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家族全員参加のケースも

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家族全員参加のケースも
平成 16 年 6 月 1 日 火曜日 第15号
毎月 1 回発行
(毎月 1 日付)
(平成 16 年 4 月 20 日第三種郵便物認可 郵業認第1号)
1
ごくみ
産業廃棄物を、出来る
だけリサイクルしようと
いう考えが広まってき
た。環境と資源の保護を
考えれば当然のことだ
が、手放しで喜べる話ば
かりではない。
外国には、工業製品廃
棄物を処理する工場が増
えているという。日本で
は採算が合わないが、賃
いたとも言える。
て、大幅な希望者増に結びつ
です﹂と語る。
つきにくかった。嬉しい誤算
く、当日ぎりぎりまで予想が
者さんからの参加希望が多
となって、発心会に進むこと
り、戒を授かった人々が中心
感得の場﹂と位置づけてお
きるために、授戒会を﹁仏性
い希望もさることながら、信
工藤住職は﹁檀家さんの熱
も期待される。
五月二十九日の南総教区で
は四百七十人︵当初予定四百
人︶
、六月十日の信越教区で
ころが、希望者が三百二十人
職︶で行う予定であった。と
も着実に 申 請 を 頂 き 、 誠 に 有 り 難 い ﹂ と 語 る 。
い意気込 み を 感 じ る 。 今 年 ば か り で な く 、 来 年 度 に つ い て
急遽会場 を 増 や す ケ ー ス も 。 大 法 会 事 務 局 は ﹁ 各 教 区 の 熱
大幅に上回り、中には当初予定の三倍近い希望者が殺到し、
上がりを 見 せ て い る 。 各 教 区 で 予 定 さ れ て い た 授 戒 者 数 を
﹁ あ な た の 中 の 仏 に 会 い に ﹂ が、 日 を 追 う 毎 に 大 き な 盛 り
天台宗 開 宗 千 二 百 年 慶 讃 大 法 会 の 中 心 で あ る 総 授 戒 運 動
会︵ご親教︶が行われて以来
昭和六十一年に立石寺で授戒
呼 び か け る 方 式 を と っ た が、
寺院へ、希望者の自主参加を
て修された。同教区では、各
樫和廣住職︶と二会場に分け
なかったために、柏山寺︵冨
秀和住職︶だけでは対応出来
え、予定会場の寶光院︵工藤
が、 六 百 二 十 人 と 三 倍 に 増
は、当初二百人で一座の予定
戒会の行われた山形教区で
ま た、 五 月 二 十 三 日 に 授
を 中 心 と し た 熱 意 の 結 果 が、
底に加えて、各教区宗務所長
在︶
。 大 法会 の趣 旨P R の 徹
を越えている︵五月二十日現
七千人に対して、八千三百人
し た。 今 年 度 は、 当 初 予 定
し、三千三百人の戒弟が誕生
実質的には昨年度は秋に集中
月 に 茨 城 教 区 が 先 発 し た が、
めて。昨年から始められ、六
開宗千二百年慶讃大法会が初
戒を呼びかけるのは、今回の
天台宗が、全国単位で総授
より深い関係に進むことがで
職と戒弟が信仰を中心とした
と日々接することにより、住
各寺院では、これらの戒弟
め、
精進を誓う姿がみられる。
る。
幅な希望者の増加をみてい
予定七百人︶と、いずれも大
教区では七百四十七人︵当初
三百人︶
、同十六日の神奈川
家族全員参加のケースも
四月に授戒会が行われた
に増えたために、翌三十日に
は 四 百 三 十 三 人︵ 当 初 予 定
兵 庫 教 区 第 五 部 で は、 当 初
金の安い国では立派に成
り立つという。そこでも
処分出来ない物は放置さ
れ、環境汚染を引き起こ
していると聞いた。汚い
ものにフタというか、下
流に垂れ流しのような気
がする。一国環境浄化主
義ではなく、地球全体の
環境保全を視野に入れて
いかなければならない。
二十九日に二 百 八 十 人 を 二 座
先を争うから小道はますま
すせまくなる。
人 に 一 歩 お く れ て い け ば、
それだけ道は広くなる。
こってりした滋味は永続き
しない。
一分の淡泊さがあれば、そ
れだけ滋味も永続きする。
﹃菜根譚入門﹄
岡本隆三著
徳間書店刊
現実でしょう。
誰よりも先に、誰よりも
カネや物質でも、地位、名
が、
今の世の中です。いや、
と互いに競い合っているの
ん。人類は古代から欲望に
ら発した詐欺、強盗、殺人、 を取り除くことが、幸せに
人間です。人間の悩みもこ
そして地位、名誉を護るた
振り回されてきました。お
は、感極まって泣き出す人も
め の 偽 証、 隠 蔽 工 作 な ど、 中国では﹁人に譲る気があ
こから派生し、ときに犯罪
あり﹁これまでと違う自分で
れ ば、 何 事 も 楽 に や れ る ﹂
釈迦さまは﹁あらゆる執着
あることを確信でき、有り難
日々のニュースは、ここに
つながる﹂
と説かれました。
い﹂と﹁わたしの中の仏﹂に
絡むと、執着の渦から逃れ
くても、自分自身の利害が
そんな大それた事件でな
だと思います。
く、それもまた素敵な人生
としたりしながら生きてゆ
じたり、午後のお茶にホッ
時に、星を見て宇宙を感
られなくなってしまうのが
らいです。
という言葉があります。
授 戒 は、 自 分 自 身 の 中
にある仏性に気づく場
である︵兵庫・正福寺︶。
写 真 は、 吉 川 廣 隆 通
信員提供
出会った感動を素直に受けと
にまでいたります。物欲か
去 る こ と が で き な い の が、 今の世ばかりではありませ
誉などの肩書きでも、捨て
一旦、
手に入れたものは、 多く、
誰よりも良いものを、
のです。
執着を断つのは難しいも
Wonderful Words
発生するといってもいいく
授戒を受けた人々の中に
う。
躊躇なく授戒を希望するとい
台 宗 寺 院 の 信 者 で あ る 場 合、
た他宗の檀家であっても、天
が多いことがあげられる。ま
とした授戒を申し込むケース
各地で夫婦や家族全員を単位
で 受 け る 傾 向 が 強 か っ た が、
これまで授戒といえば、個人
今 回 の 大 き な 特 徴 と し て、
る。
希望者の増加につながってい
十八年ぶりということもあっ
極微
も一座が追加されている。
1 部 50 円(消費税込・送料別)
発行所/天台宗出版室
発行人 / 出版室長 工藤 秀和
〒520- 0113 大津市坂本4- 6- 2
天台宗務庁内
電話 077-579-0022(代)
E メール/ [email protected]
に分けて正福 寺 ︵ 熊 谷 亮 澄 住
2004 年( 平 成 16 年 )
6 月 1 日火曜日(毎月 1 日発行)
2
平成 16 年6月 1 日 火曜日
(第三種郵便物認可)
第15号
夏つばきの花を
シャラ︵沙羅︶と
よぶ。
比叡山・浄土院
のご廟前に高さ五メートルを
超える日本屈指の巨木があっ
て、お大師さま命日の六月四
日前後につぼみがふくらみ始
める。
梅雨明けころ、五弁の白い
花びらは一斉に開き、花は一
日で散るので籠山の僧は掃除
に追われる。ツバキ科ナツツ
バキ属の落葉高木だ。
だがお釈迦さま涅槃の床に
咲いたというインドのシャラ
は全くの別もので、三月の満
月の前後に花が開く。
フタバガキ科の樹木は高さ
十メートルを越し、木肌も葉
も清楚に香る。花が房となり
工藤
秀和
のような様相である。両方に
天台宗出版室 長
虐待を受けている。洗濯当番
虐待と 虐 殺
衝撃だった。米軍によるイ
共通するのは、相手を人間で
なくてはいけない。そうでな
け れ ば、 元 が 死 ん で し ま う ﹂
というのが持論である。
教職の頃は、子どもたちに
書を通して﹁自己表現や、生
きることの大切さを見いだす
世界﹂を伝え続けてきた。
﹁ 美 し い 書 は、 内 面 的 が 充
実してこなければ書けるもの
ではない。書は、人がいかに
生きるかにもつながる﹂
。
定例会や、ご詠歌、勤行儀な
一隅会を組織し、月一回の
どさまざまな活動が行われて
むことと同じ。宗教と芸術に
﹁ 書 を 書 く こ と は、 経 を 読
の性質を知り尽くした柴山師
まだから﹁墨仏﹂である。墨
﹁墨仏﹂
。墨から生まれた仏さ
ほ し ず く よ
︵写真︶春祭りの女性の髪を
飾る。
沙羅はパーリー語でサー
ラ、サンスクリットでシャー
ラ、ヒンディでシャルと呼ん
で い て、 葉 は 稲 の 茎 で 綴 り、
食事の葉皿に、木は建築用材
に使われる。花の寿命は短く
わずかに二日。
会社をさぼり、西ベンガル
のシャラの咲く森の農家の土
間に泊まって花の咲くのをひ
た す ら 待 っ た 思 い 出 が あ る。
土間に流れ込んだ星月夜の微
かな光と冷えた夜気がなつか
しい。
いる弥勒寺は、今、新緑と多
種の草花が美しい。
﹁いたずら書きをしていま
共通するのは、祈りです。書
ならではの作品だ。墨の中か
ものです﹂と見せられたのが
したら、偶然に出来上がった
は、よく伝統的な世界といわ
いえようか。
大学在学中に﹁十年後には
ら、仏さまを擦り出したとも
いうことでもあります。伝統
海外で個展を開く﹂
と決意し、
れますが﹃守る﹄ということ
を、そのまま再現するのでな
念願通りハワイで書展を開い
は、常に新しく生れ変わると
く、現代に合うように表現し
た。以来、中国・ベニス・ベ
の捕虜は、女性兵士から下着
ルギー・フランスなど世界各
ラク人捕虜虐待と、イスラム
鳥取県気高郡青谷の山間に
地に迎えられ、今年はドイツ
はないと思っていることだろ
ある弥勒寺は、約三百年の歴
を 投 げ つ け ら れ て﹁ 洗 え!﹂
史を有し、村落の中心として
で展覧会が予定されている。
武装勢力に誘拐されたアメリ
ともできるのである。その差
栄えてきた。住職の柴山宣慶
う。だからどのような酷いこ
最後の一枚を投げつけたた
別意識が、虐待と虐殺の根底
と命じられる。
驚いたことに、
る。戦争とは狂気である。狂
め、女性兵士は全裸で捕虜の
カ人が虐殺されたことであ
気の中で、虐殺や虐待が繰り
師は、三十九年間教職に就い
を始め、斯界の泰斗と仰がれ
︵下︶墨仏。青墨、
茶墨、朱墨などが使われる。
︵上︶
﹁掃いて掃いて掃きつづける﹂
。
その愛弟子となった。
た 手 島 右 卿 師 に 直 接 師 事 し、
中、兄松島楠城の影響で書道
戦後の書道が混迷期にある
家である。号は抱海。
界に柴山あり﹂といわれる書
にあるように思う。
対だ。それは、その二つがあ
前 に 立 っ て い る。
﹁彼女たち
人種はあきらかに﹃人間﹄で
る限り、人は決して幸せにな
切 の 願 い に 通 じ る ﹂ と あ る。
書・画とも柴山師。
返されてきたことを歴史は教
第二次世界大戦でイギリ
はないのである。それは家畜
れないからである。華厳経に
ていたが、その一方で﹁書道
ス軍の捕虜になった会田雄
に等しい﹂と会田氏は述べて
は﹁様々な無量の願いはただ
からすれば、植民地人や有色 私たちは、戦争と差別に反
次京都大学名誉教授が著した
いる。なるほど、牛や馬の前
えている。
﹁アーロン収容所﹂を思い出
日本人の捕虜たちは英兵か 民間人を誘拐して、虐殺す
こ の 二 つ が 無 く な る こ と が、
一つの願いであり、しかも一
るという行為については、言
私たちの願いだ。
で恥じらう人はなかろう。
ら殴られ、煙草を額で消され、
うべき言葉もない。地獄絵図
した。
小便を顔にかけられたりする
オープンの十六日と最終日
の二十三日日には、篤信氏に
しているサンガラトナ・法天・
㌫が、インド・禅定林で活動
あり、即売された利益の五十
一隅を照らす運動の一環でも
今回の展覧会は、東海教区の
の信徒が数多くつめかけた。
れるとあって、愛好家や近隣
や色紙が展示され、即売もさ
殿には、武者小路実篤氏の書
れた。会場となった海岸寺客
「武者小路実篤展」が開催さ
五月十六日から二十三日まで
名古屋市緑区の海岸寺で、
営者の武者小路篤信氏が十年
者小路実篤の孫であり画廊経
海岸寺の川口圓玄住職と、武
今 回 の 武 者 小 路 実 篤 展 は、
作ったことでも有名である。
七年宮崎県に「新しき村」を
の理想を実行するため、大正
て紹介した功績も大きい。そ
ザンヌやゴッホを日本に初め
正・昭和を通じての文豪。セ
となって活躍した、明治・大
主義を掲げて、白樺派の中心
樺」を創刊し人道主義、理想
有 島 武 郎 ら と 文 学 雑 誌「 白
展覧会も開催しており、今後
海岸寺では、千住博画伯の
呼びかけた。
ことで企画された」と協力を
サンガ師を支援したいという
もってインドで頑張っている
覧会は、一隅を照らす精神を
ニークな僧侶である。この展
てまだ日も浅いが、非常にユ
は
「川口住職は、
海岸寺に入っ
村上圓竜東海教区宗務所長
者が聞き入った。
文豪の秘話に、数多くの参加
交流や、波瀾万丈の生涯など
講演も行われ、夏目漱石との
よる「祖父を語る」と題した
マナケ師に寄贈される。
来の知己であることから実現
も折にふれて、このような企
武者小路実篤は、トルスト
したもの。
人は、そのあとも長いあいだ不
しには関係のないことです。自
他人がいくらで買おうが、わた
の人々と歩んでいければ」と
寺と社会が接点をもち、多く
ような文化的な企画によって
イの影響を受け、志賀直哉、
画を開催するという。川口住
職は「宣伝、案内も手弁当で
愉快な顔をしていました。
分がその品物を欲しいと思い、
路氏と川口住職)
語 っ て い る。
(写真は武者小
やっているが、それでもこの
を降りて土産物屋に駆け込みま そのとき、わたしが思ったこ
ばいいのです。高いと思えば買
その値段でいいと思ったら買え
しておきます。
と は、 お 釈 迦 さ ま が 教 え ら れ
そうすると彼は、急いでバス
た、
した。そして店の人に、
「二千円を返してくれ!」
れは大事にせねばならないので
仏法です。仏教の教えをわれわ
物を自分に七千円で売った。だ と い っ た 言 葉 で す。〝 法 〟 は
にすることだと思います。
「自灯明」であり、自分を大事
れがお釈迦さまが教えられた
澄 師 」 は 正 し く は「 兵 庫 教 区 正
文 中「 兵 庫 教 区 正 楽 寺 の 熊 谷 亮
わない。それだけの話です。そ
から、自分は二千円損した、と
すが、その前に自分自身を大事 と い う こ と は、
「自灯明」は
福寺 の熊 谷亮 澄師 」でした。 謹
と要求しました。五千円の品 自灯明・法灯明
いうわけです。わたしも意地悪
別の言葉でいえば「主体性」な
号の 談話室「静
い物が大好きです。その一つの 隣 の 人 が 尋 ね ま し た。 じ つ
ですね、じつはその人の後をつ
にせよとお釈迦さまは言ってお
た人の値段のほうが安かったん インドの商人はそう主張しま
6月16日(水)神奈川教区
14
鶴見会館 (横浜市)
6月14日(月)延暦寺・書院
大僧正・権大僧正補任辞令親授式
かに 座っ てリ フレ ッシュ」の 本
【お詫び】第
は、彼も同じ商品を買っていた
けて行ったのです。
んでお詫びし訂正いたします。
か?」
理由は、値切る楽しみがあるか
のです。そしてその人は、自分
んです。わたしたち日本人は、
海外旅行をする日本人は、買
らでしょう。インドの土産物屋
られます。
もっと主体性を持ちましょう
のほうがうまく値切ったつもり イ ン ド 人 は び っ く り し ま し
わたしたち日本人は、あまり
よ。それが仏教の教えではない
では、ちょっと値切れば、半値
にも他人のことを気にしすぎま
でしょうか。
す。もちろん、これはインドの
【大法会特別授戒会】
た。
て、内心でにんまりしたかった 「 あ な た は 納 得 し て 買 っ た の
す。自分が買った同じ商品を、
で い ま す。 そ れ で 値 段 を 聞 い
ではないか。わたしが他の人に
になることもあります。
……と、わたしは想像していま
す。一人の人が帰ってきて、「こ
です。これも正確な値段は忘れ
商人の言う通りです。日本人の
【各地の行事】
だいぶ昔の話ですが、インド
でこんなことがありました。
いくらで売ろうが、それはあな
んな物を買ってきましたよ」
ましたが、自分は七千円で買っ
主張は通りません。だが、その
たに関係のないことだ」
した。
と、自分の購入した商品(何で
たのに、相手は五千円だったと
が、 次 々 に バ ス に 帰 っ て き ま ところが、あとから買ってき
土産物屋で買い物を終えた人
あったか忘れましたが、テーブ
ルクロスにしておきます)を隣
の人に見せました。
「いくらで買ったんです
(カット・伊藤 梓)
平成 16 年6月 1 日 火曜日
(第三種郵便物認可)
第15号
3
か理解できない。
地蔵院が建立された土地
は、 も と は 金 城 家 の 田 ん ぼ
だった。彼の一家は米を作っ
て自給自足しながら、現金収
入が必要な時には、石切など
の作業をしたという。金城自
身は、東京の大学で心理学修
士課程を経て、江戸川区の教
育研究所に勤務していた。
異変がおこったのは、その
沖縄の家の守り神﹁シーサー﹂
僧侶の祈祷によって消滅した
じ た と い う。 そ の 不 快 感 が、
が憑依し、呪縛したように感
していたとき、自分にその子
不登校のカウンセリングを
もあり、天台宗で得度、中山
かと思った。導いてくれる人
そが自分の進む道ではないの
西洋心理療法よりも、宗教こ
金城は、憑依体験を通して
に﹃琉球人お断り﹄と貼って
金城も﹁内地じゃ、飲み屋
をしている。
貧しさについて痛烈な言い方
る﹂と、かつて島が置かれた
時だった。
のはじめっから何もない天地
一カ寺しかない天台宗の寺・
あ り ま し た か ら ね ﹂ と 言 う。
金城永眞は、天台宗が開かれて千二百年が経過して以来、沖縄に初め
て天台宗の寺を建てた僧である。この地には、今日まで天台宗は根付か
なかった。徳川初期に薩摩の島津候に征服され宗教弾圧が厳しかったせ
いと、古代から続く宗教文化が支配しているからだ。金城が﹁私の祖母
はカミンチュでした﹂と語ったときに、私は︵やはり︶と思った。この
人でなくては、沖縄で天台寺院を建立したり布教をするのは無理だった。
で、
今更﹃物への執着を断て﹄
﹃一切は空だ﹄
なんていったっ
版室の大沢玄仁がハンドルを
玄晋比叡山弁天堂輪番
︵当時︶
てシャレにもならないのであ
エメラルド グ リ ー ン の 海 と
のである。科学では解決でき
その言葉は宗教者らしく静か
地蔵院である。
の 弟 子 と な っ て 行 院 を 履 修、
に 語 ら れ る が、 穏 や か な 分、
握り、カーナビを凝視しなが
ないことがあることを実感し
天台宗僧侶となることを選ん
内地から来た私の胸を鋭く刺
群青の水平線 、 コ バ ル ト 色 の
た。その体験に抵抗はなかっ
だのである。
ら、目指すのはこの島にただ
縄の人は﹁海が咲く﹂という。
た。
空。この美︵ ち ゅ ︶ ら さ を 沖
今ならソテツ の 樹 と 県 花 で あ
た白とグレイ の 貌 を は っ き り
情緒を満喫さ せ て く れ る だ ろ
る真っ赤なデ ィ ゴ の 花 が 南 国
く、いかにも沖縄の人という
目はクリッとして、肌は浅黒
金 城 の 風 貌 は、 眉 が 濃 く、
高位に位置する。私は、沖縄
するが、斎場御嶽は、その最
った霊場で、沖縄各地に点在
球の創世主・アマミキヨが造
き〟は御嶽と書く。御嶽は琉
〝せいふぁ〟は斎場、
〝うた
彼女たちはユタと呼ばれるこ
も、
迫害を受けた歴史もあり、
タの領域なのである。もっと
できないことは、ここではユ
的相談に応じる。医者で解決
たり、死者の口寄せなどの霊
いだ。ユタは運命の吉凶をみ
半分﹂という言葉があるぐら
地 で あ る。
﹁ 医 者 半 分、 ユ タ
女たちによって司られてきた
女︶やユタと呼ばれる女性巫
沖縄は、古来よりノロ︵祝
郎は毎日出版文化賞を受けた
別された島でもある。岡本太
と貧困によって、本土から差
また沖縄は、為政者の搾取
はないのだ。
人を檀家・信者にするより道
布教師の努力によって一人一
に入った各宗教宗派も僧侶や
檀家制度はない。戦後、沖縄
ことを禁じた。だから沖縄に
僧侶が民家を歩いて布教する
沖 縄 を 征 服 し た 島 津 候 は、
この祖母の死であった。
最も頼りになると思っていた
待っていたのは、沖縄布教で
となって沖縄に帰った金城を
なった人である。天台の僧侶
タに判示され、カミンチュに
にならないと治らない﹂とユ
た時﹁あなたは、カミンチュ
女 性 だ っ た。 内 蔵 を 悪 く し
金城の祖母は霊感が鋭い
だが、観光 ル ー ト か ら は ず
とを嫌う。その代わりに﹁神
で﹁沖縄では、仏教自体がつ
沖 縄 文 化 論︵ 中 央 公 論 社 刊 ︶
が抜けた﹂
。
ていたのに、どうしようと力
とについて相談しようと思っ
﹁ 沖 縄 の 風 習 や、 今 後 の こ
ら二時間走り続ける。
ば か り で あ る。 漢 字 な ら、
人︵ カ ミ ン チ ュ︶
﹂と呼ぶの
いに根をおろさなかった。こ
れると、表情 は 一 変 し 、 疲 れ
お ぼ ろ に 意 味 は わ か る が、
である。
せいふぁうたき
﹁⋮⋮⋮?﹂。
沖縄方言は内地人にはなかな
すのである。
と見せ始める 。 そ れ は 、 慶 長
感じだった。南風が吹き抜け
まではるばるやって来て、何
再び、あのぉ、それは何で
十四年に島津 侯 に 征 服 さ れ て
る本堂に通されての最初のひ
にも知らない無知を恥じる
宜野湾市を過ぎ、沖縄市を
以 来、 過 酷 な 搾 取 に あ え ぎ 、
と こ と は﹁ 今、 と ど め の う
う。
明治維新以後 も 差 別 と 貧 困 に
がんから帰ったところです﹂
すか?の世界である。
二次大戦で、 唯 一 の 本 土 決 戦
さらされた島 の 貌 で あ り 、 第
だった。
過ぎ、具志川市まで、ひたす
地となり数多 く の 戦 死 者 を 出
し、その後ア メ リ カ に 支 配 さ
あのぉ、それは、何ですか、
うがん
あ っ た。 死 後 何 年 か た て ば、
ウチナーグチ
れ、今でも外 国 軍 隊 の 基 地 を
とどめ
と聞き返すしかない。漢字で
葬儀のあと、墓の神に、これ
書 け ば﹁ 止 の 御 願 ﹂ と な る。
持つ街の貌で あ る 。
は、四月初旬 だ っ た が 、 沖 縄
私たちが取材に入ったの
洗骨といって、骨を棺から出
以上不幸が出ないように墓の
なかった男子禁制の地でもあ
し、洗い清めることで、安定
全体が夏草の ム ッ と す る 匂 い
決意を固めるために、彼は
る。沖縄の宗教は女性の世界
した祖霊に昇華させる儀式も
鍵を閉めてくれという儀式と
地でいえば祈願にあたる。
斎場御嶽に出かけて祈念した
だ。
であることは前に言った通り
に充ちていた 。 内 地 で は 七 月
もちろん観光ではないか
﹁沖縄でやれるか、せいふぁ
のだ。そこは、かつては、王
説明してくれた。御願は、内
ら、那覇空港 に 到 着 す る や い
うたきで、聞いてもらいまし
といえども入ることを許され
の暑さである 。
なや本土企業 の レ ン タ カ ー を
た﹂。
異質の文化の中で、天台を
は生きています﹂
。
と真言を混ぜた祈願を行って
切り拓くのである。到底、一
りましたが、そのような意識
いる。地元では分かり易いと
筋縄の世界ではない。護摩も
といわれた。水は器に従えと
評判だし、年配の人には親し
修するが、この暑い地では敬
た。あとは天台宗と法律的な
の活動をはじめて五年が過ぎ
せず、天台に教化していくの
﹁ 沖 縄 の 風 習・ 文 化 を 排 除
ではどうするか?
遠されがちだとも言った。
関係を結び、法人認可へと進
が、回り道のようで一番早い
沖縄では
﹁いちゃりば、
ちょ
と思っています﹂
。
浜比嘉島の東方海岸に、琉
ぬう、ひぇだてぬあが︵何の
うでえ
︵会ったものは皆兄弟︶
るがままに、静かに、霊的権
だった。内地とは別の神が降
不思議な清潔感と静けさ
いうので、
案内してもらった。
う男女二神が祀られていると
のだろう。
なく、仏のこころに通じるも
る。それは天台宗ばかりでは
えようとしているように見え
金城は、この精神で天台を伝
分け隔てがあるか︶
﹂という。
ホトケンチュ
彼は、
カミンチュではなく、
天台宗が開かれてから
仏人になったのだ。
千二百年。私たちは、沖縄に
ことを、
どう呼べばよいのか。
待たねばならなかった。その
が い た こ と が わ か る。 し か
ようやく、だろうか、それと
法灯が渡るまで、長い年月を
し、比叡山で修行した人では
も、いよいよ、なのであろう
にひとりだけ天台修験系の僧
なかったし、いつの間にか他
横 山
和人
文・天台宗出版室編集長
か。
︵文中敬称略︶
縄で初めての天台僧である。
布教にあたる金城永眞が、沖
ではやはり、寺院を建立して
宗に転派している。その意味
記録を調べれば、大正時代
まっていた。
の リ ズ ム の 中 に、 神 々 は 鎮
う感じである。風と水と悠久
威をもって鎮まっているとい
誕した地は、ただ、自然のあ
かいびゃく
ミチュー、シルミチューとい
球 開 闢 伝説で知られるアマ
かつて、沖縄は風葬の地で
むばかりである。
彼が、沖縄に戻って天台僧
みやすいといわれる。
いうことである。以来、方言
あった。
取り次いでくれた人から
﹁ 沖 縄 の 言 葉 で 仏 教 を 説 け ﹂ ﹁ 今 は、 ほ ぼ 全 部 火 葬 に な
借り、北へ走 る 。 同 行 し た 出
本土から遊びに来ていた若者たちに「サトウキビは、もっと下の方を食べないとうまくないよ」と声をかけた。
いかにも当世風の人たちとも、自然体でコミュニケーションする。右後に見える岩森はアマミチューの墓
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平成 16 年 6 月 1 日 火曜日
(第三種郵便物認可)
第15号
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大師ゆかりの地を訪ねて、かつて祖師が歩まれた苦難の足跡を偲んだ。第一班は、渡邊
伝教大師の入唐千二百年を記念する訪中団が、二班に分かれて天台山国清寺をはじめ、
た本団団員と合流して、第一
述懐。夜には、後から参加し
態も起こらないであろう﹂と
らば、イラク戦争のような事
日中友好に寄与されんことを
末永く伝えられ、世界平和と
大 師 と 伝 教 大 師 の ご 精 神 が、
果たされている。この法要を
界平和に大きな努力と役割を
が両国の友好、社会安定、世
ると中日両国天台宗の祖師方
惠進座主猊下を名誉団長に五月十五日から十九日の日程で訪中。今後もお互いの絆を大
り、次の世代に伝えられると
通じて、伝教大師と歴代祖師
固く信じている﹂と挨拶。こ
切に願うと共に、今回の日中
これを受けて渡邊座主は
れを受け、西郊宗務総長は日
班総員九十一人による結団式
切にしていくことを確認しあった。
﹁ 熱 烈 な 歓 迎 に 感 謝 し ま す。
本国天台宗を代表し
﹁宗祖は、
の偉大な精神がより一層広が
翌十六日に一行は、天台山
私は、これまで四回訪中しま
峰山道場においては順暁阿闍
合同法要が成功するように祈
国清寺に向かい、平成十一年
したが、可明住持との再会を
ります﹂と挨拶。
た華頂講寺と天台大師のご廟
に日本天台宗の協力で落慶し
心から嬉しく思います﹂と述
梨から密教の授法を受けられ
が行われた。
である真覚寺に参拝した。
べた。
出迎えた可明住持は﹁天台
更に夜の歓迎会で西郊良光
中国代表として允観国清寺
そして合同法要で日本側大
まいりたい﹂と挨拶した。
て、世界平和のために進んで
ている。今回の訪中でそれら
宗務総長が﹁日中両国の黄金
監院が﹁八○四年に伝教大師
導師である渡邊座主が﹁高祖
迎えを、更に杭州では浙江省
の絆を大切にし、この関係が
が入唐され、国清寺にて勉学
智者大師天台満山一切の三宝
れたもの。
座主猊下は十四日に日本を
年の華頂講寺落慶以来。この
今回の訪中団は、平成十一
永久に続くように﹂と述べる
されたあと、道邃和尚、行満
天台宗では 、 平 成 十 五 年 度
出発、到着した上海浦東空港
五年間で中国は急速な発展を
と、渡邊座主始め参会の両国
座主より戒を授かり帰国。そ
今回の日中合同法要は、平
成十一年に天台山に華頂講
寺が落慶した時、報恩訪中
団が組織され、今回と同じ
く渡邊座主猊下、可明住持
の導師によって執り行われ
て以来、五年ぶり。今回は
天台山国清寺においての奉
修となった。
両国の絆を深められることは
翌十七日には訪中団のメイ
開宗された。やがて天台教学
の後八○六年に日本天台宗を
持せしめ給え﹂
と表白を奏上。
平安と善隣の友好を永遠に保
末弟の懇情を哀愍して世界の
誠に幸せである。今後は、日
十五日には、伝教大師が順
ンである﹁天台宗開宗千二百
は 日 本 仏 教 の 母 と な り、 ひ
その後訪中団は臨海へ移動
僧侶の総出仕による合同法要
暁阿闍梨より密教を伝授され
年慶讃大法会・傳教大師入唐
いては日本文化の源流となっ
中天台宗が更に絆を深くし
た霊跡である峰山道場を参
千二百年記念日中合同法要﹂
が国清寺で厳修された。
拝。峰山道場は、長らくその
し、竜興寺でも﹁傳教大師入
主要日程を終えた。
ぞれ法要を行って、第一班の
納めた極楽浄土院にて、それ
に伝教大師像と道邃和尚像を
にて、日本側は平成十二年度
で勤めた。中国側は大雄宝殿
唐千二百年記念法要﹂を両国
た。 天 台 宗 の 歴 史 を 振 り 返
日中友好の絆は更に固くー。
に臨み、日本側僧侶と中国側
平成六年に比叡山を訪れた浙
江省旅游局の何思源処長の踏
査によって判明したもの。座
主猊下にとっては平成十一年
に上虞市・浙江省旅游局が史
跡保存に建立した﹁傳教大師
最澄峰山受法霊迹碑﹂の除幕
を行っているゆかりの地。
同日は何思源処長、上虞市
宗教局長、同仏教協会会長ら
が出迎え、森定慈芳延暦寺執
行 は﹁ 二 年 後 に 天 台 宗 開 宗
千二百年の正当の年を迎える
にあたり、今回峰山道場はじ
め大師の関係霊蹟を巡る参拝
は誠に意義深いものである﹂
と挨拶。渡邊座主は持参した
がら﹁このご精神で暮らすな
﹁忘己利他﹂の色紙を渡しな
五年ぶりの旧交を暖めあう渡邊座主と可明住持。
場 所 が 特 定 で き な か っ た が、
な歓迎を受けた。
の霊蹟を偲び、あわせて日中
か ら 十 九 年 度 ま で を﹁ 開 宗
では、はるばる天台山から駆
遂げており、ビルの建設ラッ
関係者の感激はひときわ高
次世代に伝える精神
千二百年慶讃 大 法 会 期 間 ﹂ と
シュや高速道路の拡充整備な
まったようであった。
受ける渡邊座主
宗教局や旅游局要人らの熱烈
掲げており、 今 回 の 記 念 訪 中
けつけた監院・允観法師の出
どの変遷に、座主猊下も感歎
団も、その一 環 と し て 計 画 さ
されることしきりであった。
竜興寺にて花束を
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平成 16 年6月 1 日 火曜日
(第三種郵便物認可)
第15号
平成 16 年6月 1 日 火曜日
(第三種郵便物認可)
第15号
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児院︶を開設したり、無料図
書館やインドの青少年育成に
国の仏教の架け橋としての役
や差別撤廃を訴えて、日印両
来日の度に、インドの現状
6月 日∼
リーダー研修会
集い
◎第
合同研修会・総会
童委員・主任児童委員会
6月 日∼ 日
め、インドのカースト制度に
割を果たしていること、また
山上・いこいの村
回天台青少年比叡山の
し、堀沢祖門 師 を 師 匠 に 十 四
反対して﹁人間平等﹂を主張
両国の青少年を国際社会に貢
尽力している。
︵財︶全国青少年教化協
年間比叡山で 修 行 。 天 台 宗 の
している。そのために﹁パン
日
◎みちのく宗務連絡協議会
広島
6月 日∼ 日
◎天台宗保護司会・民生・児
茨城
議会が主催する今年度の第
僧侶として、 イ ン ド で は 少 数
6月 日∼
◎九州地区協研修会
となどが評価されて、今回の
福岡
仙台
◎兵庫教区人権啓発委員
研修会
7月9日
随願寺
田慈順師︻群馬・華藏寺︼藤
︻ 滋 賀・ 大 乗 峰 伊 吹 山 寺 ︼ 吉
井祐順師︻福島・成願寺︼伊
東寂元師︻常楽院法流・法泉
いても﹁個人の力で受賞した
た ち へ の 教 育 や、 福 祉 活 動
ての受賞は、インドの子ども
一山・戒藏院︼坂本得雄師
音寺︼島田正和師︻※延暦寺
日
わけではない。多くの人々の
︵ ※ 延 暦 寺 一 山 条 例・ 戒 藏 院
月
おり、今回の受賞でサンガ師
が 認 め ら れ て の こ と で あ り、
規則により、4月1日付で和
寺︼稲沢法照師︻埼玉・定宗
の活動が日本の仏教界でも認
助けによってここまでやって
我々も誇りに思う。サンガ師
◎関信越地区協研修会
受賞につながった。
また、天台宗にあってはハ
ワイ別院などに続いて、海外
められたと、宗内でも喜びの
これたと思う﹂と語る。賞金
宗代表役員が住職に就任。
︶
寺︼鶴岡敏昭師︻九州西・観
声が広がっている。
は約二十年に亘ってインドで
伝道の大きな一翼をになって
日
二十八回正力松太郎賞に、イ
献できるよう育成しているこ
職が決まり、五月十二日に東
京ドームで表彰式が行われ
た。外国籍の受賞者は初めて。
読売新聞社主の名を冠した
同賞は、仏教精神に基づいた
青 少 年 の 育 成 活 動 や、 文 化・
社会活動を対象に、青少年の
情操教育に功績があり、今後
は全額パンニャ・メッタの活
サンガ師は﹁国籍と肌の色
日 ∼5 月
︵平成
な く、 年 金
したのでは
議論が伯仲
めの国会で
度改革のた
な っ た。 制
に大問題と
年金が急
に日 本 の 将 来 が 託 せ る か 否
もう な ず け な い 。 こ の 人 物
登場 を 好 意 的 に 報 道 し た の
あけ た い マ ス コ ミ が 、 小 沢
して い る 小 泉 政 治 に 風 穴 を
サッ サ と 議 員 を 辞 め て 田 舎
いで も な い 。 も し そ う な ら
したというのなら解らな
のか、その性格がつかみに
のか、預金なのか、税金な
体何なんだろうか。保険な
である。
が必ず正当な審判を下すの
目立たないものだが、歴史
真の改革者とはその時余り
がなくなって、情報を共有
れると、お互いの細胞の壁
のか、はたまた共済制度な ネンキンは危険にさらさ
そう で は あ る ま い 。 又 安 定 そ れ に し て も 年 金 と は 一
へ帰 っ た 方 が い い 。 し か し
くい。性格がつかみにくい
してひとつになって結束す
かない。
自分勝手だからだ。
出したが、これがうまくい
えるために年金制度を考え
まれている。また長寿を支
発明して、その存在が危ぶ
環境を破壊したり核兵器を
た頭脳のせいで、自分から
ど も の 家 ﹂ に は、 孤 児 た ち
立。 九 十 五 年 に 始 め た﹁ 子
に禅定林と名付けた寺を建
二十四歳でインドのポーニ
す﹂
。
じように活動していくだけで
た。自分としては、今後も同
ればと思い受けさせて頂い
も頑張ろう﹄と思う励みにな
回、その人たちが﹃自分たち
希望も持てない人が多い。今
かかわっている人々は、夢も
ゆい。しかし、私がインドで
りなので、賞を頂くのは面は
﹁布施行でやっているつも
が入る。今月号は、兵庫教区
各位から、ぼつぼつニュース
教区出版通信員を委嘱した
人、一団体に贈られた。
森の子クラブが受賞し、二個
宗︶
、
フィールドソサイエティ
に 岩 上 寛 了 師︵ 高 野 山 真 言
今回の正力松太郎賞は、他
ばしい限りだ﹂
と語っている。
菩薩行が認められたことは喜
しい。人々と共に積み重ねた
彼のように活動する僧侶は珍
見。店員から﹁これは、もう
ズが格安で出ているのを発
で、以前から欲しかったレン
を自覚する●中古カメラ屋
思いである。平和ボケの自分
月
活動しているが、インドでは
未納が発覚
といえば、ネンキンという
るという。そしていかなる
三十五人が暮らす。貧しく虐
の吉川廣隆師の授戒レポート
二度と出ませんよ﹂と強く勧
年
動に使われる。
し て、 官 房
か、 今 ま で の 足 ど り を 見 れ
生 き 物 が い る。﹃ 粘 菌 ﹄ と
環境も生きぬいてきたので
げられた人々の現状を変革す
と写真に負う所が大きい。深
をのぞけば、中身は日本人で
長官や野党
ば明 ら か で あ ろ う 。 剛 腕 と
書くのだが、植物だか動物
ある。
まさに共創の世界だ。
謝●今号から﹁鬼手仏心﹂の
日・法人部調べ︶
党首がドタバタと辞任した
いわ れ る そ の 能 力 は 、 幹 事
だ か わ か ら な い の だ。 こ
るには、教育が不可欠との信
日遷化。群馬教区清泉寺住
16
職。5月 日本葬儀執行。
未加入が解ったから責任を
理由が年金任意加入時代の
成の か た ち を 壊 し た り 、 決
もら し い 理 由 を つ け て 、 既
大衆 は 、 耳 ざ わ り の い い 最
が、今注目されている。こ
ができないといわれてきた
こそ年金に頼らないと生活
いかない。それこそ利他の
がなければ、決してうまく
若協力して創り上げる視点
い。人生の総仕上げを、老
代理で表彰を受けた谷晃昭
かった。
中だったために出席できな
受賞式には、インドで活動
の沖縄取材から戻る。参考資
幅広い論説に期待●一泊二日
る。時事から花鳥風月までの
筆者が工藤秀和出版室長とな
エ イ ヤ ッ で 買 っ て し ま っ た。
に 売 れ て し ま う や も し れ ぬ。
すれば通るだろうが、その間
められる。ウーム、予算請求
とる、というものだからだ。
のネンキンは三十億年も生
これで今月は、ビールを我慢
別を 告 げ た り す る 人 を 、 時
せねば。五面の﹁金城さんと
政治を志した若き日、年金
料を求めに入った那覇書店の
きているそうだ。人類なぞ、
郷土コーナーは、戦争関係で
たかだか百万年ぐらいに過
パンニャ・メッタ日本委員会
には 改 革 者 と 持 て 囃 し た り
事務局長︵群馬教区・西光寺
する 。 し か し え て し て 、 ほ
精神だ。年金はネンキンに
制 度 の 重 要 性 を 見 ぬ け ず、
学べか!
政治家としての資質に欠け
ぎない。それなのに発達し
若者たち﹂
が処女撮影である。
と ん ど が 手 前 勝 手 な も の。
埋められている。島の三分の
ていたと、自分に愛想つか
住職︶は﹁外国人として初め
のものではない。立ちすくむ
沖縄では、戦争は未だに過去
二が亡くなったと伝えられる
30
す﹂が口癖。今回の受賞につ
からだ。人の出処進退は難
長 ま で つ と め た の だ か ら、
念から小中学校も設立した。
池ノ谷晃寛師
平成 年4月
しいものだ。なかでも民主
定させるだけのものではな
21
年金は単に自分の老後を安
21
の菌の研究をしても何の成
4
果もあがらないので、それ
16
も活動が見込める個人・団体
22
本来 自 民 党 改 革 に 使 う べ き
に贈られる。
21
26
13
16
であ っ た の だ 。 マ ス コ ミ や
29
サンガ住職は、九才で来日
6
ンガラトナ・法天・マナケ住
ニャ・メッタ子どもの家﹂︵孤
16
派である仏教の布教につと
15
ンド禅定林で活躍しているサ
39
12
15
は全く不可解だった。その
度式を行うサンガラトナ師
党の小沢さんの党首選辞退
インド禅定林にて、今年度の得
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平成 16 年 6 月 1 日 火曜日
(第三種郵便物認可)
第15号
会員による奉詠、永年一隅を
者全員による法楽、福聚教会
者は熱心に聞き入っていた。
と題した講演が行われ、参加
「一隅運動の原点を訪ねて」
開催され、百五十余名の檀信
足二十五周年記念一隅大会が
四月二十九日、浄土寺支部発
照らす運動を実践された篤行
毎年行われており、今大会で
この大会は、支部発足以来
徒が参加した。
後、毎年八月に行われる『天
は、浄土寺名誉住職片岡観道
者四名の表彰が行われ、その
台青少年比叡山の集い』に参
師による「一隅を照らす運動
の歴史について」の法話に、
の体験発表を行った (写真)
。
岡山県赤磐郡赤坂町の浄土
参加者は運動の大切さを再確
加した田中八千代さんが集い
また、この一年間各支部で
寺支部
(片岡憲秀支部長)
で、
認していた。
集められた慈愛募金二百万
円 が、 パ ン ニ ャ・ メ ッ タ 図
もなってしまった。中心とな
ートル、高さは五メートルに
つながりの大切さを知り、必
る畏敬の念を持ち、人と人の
おかれた人々は、自然に対す
別の仕組みの中で、最下層に
また、平成十三年には写経
る柱を四本立て、放射線状に
要であるものとそうでないも
書 館 建 設 支 援 金 と し て、 さ
立され、浄土寺支部では、写
細い棒を組み、格子になった
のを見極めていることを知っ
会発足十五周年を記念して、
球救援募金として壬生照道総
経会や大会などさまざまな活
木を取り付けて廻りを布と厚
延命地蔵尊並びに納経蔵が建
本部長に寄託された。
動が活発に行われている。
手のフエルトで覆う。中は以
二十七万三百三十一円が、地
す運動推進大 会 が 約 五 百 名 の
らに当日会場で集められた
参加者を得て 盛 大 に 開 催 さ れ
ただ、メニューは一種類し
好き嫌いはない。
不自由しなかった。もともと
インドでは、食べる物には
握った米を親指の背で押し込
ボロとこぼれてしまう。丸く
口に入れるまでに、米がボロ
が、案外これがむずかしい。
現 地 式 で あ る。 や っ て み た
る。手で丸めて口に運ぶのが
で一式現地から送ってくれ
ドからテーブル、ストーブま
近所のモンゴルの人が、ベッ
り、欲しいと思っていたら、
て式住居)での生活が気に入
き、ゲル(モンゴルの組み立
以前、モンゴルを訪れたと
る。
くのだろうと思うと憂鬱にな
今後もまた、繁栄を続けてい
のだ。そして、その差の上に
滅びることなく、続いてきた
の貧富の差よって、この国は
度の上に成り立っている。こ
食がいる。それはカースト制
もう一方には、飢えた人や乞
ど、目を見張る国力がある。
兵 器 も あ る、 最 先 端 技 術 な
い。一方では財力があり、核
この国は、貧富の差が激し
はなかったか。
れが幸せを見つけていたので
れぞれの生活があり、それぞ
もそれぞれの地位の中で、そ
は不幸だといわれた。けれど
れば、封建時代の一般の民衆
文明が発達した現代から見
で感じることを知っている。
生きることの喜び、幸せを肌
術に振り回される代わりに、
時間の中で、モノや科学・技
る。彼らは、穏やかに流れる
台院住職赤松光真師を講師に
第二部では、延暦寺一山金
四 月 二 十 九 日、 埼 玉 本 部
た。長い間、差別され搾取さ
れてきた人々は、その差別を
外に広く、ゆったり二十人は
入れる。日本にいながらモン
憎むがゆえに、お互いが連帯
た。
第一部では 、 本 部 で 新 た に
いたま市浦和区「さいたま市
民会館うらわ」を会場に、第
制作した勤行 儀 を 用 い て 参 加
ゴルの気分が味わえる。
( 森 田 幸 雄 本 部 長 ) で は、 さ
三十八回埼玉本部一隅を照ら
して非常にたくましい。
は、一日も早く解消されねば
差別や身分制度というもの
私の外国理解は、いつもこ
んな具合だ。現地を歩き、現
ならない。しかし、どんな時
地式で生活すれば、いろんな
ものが見えてくる。学ぶこと
代でもどんな時代でも、どん
な境遇でも、人である限り、
も多い。
インドを訪れて私も考え
か な い。〝 カ レ ー〟 で あ る。
むのだが、何度やってもうま
喜びと悲しみはついてまわ
豆 料 理 と い え ば、 豆 の カ レ
くいかない。あきらめてスプ
た。
ー、鶏肉料理といえば、鶏肉
た。特別デカイもので、友人
(聞き手・倉田紀美子)
のカレーである。パサパサの
達と組み立てると、直径九メ
しかし、カーストという差
ーンで食べることにした。
米にカレーをかけて手で食べ
Fly UP