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ある不登校小学生女児の遊戯療法過程につし`て*

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ある不登校小学生女児の遊戯療法過程につし`て*
ある不登校小学生女児の遊戯療法過程について‡
杉田貴行・高木忠彦“・大井正己“‘
(堺市立教育研所)
(障害児学研究室)
要旨=本論文は、アトピー性皮膚炎をもつ、成績優秀な小学3年生女児の遊戯
療法の治療過程についてである。外見上では、健常児と何ら変わらない本児が、
どうして不登校に至ったのか、また家族とのかかわりはどうであったのか。さ
らにその家族の中での母子関係はどうであったのか。そして、本人が遊戯療法
を通して、いかにして自身の困難を乗り越えていったのか。また治療者との遊
戯療法の中でのかかわりが、本人にとってどのような意味があったのかにっい
て考察した。
キーワード:不登校、遊戯療法、母子分離不安
I.はじめに
Johnson,A.M.(1942)’〕らが学校恐怖症という名前で紹介したのが・不登校の正式な文献の登
場だとされいる。もっとも、これに先立って、Jack,V.T.(1929)2)らは“SCHOOLSICKNESS”
という題で、学校に登校しない一群の神経症的な子どもについて記述している。彼らによれば、
この一群の子どもたちは非常に不安が高いこと、心にゆとりがないこと、食欲不振、睡眠障害な
どが主な特徴であるという。また、原因としては、学校の競争的な雰囲気と担任教師の権威的な
態度を挙げている。さて、Johnsonらは怠学とは異なる集団に注目し、主に母子関係に由来する
不安行動のある種の表現として、学校恐怖症という考え方を紹介した。そり後K1ein,E.
(1945)3〕も精神分析の立場から、学校恐怖症の原因は、母子分離不安に帰因する不安行動だと、
Johns㎝らの見解を支持している。また、Suttenfie1d,v.(1954)4〕、Eisenberg,L.(1958)5〕も、
この点を重要視し、学校恐怖症は母子分離不安の一形態だと見なした。さらにTa1bot,M.
(1957)信)も同様に、母子分離不安を取り上げ、子どもが母子分離をうまく乗り越えることができ
ないと、学校恐怖症が起こると指摘している。
. A Case Report of the Process of Pユaytherapy for a No−Attending Primary
Schoo1Gir1
”Takayuki Sugita and Tadahiko Takagi
(SAKAI Municipa1Institute of Educati㎝OSAKA,Sakai)
’。‡
lasami Ohi
(Department of research for Handicapped Chi1dren,Nara University of
−Education)
一131一
これより以前、Cooユidge,J.C.(1960)〒〕らは、1955年にボストンのジャッジ・ベイカー・ガイ
ダンス・センターで行われた学校恐怖症のワークショップの中で、学校恐怖症の子どもを2つの
人格タイプに分類している。神経症群と性格障害群の2である。
さて、不登校発生時の行動特性として、Hersov,L.A.(1960b)目〕は、身体的・心理的には、
登校前に、吐き気、頭痛、イライラ感、シクシク位きなどを呈し、登校を強いられると、恐怖行
動、発汗、顔面蒼白などを示すと言己している。彼によれば、発生因子として一番多いのは転校で、
両親、特に母親との死別、別居、身体疾患がこれに次ぐという。さらに不登校の理由として、自
分が学校にいる時、母親に災難が起こるかもしれないという恐れが一番多く、他生徒からの嘲笑、
学習成績不振への恐怖、厳しい教師の態度への不安などがこれに続く。また、彼は不登校の原因
として、幼児期の母性欠如や両親との希薄な交流を挙げている。
さらにHersov(1960a)日)は・登校拒否児の特徴を・登校拒否児と怠学児と健常児との比較
において、分析している。それによると登校拒否児は比較的に家庭的に恵まれていて、日常生活
における行動も、あまり逸脱したものはなく、学業成績も上位の者が多い。ただ、祖父母や近親
者に神経症者が多いと報告している。
わが国でも内山・深谷(1979)m〕は、登校拒否の発生における家庭的要因を、具体的に男子の
事例を取り上げ、母親面接の中で、質問紙法を用いて分析している。その結果、父親専制型・父
親支配型・母親支配型という3形態に、干渉的・解放的という2形態を組み合わせて、8種類の
登校拒否家族の類型化を試みている。
本事例は、その背景に母子分離不安が存在する不登校事例である。また・本児一人のみを治療
対象として考察するのではなく、家族全体をその対象として、取り扱うべき事例であろう。なお、
本児はアトピー性皮膚炎を患っており、母親も子どもの頃、アトピー性皮膚炎であったという。
また母親も神経質な性格で学業成績が優秀であったという事実も、母子分離不安を解く上で、重
用な手掛かりとなると考えられる。
母子分離不安による不登校の事例として、本ケースを提示する。
■.ケース概要
【症例】 9歳の女児(小学3年生)
【主訴】 不登校
【生育歴】 症児の出産は正常であり母乳で育てられる。母親が弟を身ごもっている3歳の時、
アトピー性皮膚炎になり、それ以来現在に至るまで完治していない。母親が弟を出産した時に、
父方の祖母が病院から退院し、母親は乳児の弟と義母の世話を一手に引き受けなければならなく
なった。こういう事情もあって早くから、本児は母子分離を強制され、自立心をも必要とされた。
父親は元来が温厚な性格であり仕事にも勤勉で、余暇にはスポーツジムで汗を流すなど自分の趣
味を大事にする人間であった。家庭内のことは母親に任せっきりで、子どもの教育に関しても父
親はほとんどかかわっていなかった。本児は幼稚園の年少組の時から活動性が高く、小学校に人
一132一
学してからは勉強にもその積極性が向けられ、クラスのまとめ役をかってでたりした。しかしな
がら、小学2年生の2学期から学校を休みがちになり、3学期はほとんど欠席していた。3年生
の1学期も休みがちであり、登校することはあってもほとんどが遅刻・早退をともなうものであっ
た。担任の教師の紹介で母親とともに来所す孔
【家族構成】 父(41歳)、母(36歳)、祖母(80歳)、本児(9歳)、弟(6歳)の5人家族である。
【治療方針】 主訴は不登校という社会適応の問題であるが、家庭内の状況からあまりにも早期
からの過度の社会適応のための大人びた言動が日常的であるので、子どもらしさの回復が本児の
テーマと考えられた。
皿.治療過程
【期間】 平成2年6月∼平成3年2月
【回数】 20セッション
【場所】 H市立教育研究所一階第1プレイルーム
1回目
プレイセラピーに先立って・母親、本児、高木の三者でインテーク面接が行われる。そして筆
者(以下Thと記す)が本児(以下M子と記す)のフレイセラピーを担当し、高木(以下Coと記
す)が母親面接を担当することになる。
M子は先にプレイルームで待っており、Thがにこやかに挨拶すると、怖がったり逃げ出した
り母親のかげに隠れたりしないで、きちんとThの顔を見て普通に返事ができる。ThはM子が継
続してきてくれるのではないかと予想する。プレイ中も抑圧的なところはなく、どんどん自分か
ら希望する遊びを要求するので、本当に不登校のクライエントなのかと感じる。動く玩具に興味
があるらしくさかんに触れていたが、どれも動かないのでがっかりした様子である。それでも原
因をいちいち適確に指摘するあたりに、鋭敏な観察力がうかがえる。少し時計を気にしすぎる面
もあって、神経質な性格を感じさせる。前もってCoが時間を指定していたので、その時間にな
ると自分からプレイルームを出ていこうとする。しかし、まだ母親とCoが二階の面接室で面接
中なので、少しだけ卓球遊び(床を利用して卓球をすること)をする。母親がCoが迎えに来て
Coが次回の来所の意志の有無を確認した。M子はきちんと挨拶し、母親とともに帰宅する。
2回目
前回の最後の方で遊んだ卓球遊びを希望し.たのでしばらく続ける。運動神経の素晴らしさが感
じられる。途中から大きい玩具のラケットをバットの代わりにして野球をする。家の周囲でよく
男の子に交じって遊んでいるそうである。すると突然M子が、「今日は午前中、学校へ行って給
食を食べてからここに来た、本当は学校が2時まであるけれども別にかまわないの」と言う。そ
一133一
うしているうちに、ずっとピッチャー役だったThに打つように言う。それからまた交替して続
けていたが、飽きてきたのか玩具棚からボーリングセットを見つけそれで遊ぶ。一度だけ両親と
弟と一緒にボーリング場に行ったことがあるとのこと。この後、再度卓球遊びをして終了する。
3回目
前回のように卓球遊びから始める。ただ球が少ないので、玩具棚から探しながら遊ぶ。しばら
く遊んだ後、変形の玩具バットと小まりで野球をする。しかし、このバットでボールを打つとよ
く飛ぶ。ボールを取りに行くのが面倒なのですぐにやめる。それから玩具の刀と鞘がばらばらに
なっていたので、それをきちんと合わせる遊びをする。M子はよほど几帳面な性格なのだろう。
大体組み合わせができた後、ボーリングをする。今回は木製のボーリングセットで遊ぶ。床が板
張りなので、球を転がしピンに当たると大変リアルな音がする。ピンを片付けているThを考慮
したのか、かならず一投前には声をかける。しばらく続けてから、トランポリンでピョンピョン
元気よく跳びはねる。「気持ちがよい」と言って跳ぶ。そしてトランポリンから降りプレイルー
ムの中を俳個し始める。そして、「この部屋に誰か他に来ているの」とか「私以外の予知ってい
るの」とか尋ねる。もちろんM子だけしか知らないし、この部屋で他に誰が遊んでいるのか知ら
ないので正直に答える。M子は安心したのか、相撲ゲームで遊ぶ。それから再びトランポリンで
遊び、室内用お部屋セットを組み立てて遊ぶ。子どもなら中へ入れるセットである。遊びながら
M子は・弟の事や家族で決めたペナルティーゲームのことを話す。これは自分や弟が家の中で・
ささいな失敗をよくするので、1回失敗する度にビンの中に10円を入れて、ビシー杯にたまると、
レクリエーションの費用にあてるシステムだそうである。
4回目
プレイルームでM子がいきなり卓球遊びをしたいと希望するので・そうすることにしたがあま
り長続きしない。部屋がきちんと整頓されているのに気付き、室内用三輪車に荷台が連結されて
いるのにも気付㍍この三輪車が気に入った様子で何度も室内をぐるぐる回る。Thは荷台にM
子を乗せて走る。またM子が荷台に縫いぐるみを乗せて電車ごっこをする。お客に見立てた縫い
ぐるみの中に弟が登場す私大変丁寧に扱㍉玩具で駅をつく孔それからトランポリンで跳び
はねる。
5回目
部屋の中はきちんと整頓されていたので室内用三輪車に乗る。しかし、あまり続かない。廊下
に人の行き来が多いのを気にしたようである。トランポリンで跳びながら、Thの個人的なこと
に関して矢継ぎ早に質問がある。例えば、住所、小学校時代の成績、年齢、兄弟、趣味、得意な
スポーツなどに関してである。治療の制限の枠が守れる範囲内で、Tnはできるだけ正直に答え
る。それからオセロゲームをする。オセロのコマが足らずに、牛乳キャップで代用しているコマ
をM子が見つけて指摘する。ゲームを続けるが、時間がきたので帰宅する。
一134一
6回目
夏休みで約1ヵ月半の期間治療を中断する。定刻にプレイルームに入室したM子は最初は少し
はにかみかげんであったが、卓球セットを探すうちに以前のように、自信にあふれた様子になる。
卓球セットが見当たらないので野球をする。バッターのM子はThの球を力強く飛ばす。野球を
続けながら、M子は夏休みに行った避暑のための母親と二人の旅行の様子を話す。信州上高地の
ペンションで宿泊し、二人だけでスポーツを楽しんだそうである。母親と二人っきりなので、思
いっきり甘えられたことだろう。母親の計画したこの旅行は大成功だったようである。
7回目
Coの都合で1週あき、2週間ぶりの来所になる。入室したM子とすぐに野球を始める。Thが
ボールを投げると力いっぱいに打ち返す。攻撃性の強さが感じられ、表情が険しくなり冷静な性
格が崩れる。Thはひたすら受容し、その結果、最初の攻撃性が少しは和らぐ。しかしながら、
このプレイセッションでは、M子は最後まで表情に堅さが残る。
8回目
母親から10分ばかり遅れると連絡がある。野球をしたり前日の台風の話しをする。この日M子
は学校から帰るのが遅くなり、バスに乗り遅れたため来所も遅くなったとのことで疲れ気味であ
瓦話も景初は楽しそうにするが、途中からだれ気味であ孔ボールゲームもするが、これも長
続きしない。結局この日は特定の遊びをしないで、M子は部屋の中をぶらぶら歩き回りThが後
をついて回る、という感じである。
9回目
M子の都合で1週あけて2週間ぶりに会う。Coと一緒に入室する。妙に澄ました表情で、ま
た足取りもゆっくりしている。始めてバトン棒を棚から持ち出しクルクル回す。しばらく続けた
後、室内用三輪車に乗り室内を時計まわりに回る。走りながらThに弟のことをさかんに話す。
家では弟がよく自分に攻撃してくるのでケンカになるが、最後は相手にしないで無視するとのこ
と。仲が悪いと話すが、表情は優しいお姉さんそのものである。その後お絵かきセットで絵を描
く。少し前まで弟とよく一緒に描いだそうである。しばらく続けた後、トランポリンで跳んだり
お部屋セットで遊んだりする。その時M子はさかんにThのノ』、学生の頃の様子を尋ねるので、か
いつまんで話すと、何か共感したようにうっとりとして聞いている。
10回目
M子は非常に落ち着いた感じで入室する。.部屋の中をキョロキョロして見渡すが、目新しい玩
具が無いと悟ったのか、ぼんやりしてブラブラする。そこで、Thは別のプレイルームから野球
ゲームを持って来るから待っていて欲しい、とM子に伝える。部屋できちんと待っているM子を
見てほっと胸をなでおろす。それからは、二人でひたすら野球ゲームに熱中する。その後、M子
一135一
は少しだけトランポリンと室内用三輪車に乗り、日々の学校の出来事、給食時間のことや学級会
のことを話す。楽しそうな表情を見せる。
11回目
来所したM子は他の玩具に目もくれず、すぐに野球ゲームを取り出した。今回は野球ゲームだ
けに終始する。最初からThの方が有利であったが、途中でM子が逆転しM子の勝利でプレイを
終わる。この時のM子の様子は、私は勝ったんだ、といわんばかりの表情で以前にもまして、堂々
とした感じである。
12回目
ThはM子が野球ゲームから始めると思っていたが、卓球から始める。徐々に慣れたのか、鋭
いサーブやスマッシュを連発する。相変わらずセンスがよい。そして、学校の給食の話と元気な
弟の話をしながら卓球をしばらく続けたが、M子は疲れたのかそろそろ野球ゲームをしようと言
㌔しかしオセロの方がよいと言うのでオセロをする。なかなか考えながらコマを置いていくの
には驚かされる。知的好奇心が高いのであろう。終了するや否やコマを数えるあたり、几帳面さ
がうかがわれる。最後に野球ゲームをしたが、M子の勝利で終わる。この日は帰り際に柔らかト
ンカチでの攻撃行動があ孔この行動は急激なものではなく・「弟がいつも自分にするのよ」と
言いながらも、突然きつい言葉「コノヤロー、シネ!」がでたので再度驚かされる。
13回目
野球ゲームから始めるが、やる気があまりないらしい。それから卓球をする。M子はラケットの
選定にかなりの時間を費やす。しかしながら、途中であっさりとやめ、横にある箱庭セットに目
をやり、他人の作品がそのままになっていたので、これをもとにして、改良を加えながら作品を
製作する。動物が種類ごとに群れをなしており、親子が多く、オリジナル作品ではないが全体に
まとっている。それからプレイルームに戻り少しだけトランポリンで跳び、時間がきたので帰宅
する。
14回目
プレイルーム使用のスケジュールの都合で、少しの間、隣の卓球場で卓球をして待つ。前回の
箱庭作品が残っておりM子はおおはしゃぎする。しかし、眺めただけで部屋があいたので移る。
この日、新しい玩具(室内用バッティングマシーン)を二人で見つけ、またまたおおはしゃぎす
る。時間までひたすらこれで遊ぶ。本当に没頭する。
15回目
この日は台風の接近で風雨が激しくM子の来所を心配したが、元気に入室する。前回のように
バッティングマシーンで遊ぶのかと予想したがほんの少し遊んだだけで・トランポリンで元気に
一136一
跳びはねる。その後、室内三輪車に乗り二人でぐるぐる部屋の中を回る。そのうちに、隣の卓球
場に自然に移動し、卓球台を中心にして回った。電車に見立てたりして回るが、疲れたので卓球
をする。このプレイセッシランでは、自然発生的な笑いだけで会話はほとんどない。しかしなが
らThとM子のコミュニケーションの深まりを感じさせ札
16回目
卓球をしながらM子は家庭の様子を話す。特に年末年始の予定に関しては詳細に話す。近所の
もちつき大会やこども会のクリスマスパーティーのことや親戚や友人宅への宿泊予定など、大変
うれしそうである。その後少しトランポりンで跳び、野球ゲームをする。この野球ゲームでは二
人とも熱中する。真剣勝負の感がある。
17回目
M子の都合と研究所の行事で2週間休んだので3週間ぶりになる。M子は野球ゲームをしよう
と考えたらしいが見当らないので、何か玩具を探しながら学期末の成績表の結果を話す。驚くべ
き優秀さである。板カルタを見付けたので、それを利用して将棋倒しのような遊びをする。親友
の話をする。Thの住所を聞いてくる。理由を尋ねると、年賀状を送りたいとのことであった。
それから、トランポリンで跳びながら、学校の周囲にいる怪しげな大人の人の話をしてくれる。
Thも一口裂け女”の話をする。時間がきたので来年の来所を約束して帰宅するる
18回目
年が明けて始めてM子が来所する。研究所の年末の大そうして玩具が大幅に減少する。仕方が
ないので、M子はトランポリンの上で寝転んで、自分の年末年始の話をする。前々回でThに話
した予定通りに遊び回っだそうである。勉強などしないで遊んでぱかりいられるので楽しかった
とのこと。Thも自身の年末年始の様子を話す。それから、トランポリンでM子はおもいっきり
跳ぶ。跳びながら時計を見る。帰宅する際、M子は次回は1週あけて来所したいと希望する。
19回目
2週間ぶりなのに、プレイルーム使用のスケジュールの都合で隣の卓球場で待ってもらう。二
人で卓球をして待つ。他人の箱庭作品が残っていたので二人で批評しあう。そのうちに部屋があ
いたので、M子はトランポリンの上にマットを載せて自分がその上に乗る。そしてThに学校生
活について話す。学習の進んでいない子に先生のように教えていることやケーキづくりの会のこ
とを話す。自分のがんぱりをThにアピールしているようである。この頃になると遊戯療法より
もカウンセリングに近くなる。M子はトランポリンの上で寝転んだ姿勢で話し、Thは傍らのイ
スに座りうなづきながら聞く、という感じである。そしてまた、1週間あけて来所したいと希望
する。
一137一
20回目
M子は来所するなり、「今日でやめる」と言う。そして「少し早いけれどバレンタインデーの
プレゼント」と言ってチョコレートをくれる。その後は、前回のようにM予はトランポリンの上
で、Thは椅子に座りお互いの学校の先生のこと、生徒の様子、授業内容などを語り合う。最後
にお絵かきボードに円を3つ描き、母親とともに元気に研究所を後にする。
lV.母親の面接過程
【インテーク時】
昨年11月に姉が乳癌で入院したので、非常に動揺した。1月∼2月は朝方になるとM子が腹痛
を起こし登校の途中で足が硬直したりして登校を嫌がるので、最初は強引に連れて行ったが、付
き添いに疲れてきたので、思いきって休ませるようにした。3年生になって暫く登校したが、そ
のときもM子は「何処にも行かずに、家でちゃんと待っていて欲しい」とよく言った。6月に入
ると再び登校を嫌がり始め毎日校門まで連れて行くが、校門の所まで来るとグズグスして中へ人
ろうとせず、無理に押し込めると泣き叫んだ。
【第I期(1回∼6回)】 各回のM子のプレイの時間と並行して面接
M子は「お母さんが死んだらどうなるか」とよく聞いてきた。学校まで連れて行ってもグズグ
ズして中へ入ろうとしない。弟との関係が悪くなってきた。その原因は姉が教育研究所でプレイ
ルームで遊んでいることを自慢するからである。時々、夜中に起きて「お母さん」と言ってしが
みっく。この夏休みはこの子の相手をしてやることにした。8月27日の登校日は夏休みの宿題を
全部完成して、それを持って登校した。かなり自信ができたようだ、M子と二人だけで.二泊三口
の‘‘旅’’をしてきた。M子の優しい面が感じられるようになり、イライラしなくなる。最近では、
むしろ“可愛い”と思うようになった。
【第n期(7回∼12回)】
9月1日は登校したが、途中から帰ってくる。最近、4∼5歳の頃に引越しで忙しかった頃の
ことをよく聞いてくる。どうも私はあの子に余りにも過剰に反応してきたように思う。それ程大
変でもなく、放っておいても構わないようなことでも、あれこれと心配して干渉してしまって、
子どもと一緒になって落胆してしまっていた。今でもM子が学校を休むと、私も段々と疲れがひ
どくなる。M子の友人が交替で朝迎えに来てくれるが、時々来てくれないと急に不安になってグ
ズグスし始める。9月から毎週木曜日のク・ソキー焼きを始めて続けている。実の母が3ヵ月ぶり
に入院先から戻ってきて「随分変わったね」と言う。自分でも大分明るくなったと思う。M子は
もとより私よりも父親を慕っていて、父親が出張したりするとすごく不安になっていたが、今度
(の父親の出張のとき)は問題がない。そんな時、よく何度もトイレに行ったが、もうトイレに
もそんなに頻繁には行かない。咋年の遠足の時が嘘のように、今回の遠足は十分に楽しんで帰っ
てきた。実はやはり非常に不安であった。また昨年のようにパニックを起こすんじゃないかと患っ
一138一
ていた。まだ夜は一人で寝ることはできない。私と一緒に寝ている。
【第皿期(13∼15回)】
11月に入ってから毎晩ピアノを弾くようになる。また習いに行くと言う。学校であったことを
何でも話すようになる。
【第1V期(16∼20回)】
半年前まではあの子を送り出しても、またいっ戻って来るか、と毎日イライラして神経がピリ
ピリと張り詰めていた。よくあの子の引き返す音が聞こえてくるようであった。もう学校へは行
かないということでは問題はなくなった。しかし、あの子は学校でまた再び「いい子」になり過
ぎているように思う。友達の世話をやき過ぎて、毎日大変疲れて帰って来る。学級新聞に担任の
先生が「M子ちゃんが元気に登校するようになった」と書く。そして本人も、「みんなにお世話
になってありがとう。私も元気に学校へ行くようになりました」と書いたらしい。毎週木曜日の
“ケーキ作りの会”は続けている。まだやはりM子が「お母さん、家で待っててね」と言うこと
があ孔この冬休みには父親と二人きりで過ごしれもう大丈夫と思われる。
考
察
1.治療過程について
本ケースは、その治療過程から4期に分けられると考えられ乱舞I期は1回目から6回目ま
でで、その行動の積極さから情緒的な発散の時期だと考えられる。
1回目のプレイの中で特記できることは、ものおじせずびくびくとした態度が見られないこと
である。例えば三浦(1990)H〕の不登校児の事例では、1回目のセッションのクライエントのお
どおどした様子が報告されている。これに対して、同じ不登校を主訴としたクライエントでも、
少しも臆したところがないのはM子の特徴であろう。さらに、玩具の故障を細かく指摘するあた
り大変緻密な観察力を感じさせ孔
2回目で、M子は初めて家族について言及するが、このときもこれ以後も、母親と弟の事はよ
く話すが父親のことはあまり話さない。これは、分析が深められなかったために話さなかったの
か、本当に父親の存在が家庭内では小さかったからなのかは不明である。しかしながら、父親の
家庭内での存在が大きければ、母親の心的動揺をもう少し緩和できたとは考えられないだろうか。
また、M子の不登校という状態を回避できたのではないだろうか。岡田(1987)’里〕は、母子分離
の際に父親は“切る”役目をしなければならないと言己している。つまり、M子は当然父親に切ら
れるべきであったのに、そうされなかったことにより、ますます母子分離不安が増大した可能性
も考えられる。
このことは、この時期にM子がさかんに母親に「お母さんが死んだらどうなるの」と聞いたり、
夜中に「お母さん」と言ってしがみっく、という行動をしていることから理解される。
しかしながら、少なくとも外見は何ら健常児と変わらず、また成績も優秀で運動能力も高く、
一139一
学級委員も務めるぐらいのM子が、なぜ不登校に至ったのか。おそらくは、子どもらしさを殺し、
できるだけ大人に近づこうとしていたこと、学校で“良い子”になろうと背のびしていたことに、
その要因があったのではないかと考えられる。なぜなら、先述したように早くから母子分離を強
制され、自立心をも必要とされていたからである。その努力の肯定的な側面が几帳面な学習姿勢
であり、否定的な側面が不登校状態なのだと考えられる。
プレイの中でのM子との運動を介してのやりとりが、Thとのコミュニケーションに一役果し
ている。例えば、卓球、トランポリンや室内野球などである。その上、もともとM子が運動好き
で運動能力が高いことも、Thにとっては幸いであった。また、M子のトランポリン運動が思い
のほか、カタルシス効果があったようである。また母親と一緒になって、週1回ジャズダンスを
習っているという背景があるのも興味深い。
3回目で、M子は「私以外の予知っている?」と唐突に尋ねるが、この意味は非常に大きい。
おそらくM子は、このプレイルームを他人が何人も使用していることを感じ、本当に自分が自由
にプレイルームを使用できるのか、疑問に思ったのではないだろうか。Mustakas,O.E、
(1962)肥〕の言う自己の活動場面に対する確認であろう。治療関係の構成について「セラピィの初
期は、関係の構成が重要な過程である。子どもはプレイ・ルームに案内され、その場面が許容的
なものであることが伝えられる。関係を構成するセラピストの言葉を通して、子どもは、治療関
係や彼のもつ自由と責任が何であるかを理解する」と記述している。
5回目で、初めてThのことに関連した発言が見られたが、この確認でM子とThとの関係が成
立したと言えよう。このラポールの成立の後に夏休みに入れたことは幸運であった。また、母親
がこの夏休みを利用して、M子との関係改善に努力しようと決心したことも、その後によい影響
をもたらした。
6回目は・大きな混乱もなくスムーズにセラピーにはいれた。ThはM子が・セッションの途
中で長期休暇がある場合、その休暇明けの最初の時間には来所しなかったり、または来所しても
時間に遅れて来るのではないかと危惧していた。しかしながら、M子は定刻に来所し、プレイルー
ムヘの入室のほんの数十秒間だけはにかみ・その後は少しも臆するところがなかっれ母親の計
画した夏休みの旅行で、M子は母親と.二人っきりなので思いっきり甘えられたことだろう。母親
の計画したこの旅行の成功も、治療過程でよい方向に働いたようであ孔彼女は堂々とした態度
は治療終了まで続いた。しかしながら、次の第u期の母親面接から新学期の第1日目は、登校は
したが途中から帰ってしまったとのことであった。母親の不安も再び増大した。この意味では主
訴は不登校には違いないのだが、やはり母子分離不安を中心にM子の問題を考察する方がよいの
かもしれない。つまり、母親に見捨てられるのではないかという見捨てられ不安が絶えずM子の
脳裏にあり、不登校という行動は、母親を自分にっなぎとめておくための、手段であったと推察
するのである。家庭内の事情による強制的な自立が、幼いM子に不安をうえつけ、心的外傷体験
として心の傷になり、その傷が小学校入学以降、母親と離れる時間が長くなるにつれ、M子自身
の防衛能力の枠を越えてどうにもならないところにまで圧迫していたのではないだろうか。
ところで、Heard,D.H(1974)H〕はBowユbyの’attachment theory(愛着理論)’’と“attach一
一140一
ment behavior(愛着行動)”との間の混乱を指摘している。前者は深い感情で交流のある特別
な人との関係の維持・発達のことであり、後者はそのattachmentを維持するためのコントロー
ル’システムのメカニズムによって統制された、複雑な力動的過程の構成要素だと考えられる、
機能的に等しい行動の様式のことである。しかしながら、Heardが指摘しているような区別など
なくても、愛着理論を背景とした愛着行動は母子分離不安を考察する上で非常に重要である。
一般に母親との共生的な関係にあった幼児が、自我の成長とともに、3歳ごろにもなると、母
親と自分とは別々の人間であるという意識に目覚める。母親と信頼関係をもっていれば、母親が
自分から離れることがあっても、安心感という保証を実感としてもつが、この信頼関係がなけれ
ば、分離に強い不安を抱く。拒否的な親にしがみつく場合がこれに当たる。本ケースにおいても、
母親がM子を最近になってかわいく思うようになったと発言したこと、M子が夜中に母親にしが
みついていた、ことなどの事実がこれに当たるだろう。さらに、Heardは、分離不安の後に起こ
るのが“detachment”であり、これは“attachment behavior”のひとつであると紹介してい
る。もっともこの場合の‘‘detachment}は‘‘幼児の自立”という意味ではなく、 “母親に対す
る反抗的態度”という意味だと思われる。つまり、反抗的態度を示すことで、母親の注意を自分
に向けようとするわけである。M子の不登校現象もまさに分離不安の後に起こった“detachmenゼ
であり、 “attachment behavior”なのではないだろうか。ただ、Bow1by(1960)’5〕は、この自
立には・ “適応の内容”が誤っている場合が多い・と記述してい孔
第n期は7回目から12回目までで、M子とThの活発な交流からラポールの深まりの時期だと
考えられる。
9回目で、Thの小学時代のことを話すと、M子はいつもの主張家タイプの様子からは、想像も
できないぐらい、静かに何度も何度もうなずきながら、大変共感した感じを見せたのも興味深い。
これはおそらく、現在のM子のおかれている状況とThの幼児期の状況との一致した部分が大き
かったためだと推測される。Thが母親からの拒否を恐れて自分を認めてもらうために、大変な
努力をしたこと、その努力がなければ母親に認められず甘えることができなかったこと、依存す
ることのできない悲しさなどを経験したこと、これらの経験を持っThにM子が共感したからだ
と考えられる。
安心の後に、1!回目でのM子のThに対する野球ゲームを媒介としての挑戦は、自信回復のた
めではなかったか。
12回目で、M子が帰宅の際にThに対して、どぎつい言葉“コノヤロー、シネ}をあびせたの
は、母親との依存状態への決別(お別れ)、つまり母子分離の前兆であったと考えられる。もっ
とも、M子は家庭内で弟が普段自分に対して言う言葉だと説明した後で、Thに対して言ったの
である。つまり、自分の弟の関係に投影し、さらにThと自分の関係に投影させて、はっきりと
述べているのである。すなわち、この発言の相手は弟に対してでも、Thに対してでもなく、母
親に対してではなかっただろうか。なぜなら、乗り越えるべき存在は母親であり、母親を乗り越
えてこそ、真の成長があるからである。
この時期、母親は高木との面接で、自分とM子との関係改善のために始めた、自宅を開放して
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のクッキー教室が、当初の予想より思いのほか順調だと述べている。良好な母子関係確立にクッ
キー教室が一役買ったことだろう。
第皿期は13回目から15回目までで、会話があまりなくとも、M子とThのコミュニケーション
が成立した。
M子がThを信頼し、ThもM子を十分に受容していた。
第1V期は16から20回目までで、M子自身が日常生活を客観的に話し、1週あけて来所を希望し
ていることから、Thからの巣立ちの時期だと考えられる。
18回目でM子は「年末年始は勉強しないで遊んでばかりいられるので楽しい」と語っているが、
もうこのような制限を受けない世界が終わろうとしている感じがうかがわれて、非常に興味深い。
現実世界との対処を決意し、準備しているようである。また治療の終わりに、M子は「次週は休
んで、2週間目に来所したい」と自分から言い出したのは、毎週来所しなくても、不安があまり
ないという何よりの証拠であろう。また、母親も面接の中で、不安がなくなったと述べている。
M子のこの中し出で、本当にThとの別れの雰囲気が顕著になった。そして、4週間後の20回目
に、M子がお絵かきボードに描いた絵は3つの円てあっ㍍これらは、マンダラの象徴なのだろ
うか。そして、このセッションを最後に本ケースが終了するのである。
2 問題の発症要因について
母親の実姉がガンで入院し、母親が非常に動揺したことから・ただでさえ希薄な母子関係に打
撃を与え、母親に見捨てられはしないかという不安が、M子の不登校に結びついたと考えられる。
もちろんそれ以前までに、M子のあまりにも子どもらしさを殺したがんばりが積み重なって、限
界近くまできていたことは見逃せない。また母親の母(母方の祖母)との関係が、幼心時から不
安定であった。このことが、母親とM子との関係にそのまま引き継がれていたと考えられる。同
様の関係がEstes,H.R.(1956)’6〕らの論文にも記載されている。すなわち、心的安定性に欠けて
いた母親との関係が、不登校の誘因となったのである。弟の出産、義母の退院後の世話に加えて、
家事一切をこなさなければならないという母親の立場が、M子との関係をより希薄にし、M子の
見捨てられ不安を増大したと考えられる。
このような状況であるにもかかわらず、父親は非協力的であった。このことが、より母親の負
担を大きくし、M子は母親から拒否されることになったのだろう。M子は何でも自分で処理でき
るように要求されたのである。母親はあまりにも忙しい日常生活から、弟の養育に関して一種の
マダニティー・ブルーになっていた可能性も考えられる。ここで父親が中心となり、母親のよき
協力者として、一緒に育児に参加していればまだ母親は救われたのであろうが、仕事の忙しさや、
自分の余暇を楽しむことで時間を取っていたので、家庭内での存在はさほど大きくなかったよう
である。そして、この母親の養育に対する否定的な態度がM子の養育に移行していき、M子の存
在そのものを拒否していったのではないだろうか。
母親から拒否的な育児態度を受けたM子は、この見捨てられ不安を解消するために、同性の親
との葛藤が存在するエディプス期を避け、一度は完壁な子どもを演じたものの、結局はエディプ
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ス期以前の依存的な段階にまで退行し、不登校状態に陥ったものと考えるのが妥当であろう。ま
た、母親もM子を拒否しながら結局は依存的な母子関係に追いやり、M子を手元に置くことになっ
てしまったという事実から、母親の両価的な心的状態がうかがわれるのである。そしてこれこそ
が、Eisenberg5〕の言う学校恐怖症の母親の特徴と一致するのである。
そのうえ、この時期の新しい新興住宅地への引っ越しも母親にとって思いのほか負担になって
いたのではないだろうか。もっとも、引っ越し先のすぐ近くに実母が住んでいるという利点も見
逃せないが、その一方で、新興住宅地特有の表面上だけの付き合いが、母親のイライラにさらに
拍車をかけたものと思われる。そういう付き合い方を少しでも軽減するために、建設会社が設定
したコーポ組織(15戸を一区画に設定し、一区画にっき一戸の共同レクリエーションハウスを設
け、それを中心にして、隣近所の親交を促進する一種の共同体組織)も、母親には強制的な行事
への参加でしかなく、実際は負担が増しただけという結果に終わっていたようだ。
種々の要因が複雑に絡み合い、母親の実姉のガンの入院による母親の動揺が動因となって、M
子の不登校が発現したと考えられる。
3.問題の解決要因について
いくつかの要因が考えられるが、まず不登校児には違いないが、いわゆる対人恐怖症的な“学
校恐怖症”とは異なり、母子分離不安に帰因する“不登校’を主訴としての来所であったことが、
挙げられよう。またM子が比較的何事においても、探求心旺盛な積極的な言動を求める人格タイ
プで、初対面の大人とも普通にコミュニケーションがとれたことも挙げられよう。また、母親の
治療に対する積極的・協力的態度(例えば、夏休みの旅行)も大きいであろう。さらに、遊戯治
療がM子の心的不安・葛藤を解決する上で非常に浄化作用(カタルシス効果)の役割をはたし、
この遊戯療法の延長としてのカウンセリングも非常に有効であったことも考えられよう。これは・
中島’7〕も報告している通りである。そして、遊戯療法でM子が心的安定性を取り戻すにつれて、
母親も相互作用的に心的安定性を取り戻していった。そして、この良好な母子関係が家庭内の力
動関係を確立していったことだと思われる。おそらく、父親も弟も含めた家族間の力動性は改善
へと向かったと推定される。
また、研究所自体が全体的に暖かい雰囲気をもっており、専任のスタッフの暖かい援助が、折
りにふれあったことが、本ケースの解決要因として考えられよう。
引 用 文.献
1)Johnson,A.M.et aL,1941,Schoo1phobia.
American Journa1of Orthopsychiatry.,11:pp.702−711
2)Jack,V.T.,1929 Schoo1sickness.
Journa1of1owa State Medica1Society.,11,=pp.451−453
3)K1ein,E.,1945,The re1actance to go to schoo1
Psychoana1ytica1Study of the Chi1d.,1:PP.263−279
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4)Suttenfield,V.,1954,Schoo1Phobia,A Study of cases
American Journa1of Orthopsychiarty.,24:pp.368−360
5)Eisenberg,L.,1958,School Phobia,a study in the communication of anxiety
American Jouma1of Psychiatry、,114:pp.712−718
6)Ta1bot,M.,1957,Panic in schoo1phobia
American Jouma1of Psychiatry.,27=pp.286−295
7)Coohdge,J.C.et a1.,ユ960,Sohoo1Phobia:Neutrotic crisis or way of the1ife
Journa1of Chi1d Psycho1ogy&Psychiatry.,1:pp.270−278
8)Hersov,L.A.,1960,Refusa1to go to schoo1
Journa1of Chi1d Psycho1ogy&Psychiatry,1:pp.137−145
9)Hersov,L.A.,1960,A Persistent non−attendance at schoo1
Journa1of Chi1d Psycho1ogy&Psychiatry,1:pp.130−136
10)内山喜久雄・深谷和子 1979 r登校拒否症の発生における家庭的要因の分析一男子の事
例を中心に」 pp.81−100現代のエスプリ 139至文堂
11)三浦和夫 1990 「ある登校拒否児の遊戯療法過程一“出す”テーマをめぐって
」
箱庭療法学研究 3=pp.26−36
12)岡田康伸 1987 「父子関係の回復」 pp.187−224 岡田康伸編 『子どもの成長と父親』
朱鷺書房
13)Moustakas,C.E.(古屋健治訳編)1962pp.11−12 『児童の心理療法一遊戯療法を 中心
として一」 岩崎学術出版
14)Heard,D H,1974,Crls1s Intervent1on Gu1ded by Attachment Concept A Case Study
Journa1of Chi1d Psycho1ogy&Psychiatry,15:pp.11−122
15)Bow1by,J.,1960,Separation Anxiety
Internationa1Journa1of Psychoana1ysis,16:pp.89−113
16)Estes,H.R.et a11,1956,Separation Anxiety
American Journa1of Psychotherapy,10:pp.682−695
17)中島さつき 1986 「情緒障害児とその母のケース」 pp.1−48 中島さつき・杉本照子
編 『ソーシャルワークの臨床的実践』 誠信書房
<謝辞〉
稿を終えるにあたり、論文の御指導を頂いた甲南大学文学部社会学科心理学教室の森
氏起先生に厚く感謝致します。また、筆者に学習の機会を与えて下さった、堺市立教
育研究所所長の小林壮志郎先生に厚く感謝致します。
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口n rapPort sur1’occasi◎皿du proc6d6de je口
pour une fi11e qui refusait dIa11er a 1I6co1e
Takayuki Sugita
Tadahiko Takagi
工nstitut d,Education municipa1 de Sakai
Masami Ohi
Seotion de 1a 1=6cherche d8s enfants troub1es
universit6 p6dagoqique de Nara
Voi1a un rapPort de 1・ocoasion du p1=oc6d6 de jeu poul= une
fi11e
qui
a
pr6sent6
un
ξy皿pt6me
p1=incipa1
de
son
refus
d■a11er a 116co1e par 1e premie】= auteur a 1・Institut dlEdu−
catiOn municipa1 d6 H.
E11e nIa pa§ 1=efus6 dla11er a 1I6co1e quand e11e avait
huit ans’ Pendant 1e s6cond t1=imestre de seconde annεe.
guand 611e−avait neuf ans’ au premie1= trimost1=e d6 t1=oi_
siεme ann6e’ e11e est venue a notr6 cent1=e dIaid6 sOcia1e δ
1IenfanCe.
Tout com1≡,te fait’ nous avons diagnostiqu6 chez e11e des
sympt6mes du refus d・a11e】= a 1I6co1e tirant son origine de
1−anxiεtε de s6pa】=atiOn de 1a mさre et de son enfant.
Llanxiεt6 a cousε sa cOnfusion 6motionne11e et a mis 1e
dynamism6dans sa fami11e endεsgrdre・
SOn traitement a εt6 cOnt−i1=iu6 neuf mOis enVirOnS.
C・6tait 1e procξd6 de ゴeu qui 6tait efficace pou】= r691er
sa comp1ication 6motiOnne11e.
Aprεs que son t1=aitement s・εtait termin61 e11e est re−
t−ourn6e a l16co1e et sIest adaptε6 a sa vie sco1aire.
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