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親鸞聖人には、太子さまのご誕生を歴史的に讃仰した歴史的なものと

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親鸞聖人には、太子さまのご誕生を歴史的に讃仰した歴史的なものと
親鸞聖人とその周辺
親鸞聖人には、太子さまのご誕生を歴史的に讃仰した歴史的なものと、自らを
念仏の信仰に導きたまうた観音の化身としての超歴史的な太子を讃仰した宗教
的なものとの2面がある訳であります。太子和讃にしましても、この両面の作があ
りますが、前来申し上げましたように、格調の高い傑作ともいうべきものは、観音
の化身と仰いだ11首であろうと思います。しかもそれは、聖人の太子讃仰の中核
的な精神であろうと考えられます。これに対して、歴史的な伝記的な114首の如
きは、低調であり余り良い作品とも申されないでしょう。これは、伝記や事蹟を述
べるという点にも関係するのかもしれませんし、また114首にはなお補訂の余地
が残っていると思われるところもありますが、ともかく調子の低い和讃が長々と
続くという感がいたします。
それでは、何故にこうした伝記としての和讃があるのでありましょうか。これは
一つの問題であろうと存じます。それについて、私はあれこれ考えてきました。そ
こで、一つの解釈とでもいうべきものを申し述べたいと思います。だいたい、真
宗の古い寺に参詣してみますと、聖徳太子のお木像や御絵伝等のかなり古い立
派なものを拝見することがしばしばあります。ことに関東地方やその周辺の諸寺、
あるいはその系統の東海地方、中でも三河や尾張の地方にはこの種のことが多
いのです。それは、これらの地方の真宗門徒の太子さまに対する尊信が篤かった
ことを物語っているので、こうしたことは鎌倉時代以来、即ち親鸞聖人の時代か
らであります。由来、鎌倉時代は初めにも申しましたように、太子さまに対する信
仰が著しく昂揚した時代ですが、真宗門徒にはそれが著しかったようでありま
す。
南北朝時代のことですが、関東にいた浄土真宗の方が書いた物の中に、この
頃念仏者の中に堂を造った場合、聖徳太子を本尊として、阿弥陀仏を傍らにした
親鸞聖人とその周辺
り、また阿弥陀仏を安置しない者があるのは間違っていると申しています(聖冏
『破邪顕正義』)。これは真宗門徒のことを評したもののようであります。実際、関
東から東北地方の真宗門徒の太子さまに対する尊信は頗る篤かったのでありま
す。そして、これは鎌倉時代以来のことでありますことは、先ほども申しましたよ
うに、東国の諸寺には鎌倉時代に作られた太子さまのお木像やご絵像、あるいは
御絵伝が伝えられていることから推察できます。しかも、親鸞聖人の関東教化の
中心拠点であったといわれます今の茨城県の稲田の西念寺の元の本尊は聖徳
太子であったと古くから伝えられている(真慧『顕正流義鈔』)ことを思いますと、
親鸞聖人が東国に赴かれた頃、既に当地には太子信仰が盛んであったのであり
ます。
ところで、親鸞聖人が東国に赴いて念仏の信仰を弘めましたので、現在その名
が知られています門弟は60人余りに及びましょう。そして、それらの門弟が各地
に居住して、また近在を教化しましたので、聖人の在世当時、東国には念仏の信
者がかなりできたことと思われます。ところが、そうした念仏を弘めるに当たっ
て、聖人は口づから法を説くという、いわゆる法話によることも勿論あったこと
でありましょう。しかし、仏教とは縁の浅い人々には、最初から聖人の念仏信仰を
説いても容易に人は近づかないでしょう。そこで何等か、いわば媒介となるべき
ものがあったのではなかろうかと思われるのです。それについて、聖徳太子のお
木像や御絵伝が今に伝えられていることを考え合わせてみたいと思うのであり
ます。
結論を先に申し上げますと、何分東国には太子に対する信仰が篤いのですか
ら、そうした現実を踏まえて太子の法会を営んだり、ご生涯のご事跡を物語った
り、あるいはそれを絵図に描いた御絵伝の説明をしたりいたしていたのではない
かと思うのであります。即ち、太子に対する信仰を一つの媒介として念仏を弘通
するということがあったかと考えられるのです。かように申しますと、太子に対す
親鸞聖人とその周辺
る尊崇、信仰を一つの手段に利用したように聞こえますが、それは結果からいっ
てそうなったので、当初から故意にそうしたことを考えたわけではありません。
元々聖人にも門弟にも太子に対する尊信には深く篤いものがあったのですから、
単なる手段や媒介としたのではなく、聖人や門弟たちの太子の法会に太子さま
のお話や絵伝の説明がされたために、念仏に無縁の人々もそれに引かれて参詣
し、太子のお話や絵伝の絵解きを聞き、やがて念仏と縁を結ぶという結果になっ
たものかと思われるのであります。
太子のお木像や御絵伝が現に古い立派なのが存在していることは先に申した
通りです。これらによって、太子さまの仏事法会が行われたと想像してよいでしょ
うが、ことに御絵伝の説明即ち絵解きがなされたことは、今にその台本が残って
いることから察せられます。即ち『正法輪蔵』というような40余巻もある大部の
太子伝がありますが、これは明かに太子絵伝の説明で、絵解きのいわば台本です。
当時は何分絵解きが近畿でも盛んでしたから、これは真宗でできたものかどうか
分かりませんが、鎌倉時代末期の写本が真宗寺院に何部か写されて伝わってい
ます。また、同じような『聖徳太子内因曼荼羅』というものもできていますし、さら
に同趣のものが行われていた形跡があります。しかも『内因曼荼羅』は太子さま
の印度や中国に生まれられたところの、いわゆる前生譚でありますが、その最後
には法然聖人や親鸞聖人の話が綴られています。これによっても、太子のお話や
絵伝の絵解きをして、やがて念仏の教えを説くに至ったことがわかります。
太子の御絵伝には10幅内外の大部のものから、ただ1幅の簡単な略絵伝まで
色々の形式があります。ところで、先年奈良の国立博物館で太子絵伝の特別展観
がありました時、集められました30点余りの絵伝の中、半分は法隆寺や天王寺ま
たは橘寺その他、太子関係寺院の所蔵でありますが、その他の半分は真宗寺院
に伝えられてきたものです。これにはもちろん室町時代のものも含まれています
が、太子関係寺院以外の諸宗で、太子絵伝を伝持しているのは真宗ばかりで、他
親鸞聖人とその周辺
にありません。これは、太子と真宗との関係が後世まで頗る密接でありましたこ
とを示すものですが、こうして絵伝が多いのは前来申し述べましたように、太子
さまの法会を催し、御絵伝を掛けて絵解きをしたからであります。それで、室町時
代の太子絵伝の中には、終わりに親鸞聖人が太子さまを礼拝している法会の図
があったり、聖人の絵伝から幾つかの場面を描き添えて、聖人伝で終わっている
ものもあります。こうして真宗では太子の法会も絵解きを行いまして、太子尊信
の念を高め、また念仏弘通の頼りともなったのであります。(宮崎円遵)
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