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丸山眞男を読む会 渡辺京二『逝きし世の面影』第九章・第十章 2009-11
丸山眞男を読む会 渡辺京二『逝きし世の面影』第九章・第十章 2009-11-28 【第九章 ・ 文責:萩原稔 女の位相】 日本の未婚女性の魅力(pp342-348) 「日本の風景の点景」「生命と光彩を添える」もの。 品格と愛嬌、控えめで親切な物腰、薄物のあでやかな夏着、房々とした黒髪、新鮮で色白、 紅みを帯びた肌、愁いをふくんだ黒い瞳、生き生きした顔、優美さ。 「日本女性はすべてこぎれいでこざっぱりとしており、平均的にかわいらしいので、日本国 土の全体に惚れこんでしまいそうだ」(ヴェルナー、343) → 造型的な美しさではなく、「感じのよさ」(ティリー、ヒューブナー)。 「日本人の中で長年暮した外国人は、美の基準が気づかぬうちに変ってしまい、小さくて穏 やかで控えめで優美な日本女性の中に置くと、自分たちの同胞の女性が優美さに欠け、荒々 しく攻撃的で不様に見えるようになる」(ベーコン) ・ 日本女性の欠点――お歯黒とお白粉のべた塗り(pp348-352) 容貌を醜くすることによる夫への貞操の証?(オリファント、オールコック) スエンソンの分析:娘時代の自由気ままの満喫の放棄を意味。「娘」から「妻(母) 」へとい う年齢階梯制の象徴。(Cf. ・ 阿部年晴によるマサイ族の年齢階梯制分析) 女性の従属的地位?(pp352-356) 妻妾同居に対する批判(ホジソン、アルミニヨン):老人や子供の地位との対比。 女性の自由:「他の国に比べて日本の女性の地位に大いに満足する」 「東洋の他の国で観察さ れる地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられている」 「日本の女性はより大きな自由を許さ れていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている」 (グリフィス) 「日本では婦人は、他の東洋諸国と違って、一般に非常に丁寧に扱われ、女性の当然受くべ き名誉を与えられている」(カッテンディーケ) 日本の「蓄妾」と「一夫多妻(ポリガミー)」との相違(ティリー)、女性の「闊達な自由」、 「平等の権利」の存在(ベルク)。 ただし、近代西洋と比較して日本の女性の地位が高いというわけではない:ゆえに、西洋を 基準とすれば女性が「隷属」しているとみなされる。婦人に対する謙譲や礼譲、慇懃の欠如(モ ース、カッテンディーケ)、 「赤児の如く取扱われる」おろかしい存在(チェンバレン)。日本女 性との「結婚」生活の退屈さ(ロティ)。「人形」のような日本女性像(フィッシャー)。 ・ 日本女性の強さ(pp356-375) 「か弱い」女性の中に「スパルタ人の心」(チェンバレン)、下層階級における女性の発言力 の強さ、自由、独立心の強さ(オールコック、ディクソン、ブスケ、ウェストン、ベーコン)。 「農民や商人の妻は、天皇の妻がそうであるよりずっと夫の地位に近い」(ベーコン) アリス・ベーコンの分析:日本女性の美徳は徹底した忍従(夫や姑への服従、妻妾同居など) ただし、上流階級における「理念型」としての女性像、大多数の日本人はそれとは無縁。 女性の権利としての離婚、 「幸福な従属」 :自己犠牲による一家の幸福の実現、 「ニューイング ランドの古風なピューリタン的良心に似たもの」(ベーコン)。杉本鉞子の回想。 女性の自由で幸福な老年:寡婦も同様。 「家制度とは男性本位のように見えて、その実、女性を主軸とする一種の幸福の保障システ ムではなかったのか」(366)――重視されたのは家庭内の和合。「女の忍従と自己犠牲はおの れの家を楽しいものとするために払われたものであり、その成果は彼女自身に戻って来るのだ った」(367)。自己犠牲と自己抑制による威厳。 日本女性の活発さ(リューベック、トロンソン、アンベール、ホジソン、ベルク、山川菊栄) 。 男女間の言葉の近接性。夫との関係も対等、豪快豁達な行動をとる女性の例。飲酒喫煙。 「多くの外国人観察者が東洋諸国にくらべればと留保しながら、日本の女性に一種の自由な 雰囲気があるのを認めねばならなかったのは、女性の男性への服従という道学的なたてまえ だけでは律しきれぬ現実が存在することに、彼らが否応なく気づかねばならなかったからで はないか」(375) ・ 日本女性への讃美(pp375-380) 「日本女性は男たちの醜さからほど遠い」(スエンソン、344):男性との比較(モラエス、 アーノルド、スミス) 日露戦争における婦人の振る舞いへの讃美(ポンティング) → 現代的視点から西洋人の日本女性観を批評する人々への筆者の批判。 「(当時の西洋人は)異なる価値にもとづいて構成されたひとつの文明における、女性のあり かたと特質を明瞭に知覚したのだった。そのとき彼らの胸に……ある種の讃嘆の念が湧いた というのは、けっして看過さるべきではない」 (377) 東洋の女性から学ぶべき価値の存在(フレイザー) 恋愛とは別次元の「義務」:「より深い意味の愛」ではないか? 【第十章 ・ 子どもの楽園】 外で遊びまわる子どもたちの姿(pp388-390) 道路上でも遊びに没頭(ネットー、ブスケ、フレイザー)。正月の羽根つき・凧あげ・竹馬・ 相撲(クラーク)。馬や乗り物をよけない子ども:「大人たちからだいじにされることに慣れて いる」(ネットー)。下層階級も同様。 ・ 子どもへの教育(pp390-397) 日本=「子供の天国」(モース)。子どもを自慢・愛撫・溺愛する大人たち(バード、オール コック)。ルソーの『エミール』との近接性(カッテンディーケ)。日本で子どもに対する体罰 が見られないことは、16 世紀以来西洋人によって指摘されている(フロイスなど) 。 「放任」「甘やかし」(ブスケ)/「近代教育のために奪われつつある」美点への着目(オー ルコック)。 「自然の子」 「大人ぶることがない」 。 赤ん坊の泣き声すらめったに聞かない(オイレンブルク、モース)。 「英国の母親がおどした りすかしたりして、子どもをいやいや服従させる技術やおどしかたは知られていないようだ」 (バード)。フランス人家庭での日本人召使の困惑(レガメ)。 「日本の子どもには、親のいいつ けをきかずに泣きわめくような習慣はなかった」(394)。従順かつ「好ましい態度」を身につ ける子どもたち。礼儀作法についての教育は徹底。 → 「放任」ではなく、親が子どもの世界に干渉しないという姿勢。肥後の「子供地蔵」の風 習(野田成亮)。「大人とは異なる文法を持つ子どもの世界を、自立したものとして認める文明 のあり方」(397)。 ・ 子どもの「大人の世界」への参加(pp397-403) 大人の祭礼への参加(モース)、大人たちも子どもを排除しない。芝居小屋や寺参り、花見な どあらゆる場所に子どもを連れていく。大人と子どもの分割線が現代とは異なる。子どもが大 人と同じ服装を着ることへの西洋人の驚き(バード、エルマーストら) :実際は近代以前のヨー ロッパと同じ。服装だけではなく、「威厳と落ち着き」に満ちた振る舞い(バード)。大人並み の自己保持能力(ヴェルナー)。子どもたちは大人たちの振舞いから学ぶ。喫煙など。 → 西洋人の驚きは、近代の「純真な子どもらしさ」という観念に影響されたもの。 「彼ら独自の遊びの世界を持つことを大人から認められている子どもたちは、同時にきわめ て幼少の頃から、大人の友であり仲間だったのである」(403)。話し相手や労働力。 ・ 「子守」の仕事(pp404-406) 弟妹を背負った子どもたちが「遊び、走り、散歩し、お使いにゆく」(ブスケ) 。田植えの傍 らで小さな子どもが赤ん坊を背負って作業を見る(モース)。乳離れしない子どもも弟や妹の「子 守」をする。 :子どもたちは早くから、年上の子どもの背中から「世間の中で過ごす」。 「あらゆる事柄を目にし、ともにし、農作業、凧あげ、買物、料理、井戸端会議、洗濯など、 まわりで起るあらゆることに参加する。彼らが四つか五つまで成長するや否や、歓びと混りあ った格別の重々しさと世間智を身につけるのは、たぶんそのせいなのだ」(アーノルド)。 ・ おとなしい子どもたち(pp406-410) 遊びの内容、礼儀正しい態度(バード、ポルスブルック、グリフィス)。凶暴な子どもはほと んど存在しない(モース:ただし、カッテンディーケは腕白な子どもに注目)。 大人のまねをして遊ぶ子ども、また子どもの遊びに大人も加わる。 「大人の干渉から自由な日 本の子どもは、その反面大人と深く相互に浸透しあっていた」(409)。大道芸や玩具など(オ ールコック、スエンソン、ヒューブナー、フォーチュン、オズボーン)。玩具の発展:子どもに 対する親の深い愛情を示すもの。「日本人は確かに児童問題を解決している」(モース)。 ・ 日本人の子どもの魅力、そして子どもへの愛情(pp410-420) 西洋人の絶賛: 「可愛い子ども」 「どの子もみんな健康そのもの」 「とても魅力的で、長所ばか りで欠点がほとんどない」「日本の子供たちに魅了されない西洋人はいない」「赤ん坊は普通と ても善良なので、日本を天国にするために、大人を助けている」「世界で一等可愛い子供」…。 親の子どもへの関心は西洋人にも向けられる:子どもを可愛がる能力は「個人の能力ではな く、いまは消え去ったひとつの文明が培った万人の能力であった」(414)。ホジソン家に雇わ れた「おばさん」のエピソード。 「盲愛」に近い愛情の純粋さがヨーロッパ人の子どもに与える 悪影響への懸念(バード)――「純真な子ども」像にとらわれた近代人の発想? 「日本人の大人は子どもを自分たちの仲間に加え、自分たちに許される程度の冗談や嘘や喫 煙や飲酒等のたのしみのおこぼれを、子どもに振舞うことをけっして罪悪とは考えていなか った」(417) 「盲愛」の美しさの例:中勘助の伯母とのエピソード。 しかし、 「盲愛」が「品性陶冶のために有害」であるという印象(カッテンディーケ、チェン バレン)。「意外な感を与えるかもしれないが、欧米人の眼からすれば、この時代の日本人の子 育てはあまりに非抑圧的で、必要な陶冶と規律を欠くもののように見えたのである」(419- 420)。 ・ 「子どもの楽園」論への批判(pp420-421) 乳幼児の死亡率や児童虐待の事実を取り上げることの無意味さ。 「彼ら(=外国人)が述べているのは、日本では子育てがいちじるしく寛容な方法で行われ るということと、社会全体に子どもを愛護し尊重する気風があるというに点にすぎない」 (421)