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「指導者のためのスポーツジャーナル」2009年冬号特集

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「指導者のためのスポーツジャーナル」2009年冬号特集
特
集
「校長及び教員は教育上必要があると認める
ときは、監督官庁の定めるところにより、学生、生徒及び児
条)
童に懲 戒 を 加えることができる。但し、体 罰 を 加えること
はできない。」
(学校教育法第
11
スポーツの指導だから許される「体罰」というものがあるだろうか。
スポーツ指導も相手の年齢に関係なく他人を指導することにおいて、
他の社会生活上のルールと変わるところはなく、特別にスポーツだけに認
められた
「体罰」
など存在するはずがない。
だが、問題は単純ではない。身体
的、精神的に「体罰」に類する過酷な指導が日本のスポーツの歴史には刻み
込まれている。
しかもその多くが、秘話のように美化して語られ、安易な誤解を招
く要因ともなっている。スポーツ指導は本来、スポーツをする喜びや楽しみをひとり
でも多くの人々に味わってもらうものであり、
「暴力」や「強制」
からはもっとも遠い営み
のはずだ。にもかかわらず、何故理不尽な体罰が後を絶たないのか。特集であらためて
「体罰」の悪弊を洗い出し、
スポーツ現場からの体罰一掃を訴えたい。
Sports Journal 2009 Winter
第 章
不毛の体罰 ──
3つのメッセージ
てきたから今があ
るんでしょう 」と
よく言われます。
でも 僕はそ うい
う練習はやってこ
なかった。千 本ノ
ックなんて受けな
かった。毎日百球
投げろと言われて
も従いませんでし
た。何故かという
結果を出すように努力して、ひ
と、それをやれば絶対からだが
たす ら 自 分のからだを守 り ま
壊れるから。周りにいっぱいい
した。
た良い選手がみんな壊れていく
のを目にしていたからです。子 そこで 大 切 にし たのはバラ
ンスとタイミング。 歳、高校
どものころから僕は絶対プロ野
で清原(和博)君と出会って体
球選手になりたかったので、中
格の差を痛感したのがひとつの
学や 高 校 あたりで壊 れてたま
転機でした。ああ、これで同じ
るものかと思って。だから自分
ことをやっていては勝ち目がな
で本を読んで、必要なこととそ
いな、と。からだが小さいもの
うでないものを分けてやるよう
は、超 合 理 的で 超 効 率 的で 超
にしましたから、よく指導者と
科学的なトレーニングをしない
は対立しました。あとはすぐに
スポーツ指導の現場を知る識者の方から、体罰観をうかがった。
厳しさと暴力との区別がつかない体罰から生まれるものは一切なく、早く訣別すべき過去の悪弊との指摘が相次いだ。
元プロ野球選手の桑田真澄氏、大相撲尾車部屋の尾車浩一親方そして、東京女子体育大学の阿江美恵子教授に語っていただいた。
1
ないと理不尽そのものでした。
子 どもたちに何が大切 なの
経験頼りの指導者たち
か、自分で勉強することもせず
野球の場合、指導に免許(公
ほとんどの場 合は 自 身の経 験
認資格)が求められないでしょ
を 頼 りに指 導 が 行 われていま
う 。体 罰 が 横 行 す る原 因のひ
す。高校野球の指導者のうち、
とつにそれがあると思います。
甲 子 園やプロを 経 験 した人 と
少 年 野 球 を 見に 行 く と、三振
いうのはほんのひと握りですか
して帰ってきた子をバーンと殴
ら、大半は「俺は殴られながら
ったり、エラーした子をバカヤ
厳しい練習をやったが甲子園に
ローって怒鳴っています。信じ
出られなかった。お前たちが甲
られないかもしれませんが、小
子園に出たいのなら、俺以上の
学校時代の僕はグラウンドへ行
ことをやらなければならない」
って殴られなかった日がなかっ
と思うんですね。びっくりする
た。キャプテンをやっていて、
よ う なひどい指 導 がそこか ら
仲間がエラーしてもキャプテン
生まれるんです。
来いって呼ばれて、僕がしばか
れていました。だから練習前日
夢のために自分を守った
か ら 今 度 は 何 発 殴 ら れ るん だ
ろうって、もう恐怖でいっぱい そういう指導者の方に、もっ
でした。試合で負ければ、練習
と合理的で効 率 的な指 導が必
でボコボコやられるし、水は飲
要じゃないのかと言うと、「い
んじゃいけない、何しちゃいけ
や桑田さんは、すごい練習をし
[くわた ますみ]
1968年兵庫県生まれ。PL学園で1年から甲子園5回
連続出場し、優勝2度、準優勝2度の原動力に。1986
年ドラフト1位で巨人軍に入団。2006年、米メジャー挑
戦のため退団するまで通算173勝を挙げた。2007年
ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、同年
6月にメジャー初登板。2008年に現役を退き、翌年4月
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科に入学。
15
桑田 真澄
わけがない!
元プロ野球選手・野球解説者
10
Sports Journal 2009 Winter
〈 特集 〉
さよなら、
体罰
と対等には戦えないなと、気づ
いたのです。ピッチングだけで
は駄目でバッティングも守備練
習もしなきゃきいけない。休養
も 栄 養 も 必 要です 。学 生です
か ら 勉 強 も し な きゃいけ ない
し、遊びも大事です。勉強だけ
で も 早 稲 田 に 入 れ るよ う に 本
当に頑張りました。
みせることもしないで、無茶苦
茶に練習させるなんて、僕には
できません。
根性をつけるには、自分で考
えて 自 分で 行 動 を 起こさせる
ことだと思います。自分を信じ
ることで自立させていく指導が
大切です。自信があることすな
わち根性だと思います。自分で
決めた練 習 をやり 抜 くことで
自 信 が 生まれ 、自 然に 根 性 が
10
身についていくのです。
指導者は伴走者
い まの 子 ど も た ち を 見 て る
と可 哀 相にな り ま す 。失 敗 し
たら 負 け るとか 、絶 対 に 失 敗
しちゃいけないんだと思い込ん
でいます。だから倒れないよう
につまずかないようにみんな我
慢 して頑 張 り ま す 。でも 倒 れ
たっていいんです
よ、起き上がって
くればいいんだか
ら。その起き上が
る ところ を 教 え
てあげるのが、指
導 者 だ と 思い ま
す。一緒に目的地
まで走ってあげる
伴 走 者 。自 分 が
持っている知識な
り経験なりを役
立つように、一緒
に考 えながら提
供 し てい く パー
トナーです。高い
ところ か ら 教 え
てやる 先 生では
決 して ないは ず
です。
僕 は5 年 前 か
写真提供/アゼリアスタイル
自信が根性をつけさせる
殴 ら れて そ れ に 耐 え るこ と
で根 性がつく と言 う 人がよく
います。ではそうして育ってき
た僕 たちの年 代みんなが 根 性
あ り ま す か 。僕 た ち よ り 上の
世 代の人たち 全員に根 性あり
ますか。プロだって三振はする
し、 割は打てません。エラー
だってします。なのに子どもが
ミスしたからといって殴ったり
怒鳴ったり。そのくせ、自分は
ぱかぱかタバコを吸っている。
子 どもや 学 生を 指 導 している
んだから、グラウンドで吸う必
要はないじゃないですか。自分
に優 し く 選 手に 厳 しいなんて
最悪の指導だと思います。大人
として卑怯なふるまいですよ。
小石だらけのグラウンドで、自
らイレギュラーする球を捕って
ら、「麻生ジャイアンツ」とい
う 中 学 生のチームを作 り 指 導
しています。そこには尻バット
も200回のスクワットもビン
タも あ り ません。無 意 味 な 投
げ 込 み 、走 り 込 み 、打 ち 込 み
も あ り ま せん 。全 員 が ピッチ
ャー、内野、外野の練習をしま
す。もちろん試合で勝つことの
喜 び は 経 験 で き る よ う に して
やりますが。そうして本人が頑
張ることで、中からプロで活躍
す る子 が 出てく れば 嬉 しいで
すが、やはり基本は野球を通じ
て努 力 することとか助け 合 う
こと、道具を大事にすることな
どを 学 ばせてあ げ たいと 考 え
ています。サラリーマンになる
子、カメラマンになる子、ドク
ターになる子がいても当然いい
わけで、それぞれが「野球が好
き」でいてくれれば、結果とし
て野球界に何かが戻ってくる、
スポーツに還元されるというこ
とにつながります。だから、指
導者が大事なんです。歪んだ根
性 主 義 、精 神 主 義 か らそろそ
ろ脱皮していいころだと思いま
す。少子化で子どもが減ってい
ますから、野球人口も減ってき
ています。昔と同じようなこと
をしていちゃ駄目なんですよ。
Sports Journal 2009 Winter
11
1.暴力で根性を養える
尾車 浩一
にすぎない
大相撲尾車部屋親方
て、実際に当たってみたら確か
鉄砲柱に頭から……
に痛くなかったんです。
2年前、相撲界では1人
の若者が暴力によって命を
自分の体験は
落とすという、本当に残念
踏襲しない
な事 件が起こってしまいま
した。相 撲にかかわる者の じゃあ、今自分が指導者の立
ひとりとして反省すべきと
場になって、同じような指導を
ころはあります。
するかといえば、話は別。
しかし、誤 解しないでい 自分が受けてきた指 導は決
ただきたいのは、あのよう
して 忘 れてはいけ ないと 思い
な「 暴 力 」が 、すべての相
ます。それはなぜかと言うと、
撲部屋で行われているわけ
「 そ れ と 同 じ こ と を し ない た
ではないという こと。「 暴
め」です。その当時は、そうい
力 」と「 指 導 」はまったく
った指導が必勝法だったかもし
別のものです。からだひと
れないけど、それは今の必勝法
つで戦う 競技ですから、稽
ではないんですよ。だって環境
古はとても厳しく、つらい
が違うんだから。よく言われる
ものです。
よ う に子 ども たち 自 身 が 甘 く
たとえば、相撲は頭から
なったわけでも、やる気をなく
相 手にぶつかっていくでし
したわけでもないんです。家庭
ょう。それが最初は怖くて
環 境や 教 育 、社 会の環 境 が 競
できなかったんですよ。そ
争 しない運 動 会のよ う な 状 態
うしたら親方が私の首根っ
を作ってしまった。そんな子た
こをつかまえ、鉄 砲柱にゴ
ちに、「自分はこういうふうに
ーンとぶつけて「 痛いだろ
されてきたから」、「こういう
う!」と。最初は意味がわ
ふうに育ってきたから」と接す
か らなかった。でも「 柱の
るのは、指導者として大きな間
痛さに比べたら、人間の頭
違いです。
なんて痛くないんだ。怖が だからといって、教えても教
らないで、自分から思い切
えてもできないあ ま り 暴 力や
って 行ってみろ」と言 われ
体罰を与えるのは、子どもの能
12
Sports Journal 2009 Winter
〈 特集 〉
さよなら、
体罰
力を伸ばすためじゃなくて、子
ど も を 思 う ま まに 支 配 しよ う
という指導者のエゴ。今の子ど
もたちは鋭いから、よくそのこ
とを分かっていますよ。暴力な
んて無くたっていくらでも指導
できるんです。力士は叩いて強
くなるわけじゃないんです。叩
いて強くなるんだったら何発で
も叩いてやりますよ。体罰と相
撲が強 く なるとか 成 長 するこ
とはまったくの別問題です。
今思い返すと、親方には「一
発 叩 かれ ないとでき ないんだ
ったら、牛や馬と同じじゃない
か、この馬鹿!」とよく叱られ
たものです。その通りでね、叩
かれてできるなんていうのは最
低なんですよ。相撲以外のスポ
ーツでも同じだと思いますが、
一番大事なのは本人が「自分で
考える」ってこと。「人の目は
ごまかせても、自分の目はごま
かせないんだよ」って、僕はい
つも若い力士に言い聞かせてい
ます。それはもう口癖。
厳しい稽古は不可欠
今も昔も、相撲の世界では、
やっぱり人より頑張った人、人
より熱心にやった人、あきらめ
なかった人たちが番付の上に行
の力士を成長させるんです。人
す。だから、稽古場で怒鳴るよ
っていることに変わりはない。
って自分には甘いんですよ、間
り む し ろ 生 活 面 で 怒 鳴 るほ う
だから、指導者はどうやって頑
違いなく。そこを指導者がハッ
が多いんですよね。だらしない
張 らせよ う か 、熱 心に さ せよ
パをかけてやって、成長を伸ば
子は、稽古も勝負もだらしない
う かと考 えることが大 事 なん
してやるしかないじゃないです
ですから。
です。
か。もう立ち上がれないと自分 私 はいつも 思いま す 。指 導
私が相撲をやっていて思うの
で思う力士が、そのハッパで最
者が悩んで、悩んで、悩んで、
は、力士の成長にとって、「悔
後 まで稽 古 をやり 抜 くことで
間違っているかもしれないけれ
しさ」が一番のバネになる。だ
自分に自信をつける。晴々した
ど、結果が出ないかもしれない
から、「アメとムチ」と言うけ
表情でひとこと私にあいさつし
けれど、悩みぬいたうえで一人
れど「君ならできる」とか「お
て終わるときに、指導者冥利の
ひとりの子 に 合った 指 導 を 考
前 な ら 絶 対 にや れ る 」「 頑 張
ようなものを感じます。
えていく姿勢が、最後には本人
れ」というのは、これはこれで
に伝わる、と。指導には長い時
大事な言葉ですが、そんなお世
間がかかるものです。その場し
指導は長い時間が
辞だけを言われて、スンナリや
のぎに怒鳴ったり、叩いたりす
かかるもの
る気になれるほど相撲は甘いス
るのは大きな間違いでしょう。
ポーツではない、と思います。 相 撲の世 界 は 、ひ とつ屋 根
怒 鳴 ら な くて も 強 く な り ま す
100キロ、200キロのから
の下で一緒に生活するわけです
よ。叩 かな くても 強 く な り ま
だとからだが全力でぶつかり合
から、土俵の中だけを教えてい
すよ。怒鳴るより、叩くより、
う、時には人を傷つけてしまう
るわけにはいきません。親御さ
稽古それ自体、死ぬほど辛いも
こともある競技なんです。
んか ら 預 かった大 切 な 子 たち
のなんです。
だから「悔しくないのか、こ
です 。それは相
の野郎!」とか「母ちゃん泣い
撲界での出世だ
ているぞ!もっと親孝行したい
けでな く 、引 退
とは思わんのか、こらっ!」と
後 も、かりに途
か言って怒鳴りつけることも、
中で辞めたとし
正直言って、ある。ぶつかり稽
ても 、部 屋で学
古 で は 、苦 し く て 息 が 上 がっ
んだことが次の
た力士に「もう一丁」「もう一
世界で通じるよ
丁」と、さらに追い込むことも
う な一人 前の人
あります。そうやって死に物狂
間に育てていく
いになった状態で出た力が、そ
のが私の仕 事で
Sports Journal 2009 Winter
13
2.
体罰は指導者のエゴ
[おぐるま こういち]
1957年三重県生まれ。元大関・琴風。佐渡ケ嶽部屋
に所属し、1971年の初土俵以来、得意のがぶり寄り
を武器に活躍。あいつぐ膝の故障に悩まされながら
も、1981年大関に昇進した。1985年に引退するまで、
幕内最高優勝2回を果たす。1987年に佐渡ケ嶽部屋
を離れ尾車部屋を創設。豪風、嘉風の幕内力士を筆
頭に15名の力士を指導する。
阿江 美恵子
せない
東京女子体育大学体育心理研究室 教授
が考える面もあります。
時間の中で成果を出すために、
いこともあるので、そこは評価
そうした事情が、体罰の再生
「強制」的に長時間の練習をや
できます。しかしその厳しさは
体罰の再生産
産につながっていると思います。
らせてしまう。全員がプロ選手
体 罰や暴 力 とは異 質 なもので
「体罰」について、私はもっ
になれるわけでもないのに、自
あるはずです。
ぱら指 導 を 受けた側の心理を
分自身もそうやってきたから、
短期間で
調 査 してき ま し た 。本 校 に 入
と無理矢理に。厳しい指導とは
答えを出すために
子どもは
ってき た 学 生が その対 象 でし
そういうものと信じて疑わない
成長していくもの
たが 、彼 女 たちは 指 導 者の熱 では 何 故 、指 導 者の中に 体
わけです。それでついていける
意というものはよくわかってい
罰に走る人が出てくるのでしょ
子どもはまだしも、恐らくその 体罰そのものは、「良くない
て、その熱意ある先生からであ
うか。良い成績というのは本当
後ろには怪 我 をして競 技 生 命
こと を し た か ら 体 罰 を 与 えて
れ ば 体 罰 を 受 けて も 容 認 す る
に魅力あるものだと思います。
を 絶 たれてし まった可 哀 相 な
繰り返さないようにする」とい
意識が強く見られました。
自 分の指 導 力に 自 信 を 持って
子どもがたくさんいると思いま
う 考 え 方です 。罰 を 与 えて 良
一方、指導にはある特定の指
いたり、この子どもたちであれ
す。なかには、怪我をしてでも
くないことを解消できたとして
導方法の流れがあって、選手と
ば 厳 し く 指 導 す れ ば 絶 対 上ま
試合に出てくるケースがあって
も、新しいことは生まれない、
して大 成した人が指 導 する側
でいけるという見立てもあるか
それが美談になったりします。
そういう内容なのです。新しい
に立つと、自分が受けた指導の
もしれません。そこで勝ちたい
本 人のことを 考 えたら絶 対に
ことや、できなかったことをで
やり 方 を 踏 襲 す る傾 向 が 顕 著
あ ま り 、熱 く な り 過 ぎてし ま
そんなことをやらせてはいけな
きるようにさせるためには、罰
です。競技スポーツの場合、育
う…。
いはずです。もちろんこれは野
で心を萎縮させるのではなく、
成の場 は 中 学 、高 校の部 活 動 たと えば 高 校 野 球の場 合 、
球 以 外の競 技にも 共 通 してい
良くするためのアドバイスのほ
が中心になりますから、そこで
「甲子園」を軸として社会の注
ます。私の大学にも、前十字靱
う が 遙かに効 果 があるという
の 指 導 者 は 体 育の 先 生 が 大 半
目度がきわめて高いわけです。
帯を切った状態で
であって、生徒が先生の言うこ
プロでもない高校生の野球チー
入ってきたり 、入
とを聞くのは当たり前で、まし
ムが県代表になっただけで、知
ったとたんに怪我
てその先 生のお 陰で 自 分 は 成
事 を 表 敬 訪 問 しま す 。報 道メ
をする学生がたく
長できたと思いますから、人間
ディアも書き立てるし、親たち
さんいます。
的にも すごく 強い影 響 を 受け
も 冷 静 さを 欠 きま す 。学 校 自 厳しい練習を課
ます。ただし、高校生では嫌だ
体 も 能 力のある生徒 を 集めて
すことも体験して
と思っても 指 導 者 を 自 分で選
力 を 注 ぎ ま す 。そ ういう 意 味
みることも、すべ
ぶことができず、他の指導と比
で、指導者には成績を出さない
てが悪いとは言え
較することもできないので、仮
ととんでもないことになるとい
ません。自分の限
にその指 導 が必 要 以上の厳 し
うプレッシャーがかかります。
界は強制されない
さでも 仕 方 がないと本 人 たち
だか らわ ず か3 年 という 短い
と乗り越えられな
[あえ みえこ]
東京教育大学体育学部卒業、筑波大学博士課程体育
科学研究科単位取得満期退学。1987年より東京女子
体育大学に勤務。専門は体育・スポーツ心理学。日本
スポーツ心理学会認定メンタルトレーニング指導士。今
年、同大学野球部部長として、16年ぶりに全国大学女
子野球選手権大会で優勝を果たす。
14
Sports Journal 2009 Winter
調査データ
阿江教授が1994年ー95年にかけて、東京女子体育大
学学生596名
(19〜21歳)
を対象に調査した
「運動部指導
者の暴力的行動の影響:社会的影響過程の視点から」
(体
育学研究,
45:89-103,
2000)
より。中学、高校での部活動
中に殴られたことがあるものは223名
(37.4%)
。体験した時
期は、中学校130名
(58%)
、高校156名
(72%)
、大学18名
(8%)
で、中学・高校両方での体験者は68名(30%)。暴
70
50
40
37
30
10
自信がついた
殴られることが不安になった
4
2
3
5
10
プレイが萎縮した
24
30
指導者の心が理解できた
21
18
20
35
非体験群
体験群
40
大きな大会に出られた
42
45
50
13
16
22
25
20
13
■将来の自分の指導行動の予想
殴るかもしれない
殴りたくないが殴る
殴らないようにしたい
決して殴らない
その他
研 究の成 果 も あ り ま す 。自 分
るのかをイメージして指導して
活動は、日本のピラミッド型の
こそ「体罰なし」を基本に指導
を上手くコントロールできない
ほしいと私は思います。
競 技 力 向上には効果的な養 成
にあたるべきだと考えます。そ
子 どもや 、優 し く す ると 大 人 ずっと以前、ある学生が相談
システムです。でも上ばかり見
れを現実のものにするうえで、
をなめてかかるひどい子どもは
に来ました。「もう地元に帰れ
ていて、ドロップアウトした彼
成 果 至 上主 義 にも とづかない
必ずいるものです。そこで指導
ない」と思い詰めた様子です。
女のよう な 存 在 を生む危 うさ
指 導 者の表 彰 制 度があればと
する大人がどれだけ冷静に、子
理由を聞くと、「(部活で体罰
も 、指 導 者 は 冷 静 に 意 識 すべ
思います。それと、複数の指導
どもに気づかせることができる
を受けた)先生が駅のあたりを
きだと思います。
者による指 導 態 勢の構 築が効
か。また、指導者が見ている子
歩いているかもしれない」と言
果的ではないでしょうか。
どもの姿はほんの一時期です。
うのです。バレーボールで高校
スポーツの指 導 という もの
複数指導と表彰制度
どんどん成長していきます。だ
時 代に国 体にも出たよう な学
は、本来は、時間のかかるもの
から、その時点で子どもの競技
生ですが、大学ではスポーツを 体 罰 を 熱 意の産 物 として、
だと思います。短期間で結果を
力を高められないとしても、も
せず、テレビの試合中継も観る
あいまいに考えていては駄目で
要求するスポーツ界全体が、そ
っとその先で、この子どもは
気がしないと、完全に逃げてい
す。確かに厳しい指導と暴力に
ろそろ発掘、育成、強化すべて
年後にどう育っていくのか、そ
ました。かな り 深 刻 な 心 的 外
近い体罰との境界線は、私自身
の段 階 を 見つめ直 す 時 期が来
のスポーツとどうかかわってい
傷でした。中 学 校 や 高 校の部
答を持ちません。でも、だから
ているのではないでしょうか。
■体罰による成果(体験者のみ)
80
技能の上達
(%)
殴る
(%)
精神的に強くなった
Sports Journal 2009 Winter
15
〈 特集 〉
さよなら、
体罰
0
1
1
0
68
60
3.熱意を体罰に転化さ
10
力体験で一番ひどかった時期は62%が高校期。
3
3
3
3
3
おい
3
3
3
3
3
3
3
11
47
46
3
およそ
る体罰禁止規定の解釈に関
を与えるような懲戒」であ
占め続けていた。1910
しては、法務省法務調査意
り、懲戒が「教育上必要が
年には衆議院議員までも登
体罰は法律で
見長官『児童懲戒権の限界
あると認めるとき」に行使
場し、教育熱心のあまりの
禁止されてきた
について』(1948年)が
されるのであるから、体罰
殴打は感謝されこそすれ非
日本においては、世界的
重 要で、「 体 罰 」について
はすべて教育的営みとして
難されることではない、と
にみても早い段階から、学
次のような解釈を明らかに
は法律上認められない行為
論じている。また、体 罰 禁
校での体罰は法令・法律に
していた。
なのである。
止規定を「輸入し来れるバ
よって禁止されてきた。
学校教育法第 条
クテリヤ」とまで断じ体罰
戦後1947年に制定さ
にいう『 体 罰 』とは、
禁止規定そのものの撤廃・
体罰容認論の
れた現行の学校教育法第
懲戒の内容が身体的性
削除を主張する論も掲載さ
執拗な持続
条は、体罰を次のように明
質のものである場合を
れたほどである。これは、
白に禁止している。
意味する。すなわち、
にもかかわらず、今日に
もともと最初の体罰禁止規
校長及び教員は、教
(一)身 体に対 する侵
至るまで、体罰はやむこと
定である教育令第 条が、
育上必要があると認め
害を内容とする懲戒
なく続き、体罰の結果とし
アメリカ合衆国の中では例
るときは、監督庁の定
なぐる・けるの類
ての「傷害致死」事件や訴
外的に早く1867年に体
―
―
めるところにより、学
がこれに該当すること
訟が新聞紙上を賑わすこと
罰を禁止したニュージャー
生、生徒及び児童に懲
はいうまでもないが、
にもなっている。また同 様
ジー州学校法などの規定を
戒を加えることができ
さらに
に体罰が法令上禁止されて
移植したものであった経緯
る。ただし、体罰を加
(二)被罰者に肉体的
いたはずの戦前の学校の中
によっている。
えることはできない。
苦痛を与えるような懲
でも、体罰が横行していた 1940年に東京下谷区
この規 定は、じつは、戦
戒もまたこれに該当す
ことは周知の事実である。
の小学校で起きた体罰事件
前1900年小学校令第
る。たとえ ば、端 座、
そのことは、教育指導者た
を報じた読売新聞は、次の
条 に さ かのぼ る も ので あ
直立等、特定の姿勢を
ちの教育への構えの底に、
ような教員の発言を載せて
る。また、体罰禁止規定そ
長時間にわたって保持
体罰を肯定あるいは容認す
いる。
のものは、さらに、1879
さ せる とい う よ う な
る「本音」が流れてやまな
その時の私の心境
年(明治 年)教育令第
懲戒は体罰の一種と解
いことを明かしている。
はいまこの子を笑って
条「凡学校ニ於テハ生徒ニ
せられなけれ ばなら
戦 前、明治・大正・昭 和
見逃すことはこの子を
ハ 加フヘカラ
体 罰 殴 チ 或ヲ
ない。
を 通 じて 主 要 な 教 育 論 壇
増長させるばかりだ。
縛スルノ類
ス」にまでさかのぼる歴史 すなわち、「体 罰」とは
の一つを提供していた雑 誌
教師としてこの子を愛
をもつ。
「身体に対する侵害を内容
『 教 育 時 論 』においても 、
す所以ではない。……
現行の学校教育法におけ
とする懲戒」「肉体的苦痛
体罰肯定・容認論が大勢を
私は泣いて竹刀で撲り
12
[てらさき ひろあき]
1951年長崎市生まれ。東京大学大学院博士課程満期
退学。博士(教育学)。お茶の水女子大学助教授、東
京大学教授などを経て、現在、山梨大学教育人間科学
部教授。著書に、『イギリス学校体罰史』(東京大学出
版会、2001年)、『教育の古層―生を養う』(共著、か
わさき市民アカデミー出版部、2004年) 、など。
山梨大学教育人間科学部 教授 寺崎 弘昭
11
46
16
Sports Journal 2009 Winter
さよなら、
体罰
ました、彼を本当に愛
し、良くしようとの心
以外に何もありません
でした。
これは 、「 愛の鞭 」や 、
教 育の「最 後の手 段」「必
要悪」として体罰を位置づ
為である。したがって、体
険な賭けに身を晒すことで
罰を行使することは、自ら
ある。
がそのとき教育者であるこ 体罰はいわば法律で禁止
とを放棄したことを示すも
されている「 毒 」だという
のであり、自らの教育指導
ことを認識しつつ、毒には
の破綻・敗北を告白したこ
毒をという処方もやむを得
とにほかならない。
ないという議論もある。し
ける、体罰容認論の典型で 訴訟の被告になった教員
かし、比喩的に言えば、百
ある。
が、教師と生徒の信頼関係
歩譲って体罰が劇薬だとし
のなかで行ったものだとよ
ても、それは医薬法上認可
く弁明することがあるが、
されていないものであり、
体罰は教育指導者で
しかし、現に訴訟沙汰にな
それを処方すれば医者とし
あることの自己放棄
っているということはその
ての資格を失うことはもと
信頼関係すらなかったとい
より、刑法・民法上の訴訟
うことを露呈したにすぎな
の被告にもなるのである。
い。体 罰は、この場 合 、危 体罰はとくに体育・スポ
しかしながら、体罰は学
校教育法によって厳然と禁
止されており、法律違反行
ーツ指導(部活等)の領域
で根強く残っている、と指
摘されている。それには、
体 育 が 身 体の教 育 に 特 化
していて、教育には罰がつ
き も の だ とい う 認 識 を 媒
介 に 、容 易 に 体 罰 に 結 び
つくという背景がある。そ
こでは往々にして、教育指
導が「調教」と重ねられや
すい。つまり、競馬の競走
馬やサーカスの動物の調教
と、人間のからだを育むこ
とが混同される。あるいは
また、練 習 が「 修 行 」、さ
らには「苦 行」イメージで
考えられやすいということ
もある。
しかし、教育は生(から
だ)を養う営みであり、そ
の目的は生きていることの
心 地よさ(ウェル・ビーイ
ング)を得る力を育むこと
である。そのことに照らせ
ば、苦痛ではなく快楽の活
用がもっと大事にされねば
ならない。自らのからだを
動かし感じることは心地よ
さに満ちているはずだ。
Sports Journal 2009 Winter
17
〈 特集 〉
1.体罰は教育の放棄
第2章 体罰が意味するもの
八木 由里
[やぎ ゆり]
弁護士。第一東京弁護士会・八木法律事務所(東京
都・大田区)所属。(社)日本馬術連盟司法委員長、
同ドーピング裁定委員長、同倫理委員。日本体育協
会発行「スポーツジャスト」、日本弁護士連合会発行
「自由と正義」などに寄稿。2007、2009日本体育協会
「ジュニアスポーツの育成と安全安心フォーラム」パ
ネリスト。
弁護士 現状
はじめに
スポーツ指導者が、指導
中 に 習 得 の 遅い 子 ど も に
腹を立てて、叩いたり蹴っ
たりする、あるいは、試合
に負けたことを理由に、選
手の顔を平手で打つという
ような行為は、許されるの
であろうか。指導者にとっ
てみれば、熱心さゆえに行
った行為であり、選手に気
合を入れ、上達を促すため
に、場 合によってはそのよ
うなことも必要であると考
えている場合もあるかもし
れない。そこで、本 稿では
スポーツ指導中の体罰が法
的にどのように評価される
のか、過去の判例を通じて
検証したい。
判例
①練習を無断で休ん
だことなどを理由に、
高 校 陸上部の顧 問 教
諭が2年生の女子部員
の頭部を竹の棒で数回
殴打した行為、やりで
頭部を腫れるほど殴打
した行為、顔面を殴打
し、大腿部を強く蹴っ
た行為、長時間土下座
ないし起立させながら
行った説諭行為を違法
と判断(岐阜地裁民事
部平成5年9月6日)
この裁判の中で、責任を
問われた教諭側は、「指導
教 諭が、選手に対し、きつ
く当たったとしても、それ
は素質のある選手をより強
い選手に鍛え上げようとす
る愛情に基づく指導であっ
て、あたかも親が子どもを
教育するために叩くのと同
様である」、「 部 活 動 は、
より 優 秀 な 運 動 選 手 とし
てどこまで自分の才能を伸
ばせるかということを目的
としており 、そこでは、当
然に厳しい指導や練習が前
提とされているので、指 導
者と選手との関係において
は、指導者の選手に対する
ある程度の叱責あるいは有
形力の行使も選手を鍛える
ための一手段として許容さ
れている」、「 高 度 な 技 術
指導の場面では、選手も、
練習中、大事故にならない
ように指導者の厳しい指導
を望み、あるときには有形
力の行使を容認(承諾)し
ているのである。」等の主
張をしている。それに対し
て、裁判所は「部活動には
ある種の厳しさが存在し、
参 加 す る 者 も そのよ う な
厳しさを求めて参加するこ
ともあるが、その厳しさと
は、生徒が自己の限界に厳
しく取り組み、それを自分
の力で克服していくという
意味の厳しさであって、決
して、指導者の過剰な叱責
やしごき、無計画に行われ
る猛練習や長時間の練習と
いったものを意味するもの
ではない。多少のしごきや
体罰近似の指導を事前に生
徒が包括的に感受すると言
った相互了解があると認め
ることはできず 、また、そ
の よ う な 相 互 了 解 が あっ
てはならない」旨判示して
いる。
②バレーボールの試合
で辛勝した後に、顧問
教諭が中学2年生の選
手を平手で顔面や頬
を数回殴打した行為を
違法と判断(浦和地裁
民 事 部 平 成5 年 月
日)
11
このケースのように、ス
ポーツ指導では、選手が思
うように上達しないとか、
試合に負けたことを理由に
暴力をふるうというような
ケースが多いと思われる。
実 際 、このケースでは、責
任 を問 われた教 諭 側は、
「次の試合に臨む選手の気
持 ち を 引 き 締 め 、活 を 入
れるために行った行為であ
る」旨主張している。それ
に対して、裁判所は「教諭
にそうした意図・目的が全
くなかったとまではいえな
いものの、むしろこのまま
では次の試合に勝てないと
いう焦りの感情をそのまま
選手にぶつけたに過ぎず、
本件行為を正当化しうるに
足りる教育的配慮等があっ
たものとは認められない」
旨判断している点は注目に
値する。
24
18
Sports Journal 2009 Winter
スポーツ指導者の体罰を
と非常識な行動を取る、あ
違法とした判例はこのほか
るいは、度を過ぎた悪ふざ
に も 複 数 あ る が 、こ れ に
けをしたようなときに、そ
対して、その正当性を認め
れを戒めるための軽度な身
た判例は見当たらない。
体 的 接 触( 軽 く 頭 を 叩 く
など)について、正当 な 懲
戒と判断しているのみであ
法律
り 、正当な「 懲戒」として
以上述べたように、スポ
認められる身体的接触の範
ーツ 指 導 中 の 暴 力 を 正 当
囲は、きわめて限定されて
と認めた判例は見当たらな
いると考えるのが妥当であ
いが、法律上は、指導教育
ろう。
の場における一切の身体的
な接触を違法としているわ
結語
けではない。学校教育法
条や、民法822条には、 以 上 検 討 し た
教諭や親権者に「懲戒権」
判例からも明ら
を認めており、親から指導
かなように、スポ
を頼まれているスポーツ指
ーツ 指 導 の 場 面
導者は親から「懲戒権」を
でしばしば 行わ
委託されていると考えるこ
れ る よ う な 、う
とも可能である。実際に、
ま く で き ないか
スポーツ指導以外の事案で
ら 殴 る 、試 合 に
はあるが、ごく一部の事 案
負 け たから殴る
で、指導者の身体的接触行
とい う 行 為 は 違
為を正当な「懲戒」と認め
法な「体罰」に他
ている。
な ら ず 、許 さ れ
し か し 、そ れ ら の 事 案
ない。そもそも、
は、いず れも 、子 どもが、 「懲戒」とは「こ
口 頭 で 何 度 も 注 意 して も
ら しい ま し め る
言うことを聞かない、わざ
こと」(広辞苑)
なのであって、上達が遅い
から、あるいは、試 合で失
敗したから「こらしめる」
あるいは「いましめる」こ
とは、その必要性も許容性
も認められず、そのような
行為は許されないことは当
然である。違法な体罰は、
暴行罪や傷害罪に該当する
行為であり、それに対する
損害賠償責任も発生する。
成人の大人から、暴力を振
るわれるという体験は子ど
もにとって大変な恐怖であ
り、子どもたちのからだだ
けでなく心も傷つける行為
である。実際に、複数の事
案で、体罰を受けた子ども
た ち が その 直 後 に 自 殺 し
ているのであって、指 導 者
は、体罰が子どもに与える
深刻なダメージを強く認識
する必要がある。判例も指
摘しているように「厳しい
指導」とは「体罰」を伴 う
指導ではない。選手を上達
させるために「 体 罰 」が必
要だとしたら、それは、指
導 力 不 足 以 外 の 何 も ので
もないのである。
Sports Journal 2009 Winter
19
〈 特集 〉
さよなら、
体罰
2.裁判例に見る体罰の
11
[Aaron Miller]
米国出身で高校時代はアメリカンフットボールとバス
ケットボールの両方で活躍。外国語青年招致事業に参
加して愛媛県で2年間英語教師を務め、文部科学省奨
学生として東京大学に2年間在籍して日本のスポーツ
コーチのコーチング法について研究した。社会文化人
類学と日本学で2009年10月に英国オックスフォード大
学より博士号を取得。
早稲田大学留学センター研究員
アーロン・ミラー
動向
国 連 総 会で 採 択 された
かし、一方で体罰は教育や
響よりも悪い影響の方が遥
める」(《 旧 約 聖 書 》箴 言
「 児 童の 権 利 に 関 す る 条
人間形成に役立つと広く信
かに大きいと考えており、
: )に基づくものであ
約 」の第 条では、「すべ
じられており、このような
この数十年の間に各国で体
る。この格言は、ユダヤ キ–
て の 肉 体 的 、精 神 的 な 暴
禁止令の公布に反して体罰
罰が禁止されるようになっ
リスト教に基づく考えが多
力 」か ら 子 ど も を 守 る 事
は今なお行われている。一
たのも、家庭や学校、さら
数を占める国々において、
を各国に呼びかけている。
方、米国では子どもの道徳
にはその延長にあるスポー
家庭内や学校における子ど
しかし、2008年の時点
教育に良いという宗教文化
ツチーム内での体罰の使用
もへの体罰を正当化してい
でこの国際条約に従って家
的な教えが根強く、実は半
に対するそうした国際的な
る。アメリカの一部の州や
庭 内における体 罰 を 禁 止
数近い州で学校での体罰が
学 者達の総意(コンセンサ
ヨーロッパの一部の国で体
し てい る 国 は カ 国 に す
禁 止されていない。また、
ス)に起因するものなので
罰が未だに法律で禁止され
ぎない。 一方、学校など教
日米両国の政府はいずれも
ある。
ていないのも、こうした宗
育 現 場における体 罰 を 禁
家庭内における体罰を禁止
教文化的な背景によるもの
止している国は多数あり、
にはしておらず、スポーツ
であろう。
西洋社会における
2008年には日本を含む
の監督やコーチによる体罰
現 在、 %の「 普通」の
体罰の文化的要因
106カ国で公共施設にお
使用を明確に禁止する法律
アメリカ人は尻の平手打ち
ける体罰を禁止する法律が
もない。もちろん、学 校の 歴史的にみても、西洋社
を容認していると言われて
存在するが、これらの多く
運動部は学校教育の一環と
会では体罰はけっして珍し
おり、特に幼児に対して親
は過去数十年間のうちに制
して体罰を禁止する法の管
い教育手段ではなかった。
が行う場合は100%近く
定されたものである。この
轄内に入るため、両国のス
フリードリヒ大王、トーマ
がこれを容認していると言
事から、多くの国では体罰
ポーツコーチ・監督は体罰
ス・ア ーノルド 、エラスム
われる。とはいえ、アメリ
が家庭における教育の手段
の法的な影響を慎重に受け
ス、ヴォルテールな ど、西
カにおける体罰の使用は均
としていまだに広く用いら
止める必要がある。
洋の歴 史 的 指 導 者の中 に
一ではなく、裕福な地域よ
れている一方 、学 校におい こうした複合的な状況に
も子どもの頃に叩かれた経
り 貧 困 地 域で 体 罰 が 多 く
ては 国 際 的 に も 体 罰 が 禁
対し、本稿では、特に西洋
験を持つ者は数多くいる。
用いられ、また女性より男
止 さ れ る 傾 向 に あ る とい
における体罰の使用を正当
西洋における、体罰が子ど
性の方が、白人よりも黒人
える。
化している文化的要素につ
もの道徳教育に良いという
の方が体罰を受ける可能性
そうした中、意外に思わ
いて解説し、それに対する
宗教文化的な考えは、旧約
が高いと言われている。ま
れるかもしれないが、実は
国際的な、特に学者による
聖書のソロモンの格言「鞭
た、米国のスポーツにおけ
日本は明 治 時 代 初 期に世
見解と動向について紹介し
を 加 え ない 者 は その 子 を
る体 罰は、アメリカンフッ
界でもいち早く学校での体
たい。結論から言えば、学
憎む者である。子を愛する
トボールや野球など「男性
罰を禁止した国である。し
者の多くは、体罰は良い影
者はつとめてこれを懲らし
的」なスポーツのコーチに
19
23
13
24
75
20
Sports Journal 2009 Winter
ば、 Straus and Donnelly
(2001)は「 打 たれた
子 ど も は 愛 と 暴 力 は 切っ
ても切り離せないものだと
す ぐ 学ぶ」としているし、
(1989)の比
Levinson
較 文 化 研 究 で は 、子 ど も
への 体 罰 が 多 い 国 ほ ど 妻
に 対 す る 暴 力 も 多い 事 が
示 さ れ てい る 。 の 体 罰
研 究 を 分 析 し た Gershoff
(2002)は、体 罰は 幼
少 期の非 行 や 反 社 会 的 な
態度、成人後の犯罪や反社
会的態度、肉体的な虐待の
被害者になること、そして
自 分の子 ど もや 配 偶 者 に
対する暴力的態度といった
望 ま し く ない 結 果 と 関 係
しており、多くの場合その
影響は有害であると論じて
いる。以上のような研究成
果を受けて、体罰の根絶に
向けた活動が、特に民間団
体や専門組織、そして学者
の間で世界的に広がってい
る。例 えば、ユニセフな ど
が支援する“子どもたちへ
の体罰を終わらせるための
Levinson, David. (1989) Family Violence in Cross-Cultural
Perspective, Newbury Park, CA: Sage.
Straus, Murray A. and Donnelly, Denise A. (2001) Beating
the Devil Out of Them: Corporal Punishment in American
Families and Its Effects on Children, Transaction Publishers.
体罰の使用は、太古の昔
に 言 葉 とい う 有 益 な 手 段
を持たなかった人類にとっ
て、子どもたちに道徳的教
育をしたという進化の名残
だったのかもしれない。そ
して、そのような原始的な
教育手段をやめる事は、多
くの学者達の間で特に人間
らしさの進化の証だと考え
られている。残念ながら体
罰は未だに広く用いられて
いるが、それらを改めて、
よ り「 進 歩 的 」な 教 育 手
段を用いるべきだというの
が、国際的なコンセンサス
であるといえよう。
国際的イニシアチブ( The
Global Initiative to End
All Corporal Punishment
)”や、“子ど
of Children
もたちのための国際NGO
( Save the Children
)”、
アメリカ 思 春 期 医 学 会 、
日 本 弁 護 士 連 合 会 による
ものがある。
References
Gershoff, Elizabeth Thompson (2002) ‘Corporal Punishment by
Parents and Associated Child Behaviors and Experiences: A
Meta-Analytic and Theoretical Review’ Psychological Bulletin
128(4):539-579.
よる場合が多く、そこでは
スポーツがしばしば戦争に
例えられ、そうした体罰が
むしろ必要とさえ思われて
いる。
体罰の有害な影響と
根絶へ向けた
学術的提案
この よ う な 体 罰 の 人 間
形 成における効 果 と必 要
性に対する一般的な考えに
対し、スポーツのフィール
ドの内外を問わず、大多数
の欧米の学術的研究は、体
罰 を 使 用 す る 事 に よって
も たらされる心 理 的 影 響
に焦点を当ててきた。例え
Sports Journal 2009 Winter
21
〈 特集 〉
さよなら、
体罰
3.体罰に関する国際的
88
第3章
反体罰への提言
言葉による指導の重要性
三森 ゆりか
つくば言語技術教育研究所
[さんもり ゆりか]
1957年生まれ。上智大学外国語学部ド
イツ語学科卒。
( 株)丸紅を経て、つくば
言語技術教室(現つくば言語技術教育
研究所)
を開設。麗澤中学・高等学校非
常勤講師、文部科学省読解力向上に関
する検討委員会委員、言語力育成協力
者会議委員、
スポーツ指導者の養成・活
用に関する調査研究協力者会議委員な
どを兼務。
( 財)
日本サッカー協会、
( 財)
日本オリンピック協会などでコミュニケー
ションスキルの講師をつとめる。
ポーツ現 場での言 葉の使われ方
の現状を考えた上で、どのような
はじめに
改善が有効かを提示する。
走
何 やってるんだ
「 れ! 」「
よく見ろ! …スポーツの現場で
強い調子の言葉に
」
は、命 令 調の強い言 葉 を耳にす
萎縮する子ども
を 有 効に用いる必 要がある。激
本語に変換した。ところがこの指
ることが多い。また、命令する態
しい調 子の言 葉 遣いは子 どもを
導 中 、奇 妙 なことに子 どもが次
度が高じて支配者の感 覚に陥る 命 令口調で指示し続けている
精 神 的に萎 縮させ、その結 果か
第に萎 縮し、う まく 動けなくな
ためか、体 罰の事 例 も 後 を絶 た
内に子どものモチベーションが低
らだが硬 直し、実 力 を発 揮でき
るという現象が発生した。そのよ
ない。指 導 だから命 令は当たり
下し、今 時の子 どもは根 性がな
な く なるからである。体 罰は言
う な 事 態が発 生した原因は、実
前、広いグラウンドなどでは、大
いと嘆 息をした経 験があなたに
わずもがなである。
は通訳の言葉にあった。
きな声で簡潔に指示を出さない
はないだろ う か?あるいは叱 咤
と子 どもの耳 には 届 かない、と
によって子 どもが 服 従 しない態 言 葉の調子の持つ影 響 力につ そ の 練 習 時 、外 国 人 指 導 者
いて、一つの実例を紹介しよう。
は、彼の言語の文法において「命
考える人は多いかもしれない。ま
度 を見せたり 、反 論したり した
あるとき 私は、外 国 人が日 本の
令 形 」に区 分される動 詞の形 を
た、指示を無 視すれば報 復は当
ため、思わ ず 手 が 出 そ う になっ
中 学一年 生を指 導 する現 場に遭
用いて 指 導 をしていた。す な わ
然という 考 え方もあるかもしれ
た経 験があなたにはないだろう
遇したことがあった。この時、指
ち、 G「o ! Wait! Run! 」
ない。しかし、度を超えた叱咤、
か?強い叱咤調の指示と、子ども
導に当たっていた外国人は、母語
といった形である。するとこの言
あるいは体 罰は子どもの指 導に
のやる気の低下、及び不服従の間
で指導を試みた。中学一年生は、
葉を通訳者が、「行け! 待て!
有 効 な どころか、むしろ子 ども
には実は相 関 関 係があり 、子 ど
当 然 言 葉 が 理 解でき ないので、
走れ!」と、激しい命令口調で子
を 萎 縮させ、子 どものやる気 を
もに適切な指 導をしたければ言
通訳が外国人指導者の言葉を日
どもに向かって発した。その調子
そぐ結果に繋がる。本稿では、ス
葉の役 割 を十分に検 討し、言 葉
!!
22
Sports Journal 2009 Winter
し、 行って! 「行き
私は、途 中で外 国人指 導 者の言
ち込まれている日本のスポーツ指
「
」
なさい!」というニュ
葉の調子 と通訳の口調の相 違に
導には、この傾向が特に強い。
ア ンス も や は り「 G
気 づき 、日 本 側のコーチ を 通 じ スポーツはからだと共に心を
o !」で表現する。外
てその点 を通 訳 者に伝 えた。し
鍛錬するものであり、そのために
国 人 指 導 者 自 身 は、
かし、一度萎縮モードに入った子
は厳しい言 葉が有 効であるとの
グ ラ ウンド 上 で 子 ど
どもを再 燃させるのは困難を極
思い込みから、日本のスポーツ現
もに 指 導 していたた
め、結局 外 国人指 導 者はなぜ子
場では長いこと怒声や暴 言が支
め 、結 構 な 大 声 で 指
どもの反応が低下したのか理解
配的だった。そして、子どもがそ
示 を 発 し て はい た 。
できないまま、指 導 を終 えるこ
のような指 導に不 服を見せれば
しかしそ れは 怒 声 で
ととなった。
体 罰に繋がることも 稀ではない
は な かった 。し か し この例が示 すように、叱咤 調
だろう 。指 導 中の声 高な 命 令調
ながら通訳が、 G
の激しく 強い言 葉は決して良い
の指 示 、聞 くに堪 えないよ う な
「
o ! と」は命令形であ
指導には繋がらない。むしろ子ど
罵 声や恐 喝 まがいの指 導 、忍 耐
り、 行
もに緊張を強いて萎縮させ、その
が限界に達して退部を申し出る
「 け! と
」いう
日 本 語 に 置 き 換 える
からだの反 応を鈍らせる結果に
と人間性を根本から否定するよ
べき 言 葉 と 理 解 し 、
なる。甘い言葉を用いて子どもを
うな言葉を投げつけるケース、繰
子 どもに 怒 声 で 命 令
甘やかす必要はむろんない。しか
り返される体罰など、日本のスポ
し た た め 、子 ど も が
しながら、指導と叱咤、あるいは
ーツ指 導の現 場では、言 葉は否
動 け な く なるという
罵詈雑言との相違については、指
定 的な 意 味 合いで用いられるこ
結 果 が 生じたのだ
導 者は注 意 を払 うべきである。
とが多かった。言葉による指導に
った 。 ここに体罰が加われば、さらにど
問 題があるからこそ、体 罰 も 消
子 どもの反 応が鈍
のような結果に繋がるかについて
えないのだろう。
く な る と 、外 国 人 指
は言うまでもないだろう。
先の一例がしかしながら示 す
がまるで怒声であったため、子ど
導者は彼らを効率よく動かそう
ように、言 葉は深 く 心に影 響 す
もは次 第に萎 縮し、自 尊 心を失
と、さらに頻 繁に声 を発し出し
る。従って、罵詈雑言は子どもの
スポーツ指導の環境
い、失 敗 を恐れるあまり 動 け な
た。しかしそれをまた日本の通訳
運 動 能 力 を伸 ばす どころか、そ
くなったのである。
者
が
、
さ
ら
に
厳
し
い
命
令
口
調
で
日
本
の
言
語
環
境
は
、
一
般
に
言
の
反 対に作用することが多いう
英語などの言語における命 令
通訳したため、外 国 人 指 導 者の
葉による表現を軽視し、 男「は黙
え、子 どもの反 抗 心す ら喚 起す
形は、必 ず日本 語の 行け! 待
真 意はついに子 どもには伝 わら
って に代表されるように、思考
るのである。スポーツを通して、
「
」
て! な
ず 、互いに消 化 不 良の練 習 だけ
や感 情 を言 葉によって表 出しな
真の意味での子どもの指 導 を目
」 ど に 対 応 し てい る わ け
では ない。「Go ! 」には 、 行
が残った。 いことに美 学 を求める傾 向があ
指 すのであれば、言 葉の役 割 を
「
け
と
る。武 道の精 神 論がそのまま 持
よく 考 え、有 効に言葉を遣 う 必
」 い う 意 味 は あ る 。し か この指 導 状況を視 察していた
Sports Journal 2009 Winter
23
〈 特集 〉
さよなら、
体罰
!
要があるのだ。
示す際には、次のように、主張を
先に置いてから理 由 を述べると
分かりやすくなる。
指導の現場で有効に
「(A)君たちはまず**の練
言葉を活用する
習をする必要がある。(B)なぜ
指導の現場で有効に言葉を活
ならそれは**からだ」
用 するためには、何より も ま ず (A)のような主張を示す文が
先に来ると、聞き手
である子どもは、こ
れから 何の説 明 が
始まるかを予測し、
話 を 聞 く 準 備 がで
きる。いったんこの
準備ができると、続
けて示 される理 由
を 受 け 入 れや す く
なるため、結果的に
子どもは話を良 く
聞 けるよ う になる
し、練習ですべきこ
とが理 解できるよ
うになる。理解すれ
ばからだも 動 くの
で、練習への参加態
度にも変 化が現れ
るはずである。
指示や目的の核を構成する根拠 また、いったん練習を始めた上
を子どもに説明できる必要があ
で問題点が見つかったら、途中で
る。指導者にこのような能力が身
練習を止めてその問題点を指摘
につくと、命令口調でなくても、
し、修 正方 法 とそ う する理由と
子どもは話を聞くようになる。
を再び示せばよい。次のような調
指示の目的や根拠を子どもに
子で行う。
「(A)そのやり方には問題が
ある。(B)なぜなら…からだ。
そこで、**すると良い。(C)
どうしてそうすべきなのかわかる
かい? みんなで考えてみよう」
指 導 者が、主張と根拠を組み
合わせて言 う 方 法に慣れたら、
次は、子ども 自 身にも 根 拠を考
えさせるよ うに 促 し、練 習の中
に子 ども 自 身 を巻き込む。それ
が(C)の発問である。
このようなやり 方にはある程
度 時 間が必 要である。子 どもに
考 える機 会を与 えるということ
は、指 導 者に忍 耐が必 要なこと
を意味するからだ。しかし、自分
の頭で考 え 、練 習に参 加 するこ
とになるので、怒鳴られ、時には
体 罰 を被り 、言われるままに行
動するよりも子どもは遙かに自
主的に動 くよ うになる。その結
果 としてやる気が 向 上し、失 敗
も 減 少 する。そ う なれば、指 導
者 自 身 も 無用に腹 を立てたり 、
無用に子 どもと戦ったり する必
要性も減少することだろう。
おわりに
子どもに指 導をする現場にお
いて、言 葉は大きな 役 割 を果 た
す。スポーツがからだを使って実
施 するものであ
り 、か らだの使い方
についての細 かい説 明や
戦略の理解に言葉は必要不可
欠だからである。背 中 を見て覚
える、言わずとも通じる、といっ
た古典的な学びや察しのあり方
は現代の子どもには通用しない。
指導においては、いかに分かりや
す く 、子 どもの心に届 く 形で指
導 者の考 えを言葉に落とせるか
がポイントになる。
昨年私が 言
「語技術 を」指導し
たスポーツ指導者から、リーグ優
勝したという報告があった。 言
「
語技術 を」学習した後、この指導
者が言葉に細心の注意を払 うよ
うになった結果、選手から 説
「明
が分かりやすくなった と」評価さ
れるよ うにな り 、その結 果 が優
勝 という 成 果に 繋 がったのだそ
うだ。
スポーツはむろん、からだで行
う ものである。しかしそのか ら
だに 命 令 を出 すのは脳であ り 、
その際 、言 葉は重要な 役 割 を担
う。スポーツの現場から、言葉軽
視の傾向やそれに伴 う 体罰を駆
逐し、言 葉 をこそ重 視して指 導
する方 向に改めてはどうだろう
か?
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Sports Journal 2009 Winter
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