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Ⅳ 霞ケ浦と人とのかかわり

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Ⅳ 霞ケ浦と人とのかかわり
霞ケ浦への招待
Ⅳ
ファイル 17
霞ケ浦と人とのかかわり
§16
自然物とのかかわり
この章では漁業・治水・利水を除く人と霞ケ浦とのかかわりを見ることにします。
16.1 自然物の採取
大昔の漁労
霞ケ浦周辺の台地に点在する貝塚からはサルボウ・シオフキ・マガキ・アカニシ・ハイガイ(アカガ
イに似た浅い暖海の貝)など浅海性の貝や、ヤマトシジミのような汽水性の貝の貝殻が出土し、クロダ
イ・スズキ・フグなど沿岸魚の骨が発見されて、縄文時代の霞ケ浦(古鬼怒湾)が魚介類の採取の場と
して盛んに利用されたことを示しています。縄文人は恬(やす、小型の銛の類)や網(土器片の錘を付
ける)を使ったようです。
古代の人々も霞ケ浦で漁労を営んだに違いありません。『常陸国風土記』(奈良時代の編纂)には、
浜辺にたくさんの海苔が干してある(信太郡の条)、海にミル(食用の緑藻)や藻塩草が生え、魚類は
記載できないほど種類が多く、螺(にし、巻貝)やハマグリが豊富で、川にはフナなどが多い(行方郡
の条)と記されています。
動植物の採取
明治時代以降になっても、霞ケ浦ではさまざまな動植物の採取が行われました。
タンカイ取り
江戸時代から昭和 40 年代のはじめまで、霞ケ浦ではタンカイ(淡貝、田貝、丹貝、
標準和名はカラスガイ)の採取が行われました。湖底にはタンカイが敷き詰めたように生息する場所が
あり、舟の上から長い柄を付けた篭で採って、ゆでて食用に出荷するほか、腐らせて肥料にしました。
大きな樽に貝を入れて腐らせるので、その臭気は大変なものでした。土浦では 1915 年に貝殻で釦(ボタ
ン)をつくる工場が設立されています(プラスチック製品のない時代です)。タンカイのほか、湖岸や
水路のマシジミはザルですくい、タニシは拾って食用にしました(シジミは生きたまま、タニシはゆで
たむき身が市販されました)。タニシの殻は人形細工になっています。1960 年代には琵琶湖から移入し
たイケチョウガイが土浦入で繁殖し、これを業者が採取するほか、子供が採って養殖業者に渡すと小遣
いになりました。
藻刈り 湖底の藻(ササバモなど沈水植物)は肥料としなり、藻刈りは江戸時代から 1980 年ころま
で続けられました。茨城県が制定した最初の水産取締規則は「茨城県湖沼川漁業採藻取締規則」(1893
年)という名前で、漁業に加えて採藻を取り締まっています。「霞ヶ浦水産調査一班」(1884 年、明治
18 年、茨城県勧業雑誌第 42 号)という調査報告は「北浦では水深およそ 15 尺(4.5m)までの地はおお
むね藻が生える」と前置きし、聴き取りとして「延方(潮来市東部)で肥料とするのはイセモク・三月
モク・青柳モク・アカツラモク・ササモク・ツツゴモク(最良)・ミツクサで、水田に使うと害草とな
るため肥料に用いてはならないものはウリカワ・オータモク・ヲトガイ・エゴガラ・ビルモ・カイルノ
ハであり、ガアタクを水田の肥えに用いるとビルモの類に変生して害草となる」、「浮島(稲敷市)で
もアシナシ・ニラモ・ササモ・バーモ・ヅツモ(最良)・ネコモ・タチモ・ニイモを肥えにする」(意
訳)と記しています。往時の人々は水草を細かく識別し、その性質を知って利用したのです。
蛙取り
1901 年に手野(土浦市)でウシガエル(食用蛙)の養殖(輸出目的)が開始され、これが
湖岸域に逸出し繁殖しました。ウシガエルはいまも土浦入り北岸に多く分布します。このため西浦では
食用蛙の捕獲が行われました。1980 年ころまで蛙取りの名人がいて、捕獲した蛙を食用、解剖教材用、
実験材料として出荷していました。ウシガエルが特定外来生物に指定された現在、食材としての国内流
通はないようです。
狩猟など
明治になって銃の携帯が一般人に許可されたころ、羽毛採取のために水禽類を撃ったかも
知れません。食用としてのカモ類は江戸時代から霞ケ浦の重要産物でした(魚より鮮度保持が容易で長
距離輸送に耐えます)。明治 13 年、牛堀に「有限会社、西北両浦魚鳥産業会社」が設立され、西浦、北
浦の魚と鳥を集荷して東京浜町の市場(関東大震災以前の魚河岸は日本橋にあった)に卸しました(茨
城県史料近代産業編Ⅱ、427)。昭和の東京でも妊婦に鴨肉(青首)を食べさせると乳の出が良くなると
され、冬になると鳥屋(肉屋)の店先に鴨が吊るされて、鴨鍋などの材料に売られていたのです。
いま生業としての狩猟は(ほとんど)なくなりましたが、遊猟としての鴨撃ちは続けられています。
1970 年代には船外機つき和船またはゴムボートを使う遊猟が盛んに行われました。トヤを掛ける鴨撃ち
は現在も鳥獣保護区でない場所で行われます。湖岸の湿地に仕掛けた鴨罠や小鳥用の霞網(かすみあみ)
は 1990 年代まで各所に見られました。小鳥の群れを誘うためヨシの刈り方を工夫したとのことです。
生活域としての湖岸
昭和も 30 年ころまでの湖岸は食材、工芸材、飼料、肥料、薬草などの採取の場として生活に結びつい
ていました。川田美紀(早稲田大学)の北浦西岸高田集落(鉾田市)における聴き取り調査の報告(鳥
越皓之編著、2010、『霞ヶ浦の環境と水辺の暮らし』、早稲田大学出版部)は、昭和初期の湖岸と周囲
の水田、水路での採取(職業としてでない漁、猟)として、フナ・コイ・ナマズ・ウナギ・エビ・タン
カイ・カモ(食材としての自家消費、売却して小銭稼ぎ)、藻(肥料)、イタチ(売却)・ヨシ(屋根
材、ヨシズなど)、マコモ(牛馬の飼料、ムシロやカマスの材料、売却)、ガマ(ムシロやカマスの材
料、蚊よけいぶし材、売却)、ヤナギ(燃料、漁具材料)、セリ(食材)、ショウブ(端午の節句用)、
シジミ(遊びで取り食材、肝臓を強くする薬用)、タニシ(食材、ドジョウ取りのえさ)、ドジョウ(遊
びで採り食材、売却、ウナギ取りのエサ)、ヒル(ウナギ・ナマズ取りのエサ)、スナドジョウ(シマ
ドジョウ、子供の遊び)、ヒシの実(遊びで取り、ゆでて菓子がわり)を挙げています(カッコ内は引
用者による再整理)。こうした採取は高田集落あるいは北浦湖岸に限ったことでなく、水辺の農村に普
遍的だったと考えられます。
昭和 30 年代までの農村では燃料・肥料・飼料の確保が重要課題でした。台地の平地林は燃料と肥料の
供給減、湖と湖岸は肥料(水草・タンカイ・魚類)と飼料(オギやススキ(萱、カヤと呼ぶ)・マコモ)
の供給源でした。ヤナギの枝は燃料、漁具材、刈敷となっています。湖岸のヨシは屋根材・すだれ・す
のこ・障子・垣などになります。湖岸湿地の多くは入会(いりあい、集落の共同利用地)として管理さ
れ、区割ごとに入札で刈り取られたようです。ヨシがつくる浮島は、島の一部を切り取って竹竿に繋ぎ
留めておくと大水のときに浮き上がるので、これを舟で自分の田まで曳いてきたという話があります。
水が退くと浮島は田に着地し、田の地盤が高まって湿田が改良されるのです。ヨシの地下茎(蘆根、ろ
こん)は吐き気、胃もたれ、利尿に用いると『本草綱目啓蒙』(1820 年ごろ、小野蘭山著、内容は生活
百科事典)にあります。ヨシの筍(たけのこ)は食用になりました。
マコモはコモ(むしろ)の材料で(今も盆茣蓙などに作る)、マコモの茎にクロボ菌がついて軟化し
たマコモタケ(食用)は『利根川図志』に載っています。カサスゲは菅笠(すげがさ)・蓑(みの)・
手提げ袋などの材料でした。イ(藺)は茣蓙(ござ)や紐の材料で、江戸時代から畳材として栽培され
ます。イは灯芯草(とうしんそう)とも呼び、髄(ずい)が灯芯(魚油、菜種油を用いた灯火の芯)と
なるため幕末の土浦藩は換金作物として栽培を奨励したとのことです。ガマの花粉は傷薬(漢方の蒲黄)
となり、穂綿は火口(ほくち、火打石の火を火口に受けて焚き木に移す)となりました。エゾミソハギ
(いまも盆花に使う)が下痢止め薬になるなど、湖岸は民間薬の供給源でもありました。クログワイは
塊茎を食用とし、オニバスは水蕗(みずぶき)と呼ばれて葉柄をフキのように利用するほか、種子から
は肌理(きめ)の細かい澱粉が取れました。ヤナギタデは香辛料(今も蓼酢にする)、セリ・ミゾソバ・
ヨメナ・ガマ・ヤブカンゾウなどの若芽は菜になりました。ミズアオイとコナギ(ナギ)は古い時代に
羹(あつもの、煮浸し)とされましたが、万葉集(3829)に
ひしをすに
ひるつきかてて
たいねがふ
われになみせそ
なぎのあつもの
(意訳:薬味にノビルを入れた酢醤油で鯛を食いたい、ナギの煮浸しなど見せるな)
とあるので、上等な食材ではなかったようです。
むかしの湖岸は生活との深いつながりの中にあり、意識的無意識的に管理されてきました。人が湖岸
を必要としなくなったいま、湖岸の再生をとの声もありますが、それには絶え間ない人力の投入が必要
でしょう。
製塩
美浦村大山の法堂遺跡や土浦市の上高津貝塚で製塩土器が発見されており、『風土記』(浮島の条)
に「住人は塩を焼いて生計を立てている」(意訳)とありますから、「古鬼怒湾」から「流海」の時代
に製塩が行われたのは確かでしょう。広畑遺跡(稲敷市)は縄文時代の製塩土器と思われる土器がはじ
めて発見された遺跡として知られています。先史時代の製塩では薄手の無紋土器に海水を汲みいれて煮
詰め、土器ごと移送した可能性があるそうです。古代の製塩では刈り取った藻塩草(西浦ではアマモと
考えられる)を浜に積み並べ、桶に汲んできた海水をかけ天日に干して塩を析出させたのち、乾いた藻
塩草をかき集めて釜に移し、水を加えて濃い塩水として、これを煮詰めたらしく、製塩には海水と釜の
ほか、藻塩草と薪と労働力と晴天の確保が重要だったと思われます。
砂利採取
霞ケ浦では明治時代の中ごろから手掘りで砂利、砂(古鬼怒川の堆積物)の採掘が行われてきました。
1920 年代にバケット式の蒸気船が導入され、1960 年代にサンドポンプ船が配備されて採掘は本格化しま
す。1960 年代まで砂利採取は茨城県知事の許認可事項で、掘削は Y.P.-7.00m までと決められていまし
たが、採取量の制限はありませんでした。霞ケ浦が国管理になると、1972 年に「砂利採取の掘削位置は
湖岸から 150m(1996 年から 250m)以上離れること、掘削深は西浦 Y.P.-4.00m、北浦 Y.P.-7.00m までと
すること」が決まり、年間採取量も制限されました。1993 年には北浦での採取が禁止されています。年
間の採取量は最盛期に 60 万m3程度でしたが、近年は 20 万m3台またはそれ以下と思われます(骨材の
市価は近年低迷しています)。
これまで採掘された砂利、砂の総量がどれほどかは分かりませんが、仮に年間 20 万m3ずつ 40 年間採
取したとしても、その総量は 800 万m3となり、手賀沼の湖容量 560 万m3を超えます。過去 100 年間に
は 2000 ㎥に近い量が採掘されたのかもしれません。印旛沼の湖容量は 2800 万m3です。
16.2 霞ケ浦と病気
寄生虫病
下肥(しもごえ、屎尿)がおもな肥料であった昭和 40 年ごろまで、カイチュウ(回虫)・ギョウチュ
ウ(蟯虫)・コウチュウ(鈎虫、十二指腸虫)は全国的に珍しくありませんでしたが、低地に生活し魚
食を常とする湖岸の人々は、とくに寄生虫に悩まされたそうです。
鉤虫(コウチュウ) コウチュウの卵は糞便に混じり体外に出て休眠したのち、暖かく湿った土中
で孵化して仔虫となり、通りかかった人の皮膚から体内に進入して十二指腸に寄生します。寄生された
人は貧血に悩みます。湖岸湿地の耕地は仔虫の発生と寄生に好条件だったようですが、人糞を肥料に使
わなくなり農薬が普及して日本のコウチュウは絶滅したと見られ、いま国内に発症例はありません。
日本住血吸虫(ニホンジュウケツキュウチュウ) 甲府盆地は日本住血吸虫の罹病地帯として
有名ですが、茨城県・千葉県にまたがる利根川下流域も罹病地帯でした。日本住血吸虫の卵は人糞が水
田など水湿地に運ばれると孵化して幼虫となり、ミヤイリガイという小さな巻貝に寄生して増殖します。
この幼虫は変態してミヤイリガイを離れ、水中を泳いで人に出合うと皮膚を破って人体内に入り、血流
に乗って分散し成虫となります。成虫に寄生されると血栓や肝臓障害、脳障害を起こします。水田の側
溝をコンクリート三面張りにするなど、ミヤイリガイが住めない環境つくりを進めた結果、現在の我が
国に日本住血吸虫による罹病例はなくなっています。
横川吸虫(ヨコカワキュウチュウ) 湖岸地域に多かった疾病に横川吸虫症があります。横川吸
虫の卵は水底の泥にひそみ、巻貝のカワニナに食べられると貝の体内で孵化し幼虫になります。成長し
た幼虫はカワニナの体を破って泳ぎ出し、シラウオ(またはアユ)に取り付いて魚の筋肉に入ります。
このシラウオを加熱しないで食べた人が横川吸虫に感染するのです(人の小腸に定着)。少しの感染で
は自覚症状もないようですが、多数の虫に寄生されると軽くて下痢や腹痛、重症では慢性腸炎を発症し
ます。シラウオを生食する習慣(泥酢と呼ぶ酢味噌料理など)が湖岸での発症例を多くしたのです。横
川吸虫は現在の日本にも多い寄生虫ですが、霞ケ浦ではカワニナが極端に減っています。
肝吸虫(カンキュウチュウ) 湖岸域では肝吸虫(肝臓ジストマ)の罹患も多かったようです。
肝臓ジストマの第一中間宿主はマメタニシ、第二中間宿主はコイ・フナ・モツゴ・ウグイ・モロコなど
で、生魚をアライやタタキで食べる習慣が罹患率を高めたのでしょう(加熱すれば安全です)。ヒトに
寄生した肝吸虫は肝臓に定着し、ときに肝硬変を発症します。
秋疾み(あきやみ)
頻繁に洪水が起こった時代に人々を悩ませたのが秋病み(七日熱)です。これは細菌(レプトスピラ)
の感染症で、ネズミなど野外の哺乳動物が保菌者となり、その糞便が洪水に流されて広まると、水や泥
に潜む細菌が口や傷口から体内に侵入するのです。軽症ならカゼのような症状ですが、重症(ワイル病)
だと黄疸、出血、肝臓や腎臓の障害を起こして死ぬこともあります(人から人への感染はありません)。
台風が襲う秋に多発するので、古くから「秋疾み」と呼ばれましたが、いまなお流行の多い東南アジア
でも台風が襲う時期に集中するようです。霞ケ浦の風土病といわれたワイル病も、堤防ができ洪水の被
害を忘れた時代となって人々の脳裏を去っています。しかし、菌がいなくなったわけではありませんか
ら注意が必要です。
16.3
霞ケ浦を捨て場に
『古事記』にこういう話があります。高天原を追放されたスサノオが、出雲の斐伊川のほとりに立っ
て川面を見ると、箸(古代の箸はピンセット型だったそうです)が流れてきました。箸を見たスサノオ
は、この川上に人が住むに違いないと考え、川をさかのぼって行くと、はたしてあばら屋があり、老爺
と老婆が少女を中にして泣いていたというのです。有名な大蛇(ヤマタノオロチ)退治の話の冒頭です
が、この話は、人が住めば必ずその証拠が川を流れる、人は川にものを流すことを物語っています。人
は古くから意識して、あるいは無意識に川を捨て場に利用してきたのです。「厠」(かわや、便所)と
いう言葉はそれを端的に示すものでしょう。
人々は川に不用品を捨てます。街の川が身近であったころ、道を掃いたゴミを橋の上から捨てるのは
普通のことでした。農作業では野菜を川で洗い、不用部は川に捨てました。かつて土浦市街を水路(築
地川など)がめぐっていたころ、川底は瀬戸物の破片でいっぱいでした。捨てられたゴミのうち、流れ
ず腐らないものが川底に沈んで溜まるからです。金属類が不足した時代には、川底の鉄くずを拾う人た
ちがいました。
川を流れたゴミは、やがて湖に達します。湖がゴミの最終処分場となっているのです。いまの霞ケ浦
は、竹や木材片のほか、発泡スチロールやペットボトルなどのプラスチック製品でいっぱいです。わざ
と投げ込まなくても、風や雨が町から村から軽いものを集めて川に流し、湖に送り込むのです。
湖岸に不要品を持ち込む人はあとを絶ちません。残土や割れ瓦などをトラックで運び込む人もいます。
一般の家庭ゴミのほか、古着や古玩具、大量の使用済みオムツや注射針、子猫などの死骸、使い残しの
薬剤や塗料、建築廃材や古タイヤ、古電池、エロ雑誌や CD ラジカセ・テレビ・冷蔵庫・洗濯機、机や本
棚、蛍光灯、自転車やオートバイ、痛んだ農産物など、身の回りのものはなんでも捨てられています。
年間に確認される不法投棄件数は、家電製品が 200 から 300 件、車両が 50~60 件、建築廃材が 100~150
件、一般家庭ゴミが 1200 件程度です。おもな廃棄物は泥水から拾い上げて処理しますが、その苦労と経
費は大変なものです。投棄は粗大ゴミや家電製品の処分が有料となってから増加しました。しかし、経
費を自ら負担して投棄物品を回収し処分する活動を続ける人たちもいます。
霞ヶ浦の湖岸に捨てられていたもので作った部屋の展示
(霞センター)
人々は湖をし尿の最終処分場に利用しています。1950 年ころまで、し尿はほぼ完全に農地還元で処理
されていましたが、化学肥料が簡単に使用できる時代になると、肥料としての価値を失ったし尿は山林
に、あるいはダルマ船に載せて湖の沖に投棄されました(東京でも多くの糞尿を海洋投棄していました)。
1970 年代にし尿処理場が建設されはじめますが、その廃液は河川経由で湖に捨てられました。1980 年代
に下水道の敷設がはじまりますが、処理下水にも汚れ成分が含まれていますから、すべての排水を下水
処理したとしても、糞尿や生活排水の汚れ成分は下水道処理排水に含まれて湖に流れ込み続けることに
なります(湖に影響を与えないためには下水にも上水に近い処理が必要です)。
集水域の人々は水の捨て場に湖を利用しています。家庭や商店で使う水も、農業で使う水も、洗車な
どの水も、蒸発しない限り行く先は湖です。降水や排水の地下浸透が少なくなったので、市街地などか
ら湖に向かう水が増えています。人は汚れをぬぐうために水を使い、使われた水は汚れを湖に運びます。
人々は、水とともに溶けるもの、流れるものを湖に捨てているのです。
湖は生き物の捨て場にされています。西浦にハスの茂る場所がありますが、これは出荷前のレンコン
を湖で洗い、そのとき捨てた屑蓮根が育ったものです。各所に繁殖しているボタンウキクサ、ホテイア
オイ、アマゾントチカガミなどは、観賞用のものを誰かが捨て、それが野生化したものでしょう。カミ
ツキガメ(ミシシッピーアカガメ)も、もとは愛玩用です。購入すれば何万円もするような観賞用魚が
張り網にかかることがあります。どれだけの種類が捨てられているのかは誰にも分かりません。
1946 年土浦川口川
1926 年
土浦川口川
現在は高架道となる
(広報広聴課資料)
16.4 湖の地形改変
湖岸の開田 湖岸の葦原は荒撫地(こうぶち)とされ、これを耕して美田と化す作業は古くから続
けられてきました。行方地方の西浦湖岸低地にある条里跡も、各地に点在する「新田」(江戸末期の成
立が多い)も葦原(自然堤防を集落、後背湿地を水田とする)の開田と思われます。開田は我が国最初
の大規模土地改変です。湖岸集落が保存している江戸時代の古地図の多くは、崖下の集落から湖に向け
て畑、田、1~2 枚の見取り場(収穫が不安定で年貢率を定めない田)、葦原(谷原)、湖水という配列
を示しています。
湖面の干拓
霞ケ浦の湖面干拓は大正の米騒動(1918 年、米価の暴騰に激怒した民衆が全国各地で
米商人や地主を襲い軍隊も出動)を契機に開始され、減反の時代を迎えて終息しました。
1919 年に「開墾助成法」が制定されると、湖岸各地で地元資本や東京資本による干拓が開始されまし
た。1934 年までに着手された干拓事業は関川霞(八木)・小高・潮来・高浜三村・鰐川・甘田入・本新
萩原・野田奈川・仲ノ洲・藤川・沖宿・内浪逆浦(日の出)・江戸崎入の合計 13 カ所(1625ha)ですが、
このうち終戦(1945 年)前の完工は関川霞・小高・潮来・鰐川・本新萩原の合計 461ha で、残りは終戦
後の完工となっています。1941 年に食糧増産を目的とする「農地開発法」が制定されましたが、すでに
用具も人員も不足し、干拓を進められる情勢ではありませんでした。
終戦(1945 年)後、日本は大食料危機(外地からの引き揚げで人口は増え、社会は疲弊し、輸入はで
きない)となり、食糧増産を国策として「緊急開拓実施要領」が制定されて、各地で山林原野への入植
が進みました。霞ケ浦では民間資本による干拓が計画されましたが、1947 年に「農地開発法」が制定さ
れて干拓は公営方式となり、民間の計画は国(農林省)、県に移管されました。霞ケ浦の国営干拓(県
代行を含む)に本新島・日川・余郷入・延方・西ノ洲・羽賀沼の合計 6 カ所 1335ha があり、これらは 1960
年代後半から 70 年代前半に完成しています。湖面干拓の合計面積は 2660ha で、現在の湖面積の約 1 割
に相当します。干拓された場所はすべて湾入部や浅場です。
1970 年代には高浜入干拓計画が問題化しました。茨城県は現在の霞ヶ浦大橋から高崎沖あたりまでの
1178ha を干拓し、承水路を残して八郎潟方式の大農式干拓農地を造成する計画(陸路で両岸を結ぶ目的
もあったようです)を 1967 年に決定しましたが、漁業者の反対が強く、わが国が 1966 年にコメ自給率
100%を達成し 1970 年から減反政策を始めたこともあって、すでに一部で漁業補償も進んでいましたが、
1978 年に干拓中止を決定しました。土浦入り干拓の計画もありましたが本格化しませんでした。なお、
1963 年に西浦が国際空港の候補地に挙げられ、調査も行われましたが、霧の多発その他の難点から 1965
年に「霞ヶ浦は空港に不適」と決定、成田空港の建設に進みました。
完成した干拓地(本新島・西の洲・余郷入)
1980 年(広報広聴課資料)
埋立て
湖岸の地形を大きく改変したのは築堤ですが、それ以外にも行政の手で歩崎公園、麻生漁港、
土浦湖北地区のなどで湖岸湿地が埋め立てられています。戦中戦後に多くの湖岸湿地(州)が水田化し
ましたが、いまは水没ないし流出しています。
湖底の撹乱
現在の砂利採取は各種の制限のもとに行われていますが、野放図な時代もあって、湖
底には Y.P.マイナス 9m 以上の掘削跡や湖岸から 100m もない位置での掘削跡が残っています。干拓に必
要な土砂を湖底から調達したところもあります。湖底の表層は底引き網で繰り返し撹乱されており、機
械船による漁が許可になったころには、漁船が土器やナウマン象の化石を引き上げた話をたびたび聞い
ています。
底泥浚渫
計画的な湖底の改変に底泥浚渫があります。西浦では湖沼水質の改善を目的とする土浦
入、高浜入の底泥浚渫が行われました。有機物やリンの含有率が高い湖底の表層 30cm ほどを浚渫除去す
るものです。底泥浚渫は 1975 年から浚渫船「かすみ」、後に「蛟龍」を用いて小規模に進められ、1991
年までに約 78 万m3を浚渫して、浚渫土は湖岸に設けたヤードや土浦市滝田地区(旧桜川河口)の埋め
立てで処理されました。いま滝田地区は整地され、住宅地となっています。
1992 年度には合計 800 万m3(土浦沖 666.4 万㎥・高崎沖 49 万㎥・高浜沖 84.6 万㎥)を処理する大
規模浚渫が計画されて、ハイテク浚渫船「カスミザウルス」と中継船「明日香」が建造されました。土
浦入の浚渫泥はパイプラインで加圧中継船を経由し 20km 以上離れた甘田、西ノ州干拓地に送られ、高浜
入の浚渫泥は小高干拓地に送られて、地盤のかさ上げに使われています。干拓地には湖面より低い水田
があるのです。浚渫は 2012 年 5 月に完了しましたが、今後数年は干拓地の整備が続きます。■
中継送泥船「明日香」
浚渫船「カスミザウルス」
浚渫底泥の乾燥
(霞河川資料)
(広報広聴課資料)
1994 年(広報広聴課資料)
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