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成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)

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成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
273
【研究ノート】
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
――アメリカ国立公園の理念と政策についての歴史的
村
目
串
察⑵――
仁三郎
次
はじめに
1 アメリカ国立公園史の概観
2 アメリカ国立公園制度の成生(本誌第69巻第2号)
3 成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策
⑴ 1916年国立公園局法の制定とその理念と政策
⒜ 国立公園局法の制定準備
⒝ 国立公園局法とその理念・政策
⒞ 戦前日本のアメリカ国立公園についての理解(以上本号)
⑵ 1916年-29年の国立公園における自然保護と開発の確執
3
成立期アメリカにおける国立公園の理念と政策
前稿へのコメント
5年前に書いた前稿は,私が10年ほど前からはじめた日本の国立公園成
立史研究の途中で,アメリカの国立公園の理解を深めるために日本語文献
がほとんどない状況の中で,まったく専門分野ではないが,私なりに英語
文献に目をとおしてアメリカの国立公園の理念と政策について書いたのも
のである。
前稿の段階では,1916年にいたるアメリカの国立公園の生成を概観し私
274
なりのアメリカ国立公園の原型を知りえたが,1916年以後の国立公園制度
の歴史についての研究が未完のままだった。
日本の国立公園成立史の研究は,昨年5月に『国立公園成立史の研究』
(法政大学出版局)として上梓し,好評をはくし1年もたたない内に在庫
がなくなってしまったほどである。この研究とて国立公園研究の専門家か
らみれば,素人の水準にすぎないが,決して高くはない日本の国立公園史
研究にあって一定の価値があると評価されているからかも知れない。とも
あれ,前稿を書いた段階では,アメリカの国立公園についての認識があま
りにも貧しかったため,とくに国立公園史の時代区分がまったく誤ったも
のとなってしまった。従ってここで修正しておきたい。
前稿ではアメリカの国立公園史をイエローストーン国立公園の成立から
1916年の国立公園局法の制定直前までをアメリカの国立公園制度の成立期
としてとらえ,それ以後から1945年の大戦までをアメリカ国立公園制度の
確立期として捉えた。
しかしこうした国立公園史の時期・段階区分は,まったく間違ったもの
であった。この稿で十分に検討されるように,アメリカの国立公園は,
1916年までは個々の国立公園が散在的に成立しているだけであって,統一
的な管理組織も政策もなく制度的に成立していたとはいえなかった。
従ってイエローストーン国立公園の成立から1916年の国立公園局法の制
定直前までは,アメリカの国立公園システムの生成期として捉えなおして
おきたい。また1916年の国立公園局の設置は,アメリカ国立公園の制度的
な成立の出発点であり,1929年頃までをアメリカ国立公園の成立期として
把握し直しておきたい。
また拙著『国立公園成立史の研究』の中で,とくに戦前日本の国立公園
制定派の人たちのアメリカ国立公園認識に対する私の批判は,私の1916年
以降のアメリカ国立公園の不十分さのために,一部誤ったところがあった
と告白しなければならない。これについては,本稿の⒞で詳しく論じるこ
とにした。
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
275
⑴ 1916年国立公園局法の制定とその理念と政策
⒜ 国立公園局法の制定準備
アメリカの国立公園制度は,1916年に内務省内に国立公園局を設立した
ことを画期として成生期から成立期に入った 。ここで1916年に国立公園
局の設立を認めた法とその理念について検討する前に,まず内務省内に国
立公園局が設立されてくる事情につい検討しておきたい。
一般にアメリカでは19世紀末から20世紀初めにかけて,産業の著しい発
達によって,経済力を高めた中産階級や中流市民は,レジャーや観光への
欲求を拡大してきた。それは鉄道業,観光業の発達の結果でもあった。こ
の点についてすでに論じたが ,ここで改めて一言しておきたい。
例えば,イエローストーン国立公園を訪れた観光客は,19世紀の90年代
後半までは,5,000人前後にすぎなかったが,1901年には10,769人,1905
年には26,188人,1909年には32,545人,1915年には51,895人と急増した。
国立公園全体についてみると,13国立公園を訪れた観光客は,データが
ある,1908年には69,018人であったが,1910年には198,606人に2倍以上
に急増し,さらに1915年には334,799人に急増していった 。当然これを
反映して交通業,観光施設の発達がみられた。
こうした国立公園の観光化がすすむ中で,国立公園は,施設も貧弱であ
り,管理が不備であったから,観光客や関連業者から国立公園の整備,改
善,さらには拡充への要求が出されるようになった。とくに国立公園の管
理機構といえば,内務長官が管轄していたが,事実上は他部局の管理をも
おこなう内務長官の下の事務長が担当し,いわば片手間におこない,軍事
省や森林局と管理を分担し,統一的な管理を欠いていた。そのため強固に
して統一的な国立公園管理のへの要求が高まってきた 。
国立公園の改善,拡充をもとめる運動をみてみると,その陣容は,以前
のように相変わらず大きく二つの流れを形成していた 。一つの流れは,
ジョン・ミューアを中心としたシエラ・クラブや,彼らへの同調者,政治
276
家や議員,大学教授,編集者,知識人を中心とする自然保護のための国立
公園を主張する勢力であった。もう一つは,従来以上に,自然を観光資源
として経済的に利用しつつ国立公園の自然保護を主張し,さらに国立公園
を拡充し,ひいては国立公園政策の充実を要求する鉄道,自動車などの運
輸業者,観光業,銀行業などの勢力,それを支援する政治家や議員,官
僚,知識人たちの流れであった。
国立公園局設立の準備活動は,1910年からはじまったといわれている
が ,ここで二つの時期にわけて検討したい。一つは,国立公園局設立準
備の前段として,一般的に20世紀の新しい社会に入って,国立公園政策の
不十分さが露呈し,従来の不十分な国立公園政策を批判し,素朴に国立公
園の政策改善をもとめ,それらと連動して国立公園の資源を利用した観光
的な開発をもとめて運動する1908年頃までの時期である。
もう一つの時期は,国立公園局設立準備の後段として具体的に国立公園
局を設置して国立公園政策を改善していこうとする1908年から16年までの
時期である。この時期は,1908年のヘッチ・ヘッチー渓谷をサンフランシ
スコ市民の水がめにする計画が議会で承認され,国立公園運動が大きな壁
に突き当たり,内部分裂をおこし,大きなダメージを与えられる中で,国
立公園運動内の分裂を乗り越えて,新たに国立公園制度を改革し,その中
心的課題として内務省内に統一的な専門的な国立公園の管理部局を設置し
ようと運動する1916年までの時期である。
すでに述べたことであるが,ジョン・ミューアを先頭にシエラ・クラブ
は,19世紀末から20世紀にかけて,国立公園の充実と拡大を自然保護の立
場から追及していた。彼らの活動は,一定の成果をあげていた。
彼らは,1890年にセコイア,ヨセミテ,ゼネラル・グラントの3国立公
園を成立させた。そして1892年に木材業者,放牧業者,銅山業が,自分た
ちの利益を追及するためにヨセミテ国立公園を3分の1ほどに縮小する運
動をおこしたが,これに対して 立早々のシエラ・クラブは,反対運動を
おこなってそれを阻止した。また彼らは,1905年にヨセミテ国立公園にか
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
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つて含まれていなかったヨセミテ渓谷,マリポサの巨木群を含めることに
成功した 。
1901年にセオドア・ローズベルト大統領が就任し,1906年に古蹟保護法
An Act For the preservation of Antiquities を制定,大統領布告という形
式で国立記念物 National M onument の制度を制定し,自然保護政策を強
化,20世紀初頭の自然保護政策を策定していった 。その間,1897年に森
林管理法が制定され放牧や鉱山経営を認めるという自然保護への逆風が吹
き,また1905に農林省内に森林局が設置され,森林保留地は国立森林とな
り,初代局長のピンショーは,自然,森林の経済的利用を強く押し出す政
策を展開し,自然保護運動に亀裂を生み出した 。
こうして1899年にはマウント・レーニア,1902年にはクレーター・レイ
ク,1910年にグレーシア,1915年にはロッキー・マウンテンなどが国立公
園に指定されていった。
他方,国立公園を国民の健康,楽しみの場と捉え,国立公園制度を充実
して観光開発せよとする運動がすすめられた。1904年にアメリカ市民協会
American Civic Association は,アメリカ都市改革連盟とアメリカ公園・
アウトドアー協会が合同して設立された。初代会長に選ばれたホレイス・
マクファーランド J. Horace McFarlamd は,1925年まで会長を務め,そ
の後国立公園局の設立運動の中心的人物となる。
アメリカ市民協会の会長マクファーランドは,ペンシルベニア州,ハリ
スバーグ出身の成功した印刷業者,出版業者で,また全国的に知られた園
芸家,造園技師、
都市計画家であり,アメリカの都市の魅力をつくりだす
ための「都市美化運動」のリーダーであった。彼は,アメリカ市民協会を
アメリカの都市,市町村,農村を清潔で,美しくより魅力的な場にする計
画をすすめる組織として運動をおこなった。市民協会は,町や村の美観を
維持するために国道沿いに増大する看板広告に反対したり,ナイヤガラに
水力発電所を設置して,観光によるナイヤガラ滝の美的な風景を破壊する
ことに反対して運動した
。
278
時のローズベルト大統領は「米国市民協会」が国立公園の積極的な改善
を要求したことに賛意を示したといわれている
。
アメリカでは,1906年頃から鉄道会社が「see American first」という
スローガンを掲げて,ヨーロッパやカナダに向かう観光客を国内の国立公
園に注目し,そこに観光客を送り込もうとする運動を展開した。
この運動の主唱者だったグレート・ノーザン鉄道の社長ルイス W・ヒル
Louis W. Hill は,当時「アメリカ人は,スイス・アルプスやカナディア
ン・ロッキーなどに行って旅行費を使うように強いられているが,それは
わが国のそれらと同じような素晴らしい風景が正しく保護され、
推奨され
ていないからである」と語っている
。
この運動は,ヨーロッパへの海外旅行を見直して,アメリカ国内の観光
旅行に目を向けさせる運動であり,国内の国立公園を整備・改善を要求す
るものであった。
国立公園の充実と拡大を改めて積極的に提起されるようになったのは,
1901年に立案されたヨセミテ国立公園内の絶景地ヘッチ・ヘッチー渓谷に
ダムを造って,サンフランシスコ市民の水がめをつくる計画が,1908年に
下院の公有地委員会で着工が承認されてからである。
そのため自然保護をうたいつつ,国立公園の改善・拡大運動をおこなっ
ていたジョン・ミューア率いるシエラ・クラブは,この事件で運動内部に
大きな亀裂を生み,深刻な打撃をうけた。サンフランシスコ市民のために
はヨセミテ国立公園内の景勝地ヘッチ・ヘッチー渓谷にダムを建設するの
はやむをえないと
える人たちは,シエラ・クラブの一部の指導者や多く
の会員を含め,景勝地の保存は市民の生死を決する水にかえられないと,
ダム建設反対に反対した。シエラ・クラブは,深刻な内部対立に見舞わ
れ,多くの地元サンフランシスコの会員は,ヘッチ・ヘッチー渓谷にダム
を建設する計画に賛成したので,シエラ・クラブ独自に反対運動は難しく
なった
。
そこで,ミューアやシエラ・クラブの指導者,とくにナンバーツーの有
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
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名な鉱山会社の法律顧問であり,カルフォルニア大学教授であったウイリ
アム・コルビー William Colbyは
,これまでの運動を反省して,新しい
運動を展開した。
コルビーらは,1909年にシエラ・クラブとは別に, われわれの国立公
園,自然のすばらしい土地を破壊から守ろう」とのスローガンを掲げて,
国立公園保護協会 Society of Conservation for National Parks を組織
し,国立公園制度の改善運動を展開した。これには,ミューアが会長にお
さまり,アパラチア・マウンテン探険クラブの理事アレン・チェンバーレ
イン Allen Chamberlain,センチュリー・マガジンのジョンソン,アメリ
カ市民協会会長マクファーランドが助言者として参加した
。
コルビーのイニシアティブのもとにたてられた「戦略」的な運動方針
は,それまでカルフォルニアを中心とするシエラ・クラブの限界を反省し,
国民連合」national coalition をつくり国民的な見地にたち全国規模で運
動をすすめることであり,これまで国立公園の理解と支持が国民の間で不
十分であり,国立公園を国民的な支持をえるために,もっと国立公園を国
民の健康,楽しみのためのものという側面を押し出して,鉄道,観光業界
と連合して国立公園の改善運動に取り組むこと,とくに統一的な国立公園
管理部局の設置をすすめることであった
。
彼らの基本戦略は,ミューアの従来からの戦略と基本的に同様であった
が,しかし今度の場合は,いっそう国立公園部局の設置が,国立公園制度
の充実につながるという基本的な認識を土台に,孤立した勢力を拡大し,
広く国民や議員の理解をえるために,国立公園の大衆的な利用を国民の中
に訴え,あるいは国立公園の自然資源を鉄道業,観光業のために保護しよ
うとする勢力との「連合」を強化する戦略をたてることになった
。
シエラ・クラブのナンバーツー指導者で,ミューアの片腕だったコルビ
ーは,そのために積極的な働きをした。コルビーらは,アメリカ市民協会
のマクファーランドとともに,ヘッチ・ヘッチーの渓谷美を破壊するこの
計画に対して新たな反対運動を展開した
。
280
国立公園保護協会の戦略にそって,アパラチア・マウンテン・クラブの
チェンバーレインは, ヘッチ・ヘッチー論争は,休暇リゾート地のため
の国立公園の可能性について多く語ることによって,国立公園における大
衆の利益を刺戟する活動をいっそう一生懸命におこなう必要を感じさせ
た。もし多くのアメリカ人が国立公園の宝のような風景を訪れるようにな
れば,大衆は,国立公園の価値を認識し国立公園を守る立場に立つだろ
う。
」と発言した。またアメリカ市民協会の書記ワットロウス Richard B.
Watrous も,皮肉をこめて,もっとあからさまに「観光 tourism は,わ
れわれ国立公園の
と発言した
威厳ある搾取> であると規定するのが最適であろう」
。
こうして国立公園制度を強化して国立公園の自然を守もろうとした自然
保護派は,新たに国立公園局法を制定してその目的を実現しようとする運
動に取り組んでいった。
シエラ・クラブのコルビーとアメリカ市民協会会長マクファーランドら
は,時の大統領タフトや彼の内閣の官僚と接触して連邦政府に働きかけ
た。マクファーランドは,1910年5月に内 務 長 官 バ リ ン ガ ー Richard
Ballinger にヘッチ・ヘッチー渓谷に貯水湖を設置する提案に反対し,強
力かつ調整のとれた監視がヨセミテの絶景地であるヘッチ・ヘッチー渓谷
をダム化する脅威から国立公園を守ることができると信じて, 国立公園
は,全般的で知的で論理的な監督が必要である」と提言した
。
これが功を奏して1910年12月に内務長官バリンガーは,公式にタフト大
統領に国立公園局部局の設立を推挙するに際して,マクファーランドの意
見を取り入れ,相応しい能力のある監督,管理専門家,造園技師,検査
官,公園警護,その他の要員を擁する国立公園とリゾートのための部局の
設置を提案したのである。
そうして,タフト大統領は,1911年に下院の議会で,国立公園は大衆の
「教育とレクリエーション」のために維持されるべきであるとする彼等の
意見を取り入れた見解を表明した。そして大統領は,国立公園の自然の驚
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異を人々が容易にアクセスし,利用しやすくするために国立公園を改善し
充分な資金を提供すべきことを呼びかけた。
今度は,内務長官バリンガーの指示をうけて,マクファーランドは,全
国的に有名な風景造園技師で
カ風景造園学の
世紀末の国立公園設立時に活躍したアメリ
設者オムステッドの息子オムステッド Frederick Law
Olmsted を,アメリカ市民協会の理事会に雇い,国立公園部局の設置運
動に引き入れた。
オムステッド Jr は,ハーバード大学を卒業し,父の事務所を引き継ぎ
ハーバード大学の風景造園学プログラムの 設を助けるなど才人であった。
こうしてコルビー,マクファーランド,オムステッド Jr を中心とする
国立公園法制定の具体的な運動は展開された。この中心的な運動は,国立
公園会議を開催して,与論に訴え国立公園局の必要性を広め法案を制定さ
せることであった。
バリンガーの後任フィッシャー内務長官は,1911年9月に第1回国立公
園会議をイエローストーンで開催し,国立公園部局の立法化をすすめる下
準備として連邦議会の内外から議員,各地の国立公園管理者,国立公園に
関心を抱く業界,利益団体の代表,鉄道,観光,自動車の業界代表を集め
て国立公園局の設立について各界から意見を聞くために集めた
。
第1回会議の冒頭で,内務長官フィッシャーは,より多くの訪問者をひ
きつける国立公園の必要性に注意を喚起し,国立公園管理の問題に加え
て,観光のために宿泊施設の営業権や交通問題を取り上げるように指示し
た
。
グレート・ノーザン・パシフィック鉄道社長のヒルに率いられた鉄道会
社の代表は,つぎつぎと「国立公園の施設,とくにホテル,道路,遊歩道
の改善のために政府を支援すると応じた。
」
しかし会議に提案された国立公園局法案は,国立公園の森林管理の権限
をもっていた農林省の森林局や軍事省の連邦官僚の強力な反対勢力にあっ
て,1915年まで議会を通過しなかった
。
282
1912年の第2回国立公園会議がヨセミテで開かれたが,法案への反対も
根強く容易に全体的な支持がえられなかった。第2回国立公園会議がおわ
って,1913年に国立公園局制定運動に新たな動きがでてきた。タフトに代
わってウッドロー・ウイルソンが大統領に選ばれ,フィッシャー内務長官
に代わって新たにフランクリン・レイン Franklin Lane 内務長官が就任し
た。レインは,皮肉にも,ヘッチ・ヘッチー渓谷のダム化を計画した当人
であり,必ずしも自然保護に理解がある人ではなったが,国立公園保護協
会のコルビーやマクファーランド,カルフォルニア大学の自然保護派の働
きかけと国立公園局の設立要求の運動,世論の影響を受けて,国立公園政
策の強化に取り組んだ。
1913年3月にレイン長官の補佐役として呼ばれたまずカルフフォルニア
大学の経済学教授ミラーは,レインの補佐役としてワシントンに呼ばれた
時,アメリカ市民協会で働いていた教え子である法律家オルブライト
Horace Albright をレインの補佐役として招聘させた。オルブライトは,
コルビーの奨めでレインの補佐役となった
。彼は後に国立公園局長と
して大きな貢献をおこなうことになる。
レイン内務長官は,国立公園管理を改善するために,1913年に国立公園
の全体的な管理をおこなうために内務副長官職を設置した。つづいて1914
年6月には,国立公園の総監督と造園技師(ランドスケープ・エンジニ
ア)を任命し,サンフランシスコに住んで各地の国立公園の監督を全体的
に取り締まらせた
。さらにレインは,1914年12月には内務副長官職に
ステファン・マザー Stephen Mather を任命し,国立公園にたいする統一
的な政策を実施しはじめた
。
マザーが内務副長官職に任命された事情も,コルビーやカルフォルニア
大学の自然保護派がからんでいて興味深い。マザーは,シカゴ出身の裕福
な実業家であり,かつジャーナリストの経験をもちミューアとは正反対に
社交的友好的でアイデアに富んだ不屈な情熱家であったが,孤立をきらっ
た。彼もまたカルフォルニア大学の出身で,1905年からシエラ・クラブに
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
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加入し,1912年にはミューアとともにシエラのケーン・リバーを旅し,シ
エラ・クラブの登山活動に参加していた
。
マザーは,1914年にシエラ・クラブの呼びかけの手紙運動を実行し,レ
インへ国立公園の管理のまずさと整備の不備を批判し国立公園局の設置を
訴える手紙を書いた
。マザーの手紙を受けとってレインは,ミラー教
授が内務長官レインの補佐役をやめて他の政府部門に移ったので,その代
わりを探していたこともあって,マザーにワシントンにきて自分の仕事を
手伝うように依願した。
レインは,マザーが事業家とシエラ・クラブの会員としての保護運動の
経験から,宣伝を保護運動に多くの大衆の支持をえるためのカギであると
えて,1914年12月に先に設置した内務副長官にマザーを任命した
。
こうしてマザーは,シエラ・クラブの戦略構想に沿ってまたレインの意
向をくんで,国立公園局制定の運動を積極的に展開した。彼は,国立公園
改革派と鉄道業者の連合をあらゆるところで育て,鉄道業者から財政的な
支援を引き出し,宣伝活動を積極的におこなった。
例えば,1915年に万博に50万ドルを出資させて,国立公園の宣伝をおこ
なった。また1916年には,国立公園ポートフォリオと題する27万部の冊子
を発行して,無料で関係団体や国会議員に送りつけ国立公園の宣伝をおこ
ない,国立公園局の設立キャンペーンを展開し,成功をおさめた
。
この運動に追い風となる大きな情況があった。一つは,国立公園局設立
準備がすすむ中で,1914年8月に大戦が勃発し,18年に終戦するまで,ヨ
ーロッパ旅行が中断し,またヨーロッパからも,戦火を逃れてアメリカ旅
行客が増大し,当時アメリカからヨーロッパへの旅行に年間3億ドルも支
出されていたものが国内に向けられ,国立公園と部局設置運動に好影響を
与えた
。
もう一つは,大戦下の1915年にパナマ運河開通を祝賀する太平洋岸博覧
会がカリフォルニアで開催されたことである。マザーは,ここに50万ドル
を出資させて国立公園の展示をおこない,国立公園の宣伝をおこない,国
284
立公園の改善,国立公園局の設置の世論をつくっていった
。
国立公園局の初代教育部長ヤードは,後に「万博は,国立公園運動の発
展に好機を与えた。……その理由は,西部に期待して集まる万博の多くの
客が,国立公園を訪れる機会を与えるからである。」と回顧している
。
そして内務長官レイン,補佐役のマザー,オルブライト,マクファーラ
ンドらは,法案を執筆し,いろいろの勢力の意見を取り入れつつ,シエ
ラ・クラブや国立公園保護協会の立場からみれば十分とはいえないが,妥
協の産物としてのであったが,後に論じるように,たびたび書きかえなが
ら簡単な法案を議会で通過させ,ウイルソン大統領が調印して,1916年8
月に国立公園設立法を制定させた。
(1) 本稿は,前稿に示した文献の内,とくに以下の文献によった。
Jenks Cameron, The National Parks Service, D. Appleton and company, 1922.
Richard W. Sellars, Preserving Nature in the National Parks A History, Yale University press, 1977.
Alfred Runte, National Parks American Experience, 1979.
Alfred Runte,Trains of Discovery,Western Railroads and the National
Parks, Colorado, 1990.
M ichael P.Cohen,The Historyofthe Sierra Club 1892-1970,Sierra club
Book, 1988.
(2) 拙稿「アメリカ国立公園の理念と政策についての歴史的 察⑴ 自然保
護と観光その他の開発との確執の理解をめぐって
」
『経済志林』第69巻
第2号,2001年,130頁以下参照。
(3) 同上,144-5頁
(4) Sellars, op.cit., p. 29.
(5) 前掲拙稿,199頁。
(6) Sellars, op.cit., p. 29.
(7) 前掲拙稿,130-9頁。
(8) 上岡克巳『アメリカの国立公園』
,築地書館,2002年,60頁。本書は,
拙稿執筆の後半に著者から寄贈され,参照の機会をえたものであるが,コ
ンパクトながらアメリカの国立公園と自然保護の理解につての深い研究と
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
285
洞察がなされている。随所で参照させてもらった。
(9) 上岡同上書,59-62頁参照。
(10) アメリカ市民協会の活動については,Runte, National Parks, p. 86. あ
るいは,Sellars, op.cit., p. 30.
(11) 東良三『アメリカ国立公園
』,淡路書房,1948年,88頁。
(12) Runte., Trains of Discovery, p. 36.
(12) Ibid, p. 36.
(13) Cohen, op.cit., pp. 17-33. ヘッチ・ヘッチー渓谷のダム化の経緯とその
論争についての日本語文献では,上岡前掲書,64-71頁,岡島成行『アメ
リカの環境保護運動』岩波新書,1990年,92-5頁。
(14) コルビーは,1885年生まれで,シエラ・クラブ 設以来の会員であり,
1984年に初めてシエラを訪れ,ミューアと知り合い,以後クラブの書記と
して,1900年からは1949年まで2代目会長として活躍した。コルビーにつ
いて,詳しくはコーエンの『シエラクラブ史』を参照。
(15) Runte, National Parks, p. 87.
(16) Cohen, op.cit., p. 29.
(17) Ibid., pp., 26-28.
(18) Ibid., pp.,26-29.
(19) Runte, Trains of Discovery, p. 39.
(20) 以下4パラグラフは,Sellars, op.cit., pp. 30-31.
(21) Ibid., p. 32.
(22) Ibid., p. 32.
(23) Runte, Trains of Discovery, pp. 40-41.
(24) Ibid., p. 41.
(25) Cohen, op.cit., p. 39.
(26) Cameron, op.cit., p. 9.
(27) Runte, Trains of Discovery, p. 41.
(28) Cohen, op.cit., p. 40.
(29) Ibid. p. 40.
(30) Runte, Trains of Discovery, p. 40-41.
(31) ibid. pp. 40-41.
(32) Robert S. Yard, The Book of The National Parks, New York,1921,
p. 23.
(33) Runte, Trains of Discovery, pp. 40-41.
(34) yard, op.cit., p. 33.
286
⒝ 国立公園局法とその理念・政策
1916年国立公園局法
1916年8月に制定された国立公園局法は,正式には An Act To establish a National Park Service and for other purposes という名称である
が,俗に国立公園局法 National Park Service law とか国立公園設置法
National Park Service Organic Act とか呼ばれている。この法律は,4
条からなる簡単なもので,国立公園局の設置とそのもとでの政策の基本方
針を示したものである。この法律は,1918年の内務長官レインのマザーへ
の手紙とともに1916年以降の国立公園政策の基本方針を示すものとみなさ
れてきた。まず初めに国立公園局法の内容について検討してみよう。
法の概要は以下のとおりである 。
第1条は,まず「この条文により,国務省内に国立公園局と呼ばれる一
部局が設立される。この部局は,内務長官が指名する局長 director の監
督下におかれる。」と規定し,局長の年俸4,500ドル,副局長の年俸2,500
ドル,さらに主任事務官年俸2,000ドル,技能職年俸1,800ドル,補助員年
俸600ドルの支払いを規定した。
それに加え,内務長官が必要と認めれば,予め法によって認められなく
とも,コロンビア地区の専門家,その補佐,雇人などの給与は,年俸
8,100ドルの範囲内で支出されると規定した。
さらに第1条は,国立公園局の目的について,つぎのように規定した。
かようにして設立された国立公園局は,今後いわゆる国立公園,国立記
念物,国立保留地(あるいは保護地と訳す場合もある 引用者)の基本的
な目的を実行する手段,方法として指定された国立公園 national parks,
国立記念物 national monuments,国立保留地 national reservations とし
て知られている連邦の土地 Federal areas の利用を促進し規制する 。
国立公園局の目的は,その地域内の風景 scenery,自然物と歴史遺物
natural and historic objects,野生生物 wild life を保護することであり,
そしてそれらを楽しみ enjoyment のために供給し,未来の諸世代に楽し
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
287
みのためにそれらを損なわずに(あるいは無傷のままと訳す場合がある)
unimpaired 残すことである。」と規定した。
第2条は,国立公園局長の権限についてふれ, 局長は,内務長官の管
轄下で各地の国立公園,国立記念物,アーカンソー州のホット・スプリン
グ保留地,さらに今後合衆国議会で制定される国立公園や国立記念物など
の監督,経営,統制をおこなう。
」と規定した。
なお国立森林 national forests に隣接する国立記念物の管理,運営につ
いては,内務長官の要求する範囲で国立公園局は,農業省と共同するとい
う条件がつけられた。
第3条は,内務長官の権限にふれて,幾つかの問題を定めた。第1に。
内務長官は,国立公園局の権限のもとで,国立公園,国立記念物,国立
保留地の利用と経営のために,必要かつ正当と認められる規則や規定を作
成し,公布することができる。そして本法によって認められた規則,規定
の何らかの侵害にたいしては,500ドル以下の罰金,あるいは6ヶ月以下
の実刑が課せられ,また訴訟手続きに要した全ての費用を負担する。
」
第2に。 内務長官は,自分の定めた条項や要件にもとづいて,国立公
園や国立記念物,国立保留地で昆虫の被害や病害をおさえるために,また
風景や自然物,歴史遺物の保護のために,自身の判断で立木の伐採が必要
とされる場合には,立木を処分,販売することができる。」また「内務長
官は,国立公園,国立記念物,国立保留地の利用にとって,有害な動物,
植物を駆除することができる。
」
第3に。 内務長官は,国立公園,国立記念物,国立保留地内の土地を
宿泊用に利用するために,20年以内の期限で,特権,貸与と認可を与える
ことができる。
」そして「国家的な貴重物,奇観,価値物は,公衆がそこ
へ自由にアクセスすることを妨げないように,誰にも貸し出したり,譲渡
したりすることができない。」
第4に。 内務長官は,自身が作成する規則や規定,条項のもとで,国
立公園,国立記念物,国立保留地の基本的目的に有害でないかぎりで,そ
288
こで家畜 live stock を放牧する権限を与えることができる。」ただしイエ
ローストーン国立公園を除いた。
第4条は,本法は, 1901年2月に制定された国立公園,保留地その他
の公有地への通行権に関する法の規定に,影響を与えたり修正したりする
ものではない。
」と規定した。
以上のように国立公園局法そのものは,日本の国立公園法が実に詳細な
規定であったことを想起すると,あれほど大騒ぎして作ったわりに極めて
簡単な条文であることに驚かされる。それはともかく,国立公園局の設置
と簡単な国立公園の基本的な理念,目的と,ほぼ4点の具体的措置の規定
を与えたものにすぎない。しかしこれこそ,国立公園局設置運動が作り出
した成果であるが,その規定に意図された内容は複雑であった。
1920年初めの有力な国立公園局の研究者であったジェンクス・カメロン
は,この法律について詳しく批評してないが,タフト大統領のメッセージ
を引用した。そこで指摘されている語句には, この法律は,国立公園の
すばらしい自然の現象を正しく管理することが本質である。
」とあっ
た 。
カメロンは,別な個所でも「国立公園法に規定された国立公園制度の基
本的目的は,国立公園内の風景,自然物,歴史遺産,野生生物の保護であ
り,そうした方法で将来の世代の楽しみのために国立公園を損なわずに残
すべきであるということである。
」 とだけ指摘し,とくに詳しい論評をし
ていなかった。
このような法律の評価は,当時として国立公園の本質を自然保護にみる
え方を現していると思われる。しかしこの評価は,まだ国立公園局法の
準備過程,その後の国立公園局による国立公園政策の具体的な実施過程の
研究を踏まえれば,まったく抽象的で不十分であることは明らかである。
さてここでの問題は,国立公園局法の規定をどのように理解するかという
ことである。そこで私は,この法律の三つの論点を詳しく検討しておきた
い。
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
289
第1の論点は,この法律は,これまでばらばらであった国立公園管理
を,アメリカで初めて内務省内に一定の権限をもって国立公園を統一的に
管理,監督する部局をつくったということである。この国立公園局法は,
国立公園局を設置し,内務長官が国立公園局長を指名し,そして国立公園
局は内務長官の監督下におき,内容的には不充分な面があったが,一定の
予算措置を与え,専任の職員を置いて,国立公園を管理する中央政府の制
度を組織したのである。これは,画期的なことであった。なお国立公園局
は,国立公園だけでなく,国立記念物,国立保留地をも監督下におき,国
立公園に順ずる広範囲な領域の管理機構となった。
さらに,第3条の第1の規定, 内務長官は,国立公園局の権限のもと
で,国立公園,国立記念物,国立保留地の利用と経営のために,必要かつ
正当と認められる規則や規定を作成し,公布することができる。
」との規
定は,国立公園の基本目的に具体的な措置をこうじる権限を内務長官に与
えたのであり,そのことの意義も大きい。
さらにいえば,本法の違反には, 500ドル以下の罰金」
, 6ヶ月以下の
実刑」を課したことの意義も大きい。これは,古蹟保護法ですでに規定さ
れた罰則規定であるが。
私は,この国立公園局法は,アメリカの国立公園をはじめて統一的に制
度化し,アメリカの国立公園制度を成立させたと理解している 。
第2の論点は,この法律が,国立公園の基本的な目的をどのように定め
たかということである。
簡単にまとめれば,この法律は,国立公園局の基本的目的は,国立公
園,国立記念物,国立公園保留地の風景,自然物と歴史遺物,野生生物を
保護することであり,そしてそれらを楽しみのために供給し,未来の諸世
代に楽しみのためにそれらを損なわずに残すことである,と規定したとい
うことであった。
こうした規定は,これまでの個々の国立公園の目的規定をごく簡潔に総
括的にまとめたものである。
290
ちなみにイエローストーンの国立公園法では,第1条で国立公園を「人々
の利益と楽しみのための遊び場として」と規定し,第2条で国立「公園内
のすべての森林,埋蔵鉱物,珍しい自然,奇観などを危害,略奪から保護
し」 それらを自然状態のままで維持することを目指す」と規定している。
かなり文言は異なるが,法の主旨はそれぞれほぼ同じだとみてよい。国立
公園局法の場合は,国立公園は,国立公園内の「風景,自然物と歴史遺
物,野生生物を保護」という簡潔にして明快な規定を与えているといえ
る 。
これがアメリカの国立公園の理念,目的の規定ということになる。しか
しこの規定は,明らかに国立公園が普遍的にもつ,またこの規定そのもの
がもつ矛盾したあるいは曖昧な理念を表現しているということである。
国立公園局の目的は,国立公園内の風景,自然物と歴史遺物,野生生物
を保護することであり,そしてそれらを楽しみのために供給し,未来の諸
世代に楽しみのためにそれらを損なわずに残すことである,と主張する場
合,ごく一般的にいっても,一方で「風景,自然物と歴史遺物,野生生物
を保護」するといって,他方で, それを人々の楽しみのために供する」
のであれば, 未来の諸世代に楽しみのためにそれらを損なわずに残す」
といっても,二律背反的であり,実は大いに難しいとうことである。
確かに法律の文脈からすれば,従来アメリカでもそう解釈されてきたよ
うに,この法の理念は,風景,自然物と歴史遺物,野生生物を損なわずに
保護するということであった。
しかしそうはいっても,人々の利用に供すれば,自然は損なわれてしま
うわけで,問題は,自然の保護をどう重視し,かつ利用に歯止めを掛ける
かということであるが,この法律では,そうした問題について明快な規定
は与えられていないのである。
ここからさまざま問題が生じる。この法の成立過程をみれば明らかなよ
うに,一般的に国立公園は自然をまもるシステムであると強調されていな
がら,他方で国立公園を観光的に利用しようと強く呼びかけて国民的な支
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
291
持をえて法律を成立させたのであった。そのためこの利用規定に対する明
確な規制,限定が曖昧な面をもっていたのである。
そうした理念で,その後の国立公園政策が展開されるのであるが,当時
としては,これが精一杯の規定であったのであろう。この規定がその後の
国立公園政策に如何なる意味をもつかについては,すぐ後に検討する内務
長官レインのマザーへの手紙で詳しく論じるので,ここではこの程度にし
ておきたい。
第3の問題点は,第3条に規定されている基本的な理念につづいた国立
公園の利用の問題である。
第3条は,第1に「内務長官は,自分の定めた条項や要件にもとづい
て,国立公園や国立記念物,国立保留地で昆虫の被害や病害をおさえるた
めに,また風景や自然物,歴史遺物の保護のために,自身の判断で立木の
伐採が必要とされる場合には,立木を処分,販売することができる。」ま
た「内務長官は,国立公園,国立記念物,国立保留地の利用にとって,有
害な動物,植物を駆除することができる。
」と規定した。
これは,昆虫の被害や病害のための立木の伐採,有害な動物,植物の駆
除を認めたものであるが,これは極めて限定的な規定であって,一般的に
は問題はない。ただしとくに後に問題としたいが,当時まだエコロジーに
ついて認識が著しく不足していた段階では,そもそも何が「有害な」もの
かを明確にしないこうした規定はやむをえなかったであろう。逆にいえ
ば,その後こうした第3条の規定のもつ,エコロジー認識の欠如が問題と
なる。
第2に, 内務長官は,国立公園,国立記念物,国立保留地内の土地を
宿泊用に利用するために,20年以内の期限で,特権,貸与と認可を与える
ことができる。
」そして「国家的な貴重物,奇観,価値物は,公衆がそこ
へ自由にアクセスすることを妨げないように,誰にも貸し出したり,譲渡
したりすることができない。
」との規定は,国立公園内の観光的な利用を
明確に認めたものである。
292
しかしこの規定も,先に問題にしたように,どの程度の開発を認めるか
という限界規定をともなっていない抽象的な規定であったということであ
る。ただし国立公園の基本的目的に則してみれば,極めて限定的利用であ
り, 国家的な貴重物,奇観,価値物は,公衆がそこへ自由にアクセスす
ることを妨げないように,誰にも貸し出したり,譲渡したりすることがで
きない。」との規定は,国立公園内の観光的な利用を一方で認めつつ,他
方で,国家的な貴重物,奇観,価値物の私的な独占的な確保を明確に禁じ
ている規定でもある。
以上にように第3条での観光的な利用は,かなり制限的な規定であっ
た。だからこの国立公園局法は,全体的には自然保護が重視されたものと
なっていると理解されてきたのである。
第3に問題は, 内務長官は,自身が作成する規則や規定,条項のもと
で,国立公園,国立記念物,国立保留地の基本的目的に有害でないかぎり
で,そこで家畜 live stock を放牧する権限を与えることができる。
」ただ
しイエローストーン国立公園を除いたという規定である。
この規定は,法律制定過程において,放牧業者の利害を代表する下院議
員ケントの要求した項目を,マザーらが,本心は反対であるが,法律を議
会で通過させるために妥協して附加した問題であった 。ここでは,放牧
業という商業的な国立公園の利用が,例外的に限定的に認められたといこ
とであり,決して商業的な利用を一般的に認めたわけではない。
なお第4条の1901年2月に制定された国立公園,保留地その他の公有地
への通行権法 Right of Way Act は,連邦政府の管轄下の土地への公共の
利益に反しない限りで通行権を認めたもので,国立公園内の事業に道を開
く悪法であった 。
以上のように国立公園局法の定めた国立公園法の目的,理念は,一般的
には自然保護を重視したものであるといえよう。しかし抽象的で曖昧で矛
盾した側面を多分にもっていたことも事実であった。
そうした抽象性,曖昧さを多少でも明確に具体化したものは,内務長官
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
293
官レインのマザーへの手紙であった。
1918年3月内務長官レインのマザーへの手紙
抽象的かつ曖昧さを内包しつつ制定された国立公園局法は,国立公園の
理念と原理を具体化する権限を国立公園の最高責任者である内務長官に与
えた。従って内務長官レインは,国立公園局法の制定後,国立公園政策の
具体化についての方針を立案しなければならなかった。
しかし法の成立に精力的に働いた国立公園局長は,ただちに国立公園政
策の策定をおこなえなかった。というのは,法が制定された1917年にマザ
ーは,神経症に悩んでいたからである 。そのために政策の作成が少し遅
れたように思われる。
コーエンによれば,マザーに代わっておもに国立公園政策を策定したの
は,法案作成の主役でもあったオルブライトであった。
コーエンは, オルブライトは,1917年の国立公園政策の素案は,自分
とヤードが書いて,シエラ・クラブのコルビー,ベイド,ルコンテ,ファ
ークアーらに送られた」と語り, シエラ・クラブは,当時国立公園管理
者とシエラ・クラブの有力者の間の密接な直接的な個人的な交流をつうじ
て相談に乗っていた。オルブライトは,コメントをうけとると,自分の政
策をすすめるために,病気から回復していたマザーに伝え,賛成のサイン
をもらっていた。この注目すべき政策は,1918年3月13日の内務長官レイ
ンのマザーへの手紙として定式化されている。
」と指摘している
。
つまりマザーへの手紙は,オルブライトが仲間と相談してマザーの諒解
をえて作成したものであり,法制定後の国立公園局の具体的な政策は,レ
インのマザーへの手紙という形式でおもにオルブライトによって作成され
たものだったということである。従って,このレインのマザーの手紙は,
文字通りレインが作成したものというわけではなかったのである。
1916年以降の国立公園の理念と政策原理は,この内務長官レインのマザ
ーへの手紙によって規定され,具体的に運用されてきたのである。以下に
レインへの手紙を検討してみよう
。なお本文中の冒頭のナンバーは便
294
宜的に引用者が付けたものである。
手紙の内容は,あまり理論的に整理されているわけではないが,小論の
観点からはおおよそ四つにわけられる。第1に,手紙の「概括的な原理」
を述べた部分,第2に,国立公園の第1原理を述べた部分,第3に,国立
公園の利用について述べ,それに自然保護のために規制,限定を加えた部
分,第4に,もっぱらリクリエーションについて述べた部分,第5に,教
育と研究について述べた部分である。
まず第1の部分からみていこう。
手紙は,冒頭に「国立公園局は,ちょうど1年前に国立公園の部局とし
て制定された。その間われわれの努力は,法律で要求されている国立公
園,国立記念物の管理,保護,改善に関する義務の履行を拘束する効果的
な組織をつくることにおもに向けられた。この建設的な仕事はいま完了し
た。新しい局は,十分に組織され,局の人材は慎重に選ばれ,新しい内務
省の建物に快適かつ便利に配置され,仕事は迅速かつ効率的に整備され
た。大衆への情報として,新しい局がおこなう管理政策のアウトラインを
示せば以下のようなものである。」と述べ,組織がある程度整備されたの
で,具体的政策を提起するとした。
手紙は,つづいて「管理政策のアウトライン」の概要を示す。すなわち
「この政策は,三つの概括的な原理に基づいている。第1に,国立公園は,
われわれの世代と同様に将来の諸世代の利用に供するために,絶対的に損
なわない形で維持されるべきである。第2に,国立公園は,人々の利用,
観察,健康と楽しみのために設立されている。第3に,国立公園内の公的
かつ私的な企業にかかわる全ての決定は,国益 national interest に従わ
なければならない。
」と述べた。
ここで手紙は,国立公園法の基本規定を敷衍し,若干新味を加えてい
る。
ここでこの原理的な政策について,総括的な評価を与えれば,つぎのよ
うになる。すなわち,手紙は,第1に,国立公園局法と較べ,一般的に自
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
295
然保護の姿勢を強めているということである。すなわち手紙は, 第1に,
国立公園は,われわれの世代と同様に将来の諸世代の利用に供するため
に,絶対的に損なわない形で維持されるべきである。
」と明言している。
国立公園局法の場合は,現在および「未来の諸世代に楽しみのために国
立公園を損なわずに残す」と規定していたのに,手紙では, 絶対的に」
損なわない形でという強い副詞句が付されていることである。これは,シ
エラ・クラブの自然派の意見を入れてオルブライトが,自然保護を強調し
ようとして付けた形容であると察しられ,手紙の自然保護の全体的な調子
を強めている
。
と同時に, 第2に,国立公園は,人々の利用,観察,健康と楽しみの
ために設立されている。」という規定を確認しておきたい。しかしわれわ
れは,この事を確認することではなく,この規定が手紙の中で,自然保護
とどのように関連づけられているかを確定することである。
つぎに,手紙の第2の部分に関連して,手紙が国立公園の第1原理の政
策,自然保護政策を具体的にどのように記述をみてみよう。
手紙は,この自然保護の原理に加え,国立公園による自然保護の原理的
規定を補足する幾つかの政策について指摘している。
すなわち,その1。そもそも,第3の原理的規定「国立公園内の公的か
つ私的な企業にかかわる全ての決定は,国益に従わなければならない。
」
と指摘し,一般的にみれば,第1の自然保護規定を補強しているといえよ
う。
その2。手紙は「①国立公園局のすべての活動は,子孫のために国立公
園を本質的に自然の状態で忠実に保護するため国立公園局に課せられた義
務に従属している。
」と,自然保護を強調している。
この規定は,国立公園のための一般的な自然保護のための活動にしろ,
リクリエーションと観光的な利用にしろその他の利用にしろ, 国立公園
を本質的に自然の状態で忠実に保護するため」という厳しい限定を付けて
いる。これは, 概括的な原理」の「第1に,国立公園は,われわれの世
296
代と同様に将来の諸世代の利用に供するために,絶対的に損なわない形で
維持されるべきである。」とい規定を敷衍した言葉であり,またより強固
に自然を保護するという政策への思いを強調していると読める。
その3。手紙の中段に書かれた「⑨いかなる時でも,連邦政府は,国立
公園にたいして独占的な権限をもっているので,国立公園の保護のために
より有効な手段を講じることは自明である。」との指摘も,自然保護を強
調したものとして注目しておきたい。
その4。さらに手紙は,放牧に関連してだが,はっきりと③「国立公園
内の土地の商業的な利用は認めない」と述べ,国立公園の商業的な利用を
否定して自然保護を強調している。
その5。手紙は「 国立公園において多くの私的所有地が存在するが,
それらは国立公園保存のために管理を著しく妨げている。すべてそれら
は,将来的にこの目的を成し遂げる可能性がある限り議会の歳費をつうじ
てか,土地の寄付による取得によるかによって排除されるべきである。隔
絶された重要な風景地の地域における個人的な土地は,買収されるよう
慮されるべきである。
」と述べている。
これも私有地の場合に国立公園局の規制が難しくなることを予想して私
有地の買収方針を打ち出したのであった。
その6。手紙は, ⑥局長は,木々の伐採を認めてはならない。」と述
べ,国立公園内の森林の伐採を禁止した。森林保護を強調したものであ
る。
その7。手紙は「いかなる国立公園内においても狩猟は認められない。」
と述べ,野生生物保護の規定を補足している。
以上のように,手紙は,冒頭の国立公園は自然保護を目的としていると
いう基本原理,政策を繰り返し主張していることがわかる。
第3の国立公園の利用についていえば,手紙は,概括的な原理の第2と
して「国立公園は,人々の利用,観察,健康と楽しみのために設立されて
いる。」と述べ,国立公園のレクリエーション的,観光的利用を明確に指
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
297
摘しながら,自然保護のための規制,限定を加えている。
その1。手紙は, ③イエローストーンを除き,局長は来訪者が集まら
ない孤立した地域,そして放牧によって自然的特性が損なわれないところ
では,牛の放牧を許可してよい。しかし羊の放牧は,いかなる国立公園で
も認められない。国立公園内の土地の商業的な利用は認めないが,牛の放
牧については,自然を損なわず来訪者のない地域では認めることもあると
規定した。
」と書いた。
ここで注目されるのは,すでに指摘したことであるが,一般に「国立公
園内の土地の商業的な利用」を認めないと指摘したことのほか,放牧につ
いて,国立公園法では一定の制限的な状況のもとで「家畜の放牧」として
認めていたのを,ここでは,牛の放牧が認めるだけで, 羊の放牧」は認
めないとしたことである。羊の放牧による自然に与える被害は極めておお
きく,手紙がこれは否認したことの意義は大きかった
。
その2。手紙は「⑥局長は,木々の伐採を認めてはならない。ただし立
木が国立公園内の建物の建設やその他の改善に必要である場合,森の整理
や見通しのための伐採が公園の風景的特徴を改善する場合,あるいは森を
破壊する昆虫の侵害,森や灌木の病気を排除するために必要であるところ
では,森林や風景の原形を傷つけることなく,除去できる場合は,その限
りではない。
」
ここでは,まず手紙は,すでに指摘したように国立公園法では直接明記
していなかったこと, 木々の伐採を認めてはならない」ことを確認し,
その例外を明記した。これはすでに国立公園法の第3条の指定を繰り返し
たものにすぎないが,この規定は,すでに述べたように,エコロジカルに
は不十分であるが,森林の利用を限定的に容認したものである。
以上のように,国立公園の利用に限定的であったことを指摘した。
つぎの論点は,直接「人々の利用,観察,健康と楽しみのために設立」
されるリクリエーション,観光施設の問題である。
すなわち,その1。手紙は「②国立公園などの保護地の商業的な利用
298
は,来訪者の宿泊施設や娯楽に付随し,法律によって認められたものを除
き,いかなる状況のもとでも認められない。
」と述べている。
この政策は,国立公園の商業的な利用を法的に認められた範囲でレクリ
エーション的,観光的に利用することを厳しく規制し,勝手な利用を禁止
した。
その2。手紙は「④厳しい政府の管理下で,ホテル,キャンプ,交通施
設,その他の公共サービスのための土地の借用に際し,借地者は,自分の
企業経営に絶対的に必要な範囲内の土地に限定すべきである。」
ここでも国立公園内でレクリエーション,観光施設のための土地の貸し
出しは, 厳しい政府の管理下」に,企業経営に最小限の範囲でと限定し
ている。みだりに土地は貸し出されないということである。
その3。手紙は「⑤局長は,夏期別荘用に国立公園内の土地の貸し出し
を認めてはならない。国立公園内に夏期別荘の設立を認める政策のもと
で,数年の内に,公園内の保護地は,小川,湖,その他の特徴的な自然へ
の便利なアクセスから公衆を一般的に排除するように定められるだろう。」
と書いている。
ここでも夏期別荘用を認める方向を示唆している点では開発利用の促進
であるが,それを「公園内の保護地」では排除すると制限した。
その4。手紙は「⑦道路,遊歩道,建物,その他の諸施設の建設に際し
ては,つねに風景とそれら施設との調和をはかるために,特別の注意を講
じなければならない。これは,国立公園局の開発計画における最も重要な
事項である。またそのためには,造園の知識をもつか国立公園の美学的価
値の正しい認識をもった専門技師を雇用する必要がある。すべての改善
は,風景の保護に特別配慮してつくられた計画に従って実行されるであろ
う。また十分な規模の上に国立公園の将来的開発のための複雑な計画が,
この計画に充用される基金をもって用意されるであろう。
」と述べている。
これも観光的な開発,利用が自然保護を十分に意識しつつおこなわれる
べきことを指摘したものである。
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
299
つぎにもっぱらリクリエーションについて述べた第4の部分についてみ
よう。手紙は,すでに部分的に示してきたように,リクリエーション,観
光のために国立公園の利用を主張し,その場合の政策について述べてい
る。
その1。手紙は「 法律によって国立公園に配置された安全警備員の監
視のもとで,あらゆるアウトドアー・スポーツは,どこでも認められ助成
されるであろう。登山,乗馬,ウォーキング,自動車ドライブ,水泳,ボ
ート,釣りは,依然好ましいスポーツとなるであろう。ウインタースポー
ツは,通年で受け入れている国立公園では,盛んになるであろう。狩猟
は,どの国立公園でも認められない。いかなる国立公園内においても狩猟
は認められない。」と述べている。
ここでは国立公園内において, 安全警備員の監視のもとで,あらゆる
アウトドアー・スポーツ」が奨励されるとした。これも,実態的には広大
な国立公園内でアウトドアーを奨励しても,当時まだ観光客があまり多く
なかったから,それほど自然の破壊をともなわなかったことは事実であ
る。しかし国立公園法の制定を国民的な支持をえるためのレクリエーショ
ン,スポーツなどの遊び場として国立公園をアピールするために,こうし
た政策が大いに強調されたことも事実であった。
しかしこのことも,国立公園法の全体的な政策原理からみれば, 安全
警備員の監視のもとで」のアウトドアであり,無制限,無規制に,また商
業主義が優先されて,スポーツが奨励されるという風にはなっていなかっ
たということは確認しておいてよい。
その2。手紙は,
多くの旅行者が設置を認めるところでは,心地よ
く豪奢なホテルと同じように,借地業者によって経営される低価格のキャ
ンプは,維持されるべきである。資金が利用できる地域では,無料のキャ
ンプ・サイトが設置され,そこでは十分な水と衛生施設が備えられるであ
ろう。」と述べている。
これは,アメリカの民主主義を反映して,公園内の施設は,ある程度コ
300
スト高な優良な施設と低価格の施設を併設しようとした政策であった。政
策としてそうした点が主張されているが,実際はどうだったという問題が
おきるが,ここでは,その問題にはふれない。この点は,次節で具体的に
検討することになる。
その3。手紙は「 できればどこでも,個々人の好みを充分に満足させ
るような方法で,公衆に国立公園を楽しませる機会が与えられるべきであ
る。自動車,オートバイは,すべての国立公園で認められるであろう。実
際に国立公園は,いかなる手段の通行も受け入れるであろう。
」と述べて
いる。アウトドアーでより深刻な問題を抱えていたのは,この自動車問題
であった。
国立公園法では直接論じられなかったが,手紙は,国立公園への自動車
乗入れを公認した。もっともこの問題は,すでに前稿で論じたように,
1912年の国立公園会議で提起され,シエラ・クラブの反対にもかかわらず
承認されてしまった問題であった
。
国立公園内への自動車の乗入れは,当然公園内の自動車道路の建設を必
然化した。国立公園内に自動車道路を建設することは,一般論としても大
幅な自然破壊をともなうことは自明であった。それは,国立公園法,手紙
の政策的原理が「国立公園は,われわれの世代と同様に将来の諸世代の利
用に供するために,絶対的に損なわれない形で維持されされるべきであ
る」という政策に反することは明らかである。
しかし手紙は,それを公認してしまった。これは,アメリカの国立公園
の持つ最大の矛盾,ジレンマであった。しかしまた自動車業界を反対にま
わして国立公園局法を通過させることは,おそらく困難であったのであろ
う。この宿命は,国立公園にとって最大の必要悪として,ミューアを先頭
に多くの自然保護団体が黙認せざるをえなかった問題であった。
しかも当時は,モータリーゼーションが未発達であり,自動車公害もそ
れほど酷くなかったから,常識的にみて許容範囲の中にあったということ
も事実であった。
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
301
実証的には次節の課題であるが,また1910年代までのイエローストーン
国立公園の事例をみる限り,自動車道路の建設は,自然,大風景の部分的
な破壊をともなったとはいえ,道路建設の技術は素朴であり,自動車道路
網も極めてまばらであり,自動車の普及状況からみても相当に抑制的であ
ったと指摘できる。
自動車による国立公園の過剰利用の問題は,戦後の問題であり,20世紀
前半,とくに第一四半世紀にはまだ深刻ではなかった。従って国立公園局
が,自動車の導入に好意的であったことは確かである。
手紙は,最後に国立公園のリクリエーション的利用にからんで,教育的
研究的利用についても論じた。
その1。手紙は,
国立公園のレクリエーション的利用だけでなく教
育的な利用は,各種の方法で推進されるべきである。大学や高校の科学の
授業は,休暇中の学業のために特別な施設が与えられる。野生の花,灌
木,木々,動物,鳥,公園固有の魚の標本,その他の展示をおこなう博物
館が公的なものとして設置されるであろう。
」と述べる。
アメリカの国立公園が,ミューアの思想を受け継ぎ,国立公園の利用と
合わせての教育的利用,自然教育の政策を提起したことの意義は大きい。
その2。手紙は,
国立公園内の利用と保護とに関する管理問題の解
決を助けるために,政府の科学関係の部局は,価値の高い施設と専門家を
提供する。公衆の健康の保護のために,例えば,森林の有害な昆虫を駆除
し,野生動物を世話,魚の繁殖と放流のために,局長は彼らの心ある協力
を最大限に利用すべきである。
」と述べた。
この部分は,今日的にみると極めて非エコロジー的で自然破壊的な側面
が強いが,これも実際には,国立公園資源を積極的に利用しようとした森
林局との妥協からでた政策である側面が強い。
手紙は,このほか,民間企業が企業間競争をすると,利益追求をはげむ
こと,そのために来訪者へ負担を課することを拒否する政策を提起して,
また国立公園の財源を捻出するために,自動車の通行税を認め,国立公園
302
へのアクセスを容易にするため鉄道,ハイウエイの建設を支援すると述べ
た。
以上のようにレインのマザーへの手紙は,一方で国立公園の自然の保護
を重視しつつ,他方で国立公園の利用,とくにレクリエーション的,観光
的に利用することを奨励し,それに厳しい制限を加えるように求めたもの
であるといえよう。従って手紙は,国立公園を利用することに主眼として
理解していたというよりは,自然保護を主としてその利用を副としていた
と理解できる。
従って私は,国立公園法およびレインのマザーへの手紙が大局的にみて
レジャーや観光のために国立公園を積極的に開発しようとしたという認識
をえることができない。
確かにレジャー的な観光的開発を認め,時にはそれを強調している。し
かしそれはあくまで,国立公園は自然を保護するという大命題の範囲内で
主張されていることがわかる。事実,そうした開発がおこなわれたのであ
る。
総括的評価
最後に,国立公園法およびレインの手紙を全体として総括的に評価して
おきたい。すでに私の評価はたびたび指摘したのであるが,ここでは,現
代のアメリカの国立公園史家が,それらの理念,基本的な政策をどのよう
に評価しているかについてみておきたい。
セラーズは,国立公園局法の制定過程を詳細に分析して,本法の曖昧
さ,妥協的な側面,自然保護の軽視,観光開発の重視の側面を批判的に指
摘している。
セラーズの意見は,国立公園局法の制定過程の理解を前提にしている。
それを要約していえば,すでに検討したことでもあるが,自然保護を強化
し国立公園の制度的な不備を整備し,改善するためには,国立公園局を制
定しなければならないという
えを生んだが,それに対する反対も強く,
反対を押し切って改革をすすめるためには,国立公園の観光化をすすめ広
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
303
く国民に開放して,国民の国立公園理解を図らなければならないという戦
略をたて,そうして全国的な支持をえて法を議会で通過させたということ
であった。
セラーズは,国立公園制定運動を総括して, 国立公園設置法の制定史
は,議会や議会に働きかけたロビーストたちが,立法に自然状態を正しい
意味で保護するという規定を与えることを追及した証拠を示していない。
国立公園局 設者の動機や認識を検討してみると,彼らの原理的な関心が
風景の保護,観光の経済的利益,国立公園の効率的管理であったことが明
らかである。
」 と述べた。
セラーズの具体的な批評は,4点ほどにまとめられる。第1に,アメリ
カの従来からある評価への批判である。第2に,法の自然保護観のゆが
み,すなわち風景重視の理念への批判である。第3に,観光重視への批判
である。第4に,法がもつ二重性,曖昧さについての批判である。
第1の点についてセラーズは, 法案通過後に繰り返された国立公園に
おけるさまざまな管理実績への批判は,国立公園は 未来の諸世代に楽し
みのためにそれらを損なわれずに> 残されるべきであるという法の原理的
規定を引用してきた。
」と述べ, 彼らは,国立公園局は,自然状態を保護
しないで国立公園局法の精神や文面を侵しているとしばしば主張してき
た。彼らは,国立公園局法の主要な規定は,つねに自然の保護であり,国
立公園局は国立公園を損なわずに残すという規定を誤解してきたと主張し
てきた。
」 と指摘している。
要するに,セラーズは,国立公園局に対する従来の評価は,国立公園局
法の主要な規定が,つねに自然の保護にあったとみなしてきたが,それは
誤りであり,国立公園局が国立公園を損なわずに残すという規定を誤解し
て,開発に励んできたとみなすのも誤りであったと指摘する。
しかしセラーズのこうした批判に私は,全面的に賛成しがたい。 国立
公園局法の主要な規定は,つねに「自然の保護」であったという理解は,
その規定の不十分さとか曖昧さをともなっていたとしてもそれなりに正し
304
かったのではないか。この点は,すでにこれまで私が,強調してきたこと
で繰り返すこともあるまい。
第2に,国立公園法の自然保護観のゆがみ,すなわち風景重視の理念へ
の批判であった。セラーズは,法制定者の「原理的な関心が風景の保護」
に重点をおきすぎたと批判する。
セラーズは,国立公園法の基本的な目的は「国立公園局が風景とその他
の資源を
保護> すること」であったと述べ,ここでいう保護は, 観光
と大衆の楽しみを促進するために国立公園の風景地の賢明な利用を含んで
いた。」 と指摘する。
これは第3の批判ともからむが,そうした観点の故に,レラーズは,法
が自然保護の重視を怠っていたと批判する。すなわち,セラーズは, 国
立公園局法は,その規定の中に自然物を保護し,公園を
損なわずに> 残
すために自然を保護するという意味を含んでいるのであるが,法制定者た
ちは,正しい生物学的な保護を本質的に
慮をしていなかった」と批判す
る。そして法の執筆者の一人「オムステッドの手紙は,自然状態を保護す
ることについてほとんど言及しなかった。彼は,国立公園を,真の本来的
な保護のための規定のようなものとして深刻に
る。
」と批判する
えなかったようにみえ
。
確かに国立公園法の自然保護規定は,エコロジカルな認識を欠如してお
り,従ってかなり粗雑であったこと事実であるが,だからといって自然保
護の理念,姿勢を著しく欠いたとは言い切れない。
もっともセラーズは, 国立公園を 損なわずに> 残すという原理的な
概念は,規定されずに残され,相当の開発と大衆の利用をみとめる解釈に
道を開いたが」
, 後に国立公園をエコロジカルな 完全無欠> に保護する
(あるい修復する)科学的試みを正当化することになる。
」と,将来的な問
題として積極的に評価しているのであるが
。
確かに,法の制定過程において,法案起草者や支持者の言葉には,風景
を重視する論調が強かったことは事実であった。しかし国立公園法自体あ
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
305
るいはレインの手紙の論旨には,決して風景の重視だけでなく, 自然物,
歴史遺物,野生生物」の保護も強調されていた。
第3の批判は,観光重視への批判であった。
第2の風景の重視という批判とからむが,セラーズは,風景の重視が観
光重視に繫がっていると批判したが,確かに法制定の戦略的な方針からそ
うした方針,政策が強く打ち出されたことは事実であり,そうした面は否
定できない。しかしすでに指摘したように,風景の重視だけでなく,しか
しそれも国立公園法,手紙を総体的にみて,あるいは,自然,歴史遺物,
野生生物の自然保護の強調との関連でそれを評価しなければならない。
ただしセラーズの指摘するように,観光の重視が存在したことは事実で
あった。セラーズは,この観光開発という面を独自に取り出しすぎている
ように感じられる。この問題は,後に幾分とも実証的に問題を提起した
い。
さて最後の法がもつ全体的に妥協的で曖昧な二重の規定原理についての
批判についてみることにしよう。この批判にも私はセラーズの批判に全面
的には同意しかねる。
セラーズは, 国立公園推進者は,遊びの場と手つかずの自然保護地と
の二つの意味をもつ国立公園の設立をすすめた。」とし, オムステッド
は,国立公園の基本的目的の表明を 誤りない用語> で探しもとめたので
あるが,制定法は,ステファン・マザーが 二重の規定> と呼んだ,すな
わち国立公園は利用されかつ保護されるべきであるということを表明し
た。
」と批判する
。
私もセラーズがいうように「事実,制定法は,国立公園管理における基
本的な不明瞭さ,要するに国立公園の利用と保全との間の確執を解決でき
なかった。
」 ことを認める。
確かに法には国立公園の目的に二重の規定性がみられる。しかしこれも
全体的にみれば何れを重視しているかという問題がある。これまで見てき
たように,明らかに曖昧ながら,自然保護に重点をおいていたと理解でき
306
る。
従って私は,セラーズのように国立公園法は,その目的を二重に規定し
ていると厳密に特徴づけるのに躊躇する。
セラーズは, 国立公園によるあらゆるタイプの自然資源の保護に対す
る明快な関心の欠如は,法制定者たちが,事実上,未開発の土地は 手つ
かずの土地 unimpaired lands> であり,そこでは開発がないか少なく,
自然状態は存在し,とくに問題はないと想定していたことによく現われて
いる。」と指摘する。それは,とりもなおさず,彼らにとっては「国立公
園の中の魚,森,野生生物などの資源」の一部を略取したり破壊したりす
ることが, 手つかずの自然状態として見なされなかったように思われ
る。
」とも指摘する。しかしそうした自然認識は,セラーズが認めている
ように「まだエコロジカルな問題についての情報がなかった」 からであ
る。
従ってセラーズの二重性の規定については,第1の批判点ともからん
で,そのまま肯定することはできない。
なおこの二重性についていえば,私は,戦前の日本のアメリカ国立公園
に対する理解で,田村剛が,アメリカの国立公園の目的は自然保護と開発
利用の二重に提起されたというのは,事実に反すると批判してきた。
しかし確かにアメリカの国立公園法の目的が自然保護と利用の二重性を
もっていると捉えるのは,今は単に田村の責任ではなく一定の客観的な根
拠があったと えなければならないと思っている。
以上のように,国立公園局法に対するセラーズの評価はかなり厳しい。
確かにアメリカの現代的な環境保護思想を背景にした今日的な観点からみ
れば,セラーズの批評は,大方当たっているといわなければならないだろ
う。しかし当時の歴史的状況を 慮するならば,セラーズのように批評す
るのは,あまりに酷ではないかと える。
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
307
注
(1) Cameron, The National Park Service, Appendix, pp. 87-88.
(2) 誤解のないように指摘しておけば,引用中の国立記念物 national monuments,国立保留地 national reservations には,national の文字はない
が,national parks の national が monuments と reservationsn にかかっ
ているので,わかりやすくするために national を表示しておいた。
(3) Cameron, op.cit., p. 12.
(4) Ibid, p. 19.
(5) アメリカの国立公園史の時代区分についての訂正は,すでに指摘したと
おりである。この法律の成立をアメリカ国立公園制度成立のメルクマール
としたい。なお国立公園局は,国立公園だけでなく,国立記念物,国立保
留地をも監督下においたのであるが,ここでは,議論を国立公園の問題に
しぼっているので,国立記念物,国立保留地については逐一言及しない。
(6) 前掲拙稿,110-11頁。Cameron, op,.cit., pp. 93-94.
(7) 自身が放牧業者であった下院議員ケントは,放牧業者の利益を代表し
て,放牧を国立公園から排除する動きを恐れて国立公園局の設置に反対し
ていたが,マザーらは,法案に賛成させるために不本意にこの放牧を認め
た。Sellers, op.cit., p. 37.
(8) 前掲上岡著,64頁参照。
(9) Cohen, op,.cit., p. 43.
(10) Ibid., p. 44-45.
(11) レインのマザーへの手紙。Cameron,op.cit., pp. 15-19.
国立公園局は,ちょうど1年前に国立公園の部局として制定された。
その間われわれの努力は,法律で要求されている国立公園,国立記念物の
管理,保護,改善に関する義務の履行を拘束する効果的な組織をつくるこ
とにおもに向けられた。この建設的な仕事はいま完了した。新しい局は,
十分に組織され,局の人材は慎重に選ばれ,新しい内務省の建物に快適か
つ便利に配置され,仕事を迅速かつ効率的にように整備された。
大衆への情報として,新しい局がおこなう管理政策のアウトラインを示
せば以下のようなものである。
この政策は,三つの概括的な原理に基づいている。第1に,国立公園
は,われわれの世代と同様に将来の諸世代の利用に供するために,絶対的
に損なわない unimpaired 形で維持されされるべきである。第2に,国立
公園は,人々の利用,観察,健康と楽しみのために設立されている。第3
に,国立公園内の公的かつ私的な企業にかかわる全ての決定は,国益
308
national interest に従わなければならない。
①国立公園局のすべての活動は,子孫のために国立公園を本質的に自然
の状態で忠実に保護するため国立公園局に課せられた義務に従属してい
る。
②国立公園などの保護地の商業的な利用は,来訪者の宿泊施設や娯楽に
付随し,法律によって認められたものを除き,いかなる状況のもとでも認
められない。
③イエローストーンを除き,局長は来訪者が集まらない孤立した地域,
そして放牧によって自然的特性が損なわれないところでは,牛の放牧を許
可してよい。しかし羊の放牧は,いかなる国立公園でも認められない。国
立公園内の土地の商業的な利用は認めないが,牛の放牧については,自然
を損なわず来訪者のない地域では認めることもあると規定した。
④厳しい政府の管理下で,ホテル,キャンプ,交通施設,その他の公共
サービスのための土地の借用に際し,借地者は,自分の企業経営に絶対的
に必要な範囲内の土地に限定すべきである。
⑤局長は,夏期別荘用に国立公園内の土地の貸し出しを認めてはならな
い。国立公園内に夏期別荘の設立を認める政策のもとで,数年の内に,公
園内の保護地は,小川,湖,その他の特徴的な自然への便利なアクセスか
ら公衆を一般的に排除するように定められるだろう。
⑥局長は,木々の伐採を認めてはならない。ただし立木が国立公園内の
建物の建設やその他の改善に必要である場合,森の整理や見通しのための
伐採が公園の風景的特徴を改善する場合,あるいは森を破壊する昆虫の侵
害,森や灌木の病気を排除するために必要であるところでは,森林や風景
の原形を傷つけることなく,除去できる場合は,その限りではない。
⑦道路,遊歩道,建物,その他の諸施設の建設に際しては,つねに風景
とそれら施設との調和をはかるために,特別の注意を講じなければならな
い。これは,サービス局の開発計画にける最も重要な事項である。またそ
のためには,造園の知識をもつか国立公園の美学的価値の正しい認識をも
った専門技師を雇用する必要がある。すべての改善は,風景の保護に特別
配慮してつくられた計画に従って実行されるであろう。
また十分な規模の上に国立公園の将来的開発のための複雑な計画が,こ
の計画に充用される基金をもってが用意されるであろう。
⑧いかなる時でも,連邦政府は,国立公園にたいして独占的な権限をも
っているので,国立公園の保護のためにより有効な手段を講じることは自
明である。……
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
309
⑨国立公園において多くの私的所有地が存在するが,それらは国立公園
保存のために管理を著しく妨げている。すべてそれらは,将来的にこの目
的を成し遂げる可能がある限り議会の歳費をつうじてか,土地の寄付によ
る取得によるかによって排除されるべきである。
隔絶された重要な風景地の地域における個人的な土地は,買収されるよ
う 慮されるべきである。
できればどこでも,個々人の好みを充分に満足させるような方法で,
公衆に国立公園を楽しませる機会が与えられるべきである。自動車,オー
トバイは,すべての国立公園で認められるであろう。実際に国立公園は,
いかなる手段の通行も受け入れるであろう。
法律によって国立公園に配置された安全警備員の監視のもとで,あら
ゆるアウトドア・スポーツは,どこでも認められ助成されるであろう。登
山,乗馬,ウォーキング,自動車ドライブ,水泳,ボート,釣りは,依然
好ましいスポーツとなるであろう。ウインタースポーツは,通年で受け入
れている国立公園では,盛んになるであろう。狩猟は,どの国立公園でも
認められない。いかなる国立公園内においても狩猟は認められない。
国立公園のレクリエーション的利用だけでなく教育的な利用は,各種
の方法で推進されるべきである。大学や高校の科学の授業は,休暇中の学
業のために特別な施設が与えられる。野生の花,灌木,木々,動物,鳥,
公園固有の魚の標本,その他の展示をおこなう博物館が公的なものとして
設置されるであろう。
多くの旅行者が設置を認めるところでは心地よく豪奢なホテルと同じ
ように,借地業者によって経営される低価格のキャンプは,維持されるべ
きである。資金が利用できる地域では,無料のキャンプ・サイトが設置さ
れ,そこでは十分な水と衛生施設が備えられるであろう。……
国立公園内の利用と保護とに関する管理問題の解決を助けるために,
政府の科学関係の部局は,価値の高い施設と専門家を提供する。公衆の健
康の保護のために,例えば,森林の有害な昆虫を駆除し,野生動物を世
話,魚の繁殖と放流のために,局長は彼らの心ある協力を最大限に利用す
べきである。」
(12) 後に指摘するように,日本人の国立公園論ではこの「絶対的」という語
句を省いているのが特徴的である。
(13) 法案制定者は,国立公園法を通すために羊の放牧を要求するケントに妥
協しが,2年後にそれを禁止したことも興味深い。
(14) 前掲拙稿。
310
(15) Sellars, op.cit., p. 29.
(16) Ibid, p. 29.
(17) Ibid, p. 43.
(18) Ibid, p. 45.
(19) Ibid, p. 45.
(20) Ibid, p. 45.
(21) Ibid, p. 45.
(22) Ibid, p. 45.
⒞ 戦前日本のアメリカ国立公園についての理解
小論は,もともと私が日本の国立公園成立史を研究している途中に,日
本の国立公園の生成過程においてアメリカの国立公園が日本の国立公園論
議に大きな影響を与えてきたことを知って,私なりにアメリカの国立公園
について研究しようとした小さな成果にすぎない。
ここでは,大正期の国立公園論争と戦前昭和期の国立公園制定論議の中
で,アメリカの国立公園を日本の論者がどのように理解したかを検討して
おきたい。
アメリカの国立公園についての本質的な論議が提起されるのは,大正期
の国立公園論争においてであった。この論争については詳しく論じてある
ので ,アメリカの国立公園に関する論点の要点のみに触れておきたい。
大正期に国立公園の設立を主張して,アメリカ国立公園論を紹介したの
は,内務省衛生局保健課の田村剛であった。田村剛は,大正7(1918)年
に『造園概論』において,アメリカの「国立公園」を天然公園ととらえ
て, 天然公園は米国に理想的なるものをみることが出来る。天然の勝景
を広く紹介し,兼ねて地方或は一国の経済に資せんとするのが,天然公園
の副目的である。」 と提起した。
常識的なアメリカの国立公園の理解からみれば,田村の主張する国民的
な風景利用は国立公園の「副目的」であるという認識は,正しいものであ
った。しかしすでに指摘したように,大正10年以降に論じられ田村の一連
の論文では,日本での国立公園設立の必要性を強調するあまり,アメリカ
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
311
の国立公園の実態あるいは論議における自然,風景の観光的な利用の側面
を強調しすぎることよって,アメリカ国立公園のもつ自然保護の役割を軽
視してしまったように思われる 。
当初,田村批判の急先鋒であった上原敬二は,大正10(1920)年2月,
3月号の『庭園』誌に「風景の利用と国立公園に就いて」をアメリカの旅
先から投稿し,田村と同じ主張を繰り返していたのであるが,アメリカで
の国立公園の巡検と研究をへて帰国してから,大正11年以降に発表した一
連の国立公園論に関する論文では,田村らの国立公園論に真っ向から反対
する論陣を張ることになった。
上原は,これらの論文では,必ずしも詳しくアメリカの国立公園を論じ
てはいないが,一般的に国立公園の「主要目的」を「1天然記念物の保
護,2風景地の保護,3遺蹟保存」として強調し, ナショナルプレーグ
ランド」としての側面を抑制して理解した 。
上原は,アメリカの国立公園の特徴を,ヨーロッパの国立公園と違っ
て, 宮苑,名勝地」を配せず「主」に「純然たる天然記念物の保護を目
的としている」と理解し ,国立公園による自然保護を強調し,観光開発
による自然の破壊に強く反対したのである。
すでに検討してきたアメリカの国立公園の歴史からみて,上原のアメリ
カ国立公園観は,必ずしもアメリカの全体的な意見を反映していたのでは
なく,自然保護を強調する派の意見を反映していたように思われる。しか
しカメロンのような意見を反映していたとも指摘できる。ただ上原は,
天然記念物」の保護を強調しすぎて,田村らに不要な反発を生み,国立
公園は,天然記念物の保護と違って,国民の利用も大きな目的だと強調さ
せることになった。国立公園と天然記念物の違いに就いては,後に言及す
る。
なお上原は,大正13年の著書の「国立公園と風景問題」という編で,
国立公園の副たる目的である天然生活」といい,国立公園の利用を認め
ているが,利用と称して国立公園の「一度山間に入って舗装完全なる道路
312
を行こうとする」ような開発を戒めた 。
昭和期のアメリカ国立公園論は,もっぱら国立公園協会派によって日本
の国立公園設立を促進する意図から紹介された。その中でもっとも注目す
べきものは,昭和2(1928)年刊行の田村剛のパンフ『国立公園』におけ
るアメリカ国立公園論であった。田村のアメリカ国立公園論についても,
すでに拙著で詳しく検討してあるので,ここでは論点の要約を示すにとど
めたい。
田村は「北米合衆国の国立公園」の節で,アメリカの国立公園につい
て,はじめて立ち入って論じた。田村は,第1にアメリカの国立公園の歴
史について次のような理解を示した。
まず近代的な国立公園の最初のものとしてイエローストーンの国立公園
化にふれ, 永遠天然状態のままで保存せんとする趣旨」で「天然風景大
面積に区画し,国の法律により保存の方法を講じた」と自然保護を強調し
つつ, 地上の一大壮観たると共に,国民の野外休養享楽のための絶好の
一大避暑地である」と理解した。こうして田村は,その後1916年以降のア
メリカの国立公園論は, 始めて消極的保存政策より積極的開発政策に移
り,国民も亦公園内の車道や歩道,ホテルやキャンプ等を盛んに利用する
傾向を示すに至った」と特徴づけた 。こうした田村の見解は,明らかに
アメリカの国立公園史の誤解であり,あるいは歪曲である。
これまで検討してきたように,アメリカ国立公園の歴史の中で大自然,
大風景の保護を積極的に主張しなかった時期はないし,それらの保護に十
分な手当てができなかったことがあっても,保護政策を消極的保護に転換
して積極的な開発政策に移行した事実はない。
ただアメリカの国立公園史の中で,次節で具体的に論じるように,1916
年に国立公園局が設置されて,国立公園を広く国民の利用に供するため
に,保守派との妥協もあって,道路,宿泊などの施設を積極的に建設し,
観光的な開発をおこなったことは事実である。またレインやマザーの国立
公園政策の中で観光的な開発を強調して,観光開発が表面にでてきて,局
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
313
部的に過剰とみられる開発があったのも事実であったが,従来からの自然
保護重視政策を放棄したり,抑制しておこなわれたのではない。レインの
マザーへの手紙では,国立公園局法より自然保護の規定は,より強調され
てきており,確執はあったにしろ,従来の自然保護政策の上に展開された
のである。だから全体としてみれば,アメリカの国立公園は,一貫して自
然の保護を第1の目的として重視してきたのである。
従って田村のアメリカ国立公園観は,日本における国立公園制定の目的
を観光開発に重点を置かなければならないという特殊事情から,アメリカ
の国立公園においてみられた観光的開発をことさら重視し,あるいは過大
に評価して,自然保護の側面を軽視していると指摘せざるをえない。
田村の自然保護への軽視は,アメリカの国立公園史の中で自然保護を重
視してきた運動の事実を無視し,初代国立公園局長のマザーについては言
及しているが,自然保護を重視したローズベルト大統領,ジョン・ミュア
ー,シエラ・クラブなどの自然保護のための国立公園設立運動については
まったくふれていないことに現われている。
田村剛の第2の論点は,アメリカの国立公園を想定したうえでの概念規
定の問題である。田村は, 国立公園は一定区間の風景を永遠に保存する
と共に,公衆享用の道を講ずるにある。従って国立公園事業は,自ら分か
れて二つとなる。その一つは風景の保存であり,他はその開発である。そ
の両者を兼ねないならば,それは国立公園ではない。
」 と指摘する。
ここに二つ問題がある。田村の国立公園の概念は,国立公園局法の第1
条に依拠しているのはすぐわかる。しかしレインのマザーへの手紙では自
然保護が強調されて,単に「風景を永遠に保存する」というだけでなく,
絶対的に」という副詞句を使って, 風景を永遠に保存する」といってい
たのに,あえて「絶対的に」という語句を省いている。田村が「風景の保
存」といって「自然の保存」といわなかったことにも問題はあるが,ここ
では問わない。
もう一つは,田村の主張は,国立公園の目的を自然保護と国民的な利用
314
を2大目的として並列的に把握する見解である。田村の主張は,国立公園
の定義に,開発を自然保護と同列に扱うことによって,容易に開発を認め
る路線に道を開いたといえるし,日本の国立公園法の自然保護規定を曖昧
にする理論的根拠を与えたと指摘することができる。これは,大正7年の
『造園概論』の規定,国立公園の利用を副目的とした規定からの後退であ
った。
しかし田村の国立公園二重の目的論は,すでに前項で明らかにしたよう
に,アメリカの国立公園論が秘めた二重性を反映した側面が強かったので
あって,とくに1916年以降マザーによって展開された国立公園政策の一面
的な誇張を反映していた側面もあり,田村だけに責任を負わせられない。
その限りで,私の村田批判は,国立公園局法やレインのマザーへの手紙が
もつ曖昧さを田村だけの責任を押し付けてしまったきらいがあったと反省
しなければならないと えている。
日本の国立公園成立史執筆時の私のアメリカ国立公園論には,ややアメ
リカにおける国立公園の自然保護重視の側面の過大視,その反対に国立公
園における観光開発の実態の過小評価があったように思われる。しかし基
本的な認識において誤っていなかったと確信している。
第3の論点は,国立公園と「国家記念物」についての認識の問題であ
る。田村のいう「国家記念物」とは,1906年に制定された古蹟保護法にも
つづく国立記念物のことである。田村は,国立公園の国民的な利用,観光
開発を強調するため,国立公園と天然記念物や歴史的遺物をふくむ国家記
念物(国立記念物のこと)とを無理に区別する。
田村は,カメロンの意見を「国家記念物と国立公園と判然と区別して次
のように言っている。
」とし, 国家記念物の目的は歴史的,科学的又は其
他の興味ある物件の破壊毀損を免れしめ,これを保存するにある。然る
に,国立公園は上記の目的の他に,更に公衆のために完全なる享用の施設
をさすものである。
」 と紹介した。
田村は,このカメロンの意見から, 国家記念物」は保護を重視し,国
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
315
立公園は保護と開発の両面をもつものと理解したが,カメロン自身は,上
の文章に続けて, 国立記念物は,公園の資源であり,おそらく多くの現
存する記念物が公園として開発が具体的となれば,国立公園の資格を獲得
できるであろう。」 とはっきり主張している。
そして,アメリカでは一般に国立公園と国立記念物の相違は,前者が,
議会によって決定されるのにたいして,後者は,大統領によって決定され
るという質的な違いだけであると理解されている
。
こうした指摘からは,国立記念物は,利用不可で国立公園は利用が可能
であるといった論理はでてこないことがわかる。私は,田村がカメロンの
指摘を一面的に理解して,国立記念物は,利用不可であり,国立公園が利
用可能であるという説を主張することによって,意図はどうあれ,国立公
園の利用開発を強調し,過剰開発が危険をともなうことを軽視し,逆にそ
れを合理化しようとしたと理解している。
以上のように,田村のアメリカ国立公園論は,日本に国立公園を早急に
設立したという熱意に災いされて,国立公園の自然,風景の絶対的な保護
を目的,理念とする面を過少に評価してしまったと評せざるをえない。
田 村 に つ い で,昭 和 期 の 国 立 公 園 論 で 注 目 す べ き も の は,昭 和 5
(1930)年出版の青木芳雄『アメリカの国立公園』である。青木は,10余
年アメリカのスタンフォード大学をはじめ幾つかの大学で,自然科学,人
類学,哲学等を学び,国立公園の実地調査をもおこなった碩学であった。
青木は,日本では田村らと交流をもち,田村のすすめで国立公園協会か
ら本書を出版している。それは,あたかも日本の国立公園設立運動をアメ
リカ国立公園論の立場から支援するものであった。
青木は,アメリカの各国立公園についての記述に先立って,国立公園の
定義や意義について論じている。青木は,アメリカでの国立公園論の研究
を踏まえて,国立公園運動が生まれてくる理論的基礎を,つぎのようにみ
なしている。
現代人は自然に対する
えを一新する傾向が
々顕著になった。それ
316
は経済主義,合理主義の当然の帰結ではあるが,自然物の保存および愛護
の運動である。…… 国立公園> はこれが最も理想化されたもので,その
出現は蓋し偶然ではなかった。
」
そして「国立公園は国家なる統一的,組織的見地から,自然風景を保護
し,以て積極的に自然の作用を一層拡大し効果あらしめる。すなわち,国
民を休養せしめ,国土自然の偉大な美しい印象を与へて,愛国の情熱を喚
起せしめ,もって忠誠なる国民を教化するものである。」 と国立公園を
定義している。
この定義は,アメリカの国立公園を想定した定義としては実に本質をつ
いたものとなっている。それは,アメリカの国立公園は,本質的に「自然
風景」の国家的「保護」であり,さらに「自然」を人々の休養の場とし,
インスピレーション・霊感,愛国心の源泉として把握する。
こうした国立公園の一般的な定義は,アメリカではごく普通のものであ
り,特別なものではない。ここまでは,田村のアメリカ国立公園論よりア
メリカ的であると評価できる。しかし問題は,この先にある。では彼の国
立公園論は,公園内の産業的な開発,観光開発をどのように見なしている
かという問題である。
青木は,この点を問題にする。彼は「国立公園の意義」を論じて,国立
公園は「一面において,一定区域の天然風景を天然のままに永遠に保留
し,国民の休養,保健,教化のために利用すると共に,更にすすんで風景
資源を開発利用して学術の研究及び国民経済上に貢献するにある。
」と指
摘する。青木もまた「風景資源を開発利用し……国民経済上に貢献する」
ことを国立公園に期待する。ここで「風景の経済化」とは「ツーリスト・
インダストリー」 のことである。
青木もまた田村のように,国立公園の意義を論じるにさいして, 一定
区域の天然風景を天然のままに永遠に保留し」という表現で,レインのマ
ザーへの手紙にあった「絶対的に」無傷で残すという副詞句を省いてい
る。
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
317
意図的であったかなかったかの 索はおくとして,国立公園に託す自然
保護の規定が, 絶対的に」を省くことによって薄くしていると指摘せざ
るをえない。
すでに検討したように,青木の言を待つまでもなく,アメリカの国立公
園が「風景の経済化」に貢献したことは指摘するまでもない。問題は,そ
れを国立公園の本質認識においてどのように把握するかである。
青木は,この点に関して,田村剛とやや異なった見解を示している。す
なわち彼は, 国立公園の副次的目的である風景の経済化」と指摘してお
り,上原敬二と同じようにあくまで国立公園の主目的を自然風景の保護に
おいているからである。
すでに詳しくみたように,田村は両目的を並列したのであるが,青木
は,アメリカの国立公園の実態を反映して,あくまで自然風景の保護を主
目的にし,観光開発を副次的目的として限定している。私は,この青木の
アメリカ国立公園論は,アメリカの国立公園の本質を正しく理解したもの
と評価したい。
青木は,田村らの意を受けて,日本における国立公園設立運動に肩入れ
する論陣を張り,日本における国立公園設立反対論を積極的に批判してい
る。
青木のその批判は,なかなか興味深い。彼は,第1に, 国立公園が外
国の模倣だからいかぬ」という反対論に, 何等風景保存に対する具体案
を用意することなく,ただ反対のための反対であるに過ぎない」
, むしろ
進んでアメリカ国立公園の良を取り優を用ふべきであるまいか」とし,
国立公園は風景の保護を目的とする施設であるから,最優等の風景だけ
を特殊区域に編入して,人工的破壊の手の及ばざるようにする」と指摘す
る。
第2に, 国立公園によって風景地が 俗化> するからいけないという
説」には, これらの俗化は国家的施設によって防ぎ,国民をして自然に
よって教化せしめるのが国立公園の積極的目的の一つである」と指摘す
318
る
。
以上のように青木の主張は,田村らが,観光開発の意義を表に出して国
立公園の必要を主張したのにたいして,観光開発による俗化,自然破壊を
防ぐためにこそ国立公園の適当な施設が必要であり,自然破壊や俗化を阻
止するモラルの高揚,教育の必要を強調しているのが特徴的であり,田村
の論とだいぶニュアンスが異なっている。
しかし青木のアメリカ国立公園の形成についての理解には,重要な誤り
がある点を指摘しておかなければならない。それは,イエローストーンの
国立公園化から1916年の国立公園局の設立にいたる国立公園政策の変化に
ついての認識についてである。
青木は,アメリカにおいて,1906年の古蹟保護法の制定頃から国立公園
の厳選期に入り, 国立公園施設の充実のため予算を要求して積極的発展
時代に入った。」 と理解する。この理解は,すでにみたように正しい。
しかし彼はこのことからつぎのような結論を引き出す。
国立公園の「
設の初期においては, 来るべき日のための保存> が目
的であったから,その施設のために予算を支出するなどとは思いも及ばざ
ることであった。」その後イエローストーンやヨセミテの「天然美の保護」
をおこない一般国民のためにそこで「交通路の施設,山径穿鑿その他の施
設のために費用の支出」をするようになって, ここに消極的保護政策か
ら積極的開発策に移」ったと指摘する
。
この主張は,アメリカの国立公園政策は,当初は自然保護が積極的であ
ったが,20世紀に入って自然保護が消極的になり,それに代わって開発が
積極的になったという風に理解される。
青木のアメリカ国立公園観は,これまでみてきたように一貫して国立公
園は自然を保護することを目的としたとの理解である。従って彼の上記の
主張は,正確には誤っているというよりは,むしろ間違った表現というべ
きかもしれない。
アメリカの国立公園におけるこうした「消極的保護政策から積極的開発
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
319
政策」への転換という認識は,すでにみた昭和期の田村剛のアメリカ国立
公園論において主張された誤った理解である。私は,青木が,田村らの国
立公園設立運動を支援するために,昭和2年に主張された田村の誤った説
を不用意に使ってしまったのだと理解したい。
アメリカの国立公園政策は,国民が国立公園を楽しむために道路,宿泊
施設などの建設を積極的におこなったことは事実であったが,自然,風景
の保護を一貫して重視したことはわれわれも,先に確認したことである。
もう一つ,青木の国家記念物と国立公園問題についての意見をみておこ
う。青木は,田村と違って,両者の違いを強調せず,両者の「区別」を
「一方は議会において,最も優秀で典型的な適當の地域を選択して,国民
の遊園地として完全な亨用の施設をさすにある。しかるに他方は大統領の
指定により,歴史的, 古学的,科学的に又その他の興味ある物件の破壊
毀損を免れしめるためにその留保が絶対必要なる地点をこれに編入するの
である。
」と正しく指摘する
。
以上のように,私は,青木のアメリカ国立公園論は,全体としてはアメ
リカの国立公園における自然風景の保護を重視する実態を正しく認識した
ものと高く評価しておきたい。
中村秋季『北米国立公園遊記』は,青木の著書より2年遅れて昭和7
(1932)年に出版された。中村は,毎日新聞の新聞記者であり,アメリカ
滞在中の国立公園視察を中心にし,研究をまとめたものである。明らかに
本書も,日本の国立公園設立を支援する立場で書かれている。
アメリカの国立公園についての認識は,青木の見解と大差はないが,中
村の主張は,新聞の立場から日本の国立公園の設立を支援する意識が強
く,また田村らの国立公園論をサポートする姿勢がより強く打ち出されて
いるという印象を与えている。
それは,国立公園の定義の中にも現れている。例えば,中村は, 国立
公園とは,稀有なる天然美を有するか,特別なる現象或は異常な性質を保
持しているが故に,常に国民の使用と享楽とを目的として,連邦議会が保
320
留している地域である。
」 と規定している。
ここでは,国立公園の「目的」が,自然美の「国民の使用と享楽」とに
重点がかかってしまっている。もちろん中村は,アメリカの国立公園が,
自然の保護を目的とし,あるいはそれを重視していることを理解していな
いわけではないが,日本の国立公園運動を支援する立場から,あるいは田
村らの国立公園論をサポートするために,終章に「日本の国立公園」をお
き,アメリカの国立公園における観光開発を強調する主張に傾いていると
指摘できる。
本書の特色として「風景を紹介したばかりでなく,公園の季節,交通,
米国国立公園の規則,ホテルの状態等の経済問題をも,取り入れた点であ
る。
」 と指摘している,問題はその内容である。
中村は, 園内の設備」と題して「公園内の施設は至れりつくせりで,
清潔な公衆キャンプ場の設備,風光明媚な地点へ道路をつくり,博物館,
病院,郵便局,電信,電話,電燈等に至る 完備し,公園をして市民の自
然博物館,研究所,休養保健の目的を達せしめんと努力する。ホテル,交
通機関,総てその地に快適のスポーツ,其他さまざまの必要なる設備がし
てあって,民衆は悠々と享楽が出来る。公園監督官が,園内のホテルや交
通機関を取締るので不正な行為は更にない。公園への鉄道,自動車路など
も完備しているから不便はない。」 と指摘する。青木は,国立公園の自
然保護の役割とは別に,国立公園内の施設をやや誇大視している。
また「経済的価値」と題して「米国の国立公園や天然史跡保存の国家記
念物は,経済上の価値も多大であって,見逃すことことの出来ぬ事実であ
る。鉄道業者は盛に国内の自然美を紹介し,観光客を誘致せんと試みて,
着々成功しつつある。東部諸州の人が西部の景観に接するばかりでなく,
米国の国立公園は世界的に注目されているから,外来の観光客も漸次増加
するものと予想される。
」
もとより,こうした主張そのものは,やや誇大な表現を差し引けば,国
立公園論にとって,決して誤った理解ではない。しかしここのところだけ
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
321
を,自然風景の積極的な保護を切り離して強調したり,理解したりすれ
ば,アメリカ国立公園の本質的な理解を誤らせる一因となる。
問題は,こうした国立公園の利用施設の建設が,自然保護とどう係わる
か,どう調整されるかである。そうした問題の指摘なしに,開発を強調す
ると,やはり本質を曖昧にすることになる危険をともなう。まさに昭和期
の国立公園設立論は,開発優先派の意見や期待を内包しつつ展開されて,
開発優位の思想を抑制する論理を著しく欠くことになったのである。中村
の理解は,田村らの国立公園論にひっぱられて,青木以上にアメリカの国
立公園のもつ自然保護重視から離れていてしまっている。
ここでの課題ではないが,あえて指摘しておけば,戦後3年目に出版さ
れた東良三『アメリカ国立公園 』は,日本の敗戦という政治的文化的状
況,アメリカの再評価という視角を踏まえて,戦前とややことなったアメ
リカ国立公園論となっているのが特徴的である。
東は,アメリカの国立公園を詳細に検討して,国立公園の本質的な意義
を彼なりに規定した。それは,イギリスの詩人の言葉を引用して, 原始
的な山紫水明の地を出来る限り自然のままに,現在以上毀損することの無
いように愛護して,人類永遠の憩いの場として保存するために,国家が一
定の制度をしいて其の啓発に努めるというのが国立公園の観念なので
す。
」 と指摘した。
ここでは,はっきりと国立公園による大自然,大風景の保護が重視され
ている。この彼の
自然な
え方は,アメリカの国立公園の研究から引き出された
え方であって,国立公園推進派が,国立公園の利用と開発を意識
しながら,大自然,大風景の保護を重視したアメリカ国立公園の本質を軽
視し,利用と開発の側面を強調した姿勢とかなり異なるニュアンスがある
ことがわかる。
以上のようなアメリカ国立公園論の 察で,われわれは,日本の国立公
園の制定論議に際して,国立公園制定をすすめた国立公園協会の勢力が,
アメリカの国立公園制度のもつ基本的な理念,自然,風景の積極的な保護
322
という目的を,かなり希釈して理解し,国立公園のレジャー的観光的利
用,そのための開発の側面を過大に評価してきたと結論づけなければなら
ない。また日本の国立公園法の理念や目的の規定に際しても,アメリカの
国立公園法の精神を十分に評価して取り入れたとは評価できない。
もとよりアメリカの物真似をすればよいと主張しているわけではない。
日本には,日本なりの事情があり,また日本的な国立公園法を制定すれば
よい。しかし日本の国立公園法をみるかぎり,日本における自然保護思想
やそのための運動があまりにも未成熟であり,また日本社会の未成熟も相
まって,未熟な国立公園法,国立公園制度の導入となったことも事実であ
った。
この未熟さは,戦後の新しい社会状況の出現の中で,克服すべき課題で
あったが,しかし残念ながら十分な成果をえることなく,国立公園は,高
度成長期をへてバブル期にいたり,過剰開発,自然破壊におそわれる運命
に遭遇せざるをえなかった。
国立公園のこうした運命については,今後の研究課題として残されてい
るが,その際にも戦後の日本の国立公園論においてアメリカの国立公園が
どのように参 にされたかを解明することが必要であろう。
注
(1) 拙著『国立公園成立史の研究』,法政大学出版局,2005年。
(2) 田村剛『造園概論』
,成美堂,大正7年,78頁。
(3) 前掲拙著,第3章を参照。
(4) 上原敬二『自然公園』
,加島書店,1978年,18頁。
(5) 同上,23頁。
(6) 上原敬二『造園学汎園』
,大正13年,林泉社,364頁。
(7) 田村剛『国立公園』
,厚生省衛生局,昭和2年,11頁,13頁。
(8) 同上,29頁。
(9) 同上,32頁。
(10) Cameron, op,cit., p. 8.
(11) Freeman Tilden,The National Parks,Alfred.A.Knopf,1968,p.23.あ
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
323
るいは,前掲上岡著,76-7頁。
(12) 青木芳雄『アメリカの国立公園』,国立公園協会,昭和5年,5頁。
(13) 同上,46頁。
(14) 同上,6-8頁。
(15) 同上,13-9頁。
(16) 同上,40頁。
(17) 同上,40-1頁。
(18) 同上,48頁。
(19) 中村秋季『北米国立公園遊記』,新生堂,昭和7年,19頁。
(20) 同上,3-4頁。
(21) 同上,23頁。
(22) 同上,25頁。
(23) 東良三『アメリカ国立公園
』,淡路書房,1948年,18-9頁。
324
Conflict of Interest between Tourism and Nature
Conservation in National Parks in the United States (1)
Nisaburo MURAKUSHI
《Abstract》
The process describing how an individual national park was established in the United States between 1872 and 1915 has been previously
discussed.
This paper aims to clarify the following:
1) How the National Parks Act of 1916 came into force;
2) The contents of the Act;
3) The contents of the letter sent by Lane to Mather in 1918;
4) How the Japanese understood the concept of National Parks in the
United States.
The first task is to identify how the National Parks Act, whose
objectives were to improve the conditions of National Parks, was
established and provided for a central bureau to take charge of all the
National Parks.The rail and tourism industries actively supported the
movement for the National Parks Act,since they regarded parks as a
profitable resource for the tourism industry.
The second task is to clarify what the National Parks Act of 1916
contained. The National Parks Act specified that a central bureau for
the management of National Parks be established for the first time in
the United States, where numerous professionals would be employed
with fixed salaries. The National Parks Act legislated two purposes:
first, to preserve nature and second, to develop facilities for tourism
within National Parks. However, this Act did not specify which purpose was more important.
The third task is to examine the contents of the letter sent by Lane
成立期におけるアメリカ国立公園の理念と政策(1)
325
to Mather in 1918. This letter supplemented the principles of the
National Parks Act;however, it did not resolve the ambiguity in the
management of the National Parks.
The final task is to clarify how the Japanese comprehended the
National Parks Act,which placed more emphasis on the idea of conservation than that of development.
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