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竹内一公氏

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竹内一公氏
セッション 1:
竹内一公氏(柏崎青年会議所会員)
・柏崎青年会議所は、1971 年に誘致決議をして以来、推進団体の立場をとっておりま
す。東日本大震災以後は、いろいろな意見があるわけですが、我々は原子力政策の理
解者ということで活動させていただいております。また、石坂さんと同じく、その立
場でもって柏崎刈羽原子力発電所の透明性を守る地域の会に参加させていただいて
おります。今回は、私個人の体験や私感をかなり含んでお話させていただきます。
・私は昭和 54 年生まれ、現在 33 歳になりました。柏崎原子力発電所の一号機の着工
が昭和 53 年、ほぼ同時期を生きております。小学生のころは地域のサッカーチーム
に所属しており、発電所の中の体育館を使わせていただいたり、東京電力のCMに出
演させていただいたりしたのをよく覚えています。
・そんな私にとって、柏崎刈羽原子力発電所というのは、公民館や水や空気と同じよう
な感覚で「あって当然」の存在だったと思います。必要性、安全性、危険性について
はまったく考える機会はありませんでした。ただただ、感謝しておりました。
・はじめて特殊な施設だと理解したのは大学2年の時、ゼミに所属するにあたり、地方
の紹介を交えて自己紹介をしたときでした。2002 年、ちょうどそのときは拉致問題と
ともに東京電力の情報隠し問題がありました。自己紹介の中では、「世間をお騒がせ
しております柏崎市から来ました」と話し、大変恥ずかしく思った記憶があります。
・8年前に柏崎に帰り、父の経営する電気設備工事会社に勤めております。将来は会社
を受け継ぎ、社業を発展させていきたいと思っております。
・特に電気に携わる業種ですので、震災後、エネルギー逼迫の問題に関しては実感せざ
るをえない立場になりました。家庭でできる省エネ以上に、事業所での相当な努力に
よって、日本はそのエネルギー逼迫問題を乗り切ったと認識していますが、そのあた
りに関してマスコミがしっかりと言及してくれたことはあまりなかったことが非常
に残念です。
・特に地方都市である柏崎は競争力が失われているといって過言ではないと思います。
こういう時代にあり、私や周りの若い経営者たちには漠然とした不安感が漂っている
ように思います。
・私も含めて、
「うちの会社は俺が社長になったとき、本当にやっていけるのだろうか」
とか、
「東京から帰って来たいのだが」という仲間などは、
「柏崎に帰っても仕事があ
るのだろうか」という声が現実に聞こえてくる中で、柏崎の未来を考えるシンポジウ
ムということは大変有意義なことだと思って参加させていただいています。
・私はまだ経営者ではないのですが、私たちの使命は雇用と納税だと思っています。そ
ういった中で、雇用を確保して、より豊かな暮らしを目指したい、私たち若者が働い
て、より豊かな暮らしを目指せる社会こそ、健全な社会だと思っています。
・柏崎を取り巻く漠然とした不安感の原因としては、世界的な不況感、日本の産業の空
洞化、そして柏崎刈羽原子力発電所の長期的な見通しが立たない現状だと思います。
まずこうした不安感をいち早く1つでも解決して、若者が明るい未来を創造し、実現
できる町であってほしいと思います。
・「地域の会」が発足するきっかけとなった情報隠しや問題、震災以後、電源の最大消
費地域である関東の人たちへのインタビューを見るにつけ、非常に消費地の人たちは
無責任だと感じます。
・今まで我々立地地域の努力の恩恵を相当に受けているであろう地域の人たちが、いざ
問題や事故が起こると、
「止めればいい」
「お金を貰っているからいいだろう」という
意見が相当聞こえました。そういう人たちばかりではないと思いますが、今の日本全
体の豊かな暮らしは、福島や我々、他の立地地域の努力の上に立っているものだと思
います。
・今、柏崎を取り巻く現状は、原子力発電所を請け負ってきた努力を声高に叫ぶには少
し息苦しい状況だと感じています。その中で、私たち立地地域の住民がもっと発電所
に興味を持って、しっかりと監視をし、安全性をしっかり確保できるように議論する。
そして国や事業者にお願いをしていく。こういった環境をもっと作っていく。みんな
で話そう、みんなでしっかりと責任を果たそう、こういった議論できる柏崎こそ、必
要とされている立地地域の責任だと思っています。
・私はここ柏崎で生まれ育ち、柏崎で今後も生きていきます。私が恩恵を受けたこの環
境を、私の子どもや孫の世代までぜひ受け継げたらいいなと思っています。
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