...

毎年クラス会は

by user

on
Category: Documents
19

views

Report

Comments

Transcript

毎年クラス会は
川 口 葉 子
︿
昭和 四十 三年卒︶
振 り返 り あ の時 の女 r高 生 が これ
か ら の人十 年 に 一度 の気 がね し な
いク ラ ス会 を 理 屈 な し て楽 し ん でも い
い ので は な い てし ょう か。
六 十 年 の人生 を歩 ん でき た中 、 情 報
﹂
貧換 す る こと で、 第 二 の人■ の過ご し
た りす る かも し れ ま せ ん。
方 に役 立 った リ スト レ ス解 消 にな っ
食 事 会 。﹁
あ の人今 何 し て る かし ら ⋮
った 人 も 何 か のき っか け でH 席 す る
最 初 は綱 し い仲 間 が 五 ∼ 六 人集 ま り
皆 で会 って みな い ︱﹂ と 話 し が
,
ま とま り平成十 六年 から始 ま りま した。
か も し れ ま せ ん。
つづ け る こと で 今 ま で参 加 し な か
日■ は、 仕 事 の関係 帰 省 者 をそ 慮 し
十 歳 八十 歳 九十 歳 を めざ し 来 年
が んば れ 三 年 H組、
充気 て索 敵 な 七
参加者 は増 えたり減 ったり です が、
も 又 会 え る 日を楽 し みにし て います。
てお盆 過ぎ に決 め ま し た。
今 回 で七 回国です。 はとバ スが 昭和 二
十 二十 から進行 し て 六十 日午
を迎 えたと知 り 何 か凶縁 を感
じ企 画をし ました。
l K スタ ジ
コー スは皇 居 ← ヽ 1
オ パー ク← 明 治仰 宮 ← 東 京 タ ワ
ー と、﹁
束 京 な ど ころ コー ス一 で
﹁ 泌
多く の謎 を我 し 昭和 二十 年八月十 八日舞
昭和十九年十 一月に ﹁
第 二水川丸﹂と改名
掌納し改造 ﹁
人応丸﹂ と改名した。 そ の後
ー ル号を大平洋戦争 開戦直後 に日本海章 が
※人応丸 ︱元オ ランダ宗華卒船 オブ テンノ
ご 冥福 をお祈 り いたします 合掌
名 の墓耐 が並 ぶ中、 紅 一点 ﹁
加革年属内 日光枝之伸﹂ があります。
年二月十五 日帰 国。﹁
結核性 脳膜次﹂ で 同年 四月六 日に死去 なさ
天応九︲ 最初 の殉般者 となりました。
れました。 ﹁
佐倉市 馬渡 ﹁
善差院﹂境内 には 昭和十 五年 から の戦投者十 七
しかし、 過断 な勤務と劣 暮な環境 の中 で休 調をくず し昭和卜九
和卜 八年十 二月八日 一一
十名 の看託婦L共に横須賀を出発、 ト ラ
ック島 など で傷病者 の看護 収容 に従事 されました。
婦が最初 に乗船 した︶ に乗船し、 昭
を経 て 海 甲病院船 ﹃
天応丸求看護
﹁
甲種救護看託偏﹂となり 上海勤務
卒業後 日本亦︱字社 で看護 を学び
枚内 回光枝様 ﹁
昭和十 二年卒業生﹂
は、幼 くし てお母様 を亡 くされ本校
三 景 7 款 う港 白 な の
ア
i.
l
民
鶴 車港 にて 白爆処分された。
参考文献
「佐倉遭 ll lと その時代Jを 歩 く
す。 出 発 八 月十 八 日午 前 十 崎
気 温 二十 度 夏 の卓 っ楳 り の
(皇 居 前 で )
償
b
中 汗 を ふ き な が ら の名 所 巡 り
卜 ﹁﹁ ヤ ー
│
‐
Э穂 じ
←
怒k 虎 貞 妊 り 七 人 姉
海 得 早 属 内 口七 在 え 牟
昭 和 十 九 年 四月 六 日
日本 ホ 十 年 社 マ 社 工 〓 宕 長 折
大 た 丸 二本 テ戦 ︼
行 年 二十 二十
i
H田口内
l
もうひとつの「健史撤換J
です 。 一階 建 てバ ス の中 は さ
な が ら高 校 の修 学 旅 行 のよ う に
乙女 に 戻 り、 楽 し みま し た。 こ
の暑 い中 を歩 か せ て, こ の コ
ー スはヽ も し ろ か ったな ど 、 意
見 は ま ち ま ち でし た。 東 京 タ ワ
ー も来 年 は スカ イ ツリー に 人
気 が移 り そう です。
遣 席 を 迎 え も う 一度 人 生 を
「コとこ的 抱 ぶ
毎 年 ク ラ ス会 は
夏 です よ ′
第 32号
(5)=F成 23年 10)11日
平 成 23■ 10)Ⅲ l日 (6)
第 32号
セ ビ ア色 の
新 任 六年 間
旧職 員
斎 藤 動小
員 長 と 二年 生 が中 心 と な り、 用具 の準
備 掘 り 上げ 、 林 分 け 運 搬、 植 付 け
か ら後 姉 末 ま で 泥 と汗 に ま みれ て其 化
委 員 令 員 がR く や って下 さ いま し た。
今 面杉 転 の前 日 の会 議 後 、 村 田校 長
自圃圏
奥 様 の千枝 様 がお 亡 く な り にな
︵
昭和〓十五年四月∼昭和二r 二年二月︶
ナーもあり、 道行 く方 々に目 を向
の行亭、 活動内容 同窓会 の コー
に掲 示板 を設置致 しました。 学校
同窓会 と後援会共 同 で 校 門前
ら れ ま し た際 に 金 一封 と お 手 紙
け て頂 いてお ります。
思 師 田 中 ヤ
早 先生
が 添 え ら れご 寄 付 を 頂 き まし た。
∼ 先 生 か ら のお 手 紙 ∼
昭 和十 八年 佐 倉 高 女 年 業 の 国中
千伎 ︵
旧雄 高 橋 ︶は 一月七 日 に 死去
故 人 は 佐倉 高 女 を大 変 誇 り に、
先生 に ﹁
斎 確 君新 校合 のト イ レ の水 が
バ イ ク て新 校 合 に 行 き 玄 関 か ら 三階 に
又親 し く 思 って いま し た。 亡芸 は
致 し ま し た。
上 り 入 ると き 少 し た め ら いま し た が
大 変 僅 し い人 でし た。 こん な に良
出 る か確 認 し て来 てく れ ﹂ と 言わ れ、
ト イ レ の中 は 明 るく コンク リ ー ト の具
︿
昭和 三十 九年 四月∼
昭 和 四十 二年 二月︶
校 庭 の桜 に埋 れ る様 な討 生 で、 大学
いがし、 個 宝 に 入 リ レバ ー を押 す と結
校内役 員
デ ィ ム 平成 二年∼平成 二十年︶
が 厚 子 様
校 外 役 員編 集 委 員
︵
昭 和 五卜 九 年 ∼ 昭和 六十 一年︶
校外役員編集委 員
平成 二十 一
年 ∼7成 二十 二年︶
︵
平成 一
十 二年 五 月十 二日ご 逝去
謹 ん でご 実格 をお 祈 り中 し 上げ ます .
平 成 ニト ニ年 月 二十 八 日ご 逝 去
筆山部講 師
鳥 山 貞 子様
kr
ヽ
一
言
すb
大 切 に使 わ せ て頂 き た いと 思 いま
心 よ り 御 礼中 し 上げ ます と 共 に
高 女 に感 謝 し てお り ます 。
い優 し い人 を教 育 し てく れ た 佐倉
式 が行 わ れ た 佐 倉 東 高 校 の美 し い環 境
雇 な 水 が勢 い良 くた り ぬ け ま し た。 こ
校 長 先 生 に はに か め て慎 重 に行 う こ
が 思 い出 さ れ ま す. 式 後 上級 生 に よ り
き まし た。 昭 和 三十 九 年 十 月 聖 火 リ レ
と を教 わ り ま し た。 佐倉 東 高 校 で多 く
の流 れ こそ新 し い校 合 な のだ と丈 ほ し
ー の応 援 に 行 き、 東 高 代 表 ■ の力 強 い
の楽 し い思 い出 を 頂 き あ り が と うご ざ
椅 子 が 運び 出 さ れ 掃 き掃 除 、 梓 布 掛
走 り に東 京 オ リ ンビ ツク を身 近 に感 じ
いま し た。
﹁
問 々 の子 古 奈 ﹂ の音 楽 劇 は 印 象 的 で
し た、 早朝 か ら、 地 球 の靴 布 掛 け で会
場 を率 え て行 う 自 校 体 燥 の全 員 ジ ャ ン
プ の時 グ ラ ンド が揺 れ る こと にビ ツ
ク リ し そ の休 育 奈 の幕 り 上 が り は各
国感 激 でし た。
夏 休 み前 の暑 い時、 中 に など の花畠
浦 を 植 え替 え ま し た。 磯 谷 先 生 のご 指
導 のも L 清 清 し く て頼 も し い美 化委
報
ま し た。 文 化 祭 に和 恨 姿 て演 じ られ た
ま し た。
命
け と見 る間 に偵 元 さ れ る予 際良 さ に驚
マ
ぜ
の 報 告
内 田 正暮
平成 一一
士皐 度 総 会
本部役員
佐倉束高 同窓会総会 は六 月十 八日ウ んを推薦 し、 他 の議案 ととも にす べて
ィシ ュト ンホ テルにて開催致しました。 が承 認されました。 永 きに亘り校内役
︿否 長
︵
校外︶
貞 編集委員 とご 尽力頂 いた林 厚子さ
二月十 一日 の東 日本大震災 で亡くな ら
三橋 白美
海 保 靖 子
秋本 陽 子
んがご 逝去 された報告 をさ せていただ
副会 長
れた方 々と、 同窓会物故者 への黙 祷 か
会計監査
佐
懇親会 では 朗 読ボ ラ ンテ ィア ﹁
小山 良 江
きまし た。
内 同会長 仲 野校長先生 のご挨拶、
合市 こお ろぎ の会﹂が緑績褒章 を受章、
内 田美 恵 子
らはじまりまし た。
新教 頭池澤先生 のご 紹介、 川勝教 頭先
代表 の内 国会 長 にお祝 い の花束 を贈 主
奥津 洋子
生 の学校現状報告、 そ の中 で東大 に合
秋葉佐和 子
密本 政 子
川島 文 子
秋本 陽 子
柳 一
局子
編集委員
し、皆さ んで栄誉 を称え祝福 しました。
アト ラク シ ョンでは定時制新 任 の高 口
小島優美 子
存弱爵通信
魚蔀 景課
格 した生在 の話に拍 手 が沸 きました。
議事 が進 み役 員 の異動 では、 副会長 に
先生 によ る大 神楽 の素晴 らし い芸 に ア
事 務 局委 員
続保靖 子さ ん 会 計監査 に奥津洋 子さ
ン コールがあ り、 皆様大変 満足げ の様
子 でした。 お楽し みタイ ムでは、 ジ ャ
ンケ ンゲ ー ムで盛 り上がり楽し みまし
た。 又 出席者 最年長 の三橋 は つ子様
︵
校内︶
学校 長 ︵
副 会 長︶
に 素晴 らし い毛筆 で全 員に名 札 を書
いて頂き 皆様 大変感心 し ておられま
教 頭
役 o
貝
事務 長
北村 恵 子
川勝 里文
木 下久 二欧
池 澤 悟
仲 野 仁
し た。 最後 に全員 で手 を つたざ大 きな
故 郷五瀧
輸 にな って、高 野辰之作 詞 ﹁
月夜≡ 女 子校校歌﹂ を和 やかに合 唱し
まし た。 今年 も同窓 生 の石井 正r様 よ
りきれ いなお花を頂 きました。
船 岡 和美
野 口みど り
でき、 役員 一同感謝 致し てお ります。
有 田美 代 子
定 期 異 動
X春 の定期 異動 により、 平山弘之教 引
先生 が千典北高校 に、新 たに木 更辞束
高校定時 制 より池澤悟教 項先生 がご着
任 されまし た。
米副会 長 の清宮美智 子さんがご 退任、
後任 に海 保靖 子さ んが 会 計監査 に央
津洋 子さんがお仲 間 人りしました。
耐 震 工 事
昨年 は体育館 を、本 年度 は管 理教室
棟 の改修 工盲 が終 わ りまし た。
次 回 総 会 のご 案 内
平成 二十 四年 度 の同 窓会 総 会 は 六
月 の第 二土 曜 日 六 月十 六 日 を 予定 し
てお り ま す。
J
皆様 のご 協 力により無手終 え る事 が
来 年 の総会 にもど うぞ 皆様お誘 いあ わ
せ のうえ、 多数 の方 々が出席し て下 さ
千葉県立に倉東高校
Iで 検索されますとを覧
!頂 けます。どうぞご利
:用 下さい。
:「
います ようお 願 い中 し上げ ます。
事務 局委 員 ︵
密本 秋共 ︶
で
インターネット
母校の情報を
第 32号
(7)平 成 23年 10月 上日
伊
藤
美
②鐘で徳8
種
調理国際科
調置 辱
子
調理 国際科 の特 徴は高校 教育 の中 に
16
(0)
16
(0)
各種
18
(0)
13
(1)
59
(12)
90
(13)
職
7
(0)
6
(1)
17
(3)
30
(4)
その他
9
(0)
9
(0)
22
(2)
40
(2)
未
0
(0)
2
(2)
9
(3)
11
(5)
35
(0)
36
(6)
153
(28)
224
(34)
身 に付 け た い こと﹂、 ﹁
﹁
そ こを卒 業 し
い﹂ と いう感 じ では必ず 後悔 します。
を持 った アルバイトならいいのです が、
就職 活動 も せず、﹁
別 に アルバ イト でも
路先 のこと です。 し っかりとした 日標
昨年度 の進 路状 況を見 まし ても、 日
(0)
,
■や ︰ P ゃ や っ
す
,
●
0
Hをお祈 り致します。
予
争 日も早 い復I
争 内 国会 長 の禄績褒章 受章 な 古
争 でし こジ ャバ ン のに勝 は、﹁
あき む
留 ら いな い心﹂ を教 え てくれ たよ ェ
小島︶ と
う に思 います。 ︵
,一
ヽ
.
8
1 い い
・
﹄ t t t 毎 成 “一 ヽ
襟↓ このたび の束 日本大 震災 の被 お
3
害
に
あ
わ
れ
た
に
は
心
よ
り
お
ゃ
方
。 見舞 い申 し 上げ ます と共 に 一
8
一
い﹁
●
8 編 集 後 記 8
わ 白 ゎ ﹁
豊
我 々教師 の務 め です。
と 思 いま す 。 そ の手 助 け をす る のが
し っかり考 え て、 進路 を決 め て欲し い
﹁
進賂t L は生 き方 を考 え る こと で
す。 ど う いう人生 を歩 ん でいく のかを
の無秋 です。
れ る学校﹂ で いいではだ め です。 お金
切 な のです 。 努 力 も せず ﹁
人れ てく
学校﹂ に行く ために努力す る ことが大
た後 の進 路﹂ を よく考 え ﹁
行きた い
進学 にお いても、 ﹁
学び た い こと﹂、
何と かな る っし ょ﹂ ﹁
何 にもしたくな
他﹂ とは、 アルバ イトなど 不安 定な進
立 つのが ﹁
そ の他﹂ の多 さ です。﹁
その
0
す 。 コン テ スト 以外 に も 鹿 陵 奈 では 二
年 十 が オ リ ジ ナ ル弁 当 作 り に も 収 り 組
ん で います 。 これ ま で 軍千 産 千消﹂ 松
千葉 弁 一
絆こ ﹁
千葉 け ん こ
花 弁 当﹄ ﹃
う弁 当一を作 り 販 売 し ま し たず ﹂のよ う
に 基 本 の調 理 手法 を 学 習 し な が ら
高 校 午 ら し い当 か な 発想 力 で新 し い料
理 を創 り出 す こと に も意 欲 的 に取 り純
ん で います 。
(0)
計
調理怖養 成 のカ リキ ュラムを加え てあ
0
定
ると ころです。 日的 を持 って人学す る
大
就
計
合
通
普
調理 国際
服飾デザイン
生従達 は、意 欲的 に 日 々の学 習 に取 り
(10)
1専 修
組 ん でいます。
7年 から の男女共学 以降、 男子
平成 1
の人学者 が徐 々に増加 し 今 年度 は 亜
末 だ 不 況 か ら脱 し 得 ぬ 日本 経 済 に追
37
短
名 の男 子が入学しまし た。
0年 からは 2年生 の貞休 みに、
平成 2
主 に成 田 ■葉 のホ テルや給食施 設 で
昨 年 は柏市た の ﹃
町来 をお いしく食
︲
べる創 作料 理 コンテ スト﹄ で 3点 の
︲
応募 から優秀作 品 の5作品 の上 つに選
い打 ち を掛 け る がご と く 発 生 し た今 回
(8)
植草学 国短
帝京平成看
千葉経 済大学短期大学
インターンシ ツプ 学召 を行 っています。
ば れ まし た。 ま た、 ﹃
健 康 カ ミカ ミ弁
の大 震 災 に 際 し、 校 災 さ れ た皆 様 に は
30
字
詞理師とし て の就業体 験 をす る こと で
一
十 二年 度
状
当 コンター ル﹄ では 千葉 県歯科 医師
心 か ら お 見舞 い中 し 上げ ます 。 こ の震
(2)
短期大学
将来 の進路 を考 え る良 い経験 とな って
います。 また 最近 ては料 理 コンテ ス
ト に多 く の生徒 が植極 的 に参加す るよ
路
会 長富 を支賞 し ています。 そし て今年
災 の影 響 が今 年 の進 略 特 に就 職 にど
路指導主事 と︿
は合 日高校 生 スイー ツ選 千権 大会 で開
潔
う 現 れ る か は まだ 分 か り ま せ ん が. 相
倉 況
束ブ ロ ック 5チー ムに進ば れ地 区予進
う にな りまし た。
進進 堅
当厳 し いと言 う こと は想 像 が付 きます。
6
護短期大学
部 他
平
大会 に出場、 全 国大会 を日指 し て いま
(0)
青 山学院女子短期大学
期大学 淑徳短期大学
1
進
東京 家政学院大学、
立正大学 和洋女子
杉野服飾大学
東京農業大学
大学 他
( )は 男 子
3月 卒)
(平 成 23年
14年 生大学
学
大
平成 231:〕 0月 1日 (8)
第 32号
Fly UP