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親和銀行本店と福岡相互銀行本店における設計手法の類似性

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親和銀行本店と福岡相互銀行本店における設計手法の類似性
親和銀行本店と福岡相互銀行本店における設計手法の類似性
―マニエリスムから見た日本におけるポスト・モダン建築の始まり―
大川 厚志
1.序
マニエリスム」とし ※ 3、 幾つかの様式を組み合わせた
1.1 研究の背景
ものを「マニエリスム」とする。又、そのような手法
を「マニエラ」、建築家を「マニエリスト」とする。
1970 年代前後に、時を同じくして九州に建てられ
た親和銀行 ( 以下、親和と称す ) 本店 ( 写真 1) と福岡相
2. 設計者と両銀行概要
互銀行 ( 以下、福相と称す ) 本店 ( 写真 2)。当時は、日
2.1 白井と親和・北村徳太郎会長との関係
本全国の銀行が電気計算機の導入をはじめた時期であ
白井は義兄を通し北村と出会っ
り、両銀行においても、電算機のための設備や、それ
た。二人は意気投合し、親和の建
を設置するための床面積等、合理的で機能主義的な執
物を次々とてがけるようになる(写
務空間が求められた。その一方で、銀行本店としての
真 3) ※ 4。本店第Ⅱ期が 1969 年に
モニュメンタルなデザインも同時に求められたことか
完成する間近に北村は急死するが、
ら、装飾性、折衷性など、戦後モダニズム建築の流れ
「坂田重保頭取の二十年来の知遇
とは大きく異なる意匠も見られる。これは、潤沢な資
とそのかわらぬ寛容な支持」※ 5 に
金を有した銀行経営者が、建築家のパトロン的な役割
よって第三期工事が行われ、1975 年、懐霄館(親和
を果たしたことで実現した特殊な事例である。
銀行電算事務センター)の完成をもって親和本店の工
写真 3. 懐霄館
事は終了した。
2.2 磯崎と福相・四島司社長との関係
磯崎と四島は、1965 年頃、福相の主要クライアン
トであった大分市の学校法人「岩田学園」の理事長の
紹介を受けて出会い、
「将来、優れたアーティストに
写真 1. 親和銀行本店
なると違いない」と直感した四島は、その場で大分支
写真 2. 福岡相互銀行本店
店(1967 年)の設計を任せた※ 6。それを機に磯崎は支
1.2 研究の目的
本研究では、福相本店における磯崎新の設計手法が、
店を次々と手がけ、1972 年には博多駅前に本店を設
親和本店の白井晟一によるマニエリスム的な手法 ( マ
計し、1983 年には増築も手がけた。近・現代美術の
ニエラ ) に影響を受けた可能性を指摘する。したがっ
コレクターとして名高い四島であるが、
『四島コレク
て、研究対象は親和本店の第Ⅱ期 (1969 年 ) までと福相
ション』は、本店設計に際して部屋に飾るアート作品
本店の増築前 (1972 年 ) の部分である。マニエリスムと
を選んだことにはじまる※ 7。
いう観点から、両建築の図面※ 1、文献、現地を調査し、
3 . マニエリスムとポスト・モダン
担当所員や元頭取等の銀行関係者にヒアリングをおこ
3.1 福相本店以前の作品における設計手法
磯崎の処女作から福相本店までの作品をくらべると、
なって比較・分析する。そして両建築を初期のポスト・
モダン建築と位置づけることによって、日本における
それぞれの作品で意識的に設計手法を切り替えている
ポスト・モダンの源流を探ることを目的とする。
ことがわかる。磯崎は『〈手法〉について』※ 8 で、自身
1.3 言葉の定義 の設計手法を、布石、切断、射影、梱包、転写、応答、
増幅の七つに分類しているが、それらはコストの制約
磯崎は十六世紀のマニエリスムについて「引用が主
※9
要な方法となり修辞的な手法が重視される点において、 を強く受けた状況 の中でとられた幾何学的な操作
六十年以降の現代建築の状況と酷似している」※ 2 と指
である。近代建築以外の歴史的参照は見られず、
〈広
摘しているが、これはマニエリスムの定義としては漠
義の〉マニエリスムといえる。
然としているため、本研究ではそれを二つに分類する。 3.2 福相本店とそれ以降の設計手法
一つの様式からの限定的な引用については、
「〈広義の〉
23-1
福相本店は、前にあげた 7 つの手法で分類すること
が難しい、特異なデザインが見られる。磯崎にとっ
て福相本店の設計は、コストの面で自由度が高く
※ 10
4. マニエラの比較・分析
、
4.1 装飾としての建築記号
親和本店では、幅 400mm の登れない階段 ( 図 2) や、
彼の思想を存分に試すことができる絶好の機会であっ
た。それ以降、歴史的参照が磯崎の設計手法に現れる
第二営業室の客を見下ろす位置にある使えないギャラ
ようになっていくという意味
リー ( 図 3)、エレベーターホールにかかる巨大な梁の
で、福相本店はマニエリスム
ような、行き先のないブリッジ ( 図 4) など、場所やス
的観点から、過渡期にあたる
ケールを変えることによって機能を喪失した、
「装飾
建築といえる。図 1 は、パッ
としての建築記号」が見られる。
ラディオのヴィラ・ポイアナ
を引用した富士見カントリー
クラブ (1974 年 )
※ 11
図 1. 富士見カントリークラブ
。
3.3 『凍結した…マニエリスト的発想の意味』(1968)
磯崎は現代のマニエリストとして、ロバート・ヴェ
ンチューリや、チャールズ・ムーアなど、のちにポ
左図 2. 幅 400mm 登れない階段 中図 3. 客を見下ろすギャラリー
福相本店の場合は、エントランスホールにあるブ
スト・モダンの旗手になる建築家の名をあげている
※ 12
右図 4. 行き先のないブリッジ
、彼がはじめてマニエリスムへの関心を表出し
リッジでその手法が見られる ( 図 5)。磯崎のそれ以前
※ 13
た文章は、
『凍結した…マニエリスト的発想の意味』
の建築でもブリッジは見られるが、大分県立図書館
である。主に親和本店での白井の設計手法についての
は構造、設備ダクトとして機能する中空梁であり※ 16、
べられたこの論評は、
『空間へ』のなかで唯一、他の作
大分支店の場合も、主梁と水平ダクトと合体したス
家の仕事について書かれた文章ということからも、白
ケルトンから通路をぶらさげいて※ 17、どちらも人間、
井の手法 ( マニエラ ) に対して興味持っていたことがわ
力、空気の流れを全てを集約させる考えであった。そ
かる。白井、ヴェンチューリ、ムーアは、時代が異な
れが福相本店の場合は、機能の集約が見られず、吹抜
るいくつかの様式の組み合わせをおこなっているため、
け空間の無重力感をひきおこす装飾になっている。実
本論で定義したマニエリスム的な設計手法といえる。
際、ブリッジの先には会議スペースがあるが機能的に
3.4 『ポスト • モダニズムの建築言語』(1978)
は無意味である ※ 18。他にも打合せ図面 (1970 年 3 月
が
ポスト・モダンの定義としてチャールズ・ジェン
17 日 ) ※ 19 の段階では設計されていなかったが、着工
クスは「過去へとさかのぼりながら言語のかつてのス
(1970 年 4 月 ) 直前※ 20 になって即興的につけられた「装
タイルや方式を利用することを意味している。( 中略 )
飾としての建築記号」が福相
また、今日生みだされているもの―つまりモダニズム
本店には散見される。営業室
のもの―との関わりをも伴っているのだ。そのためポ
に取り付けられたバルコニー
スト・モダニズムを定義づけるとすれば、一口でそれ
( 図 6) は、担当所員は「磯崎さ
※ 14
は折衷的なものということになる。」
と述べている。
んがスケッチをしてつけさせ
これは、本論で定義したマニエリスムと同様の性質と
たんです。( 中略 ) 象徴性のあ
言える。
るものとしてつけさせた。」※ 21
3.5 小結 とのべている。これも、行員
福相本店は、磯崎のそれまでの作品とは違う設計手
用だが営業室の客を見下ろす
法がとられているが、それは当時興味をもっていた白
位置にあるので、機能的には
井の親和本店の影響が考えられる。また、磯崎がマニ
使 え な い。7 階 国 際 会 議 室 に
エリスムとのべた白井の設計手法は、のちに流行する
つけてある出窓も、直前につ
ポスト・モダンの概念と酷似している。白井本人はそ
けられた ( 図 7)。
「意味がない。
のような意図を述べてはいないが、ジェンクスがガウ
柱型をつけてあるだけで、柱
※ 15
、親
でもない。」※ 22 と担当所員はの
和本店のマニエラという尺度から福相本店の設計手法
べていて、これも機能的なも
を見ていくことで、日本のポスト・モダン建築の黎明
のというよりも、装飾的な意
期を知ることができると考えられる。
味合いが強い。
ディをポスト・モダンの試金石としたように
23-2
機能上意味が無い
会議スペース
図 5. ブリッジ平面図 (3 階 )
設計変更を示唆
するエスキス
図 6. バルコニーが無い平面図
設計変更を示唆
するエスキス
図 7. 出窓が無い平面図
ている ( 写真 4)。また、階段室では、トラバーチンの
4.2 部分ごとの素材の選択と仕上げ
親和本店は、単一の材
水平の目を縦にし、縦長の縦通し目地にしている。こ
①
料、仕上げによって全体
れらは、従来の組積造で
②
をつくることをせず、部
は力学的に不可能であ
分ごとにデザインをかえ
り、決して使われなかっ
③
る。第Ⅰ期にあたるファ
サード右側 ( 図 8) では、
た表現である※ 26。また、
第一営業室では構造の
図 8. 第Ⅰ期立面図
①シリンダーの部分
柱 を 壁 で 隠 し、 壁 の 上
にウルグアイ産の黒
からに細い付け柱をつ
④
御影石(本磨き目地
け て い る ( 図 10)。 こ の
無し接着 )、②キャン
た部分にイラン産白
を構造としてではなく、
装飾として使う手法が
図 9. 第Ⅱ期立面図
トラバーチン ( 本磨き )、③幅 400mm の登れない階段
多々見られる。
がついた袖壁には白御影石 ( ノミ取り ) が使われている。
る ( 写真 5)。担当所員は
広がりした形の基壇部分は御影石風の擬石 ( ノミ取り )、
「大分県立図書館を高層
⑤その上にはブロンズ厚板貼り ( 緑青仕上げ ) を使って
化したものってありえ
いる。明確な意図は不明だが、部分ごとに材料を選択
るんじゃないですかね、
し、表面を変質させることによって、いろいろな場所
という話になって」※ 27 と
が意味を持つようになる。事実、長谷川尭や磯崎など、
のべているように、柱
※ 23
図 10. 組積造とキャンチレバーの表現
福相本店はSRC造であ
さらに第Ⅱ期にあたるファサード左側 ( 図 9) の、④末
多くの人が様々なメタファを読み取っている
構造体とはずれた
位置にある付け柱
よ う に、 構 造 的 な 要 素
⑤
チレバーで跳ね出し
写真 4. 組積造とキャンチレバーの表現
は中空、梁も一部が中
。
一方磯崎は、それまでの作品では、外構や床におい
空になって、そこにダ
て素材感を変えることはあったものの※ 24、建築自体
クトを通す、大分県立
は、全体を統一された素材と仕上げによってつくりあ
図書館と同様の構造
げていた。しかし福相本店においては、親和銀行本店
が み ら れ る ( 図 7)。 し
に見られるような、
「部分ごとの素材の選択と仕上げ」
かし、それまでの作品と決定
が見られる。磯崎の場合は、意図が文献で見て取れる
的に違うのは、外観が組積造
※ 25
。①高層部分の壁には、インド産の赤砂岩 ( 割
になっているように、駆体と
はだ表面 )、②正面の 6m × 80m で、厚さが 0.6m、二
表面が分離し、実際の構造と
枚合わさっている巨大な
見た目の構造が異なっている
( 表 1)
表 1. 建設風景
梁や、エントランス・ホー
場所/写真
ル の コ の 字 型 の 庇、 カ
ウンター、ベンチなどに、
①高層部分の外壁
スウェーデン産の赤御影
石(本磨き)。③シリンダー
はバーナーで焼いた赤御
②大梁、庇など
影石、④エントランスに
は白大理石を、通常の柾
目ではなく板目にして用
いることで、紋様を強調
している。
③シリンダー
意図
熱負荷低減。陰影が
つく仕上げによっ
て、博多駅前に立つ
銀行本店としての象
徴性を生み出す。
表面から物質感を
失わせることに
よ っ て、石 が も つ
重量感を無くす。
円形の加工を容易
に す る と と も に、
ざらざらとした表
面 に よ っ て、重 量
感を出す。
白で正面エントラ
ンスの明示。天井、
床、壁 を 同 一 材 で
く る み、量 塊 と し
④正面エントランス ての存在を強調。
4.3 偽りの構造
写真 5. 建設風景
所である。正面の梁とシリン
中空の柱
シリンダー
図 11. 平面図
写真 6. 梁とシリンダー
ダー ( 写真 6) についても、同様のことが言える。梁は
研磨された御影石が組積造のように張られているが、
これも従来の組積造では力学的に不可能な表現である。
シリンダーは四本の柱をまとめて大きな一本の柱に見
せることで、上に乗る梁を重く見せている。
4.4 好みによる選択
親和本店には膨大な家具や骨董がおかれているが、
その様式も年代も異なるそれらのひとつひとつに、設
計者・白井の好みが反映されている。磯崎が指摘す
るように、
「家具や調度をとりのぞいてしまうと、そ
の意味は突然変化する」※ 28。また、建築自体も、バ
第Ⅰ期では楕円のシリンダーから、組積造的に見せ
ロック建築を想起させる楕円形 ( 図 12) や、ロマネス
たボリュームがとびだした、キャンチレバーを表現し
ク建築を想起させる半円アーチ ( 図 13) が多用された
23-3
り、 数寄屋風の和
的な設計手法として、四つの類似点が挙げられる。
室が設えられてい
・装飾としての建築記号 : 場所やスケールを変えるこ
たりと、建築自体
とによって意味を変化させ、本来の機能を喪失した建
も様々な時代や様
築記号を、空間の演出として装飾的に取り付ける。
式が入り交じって
・部分ごとの素材の選択と仕上げ : 統一した素材の選
いる。磯崎は、白
択や仕上げにせず、場所ごとに意味を与える。
左図 12. 第一営業室の天井伏図
右図 13. 第Ⅰ期の車寄せにある半円形アーチ
井の「好みによる選択」によって独自の世界を構築し
たことを賞賛している
※ 29
・偽りの構造 : 非合理的な構造形式に見せたり、本来
の構造を隠したり、必要がない部分に構造的な要素を
。 付加することで、不安定な感覚や浮遊感を与える。
磯崎の場合は、福相本店
・好みによる選択 : 様々な時代や様式の要素を、好み
で、はじめてアーティスト
に仕事の一部を託した
※ 30
によって選択することによって、全体として折衷性を
。
6 階 ( 役員階 ) にある 5 つの
もった意匠になる。
応接室はアートルームと呼
5. 結論
ばれ ( 写真 7)、駆体の段階
マニエリスム的な設計手法に類似性が見られる親和
写真 7.E 応接室 ( 高松次郎 )
で、磯崎と四島が選んだそ
本店と福相本店。その観点からみれば、両建築は初期
※ 31
のポスト・モダン建築とみなすことができる。銀行本
れぞれのアーティスト
の手に引き渡され、床、壁、
店設計という特殊な条件のもと、磯崎が白井の設計手
天井の仕上げから、家具、
法に影響を受けたことは、日本におけるポスト・モダ
什器にいたるまで、すべて
ンのはじまりを考える上で、重要な出来事といえる。
その作家の選択にまかせら
写真 8. 役員室受付ロビー
れた※ 32。また役員室受付ロビー ( 写真 8) には、サム・
フランシスの 5.0 × 2.1m のタブローが掛けられてい
るが、部屋の暗い色彩や照明の計画、それに作品が架
けられる位置や大きさも当初から決めた上で、製作
されたものである。こうした磯崎と四島の「好みの選
択」によって始まった「四島コレクション」の収集によ
り、他の部屋もシュルレアリスムやポップアートなど、
様々な種類の近・現代美術に埋め尽くされていった。
建築自体についても 選択している様式は場所によっ
てばらばらである。 コーニスと列柱をモチーフとして
いる梁とシリンダー ( 写真 6) が、現代社会での都市か
らの視点によってスケールを変更している※ 33。他に
も、大理石の入り口 ( 表 1) や、営業室のバルコニー ( 図
6)、7 階出窓 ( 図 7) も古典建築を想起させる。一方で、
7 階国際会議室 ( 写真 9) はサイケデリックなデザイン
であるし、三階コンピュータ室や本部事務室は、トッ
プサイドライトや斜め
に傾いた壁いっぱいの
ガラスによって明るさ
が確保された、現代的
なオフィス空間にふさ
わしいデザインになっ
左写真 9.7 階国際会議室
ている。
4.5 小結
以上のような分析から、両銀行本店のマニエリスム
※ 1 計画図、および増築図面に見る既存部分を分析した。 参考文献[11]、参考文献[19]、参考文献[20]
※ 2 参考文献[8] p.220
※ 3 コルビュジエの二〇年代の「白の時代」の作品を限定的に引用するニューヨーク派について、マニエ
リスムと呼んでいることから、本研究では〈広義の〉マニエリスムとする。
※ 4 参考文献[1]
※ 5 参考文献[2] 『懐霄館あとがき』
※ 6 参考インタビュー[3]
※ 7 四島は、
「磯崎といっしょに海外をまわって、作者に会いながらすこしづつ集めていった。」とのべて
おり、アート収集のはじまりに磯崎が関与していることがうかがえる。 参考インタビュー[3]
※ 8 参考文献[4]
※ 9「磯崎さんの初期の大分の仕事は、予算があまりなかった。それで、打ちっ放しが多いし、岩田学
園では、ラワンサッシュを使っている。」 参考インタビュー[10]
※ 10「( それまでの作品は ) 坪 15 万ぐらいだった。銀行本店は、当時坪25〜30万でできている。今
でこそ坪 100 万を越えるけれどね。磯崎さんにとって、銀行本店設計はビッグチャンスだった。
外装全部に石を貼るのは、アトリエ建築家では、ありえない話だった。」 参考インタビュー[10]
※ 11 おそらく富士見カントリークラブは幾何学的な操作という、私が「手法」と呼んだ単独生を獲得す
る方法に加えて、歴史的参照という間テクスト性の枠組みの中での引用の操作との両方向のヴェ
クトルが分岐せず、両義的なまんま介在する最初の仕事となった。」 参考文献[6]
※ 12 参考文献[8] p.220
※ 13 参考文献[7] p.396 『凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全
存在を賭ることによって組立てられた《晟一好み》の成立と現代建築のなかでのマニエリスト的発
想の意味』
※ 14 参考文献[9] p.7
※ 15「僕は依然として根強くガウディをポスト・モダニズムの試金石と見なしている。」 参考文献[9]
p.8 ※ 16,17 参考文献[6]
※ 18「銀行側からしたら全くいらないし、不便で誰も行かない。しかし、エントランスホールの吹抜け
の空間を人が通る時に、単にヴォイドじゃなく、人が空間を感じる、見る仕掛けがほしかった。」
参考インタビュー[10]
※ 19 参考文献[11]
※ 20 着工は 1970 年4月。
※ 21,22 参考インタビュー[10]
※ 23 長谷川尭がそのⅠ期、Ⅱ期の姿から翁と媼を連想し ( 参考文献[15])、磯崎新が懐霄館から女性器
を連想した ( 参考文献[16]、
『フラッシュバックする白井晟一』)。
※ 24 大分県立図書館で外構や床の素材を変える手法が見られる。 参考文献[12]
※ 25 参考文献[5]、参考文献[6]、参考文献[13] ※ 26 白井は「コンクリートの頑丈な駆体にできるだけマッシイヴな石をしばりつけ、つんでゆく建物」
を「日本的石造建築」と呼んだ ( 参考文献[14] 『石と日本建築』)。そのような手法は、駆体と表面
の表現が分離した、近代建築の概念では禁忌ともいえるものだが、親和本店では、むしろそれを
表現として積極的に使っている。
※ 27 参考インタビュー[10]
※ 28,29 参考文献[7] 『凍結した…マニエリスト的発想の意味』
※ 30 参考文献[6] ケネス・フランプトン、
『ポスト・メタボリズムと建築の解体』
※ 31 磯崎が斎藤義重 (A 応接室 )、高松次郎 (E 応接室 ) を、四島氏が「地元の作家も入れるべき」と野見山
暁治 (B 応接室 )、西島伊佐夫 (C 応接室 ) を選び、それに磯崎新が一室 (D 応接室 ) を受け持ち、それ
ぞれの作家の個性にまかせた空間演出がなされた。 参考インタビュー[18]
※ 32 参考文献[13]
※ 33「本来建築は、歩いてディテールをみるものだが、現代では、車から見る。車のスピード感覚から
建築を見るのだから、それで、シリンダーを太くしていた。」 参考インタビュー[10]
【参考文献・インタビュー】
[1]白井晟一企画編集室、
『白井晟一研究Ⅴ』、南洋堂出版、1984
[2]
『白井晟一全集 白井晟一の眼 1』、同朋舎、1988
[3]四島司インタビュー (2011/12/15 実施 )
[4]
『新建築』7204、新建築社、1972 年 4 月
[5]磯崎新、
『建築の修辞』、美術出版社、1979
[6]
『GA アーキテクト (06) 磯崎新 1959-1978―世界の建築家』、A.D.A.Edita Tokyo、1991
[7]磯崎新、
『空間へ』、美術出版社、1971
[8]磯崎新、
『建築の解体』、美術出版社、1975
[9]チャールズ・ジェンクス/竹山実 訳、
『a+u 臨時増刊 ポスト • モダニズムの建築言語』、エーアン
ドユー、1978 年 10 月
[10]磯崎新アトリエ元所員 ( 在籍 1966―75) インタビュー (2012/1/20 実施 )
[11]磯崎新アトリエ元所員 ( 在籍 1966―75) 所蔵福岡相互銀行打合せ図面 (1970 年 3 月 17 日 )
[12]
『SD』6510、鹿島出版会、1965 年 10 月
[13]磯崎新、
『手法が』、美術出版社、1979
[14]
『白井晟一全集 白井晟一の眼 2』、同朋舎、1988
[15]長谷川尭、
「呼びたてる〈父〉の城砦」、建築、1972 年
[16]
『白井晟一 精神と建築』、青幻社、2010
[17]吉塚哲、
『四島司聞書 殻を破れ』、西日本新聞社、2008 年 2 月
[18]行員インタビュー 西日本シティ銀行本店ガイドツアー (2011/8/19 実施 ) にて
[19]磯崎アトリエ所蔵福岡相互銀行増改築工事図
[20]白井晟一全集 SIRAI SEIITI COMPLETE WORKS2』、同朋舎、1988
23-4
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