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Br。ther Jac。b"における寓話的世界

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Br。ther Jac。b"における寓話的世界
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"Brother Jacob"における寓話的世界
大嶋浩
(平成元年9月28日受理)
Iはじめに
La Fontaineは, 「寓話」 (apologue)とは言わば「肉体」 (body)と「魂」 (soul)の二
つの部分からなり,その肉体は"Fable"であり,その魂は"Moral"であると述べてい
1
る。 "Brother Jacob" (以下, "BJ"と略す)にはepigraphとしてLa Fontaineの
Fablesの中の「キツネとコウノトリ」 (第1巻の18)からその"Moral"の部分("Trompeurs,
c'est pour vous que j'6cris,/Attendez vous a la pareille.")が引用されており,
George EliotはどうやらLa Fontaineの寓話を意識し,それにならって"BJ"を書いた
と推察される。 "BJ"の物語の構成を見てもその点は肯ける。 "BJ"は三つの章からなっ
2
ているが, Ch. Illの最後のパラグラフ,つまり文字通り物語の結びの部分において,次
に引用するような"Moral"が語られ,この最後のパラグラフを除いた物語全体は"Fable"
とみなすことができるのである: "Here ends the story of Mr. David Faux, confectioner and his brother Jacob. And we see m it, I think, an admirable instance of
the unexpected forms in which the great Nemesis hides herself."(p. 327)sここで語り
手-作者が指摘している"an admirable instance of the unexpected forms in which the
great Nemesis hides herself"という教訓一一換言すれば,因果応報の理と言ってよかろうは, epigraphとして引用されているLa Fontaineの寓話の"Moral"の部分と呼応して,そ
の処世訓的効果を高めるとともに,読者にこの作品全体を「つのfable(先述のLa Fontameの言葉で言えば一つのapologue)として読むことを指示する指標となっていると
言えよう。以下, "BJ"に見られるfableの特質を考察しながら,そこに展開される寓話
的世界を明らかにしていきたい。
n appellationと寓話性
La Fontaineも指摘しているように, fableは動物ばかりでなく人間も植物も扱いうる
のであり,動物・人間・無生物等の,あきらかに虚構ではあるがいかにもありそうな振る
舞いのアナロジーを通して教訓を伝えるものである。その根底にあるのは人間を「小世界」
としてとらえ,人間は「理性をもたない被造物の良い点,惑い点すべてを要約したもの」4
とする人間観である。動物たちの性格や性質は同時に私たち人間の性格や性質に通じ,逆
もまた然りなのである。それゆえ, "BJ"において主要人物がその姓や言動を通して動物
等に関連づけられているのは,まさに"BJ"の寓話性を証するものの一つであると考えら
れる。
まず,計算高く校狩な悪役を演じる菓子商Freely-Davidは, fableではお馴染みのキ
ツネ(fox)になぞらえられている。彼はepigraphで引用されている「キツネとコウノト
リ」中の,キツネのようなペテン師であり,しかも彼の姓のFauxは仏語では"false"を意
'兵庫教育大学第2部(言語系教育講座)
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味し,英語では"fox"を連想させ,物語の最後の方にいたってGrimworthの人々からはっ
f.
きりと"Fox"(p. 324)こそ彼にふさわしい名前であろうとまで言われている。仏語で引
用されているepigraphの存在とGrimworthの人々の述懐は, Fauxという姓に仏語の
"faux" [false]と英語の"fox"の両意を読者が読み込むことを十分に正当化するものであ
ろうFauxという姓それ自体に,"guile"(p. 283)に耽るDavidがもつキツネのような校
滑さないしは欺輔佐が示唆されているわけである。一方,キツネのようなDavidに見事
に編されるのがPalfrey一家である。 Palfrey一家はその名が示すごとく,動物で言えば
(乗用)局(palfrey-riding horse, saddle-horse)を表し,彼らの住まいはいみじくも
"Long Meadows"(p. 299)と呼ばれている。 Palfrey家の息子達は乗馬のできない者を
"tailors"(p. 301)と呼んで馬鹿にしていたのであるが, Freely-Davidに偏されて娘の
Pennyとの婚約まで承諾したPalfrey夫妻は,皮肉にもtailorならぬconfectionerにも
のの見事に乗りこなされていたことになるo Lかもここで,もし読者が乗り物としての馬
は図像学的には伝統的に「徳性」 (Virtue)や「愛」 (Love)の乗り物であったことを併せ
6
て想起するならば,上述の皮肉は更に味わい深いものとなろう。つまり,この場面では
馬は逆に,人を欺いて誘惑する,言わば「悪玉」 (Vice)といえるFreely-Davidの乗り物
となっているわけである。このように見てくると, the Oyster ClubでMr. Prettyman
がFreely-Davidを評して述べた"he's a bit too fond of riding the high house"
(p. 296)という言葉は両意的で,多少dramatic ironyにも似た効果を生むことになろ
う。即ち"riding the high horse" (原義は「背の高い馬に乗る」)という言葉を, Mr.
Prettymanは慣用句としての比職的な意味で「威張る」の意として用いているのである
が, Palfrey家が落ちぶれつつあるとはいえ, Grimworthにおいては"the old-established
tradespeople"(p. 300)でさえ階層的に下のものとみなしうる程の高い身分であることを
思う時,まさにPalfrey家は"high(-高位の) Palfrey "っまり"high horse"と言えるわ
けであり,物語を読み進むうちに読者には,このMr. Prettymanの言葉が原義とは異な
るけれども,文字通り「高位の馬に乗る」の意味で理解できるものとして思い返されるこ
とになるのである。しかしながら, "BJ"の寓話性という観点から言って, Palfreyとい
う姓において何よりも注目すべき点は,その姓が単に漠然と馬を意味しているのではなく,
乗用馬(saddle-horse)という特定のものを表していることであろう。 La Fontaineの寓
話やEliotが幼い頃より親しんでいたAesopのそれに見られるように,馬勘をつけて人
丁
間に乗り回される馬というものは,伝統的に「愚かさ」 (stupidity)を表象する。それ
ゆえ,いわばFreely-Davidを乗り手とし,鞍をつけられた馬(saddle-horse)たる
Palfrey夫妻は,その名が含意する愚かさを示す典型的人物となっていると解することが
できるわけである。事実, Freely-Davidの素性が暴露された時, Mr. Palfreyは自分
が「いいかもにされた」 (fooled, p. 323)ことを痛感する。
さて,愚かさを表すものとしてPalfrey夫妻が具体的に犯す愚行は,まさに人間が一
般に犯しやすい愚行に他ならない。皮肉にも単純素朴なMr. Palfreyは"sugar-plum"と
いう言葉が持つもう一つの意味(flattery)を特に意識することなしに,菓子商のFreely
のことをいみじくも"that sugar-plum fellow"(p. 301)と呼んでいたのであるが, Mrs.
Palfreyの方はものの見事にFreelyの「甘言」(a very flattering letter, p. 303; flattery,
p. 306)に乗せられてしまうことになる。言うまでもなく,甘言(flattery)はfableにお
いてキツネが使う最も校滑な武器であり,この場面は言わばキツネとしてのDavidの面
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目躍如たるところがあろう。ともあれ,語り手-作者が"Even a matron is not
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insusceptible to flattery"(p. 304)と指摘しているように, Mrs. Palfreyの振る舞いは
世間によく見受けられる愚行の一つである0 -方, Mr. Palfreyの方は,ラム酒をよば
れてFreelyの残高勘定を見せられた揚げ句,彼の巧みな作り話によって編されてしまう。
そしてMr. PalfreyがPennyとFreelyの結婚に同意した時に,それを正当化し,あら
ゆる疑問や反対を退けるために思いっいた「公式」(p. 307)というのが"`I am not a
man to put my head up an entry before I know where it leads.'"(p. 307)という
ものであった。今まで行き先の知れぬ入口に頭を突っ込むことがなかったからと言って,
今後もずっとそうだという保証はどこにもないのにもかかわらず,その誤った仮定を「公
式」化して自己満足している彼の過ちも,人間がよく犯す愚行の一つであろう.更に注目
すべきこ ̄とは,これらの愚行--Mrs. Palfreyに見られる「甘言-の服従」 (yielding to
flattery)とMr. Palfreyの示す「正当化されない仮定」 (unjustified presumption) -が,いずれも伝統的なfableにおける典型的テーマであるということである。つまり,こ
9
こで結論を先取りして"BJ"のfableとしての構造を指摘しておくならば, "BJ"はこの
作品の"Moral"を生み出すこととなる主役のDavidとJacobによって演じられる愚行
(「人間の弄する策略の先見のなさ」 [the short-sightedness of human contrivance, p.
278]の例)をmain plotとしながら,その中で脇役達の愚行がsubplot的に展開する作品,
換言すれば, DavidとJacobの織りなす主要なfableの中に脇役達の小さなfableが俵
め込まれた,いわばfableの入れ子細工という構造をもっている作品なのである。
動物へのアリュージョンをもっているわけではないが, appellationそのものがこの作
品におけるその人物の性格や役割といったものを表しているものとしてyoung Towers
の姓及びPennyとFaux家の3人の兄弟の名前(Christian names)が挙げられよう。 young
Towersは, PennyをはさんでFreely-Davidと恋の三角関係を形づくることになる若
者であるが,この物語における彼の運命と役割はその姓に込められている`tower'に象
徴的に示されている。塔(tower)は上昇や希望を象徴し,救済を表す。10恋の三角関係の
中でFreely-Davidが「見事な運命の逆転」 (p. 291)によって運命の急激な下降を経験す
るのに対し,逆にそのFreelyの没落によってかねてより思いを寄せていたPennyとめで
たく結婚するという急激な運命の上昇を経験するのがyoung Towersであり, Pennyの
側から見れば,彼こそはFreelyに編されていたことがわかった彼女をその傷心から救い
出し,彼女にとって新たな希望となる人物なのである。一方,恋の三角関係の中心人物と
なるPenny即ちPenelopeとは,言うまでもなく, Odysseusの妻Penelopeに由来し,負
節を暗示する名前である。そのことは,彼女の端正さと純真さが"a pink-and-white
double daisy"(p. 299)にたとえられていることによって一層強められていよう。 daisy
は無垢と純真を表し,貞節の象徴として今日でも恋占いに用いられる花だからである。そ
ll
してこの花はまた,懐かしの幼年時代,汚れを知らぬ童心と結び付くPennyが無邪気
にFreelyを"a remarkable man"(p. 301)と思い込み,彼との恋にその名に恥じぬ持ち
前の"faithfulness"(p. 301)を発揮し,彼に対していつも「忠実で」 (true, p. 305)あろ
うと心中密かに決意するさまは,愚かしくも滑稽であるが,それはまさに「まだ子供」
(p. 305)であるPennyの汚れを知らぬ,初心な心のなせるわざでもあろう。受けた教育
といえば寄宿学校に一年間通っただけで, Grimworthの町に埋もれて暮らす小娘の
Pennyには,西インド諸島へ行ったことがある人物とはRobinson CrusoeやCaptain
Cookとおなじような"a sort of public character"(p. 300)のように思われる。つまり,
彼女もまたFreelyの語る異国の体験談に魅せられた,愚かな"Grimworth Desdemonas"
90
(p. 296)の一人に他ならなかったことが示唆されているわけである。素性もはっきりし
ないFreelyの語るロマンチックな逸話に心ときめかすGrimworthのDesdemona達の
姿には滑稽さと皮肉が込められていると同時に,女性たちが20才を過ぎてもずっと髪を
「短く刈って」 (in acrop, p. 299)いるような, 「社会がまだずっと健全であった時代
に」 (p. 299),女性たちがもっていた初心な純真さと貞節が, "Desdemonas"という言葉に
含意されていよう。このような"Grimworth Desdemonas"を典型的に代表する女性,そ
れがdaisyにたとえられ,貞節の鑑たるPenelopeの名前をもつPennyなのである。
David及び彼の「運命の逆転」に不可欠な役割を演ずる長兄のJonathanと白痴の
Jacob,これらFaux家の3人の兄弟の名前は一見してわかるようにいずれもBiblical
namesに由来しているが,面白いことに語り手-作者は彼らの名前が有する聖書的アリュー
l2
ジョンを幾分逆手拝とっているようであるDavidとは`beloved'を意味する名前で
あり, Biblical Davidの故事に因んで今日,無二の親友を表すものとしてDavid and
Jonathanという言い方がなされるが,皮肉にも"BJ"においてDavidが愛されているの
は責任感のあるhonest Jonathanによってではなく,白痴の兄Jacobによってである。
むしろhonest Jonathan一一彼は信義に篤いBiblical Jonathanと同じく"honest"な人
物として設定されているの兄弟愛はJacobに向けられ,母親の金貨を盗んで出奔した
Davidに対しては嫌悪の感情さえ抱いているのである。また, DavidはBiblical David
と同様に7人兄弟の末っ子とされているが, Biblical Davidが勇敢でそのclevernessを専
ら他者のために用いる義人であったのに対し, Davidは"timid"(p. 272)な若者でその
clevernessを専ら他人を利用して自己の安寧を計ることに使う悪人となっている。最後に,
キツネのように校滑なDavidではあるがその彼も,Biblical Jacobによって兄弟のEsau
が出し抜かれたように,兄弟のJacobにはことあるごとに出し抜かれてしまう。彼は母
親の金貨を盗んで隠そうとしたところをJacobに見つかり, yellow lozengesを与える
ことでその場を何とかごまかしたものの,明くる日朝早く起きて金貨を取り出しに行って
見るとすでにJacobが先手を打っているJacobにつきまとわれて困ったあげく,ビー
ルをたらふく飲ませて眠らせ,ようやく彼の手から逃れることができたと思ったら,数年
後JacobがGrimworthの町に突然現れ, Davidのもくろみを台無しにするといった具
合である。ただ,用心深く牧村なDavidの裏をかくJacobがじつは白痴であるという設
定により,ヒューモラスであると同時にアイロニカルな効果が生じているといえよう。ち
なみに聖書的アリュージョンという観点から言えば,Jacobがいつも手にしている"staff"
(p. 281)は,実際はpitchforkであるが,彼の名前と放浪癖を考え合わせると, `Jacob's
13
staff (-apilgrim's staff)'へのアリュージョンないしはパロディーとなっているの
かもしれない。なお, "honest Jonathan"(pp. 322, 324),"the innocent Jacob"
(p. 276)に見られる形容辞"honest"と"innocent"及びDavidと密接に結ばれていた
Fauxの含意(false, fox)は,これら3人の兄弟の顕著な特性一一つまり,正直なるもの,
無知で無垢なるもの,校滑なるもの-1をそれぞれ明瞭に示すものであると同時に,聖書
に由来する彼らの名前に含意された特性と相互関係を読者が幾分ヒュ-モラスでアイロニ
カルなものとして読み取ることを一層容易にするものであろうO
以上"BJ"の主要人物達のappellationを中心に見てきたわiナであるが, Fauxや
Palfreyという姓はいずれも動物へのアリユージョンを持ち, DavidとPalfrey夫妻は
それぞれの姓が含意する特性を典型的に表す人物として, "BJ"の寓話性を強く読者に印
象づけるものとなっている。同様に, Davidを交じえて恋の三角関係を演じるyoung
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TowersとPennyも,その姓や名前が象徴ないしは示唆する特性や役割を端的に示す人
物となっており,言わば名は体を表していると言えるわけである。それに対し, Biblical
namesに由来するFaux家の3人の兄弟の名前は,幾分ヒュ-モラスでアイロニカルな要
素を含みながらそれぞれの特性や役割を表し,語り手-作者によりひとひねり加えられた
形となっている。いずれにせよ, "BJ"における主要人物達のappellationは,多かれ少
なかれ,あるタイプを示唆するものとして機能し, "BJ"の寓話性に貢献しているわけで
ある。そしてこの貢献は,マイナーな人物達の同様の機能を示唆するappellation -1列
えば, Mr. Prettyman(-pretty man), Miss Fullilove(-full of love), Mr. Strutt(IE
strut)など-やDavidが用いた多義的な偽名Freelyの存在などによって相補的に強め
られていると言えるであろう。
Ⅱ 「不釣り合いなカップル」としてのPennyとFreely - David
La FontaineのFablesの中に"Love and Folly"と題された,愚行の神(Folly)が盲
目の恋の神(Love即ちCupid)の道案内をするようになったいきさつを説く話がある。
盲目のCupidゆえに起こる恋の愚行の起源説話である。 "BJ"においてもCupidの名が
一度だけ言及されている。それはPennyの魅力に惹かれたFreelyのことを述べている
箇所である: "At last... it seems clear that Cupid had found a sharper arrow
than usual, and that Mr. Freely's heart was pierced."(p. 298)このことは翻って,
いっも彼女の家を訪れていたyoung Towersではなく,新参のFreelyに心惹かれていっ
たPennyも,同様にCupidによってその心を射貫かれたことを示唆することになろう。
しかしながら, FreelyがPennyに惹かれたのは彼女の"prettiness"(p. 302)と"submissive temper"(p. 302)もさることながら, Palfrey一家が教区-の名家で一介の菓子
商風情がPennyを勝ちうるためには,彼のおはこの"some ingenuity"(p. 303)が必要
とされたからである。"the aspiring lover"(p. 306)として彼が抱いているPennyへの
思いは実際には恋の情熱というよりも計算高い野心がまさった功利的なものであり, 「恋
の盲目」 (Love is Blind.)という愚行を演じることになるのは,専らPenny及び彼女と
同類の"Grimworth Desdemonas"の方なのである。 Freelyの巧みな弁舌に魅せられた
GrimworthのDesdemona達には,黒い頬髭によって引き立てられた血色の良いピンク
色の頬を持っyoung Towersも, 「黄ばんだ顔色のFreely」 (p. 296)の存在によって,影
が薄くなる有り様である。まさにあばたも磐といったところであろう。恋の夢に目をくら
まされたPennyも, Freelyを「たくさんの詩」を知っている「たいへん立派な人」 (p.
301)と思い込み, daisiesの花咲く放牧場で「架空の喜びと悲しみの繭」 (p. 302)を作り
出し,あたらその持ち前の"faithfuleness"をそれに値しないFreelyに向けるという,滑
稽で愚かしい過ちを犯してしまう。初心な純真さゆえに,恋の盲目という愚行を犯してし
まうPennyではあるが,この地方の名家の娘は言わばDavidにとってのYaricoであり,
Grimworthで彼を待っていた"a gullible princess"(p. 285)であったわけである。
ところで, FreelyとPennyの関係が暗にOthelloとDesdemonaのそれになぞらえ
られているということは,そこにはまた,世代の違う者同士という伝統的な「不釣り合い
なカップル」のモティーフが示唆されているものとして興味深い。古代神話における愛と
美の女神ヴィーナスとその夫で神々の中で最も醜く,びっこの老人として描かれる鍛冶屋
の神ゲルカーヌスあるいは聖書における若く美しい聖母マリアとその夫で年老いた大工の
ヨセフをはじめとして,「不釣り合いなカップル」は古くから遍在し,それはまた, Chaucer
92
のJanuaryとMay(The Canterbury Tales中の"The Merchant's Tale")から
ShakespeareのOthelloとDesdemonaを経て,現代的な例ではR.シュトラウスとホフ
マン・スクールの楽劇『香薮の騎士』のマリー・テレーズ侯爵婦人とオクタグィアンに見
16
られるように,文芸において繰り返し取り上げられてきたモティーフであるChaucer
の措いたJanuaryとMayは,イギリス文学における「不釣り合いなカップル」の祖型的
な.ものと言えるであろう。 `It's a case of January and May.'と言えば,老人と若い
娘の結婚を指して言う言葉であり, `May inand January'あるいは`match May with
January'という諺も同様のことを意味する。 JanuaryとMayにおいてChaucerが風
刺しているのは,欲得ずくの結婚と老人の恋(欲情)の愚かさであるが,このテーマはま
た,老人と若い娘(時に若者と老婆)という図像で, 「不釣り合いなカップル」のモティー
フを愛好したドイツ_やネーデルラントの画家達(クラーナ-やマセイス等)によって,繰
り返し取り上げられているものである。それらの絵では,・外見上の醜さは内面の醜さを表
18
す記号として,老人はことさら醜く描かれているPennyとFreelyはそれぞれ19才と
30才前であり,世代的なギャップは比較的小さいのであるが,彼らの風貌描写は極端な対
照をなし,明らかにChaucerの作品やドイツ,ネーデルラントの美術でおなじみの老人
と若い娘という「不釣り合いなカップル」のコンヴェンショ.ンが踏襲されているようであ
る。
19
Pennyはいわゆる典型的なブロンド型の女性である。髪の色は"yellowish flaxen" (pp. 298-99)であり,そのなめらかな髪を「短く刈って」いる。 「つぶらな青い目と
小さな鼻に丸い鼻孔」 (p. 299)をそなえ,理想的な歯と「白い肩」 (p. 314)をもった彼女
紘,芳紀まさに「19才の可愛らしい乙女」 (p. 299)と描出されている。それに対し,Freely
の容貌は「やつれ」 (peaky, p. 304), 「わに足で,病的に黄ばんだ小作りな顔」(bow legs
and a sallow, smalLfeatured visage p. 298)とあるように,決して-ンサムとは言え
ず,その「唇のない口」 (lipless mouth, p. 315)に至ってはグロテスクでさえある。
`twisted or deformed leg'は`evilness, sordidness'を暗示し, `thin lips'は,
`cruelty, peevishness'を表すFreely-Davidの「わに足」と「唇のない口」という
20
外見上の醜さは,校滑に自己の利益だけを考えて他人を顧みない,彼の心の邪悪さと無情
さを示す記号となっていると考えることができよう。そして,まだ30才前であるにもかか
わらず,やつれて病的な顔色をした彼には,外見的に若々しさが見受けられず,その「青
春の輝き(youthful bloom)は大層衰えてしまって」 (p. 305)いるCh. Illにおいて,
Palfrey夫妻が二人の娘を連れてPennyの将来の住居を検分に訪れ,最上のマフィンとバ
ター付きバンを前に一同のものがお茶の席に着いた時,相並んだ二人の若さは明白な対比
をなし,読者は老人と若い娘という伝統的な「不釣り合いなカップル」の姿をそこにはっ
きりと認めることになろう。
.
‥
about
five
o
clock,
they
were
all
seated
there
with
the
best
muffins
and
buttered buns before them, little Penny blushing and smiling, with her "crop"
in the best order, and a blue frock showing her little white shoulders,while
her opinion was being always asked and never given. She secretly wished to
have a particular sort of chimney ornaments, but she could not have
brought herself to mention it. Seated by the side of her yellow and rather
withered lover, who, though he had not reached his thirtieth year, had alread-
"Brother Jacob"における寓話的世界
93
y crow s-feet about his eyes,she was quite tremulous at the greatness of her
lot in being married to a man who had travelled so much- and before her
sister Letty! (pp. 314-15)
頬を赤らめて微笑み,青いドレスを着てその小さな白い肩を見せているPennyは「自分
の運命の偉大さに身を震わせ」 (p. 315),何を聞かれても口に出して答えることができな
い有り様である。一方, Pennyの傍らに座っているFreelyの姿は目尻にしわのよった,
`yellow and rather withered lover"とあるように,まさに老人を思わせるものである。
先の引用文のすぐ後で, PennyはFreelyの「唇のない口」によって食べられようとして
21
いる"a fresh white-heart cherry"(p. 315)にたとえられ, Freelyのグロテスクさと
「恋の盲目」に陥ったPennyの初心な清純さが幾分風刺を込めてヒュ-モラスに際立た
せられている。更に語り手-作者は`There's many a slip between the cup and the
lip.'という諺を踏まえた"Would no deliverer come to make a slip between that
cherry and that mouth without a lip?"(p. 315)という,ヒューモラスな疑問文でこ
のパラグラフを締めくくっているが, 「恋の盲目」に基づく,この「不釣り合いなカップ
ル」を見つめる語り手-作者の眼差しは終始,風刺的な要素を含んだ喜劇精神に満ちてい
ると言えよう。このようにFreelyとPennyの二人に関して老人と若い娘という伝統的
な「不釣り合いなカップル」のモティーフを使いながら,それによって語り手-作者が風
刺しているのは,人間の金銭欲や老人の恋の愚かさという伝統的なものではなく, Penny
が犯す「恋の盲目」の愚行,即ちイリュージョンに基づく恋の愚かさであり,この点に
22
Eliotの独自性が窺えるのではないだろうか。そしてまた,言うまでもなく,このPenny
が犯す「恋の盲目」の愚行は,すでに指摘したMrs. Palfreyの「甘言への服従」 , Mr.
Palfreyの「正当化されない仮定」と同様, subplot的に展開する小さなfableの一つと
見なすことができるものなのである。
Ⅳ菓子類のシンボリズム
先述のPalfrey一家とFreelyがお茶の席に着いた場面,一同のものがそれを前にして
座っている, Freelyが作った菓子類(この場面では「最良のマフィンとバター付きバン」
という薬子パン類)は,そのシンボリズムという観点から注目に値する。 Freelyの作る
菓子類は商品化された食べ物として,背景となっている本格的な資本主義社会への移行期
という19世紀初頭の時代性を一面において写し出すものとなっているのであるが,同時に
それは,象徴的な機能をも持っているようである。 Szirotnyは, Eliotの作品において
23
お菓子のイメジャリーは「様々な種類のイリュージョン」を暗示すると指摘している。
"BJ"においても,まず物語の冒頭において一般論の形で, salt porkとyeast dumpling
を主食として育った「イギリスのヨーマンの息子」 (p. 267)にとって,お菓子は最初その
幼い想像力を刺激してこの上なく魅力的に見え,その結果,そうしたお菓子を作る菓子商
の職業は社会的にも有力で将来的にも有望なものと思われるのであるが,やがて彼が長じ
てそうでないことを悟る「悲しい知恵の日」 (p. 267)をもたらすものとして説明された後,
まさにそうした「イギリスのヨーマンの息子」の一人として, David Fauxの抱いた"the
pleasing illusion"(p. 268)が語られていくのである。彼は"a sweet tooth"(p. 268)に鼓
舞されて幼な心に菓子商を「最も幸せで,最も重要な人」 (p. 268)と考えたわけであるが,
じきに甘いものに対して無関心となり,胸中に抱く野心も新たな形をとってそのイリュー
94
ジョンから覚めていくことになる。しかし,もはやその進路を変えることもできず,菓子
商の徒弟奉公に甘んじることになるわけである。
こうした菓子類の持っ,空しい魅力的なうわべは, Ch. IIにおいて, 「虹」の比職と"a
Dutch painter," "Turner's latest style"への言及により,華麗な色彩の絵画的イメー
ジを伴って描き出されているFreelyの店が開店した時の有り様は次のようであった。
It's certainly a blaze of light and colour, almost as if a rainbow had suddenly descended into the market-place, when, one fine morning, the shutters
were taken down from the new shop, and the two windows displayed their
decorations. On one side there were the variegated tints of collared and
marbled meats, set off by bright green leaves, the pale brown of glazed pies,
the
rich
tones
of
sauces
and
bottled
fruits
enclosed
in
their
veil
of
glass一一
altogether a sight to bring tears into the eyes of a Dutch painter; and on
the other there was a predominance of the more delicate hues of pink, and
white and yellow, and buff, in the abundant lozenges, candies, sweet biscuits
and icings, which to the eyes of a bilious person might easily have been blended into a fa岩ry landscape in Turner's latest style, (pp. 288-89)
この場面における「虹」の比境には,人を惹きつける華麗で多彩な色どりという意味だけ
ではなく,現れては消えていくものとしてロマン派詩人たちがうたったような「はかなさ」
24
あるいは「華やかではあるが人を欺く魅力」といった含意が込められていよう。ここに
おいて,菓子類, -それも特にここで言及されているFreelyの店の菓子類I-は,一面
において, 「虹」のように華麗ではあるがはかないイリュージョンを表すことが,読者に
かなりはっきりと読み取れるわけである。しかも"a Dutch painter"への言及は,オラン
ダ派の静物画が時に象徴的な要素にみちた一種の寓意画(例えば, 「ヴァニタス」の静物
画を参照。 )となっていることを知っている者に, 「虹」のイメージと結び付けられてい
るFreelyの店の菓子類を象徴的に読解することを促すであろうし,更にTurnerへの言及
はその菓子類が表象する ̄ 「虹」のようなはかなさを相補的に強めることになるであろう。
今日,多くの批評家が哀惜の念を込めて指摘しているように, Turnerの油絵作品のほ
とんどは措かれた当初の輝きを失い,多かれ少なかれ変色してしまっている。それは大部
25
分絵の具の扱い方に対するTurnerの技術上の冷淡さに由来すると言われている。しか
しながら,そのことはすでにTurnerの生前から指摘されていたことであった。ヴィクト
リア朝の著名な美術評論家であったRuskinはTurnerを尊敬し,そのよき理解者である
ことを自認していた人物であるが, Turnerの色彩の変色のしやすさをModern Painters
の第1巻において次のように指摘し,遺憾の意を表している: "No picture of Turner's
is seen in perfection a month after it is painted. The Walhalla cracked before it
had been eight days in the Academy rooms; the vermilions frequently lose lustre long
before the exhibition is over; and when all the colours begin to get hard a year
or two after the picture is painted, a painful deadness and opacity comes over
them, the whites especially becoming lifeless, and many of the warmer passages settlmg into a hard valueless brown, even if the paint remains perfectly firm, which
26
is far from being always the case." RuskinはEliotにとって芸術上の最も重要な
"Brother Jacol〕"における寓話的世界
95
精神的指導者の一人と目される人物であり, 1856年にはRuskinのModern Paintersの
第3巻,第4巻の書評を書いて,彼とその書物を称えていることからすれば,当然,この
Turnerの色彩に対するRuskinの評言を十分承知していた上で,先の引用文中の"a fa岩ry
landscape in Turner's latest style"という叙述がなされていると考え'るべきであろう。
ここでは, Freelyの店の一方の飾り窓にずらりと陳列された菓子類が作り出す優美で明
るい色彩世界にあてられた人が感ずる,一種のめまいを起こさせるような印象が,Turner
27
晩年の作風一一二即ち, 「色のついた水蒸気」に包まれたような,「形の腰牌とした夢の世界」 を引き合いに出して巧みに述べられているのであり,単にTurnerの色彩だけが問題になっ
ているのではないが, 「虹」のイメージとの結びつきは, Ruskinの評言を知る者にとっ
て, Turnerの色彩の輝きが-はらむはかなさへの連想を誘う。もしこのような読みが許さ
れるならば, Freelyの店を飾る菓子類の「虹」を恩わす多彩な華麗さは, T.urnerの燃
え上がる微妙な色彩の輝きと同様,優美ではあるが移ろいやすいものであることが,言外
に込められていることになろう。更に深読みを試みれば, 「黄金色に輝いてはいても,見
28
る人を暖めてはくれない」 Turnerの絵画のもつ一種の「冷たさ」は,多彩に色どられ
てはいても"cold eating"(p. 306)としてFreelyの店の菓子類が持っ一種の冷たさと感覚
的に一脈相通ずるものとして捉えられているのかもしれない。
以上見てきたように, Freelyが作る菓子類が一面においてはかないイリュージョンを
表象すると解するならば, Palfrey一家とFreelyが着席したテーブルの上に置かれてい
る菓子パン類はこの一座の人々がいだく諸々のイリュージョンとそのイリュージョンのは
かなさを暗示していると言えよう。まず第一に,それはPennyがFreelyに対していだ
くイリュージョンを,次にPalfrey夫妻がFreelyの校滑さに偏されていだく, Freely
に対するイリュージョンを,最後にFreely白身がいだいている,彼自身の校滑さに対す
るイリュージョンをそれぞれ暗示するとともに,やがてJacobの突然の出現によってた
ちまちこわされることとなるそれらのイリュージョンのはかなさを示唆しているわけであ
る。かくして一同のものがお茶の席に着いたこの場面は,確かに日常生活における現実的
な-情景という趣を呈してはいるが,テーブルの上の菓子類のシンボリズムと先に見た,
FreelyとPennyの「不釣り合いなカップル」の図像性ゆえに,背後に大抵何らかの道徳
ご・.I
的内容が仕掛けられていた, 17世紀オランダの風俗画を幾分妨沸させるものがあろう。
この場面に続く,白痴のJacobの出現とhonest Jonathanの登場をもってFreelyDavidの「運命の逆転」が起こり,無知で無垢なるものと正直なるものによって校滑な
るものの化けの皮が剥がされ,物語は大団円を迎えることとなる。校狩の典型たるキツネ
のようなFreely-Davidの敗北により,語り手-作者がCh. Iで述べていた「人間の弄
30
する策略の先見のなさ」が最終的に例証され,因果応報の理というこの物語の教訓が達
成されるわけである。 Freelyの化けの皮が剥がされたことによりPennyとFreely-David
の「不釣り合いなカップル」は解消され,かわってPennyとyoung Towersという「似
合いのカップル」が誕生することになるが,このようなプロットの展開は, 「-騒動あっ
て不釣り合いなカップルが結局は成立せず,似合いのカップルがめでたく結ばれるという
3l
筋書」をもつ, 18世紀のオペラ『セビリアの理髪師』や『フィガロの結婚』と同工異曲
であろう。ただし,ロジーナとバルトロ,スザンヌとアルマヴィーヴァ伯爵のカップルと
異なり, PennyとFreelyというEliotが描く「不釣り合いなカップル」には,すでに指摘
したように,当事者である若い女性がイリュージョンに基づく愚行によりその「不釣り合
いなカップル」の成立を自ら望んでいるという関係が設定され, 「不釣り合いなカップル」
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から「似合いのカップル」への移行は,必然的にその若い女性のイリュージョンからの覚
醒を伴ったものとなっている。ところが"BJ"ではPennyのこの覚醒に関して何も語ら
れていない。 Freelyの正体暴露と彼女の婚約の破棄は,初JL、なPennyに幻滅(disillusion)
をもたらし,かなりのショックを与えたに違いないが, Pennyはその後,相変わらず若
く美しいPennyとしてyoung Towersと結婚したことが簡単に語られるだけなのであ
る。この箇所は,精微な心理描写と苦悩を通しての人間的成長を巧みに描き出している,
Eliotの長編小説に馴染み深い読者にとってとりわけ不満を覚えるところかもしれない。
しかしながら, "BJ"が本質的には`novel'ではなく`fable'であることを認識するな
32
らば,納得がいくであろう。 fableの眼目は人間の複雑さではなく,むしろ典型を描き
出し,その典型を通して教訓を語ることにあるからであるDavidもGrimworthでの商
売が成り立たなくなり,まさにはかない虻のように勿々に店をたたんでどこかへ行ってし
まうことになるが,この度の出来事を契機に彼が心底から改心したのかどうかも一切語ら
れない。 fableの中の悪役として,改心しないままでいると解するのが妥当かもしれない。
しかし,もはやそのようなことを詮索する必要はない。因果応報の理という教訓の提示が
なされたところでfableの使命は終わり,この物語はその幕を閉じるのである。
Ⅴ結び
"BJ"におけるfableの特質を考察しながら,その寓話的世界を見てきたわけである。
G. S. Haightが"BJ"を評して"It ["BJ"] is unique among Geroge Eliot's works in
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its complete lack of sympathy for any of the characters, even the idiot"と述べ
ているが,この作品をfableとして見れば, Haightが指摘した登場人物に対する共感の
欠如は何ら不思議ではない。 "BJ"において登場人物たちは, Eliotの他の作品に見られ
34
るような,作者のそして読者の共感を呼ばずにはおかない"the mysterious mixture
として複雑な人間性を付与されてはいないのである。登場人物たちは,すでに拙論
「 "Brother Jacob"請:その再評価の試み(1)」において指摘したように, 19世紀初頭の小
さな市場町に生きる商人たち(ただし, Freely-Davidは一面において大英帝国を担うヴィ
クトリア朝ブルジョアジーの姿になぞらえられ,彼の富裕化の過程は時代思潮のアレゴリー
という面も持っている)であったり,没落しつつある地方(小)地主階級やロマン派の詩
に夢中な夫人であったりという具合に地域性や時代性を反映した,現実的人物という一面
を持ちながらも,同時にその中の主要人物たちは本論でのappellationの分析が示すよう
に,時にあからさまな形容辞さえ冠せられたその姓名に示唆されている特性を概ね典型的
に表す人物という側面をもって, "BJ"における寓話的世界を作り上げているわけである。
つまり, Eliotは処世の教訓を説くfableにふさわしく,複雑な人間性をリアリスティッ
クな一種の典型へと還元し,かなり突き放した形で主要人物たちを描き出しながら,彼ら
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を中心に織り成される愚行の世界即ち寓話的世界を意匠を凝らして展開し,それを楽しん
でいるのである。 fableの目的は処世の教訓を説くことにあるが, fableの魅力はその教
訓の語られ方にある。本章の冒頭で引用したLa Fontaineの言葉を使えば, "Fable"の
部分こそ,そのfableが文学作品としてもつ,永続的な魅力と価値を大きく左右するもの
なのである。その観点から言えば, DavidとJacobが演ずる「人間の弄する策略の先見
のなさ」を例証する愚行をmain plotとしながら,彼らにからんでPalfrey
親子によって演じられる「甘言への服従」,「正当化されない仮定」,「恋の盲目」という愚行
がsubplot的に展開し,言わばfableの入れ子細工となっている巧みな構成及びそれら
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"Brother Jacob"における寓話的世界
の愚行の演出に際して用いられている巧妙なappellation,菓子類のシンボリズムと「不
釣り合いなカップル」のモティーフの応用という, Eliotが凝らした寓意的な意匠は巧緻
で秀逸なものである。これらに先述の時代思潮のアレゴリーとしてのFreely-Davidの
姿を付け加えるならば, "BJ"の奥深い寓話的世界の見取り図が完成することになろう。
36
fableとして見た場合, "BJ"は19世紀中葉に書かれた近代的なfableとして, Aesop
やLa Fontaineの伝統を踏まえながらも,それらの持っ簡明さ,素朴さに手を加え,Eliot
流に意匠が凝らされた,かなり読みごたえのある作品になっていると評価できるのではな
いだろうか。
ョ
1. La Fontaine, "Author's Preface,"La Fontaine's Fables, trans. Sir Edward Marsh,
Everyman's Library (London: J. M. Dent & Sons LTD, 1952), p. xiii.
2. G. H. Lewesも当時"The Fox Who Gets [sic] the Grapes"に基づくfableを書いてお
り, Peter Allan DaleはLewesとEliotが仲良くfableを書く競争をしていたのであろうと
推量している(Peter Allan I⊃ale, "George Eliot's `Brother Jacob': Fables and the
Physiology of Common Life,"Philological Quarterly, 64 [1985] ,p. 32, n. 10.)
3. George Eliot, "Brother Jacob, "Vol. W of The Writings of George Eliot (1907-1908;
rpt. NewYork: AMSPress),p. 327.以下, "BJ"からの引用はこの版による.
4. La Fontaine's Fables, p. xiii; "fable , Aesopic," Dictionary of WorldLiterature,
ed. Joseph T. Shipley, New Revised Edition (1953; rev. New Jersey: Little field,
Adams & C0., 1964).
5. J.S. Szirotnyは, Davidがfoxと結び付けられているのはLewesの"The Fox Who
Got [sic] the Grapes"によって示唆されたものであろうと考えている。なお, Szirotnyは
Davidのモデルとなり, "BJ"を生み出すもととなった事柄として, Eliotが1854年Weimar滞
在中,耳にしたWeimarの菓子商Miinderlohのことを指摘している(J.S. Szirotny, " Two
Confectioners the Reverse of Sweet: The Role of Metaphor in Determining
George Eliot's Use of Experience, " Studies inShortFiction, 21 (1984), pp. 127-33; p.
127, n. 2; p. 132, n. 16.)
6. Ad de Vries, "horse," Dictionary of Symbols and Imagery, revised ed. (1976; rpt.
Amsterdam: North-Holland Publishing Company, 1984), p. 259.なお,邦訳としてア
ト・ド・フリース, 『イメージ・シンボル事典』,山下主一郎他共訳(大修館書店, 1984)
を合わせて参照したo以下,同様0
7. de Vries, "horse, p. 260.
8. de Vries, "fox," p. 202.
9. "fable, Aesopic, Dictionary of World Literature.
10. de Vries, "tower," p. 471.
ll. J. C. Cooper, "Daisy, An Illustrated Encyclopaedia of Traditional Symbols
(1978; rpt. London: Thames and Hudson, 1982);加藤意市, "Daisy," 『英米文学植物
民俗誌』 (冨山房1976) , pp. 161, 165.
12.本稿におけるJonathan, David, Jacobの名前の分析は, Szirotnyの指摘に負うところが大
きい(See Szirotny, p. 129, n. 5)
98
13. "Jacob's staff," 1. OED ; Gertrude Jobes, "Jacob, Dictionary of Mythology
Folklore and Symbols (New York: Scarecrow, 1962), p. 859. Cf. Gen. 32: 10.
14. Davidが用いた偽名は,そこに込められた多義的でアイロニカルな`free'の意味ゆえに注目
に値する。まず。それは自由放任の経済原理に与するDavidの態度を示唆している姓である。そ
してまた,職業的に見て気前の良い菓子商を暗示する,いかにも子供やお客が気に入りそうな名
前("a generous-sounding name," p. 289)であるOしかし実際にはその姓とは裏腹に,びた
一文負けることのない商売人であって,その点から言えばFreelyという姓はアイロニカルでもあ
る。更に,彼は偽名を用いることによって,彼の過去及び肉親との秤から自由になったつもりで
いたわけであるが,父の遺産の獲得さらにはJacobとJonathanの出現による彼の過去の暴露
が示すように,結局Davidはそれらのものから自由にはなれなかったのであり,この点にもその
姓に込められた語り手-作者のアイロニーが窺えよう。
15. "Love and Folly," La Fontaine's Fables, pp. 302-303.
16. 「不釣り合いなカップル」に関しては,主として高橋達史・高橋裕子, 「不釣り合いなカッ
プル」 , 『is』第32号(ポーラ文化研究所1986), pp. 28-32を参照。
17. "January," Brewer's Dictionary of Phrase and Fable, 14th ed. (New York:
Harper & Row, 1989);大塚高信・高瀬省三共編『英語諺辞典』 (三省堂,1976), p. 441.
なお, 「不釣り合いなカップル」 (the ill-matched pair)のうち,老人と若い人のカップルは特
に文学のモティーフとしては通常"January and May"と称されている(Ren昌Wellek &
Austin Warren, The Theory of Literature, 3rd ed. [New York: Harcourt Brace
Jovanovich, 1977], p. 217.)
18.高橋達史・高橋裕子pp. 31-32.なお,この人間の金銭欲を風刺する「不釣り合いなカッ
プル」は,別名「金銭で買われた愛」 (mercenary love)とも言われる。
19. MiddlemarchにはChaucerからの引用によるepigraphが四つあるが,いずれも
The Canterbury Talesからのものであり(ただし, "The Merchant's Tale"からのものはな
い) , EliotはChaucerのこの作品によく馴染んでいたと推察される。また, Eliotと17世紀
オランダ,フランドル絵画との関係はよく指摘されるところであるが,美術館通いや本,友人等
を通してジョットーから19世紀中葉の写実主義者にいたるヨーロッパの絵画の歴史に精通してい
たと言われるEliotは,恐らく, 15-16世紀にドイツ,ネ-デルラントの画家たちによって愛好
された,この「不釣り合いなカップル」の図像を知っていたであろうと推察される(Cf. Hugh
Witemeyer, George Eliot and the Visual Arts [New Haven: Yale University Press,
1979], pp. 19, 23, 105-25.)
20. Jobes,"LEG," "LIPS."いみじくもDavidの素性が暴露された後,彼の「緑色のE]」と「わ
に足」は"a criminal aspect"(p. 326)を有するものとしてGrimworthの人々からうさん臭く
見られるようになっていく。
21. cherryは"merriment," "virginity"を表す(de Vries,"cherry.")
I. Othelloの場合, BrabantioやIagoのセリフ(Oth. I.hi. 96-98; II. i. 229-31)に窺えるよう
に, OthelloとDesdemonaの二人は国も違い,年齢も容貌も不釣り合いなものとして,いわゆ
る「不釣り合いなカップル」の典型となってはいるが,そのモティーフを使って描き出されてい
るのは,夫Othelloの悲劇的な苦悩である。これは悲劇にこのモティーフが用いられている例で
あり,当然のことながら風刺的,批判的要素の色堆い,Chaucer以来の伝統的なこのモティーフの
使われ方とも, Eliotのそれとも異なっている。
23. Szirotny, p. 133.
"Brother Jacob"における寓話的世界
99
24. de Vries, "rainbow," p. 380; Jobes,"RAIN," p.1319.
25.高階秀爾, 『想像力と幻想』 (青土社1986), pp. 74-75.
26. John Ruskin, Modern Painters, Everyman's Library (London: J. M. Dent &
C0., 1906), I,pp. 127-28, n. 1.
27. John Walker,解説, 『世界の巨匠シリーズ27 Turner』 ,千足伸行訳(1977; rpt.美術出
版社1989), pp. 60,61にウィリアム・ハズリットの言葉として引用されている。
28.高階秀爾p.70.
29.周知のごとく, 17世紀オランダ風俗画はEliotにとって大変馴染み深いものであったが,彼女が
主として注目しているのはそこに見られる日常生活の忠実なる描写という「稀で貴重な真実の特
質」 (Adam Bede, [1907-1908; rpt. New York: AMS Press, 1970], II, Ch. xvii; p. 173)
である。果たして時にそこに込められている道徳的内容をEliotがどこまで認識し,どのように
評価していたかについては,残念ながら今の筆者には詳らかではない。
30. main plotの愚行(the short-sightedness of human contrivance)は, 「放蕩息子」の
parable(Luke 15: ll-32)を連想させる。財産の分け前をもって遠い国へ行った「弟」は末っ
子のDavidに,父の家に留まる義人の「兄」 (フェデリコ・バルバロ訳の『聖書』 [講談社,1980]
における「ルカによる福音書」第15章第11節-32節の注を参照)は,長兄のhonest Jonathanの
姿にそれぞれ重なる側面を持ち,また, 「自分ひとりの遠見の叶わぬ判断」を至高のものとした
「弟」のエゴイズムの心(犬養道子, 『聖書の天地』 [新潮社,1981〕 pp.119, 122)は,まさに
Davidの心に通じるように思われる。しかし, 「弟」は放蕩の末,改心し再び父の家に帰還して
温かく迎え入れられるのに対し, Davidは西インド諸島から帰国後, Grimworthにおいて成功
を収め,他界した父親からは抜けE]なく遺産だけは譲り受けるのであるDavidは決して故郷の
親元に帰ることはなく,最終的に改心したかどうかも定かではない。長兄のJonathanと末っ子の
Davidに新たに白痴のJacobという兄弟を加えて,聖書のparableとはかなり結構を異にする
部分を含ませ, Eliot流に大幅に改訂された「放蕩息子」の話となっているのである。
31,高橋通史・高橋裕子p.32.
32. Pennyにおいて見られたイリュージョンに基づく恋,及び「不釣り合いなカップル」から「似
合いのカップル」への移行というモティーフは,後の大作Middlemarch (1871-72)のDorothea
において再び取り上げられ,そこでは,幻滅を通してのDorotheaの人間的成長が, Eliotの長
編小説に特有の洞察力に満ちた心理描写をもって描き出されている。
33. Gordon S. Haight, George Eliot : A Biography (Oxford : Oxford University Press,
1968) p. 340.
34. George Eliot, Middlemarch, A Norton Critical Edition (New York: W. W. Norton
& Company, 1977), "Prelude," p. xiii.
35.拙論, 「"Brother Jacob"請:その再評価の試み(1)上『兵庫教育大学研究紀要』第10巻(兵
庫教育大学1990) , pp. 111-21を参照。
36・ "BJ"の執筆は1860年8月Cornhill Magazineに掲載されたのが1864年7月である.
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The Fabular World in "Brother Jacob"
Hiroshi Oshima
It is true that the major characters in "Brother Jacob have more or less realistic
backgrounds but none of them are represented as the mysterious mixtures. As is
decidedly indicated in their appellations and epithets, they are reduced into certain
realistic types and contribute to the fabulosity of the story. In structure, "Brother
Jacob is telescopic. David and Jacob weave the main fable, into which the minor
ones about the Palfreys are ingeniously inlaid. The theme of the mam fable is
the short-sightedness of human contrivance, while those of the minor ones are the
folly of yielding to flattery, of unjustified presumption and "Love is blind."
Besides, in this telescopic fable we may recognize that not only the traditional
motif of the ill-matched pair, but also the symbolism of confectionery is tactfully
employed. In conclusion, these allegorical devices of the author's are elaborate and
in the light of the fable, we may estimate this long-neglected short story more
highly than before.
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