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チャールズ・テイラーの何を論じるべきか

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チャールズ・テイラーの何を論じるべきか
特集2/コミュニタリアニズムの可能性
チャールズ・テイラーの何を論じるべきか
北海道大学大学院法学研究科教授
辻 康夫
北海道大学の辻でございます。専攻は政治理論です。今回、大変意義深い研
究会にお呼びいただきまして、誠に光栄に存じております。本日は、中野剛充
さんの『テイラーのコミュニタリアニズム』
(頸草書房、2007 年)の刊行を機
に、チャールズ・テイラーの思想の意義について議論させていただければと思
います。
1.テイラーの議論の四つのレベル
人間の経験を規定する超越論的な条件
テイラーはどのような領域について論じているのかという辺りから参ります。
まず、彼の議論の一つ目のレベルは「人間の経験を規定する超越論的な条件」
というものです。どういう話をしているかというと、我々が日々生きていたり、
行動したり、会話をしたりということはどういう仕組みになっているのだろう
かという話です。例えば、人間というもののアイデンティティが成り立つため
には、その「自己解釈」というのが根本になければならない。自分は誰なのか。
「自己解釈」の対になるのが、
「善」の観念ですね。つまり、善い人生というの
は、どういうものなのか、どういうときに我々は充実した人生を送ったと考え
られるのか、これが「善」の観念です。だから、自分がどういう人間なのかと
いうことと , 何が意味のある人生なのかということかという両方が対になって
いる。そして我々は narrative、ある種の「語り」によって、こういうものを
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了解しているわけです。つまり、自分はこういう家庭で育てられて、ある時こ
ういう考えに惹かれたけれども、今はこういうように考えている。自分の人生
を見渡すことができるような、そういう語りをだれも持っているだろうと。こ
れがアイデンティティの不可欠な部分というわけですね。
narrative つまり自分についての語り、意味のある人生について語ることは、
特定の言語と不可分です。つまり、一定のボキャブラリーがないと、自分につ
いて語り、善について語り、自分の過去について、来歴を語ることができない
ということで、言語が重要になります。
問題はもう一つ、
「承認」
(recognition)です。我々は一人で物語を組み立
てるのではなくて、絶えず対話の相手方を必要とする。つまり、人と話をしな
がら議論をしながら、物語を組み立てていく。したがって、他の人から認めら
れるということが非常に重要である。これが「承認」です。これでお分かりに
なったと思いますけれども、自分が何者かというのを理解するためには、言語
が必要だし、対話の相手方からの承認が必要なのです。ということで、自分ら
しくあるためにコミュニティが不可欠であるということになる。つまり、自分
と対話してくれる相手、自分を理解してくれる相手というのが存在しなくては
いけない。このコミュニティが何であるのかというのは、ここではとりあえず
措くことにして、ある種の価値観を持った人たちのまとまりが不可欠なのだと
いう話です。
以上が一つ目の議論のコアです。人間というのは、どんな価値観を持ってい
るにせよ、こういう条件だけは逃れられない。これを指して「超越論的条件」
といいます。カントが、transzendental といった意味での、つまりすべての
経験に先立ってこういう構造が存在している、これが超越論的な条件というも
のです。
善の存在論
二番目のレベルとして、テイラーは「善の存在論」というべきものに関する
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膨大な研究を行っています。つまり、人間は今まで、どんな善の観念を持って
きたか、そしてそれがどういうふうに歴史を通じて受け継がれてきたか、今日
我々の思考様式を規定している善の観念というものはどういうものかといった
ことです。テイラーの主著といわれる Sources of the Self という本があります。
日本では「自己の源泉」と訳されますが、この本の内容は「善の存在論」
、人
間はどういうものに価値を見出してきたのか、というものです。
最近は A Secular Age という続編が出ました。善といってもいろんなレベル
の話がありまして、人を助けるのは善いことだというシンプルな善もあります
し、もっとそれを高いところで意味づけるような神とか、自己とか、自然とは
というような抽象度の高い話もあります。こういう、
善の存在論は、
ハイアラー
キカルな構造を持っています。高いところにあって、シンボリックな働きをす
る善もあれば、もっと具体的に日常生活で行うような善もある。そうしたもの
について詳しく解説したもので、中野さんの本はこのかなりの部分をフォロー
していると言えます。これが二つ目のレベルです。
現代社会の診断
三つ目のレベルですが、「現代社会の診断」とでも言うべき領域があります。
これはどういうことかというと、今現在 21 世紀において、どういうものが支
配的な善なのか。どういう善が我々の自己を規定しているのか。例えば社会の
組織形態として、産業社会とか官僚制などが存在する。他方において、私生活
や芸術などが存在する。つまり、どんなものが支配的な善で、それが生活の領
域にどういうふうに割り当てられているか。
どういうものが支配的な善で、
我々
は日常生活のどの局面でどういう善を実現しているのか、という議論が現代社
会の診断というレベルの話です。この手の話の中で、はたしてデモクラシーは
うまく機能しているか、デモクラシーの機能の条件といった話も出てくる。こ
れが三つ目の領域です。
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どういう社会制度が望ましいのか
ここまでは基本的に「何がどうである」という話だったのですが、四つ目
のレベルは「どういう社会制度が望ましいのか」という話です。テイラーが
advocative issues と呼ぶ領域ですが、これは人間の選択に関わる問題です。
政策や制度を、どういうふうに選択すれば我々はうまく生きられるのだろうか、
社会がうまくいくのだろうかというジャンルです。ここで出てくるのは、例え
ば人権をどうするか、あるいは多文化主義政策は望ましいか、参加民主主義は
望ましいかという話です。こういう制度の導入が果たして望ましいかという議
論、これは選択の問題です。我々はどうするべきかという話です。
テイラーは、このような四つのレベルの問題について論じています。これは
つまり議論される範囲が、普通のいわゆるコミュニタリアンとして皆さんが想
起されるものとかなり違うかもしれないということです。特に、二番目の善の
存在論というところでした話は、他のコミュニタリアンに対して圧倒的に厚い。
マイケル・サンデルという人は、共和主義の存在論についてはやるわけですが、
それ以外の存在論についてはあまり語らない。それに対して、テイラーは善の
存在論がものすごい厚さです。テイラーの場合は、コミュニタリアニズムとい
うのが、ある種の文明批評と結合しているというのが大きな特徴です
2.テイラーをめぐる「誤解」と「難問」
「リベラル=コミュニタリアン論争」をめぐって
このように、非常に包括的に壮大な議論が、要領よくまとめられているのが
中野さんの本です。それに対して私が読んで、若干の質問をしたいというのが
ここからの話です。
一つ目の質問です。中野さんは、テイラーの議論に対するさまざまな批判を
紹介し検討されている。一般的に、思想家に対する批判には二種類のものがあ
る。一つは「誤解」です。コミュニタリアンというのはよく誤解されます。情
報不足、理解不足というのがあります。特にアメリカなどでは、ある種のタイ
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プのロールズ的議論がスタンダードとして採られているがゆえに、それと違う
ことを言うと、それに対してかなりの誤解が寄せられる。ただ、これはそれほ
ど深刻な傷ではない。つまり、情報が与えられれば氷解する。この種の批判と
いうのは、確かに困ったものではあるが深刻ではない。
もう一つは、学問上の決着がついていない、本当の意味での難問というもの
があるわけです。つまり、その思想家の議論をよく知った人が見ても、
「この
部分は未決着だ」という批判がありえるわけです。中野さんの本は、今回テイ
ラーを日本に紹介するということで、その両方をかなりくまなくフォローして
いるのですが、これはこの場で分けていただけないか、というのが一つ目の提
案です。
さしあたり中野さんは「リベラル=コミュニタリアン論争」の中でテイラー
を紹介されたわけですが、このリベラル=コミュニタリアン論争というのはど
ちらなのだろうか。つまり中野さんは盛んに、テイラーは多元性に対して敵対
的ではない、いろんな多元的価値を認めていると述べています。これは私から
言うと当たり前のことで、そんな誤解はどうして起こるのだろうという感じが
するのです。そうだとすると、このリベラル=コミュニタリアン論争というの
はある種の誤解から生じた論争であって、大した論争ではないということにな
るのではないか。例えば Sources of the Self を読むと、テイラーが多元主義的
なのは当たり前という感じがするわけです。もし、そうしたものを読んだとし
てもリベラルの側からまだ批判が残るのだろうか。つまり、中野さんが仮に
コンテクストとして設定したリベラル=コミュニタリアン論争は、はたして今、
我々が続けていく価値があるのかということです。
ハーバーマスとの対立をめぐって
テイラーをめぐっては、これ以外に、本当の「難問」思われるものがいくつ
か存在します。まず、ハーバーマスとの対立をどう扱うかということです。こ
の問題については私の見るところ決着がついていない。
つまり、
テイラーとハー
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バーマスとは、それほどどちらが優勢ということはない。たぶん、この二人は
お互いをよく理解しあっているけれども、意見の違いが残っているというよう
な状況だと思います。具体的に言うと、善の存在論、先ほど言いました、第二
のレベルの問題で、正義という価値をどのように定義するかということをめぐ
る哲学的な対立です。ハーバーマスの議論は基本的にカントを引き継いでいま
す。人間の価値領域の分化(differentiation)を近代的な知の達成として高く
評価するわけです。その上で、公共空間を規律するのは正・正義の問題である
ということになる。これに対して、テイラーはそうではないというのです。実
は、正義の背後には特定の善のビジョンがあるのだと。その善のビジョンが、
絶対性を持たない以上、正義というのが場合によっては別の価値によって覆
されることもありうるのだという議論をする。アメリカで言えば procedural
liberalism と呼ばれる議論は、ハーバーマスが言うように本当に見直しが不可
能なのか、テイラーが言うようにそこはネゴシエーション可能なのか、という
ところが決着のついていない問題です。テイラーもハーバーマスも二人ともそ
れを意識している難問であろうと思います。この問題について中野さんはどう
思うか、現在のところのコメントをお聞きしたいと思います。
ロールズ問題をめぐって
三つ目はロールズです。
「ロールズ問題」というのは、果たして「負荷なき
自己」の問題なのか。サンデルは、ロールズは「負荷なき自己」だからまずい
と、最初にこう口火を切ったのですが、ロールズの魅力というのは本当にそこ
にあったのかというと、どうもそうではない。つまり、ロールズが言わんとし
て、例えば Political Liberalism で明確になったことは、特定の善の構想から
離れたところで正義を基礎づけられるのだというところがポイントです。テイ
ラーは違うのです。テイラーは正義の背後にはたとえばカント的な理想がある。
つまり情念を交えずに、常に不偏不党を貫くことが人間にとって素晴らしいこ
となのだという理想がカント的理想ですね。テイラーが言うには、procedural
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liberalism の背後には、そのカント的な理想があるのだ、しかし我々はそのカ
ント的理想にいつもしたがって生きているわけではないので、だから限界があ
るでしょうという議論をするわけです。それに対して、ロールズは、それはカ
ント的理想であるかどうか私は知らない。けれども異質な他者が共存しようと
思ったら他にどんなやり方があるのかというのがロールズの返答です。つまり、
ロールズは特定の善の構想から独立して、共存のルールという形で正義の原理
を基礎づけられるのだと言うわけです。ある人はクリスチャンであるし、ある
人はムスリムであるし、ある人はブッディストであるけれども、皆がお互いを
平等な人間として扱おうとすれば、これは正義の原理しかないのではないかと、
こういうタイプの議論です。テイラーは、それはだめだと、やはりそれぞれが
その背後に何か一定の善き人生というものを見ていない限りなかなか正義に対
するコミットメントというものは生まれないのだと。これも、たぶんロールズ
も、テイラーもお互いに理解しあっていて、しかも合意に至らないポイントな
のではないでしょうか。これも難問だと思います。
ポストモダニズムをめぐって
さらに難問だと思うのは、ポストモダニズムです。例えばフーコーやデリダ
とテイラーは明らかに矛盾するのです。脱構築論の側から言うと、テイラー
が言う善というものはパワーによって押し付けられたものでしょうと。我々
は、そんな特定の善にコミットして生きているわけではないのですと。権力関
係の磁場の中で特定のアイデンティティを持つに至っただけであるという議論
をして、そういうものを後生大事にして生きていく必要はないのだと。これ
が脱構築(deconstruction)の立場です。それに対して、テイラーは、
「あな
たの言っている deconstruction 自体、その背後に何か善を隠していませんか」
という形での切り返しなのです。つまり、あなたが一生懸命そうして特定の善
の価値を相対化しようとするその背後には善き人生のビジョンがやはりあるで
しょうと。例えば、ニーチェが神を殺したと言っているけれども、ニーチェが
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どれくらいキリスト教に依存しているのか考えたことがありますかという、こ
ういう形での切り返しなのです。ですから、先ほどの超越論的条件の一番目
のところ、人間は narrative によって自分のアイデンティティを作るというこ
と、そしてその narrative の核心には善がなくてはいけない。これに対して、
deconstruction 派はここに異議を唱えているわけです。それに対して、
テイラー
はやはり私のほうが正しいと言っているわけです。これはやはりまだ決着のつ
いていない難問だと思います。
中野さんはこれらの諸問題を満遍なく扱っています。はじめて紹介をする場
合は満遍なく扱う必要がありますけれども、学界の先端がどこにあるのかとい
うことはやはり考えざるを得ないのではないかと思います。単なる「誤解」と、
こういう決着のついていない問題とはより分けていく必要がある。あるいは、
私の定義が間違っているかもしれませんが、その場合はコメントをお願いした
いと思います。
3.多元性の擁護の問題
多元性の擁護の根拠
次は大きな二つ目の質問です。中野さんは、テイラーは多元性を擁護してい
るという話をこの本のテーマにすえているわけです。それはその通りですが、
テイラーが多元性を擁護するといった場合、私の見方では次の四つくらいの意
味がある。
一番目は、善の観念それ自体が多元的であるということです。現在、我々の
生活を支配している善はたくさんあり、それぞれが対立関係にあることもある。
こういう状況の中で特定の善だけにコミットして人間は生きることができない。
これが一つ目の意味です。
二番目ですが、テイラーはリベラリズムの中心的な価値である、選択や自律、
自己決定(self-determination)の価値をかなり高く評価している。これは近
代がもっている価値の中で、カントに由来する価値として非常に重要な価値で
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ある。ですから、コミュニタリアンという一般的なイメージ、粗野な理解から
すると意外かもしれないけれども、実はテイラーの社会構想のかなりの部分は
ロールズ流のリベラリズムと共通なのです。つまり、テイラーは近代が生んだ
偉大な価値としてカント的な自律の観念、そしてその当然の帰結である自由権
を高く評価している、というのが二番目の話です。
三番目として、仮にカント的な立場が十分に強くなくても、政策レベルにお
いて中立性を採用すべき場合は非常に多いという議論です。必ずしもカント的
な価値にコミットしていなくても、政策レベルでは一定の価値の押しつけが非
常にまずいという場合は多いのだということをテイラーは盛んに言っている。
これが三番目です。
四番目ですが、カント的な中立性以外に、テイラーは、フンボルトやヘルダー
などのリファレンスを用いて、対話による共存という話をしているのです。カ
ント的な中立性というのは、公共的な機関は常に、文化的にはいわゆる「好意
的な無視」
(benign neglect)
、つまりあえて市民の属性がどこにあるのかを問
わないというものです。しかし、
これ以外にもいろいろなタイプの市民が集まっ
て、お互いに意見を交換する中で多様性を尊重しあう、こういう対話を通じて
ニーズの折り合いをつけることが可能なのではないかという議論をテイラーは
やっています。このように、テイラーが多元性を擁護するには、少なくともこ
の四つくらいのレベルがあるわけです。
中野さんは、このどれにも目配りをして、これに二つ足しているわけです。
一つは、解釈する主体としての責任という議論。つまり、人間は自分のアイデ
ンティティを解釈していかなければいけないので、自分の解釈に責任を持つ。
これはとりも直さず、その人間の個性を尊重することなのだというのが中野さ
んの解釈です。もう一つは、近代の重要な価値である authenticity、これは「本
物という倫理」と訳されますが、authenticity の理念というのは、これは自己
の uniqueness を追求するものであるから、これは個性の承認と結びつくはず
だ、というのが中野さんの議論です。
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ここまで入れると多元性を擁護する六つくらいの根拠があることになるので
すが、テイラーにとって果たしてどれが本質的なのでしょうか。あるいはどれ
があまり重要ではないのでしょうか。
このことについてお聞きしたい。
テイラー
が多元的だというのはある意味当たり前なのです。中野さんが多元性という場
合、どこを評価しているのかということを伺いたいということです。
civic humanism をめぐって
次は「多元性 vs 共通善の政治」という部分です。共同体は共通善をどの程度、
個々のメンバーに押しつけることができるのか、ということについてテイラー
がどう考えているのかということです。これも中野さんはフォローされていま
すけれども、一般的にコミュニタリアンというのは共通善の政治というものを
前面に出して、政治権力を使った共通善の促進というものに乗り気であるとい
うように思われるかもしれませんが、テイラーが明示的に、共通善を推進すべ
きというように考えているケースは、それほどないのです。
先ほどの四番目の政策論争の話でこういう話が出てくるのですが、一つ目
として、いわゆる civic humanism と呼ばれるものについては政府は奨励しよ
いということです。その内容は何かというと、参加民主主義(participatory
self-government)とパトリオティズム(patriotism)です。参加民主主義の
ほうは、コミュニティの政治に積極的に参加することで初めて、民主的な政治
は機能する。自由を守るためには市民は、参加しなければならないという議論
です。そうでないと、市民はどんどん政治から疎外されていく。次のパトリオ
ティズム、これはしばしば日本語で「愛国心」と訳されますけれども、北米で
は少なくともナショナリズム(nationalism)の対概念です。ナショナリズム
を批判するためにパトリオティズムという概念を使うのです。どういうことか
というと、1990 年代に東欧の旧共産圏でエスニック・クレンジングなどが行
われるわけです。そうすると、
ナショナリズムはたまらないなと、
しかしナショ
ナリズムを否定しても彼らがお互いに共感を持てない。そういう場合に、パト
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リオティズムという議論が起きるわけです。パトリオティズムというのは、民
主主義へのコミットメントを、お互いの共感の基礎にすえるべきであるという
議論です。ですから、そこでシンボルとなるのは自由や平等やデモクラシー
などになる。これによって、ナショナリズムの民族や伝統を代替しようとした、
そういう試みなのです。テイラーはこのパトリオティズムに関しては、民主主
義が成り立つために必要なのではないかという立場をとります。
ケベック問題とヘルダー=フンボルト型モデル
二つ目はケベックなどの問題。ケベックがフランス語文化を失って、英語に
同化されるのを防ぐ、そのための権力の使用は認められるべきであるという。
この二つについては、明示的に共通善を守るために政府が介入してよいという
話を彼はしているのです。
三つ目として、先にヘルダー=フンボルト型モデルの話をしました。政府が
完全に中立となっていろんな文化を尊重する代わりに各当事者に話し合いをさ
せて、その結果そこでの合意を尊重するということも考えられるという議論を
するのです。例えば、ある地域で、学校でお祈りをさせたいキリスト教徒がい
たとします。他方、イスラム教徒はその代わりにモスクを立てて欲しいと思っ
ているとします。どちらも許さないというのが、
「好意的な無視」の中立的な
立場です。その代わりに、両方許すという選択もあるではないかということで
す。ですから、これはある意味で完全な政府の中立性の原則を緩めたことにな
るのですけれども、それが必ずしも不公平感を引き出さない。両当事者が納得
して議論して、もしそれで満足したならばそれでもよい、それ位は公共的な領
域の中に特殊なものが入ってくるのはよいだろう。これがテイラーの議論です
ね。
「多元性 vs 共通善の政治」を超えて
テイラーが共通善の政治という形で、リベラルな中立性を修正してよいと考
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えるのはこの三つくらいしかない。例えば、キリスト教の教育を拒む人に押し
つけるといった議論は、全くテイラーの考慮には入らないということです。で
すから、共通善の政治については、実はリベラリズムの枠内に取り込める議論
なのです。リベラリズムは、リベラル=コミュニタリアン論争のあと、liberal
virtue とか liberal tradition というように、習慣とか virtue とか公共善の話を、
自分達の議論の中にどうして取り込んでいくかという議論を盛んに行うわけで
す。例えば、キムリッカが多文化主義の議論を行うとか、スティーブン・マシー
ドー(Stephen Macedo)が Liberal Virtue という本を書くとか、リベラリズ
ムは相当程度、こういう virtue の問題、伝統の問題を自分の中に取り込んで
くるわけです。ここまで見てみると、はたしてテイラーと修正されたリベラリ
ズムとの間にどれほど差異があるのかということがあまり分からない。むしろ、
あまり差異はないのではないかというような気もするのです。
ということで、中野さんの多元性の擁護というテーマは、アクチュアリティ
を相当程度失っているのかもしれないということです。ただ、サンデルにつ
いては少し違う。サンデルは、もう少し共通善の政治を前面に出します。テ
イラーは、すごくポライトな人なので露骨な批判はしませんけれども、明ら
かにサンデルに対しては批判をしている。つまり、サンデルの Democracy’s
Discontents の問題提起はよく分かったけれども、それではどうすればよいの
か、という論文を書いているのです。つまり、共通善の政治を考えた場合に、
完全な中立性か、公共善の政治かというような二項対立を立てるのではなくて、
テイラーのようにどうしたらそれらの折り合いをつけることができるのかとい
う議論を立てるほうがたぶん生産的で、このあたりから学ぶべきだというよう
な感じがいたします。
リベラルな中立性をめぐって
次に、ヘルダー=フンボルト型対話モデルがどこまで説得的なのかという話
に移ります。リベラルな中立性、つまり礼拝は全部禁止してしまおうという立
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チャールズ・テイラーの何を論じるべきか
場と、両方が話し合って両方とも満足できるような礼拝を認めたほうがよいと
いう立場、どちらがよいでしょうか。テイラーは、自分と異なる価値を追及す
る人たちが社会の中にいることで我々の人生が豊かになる、こういう議論を立
てるわけです。だから、こういう差異というものを公共的な領域から消し去る
のではなく、公共的な領域に持ち上げてきて議論をしたほうがよいという議論
になるわけです。ただ、テイラーの議論が正しいかどうかは実際にうまくいく
かどうかにかなり依存する。哲学的な議論のみから出てくる話ではなく、経験
的にも検証されなければいけないことになると思います。
テイラーの議論はこういうことです。リベラルな中立性といった場合、我々
は他者を理解する動機がない。どんな人でも画一的に扱うので、逆に言うと他
人を理解しなくてはいけないシチュエーションが生まれないではないかと言う
わけです。その結果、他の人がどのような苦しみを持っているのか、何であの
人たちは学校で礼拝をやりたいのか、こういうことに対する理解のインセン
ティブがどこからも出てこない。これがリベラルな中立性のよそよそしいとこ
ろだと述べるわけです。それよりも話し合って、お互いがどうすれば満足する
のか議論したほうがずっとよいではないか、というのがテイラーの議論です。
しかし、はたしてこの話し合いは本当に相互の理解を促進するのかどうか。
政治的な場での話し合いです。学校の中で、礼拝を認めるとか認めないという
ような場合にお互いに胸襟を開いて、相手の言うことを深く理解しようと努め
るのかどうか。つまり、こういうことは政治的な問題にしないほうが案外純粋
な善意からの理解というのは容易になるかもしれない。これはやってみなけれ
ば分からないわけです。現実にあるコミュニティにおいて、ある条件がそろっ
ていればうまくいくけれども、そろっていなければ無理ということになるで
しょう。
次に対話するとして、イスラム教には絶対に礼拝が必要であるという人と、
イスラム教だってたまにお休みしてよいという人が出てきたらどうするのか。
キリスト教の側も意見が割れたらどうするのか。こういうとき、テイラーはや
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はりある種のエリート主義によって解決を図る面があるのではないか。例えば、
キリスト教をよく勉強してみよう、いつごろからこういう礼拝というものが、
どういうように制度化されてきたのか、テイラーはこういうふうな議論が望ま
しいというように考えているように思われるのです。キリスト教だって、いろ
いろ形を変えてきたではないか、だから今、イスラム教徒と折り合いをつけら
れるように変えられないわけはない。こういう感触を持っているから、対話と
いうことが言えるわけです。しかし、キリスト教の教義を過去に遡って、数世
紀も辿れる人間が普通の市民の中にどれほどいるだろうか。このように、市民
同士の対話の中に「真理」の問題というのが入ってこざるを得ない。単なる妥
協(compromise)では駄目なのです。お互いが納得するためにはそれがキリ
スト教の価値とか、イスラム教の価値にもとらないということを皆が納得して、
ハーモニーが成り立つわけです。
単に、自分が一歩譲って、相手が一歩譲るというだけでは全然お互いを理解
することにはならない。こうした形式的な処遇を超えて、価値観同士に折り合
いをつけるといった場合に、これははたしてデモクラシーとどこまで親和的な
のか。ある非常に教養のある人間であれば、折り合いをつけられることがある
かもしれないけれども、一般人にそれを理解する力があるのだろうかという問
題があるわけです。テイラー型の多文化主義モデルが、リベラルな中立性と比
べてどこまで機能するのかという感じがするわけです。これは経験的にしか決
まらない問題だと思います。そう考えると、このあたりをテイラーの思想の本
質と考えるのは問題かと考えます。善の存在論に関しては、ものすごく精緻な
論証をされているのですが、四番目のレベルの問題についてはかなり経験的な
反証も可能であると、その意味で磐石な強さを持っていないという感じがいた
します。このあたりについても何かコメントがいただければと思います。
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