したのは過酸化ソーダ中塩素酸ソー ダなど,大戦の影響によって品不足が深刻な特定のソーダ製品であった問。し たがって同社は「度々の C 工 場 の 〕 大 爆 発J 2 7 )I こも拘らず折からの好景気に恵 まれ幸先よいスタートを切ったのであり,その後,苛性ソーダや晒粉なども生 産開始し,わずかの問に巨額の利益をあげたのである加(同社は堂邑年末に株 式 会 社 化 さ れ , 資 本 金 は 80万円となった〕。 友 礼 は こ の 功 績 に よ り 若 冠 28 歳 t 常 務 取 締 役 に 推 さ れ た 。 し か し な が ら , 早 く も 6年 に は 常 務 と は し 、 え 「 雇 わ れ 技術者」に Fさ な か っ た 友 礼 は , 磯 村 ら と の 意 見 の 対 立 か ら 追 わ れ る よ う に 同 社を辞する羽目となった。 まさに彼の得意は「檀花一朝の夢におわった」舶の である。 Lか し 当 時 は , 第 3妾 に 見 る よ う に , 急 激 な 電 解 ソ ー ダ 工 業 の 企 業 化 ブ ー ム ¥の金子直書から捻出してきた,とある。三宅情輝編『仕事の世界 j 1951,86ベ ジ 。 2日前掲『自主曹達工業史 j 1 6 3ベジ。 2 6 ) r 初めてやったのは過酸化曹達である.過酸化曹遣はその当時フヲンスから輸入されて居って 自に使用されて居た杭欧州大戦勃発の為輸入間隷にな「て封度 貝ボ夕刊プラッシュ等の F 70~銭位であったものが 7 円になり,阪神地方の職人が五千人も失業すると云ふ事件が起って当業 者から是非製造してくれと云って来たム前掲『これからの事業これからの経営, 21へージ。 2 7 ) 向上, 2 2 < : ジ ロ 2 8 ) I 保土ヶ谷曹達は此の天才技師を掘り出したばっかりに急激 L発展を遂げて一年程め聞に百万 4 οベージ,また,当座の需要増に応えるた 円も儲けたさうだ」コ前掲『新興コ γ ツェルン読本, 2 , " 5年 1 2月に郡山工場(福島県〉を建設, ζ れは操業と同時に子会社東洋曹達(樟) (叩万円) となり,猪苗代水源電力を用い金属ソ ダや過酸化ゾ ダを製造した.前損『ソーダと塩素』第 2巻第 1 1.12 号 , 1951, 1 8へージ。 2 9 ) 前掲「中野主礼医, 59へージ.退社に辛る聞の事情は不鮮明であるが以下の叙述を参照¥, r こ んな有難い天才技師も仕事が儲らなくなるともう必要はないa 製法はもう会得してしまったし大 金を山して抱えて置〈のは惜しいものだ, と保士ケ替の重役共が考へたかどうか瞭りしたことは 。前掲『新興コンツ 判ら白けれども,大正 6年中野技師が兎に角拠り出されたことは事実らしいJ 4 1ベー山「利益金が増大するにしたがって, その分配のことで中野と磯村との間 エルン読本.ll 2 には考え方のちヵ:いがあらわれて来た@創業当初,磯村は利益金の四分を中野に供与するつもり でそのことを口にし,それが暗黙の約束のようになっていた.と乙ろが利益金が増大するにした 0 方円という多額のものになって Lまった」。前掲『中野主礼伝Jl 5 8 " " ジ。「苛 がって,それは 5 性の真空蒸溌曜のことで,中野さんと磯村社長の弟秀策さんとが意見が合わずとうとう衝突して 0 余万円を樺証に提供レ し支引た。中野さんは自説を通すべ〈自分の持っている揮土ヶ谷の株式3 て製作を続けたが,予定通り行かないため預けた株式をまき上げら九その上一ヶ年間洋行して 来いということで解職させられてしまった L 同前, 318へ一三人 1 2 ( 1 5 2 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 第 3表 大 正 年 聞 の 電 解 法 ソ ー ダ 企 業 企 業 名 i 工場所在地!設立年│鮭骨 l 東 海 曹 達 愛知名古屋 大 大1 2 ,保土谷曹達 4E4d 9 4 I 5.11 わ が 国 最 初 の 水 銀 法 6 .3 * 5 6 .5 旭電化工業 東京尾久 大 6 6 .9 大阪アノレカリ 長野松本 関 東 酸 曹 東京王子 明 26 明 29 6.11 6.12 程ヶ谷曹達工場 神奈川程ヶ谷 大 同. 大 阪 曹 達 福岡小童 日本電気工業 富山下新川 大 7 7 . 3 昭1 6, 三 井 化 学 工 業 三三池井染料工鉱;業l 所1 1 福岡大牟田 大 大阪舎密工業 大 明 30 7 .4 横浜化学工業 神奈川横浜 つ に 7 7 .5 〈旧〕日本曹達 静岡入江 大 7 7 .5 7 .7 阪 軍曹晶Z L J i : 品 L 勺灯事正 器 無 事 主 f f 議事 1 4 : 東洋化学工業 福島,原 南 海 晒 粉 和歌山海草 大 阪 晒 粉 大阪稗島 明 40 明 26 日 本 染 料 大 阪 大 関西電気化学 島 根 7.11 キ ヨ 骨 5 7 .9 7.10 前 臓 事 身 大 に 合 は 10 頃 併 明15の銀雪館, 大 9ラ サ 島 燐 7.11 中止,昭1 9 住友化学に合併 日本曹達電解所 北海道余市 7.11 利 根 軌 道 群馬渋川 大 東 電 エ 富山上新川 8 . 2 持大日中止 S .9 骨 北 海 曹 達 富山伏木 大 日 本 曹 達 新潟二本木 大 備考前掲『日本曹達主翼史 J 1 5 3 4ベ 撤退したことを示す。 7 9 Ezz 学 止, 大 7富 士 水 電 に 8.11 大 1 1よ り 三 井 鉱 山 資 本 9 .6 ヅをもとに作成。*印は大正末年までにソ タ事業から を 迎 え た 時 期 で あ っ た3 0 '。 し た が っ て , 程 ヶ 谷 曹 達 を 追 い 「 十iさ れ た も の の , そ 3 0 ) 電解法の斯〈も発達せる理由は,その方法が 1 1 1 当時最も市価の騰貴ぜる苛性曹達を直接製造 L得る方法なる上, ( 2 ) 企業単位の小(1日 1 t乃至 5 t)にして. 1 . 1 所謂電解槽は容易に米国より 1 年 8月2 6 ' 日 号 " , 1 5 ベ ジロ因み 供給を受くることが山来たからであるム『東洋経済新報』大正 1 に,アンモエア法ソ ダ企業としては,当時ソ タ買の最大需要者であった旭硝子がその自給の 0t能力,のち 8年に 20t,1 1 年に 3 0t能力 J . 続いて翌 7 ため大正 6年に操業開拍(福岡,白産 1 年に台湾肥料(高雄〉および日本曹達工業(山ロ,いわゆる NSK , 昭和 1 1 年に徳山曹達と改称〉 の 2社がスタートした即しかし, ζれらソルベー シンジケートから独立して設立された「独立 系ア法工場」は技情的困難と輸入品圧力によって全〈振るわず,大正年聞を還して辛う I 七て生産 を続けえたのは旭硝子だけであった。台湾肥料はほとんど実讃を残さず,また日本曹達工業も大 jElO年からのプラナ手ソド社対マガヂ社の日本市場争覇戦の野響〈ソーダ灰市価の睦落〉によ/ 大正期ソ ダ業界と日本曹達の成立 ( 1 5 3 ) 1 3 の先駆的技術者たる友礼の技術は即座に他所で採用されることになった。その 一つが 7年 に 渡 辺 和 太 郎 C 渡辺銀行頭取〕を社長に据えて設立された横浜化学 工業(株) (横浜市子安〕であった。同社の前身は横浜魚油(株) (石鹸原料の 製造〕であったが,新たに電解法ソーダの製造を計画,友礼を取締役として招 き同年 5月より操業開始したのである。また一方,黄燐赤燐などを製造しつつ あった富士化学(株)(静岡,富士水電社長白井新太郎経営〕でも電解法ソーダ 工業への進出計画があった。そこで友礼は同郷の先輩たる鈴木寅彦の援助を受 けて, 7年春,同社の建物設備を基礎として日本曹達(株) (資本金崎 10 万円〉 を創立,中野式電解法によって同年 5月から製造開始したのである 31) (この白 木 曹 達 は 9年に創立された日本曹達と区別するために,第一次日本曹達,ある いは旧日本曹達とよばれている〉。同社は大戦景気の波ヒ乗るべし早速工場の 拡張工事に取りかかった。 このようにして友礼はと tに 2つの会社の技術面を掌握する ζ ととなり,ょ うやく彼の苦労も報いられるかに見えたのである。ところが同年末,いよいよ 生産が軌道に乗らんとした矢先,第 次大戦は休戦を迎え経済界の様相は一変 した。製品の売行きが止まったばかりでなく銀行融資も停止されたため,第一 次日本曹達の場合,工場拡張代金すら支払い不能となり操業開始早々にやむな く富土水電によって買い潰される結末となった。ソーダ工場だけは富士水電 (株〉曹達部として命脈を保つことになったものの は旦夕にして終りを告げた J S2lのであ品。 Iここに第一次日本曹達 これを機に友礼・鈴木寅彦らは同社 との関係を辞した〔前記・横浜化学工業の方も,戦後不況期はもちこたえたも 3 年の青島塩り輸出禁止によって違に全工場の運転中止従業員 ¥っ τ休業同然となり,さらに 1 の大整理にまで追い込まれたのである〈再開は昭和 2年〉。以上の詐掴については注 4)の文献の 推か,旭硝子〈株〕臨時社史編纂室『社史j 1967,ダイヤモンド『ソーダ(徳山曹達 )j 1 9 6 7 ,鈴 木恒夫「唖間期尚本化学ム莱り競争構造 JW産券経済研究』第z c巻第 3・4号 , 1980,など書照. 3 1 ) I それを伝え聞いた保土谷曹達の技情陣はもちろん,旧部下遣は大挙して彼の傘下に馳せ参じ た 。 そのため磯村¢保土省曹達は技術陣ががたがたになり,一時は見るかげもないものにな った」ー前掲『中野主礼伝" J6 1 2 ベジ。 3 2 ) 日本曹達『二本木工場3 0 年史〔稿)j,1 9 5 1, 6ヘ タ。なお曹達部は大正日年 2月,同社の定 款変更によりついに庵止された. 1 4 ( 15 4 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 のの 12年の関東大震災によって倒壊全焼し,再起不能のまま自然消滅した 後 述〕。 かかる L、くつかの転変を経た後,ついに友礼のソーダ事業は本拠地を定める 契機をつかんだのである。それは鈴木寅彦の斡旋により日本電気亜鉛(株〉 (資本金100万円,新潟・二本木工場〉 の経営再建に参画することによってで あった。そもそも同社は大戦による亜鉛需要の増大を狙って,関川水系(越後 電気〉の余剰電力を活用すべく,大正 6年,辰沢延次郎ら東京瓦斯の関係者に 当初 よっ C創立された企業である。同年 9月,越後電気から低廉な電力供給 t 600kw) を受け亜鉛精製の操業を開始した。しかし,創業間もなくり休戦は同 社を直撃,早くも経営難に陥った。そとで,かねてから経営参画を委嘱されて いた友礼らは,第一次日本曹達が閉鎖された直後 (7年 12月 ) , その従業員の 大半を引きつれ二本木工場へと乗り込んだのである即。彼ほ早速,a:名を日本 電炉工業(株〕と改称し経営再建に取り組んだ。しかし亜鉛電解は技術的に障 害が多く月に一万円もの欠損が続いた。そこで亜鉛精製を一時中止し塩素酸ソ ーダの製造に転換した。その結果,わずか一年で B分配当が可能となり,続い て金属ソーダ・過酸化ソーダの製造をも開始したのである。しかし,これら特 定の製品のみでは需要は隈られていたL,何よりも原料の苛性ソーダを自給す る必要があった。 躍その実力を見込まれた友礼は「そこを見澄まして,東京 瓦斯重役連中に曹達会社を創れ,曹達会社は絶対に儲かる J34)と説いて, つい に大正 9年 2月,新会社の設立にまで漕ぎつけたりである。これこそ,のちに 日曹コ γ ツェノレ Y の中核をなすべき日本曹達(株〉の誕生であった。 ところで,前掲第 3表に列挙した電解法ソーダ企業は,その進出の仕方によ っ C 次 O~ 3類型に大別できる鈎 30 第 1類型は,その前身が明治期に設立された ノレプフン法ソーダ企業または「晒粉専業企業」であり,たとえば前に見た関東 3 3 ) 涯首引き受汁の条件として,友礼は経営実務の一切を任せること,および人事の入れ替えの 2 点を要求し事れられた.社長ほ畏択延枕郎,友礼仕尊璃 i と就いたロ 3 4 ) 前掲『これからの事業これからの経営J3 3ページ。 3 5 ) 前掲『現代日本産業発達史皿Jl2 2 2 -3ベ ジ 。 大正期ソーグ業界と日本曹達の成立 ( 1 5 5 ) 1 5 酸曹中南海晒粉などが属する。これらの企業は旧法を廃棄して電解法へ進んだ の で あ る 。 第 2類型は,ソーダ〔塩素〉利用産業における企業が原料ソーダ(塩 素〕の自給を目的 Eして進出したものである。前述〔注 2 3 ) )のように,電解法ソ 一ダは小規模経営が可 入企業が自給企業へと展開したものである。たとえば三井鉱山〔三池染料工業 所 〕 や 日 本 染 料 な ど が こ れ に あ た る 制 。 最 後 の 第 3類 型 は , 新 た に 電 解 ソ ー ダ 専業企業として設立されたものであり,本稿の対象たる日本曹達こそはこれに 属 す る 。 こ の 第 3類 型 に 属 す る 企 業 は 多 く , 友 礼 が 関 係 し た 程 ヶ 谷 曹 達 , 横 浜 化学, (旧)同本曹達などの外,大阪曹達や旭電化などがあった。 ところc,前述のように明治期に創設されたノレプラン法ソーダ企業はいずれ も 硫 酸 工 業 と 切 り 離 し て は 存 在 し え な か っ た の に 対 し , 電 解 法 0)登 場 は ソ ー ダ 工 業 を 硫 酸 工 業 か ら 切 り 離 し 独 自 の 工 業 と Lて存立せしめたことを意味した。 しかし,今度はその企業化の要件として新たに低廉な電力の供給問題が牛じた のであり,とのこ Eは 特 に 新 設 の 電 解 法 ソ ー ダ 専 業 企 業 ( 第 3類 型 〕 に と っ て 重 要 で あ っ たo し た が っ て , こ れ ら 企 業 の 設 立 に は 直 接 間 接l こ余剰電力の利用 問題が絡んでいたことが指摘されるべきである。日本曹達の場合も,友礼が日 本電気亜鉛の経営再建を引き受ける際,同社が低廉な電力供給を保障されてい た こ と が 一 つ の 重 要 な 契 機 と な っ て い たmo きて,日本曹達(株〉の創立総会は大iE9年 2月 に 聞 か れ 「 創 立 趣 意 書J , 3 6 ) 拙稿「三井系化学企業と右開化学コンビナート IF 大阪経大論集』第 1 2 3 号 , 1 9 司,同「戦前合 2 E号 , 1979,参照。この第 2類型の企業杭続出しだすのは 成熟料工業と企業類型」周上第 127• 1 昭 和 6年以降であお。もっとも,これとは逆に「ソー〆企業」の方から各種のソーダ(塩素〉利 用産業へ多角化することも多(,ほかならぬ日本曹達が日曹つンツェルンを形成していく重要な 契機となった。 3 7 ) 同社の経営再建にあたり「大丈夫計葬が立つと腕んだ」理由の「第ーは二本木は非常に電力が : n ペーク。 i 記;尻〔第一次回本曹 安いこと」であった。前掲『これからの事業これからの経営J: 達]の跡弛末がすむと中野は日本電気E鉛の工場を見に行ヲた.契約電力は[第一次〕日本曹達が ,6厘であって安い J, 富士水電から買っていた 300KW,K W H8厘応対1.-,三本木は剖 OKW 号 , 柴村羊五「日木化学工業を輔いた人々 (24) 中野主礼 E日本曹達J F化学経溝Jl1970, 4月 84 へージ。 i 体戦と同時に事業界は火の消えたような状態だが 6亜の電気が使えるとなれば,な んとか商売になるだろうム前掲『中野主礼缶~ 6 9ペ ージロ 1 6 ( 1 5 6 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 「起業目論見書J ,r 定款」が定められた。資本金は 75万円〔払込22.5万円),社 長に鈴木寅彦,専務に友礼が就任した'"。新工場は二本木の日本電炉工業の工 r 第一着手ト 場に隣接して建設されることになり, 造」叫するため即座に着工され始めたのである。 テ苛性曹達及晒粉ヲ製 j 使用電力は日本電炉工業と同 1年末,中央電気となる〉と契約締結 L,最大交流3 0 0 様に越後電気(株)(大正 1 kw(lkw年 額8 5円)が供給されることになった刷。 乙うして友礼は C I本電炉工業および新生の日本曹達の 2社の実質的な経営 者として,折しも戦後不況の嵐の中へ突き進ん Cし、くことになったの Eある。 しかしその前途は多難が?想された。 IV 曹達晒粉開業会と晒粉連合会 日本曹達が創立された大戦後のわが国経済界は日増しに不況の底へ追い込ま れていった。同社創立の翠 3月には東西株式市場における として経済界は恐慌状態に陥ったのである。 大パニックを発端 r 戦時中,事業界一方の呼び物と なってゐた化学工業界も,休戦と共に一大整理を行ふの止むなきに到り各社共 多大の打撃を蒙ったが,更に昨 [9J年来の不況に遭遇するに及んでは,単に 各種会社の浮沈が問題となるのみならず之等の事業が大局上我が国に成育する 41)となってきたのである。 や否やの大問題J ソーダ工業も例外ではなかった。 前掲第 3表で見たように,第一次大戦中には価格暴騰した苛性ソーダの生産 を狙って数多くの電解ソーダ企業が設立された。 r 開戦以来之〔苛性ソーダ〕 が製造を企画するもの各所に続出し其数は今や 17,8ケ所を算し, 大正 6年の 産額は戦前の 2倍以上に達し,昨年 (7年〕の見込産額四如きは戦前の 4倍に 垂んとしてをる」的。 加えて,ノレプラン法ソ グ企業も戦時中は大いにフノレ操 38) 取締役としてはこり 2名目はかに,渡辺勝三郎,若尾謹之胡,磯部骨次,武和二郎,辰沢延次 郎の 5名が就いた, I日本曹連株式会社創立総会決議録 J . 1920 3 9 ) I日本曹達株式会社創立趣意書 1 ,1 9 1 9 , 0 40) 前掲『二本木工場 3C年史〈稿)~ 1 2 0ベ ージ。 4 1 ) W 東洋経済事辞む大正 10年6且1 1日 号 , 17へージ。 4 2 ) 向上,大正 R年 1月見 R号 付轟, 72へージ M 大正期ソ 業した制。しかし, ダ業界と日本曹達町成立 ( 1 5 7 ) 1 7 7年 1 1月 休 戦 を 迎 え る や 大 量 の 輸 入 ソ ー ダ の 再 流 入 に よ っ て国内における需給不一致は一挙に顕在化し,かかる熱狂的なブームも価格暴 2月 , そ の 対 策 と し 落 ( 前 出 第 2表 〕 と と も に 消 滅 し た の で あ る 。 こ こ に 同 年 1 4 社 は 「 曹 達 晒 粉 同 業 会 J(幹事,関東酸曹・旭電化・日 て 当 時 の 主 要 製 造 業 者1 本舎密〉を結成した。同会の目的は,①苛性ソーダ・晒粉の経費割当問題②原 料塩輸入問題①関税改正問題④電極輸入問題,など同業者間の共通問題を協議 することにあった州。 しかし,同会がこれらの諸問題に取り組む内に事態はますます悪化の一途を た ど っ た 。 た と え ば 謹 8年 に は 過 去 最 両 の 生 産 量 を 記 録 し た の に 加 え て 大 量 の 思 惑 輸 入 も 重 な り , そ の 供 給 高 は 4万 6千 余 ト ン の 巨 額 に の ぼ っ た の で あ る (前掲第 1哀〕。これは過去最高の 6年に比べても1.5倍以上であり, ζ の結果供 給 の 大 過 剰 を 招 来 し 市 価 は 暴 落 し て い ヮ た 。 さ ら に 加 え て 翌 9年 3月 来 の 反 動 恐慌による需要激減が追いうちをかけたため,ソーダ・晒粉ともいよいよ「在 荷 の 山 積 」 と な り , こ と に 同 会 は 9年 6月,別途にカルテノレたる「晒粉連合会」 を 組 織 し , 翌 7月 か ら 晒 粉 の 価 格 協 定 お よ び 生 産 制 限 を 実 施 し た の で あ る o 晒粉は前述の如〈苛性ソ一戸製造の際の副産品であり,通常,苛性ソーダ 1tに つ き 晒 粉 は 2 . 2tの割合で副産される。 は量的に晒粉がほとんど唯 当時,塩素の有効利用策として のものであった刷。同会が苛性ソーダではなく副 産品たる晒粉だけを協定の対象品目とした理由は,①上述のように両者の生産 4 3 ) ルプラ噌ソ ダ企業としては関東酸曹 日本舎密の止に加えて, 防局直同法に依る鵡 業6会社にE びたる J, 6社とは,三園舎蜜工場伏正 5名大阪),丸菱製薬何年大阪), E井鉱.u (同,大牟田),大飯晒粉 ( 7年、大阪 λ 下里製薬所〈同,排), 厚狭化学工業(岡, 山口)であ勺た.前掲『調査資料』第 3 2号 , 93ベージ, 97-8ページ, ,ルプヲン法隆盛期聞は大 戦当時の 3-4年間」であったロ 『ソーダと塩素』第 3巻第 5号 , 32へージ. 4 4 ) このうち,たとえば苛性ソーダの関税率改正については同業会の運動が奏功して,第4 4 議会 ( 大J E 1 C年〉において両院通過し,その結果,従来の 1 0 0斤年7 0 銭の課税率が 1円5 0銭に改定さ れた. 4 5 ) 晒粉以外への塩素の有拍利用としては,大正 6年に程ヶ谷曹達エ場が植イ t 塩素を製造開始した 均九当時の用途は化学実験用〈のちは上下水殺菌)に限られていた.ま b 同社は 1 0 年から合成 塩閣を開始,翌日年には旭電化も開始したが, これも分析実験用に少量用いられたに過ぎなか った.また 1 5 年には大日本人造肥料・旭電化の両祉が同時記高度晒粉の製喝を開始している。因 みに水素の令効利用とし亡は.先田合成塩酸のほか 6 ニ.大正 8年,旭電化が寝泊拙〈翌 9 4に / 1 8 ( 1 5 8 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 割合が一定しているため晒粉を生産制隈すれば苛性ソーダも自ずと制限されう ること,②苛性ソーダが安価・高品質の輸入品に圧迫され採算割れの状態であ ることから,輸入のない晒粉(すなわち「苛性曹達製造業者の安全弁.., J )の 価 格維持を図ることにより窮状を脱しようとしたこと,に求められる。このこと は,逆にいえば晒粉需要の範囲内に合わせて苛性ソーダの生産量が制約された ことを意味し,したがって,前掲第 1安に見たように,恰かも輸入苛性ソーダ のため前以って大半の市場を空けて待つことになったのである。 それはとも角,まず「安値不売を厳守」するべ〈実施された位格協定の内容 の方から見ていくと,晒粉をその品質〔有効塩素含有量)に応じて 5段 階 に 分 け,さらに取引数量および契約期間の長短により「注文主」を甲乙丙の 3種に 区分し,各々回協定価格を定めたのである判。当時の晒粉の最よ需要者は製紙 業者であった。したがって「右価格の標準は晒粉の主要消費者である製紙会社 4S) で あ が特別の機関を造って其の自給をなすに到らざる程度を採算したもり J った。第 4表は晒粉市価の推移を示している。 次に生産制限の方をみる}:.,その制限率の推移は第 5表の漏りである刷。 50 %から 65%もの高率操短が継続された ζ とからも p いかに需給の不 が大きかったかがわかる。 11 年1 1月から制限が撤廃されたのは, 致の程度 もち論その必 要性が消滅したからではなかった。価格協定および高率操短の効果はようや〈 1 0 年下期頃から出始めていたとはいえ,依然として有力企業を除〈ほとんどの 企業が採算割れの状態に苦闘し続けていたのである。 r 晒粉同業会は極度の生 産制限を継続して居るにも拘らず其目的たる市価の維持を達成するに由なし ¥はさ b に石曲〉の製造を開始している。日本曹達の場合,これら連産品の有効利用にはいずれ も遅れをとった(後述 L 4 6 ) W 草津怪済寿南』大正 1 0 年7月2日号. 3 0へ 止 47) 甲種は 5 0 0 : 箱以下, 6ヶ月以下の注文者,乙種は 50Q-I00()箱 , 6ヶ且以上の注士者,あるいは l o o C範 以上, 6ヶ月臥下町注文者,丙種は 1000箱以上, 6ヶ 月 ι上の注士者四 『東洋経揖新報』 大正 9年 7月1 0日 号 , 25 へ-~. 7月且日号, 24ベージ。 48) 同上,大正 9年7月1 0日 号 , 2 6 ページ。 4 9 ) 四百粉の生産量は勿論生鮮E 力から割り出吉れたが,硬化油を製造している工場には水素系数 として幾分の生産量増加を認めていたム前掲『日本申曹達工業~ 1 6 べ 山 大正期ソ ( 1 5 9 ) 1 9 ダ業界と日本曹遣の成立 第 4表 晒 粉 市 価 の 推 移 (単位中等品 1箱,円〉 月 l 大正 3 4 ' 1 2月 1 5 . 7 0 5 . 6 0 5 . 8 0 5. 4 0 5 7 . 0 0 1 4 . 5 0 6 11 0 . 8 0 1 0 . 0 0 7 1 8 . 5 0 9 . 0 0 3月 1 4月 1 5月 1 6月 1 7月 5 . 5 0 5 . 3 5 5 . 7 5 . 6 0 5 5 . 6 0 5 . 6 5 5 . 5 5 5 . 5 5 11 6 . 5 0 1 0 . 5 0 1 7 . 80 0 . 5 0 1 9 . 6 0 9 . 5 0 9 . 0 0 8 . 5 0 1 7 . 5 0 7 . 5 0 .8 0 8 . 8 0 . 9 0 8 13 7 . 5 0 8 . 6 0 14 8 . 6 0 8 . 5 0 8 . 5 0 8口O 昭和元 8 2 7 . 5 0 6 . 7 0 7口D 3 5 . 5 0 5 . 0 0 4 . 5 C 7 . 5 0 1 9月 瑚 州開i l' . 7 5 5 . 7 5 5 . 8 5 5 . 4 0 5. 4 0 5 5 5 . 6 0 5 . 4 0 5. 4 0 5 5. 2 . 0 0 9 . 2 0 9 . 5 0 9 . 2 01 0 . 0 01 0 . 5 01 . 3 0 . 5 0 9 . 0 U 8 8 . 0 0 8 . 0 0 8.70 8 5 . 7 0 5 . 7 5 5 . 7 8 . 2 0 8 . 0 0 7 . 8 0 7 . 5 0 7 . 8 0 8 6 . 0 0 5 . 5 0 5 . 5日 5 . 6 0 5 . 7 0 5 . 9 0 6 . 5 0 9 11 5 . 0 0 1 3 . 8 0 1 0 . 5 0 5 . 5 0 1 5 . 5 0 1 2 . 0 0 1 0 . 5 0 1 0 . 5 0 .50 11 .0 0 9 . 6 0 9 . 6 0 1 0 . 5 0 1 1 0 1 11 9 0 7 5 0 5 ( ( 10口0 1 0 . 0 0 1 1 11 0 . 6 0 10口D 1 0 . 0 0 1 0 . 0 0 1 1 2 1 7 . 5 0 7 . 5 0 8且 7 . 2 0 8 . 5 0 8 . 0 0 . 5 0 8 . 5 0 9 8 . 5 0 8 . 2 0 . 6 0 8 . 3 0 8 7 . 8 0 7 . 0 0 . 8 0 7 . 8 < 8 6 . 8 0 6 . 0 0 6 . 5 0 6 . 0 0 . 2 6 6 . 5 01 7 . 5 0 6 . 8 5 7 . 8 1 2 . 0 01 .50 1 1 .00 1 1 . 0 0 1 1 . 5 C1 1 . 5 0 11 0 . 0 0 5 0 10日 1 0 . 5 01 0 . 5 01 10. 1 0 . 0 0 8 . 0日 7 . 8 0 8口0 . 3 C 8 7 . 5 0 8 . 5 0 8 . 5 0 . 5 C 8 . 5 0 8 . 5 0 8 . 5 0 8 . 8 0 8日 8 . 0 0 8 8 . 8 0 8 . 8 0 7 . 5 0 7 . 8 0 . . 0 0 6 6 . 2 0 7 . 0 0 6 . 8 0 6 . 0 0 6 . 0 0 5 . 0 0 5 . 0 0 5 . 0 0 5 . 0 0 5口 1 4 . 80 8 .7 0 8 . 5 0 8 . 5 0 7 . 5 0 7 . 0 0 7 . 0 0 6 . 0 0 5 . 5 0 5 . 8 0 . 5 0 5 . 5 0 5 . 5 0 5 備考前掲『改訂増補日本曹達士巽史Jl3 2 3 , 3 3 7 へージ。 第 5表 晒 粉 生 産 制 限 率 の 推 移 1 1月 大正 9 10 50 11 55 1 2月 60 55 1 3月 1 4月 1 5月 6日 60 6 0 60 6 5 6 0 1 6月 65 65 12 13 14 昭和元 2 3 4 1 7月 2 0 6 0 6 5 1 8見 50 60 65 1 9月 │ 町 │ 明 50 4 0 4 5 6 0 6 5 6 5 6 5 6 5 1 ' 2月 3 5 60 ( 1 5 ) ( 15 ) ( 1 5 ) ( 1 5 ) 30 35 3日 3 旧 3 5 40 40 岨 25 10 2 5 2 5 1 0 10 25 3 5 40 2 5 10 1 5 2 0 20 2 0 2 0 2 0 20 45 20 25 4 5 2 0 40 2 0 3 5 45 2 5 40 4 5 25 35 20 2 5 2 5 1 8 10 15 1 5 15 1 5 1 3 13 13 40 却 備 考 前 掲 『 日 本 曹 達 工 業 史J1 8 8 9ベージ 輸出向けの生産は制限外に属した。( )内の数字 は『東洋経済新報」大正 1 2 年1 0 月 6日号, 2 8 ヘ シによる。 E 第1 2 7巻 第 2・ 3号 2 ⑪ ( 1 6 0 ) 市価は i 最 近 更 に 操 業 困 難 に 陥 っ た 会 社 が 2, 50 不振裡に推移してゐる J )0 3あ る 」 問 。 こ う し た 中 で 生 産 制 限 が 撤 廃 さ れ た 理 由 は カ ル テ ル 参 加 企 業 問 の 足 並みの乱れからに他ならなかった。 i 操短撤廃の背後には晒粉同業会員中二三 の有力会社が高率操短の励行,販売値段の協定を引続き厳守する究極策の得た るものに非ずとし此際断然自由競争に任せ小会社をして自然に淘汰せしむるの 第 6衰 各 社 の 営 業 成 農 (単位千円, 企業名・資本金│大正 9上 関東酸曹 公称 5, 000 払込 4, 125 ( 日 日 公 本 称 本 化1 学 3 舎 , 肥 00 料 D 密 〕 払込 8, 200 南海晒粉 公称 1, 000 720 払込 大阪曹達 公称 2, 000 払込 1, 063 旭 電 ヒ イ 公 称 2, 000 払 込 1, 488 横浜化学 150 公称 150 払込 7 4 4 4 5 . 8 3 7 . 0 1, 0 2 1 6 8 . 1 5 0 . 0 2 0 7 9下 10 上 O 216 1 0 . 5 1 2 . 0 528 。 1 0 . 0 701 ' : " " 1, 1 5 . 1 1 2 . 0 10 下 289 1 4 . 2 1 2 . 0 427 。 4 10. 8 . 0 %) 1 1上 300 1 4 . 6 1 2 . 0 49 。 1 .2 7 1 . 4 3 0 . 8 6 1 . 5 5 0 1 3 . 9 59 1 6 . 7 2 5 . 0 1 2 . 0 ' 1 0 . 0 1 0 . 0 1 0 . 0 73 1 3 . 7 ( 2 4 9 )円 3 1 0 1 0 0 1 6 . 0 8 . 0 F o o 2日 3 . 8 1 . 0 41 7 . 7 5 o 5 2 2 。 。 0 . 3 -38 0 . 3 32 P P O O 60 8 . 1 6 . 0 58 7 . 8 6 . 0 P i ? 1 .4 ? o 備考 各社の上段は利益金,中段は利益事,下段は配当率を示す,資本金(公称ー払込 1 午上期現在。ソ ダ関係事業以外ヘ多角化している企業もあるため営業 とも〉は 1 , 日本舎密 成績は必ずしもソーダ関係事業のみを示していない.関東政曹「考課状J 「官業報告書ム南海晒樹「営業報告書ム大限曹週[5昨史原稿 J,旭電化『社史旭電 fb 工業(株) J, 横浜化学『東洋経済新報』大正 1 1 年1 0 月2 1日 号 , 2 2ぺージ,より作成L 5 0 ) 5 1 ) r ダイヤモンド』大正 1 1 年 7且1 1日 号 , 14ページ。 r 東洋経済新報』大正 1 1 年四Jl2 1日 号 , 2 3ベ ジ. 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立 ( 16 1 ) 2 1 外なしとし・ー秘密裡に奔走した結果と伝へられて居る。果して然りとせば小 5 Z)o i それかあらぬか 会 社 に と っ て 由 々 敷 問 題 と 言 は ね ば な ら ぬJ に〕増産を計って居るものは殆ど大会社なのである」日〉。 凶〔撤廃後 このようにカルテノレ 参加企業聞の利害の不一致による操短撤廃は,それによって辛うじて保たれつ つあった需給バヲンスを再び混乱に陥らしめ,またも般烈な販売競争をひき起 こしたのである 5430 休戦後, とくに大正 9年 下 期 以 降 の わ が 国 ソ ー ダ 業 界 は , か 〈 し て 全 く の 低 迷 の 連 続 で あ っ た 。 第 6表は数社の 9年上半期からの営業成績の一例を示し亡 い る が , 同 年 下 半 期 か ら の 落 ち 込 み は 歴 然 た る も の で あ っ たυ そ し て , 白 木 曹 達がその操業を開始したのは,まさしく 9年下半期からであった。 V 大正年間における日本曹達 大 正 9年 2月 に 設 立 さ れ た 日 本 曹 達 が , 二 本 木 工 場 を 完 成 さ せ 操 業 開 始 し た の は 不 況 が い よ い よ 深 刻 の 度 合 を 増 し た 同 年 6月 で あ っ た 。 以 下 , 操 業 開 始 後 の同社の内容について見ていこう。 まず第 7表は同社(二本木工場)の生産品目および生産量の推移を示している 〔販売高の推移は資料欠如のため不明〕。 生産品目の中心は苛性ソ ダおよび 晒 粉 で あ り , 操 業 開 始 時 の 生 産 能 力 は そ れ ぞ れ 月 産8 0tおよび 90tであった'"。 これは 1 4 年 ま で に そ れ ぞ れ 月 産 290t ,4 1 0tへと急激に増大した。 他社と比べてみると,たとえば五要企業の これを先発 つであった旭電化は 9年 に は そ れ Wダずヤモンド』大J E l l 年1 1 月 l日 号 , 17へ i九 同上,大正 1 2 年 5月 1日 号 , 69ベーこらまた「裏面における服売競争は相当散しかった 方面に蝶々が舞っているとか, リスが飛び出したとか,また雪見が現われた すなわち巷聞に xx とかいう噂が出た e 蝶々は大日本人造肥料, リλ は!'"電化工業,雪見は日本曹達等それぞれの会 社の商標であって,ある会社の製品が也の会社の地盤に噴い込んだことのたとえ話であった. ひどい例としては回国万面で 値段は協定価格を守っているが晒粉の摘を聞けた処 50銭盟貨 が出たと云う事もあり,如何に阪路拡張に扱々たるものがあったかが窺われるム 前周『日本の 曹達工業~ 2ι9へージ. 54) r 向後需給円調節は全〈破壊せらるることになり市価は何処迄惨落するのか予測すべくもない J . 『東洋経済新報』大正1 1 牢1 0 月2 1日 号 , 23へ 少 。 55) 両者の能力比が 1対 2 . 2 からかけ離れていた理由は不明 5 2 ) 5 3 ) M 2 2( 1 6 2 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 第 7表 白木曹達三本木工場の生産量の推移 1 1 0 11 1 1 12 1 1 3 11 4 1昭和元 製品名│単位│大正 9 苛性ソタ 粉 晒 四塩化錫 五塩化燐 水素ガ λ 三塩化燐 硬化油 金属ソーダ 過酸化ソ ダ 塩素酸ソ タ 酸三塩化燐 塩化硫黄 出荷メタノレ 液化塩素 I2 I3 942 2, 787 3 , 3 6 2 4, 2 4 5 1 , 1 3 71 , 4 8 8 1, 075 2 , 1 8 9 2, 334 062 6, 737 7, 1 6 6 9, 617 2 , 8 7 1 4, 347 4, 849 5 , 307 5 6 7 2, , 067 2, 494 575 1 , 0口D 4 0, 7 9 8 0 13 , 6241 440 1 , 466 kg 7, , 690 2, 13 8 2 9, 257 3 , 1 1 3 4, 060 4 , 081 1 , 8 6 0 1 , 240 kg 0 , 2 8 2 1 1 0, 8786 250 1 4 5, 255 1 4, 4 6 m' , 833 5 , 315 1 9, 5 3 7 55, kg 236 6 6, 9 81 307, 692 888, 833 kg t 7 i 1 5 1 8 2自 2 7 1 270 t 2 9 1 t 2 8 382 kg 1 , 2 7 2, 312 kg 1 5 888 1 0 , 660 kg 26, 940 kg t t 備考前掲『二本木工場3.竿史〈稿)~ 1 3 0ベー ι ぞれ 200t ,460t , 14年には 210t ,625t であった聞から,日本曹達は急速な設 備拡大〈後述の「積極的経営方針J) によって大正末年までに同社にほぼ追い ついでいる。実生産量でも宵1 ¥7:翌年の 1 0 年時点でみると.最大手であった関東 140t には遠く及ばなかったものの旭電化〈それ 酸 曹 の 「 晒 粉 曹 達 類J合 計 17, ぞれ957t,2, 398t ) や大阪首達(それぞれ 847t,1, 653t ) には早くも追いつい ており ,同社は「ソーダ企業」としては当初より一定水準の企業としてスタ 57) ートしだことがわかる。また,同表において大正 15 (昭和元〉年に生産品回数 が一挙に増加しているのは,後述するように,同年,隣接の日本電炉工業を吸 収合併した結果,同社の製品(金属ソーダ,過酸化ソーダ,塩素酸ソーダ〕が 付け加えられたことによる。したがって,ほぼ大正年聞における日本曹達は苛 性ソーダの製造およびその副産塩素の有効利用としての晒粉を中心品目とする 5 6 ) 旭電化工業『社史旭電化工業(桂川 1 9 5 8,4 5 5ベ ク。 5 7 ) それぞオL 関東酸曹は,(犬lEI 0 年上下期)考課状ム岨電化は向上,大阪曹達は社史編纂委員会 5 C 年史原稿 J1 9 6 4 ,2 8 5 6へージ。 , 大 正 大正期ソ ダ業界と日本曹達の成立 第 8衰 日本曹達の工場の推移 ( 1 臼) 2 3 9 二本木工場 1 0 11 1 2 13 1 4 1 5 . 1 1 矢代川第↑陣地d r 2 3 5 品協各 日ユ副長川同ー ι lκ : U U M樹 5一お蔽L 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7ュ8 9 0 1111 111112 ー i i l t h i l l J 1 作 成 4も と を 況 概 社 会 式 制 阿H ほ : 古 当 , 若干の塩化物を生産する極めて平均的な 曹 本 ﹁ 山 場舗 hmw 鞍 1 i p i l i i i l f 除 怯江戸棚 1 1 一新党刊工助謂 M T 仙同区同ド概 附加江戸│││川加持円 川T 15 川 ︾償却力維古川曹 ー川 clt1111111RH 阪い院予抱一附﹁ ol f 八 代川省ニ光同町明 和 昭 前 同 備考 3 . 9 会津工場 A 富山工場 昭" 和 個の「ソーダ企業」にすぎな かったのである。大正年間における同社の生産内容からは, まだ後年に回曹ヨ ンツェノL γ を築きあげていく兆などほとんど看取できない。 次 に 第 8表は, 同社の工場の推移を一覧したものである。 この表からも明ら 由冶なように, 同社が矢継吉、早に多数の工場事ヲ設守: (あるいは買収〕するのはお よそ昭和 8年 前 後 か ら の こ と で あ り , 少 な く と も 大 正 年 聞 に は 二 本 木 工 場 が 唯 2 4( 1 6 4 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 ーの工場であった。二本木工場は日本電炉工業の工場に隣接して立地L.,創立 時には工場敷地 1 0, 5 7 2 坪 , 建物棟数 12,建坪 991坪の規模であった。 それが 14 年には,敷地 49 , 839 坪,棟数 26, 建 坪2, 174 坪へと増加している。同工場の実際 のレイアウト図は欠如しているが,前述の生産能力や実生産量の伸び,および これらの数字から見て,同社は,同業他社が停滞を続けた大正期後半に,かな りの展開を遂げていることがわかる(因みに,昭和 12午の同工場は,敷地 197 , 378 坪,棟数 393,建坪26 , 917 坪とまさに飛躍的に増大している )58)。 二本木工場の大正年間における組織機構の詳細については資料が欠如してい る。ただ判明しているのは,宵!な当時の同工場長は「工場管理人」と称され, その配下の各製造現場・分析室・事務室に「主任」がおかれたこ1:.,つまり 「工場管理人一主任 一般労働者」という体制がとられたことだけである問。 しかし,その組織図の詳細も然る ζ とながら,より重要なことは,同社(二本 60 木工場〕の組織がすべて「技術者・中野友礼」個人への「直結職制J )と な っ ていたことにある。すなわち!友礼は実際の製造技術面の指揮監督権をも直接 掌握していたため,工場管理人・主任と L寸 組 織 は 彼 に と っ て は ほ と ん ど 形 式 以上の何物でもなかった。いわんや,技術者優先主義である友礼にとって「事 務屋」の組織などもっと軽視されたことは疑いなレ。かかる「直結職制」は企 業 規 模 が 小 さ い 時 は 珍 し く な し む Lろ企業創立時には普通にとられる組織形 態でさえある。しかし日本曹達の場合 s 創立者たる友礼個人への「直結職制」 はほぼコンツェルン体制ができあがる頃まで続いたのである。すなわち, i 二 本木工場の前半期は生産第一主義の標傍の許に発展時代主迎えても且つ生崖部 門 D 拡大にも拘らず managcmcntsystemということについては余り考慮が加 えられなかった J "日。「日本曹達の飛躍時代を迎えて相次ぐ製造業種の増加から 従来の直結職制より責任。分担ということが強調され」それが実現されたのは, 5 8 ) 以上の数字は,前掲「二本木工場3C 年史(楠)~ 63ヘ ージー 5 9 ) 向 上 , 3 3ページーなお日本電炉工業(二本木工場)の工場長は「製錬所長」と称されて L、 た 。 6 0 ) 向上. 3 4ヘーク. 6 1 ) 向 上 , 3 3へージ。 大正規ソ 5 )2 5 ( 16 ダ業界と日本曹達の成立 哨一女 1 2 9 1 3 9 1 4 2 1 6 7 1 8 5 2 1 8 2 5 8 2 7 9 2 8 5 2 7 3 2 8 2 2 9 7 4 2 4 6 5 5 8 5 3 1 , 3 5 5 , 4 9 3 1 1 , 8 4 8 1 6 8 2, 4 7 0 2, 2 , 6 2 7 6 6 6 2, 4 5 0 4, 5 3 7 5, 2 1 9 6, 6, 5 1 0 3 3 1 0 0 2 2 7 5 0 6 5 3 6 7 3 0 1 , 5 7 0 2 , 1 6 2 1 4 4 1 5 3 1 5 4 1 8 0 2 0 2 2 4 0 2 8 1 3 0 3 3 1 1 3 0 1 3 1 1 3 3 2 4 6 3 7 0 5 909 1 , 432 , 5 8 1 1 1 , 9 5 0 2 , 3 2 1 2, 7 1 9 3 , 0 1 8 3 , 3 4 6 5, 4 4 8 6, 8 7 6 8, 770 9, 749 備考 前掲『二本木工場3 C年史(稿).16 7 ページロ ただし,大正 9年から昭和元年までは「従業員 について工場作費面及会社経営の諸事情から日 本曹達と日本電炉工業心在籍者を区分すること が予言車む (同前 日へージ】なため両社〔両工 場〕の従業員を 括した。学徒は官まずロ休職 者は軍事休職お土び世休職¢合計ー 塩水蒋解 苛性電解 粉 晒 苛性蒸発 金属ソーダ 過酸化ソ ダ 塩素酸ソ ダ 電 気 金 ニ ヨ 木 工 運 損 控 分 析 守 衛 炊 事 事務(合雑務〉 合 4 7 1 2 1 0 2 1 7 1 5 7 9 5 1 1 2 4 2 1 。6 2 計戸可 4 状一計 置﹁│ 務一 耕一 員計 業合 蜘一拍 41 8 8 1 0 2 1 2 6 1 4 9 1 6 4 1 7 4 4 6 2 6 0 9 9 8 1 , 0 7 7 1 4444 77 紅同 1~ 1 6 1 7 1 8 1 9 2 0 1 5 1 4 1 2 1 3 1 7 2 2 2 3 2 4 2 6 2 8 2 9 3 5 3 9 5 0 5 6 本一 一 員 : 、 司 2 3 4 5 6 7 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 酌数一員 昭和元 本の寸! 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 連諸-一市 曹措一ヲ 大正 9 表一社 “ 。第 ょ う や く 「 昭 和1 2 年 B月 部 長 制 が 設 け ら れ た 」 叫 〉 頃 の こ と で あ っ た 。 4 7 1 2 1 0 2 3 7 1 6 7 9 5 1 1 2 4 6 6 1 3 1129 備考前掲『二本木エ場3 C年史〈稿 )A6 5 6 ベ ク。日本電炉I業の在籍者を含むロ 6 2 ) 向上, 3 4 へ-:)-,宜札は日曜祭日ごと に東京の本社から三本木へ出掛け,終日 工場を見て歩いて直接細々とした指示を 己に上る「中野さんの憶 下しているロ各f い出 J ,前掲『中野友礼倍A . r 青年化学 技岬中野が発聞を事はれ路傍に無一文で 追地り出された過去の苦い経験から,彼 は所謂事諦屋の無能と浮薄を軽蔑してゐ る.事務屋などに使はれるのを屑しとせ 血ばかりか,事務量を使はうともしない. 技輔さへあれば事業は成功するものとノ 26 ( 1 6 6 ) 第1 2 7巷 第 2.3号 次 に 二 本 木 工 場 の 従 業 員 数 の 推 移 を 示 し た の が 第 9表 で あ る 。 大 正 年 間 に は 顕 著 な 変 化 は な し 飛 躍 的 な 増 大 が 見 ら れ る の は 矢 張 り 昭 和 8年 前 後 か ら で あ 0 表に る 。 因 み に 「 労 務 員 」 が ど の よ う に 配 置 さ れ て い た か を 知 る た め に , 第1 操業開始当初の状態を掲げておいた(なお社員 1 5 名 の 内 訳 は 技 術 者1 0名 , 事 務 5名であった)。 さて,同社は 9年 2月 に 創 立 さ れ て か ら 二 本 木 工 場 の 竣 工 ま 己 り 4 ヶ月聞は 「化学薬品ノ仲介」を行っていたにすぎないが,その間に反動恐慌が突発し, 「現時財界不況ノ為メ直チニ予定ノ成果ヲ挙グノレコト容易ノ業ニアラサノレへ キ」山状勢に直面した。 しかし い よ い よ 周 年 6月 二 本 木 工 場 は 操 業 開 始 さ れたのである。操業開始と同時に「業務上ノ必要ニ拠リ曹達晒粉同業組合ニ加 入J ' 心した。当然ながら,後発であることに加えてスタートの出鼻を挫かれた 同社にとって, 特に前途は多難であった。 操業開始当初は, その努力を専ら 「日本電炉工業との融通性・合理化」舶を計ることに注がざるを得ず,また「営 業報告書」に強調されているように「経費節約」を最高目標として全くの苦闘 を強いられたのである 。 し か し 友 礼 は か か る 状 況 に あ っても「積極的経営の方 針」聞を貫ぬき,次々と同業者が倒産する中でその機械を二束三文で買い集める ことも忘れなかった。 r 次第に世の中は不景気になり曹達会社の多くは破産す るものが続出した。不景気で日本曹達も余裕はなかったが,曹達会社其他の会 社で倒れたものがあると出掛けて行っては機械その他の機具を安く購入して工 、考へてゐるかもしれぬ。比の態度,心特が読の事業経営の上によく現はれてゐるム 前掲『新 興コンツェノレン読本Jl2 9 8ペ一三人「比の態度,心持」は日曹三ンツェルンが形成されてのちも続 有馬聖良 き,取締役会は友礼の専決体制によってほとんど形骨量化していたという.日本曹王者 OB 夫氏説また同社が「事業場独立合計制度」をとり λれたのは昭和 1 5 年以後であり,それまでは 本社において決算が行われていた凶前掲『三木木工場.eo 年史〈稿)~ 4 4 へージ。 かかる,友礼に よる「むしろ技術家雄裁の趣きをさえ呈したJ(大塚久堆「新興Z業としての化学工業J1939W 大 塚久雄著乍集』第 6巻 , 1969,279へ ジ)組織のあり方は, 同社の急速なョンツェルノイb成功 の原因であると共に,またのちの破綻の原因ともなった。 6 3 ) 日本曹達「第 1期営業報告書ム 64) 向上 P 65) 前掲『三本木工場3G年史(稿)~ 8ペ ージ。 66) 前掲『中野主礼伝~ 7 2ベージ。 ( 1 6 7 ) 2 7 大正期ソーダ業界と日本曹達の成立 第1 1 表 日本曹達 D営 業 成 績 〔単位千円,私〉 年 同 l 芸品」量主主 l 竺~I 借入金 l 具持 l 利益金!利益率|配当率l株主数 0 . 0 65 66 1 2 0 150 2 . 7 1 4I1 30I2 5 . 6 1 0 . 0 73 170 210 8 . 4 1 0 . 0 2 7 1 2 . 5 1 0 . 0 1 9 1 73 73 0 . 5 1 2I1 70 750I 7 5 0I 375 375 200 586 1 0 . 0I 73 24I1 2 . 9 1 0 . 0I 73 750I 750I 448 4 5 0 1 8 0 180 691 1 .0 1 0 . 0I 73 6 9 3 1 .7 1 0 . 0I 74 7 1 3 592 180 160 8 3 7 1 0 . 0I 75 7 5I2 5 . 2 1 0 . 0I 78 1 . 4 0 0I 1 , 120I 1 , 000 1切 110 1 , 792 2 , 114 1 1 0I1 9 . 7 1 0 . 0I 3 2 9 1 1 3I2 0 . 3 415I14mllm , 4 0 0I 1 , 400 1 6I 1 1 . 0 0 0 0 0 0 1, 5 5 47 2 . 3 0 3 2 , 423 1 3 2I1 8 . 8I1 0 . 0I 334 1 , 4 0 0I 1 , 400 , 000 1 , 000 1 47 346 620 2, 3 , 096 0 . 0I1 0 . 0I 342 1 4 0I2 1 4 9I2 1 . 3I1 0 . 0I 401 , 610I 3, 410 1 2 1 3 I2 1 .9I1 0 . 0I 782 ~印 3 臼!I 1 8 1I1 8 . 6I 8 . 0 ' 749 1 8 6 0 0I 1 , 9 5 0 3, 6 0 0I 1 , 9 5 0 3, 備考前掲『二本木工場30年史〈稿)~ 1 1 , 610I 3 , 859 4 2へージ,および同社の各年「宮業報告書ム 場 の 拡 張 を や っ た Jm 。 こうし ζ何 と か 創 業 直 後 の 経 蛍 困 難 を 乗 り 切 っ た 頃 , 晒 粉 連 合 会 の 操 短 の 効 果 も 手 伝 っ て , 第 11表に見るように 10年下期には l割配当にまで漕ぎつけたの である。大正末年までに 電 解 法 ソ ー ダ 企 業 。 半 数 が 事業中止に追い込まれでい 6 7 ) 前掲『これからの事業これからの産官~ 3 3 4ベージ. 2 8 ( 1 6 8 ) 第1 2 7巻 第 2.3号 った(前出第 3表 参 照 〕 中 で , 後 発 の 同 社 が そ の 後 大 正 年 聞 を 通 じ て 1割配当 を継続しえたのは, もち論,友礼の技術に負うところが大きかった。しかし, それに加えて,上述のよ う に 不 要 不 急 な 個 所 , す な わち工場事務所はもち論の こと,工場建屋,中心部以外の機器などはすべて中古品で間に合わせるという 経 費 節 約 」 方 針 も 大 き か っ た と 言 わ ね ば な ら な い 。 た と え ば 子 第 12 徹底した i 表 は 反 動 恐 慌 後 に 残 存 し た 11年当時の各企業の内容を示しているが, この内で 第 12表 大 正 1 1 年当時の晒粉製造企業 企業名 : “ 品 品 能 主 品 ぜ 料 i │ 所 在 同 資 本 金 問 資 本 金晒 粉 月 間 同 能 力 時 五 単 こ 東京 山口 和歌山 大阪 神奈川 大阪曹達 東海曹達 旭電化工業 三井鉱山 横浜化学工業 大 富 福 日 日 東 士 島 東 洋 化 子 電 電 水 工 業 士 電 灯〕 北海曹達 日本曹達 備考 福岡 名古屋 東京 大牟田 横浜 静岡 福島 富山 富山 新潟 5 千 , 0 0 円 0 4, 1 千 2 5 円 千 ポ8 3 ン2 ド 千 1 ポ , 8 0 ンD ド 1 3 8 円8 1 3 . 0 0 0 1 , 000 1 5, QOO 800 2, 000 8 . 2 0 0 7 2日 104 225 320 1 7 5 1 6 2 1 6 3 454 80 1 5 9 70 89 297 534 4 2 2 5 0 0 463 466 , 091 1 229 454 200 254 1 , 0 10 . 1 9 3 . 6 8 2 . 9 1 6 0 . 0 2 2 9 . 5 1 71 .6 1 0 5 . 3 休止 322 1 7 9 8 8 8 423 1 4 6 . 2 7 5 . 6 10 , 5 0 0 8 0 0 1, 0 6 3 1 , 2 5 0 2, 000 1 0 0, 000 1 5 0 3 3, 1 6 0 8, 000 4 0 0 6 6 3 1 . 5 0 0 62 , 5 0 0 1 5 0 3 , 000 750 1 . 8 0 0 225 1 6 . 1 4 8 5, 720 2 1 3 『東洋経済新報』大lEl1年 1 0 月2 1日 号 , 2 3ベ 8 3 . 7 2 1 4 . 0 1 3 7 . 8 ジ@ 同 社 は 晒 粉 1単位あたりの固定資産額が最小であったことに注目すべきである。 1 年1 1月に晒粉の生産制限が「有力企業」の策動によっ その後,前述の如く, 1 a lものの,同社がようやくその基 て徹廃されたことによって成績は落ち込んだ e 礎を固め出す契機は関東大震災によって与えられたのである。 12 (1923) 年 秋 の 関 東 大 震 災 は , 旭 電 化 , 保 土 谷 曹 達 , 横 浜 化 学 , そ し て 大 6 8 ) I 晒粉ニ至リテハ全国同業者ノ i 協定撤庵ノ結果市況頓ユ混乱ニ陥リシ為鋭意最善ヲ尽 γ タレト "終ニ別項目十上スル如キ成績ヲ事グル f 過キサリシヲ遺憾トスム日本曹達「第 6期営業報告書」。 大正期ソーグ業界と日本曹達の成立 ( 1 6 9 ) 29 日本人造肥料(株)主子工場(旧関東酸曹,大正 12年 5 月に同社と合併)の 4社 に大打撃を与えた。その結果,ついに横浜化学のみは再起不能に陥ったのであ る。しかし反面,大震災は一時的ではあれこれまでの在庫品および生産能力の 一大破壊という結果をももたらし, したがって, r 会社に依っては致命的打撃 を蒙ったに反し〔生産過剰に苦しんでいた〕斯界は寧ろ好影響を蒙J69)ったので ある。前出第 12表によれば,これら 4社の破壊された晒粉生産能力の合計は全 体 の ほ ぼ 5割を占めており るふ J 70Jζ r これに依って前途在来の弊は自然的に調節せら ととなったのである。 また,震災の影響はかかる直接の生産力破壊 にとどまることなし各種目ソーダ利用工業や晒粉利用工業,とくに製紙(洋 紙〉業の急激な拡張を呼びおこし仇また関東地方では新たに晒粉の弁水消毒の 用途が開拓されるなど,苛性ソーダ・晒粉需要は急速に伸張したのであるく前 掲 第 1表参照〕。 1 。 ) 日本曹遣の成績もこれに乗じて急激に好転した 7 しかし,かかる好況は一過性のものであ勺汗。震災被害の回復と 1 4 年夏から の製紙界の落潮は又もや需給不一致による I在荷の山積」を生み出し,晒粉連 合会は同年 7月から再び生産制限を開始せさるを得なかったのである。しかし, 一度その基礎を築いた日本曹達はこの間も着々と苛性ソーダおよび晒粉の能力 拡大を図る一方,他方で連産品の有効利用(多角化〕の途へと乗り出していっ た。これまで見てきたように,常に輸入ソーダの圧迫により経営停滞を余儀な くされてきた電解法ソーダ企業にとって,彼らの関心事こそは苛性ソーダ製造 の際の連産品(すなわち塩素と水素〉の有効利用策に他ならなかった。一方に 技術的改良のための種々の努力が積み重ねられて来たものの,これら連産品の 有効利用化=商品化による苛性ソーダ生産費の低減こそが,安価な輸入ソーダ に対抗するための唯一の武器であった。電解法によるソーダ工業の成否は塩素 6 9 ) W . 東洋経済新報』大正12年10月6日 号 , 29ペ一九 7 0 ) 向上, 2 8ベージー 7 1 ) r 此の機会に順応するかのように三本木工場は大正 11年電解槽の増設を行っておいたので部佳 年里(帯電).1 8ベ ジ円なお,当 ソーダ晒粉の噌産に努め<5事が出来たム前掲『三本木工場30 3 年 8月3 0日 号 , 34ヘ ジ 時の晒粉用途叩 7割は製紙業が占めていた。『東洋経済新報』大正 1 「晒粉の盛衰はーに洋紙方面の脅謬害如何にありム『ダイヤ毛ンド」大正14年10月11日 号 , 17ベ ジ 。 f 3 0 ( 17 0 ) 第1 2 7巻 第 2・3号 利 用 の 如 何 に か か っ て い た の で あ る 。 い う ま で も な し そ の 一 つ が 晒 粉 (=1 苛 性曹達製造業者の安全弁 J )の製造であった。しかし,これは既述のように,高 率操短を余儀な〈されることにより却って苛性ソーダ製造の桂梧と化していた のであり,ここに,他方の水素の有効利用および塩素の晒粉以外への多目的利 3年か 用の途を求めることが必然化してきたのである。たとえば同社の場合. 1 ら水素ガスの製品化を開始し陸軍ヘ納入,翌 1 4 年上半期からは海軍へも納入し 始め急速にその量を拡大してレった(前出第 7表参照〕。 また 1 5年下半期から は水素添加による硬化油の製造も開始されたのである 7230 他方,晒粉以外への 塩素の尚品化(多 H的柑用〕は昭和期に入ってから実現し始めた。たとえば液 化 塩 素 ( 昭 和 3年),合成塩酸(同 4年,これは水素の多目的利用でもある). 高度晒粉(同 5年〕などの製造であり,同社が昭和初年り恐慌による苦境を打 開するのに犬いに役立ったりである。いうまでもな<.かかる連産品の有効利 用による同社の多角的展開は,未だ範囲も狭〈限定されたものであったとはい え,後年のコンツェルン形成期へ向けて出発点をなした(昭和初年以降の同社 の多角的展開過程については次稿の課題としたい〕。 5 年 4月に日本電炉工業(資本金 1 00 万円を 6 5万円に減資〉 さて,同社は大正 1 を吸収合併した。その結果,資本金は 1 4 0万円に増大し, 日本竜炉工業の工場 は同社二本木工場の一部に組み入れられた。前述のように,両社の工場は隣接 していた上, ともに友礼が釆配をふるってきたのであり「その実体は〔以前か ら〕一つのものといってよかった J73l0 ところで,日本曹達がのちに新興財閥へ と発展していくにあたって,友礼に二本木でソーダ工業を開始させる契機を与 えたこの日本電炉工業こそ,重要な意味をもっていた。すなわち,何故に同社 7 2 ) 以上,各期の日本曹達「営業報告書ム 7め前蝿「中野五礼信, 7 7ベージ。「合併契約書(大l E1 5 年 1月1 1日) J をみると,契約当事者はと もに両社の取締役社長をしていた鈴木寅茸であった。彼ヵ:いつから日木電炉工業の社長に就いた かは不明。また,との時友ヰLは同社の常務であった 合酔 t際して円本曹達¢定款は変更され, その営業目的は円化学工業品ノ製造丑販売. 2化学工業品ノ売買仲介. 3 .自家用電気事業ノ経 営. 4氷ノ製造E販売. 5運送業,弘前各項 z 関連スル業務. 7 同種事業又山之=関連スル事 業ニ対シ投資スルコト」となった@ 日本曹達「第 12回株主動会決議録ム なお4 の氷の製造とは 晴樹設備の冷却用であり. 15年 4月に子会社第 1号とし℃第一製氷く株〕が設立されている。 大豆期ソーダ業界と日本曹遣の成立 ( 1 7 1 ) 3 1 が数ある「ソーダ企業」の内か b抜きん出て新興財閥にまで成長しえたか, と いう聞いに関わる問題である。そもそも日曹コンツェノレ Y が上述の電解ソーダ 工業の連産品の有効利用〔いもづる式多角化〉を出発点とじて形成され始めた ことは確かである。特に昭和期に入ってからの塩素の多目的利用は目ざましい ばかわであった。しかしその多角化の出発点が単にソーダ工業に限られてい ただけでは,後年あれほどの展開を見た日曹コンツ z ノレンは生まれなかったで あろう。実際,聞社と同じ〈連産品の多目的利用に向かった「ソーダ企業Jか らは新興財閥は生まれなかった。その意味で日曹司 γ ツェノレンには電解ソーダ 工業以外白出発点があったのであり,それ ζ そ日本電炉工業の前身たる日本電 気亜鉛にまで遡ることのできる冶企業であったと言わねばならない。日本電炉 工業は,友礼が経営に参画して暫く後には冶金業を中止していたものの I中 野は三本木の日本電気亜鉛以来,亜鉛電解に強い関心をもっていた」聞のであ る。もち論,電解ソーダも電気亜鉛も, ともに電気利用工業ということに共通 性を求めることができる。したがって,電気利用下業(電気化学工業〕が出発点 であるとしても構わない。しかし,少なくとも日曹コンツェルンは単にソーダ 工業だけから出発・形成されたのではない,ということは強調されるべきであ る。たとえば,同社は日本電炉工業の吸収合併のあと,同年 1 1月に最初の分工 場として富山工場を竣工(第 8表参照〕させたが,同工場の製品は粗金属ソー ダに加えて合金鉄であった。また昭和 3年 9月には金融恐慌で破綻した高田商 会の高田鉱業(株〕大寺製錬所を買収し,これを会津工場として再び電気E鉛 工 業を開始したのである 7530 かかる大正末年から昭和初年にかけての動きの中に, 日本曹達の「ソーダ企業」としての特異性の一部と,そして,のもの日曹ヨン ツェルン形成のための出発点とを窺い知ることがで雪るのである。 〔本稿ド成にあたり,日本曹達(株).大阪曹達(株),日本ツーダ工業会,日本書 達 OB有馬登良夫氏から貴重な御教示を頂いた。記して謝したい。〉 7 4 ) 前掲『中野支礼伝Jl8 2 . . . . . : .ージー 同社の昭和期における C 電解ソーダ工業を一部分として含む)量長治吊王桑への展開には目ざ ましいものが島った。 r 当社は社名は曹連会社であるが実際は電気化学工業会社と云った方がシ ックリするム『ダイヤモンド』昭和 9年 1 1月2 5日号. 1 9 3ベ 山 75)