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Page 1 Page 2 をめぐってのトラブルは、男と女の関係を考えるに際して
﹃万葉集﹄の﹁ますらを﹂ と
序
い ざ な き みこと
﹁たわやめ﹂
内 藤
明
しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、﹁しからば、吾と汝とこの天の御柱を行き廻り逢ひて、みとのまぐ
はひせむ﹂。かく契りて、すなはち﹁汝は右より廻り逢へ。我は左より廻り逢はむ﹂と詔らし、約り寛へて廻
ちぎ を
る時に、伊耶那美の命先ず、﹁あなにやし、えをとこを﹂と言ひ、後に叢説那岐の命﹁あなにやし、えをとめ
いざなみ みこと
いも の
を﹂と言ひ、おのもおのも言ひ寛へし後に、その妹に告げて、﹁女人の先ず言へるは良くあらず﹂と日らす。
しかれども、くみどに興して生みたまへる子は水蛭子。その子は葦船に入れて流し去てき。 ﹃古事記﹄
ひ る う
いざなき いざなみ
﹃古事記﹄は、天上より天降った伊耶那岐、伊耶那美の兄妹の神が、お互いの身体の特徴を尋ね合い、二人の性
行為によって、列島の島々を生んでいくことを記すが、その際交わした愛の言葉の唱和と、その言葉を発する順序
早稲田人文自然科学研究 第50号 ’96(H.8).10
35
をめぐってのトラブルは、男と女の関係を考えるに際して多くの問題を提供する。まず、女神の発する、男神を賛
美する﹁あなにやしえをとこを﹂という言葉と、それと同等の対偶表現としての男神の﹁あなにやしえをとめを﹂
という言葉の唱和は、一体化を求める男女の等質平等の言葉として、結婚の始原とそれに関わる男女唱和の歌の起
よからず
源への神話的幻想をかきたてる。また、女性が先ず唱和の言葉を発したのを﹁不良﹂として︵﹃日本書紀﹄では
﹁吾是男子。理当先唱。如何婦人反先言乎。事既不祥﹂︶、その生まれた子を人の数に入れず追放する展開は、﹁夫唱
婦随・男尊女卑の儒教思想の影響とされ﹂て︵日本思想大系本﹃古事記﹄頭注︶、時代の中で現実と制度に規制される
男女の姿を彷彿とさせる。もちろん、このような形で神話が成立し文字化されていく過程は単純でなく、﹃日本書
紀﹄における辞書におよぶ異伝なども含め、広く社会・文化的背景の中で考察していかねばならないが、﹁男子﹂
と﹁婦人﹂︵﹃書紀﹄︶をめぐる関係性、その男女像に対する幻想と現実は、ひとり古代に限らず、その後の社会や文
化のありようにも深く関わっていくものであろう。
ところで、このような男・女の関係、男像・受像に対する観念や幻想を象徴するものとして、﹁ますらを﹂と
ますらを たわやめ
﹁たわやめ﹂の語がある。﹃万葉﹄においては、約六十例の﹁ますらを﹂と、十例の﹁たわやめ﹂がある。そして
﹁大夫もかく恋ひけるを毒婦の恋ふる心にたぐひあらめやも﹂︵坂上大嬢巻4・五八二︶のような、一首中における両
ますらを
者の対照も見られる。周知のように、賀茂真淵は﹁古の事を知る上に、今その調の状をも見るに、大和国は丈夫国
にして、古は女もますらをに習へり。故に万葉集の歌はすべて丈夫の手振なり。山背国は手弱女国にして、丈夫も
たをやめを習ひぬ。かれ古今集の歌は専たをやめの姿なり﹂︵﹃にひまなび﹄︶と、﹁ますらを﹂と﹁たわ︵を︶やめ﹂を、
︵1︶
風土を背景とした万葉と古今の歌風の相違に典型化した。そして和歌の調べ、文体、内容などに関わる﹁ますらを
36
「万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
ぶり﹂﹁たわやめぶり﹂といった把握は、多くの幻想を引き込みながら、以後、古典和歌の読み方に大きな影響を
与え、現在にも及んでいる。
では実際に﹃万葉集﹄において、語としての﹁ますらを﹂﹁たわやめ﹂はどのような場で、どのような使われ方
をされているのだろうか。そして、そこに男と女をめぐるどのような位相が浮かびあがってくるのだろうか。様々
な要素を含み持つ歌風としての﹁ますらを﹂や﹁たわやめ﹂はここではひとまず措くとして、本稿では万葉におけ
る﹁ますらを﹂﹁たわやめ﹂の諸例を鳥窪しながら、古代の歌における﹁ますらを﹂・﹁たわやめ﹂、男.女に対する
幻想のありようをさぐっていきたい。
一 ﹁ますらを﹂の基底
︵2︶
﹁ますらを﹂という語は、﹃万葉集﹄に約六十例が見られる。その内十八例が家持の歌にあり、この作者の﹁ます
らを﹂指向をうかがわせるが、ほかにも軍王、柿本人麻呂、舎人皇子、舎人娘子、元明天皇、笠金村、田辺福麻呂、
聖武天皇、山上憶良、大伴旅人、大伴池主、大伴坂上郎女、大伴坂上大嬢などの歌に見られる。律令や宮廷の整備
が進み中央集権化がはかられる中で、万葉の広い時代にわたって使われていた語といえよう。
ところで﹁ますらを﹂の原義はどのようなところにあるだろうか。﹁ますらを﹂は、﹁ますら﹂という語に、男子
の意の﹁を﹂がついたものと考えられる。﹁ますら﹂は、﹁益スに接尾語のうがついたものか﹂︵﹃時代別国語大辞典﹄
上代編︶といわれ、﹁ます﹂は、優越する、すぐれる、の意であるから、賛辞として﹁ますら﹂の語の存在が想定さ
37
かむむすびのみこと き さ か ひめのみこと さ
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れる。では、その﹁ますら﹂は、どのような内容についての優秀さ、優越さをいったものだったのだろうか。
﹃出雲風土記﹄鳴根郡加賀の神崎の条に、﹁ますら神﹂という語が出て来る。神魂 命の御子枳佐加比黒帯が佐
だ ゆみや う ますら
田の大神を産もうとしているとき、弓箭が亡せた。そこで枳佐加比帰命は﹁吾御子、黒戸羅神の御子にまさば、亡
せし弓箭出で来﹂とうけいをする。その時、最初に水に流れ出てきたのは﹁角の弓箭﹂であった。そこで枳佐加比
ゆみや ヘ ヘ へ
売命はそれは自分の物ではないとしてなげうった。そして次に流れ出て来た﹁金の弓箭﹂を自分のものとして取り、
ものざね
その弓箭で窟を射通した、という説話である。この説話は、窟を射通すほどの霊力をもった武の象徴としての弓箭
を華実とし、またその弓箭を丹塗矢説話のように男神の象徴としながら、神の子を産む話といえる。そして﹁金の
弓箭﹂に相応する、霊力をもった雄々しい武勇の男の神こそが、御子の父である﹁ますら神﹂なのだ、ということ
がいわれている。
このように、﹁ますら神﹂は、呪と武を背景とした健平な神であり、﹁ますら﹂は、男︵男神︶のあるべき一つの
姿、その力への賛美の語といってよいだろう。おそらく、そのような観念から発して、﹁ますら神﹂ならぬ﹁ます
︵元明天皇 巻1・七六︶
万代に
らを﹂は、力ある雄々しき男についての、賛美と期待を込めての呼称であったことが想定される。﹃万葉集﹄の
﹁ますらを﹂を見ていったときも、まずそこに浮かぶのは勇猛な武人としての男子の姿である。
大夫の靹の古すなりもののふの大臣楯立つらしも
ますらを とも おほまへっきみ
靱取り負ひて 天地と いや半長に
︵家持 巻3・四七八︶
ゆき
⋮⋮大夫の 心振り起こし 剣太刀 腰に取りはき 梓弓
かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門の⋮⋮
︵聖武天皇 巻6・九七四︶
ますらを ますらを とも
大夫の行くといふ道ぞおほろかに思ひてゆくな大夫の伴
ますらを
ba
C
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
aは、和銅元年の、元明天皇即位の大嘗祭の時の歌といわれる︵代匠記︶。上二句は弓をもった武官の肘当の靹の
音をいったもので、その威容は呪的なものと繋りながら、武人としての﹁ますらを﹂の存在を強く示している。b
は、安積皇子への挽歌。皇子の舎人が、警護の姿から、喪服へ変わったことをいったもので、﹁ますらを﹂には皇
子に忠誠を誓いながら警護にあたる厳めしい武人の姿が彷彿とされる。abともに、武装した男子の姿であるとい
いくさ
える。また。は、節度使に酒を賜った際の歌。この歌の前に置かれている高橋虫麻呂の﹁千万の軍なりとも言挙げ
せず取りて来ぬべき男とそ思ふ﹂︵九七二︶と同じく、節度使として派遣される高官を、戦に赴く武官として寿ぎ送
たけを
る歌である。そしてこのような﹁ますらを﹂は、﹁ますら猛男﹂という語と響き合う。大伴家持の﹁族を喩す歌﹂
ま かご や ま す
らたけを ゆき
では、﹁⋮⋮すめろきの 神の御代より はじ弓を 手握り持たし 真鹿児矢を 手挟み添へて 大久米の 麻須
良猛男を 先に立て 靱取り負はせ⋮⋮﹂︵四四六五︶と、天皇に近面する武門の﹁大久米﹂の猛々しい武装した姿
が、﹁ますら猛男﹂と賛美されている。
さて、これらは嘱目あるいは想像の武人の印象を、歌の背後に置いているが、武人の姿としての﹁ますらを﹂像
は、序詞の中などにも定型化されている。
ますらを まとかた
ますらを かりたか
d 大夫のさつ矢たばさみ立ち向かひ射る歪形は見るにさやけし ︵舎人娘子巻1.六ご
ますらを とも
e 大夫の弓末振り起こし狩高の野辺さへ清く照る月夜かも ︵巻7.一〇七〇︶
f ま幸くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる靹の浦回を ︵同.=八三︶
dでは、﹁ますらを﹂が弓を﹁射る﹂ことをいう前半が地名﹁的形﹂を導き、eでは、弓を振り立てて狩をする
ことをいう上二句が﹁狩高﹂を導き、fでは、﹁ますらを﹂が着ける﹁靹﹂が地名﹁靹﹂の浦を導く。靹を着装し、
39
矢を手に挟み持ち、弓を揺り動かす武人の姿が、﹁ますらを﹂の典型的なイメ;ジとして作られていたといえよう。
そして、このような猛々しい武人としての﹁ますらを﹂の姿は、同時に、大君や主君、また朝廷に仕える者とし
ての﹁ますらを﹂の立場を強調するものでもある。
・大君の確績ガあしひきの山隆らず天爵る鄙も治むる雰舞やなにか物思ふ⋮:
︵池主 巻17土二九七三︶
ますら を
h :・⋮ぬばたまの 髪は乱れて 国間へど 国をも告らず 家問へど 家をも告らず 益荒夫の 行きのまに
ま す ら を
まに ここに臥やせる ︵福麻呂巻9二八○○︶
i :⋮.大君の 命のまにま 麻須良男の 心を持ちて あり巡り 事し終はらば⋮⋮
︵家持 巻20・四三三一︶
9では、国守として越中に赴任した家持を、天皇の命により、山野をものともせず、鄙を統治しようとして出で
立った﹁ますらを﹂とたたえる。hは足柄の坂の行路死人をいったもので、男は、窪田空穂﹃万葉集評釈﹄がいう
ように、庶民中から召されて、兵士、役丁などとして、公の為に働いた男であろう。また一は、家持の﹁防人の別
れを悲しぶる心を痛みて作る歌﹂であり、天皇の命により西海に向かう東男を﹁ますらを﹂としている。いずれも、
公に仕え、公のために、進んで困難に立向かう男の姿をいっている。
また、とくに家持にあっては、武をもって天皇に仕える﹁ますらを﹂としての存在形態、11﹁ますらをの伴﹂が、
自らの氏族意識を刺激してそのアイデンティティーを鼓舞するものとなっている。﹁族を点す歌﹂における﹁⋮⋮
むなこと ますらを
虚
言
祖 の 名 断 つ な 大伴の 氏と名に負へる 麻雀良乎の伴﹂︵巻20・四四六五︶や、﹁陸奥国に金を出す詔書を
も
40
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
賀く歌﹂における﹁⋮⋮専行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ
と言立て 大夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 親の子どもそ⋮⋮﹂︵四〇九四︶など、大伴氏の危
ますらを
ま す ら を
機的状況に際して、武によって大君に仕えてきた﹁ますらを﹂の家という伝統と名誉が再認されている。そして、
一 大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね ︵四一六五︶
のように、家持にあっては、名を立て後世に伝えることが、﹁ますらを﹂に求められるべきことと意識されている。
をのこ
一は比良の辞世の歌である﹁士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして﹂︵九七八︶に﹁追思﹂した
ものである。小島憲之は、﹁吉名﹂は、﹁漢魏六朝以来、男子大望の一つ﹂であったといい、﹃文選﹄の﹁士或有二
流俗之累一而立二功名一﹂︵漢武帝詔一首︶、﹁立レ演者行之虚夢﹂︵司馬子長報二任少卿一書︶、﹁士無二賢不肖一、皆楽レ立二
二五世一﹂︵朱叔身為二幽州四一告口彰寵一書︶、﹁老毒々其将レ等号、恐二脩名之不ワ立﹂︵屈里離騒経︶など、﹁士﹂にとつ
︵3︶
ての﹁名﹂を立てることの意義、そのよろこびと老いて名を立てざることへの恐れの諸例をあげている。憶良、家
持の﹁立名﹂への指向は、こういつた漢籍の思想、観念をも背景としての、﹁士﹂﹁ますらを﹂としての真結といえ
るだろう。節度使に対してうたわれた。の﹁ますらをの伴﹂11﹁取りて来ぬべき男﹂と重なる、男性が名誉ととも
にに担わされ、﹁べし﹂﹁べき﹂の世界といってよい。
このように、﹃万葉﹄の﹁ますらを﹂は、大君や主君それ自身をいうのでなく、武人として、また何らかの職務
を負って、大君や朝廷に奉仕する男子をいう和語であり、とくにそこに求められるべき雄々しさ、健強さ、力、名
誉などを意識して使われる語であった。﹁ますらを﹂の全用例のおよそ三分の二に当てられている原文﹁大夫﹂が
︵注2参照︶、周代に﹁卿﹂と﹁士﹂の間の職名として使われた呼称であり、日本においては広く天皇の臣下、また
41
42
五位以上の官位にある者、とくに四、五位の中級官人を指す語︵﹁たいふ﹂︶であること︵﹃日本国語大辞典﹄︶は、﹁ま
すらを﹂の語が万葉時代にもっていた語義をよくうかがわせる。﹁ますらを﹂意識の高揚は万葉末期の家持に顕著
だが、その語義は万葉の時代をほぼ貫いており、それは中央集権化が進み、また官人が直接争乱の中に立たされる
この時代のありようを背景としていよう。始原の幻想として呪と武を背景に置きながらも、律令官人としての﹁大
をのこ
夫﹂、﹁士﹂に求められる生の様式、理想を骨格として、求められるべき男の姿、意識として﹁ますらを﹂像が作
られていったといえよう。
二 ﹁ますらを﹂の反転
ここに思ひ出 いらけなく そこに思ひ出 ⋮⋮﹂︵三九六九︶と、鄙に赴いたばかりの健強な﹁ますら我﹂を提示
来し 麻恩讐我すら 世間の 低しなければ うちなびき 床に労い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しげく
ま す ら
とがいわれている。家持自身、池主への返歌では、﹁大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて
例えば、男主の9では、鄙をものともせずやって来た﹁ますらを﹂である家持が、今は病に陥って臥っているこ
ながら非﹁ますらを﹂がいわれる例が多いことである。
一首、一連の中では、そういった﹁ますらを﹂像と乖離していく状況がうたわれたり、また﹁ますらを﹂と対照し
しかし、﹃万葉﹄の用例を見て注意されることは、確かに﹁ますらを﹂の語自体は評価の軸として使われながら、
1
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
しながら、現在の、病に臥し、悲嘆にくれ、弱音を吐く﹁我﹂を、その対極のものとして示す。また、hは公のた
めに辛苦した果てに行倒れとなった﹁ますらを﹂の姿と運命を嘆いた歌であり、eでは﹁ますらを﹂として出で立
った防人の帰りを待つ﹁愛しき妻ら﹂がいわれ、反歌では﹁ますらをの靱取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆
よ ゆき
きけむ妻﹂と、﹁ますらを﹂の勇姿と﹁妻﹂の嘆きが対照的によまれている。
万葉の﹁ますらを﹂の歌の約半数は、﹁ますらを﹂をいうことで逆に、﹁ますらを﹂でありながら﹁ますらを﹂た
り得ない現在の状況を嘆き、また﹁ますらを﹂と自ら思いながらそれを全うできない自己を戯画化したものである
といえる。そこに、求められるべき﹁ますらを﹂像が反照されてもいるが、その﹁ますらを﹂像を裏切らせる大き
な力が、恋であることはいうまでもない。
ますらを
k ⋮⋮大夫と 思へるわれも 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが
焼く塩の 思ひそ焼くる わが下心 ︵軍王巻1.五︶
ますらを
⋮⋮雲間より 渡らふ月の 惜しげども 隠らひ来れば 天伝ふ 入り日さしぬれ 大夫と 思へるわれも
しきたへの 衣の袖は 通りて濡れぬ ︵人麻呂巻2.一三五︶
kでは、行幸に従う﹁ますらをと思へるわれ﹂が、夜風の寂しさに家郷に残して来た妻を偲んで心の奥底で悶々
としていることがいわれ、1では、女との離別などでめそめそすべきでない﹁ますらをと思へるわれ﹂が、妻と別
れて京へ向かう途上、別離を悲しんで、涙で袖を濡れ通すことがいわれている。天皇の行幸に従駕し︵k︶、また
﹁青駒﹂に乗る︵1︶官人である﹁我﹂は、自らを﹁ますらを﹂と自負しているが、しかし恋のためにそのあるべ
き姿から乖離し、ひたすら物思いに沈み、不覚の涙を零すのである。それぞれ虚構性の強い作だが、公的立場によ
43
って生じる別離が、官人としての﹁ますらを﹂性を裏切り、その﹁下心﹂︵k︶や﹁肝向かふ心﹂︵1︶を浮上させ
る構成となっているのである。
klは万葉の﹁ますらを﹂の中でも時期的に早い例だが、このように﹁ますらを﹂意識を反転させながら、恋心
や悲傷の吐露がいわれている。そして﹁ますらをと思へる我﹂の涙は、大宰府での娘子との別れに際しての旅人の
﹁和ふる歌﹂︵﹁帰癖と思へる我や水茎の水城の上に涙拭はむ﹂巻6・九六八︶などに繋がって転“。
そして、また﹁ますらをと思へるわれ﹂の反転は、ひとつの常套的な表現、発想となり、﹁ますらを﹂意識の喪
ますらを
失、反転をうたう恋歌が、作者未詳歌に多く見られる。
ますらを
大夫の心はなくて秋萩の恋のみにやもなつみてありなむ ︵巻−o・二一二二︶
ますらを
建男の現し心も我はなし夜昼といはず恋ひしわたれば ︵巻11・二一二七六︶
剣太刀身にはき添ふる大夫や恋といふものを忍びかねてむ ︵二六一二五︶
ま すら
を
をこころ
ますらを やつこ
天地に少し至らぬ大夫と思ひしわれや男心もなき ︵巻12・二八七五︶
大夫の聡き心も今はなし恋の奴に我は死ぬべし ︵二九〇七︶
恋に耽溺し、﹁現し心﹂や﹁男心﹂や﹁聡き心﹂を喪失し、さらに恋のために死にそうな自分をよんだ男の自嘲
の歌である。恋する以前の﹁ますらを﹂を提示しつつ、﹁恋の奴﹂に取り付かれることで、あるべき男性像から逸
脱してしまった現在が嘆かれている。制度的なものや理知的なものに対する情念の優位性を示し、その過程におけ
る自己葛藤を示唆することによって、男から女への恋情の訴えかけとなっているのである。恋が﹁ますらを﹂のも
っている﹁べし﹂性をはぎ取り、﹁ますらを﹂意識を反転させる、そういった一つの発想・表現が、個々の体験を
44
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
越えて、男の歌の形として定型化されているといえるだろう。﹃万葉﹄の男の歌は、﹁ますらを﹂意識の反転という
方法によって、公に対する私的領域や、知に対する情の断り在を表出する、という回路を作っているのである。
ますらを しこ ますら を
では、女性の歌において、﹁ますらを﹂はどのようにとらえられているだろうか。
ますらをのこ ひ
m 大夫や片恋せむとなげけども醜の益卜雄なほ恋ひにけり ︵舎人皇子 =七︶
n 嘆きつつ大夫の恋ふれこそわが結ふ髪の漬ちてぬれけれ ︵舎人娘子 =八︶
舎人皇子は天武天皇の皇子、舎人娘子はその養育に当たった氏族の娘かといわれる。男の歌が、﹁大夫たるもの
片恋などするものかと嘆くが、しかし愚かな大夫である私は否応なく恋い焦がれている﹂、と訴えるのに対して、
女の歌は、﹁嘆きながら大夫であるあなたが恋えばこそ、その思いに感応して私の髪が濡れてほどけた﹂、と男の思
いを受容することで、男の﹁片恋﹂を否定していく。
ところで、伊藤博は、男の歌では上下句が逆接になっているのに対して、女の歌ではそれが順接になっているこ
とに注目して、男の歌の﹁嘆き﹂が、﹁ますらを﹂たるものめめしい恋などすべきではないという万葉の﹁ますら
を意識﹂を背景にした﹁努力し抑制する意﹂なのに対して、女の歌の﹁嘆き﹂は万葉通常の﹁恋い慕うがゆえに嘆
しこ ますら を
く﹂意で用いられていることを指摘している︵﹃万葉集釈注一﹄︶。男の歌は、意識としての﹁ますらを﹂を背景に置
きながち、それを﹁醜の益ト雄﹂に反転させる恋の情動、その間のアンビバレントな感情をうたうもので、今まで
見てきたような万葉の男の歌に繋がるものである。これに対して女の歌は、﹁ますらを﹂を﹁をとめ﹂の対として
45
2
の﹁ますらをのこ﹂に置き換え、男性の側の意識にある剛なる﹁ますらを﹂像を相対化し、自分にむけての男の恋
情のみを受容し、それを身体をとおして確認しようとしている。
あらかじめ与えられている男の像に拘泥しつつ、しかしそれを反転させる恋の力を﹁嘆き﹂として訴える男の歌
と、性差に伴って付加的に作られた像を取り払い、対等の﹁嘆き﹂の幻想のもとに、現実的な因果関係を越えた感
応をいって一体化を指向する女の歌。その差異が、この贈答の妙味をなしているといえるだろう。この贈答は、相
聞歌によくあるタイプの、男の挑みと女の搬ね付けといった形ではない。男は﹁ますらを﹂意識のもとで自嘲し、
女は男の歌を受入れながら、結果的に女は男の﹁ますらを﹂意識を無化して、愛を確認しようとしているのである。
ますらを たわやめ
では次の歌はどうか。
o 大夫もかく恋ひけるを幼婦の恋ふる心にたぐひあらめやも ︵坂上大嬢巻4・五八二︶
﹁大伴宿禰家持に報へ贈る歌四首﹂の二首目で、今は残されていない家持の贈歌に答えた歌と考えられる。一首
目の﹁生きてあらば見まくも知らず何しかも死なむよ妹と夢にし見ゆる﹂に続き、男の歌にあったであろう激しい
口吻、訴えを﹁大夫もかく恋ひけるを﹂と受けながら、﹁幼婦﹂の恋する心の一途さには、比較するものがないだ
ろうと切り返す。﹁大夫も﹂の﹁も﹂の背後には、男の歌にあったであろう、恋による﹁ますらを﹂意識の反転が
あろうが、それを先の舎人娘子のように軽く受容しながら、ここではそれに勝る自らの恋心の強さを、﹁たわやめ﹂
の恋する心の激しさ、強さをもちだすことで訴えている。﹁ますらを﹂像の規範性、制度性はここでは稀薄であり、
﹁ますらを﹂と﹁たわやめ﹂は単純な対照の中に位置付けられ、nと同様に、いわば汝と我の一対]の関係性の中
に、自らの恋心の強さがいわれている︵ただし、後述するように幼婦といった用字や﹁たわやめ﹂像については、
46
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
また別の制度化がもちこまれていよう︶。
このように、男の歌が﹁ますらを﹂意識の屈折の中に自らの恋心を位置付けているのに対して、noの女の歌は、
男の﹁ますらを﹂意識を受容しつつ、結局﹁ますらを﹂意識を無化し、男の恋情を受け入れることで、思いの一体
化を指向しているといえよう。
ますらを をちみつ
ところで、女性の歌の﹁ますらを﹂には、男に対する嘲笑や椰楡を込めたものもある。
ますらを
わが手本巻かむと思はむ大夫は若水求め白髪生ひにけり ︵6.六二七︶
わが祭る神にはあらず大夫に付きたる神ぞよく祭るべし ︵巻4.四〇六V
両首とも、佐伯宿禰赤麻呂に贈った﹁娘子﹂の作で、巻は異なるが﹁娘子﹂は同一人ともいわれる。そして前者
では﹁ますらを﹂の老いがからかわれ、後者では連作の中で盛りを過ぎた相手が皮肉られている。赤麻呂の自作自
演ともいわれる︵伊藤博﹃万葉集釈注﹄︶が、女の目から見た﹁ますらを﹂が、時に滑稽な存在として、時代の中で軽
い嘲笑と椰楡をもって受け止められていく様相を見て取ることもできよう。
さて、歌の言葉は現実の再現ではないから、そこから現実の男女の位相そのものを推し量ることはできない。し
かし、歌における﹁ますらを﹂の語は、男性に求められる公的な像への指向を示しつつ、一方でそのあるべき像の
裏側の﹁私﹂や﹁情﹂の世界を強調するための、その反転の装置として多く使われていることが見てとれよう。そ
して、男の歌にあっては、その反転の中に自己否定的な葛藤を含ませ、女の歌の﹁ますらを﹂には、既成の﹁ます
らを﹂像を敢えて無化し、男女の対の関係性の中に相対化しようとする方向がうかがえよう。敢えていうなら、見
てきたような女の歌に立ち上がって来る男と女の関係性には、始原の愛の唱和の均質平等の一体化への幻想が、い
47
わば相聞・贈答の言葉を支える幻想として働いている、といえよう。
ますらを
そして、また、﹁ますらを﹂を指向しながら、それを裏切っていく心の情動を表出していく男の歌の型は、例え
ば﹁建男の現し心も我はなし夜昼といはず恋ひしわたれば﹂に対する窪田空穂の﹁精神的破産に瀕してみる自身を
意識した心で、人生的な嘆きの歌である﹂︵﹃万葉集評釈﹄︶といった評に見られるように、個人の人生における内面
心理の直島の表現として歌を読もうとする、近代の批評を生み出していく。近代の文学意識と重なりながら、時に
﹁ますらをぶり﹂を反転していくような、﹃万葉集﹄への近代的な共感の磁場がそこに生み出されているといえよう。
三 ﹁たわやめ﹂の淵源
た わ や め
次に、﹁たわやめ﹂を検討してみよう。﹃万葉﹄に﹁たわやめ﹂は十例があり、それは﹁手和也女﹂︵三七五三︶、
﹁手弱女﹂︵三七九、五四三、九三五、一九八二、三二二三︶、﹁弱女﹂︵一〇一九︶、﹁幼婦﹂︵五八二、六一九、二九二一︶などの
た わ や め た わ み
た を や め
表記がされている。﹃和名抄﹄は﹁日本紀私記﹂を引用して﹁婦人﹂﹁女人﹂に﹁太乎夜女﹂の訓を与えているが、
﹁手和也女﹂︵三七五三︶の仮名書例や、﹁手弱女の 思ひ多和美て﹂︵九三五︶と﹁たわ﹂むにかかる枕詞の例もある
ことから、﹃万葉﹄の例は﹁たをやめ﹂でなく﹁たわやめ﹂と込んでよいだろう。
くぐい たわ かひな
さて、﹁たわやめ﹂の原義はどのようなものだろうか。﹃古事記﹄に、ヤマトタケルがミヤズヒメの細くなよなよ
とした腕を天の香具山をわたる鵠に讐えて、﹁ひはぼそ 擁や腕﹂と賛美して共寝をしょうとした、とうたつた歌
謡がある。その歌謡では、ヒメが月経中なのがうらまれているが、﹁たわやめ﹂はこのなよなよした意の﹁たわや﹂
48
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
という語に﹁め︵女︶﹂がついた語で、﹁たわたわ﹂や﹁たわむ﹂と近接し、撹うようなたおやかさをもって女性を
いった語と考えられる︵﹃時代別国語大辞典﹄聖代編﹄ほか︶。﹁手弱﹂という用字は、当時の語源解釈を示したものだが
︵同︶、女性を意味する﹁をみな﹂﹁をとめ﹂に対して﹁たわやめ﹂は、﹁石戸破る手力もがも手弱き女にしあればす
いはと わ たちから たよわ
いはほ ますらを くい ますらを
べの知らなく﹂︵手持女王巻3・四一九︶のように、女性の﹁手弱﹂さをとくに取り出す意識があったのだろう。
﹁巌すら行き通るべき建男も恋といふことは後の悔あり﹂︵巻11・二三八六︶の﹁建男﹂と対照をなす意識である。
では、﹁ますらを﹂が武的な剛直を背景に、求められるべき男性像をつくっていたのに対して、柔や擁がその性
格とされる﹁たわやめ﹂は、女性のどのような要素をその淵源にもちながら、その像を膨らませていったのだろう
か。ここでまず注意されるのは、﹁たわやめ﹂十例の内の二例が、呪歌の中で女性が自己を規定する言葉として使
われていることである。
いはひべ たわやめ おすひ
P ⋮⋮斎貧を 斎掘り据ゑ 竹玉を 繁に貫き垂れ 鹿じもの 膝折り伏して 手弱女の 書取り掛け か
くだにも 我は祈ひなむ 君に逢はじかも ︵巻3・三七九︶
たわやめ
q ⋮⋮まき持てる 小鈴もゆらに 手弱女に 我はあれども 引きよぢて 峰もとををに ふさ手折り 我は
持ち行く 君がかざしに ︵巻13・三二二三︶
Pは﹁大伴坂上郎女、神を祭る歌﹂の一部であり、呪具を揃えて、神に祈る姿をうたいながら、﹁君に逢はじか
おすひ
も﹂と﹁君﹂︵神︶に逢うことが祈られている。ここで﹁襲﹂は、﹁祭祀という非日常の聖なる世界で着る服装﹂
︵西宮一民﹃万葉集全文﹄︶であり、先に述べたヤマトタケルが共寝しよとした﹁たわや腕﹂をもつミヤズヒメがその
時着用していた上掛けでもある。ミヤズヒメのその裾には月経の血が付着していたわけだが、コ般に月経中の女
49
性は、巫女として神にめされた身﹂︵古典集成﹃古事記﹄頭注︶であるので、その﹁襲﹂は神を招く聖なる時間・場に
お
おける衣装であったといえる。Pの場合も、大伴氏の家刀自として、﹁神の妻として神を招き寄せる﹂︵﹃万葉集全
注﹄︶歌と考えられるから、﹁襲﹂を着た﹁我﹂は、神の妻女を装っているといえよう。そしてそこに﹁たをやめ﹂
の語が使われていることは、神上のイメージがその﹁たわやめ﹂に重なっていることをうかがわせる。またqは、
神奈備の御田屋の神田において、小鈴を鳴らしながら紅葉した聖なる槻の木の枝を擁わせながら手折って、﹁君﹂
のかざしにしようという歌である。相聞の形をとっているが、古橋信孝のいうように、収穫の神事とかかわる歌で
あり、呪具としての﹁小鈴﹂を﹁ゆらに﹂鳴らすのは、うたう主体が神を招き寄せる聖女になっていることを示し
ている。﹁手弱女﹂は、そのような神と感応する囲女であり、﹁手弱女に我はあれども﹂という逆接表現は、人間の
︵5︶
側に強くひきつけての、﹁君﹂のために﹁引き塞ぢて﹂﹁ふさ手折る﹂行為の強調であるが、一首の背後には選ばれ
た﹁君﹂を神たらしめる神事の存在があり、神女となるべきものとしての﹁手弱女﹂がいわれているといえよう。
このようなPqをめぐって、浅野則子は、それぞれの歌の﹁たをやめ﹂が﹁神を迎えるために装った専一巫女
1である自ら﹂をいうものとして用いられているとし、﹁﹃たわやめ﹄とは﹃たおやかなもの﹄﹃力の弱いもの﹄
︵6︶
ということばの意味の背後に神にふさわしい相手としての巫女という意味﹂を含んでいると指摘する。ヤマトタケ
ルの歌の﹁たわや﹂も、神を引き付ける力としての﹁たわや﹂かさへの賛美の観念がその底流にあり、また﹃古事
記﹄で、アマテラスと﹁うけひ﹂をして女児を生んだスサノヲが、﹁わが心、清く明し。故、わが生める子は手弱
女を得つ﹂と語ったその﹁手弱女﹂も、神の女への賛辞として読むことができよう。そのような賛辞的呼称として
﹁たわやめ﹂があったことが想定できるのである。
50
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
このように、二首の﹁たわやめ﹂には、神事と関わった場での、神を寄せ付ける力をもった女性が浮かぶが、右
の二首が神事を背景にしつつ﹁君に逢はじかも﹂﹁君がかざしに﹂と相聞歌の歌い方をしているのは、相聞歌の淵
源にある神と二女の関係を幻想させる。非日常の時空である恋の場において、公女を装うことによって生まれる女
性の恋の歌のありようがそこにある。
た わ や め
そして、そのようなの恋歌の底流にあるものは、例えば、次のような歌の﹁たわやめ﹂にも流れているようだ。
r 逢はむ日の形見にせよと多和也女の思ひ乱れて縫へる衣ぞ ︵巻15・三七五三︶
霜野弟上娘子が配流中の中上海守に贈ったとされる一連の中の歌。宅守の﹁我妹子が形見の衣なかりせば何物も
てか命継がまし﹂︵三七三三︶と呼応し、また娘子の﹁臼たへの我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまで
に﹂︵三七七八︶などにみられるように、形見として呪的な意味を込めて﹁衣﹂が贈られたことがうかがえる。こう
いつた衣を縫う、また織る行為は、広く女性に課せられた役目であるが、歌においてそれがとくに展開されるのは、
七夕歌である。﹁足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひあへむかも﹂︵二〇六五︶、﹁君に逢はず久しき時ゆ織
ビ
る服の臼たへ衣垢つくまでに﹂︵二〇二八︶など、年に一度の逢瀬を限られた織女はひたすらに機を織るが、それは
それ以前に日本の神話伝承の中で作られてきた神女のイメージでもある。折口信夫は、﹁ゆかはだな﹂で布を織り
︵7︶
ながら遠くからやって来る神を待つ忍女の姿を想定し、尾崎暢映は、アマテラスに、男性神としての太陽神を迎え
︵8︶
るために川のほとりで機を織っている女性の姿の痕跡を見ている。
もちろん、福野面上娘子の場合は衣を﹁縫う﹂のであり、老女としての位相を与えられているわけではないが、
離れた男のために﹁思ひ乱れて﹂布を縫う娘子の姿は、神のために機を織る神山の姿に重なるものであり、浅野の
51
いう﹁待つ﹂女である︵後述︶。そしてその衣は、弟上娘子にうたわれているように、男の命を継がせる力をもつも
のであり、また﹁斎へ﹂られるものであった。rの深層には、そういった神女の姿に繋がるものを彷彿させるもの
があり、それがその形見に呪的な力を付加させているが、その力を与えるものが﹁たわやめ﹂の語であるといえる
だろう。一首において﹁たわやめ﹂の語は﹁思ひ乱れて﹂に繋がりながら、悶々と男を思う情の深さを引き出すが、
皇女に繋がる要素を幻想させることにより、一首は女の歌に、日常の言葉を越えた力を含みもたせているといえる。
このように、﹁たわやめ﹂の語は、その深層に、神聖に繋がっていくところの女性が持つ力を、ひとつの幻想と
﹁幼婦﹂の位相
たわやめ
して保持していた、といえるだろう。
四
ところで、大伴坂上郎女は﹁怨恨歌﹂と題された長歌の中でも、﹁たわやめ﹂の語を用いている。
s おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨ぎし心を 許して
し その日の極み 波のむた 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず大面の 頼める時に ちはやぶる
神か放けけむ うつせみの 人か珍くらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓の 使ひも見えず なりぬれば
いたもすべなみ ぬばたまの 夜はすがらに あからひく 日の暮るるまで 嘆けども 験をなみ 思へど
も たつきを知らに たわやめと 言はくも著く 手鼻の 音のみ泣きつつ たもとほり 君が使ひを 待
ちゃかねてむ ︵巻6・六一九︶
52
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
t はじめより長く言ひつつ頼めずはかかる思ひにあはましものか ︵六二〇︶
この歌については、坂上郎女が藤原麻呂、大伴宿望麻呂、大伴駿河麻呂など、特定の誰かを恨んでの作とする解
もあるが、作歌年代や他の郎女の歌などから、﹁怨恨﹂という題をテーマとした一人称の虚構の作であり、初めて
恋の体験をし、その男の末長い契りの言葉によって心を許したものの、その男との関係が絶え絶えになって途方に
︵9︶
暮れている若い女性を主人公として、その泣き暮れ、俳徊して男を待つ姿を語り、うたった歌といえる。
ところで、この歌の題﹁怨恨﹂の背後に、中国文学の﹁怨詩﹂があることは土屋文明ほかの指摘するところであ
る。東茂美は、﹁昔在成帝の班娩好は寵を失ひ、長信宮に供養す。乃ち賦を作り自ら傷み、醸せて恨詩一首を為る﹂
の序をもつ班三好の﹁童詩﹂とそれを典故となした﹁朝時篇 怨歌行﹂をあげ、さらに﹃玉台新訂﹄では班の怨恨
を基本的モチーフとしながらさまざまな文学化が行われていたことを指摘して、﹁坂上郎女は掌中の﹃玉台﹄にみ
るく班娩好﹀の文学、あるいは︿班姫怨﹀という六朝文学の主題詠となりえた班娩好の境涯に心魅かれるところが
あったのであろう。あえて題をもって﹃怨恨歌﹄とした郎女の文学志向は、六朝の詩人文人が相和した丸面好の怨
︵10︶
恨を、和歌でもって試みようとするところに存在したのではないか﹂と述べている。海彼の文学が、現実の相聞の
場や孤閨の場を離れた、いわば創造された文学空間で、恋の悲哀を描くことを促したことが推定されている。この
歌自体は、帝の寵愛を受けた班娩好の境遇と設定を異にするが、﹃玉台新詠﹄に多く見られる棄婦をうたった詩と
通うところがあり、大きく捉えれば女の悲哀の姿に収められていく男と女の典型的な関係を、伝統的な歌の表現を
骨格として組み立て、二三化したものといえるだろう。そして、そのようなある典型化、一般化が、この歌への近
︵11︶
代の低い評価を生み出している要因となっているともいえよう。
53
さて、この長歌の中で﹁たわやめ﹂は、作中主体11われが、自己を規定するものとして使われ、また﹁言はくも
著く﹂に続いて、﹁たわやめ﹂の典型的な行動として以下がいわれる。そしてまたその﹁たわやめ﹂は、﹁手童﹂と
類似させられ、﹁たわやめ﹂11﹁手童﹂11﹁音のみ泣き﹂﹁たもとほる﹂←﹁待ちやかねつる﹂と、その姿が提示さ
れていく。ところで、先にあげた浅野則子は、スサノヲやホムチワケのように﹁子供の泣くことは、﹃神の力﹄が、
よく愚くことと深い関係﹂があること、また﹁たもとほる﹂は、﹁異界へと自己をむける、さらには誘われようと
するべき弓鳴行為を背景としてもっている表現﹂であることなどから、﹁﹃待つ﹄に至る表現の内実には、神との交
感を求める呪的行為がある﹂ことをいう。そして﹁このうたを女の恋うたとしてよむとき、それは巫女の表現に即
して神を引きよせる歌−神を﹃待つ﹄うた一としてよむことができる﹂という。浅野の論は、﹁待つ﹂という行
為は﹁ただ受身的、悲劇的な姿勢﹂ではなく、﹁むしろ﹃待つ﹄という自分の側を明かにすることで相手との一方
的な関係を作り、相手が訪れるようにしむける1相手を呪縛する一という、歌の表現の﹃力﹄ともいうべきも
のによる積極的表現﹂と見、それを女の歌の言葉の巫女性の伝統のなかに求めようとするもので、この歌の底流を
考える上で多くの課題を与えている。
だが、﹁たわやめ﹂と﹁手々﹂との近似をいい、さらに﹁待ちやかねつる﹂と逢うことの困難性をいう当歌にお
いて、﹁たわやめ﹂の神女性は、むしろ否定に向かっているといえるのではないか。﹁手写﹂は、﹁童の幼いことを
をみな
特に強調した形﹂︵﹃時代三国超大辞典﹄上代遍であり、﹁手玉﹂の﹃万葉﹄のもう一例である石川郎女の﹁古りにし
堰にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと 一身恋をだに忍びかねてむたわらはのごと﹂︵巻2・一二九︶では、
﹁姫﹂と対照させながら、恋のために呆然自失している自分を、幼くて判断能力を持たず、為すすべを知らずにい
54
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
る﹁手童﹂の語で比喩している。また﹁童﹂の用例では、﹁もののふの 八十伴の緒を まつろへの 向けのまに
まに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば⋮⋮﹂︵家持巻18 四〇九四︶のように、
﹁大君﹂﹁ますらを﹂が庇護、愛撫し、その思いを満足させるように治めるべき者として﹁老人﹂﹁女童﹂がいわれ
ているものもある。勿論神の言葉や意志が﹁童﹂の口を通して人間に伝えられるという神話伝説の型はあるが、坂
上郎女歌の﹁手量﹂は、声を立てて泣きじゃくり、さらにあたりを俳卜することしかしらぬ、分別なき幼き者に重
点が置かれているのではないか。
そして郎女は﹁手植﹂に重ねながら﹁たわやめ﹂をいうわけだが、それを表すのに﹁幼婦﹂の文字があてられて
いる。この用字は他に、大伴坂上大嬢が家持に贈った前出、
たわやめ
0 ますらをもかく恋ひけるを幼婦の恋ふる心にたぐひあらめやも ︵巻4.五八二V
と、作者未詳の、
たわやめ
U 幼婦は同じ心にしましくも止む時もなく見てむとそ思ふ ︵巻12.二面=V
の、合計三例である。後者は﹁幼婦﹂を﹁をとめご﹂と訓んで、﹁夫である男が、その妻で、幼い女の子を持って
るる女に贈った歌﹂とする空穂﹃評釈﹄や武田﹃全註釈﹄の解もあるが、文明﹃私注﹄、澤潟﹃注釈﹄がいうよう
に、ここは﹁たわやめ﹂と訓み、女が自身をいったものであり、男の言葉を受けて、相手の男と同じ心での愛を誓
った歌と見るべきだろう。相手の男との対のものとしての﹁たわやめ﹂であるわれがいわれているが、しかし男の
言葉を先立て、その心との同一をいって自分の意志を言うところは、男から一歩引いた形での﹁たわやめ﹂の姿を
歌に刻んでいるといえる。ある意味ではそこにひとつの媚態が生じているともいえよう︵ここで﹁媚態﹂というの
55
は、九鬼周造の﹁媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との問に可能的関係を構成す
る二元的態度である。そして﹃いき﹄のうちに見られる﹃なまめかしさ﹄﹃つやつぽさ﹄﹃色気﹄などは、すべてこ
︵13V
の二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない﹂といった定義を参照。異性の視線を意識して作られる態度︶。
たわやめ
ところで、橋本達雄は、﹁婦﹂の原義を想定しながら、sの﹁幼立﹂には﹁幼な妻﹂の意味があるとして、万葉
集の配列などから、この歌は﹁郎女がわが子大全のために、その立場に立って家持に贈った歌﹂とした。当時十三、
四歳と考えられる﹁幼妻﹂である大后の、訪れの絶えがちな家持への﹁怨恨﹂がテーマであり、﹁ちはやぶる 神
か放けけむ うつせみの 人か障くらむ﹂といった﹁直接になじること﹂をせず、﹁みずからの悲しみに沈むあり
さまのみを細かく叙して、相手の行動や態度にはいささかも及ぼさない述べ方﹂は、﹁家持に対する心深い態度﹂
であり、この歌に対する迫真性の欠如という批判は、二人の仲が決定的に切れるのを避けるための表現からくるも
のではないか、とも述べている。また伊藤博は、大豪の。も、母である郎女が娘のために作った歌であり、﹁幼婦﹂
︵14︶
という用字は、﹁大営がまだ幼いことを下地にした用字﹂であり、oは﹁家持が時に幼さを責め立てたことに対す
︵15︶
る、用字をもこめてのしっぺ返し﹂の歌だという。
具体的な背後の事実関係はともかく、作者未詳のuも含め、ここでは﹁たわやめ﹂を﹁幼年﹂と書く意識が存在
していることが注意されよう。﹁婦﹂の意味するところが既婚の女に限定されるかどうかは問題あるが、﹁幼﹂は
﹁少﹂であり︵﹃説文﹄︶、﹃礼記﹄曲礼の﹁人生十年日幼。学﹂では、学に就く年としての十歳が﹁幼﹂といわれてい
る。いまだ幼少で道理に暗く、理知的判断力をもたない童蒙が﹁幼﹂にこめられた意味であろう。そして、この
﹁幼﹂と﹁婦﹂が一体化した﹁幼婦﹂は、先に見た三女に繋がる﹁たわやめ﹂とは、やや様相を異にした要素があ
56
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
るのではないだろうか。郎女は﹁幼婦﹂を﹁手童﹂に讐え、そこに﹁たわやめ﹂の﹁言はくも著﹂き本質を見るわ
けだが、そこにあるのは、下口大丈夫に対して、遅れ、退いたものとしての女の姿のように見える。橋本の言うよ
うに、﹁怨恨歌﹂は怨恨といいながらも男の行動への直接的批判は控えられ、男が女への揺り戻しを促されるよう
なうたいぶりがされている。それは。が﹁ますらを﹂の︼言葉を受容しつつ、さらにそれに益る、本来は弱き者とし
ての﹁たわやめ﹂の恋心をいって情を訴え、sが男の言葉の優越のもとに、それとの同一化をいって恋の永続を求
めてある媚態をとっているのと通う。恋するこころにおいては男を凌駕するが、行動においては男を先立たせ、そ
れに従う女という自己規制が、社会的な関係性の中でのそれぞれの女歌に装われているといえ、そのような関係性
が﹁幼婦﹂という用字を用意していたといえるのではないだろうか。
もちろん﹁手弱女﹂の﹁弱﹂にも、﹁弱い﹂意の他に﹁若い﹂意味もあるが、﹁たわやめ﹂11﹁韻士﹂という提示
の仕方、そして﹁節婦﹂←﹁手童﹂という連想には、﹁分別ある男﹂に対照させられるところの﹁たわやめ﹂像が
あるといえるだろう。郎女は﹁神を祭る歌﹂では、神女を装いながら、﹁我は祈ひなむ君に逢はじかも﹂と積極的
に﹁逢う﹂ことを求める女を演じた。﹁たわやめ﹂は、浅野の指摘にあるような、神送としての恋ふる力によって
男との湿遁を祈念するような古代的な要素がある一方、﹁べし﹂﹁べき﹂ものとしての﹁ますらを﹂の対極に、自ら
を﹁幼婦﹂として立たしめる装置としてもはたらくといえよう。そしてそこに、ある制度的な女性像の上に、男性
た わやめ
の視線を意識してつくられる媚態がうかがえる。﹁ひぐらしは時と泣けども恋ひしくに手弱女我は定まらず泣く﹂
︵巻−o・一九八二︶のように、泣くことを恥じる﹁ますらを﹂像に対して、ひたすら泣くことをいうことで情を訴え
る﹁たわやめ﹂像は、そのようなものとして見てとれよう。
57
なが
そしてまた、また、﹁石上乙麻呂卿、土左国に配さるる時の歌﹂では、﹁石上 布留の尊は たわやめの 惑ひに
よりて 馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢囲みて 大君の 命青み 天心る 夷膳に罷る⋮⋮﹂︵巻6.一
〇一九︶と、﹁尊﹂たる石上乙麻呂卿と密通した女を﹁たわやめ﹂と呼んで、男がそのその魅力に惑ったことをいう。
﹁たわやめ﹂は、時としては、﹁ますらを﹂を引き付ける魅力と、それを惑わせ悲劇に陥れる魔力をもったものとし
てもとらえられる。おそらくこの歌は、石川卿ならぬ第三者の男性の手になるもので、この﹁たわやめ﹂には、男
性の﹁現し心﹂や﹁聡き心﹂とは異なった心のありようを女性の中に見ようとする、外部の視線が見てとれよう。
五 ﹁たわやめ﹂の生成
さて、前章に見てきたような、言わば社会的に作られていく性的差異によって特徴づけられていく﹁たわやめ﹂
と﹁たわやめ﹂像は、﹃古今集﹄序の六歌仙への批評における小野小町批評の、﹁あはれなるやうにて、つよからず。
いはば、よき女のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし﹂︵仮名序︶、﹁艶無二気力一。
如三病婦之着二花粉一﹂といった﹁女歌﹂観にも繋がっていくと思われるが、ではそういった﹁たわやめ﹂像は、万
葉の中でどのように作られてきたのだろうか。
そこで注目されるのが、笠金村の用例である。金村の歌には二例の﹁たわやめ﹂がある。まず五四三∼五四五は、
あとら
題詞に﹁神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸す時、従駕の人に贈らむがために、娘子に読へらえて作る歌﹂とあり、
女性に依頼され、行幸にある夫に贈る歌を金村が作ったことをいうが、﹁女に頼まれた歌として行幸先で発表した
58
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
ものか﹂︵﹃古典集成﹄︶といわれるように、行幸先の宴などで楽しまれたものとの推定も成り立つ。いずれにしろ、
宮廷歌人である男性の作者が、女性の立場に立ちつつ、それを貰い受ける男性や、あるいは男性の聴衆を意識しな
がら作った歌といえよう。
うるは つま
さてその長歌は、﹁大君の 行幸のまにま もののふの 八十伴の緒と 出でて行きし 愛し夫﹂の都から紀伊
へと山を越えていく道行きを想像し、その夫が自分を忘れているであろうことを﹁にきびにし 我は思はず 草枕
旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども﹂と、﹁単に風景で旅心が慰められるば
かりでなく、一夜妻で慰む便宜がある﹂︵﹃古典集成﹄︶ことをにおわせながら述べていく。そして、
たわやめ
v ⋮⋮しかすがに 黙もえあらねば わが背子が 行きのまにまに 追はむとは 千度思へど 手弱女の 我
が身にしあれば 道守の 問はむ答へを 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまつく
︵五四三︶
と、夫を追いかけようとするのだが、﹁道守﹂に対してしっかりした応答が出来ないであろうことを理由として、
家に居残って悶々としている姿を描き出す。その中で、﹁たわやめの、我が身にしあれば﹂は、男を追いかけよう
とする心を持ちながら、﹁言ひ遣らむ すべを知ら﹂ない女として、自己を規定した言葉として置かれている。ま
た反歌の
後れ居て恋ひつつあらずは紀伊国の妹背の山にあらましものを ︵五四四︶
我が背子が跡踏み求め追ひ行かば紀伊の関守い留めてむかも ︵五四五︶
は、但馬皇女の﹁後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに起結へ我が背﹂︵巻2・一一七︶を連想させるが、
59
皇女が旅にある穂積皇子を追いかけていこうとするのに対して、ここで﹁たわやめ我﹂は、﹁関守﹂という障害を
想定し、自分が妹背の山であったらいいのにと願望を観念化しておわっている。このように、この長反歌において
は、旅中の夫を慕い、追おうとしながら、秩序の中で﹁待つ女﹂を演じているか弱い女が造型されている。
ところで、﹃玉台新学﹄や﹃文選﹄には、別離独居の婦人の孤閨を歌った詩が多く載せられている。それらは
﹃文選﹄の﹁古詩十九首﹂中の詩などを出発点としながら展開されるが、遠く旅中や任地や遠征先にある夫を思い
つつ孤閨を守る妻の姿は、文人にとっては艶にして哀韻を誘うテーマであった。そして、たとえば﹃玉台新譜﹄所
収の雌蕊の﹁室思一首﹂には、﹁峨峨高山首、悠悠万里道﹂といった設定や、﹁惨惨時節尽、蘭華凋毒牙。翼然長嘆
息、期君慰二我情一。展轄不レ能・課、長夜何綿綿。騙レ履起出レ戸、輝輝二三星連一。自恨志不レ遂、泣涕如月涌泉こ
など、遠くの夫を思いつつ、それを追うこともできず嘆息して待つ、この長反歌と重なる要素も見受けられる。ま
た同書所収の陸機の﹁為二周夫人一、贈二百騎一一首﹂は、車騎の任にある夫のために、周夫人に代わって陸機が作
昔者得二君書一
君行山豆有レ顧
砕砕織二細練一
聞君二在京城一
聞君在二高平一
憶君是妾夫
為君作二構儒一
ったとされる詩であるが、金村の長歌と通じる発想が多く見られる。
今時得二君書⋮
堆燦多二異端一
山豆知二妾念7君:
京城華麗所
男児多二遠志一
60
「万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
詩は、周夫人の立場になって、自ら作った構禰を贈りながら、夫は心を留めないかもしれないが、妻である私は
夫を思い続けているといい、高平から京城に移った夫に対して、京城は美人が多く、男は浮気心が多いといい、あ
なたは私があなたを思っていることなど知りもしないだろう、という。そして、秋が深まり年の暮れをむかえねば
ならないが、食事ものどを通らないと訴えかける。この詩とは異なって、金村の歌は行幸中の短い期間の別離を設
定しているが、ともに、遠くにある夫を慕う女の悶々とした物思いが語られ、ある意味では、男の視線を通しての、
かくあるべき女としての待つ女の像が作られているといえるだろう。
︵16︶
この長反歌の背後には、梶川信行が指摘するように、軽の隠り妻伝承などの、口承の世界とその歌謡がある。お
そらくそれを土台に、漢詩文を触媒にしながら、行幸中の宴における歌として作られたのがこの一連だろう。結果
的に、律令制度の中の男と女の関係を、男の側からうたいあげたものであり、おのずからそれは、神話的発想や、
悲恋物語的な伝承とは一線を画したものとなっている。そしてそこに作られているのは、﹃万葉﹄巻二の巻頭に置
かれている、磐姫に託して作られた四首の連作にもつながるところの、逡巡しつつ待つ女の聖なる姿であるといえ
るだろう。
さて、金村のもう一例は、播磨国印南野に行幸した時の歌である。
ますらを たわやめ
W ⋮⋮朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなけ
れば 大夫の 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我はそ恋ふる 舟梶をなみ
︵巻6・九三五︶
長歌は、﹁海女娘子﹂を見に行きたいが、舟がないといった内容を﹁我﹂の一人称でうたったものだが、第二反
61
歌が﹁行きめぐり見とも飽かめや名寸言の船瀬の浜にしきる白波﹂と土地賛めの歌であることなどから、宴席で献
呈され披露された歌であることが推定される。ここで﹁たわやめ﹂は、﹁思ひたわみ﹂の﹁たわみ﹂を導く枕詞と
して機能しているが、それは、やるすべのない思いをもって寄託しつつ恋い焦がれる様を、女性的な行動としてと
らえるのと連動している。﹁たもとほる﹂は、先の坂上郎女の歌sで﹁幼婦﹂の行動としてうたわれていたが、こ
こでは﹁大夫の心﹂をなくし、﹁手弱女﹂のごとくに﹁思いたわみ﹂でいる男の我の恋の切なさを示す行動として、
提示されている。いわば女性を装うことにより、恋情の深さをたちあがらせようとしているといえよう。
状況設定は異なるが、この金村の歌は、先の軍王のkの流れをひくものである。行幸従駕の男性官人のもつ﹁ま
すらを﹂意識を背景に置きながら、恋のために悶々とする姿を﹁手弱女﹂的なものとしてとらえ、女性に魅かれて
いく心を、宴における共有のものとして展開している。もとより遊びの歌で、﹁ますらをの心はなしに﹂﹁たわやめ
の思ひたわみて﹂は自らの﹁ますらを﹂意識を反転させるような性格のものではない。しかし﹁たわやめ﹂の語を
介在させることによって、悶々とした恋情が強調させられており、そのような﹁ますらを﹂と対照させられるとこ
ろの﹁たわめて思ふ﹂﹁たわやめ﹂には、ある艶なる意識がこめられていよう。
さて、宮廷歌人である金村は、﹁梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢たばさみ⋮⋮﹂︵巻2・二一二〇︶、﹁ま
すらをの弓末振り起こし射つる矢を後見む人は語り継ぐがね﹂︵巻三・三六四︶など、いわば公的な﹁ますらを﹂を
うたった歌人である。そして、その﹁ますらを﹂との対照としてうたわれているふたつの﹁たわやめ﹂は、男性の
視線を通した奈良朝の一般的な﹁たわやめ﹂像といえよう。おそらく、そういったものを受容しながら、前章の
﹁幼婦﹂に象徴される﹁たわやめ﹂は作られていったのだらう。
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﹁ますらを﹂にしろ、﹁たわやめ﹂にしろ、自己を何かの形で規定するには、他者の視線が介在する。おそらく、
﹁たわやめ﹂の場合、そこには﹁二元的態度﹂としての﹁媚態﹂と関わり︵注13参照︶、男性の作ってきた視線、ま
たそのような視線をつくってきた社会構造、文化のありかたが、さまざまに関与していただろう。坂上郎女や笠金
村の歌に見られる虚構的な一人称や漢詩文の世界ともかかわる創作方法は、そのような構造を歌が享受される場の
中で典型化するゆえ、時にそういった男と女の関係を明らさまに表出することにもなった、といえるのではないか。
成していったといえるだろう。
結びにかえて
﹃万葉集﹄における﹁ますらを﹂と﹁たわやめ﹂の語の用例を検討してきた。両語は、﹃万葉﹄の広い時代にわた
り使われているが、作者未詳の作者のほかは、多く宮廷に関わる作者や、大伴氏の歌に集中しており、東歌などに
は見られない。ある意味では、ひとつの文化圏での価値観を背後に置いた言葉といえよう。
その上でいうなら、両者ともにまず、神話的幻想をその基底にもった像をもちながらも、﹁ますらを﹂はそれを
反転させることによって、﹁ますらを﹂像に負わされた名誉や義務や制度と結ぶ剛直さや理性を失わせる恋の力が
いわれることが多くあり、また﹁たわやめ﹂においては、﹁幼婦﹂に象徴される幼さや弱さを強調することによっ
て、ある現実的な媚態を演じるような男女の関係性を作り出していく歌が見られた。そして後者にあっては、漢詩
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善し悪しは別として、そのような男と女の位相は一つの構造として、歌の中に組み込まれ、女歌の一つの要素を形
『万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
文の影響や宴の場の雰囲気と関わって、それを具なるものとする意識があったことも想像され、またそれを恋歌の
力として自らのものとしていく女性の歌の方向も見られた。それぞれの特徴は、社会的に作られていく性差に伴う
幻想や制度を背後としながら歌の言葉として定型化されていったものだが、また女性の返歌の中では、男性の作っ
た﹁ますらを﹂像を無化、超越して、ある一体化を指向するかのように読めるものも見られた。
ますらを
しかしいずれにしろ、家持が一方で﹁ますらを﹂の語で﹁ますらを﹂意識を鼓舞する歌を作りながら、一方で
﹁大夫と思へるわれをかくばかりみつれにみつれ片思ひをせむ﹂︵七一九︶といった恋の嘆きの歌を作り、また坂上
郎女が一方で神女を装う﹁たわやめ﹂をうたいながら、一方で﹁遥々﹂としての﹁たわやめ﹂の媚態を演じる歌を
作るなど、﹁ますらを﹂﹁たわやめ﹂の語をめぐっての諸要素やその指向は、それぞれそれをひとつのものに収敏さ
せたり、固定化させたりすることはできないようだ。そして、﹁たわやめ﹂の、﹁神女﹂性から﹁幼婦﹂性への移行
といった一方的な変化を措定することもできないだろう。イザナキ・イザナミの婚姻をめぐる愛の言葉の唱和は、
男女一対、一体の神話的始原の幻想と、制度の中での男女の位置の現実といった二面性をうかがわせるが、もちろ
んこれも近代から見たひとつの幻想に過ぎないし、神話的なものから現実的なものへと、諸観念が一方的に推移、
進化するわけではない。そういったものが混沌とした状態で融合しているところに、﹃万葉﹄の現実があるし、そ
れは古代に限ったことではない。
近年の万葉の読みは、大きくいうと、言葉の広戸に重きをおいた古代的な要素を重視する見方と、漢詩文の影響
や諸制度の整備などによる脱古代性や非古代性を注視する見方の、二つの方向があるように思う。しかし、ある幻
想を言葉によって形作っていく歌において、両者は重層しながら干渉しあっており、それは、ひとり古代に限らず、
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「万葉集』の「ますらを」と「たわやめ」
短歌や長歌という形を通して継承されてきた世界が、幻想と現実の狭間で常に内在している課題だろう。
﹁ますらを﹂﹁たわやめ﹂によって作られている男女の像は、古代のある幻想を反照したものであるとともに、ま
た後の時代の現実をもどこかで照射するものであろう。万葉の﹁ますらを﹂﹁たわやめ﹂には、内在的にも外延的
にも、文化のありようがさまざまに蓄積されており、重層した意味・世界の領域をもっていると考えられる。
︵1︶ ただし真淵は同じ﹃にひまなび﹄で、﹁皇朝の古へ万に母を本として早めり。児を養すより始めて其の功父にまされればなり﹂
実際に作った和歌が、一途に万葉風におもむいているわけではない。
として、﹁から国も上つ世はここに均しかりしを、周といふより万を強ひ改めて父を貴しとす﹂とも記している。また、真淵が
︵2︶ ﹁ますらを﹂は﹁麻須良乎﹂﹁麻須良男﹂などの仮名書のほか、﹁益荒夫﹂︵一八○○︶、﹁健男﹂︵二三五四︶、﹁建男﹂︵二三八
六︶といった用字があり、﹁荒﹂﹁健﹂にはこの語に対する当時の意識がうかがえる。四十一例を数える﹁大夫﹂は古写本に﹁丈
夫﹂とするものも一部あって、﹁大丈夫﹂の意識もうかがわせるが、天蓋﹃注釈﹄には﹁集中多くの﹃大夫﹄が古写本にも異同
のないものが圧倒的に多く、それをすべて﹁丈夫﹂の誤とも云ひ難く、﹁大夫﹂の文字を﹁ますらを﹂の意に用みたものと見る
ふ﹂と訓んだ。すると﹁ますらを﹂の用例は五十九例となる。
べきであらう﹂とある。従うべきだろう。なお﹁武士﹂︵四四三︶を澤潟﹃注釈﹄は﹁ますらを﹂と訓むが、ここでは﹁ものの
︵3︶ 小島憲之﹃上代日本文学と中国文学﹄中 九六六頁
︵4∀ 大伴旅人はこのとき正三位、大納言兼大宰帥。旅人は、壬申の乱の功臣安麻呂の子であり、左将軍、征隼人持節大将軍など武
︵5︶ 古橋信孝﹃万葉集を読みなおす﹄一五六頁
人としての官歴も多い。子の家持の﹁ますらを﹂意識の覚醒に繋がるものをもっといえよう。
︵7︶ 折口信夫﹁水の女﹂︵﹃折口信夫全集﹄巻二所収︶
︵6︶ 浅野則子﹁うらみの歌﹂﹃大伴坂上郎女の研究﹄二二九頁
︵8︶ 尾崎暢映﹁天の安の河﹂︵﹁学苑﹂82・5、6> なお拙稿﹁人麻呂歌集七夕歌の成立とその和歌史的位置﹂︵﹁古代研究17号
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注
︵9︶ 駒木敏﹁大伴坂上郎女の怨恨歌﹂﹁万葉集を学ぶ﹄第三集ほか参照。
84・11︶参照。
︵10︶ 東茂美﹁怨恨歌論﹂﹃大伴坂上郎女﹄三七六頁
︵16︶ 梶川信行﹁軽の道の悲恋物語﹂﹃万葉史の論 笠金村﹄所収
︵15︶ 伊藤博﹃万葉集相聞の世界﹄、同﹃万葉集繹注﹄
︵14︶ 橋本達雄﹁幼婦と言はくも著く﹂﹃大伴家持作品論孜﹄所収
︵13︶ 九鬼周造﹃いきの研究﹄岩波文庫 二二頁
︵12︶注5前掲書。
﹁詞使聯合﹂といった方法の﹁正の評価﹂への指向を主張している。
向にそった作歌の営為﹂といった積極的な観点からとらえなおして、従来の﹁我﹂の個性を尊重する近代的な理解を批判し、
彫り出す努力よりも常に先行したと考へてよいやうである﹂︵五味保義︶などをあげる。そして、東は、この歌を﹁六朝文学志
ての恋の訴えに﹃我﹄がない﹂︵川口常孝︶、﹁下条聯合を得意とする、手工的な興味の方が、情を湛へて、自己や対象の個性を
の作であるか否かを疑はしめるところさへある﹂︵土屋文明﹃私注﹄︶、﹁その訴えが模糊として鈍重﹂であり﹁四十一句を費やし
︵11V 東茂美は右掲書で、この歌に対して向けられたさまざまな批判、例えば﹁﹃待ちやかねてむ﹄などは、せっぱつまった失恋者
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