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Title 清水紫琴のと :明治の,その誕生の 軌跡

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Title 清水紫琴のと :明治の,その誕生の 軌跡
Title
清水紫琴の<女権>と<愛恋> :明治の<女文学者>,その誕生の
軌跡
Author(s)
林, 正子
Citation
[岐阜大学国語国文学] no.[23] p.[23]-[39]
Issue Date
May-96
Rights
Version
岐阜大学教養部, Gifu University
URL
http://repository.lib.gifu-u.ac.jp/handle/123456789/3710
※この資料の著作権は、各資料の著者・学協会・出版社等に帰属します。
納言)
への熱望
(愛恋)
子
においては、(今日の日本に要す
の出現を祈念、(既
(明治の今日)、これらの高等教育を受けた女性が
に理想上の文学者をのみ念慮とせずして、実際今日の日本に要す
)と叱咤激励し、(宿世界の宿物を括読したまへ)、(いたづら
幾多の学問をその身に貯へたるまま、社会の裏面に、潜まるるか
(何故に、多年書籍とともに生息し、書籍とともに起臥しながら、
(今はた何事をなしおるか、関として音なく、寂として声なし)、
性頗る多き)
りし)ゆえに(大学の学生にも、劣らざる程の修業を積みたる女
に女子教育の途開け、普通教育の外に多少文学上の教育を施し来
る文学上の働き)をなすような(女文学者)
との遅きや」(一一月二九日)
また、その論説の一環である同年発表の「女文学者何ぞ出るこ
醒と奮起を全身全霊で呼びかける。
放を希求する一連の評論を発表、女権拡張のために女性自身の覚
正
(女権)
(明治の
林
と
明治の (女文学者)、その誕生の軌跡
(今代の紫女)
(一八八五∼一九〇三)
とともに担ったのが、紫琴・清水豊子
である。明治二三(一八九〇)年、「女学
談集会に参聴することを許されざるか」(八月三〇日)、「泣いて
雑誌」の主筆・編集責任者となった紫琴は、「何故に女子は、政
(一八六八∼一九三三)
(一八六三∼一九四二)
女学思想に基づくこの雑誌の全盛期を、主宰者・巌本善治
指摘しその解決を目指した「女学雑誌」
同等の磁場に救い上げるために、女性をめぐるさまざまな問題を
男尊女卑という名の封建制に呪縛された明治期の女性を、男女
-
愛する姉妹に告ぐ」(一〇月一一日)、「当今女学生の覚悟如何」
-
清水紫琴の
(妾は切に君を待つ)
はじめに
ー
(一一月一五日)など、壮絶な問題意識を反映する題名で女性解
23
-
る文学上の働きをなしたまへ)と撤を飛ばす。
れる熱情で語りかけた対象は(諸姉)
であり、その女性自身の覚
をもたらすような(女文学者)
醒・奮起への呼びかけは、(明治の文学)に(純潔優美の趣味)
き時に起たざるは、決しておとなしきにあらず、謹み探きにもあ
の熱望はそもそも、(書く)
さらに、紫琴は同文において、(いふべき時に言はず、起つべ
らず、そは実に、臆病怯儒の人たるなり)、(謙退と怯儒を混清
ことへの野心を招来したと言い換えてもよい。
の出現への祈念が、
ことへの紫琴自らの意欲に裏づけら
の登場を促すものであったが、こ
して、あたら宝を持ちながら、空しく腐朽に帰し去られむか)、
柴琴自身に(書く)
れたものではなかっただろうか。(女文学者)
(まことにこれを惜しむべき事と思ふなり)と畳みかけるように、
なきことは、我等女性たるものをして、はなはだ遺憾ならしむる
生き方への無念を述べ、(我が女界文学者出でず、我が文界女性
れる紫琴は、父親の決定による結婚と破鏡、自由民権家との恋愛
九〇一)
二〇(一八八七)年前後、岸田俊子(=中島湘姻一八六一∼一
景山英子(=福田英子一八六五∼一九二九)と同時期の明治
ことなるのみならず、明治の文学をして、自然乾燥無味に帰せし
と挫折、人格を認め合った男性との自由結婚という、(女)とし
性差の陥弄に陥って甘んじている、本来は有為の女たちの消極的
めしかして純潔優美の趣味を欠くの一原因たらずんばあらざるこ
て波瀾の人生行路をたどる過程で、女権拡張を訴え女性の自覚を
本稿では、女たちへ
活環境との関わりにおける近代日本女性作家の精神閲歴の一典型
清水紫琴の誕生と活躍、そして断筆のドラマには、時代状況・生
する小説へと、文筆活動の範囲を拡げてゆく。この(女文学者)
に啓発されて登場した自由民権の女性運動家として知ら
とを思へば)、(ひたすら諸姉の為に、懇請せざるをえぬことと
促す啓蒙的評論から、(女)の結婚の悲劇と自立的生き方を呈不
24
なりぬ)と、身を顧みず(女文学者)の出現を希求する真意を記
してゆく。
この随筆評論「女文学者何ぞ出ることの遅きや」は、その末尾
(今代の紫女いづこに潜める、明治の納言いづこ
湘梱との比較・対照も交えながら、その時代潮流において画期的
かけとして著わされた清水柴琴の評論・小説を対象として、中島
の、そして自身への(生きる)ことの意味についての真筆な問い
を読み取ることができるのではないか
-
に、(女文学者)登場への熱望が高らかに謳い上げられ、閉じら
れている。
-。
当初、女性解放を目指して(社会)の変革を薫った柴琴が、溢
はなほかつ夙に、君を待ちつつおるならむ)
にある、妾は切に君を待つ、妾は切に君を待つ、否妾よりも社会
-
な女性解放思想の内容、生きることと書くこととが不可分に結び
ついた表現方法の独自性を論じてゆきたい。
「自由民権運動から女子教育提唱へ
男女区別思想の打破
紫琴・清水豊子は、慶応四(一八六八)年一月一日、備前国和
気郡片上村に生まれた。大庄屋格の農家であった清水家は、祖父
の代からは家塾を開き、父、貞幹・清水孫太郎も漢学の素養を身
につけている。母・留以(頬子)とのあいだには二男四女の子供
(岡崎豊子)時代の明治二〇(一八八七)年、紫琴は奈良の大
同団結運動に参加、奈良・瓦堂劇場で「女学校の設立を望む」を
演説し、以後、弁論活動に乗り出す。明治二一(一八八八)年に
は、奈良の植木枝盛を訪問し、政治運動にも協力、文筆活動とし
ては、(岡崎とよ)の署名で「興和之友」に和歌を寄稿、植木枝
翌年には枝盛らとともに中江兆民を訪問するなど、自由民権運
盛『東洋之婦女』のための序文を執筆している。
動家としての積極的活動を展開し、祇園大市座で「女権伸張の方
策、敢て紳士令嬢に望む」を演説。その女性解放の理念を自らの
幹が京都府の舎密(化学)事業に従事することになり、一家をあ
と和歌を「興和之友」に寄稿したこの明治二二(一八八九)年に
を打つ。さらに、(清水とよ)の署名で、「敢て同胞兄弟に望む」
実生活のうえで実践し、岡崎晴正との封建的な結婚生活に終止符
げて京都府廷屋町御地下ルに転居。紫琴は、一四歳で京都府女学
は、大阪事件出獄者出迎えの際の、景山英子との劇的な出会いが
があり、紫琴は第五子三女にあたる。明治三(一八七〇)年、貞
校及女紅場(後の府立第〓高等女学校)小学師範諸礼科を卒業後
明治一八(一八八五)年、一七歳で、自由民権運動家でもあっ
経ずしてその力量を認められ、主筆・編集責任者として抜擢され
翌明治二三(一八九〇)年には「女学雑誌」記者となり、時を
あり、一夫一婦建白(刑法第三一一条改正要求)の活動がある。
た京都在住の代言人・岡崎晴正と結婚。紫琴にとって、この結婚
る。文筆活動の舞台を得た紫琴は、(清水豊子)
は、自宅で読書や写本の日々を過ごす。
は民権運動に関わってゆく契機をもたらしたとは言え、実際には
(つゆ子)などの署名で、政治家・各界の名士・女性著名人らの
かで発表されたのが、冒頭に挙げた「何故に女子は、政談集会に
探訪記事を執筆、同時に自由党党友活動右続ける。その活動のな
(生野ふみ子)
父の強い要請によるものであり、四年後の離婚までの経緯と心情
は、後に代表作「こわれ指環」(明24・1)に象放されることに
なる。
25
一
論・随筆にも、既に紫琴の(良妻賢母教育)の枠組みを取り払っ
帝離したものではない。明治二十年代初頭に発表された一連の評
た新しい女子教育の重要性が説かれているが、より具体的・実際
参聴することを許されざるか」「泣いて愛する姉妹に告ぐ」「当今
の時期の紫琴は、並行して明治女学校で作文指導もしており、女
女学生の覚悟如何」「女文学者何ぞ出ることの遅きや」など。こ
的には、兄・謙吉を通して豊科大学助教授・古在由直と出会い再
「女子教育に対
解消できないのか
育法は、女子なる意味を偏狭なる方面に傾かせて、窮屈なる模型
は宜し、されどあまりに区別に過ぎて、統一一の精神を欠けるの教
著わされたこの評論には、(なるほど女子を女子として教育する
日清戦争後、さまざまな場で女子教育論議が起こっていた頃に
見解が集約されている。
する希望」(「太陽」明29・7・20)に、紫琴の女子教育に関する
婚(明25・12)、長男も生まれてから執筆された
子教育の重要性を身をもって痛感する環境にあった。
自由民権運動の一環として男女同権を説くにあたり、中島湘梱・
(諸姉)に呼びかけると同時に女子教育の焦眉の急である
清水紫琴、ふたりともが、その演説・評論活動を通して、(同胞
姉妹)
ことを世に訴えているのは偶然ではない。男尊女卑の風潮はなぜ
が充分な教育を受けられない実態そのものが最大の原因であるこ
男の身勝手な発想や論理のみならず、女
とを、桐眼をもつふたりの先駆者は同様に見抜いていたのである。
中に、女性を追ひ入るるの恐れはなきか。男子教育の、女子教育
での初演説「婦女の道」にお
に対せる相対的のものならざるが如く、女子教育もまた、男女て
道頓掘・朝日座)
(相対的)なも
(以下、傍線は引
政談演説会(於
いるのみならず、(女子教育)が(男子教育)
ふ区別の外に、本領の存すべきにはあらずや)
(鬱々堂
いて、既に、いわゆる三従の教えに基づく(婦道)を批判し、女
婚姻之不完全』
用者)とあり、湘梱の(函入娘)を想起させる表現が用いられて
の重要性を訴え、翌年発行の『函入娘
のにされている男女区別思想を打破しようとする発想に、紫琴の
では、(娘)を窮屈で不自由な(函)に入れようとす
明16・10)
女子を造るには、あるひはかへつて便利にてもあるべきか。され
(今日までの多くの女子教育の精神にては、男子が私有すべき
画期的な独自性があると思われる。
基本的には、紫琴の提唱する女子教育の理念も、湘掴のものと
活を甘受している女たちに警鐘を鳴らしている。
る(父母)の教育のあり方を批判するとともに、封建的な結婚生
の
が自立的に生きる発想を培うことのできるような新しい女子教育
湘梱の場合には、明治一五(一八八二)年四月一日の大阪臨時
-
26
憾あるまじくや。かくして国民の一半を、国民の一半が吸収し了
ど相扶け相励まして、人たり民たるの道を尽くすには、少しく遺
偏見への挑戦があると見るべきであろう。現代のフェ、、、ニズムの
るだけではなく、人間存在の本質を見抜いたうえでの、性差別の
の弱点が洞察され
先駆が、一世紀前のこの評論に確と見られる。
(女子教育の精神)
国家的・政治的変革から男女・夫掃間の変革へ
るは、国の慶事にあるべきや)と、男女関係に支配/被支配の構
造を助長させてきた従来の
批判されている。
男の論理への反駁と女の奮起への要請
女をも容れて、霊妙なる活動を与へ、男は男として、女は女
には、更にまた広大なる人間てふ天地ありて、男をも容れ、
ろまでは明らかに、区別を置くべき事なるも、その区域以上
することはで諷ないだろう。この日本近代文学史上に銘記された
紫琴と同年生ほれの北村透谷(一八六八∼一八九四)の名を看過
じく自由民権運動に真筆に関わった時期をもつ
自由民権運動との関わりから形成されていったわけであるが、同
(美那子)との魂を揺さぶる恋愛体験から文筆活動に向かって
いったのに対して、紫琴の場合にも、大義としての自由民権思想、
実際には男尊女卑の発想から免れなかった男性自由民権家の矛盾・
は、(女)としての視点から、理論的には自由民権を唱えながら
見出すことが可能である。だが、紫琴が透谷と根本的に異なる点
の「女学雑誌」など、文学への道程に透谷と共通の基盤と背景を
信仰としてのキリスト教、実感としての恋愛・結婚、舞台として
ナ
(文学者)として、
として、千種万様の働きをなさしむる、大動機を収むるもの
(女子教育
(区別)を
文芸評論家・詩人・平和主義運動家が、政治運動としての自由民
(教育)
なるを忘るべからず。これ俵が今のいはゆる女子教育の精神
紫琴の女権論の基礎は、基本的には「女学雑誌」という舞台と
-
権運動に対する疑惑と挫折の悲痛、また人格を認め合った石坂、、、
……男としての教育、女としての教育は、いかにもあるとこ
l「
上に、更にこの男女を通じての根抵なる大精神大素養を加ふ
べしといふ所以なり。
紫琴は、男女の相違、それに伴う男女の
認識したうえで、男も女も同様にそこで(霊妙なる活動)を展開
の存在を説き、従来の
(良妻賢母教育)を超えようとす
に(男女を通じての根抵なる大精神大素養)を付加する
する(広大なる人間てふ天地)
の精神)
ことを主張する。ここには単に
27
の
醜態を喝破した点であろう。-
(共七)、(鳴呼世の
へり人間の進歩を謀り玉へり而して何とてこの男女同権の説のみ
に至りては守旧頑固の覚に結合なし玉ふぞ)
男らよ汝等はロを開きぬれば改進といひ改革と云ふにあらずや何
(十九世紀社会の問題は女子の問題なり、十九世紀文明の歴史
は女権拡張の歴史なり)と書き起こされた『東洋之婦女』序文に
(其九)と、(世に自由を愛し民権を重んずるの
とて独りこの同権の一点においては旧慣を慕ひぬるや俗流のま∼
に従ひぬるや)
は、(婦人社会に対してまでも必ず天賦の権利を完ふせしめん)
である植木枝盛の業
諸君)を糾弾したことと軌を一にする。不当に扱われている(女
とした(民権の主唱者)・(自由の開拓者)
績を賞揚するために、世の男性民権家たちの撞着・偽善が対比的
)としての立場で自由民権運動に関わっていった湘姻にも紫琴に
社会変革への意志や情熱を喪失したわけではない彼女たちが自
言行不一致は、黙認しがたい欺瞞であった。
も、自由民権を説きながら男尊女卑を免れない民権家の男たちの
に記されている。
平生政府に向かつては自由を渇望しながらも、その人一家
の内に在りては縦に妻子を抑圧せんと欲する撞着家もある中
衰退していったことにもよるが、それ以上に、民権家さえもが(
由民権運動から離れていったのは、政治運動としての民権運動が
が便宜のために男尊女卑説を賛成する偽学士もある中におい
旧慣)に捕われている実態を目の当たりにし、国家的・政治的変
男女同権の真理に適するを知りながらも自己
て、先生の如きはその身男子の社会に在るにも拘はらず、一
革を理念として叫ぶよりも、日常生活のレベルからの変革---
において
に繊弱なる婦女の柾屈を懸み、断然として婦人保護者の大任
男女・夫婦間の変革を実現することの有効性、重要性を痛感せざ
明17・5・18∼6・22)において、(君等は社会の改良を欲し玉
への批判は、四年前、湘煩が『同胞姉妹に告ぐ』(「自由の燈」
八九〇)年七月一日の第一回総選挙で民党が大量の議席を獲得し
権家の欺瞞という心情的に厚い障壁だけではない。明治二三(一
への志を高く掲げた紫琴の前に厳然と立ち塞がったのは、男性民
さらに、自由民権運動に身を投じた当初、国家的・政治的変革
るを得なかったからであろう。
に当られんとするなり、義とやいひつべき、侠とやいひつべ
-
この男尊女卑の発想に絡めとられている自由民権家たちの実態
▲き、
28
たことに危機感を募らせた明治政府が、「集会及政社法」を制定
ものであることを指摘し、(一身の不幸不利は、しばらく置くも、
脱するの方法)を講じるべく、女たちの決起を文字通り涙ながら
一般姉妹と国家の為、なんぞ奮起せざる事やある)と、(逆境を
全面的に禁止されたことに対して、紫琴は「何故に女子は、政談
に訴える。
して政治活動の取締りを強化、とくに女子の政治活動への参加が
集会に参臆することを許されざるか」を書いて抗議する。
を向け、女子が政治活動に関わると本分の育児・家政が疎かにな
女性蔑視の風潮を蔓延させている世間へとその憤藩・批判の矛先
由を(男子よりも幾層酷に剥奪)されなければならないのか、と
とく廃人となれり)、女だという理由でなぜ(人間)としての自
談集会への参加を禁止され、(われら二千万の女子はみなことご
ならむ)という、まさに噴飯ものの内容である。だが、(その言
等の事あるべし、故に政府は断じて婦人の傍聴を許さぬ事とする
るものありて、その弊や遂にみだりに弁を弄し、時間を空費する
は弁舌の爽なるを誇らんとし、あるひは風采の秀美を街はんとす
を禁ぜらるべし、それは婦人もし傍聴席にある時は議員中あるひ
られた(風説)が紹介されている。(日本の議会は、婦人の傍聴
この「泣いて愛する姉妹に告ぐ」には、同年八月の新聞に載せ
るとか、女子は男子よりも能力が劣っているとか、というさまざ
の小児らしさに、ただ一笑に付して止み)そうな理由づけであろ
女子が軍人・警察官・教員・学生・生徒・未成年者とともに政
まな偏見に逐一反論を加えてゆく。(人民が国家的の観念を起こ
結局、さまざまの攻勢にあってこの規則案は撤回され、女子の
に、この時代の悲惨とも言うべき頑迷さがある。
うとも、結果的には、女子の傍聴を禁じる案が提出されたところ
の政治参加が不可欠であることを、紫琴は強調する
しその国家を愛する)ようになるためにも、(第二の国民の母た
るべき婦人)
のである。
対しては、民党や新聞界からも猛烈な攻撃があり、紫琴も「泣い
子の傍聴を禁じる「衆議院規則案」が提出される。この規則案に
だが、歴史の事実がそうである以上、これら政治や男たちの矛盾・
生じることになる。時代の滑稽な発想と男の身勝手な論理
同時に国会の傍聴だけは女子にも許されるという、奇妙な現象が
政談集会への参加は「集会及政社法」によって禁止されていたが、
て愛する姉妹に告ぐ」を書いてこれに抗議する。この規則案が(
欺瞞への認識は、紫琴にとっては足元からの変革に臨むための通
29
さらに、同年二月に開会される第一回帝国議会を控えて、女
男子てふ一部の人間が、窓に女子てふ一部の人間を、圧制する)
-
)のあり方を注視し、その現実的な変革を目指すようになる。男
は、男女の関係性1--それがもっとも本質的に現われる(結婚
過儀礼であったとも言えるかも知れない。いずれにしても、紫琴
て、天国とし、不満足なる良人をば、理想の紳士とまでなす
時は実に失楽園、憂苦室にてあるべきなり。ただこれを転じ
らず。婚家は実に、菜園にはあらず、安息主にはあらず、一
ヤレヤレなどといふがごとき、生ぬるき考へをもて行くべか
真に男女同権を実現するために
理想的な結婚を実現する
ことは、一に諸嬢の忍耐と奮励とを要するなり。
女・夫婦間の変革は、男に向かって男女同権を叫ぶだけでは駄目
の覚醒は(良妻賢母教育)の枠を超えた女子教育によって初めて
で、女性自らの覚醒によらなければ実現できないこと、そしてそ
もたらされることを、既に柴琴は痛感していた。
姑を融和し得ることあるも、気短きもの、弱きものは、自ら作る
幾多の年月と、労力とを費やして、徐々にその良人を感化し、舅
忍耐強きもの、思慮あるものは、辛ふじてこれらの難苦を忍び、
く。従来の結婚生活の悲惨を具体的に指摘・列挙した後、(故に
前途や実に遼遠、しかして日本今日の状態たる実に困難、家裡に
と実践の合一を願って、紫琴は重ねて呼びかける。
く教育するはどの自立的・積極的生き方である。女子教育の理念
結婚生活に対する女の内発的な覚醒、夫を(理想の紳士)
の導入にとどまらず、時に(失楽園、憂苦室)
ために、柴琴が提唱しているのは、理念としての新しい女子教育
るにあらざれば、中途にして全くかれに同化し去られ、高尚なる
にして止まらず。いはんや二千万姉妹と二千万兄弟との問におけ
おゐても、夫婦間におゐても、改むべきもの、変ふべきもの一二
きもの、女学生諸嬢を措きてそれ誰ぞや)
る関係をや。しかしてこれを改めこれを実行するの責に当たるペ
-
-。
(諸嬢の
にすべ
でもある封建的な
希望は全く消へ失せて、一に習慣の奴隷となり、一個の器械とし
得、無職の青年が、始めて月給にありつきたる時のごとく、
ら期すべし、決して決して嫁入りをもて、身の落着き方と心
諸嬢の覚悟は、必ずや、世の中の改革者、先導者をもて自
よって、人生の明暗が別れると指摘する。
てその身を終わらんのみ)と、女性自身の自覚と努力のいかんに
それゆえに間髪入れず、紫琴は「当今女学生の覚悟如何」を書
-
30
三、(愛恋)に裏打ちされた男女同権、その理念と実践
明24・8)
(愛)による自立への希求
の間は相愛しみ相憐みて憂きも楽きも相共になしてこそ真の恋と
も情とも云ふめれ)(「同胞姉妹に告ぐ」)と記したのは、夙に明
治一七(一八八四)年のことであり、また、紫琴が、代表作「こ
われ指環」の末尾において、(なぜ私は、ああいふ様に夫に愛せ
(「悲恋愛を非とす」
と提唱した厳木善治が、それに先立って、(眞正の愛は、必ず先
られ、また自らも夫を愛することが出来なかつたのか)と(愛)
(恋愛は神聖なるもの也)
づ相ひ敬するの念を要す。既に之を敬せず、之が霊魂を愛せずし
之れを弄び、一方は之を憤る∼の思ひある可らざる也)、(夫妻
にあらんと欲せば、須らく互ひに相敬愛すべし、断じて、一方は
いう言葉を連ね、(予は彼女に、高潔なる愛情を有する点に於て
古在由直からの書簡を素材に、(愛)
治二四(一八九こ年、さらに続けて、熱烈な愛情表現を記した
という言葉を用い、(愛)
のない封建的な結婚を糾弾したのは明
て、如何で眞正なる抗屈の娯楽を得んや。男女もしいよく高尚
は之れ天地間唯一の同等者なり、初めて同等者の間に行はるゝべ
は、恐く予に及ぶ者なかるべし)と告白する(青年)
の心情を記
(恋)と
き眞の友情を味はふことを得)(「理想の佳人」) と論じていたの
した「〓青年異様の述懐」を発表したのは、翌明治二五(一八九
(熱愛)
は明治ニー(一八八八)年のことであり、また、(愛恋の哲理)
二)年のことである。
湘梱にせよ、紫琴にせよ、自由民権運動に身を挺した自らの体
(敬愛)
(「当世文学の潮模様」明23・1)を説き、(恋愛は人世の秘鎗也、
恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色か
験が、大言壮語の机上の空論ではなく、男女相互の
のない初婚の破鏡、互いに内発的な恋
(恋愛)を大
も、明治二十年代半ばであることを想起するとき、彼ら男性文学
あらむ)(「厭世詩家と女性」明25・2)と北村透谷が宣言したの
前提にした男女同権論を導き出したわけであるが、紫琴の場合に
(愛情)
は、岡崎晴正との
に基づい
者に先立ってあるいは同時期に、人格を認め合い
(愛)
た男女関係論を呈示していた湘姻やそれに続く紫琴の先駆性を強
て連れ添った古在由直との再婚
情によって子供まで成した大井憲太郎の裏切り、人格を認め合っ
-
「こわれ指環」を発表した明治二四(一八九こ年、紫琴は自
挫折と奮起の実感が、その理念の母胎となったと言えるだろう。
自らの恋愛・結婚における
調してし過ぎるということはないだろう。
湘梱が、(男女の間は愛憐の二字をもて尊しとす恋と云ふも情
といふも皆この愛憐の二字に外ならぬことにぞはべる然れば男女
31
-
由克と訣別、女学雑誌社も休職し、大井憲太郎との間の息子・家
称語りで(女)
女性作家が自ら得た男からの恋文を素材に、しかも(男)
への
真の意味での男女同権の実現を標模する意図をもって
とによって、従来の封建的な結婚制度を超克した自由恋愛・自由
の小説は、しかし、男と女が人格を認め合い、互いに敬愛するこ
(熱愛)を作品化するという舞台裏ゆえ、一
邦(長兄・謙吉の養子となる)を出産する。紫琴宛ての大井の私
見、女性作家のナルシシズムの極致のように見倣されかねないこ
の恨みをかうことになる翌年二五
信が同じく彼と愛人関係にあった景山英子に誤配され、この盟友
(一八九二)年は、その精神的
-
霊光にてありき。彼女が、人を清くし、人を優しく化する。
異様に感ぜしところのものは、かれが身より、放つところの
も予は少七も、心を動かす事なかりき。ただし彼女において、
彼女の外においてもまた、これらのものを見たりし。されど
らのものもとより、一瞥の価値なしとせず。しかれども予は、
る挙止か。朗らかなる声か。はたまた富胆なる才藻か。これ
美しき彼女の眉か。涼やかなる彼女の眼か。さらずは閑雅な
するなり。さらば、その恋の原因は、なんの辺にありしか。
さても恋なり、恋としても、彼女は、実に不可思議の力を有
偏屈予の如きものも、遂に恋をなすの時期に、通達したるか。
り恋に相違なし。予は確かに恋をなせるなり。テモ不思議、
思ふにこれぞ世にいはゆる恋なるか。ああ恋なりああ恋な
発表されたものである。
結婚
打撃・憤倖から体調を崩して入退院を繰り返すという悲劇の年で
もあったが、暮れには、兄・謙吉が助手として勤める農科大学助
教授・古在由直との自由結婚を実現。この波瀾の二十代前半を過
ごした紫琴が、古在との熱愛を世間に公表するかのように、披か
らの書簡を素材に「一青年異様の述懐」を発表したのは、その結
婚直前一〇月一五日のことであった。
主人公=語り手=(予)が、(彼女)と初対面の折の心情を、(彼
女が非凡の資質は、どことなく顕はれ、予は先づこれに対して、
敬といふ念起こりたり)と(述懐)する。その(敬といふ念)は、(
平素種々の関係よりして。婦人を土芥祝し、もしくは、悪魔祝)
していた(予)に、(彼女の前に、いと小さきものと、なりたるが
如き心地し。処女の如く、謹んでうづくま)らせるほどの熱烈な
ものである。
(彼女)に対しての(熱愛)が、(
(一般婦人に対する考へ)までも変え、(旧時の予の考へ
ここで注目すべきは、その
の
)が(大ひに誤れるものなりしことを悟)るという点であろう。
予)
の一人
32
身によって体得された女権論が展開されているが、この小説の圧
(放つと
だが、湘梱の真面目であると同時に限界でもあったのは、(女
その描写であろう。
何とも名づけ難き気に感ぜし時は、これ既に予が、恋の人と
に対する(恋の原因)を(彼女)
巻は、夫婦という男女関係の改革を促す理想的な夫婦像の内実と
(彼女)
なる始めにてありき。
(予)
ころの霊光)と表現した紫琴は、結びにおいて、(予)
ことができ、(男子が身を喪っても正
が固有の和かき温かき愛)が、(男子がつめたい世を渡って凍え
切た肌を愛の波で暖める)
(高潔
なる愛惜)は、(予なるこの一肉塊が、彼女の前に、無益なる供
随分出来る)というように、(良妻賢母)
のイデオロギーによる
予)に語らせている。紫琴の描く(男)の(女)
への(愛)は、
その意図から言って、生半可なものであってはならない。恋愛の
る。そして、この点こそ、紫琴が超克しようとした男女の区別思
女性管理体制に繰り込まれてゆく危険性を内包していたことであ
想ではなかったか。法的不平等による事実上の一夫多婦制に抗議
あったが、そして内助の功を否定するものでは決してないが、自
(愛) による理想的な夫婦像を求めたのはもちろんで
な夫婦像を、自らの結婚生活の投影のもとに描くことによって、
立した(愛)/(愛)による自立こそが、最終的に紫琴が目指し
し、相互の
実質的な男女同権を主張した作品として、湘姻の小説「山間の名
小説家としての紫琴の代表作となった「こわれ指環」では、父
「こわれ指環」の象徴性
四、(女文学者)の自己獲得への希求と手法
たものではなかったろうか。
院議長・中島信行との自由結婚に基づく夫婦関係を、湘梱は、小
説の主人公・高園芳子・幹一夫婦に映し出す。往年の女性解放運
動家と野党の政治家という組み合わせ自体に、実生活との重ね合
わせが可能であり、男の側からの不当な離婚や公娼制度への抗議
-
親の強制で(履歴)と(学問)のあり(はるかに年もたけ)
(万
花」(「都の花」明22・2∼5)を挙げることができる。初代衆議
紫琴のこの小説に先立って、男女相互の(愛憐)による理想的
同等の位置に救い上げる霊力であったのである。
神聖・崇高を謳い上げる(男)の恋情こそが、(女)を(男)と
義の為に節を柾げないといふ決心を起さす事も女の愛ある慰めて
の
へ物となりて、いたづらに滅尽し去ること)も厭わないとまで(
の
の話題を始め、主人公とかつての女弟子たちとの会話に、湘個自
33
の
事に経験を積んで)いる男と結婚した女主人公邪、夫に以前から
り継ぐことによって、聞き手(=読者)と問題意識を親しく共有
しようとする意図がうかがえるのである。
換言すれば、そのことはまた、(外ならぬあなた)に(私)の
別の女性の存在があったことを知り、一時は(夫の行ないをため
直して、人の夫として恥しからぬ丈夫にならせたい)と、夫を(
の自己解放、自立した(女)としての自己獲得/恢復というテー
(経歴)が打ち明けられることによって、離婚による(家)から
は(よしなき、反動を夫に与へて、夫の為にもかへつて宜しくあ
マが、観念的・理念的なものに終わらず、現実的な問題として読
教育)することも試みるが、結局うまくゆかず、自分が傍にいて
るまい)と、(不本意ながらも、終に双方で別るる事)となった
者に提起され共有されているということではなかろうか。さらに
け、問題意識を親しく共有するに最もふさわしい文体であったと
は、ひとりひとりの(外ならぬあなた)という対象に直接語りか
とを認識・痛感していた作者にとって、一人称告白体という文体
極限すれば、時代の価値観や人間の意識が早急には変わらないこ
という内容が、一人称の告白体で語られている。
当時の時代環境において「こわれ指環」の斬新な点は、(女)
定したということ、離婚を決行後も(女)が世間を慣らず(指環
いうことではなかろうか。
が夫を(教育)しようとしたということ、離婚を双方の合意で決
)を飲めているということなど、内容面からもさまざまに指摘で
ませんから、何なりともはめかへれば、宜しいので……)と語り
われたまんまではめておりますのは、あんまり見つともよくあり
お気にかかるの、そりやアあなたのおつしやる通り、こんなにこ
開口一番、(あなたは私のこの指環の玉が抜けておりますのが
きようが、最も画期的であるのは、紫琴が自らの不幸な初婚体験
を素材にしながら、それを個人的な悲嘆や愚痴としてではなく社
会問題として提起し、観念的な男女同権論に終わらせなかった
少なくともその意志をもって書かれたという点ではなかろ
(私)が、(可憐なる多くの少女達)
の冒頭には、続けて、(皆さんが、な
かけられる「こわれ指環」
に語
にという願いをこめて、離婚後も、
が(私の様な轍を踏あない様)
ぜそんな指環をはめてるの、あまり不似合じやアないかと、おつ
なされば、たいそう見苦しいようでござりませうが)、(この指
しやいましたが、これには実に子細のある事で)、(人から御覧
(外ならぬあなた)
離婚の記念=玉を抜いた指環(こわれ指環)をはめていると語っ
ものとして終わらせず、(あなた)
-
ているように、(私)の訝識のなかでは、自分の休験を個人的な
うか。すなわち、主人公の
-
34
神は私の心を知ろし召してくださいますから)……という表現が
環と共に、種々の批難攻撃を人から受けますが)、(人はいざ、
こわれたる指環、この指環に真の価の籠もつてゐるとは、恐らく
なる指環よと、不覚の涙に暮るる事もある)と言い、(ああこの
さらに、(私)は(ある時はこの指環を見て、ああ妾と共に憐れ
の意思が示されるのである。
への絶大な親近感・信
(この玉を抜き去りたる、責めの
軽からざることを思ひ)、(良しや薪に伏し肝は嘗めずとも、是
ど、朝夕これを眺め)、自分が
(指環の玉を抜き去り)、(かの勾践の渾に倣ふことにはならね
に、(ひたすら世の中の為に働こふと決心)し、(記念の為)
婚1破鏡1自立、悲嘆1悔恨1奮起の一連のドラマであるととも
すなわち、(こわれ指環)とは、(私)にとって自分自身の結
百年の後ならでは、何人にも分りますまい)とも語る。
連ねられており、(私)にとって、世間の(皆さん)=(人)が、
(こわれ指環)を不審・非難・侮蔑のまなざしで見る存在である
のに対して、(外ならぬあなた)には、(この指環についての私■
(あなた)
の経歴をお話し致しませう)と語り、(人)と(あなた)を歴然
と区別することによって
ている(私)
それでは、(こわれ指環)は(私)
(手を離す事は出来)ないものである。なぜならそ
への警鐘を意味
らない。(ただこの上の願ひには、このこわれ指環がその与へ主
したものである。だからこそ、末文の意味も慎重に読まれねばな
共有することによって、社会問題として認識を深めることを目指
いたものではない。あくまでも、自分自身の体験を多くの人々と
「こわれ指環」は、だが、自己満足に陥っている女の心情を描
する象徴となっている。
であると同時に、(玉のやうな乙女子たち)
したいとの望みを起こした)とあるように、自らにとっての
を守り、玉のやうな乙女子たちに、私の様な轍を踏まない様、致
-。(こわれ指環)は、(私)がそれを見るたびに
非ともこの指環の為に働いて)、(可憐なる多くの少女達の行末
に
(記
(腸を断ち切らるるよりもつらい思ひ)をするものであり、同時
に(片時も)
であり、
(私)が(一人前の人間にならねばならぬとい
れは(私)に(幾多の苦と欺き)とを与えてくれたお蔭で、(ど
うやらかうやら)
の(大恩人)
(志気を鼓舞し、勇気を増すの媒)、(この上もな
う奮発心)を起こせたという意味で(私)
常に(私)
であり、(私)にとっては、(実に千万金にも替へ
で、真に(私)に(似つかわしき品)、しかも、(私の
き励まし手)
難い宝)
念)
持つのか
にとってどのような意味を
頼感を提示することによって、(あなた)と連帯感を持とうとし
ー
身の上)は、(実にこのこわれ指環によく似てゐる)のだと言う。
35
の
の言葉
(言う
の手に依りて、再びもとの完きものと致さるる事が出来るならば
と、さすがにこの事は今に……)という末文について、
までもなく、復籍を願っているのであって、たとえフィクション
「私」
(愛)による理想的な結婚の実現
によって(この上)望まれているのではないか。
(妻)の人格を認めた、双方の
こそが、(私)
だが、(私)は、(夫)たちのそのような意識改革が一朝一夕に
の自己獲得、
(夫)
に表現されているよ
実現することが不可能なこともまた、充分に認識している。その
無念こそが(さすがにこの事は今に……)
としても、「只管世の中の為に働こふと決心」した
としては、その覚悟を不鮮明にする外のなにものでもない。そし
うに思われるのである。
た(愛)
による結婚を標捺するところにあった。
結びにかえて
の関係に支配/被支配の構造を容認せず、相互の人格を認め合っ
している。そして、その間題意識の斬新さは、決して男女・夫婦
に支配されていた客体的自我を主体的自我に恢復することに成功
へと昇華させることに、同時に、(女)
することの可能な文体の獲得によって、個人的問題を社会的問題
とまれ、紫琴は、自らの体験と課題を(あなた)=読者と共有
てまた「こわれ指環」の意義をはぐらかすことにもなるであろう。
全く蛇足と言わねばならない)という見解が提出されているが、
(悲しき中に、楽しき月
にはならな
(真心の
(この上の願ひ)というのは、決して
の理解も激励も得て
は別れた夫との復縁を望んでいるのであろうか。否-
果たしてそうであろうか。
(私)
-離婚後、(父)
日)を送っている
(私)
単なる復縁ということではない。少なくとも、(私)が
諌め)を尽くしても(人の夫として恥しからぬ丈夫)
かった夫、自分の忠言に対して(またしても賢しげに女の分際で
五、近代的創作主体(女文学者)の誕生
小説家・清水紫琴の誕生を意味する「こわれ指環」においては、
明32・8)
に先立って被差別部落問題
をモティーフにした「移民学園」(「文萎倶楽部」
島崎藤村『破戒』(明39・3)
と復縁を望んでいるわけではない。既に述べたごとく、もはやさ
(夫)
になってはしいということで
(女) の自己表現という手法の獲得はあっても、内容的には結婚
少しの文字を鼻に掛くるかと、一口にいひ消してしまう様)な夫
-
まざまな象徴と化した(こわれ指環)が(その与へ主の手に依り
とに対して (夫)が改心し(丈夫)
はないか。つまり、自分の別れた夫を始めとする世の
で
-
における現実の挫折が描かれていたのに対して、紫琴最後期の小
説
て、再びもとの完きもの)とされるということは、結婚というこ
-
の
が
36
な政治思想などに、紫琴の人権思想・社会問題へのさらなる関心
衛と被差別部落出身の妻・清子の相思相愛の夫婦像、春衛の清廉
は、理想的夫婦愛の実現が導き出されている。大臣の夫・今尾春
え世の意識が一朝一夕には変わらなくとも、(時機)を待って自
共に心さへ新らしき民にして育てむ)と決意する結びには、たと
そこここに散りしけるを、移民学園てふ名の下に一括し。土地と
に北海道に疲り、(椎きより境遇が生む自棄の子の、あはれ全国
が示されているのである。
ら標梼する理想1万民が平等の社会実現
と従来からの女性解放思想の統合が見られる。(同じ人の子、平
民を、など新旧には分かちしぞ。差別なしとは表向き、世の習は
しは、新といふ、文字のすべてに喜ばるる、それに引換え、平民
の人に誤らるるも理や)という表現に籠められたのは、社会的弱
に裏付けられた男女同権という自らの理念を実践する結婚生活に
不滅のものにしようとした湘梱に対して、紫琴もまた、(愛恋)
自らの(愛憐)に基づく理想的夫婦像を小説に描くことで永遠
者に対してのヒューマンなまなざしであると同時に、不当に扱わ
入った。だが、皮肉なことに、紫琴の場合は、その自由恋愛で結
の上に冠りし新の字は、あらゆる罪と汚れをば、含めるもの、世
れてきた者自身としての平等を渇望する叫びである。
到達したのが、厳存する社会的差別の別挟による問題提起の道で
いが、紫琴がその生涯の折り返し点において(女文学者)として
身の人生のうえで、日本近代女性文学史のうえでとらえ直すには、
を中途で降りなければならなかった。その断筆の意味を、紫琴自
写、方法意識に基づく語り・結構という近代的創作主体者への道
ばれた夫の(熱愛)ゆえに、女の強固な自我意識とその客観的描
あっ七ことは、ここで強調しておかなければならない。しかも、
新たに稿を立てねばならない。
「移民学園」のテーマを論じるには別稿を期さなければならな
妻が被差別部落出身者であることがわかったとさの夫の心理・行
情が投影しており、(文明の器に盛るに、蛮野の心もて、争奪を
に呼応して、日本近代女性作家の文学史上の位置づけも検討され
のものの記述を問い直す気運が高まってきている。今やその潮流
近年、文学観・文学史観の再検討を通して従来の日本文学史そ
事とせる渦中に当時、生涯を空しき声に終はらむそれよりも。人
る時期にきているのではないだろうか。自らの生きる時代状況・
動には、女権論者として評論・創作活動を展開してきた紫琴の心
は女々しと芙はば芙へ、人道の為、しばらく身を教育事業に転じ
生活環境において(書かれる客体)から(書く主体)
へと変容を
つつ、おもむろに時機を待つべし)と悟った春衛が、清子ととも
37
遂げ、自らの内実を自ら語るようになった女性作家
その誕
生を、清水紫琴という自らの実現を自らに希求したひとりの
文学者)に見たい。性差の思考や制度に拐めとられた自らの内面
(愛憐)論・序章-その
(女語り)の方法は、今後、文学史上に正当に位置
を、自覚的に解放する営為によって獲得していった紫琴の自己表
現の方法
づけてゆかれなければならないだろう。
中島湘梱については、拙稿「岸田俊子の
理まと実践の軌跡I」(「岐阜大学教養部研究報告」第三十三号一
において、その人生と女性解放思想の概要をまとめた。
平元・五)「七、清水紫琴」
和田繁二郎『明治前期女流作品論-樋口一葉とその前世∴-』
九九六年l1月)
(桜楓社
紫琴の断筆の事情は、下記の参考文献にさまざまに論述されている
が、(彼女自身の自分の作品への自己評価と、それより脱出できそ
うもない実態と、文壇の冷たさから敢行された)と見る相田繁二郎の
ものを除けば、いずれも、夫・古在由直が紫琴の文筆活動を望まなかっ
たという点を挙げている。たとえば、村上論文には次のように記され
ている。
(女
-
不幸な女の文学的素材は無限である。披は過去の亡霊がつぎつ
註4
註5
-
ぎと芸術の衣をまとって登場することをおそれた。彼の求める妻
は現実の幸福に生きる妻てある。彼の愛する女は、過去の傷痕の
痛みを抱いているゆえにその重みを取り除いてやりたい女なので
の現実主義はこの種の苦業をきらった。
ある。文学はその傷口を検証しようとする無益な業なのだ。由直
私見では、先の和田論文の指摘は非常に重要であると受けとめ、今
後、紫琴自身の例の断筆の理由を考察したいと考えているが、右の村
上論文は、夫・由直の心情を付度したものとして正鵠を射ていると思
平六・十こ
文学史書き換えのための基本的な方向が提示された必読文献として、
われる。
鈴大貞美r日本の「文学」を考えるし(角川書店
(私語り)-清水紫琴『こわれ指環ヒ
(口語白叙体小説)としての意義を説いた卓抜な
草土文化一九八
不二出版
中島桐煙
昭六十・三)
若松睦子
清水紫琴し
昭一一・六)「紫琴女史のこと」
全一巻し(舌在由重・編
(復刻版
(学童書林
「こわれ指環」の
に拠った。
昭一五・九)
・相馬黒光r明治初期の三女性
・相馬黒光F黙移』(女性時代杜
参考文献
三・五)
*本文の引用は、『紫琴全集
一九九五・五)がある。
(「フチ、、ニズム批評への招待-近代女性文学を読むL
論として、北田幸恵「女の
があ
(厚
る。
生閣
註註2
註3
38
昭四八・二)
・岡保生「近代文学回想集解説」「日本近代文学大系
文学回想集L(角川書店
昭四八・二)
・伊東一夫「紫琴女史のこと」東庄「日本近代文学大系
代文学回想集L(角川書店
・村上信彦「明治女性史
中巻前篇』(理論社一九七四・二)
第六十巻
第六十巻
昭五五・五)「第三章
・外崎光広r植木枝盛と女たちし(ドメス出版一九七六・七)
・村松定孝「近代女流作家の肖像し(東京書籍
r小公子」の若松桂子とr破戒Lの先駆・膚水紫琴-r女学雑誌」
の生んた二人」
昭五八・二)
(盲在
全一巻L
全一巻L
・古在由重・小林登美枝『愛と自立-紫琴‥bいてう・百合子を語る」
(大月書店
草土文化一九八三・五)
・古在由重「明冶の女-膚水紫琴のこと」「紫琴全集
由重・編
草土文化一九八三・五)
女性文学
膚水豊子-「女学雑誌」記者として」
・円谷真護『言挙げする女たちJ(社会評論社一九八九・三)「店水紫
琴『こわれ指環L一八九一年(明治二四)慮えた大いなる可能性」
・和田繁二郎「明治前期女流作品論-樋口一葉とその前後-」
平元・五)「七、膚水紫琴」
「家」からの解放L(社会評論社一九八九・二)
ム批評への招待-近代女性文学を読むL(学童書林一九九五・五)
・北田幸恵「女の(私語り)-店水紫琴コ」われ指環ヒ(「フェミニズ
「愛と性の自由
・江刺昭子「膚水紫琴「当今女学生の覚悟如何」rこわれ指環L脚庄」
社
近代
昭五八・十)「六、膚水
全一巻」(古在由重・編
・駒尺喜美「紫琴小論-女性学的アプローチ」r紫琴全集
(古在由重・編
・山口玲子「紫琴全集について」r紫琴全集
明治女流作家論」(文東宝
草土文化一九八三・五)
・塩田良平r新訂
清水紫琴」(作品鑑賞)r短編
紫琴その他一八六七∼一九三三」
・今井泰子「こわれ指環
代」(桜楓社一九八七・四)
・山田虎r女性解放の思想家たち」(青木書店一九八七・九)「第三章
(桜楓
39
近
近
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