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河西回廊旅日記 - 特定非営利活動法人 アジア近代化研究所
IAM Research & Report, No.1, 2010 年 7 月 10 日発行 混雑した町(浅草)に行ったとのこと。お互い意思が通 河西回廊旅日記 じ出すと、話が盛り上がってくる。初任給は日本円にす ると、5 万円ほどだという。そうか、東京の大卒初任給 西加 正一 は 20 万円前後だから、上海の 4 倍もあるのか。お金の 数字だけで錯覚し、東京は上海の 4 倍の生活水準だとつ アジア近代化研究所正会員 い早とちり。胸を張って威張りそうになる。今年中に日 本を抜いて、中国が GDP 世界第 2 位になるといわれて (1) はじめに いるというのに・・・。上海は中国の中では高い方だが、 5月の連休前に 1 週間ほど中国に行ってきた。「もう それでも物価は、日本とは比較にならないほど安くて、 ひとつのシルクロード8日間」というタイトルのツアー 月給 5 万円でも十分生活できるという。新卒者は大体、 に参加。何が「もうひとつ」なのかいまひとつよく分か 月給を全部生活に使い切ってしまう。衣食住の満足度が らないが、かねてから一度は行ってみたいと思っていた 同じ程度なら、生活費としては、日本円の値打ちは中国 「敦煌」に二泊できるので案内ハガキを見て即決。中国 元の 4 分の 1 しかないということもできる。購買力で比 への渡航は9回目。ただ、二、三の大都市を除けば一度 べるとそうなる。為替レート、つまり円と元の交換割合 きりの訪問ばかりなので、毎回違う国に行くような気が の問題。元が切り上げされて、今の 1 元 15 円が 60 円 する。中華人民共和国(面積約 960 平方キロ)は、ユー と 4 倍になれば、数字と生活実態とがバランスがとれる ラシア大陸の半島部分ともいえるヨーロッパ諸国(EU ようになる。今すぐにはあり得ない話だが、明日はどう 加盟 27 カ国合計面積約 453 平方キロ)の二倍以上の広 なるか誰にも分からない。 さになる。ひとつの国というよりも、本当のところは 別々の連邦のようなものかもしれない。人民元紙幣の顔 今、円は 1 ドルおよそ 90 円。しかし、過去、戦後長 写真の裏面には、漢語・満州語・モンゴル語・ウイグル い間、その 4 倍の 360 円だった。今や、4 ドル出さない 語・チベット語の5種類の文字が小さく書かれている。 と 360 円には換えてくれない。 円の値打ちが 4 倍になっ たわけで、かつて高かったアメリカの物価の方が、食事 少なくとも五カ国の連邦国家と理解した方が実情に近 するにも泊るにも日本の物価より割安感がある。 いのではないだろうか。今回は、その中の西北エリアが 福建省などからコンテナ船に隠れて命がけで密航し 目的地。何はともあれ、行ってみよう。 てくる中国人が絶えないと騒がれていたのは十年ほど 前まで。つい、この間のことなのだ。それが今や銀座の (2) 1 日目(2010 年 4 月 25 日) デパートや秋葉原の電気街の上得意は中国人観光客。ア 成田発午後 5 時。上海浦東(プートン)空港に着くの ッという間だ。だから、1 元が今の 4 倍、およそ 60 円 は夜。飛行機は、暗い大陸に着陸する。揚子江(長江) になるのも、長い時間の幅でみれば、経済力学から外れ が黄色い帯状の縞模様になって東シナ海に這い出る光 た夢物語とまではいえないのかもしれない。日米がそう 景は今回、見ることができない。窓からの景色に期待で だったように、日中関係も遅かれ早かれ、いずれ変化す きないので、隣のシートの中国人青年と話し込む。北京 るのだ。 ・・・。 理工大学を今年卒業して、上海の合弁企業に勤務してい 考えたり感じたりすることの基準が揺らぎ始める。日 るとのこと。茨城の日立製作所で 1 週間研修した帰りと 本と中国とは、モノの値段を手始めに、価値基準がそれ いう。旅行用会話以外、私には中国語が音楽にしか聞こ ぞれかなり違うらしい。世界はダブルスタンダード、マ えない。その青年、唐君にとっては、日本語がそうだと ルチスタンダードの混合体。曖昧さと混沌の坩堝。何で いう。そこで、共通語として英語を使う。ピジンイング もありなのだ。価値も意味も人によって、国によって違 リッシュ。ピジンは、 「ビジネス」の中国語訛りとも「鳩」 う。だから、逆に、ちょっと基準をずらして自由になれ が歩くようにたどたどしい英語とも。つまりはブローク ば、今まで知らなかった新しい世界が開けてくるのかも ンな英語だが、コミュニケートできれば十分。それに「一 しれない。目の前の現実が全てだとは限らない。違う現 衣帯水」、「同文同種」のお隣り同士、漢字の筆談とい 実がたくさんあるのだ・・・。しかし、一回しか生きら う手もあるじゃないか・・・。 れないのに自分は一人。自分の国も残念ながら大抵ひと IT(インフォメーション・テクノロジー)関連の技術 つ。一人でひとつの国にしがみついてきた長い年月。偏 者。エリートらしい。半日だけ東京観光して、橋の二つ 見とともに生きた数十年。これでは、なかなか自由では ある入れないところ(皇居)と提灯の下がった門のある いられない。 1 IAM Research & Rep port, No.1, 20 010 年 7 月 10 日発行 私は日本 本人ツアー客。トランジット(乗り継ぎ)で でそ 備さ された敷地の中に に博物館がいく くつも。ファザー ード(建 のまま中国 国内陸部陝西省 省の西安に向かう。浦東空港の の通 物の の正面)に篆書で で「兵馬俑坑博物 物館」と彫られて ている。 路で総勢 2 29 名一時集合 合して点呼。唐君 君は二、三度振 振り 浦安 安の東京ディズ ズニーランドの中 中にできた中国 国街区で 返って目顔 顔で挨拶を繰り り返してから、人 人なみに消えた た。 歩き き疲れたような気 気持ちになって て一休み・・・。 戦火も内戦 戦も文化大革命 命の嵐も過ぎ去っ った上海。戸籍 籍人 ツアー仲間の斉藤 ツ 藤さんが「人民 民解放軍陰謀説っ って知っ 口 1,400 万 万人近く、 常住人 人口は 2,000 万人に迫るという 万 う。 てま ます?」とにこや やかな顔で話し しかけてくる。人 人の良さ 時速 400 キロを超す世界 界最速の上海リ リニアモーター ーカ そう うな表情をして、 「兵も馬もみ みんな、彼らの手 手作りだ に乗れば、唐君 君は、空港から 10 分足らずで で市 ー。それに そう うですよ」 。エッ ッ!「農民が発 発見してから、何 何年か立 街地に着く く。魔界とも呼 呼ばれた巨大都市 市。今週末から ら万 入禁 禁止にして整備 備している間にい いろいろやった たという 国博覧会が が始まる。 ハナ ナシですよ」と、 、信じてはいな ないけど、なんとなくあ り得 得そうでしょうという口ぶり。 (3) 2 日目(2010 0 年 4 月 26 日) の月面着 「そうですかー・・・!でも、アポロ十一号の 午前零時 時過ぎ、西安空 空港到着。早速、ホテル(西安 安賓 陸も も捏造。アリゾナ ナの砂漠やハリウッドのスタジ ジオ撮影 館)に向か かう。砂嵐が、三日三晩吹き荒 荒れたという。ど だっ って言ってるアメ メリカ人もいま ますよねー」ショックを こか殺伐と とした空港から らのバス移動。ガラス窓には人 ガ 人っ 隠し して辛うじて応酬 酬。何々?・・・と他の仲間が が集まっ 子一人いな ない街路が埃りまみれになって て映っていた。並 てく くる。 木にもタク クシーの屋根に にもたっぷりと と黄砂が降り積 積も 第一号坑。サッカ 第 カーコートより り大きそう。ドー ーム型の っている。埃りに埋もれ れた巨大な廃墟? ?町全体が不吉 吉な 屋根 根に覆われた、兵 兵馬で埋まった た発掘現場。灰色 色の大き セピア色を をしていて、ど どこにも音がない い。ハリウッド ド映 な塑 塑像=俑(人形)の下に蹲って て何人もが作業を を続けて 画で見た人 人類壊滅後のゴ ゴーストタウンの のようだ。これ れが いる る。刷毛や鏝は握 握っているが、手作りしている るように 永遠の都、長安の成れの の果てなのか?で でも、真夜中な なん は見 見えない。 く静かなのは当 当たり前なのかも もしれない・・・。 だから暗く 部屋に落 落ち着いて 4、5 時間後にモー ーニングコール ル。 睡眠不足の のままロビーに に集合したが、朝の渋滞でバス 朝 スが 遅刻。その のうえ、1 日 2 便の敦煌便が 便 1 便に減ったの ので 当初予定よ より 2 時間早く繰り上げ出発に になるという。そ のせいで、西安市内は、それこそ駆け足 足観光。サア、急 ・。朝になって て、蛍光色も鮮や やかな、黄色や や朱 げ!・・・ 色の制服の の清掃人が人海 海戦術駆使して大 大活躍だ。おか かげ で街はすっ っかり清潔な印 印象に変わってい いる。退職した た公 務員が多い いとの説明。そういわれてもも もう違和感はな ない。 この国では は、働く「人民 民」全員が公務員 員のはずなんだ だが 第一号坑 (生きた兵士 士風の警備員) と変に思っ ったのは、もうず ずいぶん昔のこ ことになる・・・。 空も晴れ れ、視界くっきり。でも、ゆっく くりはできない い。 西安限定の の現地ガイドの の周さん、説明そ そっちのけで走 走る、 欄干の外側の通路 欄 路を駆け足で一 一周。生きた兵士 士風の警 走る。 「悠 悠久の歴史よりも今日の米・明 明日のパン」な なの 備員 員が許すと頷くの ので直立不動の の写真を撮った。十数年 だ。土産物 物屋に連行し、買い物させ、コ コミッション( (周 前に には、坑内のどこ こでも、シャッ ッター1 回につき き 200 元 旋料)を稼 稼がなきゃ・・・。何度も急が がせるので、添 添乗 のワ ワイロを要求され れ、領収書も出 出してくれたらしい。し 員と現地ガ ガイドがお客そ そっちのけで言い い争い。すった たも かし し、日本のバブ ブル経済崩壊の翌 翌年 1991 年か から年率 んだして、結局、絨毯工 工場のショッピン ングをカットし して 10% %前後の高度経済成長が続く現 現在、公然と汚職 職をする ねり出す。それ れはそれでいいの のだけれど、シ シル 時間をひね 様子 子は見られない。 。モデルになっ っても、さすがに に小銭を クロードの の出発点、西の城 城門も秦の始皇 皇帝陵も写真を を撮 要求 求したりはしない い。だが、これ れも観光ビジネス スがらみ っただけだ だった。 のサ サービスなのかも・・・。何に につけ、疑い出す すときり 兵馬俑坑 坑博物館前で、見学前のトイレ レ休憩。ここは はア がな ない。あー、陰謀 謀説なんか、せ せめて見学が終わ わるまで ミューズメ メントセンター ーの中の広場のよ ようだ。広大な な整 聞き きたくなかった・・・! 2 IAM Research & Rep port, No.1, 20 010 年 7 月 10 日発行 敦煌空港を過ぎて、ゴビを貫く く道を莫高窟に に向かう。 た敦 荒野 野のところどころに土の盛り上 上がりがある。土饅頭と 土 いう うイメージ。 は墓です。墓は はタダで、誰でも もどこで 「あの土の小山は もつ つくってよかったんですが、町 町の方針で撤去 去されて、 もう うほとんどなくな なりました。あ あ、向こうに蜃気 気楼が出 てま ます!あ、消えま ました」 現地ガイドの史 現 説明をしてくれ れる。大連 さんが熱心に説 外国 国語学院日本語 語学部で勉強して て敦煌に戻って てきたと のこ こと。日本に渡っ ったことがない いというのに、日本語が 達者 者。促音「ッ」を を間違えて来て てくださいが切手 手くださ いに になったり、ラ行 行音を間違えて て綺麗ですが嫌い いですに なっ ったりという中国 国人独特の間違 違いは少し残るが、論理 的な な立派な日本語だ だ。三十代のキ キリッとした美人 人で、小 学生 生の子どもがいるという。ご主 主人が何してるか かは聞き 空の雲( (飛行機の眺め) そび びれた。 莫高窟。 莫 岩だらけ けの三危山と砂 砂山の鳴沙山の境 境目にで 敦煌に飛ぶ。四、五千メートル ル級の祁連山脈 脈の 午後、敦 きた た、この仏教の聖 聖地には圧倒さ された。砂漠の中 中の大画 上空。窓際 際。嬉しくて 2 時間余りずっと外を見ていた た。 廊。千仏洞ともいわ われる石窟は、無名の絵師によ よる色と 黄河水系と と内陸水系のコ コンチネンタル ルデバイド(分 分水 どりの壁画や塑像 像で美しく彩ら られている。イン ンドから りど 嶺)。祁連 連山脈とは、甘 甘粛省西部から青 青海省東北部に にか 中央 央アジア経由で中国に伝わった た仏教は、まずこ ここ敦煌 けての山域 域の総称で、河 河西回廊の南にあ あるので、南山 山と に根 根付いたという。 。敦煌文物研究 究所の背の高い女 女性キュ も呼ばれて ている。三日間の砂嵐で山脈の の裾野はオレン ンジ レー ーター(専門の学 学芸員)の日本 本語の案内で十い いくつの 色。山頂は はかなりの残雪 雪だが、砂嵐がま まだ漂っている るら 石窟 窟を見学する。 しい。その の黄色い雲の絨 絨毯の上に、五千 千メートル以上 上の 「ここはロシア人 人がご飯を炊い いた焼け焦げの痕。ここ 上空の雲だ だけが、飛行機 機のすぐ下や行く く手にポカリ、ポ はア アメリカ人が薬品 品で仏画を剥が がした痕・・・」 ・・・。 カリ浮いて て真っ白に輝い いている。この下が河西回廊で で、 欧米 米列強とロシア・日本の学者や や探検家による「略奪」 。 ゴビ(少し しの草しか生え えない凍土)と砂 砂漠といくつか かの 二束 束三文の売買では はそういわれて てもしかたがない。しか オアシス都 都市があるはず ず。ヒトも住んで でいるはず・・・。 し、莫高窟の保護 護と研究に身を投 投じた常書鴻が が、1951 といっても も、こんな砂嵐の中にヒトが住 住めるのか・・・。 に、 「敦煌文物研 研究所」の所長 長となってから、 、日本は 年に 様々 々な援助を行って ている。1969 年 年に平山画伯は は 2 億円 (4) 3 日目(2010 0 年 4 月 27 日) の個 個人献金をし、1988 年には日本 本政府が 10 億円 円を無償 敦煌。二 二泊するホテル ル(太陽大酒店)のロビーに、去 援助 助して「敦煌石窟 窟文物保護研究 究センター」の建 建設にこ 年 12 月に に亡くなった日本 本画家平山郁夫 夫氏の、ホテル ルへ ぎつ つけている。その のために印刷し したお札で払った たのでは の感謝状が が額装されて飾 飾られている。添乗員の津島さ 添 ん ない い。日本国民が働 働いて、その血 血と汗と涙の結晶 晶として の、平山画 画伯の個人ガイドの経験を聞く く。現地の石を を採 生ま まれたお金を充て てたにちがいな ないのだ。 取して磨り り潰し、顔料( (絵の具)を作る るので、それで でも 世界の「敦煌学」 世 」の発生源、第 第 17 窟(蔵経洞 洞)は、 ない、ここ こでもないとジ ジープで走り回っ ったらしい。あ あち 道士 士(道教僧)王円籙が 16 窟の の壁にタバコの煙 煙が吸い こち執念深 深く探して歩い いて、案内する方 方も大変な思い いを 込ま まれるのを不思議 議に思って発見 見した小さな部屋。ここ したとのこ こと。ラピスラ ラズリ(瑠璃)は はアフガニスタン で敦 敦煌文書と呼ばれ れる古文書や絵 絵巻が見つかり、世界を が主産地だ だが、敦煌あたりでも取れるの のだろうか?こ ここ 驚か かせたのは 1900 0 年。予想した た以上に小さく、 、「この の絵は、こ ここで採れた顔料 顔料で描きたいと とおっしゃって てい 奥に に文書を隠した窟 窟があったのか か?」としつこく訊ねた たそうだ。 が「ない。ここだけ」とのことだ だった。 乗り、街中を抜け け、ポプラのめだつ近郊を走り り、 バスに乗 去年新しく くオープンした たという敦煌駅を を過ぎ、昨日着 着い 3 IAM Research & Rep port, No.1, 20 010 年 7 月 10 日発行 いうことはないだ だろう。ひょっ っとすると、これ れはもと とい もと とイスラム系の食 食品で、古代か からの食文化の伝 伝播ルー トが が琉球列島まで延 延びていたとか か・・・。現地ガ ガイドの 史さ さんに聞けば、何 何らかの事情が が分かるかもし しれない。 嘉峪関。堅牢、雄 嘉 雄大な関所。東 東の渤海湾に面した山海 関に に始まって、六千 千キロもあると という万里の長城 城の西の 果て て。城壁に囲まれ れた枡形の広場 場は、匈奴(遊牧 牧騎馬民 族)など敵を誘き入 入れて弓矢を浴 浴びせて射殺す屠 屠殺場で る。 「スゲェナー ー、ヤルコトガ ガ!」と近くで声 声が上が ある る。 鳴沙山( (頂上を指差す) 鳴沙山。空気が乾 乾燥して遠くまで見渡せる青空 空、 午後、鳴 爽やかな微 微風。ラクダに乗 乗って近くまで で行き、砂山登り り。 意気揚々、童心に返ると嘯きながら挑ん んだが、すぐに に息 らいは竹で編んだ階段を上るが が、 が上がる。五分の四くら 膝まで埋まるサ サラサラの砂地。 。四つん這いに にな その上は膝 ってハアー ーハアー。砂の の頂きに跨って、奥の砂山に落 落ち る斜面に小 小さい記念品を を埋める。風に吹 吹かれて砂の峰 峰々 を逆流し、祁連山の麓ま まで上っていけば ばいいと願う。 朝食バ バイキングの「豆 豆腐餻」? の砂は、五色の の砂といわれてい いる。白い石英 英・ 鳴沙山の 黒い頁岩・ ・黄緑の砂岩・赤やオレンジの の珪岩などの微 微粒 子。柔らか かくて細かくて て、パウダー状な なので、何色あ ある のかよく分 分からない。カメラや携帯に入 入ると電子部品 品が 壊れるとい いう。 「税関で捕 捕まります。持 持って帰らない いで ください!」と現地ガイ イド。 「お線香立 立てにちょうど どい 仏教の聖地の砂 砂だし、大丈夫で ですから香炉用 用に いです。仏 どうぞ。で でも、空港で質 質問されたら、私 私が言ってたとは いわないで でください!」と添乗員。二 二人とも言いっ放 し・・・。十数名の中高年 年の二番手で上 上り始めたがわ わざ 帰りも一番最後 後に竹橇で滑り下 下りる。息絶え え絶 と遅れ、帰 えの 62 歳 歳。こういうのを強行軍という うのだろう。気 気を 取り直して て、月牙泉まで で足を伸ばし、記 記念写真を撮って 観懸壁 壁長城の隊商の のレプリカ 帰った。 観懸壁長城も往復 観 復 40 分かけて て歩き通した。しかし、 (5) 4 日目(2010 0 年 4 月 28 日) 北京 京郊外八達嶺よりもチャチであ ある。帰着点の原 原っぱに 午前 8 時 時敦煌発。朝食 食バイキングで昨 昨日と同じ朱色 色の ラク クダの隊商のレプリカが展示さ されているのも も鼻白む。 チーズのよ ような食品を選 選ぶ。風味や食感 感も念入りに確 確か 「月 月から見える地球上唯一の建造 造物」というホ ホラ話は、 めるが、や やはり「豆腐餻 餻」としか思えな ない!木綿豆腐 腐を 途中 中の宇宙船からも見分けられな ないので、数年前 前に当局 紅麹と泡盛 盛の漬け汁の中 中で発酵熟成させ せた珍味。 「琉 琉球 が教 教科書の誤りを認 認めて訂正した たそうだ。 王朝の頃か から王府秘伝の の製法として伝え えられ、ごく一 一部 「NHK特集シル ルクロード― 絲 絲綢之路」 がシリーズ放 の上流階級 級の間で特別の の宴にて珍重賞味 味」されてきた たと 映(1980 年)され れ、井上靖原作 作の「敦煌」とい いう映画 いわれてい いるものが、な なぜ、河西回廊の の極地、敦煌の のホ ヒット(1988 年)し、シルク 年 クロードがブーム ムだった もヒ テルで供さ されるのか?沖 沖縄からわざわ わざ輸入してい いる のは は二、三十年ほど ど以前の日本の のバブル経済の時 時期。当 4 IAM Research & Rep port, No.1, 20 010 年 7 月 10 日発行 時の半分以 以下に日本人観 観光客は減り、今 今は、国内の中 中国 の最低限の海外旅 旅行保険にしか か入ってないんだ! 帯の 人観光客が が圧倒的に増え えているとのこと と。 小屋の外に出た 小 ときは、ホント トに厄払いがした たくなっ 腑に落ち ちない不思議な なことが重なり、 、思い余って、 「 「中 た。いくら付加価値 値があるといっ ったって、ここも も忌むべ 国って、社 社会主義国なん んですよねー?」と皮肉ったら ら、 墓は墓にちがいな ないではないか か・・・。必ず持 持参する き墓 「今は誰も もがカネ、カネ ネです!」と烈し しく吐き捨てる るよ べき き旅の小物に「塩 塩」も記載して ておくべきではな ないかと うに答えた た現地ガイドが がいた。大連・瀋 瀋陽観光のとき き。 思う う。広大な原野(ゴビ灘)に無 無数にこのような な古墳が あれから数 数年経って、拝 拝金主義は、少し洗練された分 分、 ある るが、発見されてまだ五十年も も経っていない いという。 さらに逞し しく奥深くなっ った感じ。こうな なれば、もう皮 皮肉 盗掘 掘防止で、公開さ されてるのはこ この一箇所だけだ だとのこ も通じない い。 と。小汚いチケットを配ったり、カメラを預かっ ったりす ホームレスのような怪しい風体 体の二、三人のお おじさん るホ たち ちは公務員だとい いう。曇り空の の下、遠くに乗っ ってきた バス スがポツン。しか かし、そこに留ま まっていてくれ れたのが、 とて ても有難く思えた た。 嘉峪関市は、人 嘉 その殆どが首都北 北京の北 口 18 万人。そ の方 方(河北省)から らの移民だとい いう。街全体が建 建設途上 の工 工業都市。古墳の の原野から少し し走れば、バスは は巨大な 製鉄 鉄所や風力発電 電所の工場街にア アッという間に にタイム スリ リップというかワープする。こ このアンバラン ンスさは、 現代 代中国甘粛省の中でもピカイチ チなんじゃなか かろうか。 っ立て小屋 掘っ (6 6) 5 日目(2010 年 4 月 29 日) 午前、酒泉観光。 午 。午後、張掖観 観光。古くは、酒 酒泉は粛 州と と呼ばれ、張掖は は甘州と呼ばれ れ、この二つのオ オアシス 都市 市から一字ずつ取 取って、現在の の甘粛省という名 名前がで きた たという。 酒泉は、 酒 漢の武将 将霍去病が皇帝 帝に授かったひと樽の酒 を泉 泉に注ぎ、部下全 全軍に振舞った たという故事から名づけ られ れたオアシス都市 市。その泉は、「西漢酒泉勝跡 跡」とし て今 今も市民の憩いの場となってい いる。「鐘鼓楼 楼」は、5 世紀 紀に建立。東西南 南北の四面には は、方角を示す文 文字が掲 げら られている。東迎 迎華岳・西達伊 伊吾(ハミ)・南望祁連・ ポツ ツンとバス 北通 通沙漠・・・遙々 々とイメージが が膨らんで、異邦 邦人の心 画墓。何もない い原野の地面の下 下を見学。掘っ っ立 魏晋壁画 を虜 虜にしそうな文字 字だ・・・。 て小屋がひ ひとつ、ゴビの の砂漠の中にポツ ツン。その傍に に土 盛りがポツ ツン。筵を除け けて小屋に入ると と、緩やかなス スロ ープが地下 下に誘う。 「前庭 庭・応接間・寝 寝室」の三部屋 屋に 分かれた墓 墓の壁に古代の の生活を描いた たアニメのような 絵。息の詰 詰まる狭い空間 間に朱色と黒の色 色彩が鮮やか。残 念ながら、莫高窟の内部 部同様、撮影禁止 止。ただ、この の不 本物。何しろ、他 他人の墓の内部 部に押し入って てい 気味さは本 るのだ。懐 懐中電灯を向け けても、かえって て周囲の重くて て暗 い空気が身 身に迫るだけ。灰色の煉瓦石の 灰 の冷え冷えとし した 手触り。葬 葬られた人の怨念と盗賊の執念 念や呪いがこも もっ ているよう うな・・・。ドーム状の石組み みの屋根が崩れ れ落 ちたらどう うするんだ!私 私ゃー、クレジッ ットカード自動 動付 ロータリーの鐘 ロ 鐘鼓楼 5 IAM Research & Report, No.1, 2010 年 7 月 10 日発行 河西回廊の都市は、大抵どこでもロータリーが町の中 坊さんは一人もいないとのこと。 心になっている。鐘鼓楼のある酒泉のロータリーは、中 ここまで「中原(中華文明の中心地)」に近くなって 国のスケールにしてはこぶりで、とても馴染みやすい。 くると、司馬遷の「史記」、中島敦の「李陵」、井上靖 だが、古いものばかりではない。酒泉には未来もある。 の「敦煌」「楼蘭」「崑崙の玉」など西域小説の数々で 郊外に宇宙基地があるらしい。ホテルのミニバーには有 馴染みのある文物が増えてきて、緊張が解けると同時に 人ロケット「神舟七号」を模った酒瓶が立っていた。現 既視感が増してくる。デジャ-ビュってやつだ。 地ガイド史さんの弟は行ったことがあるらしいが、一般 が、しかし・・・。 の人は近づけない軍事基地だという。後日、インターネ (7) 6 日目(2010 年 4 月 30 日) ットで見ると、「ねつ造疑惑比較!神舟七号VSアポロ 十一号」というのがあって、神舟七号宇宙飛行士の宇宙 午後、武威観光。夜、蘭州に入る。河西回廊の高速道 遊泳動画に泡っぽいものが写っていた。水中撮影ではな 路、山の中に入ると片側一車線になり、そこを右に左に いかと書いてあった・・・。 ハンドルを切って追い越しをかける。クラクションをこ 「河西回廊」とは、新疆ウイグル自治区に向って、東 れでもかと鳴らし続ける。対向車にぶつからずに山越え から西へ、武威(涼州) 、張掖(甘州) 、酒泉(粛州) 、 するのにドライバーは必死。工作機械や穀物の梱包を山 敦煌(瓜州)の四群にまたがる約 900 キロに及ぶ平地の 盛りに積んだ大型トラックがひっきりなしに行きかう。 ことをいう。黄河の西に位置し、祁連山脈と馬鬃山系に 飛行機から「ヒトが住めるのか?」と見下ろした地域は、 挟まれ、細長い廊下の形をなしているので「河西回廊」 今や、ラクダの背にシルクや青磁器を乗せた交易の道で と呼ばれている。回廊といっても、環になって回れる道 はなく、トラックの失踪する産業道路に貫かれた開発途 があるというわけではない。細長い平地が続いていると 上の荒地になっていた。ちなみに、シルクロードを旅す いうだけのこと。 るキャラバン(隊商)は、西安からイスタンブールまで 歩き通したわけではない。ひとつのグループが、例えば、 今回の旅は、行きは一気に敦煌まで飛行機で飛んだの で、帰りは逆コースで、この河西回廊をバスで西から東 武威から張掖まで、酒泉から敦煌まで・・・と、次のグ に移動する。漢の武帝が名づけたという武威の町からさ ループに物品をバトンタッチしながら区切られたコー らに東に下ると蘭州。そして、そこからシルクロードの スを往復していたらしい。交易される文物だけが、アジ 基点、西安には飛行機で帰ることになる。 アの西の端とヨーロッパの東の端との間を歩き通した のだ。 「シルクロード」は、ドイツの地理学者リヒトホーフ ェンが 1870 年代に、中央アジアの東西交渉路に名づけ 遠くに祁連山脈の雪の峰々。道路際に点在する工場や て有名になったコトバで、北の草原の道(ステップロー 工事現場が過ぎると、あとはシーンとした原野や農地が ド)、雲南省からミャンマーに至る西南シルクロード、 視界に広がる。黄色い大地に、一人、そして二人と人が 福建省泉州からマレー半島、インド、イスタンブールま ただ立ったり、座ったりしている。老・若・男・女。い での海のシルクロードといろいろある。万里の長城が秦 つからそうしているのか、羊を追う崖のへりで昔の便所 の時代、漢の時代、明の時代・・・といろいろ、あちこ 座りをして下の道路をジーッと見下ろしている人、人影 ちに残っているのと同じようなもので、中国では、何事 のない集落の路地に、何をしに歩き出したのか忘れでも も唯一無二、天下無双、たった一つというようなケチな したかのように、ジッと立ち尽くしている人・・・。遠 ことはない。 いエジプトのスフィンクスを偲ばせる存在たち。幸せか 張掖には、13 世紀末にマルコポーロも 1 年間滞在し どうかは分からないが決して不幸にはみえない穏やか ているという。大仏寺は、「東方見聞録」にも記された さ。広大な耕地を小さなトラクターや徒歩で農作業に向 寺で、寝仏の釈迦涅槃仏像が見ごたえがある。全長 34.5 かう家族や親戚たち。踊るような歩き方がとても優雅に ㍍、肩幅 7.5 ㍍の巨大な姿ながら、ちょっとエロチック 見える。何世代も前から悠久に変わらない暮らしなのか な柔和な姿態。畳何枚か分ほどの広い足の裏をコチョコ もしれない。見るともなく見てると、ふいに、どこにで チョくすぐれば、ゆっくり起き上がってくれそうな優し もヒトは住めるんだなーと懐かしさに胸を突かれる思 い表情をしている。タルチョ(祈祷旗)などチベット仏 いがする。ひょっとすると、このヒトたちが、私たちの 教の習俗も混じっていて、庭の木の枝に「事業有成」な 先祖ではなかろうか・・・。 どと願い事を書いた紅い布がたくさんぶら下がってい た。境内も広い。ただ、観光用の施設になっていて、お 6 IAM Research & Rep port, No.1, 20 010 年 7 月 10 日発行 目くじら立てるの のは大人気ない いが、量ではなく質の話 に目 とみ みれば怖ろしい。 。 「外国人料金」 」なのだ。二重価 価格制。 一物 物二価というか一 一物多価の仕組 組みである。この の手のシ ステ テムを合理的とみ みるか騙しのテ テクニックとみるか。史 さん んは当たり前な顔 顔して説明して てくれたが、他の の人には 聞か かせたくなさそうではあった。 夜 10 時過ぎに黄 黄河を渡る。甘 甘粛省の省都、蘭 蘭州。も う河 河西回廊は通り過 過ぎて、終わっ ってしまった。こ ここは中 華人 人民共和国のど真 真ん中。辛亥革 革命の後、国父 父孫文は、 この の地を近代中国の首都にしよう うと考えていた たという。 内陸 陸部の西の外れの の辺境のイメー ージだが、地図を を見ると、 長城を断ち切 切って伸びる高速 速道路 確か かに東西南北の中心地になる。中国全図の「羽 羽を拡げ たニ ニワトリ模様」の の背中に当たる るところである。 ブイン、パーキングエリア、サービスエ エリ ドライブ ア・・・は はない。道路わ わきの埃まみれの の停車場。ご婦 婦人 方は遠くま まで凹地を目指 指す青空トイレ。 。版築工法で突 突き 固めた大き きな壁(グレー ートウオール)を を蹴ったり、壁 壁の 穴を潜り抜 抜けたりして少 少し遊ぶ。明代の の万里の長城。道 路幅の分、それを崩し、断ち切って高速 速道路が河西回 回廊 先へと延びてい いく。 を先へ、先 武威の「 「雷台墓」は、明代に雨を祈願し し雷を祀った地 地。 そこで発見 見された「馬踏 踏飛燕」と呼ばれ れる銅奔馬は、飛 ぶ燕を踏み みつけて走る青 青銅の馬。血の汗 汗を流して走る軍 馬。中国の の観光事業のシ シンボルマークに にもなっているの はいいが、発見されたの のが、またしても も盗掘がらみの の古 中山橋のネオ オン 遺跡の盗掘にかか かわる者は 10 万 墳の中・・・。中国の遺 化しているという。3 月 17 日の 人に達し、すでに産業化 が、華僑向け通 通信社「中国新聞 聞社」の報道を をも 読売新聞が とに記事に にしている。ついに公安当局者 者までもが逮捕 捕さ れたと・・・。なにしろ、古代には、皇帝 帝が即位すると、 盗掘団は直 直ちに、将来の の墳墓になるだろう地に向けて て、 秘密の地下 下道を掘り始め めたという国なの のだ。 嘉峪関の の「魏晋壁画墓 墓」と同じく、「前庭・応接間 間・ 寝室」の暗 暗い穴倉へ。ホテル朝食バッフ フェに塩の小瓶 瓶は なかった。変な胸騒ぎな など覚えないよう うに、心を固く閉 は観光開発が進ん んでいて、それ れほ じて見学。幸い、ここは どの不気味 味さはない。何 何食わぬ顔で、明るい外に出る る。 地震招待所のネ 地 ネオン 庭に咲くラ ラベンダーつま まりリラの花の香 香りが強い。白 白や 紫の花は、その濃厚な匂 匂いも含めて、日 日本でもアメリカ 中山橋の特徴あ 中 るアーチが「ネ ネオン」で光り輝 輝く。ド して中国でも同 同じ。塩の代わり りに、花の香りで でも、そし イツ ツ人設計の、黄河 河に初めて架か かった鉄の橋。そ それまで 斎戒沐浴を をした。 は山 山羊の皮の浮き袋 袋に乗って河を を渡ったという。が、そ 見学した た「雷台墓」や や「文廟(孔子廟 廟)」のチケッ ット んな なことよりも、人民解放軍と回 人 回族軍閥が戦闘を を繰り広 売り場を覗 覗く。入場料、日本円に換算す すると数百円。こ げた た歴史的な橋が がネオンまみれに になったのはな なぜか説 れは中国人 人には高すぎる る。聞くとやはり観光客料金で で、 明し して欲しい!アメ メリカ、ネバダ ダ州ラスベガスそ そっくり 市民は別枠 枠の市民料金で で入場できるとい いう。小さな金 金額 の紅 紅い灯、青い灯、 、黄色い灯が町 町を埋め尽くす。 。河岸の 7 IAM Research & Report, No.1, 2010 年 7 月 10 日発行 土手には、黄河の水の上を走るように巨大な龍がうねっ のビニールシートかなんかで覆いをしたりするのかと、 ている。それが極彩色のネオンに飾られ、何百メートル ここだけの現地ガイドに聞いてもらうと、「しません」 も続いていく。ゴビの原野から二泊三日のバスの旅でや との返事。吹きさらしに剥き出しの塑像や仏画が可哀想 って来た者には、この光も色も刺激が強すぎる。しかし、 になるが、乾燥した大地に、日本風の梅雨や台風のイメ とどめはホテル(飛天大飯店)の向かいの道路に面した ージを嵌め込むのは間違いかもしれない。それに、逆に 薄暗い建物の赤いネオン。「地震招待所」と我が眼を疑 考えてみれば、敦煌よりも開放的な展示で親しみやすい う文字の形をしていた。 ほんの2 週間前の4 月14 日に、 じゃないか。仏画の中の釈迦が悟りを啓いた「菩提樹」 隣の青海省でマグネチュード 7.1 の大地震が発生したば が椰子の木というか、パームツリーなのがご愛嬌。敦煌 かりなのに・・・。 莫高窟に描かれた菩提樹もそうだった。インドまで実際 に行って帰った絵師はいなかったのだから、想像力で描 (8) 7 日目(2010 年 5 月 1 日) いていたらしい。 午後、炳霊寺石窟。夜、蘭州空港発。メーデーである。 石窟見学の後に、写真集を買う。敦煌文物研究所の財 公休日で渋滞にまきこまれるといけないと早めにホテ 源になるなら惜しくないと思った 280 元(約 4,200 円) ルを出発。水の青い黄河の畔のレストランで四川風のち の写真集よりもお買い得な 80 元(約 1,200 円)。ただ、 ょっと辛目の中華ランチ。ダムの畔に移動して、大賑わ 津島さんのいうとおり、値札は倍近いのが貼られていた。 いの船着場で十数人乗りのモーターボート2台に分乗。 売り子の少女と中国語で彼が交渉して、本に印刷された 黒いパンツスーツの大柄な女性ドライバー。1 時間ほど 「定価」どおりでいいことになる。若くて可愛くて「定 劉家峡ダムを突っ走って炳霊寺石窟に着く。 価」で売ってくれるので、みんなその子に群がってきた。 人民解放軍の制服の群れが目立つ。中国では、中流や 私も慌てて絵はがきと小冊子を追加する。何となく他の 富裕層の子どもは大学を卒業すると誇り高く「人材」と おじさんたちと張り合う感じになる。ひとしきり買いあ 名乗って名門企業に就職する。軍隊は、選抜徴兵制と志 さった後で、定年後のおじさんたちは、その「定価売り 願制の併用だが、正規軍は志願兵で殆ど充足されるらし の少女」と記念撮影に興じる。史さんに通訳してもらっ い。貧困層の農民や下流労働者の子どもたちが志願して て年とか学校とか個人情報を聞きだしている。モデルが 軍隊に入る。このへんのカラクリは自由と民主主義を謳 わりに使われて気の毒な気もしたが、少女はまんざらで う帝国、アメリカ合衆国と瓜ふたつといいたいくらい似 もなさそう。ボートが出ます!と津島さんが大声で皆を ている。社会主義国の看板は下ろしてないのに、中国は 急がせる。残念そうなおじさんたちと曖昧に微笑む少女。 不平等社会なのだ。文化大革命の惨事を乗り切っても、 美談になりそこねたかもしれないが、醜聞を増やさなく この格差は埋まらない。看板の文字が違うだけでアメリ てよかったということかもしれない・・・。 カも同じ。というか、世界中、古今東西、実情は似たり モーターボートのドライバーの姐さんが飛ばし屋。す よったりというところかもしれない。日本の自衛隊も志 ぐ後の席だったツアー仲間の小林さんが怖いから替わ 願制ではあるが、防衛大学校の幹部候補生以外、その供 ってほしいというので、帰りは私が運転席のすぐ後の席 給源は決して富裕層ではない。志願制でも徴兵制でも就 に座る。バッシャン・バッシャンと水面を敵のように叩 職先のひとつとして若者は働きに軍隊に行く。メーデー き、陸路運転なら一発で廃車間違いなしの運転。バック 休暇の社会見学なのか、制服の厳めしさとはチグハグな ミラーのないモーターボートで何かにつけて後を振り 高校生のような幼い表情をした若者たち。彼らの親世代 向く。どうやら、小林さんは、その唐突な動きが怖かっ には民主化を叫んだ者がいたかもしれないが、祖父母の たらしい。他の船の様子や水面の波の航跡をチェックす 多くは造反有理と叫んでいたに違いない。 るのだが、小林さんはそのたびに自分が叱られるような 気がしたとのこと。漢族とも何か異質なような気がして、 添乗員の津島さんの指示を守って、見学前には物売り は相手にせず。炳霊寺石窟に一目散。ここの入場券は絵 史さんに聞くと、回族の女性だったそう。確かに迫力の 柄がきれいだ。しかし、現地ガイドの観光会社で「清算」 ある身振りと表情で少数民族の生命力を感じさせた。中 のために全部持ち帰るそうで、ツアー客には一切手渡さ 国には、漢族以外に 55 もの少数民族がいるとのこと。 れない。欲しくなって、やっぱりダメですかと確かめる 外国人にも「漢族とはどこか違う」と感じさせるのだか と、史さんは無表情に「ハイ」という。 ら、異質なものがいろいろたくさんあるのだと思う。そ れをまとめるというのだから、中国の政治家は大変だ。 石窟の塑像も仏画も大気が乾燥しているおかげか、割 日本のような世襲制ではとてももたない。 りと色鮮やか。天気が悪い日にはドアをつけたり雨除け 8 IAM Research & Report, No.1, 2010 年 7 月 10 日発行 敦煌から蘭州までの 900 キロ余り、バスで通り抜けた (10) 持ちもの 河西回廊・・・空の上から見たときは、こんなところに ◎ 持っていったほうがよかったもの ヒトが住めるのかと思ったが、のどかな農村風景と巨大 (唇が乾燥するのでリップクリーム) な工事現場の断続的な繰り返しの中、そこにヒトは確か (古墳見学後の清めの塩、二、三袋) に住んでいた。賑やかなオアシス都市だけでなく、山間 (砂塵除けのマスクと小さい靴ベラ) 僻地の農家にも、道路沿いの埃りだらけの売店にも、羊 ◎ 持っていかなくてもよかったもの の群れる崖下の陋屋にも・・・。 (変圧器・ヘアドライヤー・スリッパ) 河西回廊が尽きる辺りから東に広がる黄土高原。黄河 (ダウンジャケット・パジャマ) (地球の歩き方) の上流および中流域に古代の歴史の宝庫が眠っている。 王朝の興亡と戦乱と殺戮。衣食住を求めての過剰な開発。 (11) 疑問のまま、答えをみつけられなかっ たこと 森林伐採による自然の破壊・・・。今や不毛の荒地にし か見えないが、何千年も以前は豊かな密林に覆われてい 1) 「豆腐餻」そっくりの食べ物と沖縄の「豆腐餻」 たらしい。アジア象の化石も出土している。ライオンや との関係=食文化の伝播ルート トラの跋扈した森林があったという。その後、人類の世 2) 蘭州のホテル飛天大飯店の向かいの簡易宿泊所 界四大文明のひとつが栄えて、やがて荒廃して現在の状 「地震招待所」の名前の意味 態に至る。そして、この先どうなるのか・・・。 3) 大きな文明の地は、中国の黄土高原のようになる シルクロードの西の終点イスタンブール。地中海に突 出するバルカン半島。そこも古代文明の地だった。だが、 まで衰弱していく一方なのか、再生するということ 今や土地は痩せ細り、経済も低迷し、かつての栄光は観 があり得るのか。 光産業で時々輝くばかり・・・。文明は、豊穣をもたら すばかりとは限らない。人間が利用した後の土地、ギリ シャの禿山の、その行き着く最果ての姿が、このシルク ロードの東の終点、河西回廊の先に続く中国の黄土高原 の姿に重なって見える。 (9) 8 日目(2010 年 5 月 2 日) 午前、西安発。午後、上海経由成田着。早朝、西安の ホテルを出て、正午に上海を発ち、夕方には家に着いた。 日曜午後のフライトなのに、万国博覧会オープン 2 日目 で上海を出る人が少ないためか、空席がめだつ。ジェッ ト気流に乗って、2 時間 15 分。沖縄便の那覇からの復 路と変わらない。結局、西安空港を午前 8 時発で成田空 港に午後 3 時半着。中国全土との時差の 1 時間を足して も、所要時間は 8 時間半である。昔、遣唐使が生涯を賭 して向かった地に、半日もかけずに行ったり来たりでき ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ NPO 特定非営利活動法人 る。お金と体力さえあれば・・・。 グル自治区の隣の国キルギスで政変、アイスランドの火 The Institute of Asian Modernization(IAM) 山噴火で航空機が飛行禁止・・・といくつか心配事もあ アジア近代化研究所 出発の前、河西回廊の隣の青海省で大地震、新疆ウイ ったけれど、無事に帰ってこれた故国ニッポン。たった http://www.npo-iam.jp/index.html 1 週間後なのに、銀杏並木がすっかり鮮やかな新緑に変 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ わっていた。 Copyright (c) 2010 The Institute of Asian Modernization All Rights Reserved. 9