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デカル トの因果性原理 一それは身心の相互作用を排除するのか

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デカル トの因果性原理 一それは身心の相互作用を排除するのか
個人研究発表
デ カル トの 因果性 原理
一それは身心の相互作用を排除するのか
山本
祐歌
は じめに
デ カル トは、 「第 三省察 1」 において、「 作 出的(cmctns)か っ 全体 的 な原因
の うちには、少 な くとも、 この 原因 の 結果 の うちにあ るの と同等 の もの(実 在
性 rcditas)が な くてはな らな い2」 とぃ ぅ_般 的因果性 原理(「 実在性 原理3」 と
呼 ぼ う)を 用 いて い る。 これ は 実在性 に程 度 を認 め る とい うデ カル トの立 場 に
よる もので 、比較 的理解 しやす い。 けれ ども、 更 にデ カル トは、 観念が表現 的
に もって い る実在性 につ い て も、原因が結果 にお い てある もの全 て を形相的 に
(fOnnditr)、
理
4」
あ るいは優勝 的 に(cminentr)含 んで い なければな らない(「 包含 原
と呼 ぼ う)と 主張す る。 これ に よって こそ、精神 としての「私」か らその
外部であ る神 の存在証明 は果 た され るので あ り、 デ カル トは これ らの因果性 原
理 を「無 か らは何 も生 じない」 とい う公理 と同 等 とみ な して い る。それゆえ、
神 の存在証 明 だけでな く、 一 般 的 に何 らかの もの につ いての作出的かつ 全体 的
な原因が問 われ る場合 には、 当然 これ らが充た されて い なければな らな いこ と
になる5。
本論文 は これ らの因果性 原理 を軸 として、 デ カル ト哲 学 にお い て しば しば
問題 とされ る、 身心 の相 互作用一脳運動が精神 の うちに感覚的性 質 につ いての
観念 を引 き起 こす一 につ い て検 討す るこ とを主 題 とす る。 まず、1章 で、「包
含原理」 と「実 在性 原理」 の違 い を明 らか に し、 身`卜 の相互作用 において検 討
が要 され るの は「包含原理」 で ある こ とを提示 す る。 2章 では、 身心 の相互作
用が「形相 的包含原理」を充 たす ものであるのか、 3章 では「優勝的包含原理」
を充たす もので あるのか を検 討す る。
1
因果性 原理 とは何か
デ カル トは「 第 三 省 察」 にお いて い くつ かの因 果性 原理 を用 いて い る。 ま
ず 一つ 目は、「作 出的か つ全体的 な原因 の うちには、少 な くともこの原因 の 結
果 の うちにあるの と同等 の実在性 が なけれ ばな らない」 と述 べ られ る「実 在性
原理」 である。 これ は、 存在 の ヒエ ラ ルキ ー に則 った もので あ り、様態 が実 体
を引 き起 こす こ と、 有 限実体が無限実体 を引 き起 こす こ とを排 除す る。 この 原
理 は、 一般的な因果性 原理 を述 べ た もので あ り、 これか ら二つ 目の もの が 導 き
出 され る6。 す なわ ち、 「観念が表現 的 に もって い る実 在性 につ い て も、 原因
が結果 においてあ る もの全て を形相 的 に、あるいは優 勝 的 に含んで い なければ
な らな い」 とい う「包含 原理」であ る。 これの意味す る ところを、デ カル トは
例 を交 えて説明 して い るので、少 し長 くなるけれ ども引用 してお くことにす る
(,
以前 には なか った一つ の 石 が 、 い ま存 在 しは じめ る とい う こ とは、
そ の石 の うちにおかれ るすべ ての もの を、あ るい は形 相的 に、 あ るい は
優勝的 に、 自己 の うちに有す る ところのある もの に よって、それが産出
されるのでな くては、不可能 であ る。 同様 に、以 前 には熱 くなか った対
象 の うちに熱 が 導入 される とい う こ とは、 少 な くとも熱 と同等 の完全性
を有す る もの 、 に よってで なけれ ば不 可能であ る。 そ の他 の場 合 も同様
である。 しか しそればか りで はない。 さらに、熱 あ るい は石 の 観念が私
の うちにある とい うことも、熱 あ るいは石 の うち にあ る と私が 考 えるの
と、 少 な くとも同 等 の 実在性 を 自分 の うちに含 む ところのあ る原因 に
よって、それが私 の うちにおかれ るので なければ不可能である7。
まず、 ここで 言 われ る「 形相 的 に」 と「優 勝的 に」 の 意 味 を確認 してお く
必要が ある。 これが最 も簡潔 に述べ られて い るのは、 「第 二 答弁」 の後 に添付
されて い る「諸根拠 」 の 定義 四であ る。す なわち、「 同 じ一つの ものが観念の
対象 の うちに、それ をわれわれが知得す る とお りの もの と してある ときは、形
相 的 に観念 の対象 の うちにある と言 われ、 そ してその とお りの もの としてでは
な い ものの、その よ うな役割 を代行 しうるほ ど大 きな もので あるときは、優勝
デカル トの因果性原理
的 にある と言われ る8。 」 た とぇば、 石 が熱 くなる とす る と、その原因 は、 熱 と
少 な くとも同等の完全性 を もつ 太陽で あ るか もしれな い。 この とき太陽 は、 石
の 熱 を形相的 に含 む こ とになるであ ろ う。 しか し、それだけでな く、デ カル ト
は観念の対象 にさえ も「包含 原理」 を適用す る。熱や 石 の観念 にす ら、それぞ
れが もつ 表現的実在性 に応 じた形相 的 あ るいは優勝的原因が求め られね ばな ら
ないのである9。 ここで言 う形相的に含 まれるとい う事態は、「私」があるも
のについて もつ観念が、文字通 りその観念 の対象に含 まれるとい うことである
が 、優勝的に含 まれるとい う事態は、形相的に含 まれるとい う事態 と比較 し
1°
た方が よ り理解 しやすい。たとえば、次 の文章においてはそれらの違 いが明瞭
に表れているように思われる。
物体的事物 の観念を構成 している全てのもの、すなわち、延長、形、
位置、運動 などは、私が考えるものにはかならぬゆえ、私 の うちには形
相的には含 まれてい ないが、 しか し、それ らは実体のある様態 であるに
す ぎず、 しかるに私は実体なのであるか ら、優勝的には私 の うちに含 ま
れうる、 と思われるのであるH。
この場合、延長、形、位置、運動が形相的に「私」 の うちに含 まれてい る
ためには、「私」は物体でなければならない。既に述べ たように、形相的 に含
むとは、文字通 りそれ らであることだか らである。勿論、「私」は物体ではな
いので、それ らを形相的に含みえない。ここで、「私」が優勝的に延長、形な
どを含み うるのは、それ らが様態であ り、実体 である「私」 よりも実在性 の程
度が少ない とい うだけでなく、種類が異なるとい う理由か らであるように思わ
れる。要するに、形相的に含まれると言 われるためには、含むものと同 じ種類、
同 じ程度の実在性であることが要求 されるのであるが、他方、優勝的に含 まれ
ると言われるためには、含むものと同 じ種類の性質であってはならず、かつ そ
れ よりも完全性が大 きいこ とが必要 とされるのである。このことは、デカル ト
が、優勝的に含む と言われるための条件 として、原因が結果よりも高貴である
ことを挙げてい ることか らも明 らかであるように思われる12。 けれ ども、デカ
ル トは、何かが他 の ものよ りも高貴であると言われるための条件を明示的に述
べ ているわ けではない。加 えて、書簡 にお いて、 精神が身体 よ りも高
貴 であ る
と述 べ られ てい る とはい え、精神 は 身体 を優 勝的 に含むわけで は ない `
ぃ した
が って、原因が 結果 よ りも高貴であ る場合 には、 結果 を優勝的 に含んでいる と
は必 ず しも言 えない 14。 これ らの こ とか らして、 「優勝的」包含原理 の 条件 と
しては次 の こ とが挙げ られ る。(1)原 因が結果 を形相的 に含 んで い ない こと、
(11)原 因が結果 とは異 なる種 類であ り、かつ 結果 よ りも完全性 の 程度が 高 い こ
との 二つ で あ る15。 次 に、 「包含原理 」 は「 実在性 原理」 と等 しいか、 も しく
は還元 され る と主張 す る ロー プの見解 を検 討す るこ とによって、 「包含原理 J
の射程 の広 さを確認 してお こ う。
既 に見 た よ うに、 デ カル トは石 の例 を用 い て、以 前 には なか った 石が存 治
i
し始めるため には、その石 の うちにおかれ る全 ての ものを、形相 的 に、あるい
は優勝 的に、 自らの うちに含 んでい る原因が なければ ならな い と述 べ ていたて
,
けれ ど も、後 の行で、熱や、熱 、石 の観念 の例 が用い られ るのは、「実 在性 原
理」 を説 明す るためであ るよ うに も思 われ る。 ゆ えに、 ロー プは最初 の 文章 を
無視 し、続 く、熱 につい ての 論述 を もって、 「結果 における実在性 は、原因 に
おいて、 完全性 の 程度 として、 予 め存 在 しなけれ ばな らない」 と断 じる 6。 ま
た、「 第二 答弁」 において、 デ カル トは「結 果 の なか には、そ っ くりそ の まま
の仕方で、 あ るいはよ り優勝 的 な或 る仕方で前 もって原因の うちに存在 して い
なか った ものは、何 もないJと い うこ とが、 第 一の知 見であ って、 これ以 Lに
明晰 な ものは得 られない 17と 述 べ ているので あ るが、 ロー プは、 これ を「原因
にお ける実在性 の程度は、結 果 にお ける もの と等 しいか大 き くなければ な らな
い」 こ とのみ を意味 してい る とみ なす ので ある18。
ロー プの解 釈 につ い て、次 の よ うな反論が 成 り 立つ 。す なわ ち、 なぜ あ る
完全性 φが 別 の完全性 ψの原因 として、 φ と′が全 く同 じである場合 にのみ、
あるいは、 φが ソ よ りも高 い序列であ る場合 にお いてのみ、存在 しうる と考 え
るべ きであ るのか。 なぜ、 φが ″ とは異 なる完全性 であるが、 ψ と同 じレベ ル
の実在性 を もつ ときに、 φは ψを引 き起 こ しえな いの であろ うか 19。 これ に対
し、「実在性 原理」であれば、この こ とは可能である と答 えることがで きようで
,
けれ ども、 「包含原理」 につ いて は否定的 に答 える しかない よ うに思われる
(,
とい うの も、「反論 と答 弁」、「 第六省察」 や書簡 な どにおいて、 実 在性 に よ
る以外 の区別が実体 の間 に設 け られているか らである。た とえば、デ カル トは、
デカルトの因果性原理
機械 の もつ完全性 は、その複雑さや精巧 さに応 じて大 きくなると考えている"。
これによると、 もし「私」が精巧な機械 の観念をもつ ならば、その原因は、 よ
り単純な機械 ではな く、精巧な機械でなければならない。「実在性原理」か ら
すれば、いずれの機械 も物体的実体であ り、実在性 の程度 とい う点 にお いては
等 しいので、「私」 の もつ精巧な機械 の観念の原因が、 よ り単純な機械であっ
て もおか しくはないであろう。けれ ども、デカル トはそれ以外 の完全性 の区別
を設けることによって、単純な機械が、「私」 の もつ精巧な機械 の観念 の原因
足 りえないこ とを主張する。 このことは、デカル トが、原因は結果にお いてあ
るもの全てを形相的にか優勝的に含んでいなければならない、 という「包含原
理」を「実在性原理」 とは異なる仕方で用 いているとみ なさないか ぎり不可能
21。
以上のことか ら、「包含原理」が「実在性原理」以上 のことを
なのである
意味 していること、すなわち、両者が異なるものであることは明 らかである。
よって、「包含原理」は、「実在性原理」 に還元されない と結論づ ける ことが
できるであろう。
さて、身体か ら精神へ の相互作用、すなわち脳運動が精神のうちに感覚を引
き起 こすとい う事態は、これ らの原理を充たしているといい うるのであろうか。
「実在性原理」については話が簡単 である。原因である脳運動を担 う脳 も、結
果である感覚を担 う精神 も共に実体 であ り、同 じ実在性 をもつので何 ら問題は
ないか らである。他方、「包含原理」によると、「観念が表現的にもってい る
実在性について も、原因が結果にお いてあるもの全てを形相的に、あるいは優
勝的に含んでいなければならない」 のであるか ら、原因である脳はいずれかの
足に針が刺 さっ
仕方で感覚を含んでいなければならないことになる。たとえば、
た場合、脳運動は精神において痛 なの感覚を生 じさせるであろう。このとき「形
相的包含原理」を充たすためには、第一 に、結果が`き 的状態をもつ以上、原因
の脳運動 も心的状態 をもたなければならない し、第二 に、結果が痛 みの感覚を
持つ以上、脳運動 も痛みの感覚 を持たなければならないことになる22。 これ ら
をデカル トが支持 してい ないの は明白であるので、以上のことか ら身`い の相 互
作用は、因果性原理 を充たしえない と結論すべ きであろうか。以下においては、
そう結論すべ きではない とい う根拠を示 してゆくことにする。
2
身心 の相互作用 は「形相 的」包含原理 を充た しうるか
身体 か ら精神へ の作用 の仕組 み は、「 第六省察」、 『情 念論』 な どで呈 示 さ
れてい る。 これに よると、精神 は 身体 の全ての部分か ら直接 に働 きか
け られ る
のでは な く、脳 の小 さな一 部分 (松 果腺 )か らのみ 働 きを受 ける。
そ して、 この
部分 は 同 じ状態 におかれ るた び ご とに、 た とえ身体 の残 りの 部分 が そ の に
間
種 々異 なった状態 にあろ うとも、精神 にいつで も同 じものを示す23。 た とぇば、
足 に針 が刺 さった場合、足 の痛 み の 感覚は、足 に分布 して い る神 経 に よって生
じ、足 か ら脳 に まで延 びてい る神経 は、足 にお い て引 っ張 られる と、脳 の
最奥
の 部分(松 果腺 )を 引 っ張 る。 これ が松 果腺 に一種 の運動 を引 き起 こ
この
し、
運
動 が痛 み を足 に存 在す る もの と して 精神 に感 じさせ るので あ り、 この こ とは 自
然 に よって仕組 まれてい る24。 ゅ ぇに′
い身合 一体 と しての私 は、 苦痛 の 感覚 を
つ
も 。す なわ ち、脳運動 が原因 とな って、 苦痛 の感覚が生ず る。 この とき、 果
た して「包 含 原理 Jは 充 たされ てい る と言えるのかが 問題である。 まず 、「観
念が表現的 に もって い る実 在性 につ いて も、原因が結 果 において あ る もの全て
を形相 的に含 んでい なければ な らないJと い う「形相的包 含原理」 か ら検 し
討
よ う。 これ を充たすためには、 (1ソ 茜運動 は、 苦痛 の感覚的観念、す なわ ち′
、
と
的状態 を もたねばな らない。 そ して、(2)脳 運動 は、痛 み を含んでい なければ
な らな いの で あった。 しか し、 デ カル トの見解 に明 らかに反す るこれ らの要請
を如何 に して充たす こ とがで きるので あろうか。
この 問題 を解 決す るため には、 「観念」 とい う語が含 む 二義性 を明
確 にす
ることが役立 つ。 デ カル トは、 これ に よって、「理 解 の作用」 と「理 解 の作 用
に よって表現 された もの」 との両 方 を意味 してい る 、前者は、疑 い、理 解 し、
否定 し、意志 し、意志 しない、想 像 し、感覚す る とい う、知性 の作 用 と して、
2`
質料的 に(mttcHdlCr)解 された「観 念」である。他 方、後者は表現的 に(0り cctiVC)
に解 され た「 観念」 であ り、表現 され る ものは多様性 を もつ `(,質 料 的 に解 さ
れ た観 念 は、「私」 よ りも完全 であ る とは言えな いが、表現 的に解 され たlll念
一 た とえば神 の観念――は、「私」 よ りも完全であ りうるのである
()
この 区別 を念頭 において(1)の 要請 を検 討す る とどうなるで あろ うか。思惟
様態 の うちの一つ である感覚が、知性 の作用 としての「観念」 と解 され るので
デカル トの因果性原理
あれば、 これが脳 運動か ら生ず る と考 える必要 はな くなる。脳運動 が精神 に感
覚 とい う心 的状態 を引 き起 こす のでは な く、精神 自体 がそ の原因 で ある と言 い
うるか らで あ る。足 に針 が刺 さった ときに心的状 態 を引 き起 こす のは、 脳運動
ではな く精神 それ 自体 であ る。 したが って、 (1)の 要請そ の ものが消 え去 る。
けれ ども、 この場 合 に精神が感覚作 用 の原 因で あ る、 もしくは感 覚作用 は精神
の結果であ る、 と言 い うるので あろ うか。還元す るな らば、精神 は感覚作用 と
い う心的状 態 の作 出的か つ全体 的 な原因な ので あ ろ うか27。 そ もそ も、因果性
原理は作出的かつ 全体的 な原因 にのみ適用 され るので あって、 もし精神 が感覚
作用 の作出的か つ 全体的原因で なければ、因果性 原理 を充 た して い る必 要 は な
い。それゆ え、 「 作 出的原因」 と「全体 的 な原因」が何 を意味 して いるのか を
明確 にしてお く必要がある。
デ カル トは 「作 出的原因」 を、 あ る ものが なぜ存 在す るのか とい う問 い に
対する答 え となる もの とみ な して い る。哲 学史 を遡 る と、 ア リス トテ レスは、
質料、形相、 目的、始動 因 の 四原因説 を唱 えて い るが、 これ らの うちの始動 因
が作出的原因 に相 当す る とい える。けれ ども、「作出的原因」とい うときには、
単 に動 きの 原 因で あ るだけで な く、結果 を生 じさせ る原因 として、す なわち結
果 との 関係 にお いて捉 え られ た ものが 意味 されて い る
28。
デ ヵル トの用法が通
常 と異 なるの は、原因が結 果 に先立 って い な くともよい とい う点である。 これ
は無論、結果 が原 因 に先立 って いる とい うこ とで はな く、原因 と結果が 同時 的
であることを意味 してい る。 なぜ な ら、本 来的 に作 出的原因が原因 とい われ る
理 由は、ただそれが結果 を生み 出 しつつ あ るか ぎ りにお いて だけであるか らで
ある
29。
「反論 と答 弁 」 にお いて 「作 出的原 因」 は、神 が それ 自身 の作 出的 原因 で
30。
これ につ い てのデ
あ りうるの か 、 とい う神学 的観点か ら問題 とされて い る
カル トの結論 は、 神 の存在 の 原因 は、 作 出的原因ではな く、形相 因 によって答
えねばな らな い とい うもので あ る。 とはい え、神 にお いては存在が本質 と区別
されない ため に、 そ の本質 な い し形相 因は作 出的原因 と大 きな類似 をもって い
るので、作 出的原 因 の よ うな もの と呼 ぶ こ とが で きる、 と言われて い る
31。
他
方、有限実体 につ いては本質 と存在が区別 され るので あるか ら、存在 の 原因 を
与 える とされ る作 出的原因は本質 の 原因 とはな らない ように思われ る。 しか し
なが ら、 ガ ッサ ンデ ィが因 果性 原理 は作 出的原因 よ りもむ しろ質料 的 原 l■Jに
よって理解 され るべ きである と反論 した ときに32、 デ ヵル トは、形相 の完成 は
質料的原因 の うち にでは な く、作出的 原因 の うちにのみ 前 もって存在 して い る
と答 える33。 っ ま り作 出的原因は、 なぜ それが存在す るのか、 とい う問 い だけ
で な く、そ の 本質 は何 か とい う問 い に も答 えるもの と して呈示 されてい るので
ある
34。
「全 体 的原 因」 につ い ては、次 の よ うな議論が あ る。 「 第二 反論 Jに お い
て、反論者 は、蝿 や、他 の動物や、植物 な どが、生 命 を もたない太陽、雨、 大
地 によって生み 出 され るとい う場合 を呈示 して、原因 の含 んでい ない完全性 が、
結果 を引 き起 こ しうる と主張する35。 も し、これが正 しい な らば、「包 含原理J
を充た さな くて も因果関係は成立 しうる とい うこ とに なる。 これ に対 して、デ
カル トは理性 を欠 い た動 物 の うちに生命 の ない物体 の うち に も見出 され えない
よ うないか なる完 全性 もないこ と、 あ るい は、それが あ る と して も他 の ところ
か らもた らされ るのであ って、太陽や雨や大地 はそれ らの ものの 充全的 な原因
で はない こ との どち らかである と答 える36。 す なわち、 太陽や雨や大地 は、動
物 が生 ず るための 部分的 な原因ではあ るに して も、全体 的 な原因ではな い とい
うこ とになる
37。
っ ま り、因果性 原理 が適 用 され るの は 部分 的原因につ いて で
はな く、全体 的原因 につ いてなので あ る。 ゆえに、太陽や 雨や大地 な どは因 果
性 原理が充たされている必 要はな く、そ の反例足 りえないのである。
さて、感覚 の 働 きは、精神 に よって生 み 出 され る もの で あ り、精 神 はその
形相的原因で もあ りうる。 この とき、 精神 は感 覚 の働 きの全体的原因であ り、
身的様態 は痛 み の 観 念 の 部分的原因 とい うことに なるで あ ろ う38。 以上 の こ と
か ら、精神 は感覚作 用 とい う心 的状態 の 「作出的かつ 全体 的 な」原因であ り、
「形相的包含原理 」 を充た してい る と結 論づ けることがで きるのである
(,
3
身心 の相 互作用は「優勝 的」包含原理 を充 た しうるか
次 に(2)脳 運動 は、痛 み を含んでい なければな らな い 、 とい う要請 につ い て
は どの ように考 えた らよいか。 これ は、 表現的に解 された痛 みの観念 を脳 自体
が含 んでい なけれ ば な らない とい うこ とである。換 言す れ ば、物体が いわゆ る
第 二性 質―色や匂 い な ど一 の対象 を含 んでい なければ な らな い とい うこ とであ
デカル トの因果性原理
る。「第五省 察」 の 冒頭 で呈示 されて いるよ うに、物体 的事物 の本性 は連続量
をそなえた ものの、 長 さ、広 さ、深 さにおける延 長である。 この延 長実体 に、
大 きさ、形、位置 、場所 的運動 な どの様態が帰属 す る といわれるけれ ども、 こ
れ らの うちに痛 み な どの性 質が含 まれ るとは言われて い ない
39。
しか しなが ら、
「第六省察」 にお け る物体 の存 在証 明 は、感覚的性 質 の観念が形相 的 にか優勝
的に物体 に含 まれ なければな らない とい う要請 を充 たす こ とに よって果 たされ
ているように思 われ る。す なわ ち、物体 の存在証 明 の手続 きは次 の ようになさ
れてい る。デ カル トに とって、感覚す る能力 は思 惟 実体 の様態 であ って、それ
な しで も「私」を明晰かつ 判明 に理解 で きるけれ ども、思惟す る能力 な しに「私」
°
を明晰かつ 判 明 に理解 す る こ とはで きない とい う よ うな仕方 で存 在す る 。物
体 の存在 を証 明す るため に、 まず、デ カル トは この感覚す る能力 を、詳 しくは
感覚的性 質 の観念 を受容 し認識す る とい う「受動 的 な能力」 として特 定 してお
いて、「私」 力`
この 能力 を用 い るためには、それ らの観念 を産出 も しくは実現
す るところの、 あ る種 の 能動 的 な能力がなけれ ば な らない こ とを推 定す る
41。
す なわち、感覚能力 を生み 出す能動 的 な能力が、思惟 す る実体 とは別 の 実体 に
なければな らない こ とになる。ここで、「この実体 の うちには、そ の能力 によっ
て生み出 され る観念 の なか に表現 的 に存在す る全 実在性が、形相 的 に、 あるい
は優勝的 に内 在す るので な くて はな らない
42」
とぃ ぅ ょうに、「包含 原理」が
用 い られる。 そ して、 この実体 が物体― これには、 観念 の 中に表現 的 に存す る
い っさいの ものが 形相的 に含 まれて い る一 であ るこ とが、神が欺晴者で はない
ことか ら帰結す るので、物体 が存 在す ることが結論づ け られるので ある。
しか しなが ら、以 上 の こ とか ら、物体 に感 覚的性 質 の 観念が 形相 的 に含 ま
れると結論づ け るこ とがで きる のか とい えば、そ うではない。デ カル トは、感
覚的観念 を用 いて物体 の存在証 明 を果た した後 に、物体 的事物 の全 てが感覚 に
よって把握 され る とお りの もの として存在す るのでは ない こ とを直 ちに断わっ
ている。 なぜ な ら、感覚 に よる把握 は不明瞭で混 乱 して いるか らであ る。私が
物体 にお いて 明晰か つ 判 明 に理 解す る事柄 、す なわち、純粋 数学 の対象 の うち
に把握 され る事柄 だけ しか把 握 され る とお りにそ の うち にないので あ る
43。
そ
うする と、延 長や形や運動 を感覚す る とい う場合 には、脳 にお いて それ らは含
まれて いるので、 「形相 的包含 原理」 は充た され るこ とになるのであるが、痛
みなどの場合 は脳 に含 まれて い ないので、充た され ないこ とになるであろう。
しか しなが ら、痛 みが 形相的 に物 体 に含 まれて い な いの である と して も、
優 勝的 に含 まれて い る とい う可能性 が まだ残 って い る。 この ように考えるこ と
が で きるので あれば、デ カル トの因果性 原理 は身心 の相 互作 用を排 除 しない と
言 い うるので はないだろ うか。実際、ウ イルソ ンは まさにその ような立場 を とっ
ている。彼女 は、その ように考 える理 由 と して、痛 み な どの 観念はほ とん どわ
ず かの実 在性 しか呈示せ ず、 これ を非存 在か ら区別す るこ とがで きない 、 とデ
カル トが述 べ てい るこ とを挙げてい る44。 なぜ な ら、 非 存 在 とほ とん ど区 別が
つ か な いほ どで あ る として も、実在性 を もつ ので あれば、因 果性 原理が適用 さ
れ る対 象 とな りうるか らである。この よ うな見解 の正 当性 を確かめるためには、
感 覚的性 質 の 観念 が 「優勝的包含原理」 を充たす もので あ るかを確 認せ ねば な
らない。
す でに述 べ た よ うに、「優勝的包 含原理」 の適用条件 としては、(i)原 因が
結果 を形相的 に含 んでい ないこ と、(H)原 因は結果 とは異 なる種類であ り、か
つ 結果 よ りも実在性 の程度が高 いこ との二つ が 挙げ られ る。脳が痛み を形相 的
に含 んでい ないの は明 らかであるので、(i)の 条件 は充た して い る。それで は、
(H)の 条件 は どうであろ うか。形相 的 に含 まれ る とい うこ とは、原因 と結 果 の
種類 と完全性 の程度が同 じことであったので、(i)の 条件 を充た している以 _L、
脳 は痛 み とは異 なる種類 の ものであ るこ とは 自明であ る。 次 に、脳 は痛 みの 観
念 よ りも実在性 の 程度が高 い と言えるのか を確 かめなけれ ば な らない。 当然 の
こ となが ら、脳 は物体的実体 としての 実 在性 の 程度を もつ 。他 方、痛み は 果た
して実 在性 を もつ と言えるのだろ うか。 ウ ィル ソ ンがそ の 見解 の論拠 と して い
る「第二省 察」 の箇所 にお いては、確 か に、光、色、音 な どや、その他 の触党
的 な性 質が混 乱 した不明瞭な仕方で しか意識 され ない こ と、 また、 これ らが 真
である として も、 ほんのわずか の実 在性 しか示 さないので 、存在 しない もの と
区別 しえな いほ どであ るこ とが述 べ られて い る45。 しか し、 ここか らは、 感覚
的性 質 の観念 は存 在 しない もの と区別 しえない ほ どで あ るか ら、実 在性 を もた
な い とい う否定的 な解釈 と、痛 みはあ るか ない か判別がつ か ないほ どわずかで
はある けれ ども実 在性 を もつ とい う肯 定的 な解釈 の両方が導 き出 され うるよ う
に思 われ る46。 とはぃぇ、前者 の解釈 を とるな らば感 覚 的性 質 の観念は全 く実
在性 を もたな いが ゆ えに、そ の原因 を脳 に求 め ることがで きない というこ とが
帰 結す る。 けれ ども、痛 みが脳運動 な しに生ず る とい う立場 は、 これ まで 見て
デカル トの因果性原理
きたデ カル トの見解 に明 らか に反 して い る。ゆ えに、感覚的性 質 の観念 に実 在
性 を認める立場 を とる他 はない。 さて、痛 みが もつ わずか な実在性 と、 物体 的
実体 としての脳 が もつ 実在性 の 程度 を比較す る と、後者 の実在性 の 方が大 きい
のは明白である。 ゆえに、(五 )の 条件 も充た され ることになる。 よって、 ウィ
ルソンの見解 は妥当であ り、
物体 が痛みを優勝的 に含 む と結論で きるので ある。
おわりに
これ までの考察か ら、身心 の 相 互作 用 は因 果性 原理 を充 たす 、す なわちデ
カル トの因呆性 原理 は身心 の相 互作用 を排 除 しない と結論 づ ける こ とがで きる
であろう。 しか し、 この こ とは 身心 の相互作用 に関 して全 く問題が ない とい う
こ とを意味 して い るので はな い。 ただ、因果性 原理が少 な くともデ カル ト自身
が展開 して い る身心 の相 互作 用 につ いての論述 を不整合 にす る ものでは ない と
い うことのみ を意味 して い るのである。
けれ ども、本論での考察 はテキス トを『省察』 に限った ものであ り、その
他 の論述をも含む身心相互作用 についての包括的な検討が更 になされる必要が
ある。たとえば、 『掲貼文書へ の覚え書』 において、デカル トは精神 に本有的
でない ものは観念 の うちにはないとい う見解 を提示 してい る47。 無論、経験に
関わる周囲の状況は必要 とされるのであるが、その役割 は精神がその本有的な
機能を通 して観念を形造 るための機会を与えるにとどまる。つ まり、精神があ
らゆるものの観念 の原因 とされ、脳運動 は単 に、精神 に観念 を抱かせる機会を
与えるにす ぎない。上での考察 では、感覚的性質 の観念を与える原因となるの
はそれを優勝的 に含む物体 で あったが、 ここにおいて物体 はそのような役割を
もはや果た してい ないのである。 ここから、 なぜデ カル トがこのような立場を
とるに到ったのか、身心 の相互作用において最終的に採用 されたモデルは何で
あるのか、 とい うような問題が生ぜ ざるをえない。 しかし、 これ らは今後の課
題として本論を終えたい。
註
│デ カル トからの
引用は、全てアダン タヌリ版全集によるものとする。c″ wで 、
D‐ ε
α′
′
ο
s,publに cs
par Chadcs Adanl ct Paul Tanncrv,Pans J Vrll1 1 964‐
記 し、その巻数 と頁を付す。
`々
1975こ れを バ1と 田
各
2AT VH,p40
'デ カル ト自身が この ように名付けているわけでは ない。オニール(o` ncill)が
Jlc rallity
pinclp僣 と呼び、 ウ ィル ソン(wi、 On)も これに従 って い る。 ラ ドナー(Radncr)は 、これ
を thc“ atに astas much"plncぃ た と呼 んでいる。
4註 3と 同様 のことが言 える。オニールが用 いる
呼 び方 thc
ラ ドナーは、 これ を thc
)AT VII,p161
prc‐ c対 stcncc p●
contaiinlcnt plncい
nciplcと 呼 んでいる。
たに従 った
.、
6こ の
関係 については、o'T00に (1993)を 見 よ。
フ
AT VII,pp 40‐ 41
8ん
ベ
′
グ,p161
イサ ッ ドは次のような讐 えを用 いて説 明 して い る。 もし私が三つの コ イ
ンを夢 に見 るな らば、三つのコイ ンは「表現的」実在性 のみ を(私 の精神にお いて)も
つ 。 もし私が起 きて、それ らを私のお財布か、それ らに相当す る もの を銀行日座の ど
ちらかに見出すならば、三つのコインは「形相的」実在性 を(私 の精神の外に)も つ.
私の精神において「表現的に」存在 した三つのコインは、い まや「形相的にJ(お 財布
の中に)あ るいは「優勝的にJ(銀 行日座に)存 在するであろう。Bcyssadc(1992xp 197 n 14
つカテルスが、
表現的実在性は純粋な命名であ り、現実には何 もので もないがゆえに原
因を要求することはない と反論 しているこ とから、観念にも原因を求めるとい うデカ
ル トの立場の特異性が理解 されよう。J` Ⅵ l,pp 92-93
° ここで、
観念によって表現的に表されたものが、表像(phantasぬ )に おいて描かれた像
ではないことに注意 しなければならない。われわれが天空が存在すると知るのは天空
が見えるか らではない。天空の観念をもつがゆえに天空が存在すると判脚iす るのであ
り、それはあ らゆる観念は自己のもつ表現的実在性が実在的に存在するための原隊│を
もっていなければならないからである。AT V‖ ,p165
グ,p45 この文脈 自体にはここでは関与 しない。
プ
グ,p79「 第六省察」では、感覚を生み出す作用が、物体 よりもはるかに高貴な被造
物 において優勝的に含まれうるとい うことが示唆 されている。
H/b′
pル
l'AT IV,p 292
・
オ ニ ー ル は、精 神が 身体 よ り高貴 であ る こ と と、 精 神 が 身体 よ り完 全 であ る こ とを同
義 で あ る とみ なす が 、 この解釈 の 問題点 は ウ ィル ソ ンに よって指 摘 されて い る。
ヽ
Vilson(1991),p 61,n 33
15c10,Ncill(1987),pp 235-238
16 Locb(1985),p 228
'AT VH,p 135
デカル トの因果性原理
いLocb,″ ο
″,p228 厳密 に言うと、 ロープは、結果の実在性が原因において予め存在
していなければならない、 とい う原理をわれわれのい う「実在性原理」 に還元するの
であって、われわれが、「包含原理」 と呼ぶのと同 じものを、「実在性原理」 に還元
しているわけではない。
'こ れはオニールによって指摘 されている。0'Nd‖ (1987)p233
よ'AT
冽ウ
Vil,p105;AT VIII,p ll
ィルソ ンは、「実在性原理」 よ りも「包含原理」 の方 が強 い制約 を含 んでいること、
つ まり両者が異 なるもので あ ることを示す例 として、デカル トが延長す るものはそれ
自体で運動 を引 き起 こす ことがで きない と考 えて いることを挙げている。
2,こ の
問題設定 はプ ロー トンに よる もので ある。Broughton(1986》
VH,p86
2'Al`
21/bた
Hl
ノ.p 87
ノ,p8
よ
'/b′
グ
15/bた
,p40「 これ ら観念がたんにある意識様態 であるか ぎり、私はそれ ら観念の間に
なんの差別 も認めない。それ らはす べ て同 じしかたで私か らでて くる と思 われる。 し
か し、ある観念 はある ものを表現 し、他 の観念 はまた他の ものを表現 して いるか ぎり、
」
それぞれの観念が互 いに非常 に異 なって いることは明 らかである。
ン ロズモ ン ドは、精神 は観念 の心 的本性 を説明す る ときに役割 を果たすが、 この役割 が
作出的原因 によって理解 され る とは考 えてい ない。Rozemond(19991p456
作出的原因」 については 山田晶(1980)pp 134‐
2X「
2'AT VH,p 108
135 註 7を 参照 した。
''Cfノ bた ノ,pp 207‐ 218
3/み
ブ
グ,p243
12/b′
''ノ b′
1・
8`
″,p288
″,p366
Frankcl(1986)P334
AT V‖ ,pp 123-124
16ノ
み′
′,pp 133-134
,7AT l■
,p274
'Xヽ Vilson(1991)p
'`'パ
・
)ノ
b′
1 /b′
1:/b′
VH,p63
47
グ,pp 78-79
グ,p79
`ι
グ,p80
1.W‖
4'ノ
b′
son(1991)p47「 そこでのデカル トの結論は、(精 神 としての)彼 自身が、感覚観念(色 、
味など)の 原因であ りうるとい うことであるけれども、類推によって、事実上、彼は「完
全性」をもつ どのようなものも、優勝的包合のもとでそれらの原因でありうる、とい
うことを結論づけることができるように思われる。
」
4SAT V‖
,pp 43‐ 44
“ 感覚 的性 質 の 観念 が 実在性 を もつ の か とい う問題 につ いて は別の 機 会に詳細 に 論ず る
予 定 で あ る。
4'AT VHl,pp 358-359
文献
山田晶(1980)『 トマス アク ィナス』中央公論社
。
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Bcyssade.J― M(1992)“ Thc idca Of(〕
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Cottinghanl pp 1 74-199
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`tcncc"in「
Broughton,J(1986)“ Adcqtlatc Causcs and Natural Change in Dcscaltcs`
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1992)cd 10hil
(Canlbridgc tり nivcrsiけ P"SS、
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