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2011年4月12日例会 週報

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2011年4月12日例会 週報
2010~2011
藤沢東ロータリークラブ
藤沢東ロータリークラブ週報
ロータリークラブ週報
●事務所/
事務所/藤沢市朝日町
藤沢市朝日町 1-6 NTT 藤沢ビル
藤沢ビル2
ビル2階 TEL25
TEL25-
25-4000 FAX26
FAX26-
26-9292
●会長/
会長/石井 博 ●幹事/
幹事/入澤初子
毎週火曜日 12:
12:30~
30~13:
13:30 ●例会場/
例会場/グランドホテル湘南
グランドホテル湘南 藤沢市朝日町11
藤沢市朝日町11
TEL(0466
TEL(0466)
0466)22-
22-1311 FAX(0466
FAX(0466)
0466)22-
22-3013
第1694回
1694回例会 2011
2011年
11年4月12日
12日(火)(天候)
天候) 晴
国歌『
国歌『君が代』
ロータリーソング「
ロータリーソング「我等の
我等の生業」
生業」
四つのテスト
SAA
つのテスト提唱
テスト提唱
理念
ビジターの
ビジターの紹介
中野博義様 東京南 RC
イニシエーションスピーチ
山口俊明会員
東日本大震災でお亡くなりなった方々にお悔やみを
と被災した方々に、お見舞いを申し上げます。そし
て、早い復興を祈念します。
さて、スピーチですが、何を話したら良いのか迷
いましたが、私の人生の基軸であります高校野球に
ついてお話したいと思います。一瀉千里うまく話せ
ればよいのですが、よろしくおねがいします。
私は厚木市荻野が在所でございます。北部に位置し、
西に丹沢、東に相模川が流れます、中央を国道 412
号線が走っております。津久井方面へ北上しますと
源治河原というバス停があります近辺が私の生れた
ところであります。祖母が荻野から藤沢の鵠沼に嫁
いで来ており、その縁で母は藤沢から厚木に嫁いだ
ときいております。
№34
昭和 26 年 7 月 10 日生まれ、現在 59 歳で今年還暦を迎えます。
両親はすでに他界しており、姉が一人おり、藤沢の南口でカラオケス
ナックしております。日ごろご利用いただいている方々には感謝申し
上げます。
昭和 45 年東海大学付属相模高校、昭和 49 年東海大学を卒業、平成
12 年株式会社ライン管理の代表取締役に就任し、現在に至っており
ます。
これから高校野球について話したいと思いますが、「ここに炭鉱町に
咲いた原貢野球 著者 澤宮優」という本が出版されております。こ
こに登場しております選手の証言や関係者の証言を参考に、私の現役
時代の経験を織り交ぜながら、お話したいと思います。そして、臨場
感を出す為に著者の評言を使わせていただきます。
まず、「原貢氏の経歴を紹介させていただきます」
佐賀県鳥栖市出身
現在[75 歳]
今も矍鑠としておられます
佐賀県立鳥栖工業高等学校卒
立命館大学中退
東洋高圧株式会社入社
「現在の三井化学株式会社」
昭和 34 年 福岡県立三池工業高等学校に監督として招聘される。
(23 歳)
昭和 40 年 8 月 23 日 夏の全国高等学校野球大会 銚子商業(千葉県
代表)を 2 対 0 で破り、初出場初優勝
昭和 41 年 東海大学付属相模高校の監督に就任
昭和 44 年 夏、甲子園初出場
静岡商業に負け、1 回戦敗退
昭和 45 年 夏の全国高等学校野球大会で PL 学園を 11 対 6 で破り全
国優勝 原監督 2 度目の優勝監督
昭和 61 年 東海大学の監督に就任
平成 8 年
東海大学の監督を勇退
長男辰典氏は読売巨人軍の監督を現在もされており、 孫(長女恵美
さんと相模野球部 OB の長男)の菅野智之君も東海大学のエースとし
て活躍,アマチュア野球会のNO1 ピッチャーとして今年ドラフトの
目玉として注目されております。
原野球の熱血指導の原点
三池工業の初出場、初優勝と大牟田市の三池炭鉱の、町を二分し
た労働運動について語らなければならないと思います。 大牟田市は
福岡市から南へ 70 キロ離れた、もっとも南にある町で人口は 14 万人
で西に有明海があり、遠く長崎や島原半島を見渡すことがそうです。
三池炭鉱が昭和 34 年 12 月従業員 1497 名の指令退職勧告を行った結
果、反対闘争が起き、第一組合と第二組合【会社側】が激突、双方合
わせて 180 人の負傷者をだしたと言われています。
「当時の炭鉱マンの話」では、三池闘争のときは、一年間町ぐるみ
で、大牟田市そのものが保守、革新に真二つ分かれ、タクシー会社
も組合側しか乗せないタクシー会社と会社側しか乗せないタクシ
ー会社に分かれ、商店街も飲み屋も組合側と会社側に分かれ、大牟
田市11万人が三井につくか三池労組につくかという1年だった
と話されました。そして昭和38年炭塵爆発で458人の炭鉱マン
が死亡しました。町は大きな犠牲を出して、大牟田は本当にどうな
るのか、打ちのめされた町になってしまった。そいう時にこの暗い
大牟田から何とか抜け出そうと、皆がもがいていました
そう言う時に昭和40年8月23日千葉県代表の銚子商業を2対
0で破り、春、夏合わせて、初めての甲子園出場で、しかも初優勝
という快挙を成し遂げました。誰しもが地方の無名校が甲子園で勝
ち進んで行くとは思わなかったので、それだけに大牟田市民は、こ
の奇跡に熱狂し、人口21万人の町にパレードを見るために35万
人が沿道を埋めつくし、そしてこの快挙が暗い町にも必ず息を吹き
返すだろうと報道されました。
「毎日新聞の記者」
初陣で無欲の勝利というのはいくつもあるわけで革命が起こった
わけでもない。ただ不況で完全に沈んでいた町を高校野球で勇気づ
けた、効果はもの凄い。
「原 読売巨人軍監督の証言」
僕の中で大きな出来事として現在も残っている。父親の晴れ姿こ
そ、野球を始める原点であり、今も野球人としての根幹を占めてい
ると述解しています。
そして昭和 41 年 11 月、東海大学総長。松前重義の強い要請により、
東海大相模の監督に就任され。厚木市緑が丘に住まいをうつしまし
た。これからは三池工業の先輩たちの証言を参考にしながら「原野
球の熱血指導と教育について」分析したいと思います。
「苑田聡彦氏の証言」
広島東洋カープで外野手、内野手として活躍。現在は。カープの関
東地区スカウト部長を務められています。」
原野球は総じて精神野球と呼ばれるが、原なりの個性を現すものが
いくつかある。
「一つにはバントをしないこと」
ほとんどの高校野球の監督であれば走者が三塁に行けば、まずス
クイズで1点を取りに行く、だが原はスクイズを選ぶことをよしと
しない。まず外野フイで1点を取る方法を選んだ。
「強打者には四番ではなく三番打者に据えた」
チーム一のホームランバッターを四番に置いたら四球で歩かされ
てしまう。だから三番に一番の強打者を置くと言う方針が徹底され
ていた。
{美川信吾さんの証言}「三協精機で都市対抗野球に6回出場して
いる猛者」
玉を怖がらないためにベースの上に正座させられたこともあり、ま
ず「心で取れというのです」フリーバッタイングも1時間、2時間
ぶっ通しで行う。自分の脇にバット三本を置いておくことも忘れな
いのだ。ミスした選手を叩くためである。
試合当日であれば、親が見ている前であっても殴ることがあった。
ノックでエラーをすれば、ホームベースまで選手を呼びつけて、頭
に拳頭を打つときもざらであった。今だったら確実に出場停止にな
っている。秋の新人戦の試合前のシートノックの時であった。その
日はどうしたことか、野趣の連携が拙く、三塁の苑田から始まって、
選手が次々とノックを打たれるたびに、連鎖反応のようにエラーを
繰り返した。原も怒りこそ面にはださなかったが、表情はこわばっ
て、不機嫌になっている様子は、周りから見ても明らかだった。
ちょうど、先発予定の美川が投球練習を終えて、ブルペンのフェン
スに背中をもたせかけて、野球部のOBと話をしていた。ちょうど
話しながらスパイクの泥を落としていたしぐさが、原には生意気に
見えたのだった。瞬間に原の怒りが爆発した。突然ノックバットを
美川のいた、ブルペンに思いっきり投げつけると、すぐに、原のい
るホームベースまで呼びつけた。そこから三塁のライン伝いにレフ
トのポールまで往復ビンタの連続だった。原は美川を睨みつける
と、凄まじい形相で呟いた。「お前、この試合で1点でも取られた
ら容赦しねえ」彼はこの瞬間、本当に殺されるのではないかという
予感さえして恐怖で震えた。その試合は人が変わったように死に物
狂いで投げつづけ完封した。
辰典証言
原が外野にノックをしている時、三塁を守っていた辰典は腕を組
んでノックの光景を見守っていた。息子の放漫にも見える振る舞
いを見逃す筈はなった。すぐさまノックの手を止めると、三塁の
ほうに向いて、つかつかと辰典に歩み寄って来た。目は鋭く見開
かれ、頬は強張り、怒りの形相で睨み付けた。「貴様、何でそん
な恰好しとるんじゃ」原は叫んで、さらに三塁ベースに近寄ると
ノックバットをきつく握って、辰典に対してノックを打ち始めた。
グラブは外すよう命じられた。原の位置から、辰典のいるところ
まで五メートルしかなかった。そこから猛烈なノックを浴びせら
れ、辰典は素手でボールを取った。手は痣だらけ、腫れは翌日に
なっても引かなかった。「よくもまあ親子ありながらやってくれ
るな」そんな思いが交錯していたという。翌朝の練習には出ない
と決め込んで蒲団に入った。
強い決意で臨んだものの、起床
のベルが鳴ったらユニホームに着替えてグランドに出ていた。
「その時、俺は親父に負けたなと思いました。俺は頑張るしかな
いと決心しました。と語っている
原さんが偉かったのは、われわれに言ったことを自分でやって見
せたことです。守ることも、打つことも、投げることも全部やっ
て見せた。そのころは監督用のユニホームなど学校から支給され
ていなかったので、原は自前のズボンを履いて練習を見ていた。
夏になると半袖のシャツに帽子をかぶるというのが、いつものス
タイルであった。原は何度もスライデイングの指導を自分でやっ
て見せるから、ズボンには草の青い汁がついてダメになってしま
った。夜はボールに石灰を塗ってノックを8ページするのでシャ
ツもすぐに汚れてしまった。「あの人はズボンもシャツも何本駄目
にしたか」
さらに美川にとって印象的なのは、グランドや道具を大事にし、
感謝しろと口癖のように言っていたてんである。三池工のグラン
ドも原自らが精魂を込めて、作り上げたものだった。美川、苑田
たちが一年生の秋のときに、原は校庭を整備してブルペンを作り、
外野に生えていた野草を自ら刈って、内野の上の石ころを全部は
じき出してトンボをかけて地ならしをした。そこから地獄のノッ
クを始めたのである。
「 著者の話 」
原は監督就任以来、学業を怠ける者は、野球部員にさせないとい
う方針で一貫してきたそうだが、これこそ本当の高校野球のある
べき姿である。
大事なのは人間性なんだ、性格の悪い子は。僕はレギュラーにし
なかったからね。心が監督とつながるためには、人間的なものが
きちっとしてかないとね、僕は人間性を重んじましたよ。
{穴見捕手の証言}
【東海相模の野球部、部長、監督、を経て
現在、福岡県の東海大五高の監督 選抜に一度出場】
原は短い時間で集中して練習する姿勢を貫いた点であった。原は
夕方の4時半に勤務を終えて、250CCのバイクの音を響かせなが
ら、三池工の正門に通じる坂を上ってくる。その瞬間に今まで和
気あいあいとやっていた部員たちの顔に、さっと緊張の色が浮か
ぶ。とくに部員たちに厳しかったのは集中力欠いた怠慢プレーや
同じミスを繰り返すことであった。そんな時は容赦なく鉄拳を加
えた。穴見は捕手だった為、常にノックする原のそばに立ってい
る。その為ノックバットでずいぶん殴られもした。内野手が返球
すると、時折;悪送球になる時がある。穴見が捕り損なうと捕手
が悪いと言われては打たれたのである。ビンタも鉄拳も両方あり
ました。蹴りでドーンと蹴りあげるんです。ノックバットで頭を
叩かれるときはよくありました。でも折れたほうが痛くなかった。
{原は暗くなって静まり返ったグランドに部員を集めて毎日、呪
文のように「お前たちは普段どおりの力を出せば甲子園でベスト 8
に残る」と言い聞かせていた。
{上田投手の証言} (南海ホークスに入団、野球雑誌、水島信
司の野球漫画「あぶさん」によく登場していた、ダイエーホーク
スの編成部長経て球団社長】
入部そうそうから彼はつらい練習に耐えられず、毎日のように辞
めたいと思っていた。一年生の真夏に炎天下で投げ込みを全力で
させられた時があった。
100球を超えたあたりから、とっくに体はへばっていたが、原
は無言で目を光らせており、手を抜くことができなった。原の号
令で【止め】と支持が出たのは、ちょうど 250 球投げた時だった。
その瞬間投手たちは、地面にうつ伏せになってしばらく立ち上が
れなかった。それも一日だけの特別な練習ではなかあった。毎日
250 球投げ込みは続けられ、一週間もつづけられた。これはしん
どかったね、でもね、これも原さんの計算通りじゃなかったのか
なという気がする。そこで壊れても構わない、そこで誰が生き抜
くかを考えてやったのだと思う。原さんは理論よりも根性論が先
だからね、それでも選手の技量やセンス、生活まで見抜く目は凄
かった。
いろんなタイプの指導者を見てきたが智辯和歌山の高島仁監督、
星陵学園の山下智茂監督と鉄拳も辞さない監督のほうが高校生も
ついて行き、慕う傾向があると言う。その意味では生徒が監督に
対して恐怖心を持っていなければ選手 は育たない。甲子園に行
くには監督の力がほとんど占める。その中でも、無名校で、どこ
にでもいる選手を鍛え上げ、異なった学校を2校も全国優勝させ
た原の手腕は群を抜く。
三池工の野球部の珍しさを掲げるのは上級生によるいじめが一
切、なかった点である。短時間で集中して練習をやる。夕方の 4
時過ぎから開始して 3 時間、みっちりやるのが日課だった。夏に
なれば日も長くなるので夜の 8 時くらいまで続ける時もあるが、
私立の名門校のように夜中まで練習することはない。とにかく原
は集中力にすべての重きをおいた。
長い時間かけて、練習を行うことがよしとされた時代に、原はあ
くまで見せかけの長さにとらわれることなく、練習の中味の濃さ、
特にプレーに確実に成果があったと判断したら、それで「よし」
として一斉に終了するシステムを取っていた。それで三池工が強
くなれたのは、練習の場が即、ひのき舞台だと言う緊張感を持た
せながら取り組ませた結果、いつか【甲子園に出られるんだ】と
いう意識が部員の心へごく当たり前に芽生えていった。 それだ
けに緊張感の欠如した姿勢や緩慢な動作を見せると原の怒りはと
めどもなく爆発した。
{苑田中堅手の証言}
(法政大学時田淵、山本浩二、
富田などの黄金時代 5 番打)
原の育成能力の真骨頂はどこにでもいる選手を鍛え上げて「お前
は凄い選手になれる」と洗脳して、実際に強豪チームにして行く
という、叩き上げの手法にこそ特色があった。
スマイルボックス
石井 博会長
山口俊明さん本日のスピーチよろしくお願いたし
ます。
佐々木 保会員
山口会員イニシエーションスピーチ楽しみにいた
しております。中野博義様ようこそいらっしゃいま
した。
本田昌子会員
山口会員のスピーチをお聞きするために参りまし
た。今日から第 5 回ロータリアン絵画展が始まり、
桜(60 号)を出展してまいりました。会場は鎌倉生涯
センターです。おついでがありましたらのぞいてみ
てくださいね。
山本 竺会員
山口会員本日のスピーチ楽しみにしています。
田中 繁会員
山口さんのイニシエーションスピーチ楽しみで
す。
中島ミツヨ会員
長い間お休みして申しわけございません。山口会
員のイニシエーションスピーチ楽しみにいたして
おります。
誕生日祝い有難うございました。
河合克彦会員
山口さんイニシエーションスピーチ楽しみにいた
しております。
鈴木利雄会員
山口会員 本日のイニシエーションスピーチ何よ
り楽しみにしていました。これからも宜しくお願い
いたします。
{ 総括 }
野球の前に勉強を重視し人間性を重んじた。何事にも信念とプラ
イドを持って、人一倍の努力をしなければ前途に光明を見出すこ
とはできない。つらい時こそ逃げてはならない。
短時間で密度の濃い練習、そしてペナルチィを課した、拳闘、殴
打を交えた真剣勝負の熱血指導こそが、甲子園で勝つ野球であり、
社会に出たら立派に活躍できる人材を育てる基軸ではないかと思
います。
大変、へたな措辞な話で失礼しました。今後とも宜しくお願いし
ます。
会員誕生日祝い
会員誕生日祝い
鈴木和夫会員
4月7日
配偶者誕生日祝い
配偶者誕生日祝い
大久保美智子様
鈴木雅子様
4月9日
4 月 10 日
ロータリーの
ロータリーの友 2011 年 4 月号抜粋
雑誌・R 情報委員長
加藤信忠
今月は雑誌月間です。ロータリーの友は日本のロータリークラブだけの機関雑誌でなく、世界
夫々の国が言葉や表紙の表現の違いはあるものの、内容は殆ど変わらずに発行されております。
そんな 横の 13 ページは、この度の東北地方太平洋地震に関しての記事と写真が世界に載って
おるわけです。そんなわけで世界中のロータリアンから、たくさんのお見舞いと支援についての
問い合わせが来ているそうです、感謝して読みましょう。
さて今月号の冒頭の 1 ページは、レイ・クリンギンスミスギス RI 会長のメッセージです。「不
易流行」
易流行」という表題です。不易流行とは辞典を見ると、芭蕉の俳諧用語で、変わるものと変わら
ないものと謂う事のようです。
ロータリーは長い間、四大奉仕部門でしたが 2010 年の規定審議会で第五の奉仕部門として新
世代奉仕が提案され可決しました。前回では否決されたのですが、今回は多少の混乱があったも
のの採決されました。インターアクトやローターアクト、青少年交換などとロータリーのプログ
ラムは世界で最も優れたものでする。それが今回正式に第五の奉仕活動に加えた事はロータリー
が将来に向かってより大きく、より良く、そしてより豊かにしようとする私たちの探求であり、
理想的な形です。
8ページの印象に残った友の記事はみんな現実味があり、良い記事が多いです。
22 ページからはガバナー
ガバナーの
ガバナーの視点です
視点です。我が地区の後藤ガバナーも「クラブを育む」と言う表
です
題でご意見が掲載されております、参考にしてください。
縦のページです。始めは 2770 地区大会の指導者育成セミナーの講演要旨です。
浄土宗本山の増上寺の石田法務部長の標題「ははぁなるほどあたり
ははぁなるほどあたり前
ははぁなるほどあたり前」
要旨としては、新美南吉氏の童話のごん
ごん狐
ごん狐を主題にしたお話です。そして仏の教えの世
間八方の事、所謂、「利得・損失・賞賛・非難・誉れ・誹謗・楽・苦」の八つの価値観を、
ごん狐の童話で例えながらの法話です。
7ページはこの
ページ この人
この人この仕事
この仕事
甲府北ロータリークラフの甲州水晶彫刻師河野道一会員の生き様の紹介です。
現在七十一 歳です。学校を卒業して神奈川の電気会社に受験した。しかし、組織に入いった
ら出世しなければならない、出世してどうなる、出世しなければどうなると迷って結局、親
の後を継ついだ。水晶とか瑪瑙や翡翠などを、切り、削り、彫り、刻み、磨く。そんな職人
肌の会員のインタビューがたのしいです。
10ページ
卓話の
10ページから卓話
ページ
卓話の泉です。
和歌山東南ロータリーの島本会員が「和歌山の梅事情」代表的な南高梅と古城梅の事。福岡の
城西ローリーの長崎会員の昨年施行された、「改正省エネ法」のお話です。そして埼玉中央
ロータリークラブの住吉会員の「牛鍋から、すき焼きへ」は牛肉が正式に食べられる様になっ
たのは明治五年からのお話です。
その他
以上です。
その他では、
では、友愛の
友愛の広場で
広場で「会津に学ぶ長州人」などが目にとまりました。
出席報告
日時
3月22日
4月12日
総員(名)
休会
35 (34)
出席(名)
欠席(名)
26
8
出席率(%) メークアップ(名)
76.47
修正出席率
Fly UP