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H22年2月 萩原信吾氏の放談 39年振りのパリ再訪とユーラシア大陸の

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H22年2月 萩原信吾氏の放談 39年振りのパリ再訪とユーラシア大陸の
記録作成 (一部荻原加除)
大久保武幹事
横濱 プ ロバス倶楽部
会員放談
平成 22年
2月 12日
進交会館 6階
会 員 委 員
荻 原 信 吾 氏
ユ
39年 振 りのパ リ再訪 と ー ラシア大陸 の思 い出
―一 石井保彦氏追悼―― ユー ラシア大陸の思い出を捧げる
1970年
(昭45)8月
下旬か ら、もう40年 経ちますが 学生時代
ユー ラシア大
陸を 8ヶ 月間旅を しました。
今 まで話す機会 がなくて初 めてお話 します。
昨年 の平成 21年 5月 に 39年 振 りにパ リを再訪 しま した。 これ を横浜市港友会だよ り
に書きま した。
1月 4日 に急逝 された石井保彦 さんがこれを見ま して、ぜひ話をllrl力
せ て くれ と昨年
の秋に話 しがあ り、年 が明けてか ら話 します と言つていたところ急に亡 くな られま した
ので、本 日一緒に聞いて頂 こ うと通夜 の遺影写真を持 つてきました。
何でそもそ もそんなに長 い旅 に行ったのか と言 い ます と、同世代の方は思 い 出され ると
思 います が、大学 のころ 私も横浜国大 の経済学部にいました。
当時大学封鎖で 1年 半∼ 2年 授業があ りませ んで した。 3学 年 の終了 の レポー ト提出が
1970年
の 7月 まで掛か つて、 3学 年が終わ つたのですが、 ろくに勉強 しないで 3年 が
Lキ ャ
経 つて 4年 にな ると、騒 いでいた連中を含 めて皆 が就職活動に入 つてい く。 それで・
・
ンパス にいな くな つた とい う時に、私 の高校 の友人が、東大 の騒ぎで東大をや めると言 つ
てい た中で、親 に 「
やめるぐらい ならパ リに行 け」 と言われてパ リに行 つて いた (1年 ぐ
らい前か ら行 つていた)そ の友人か ら、大学時代でない と色 々な経験が出来ないか ら君 も
パ リヘ来ないか と誘 いがあ りま した。色 々 と経過はあ りま したけれ ども、それでは行 こ う
と、あま り前向きではない、消極的な姿勢 で決めた訳です。将来をどうしようか とその辺
もろくに大学で勉強 しない中で、はっきり決め切れ ない 中で行 こ うとい うことに しま した。
当時、沢山そ うい う人はいたんですが、社会人になる猶予期間、モ ラ トリアムではなか
つたか な、 と今でも思 つています。
特に余裕 の あ つた家庭 ではなかつたので、話があつてからバイ トをして幾 らか貯めて、
一番経費が掛 か らないのは当時 シベ リア経由で ヨー ロ ッパ に行 くことで したので、13万
円掛か つて 1週 間でウイーンまで行 きま した。
行程はシベ リア経由で ウイーンまで行 つて、それからコーロ ッパ を回つたのです が
友人がパ リに居ましたので 、少 しフランス語の勉強をしようと友人宅に四ヶ月滞在 し
-1-
ま した。 パ リの話は今回は割愛 して行きと帰 りの話をします。
横浜港 か ら8月 下旬に、今はなくな りま したが船でナホ トカに行 きま した。台風の直後
で大荒れで、私は大丈夫だ つたのですが、食堂に行 つても 1人 か 2入 しかいない船 で、津
軽海峡を通 つてナホ トカに行き、資料に書いて あるよ うにウイ ーンまで行つて、その後は
貧乏旅行 ですので無銭旅行です。 コーロ ッパ は全部 ヒ ッチハイクで回 りました。
帰 りは、片道切符みたいな形で したのでまた このルー トで帰 つて くる予定で したが、友
達 のア ドバ イ スや色 々な情報で、南周 りのほ うがまだ さらに安 く楽 しい経験ができると言
うことで したので、南回 りにしま した。
なかなか行けない 中近東、当時 は平和で したのでそこを通つて、1971年
の 4月 に 日
本 に帰 つてきま した。
まず最初 のナホ トカまでですが、 ヨーロ ッパ までツアーの学生 が 中心で、 30人 ぐらい
い ま した。ナホ トカに若 くと、ナホ トカは ソ連 の軍港 ですので長 くは滞在出来ませんで し
たが 、事件 に遭いま した。 4iいて早 々に、全員の検査は出来ません ので、怪 しい私 ?を 含
め 3人 ピ ックア ップ され、マル クス ・レーニンの 肖像が並んでいる取調室に連れて行 かれ
1∼ 2時 間所持品を調 べ られま した。
怖 い感 じが しま したけれ ども、金も取 り上げ られないで無事 3人 ともOKに な りました。
の経験 がそ うい うことで した。
旅 のlfx初
て くると知 らんぶ りも出
最初 は言葉が解 らない、 ロシア語は解 らない、でも英語 で lllい
来な くな り、 しやべ りま した。外貨 を大量に持ち込む とか、 スパイ容疑の取調べ で旅の ス
ター トか ら大変な思い をしました。
ナホ トカか らシベ リア鉄道 37時 間の旅でハバロフスクに、そ こか らさらに飛行機で
10時 間](列 車で行 くと 1週 間かかる)、モスクフに消きま した。
モスクフは夏で したが皆 コー トをオキていて寒 い夏で した。 一番良いホテル に泊ま り風呂
にも入 りま したが、それか ら帰 つて くるまでシャワーだけの旅にな りま した。
モス クフか らウイー ン まで又飛行機、そ こが シベ リア周 りのツアー の最終地 でそ こで
全員解散 にな りま した。
私は早速友人 の小林 さんか ら教わ つた ヒッチハイクで旅を始めま した。
償れな い最初は ウイ ーンか らイ ンスブル グまで大変で した。若者 がインターチェンジに沢
山集まつている。皆 ヒ ッチハイ クです。私 は 日本人だと示すため リユ ックサ ックには 日の
丸を書き、ダ ンボールにマ ジ ックで行 く先を書 く.最 初 は 2∼ 3時 間かか りま したが、慣
れてくると要領が分か つてす ぐ乗せてくれま した。
ヨーロ ッパ は全部 ヒ ッチハイクで した。
スイ スはモンプ ラ ンの麓、 シャモ ニーの近 くのマルテ ィニー 村でアルバイ トをして少 し
金を貯めてか らパ リに来い、 との友人か らの情報により、ユー スホステルに泊 ま り、そ の
一―- 2 - ― ―
村 で午前中は果樹園で働 き、年後は学生が夏季アル バイ トに来ていたので彼 らと交流 し、
3週 間滞在 しました。食費 宿泊費を引いて半分 ぐらい残 りました。
それ か ら、 アルプスのマ ッター ホーンをまわ り、ボージョレスーボーで有名にな りま し
たボージ ョレー地方のプ ドウ収穫 のアル バイ トを友人 の紹介で 2週 間 しました。
学生が 1軒 の農家に 20∼ 30人 、村全体で 1, 000人
ぐらいアルバ イ トを していま
した。今でも収穫り1にはこのような状態があるよ うです。非常に良い思 い出 と交流が出来
ました。ボージ ョレメーボーを飲む といつ も思 い出 しま丸
10月 (こ(出発後 2カ 月 ぐらい経 つて)や つ とパ リに着 きま した。 ヒ ッチハイ クでハ イ
ウェイ経由、パ リの南端に着いたのです。去年パ リに行 った際、 この時 の光景を思 い出 し
ました。強く印象に残つていたのだ と思 い ます。
お金 の無い 中でお金のかかるパ リでの生活は、金持ちの街で貧乏生活をす るのですか ら、
大変で した。それでもパ リ大学にも行 き、 フランス語 の勉強もしました。 日本 の 高校 の卒
業証明があれば学生 になれました。 しか し単位が取れるとい うよ うな レベルではな く苦 し
いだ けで したので、早い ところ日本へ帰ろ うとい うことにな りま した。
年 が明けて
もう 4ヶ 月もたち4月 には 日本に戻 つて勉強 しようと思 つていたので、間
に合 うように 1月 の末にパ リの リヨン駅を発 つて、 2ヶ 月掛 つて 日本に帰 って きま した。
そ の時、行 きは 一人旅で したが、帰 りは友達 (2年 半 ぐらいパ リに住んで いた)と ´
緒
に帰るつ もりで した。 しか し、 「
旅は 1人 にかぎる、1人 で苦労 しなが ら色 々な人 と知 り合
うのがよい、や つば り 1人 旅だJと い う1ず
で、私が最初に出発 し、友人は 1∼ 2週 間遅れ
て 同 じルー トでやは り1人 旅で帰回 しま した。
「1月 末、パ リ リヨン駅 か らユー ラシア大陸南周 り帰国の旅、4月 初旬帰国へ J
オ リエ ン トエ クスプ レスで途中下車の旅を しなが らイ ス タンプール まで行 こ う、とキ ッ
プを買い ま した。途中で降 りられ るようになっていますので 、 ミラノ ・ベニ ス ・ユー ゴス
レまで行 きました。
ラ ビアのベ オグラー ド・ブルガ リアのソフィアを通 つてイスタンブーツ
振 り返 つて見て今回感 じたことですが 、ユーゴス ラ ビアは当時は 一国 で したが、その後
の内戦で今は 6カ 国 になつている。 あの頃は平和だ つたのだなと思いま した。
さらに列車に乗つて トル コのイスタンブール まで行きま した。イ スタンブールの印象は、
東西 の接点
アジア とヨー ロ ッパ の接点 と言われますが、一挙 に雰 囲気 が変わって、非常
に貧 しいが活気がある、混 血が進んで ヨー ロ ッパ 人 の顔 とアジア人の顔 と色んな人がい た
ことが印象的で した。何 日か滞在 しましたけれ ども、さらに先を目指 しました。
が出来て 自由に反対tuへ行 けますが、当時は船で波 ってア
今はボスボラス海 1峡につ りIF・
ジア側へ行 き、そ こか ら列車が出てお り、首都 アンカラを通 つて、ベ イルー トまで 54時
の旅 をしました。
間 の地中海 を臨む
'1車
ロー カル線なのでベ
イルー トに着 くころには乗客はほとん どいませんで した。
-3-
駅は ス ラム街 の 中で洗濯物が干 してあ り、旅行者はほ とんどが飛行機を利用 していま し
た。 スイ スのユー スホ ステルでlClい
た時の友人がベ イルー トにいたので 2∼ 3日 滞在 しま
した。中近束 は列車がないので、その後はパ スを乗 りIILぎ
イン ドまで行きま した。
ベイル ー ト→ シ リア ・ダマスカス→イラク ・バ クダッ ト→イラン ,メ シェット
→ テヘ ラン→ アフガニス タン ・カブーソ
レ→ カイバル峠→パ キスタン ・ベ シャ ワール
→ イン ド・デ リーの行程です。
イ ス ラエル行 くと中近束に行 く ビザが下 りないので、イ ス ラエル は諦めま した。 バ ス は
て くる人は皆地元の人で、荷物を沢山持って乗ってくる。屋根 に乗せ
路線 バスな ので 4r.っ
る、食料 も持 つて くる。 一 泊 2日 約 20時 間ぐ らいで着 く行程ですが、砂漢地帯なので砂
あらしが吹 くと道が砂に理まつて しま う。そ の時は通 り過ぎるのを待 つのだ と言 つてい ま
した。幸 い に砂嵐にはぶつ か らず、テヘ ランに着 きま したが、物価が高 いので 1泊 してア
フガニス タンに向かいました。 当時はほんとうに平和で した。
カイバル11を越 えてパ キス タンに入 りま した。 パ キスタンではイン ドヘ のビザが出な い
のです が、 ヨーロ ッパ に居 るとき取 つていたので無 l.に通れま した。
イン ドですが、イ ン ドに入つて印象的 だったのが 、中近束は どこに行っても全て男性で
女性は いない。イ ン ドはイ ス ラム教 の紀律がな く半分は女性で急にモ ノク ロか ら明るいカ
ラーの世界に来た感 じが しま した。
東京外語大 の ヒンズー 語科を出た方 と会 いま して 「
イ ン ドにlYf在
するのだった ら日本人
使館に行 つて どこか紹介 してもらお うJと 言 つて ヒンズー教 の寺院を紹介 して もらい ま し
た。そ こに 10日 1聞い ました。福祉施設みたいな所で食事込みで無料で した。
それか ら、いよい よ日本に帰 ろ うとい うこ とで、デ リーか らカルカ ッタまで 30時 間、
終戦後 の買は,し列車 (開いた話)の よ うな 2等 車に乗 りました。座 るところがな く網棚に
寝ま した。
「
外気温 50度 のカルカ ッタ空港か らビルマ ・ラングー ン経由でバ ンコクヘJ
(7ヶ 月ぶ りの飛行機 です)
バ ンコクは 40年 前 も東京 のよ うに大きな街で親近感 を覚えました。当時はベ トナム戦
争中 で したのでベ トナムは飛び越えて 20∼ 30人 乗 りのプ ロペ ラ機で香港 へ 向か いま し
た。香港 の印象は したたかで物価 のliい町で した。 ユースホステルに 2・ 3日 泊 り、船で
日本語 の通 じる台湾へ行 き、台湾か ら牛を積んでいる船で沖縄に着 きました。沖縄はまだ
ドル 国域、米国統治でパ スポー トの幕査を受けて入 国 ?し ま した。 ユースホステル に泊 つ
て、 日本が近 くな ったのだなと思 つたのは、近所 に銭湯 があ り8ヶ 月ぶ りに入 つた ことで
す。それ から近所 の居酒屋で泡盛を飲みま した。
4月 までに帰 らなくては いけないので、今 は無いか と思 いますが沖縄 か ら東京の竹芝桟橋
まで 72時 間の船旅で 1971年
4月 に帰国 しました。
この旅 のことは記憶の底に沈んで話す機会がないまま、たちまち定年 にな り、去年夫婦
――-4-―
―
でバ プに行 つた こ とか ら昔 の こ とを思い出 し、今 「に うい う機 会が あ りま した ので今 日初
めてお話 を させ て ■ き ま した. あ りが と うございま した.
――-5-―
―
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