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フード・セキュリティと紛争 - 大阪大学グローバルコラボレーションセンター

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フード・セキュリティと紛争 - 大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOCOL ブックレット 07_ 表 1- 表 4
B
111122
book
pocket
有限会社ブックポケット
DIC 186
02
フード・セキュリティと紛争
ISBN:978-4-904609-07-1
ISSN:1883-602X
GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
07
フード・セキュリティと紛争
Conflict and Food Security
松野明久・中川 理[編]
GLOCOL ブックレット 07
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOBAL COLLABORATION CENTER
OSAKA UNIVERSITY
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOBAL COLLABORATION CENTER
OSAKA UNIVERSITY
GLOCOL ブックレット 07_ 表 2- 表 3
B
120106
book
pocket
有限会社ブックポケット
DIC 162
GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
GLOCOL ブックレットの創刊にさいして
「GLOCOL ブックレット」は、大阪大学グローバルコラボレーション
センター(以下、GLOCOL)が企画・実施している、教育、研究、実践の 3
領域にわたる活動の成果を大阪大学内外に知らしめるために創刊されま
した。2007 年 4 月に開設された GLOCOL は、大阪外国語大学との統合
BACK NUMBER
01
06
紛争後の国と社会における
人間の安全保障
Human security
in the Post-Conflict Period
もう一つの日本語で語る
多文化共生社会
栗本英世[編]
Easy Japanese as Communication Tool:Towards a New
Multiculturalism in Japan
2009.2.25 発行
宮原 曉[編]
後の新大阪大学における新たな教育理念を具現化するため、教育プログ
ラムの改革をおこなうことを第一の使命としています。
グローバル化のなかで、現代の世界は、紛争、貧困、文化の衝突、感染症、
02
環境破壊といったさまざまな問題に直面しています。経済的繁栄のなか
多様性・持続性:
サステイナビリティ学教育の挑戦
も、ナショナルな枠組みのなかで安住することはもはや困難になってい
Teaching Sustainability Studies
in Higher Education:
Challenge of Dealing with
Diversity of Sustainability”
で、他の国や地域の問題は「他人事」ですましてきた日本という国の住民
ます。現在の総合大学に課されているのは、こうした世界の状況を適切
に 理 解 し、そ の 改 善 や 解 決 に 向 け て 真 の「国 際 性」
(intercultural
communicability)をもって主体的に行動することのできる人材を養
成することであると考えます。この責務を実現するためには、従来の学
部・研究科の枠組みを超えた連携(コラボレーション)が必要です。連携
思沁夫[編]
2009.12.25 発行
のパートナーには、学外・国外の研究機関、開発援助機関や市民団体も含
03
とです。
食料と人間の安全保障
Food and Human Security
まれます。GLOCOL の役割は、こうした連携の媒介者兼牽引者となるこ
先端的な教育プラグラムの開発は、先端的な研究の裏打ちがあっては
じめて可能になるものです。GLOCOL が、
「人間の安全保障」と「多文化
共生」を二つの柱とする研究の推進に力点を置いているのはそのためで
す。また、GLOCOL における教育研究のプロジェクトは、現代世界の動
態と深く関連しているがゆえに、学生と教員の双方は必然的に「現実と
上田晶子
[編]
2010.3.25 発行
の か か わ り 方」の 模 索 を 求 め ら れ る こ と に な り ま す。そ れ ゆ え に、
GLOCOL が教育・研究・実践の「三位一体」をスローガンにしているの
です。
04
「GLOCOL ブックレット」は、シンポジウム、ワークショップ、研究プ
コンゴ民主共和国東部における
人間の安全保障の危機への理解
のさまざまな事業を報告するメディアです。皆様のご理解とご支援をお
Understanding Human Insecurity in
Eastern Democratic Republic of Congo
ロジェクト、教育プログラムの開発、実践とのかかわりなど、GLOCOL
願いするしだいです。
ヨハン・ポチエ[著]
Johan Pottier
2009 年 2 月
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOCOL ブックレット編集委員会
コミュニケーションツールとしての
「やさしい日本語」
2010.3.31
発行
05
ベトナムにおける
栄養と食の安全
Nutrition and Food Safety
in Modern Vietnam
住村 欣範[編]
2011.3.30
発行
2011.3.30
発行
GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
07
フード・セキュリティと紛争
Conflict and Food Security
松野明久・中川 理[編]
目次
序言
栗本英世
003
はじめに
松野明久
005
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
蓮井誠一郎
009
中川 理
027
意味のコンフリクト
フランスの農業近代化の経験から
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
東アフリカ牧畜社会の事例
湖中真哉
039
清末愛砂
053
松野明久
063
古沢希代子
079
木村真希子
095
占領下における水の使用権と農業問題
パレスチナ・ヨルダン渓谷を例にして
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
植民地化、紛争、
グローバリゼーションと食料問題
復興開発と国際援助
ARP(世銀/EC)
による東ティモール・カラウルン川灌漑復旧プロジェクト
先住民族の土地喪失と移民との紛争
インド北東部の移動耕作民の事例より
民族対立によるフードセキュリティの課題とその解決の模索をめぐって
バングラデシュ、
チッタゴン丘陵(Chittagong Hill Tracts)
の事例から
下澤 嶽
109
はじめに
はじめに
栗本英世
大阪大学大学院人間科学研究科教授
科学研究費補助金「フード・セキュリティの人類学的研究」研究代表者
このブックレット『フード・セキュリティと紛争』
は、科学研究費
補助金の交付を受けて 2010 年度から開始された研究プロジェク
ト、
「フード・セキュリティの人類学的研究」
(基盤研究 (A)、課題
番号 22242029)
の最初のまとまった成果である。
大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)で
は、その設立当初から
「多文化共生」
と
「人間の安全保障」
(human
の二つを研究課題の柱としてさまざまな研究プロジェクト
security)
を推進してきた。
「フード・セキュリティ」
は人間の安全保障と深く
関連している。それは、人間の安全保障を根源で支えているとと
もに、人間と自然との関係、食料の生産・流通・消費、市場経済
の浸透と生業経済、自由貿易と国民経済、健康と食品の安全と
いった多様かつ重要な問題群とかかわる包括的な研究課題であ
る。グローバル化する世界のなかでフード・セキュリティという課
題の重要性はますます高まりつつある。GLOCOLでは、フード・
セキュリティをテーマとする共同研究 2 件をすでに実施した。上
田晶子特任准教授を代表者とする「食糧の安全保障に関する学
際的研究:食糧確保のセイフティネットの事例の比較を中心に」
(2008 ~ 2009 年度)
と住村欣範准教授を代表者とする「ベトナム
における家庭果菜園を利用した栄養ケアとフード・セキュリティの
モデル構築のための共同研究」
(2008 ~ 2009 年度)
である。
研究プロジェクト「フード・セキュリティの人類学的研究」
(基盤
研究 (A))
は、これらの成果を受けて、2010 年度から開始された。
メンバーは、研究代表者である栗本、研究分担者である住村准
教授、上田特任准教授および思泌夫
(スチンフ)特任准教授の 3
名を中心とし、兼任教員をはじめ GLOCOL とさまざまなかたちで
関係のある国内外の研究協力者から構成されている。本プロジェ
クトが目指しているのは、グローバル、リージョナル、ナショナル、
ローカルという各レベルのからまり合いに注目しつつ、世界各地
フード・セキュリティと紛争
における人類学的フィールドワークと理論的研究、および開発研
究者と理科系研究者との連携を通じて、貧困概念を批判的に再
検討するとともに、フード・セキュリティに関する総合的な人類学
的研究をあらたに構築することである。
本ブックレットは、 本プロジェクトの 研 究 協力者であり、
GLOCOL 兼任教員でもある松野明久教授
(大阪大学大学院国際
公共政策研究科)を組織者として 2010 年 12 月 4 日に開催された
ワークショップ「フード・セキュリティと紛争」
の成果である。ワー
クショップの成果が GLOCOL ブックレットというかたちで公刊され
るのは喜ばしいことである。松野教授を含む 8 名の発表者・寄稿
者の皆さんに研究代表者として感謝申し上げたい。
「フード・セキュ
リティの人類学的研究」
が今後展開していくうえで、本書が指針と
なることを願っている。
本巻の構成について
本巻の構成について
松野明久
大阪大学大学院国際公共政策研究科
フード・セキュリティ(食料安全保障)は紛争とどう関係してい
るのであろうか。フード・セキュリティの悪化が紛争を引き起こし
たりするのであろうか。それとも紛争という状況こそがフード・セ
キュリティの不安定化の原因となっているのであろうか。
こうした問いかけから、大阪大学グローバルコラボレーション
センターの研究プロジェクト「フード・セキュリティの文化人類学
的研究」
(科研基盤 A:代表者 栗本英世)の一環として 2010 年 12
月 4 日、
「フード・セキュリティと紛争」と題するワークショップを
開催した。このブックレットはそのワークショップでの発表・討議
をもとに書かれた報告を集めたものである。
テーマの性格上、執筆者は文化人類学のみならず、国際政治学、
経済学、国際協力学、ジェンダー学など多様な分野から集まって
いる。また、考察の対象もグローバルな視野で気候変動と安全
保障を結びつける環境安全保障の理論から、フランス、東アフ
リカ、パレスチナ、ナガランド
(インド北東部)
、チッタゴン丘陵
(バ
ングラデシュ)
、東ティモールなどフィールドの事例検証に及んで
いる。これらの地域は、フランスを除けばいわゆる紛争地であっ
て、東ティモール以外ではまだ紛争は終わっていない。
ワークショップは、フード・セキュリティと紛争の関係を世界的
視野でかつ体系的に整理するというのではなくて、それぞれが持
ち場でつちかってきた問題意識や知見を出し合ってテーマに対す
る一定の展望を得ようという趣旨で行ったものである。したがっ
て、アプローチも対象地域もそれぞれである。しかしながら、こ
れらの一見異なる発表の中から、問題の輪郭がおぼろげならが
現れてきたように思う。
まず、蓮井氏は、環境安全保障をめぐる国際的な議論の現状
を整理し、フード・セキュリティをそれだけで論じることがいかに
狭い議論であるかを示している。気候変動に加え、水、土地、
フード・セキュリティと紛争
海洋、エネルギー資源など限りある環境をめぐる諸問題を包括
的に論じる必要がある。
次に、中川氏は、農業近代化が達成されたフランスでこれま
で追求されてきた生産至上主義の農業に対して生き方をも含意し
た「農民的農業」
のモデルを提示する新たな農民運動が生まれて
いることを紹介し、グローバリゼーションがもたらすコンフリクト
がフード・セキュリティの質への問いを導いている、そうした新た
なモデルに向けた実践がマクドナルド解体事件といった反グロー
バリズムの直接行動となっていると論じる。
さて、気候変動、資源の希少化、グローバリゼーションが食
料生産の安定性を損ねている、または食料生産の質を問うコンフ
リクトを生み出しているとすれば、以下のフィールドからの報告
は紛争がフード・セキュリティのあり方を歪めているさまを浮き彫
りにしている。
湖中氏は、東アフリカの事例を紹介しつつ、アフリカの紛争が
一般的にフード・セキュリティの悪化がその原因であるかのように
言われている中で、事実は逆であると論じる。政治家の野望が
紛争を引き起こし、それがフード・セキュリティを悪化させている
のである。
また、清末氏が論じる占領下にあるパレスチナのヨルダン渓
谷の状況は、政治的に抑圧された農業生産の最たる例であろう。
そうでなければ実り豊かな土地が、イスラエルによる土地の収用、
プランテーション農業の導入、農民の農園労働者への没落、自
作農の川・井戸
(農業用水)へのアクセス制限、輸出の管理・制限
などによって悲惨な状況に追い込まれている。
パレスチナほど知られていはいないかもしれないが、下澤氏が
紹介するバングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯のジュマの人たち
の状況、木村氏が紹介するインド北東部アッサム地方の状況も、
政策的移民の流入、近代的農業生産の導入、市場経済の浸透に
よって先住民族が土地や森林を喪失し、周縁化されている過程
を示してあまりある。先住民の周縁化が食料増産の名の下に行わ
れてきたのを皮肉と言わないで何と言おうか。
古沢氏と私が描いている東ティモールの状況はことなる断面
を切り取ってはいるが、東ティモールがおかれたポスト・コロニア
ルな食料生産・消費の状況を示しているという点で共通している。
ポルトガル植民地支配、インドネシア占領支配、そして国連暫定
本巻の構成について
行政を経て独立を果たした東ティモールであるが、それぞれの時
代の農業政策・食料政策の遺産を引き継いで今日にいたっている
のである。統治する側の論理・都合によって安定的食料生産は翻
弄され続けてきたと言える。
以上、今回のワークショップの成果から、フード・セキュリティ
と紛争の関係を考えるときには、調達されるものとしての食料の
安定供給ではなく、むしろ土地と水の基礎の上に食料を生み出
す農業の安定性、そして農業を営む人間の生活の安定性という
視点が重要であることが明らかになったように思う。それらの安
定性を損なうものが気候変動であり、グローバリゼーションであ
り、占領、抑圧、周縁化なのである。考えてみれば、気候変動
とて人間の営みの結果に他ならない。そういう意味ではフード・
セキュリティの問題とは、人間社会のあり方の問題であり、暴力
と不正義の問題であると言える。
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
気候変動が与える
世界の安全保障政策への
インパクト
蓮井誠一郎
茨城大学人文学部
1. はじめに
本文では、環境安全保障
(Environmental Security)
論から発展し
た気候安全保障
(Climate Security)
について論じる。これは、気候
変動を安全保障上の問題あるいは脅威としてもとらえようとする
考え方である。気候変動は人類全体が生存を依拠する自然環境
への脅威となるだけではなく、世界各地の政治的不安定の原因と
なり、ついには戦争の原因にまでなっていく、というのがこの議
論の主旨である。
この概念はしかし、たんなる新しいものの見方というだけでは
なく、欧米を中心に、政策を統合し新しい世界秩序を模索する
際のキーワードになりつつある。本文では、国連改革とからめて、
日本外交への政策提言も行う。
2. 気候安全保障論の現状
2.1 日本
日本において、気候安全保障についての議論が政策レベルで
本格的に始まったのは、2007 年 2 月の環境省中央環境審議会地
球環境部会の気候変動に関する国際戦略専門委員会の議論
(環
境省 2007a)からだといえる。委員会での議論でも指摘されてい
るが、2006 年 10 月のグレンイーグルズ対話における英国ベケット
外相の演説や、日本の若林環境大臣の演説で、次々と気候安全
保障が指摘されたことによって、国内でもこの概念を政策レベル
で用いる必要性が認識されるようになった。その結果、2007 年 5
月に報告書「気候安全保障
(Climate Security)
に関する報告」
(環境
省 2007d)
が作成された。その論旨は、下記の通りである。
10 フード・セキュリティと紛争
1)国連気候変動枠組み条約の交渉が進んでいない中で、気
候安全保障というとらえ方が主要国や国連で広がってい
る。
2)加速する気候変動とそれへの科学的理解の進展がみられ
る。
3)安全保障概念が拡大し、気候変動を脅威としてとらえら
れること。
4)日本の総合安全保障の概念は、気候安全保障を包摂でき
る。
5)地球公共財としての気候を守るための世界の一致協力し
た対応が必須。
6)気候安全保障概念を用いることで、政策の優先度を上げ、
途上国や主要排出国を巻き込んでの削減行動の義務化へ
の圧力を高められる。
7)政策としては、他国との連携、気候安全保障を中心にし
た人間の安全保障への貢献、現在の交渉の膠着状態を打
開、途上国の
「低炭素で成長する経済社会」
への転換促進、
脆弱な途上国への早めの適応策、などが求められる。
8)総合安全保障の理念を、気候変動問題に臨む姿勢として
用いる。
報告書は、上記のような観点から、気候安全保障という概念
を国内・国際社会で位置づけ、効果的に用いることを提言してい
る。しかしながら、その具体的な位置づけや、用い方についてま
では踏み込んでおらず、
「地球公共財としての気候」という日本の
洞爺湖サミットを見据えた外交上の位置づけ方を提唱している
のみである。その後の環境省内部では、記者会見や中央環境審
議会地球環境部会などの議論で言及されることは何度かあった
ものの、米国の 2007 年の気候安全保障法
(Climate Security Act)
、
あるいは 2009 年の米エネルギー・安全保障法
(American Clean
のような法政策としては打ち出されてこなかっ
Energy Security Act)
た。日本の諸法案にみられる唯一の言及は、2009 年 7月に自民
党が提出した「低炭素社会づくり推進基本法案」
の前文において、
わずかに「地球温暖化は、人類の存続の基盤を揺るがす安全保
障の問題であり、その防止は人類共通の課題である。
」という指
摘のみである。
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
11
なぜ日本では気候安全保障論は政治の主題になりにくいのか。
学術研究の立場から考えられる理由としては、欧米と日本におけ
る環境安全保障論への姿勢の違いである。欧米では環境安全保
障論の文脈で、すでに1980 年代から気候変動と安全保障には議
論の蓄積があった。80 年代末のトロント会議やブルントラント委
員会報告書 “Our Common Future”はその例で、今世紀に入ってか
らも、継続的に研究成果が発表されていた。しかし、日本国内
においては環境安全保障論についての研究は、その概念設定に
慎重な見解
(山田 1999; 太田 2001; 落合 2001)
も多く、研究全体
があまり活発化しなかった。現在に至るも、気候変動と安全保
障に関する国内の社会科学分野での学術研究は、あまり多くな
い。
2.2 米国
もともと米国では環境安全保障論の研究が盛んで、環境劣化
が紛争や政治的安定に影響するという考え方は定着していた。た
とえば、クリントン政権下で影響力を持ったトロント大学のホー
マーディクソン
(Homer-Dixon)のモデル図 1 は、90 年代を通じて
の研究の成果であったし、それは現在でも改良されて図 2 のよう
に展開されている。
前兆となる
概念的、
物理的要因
需要の増加
による枯渇
構造的枯渇
第一段階
での介入
集団の
アイデンティティを
めぐる紛争
移民、追放
供給の減少
による枯渇
社会的分裂
弱体化した制度
環境的枯渇
限定された
経済生産性、
エリートの
レントシーキング
暴動
第三段階
での介入
第二段階
での介入
枯渇の発生
クーデター
社会的影響
暴力紛争
図1:ホーマーディクソンの環境枯渇と暴力間の因果関係のコアモデル
(出典
:Homer-Dixon
134)
出典:Homer-Dixon, Thomas, 1999, Environment,
scarcity,
and violence,1999:
( Princeton,
NJ: Princeton University Press), p.134.
12 フード・セキュリティと紛争
貧弱な統治
自然災害の増加
社会的不平等
政治的不安定
不都合 な 気 候 変 動
社会的分裂
海面上昇
移民
経済活動での損害
食糧供給の不安定化
生計手段の減少
経済的不安定
不適切な対応
人口圧力
資源枯渇の増大
暴力組織化への
機会増大
移 民
図 2:起こりうる紛争にいたる道程
(出典:Buhan, Gleditsch, Theisen 2008: 14)
その米国は、ブッシュ政権下の 2006 年には動き始めた。軍事
系シンクタンク CNA コーポレーションでは、2006 年に退役した将
軍を集めて調査研究を開始し、2007 年に報告書を出版している
(http://www.cna.org/nationalsecurity/climate/)
。さらに 2007 年 1 月
のブッシュ大統領の一般教書演説では、初めて気候変動が取り
上げられていることや、いくつかの報告書などを見ると、米国で
気候安全保障の政策レベルの議論が本格的に始まったのは 2007
年だと考えることができる。
現在のオバマ政権は、エネルギーと気候安全保障についての
諸政策を着々と準備している。その重要な一面は、未曾有の金
融危機に対処するためのアメリカ復興再投資法でも 600 億ドル以
上の資金がクリーンエネルギーなどに投じられることになってい
ることである。2009 年 6 月16 日には、この計画を科学に裏打ち
されたものにすることになる、米国地球変動研究計画
(USGCRP)
からの「地球規模の気候変動の合衆国に対する影響」
と題された
報告書が発表された
(Karl, et al. 2009)
。同報告書は、温暖化の人
為性、米国内での気温上昇、豪雨の増加、降雪減少と早期の雪
解けによる河川流量の変化、海面上昇とその増大を指摘してい
る。それぞれについて、報告書は人的・社会的影響が重大なレベ
ルになると見積もっており、たとえば、シカゴでは 2055 年までに
熱波による死者数の予測が低排出シナリオでも1975 年と比べて 2
暴力を駆り立てる
動機の増大
武力紛争 の リ ス ク 増 大
悪しき隣人
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
13
倍
(約 400 人 / 年)
、高排出シナリオでは 4 倍
(約 800 人 / 年)
にもな
るとする
(Karl, et al. 2009: 90)
など、強い危機感を表す内容になっ
ている。そして報告書は、適応策だけではなく、クリーンエネル
ギーによる緩和策もまた重要であると主張しているが、この点は
オバマ政権の進めるグリーンニューディール政策を補強するよう
に機能している。
この報告書発表と平行して、2009 年 6 月 26 日、同政権は下院
で大規模で包括的かつ野心的な気候変動対策法案
「米クリーンエ
ネルギー・安全保障法案」
(H.R.2998)を可決させた。折からの金
融危機で、米国の国際競争力低下を懸念する議会の抵抗は根強
く、下院の可決後、上院での審議は 2011 年現在も止まったまま
である。だがもしこの法案が可決されれば、気候安全保障論に
とって、重大な意味を持つ。なぜなら、法案は気候変動への適
応に関する部分で下記のように明確に指摘しているためである。
(下線部筆者)
議会は、下記の評決を下す。
(1)地球規模の気候変動は、潜在的に、国家および地球
規模の安全保障上の脅威増幅要因であり、農業資源、植物
資源、海洋資源、水資源をめぐる競争や紛争を悪化させ、
開発途上国では人口移動、貧困、飢餓に結びつく可能性が
高い。
(中略)
(6)増大する貧困、経済社会の不安定化を含む地球規模
の気候変動の結果は、合衆国の国家安全保障、外交政策、
経済的利益にたいして、長期にわたる挑戦をもたらす可能性
が高い。
(7)気候変動の国際的な戦略的、社会的、政治的、文化
的、環境的、保健、経済的影響を認識し、対策を立て、緩
和すること、およびこれらの影響から立ち直る力を強化する
ために開発途上国を支援することは、合衆国の国家安全保
障、外交政策、そして経済的利益の範疇にある。
(H.R.2998,
Sec.491)
この法案が成立すれば、米国で初めて、国家政策レベルで気
候安全保障が制度化される契機となる。しかもそれは、オバマ
14 フード・セキュリティと紛争
政権の重要な政策軸として、今後の国際秩序の形成にも大きく
影響を及ぼすものになる。仮に成立しなかったとしても、オバマ
政権の気候変動に対するとらえ方を表現した象徴的文書として、
2007 年の気候安全保障法案と並び、重要な位置づけが可能であ
る。
民間レベルでの政策立案作業も加速している。オバマ政権と
非常に関係が深いと言われる
(Lozada 2009)
シンクタンクの CNAS
(Center for a New American Security)
は、2007 年に設立されてから
これまで、
「エネルギー安全保障と気候変動
(Energy Security and
プロジェクトから気候安全保障に関する報告書
Climate Change)」
を次々に出している
(たとえば Campbell 2008)
。CNAS は民間シン
クタンクではあるものの、その提言が持つオバマ政権への影響力
は無視できない。すでに前議長のミッシェル・フローノイ
(Michele
は、政策担当国防次官になっているし、2009 年 6 月には、
Flournoy)
CEO で共同設立者のカート・キャンベル
(Kurt Campbell)が、国務
次官補に就任することが発表され、彼は日本の岡田外相
(当時)
と沖縄問題などアジア太平洋の安全保障問題について密接な交
渉を行ってきた。
その後も CNAS は安全保障分野でますます積極的に活動を続
けており、2009 年 6 月になって、自然安全保障
(Natural Security)
と銘打ったプロジェクトを立ち上げた。CNAS の副所長のシャロ
ン・バーク
(Sharon Burke)
は、
「特にエネルギー、非燃料鉱物、水、
土地といった天然資源の消費は、地政学、そして諸国の安定に
影響しうる。同時に、気候変動や生物多様性の喪失といった、
これらの資源の高い消費率の結果もまた、地政学的な圧力や不
安定、災害をひきおこすかもしれない
(Burke 2009: 12)」
と主張し
ている。さらに結果としての気候変動は経済成長から社会的安定
までを脅かし、さらに人道危機を引き起こすこと
(Burke: 18)
、生
物多様性の喪失は、世界の 40%の紛争に関係する天然資源スト
レスを引き起こしうることを警告している
(Burke: 19)
。
バークは、自然安全保障を「究極的には、現代のグローバル
経済のための、十分で、信頼がおけ、適切な価格での、持続的
な天然資源の供給を意味する
(Burke: 9)
」
と定義している。そして、
報告書は既存の国家安全保障戦略などの米国の諸戦略に自然安
全保障の観点を取り込みつつ、諸官庁に現在欠けている自然安
全保障の観点からの監督と調整を提言している
(Burke: 20)
。
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
15
自然安全保障の概念は、これまでの気候安全保障の枠内の議
論を更に拡大し、再生可能・不可能資源の両方の消費のあり方
まで含む、かなり包括的な安全保障観を提示したものであるが、
それは言い換えれば、今後のオバマ政権は、気候安全保障とい
うキーワードをひとつの軸にして、安全保障・国防政策と経済・
エネルギー政策を統合していくという方向性、あるいはその可能
性が高いということである。
CNAS は、オバマ政権の米エネルギー・安全保障法案の頓挫
を受けて、いくつかの報告書も出している。そのひとつが、“Lost
in Translation: Closing the Gap Between Climate Science and National
Security Policy”と銘打った、2010 年 4 月の報告書である。報告書
では、現在の困難は気候変動科学と社会科学や政策立案との間
のコミュニケーション不足が原因とみており、表 1 のような提言を
して、これを解消すべきと主張している。
表1:CNAS による気候変動科学と社会科学の意思疎通円滑化のための提言
(2010 年 4 月)
・大統領は、気候変動と国家安全保障に関する省庁横断的な作業部会を設置すべき。
・国防総省は、国防科学理事会に気候変動と国家安全保障に関する恒久的な諮問機関を設置
すべき。
1)気 候 変 動 科 学 を 国
家安全保障政策に統合 ・国務省は、気候科学のアドバイザーを対外援助を含む、各地域局に任命すべき。
・学術界は、生物物理学者と社会科学者、政治学者に対して、気候変動が国家安全保障にど
う影響しうるのかを共同研究し、査読された論文を出版するインセンティブを、研究資金だ
けでなく、学術組織における昇進などもふくめて与えるべき。
2)国 家 安 全 保 障 研 究
を展開
・議会は、気候変動の国際的影響、なかでもその影響が最も先鋭化する地域に関する研究に
予算措置すべき
・国防総省は、連邦政府の資金で運営される諸研究所にすぐに実施できる提案をすべき
・議会は、気候安全保障の翻訳家集団を構築するために予算措置をすべき
3)気 候 安 全 保 障 の 翻
訳家集団に投資
・国防総省、教育省、国家情報局長官、国立科学財団は、自然科学者と社会科学者の縦割り
を解消すべき
・国防総省は、上級管理職
(SES)
レベルの政策決定者
(軍の将官クラス相当)
に、科学政策の
セミナーに参加し、科学技術政策をそのコアカリキュラムに含めるべき
(出典:Rogers and Gulledge 2010: 8-9.より筆者作成。
)
このように、気候変動を米国の主権と国家安全保障に関わる
問題とするとらえかたと、その観点から、気候変動を軸に、国内・
外交政策の統合をはかろうとするのが米国の気候安全保障論の
特徴であるといえる。
16 フード・セキュリティと紛争
2.3 欧州
気候安全保障という表現を政治的に使い始めたのは、欧州
である。英国ブレア政権当時のマーガレット・ベケット
(Margaret
Beckett)外相がこの用語をしばしば用いるようになったのがその
はじまりである。そして 2006 年 11 月の COP12 では、ベケット外
相だけでなく、日本の若林環境相らが気候変動は安全保障上の
脅威になると演説し、なかでも当時のアナン国連事務総長は「気
候変動は、あまりにも多くの人がいまだに信じているようなただ
の環境問題ではない。それはあらゆるものを包摂する脅威なの
だ。
(中略)
気候変動はまた、平和と安全への脅威でもある
(Annan
と演説した。この COP12 以降、国際社会では急激に気候
2006)」
変動を安全保障問題とするとらえ方が広がってきた。
そして 2007 年 4 月には、国連安保理議長でもあったベケット外
相のイニシアチブで、安保理で初めて気候変動問題が国際の平
和と安全への脅威になるとして公開討論の議題にされた。この討
議には理事国以外の 40 カ国もの国々が参加した。討議では、EU
や日本、島嶼国はイギリスの議論に賛成したが、G77+ 中国の途
上国グループが、このような議論は安保理の権限ではなく、総会
や経済社会理事会で行われるべきだと、手続き上の問題を指摘
する意見を表明し、米国が議論から距離をおく中で、南北の対立
構造が安保理でも鮮明になった。
しかし、この公開討論でイギリスと共に、気候安全保障論の
先導役を担っていた当時の欧州議会議長国だったドイツで、ドイ
ツ連邦政府気候変動諮問委員会
(WBGU)
は 2007 年になり、重要
な報告書「安全保障リスクとしての気候変動」
を作成した。250 頁
を超えるこの包括的な報告書は、図 3 にあるように、気候に誘発
される典型的な紛争原因を、水資源の劣化、食糧生産の減少、
嵐や洪水、人口移動の四つのタイプに分け、さらにそれらが世界
の特定の地域で組み合わさって、ホットスポットを形成すると予
測している
(WBGU 2008: 163)
。
さらに報告書は、これに対応するための国際的な政策の設定
も困難になると分析する。なぜなら、中国とインドの興隆に伴う
米国の力の低下により、単極から多極システムへと世界秩序が
移行することが想定され、そのような世界秩序の移行は、平和
裡に行われたことがこれまであまりなかったからである。もちろ
んそれは、大国同士の暴力紛争を意味するものではないが、そ
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
気候変動による洪水資源の劣化
気候変動による食料生産の減少
気候変動による嵐と洪水災害の増加
環境変化による移民の発生
17
危険性の高い地域
図 3:各地のホットスポットがつくる紛争の星座
(出典:WBGU 2008: 163)
の対立が、気候政策のための貴重な時間と資源を吸収してしまう
(WBGU 2008: 54)
。そして結果的に、緩和策が失敗すると、下記
のような 6 つの国際安全保障への脅威が醸成されてしまうことに
なる。
1)
気候変動の結果、脆弱な国家の数が増大する可能性。
2)
世界の経済開発へのリスク。
3)気候変動の主因となる諸国と、その影響を最も被る諸国
との間の負担の配分をめぐる対立増大のリスク。
4)人権とグローバル・ガバナンスの主体としての先進国の正
統性へのリスク。
5)
移民の誘発と増大。
6)伝統的安全保障政策の限界を超える脅威。
(WBGU 2008:
169-175)
これらの分析から、WBGU は、表 2 のような政策提言を行って
18 フード・セキュリティと紛争
表 2:気候変動による不安定化と紛争のリスクの緩和のための WBGU による 9 つのイニシアチブの概要
該当する政策領域
イニシアチブ
内容
多極世界のために協力できる環境づくりを進める
外交政策
・中国とインドの登場を米国とならぶ世界大国として建設的に運用
イニシアチブ1—グローバル ・強力な欧州外交の必要性
な政治的変革を形成する
・地政学的な変化についての世界会議開催という可能な選択肢
・気候変動を人類にとっての共通の脅威として認識
外交上の環境と
開発政策
イニシアチブ 2—国連改革
・現在の国連システムをより予防的で組織的なアプローチに適合させる
・安保理の役割と任務を真摯に検討する
・国連の環境政策分野における能力の強化
・世界開発環境理事会の設立
安全保障政策としての気候政策Ⅰ:危険な気候変動の回避による紛争予防
環境と外交政策
イニシアチブ 3—野心的な
国際気候政策の追求
・2℃の防止策を国際標準に
・京都議定書のさらなる展開
・
(米国を含む)
工業諸国に対する野心的な削減目標の適用と、新しく
工業化した開発途上国を統合する
・自然の炭素ストックの保全
・EU の主導的役割を強化
環境、エネルギー、 イニシアチブ 4—EU のエネ ・欧州エネルギー政策の改善と適用
経済、研究政策
ルギー体系の転換
・効率化革命の誘発
・再生可能エネルギーの拡大
・開発協力における分野横断的テーマとしての気候保護の確立
イニシアチブ 5—パートナー
環境、開発、研究、
・新興工業諸国
(とくに中国とインド)
との脱炭素パートナーシップの
シップを通じた緩和戦略の
経済政策
合意
開発
・G8+5 枠内での革新のための条約に合意
安全保障政策としての気候政策Ⅱ:適応戦略の実施による紛争予防
開発、研究政策
イニシアチブ 6—途上国へ
の適応戦略の支援
・工業諸国は途上国の気候の影響に対する適応と緩和を支援せねば
ならない
・優先順位は
(アフリカのような)
とくに危険にさらされる開発途上地
域のための特定の戦略の考案
・水危機の緩和
・農業セクターの気候変動への適合
・災害予防の強化
安全保障、
開発政策
イニシアチブ7—気候変動
によって更に脅威にさらさ
れる脆弱国家や弱小国家の
安定化
・弱小国家や脆弱国家の安定化をドイツ行動計画「市民の危機予防、
紛争解決と紛争後の平和構築」
により広く取り入れる
・OECD の対応の指針を指示し適用する
・
「全政府的な」
アプローチを環境方面にも拡張する
・国際的なフォーラムやネットワークを通じて弱小国家の市民社会の
潜在能力を高める
外交、国内、
開発政策
イニシアチブ 8—協力と国
際法のさらなる展開を通じ
て移民を管理する
・移民に関する包括的な国際戦略を開発する
・移民政策を開発援助に統合する
・環境移民を国際協力に含める
・国際法に環境移民の保護を正式に記す
・既存の保護レジームの弱体化を許容しない
・既存の難民レジームに追加的な手段を加える
開発、研究政策
イニシアチブ 9—地球規模
に情報と早期警戒システム
を拡大する
・すべての自然災害、疫病、技術論的リスク、地域的な気候変動とそ
の影響、環境問題についての情報を提供する包括的な地球規模の
早期警戒システムの開発を積極的に支持する
・全国と地方レベルでの早期警戒情報実施の向上
(出典:WBGU 2008: 193)
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
19
いる。
この提言は、国際的なパワーバランスの変化を前提に、気候
変動への対応を踏まえ、さらに途上国も巻き込んだ世界秩序を
構築し、それをもとに、適応と緩和の戦略を展開する、という包
括的シナリオになっている。
このように、欧州からの提言が日米での議論と比べて特徴的
なのは、気候安全保障を国内政策の統合よりも、世界秩序再編
成のキー概念にしようとしている点にある。蟹江はすでに 2007
年に「現在の気候変動対策を巡る国際的主導権争いは、気候安
全保障の国際秩序形成を巡る政治であると見るべき」
(蟹江 2007:
と正確に指摘しているが、まさにこのために、欧州からは非
219)
常に外向きの提言が目立っているのだ。
3. 気候安全保障論の含意〜新しい世界秩序
このように、気候安全保障がもたらすひとつの含意は、欧州
が志向するような世界秩序の再編である。
京都議定書の発効のためにロシアの加盟を促したのは欧州
だったように、欧州の気候安全保障に関する議論を特徴づけ
るのは、多国間の協調枠組みの優先的な模索である。2006 年
9 月の国連総会でのベケット英外相の演説がそのスタート地点
となった。2007 年 4 月の安保理での公開討論ではドイツなど
欧州諸国が英国の議論に賛同する演説を行っている
(S/PV.5663;
。このような議論を経て、最終的には失
S/PV.5663(Resumption 1))
敗するものの、2008 年 9 月に国連総会に気候変動と安全保障の
含意について決議案を提出したのは、旧英連邦の諸国と島嶼国
であり
(A/62/L.50)
、10 月にはこれに EU 各国が加わっている
(A/63/
。
L.8)
ドイツ WBGU の提言もまた、気候安全保障を軸にした世界秩
序を構築しようとしている動きの典型例である。その提言のイニ
シアチブ 2 の国連改革がその核心といえる。そこで提唱されてい
る中でも、世界開発環境理事会
(Council on Global Development
の設立は、非常に特徴的な提言である。
and Environment)
英国などが主導した安保理での気候安全保障についての議論
や、総会での決議の試みの結果をふまえてみれば、安保理改革
案として、気候変動をその権限に組み込むことは、拒否権をもつ
20 フード・セキュリティと紛争
中国や米国が積極的に賛成していない以上、容易ではない。求
められるのは、安保理が持つような違反者への法的強制力であ
る。であるならば、安保理以外に、安保理並みの権限を持った
「ハイレベル理事会」
を ECOSOC に代えて設置する、というのはひ
とつのアイデアである。WBGU はこのアイデアを、すでに 2005 年
の政策文書で下記のように示している。
WBGU は、国際システムにおける嘆かわしいほどの一貫性
の欠如を克服し、サステイナビリティに関する諸目標につい
ての法的強制力を向上するためには、国連システムにおいて
新たな指導的機関の設立しかないと考えている。経済社会
理事会
(ECOSOC)は、それが社会経済問題に焦点を合わせ
ていることと、真の権威の欠如のために、その役割を全う
できない。WBGU はしたがって、ECOSOC は世界開発環境理
事会に代替されるべきであり、その理事会は安保理と同じ
階層構造に設置されるべきであると提言する。
(WBGU 2005:
15)
これはかなり過激な改革案である。実際、2007 年版の報告書
では、これだけ大規模な改革は国連憲章の修正となり、それは
安保理の全常任理事国を含む総会の 3 分の 2 以上の賛成を必要
とするため、米中の賛同が得にくい近い将来にこれを達成する
のは困難であろう
(WBGU 2008: 197)と予測しており、したがっ
て長期的な目標として設定されている。しかし他方で、その実現
を目指し、より現実的な策として「開発、人道援助、環境の分野
における国連システムの一貫性に関するハイレベル・パネル」
の法
的強制力を強化して利用する方策を提案している
(WBGU 2008:
。
197-198)
このような提言とその課題をみるかぎり、新秩序の形成は容
易ではない。ただ欧米が中国とインドを巻き込むことに成功すれ
ば、状況は好転する可能性は高まる。2009 年の COP15、2010 年
の COP16 では、まさにその中国とインドをはじめとする G77+中
国と欧米の交渉が主題となったものの、日米でも気候変動に関す
る基本的な法案が可決されないなか、実りはほとんどなかった。
だが欧米は将来の外交交渉のための国内外の準備を求心力のあ
る気候安全保障をキーワードに着々と進めている。
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
21
4. 政策提言〜欧州との連携による国連改革
気候安全保障は、現在進行形の議論である。当然激しい論争
もある。環境政治においては、一方では自然安全保障のような
新しい展開も存在しているが、他方では気候変動についての懐
疑論や、古い経済の側からの抵抗も根強い。オバマ政権の米ク
リーンエネルギー・安全保障法の下院での可決は賛成 219 票、反
対 212 票、棄権 3 票という僅差であり、その後の上院での審議は
1 年以上も目立った動きがない。日本でも気候安全保障に言及し
た自民党からの「低炭素社会づくり推進基本法案」
は、民主党か
らの「地球温暖化対策基本法案」
とともに 2011 年末においても成
立していない。
学術研究分野においても、環境安全保障論は、その議論と同
じくらい長い歴史を持つ根強い批判にさらされ続けてきた。その
批判は、必ずしも伝統的な軍事的安全保障概念の擁護者からだ
けではなく、武力行使の機会増大を懸念する平和主義者たちか
らも主張されてきた。環境と安全保障を結びつけることによって、
環境問題に対して軍事力を用いることを正当化し、武力行使の可
能性を増大させる懸念が残る。日本の総合安全保障論において
もこの可能性についての議論はあった。
「大平総理の政策研究会」
の総合安全保障についての報告書にある
「軍事的な安全保障のた
めの手段が、軍事的なものに尽きることなく、総合的なものであ
るのと同様、非軍事的な安全保障のための手段も、非軍事的な
ものに限られることなく、総合的なものである。
(内閣官房
」
1980:
26-27)という指摘がその一例である。現在の米国をみても、前
述の CNAS の自然安全保障のような議論の展開をみると、現在米
国が推進している政策統合は、この先、資源戦争のような状況
を正当化し得るようにさえみえる。
このような批判や懸念をはらみつつも、欧米諸国がすでに気
候安全保障を軸にした政策統合と世界秩序の構築過程に入って
いるという事実は、日本外交にとって、無視できないものである。
では、この状況を考慮すると、日本は、この政治的キーワードを
めぐる国際政治で、どのような選択肢があるのだろうか。日本の
現状をみると、その数はあまり多くない事が分かる。
まず指針となるべき気候安全保障について、日本の環境省で
の議論や報告書では、日本の領域
(たとえば沖ノ鳥島とその排他
22 フード・セキュリティと紛争
的経済水域)や国民の生命、財産について、気候変動が大きな
悪影響を及ぼすことが指摘されている
(環境省 2007d: 14)
。だが、
報告書は、気候安全保障という言葉を使うことで、政策の優先
度を上げたり、対米
(あるいは対途上国の)国際交渉を有利に進
めたりすることに主な効用を求め、そこでの日本の外交能力向上
を目指している。それが重要であることは論を待たないが、欧州
のように気候安全保障概念を世界秩序形成のために多国間交渉
の枠組みの中でどう使うのか、あるいは米国のようにそれを使っ
て、国内の諸政策をどう統合するのかという議論を報告書では十
分していない。委員の一人から下記のようなきわめて適切な指摘
があったにもかかわらず、である。
要は、軍事的な国防の議論に押し流されることなく、気
候変動問題から派生する経済・社会・環境・文化的な価値
(守
るべきもの)に対する脅威に対して、企業や市民社会さらに
は一般消費者の積極的な参加を確保しつつ、どのような包
括的な対策が必要であり、この地球規模の問題にどのよう
な国際協力体制を形成していくのか、という議論になるよう
に「気候安全保障」
概念を日本が使いこなせるなら、この概
念は、日本にとっても世界にとっても、根本的な問題解決に
向けて有効であろう。
(環境省 2007c: 2)
そしてこの議論と政策が欠如する状態は、報告書作成から 4
年余が過ぎた現在も変わっていない。ここが気候安全保障にお
いて日本が抱える最大の問題であろう。外交あるいは政治の現
場では、気候安全保障という概念とその含意についての理解が
進まず、この言葉への評価はあまりよくなかったのかもしれない。
むしろ報告書の後、
「気候安全保障」
という言葉はあまり使われな
くなったようにさえみえる。また先述のように、もともと日本の
学術界では、環境と安全保障を結びつける議論に消極的な見解
が多かったことも指摘され得る。当然、欧米のように気候安全保
障というキーワードを比較的容易に受け入れられる素地としての
言説は政治分野でも学術分野でも十分に共有されていなかった。
問題状況の源泉は他にもある。2009 年 6 月に麻生政権が「野
心的」と自賛して打ち出した温室効果ガス 2005 年比 15%削減案
は、国際的には落胆をもって迎えられ、潘国連事務総長にも「も
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
23
う少し野心的に」と注文をつけられることになった
(朝日新聞
(朝
刊)2009/6/27: 11)
。これが示すのは、国内における根強い温暖
化懐疑論と古い経済界の影響力である。経団連などは 2009 年
3 月17 日の各紙への全面意見広告で、
「多額の国民負担額」を理
由に、大きな削減率の策定を牽制した
(日本経済団体連合会他
。気候安全保障のような概念もまた、対策に消極的な彼ら
2009)
の影響を受けたのかもしれない。皮肉にも専門委員会の審議の
過程で環境省の担当審議官が指摘した、国際交渉の場では気候
変動の影響が脅威ではない、気候変動対策が脅威なのだ、だか
ら、対策をいかにして回避するかと、回避行動が国益になってい
る
(環境省 2007b)
、という現象が、発言が指していた諸外国との
交渉の場ではなく、国内で起こったということであろう。
しかし、蟹江が報告書出版当時すでに指摘したとおり、
「国内
事情にとらわれるばかりに、気候安全保障を軸とした今後の国
際秩序形成に乗り遅れることが最も『国益』を損ねることになる
(蟹江 2007: 220)」
のが現実化しているのは明らかだ。もちろん、
国際情勢は容易ではない。2009 年コペンハーゲンでの COP15 で
は、ブッシュ政権末期で成果が期待されなかった COP14 と違い、
潘事務総長が言うところの「調印すること
(seal a deal)」
が目標に
なっており、その直前の 2009 年 9 月 22 日にはこのための準備会
合と位置づけられる国連本部での初めての「国連気候変動サミッ
ト」が開催されたにもかかわらず、その後の COP16 に至るも具体
的成果はなかった。日本では折しも政権交代後の民主党政権が
支持率低迷にあえぐ中、2011 年 3 月11日の東日本大震災とそれに
伴う東京電力福島第一原発事故により多数の原発が停止状態に
入り、短期的に火力発電量を増加させざるを得なかった。その結
果、当時の鳩山総理の 25%削減という数値目標はすでに求心力
を失いつつある。そんな中で、日本独自の気候変動に関する統合
された政策群を、外交成果が期待されている 2011 年の COP17 ま
でに準備するのは不可能だった。結局 COP17 では、日本が京都
議定書から離脱し、自主的な削減を行いながら 2020 年からの削
減枠組みにむけた国際的な取り組みを推進することで合意した。
しかし、すべての国が参加する枠組みへの合意には相当な時間
と、諸外国との確かな協調が必要になる。
であるならば、WBGU の提案するような国連改革案がドイツ
政府あるいは EU の方向性として出てきたならば、それを全面的
24 フード・セキュリティと紛争
に支持するのが残された日本の数少ない選択肢のひとつではな
いだろうか。
新しい世界開発環境理事会設置は当面容易ではないにしても、
そのための素地として、国連開発計画
(UNEP)の強化が掲げられ
ている。WBGU は特にその中長期的に安定した活動を可能にする
財政面での支援の必要性を強調している
(WBGU 2008: 196-197)
。
WBGU はまた、前述の「開発、人道援助、環境の分野における
国連システムの一貫性に関するハイレベル・パネル」の強化につ
いても、特に財政面での支援の必要を説いている
(WBGU 2008:
。この戦略の中に日本が活躍できる場があるのではない
197-198)
だろうか。もともと、UNDP などの国連機関には、現状の ECOSOC
に加え
「経済安全保障理事会」を設置したいという思惑は以前か
らある
(Haq 1995: 186-199)
。WBGU の提言を受け入れる受け皿は
国連内部にもあるのだ。
そこで、これらの提言を積極的に推進することを表明し、欧
米が急速に形成しつつある中国やインドを巻き込む世界秩序に、
国連の場を通じて参加していくことは、それができなかった場合
を考えれば、非常に大きな国益の確保となると考えられる。
かりに世界開発環境理事会が設立され、それまでの十分な支
援実績があれば、そこで日本は主要排出国としての消極的な立
場ではなく、新秩序の支援者という積極的な立場で重要な常任
理事国として参加することもできるかもしれない。その理事会は、
安保理並みの法的強制力をもちながら、一方で既存の安保理と
の棲み分けから、軍事力に関する権限はもたない可能性が高い。
日本の悲願である既存の安保理常任理事国入りが当面は絶望的
になる中で、憲法で軍事力の行使に制限がある日本が、国連で
国力に見合った貢献をできるのは、この理事会ではないだろうか。
ここならば、国民的理解も含めて参加はしやすいはずである。
そのためにも、
「温室効果ガスの大量排出という気候の汚染は、
地球公共財への侵害であり、それはすなわち、国際の平和と安
全への侵害行為である」
という気候安全保障の言説が加盟国間で
十分に共有されなければならない。
この遠大な目標に向けて、まず国内の政策を、アメリカのよう
に、気候安全保障、あるいはより広く環境安全保障を軸にして
再編統合していく必要がある。そのような安全保障論は、大平内
閣の総合安全保障以来、国内でも研究や政策的議論は欧米に比
気候変動が与える世界の安全保障政策へのインパクト
25
べれば少ないものの、一定の蓄積はある
(たとえば参議院 1992)
。
これらの資源を利用しつつ、強い政治的リーダーシップの下で関
係の各分野が協調すれば、既存の政策も含めた、一貫した政策
群の編成が可能になるはずだ。すでに欧米はその流れを作り出し
ている。日本がそれに乗り遅れるかどうか、ここ数年が正念場で
ある。
謝辞
本文の執筆に当たっては、GLOCOL より貴重な報告の機会と執筆
の機会をいただいた。ここにとくに記して心から感謝したい。また本
研究は、茨城大学の地球変動適応科学研究機関
(ICAS)の第 4 部門
の研究成果の一部である。
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1999
意味のコンフリクト
27
意味のコンフリクト
フランスの農業近代化の経験から
中川 理
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
1. はじめに
一般に、フード・セキュリティとコンフリクトの問題というとき、
地域における不十分な食料状況がコンフリクトをもたらすという
場合であったり、逆にコンフリクトが地域のフード・セキュリティ
を危機に陥れたりする場合を思い起こすだろう。しかし、本稿が
対象とするフランスの状況は、これらには当てはまらない。そも
そも、
「すべての人びとが、つねに、元気で健康な生活を営むた
めに、食事の必要性と食の好みを満たし、満足な量があり、安
全で、栄養のある食料に対して、物理的かつ経済的なアクセスを
もつこと」
(World Food Summit 1996)
という意味でのフード・セキュ
リティの問題は、フランスにおいてはとうの昔に解決されたとみ
なされている。それでは、フランスの文脈でフード・セキュリティ
とコンフリクトについて語るのはまったく不適切なのだろうか?
見方によってはそうではない。確かに、人びとが「十分な量の
安全で栄養ある食料」
を「いかにして」
安定的に確保するかという
問いはフランスにとって縁遠いものかもしれない。しかし、
「ど
のような」フード・セキュリティが望ましいのかという問いは、近
年しばしば議論され、対立する見解のあいだのコンフリクトを
生み出している。第二次世界大戦後のフランスの農業「近代化
(modernisation)」政策
(
「近代化」は当事者自身が改革のプロセス
を指して用いるローカルタームである。しかし、以下では煩雑さ
を避けるため括弧をはずして用いることとする。
)
は、非効率的な
小規模農民を排除してより効率化し産業化した農業生産を推進し
てきた。しかし、そのおかげで十分なフード・セキュリティが達成
された一方で、このような政策がもたらした社会や環境に対する
帰結は批判されるようになってきている。批判者たちは、支配的
なモデルとは異なる食料生産のモデルを構想し、実現しようと試
28 フード・セキュリティと紛争
みている。反主流派の農民組合である農民総同盟
(Confédération
Paysanne)が提唱する小規模農民による環境に配慮した「農民的
農業
(agriculture paysanne)」の概念は、そのような支配的なフー
ド・セキュリティ概念を批判するオルタナティブの一つである。こ
のように考えると、フード・セキュリティをめぐる複数の想像力の
絡み合いがもたらすコンフリクトが、問題として立ち上がってくる。
たんに食料の確保についての技術的問題ではなく、どのような社
会のあり方を望むのかというより全体的な想像力が対立の焦点と
なるのである。
この小論では、
「農民的農業」
というオルタナティブな想像力が
どのような歴史的コンテクストから発生してきたかを、フランス
における農業近代化政策と農民の近代化の経験についての簡潔
な検討を通して振り返る。そこから見えてくるのは、みずからが
積極的に関与して推し進めたプロセスの帰結に対する反省から、
もう一つの想像力が発生してくる姿である。ただし、本稿が示そ
うとするのはこのオルタナティブがよりすぐれているということで
はない。そうではなく、フード・セキュリティについて語るとき、
「ど
のような」
についての想像力をめぐるコンフリクトを考慮に入れる
必要があるということである1。
2. フランスにおける農業近代化
フランスにおける農業の近代化において、1960 年代を大きな
転換点と見ることができる。
ジェルヴェ
(Michel Gervais)
、
ジョリヴェ
(Marcel Jollivet)
、タヴェルニエ
(Yves Tavernier)が担当した『農村
フランスの歴史 4(
』Gervais, Jollivet, Tavernier 1977)
によると、1960
年と1962 年に定められた農業指針法
(loi d'orientation agricole)が
近代化の方向を強く決定したといえる。この法律は、農民の地
位向上を目指す農民組合の一部と、政府の目指す方向性の一致
によって可能になった。一方で、キリスト教農業青年団
(Jeunesse
agricole chrétienne = JAC)で育成された青年農業者全国センター
(Centre national des jeunes agriculteurs = CNJA)の活動家たちは、
1
筆者は現在、グローバル化と南フランスの農業の変容についての民族誌的
研究を進めている。本論はその一部であり、現在の状況を理解するための
歴史的コンテクストの解読を目的としている。第一次のフィールドワークの
データにもとづく分析は、別稿
(中川 近刊)
を参照のこと。
意味のコンフリクト
29
農民は農業以外の労働者と同等の地位を得るべきだと考え、そ
のためには大量の離農をともなう農業近代化が必要であると考え
るようになっていた 2。他方で、政府は農業の輸出産業としての
発展が必要であると考えていた。しかし、問題は「農民人口は二
倍も多すぎ、その大多数は時代遅れの方法で働いており、耕地
面積は不十分である」
(Gervais, Jollivet, Tavernier 1977: 636)
と考え
られることであった。
そこで、農業指針法のもとで、これらの問題を解決するための
全体的な構造改革が目指された。土地の集積を促進する仕組み
を作りだすと同時に、生産の機械化による効率化を推進し、新
しい農業技術の普及を行った。同時に、一定の基準を満たさな
いと有利な条件での銀行の融資を受けられないようにし、また
老齢の農民が土地を明け渡す代わりに生涯にわたって保証金を
受け取れるようにする離農終身手当
(IVG = indemnité viagère de
départ)によって、持続不可能とみなされた小規模農民の離農を
促進した。こうして、発展可能とみなされる一定規模以上の農民
を選別し、その生産技術の近代化を推し進めていった。
このプロセスの初期の段階においては、それを望む意志さえあ
ればすべての農民は近代化のプロセスに参加できるし、成功で
きるよう支援すると政府は保証していた。じっさい、初期の政策
は、夫婦を基本単位とする中規模の家族農家を近代化を担う単
位として考え、
土地の過剰な集積を抑制しようとしていた。しかし、
実際には、生存ぎりぎりの農民や老齢の農民が排除されたのち、
さらに適者生存のための拡大競争が継続していった。1963 年か
ら1988 年のあいだに全体の 56 パーセントにあたる130 万の農場
が消えた一方で、平均耕地面積は 1955 年の 15 ヘクタールから
1988 年には 28 ヘクタールに拡大した
(Moulin 1988: 234)
。
3. 近代化の経験をめぐって
このようなフランス独特の農業近代化の経験を、これまでの研
究はどのように評価してきただろうか。以下に検討する三つの研
2
この考えは、現状維持を望む全国農業経営者組合全国連盟
(La Fédération
nationale des syndicats d'exploitants agricoles = FNSEA)
の主流派とは異なって
いた。
30 フード・セキュリティと紛争
究を見ると、当初は進歩主義的な観点から肯定的に理解されて
いた近代化のはらむ複雑な帰結が、徐々に注目されるようになっ
てきたことが見て取れる。このプロセスの結果として、農民たち
は新しい問題に直面していることが意識されるようになってきた
のである。
アメリカの歴史学者ゴードン・ライト
(Gordon Wright)
は、1964
年の時点で、若い活動家たちと農業指針法がもたらした「フラン
ス農業革命」
の経験をきわめて肯定的にとらえていた
(ライト 1965
(1964)
)
。彼にとっては、農業革命はフランス農民の後進的な状
況からの脱却にほかならなかった。外部から隔絶された農村世
界をすぐれた価値とみなして維持していこうとする農本主義的な
態度によって、フランス農村の後進性は維持されてきた。それに
対して若い活動家たちは、近代化によって農民世界を全体社会に
統合しようとした。ライトは、この変化をなによりも心理的な革
命と評価する。
「革命、つまりフランス農村史にかつてない革命が
行われているのである。一九三〇年の農民はたいてい、技術や
一般的なものの見方の両面において、一九六三年の後継者たち
よりも、バルザク時代の先祖といっそう多くの共通点を持ってい
た。まさしく今日までの変革の本質は、物質的というよりは心理
的なものである」
(ライト 1965(1964): 230)
。現実の革命がどのよ
うになっていくのかは確かではなかったが、心理的な革命によっ
て農民はこれまでとは異なった存在となったとみなされる。
「フラ
ンスの農民は、その受動的消極的役割を脱却しており、また今後、
彼らは自分自身の将来およびフランスの将来の形成について発言
力をもつであろう、という点は少なくとも確信してよかろう」
(ライ
ト 1965(1964): 235)
。ライトは、このように伝統と近代、停滞と
進歩を切り分ける境界として現在進行形のプロセスをとらえた。
このような進歩主義的な近代化の見方に対して、フランスの農
村社会学者マンドゥラース
(Henri Mendras)は、1967 年に初版が
3
発行された著書『農民の終わり』
において、近代化に対してはる
かにアンビバレントな態度をとっている。ライトが従来の農民層
を端的に遅れた存在とみなしていたのに対して、マンドゥラース
は、非合理的に見える農民の行動はよく見れば一貫した独自の
論理を持っているととらえた。しかし、農業近代化はこのような
3
邦訳タイトルは『農民のゆくえ』
とされている。
意味のコンフリクト
31
農民の思考を大きく変革しようとしていた。この農民
(paysan)か
ら農業者
(agriculteur)
への変化は、マンドゥラースにとって肯定的
であると同時に不安を抱かせるものであった。
マンドゥラースは、これまでのフランスの農村社会をレッド
フィールド
(Robert Redfield)らの人類学的農民研究がいうような
「より広い全体社会のなかの相対的に自律的な一つの統一体」
(マ
ンドゥラース 1973 (1970): 8)
ととらえる。イギリスなどとはことな
り、フランスの農民社会は緩やかに変化しながらも持続してき
た。そこでは、
農業は経済学者が考えるような企業経営ではなく、
生活に埋め込まれた実践である。時間の面では労働と余暇を区
別できないし、仕事の面では労働組織と家族を区別することが
できない。家族経営の農家では、両者は不可分の実体だったか
らだ。したがって、農民のおこなう多くの判断は、経営者の観点
からよりも総合的な観点からなされることになる
(
「家族の利益、
安全、継続、子供の教育等についてまず考え、経済的原則をそ
れらに従属させなければならない」
(マンドゥラース 1973 (1970):
)
。経済学者が農民の選択を非合理と考えがちであるのは、
111)
このことを認識していないためである。
このような状況がよくあらわれているのが、アメリカ産のハイ
ブリッドとうもろこしの導入への抵抗である
(マンドゥラース 1973
。このとうもろこしに品種を変更すれば収量を 2
(1970): 127-164)
倍にすることができる。しかし同時に、品種変更に必要な投資の
結果
「借金の奴隷となる」
危険があり、新種の導入はコンサルタン
トへの知識の依存を生み出す。
それは、
農民がこれまでそれによっ
てたくみに安定的生存を確保してきた耕作の仕組みを破壊する危
険を冒し、彼らが誇りとする独立性を損なうものである。そのた
め、ハイブリッドとうもろこしは農村社会を破壊する背徳的なも
のとして非難された。つまり、ハイブリッドとうもろこしの導入に
はたんなる新しい作物の収益性という以上の、生活の選択が賭
けられている。
「農業者が単に問題は品種を変えることではなく、
伝統的・自給的農民経済か、市場目当ての大量生産かの基本的
選択に迫られていると感じるとき、彼は問題を正しく予感してい
るということだ」
(マンドゥラース 1973 (1970): 150)
。
しかし、マンドゥラースによると、技術的近代化による経済的
成功を志向する若い農業者との「社会のビジョン」
をめぐる戦いに
敗れて、農民独自の論理とモラルは失われつつあった。彼は次の
32 フード・セキュリティと紛争
ようにいう。
「今日の農民は、ますます、自分のもつ技術的手段と
期待できる収入に応じてあれこれの作目を選択する経済主体に
なりつつある。農業者は、土地、建物、機械、家畜、肥料、種
子に投資し、そして多くは、これらの投資の利益を期待して信用
の助けを借りる。経済学者や会計士がいう意味での経済計算が、
多くは、あとに分析を予定している紆余曲折を経て農業経営に浸
透する。もはや農業者は、
《よき家父長》
として農場を管理するこ
とに甘んじてはいられない。彼は、抜け目ない企業家としてやら
なければならない」
(マンドゥラース 1973(1970): 104)
。こうした、
外部の社会と質的に異ならない存在への農民の変容は避けられ
ないとマンドゥラースは考えるが、この変化に対する彼の視線は
不安をともなっている。次のような同書の結末にその不安はあら
われている。
「家族や経営そして村の取り壊された諸構造の上に
新しい社会を再建しつつ、彼らがみずから鳴らしているのは、フ
ランスで彼らの世代まで生きながらえることはないであろう農民
層への最後の弔鐘である。/こうした若い世代のゆえに、農民層
はおのずから消えてゆくであろう。/そして農民のいない世界は、
どのようになってゆくのであろうか。
(マンドゥラース
」
1973(1970):
。若い農業者と彼らの父親のほうが「彼らの父親が一八世紀
316)
とルネッサンスの、そしておそらくは古代のはるか遠い先祖と異
なっていた以上に」
(マンドゥラース 1973(1970): 312)
異なるという
ほどの急激な変化が何もをたらすのか不確実であると、彼は感じ
ていた。
マンドゥラースの不安は、農業近代化の帰結について 1960
年代 から継 続 的な調 査を行ったミシェル・サルモナ
(Michèle
においては現実の危機となってあらわれている
(Salmona
Salmona)
。彼女は、近代化政策の急速な進展が、農民に数字にあ
1994)
らわれない「人的コスト
(coûts humains)」
を払わせることによって
成立していると
「進歩のもたらす被害」
を批判している。
サルモナは、農民は近代化に参加するかどうかという選択にお
いて、農民たちがダブルバインド状況におかれていると指摘した。
つまり、近代化のゲームに参加して多大な借金と労働組織の変化、
それにともなう疲労やコンフリクトのリスクに身をさらすか、近代
化のための優遇措置としての補助金を拒否して経済的に困窮し
やがて消えていく運命を受け入れるかという、どちらも満足でき
ない選択肢から逃れられなくなる。長期の調査を通して彼女は、
意味のコンフリクト
33
生き残りのための「開発計画
(plan de développement)」
を受け入れ
た農民たちの多くが、そのためのコストとして精神的・肉体的健
康を損なう結果になっていると主張した。彼女の分析によると、
科学的で標準化された農業技術の普及による土着の経験的知識
の貧困化と、近代化のための労働組織の再編にともなう家族関
係の貧困化がこのような病理的状況に結びついている。計算にも
とづく農業技術の専門家による押し付けによって、農民は従来の
経験的なノウハウの価値を否定されて仕事の文化的意味づけを
見失ってしまう。また、近代化にともなう労働内容の急激な変容
(肉体労働は削減されるが経営管理上の新しい労働が増加する)
のしわ寄せが、父から息子へ、あるいは夫から妻へといき、その
ために家族内の関係が緊張しコンフリクトを生み出す。こうして、
消滅を拒否して進歩に賭けた農民たちも苦しみを抱え込むことに
なる、というのがサルモナの分析であった 4。
このように、プロセスが進行するにつれ、農業近代化にともな
う新たな問題が意識されるようになってきた。急激に農民の数
が減少する一方で、近代化に乗り出した農民たちは外部への依存
と不安定性を抱えていることが意識されるようになった。このよ
うな状況に対して、一部の農民たちは農業近代化のモデルその
ものの妥当性を問い直し、オルタナティブを模索するようになっ
ていった。
4. 近代化批判と農民的農業
近代化をめぐる農民たちじしんの省察は、ジャン=フィリッ
プ・マルタン
(Jean-Philippe Martin)
が「新しい農民左派
(la nouvelle
と呼ぶ流れを生みだした
(Martin 2000, 2005)
。
gauche paysanne)」
この流れは、近代化をかたちづくったモデルを批判して、それと
は異なる
「農民的農業」
を主張するようになった。
農業 近代化のためにまい進した青年農業 者 全国センター
(CNJA)の活動家の一部は、その結果が思ったものではなかった
4
サルモナは、このような状況に対して、リサーチ・アクション
(rechercheaction)
と彼女が呼ぶ方法で介入しようとした。それは、調査から見えてき
た問題について当事者自身が話し合える場を作ることで、表立って語られ
ることのない苦悩やコンフリクトを人びとが共有し、そこから新しい関係
や実践をかたちづくっていこうとする試みである。
34 フード・セキュリティと紛争
ことに失望した。近代化の恩恵を受けたのは少数だけであり、そ
の他の農民の地位向上はなかなか進まず、大量の離農が起こ
り、
「プロレタリア」の地位への転落への危機感をつねに拭い去
れなかった。彼らは政府の政策に批判を強め、CNJA の内部に農
民 - 労働者
(Paysans-Travailleurs)という反主流派グループを形成し
た。1980 年代に彼らは全国農民労働者組合総同盟
(Confédération
nationale des syndicats de travailleurs paysans (CNSTP))と 全 国 農
民 組 合 同 盟
(Fédération nationale des syndicats paysans (FNSP))
という組合を立ち上げ、両者が 1987 年に合併して農民総同盟
(Confédération paysanne)
が誕生した。
彼らの初期の主張にみられるマルクス主義的な性格は一般
に受け入れられなかったが、その後、彼らは「生産至上主義
(productivisme)」の批判的分析を発展させ、影響力を増していっ
た。農業が生産の効率化をひたすら追求した結果として、さまざ
まな社会的および環境的問題が生じたことを、彼らは問題とした。
競争の結果農民の数が急激に減少した一方で一部の工業化した
農業がどんどん巨大になっていくこと、生産過剰の問題を解決す
るために補助金つき輸出が推進されて第三世界の農業を破壊し
ていること、効率的生産の追及の結果として品質と安全をないが
しろにし、成長ホルモン問題や狂牛病といった環境問題を引き
起こしたことなどである。これらの諸問題を、彼らは近代化の弊
害として生産至上主義の名のもとに体系的に批判するようになっ
た。農民総同盟のリーダーであったフランソワ・デュフールは、の
ちに次のように指摘している。「
(農業近代化:引用者)
政策は確か
に成功したけど、どんな犠牲を払ったかを考えてくれ! 農業経
営は今でも国土の半分を占めているが、就農者は五十年前の十
分の一。同じ面積で、昔よりはるかに大量の耕作や飼育が行わ
れているが、農学的な知見や生物のリズムはことごとく無視。農
家の専門化に伴い地域単位の専門化も進行し、人口、経済、エ
コロジーの面で生まれた不均衡」
(ボヴェ、デュフール 2001: 84)
。
同じくリーダーの一人ジョゼ・ボヴェは工業化によるフード・セキュ
リティの行き過ぎた追及がこれらの問題を引き起こしたと分析し
ている。
「一九五七年以来の農業政策はもっぱら、十分な量の生
産と、低価格の食糧供給だけが目的だったと説明されている。
食糧の自給自足、欧州の食糧安全保障は、最も重要で正当な政
策目標だった。問題なのは、自給自足が達成されても政策が変
意味のコンフリクト
35
更されなかった点だよ。欧州レベルで自給自足を維持するのは良
いとしても、ひたすら増産して、国が販路を保証し、開拓し、生
産者を補助するなどという、行き過ぎた工業化は回避するべき
だったね」
(ボヴェ、デュフール 2001: 84)
。このように、農民総同
盟は農民の危機を生産至上主義モデルの失敗として理解しようと
した。
農民総同盟は、生産至上主義に代わるものとして「農民的農業
(agriculture paysanne)」のモデルを提示した。先に見たようにマ
ンドゥラースが古い農民
(paysan)
が消え農業者
(agriculteur)
になっ
ていくプロセスとして近代化を描いたのに対し、彼らはあえて「農
民的
(paysan)」という形容詞を用いることで、自分たちは単なる
食料生産者以上の役割を果たす存在であると思い出させようとす
る。しかし、彼らの提示するモデルは回顧的に古きよき時代の農
民像へと戻ろうとするのではない。そうではなくて、農民的農業
は未来の社会像の提案を目指して構想されている。彼らは、従
来の生産至上主義の問題を改善するためには農業は次のように
ならなくてはならないとする。
「
(農民的:引用者)
農業の責務は健
全で十分で多様で品質の良い食料を生産し、環境のバランスを保
全し、農村生活の維持に関与することである」
(Martin 2005: 217)
。
このように、農民は多元的な役割を果たす存在としてとらえなお
される。そして、この役割を果たすためには農民が数多く残って
いなくてはならず、そのためには雇用の維持、正当な収入、生産
の配分が必要であるとした。
のちに農民的農業の原則は憲章のかたちでまとめられた。十
原則は以下のとおりである。
(1)できるだけ多くの人が農業を営
んでいけるように、生産量を分配する。
(2)欧州全体や世界中の
農民と連帯する。
(3)自然を尊重する。
(4)豊富な資源を有効活
用し、希少な資源を節約する。
(5)農産物の購入、生産、加工、
販売において透明性を追求する。
(6)味覚と衛生面で食品の品質
を確保する。
(7)農業経営において最大限の自律性を確保する。
(8)農民以外の農村住民とのパートナーシップを模索する。
(9)
飼育する動物と栽培する作物の多様性を維持する。
(10)つねに
長期的な視野を持ち、グローバルに考察する
(ボヴェ、デュフー
ル 2001:241-246)
。十原則の第八項、第十項に見られるように、
農民的農業は、小規模農民が自分たちの利害を守ることだけを
目的とした主張ではない。地域の自然資源の保全や安全で安心
36 フード・セキュリティと紛争
な食といった問題について代案を提案することで、農民以外の市
民と共有できる社会のビジョンを提案しようとするものであった。
マルタンが言うように、
「農民総同盟のプロジェクトのもつ力は、
職業上の問題と社会全体の問題、地域的なものとグローバルな
ものを結び付けようとする意志、そして農民の仕事と農業の役割
を定義する価値は何かという地点から出発しようとする意志から
来ている」
(Martin 2005: 218-219)
。小規模農民の維持存続を、環
境の保全や食の安全といった一般市民にとっても重要な問題や、
第三世界との関係というグローバルな視点と結びつけることで、
農民的農業は支配的モデルに対するもう一つの可能な食料生産
の全体像を提示しようと試みた。
農民総同盟は長期的なビジョンを示すと同時に、具体的に実
現が可能であることを実践において示そうとしている。一方で、
彼らはメディアに取り上げられるようなイベントによって、生産
至上主義を批判して農民的農業のモデルを一般に知らせようと
した。1999 年の南フランスの町ミヨーのマクドナルド解体事件
とその後の裁判や、その直後のシアトルでの WTO 閣僚級会議
に対する抗議行動への参加は、広くマスメディアによって報道さ
れた。その結果、リーダーの一人ジョゼ・ボヴェはスターとなり、
農民的農業がより広く市民に知られるきっかけとなった 5。他方
で、彼らは農民的農業が単なる魅力的ではあるが実現不可能な
理想ではなく、いまここで変化を生み出していく実践のための指
標であると示そうとした。
「農民総同盟は、批判者たちが非難す
るようなマージナリティの罠を抜け出し、この選択が十分な収入
を生み出しまっとうに生きることを可能にすると示そうと望んだ」
(Martin 2005: 221)といえる。農民と市民の協力による直接販売
の仕組みの一つである「農民的農業維持のためのアソシエーショ
ン
(Associations pour le maintien de l'agriculture paysanne = AMAP)」
の急速な増加や 6、農民的農業の原則にしたがう生産者が集まる
「農民市場
(marché paysan)(写真)
」
の展開は、このような実験的
試みの代表的な例である。
これらの例が少数の農民の生活しか保障しない例外的試みに
すぎないのか、それともより一般化できるのかについては議論が
5
6
マクドナルド事件の顛末については拙稿
(中川 2010)
を参照のこと。
AMAP についてのより詳しい描写は拙稿
(中川 2010、近刊)
を参照のこと。
意味のコンフリクト
37
「農民市場」
の様子
されている。しかし、少なくともこれらは、過去半世紀以上にわ
たるフード・セキュリティの枠組みの正当性についての問題提起を
おこない、
「どのような」
フード・セキュリティのあり方を望むのか
についての再考を迫っているとは言えるだろう。
5. おわりに
本論を通してみてきたように、フランスにおいて問題とされコ
ンフリクトを引き起こしてきたのは、どのようなモデルにもとづい
て食料生産をするのかという点であった。農業近代化による食料
生産モデルの急激な変化は、農民たちに経済的混乱と同時に意
味の混乱をもたらした。新しいモデルの熱狂的な受容ののち、
いっ
たいこのモデルでよいのか、という疑問が生まれてきた。
「農民的
農業」
というオルタナティブなモデルは、この疑問に答えようとす
る試みの一つである。
しかし、意味の危機は解決されたわけではない。本論で問題
とした1960 年代以降の近代化のさらなる展開として、
スーパーマー
ケット・グループの統合再編を通した巨大化による流通システム
の再編や国外の農作物の輸入拡大を特徴とするグローバリゼー
ションは引き続き危機を引き起こしている。そのなかで、どのよ
うな枠組みで問題をとらえ、どのような食料生産モデルを構想す
38 フード・セキュリティと紛争
ればよいのかを人びとは模索し続けている。その試みは、多様で
不確かである
(中川 近刊)
。ある地域の生産と消費が別の地域の
生産と消費に密接に結びつくグローバル化した状況のなかでは、
フランス農民たちのこうした問題は、世界的なフード・セキュリティ
の問題と必然的に結びついていくだろう。
参考文献
中川理
近刊
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劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
39
劣悪な国家ガヴァナンス状況下での
フード・セキュリティとセキュリティ
東アフリカ牧畜社会の事例
湖中真哉
静岡県立大学国際関係学部
1. はじめに
サハラ以南アフリカは、紛争とフード・セキュリティの問題上、
重要な地域であるが、なかでも、東アフリカの牧畜社会は、こ
の問題が最も深刻な地域のひとつである。1980 年代中盤にこれ
らの地域を襲った深刻な旱魃以降、彼らの飢餓がグローバルな
関心の対象となり、国連食糧農業機構
(FAO)や国連世界食糧計
画
(WFP)等の国際機関を中心として食糧支援が継続的に実施さ
れてきた。また、東アフリカの牧畜社会では、とりわけこの地域
で国家間紛争が相次いだ1970 年代以降、自動小銃などの小型武
器が国境を越えて広範囲に拡散し、多くの地域で、紛争が常態
化している状況にある
(Mkutu 2008; 佐川 2010)
。
東アフリカの牧畜社会の紛争とフード・セキュリティの関係を
扱った言説によくみられるのは、飢餓が紛争を招くという見解で
ある。とりわけ、気候変動の影響を受けて乾燥化が進んだ結果、
旱魃が頻発するようになり、牧草や水等の稀少な資源をめぐって、
民族集団間での紛争が激化しているとしばしば主張される。例
えば、国連人道問題調整事務所
(UN-OCHA)
による文書では、気
候変動の問題と関連して「水やバイオマスのような稀少な資源や
牧草に対する圧力がアフリカの牧畜地域におけるほとんどの紛争
の引き金になってきた」
と主張されている
(UN-OCHA 2009: 3)
。ま
た、紛争や家畜略奪は、牧畜民の伝統文化に根ざしているとい
う言説もみられる。本稿では、こうした言説を前提として個別具
体例を検討するのではなく、ある個別具体例を検討することによ
りこうした言説の妥当性を検証し、紛争とフード・セキュリティの
関係について再考することを目的とする。
本稿では、東アフリカの牧畜社会である民族集団 A をおもな
40 フード・セキュリティと紛争
対象として、多大な被害をもたらしているにもかかわらず、報道・
報告例が少ないある紛争について報告する。とりわけ、劣悪な国
家ガヴァナンスのもとで、牧畜社会の地域住民がいかにセキュリ
ティを確保してきたのかに注目する。さらに、その紛争の分析に
基づいて、フード・セキュリティとセキュリティの関係について考
察を行う。なお、本稿では、民族名、国名については、仮名等
を用いて表記し、あえて明示しなかった。また、引用文献につい
ても、民族名が特定される可能性がある文献についてはあえて表
記しなかった。これは、本報告が、国家の劣悪なガヴァナンスに
苦しめられ、深刻な人権侵害を受けている人々を対象としており、
本報告が彼らに及ぼす影響に配慮する必要があると考えたから
である。
本稿はおもに 2004 年から 2009 年までに民族集団 A を対象とし
て実施した現地調査の成果に立脚している。事実関係について
は複数のインフォーマントに確認するなど最大限の注意を払った
が、紛争については情報が錯綜しており、本稿はあくまで予備的
報告であることをおことわりしておく。また、紛争によって民族集
団 A と敵対関係となった民族集団 B の側からの調査は実施する
ことができなかった。これは、筆者の紛争に関する現地調査が、
民族集団 A の人々との信頼関係によって可能となったからであり、
民族集団 B の人々との接触が、この信頼関係に悪影響を及ぼす
と判断されたからである。そのため、筆者の調査による情報が民
族集団 A の側に偏っている可能性がないとは言い切れないことを
おことわりしておく。
2. 東アフリカ牧畜社会におけるある紛争
2.1 紛争の概要
はじめに、本稿で扱う紛争の概要について報告する。この紛
争は、東アフリカの当該国において、2004 年以降発生し、多
大な被害をもたらした。被害についての統計は公表されていな
い。筆者が行った調査を累計すると、一連の紛争による死者の
総 数は 562 人を数える
(2010 年 9 月 30 日時点)
。略奪された家
畜総数は 3 万 6 千頭で、市場価格に換算すると、3 億 3 千 3 百万
円に相当する。この紛争によって発生した国内避難民
(Internallly
の数についてはいくつかの機関の推計があ
Displaced Persons: IDPs)
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
41
表1:紛争の主要経過
(民族集団 A 住民へのインタビューによる)
[ 推定 ] 時期
事件の内容
2004 年 4月
家畜市で民族集団 Aと民族集団 B が衝突。4人死亡
2004 年 4月
民族集団 B が民族集団 Aを襲撃。各地で家畜・トウモロコシ略
奪。民家に放火。
2004 年 8月
民族集団 B が郡警察長官を殺害。
2004 年 9月
民族集団 B が民族集団 A の牛群 6,000 頭を略奪。
2004 年10月
民族集団 B が民族集団 Aを襲撃。21人が死亡。
2005 年 4月
当該国政府の特殊部隊が駐屯。
2005 年 5月
民族集団 B が民族集団 Aを襲撃。26人が死亡。
2006 年 9月
民族集団 A が民族集団 B を襲撃。48人が死亡。
2008 年 9月
民族集団 B が民族集団 A の群集集落を襲撃。ウシ 2,000 頭を
略奪。
2009 年 9月
民族集団 B が民族集団 A24人を虐殺、牛群10,000 頭を略奪
しようとする。
るが、ある国際機関は 2006 年 10 月時点の国内避難民総数を 2 万
2 千人と推計している。
紛争は 2009 年末まで続いていたが、2010 年 3 月以降は、少な
くともいったんは終結している。筆者の調査では 82 件の個別紛
争例を記録した。表 1 はそのうちいくつかの紛争例を挙げたもの
である。紛争は 2004 年 4 月の家畜市での民族集団 A と民族集団
B の衝突を端緒とすると言われている。同じ頃、4 箇所で、民族
集団 B が民族集団 A を襲撃し、家畜やトウモロコシが略奪され、
民家が放火された。同年 8 月には、民族集団 B が郡警察長官を
殺害し、特殊部隊が出動した。2005 年 5 月には民族集団 B が民
族集団 A を襲撃した際に、26 人が死亡した。2006 年には、民
族集団 A が民族集団 B を襲撃して、48 人が死亡した。2009 年 9
月には民族集団 B が民族集団 A24 人を虐殺し、この事件は「虐殺
(massacre)」
として、当該国の日刊紙でも大きく報道された。この
紛争は、ほとんど報道されることがなく、ある国際機関の報告
でも、紛争についての情報が不足し、紛争によって発生した国内
避難民が無視されてきたことが指摘されている。
2.2 フード・セキュリティが紛争の主因なのか?
その数少ない報道例や報告例を見ると
「牛泥棒
(cattle rustlers)」
や「民族衝突
(ethnic clashes)」
、
「民族集団 A と民族集団 B の紛争
(conflict between the A and the B)」と言った表現が目立つ。つま
42 フード・セキュリティと紛争
り、この紛争は、伝統的な牧畜民の家畜略奪や民族紛争のひと
つとして捉えられてきたことが窺える。植民地期頃までの民族
集団 A は、確かに、家畜の略奪を頻繁に行っていた。しばしば、
民族集団 A の文化の特徴は、このような戦士文化にあると見な
されてきた。もうひとつの見方は、環境要因説である。2008 年
から 2009 年にかけて深刻な旱魃が当該国を襲ったため、その旱
魃のために稀少化した牧草や水などの資源をめぐって紛争が発生
した、という見解である。例えば、
「旱魃が殺人増加の引き金に:
飢饉の猛威のせいで稀少な資源をめぐり衝突」
と題された当該国
日刊紙の報道では、次のように述べられている。
「国連の機関は、国中に拡がった厳しい旱魃が、資源をめぐ
る紛争とそれに関連する死亡の原因である、と述べている。
牧畜民が直面する食糧の危険
(food insecurity)
は、牧畜民の
生活を、緊急事態への準備、計画、対応の中心に置いてこ
なかった失敗からくるものだ、と報告は述べている」
。
つまり、旱魃による環境の悪化がフード・インセキュリティをも
たらし、それを紛争の要因とみなす見解がとられている。また、
別の日刊紙報道では、次のように述べられている。
「
「当該国のコソヴォ」として知られるように、長い間、この
地域の民族集団 C、民族集団 B、民族集団 A の間で行われ
てきた強奪やウシ泥棒によるインセキュリティは、死、財の
破壊、数千もの人々の避難を導いてきた」
。
つまり、昔からの伝統的な民族間の家畜略奪行為が紛争の原
因と考えられている。また、それに続いて、その解決のためには、
若者がこうした犯罪行為に走らないように開発プロジェクトを推
進することが必要だと述べられている。
「指導者達は、若者が時間をもてあますことなく、犯罪行為
に走る余地をなくすための、一連の長期プロジェクトを導入
すべく、ワールド・ヴィジョンや当該国とアメリカの赤十字等
の NGO と協力してきた」
。
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
43
写真 1:焼き討ちにあった家屋
つぎに、こうした見解を検討してみることにしたい。まず、牛
泥棒・民族紛争説であるが、この紛争は、伝統的な牧畜民地域
住民の間での家畜の略奪とは、明らかに異なる側面をもっている。
第 1 に、伝統的な家畜略奪においては、人々は槍や弓で戦って
いたが、紛争では、自動小銃等の近代的な小型武器が大量に使
用されている。民族集団 B は西接する紛争国から、民族集団 A
は東接する紛争国から、それぞれ組織的に武器を調達している。
また、携帯電話が情報伝達の手段として用いられている。携帯
電話の利用によって、双方とも短期間に大量の戦闘員を召集する
ことが可能になり、組織的な偵察行為や戦闘方法も可能になっ
た。この紛争と伝統的な家畜略奪の間には、大きな断絶がある
と言わざるを得ない。
第 2 に、紛争が必ずしも家畜の略奪だけを目指しているわけで
はないことが挙げられる。民族集団 B は組織的な住居の焼き討
ちを行っている。写真 1 は焼き討ちにあった民族集団 A の家屋の
写真である。このような焼き討ちは、従来の牧畜民同士の紛争
においてはまったく見られなかった行為である。また、かつて両
民族が共住していたある地域において、民族集団 B は、家畜群
がいない集落で 22 人を虐殺したが、これは、襲撃の目的が家畜
だけでないことを窺わせる。こうした行為は、
家畜の略奪ではなく、
土地からの退出を促す意図をもって行われたと考えられる。つま
り、こうした実態をみると、この紛争は牧畜民の伝統に由来する
44 フード・セキュリティと紛争
家畜略奪とはほど遠いと言わねばならない。
また、この紛争はたんなる「民族紛争」としても理解できない
ように思われる。民族集団 A は東ナイル系、民族集団 B は南ナイ
ル系の言語を話す民族集団である。民族集団 B の居住地は、民
族集団 A の居住地の西に隣接している。しかし、2004 年に紛争
が発生するまで両者の関係は極めて良好で、紛争の歴史はなかっ
た。家畜の略奪もほとんどない状態で、両者の間での通婚もみ
られた。1996 年の民族集団 A と民族集団 D の衝突の際には、民
族集団 B が民族集団 A に援軍を送っていた程である。少なくとも、
民族同士の対立や家畜の略奪合戦が元々あり、それが激化した
ことが原因で紛争が起こったわけではない。
また、環境要因説による説明にも問題があるように思われる。
アフリカの牧畜社会に「コモンズの悲劇」仮説をそのまま当て嵌
めて理解することにについては、すでに批判が繰り広げられてい
る
(太田 1998)
。少なくとも、牧草や水等の稀少な資源をめぐっ
て民族集団 A と民族集団 B が争いを始めたわけではない。紛争
以前には、両者の領土はゆるやかな共有状態にあった。標高が
高い民族集団 A の領土で季節的な雨が降る7月から 8 月にかけて
は、牧草を求めて、民族集団 B が民族集団 A 方面に移動するこ
とが許容されていた。これと反対に、標高が低い民族集団 B の
領土で季節的な雨が降る10月から11月にかけては、
牧草を求めて、
民族集団 A が民族集団 B 方面に移動することが許容されていた。
つまり、
民族集団Aと民族集団Bは、
稀少化する資源をめぐって争っ
ていたのではなく、稀少化する資源をゆるやかに共有することに
よって、相互扶助の体系を創り上げていた。
ところが、2004 年に、あるヨーロッパ人が民族集団 A の地域
住民と話し合い、この地域の一画を策囲いにして観光客向けの
自然保護区を建設する計画を進めた。この計画は、民族集団 A
方面の放牧地の利用を期待する民族集団 B を刺激し、紛争をし
かける口実をつくってしまった。つまり、ゆるやかな共有状態に
あった土地を、保護区として固定化しようとしたことが、紛争の
発端をつくったと考えられる。それゆえ、この紛争を、伝統的な
牧畜民同士による家畜略奪合戦や民族紛争の一種と捉えるのは
適切ではなく、むしろ、放牧地の固定化を発端とする政治的紛
争として捉えなければならないと思われる。
さて、牛泥棒、民族紛争、環境要因ではないとしたら、紛争
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
45
の要因は何に求められるのだろうか。筆者による現地調査の結果、
民族集団 B のある国会議員が、地域の行政首長等を組織化して、
地域住民を先導し、紛争を引きおこしたことが判明した。この議
員は、資金と武器を提供して、民族集団 B の人々に紛争に行くよ
う命令した。彼は、紛争に勝利すれば、現在民族集団 A が暮ら
している土地の一部は民族集団 B の土地になるので、その土地を
民族集団 B の人々に配分すると約束したという。そして、略奪し
た家畜を売却した分け前の一部は、武器を提供したこの国会議
員のもとに行く仕組みになっていたそうである。こうした情報は、
民族集団 A が民族集団 B の捕虜を拷問して自白させることによっ
て得られた情報であり、たんなる噂話ではない。つまり、民族集
団 B の政治家と民衆の間に、いわゆるパトロン・クライアント・ネッ
トワーク
(武内 2009)
が形成されていたことが窺える。
2010 年 3 月に開催された和平会議では、この国会議員は、
「な
ぜ民族集団 A の土地は民族集団 B の土地だと言って民族集団 B を
先導したのか」
という質問に対して、
「選挙の際の票が欲しかった
からだ」と答えたという。この国会議員が、現在の民族集団 A の
土地を民族集団 B の土地にしようと呼びかけると、彼の政治的な
人気が上昇したそうである。これと反対に、平和的共存を主張す
る政治家は、弱腰政治家として人々に非難され、票を失った。つ
まり、権力を掌握するために民族的アイデンティティを利用する、
いわゆる「アイデンティティ・ポリティックス
(カルドー 2003)」が
行われたことが窺える。
こうした情報を総合すると、この紛争の要因は、極めて政治的
と言わねばならず、民族集団 B の国会議員が、パトロン・クライ
アント・ネットワークを形成して、アイデンティティ・ポリティック
スを行ったことにあると思われる。それゆえ、フード・インセキュ
リティの改善によって紛争の解決を目指す開発計画は、当を得た
ものとは思われない。なぜなら、紛争は、食糧に飢えた民衆や
暇をもてあました若者ではなく、政治家と政治家がつくあげてき
たこうした仕組みによってもたらされたからである。事実、虐殺
事件以降、その国会議員に国内治安大臣の圧力がかけられてか
ら、紛争は突然終結した。政治的な要因が消滅するや否や紛争
が終結したことは、紛争の主因が政治的なものであることを物
語っている。少なくとも、大多数の一般市民はもともと好戦的で
あったわけではなく、平和を望んでいたのである。和平会議では、
46 フード・セキュリティと紛争
写真 2:群集集落
すべてを免責にすることが合意されたので、当然、この政治家の
責任も問われなかった。つまり、この紛争の場合、メディアが報
じてきたような牛泥棒・民族紛争説や環境要因説は、政治的要
因を覆い隠し、一般市民に責任を転嫁する役割を果たしてきたと
いえる。こうした諸説はいわば政治的要因の隠れ蓑として機能し
たと思われ、紛争を引きおこした政治家にとっては好都合であっ
たと思われる。
3. 群集集落の形成と劣悪なガヴァナンス
つぎに、民族集団 A の国内避難民や地域住民がこの紛争に対
して、どのように対応してきたのかを検討する。紛争被害地の
民族集団 A は「群集集落
(clusterd settlement)」
を形成することで、
紛争に対応してきた。写真 2 は、紛争で形成されたある群集集
落であるが、地域住民自らが自衛のためにつくりあげた国内避難
民キャンプのような様相を呈している。表 2 は、この紛争で形成
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
表 2:紛争で形成された群集集落
(2008-2010 年民族集団 A
インフォーマントからの情報による)
群集集落
群集集落 A
推定戸数
推定人口 *
406
1624
47
された群集集落の一覧を示したものである。戸数は住民か
らの情報に基づくもので筆者による実測値ではない。推定
人口は筆者が調査した一般的な集落の一戸あたり平均人口
をもとに計算した。現在、筆者が確認した限りでは、おもな
群集集落 B
320
1,280
群集集落は 10 箇所に形成されており、合計約 6,700 人が群
群集集落 C
200
800
集集落で避難生活を送っている計算になる。民族集団 A の
群集集落 D
160
640
集落は、通常、10 数戸以下の規模で形成されているが、群
群集集落 E
130
520
群集集落 F
130
520
集集落の平均家屋数は 167.5 戸であり、群集集落ははるかに
群集集落 G
120
480
群集集落 H
100
400
群集集落 I
70
280
群集集落 J
39
156
1,675
6,700
合計
*この地域の平均的な世帯人口をもとに
推計
規模が大きい。完全に他地域に移住した人々を除き、紛争
時には、この地域の民族集団 A 住民は、ほとんどがこの群
集集落に移住しており、それ以外の場所で暮らしている人々
は、当時、ほとんどいなかった。群集集落は、高原の頂上
付近を中心に設置されており、それより西に居住している民
族集団 A はいない。つまり、群集集落は、その集落の存在
自体が、他者に対して民族集団 A の領土の範囲を明示する
役割を担っており、文字通り前線と言える。こうした群集集
落もまた日常的に襲撃されている。筆者が調査を行った 2009 年
8 月も現地は緊迫した情勢にあり、偵察者を威嚇するために深夜
に銃声が鳴り響いていた。写真 3 は群集集落が襲撃された際の
戦闘で、少年の脚に残る銃弾の跡である。
つぎに、このように、民族集団 A が群集集落を形成してきた
理由を考えてみたい。紛争地に暮らす民族集団 A の人々にとって、
牧畜はほぼ唯一の食糧確保のための生計手段である。民族集
写真 3:少年の脚に残る銃弾の跡
48 フード・セキュリティと紛争
写真 4:群集集落周辺の荒廃
団 A の人々は、広範囲に散在している牧草資源を利用するために
は、放牧地を分散させた方が好都合であり、牧畜生産のために
は、群集集落は適していないと考えている。つまり、群集集落は、
食糧確保の観点からは、決してよい居住方法とは言えない。群
集集落では、集住化による様々な問題も起こっている。衛生の悪
化により、コレラと思われる症状が集落内で発生しており、写真
4 のように、薪の過剰伐採のため集落周囲の樹木も枯渇しつつあ
る。こうして明らかに環境悪化を招くことが自明であるにも拘わ
らず、彼らが群集集落を形成するのは、国家の劣悪なガヴァナン
スと関係がある。
ある群集集落では、朝 5 時に襲撃があり、すぐに警察に携帯
電話で通報したら、警察が襲撃地点に到着したのは、翌日の 17
時だったそうである。警察署から集落までの距離は車で 1 時間ほ
どの距離である。警察は、車の燃料がなかったと言い訳をしたと
いう。民族集団 B も民族集団 A も、襲撃者は、最初に警察署に
立ち寄り、多額の賄賂を支払う。そして、襲撃の通報があっても、
来ないように警察に依頼する。ある群集集落では、銃弾の約半
分は警察から闇取引で購入している。警察は制服も売却している
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
49
ため、外見だけでは、警察と区別の付かない戦闘員もいる。つ
まり、民族集団 A や B の地域では、国家ガヴァナンスがあまりに
も劣悪であり、安全保障を国家に依存することができない状況
にある。
ただし、平和構築へ向けた政策が存在しないわけではない。
2009 年 12 月以降、当該国の警察と軍は、当該国の牧畜社会を
対象として、大規模な武装解除を実施した。日刊紙報道による
と、当該国首都で、没収した火器 2,500丁の焼却デモンストレー
ションも実施された。ところが、武装解除に際して、人権侵害が
発生していることが当該国の日刊紙でも報じられている。民族集
団 A のある群集集落では、武装解除と称して警察や軍が、無抵
抗の住民にいきなり暴力をふるい、1 人が死亡、11 人が重軽傷を
負い、6 人の少女が性的暴行を受けた。海外からの介入も始まっ
ている。米国国際開発庁
(USAID)
の支援によるピース・キャラバン
(peace caravan)
も地域住民の間を巡回しており、平和を啓蒙する
活動を行っている。ただし、このような平和構築活動における基
本認識は、紛争の主因を劣悪な国家ガヴァナンスではなく、地
域住民の好戦的な性質に求めている点において、的外れであると
言わざるを得ない。
以上のことから、
民族集団 A の人々が群集集落を編制したのは、
国家のガヴァナンスがあまりにも劣悪なため、警察や軍や平和構
築活動に安全保障を依存することができず、集団凝集力を高め
て、自衛する他なかったからであると考えられる。
4. おわりに : フード・セキュリティとセキュリティ
最後に、この紛争の分析を通じて、フード・セキュリティとセ
キュリティの関係について考えてみたい。紛争が発生した地域は、
比較的降雨に恵まれた高原地帯であり、民族集団 A の居住地の
中で最も農業開発が成功した地域であった。この地域の人々は、
積極的に農耕を受け容れてきた。おそらく、フード・セキュリティ
は、少なくとも、民族集団 A の土地の中で最も安定していたと
思われる。その比較的豊かな地域で激しい紛争が起こったのは、
民族集団間で稀少化した資源をめぐる争いが発生したからではな
く、民族集団 B の国会議員がパトロン・クライアント・ネットワー
クに基づいたアイデンティティ・ポリティックスを行ったからであ
50 フード・セキュリティと紛争
る。つまり、決して「フード・インセキュリティ」
が直接的に紛争を
引きおこしたわけではない。より乾燥した環境に暮らす民族集団
B の人々にしても、決して資源が稀少化したから市民が自主的に
民族集団 Aの居住地に攻め入ったわけではない。既に見たように、
降雨が不足した場合には、民族集団の居住範囲を越えて、放牧
地を利用することが許容されていた。そもそも、紛争が発生した
2004 年はとくに旱魃が激化した年ではなく、自然保護区の設立
計画を契機とした政治家の先導がなければ紛争は発生しなかっ
たと思われる。この地域で順調に進んでいた農業開発を阻んだ
のは、今回の紛争に他ならない。写真 5 は、紛争後、放棄され
た農作物の倉庫である。つまり、この紛争の場合には、フード・
インセキュリティが紛争を引きおこしたのではなく、政治的な紛
争がフード・インセキュリティ
を招く結果となったのであ
る。
また、
民族集団 Aの人々は、
集団の凝集力を高め、群集
集落を形成することで、紛
争に対応してきたことを報告
した。それは、国家のガヴァ
ナンスが劣悪で、安全保障
を全く期待できなかったこと
を背景としている。食糧確
保の観点から言えば、必ず
しも望ましくない凝集的な
居住方法を民族集団 A があ
えて選択したのは、国家が
写真 5:紛争後、放棄された農作物の倉庫
安全を保障してくれない以上、食糧確保以前に、住民自らの手
で団結してセキュリティを維持しなければ、生命の維持が困難で
あったからに他ならない。このように国家が国民の安全を守る責
任を果たせないばかりか、自国民の安全を脅かす根源となってい
る場合は、いわゆる「人間の安全保障」の課題に属するが
(人間
の安全保障委員会 2003: 10)
、この紛争の場合、紛争の存在自
体が知られておらず、よくある牧畜民同士の伝統的家畜略奪と誤
認されてきたため、国際社会からの超国家的な介入もほとんどな
かった。このように国家の安全保障も人間の安全保障も有効に
劣悪な国家ガヴァナンス状況下でのフード・セキュリティとセキュリティ
51
機能しない状況のもとで、地域住民は、凝集化して自衛すること
でセキュリティを維持する他なかったのである。
フード・セキュリティ概念の歴史的発展を辿ったマックスウェ
ル
(Maxwell 2001: 17-20)
は、フード・セキュリティの概念が「食糧
優先的視点
(food first perspective)」から「生計的視点
(livelihood
perspective)」に移行してきたことを指摘している。とりわけ、ア
フリカを飢饉が襲った 1984 年以降、
「生計の長期的レジリアンス
(long-term resilience of livelihoods)」
に視点は移行してきたという。
食糧優先的アプローチでは、脆弱性の解決手段は、それが獲得
される期間や条件に拘わらず、十分な食糧の問題ということにな
るが、持続可能な生計アプローチでは、それは「セキュリティ」
に
なる。生命や財産を脅かさるような状況にはないことは、持続可
能な生計を維持するうえでさらに基本的な与件となる。
一般的に言って、これまで、フード・セキュリティの問題と安全
保障という意味でのセキュリティの問題は、あまり関係づけられ
てこなかった。また、両者が関係づけられた場合でも、フード・
インセキュリティが紛争の要因を形成し、セキュリティを脅かす
という主張が多かったように思われる。そこでは、一般市民と食
糧獲得のための紛争が直接的に結びつけられる傾向があり、劣
悪な国家ガヴァナンスの問題が十分考慮されていないように思わ
れる。しかし、少なくとも本稿で扱った紛争の事例の検討から明
らかなのは、一般市民がフード・インセキュリティゆえに暴力に
訴えたのではなく、暴力の発生には、劣悪な国家ガヴァナンス状
況のもとで成長してきたいびつな政治権力が介在しているという
ことである。
いずれにせよ、国家ガヴァナンスがあまりに劣悪な場合、フー
ド・セキュリティ以前に、住民は住民自身の力でセキュリティを
まず確保しなければならない。生命の維持を優先しなければな
らない状況下では、食糧の確保すら後回しにならざるを得ない。
本稿で扱ったような劣悪な国家ガヴァナンス状況下にある社会で
は、とくに、フード・セキュリティの問題を、食糧獲得や農業生
産の問題のみならず、より幅広い意味での人間のセキュリティの
問題のひとつとして包括的に考えていく必要があるように思われ
る。
52 フード・セキュリティと紛争
謝辞
現地調査でお世話になった当該国・民族集団 A の国内避難民の皆
様には御協力いただいた。この研究は、筆者を研究代表者とする文
部科学省科学研究費補助金基盤研究
(B(
)海外学術調査)課題番号:
20401010 の助成を受けて行われた。本報告の内容は、2010 年 5 月
30 日に行った日本アフリカ学会第 47 回学術大会報告と一部重複して
いるが、
参加者の先生方には有益なコメントをいただいた。
また、
「フー
ド・セキュリティと紛争」
ワークショップにおいては、参加者の先生方
に有益なコメントをいただいた。以上の方々の御厚意と御協力に、
心より御礼申し上げる。
参考文献
カルドー M.(山本武彦・渡部正樹訳)
2003 『新戦争論─グローバル時代の組織的暴力』
東京:岩波書店。
Mkutu, Agade, Kennedy
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2008
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2003 『安全保障の今日的課題』
東京:朝日新聞社。
太田至
1998 「アフリカの牧畜民社会における開発援助と社会変容」
高村康雄・重
田眞義編著『アフリカ農業の諸問題』京都:京都大学学術出版会:
287-318。
佐川徹
2010 「アフリカ牧畜社会の小型武器と武装解除」
川端正久・武内進一・落
合雅彦
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京都:ミネルヴァ書
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University of Natal Press.
武内進一
2009 『現代アフリカの紛争と国家:ポストコロニアル家産制国家とルワン
ダ・ジェノサイド』
東京:明石書店。
UN-OCHA
(国際連合人道問題調整事務所)
Mitigating the Humanitarian Implication of Climate Change on Pastoral
2009
Areas in Central and East Africa. A UN OCHA & SDC Partnership with
Pastoralist Communities in Central & East Africa Planning Consultation
meeting Venue: Safari Club-Nairobi, January 27-28, 2009. UN-OCHA.
占領下における水の使用権と農業問題
53
占領下における
水の使用権と農業問題
パレスチナ・ヨルダン渓谷を例にして
清末愛砂
室蘭工業大学大学院工学研究科
1. はじめに—ヨルダン渓谷とは
パレスチナのヨルダン渓谷
(Jordan Valley。以下、渓谷)は、ヨ
ルダンとイスラエルの国境にあたるヨルダン川沿いに南北に広が
る約 2,400 平方キロメートルの地域を指しており、ヨ
ルダン川西岸地区
(West Bank。以下、西岸)の 28.5%
を占めている。海抜 380 メートルに位置することから、
ヨルダン川
(Jordan River)
のほかにも地下水や泉といっ
た豊かな水源と温暖な気候に恵まれ、パレスチナで
最も肥沃な土地として知られている。特に渓谷北部は
トマト、きゅうり、なす、ピーマン、とうもろこし、レ
バルダラ村の羊の放牧の様子
モン、オレンジ 1、ナツメヤシなどが実る、バルダラ
(Bardala)
、アイン・アル・ベイダ
(Ein Al-Beida)
、カルダ
ラ
(Kardala)
、ファリシーヤ
(Al-Farisiya)
、ズベイダット
(Zubeidat)
、ジフトリーク
(Jiftlik)などの緑豊かな農村
が点在している。
その一方、渓谷では、ナツメヤシ、オレンジやグレー
プフルーツなどのかんきつ類、バナナなどの大型のプ
ランテーションを目にすることがしばしばある。これ
は 1967 年の第三次中東戦争以降に渓谷を含む西岸に
建設されるようになったイスラエルの入植地の一部で
バルダラ村のナツメヤシの畑
1
地中海沿岸に位置するパレスチナでは、農民が代々、オレンジやレモンな
どのかんきつ類やオリーブを栽培しながら、生計をたててきた。1972 年に
ベイルートで
〈何者か〉
によって暗殺されたパレスチナ人作家ガッサーン・カ
ナファーニは、1948 年のイスラエルの建国の過程で故郷を追放されたパレ
スチナ難民の姿を描いた短編小説
「悲しいオレンジの実る土地」
(1958 年)
を
著したが、オレンジの実る土地とはまさしくパレスチナのことを指している。
54 フード・セキュリティと紛争
あるが、イスラエルの占領の歴史を理解することがなければ、パ
レスチナ人の農地であると錯覚する人も多いであろう。ましてや、
パレスチナ農民の土地が入植地建設のために大幅に接収されてい
るだけでなく、水へのアクセスが極端に制限されている
〈事実〉
を
知る人は少ない。
本稿では、渓谷における入植地問題とパレスチナ農民の水の
使用権に焦点をあてながら、イスラエルの占領下におけるフード・
セキュリティについて考えていくことにする。
2. イスラエルの戦略と渓谷
1967 年の第三次中東戦争の結果、東エルサレム 2 を含む西岸と
ガザはイスラエルの占領下に置かれた。
同年、イスラエルの労働党のイーガル・アーロンは占領後の西
岸の統治案を起草したが、そのなかには、渓谷をユデア砂漠と
ともにイスラエルに併合する案が盛り込まれていた。現在まで、
渓谷のイスラエルへの併合はなされていないものの、渓谷におけ
る占領政策、およびイスラエル側からの「和平」案は、基本的に
はアーロン・プラン
(Allon Plan)
を継承したものとなっている。
1993 年から1995 年にかけて、イスラエルとパレスチナ解放機構
(Palestine Liberation Organization: PLO)
との間で一連の
〈和平〉
合意
3
であるオスロ合意
(Oslo Accords)
が締結された。同合意は日本を
含む多くの国々で中東和平歓迎ムードとともに、好意的に評価さ
れたものの、文書のなかに「占領」
(occupation)
という単語は一切
含まれておらず、ガザ問題の専門家であるサラ・ロイが指摘する
ように、
「オスロ合意による和平プロセスとは、イスラエルによる
占領という構造の廃止を目指すものではありませんでした。それ
は、形こそ違えど、占領を維持し、さらに強化するためのもの」
2
3
イスラエル政府は 1967 年の占領当時から、東エルサレムを西エルサレムに
併合することを計画しており、実際に 1980 年に一方的併合がなされた。同
年、国連安全保障理事会は併合が国際法に抵触する旨を示した決議 476
号を採択した。しかしながら、イスラエル側からは、現在においても併合
を解除する気配は見られない。
1993 年 9 月のパレスチナ暫定自治に関する原則宣言
(Declaration of Principles
On Interim Self-Government Arrangements)
、1994 年 5 月のガザ・エリコ先行
自治協定
(Gaza-Jericho Agreement)
、および 1995 年 9 月のパレスチナ拡大
自治合意
(Interim Agreement on the West Bank and the Gaza Strip)
を指す。
占領下における水の使用権と農業問題
55
(サラ・ロイ2009:61)
であり、あくまでイスラエルの
占領を既成事実化するものにすぎなかった。その
結果、西岸は A 地区
(パレスチナ自治政府が行政権・
4
治安権を有している)
、B 地区
(パレスチナ自治政
府が行政権を、イスラエルが治安権を有している)
、
C 地区
(イスラエルが行政権・治安権を有している)
の三つの地域に分断された。このうちパレスチナ自
治区と呼ばれている地域は A 地区と B 地区をあわせ
たものであるが、西岸の 41%を占めるにすぎない。
残りはすべてイスラエルの完全な支配下にある C 地
区である。
さらには、2002 年以降、イスラエルが西岸内に
大幅に食い込む形で分離壁
(Separation Wall)
の建設
を始めたため、さらなるパレスチナ人の土地がイス
ラエル側に収用されるという事態が起きている。ま
た、西岸内にはパレスチナ人の移動を阻むためのイ
スラエル軍の検問所の設置および道路ブロックの
敷設、イスラエルの都市へと続くイスラエル人専用
著作者:現代企画室『占領ノート』
編集班/遠山なぎ
/パレスチナ情報センター
道路の建設 5 等により、パレスチナ住民は小さくブ
ロック化された飛び地のなかで生活することを余
儀なくされている。
2000 年 5 月、イスラエルは東エルサレムを含む西岸の 25%を占
める土地をイスラエルに併合し、14%を占める土地をイスラエル
が暫定支配するという案を示した。同案は、1967 年のアーロン・
プランをより具体化させたことから、アーロン・プラス・マップ
(Allon
と呼ばれている。その暫定支配地域には、渓谷一体お
Plus Map)
よび西岸南部のグリーンライン 6 周辺の土地
(両地区をあわせると
4
5
6
パレスチナ自治政府が治安権を有しているものの、A 地区内でイスラエル
人がパレスチナ人に対し、暴行等の何らかの犯罪をおかした場合、イスラ
エル人を容疑者として逮捕する権利はない。
西岸内のイスラエル人専用道路をパレスチナ自治区のナンバープレートをつ
けた車が通ることができないわけではないが、イスラエル軍の検問所で長
時間待たされることがしばしばある。また、この道路を使わせないように
するために、パレスチナ人専用道路が日本を含む各国の援助で建設されて
おり、このために近距離の街に行くときですら、大幅な迂回を強いられる
ことがある。
第一次中東戦争の停戦ライン。1967 年にイスラエルの占領下に置かれた西
岸とガザの両地区とイスラエルとの境界線を指している。
56 フード・セキュリティと紛争
西岸の 14%を占める)が含まれていた。同プランは、あくまで東
エルサレムを首都に、西岸とガザから構成されるパレスチナ国家
の樹立 7 を主張しているパレスチナ側にとっては、受け入れがたい
ものであった。
続く同年 12 月には、イスラエル側から西岸の土地の 10%をイ
スラエル側に併合し、その他 10%の土地をイスラエルの暫定支
配下に置くという新しい案が提案された。それは、暫定支配地
域として、渓谷を含むヨルダン川および死海沿いの国境地帯が含
まれたものであった。その翌月の 2011 年 1 月に、タバ交渉
(Taba
と呼ばれる
〈和平〉
交渉が行われた。本交渉においては、
Summit)
これまでイスラエル側から出された条件のなかではパレスチナ側
の主張に最も近い、渓谷を含む西岸の 95%をパレスチナ側に返
還する案が提示された。しかし、イスラエルの総選挙前に交渉
が中断し、さらには総選挙の結果、アリエル・シャローン
(Ariel
率いる右派政党リクード党
(Likud)の勝利により、交渉は
Sharon)
中止された。
以上の歴史的な経過をみていくと、1967 年以降の占領政策に
おいて、渓谷はイスラエルが併合ないしは暫定支配下―すなわ
ち実質的な占領の継続―に置いておきたい地域として位置づけ
られてきたことがわかる。渓谷は豊かな水資源にともなう農業地
としての発展性を有し、さらにはヨルダンとの国境沿いにあるこ
とから安全保障および輸出入等の経済の観点においても、イスラ
エルにとって手放すことができない占領地となっている。実際に、
オスロ体制下で渓谷は、A 地区 85 平方キロメートル
(ジェリコ
[Jericho]、アル・ウジャ [Al-Uja])
、B 地区 50 平方キロメートル
(アイ
ン・アル・ベイダ、バルダラ、ズベイダット等)
、C 地区 2,265 平方
キロメートル
(イスラエルの入植地、国境線、イスラエル軍の基地、
自然保護地域、アル・マーレ [Al-Maleh] やジフトリークなどのベド
ウィン・コミュニティやパレスチナ住民の村を含む)に分断されて
いる
(MA'AN Development Center & The Grassroots Palestinian Anti。すなわち渓谷の約 95%がイス
Apartheid Wall Campaign 2007: 3)
7
東エルサレムを含む西岸とガザは、1948 年に終了したイギリス委任統治時
代の 25%の土地を占めるにすぎない。パレスチナ側としてはこれ以上の併
合は妥協しがたい。また、難民の帰還権に関しては、1948 年 9 月と12 月に
採択された国連総会決議 194 号によって国際的には認められているものの、
「ユダヤ人」
国家を標榜するイスラエル側は一切認めようとしない。
占領下における水の使用権と農業問題
57
ラエルの完全支配下に置かれ、C 地区在住のパレスチナ住民は
A 地区や B 地区の住民と比較すると、より過酷な占領政策によっ
て日々の生活の一秒一秒が翻弄されているといっても過言ではな
い。
3. 入植地経済とパレスチナ農民
第 4 ジュネーヴ条約
(文民保護条約、Convention relative to the
第 49 条は、
「占領国は、
Protection of Civilian Persons in Time of War)
その占領している地域へ自国の文民の一部を追放し、又は移送
してはならない」ことを規定しているが、同条約の締約国である
イスラエルは、1967 年の占領以降、占領地内にイスラエル人のた
めの入植地の建設を始めた。渓谷もその例外ではなく、1968 年
に最初の 3 つの入植地
(メホラ [Mehola]、アルガマン [Argaman]、
カリア [Kalia])が建設された。当初は軍事目的であったものの、
1970 年代から1980 年代にかけては、農業、産業、宗教および
軍事を目的として渓谷内での入植地の建設が急速に進み
(MA'AN
、
Development Center & Jordan Valley Popular Committees (1) 2010: 4)
2005 年にガザからイスラエルが「一方的撤退」
(イスラエルとの境
界線のみならず、制海権・制空権ともにイスラエルに掌握されて
いるため、実質的には占領が続い
ていると解するべきである)
をした
が、その際にもガザの入植者の一
部が渓谷に移動している。現在で
は、
2008年にイスラエル政府によっ
て承認されたマスキオット入植地
を含む 37 か所の入植地が渓谷の
半分強の面積を占める1,200 キロ
平方メートルを占拠しており、パレ
スチナ住民は入植地と入植地の間
渓谷北部のメホラ入植地
に残された土地に押し込められる
かのように暮らしている。
渓谷における入植地経済は、パレスチナ人から収用した広大
な土地を用いて行なわれている大規模農業によって成り立ってい
る。具体的には、入植地の農地で栽培されたナツメヤシ、ハー
ブ、トマト、グレープフルーツ、バナナ等の農産物を、主にはヨー
58 フード・セキュリティと紛争
ロッパの市場に輸入することで利益を得ている。EU のなかで最
も大きな市場をイスラエルに提供しているのは、ドイツ
(21%)
、
イギリス
(18 %)
、オランダとイタリア
(ともに 11%)およびフラ
ンス
(10 %)で あ る
(Jordan Valley
。これらの国々
Solidarity 2008: 1)
の市場で販売されている農産物等
のイスラエル製品には、上述した
ように第 4 ジュネーヴ条約に抵触
する入植地のなかで生産された輸
出品が含まれているのである。し
かし、実際に販売されるときには
産出国名として「イスラエル」との
み書かれるため、製品が入植地産
であるのかどうかを見分けること
アイン・アル・ベイダ村周辺の入植地のナツメヤシのプランテーション
は難しい。
渓 谷 に 在 住 して い る 入 植 者 の 数 は、 約 9,400 人
(MA'AN
と少数であるため、入植地内の農地
Development Center 2010: 4)
には数多くのパレスチナ農民が安い労働力として導入されている。
これらの農民は、渓谷内で代々農業を受け継いできた家族の出
身者が多いが、占領政策によって土地を収用され、さらには後
述するように、水の大幅な使用制限を受けているため、自作農と
して生計を立てることができなくなった者たちである。なかには、
アイン・アル・ベイダ村のように、居住している村の住人の所有地
であった土地が収用され、入植地の農地となったため、そこに毎
アイン・アル・ベイダ村周辺の入植
地の農地
(元々は同村の敷地内の農
地)
で働くパレスチナ農民たち
占領下における水の使用権と農業問題
59
朝、働きに出かける農民も数多くいる。同村の村長によると、今
では村の 50%の人口が入植地での農作業に従事しているという。
これらの労働者の賃金は、イスラエルの最低賃金を下回ってお
り、朝 6 時から夜 9 時まで働いても一日あたり2,400 円ほどの稼
ぎにしかならない。また、労災等の社会保障の権利も保障されて
いないため、たとえ仕事中に負傷しようとも、あるいは負傷によ
り後遺症が残ろうとも、医療費や後遺障害年金等が支払われる
わけではない。入植地での農作業を始める際に、
「労働中に負傷
しても、その医療費は一切請求しません」とする旨の文書に署名
させられている場合もある。
4. 渓谷における水問題:大幅な使用制限
1967 年の占領以降、イスラエルの占領当局は渓谷における水
資源の使用権を手中におさめ、入植者には豊富な水の使用を認
めてきた一方、パレスチナ人に対しては使用できる井戸の指定の
みならず、井戸の堀削の深さ、一日あたりに認められる水の使用
量を決める等、水資源へのアクセスを大幅に制限している。その
結果、入植者の 5 倍以上もの人口を有する渓谷のパレスチナ人
(約
52,000 人)は、渓谷の水資源の 40%、ないしは年間あたりわず
か約580億リットル分の使用が許可されているにすぎない
(MA'AN
Development Center & Jordan Valley Popular Committees (2) 2010:
。占領が始まる前までは、渓谷の住民はヨルダン川にもアク
42)
セスでき、そこから農業用水等をくみ上げていた。占領以降はヨ
ルダン川周辺への立ち入りは許さ
れず、フェンスを越えて近づこうも
のなら警戒中のイスラエル兵に射
殺される可能性が高い。また、占
領以降に162 か所の井戸が取り上
げられ、それらに近づくことも許さ
れない。したがって、渓谷の A 地区
や B 地区在住のパレスチナ人は、自
分の村のなかに残された、使用許
可が与えられている井戸を使うか、
あるいはイスラエルの国営水会社メ
バルダラ村のなかに作られたメコロット社の井戸
コロット社
(Mekorot)から、イスラ
60 フード・セキュリティと紛争
エル人よりも高い料金を支払う形で水を購入する以外に水を入手
する方法がない。B 地区に指定されているバルダラ村では、村の
真ん中にメコロット社の井戸が村の井戸よりも深く堀削される形
で設置されたため、村の井戸は干上がってしまった。
2010 年 5 月に、トマト、きゅうり、インゲン、ズッキーニ、レモン、
オレンジを栽培しているというバルダラ村在住の農民の一人から
聞き取り調査をしたところ、農業用水が十分ではなく、3 日に一度
の割合で水撒きをせざるを得ないこと、またその際の水もメコロッ
ト社から有料で提供されるが、料金はパレスチナ自治政府が払っ
てくれることを教えてくれた。農業用水が入手しにくいとなると、
農民は大量の水を必要としない作物を栽培せざるを得なくなる。
その結果、生産される農産物に偏りができ、市場に出すときに価
格競争が起きるために、農民の手元に残る収入が減少する。渓
谷のパレスチナ農民は農産物を西岸内の市場に出しているが、西
岸の他地域からの農産物との競争もあるため、十分な収入を得る
ことができるだけの消費者を獲得することができない状態にある。
また、その際の搬送に関してもイスラエル軍の検問所の通過に時
間がかかるため、生鮮食品の商品価値にも影響が出ている。
パレスチナ農民はできることなら、隣国のヨルダンやヨーロッ
パ諸国の市場にも農産物を輸出したいと考えているが、イスラエ
ルが国境を管理しているため、搬送料のほかに、関税を取られ
ることになり、小規模農業の農民にはハードルが高い。アイン・
アル・ベイダ村に1,000ドナム 8 の土地
(しかし、それらはすべて C
地区に指定されている)を有している渓谷北部一の地主に聞き取
り調査をしたところ、一部の農産物は関税を払ってパレスチナの
農業会社経由でヨルダンに輸出できているが、希望しているヨー
ロッパ市場への輸出はイスラエルのセキュリティ・チェックが厳し
いため難しいと答えてくれた。
さらに大きな問題に瀕しているのが、C 地区在住のパレスチナ
人である。C 地区では、パレスチナ人が家屋等の建造物の建築・
再建・改修する際には、イスラエルからの許可を必要とする。し
かし、許可申請をしたところで、ほとんど認められることはない
ため、住民は許可がないまま家を建築・改修せざるを得なくなる。
占領当局に見つかると、撤去命令が発令される。それに従わな
8
1ドナムは 1,000 平方キロメートルの広さである。
占領下における水の使用権と農業問題
61
いでいると、破壊命令が発令され、
ほぼ確実に破壊される。破壊対象
は、井戸や小屋からベドウィン
(遊
牧民)
のテントにいたるまですべて
である。C 地区在住のパレスチナ
人の場合、村やベドウィン・コミュ
ニティに水道が通っていないこと
が多いため、燃料費を払って A 地
区や B 地区にある井戸からくみ上
げてきた水を移動式の水タンクに
貯水するか、あるいはメコロット
ベドウィン・コミュニティのカーブニ地区。手前はベドウィンの水タン
ク。後ろには入植者用の貯水施設が見える。
社から高い料金を払って購入した
水を同じく水タンクに貯水して、そ
れらを少しずつ使用せざるを得ない。実際に 4 時間かけてその
日一日分の家族の飲料水を探していたベドウィンの男性に会った
こともある。渓谷の夏は 40 度を超す高温になることもあるため、
水の補給は欠かすことができない。そのようななかで水の使用量
がこのように制限されていること自体、生活権を著しく脅かすも
のとなっている。
5. おわりに
本稿では、渓谷のパレスチナ人の土地を収用して作られた入
植地問題と水の使用権の制限から生じたパレスチナ農民の現状
について紹介しながら、イスラエルの占領下で人為的に引き起こ
されてきた
〈人道危機〉
について検討してきた。水資源の制限は、
ここで例に挙げた農業用水や飲料水の確保の問題のみならず、
人体に大いなる影響をおよぼしかねない衛生問題を含んでいる。
極めて限られた水を暑い夏に水タンクの中で保存し、人間の飲料
水、料理や皿洗い用の水、入浴、洗濯、さらには山羊や牛の飲
み水にいたるまで同じタンクの水を使わざるを得ないため、渓谷
の一部の村では子どもが皮膚病に苦しむ事態まで起きている。ま
た、入植地からパレスチナ人の居住地域に汚水が流れ込んできて
いるため、泉や小川が汚染された地域もある。そのなかで、たと
えばアメーバ赤痢のような伝染病にかかる大人や子どもがいる。
しかし、渓谷内の村にはクリニックが開設されているにすぎず、
62 フード・セキュリティと紛争
病院がある周辺都市のナーブルスやジェリコに行くためには、交
通手段を確保しなければならない。
水へのアクセス権
(Right to Water)
は、人間の生にとって欠かす
ことができないがゆえに、すべての人々に認められた固有の権
利である。社会権規約
(International Covenant on Economic, Social
「この規約の締約国は、自己及び
and Cultural Rights)第 11 条は、
その家族のための相当な食糧、衣類及び住居を内容とする相当
な生活水準についての並びに生活条件の不断の改善についての
すべての者の権利を認める」
ことを謳っている。イスラエルは本規
約の締約国である以上、またオスロ合意が、
「占領」という単語
は使われていないものの、その内容としてはそれまでの占領を明
らかに既成事実化したものである以上、公的にも占領者として、
同規約がパレスチナ住民に適用されるような措置を取る必要があ
る。パレスチナ人が同規約第 11 条で認められている権利を完全
に享受するためには、最終的にはオスロ体制の終結と東エルサレ
ムを含む西岸およびガザの完全な独立が不可欠であることは言う
までもない。パレスチナにおけるフード・セキュリティは、
「紛争
解決」
(conflict resolution)
ではなく、占領からの解放によって確保
される問題なのである。
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2010
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
63
東ティモールにおける紛争と
フード・セキュリティ
植民地化、紛争、グローバリゼーション
と食料問題
松野明久
大阪大学大学院国際公共政策研究科
1. はじめに
東ティモールは 2002 年に独立
(主権回復)したばかりの、面積
14,919 平方キロメートル
(岩手県よりやや小さい)
、人口約 111 万 5
千人
(2009 年推計)
の小国である。近年は首都への人口集中が進
み、
首都のあるディリ県に全人口の約22%
(約24万人)
が居住する。
国家財政は石油収入に依存している。これといった産業もなく、
若者は仕事を見つけるのが難しいため、海外への出稼ぎをひとつ
の選択肢とするようになってきている。一方、農村部では自給的
農業を行っているところが多い。輸出できるものといえば西部高
地で栽培されるコーヒー豆ぐらいであるが、最近は西部で飼育さ
れる牛もインドネシアへ輸出されるようになってきた。
一人当たりのGDPは599 米ドル
(2009 年)
と低い
(UNDP)
。
しかし、
2007 年に成立したシャナナ政権の石油基金掘り崩しによる積極
財政策の下で、公共事業拡大、各種手当
(高齢者手当、母子家
庭奨学金、退役軍人恩給)
支給、補助金政策
(高等教育無償化、
食料安全保障)
、公務員給与の増額などが行われ、その結果、
消費は、首都に集中していると批判されつつも、活況を呈してい
る。
こうした積極財政策は、野党から「平和をお金で買っている」
、
つまりはばらまきだとの批判を受けているが、その背景には 2006
年のあわや内戦へ突入かと思われた政治危機から早く立ち直り、
人心を安定させ、開発を進めなければならないとする現政権の
強い意志がある。問題は、石油基金の行き過ぎた掘り崩しは将
来の財政基盤を危うくするため、いつまでも続けることはできな
いということである。
64 フード・セキュリティと紛争
「フード・セキュリティ」
という言葉が東ティモールで飛び交うよ
うになったのは 2007 年のことであった。その年の 6 月、FAO
(国
連食糧農業機関)と WFP
(国連世界食糧計画)が共同で発表した
報告書が、かんばつとイナゴの発生により2007 年 4 月~2008 年
3 月の東ティモールでの穀物生産が 20 − 30% 落ち込むだろうとい
う予測を発表したのである。折しも東ティモールでは、2006 年
に軍内部の分裂を引き金として首都を中心に15 万人もの国内避
難民
(IDP)
を出すという大きな危機に直面していた。この危機の中
で、外国軍
(オーストラリア、ニュージーランド軍など)が投入さ
れ、首相は辞任し、2006 年 6 月末以降、外国軍のプレゼンスの
下で、事実上選挙管理内閣となったラホス・ホルタ政権が国を運
営していた。脱走した反乱兵グループは山中に陣取って投降せず、
避難民はまだ家に帰らず、与党・野党の根深い対立が残り、経済
は冷え込み、危機の最中に拡大した西部人・東部人の
「民族的」
対
立は容易に修復できそうにない状況にあった。つまり、治安、政
治、経済、社会のすべてに渡って危機は広がり、一部では「失敗
国家」
ではないかと取沙汰されるしまつであった。
こうした状況下、
FAO/ WFP の報告書は、2007 年 4 月から 6 月にかけて行われた選
挙で誕生した新しい政権に、食料問題の現状を明らかにし、そ
れへの対応が紛争後の平和構築に重要だというメッセージを発
するものだったのである。
果たして、新しく誕生したシャナナ政権
(8 月就任)は、この国
連機関の呼びかけに迅速に対応した。米の政府調達を開始し、
大量の米を輸入して、低価格で国内市場に放出した。これは一時
的な措置であったはずであるが、偶然にも翌 2008 年は世界的な
食料価格高騰のあおりを受けて東ティモールでの米価も急上昇し
たため、政府はますます政府調達による低価格米の供給に力を
入れざるをえなくなった。多くの国民はこの安い米の供給を歓迎
したにちがいない。しかし、その一方で、政府は低価格米の輸入
によって農家の米作への意欲を削いでいるとの批判も聞かれるよ
うになった。食料主権
(food sovereignty)
ということばが使われる
ようになったのもこの頃である。
実は、東ティモールの食料問題は長年の問題であり、2006 年
以降登場したわけではない。2006 年の危機とその後の政府の政
策がこの問題を解決しようとして返って状況を複雑にし、その結
果矛盾が現象化したために議論となっていると考えていいだろう。
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
65
以下に、東ティモールの食料問題の矛盾を考察してみたい。
2. 東ティモールにおける主食作物の状況
まず、議論を始める前に、以下の表によって主食作物生産の
現状を確認しておこう。
東ティモールの人口が
表1:東ティモールにおける人口及び主食作物生産の推移
2004 年 の 95 万 2 千人 か
単位:
(人口)
千人、
(穀物)
トン
年
2004
2005
2006
2007
2008
2009
ら 2009 年 の 111 万 5 千人
952
983
1,015
1,048
1,981
1,115
へと 5 年間で 17.1% の増
米
39,994
58,887
55,410
60,420
80,236
120,775
とうもろこし
82,209
92,219
118,984
71,526
100,170
134,715
加を示している中で、主
キャッサバ
58,826
39,290
39,290
41,212
35,541
37,302
181,029
190,396
213,684
173,158
215,947
292,792
人口
合計
(出典:Timor-Leste in Figures, 2009)
食 3 作物の合計生産量は
181,029トンから 292,792
トンへと 61.7% の増加を
果たしている。飛躍的な
生産拡大と言えるだろう。2007 年の生産の落ち込みは、先に紹
介した FAO/ WFP 共同報告書が指摘した原因によるものであろう。
しかし、表 1 からわかるように、5 年間で米が 202%、とうもろ
こしが 63.9% の増産となっているのに対して、キャッサバはむし
ろ 36.6% 減っている1。2007 年以降、大量の政府調達米が流入し
写真 2:空芯菜、白菜、ぜんまい、パパイヤの花、
キャッサバの葉などを売っている。いずれもマヌ
写真1:さつまいも、とうもろこし、にんにく、豆を売っている。 ファヒ県の市場にて 2006 年 8 月に撮影。
1
インドネシア時代の統計を用いた UNDP の 2006 年国別人間開発報告書に
よると、1997 年のキャッサバ生産量は 66,500 トンあった。これに基づくと、
独立を境にしたこの 10 年でキャッサバ生産量はほぼ半減したことになる。
66 フード・セキュリティと紛争
ていることを考えると、東ティモール人の主食の急速な米化が進
んでいるとみていいだろう。どうしてこういうことになるのだろう
か。
そもそも東ティモール人の主食が何であるのか、知っておく必
要があるだろう。一般的には、
米やとうもろこしを主食とし、
キャッ
サバ、ヤム、タロ、サツマイモ等の芋類やバナナを補助的に食べ、
食料不足の際にはサゴ
(ヤシの一種)
を食べている。ジャガイモは
付け合わせないしはおかずとして食べられているが、主食用穀類
の代用とまではなっていない。豆
(金時豆)
やかぼちゃもよく食さ
れている。ポルトガル時代にもたらされたパンを朝食に食べる習
慣が都市・町の比較的裕福な家庭に広がっている。また、華人に
よってもたらされた麺類、とくにインドネシア時代に入って来た即
席麺も広く消費されている。
しかし、表 2 で示されるように、主食 3 作物の摂取には地域的
な違いもある。さらに表 3 によって各県別の 1 人当たり主食作物
生産量を見てみると、どの県が自給の度合いが高く、どの県が低
いかがわかるだろう。
表 3 によると、自給の度合いの高い県は、高い順にマナトゥトゥ、
ビケケ、オイクシ、コバリマ、ラウテンである。逆に低い県は、
低い順に、ディリ、リキサ、エルメラ、アイレウ、アイナロである。
表 2:2009 年東ティモールの主食作物県別生産量
単位:人
(人口)
、トン
(穀物)
県
人口
(人)
とうもろこし
キャッサバ
アイレウ
45,334
1,863
2,720
2,701
7,284
アイナロ
63,551
4,419
3,750
2,352
10,521
バウカウ
112,712
29,440
7,284
5,202
41,926
ボボナロ
93,937
15,923
12,078
3,675
31,676
コバリマ
64,121
13,406
17,005
3,614
34,025
3,495
ディリ
米
生産量合計
240,521
201
2,160
1,134
エルメラ
120,118
2,705
4,878
2,327
9,910
ラウテン
65,355
3,952
26,128
1,883
31,963
リキサ
72,418
2,175
2,295
1,363
5,833
マナトゥトゥ
41,010
12,795
8,847
2,009
23,651
14,851
マヌファヒ
54,754
2,437
8,734
3,680
オイクシ
68,869
15,857
17,112
4,602
37,571
ビケケ
71,834
15,604
21,724
2,761
40,089
1,114,534
120,777
134,715
37,303
292,795
合計
(出典:Timor-Leste in Figures, 2009)
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
ディリ県は首都を含み、農業従事者がそもそ
表 3:2009 年県別主食作物一人当たり生産量
単位:キログラム
県
米
とうもろこし
キャッサバ
67
も少ないため、食料の自給の度合いが低い
合計
のは当然であろう。しかし、農村地域である
アイレウ
41
60
60
161
アイナロ
70
59
37
166
バウカウ
261
65
46
372
ボボナロ
170
129
39
337
表 4 から、これら 4 県が西部高地に広がる
コバリマ
209
265
56
531
コーヒー栽培地域と重なっているいることが
1
9
5
15
エルメラ
23
41
19
83
見てとれる。コーヒー栽培世帯の割合が高い
ラウテン
60
400
29
489
リキサ
30
32
19
81
312
216
49
577
ディリ
マナトゥトゥ
マヌファヒ
リキサ、エルメラ、アイレウ、アイナロ 4 県の
自給の度合いが低いのはなぜか。
県は、高い順にエルメラ、アイレウ、アイナ
ロ、
リキサ、
続いてマヌファヒとなっている。
(マ
ヌファヒの 1 人当たり主食作物生産量は全国
平均をかろうじて上回っている。
)
45
160
67
271
オイクシ
230
248
67
546
さて、表 3、4 から、主食作物の栽培の分
ビケケ
217
302
38
558
東ティモール
108
121
33
263
布を見てみよう。
まず表 4 からどれくらいの世帯が何を栽
培しているかが見て取れる。全世帯のうち
米を栽培しているのは 31%、とうもろこしを栽培している世帯は
67%、キャッサバを栽培している世帯は 69% となっており、米を
栽培している世帯は全体の 3 分の 1 に満たない。とうもろこしと
表 4:2009 年県別主食作物及びコーヒー栽培世帯数
単位:戸
県
全世帯
米栽培世帯
とうもろこし
栽培世帯
キャッサバ
栽培世帯
コーヒー栽
培世帯
コーヒー栽培世
帯の割合
(%)
アイレウ
7,745
1,847
7,042
6,983
6,044
78
アイナロ
11,527
1,531
10,686
9,284
8,313
72
バウカウ
22,659
12,967
15,360
13,721
3,529
16
ボボナロ
18,397
7,166
14,459
13,093
5,715
32
コバリマ
11,820
3,980
9,891
9,877
2,995
25
ディリ
31,575
658
6,866
7,813
1,257
4
エルメラ
21,165
3,641
18,766
18,638
17,943
85
ラウテン
12,998
5,526
10,854
9,921
1,027
8
リキサ
11,063
607
9,500
9,236
7,278
66
マナトゥトゥ
8,338
4,507
5,158
5,100
2,633
32
マヌファヒ
8,901
2,415
7,617
7,873
5,303
60
オイクシ
ビケケ
東ティモール
13,659
4,378
2,694
9,662
1,498
11
15,115
11,743
12,623
13,032
3,144
21
194,962
60,966
131,516
134,233
66,679
34
68 フード・セキュリティと紛争
キャッサバは県別に見た場合、オイクシ県を除いて、栽培世帯数
が近いところから、多くが両方を栽培していると考えることがで
きる。
しかし、とうもろこしとキャッサバは、栽培世帯数は似通って
いても、1 人当たり生産量は大きく異なっている。一大消費地で
ある首都を除いて考えると、キャッサバは少ない県
(エルメラ、リ
キサ)
で 1 人当たり年間生産量が 19 キログラム、多い県で 67 キロ
グラム
(マヌファヒ、オイクシ)と、3.5 倍の開きしかない。一方、
とうもろこしは首都を除くと少ない県
(リキサ)で 32 キログラム、
多い県
(ラウテン)
で 400 キログラムと12.5 倍もの開きがある。
キャッサバというのは農村の多くの世帯で栽培しているが、土
地があればあるだけつくりたい作物ではないようである。表から
は、キャッサバを一定程度つくったら、それ以上の土地があれば
とうもろこをつくり、さらに平地があって水が確保できれば米を
つくるというように穀物栽培が展開している様子が見て取れる。
コーヒー栽培はキャッサバやとうもろこし栽培と競合し、米作
とは競合しない。エルメラやリキサはコーヒー栽培に場所をとら
れ、キャッサバやとうもろこしの栽培地が十分に確保できず、さ
りとて米作に適した土地も少ないため、主食 3 作物のすべての一
人当たり生産量が全国で最下位になっている。この 2 県が東ティ
モール全体で最も貧しい村の多い県だとされるのも偶然ではな
い 2。
米作が発達している県は、総生産量でみると多い順にバウカ
ウ、ボボナロ、オイクシ、ビケケ、コバリマ、マナトゥトゥである。
これを1 人当たり生産量の多い順でとると、マナトゥトゥ、バウカ
ウ、オイクシ、ビケケ、コバリマ、ボボナロとなる。これらの県は
平地が多く、降雨量が十分にあるか、灌漑が一定程度整っている。
以上のように東ティモール人の主食といっても地域でかなり異
なった状況にある。大きく言えば、とうもろこしをより重要な主
食とするラウテン、ビケケ、コバリマ、オイクシ、マヌファヒといっ
た県があるのに対し、米をより重要な主食とするバウカウ、ボボ
ナロ、マナトゥトゥがある。そして、1 人当たり主食作物生産量
2 『2001 年村落調査
(The 2001 Survery of Sucos)』
が提示した「最も貧弱な発展
を示している村 50」
に数えられた村を最も多くもつ県がエルメラ県とリキサ
県
(ともに 9 村)
であった。
(ETTA, Table 14.2)
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
69
が年間 200 キログラムに満たない外部依存の強い県がディリ、リ
キサ、エルメラ、アイレウ、アイナロなのである。このうち首都が
あるディリ県を除いた 4 県がコーヒー栽培地域であることはすで
に述べた通りである。これらの地域で何を主食としているかを統
計的に明らかにはできないが、おそらく米を買って食べていると
考えていいのではないだろうか。少なくとも首都住民の多くがそ
うしているのはまちがいない。3
さて、
以上のような主食作物の現状を知った上で、
フード・セキュ
リティの問題を論じることにしよう。問題は少なくとも 3 点指摘で
きる。第一点は、ポルトガル植民地支配下でのコーヒー栽培の
導入によってフード・セキュリティが不安定化したこと、第二点は、
インドネシア占領下で主食の米化がかなり進み主食の外部依存が
高まったこと、そして第三点は、ポルトガル時代、インドネシア
時代を通じて西部地域の農業の商業化が進みそれが東部との格
差を生んで 2006 年の危機の背景へとつながっていることである。
4. 植民地支配とフード・セキュリティ
まず第一の点、すなわち植民地支配がもたらした資本主義的
農業が伝統的フード・セキュリティを不安定化したという点である
が、具体的には、リキサ、エルメラ、アイレウ、アイナロなどの
西部高地のコーヒー栽培地域でキャッサバ、とうもろこしを生産
できる土地がコーヒーの栽培地に転化され、それが今日の貧困
の原因のひとつとなったと考えられる。
東ティモール大学で平和紛争研究センターを率いるアンテロ・
ベンディト・ダ・シルバ氏がカダラク・スリムトゥクという NGO を主
宰していた 2000 年、エルメラ県のある村を訪問した際、地元の
農家たちはすでに「民衆的農地改革」
(つまりは一方的な占拠・分
配)
によって土地とコーヒーの木を分配していたという。農民たち
の言い分は「ポルトガル人は片手に金槌をもち、もう片手には釘
をもって、われわれの先祖に土地を引き渡すよう言った。先祖が
土地を引き渡すと、ポルトガル人は彼らを追い出し、コーヒーを
3
もちろん、こうした県を単位とした分析が限界をもつことにも留意しなけれ
ばならない。重要な区別は山地・平地、降雨量であるので同じ県の中でも
村ごとに異なることは多いにありうる。例えばマヌファヒ県は西部は山地
でコーヒー栽培地域だが東部は平野が広がっている。
70 フード・セキュリティと紛争
植えた。こうしてわれわれは自分たちの土地でありながら奴隷と
なったのだ」というものだ
(da Silva, 5)
。コーヒー栽培のために奪
われた広大な土地は肥沃な土地であったとされる。それがコー
ヒー栽培地におけるフード・セキュリティの不安定化をもたらした
と考えられる。
だからといって現在、東ティモールではコーヒー栽培を放棄し
て穀物栽培に戻ろうという動きはほとんどないと思われる。1990
年代のクリントン政権時代にアメリカの NCBA が東ティモールで
コーヒー栽培の指導及び豆の買い付けを始めて生産は復活し、
住民投票後は海外への輸出も伸びた。コーヒー農家の支援を行っ
ている中には日本の NGO もある。コーヒーは今では代表的な輸
出品であり、
農家にとっては貴重な現金収入源となっている。コー
ヒー栽培地の農家にとって今更コーヒーを他の作物に変えるのは
難しい。したがって彼らはコーヒー生産を維持しつつ、開いた土
地でその他の作物を栽培し続けている。それが植民地型農業を
引き継いだ彼らにとってもっとも合理的な選択だと言えるだろう。
先ほどのエルメラ県の事例では、今なおポルトガル人が所有権を
主張するコーヒー園を自主的な「農地改革」
によって分配したわけ
であるが、もし広大なコーヒー園をポルトガル人に取られたまま
では、彼らは貧困のままに留め置かれることになる。彼らの土地
奪還の願いは当然のことであると思われる。
5. 主食の米化
第二点は、インドネシア時代に主食の米化がかなり進んだこと
が主食の外部依存を高めたことである。米はポルトガル時代にも
若干生産されていたようであるが、東ティモール人が米をよく食
べるようになったのがインドネシア占領時代
(1975 − 1999 年)
であ
ることは知られている
(Pedersen and Anneberg, 33)
。インドネシア
政府はもともと米の増産には力を入れており、東ティモールに
「ト
ランスミグラシ」と称する開拓移民政策を適用し、主としてバリ
の米作農民を移住させた 4。彼らの水田はコバリマ、マヌファヒ、
4
東ティモールに開拓移住したバリの農民たちは 1999 年、住民投票で独立
が決まりそうな情勢の中で次々とバリに戻って行った。しかし、
すでに土地・
財産を売って移住した彼らが戻れる場所はなく、バリ北部の森林地帯に居
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
71
ビケケ、バウカウなどに展開し、東ティモールでも本格的に米が
生産されるようになったのである
(Durand, 103)
。
ただ、インドネシア政府の「トランスミグラシ」
政策は、貧困化
した農民の移住による生活水準向上を表向きの目的としたが、辺
境
(政治的にも不安定な地域が多い)
の「インドネシア化」
という軍
事的・政治的目的もあわせもっていた。もともと米作がそれほど
さかんでなかった東ティモールに米作農民を集中的に移住させ、
独立派が多い東ティモールの村落部にインドネシア統合に忠誠心
を抱く集落を作り出して行った政策の意味は明らかであった。食
糧としての米の普及が「トランスミグラシ」
とともに始まったという
ことを考えると、
「主食の米化」
は東ティモールの
「インドネシア化」
の文化的側面であったと言うことができるだろう 5。
2010 年 8 月にリキサ県バザルテテ郡ファトゥマシ村で行った聞
き取りでは、米を食べるようになったのはインドネシア時代も後
半になってからであるという。山がちで灌漑も整備されていない
この村では、今も昔も米は買って食べている 6。
一方、主食の米化が進んだ背景には、東ティモール人が進ん
で米を食べるようになったという側面もあるだろう。米は芋類や
とうもろこしに比べ、味がより中立的というか、飽きがこず、お
かずを選ばない。東ティモールでは、東南アジアの他の地域と
同様、日本人にように白飯をそれ自身として食べるのではなく、
いろいろなおかずと混ぜて食べる。芋類ではそうはいかないだろ
うし、とうもろこしでも難しい。やはり小麦粉と並んで、米は主
食として変幻自在な食べ方ができるという点ですぐれていると言
える。私はパプアでも米が入って来て以後、サゴヤシから米に嗜
好が変化し、人々が「もとに戻れない」
などと言っているのを聞い
たことがある。パプアではサゴヤシのでんぷんを片栗粉のように
練ってそこに魚のスープなどをまぜて一緒に食べるというのが伝統
5
6
住している。インドネシア政府は政策に翻弄されたこうした農民たちにき
ちんとした補償をしようとしない。
朝日新聞
(2011 年 5 月 2 日朝刊)
の記事「今も昔も政治の要 インドネシア 世
界有数の米食国」
(郷富佐子記者)は、
「スハルト政権は『米の自給自足』を
掲げ、キャッサバやサゴヤシを主食としていた地域や貧困層にも「おいしい
米飯」
を行き渡らせることで国民の独裁政権への不満を抑え込んだ」
と当時
の米作拡大の背景に触れていて興味深い。
聞き取りは 2010 年 8 月 21 日と 22 日、複数の住民から行った。村への案内
役をしていただいた同村修道院のシスターである中村葉子さん、そして同
村の村長であるジョアニコ・リベイロ・ドス・サントスさんに感謝する。
72 フード・セキュリティと紛争
的な食べ方である。それは米に比べて軽い感じがあり、
「はらもち」
という点で米の方に軍配が上がる。
さて、紛争後の救援活動が米の主食化をさらに進めたことはま
ちがいない。東ティモールは 1999 年 8 月 30 日の住民投票後、独
立に反対するインドネシア軍及び民兵の活動によって 25 万人もの
難民が発生し、多くの家が焼かれて焦土と化した。そこに入った
国際的な緊急救援が配布した食料の中心は米であり、米以外で
は缶詰、豆、即席麺などがよく配布されていた。米は国際市場
で調達しやすく、どのようにでも分割でき、配布しやすい。保存
にも耐えられる。
「食料援助といえば米」というパターンは、独立後も踏襲され
た。2007 年以降、食料安全保障の名目で政府が調達した穀物は
基本的に米であって、それ以外のものではなかった。統計による
と、穀物
(その多くが米であると仮定して)の輸入額は 2004 年に
811 万 1 千ドルであったのが 2008 年には 2,548 万 5 千ドルにまで上
がっている
(DNE: External Trade Statistics)
。食料安全保障の名目に
よる政府による米の調達は 2008 年、2009 年と伸び続けた。政
府によれば、こうした政策の結果、政府は米一袋の 60% に補助
金を注いでいることになり、通常であればディリで 25ドルになる
であろう米 35 キロ袋が 12ドルにまでさがったという。政府は「東
ティモールでは米は価格をつけられないものであり、国民の栄養
の基礎として、貴重なものである」とまで米の重要性を持ち上げ
ている7。当然、こうした「熱心さ」の背景には、政治家と米の政
府調達を請け負う少数の輸入業者の癒着があるのではないかと
の疑念も投げかけられている
(Kammen)
。
一方、政府は主食の外部依存の高まりを放置しているわけで
はない。稲作技術の指導、灌漑の整備、機械化などを行い米の
増産に力を入れている
(UNDP, 89)
。また最近では東ティモール人
農家からの米の買い取りを行うことによって、米農家の育成を行
おうとしている。買い取り価格は 1キロ当たり30 セントで、輸入
米に比べて高く設定されている
(Noltze et al., 6)
。表 1 からわかる
ように、2008 年以降、米ととうもろこしの生産は飛躍的に伸び
ている。技術指導、灌漑の整備、機械化、
(とうもろこしの場合)
7
東ティモール政府のホームページにあるリリース「Food Security」
。2010 年 3
月 30 日。http://timor-leste.gov.tl/?p=2214&lang=en
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
73
品種の導入などの政策があいまって増加していると考えられる。
ただ、そのあおりをくらってか、キャッサバの生産は徐々に減っ
てきている。人々のキャッサバ離れが起きていると考えていいだ
ろう。
6. 農業の
「東西」分化と紛争
主食の状況が各地で異なるわけであるから、低価格米の輸入
販売という政府の食料安全保障政策に対する受け止め方も各地
で同じではないだろう。税金を使った低価格米の調達・販売をと
くにありがたいと思うのは普段米を買って食べている人た
表 5:2 回の選挙における
ちであろうが、表 3 と表 4 から推測すると、それは主食
フレテリンの県別得票率
県
2001年制
憲議会選挙
作物生産がもっとも少ないディリ、アイレウ、アイナロ、
2007年
総選挙
リキサ、エルメラ県になる。これが首都及びコーヒー栽
アイレウ
21.15
8.35
アイナロ
27.56
9.97
バウカウ
81.98
62.44
ボボナロ
57.42
16.09
コバリマ
61.42
27.58
もある 8。これはどういうことなのか。まず、フレテリン
ディリ
66.05
22.39
の過去 2 回の議会選挙における県別得票率を表 5 によっ
エルメラ
31.94
13.9
ラウテン
62.78
45.53
リキサ
72.44
12
マナトゥ
トゥ
47.57
17.57
マヌファヒ
54.56
25.43
38.6
27.53
74.95
59.84
オイクシ
ビケケ
(出典:CNE)
8
9
培地域であることはすでに述べた通りである。また、こ
れらの地域は 2007 年の選挙で、それまでの与党フレテリ
ン
(東ティモール独立革命戦線)が大敗を期したところで
て確認しておこう。
最初に断っておかなければならないことは、2006 年
の危機の背景は複雑であり、関係する対立軸は少なく
とも 6 つあるということである 9。与党
(フレテリン)
vs. 野
党、フレテリン vs. カトリック教会、軍 vs. 警察、ポルトガ
ル派 vs. オーストラリア派、そして東部人
(firaku)
vs. 西部人
(kaladi)
である。最初の 5 つは政治的な対立といっていい
フレテリン
(東ティモール独立革命戦線)は 1974 年に設立された政党で、
即時完全独立、反植民地主義、社会変革等を掲げた。冷戦の最中、イン
ドネシアはフレテリンを共産主義とみなして存在を許さない姿勢を示し、
東ティモールへの軍事介入を正当化した。国連暫定行政下、独立を前にし
た制憲議会選挙で、反インドネシア抵抗運動の中核を担った政党として圧
倒的勝利をおさめたが、独立後のフレテリン政権の時代は、経済の低迷、
汚職の広がり、党優先で権威主義的な政治に国民の不満が集まり、2006
年の危機の収拾ができなかったとして 2007 年の選挙では大きく支持が落
ち込んだ。第一党の座は維持したものの過半数に満たなかったため、野党
が結束して連立を組みシャナナ政権を成立させたのである。
2006 年の東ティモールの政治危機については Matsuno(2009)が、また
2007 年の大統領選・議会選の結果の分析については Matsuno(2010)が詳
しい。
74 フード・セキュリティと紛争
が、最後の東部人と西部人の対立は一見して民族的対立である。
それがなぜ今になって表面化したのか、納得のいく説明はなされ
ていない10。
インドネシアに対する抵抗の歴史をふりかえれば、東部が抵抗
の拠点となったのに対し、西部は早々とインドネシア支配が確立
し、インドネシア派の民兵組織も西部を主たる活動域としていた
ことが想起される。多大な犠牲を払った独立闘争において東部
人が西武人を「愛国的でない」
とみなすなどというようなこともな
かったわけではない。2006 年の危機は、ある東部出身の軍司令
官が「西部の連中は民兵の子どもたちだ」
などと皮肉を言ったこと
に反発した西部出身の若手兵士たちがおこしたストライキが引き
金となった 11。
しかし、そもそもそこが問題だったのであれば、これほどまで
の大きな危機にはならなかったと思われる。危機の最中、それ
まで東部人と西部人がともに暮らしていた首都で東部人だけが追
い立てられ、15 万人もの難民となって路頭に迷うはめになったの
である。東部人が多く働く市場
(コモロ市場)は焼き払われ、東
部人の家は放火された。この危機以後、東部人と西部人の間には
修復し難い深い溝ができてしまったかのようである。もちろん事
件が暴動となって発展した背景には若者たちの失業、フレテリン
政権及び首相の不人気があった。しかし、これらの問題は東部人
・
西部人の対立とは直接関係がない。
東部人・西部人の対立はデマゴーグによる扇動によって誇張さ
れたものであって本来そういう対立はないとする意見もある。政
治指導者はそう述べて事態を鎮静化させようと努力してきた。私
も 2006 年の危機が東部人・西部人という民族的対立そのものを
原因とするかのような議論には賛成しない。しかし、民族対立と
いうのは、それが差別や格差と結びつくとき表出することが多い
のであって、地域としての東部と西部が何らかの構造的な格差の
10 東部人
(firaku)
と言われるのはラウテン、バウカウ、ビケケの人々、西部人
(kaladi)
と言われるのは主にはアイレウ、アイナロ、エルメラの人々である。
地域的に西部と言えばこれにリキサ、ボボナロ、コバリマの人々も含まれ
ることになる。Kaladi というのはヤムイモのことで
(Hull)
、西部山地のヤム
イモを食べる人たちというのが語源だとされる。おおよそマンバイ人を指す。
2006 年の危機になるまで東部人・西部人がこれほどまでの対立を見せたこ
とはなかった。
11 “St. Xanana's halo, and power, slipping”, The Australian, 7 May 2008.
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
75
中になかったかどうかは検討に値することだと思う。
そこで、農業を全体として見てみると、西部の農業が東部の農
業に比べてかなり商業化されていることが特徴として浮かび上が
る。西部ではポルトガル支配下でコーヒー栽培が導入され、現
在では大豆、緑豆の栽培、牛の飼育、淡水魚の養殖がさかんで
ある。一方東部はコプラが生産され、馬、水牛、羊の飼育がさ
れているが、これらの商品は現在あまり商業的価値がない。また、
西部はディリという一大消費地を抱え、インドネシア時代、国連
暫定行政時代を通じて食料供給を行うなど、急速に拡大する首
都の後背地となってきた。それと比べ、東部の中心都市バウカウ
はポルトガル時代はそれなりに投資がなされたものの、インドネ
シア時代は抵抗運動の拠点とみなされて開発投資があまり行わ
れず、国連暫定行政時代以降はディリに水をあけられてしまった
感が否めない
(Matsuno 2010)
。
ますますグローバリゼーションが進んだ 21 世紀、商業化され
た農業を発達させた西部にとってフレテリン政権時代の開発政
策が大いなる不満であったことは想像に難くない。フレテリンは
IMF の助言を得て財政バランスを維持することに努力を傾注し、
積極的な公共事業、産業政策を打ち出さなかった。また、結党
以来自主自立の精神を掲げる政党として外国からのローンは借り
ず、外国投資を呼び込むことにもあまり熱心ではなかった。とく
に、インドネシアとの外交関係は表向き良好であったものの、経
済関係が急速に進展することに対し警戒感をもっていたように感
じられる。観光産業もポテンシャルがあると言われながら、振興
政策が行われていたとは言えない。
それに対し、2007 年の選挙で西部の支持を集めてでき上がっ
たシャナナ政権は、石油基金の取り崩しによる積極的な財政政
策、商業的農業の推進、中でも畜産の振興を高く掲げた。その
結果、ボボナロ、コバリマなどインドネシアと国境を接する地方
からの牛の輸出が復活してきている12。
また、西部の商業化された農業にとって首都ディリの存在が大
12 東ティモールの地元企業の受注・販売を促進している NGO
「平和の配当基
金
(PDT: Peace Dividend Trust)」
は 2010 年末までに 13,000 件の新規契約を仲
介したが、そのうち12% が農業分野のもので、その大半は牛、緑豆、大
豆であったという
(Jakarta Globe 紙、2011 年 2 月 7 日付)
。いずれも西部地域
の産品である。
76 フード・セキュリティと紛争
きいことは言うまでもない。2011 年現在ディリには全人口の 4 分
の1近くが住み、
地元企業の 6 割近くが集中している13。政府機関、
高等教育機関、国際機関、大使、NGO の事務所が集まっている。
先ほど紹介したリキサ県バザルテテ郡ファトゥマシ村で行った
聞き取りでは、ポルトガル時代、この地域からすでにディリにと
うもろこし、キャッサバ、みかん、ココナッツ、バナナ、豆など
を売りに出かけていたことがわかった。それは人頭税
(imposto)
が年間 20 パタカ
(ポルトガル領東ティモールの通貨)
もかけられ、
それをおさめるのに現金が必要となったからであるとの説明で
あった。ちなみにディリの市場
(今では使われていない旧市場)
に
1 回売りに出ると 2 パタカの売り上げになったという。ファトゥマ
シ村からディリまでの距離は 41キロメートルあり
(ETTA, 82)
、日
帰りはできないためコモロに1 泊しなければならなかったらしい。
商業化された農業と首都ディリへのリンクによってフレテリン
政権時代の経済の低迷の影響を強く受けた、あるいはそのよう
に考えたのが西部人だったとすれば危機の構造も理解しやすい。
首都経済の低迷は国連暫定行政のダウンサイジングにともなう
不可避的な現象であったけれども、それに依存していた人々が
政府の無策に怒りを爆発させ、同時に不満の矛先を東部から首
都に「進出してきていた」
市場商人たちに向けたということではな
いだろうか。本来、首都は決して西部人の縄張りではないはずだ
が、地理的に近接した西部の人々にとって東部人ははやり出稼ぎ
者だったのである。フレテリン政権に代わって登場したシャナナ
政権が、公共事業、補助金政策で首都経済を活発化させ
(結局、
地方で補助金を受けとっても首都の商店で車、バイク、電化製品
を買ったりするのに使われるので)
、一層の商業的農業の発達を
支援してきたのも、理解できるだろう。
7. おわりに
2011 年に発表された UNDP の東ティモール人間開発報告書は都
市・農村の格差の拡大が紛争の原因になるかも知れないとしてア
13 「平和の配当基金」
のホームページにある登録事業の 58% はディリに拠点を
置いている。ちなみに第二の都市バウカウの事業は 5%しかない。
(2011 年
1 月現在)
http://timor.buildingmarkets.org/en_af/location_graph
東ティモールにおける紛争とフード・セキュリティ
77
ンバランスな開発に警鐘を鳴らしている。同報告書は、歴代の東
ティモール政府はマクロ経済的には安定を達成したが、依然とし
て貧困層の割合は高いままであり、人口の 70% が住む農村の発
展に力を入れる必要があると述べている。インフラ整備、エネル
ギー確保、通信手段の整備、金融制度構築、人材育成、主食作
物の増産、商業作物の栽培、加工・小規模工業の育成、漁業の
促進、エコ・ツーリズムの開発などを提案している。さらに今後
東ティモール経済が安定的に発展していくためには石油基金への
依存から脱却し、非石油部門の開発を進めなければならないとし
ている。
重要なことは、こうした発展がマクロ的には帳尻があっていて
も、国内で東西の格差を生むような形で進んでは平和と安定に
は結びつかないということである。同報告書は、発展の東西不
均衡については何も触れていない。2006 年の危機から立ち直っ
たばかりの東ティモールで分裂の原因となるようなことがらは政
治的であるし触れないでおきたいという配慮があるのかも知れな
い。しかし、これまで見てきたように、東ティモールにおける都
市と農村の格差はそのまま西部と東部の格差へとつながってい
る。同報告書の隠されたメッセージを肝に銘じておく必要がある
と思う。
参考文献
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Finanças.
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21 June 2007. Special Report: FAO/WFP Crop and Food Supply Assessment
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2002
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Conflict Studies Center, pp. 4-5.
UNDP
Timor-Leste Human Development Report 2011: Managing natural
2011
resources for human development, developing the non-oil economy to
achieve the MDGs.
79
80 フード・セキュリティと紛争
写真1: 女性農民との会合
(2008 年 3 月25日、筆者撮影)
なる。この生産性はインドネシア時代の半分である。
筆者は、東ティモール農漁業省におけるジェンダー平等主流化
政策の支援を、とくに灌漑開発の分野で行ってきたが、ジェンダー
平等の本質とは女性が既存のパイを所与としてその公平分配を求
めることではなく、そのパイのあり方をも問い直し、変革する過
程だと認識している1。その立場から、マヌファヒ県ベタノでは、
通常「土木技術も水利組織も男性領域だから関心層ではない」
と
無視される女性農民に現在の灌漑システムついて意見を聞き、出
会いの時から「灌漑は大問題よ」と大合唱になった彼女たちとの
会合をかさね
(写真 1)
、
「田んぼに砂が入ってくる」のはなぜなの
か、
「水路に水がこない」のはなぜなのか、農漁業省の担当部局
から情報を収集し、それらをシェアし、何が問題なのか探りなが
ら、水利組織への女性の参加を支援してきた 2。本稿では、そう
1
2
インドの自営女性労働者組合である SEWA の創設者、イラ・バットは 1992
年に
「私たちはただパイの一切れが欲しいのではなく、
その味も選びたいし、
その作り方も知りたい。
」
と語っている
(マーサ・ヌスバウム『女性と人間開発
―潜在能力アプローチ』
岩波書店、2005 年)
。
筆者は、2008 年 3 月から 4 月にかけて、JICA 短期専門家として東ティモー
ル農漁業省計画政策局に派遣された
(指導科目:ジェンダー主流化政策形
成)
。その後「平成 21-23 年度科学研究費補助金
(基盤研究 C「
)女性と灌漑
~紛争後の東ティモールにおける水利組織とジェンダー(研究代表者:古
沢希代子)」
によって、紛争後の灌漑開発の問題点を女性農民やジェンダー
フォーカルパーソンなど農漁業省の関係者と探るというアクションリサーチ
を実施している。
復興開発と国際援助
81
したプロセスから浮かび上がってきた灌漑行政及び国際援助の問
題を紹介する。
1. ARPによるカラウルン川灌漑施設修復事業
カラウルン川は東ティモールの主要河川のひとつである。全長
は 52km、標高 2,459m のカブラキ山などに源を発し、マヌファヒ
県南部のベタノで海に出る。インドネシア統治下の 1991 年から
1996 年にかけて、当時の州政府が下流部に近代的灌漑施設を
建設した。灌漑可能面積は 1,000ha と推計されたが、実際に作付
けが行われたのは 600ha 程度だった。し
かし、2001 年から 2002 年にかけて川を
横断するチェックダムが壊れ始めたため、
東ティモール政府と ARPIII
(農業復旧プロ
ジェクト第 3 期)が全面的にシステムの改
変を行った。
ARP は UNTAET
( 国連暫定行政)期に開
始された世界銀行が統括するプログラム
である。灌漑復旧に関しては当初小規模
(住民)
灌漑の復旧に取り組み、第 3 期か
ら大規模な施設の復旧に着手した。カ
ラウルン川灌漑施設復旧の主要ドナーは
EU
(EC ヨーロッパ評議会)であった。シ
ステムの設計は SMECというオーストラリ
アのコンサルタント会社が担い、建設は
RAYSIN というシンガポールの建設会社が
受 注した。 建 設 費は 144 万 4,888US$ で
地図 2:カラウルン川流域図
(出典:Atlas de Timor Leste, LIDEL, 2002)
2006 年 11 月に開所式を迎えた。当時の
農漁業省灌漑部の部長は現在の局長と
は別の人物で、UNDP
( 国連開発計画)か
ら外国人アドバイザーが派遣されていた。しかし、このプロジェ
クトで復旧されたのは取水ゲートと幹線水路及び二次水路
(分水
施設含む)のみであり、そのことが後に大きな問題を引き起こし
ていく。また、世銀や EU のガイドラインに反して、このプロジェ
クトはジェンダー平等の取り組みはなかった。農民のなかには紛
争中に夫と死別あるいは離別した女性、また母系のブナク族にお
82 フード・セキュリティと紛争
いて土地を所有している女性農民もいたが、
プロジェクトの実施に関する協議や水利組
合の組織化において女性たちの参画を促す
活動はなかった 3。つまり、ソフトの面でも
その取り組みはミニマル
(最小限度)であっ
た。
(地図 3)
2. 新旧システムの違いと改変された
システムの問題点
旧システムでは川を横断するチェックダム
地図 3:カラウルン灌漑スキーム
が水を堰き止め取水された
(写真 2)
。取水ゲートの下流側、堰の
末端には土砂吐きゲートが設置された。取水ゲートの裏手には二
列の沈砂池があった
(写真 3)
。この沈砂池は途中で穴があけられ、
奥手の排砂ゲートを開けると床下のスロープから土砂が落ちしく
みになっていた
(写真 4)
。幹線水路に続く沈砂池が二本になって
いるのは、交互に使用するためで、一方の土砂を片付けながら一
方で通水した。
一方、現在のシステムにはチェックダムがない。そのため、取
写真 3:旧システムの沈砂池 / 取り付け水路
(写真提供:
東ティモール農漁業省マヌファヒ県農業事務所)
写真 2:旧システムのチェックダム
(写真提供:東ティモー
ル農漁業省マヌファヒ県農業事務所)
3
2008 年 3 月末、ARP の現地代表にカラウウンスキームにジェンダー平等推
進の配慮がなかった理由を尋ねたところ、
「当時は問題が山積していて、
プロジェクトを動かすために最低限の組織を形成せねばならず、ジェンダー
に配慮する余裕がなかった。しかし、この分野で女性に対する差別が厳然
と存在していると認識しており、農漁業省にも昨年ジェンダーアドバイザー
が配置されたので、今後取り組みが進むことを期待する」
との回答であった。
復興開発と国際援助
83
水の度にミオ筋に応じて石やヤシの葉で臨時
の堰を設け、取水ゲートに水を引き込む必要
がある。こうした方法はフリーインテイクと呼
ばれる。ただし、大雨の後など、川の流量が
多い時は、
水を引き込むことはできない。土砂、
石、岩が水門から浸入するからである。流量
が落ち、流れが鎮まった川の表層水を引き込
むのが適切である。現地の関係者が首をひね
るのは、かつての堰は一部が壊れただけなの
写真 4:旧システムの沈砂池 / 取り付け水路
(2)
に、プロジェクトはそれを修理せず、全部を
撤去してしまったことである。現在の農漁業
省灌漑局の見解では崩壊の原因は強度不足である。その原因は
設計ミスではなく、不正による鉄筋やセメント等の過少使用が疑
われている。構造物の一部はいまだに残存しているため検証は可
能である。
また新システムでは沈砂池を兼ねた水路は一本である。一方、
沈砂地の奥の排砂ゲートの先の川に続く排砂路は旧システムのま
ま残された。この排砂路は、幅が広く、川までの距離は長い。
では、現在のシステムでどのような問題が発生しているのだろ
うか。
問題その1:労働負担
灌漑施設は乾期だけに使用するものではない。雨期に不安定
な降雨を補給するのが灌漑の重要な役割である。しかし、カラウ
ルンでは雨期に堰を設ける仕事
は楽ではない。人々は、晴れ間、
流量の落ちた時をねらい、人海
戦術で堰をもうけるが
(写真 5)
、
ひとたび上中流部で雨が降れば
その堰は流されてしまう。結果、
造っては流されての繰り返しにな
る。2010 年は雨期が遅く、1 月に
なっても
(上中流部で降っても)
ベ
タノには雨は降らず、川から水を
引き込むのに毎日営々と堰をつく
写真 5:堰を築く人々(2010 年1月 9 日 筆者撮影)
るしかなかった。この時期、女性
84 フード・セキュリティと紛争
たちは、少ない水をめぐって
「水争い」
が発生していると語った。
2006 年 11 月、施設のオープニング式典の際、マヌファヒ県県
知事は、テープカットに訪れた同時のスタニスラス・ダ・シルバ副
首相兼農業大臣に対して、農民たちの負担を軽減するために建
機
(ブルドーザーやパワーショベル)
を供与するよう要請した。大
臣は供与を約束したが、この約束はいまだに果たされていない。
東ティモールでは 2006 年に国軍の分裂から深刻な政治危機が発
生し、2007 年の選挙で政権が交代した。また灌漑行政のトップ
である灌漑・水管理部長もその交代した。
問題その2:土砂堆積
2009 年 9 月、農民たちは大量の砂が水田に浸入する問題に悩
んでいた
(写真 6)
。末端水路から人力で砂を掻き出そうとしたが
追いつかなかった。その後の調査で判明した原因は、土
砂吐きゲートの裏の排砂路に大量の土砂が堆積し、ゲー
トを開けても砂を吐けない状態になっていたことである
(写真7)
。
そのため、
幹線水路への水門前の土砂が堆積し、
幹線水路へ土砂が流れ込んでいた
(写真 8)
。
農漁業省の県農業事務所長によると、この問題は新シ
ステムの使用開始後すぐに現れた。そのため ARP は多額
の資金を砂の排出のための建機と燃料代につぎ込んだと
いう。砂は幹線水路から二次水路と三次水路を辿って田
まで到達する。同事務所の灌漑技師によると、稲の根本
を覆った砂は乾くと温度が上がり、稲にダメージを与える。
この問題に関して、維持管理のコンサルタントはマニュア
ルに「二週間に一回のフラッシュイング」
、つまり取水ゲー
トから取り込んだ水の圧力で砂を排砂路から押し流すよ
う指示しているが
(New Zealand Aid, 2005, p.8.)
、灌漑局
設計部門のある職員はそれは不可能だという。システム
写真 6:水田に浸入する砂
(2009 年 9 月4日、筆 者撮 影。写 真中央
は県 農 業 事 務 所のジェンダーフォーカル
パーソン、右は水利組合長)
を改変した際に排砂路は前のものを残したものの、新シ
ステムでは堰がないために取り込める水の量は限られ、堆積した
砂を押し流すことができないからである。土砂吐きゲートの後に
堆積する土砂を掻き出し、ゲートから排出するには建機が必要で
あった。
筆者は関係者を訪ね歩いてこうした情報を得たが、2009 年 9 月
の時点で女性の農民たちにはそれらの情報はなく、なぜ砂の浸
復興開発と国際援助
85
写真 7:排砂ゲート裏から排砂路
(2010 年 3 月24日、筆者撮影)
入が止められないのかわからないと述べ、水
門管理人への漠然とした不信感をつのらせて
いた。写真 7と 8 は 2010 年 3 月末に撮影され
たものである。3 月までの作付面積は 50ha に
とどまった。その後 4 月に農業省が所有する
建機を使用する番が巡って来たためこの土砂
は除かれた。
問題その3:農漁業省所有のブルドーザー及
写真 8:幹線水路入口における土砂の堆積
(2010 年 3 月
24日、筆者撮影)
びパワーショベルの運用実態
2010 年 8 月 2 日の大雨の後、建機は運良く
マヌファヒ県にあった。8 月 2 日の豪雨でカラ
ウルンの川底は削られ、取水ゲートの床との高低差が広がってい
た。そのため澪筋を調整し堰を築くため建機の使用が必要になっ
た。
東ティモールで最も多くの建機を所有しているのは、道路の建
設や補修をはじめ多くの建設作業を実施するインフラ省である。
86 フード・セキュリティと紛争
かつて農漁業省はインフラ省に依頼してこれらの機材を調達して
いた。
当然手続きには時間を要し、
現場のニーズに対応できなかっ
た。そこで、2008 年に農漁業省は自前の建機を持つべく予算措
置を講じた。しかし、現在の所有台数は 3 台のみで、それらを東
ティモール全県 4 で使いまわしている。よって各県各スキームで使
用できる期間はきわめて限られている。2010 年 9 月の時点で、そ
の 3 台のうち1 台は故障しており、また建機を輸送するトラックも
一台も故障していた。さらに、これらの建機を動かす運転手は 3
人のみで
(=3 台の建機に 3 人の運転手)
、8 月には二人の運転手
が病気で倒れた。
話はカラウルンに戻る。カラウルンでは 8 月の被災時、ブルドー
ザーは来ていた。
しかし運転手が病気になり、首都ディリに帰ってしまった。交
代の運転手が本省から派遣されたのは 9 月1日だった。その期間、
農民たちは水田が乾き、生き残った稲が細っていくのに対して為
す術はなく、県農業事務所は農民と灌漑局との板挟みに苦しん
だ。農漁業省の灌漑局長は炎天下での長時間労働が運転手の倒
れる原因だと指摘し、交代要員のいない態勢は不適切だと認識
していた。しかし、県事務所のトラクター運転手が建機を動かせ
るため県事務所に建機のカギを渡してほしいと本庁で直談判した
県農業部長の要請は退けられた。
9 月 2 日、
堰の築造は開始された。しかし、
その午後に上流で
(乾
季の)
大雨が降ったため、
その堰は決壊した。翌 9 月 3 日、
ブルドー
ザーが取水ゲートより上流部で川の流れを二分し、取水口付近へ
の水量を減らすために堰を築き始めた。4 月の組合総会で選出さ
れた新組合長のエリアス氏は徒歩で現場に駆けつけ、水につかり
ながらその作業を監督していた。9月5日、
ようやく水は水路に入っ
た。
3. 望まれない改変の本当の理由
インドネシア時代からの水門管理人は「頑丈さという点では現
在の構造物が上だが、システムの設計は前のものが優れている」
4
日本政府がラクロ川灌漑スキームに対して供与した建機が存在するマナ
トゥト県はローテーションから除かれている。
復興開発と国際援助
87
と断言する。それはマヌファヒ県農業事務所の灌漑技師ふたり
(ひとりはインドネシア時代から勤務)も同じ意見である。さらに
農民たちも同じ意見である。筆者が接触した農民たちは、女性
も男性も、
「昔は水路に水が来ないという問題も水田に砂が入っ
てくるという問題もなかった」
と述べている。
ではなぜ地元の望まない設計に改変されたのか。プロジェクト
の計画段階で現地関係者との協議はあったのかと、水門管理人、
水利組合長、県の灌漑技師、農民に尋ねてみた。水門管理人、
水利組合長、インドネシア時代から勤務していた技師は、そうし
た協議はなかったと答え、計画策定は中央とコンサルで進められ
たと述べた。一方、農民は尋ねる人によって答えが違った。後述
する農民グループ MDA
(Mata Daran ba Agrikultura)
のメンバーは農
民が集められたことがあると答えた。ただし彼らによると、その
会合で農民側は以前のシステムの復旧を望むと明確に伝えた 5。ま
た、設計に関してはマヌファヒ県の県知事の意見も同じで、彼も
またシステムの改変に異議を唱えた。しかし、首都からやってき
た技術者たちは、
「知事は土木の専門家でない、専門家は自分た
ちだ」と言って知事の意見を退けた。前述したが、同県知事はそ
の後のオープニング式典でも建機供与の要請を行っている。
地元の要求が不合理なものでないことは、日本政府の緊急無
償
(UNOPS 経由)
で復旧され、JICA が維持管理及び営農強化の支
援を続けているマナトゥト県のラクロ川灌漑復旧スキームと比較
すると明らかである。同じく河口近くでフリーインテイクによる取
水を実施するラクロスキーム 6 では、建機がプロジェクトに供与
され、維持管理と営農支援に多くの専門家と機材が投入されて
きた。また、取水ゲート付近の川幅は広く、川を横断する堰は設
けられていないが、取水ゲート側に向かってくる水を堰き止め同
時に砂を排出するための水門
(排砂ゲート)
が設けられている。カ
5
6
設計を担当した SMEC の事前調査報告書には「灌漑スキームに対する農民
たちのサジェスション」
として「洪水にたえる強固な堰」
と「堰付近への建機
の提供」が記載されている。
(SMEC, Feasibility Study of Seical Up, Maliana I,
Uatolari I and Caraulun Irrigation Scheme, Project Completion Report Appendix
4, May 2003, 7-11)
筆者は 2011 年 1 月からラクロスキームへの訪問を開始した。ラクロスキー
ムは、乾期に田に家畜を放牧する者との利害調整ができず、灌漑施設か
ら水は引けるにもかかわらず乾期のコメを作る農民がほとんどいない。ま
た、施設が東ティモール政府にハンドオーバーされた現在、機材の補修と
更新コストの不足分をどこが支援するのか見通しが立っていない。
88 フード・セキュリティと紛争
ラウルンより小さな灌漑面積
(660ha)に対して投じられた支援額
は、第 1 期
(2000 年 7月− 2001 年 12 月)で 273 万 7,415US$、第 2 期
(2002年5月−2003年1月)
で612万9,000US$であり
(JICA 東ティモー
ル事務所、2008 年)
、カラウルンよりはるかに多額である。この
格差が表しているのは東ティモール政府のコーディネーション能
力の欠如そのものである。
昨年、当時の灌漑部長がインドネシアのウダヤナ大学での留
学を終え、農漁業省に復帰したので、なぜこのようなデザインに
決着したのか質問をぶつけてみた。前部長の回答によると、カ
ラウルンのスキームデザインが「堰なし」
になった理由は資金不足
だった。当時 ARP がカラウルンのために調達できた資金は限られ
ており、東ティモール政府は
「堰なし復旧」
か
「復旧なし」
か、選択
することを迫られた。そして「苦渋の決断として」
前者が選択され
たのだと言う。
では、農民を悩ませるこの「中途半端なリハビリ」
を正当化する
ドナー側の論理は何だったのか。その謎を解く鍵が、2009 年 8
月に作成された ECの「東ティモール RDP 最終評価報告書案
(RDP:
にあった
(EC,
Rural Development Program は ARP が移行した事業)」
。いまだ「案」
のままである同報告書には、実はカラ
2009, 17-18)
ウルンを推したのは世銀であり、農漁業省は隣県の別スキームの
復旧を希望していたことが記されている。世銀の根拠は「事前調
査
(FS)」
で示された事業の「収益性」
であったが、その前提になっ
ていたのが、灌漑面積 1050ha
(堰があった旧システムでも灌漑能
力は 600ha)
という非現実的な想定による
「便益」
の嵩上げと
「堰な
し復旧」
で圧縮された「費用」
の削減であった。世銀の掲げる「効
率主義」の裏に、こうした杜撰な「
〈費用・便益〉計算」が潜んでい
たのである。
しかし、この中途半端なリハビリが現地の農民にとって大変な
お荷物となっていったのである。
4. ドナーと政府の対応
現地、つまり農民と県農業事務所の希望はすでに明確である。
旧システムで存在していたチェックダムを再建すること、それまで
の間は、かつて開所式で農業大臣が約束したように1 年を通じて
使用できる建機をカラウルンに常備することである。
復興開発と国際援助
89
ではこの事態に対する援助側と農漁業省の対応はどうなってい
るのか。
ARPIII では建設時に水利組合組織化のアドバイザーが投入さ
れ、その後も断続的に維持管理の訓練が実施された。また 2008
年末にプロジェクトを閉じる前、全国的なモデルとする水利組合
の規約案を作成するため灌漑局にコンサルタントを派遣するな
ど、ソフト面のフォローアップを行なった。しかし、ハードの面
では追加措置として必要な堰の建設も建機の供与も実施されな
かった。
地元は EU の資金によって新たに開始される RDPIII
(復興開発プ
ロジェクト III /ARPIII の次のフェーズ)
に望みをかけた。県農業事務
所は RDPIII の計画段階で EC 側の関係者に状況を打開する方策を
求めた。しかし、RDPIII は人々の生業に直結する小規模なプロジェ
クトのみを対象にし、カラウルンへの追加投資は含まれなかった。
現在カラウルンで RDPIII の支援対象となっているのは 2010 年 4 月
の組合総会で採択された組合規約の広報活動のみである。
一方、農漁業省灌漑局は近年チェックダムの再建に関して
フィージビリティースタディーの実施を検討してきた。しかし、カ
ラウルンはすでに
「復旧ずみの施設」
に分類されており、支援を待
つ他の施設がある中、追加投資のために予算を獲得することは
簡単ではない。また、建機を常備するオプションについても、カ
ラウルンに建機を供与したら他県の他スキームも同じ要求をする
ことが予想されるため、公平性に鑑みて不可能という判断であ
る。一方、ラクロスキームのようにドナーのイニシアティブで供
与されるなら問題はないという。であるなら RDPIII の協議におい
て問題提起ができたはずである。しかし本庁側はドナー側が提
案する案に抵抗することなく、現行の枠組が決定されたのである。
2007 年の政権交代後も農業大臣を含め政府要人の現地視察は
あったが、現状打開への具体的な行動にはつながっていない。
5. 地元水利組合の動き
東ティモール政府は食料自給率 7 の向上を主要な政策課題にあ
7
2003 年における米の国内消費量、推計 82,106t に対して、国内生産量は推
計で 32,717t、自給率は 40% となる
(同上報告書)
。2007/ 08 年は旱魃及び
90 フード・セキュリティと紛争
げている。農漁業省は 2009 年から大型トラクターでの耕起サー
ビスやグループ向け小型トラクターの供与を実施して可耕地の
拡大を図ってきた。一方、カラウルン灌漑地区のポテンシャルは
1,000ha と言われており、同地区の農民たちには二期作を実施す
る意志があり、実際に灌漑のキャパに応じて二回目の米をつくっ
てきた。同地には若い世代を中心にした MDA という農業普及グ
ループが存在し、2009 年からは Espinfloo、2010 年からは Luta ba
Esperanca という女性の農業グループも活動を始めた 8。ベタノ村
の農業普及員は女性で生産性向上技術の普及に熱意を示してい
る。しかし、灌漑の機能不全が人々の手足をしばっている。MDA
が過去に開催したワークショップでも参加者は地域が抱える最大
の問題として
「灌漑」
をあげている。
灌漑が地域の農民にとって喫緊の課題であることは明らかであ
る。筆者は、まず女性農民と相談し、次に県農業事務所
(所長、
灌漑技師 9、ジェンダー問題担当者)と協議した結果、2010 年 3
月 25 日に男女共同参画による住民参加型ワークショップ「カラウ
ルンにおける灌漑発展のためのワークショップ―積極的かつ平
等な参加を目指して」を県農業事務所と共催することになった。
同ワークショップの参加者は 130 名にのぼり、参加者の約 3 割は
8
9
イナゴの発生により米の国内生産量:27,000t に落ち込んだ。この時期は世
界金融危機の勃発で投機マネーが金融商品から石油や穀物へ流れ、穀物
が高騰した。試算では籾用及び備蓄用あわせて米の輸入量は 78,000t とな
り 5,850 万$が費やされた
(Dr. George Deichert, RDPII, EU-GTZ, Introducing
System of Rice Intensification in Timor-Leste - Experiences and Prospects, 7th
Annual Conference of the International Society of Paddy and Water Environment
Engineering, 7-9 October 2009)
。一方、既存の全灌漑施設 428
(うち 345 は
小規模住民灌漑)
が修復されると 71,258haで作付け可能となり単収 1.5t/ha
で 74,939t、2.1t/ha なら104,914t の収穫が得られると試算されている
(James
Oliver Oduk, MAFF Irrigation Adviser, Exit Report: Irrigation Rehabilitation and
Management ARP: Agricultural Rehabilitation Project, 18/ 5/ 2007, pp.8-9.)
。
MDA はアイルランドを本拠地とする国際 NGO、CONCERN が制度・組織支
援の一環として資金援助を行い育成したグループであり、女性の参画が奨
励されている。Mata Daran ba Agrikultura とは
「農業へのガイド」
という意味。
女性グループの組織化は、農漁業省による大型トラクターによる耕起サー
ビスと小型トラクターの農民グループへの供与にともなって、農漁業省が
奨励している。Espinflooとは
「広まる」
、
Luta ba Esperancaとは
「希望への闘い」
という意味である。
マヌファヒ県農業事務所灌漑技師は 2008 年 2 月から 2008 年 11 月まで 9 ヶ
月間日本
(筑波)に滞在し、JICA の「農村開発のための灌漑と排水」という
研修を受講した。また、県農業事務所長は沖縄で実施された JICA の熱帯
農業研修に参加した経験がある。JICA も日本大使館も日本が直接手がけ
たスキーム以外の問題にはあまり注意を払っていない。
復興開発と国際援助
91
写真9:ワークショップにおけるグループディスカッション
(2010 年 3 月25日、筆者撮影)
女性だった。オープニングでは、まず筆者が開催の
経緯を説明し、続いて、マヌファヒ県知事、首相府
男女平等推進局の代表、農漁業省灌漑局水利組織
課長がスピーチを行い、最後に女性で農業土木の学
士号を持つ与党国会議員のメッセージを筆者が紹介
した。第一セッションでは県農業事務所の技師たち
が新旧システムの比較を行い、水利組合長が組織の
現状と農漁業省が調整した組合規約案について説明
した。地区別に分かれたグループディスカッション
(写
写真10:ワークショップで発表する女性世帯主
(2010 年 3 月24日、筆者撮影)
真 9)では、各地区における灌漑の問題、維持管理
及び水利組織の参加や機能に関する現状と課題が
討議され、各グループの発表を経て、最終セッショ
ンで県農業事務所長から現状打開への提案がなされた。本ワー
クショップでは女性農業グループや女性世帯主も営農者として積
極的に発言を行い
(写真 10)
、水利組合に女性の参加が奨励され
る機運をつくった。
2010 年 4月23日、
組合総会が開催され、
理事選挙も実施された。
投票は一回のみで、得票数の多い順に組合長、副組合長、書記、
会計が決定する。その結果、唯一の女性候補者が第 4 位の得票
数で会計担当理事に選出された。参加した女性たちの割合は全
92 フード・セキュリティと紛争
体の参加者
(約 90 名)の 8 分の 1 ほどだったが、女性票の結束が
彼女の当選を実現させた。彼女は現在 30 歳、高校卒業後10 年
にわたる NGO での活動経験を経て、数年前に故郷に戻り MDA の
社会教育プログラムを担った。現在は結婚して営農に励んでいる。
彼女の主張はかつて問題になった組合の財務の透明性を高める
ことだった。当日採択された規約は会員資格を男女の区別なく
全利用者とするものであった。また、この総会には灌漑局水利組
合課長も参加し、改めて上記の問題に対する政府の対応が要請
された。
2010 年 8 月の災害は新執行部体制で発生した。新組合長は建
機の運転を再開させるために国会議員に電話をかけまくった。そ
の後新執行部は東ティモールで最も機能しているボボナロ県のマ
リアナ第 1 灌漑スキームを視察し、システムの違いや乾期におけ
る田畑での家畜放牧への対処法などを学んだ。この視察には女
性農業グループ Espinfloo のメンバーも参加した。
しかし、2010 年の年末はさらに深刻な土砂堆積が灌漑施設に
発生していた。この時も建機は来ていた。だが今度は運転手がや
めてしまい建機を動かせない状態にあった。一方、灌漑局の対応
は一歩だけ前進した。2011 年度の予算案にチェックダム建設のた
めのフィージビリティースタディー費用と省所有の建機を一台増
やすための費用を計上したのである。建機の増設は他県の利用
状況をも改善する。これらの提案は農業省内で承認された。しか
し、
「農業から道路整備へ舵をきった」予算編成方針の下、閣僚
協議会
(内閣)
はこれらを削除した。
2011 年 4 月、水利組合は首都に陳情団を派遣することの検討
に入った。その過程で、組合長と RDPIII 代表との面会が県農業事
務所で行われ、5 月には農漁業省大臣のマヌファヒ県視察の際に
大臣による施設の視察と組合代表との面会が実現した。RDPIII の
代表は、現行のシステムを見直すため「技術調査」を行うと述べ
たというが、仮に
「技術調査」
が実施されたとしても、堰の建造な
どシステム改変のための予算確保をどうするのかという重い課題
が残されている。
6. 草の根からの食料安全保障
MDAではインドネシア時代に日本の富山県で研修を受けたひと
復興開発と国際援助
93
りのリーダーが実験農場を経営している。現在は灌漑施設が頼
りにならないため、イモ類やトウモロコシなど畑作作物の品種の
選抜と混作
(トウモロコシとカボチャ)
、果樹
(バナナとパパイヤ)
栽培、イモやバナナを餌とする養豚などに取り組んでおり、
「稲
が実らなくても飢えてはダメだ。対策を講じろ」
と人々に説いてい
る。彼はどれだけ請われても農漁業省の職員になることを拒否し、
在野でいくと決めている。
2010 年 12 月、土砂に埋まった灌漑施設の近くで新しい女性農
業グループ、Luta ba Esperanca がトウモロコシの収穫に精出してい
た。このグループは水の入らない水田を畑地として利用している。
また、家畜による害から畑を守るために、柵の前に狭く深い溝を
掘るという工夫を始めた。
さらに、砂で埋まった「近代的灌漑施設」に見切りをつけ、現
在の取水ゲートより下流に取水口のあるポルトガル時代の手堀り
の水路を使って水を自田まで引き込んでいる人々もいる。2011 年
3 月、そうした人々の小さな水田のみで青々とした稲が育っていた。
人々は生きるために食べるものをつくる。しかしカラウルンでは
そうした人々の営みがドナーと政府の行動によって混乱させられ
ている。ドナーは家父長的であり、政府はドナーに迎合しており、
農民たちの楯になっていない。農民たちはポストコロニアルにお
ける新しい権威が自分たちの望まないシステムを構築するのを阻
止できなかった。カラウルンの灌漑問題が解決されない一方で、
ベタノは政府の「長期投資戦略」において火力発電所の建設予定
地とされた。一歩ずつ異議申し立てに踏み出したベタノの農民た
ちに新たな火種が落とされようとしている。
追記
2011 年 12 月の訪問でベタノにおける火力発電所建設計画の進
捗を確認した。予感は的中し、村と地権者は火力発電所建設の
ために 4ha の土地を無償提供することを決定していた。しかし、
その後、建設には 4haではなく16ha の土地が必要であることが判
明した。地権者は今度は補償を望んだが、補償に関する政府か
らの具体的対応がないまま、5 月14 日、孫請けした現地業者が
地権者に 6000ドルの生活支援金を分け、土地の整地を断行した。
8 月 31日、この間の経緯に抗議する地権者、学生
(地権者の家族)
、
94 フード・セキュリティと紛争
村人、約 100 名が建設用地でデモ行進を行った。そのデモに対し
て、警察が介入し、空に向けて銃を発射する、女性参加者を殴っ
たり卑猥な言葉を投げるなどした上、9 名を逮捕した。9 月12 日、
事態収拾のため、法務大臣等が現地入りしたが、その際、作付
けされていない土地を見て「16ha の土地は食料確保のために必要
と言うが、放置されている土地がまだたくさんあるではないか」
と
発言したため、村人の怒りをかった。法相は村の灌漑問題を知ら
ず、また、建設用地にはサゴヤシ、ココヤシ、チークが生育し、人々
が稲やイモを植えており、生活の基盤になっていることを理解し
ていないと人々は言う。ベタノでの火力発電所建設は「全国電化
計画」
の一環であるが、巨額の国家予算が投じられるこのプロジェ
クトに関して、業者の入札過程も環境アセスメントの有無も国民
に明らかにされていない。ベタノではひとつの懸案が解決されな
いまま、別の大きな問題の幕が切って落とされた。
引用文献
New Zealand Aid
2005
Irrigation Operation and Maintenance Project, Draft Final Report:
Operation and Maintenance of Rehabilitated Irrigation Schemes,
Volume 2: Operation and Maintenance Manual For Caraulun Irrigation
Scheme.
JICA 東ティモール事務所
2008 『東ティモール事務所活動報告書 2002 年 5 月 -2008 年 8 月』
European Commission
2009
Final Evaluation of Timor-Leste Rural Development Programme, Draft
Report.
先住民族の土地喪失と移民との紛争
95
先住民族の土地喪失と
移民との紛争
インド北東部の移動耕作民の事例より
木村真希子
明治学院大学国際平和研究所
1. はじめに
インド北東部のアッサム州は、1980 年代より先住民族と移民
の間で紛争が頻発しており、多数の移民が被害者となる事件が
絶えない。この背景には移民の流入により先住民族の土地が収
奪されていくという植民地時代からの構造が存在している。しか
し、単に移民の流入のみによって先住民族の土地喪失が起きて
いるわけではなく、その背後には近代的な生産形態と貨幣経済
に適応した移民と、近代化の波に乗り遅れて土地を奪われる先
住民族という構図がある。
これにさらに拍車をかけているのが、食糧増産のための高収
量品種の導入や現金を必要とする肥料の購入である。アッサム州
の先住民族は小規模農民であり、初期投資の必要な高収量品種
の導入は借金を作る機会を増やし、結果として土地を手放さざる
を得ない羽目に陥ることも多い。
食糧増産のための政策が小規模農民の土地喪失や貧困化を招
く事例は、各地で報告されている。1960 年代以降、インドにお
ける飢饉を受けてパンジャブ州をはじめとして導入された緑の革
命でも、農民の貧困化が指摘されている。インド北東部は高収
量品種や化学肥料の大量投入などはあまり進んでおらず、1990
年代半ばから 2000 年代にかけて徐々に高収量品種の導入が進行
中であり、その意味では 1970 年代、80 年代にインドの他地域で
起きたことが遅れて進行しているとも言えるだろう。
ただし、アッサム州の先住民族の事例をみると、土地喪失はこ
うした近年の変化だけに起因するものではない。むしろ、植民地
化以降、税収増加と食糧増産のための近代的な土地制度の導入
や政策移民の促進、そしてその結果もたらされた食糧生産の近
96 フード・セキュリティと紛争
代化というより大きな流れの中に位置づけられるものである。本
稿では、フード・セキュリティという新たな切り口から、アッサム
における先住民族の土地喪失と移民との衝突という問題を捉え
なおすことを試みたい。
インド北東部 1 は、山岳地に取り囲まれた平野部のアッサム州
と、山岳民族が多数を占める 6 つの山岳州から形成される。山
岳地帯は伝統的に移動耕作をおこなうナガ、ミゾ、カシ、ガロな
どの先住民族が多数であり、今でも多くの地域で移動耕作と狩
猟・採集を中心とした生計が営まれている。平野部のアッサム州
は人口の 50%が植民地化以降の移民
(ベンガル地域からのムスリ
ム農民が約 30%、茶園の労働者として移住した他地域の先住民
族が 10-15%、
その他ネパール人、
インドの他地域からの住民など)
であり、
先住民族は人口の約 10%を構成している。この地域では、
80 年代よりバングラデシュやネパールからの「外国人」
、いわゆる
不法移民の流入に対して、激しい反対運動が起き、さらには移民
を標的とした暴動や襲撃事件も発生した 2。暴力的な紛争は 1990
年代、2000 年代を通じて発生し、現在も継続している。
こうした紛争の背景には、アッサム州平野部の先住民族が 19
世紀の大英帝国による植民地化後、政策的に推進された茶園の
形成やベンガル地域からの植民により、伝統的に居住・耕作して
きた土地を失い、森林部や丘陵地帯へと移住していったり、小作
人や農業労働者になっている事実がある。山岳部に起源をもつ
先住民族の人々は、植民地化以前は平野部でも年ごとに耕作地
を変えるなど、定住した水田耕作のみに頼らない形態の食糧生
産手段を取っていた。植民地化以降、イギリス行政官はこうした
生産形態を「効率の悪い fluctuating cultivation」
として遅れた耕作
法とみなし、東ベンガル地域からムスリム農民を政策的に導入す
ると同時に、近代的な個人土地所有制度を取り入れた。先住民
1
2
北東部はナガ独立運動、ミゾ独立運動をはじめ、山岳地域の先住民族に
よる自治権・自決権を求めた運動と紛争により、国民統合とインド支配の
正当性を揺るがしてきた。平野部のアッサム州は 1970 年代後半までは言
語問題を除いて大きな紛争が見られなかったが、1980 年代よりバングラデ
シュやネパールからの移民の流入に反対した
「反外国人運動」
がおこる。
アッサム州では 1979-85 年にバングラデシュやネパールからの移民の流入
に反対した「反外国人運動」
が活発化し、地域政党の台頭と政権交代を招
いた。また、1980 年代後半に平野部の先住民族の自治権運動が活発化し、
武装闘争や暴力的な民族衝突へとつながった。おもなターゲットとなった
のはベンガル地域からの移住者の子孫であるムスリム農民である。
先住民族の土地喪失と移民との紛争
97
族はこうした近代的土地所有制度に対応しきれず、税金を納め
ることにも消極的で、次第にムスリム移民の土地所有率が増えて
いった。この傾向は植民地化以降も継続し、その結果 1970 年代
には先住民族の間に土地なし農民が増えたり、他県への流出が
多いことが社会問題として顕在化した。
アッサム州平野部の先住民族にとって、植民地化以降の近代
的な土地所有制度への変更と移民の流入は単なる土地の喪失だ
けではなく、生活を支える周囲の生態系や生産形態など、文化
まで含めた生活全般の条件を大きく変えるものだったといえよ
う。伝統的な村での生活では、個人所有の土地だけではなく、
共同で利用していた共有林や入会地、川などが食糧や衣料、住
居などの資源を提供していた。しかし、こうしたコモンズへの権
利はほとんど認められず、森林は囲い込まれていき、入会地は移
民に払い下げられた。そればかりか伝統的な生産形態は非効率
的なものとして否定された。
このようにして考えていくと、近代化による食糧増産のプロセ
スは、むしろ先住民族の人々にとっては食糧の不安全をもたらし
てきたといえるだろう。真のフード・セキュリティは、単に食糧増
産だけではなく、各民族がどのような生産形態を取っているのか、
それを支える共有林や入会地、川へのアクセスがどう保障され、
関連する文化の継承が可能かどうか、という広い範囲に関わる
問題として、より大きな枠組みの中に位置づけられる必要がある
のではないか。本稿では、アッサム州中部のナガオン県を例にと
りながら、土地喪失や生産手段の変化、移民による圧迫が人々
の暮らしにどのような影響を与えているかを論じることで、フード
・
セキュリティと民族紛争の間の関係を考えたい。
2. 植民地化と土地喪失:アッサム州中部の事例
19 世紀前半、
イギリス植民地政府は、
茶木の発見に後押しされ、
アッサムにおける植民地経営に着手した。イギリスがこの地域を
植民地化した主な目的は、茶園経営の奨励であったが、同時に、
広大な土地に人口密度の少ないこの地域を有効活用するため、
定住耕作を奨励し、近代的土地所有制度を導入した。そのため
の第一歩が、1868 年に導入されたアッサム地租規則と、土地所
有と納税を一年ごとに更新する単年地権から、長期
(30 年間)定
98 フード・セキュリティと紛争
住するという永世地権に転換させる政策であった。
しかし、当時この転換はなかなか進まなかった。サンジーブ・
バルアによれば、アッサム人は当時、山岳地に起源をもつ先住民
族も含め、広い意味での移動耕作をおこなっていた。耕作地を一
年ごと、もしくは数年ごとに変える彼らにとって、長期間一定の
場所で税を納める永世地権よりもむしろ単年地権のほうが好ま
しかったのは明らかである。なかなか進まない地権の変換に業を
煮やした植民地政府がとった政策は、人口過剰のベンガル地域
より政策的な開拓移民を導入することだった。
(Guha 1991, Baruah
2005: 83-85)
こうした移民政策の影響をもっとも強く受けたのがアッサム州
中部のナガオン県である。ナガオン県では政策的な移民の導入
が進み、1900 年代にはほとんど存在しなかった移民出身のムス
リムの数が 1931 年には 12 万人
(約 21%)にまで上昇し、1951 年に
は 35%を超える
(2001 年の国勢調査では 50%をムスリムが占め
る)
。移民はベンガル地域、特にモイモンシン県からのムスリム
農民であり、当時、洪水多発地帯で定住者のいなかったブラフマ
プトラ川やその支流の河川地域に移住した。人口過剰のベンガ
ル地域で、土地不足で地主に苦しめられていたムスリム移民は永
世地権を得ることに熱心で、これらの土地の所有権を次々に取得
していった。
この結果、先住民族の人々は大きな影響を受ける。ブラフマ
プトラ川やその支流の河川地域は先住民族を含むアッサム人が
焼畑耕作をおこなっていた場所だった。1938 年の政府報告書で
は、イギリス行政官による「部族民
(訳者注:先住民族を指す)が
移民による一番の被害者であり、ナガオン県ですでに土地なし
農民が出始めている」
という証言がある
(Report of the Line System
。現在でも、これらの地域には
「カチャリ村」
Committee 1938: 22)
や「ラルン村」
など、先住民族の名前がついた村をあちこちでみか
けるが、ほとんどの村で先住民族はいないか、いてもごく少数で
ある。現在の圧倒的多数の住人であるムスリムの村人に話を聞く
と、昔は先住民族もいたが、いつの間にかどこかへ行ってしまっ
た、という。
では、先住民族の人たちはどこに移住していったのか。より人
口密度の少ないナガオン県西南部
(現在のモリガオン県)や山岳
地域であるミキール丘陵
(現在のカルビ・アングロング県)
、また
先住民族の土地喪失と移民との紛争
99
は県内の森林地帯に移住していった。森林地帯も先住民族が伝
統的に利用してきた土地の一つであるが、植民地政府による木
材供給のために国有林指定が進み、許可なく定住するものは不
法占拠者のレッテルが貼られていった。
一方、人口が過密な地域では、森林局の許可の下で労働を提
供しながら保留林の一部に定住することを承諾した者たちもい
た。こうした森林局管理下の村を「森林村」
もしくは「植林村」
とい
う。
「森林村」
や
「植林村」
は、おもに山岳地帯で焼畑耕作を行って
いた先住民族を定住させると同時に、人口の少ない森林地帯で
労働力を確保するために生み出された制度だった
(Karlsson 2000:
。しかし、土地が豊富であった植民地初期には、先住民族
83-6)
の人々はしばしば森林局下での労働を嫌い、一時定住してもその
後いなくなってしまうという例も多かった
(Progress Report of Forest
。そ
Administration in the Province of Assam for the year 1928-1929)
のため、森林村の制度自体は導入直後には一部の人口過剰地域
を除いてうまくいかなかったが、植民地末期の 1940 年代になる
と、ナガオン県のような平野部の移民による土地不足が目立つ地
域で特に森林村の制度が機能し始める
(Kimura 2008: 9-10)
。
こうした例の一つが、ナガオン県中部のイタパラ村からラオコ
ワ保留林
(地図 1)
の植林村に移住した人々である。ナガオン県で
は 1920 年代から、木材供給の需要に応えるため、保留林内部で
植林 村を設 定し、おもに
先住民族の人々を移住させ
ARUNACHAL PRADESH
BHUTAN
て労働力として利用するこ
とが試みられた。しかし、
WEST
BENGAL
Nagaon
BRAHMAPTRA
Dispur
NAGALAND
MEGHALAYA
Laokhowa
Wildlife
Sanctuary
N
State Capital
TRIPURA
MIZORAM
地図1:ラオコワ保留林
つからず、この制度が実施
されるのは 1940 年代であ
る。このことから、1920 年
代に本格的に始まった移民
MANIPUR
BANGLADESH
1920 年代には移住者が見
International Boundary
District Boundary
により、30 年代、40 年代
に向かって徐々に先住民族
の人々の耕作地が狭めら
れていったことがうかがえ
る。ナガオン県の県庁所在地付近に属していたイタパラ村は先住
民族であるティワが多数の村だが、人口が増えたため、森林局
100 フード・セキュリティと紛争
からの募集に応じてラオコ
ワ保留林の中に移り住んで
植林作業に従事すると同時
に、いくばくかの土地を与え
られ、耕作する人々が出始
3
めた。(写真
1)
こうした森林村や植林村
への移住であれば、政府の
認可を受けて労働と引き換
えに居住と耕作が許可され
た。しかし、中には取り締ま
りの少ない森林地や放牧指
定地に移住したものも多く、
そうした人々は不法占拠者と
写真1:カリアディンガ森林村への入り口
みなされていく。また、森
林村や植林村においても、土地の権利が認められたわけではな
く、森林局が許可する限りにおいて定住が認められたというだけ
であった。こうして、アッサム州中部の移民導入地域では先住民
族が森林地帯や山岳地域に移住したり、残った者も村の中では
ごく少数者として追いやられていく。このプロセスを平野部にお
ける先住民族の土地喪失の第一段階と位置づけられるだろう。
3. ラオコワ保留林の植林村:定住化と近代的農法の導入
3.1 野生生物保護法の導入と第二の土地喪失
インド独立前後の 1940 年代から 50 年代にかけて、ラオコワ保
留林には 7 つの植林村が設置され、独立後の 1950 年代に正式に
認可される。その中の一つ、カリアディンガ植林村では 27 世帯
が 1950 年に認可された。1959 年には 56 世帯にまで増えている。
このことからも、独立後も土地不足の状況が続いていたことがう
かがえる。
植林村では、保留林内での一定の土地において植林作業に従
事することと引き換えに、保留林内で耕作地が与えられた。ここ
で、ティワの村人の定住耕作が促進されたといえるだろう。とは
3
2005 年 12 月 8 日カリアディンガ植林村での聞き取り。
先住民族の土地喪失と移民との紛争 101
いっても、1950 年代の時期はまだ国有林の外にも耕作地があり、
この森林村の土地を「季節的に耕作できる土地の一つ」とみなし
ていた人々もいることから、この時点で固定されたということは
できないかも知れない。しかし、いずれにせよ、森林村外部の人
口圧力が強まって行き、森林地が国有林として囲い込まれていく
と、ティワの人々が移動耕作をする余地はなくなり、一定の土地
で最も多くの収穫を得られる水田耕作へと農耕形態の変化を余
儀なくさせられていく。
ただし、定住したとは言っても、この頃のティワの人たちは森
林局下で植林作業を行うということで、かなり柔軟に森林資源に
アクセスできていたようだ。また、
当時の植林作業に従事した人々
への聞き取りから、森林局管理下の仕事ではあったが、植林作
業自体を楽しんでいた様子がうかがえる。
「木を一本一本、わが子
4
のように大事に植えて育てた」
という証言もあった。保留林内の
池をリースして、魚を釣ってたんぱく源を得たり、その他家屋の
材料や不作時の食料の収集など、森林は人々に生きるためのさま
ざまな資源を提供していた。
こうした生活の条件が一変するのが、1978 年である。1972 年
の野生生物保護法に基づき、ラオコワ保留林は野生生物保護区
に指定された 5。これにより、森林局は植林作業を中止し、植林
村を廃止することを決定した。村人たちは現在の植林村から立ち
退くよう伝えられたが、彼らは「行くところがない」
と主張し、再
定住地が与えられない限りは立ち退かないと抵抗した。このため、
森林局は村人たちが現在の居住地と耕作地を使用し続けること
を許可したが、植林作業は廃止された。また、それまで使用して
いた池やその他の森林における活動は禁止された。
植林作業に従事しながら、他の森林資源にアクセスしていた村
人たちにとって、これは大きな変化であった。先住民族の人たち
にとっては、森林は薬草や果実、家屋の材料など、生活全般に
わたる資源を保障する役割を果たしているところである。野生生
物保護法
(1972 年)
では、
「部族民やその他の森林地の住人のニー
ズと野生生物保護と保全を調和させるような方策がとられなけれ
4
5
2005 年 12 月ラオコワ保留林カリアディンガ植林村における聞き取りより。
ラオコワ保留林は 1907 年、一角サイの保護のために保留林に指定された、
アッサムでも最も古い野生生物保護のための保留林の一つである。
102 フード・セキュリティと紛争
ばならない」
と規定されている。しかしこの法律の適用に際して、
20年にわたって植林を行い、
森林の手入れも行って来た人々のニー
ズは考慮されることはなかった。むしろ、先住民族の人々のすべ
ての権利は消滅した、とみなされたのである。
ナガオン県の森林局官僚は、植林村の人々の現状について筆
者に以下のように語った。
「植林村は、そもそも一時的なものだっ
た。以前は労働力が必要とされていたが、今では安く労働者を
雇うことができる。また、今では村人たち自身が木材伐採に手を
6
貸したりして、森林局にとってはお荷物となっている。
」
このよう
に、かつては植林のための労働力として国有林の一部に居住を
許されたティワの人々だが、環境保護政策の強化により、現在で
はむしろじゃまもの扱いされるようになった。これがラオコワ保
留林に暮らす人々にとっては、
「第二の土地喪失」
といえるだろう。
3.2 高収量品種導入の影響:借金と移民との軋轢
森林内のさまざまな資源へのアクセスを制限されたティワの
人々に、新たな変化が起きるのが 1990 年代である。この時期、
サリ米と呼ばれる雨期に収穫できるコメからボロ米と呼ばれる冬
季
(乾期)
に収穫できる高収量品種のコメへの転換が推進された。
降水量が多く、雨期の耕作はブラフマプトラ川や他の河川の氾濫
により収穫量が大きく左右されるアッサムでは、90 年代から州政
府によってボロ米の導入が促進されている。
バリパラ保留林はブラフマプトラ川に近く、洪水の影響を受け
やすい地域であるため、雨期のサリ米から乾期のボロ米に転換
する世帯も出始めている。しかし、冬の降水量が少ないアッサム
では、ボロ米の耕作には電動ポンプの導入など、初期投資が必
要になってくる。そのため、借金の機会が増えるか、もしくは自
分で耕作するのをやめて土地を契約で貸し出してしまうという農
家も多い。ここ数年で洪水により雨期の耕作をあきらめ、契約で
土地を近隣のムスリム農民に貸し出すという農家が半数以上見ら
れた。ある男性 A さんは、洪水で自分の土地の 8 割が耕作不可
能となってしまったため、残りの土地もボロ米に転換しようとして
いると語った。しかし多額の現金が必要なため、自分では始める
ことができず、契約で近隣のムスリム農民に貸し出し、1ビガ 7 ご
6
2005 年 12 月 7 日、ナガオン県森林局勤務の役人より。
先住民族の土地喪失と移民との紛争 103
とに 80 キロという米を受け取るよう交渉しているという。8
こうした変化の中で、植林村のティワの人々にとって特に深刻
な事態を引き起こしているのが借金と土地への抵当である。これ
以前からも、洪水、家畜の死、病気など、さまざまな理由で村
人たちは現金が必要になり、そのたびに近隣のムスリムに借金す
ることになる。この傾向は、初期に現金による投資が必要なボ
ロ米の導入によって拍車がかかっているといえるだろう。2005 年
時点で 26 世帯 9 あったティワの村人たちのうち、10 世帯が土地の
一部を抵当に入れ10、23 世帯は借金を抱えていた。
多くの村人はマハジャンと呼ばれる金貸しから借金し、土地を
抵当に入れている。植林村のティワの村人たちは土地権を持って
いるわけではなく、森林局の裁量で居住と耕作を許可されている
だけである。そのため、正確にはこれらの取引は違法だが、こう
した実践は森林地やその他の政府所有の土地ではよくみられる。
借金を返済できない場合は土地の「所有権」
が他人に移り、出稼
ぎに行くかもしくは自分たちの割り当て地で
「小作人」
として働くこ
とになる。
こうして土地を抵当に入れ、実質上の所有権を占有されている
ティワの村人たちは、いつか借金をした近隣のムスリムに土地を
追い出されるのではないかという不安を抱いている。たとえば、
ある若い女性 B さんにインタビューした際には、義父の借金で 22
ビガの土地のうち、20 ビガを抵当に入れたという証言があった。
そのため、現在では夫がケララ州まで出稼ぎに行き、仕送りをし
ているという11。また、別の事例では、借金を返済しようとしたが、
貸主がそれを拒否したという事例もあった。ある男性 C さんは兄
の病気の治療のため、借金をしたが、返済額を用意した。返済
して土地の使用権の返却を要請したが、貸主は土地の利用の方
にうまみを見出したためか、それを拒否した。彼は何度か貸主に
土地の単位。1ビガは約 3 分の 1 エーカー。
2005 年 12 月 8 日カリアディンガ植林村での聞き取り
1959 年の時点でカリアディンガ植林村には 56 世帯が登録されていたが、
1960 年代に洪水で耕作地が砂をかぶったために 13 世帯がイタパラ村に帰
り、また 1983 年の暴動時
(後述)にはもう13 世帯が村を去った。
(2005 年
11 月 27 日、カリアディンガ村でのグループ・インタビューより)
10 世帯ごとのインタビューで「土地に抵当がついている」
と回答したのは 10 世
帯だったが、その後の複数の村人へのインタビューでは「ほとんどの世帯が
土地を抵当に入れている」
という証言も得られた。
11 2005 年 12 月 11 日カリアディンガ植林村での聞き取りより。
7
8
9
104 フード・セキュリティと紛争
写真 2:借金の窮状を訴えるティワの家族
借金の返済と土地の使用権を要請したが、拒否され、むしろ暴
力を使って追い払われたという12。
(写真 2)
こうした事例が度重なっているため、ティワの村人たちの間に
は、はじめから土地を奪うことを期待してムスリムが金を貸して
いるのでは、という不信や、植林村でなければ、すでに追い出
されていたのではないか、という不安が常に付きまとっている。
こうした不信が移民との軋轢の温床となり、時に大規模な衝突を
引き起こす背景となっている。1980 年代の反外国人運動の際に
は、1983 年アッサム州議会選挙の最中に 3,000 人ものムスリム移
民が一日のうちに虐殺される事件が起きたが、当時最も大きな
被害を出したのがナガオン県、モリガオン県であり、ティワの人々
は攻撃に手を貸した 13。
アッサム州西部でおもに活性化したもう一つの先住民族グルー
プであるボドの人々の自治権運動でも、ムスリムや他の移民へ
の攻撃が目立っている。1990 年代以降はこうした事件が頻発し、
数年に一度は大規模なムスリム農民やその他の移民に対する襲
12 2005 年 12 月 8 日カリアディンガ植林村での聞き取りより。
13 ただし、ラオコワ保留林の付近ではムスリムが多数のため、むしろティワ
の人々がムスリムからの報復攻撃を恐れていたという。この事件により、
13 世帯が村を去ってイタパラ村へ帰ることにつながった。
先住民族の土地喪失と移民との紛争 105
撃が発生している。1990 年代からは、単に襲撃事件が起きるだ
けではなく、5-10 万人単位の国内避難民が発生し、事件後 25 年
が経過しても帰還できない状況が続いている。
実際の紛争に至る経緯は、単に土地問題があるというだけで
はなく、政治的な動きや自治県運動が存在する。しかし、先住
民族の間の土地問題が民族運動を支える大きな要因となってい
ることについては、多くの研究者やジャーナリストが一致して認
めるところである。移民の流入は現在、アッサム州からの他の北
東部の州に拡散する形で継続しており、移民への反感も他州で
広まりつつある。
4. おわりに
アッサム州ナガオン県のティワ民族の事例に見られるように、
先住民族にとって、近代化とは共有地や森林を囲い込まれ、税
収増加と食糧増産のための移民政策で土地を失い、周辺部へと
追いやられていくプロセスにほかならなかった。土地の取得が困
難になり、ようやく森林地などに落ち着いた後も、政策の変更
で立ち退きを迫られたり、またやっと土地を取得しても借金で再
び土地なしになる事例が後を絶たない。ラオコワ森林の片隅で、
立ち退き要求にさらされ、周囲の移民の圧力におびえつつも耕作
を続ける植林村のティワの人々はこうしたアッサム州の平野部の
先住民族の現状を象徴しているかのような存在である。
このような視点から見ると、近年の民族衝突は、先住民族対
移民という構図よりも、むしろ先住民族の持つ伝統的な価値観
と近代的な変容の間の衝突であり、前者のスペースが後者の拡
大によって狭まり続けているということなのかも知れない。この
構造がある限り、フード・セキュリティを追及し、食糧増産のた
めに近代的な方法を導入していけばしていくほど、この地域の先
住民族は食料を得るための基盤となる土地を喪失し続けるという
矛盾に直面し続けるだろう。
2005 年にラオコワのカリアディンガ森林村に通った際、調査の
最後に村のお祭りに出くわした。森林からの恵みに感謝を捧げる、
ボン・プジャ
(bon puja)
という祭りで、
鶏の首を切ってその血を絞り、
他の供物と一緒に森の神に捧げる。村では米から作った酒や鶏
のカレーなどでささやかな宴会が催される。政府によって囲い込
106 フード・セキュリティと紛争
写真 3:ボン・プジャの様子
まれ、
「野生生物保護」
の名目でアクセスは限定されても、彼/女
たちにとっては今も森林は恵みを与えてくれる象徴であり、信仰
の対象でもある。
(写真 3)
このような民族文化と密接に結びついた世界観、そして実際
に森林から先住民族が得られるさまざま資源は、近代的な制度
の中でその価値を認められることはなかった。近年、先住民族
の権利運動の進展とともに、環境保護運動や生物多様性条約の
枠組みの中で、生態系を破壊せずに共存する伝統的な知識の価
値を再評価する動きはあるが、その影響はまだ限定的なもので
ある。しかし、こうした先住民族の伝統的な生活様式や文化を
全体として評価することが、この地域における民族紛争の解決に
とっても不可欠であろう。
先住民族の土地喪失と移民との紛争 107
参考文献
Baruah, Sanjib
Durable Disorder: Understanding the Politics of Northeast India, New
2005
Delhi: Oxford University Press
Guha, Amalendu
Medieval and Early Colonial Assam: Society, Polity, Economy, Calcutta: K.
1991
P. Baguchi
Karlsson, B. G.
Conteted Belonging: An Indigenous People's Struggle for Forest and
2000
Identity in Sub-Himalayan Bengal, Richmond: Curzon
Kimura, Makiko
We Lost Land: Colonial Forestry, Immigration and Lan Alienation among
2008
Tribes in Assam, Guwahati: Incian Council of Historical Research
Progress Report of Forest Administration in the Province of Assam
1928-1929 Assam Government Press: Shillong.
Report of the Line System Committee
1938
Assam Government Press, Shillong.
民族対立によるフード・セキュリティの課題とその解決の模索をめぐって 109
民族対立による
フード・セキュリティの課題と
その解決の模索をめぐって
バングラデシュ、チッタゴン丘陵
(Chittagong Hill Tracts)
の事例から
下澤 嶽
静岡文化芸術大学文化政策学部
1. 忘れられた紛争
筆者は、日本の NGO を通して、バングラデシュのチッタゴン
丘陵の民族対立の問題に、10 年以上深くかかわってきた者であ
No. of conflicts
60
Extrastate
Interstate
Internationalized Interstate
Intrastate
る。ナショナリズムの隙
間に埋もれてしまったマ
50
イノリティの存在と彼ら
40
への弾圧を正当化する
30
国家間の課題解決に実
20
際にかかわってきた視点
10
から、この論文をまとめ
0
ていることを一言お断り
46 48 50 52 54 56 58 60 62 64 66 68 70 72 74 76 78 80 82 84 86 88 90 92 94 96 98 00 02 04 06 08
19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 19 20 20 20 20 20
表1:1946 年 か ら2009 年 ま で の
武力紛争の分類
(Extrastate= 超
シス テム 的 な 紛 争、Interstate=
国 家 間 紛 争、Internationalized
Intrastate=国際化した国内紛争、
Intrastate= 国 内 紛 争 )1 Uppsala
University, Department of Peace
and Conflict Researchデータベース
より。
http://www.pcr.uu.se/digitalAssets/
20/0866_conflict_types_2009a.
jpg,(2011年 5月21日)
しておきたい。そのため
論文の考察の多くが、実務者としての視点が加わっていることを
ご了解いただきたい。
平和構築関係の資料を読むと、冷戦以後紛争が増加したよう
な印象を持たされるが、第二次世界大戦後の紛争の動向を概観
すると必ずしもそうではない。
「ウップサラ
(Uppsala)大学平和と
1
紛争調査局」
は、第二次世界大戦後、25 人以上の死者を出した
事件を紛争の一部としてとらえ、それらのデータベースを分析し
1 Uppsala University, Department of Peace and Conflict Researchデータベースより。
http://www.pcr.uu.se/research/ucdp/datasets/ucdp_prio_armed_conflict_dataset/
http://www.pcr.uu.se/digitalAssets/20/20866_conflict_types_2009a.jpg
110 フード・セキュリティと紛争
ている。それによると、1992 年をピークにそれらは減少傾向にあ
ると同時に、多くは国内紛争であることを示している。
(表1)
また、グル
(Gurr)
の研究でも同じ傾向がうかがえる
(Gurr 2000:
。この研究グループは第二次世界大戦後発生した 275 の紛
27-56)
争を詳細に調べた結果、戦後の紛争は 1950 年代に上昇傾向が始
まり、70 年代に急増し、1990 年代初頭にピークがきて、1994 年
以後に減っている。さらに、その多くは長い間に何度も衝突や小
競り合いをくり返してきたものばかりだ。
ナショナリズムで成り立ってきた近代国民国家は、自分と異
なる国内のナショナリズムを排除し、抑圧を続ける負の部分が
ある。今よく使われている「平和構築」または PKO
(Peace Keeping
は、対立グループが紛争を停止し、双方が第三者の介
Operation)
入に合意するまでは活動が発動されない。つまり多くの紛争は今
の制度では、放置されるしかない状態なのである。これらの「忘
れられた紛争」
もいっしょに考えていくことが、平和構築の次のス
テージの重要なテーマなのではないだろうか。こうした
「忘れられ
た紛争」の一つである、バングラデシュ、チッタゴン丘陵では民
族対立のためどのような社会変動が発生しているか、そのために
市民社会に何ができるのか、二つのことを本稿の中で、とりあげ
ていきたい。
2. バングラデシュの農業
2.1 バングラデシュ平野部の水稲農業
バングラデシュは、人口約 1 億 4 千万であり、世界一の人口密
度をもつ国である。
国土の9割近くが河川が運ぶ土砂の体積によっ
てつくられたデルタ地帯
(標高 0 ~ 50m)で、古くからここでは水
稲栽培が展開されていた
(藤田 2005: 98-99)
。
1574 年にはこの地域にもムガル帝国による統治が始まる。ム
ガル帝国は徴税に関しては関心を持っていたが、原地住民のイス
ラム化には関心が薄く、他宗教には寛容であった。17 世紀、開
拓により耕作地が南部に広がるにつれてムスリム人口が増加し、
徐々に「ベンガル文化」
と民族アイデンティティが形成されていっ
た。一般的にベンガル人というと、堀の深いインド人顔をした人々
で、インド・アーリア系の文化の影響を強く受けている人々である
が、それぞれインドとバングラデシュの両方に広がって居住して
民族対立によるフード・セキュリティの課題とその解決の模索をめぐって 111
おり、バングラデシュのベンガル人の大半はイスラム教徒である。
ここでは、亜熱帯モンスーン地域の温暖な気候と豊富な水を
生かして、早くから水田耕作が進み、雨季の増水時にアモン作
が広く行われるようになっていった。米以外にも、紅茶、また、
小麦、カラシ菜、砂糖キビ、豆、馬鈴薯などの栽培のほかに、
植民地時代に普及した藍
(インディゴ)
、ジュート栽培が行われて
いた。1980 年代になると「緑の革命」で知られる IRRI 系の品種改
良米の稲作が乾季にも広がるようになった。
(藤田 2005: 102-104,
Johnson 1982: 65-78)
2.2チッタゴン丘陵の焼畑農業
チッタゴン丘陵は、アラカン山脈の一部がバングラデシュの
平野部に一部かかるように入り込んでいる。この地域はバングラ
デシュの国土の約 10% にあたり、標高 500 ~2,000m の山々が連
なっている。この地域は、
モンゴロイド系の 11 の
民族約 60 万人が古くか
ら焼畑農業を営み、多
くは仏教徒、ヒンドゥー
教徒である。
「焼畑をす
る人」というベンガル語
である「ジュマ
(Jumma)」
が、11 の民 族の総称と
して徐々に使われるよう
図1:バングラデシュとチッタゴン
丘陵の地図
(出典:ジュマ・ネットウェブサイトよ
り。http://www.jummanet.org/
cht/
(2011年 5月25日)
)
になってきている。
ここの焼畑農業は、山の斜面の木々を 2 月ころに刈り取って乾
かし、それに火をつけて灰にする。4 月以後種をまき、米、小麦、
かぼちゃ、ごま、ジャガイモ、その他野菜を混成で栽培、10 月、
11 月に収穫という耕作サイクルである。土地の利用シフトはカル
バリと呼ばれる村長が、公平性と環境負荷に配慮しつつ、耕作
場所の割り当てを決めている。耕作している土地にいつか戻って
また耕作するわけだが、
昔はそれが 7年から10 年のサイクルになっ
ていたと言われる。このように循環して土地を利用するため、土
地の個人所有の概念が明確に存在せず、パキスタン時代に入る
と彼らの土地は「保護森林地区」
に勝手に分類され、のちのちそ
れが大きな課題となって彼らの焼畑農業を立ち塞いでいく。
112 フード・セキュリティと紛争
3. チッタゴン丘陵の民族対立と地域の変容
3.1 民族対立の歴史
チッタゴン丘陵における紛争と民族対立は、
先ほど指摘した
「忘
れられた紛争」
の典型のひとつだと言ってもいいだろう。支配権を
手にしていたムガル帝国は 1760 年に統治権を英国政府に手渡し
た。英国政府はここの徴税システムを徐々に完備する片方で、平
野のベンガル人の流入が増加する状況を憂い、1900 年に
「チッタ
ゴン丘陵マニュアル」
(1900 年マニュアル)
を制定し、ベンガル人の
チッタゴン丘陵における土地の売買や居住を厳しく制限した。こ
の 1900 年マニュアルが、現在チッタゴン丘陵に住むジュマの人々
の自治意識の原型となっている。
1947 年にこの地域がパキスタンとして独立すると、イスラム教
ベンガル人の多数派で構成された政府は、ジュマの人々の文化と
歴史を無視し、1900 年マニュアルの内容を徐々に制約していった。
1962 年にはランガマティ盆地に巨大ダムが建設され、10 万人近
いジュマの人々が移住を余儀なくされた。
1971 年、この地域がパキスタンからバングラデシュに変わった
時、ジュマのリーダーは、1900 年マニュアルの権限回復を大統領
に訴えたが、
無視される。危機に立たされた先住民族リーダーは、
72 年に政治団体であるチッタゴン丘陵人民連合協会
(Parbattya
Chattagram Jana Sambati Samiti, PCJSS)を結成。73 年にはシャン
ティ・バヒニ
(Shanti Bahini:平和軍)
という武装部門が秘密裏に結
成され、バングラデシュ政府と緊張関係に入った。
政治的緊張が紛争に転化した 79 年、バングラデシュ政府は大
量の軍をここに配置するとともに、平野部の貧しいベンガル人を
入植させる政策を進めた。83 年までに約 40 万人近いベンガル人
が入植し、ジュマの人々とベンガル人入植者の数は、ほぼ 1 対 1 の
状況にまで変化した。(The Chittagong Hill Tracts Commission 1991:
9-38)
この地域への立ち入りや報道が厳しく管理され、紛争は 92 年
まで続いた。その間、13 回を超える虐殺事件が発生し、死者は
1 万人以上と推定され、6 万人近いジュマの難民がインドのトリプ
ラ州国境沿いに避難、定住することになった。無差別な虐殺と
弾圧は、NGO だけでなく国連機関にも知れ渡り、様々な報告書
や勧告が出されたが、バングラデシュ政府はそれらを無視し続
民族対立によるフード・セキュリティの課題とその解決の模索をめぐって 113
けた。
交渉の末、ようやく1997 年 12 月にチッタゴン丘陵人民連合協
会と政府の間で和平協定が結ばれた。内容的には不十分とはい
え、ジュマ難民の安全な帰還、国内避難民の保護、ジュマ武装
メンバーの雇用、土地の返還、軍の撤退、ジュマの文化と歴史
を優先した政治体制を保障したものだった。2,000 人近いシャン
ティ・バヒニの武装解除が行なわれ、インドにいたジュマ難民も
無事帰還したが、他の重要な項目は、現時点に至ってもほとんど
実施されていない。
政治的に弱体化を余技なくされたジュマの人々は、ベンガル人
入植者や軍の暴力、強引な土地収奪行為に怯えて暮らしている。
土地の問題が発端で、暴力・襲撃事件に発展するケースがここ数
年続いており、死傷者を出し続けている。
3.2 民族対立がもたらした地域の変容
紛争と長期にわたるベンガル人による抑圧構造は、
ジュマの人々
に暴力と生命への不安をもたらしたのは言うまでもない。さらに
60 万人近くに膨れ上がっているベンガル人入植者の存在が、さ
まざまな変化をこの地域にもたらしている。
すでに1900 年初頭から、チッタゴン丘陵の谷あいで水の確保
が可能な土地には、水田耕作が進み、1960 年代にはほぼ耕作可
能な土地には水田耕作が広がったと言われている
(Adnan 2004:
。紛争に入る前から、水田耕作の労働力として、また平野
107)
部の塩や干し魚、金属類の商売のためにベンガル人がこの地域
で活動し、一部は定住するといったことが徐々にだが進んでいた。
ジュマもそれを寛容に受け入れ、最初から対立構造があったわけ
ではない。しかし、政策的に行われたベンガル人入植によって、
深い民族対立の構造がつくられていった。
ベンガル人入植者の移住というのは、紛争が始まった 1979 年
頃から1984 年にかけて、バングラデシュ政府によって強行された
ものである。バングラデシュの平野部の貧しい農民を
「5 エーカー
の土地、家建設費用 3 万タカ、1 年間の食糧配給」といった夢の
ような条件で 40 万人近いベンガル人を移住させたのである。これ
によりベンガル人、ジュマの人々の人口はほぼ 1 対 1 の状況にまで
膨れ上がり、チッタゴン丘陵の様子は政治的にも社会的にも大
きく変化していった。もちろん入植者たちに与えられた土地だが、
114 フード・セキュリティと紛争
ジュマの人々がすでに使用または登記している土地も含まれてい
たため、深刻な事態に発展していった。チッタゴン丘陵の人口動
態については、先住民族とベンガル人を分けた詳しい資料が少な
いなか、Adnan が多様な資料を組み合わせてその増加と数のバラ
ンスを調べたものが表 2 である
(Adanan 2004: 57)
。この表からも
わかるが、ベンガル人の人口が 1980 年以後に急増しているのが
わかる。2001 年のバングラデシュ政府国勢調査では、チッタゴ
ン丘陵の 3 県
(カグラチャリ県、ランガマティ県、バンドルバン県)
の総人口 1,331,966 人中、部族
(Tribe)は 592,977人とされており、
全人口の 44.5%となり、下記の表の 91 年の数字よりさらに先住
民族の割合が下がっているものと思われる。
(Bangladesh Bureau
of Statistics 2009: 33, 49)
年
民族集団
1872
人口
ジュマ
1901
%
人口
1951
%
人口
%
1956
人口
%
1961
人口
%
1974
人口
%
1981
人口
1991
人口
%
61957 98.26 116063 92.98 261538 90.91 300000 90.91 335069 87.01 409571 80.59 455000 61.07 501144 51.43
ベンガル人
1097
計
63054
1.74
8762
100 124825
7.02
26150
100 287688
9.09
30000
100 330000
9.09
50010 12.99
100 385079
98628 19.41 290000 38.93 473301 48.57
100 508199
100 745000
表 2:1872 年から1991年におけるジュマとベンガル人の人口分布の変化
(出典:Adnan 2004: 57.をもとに筆者作成)
紛争が続いていた 80 年代は、ジュマ側ゲリラの脅しや威嚇に
より、多くのベンガル人は土地を泣く泣く立ち退くことが多かった。
しかし、和平協定が結ばれた 1997 年以後は、バングラデシュ軍
や政府の後押しにより、ベンガル人入植者がジュマの人々から違
法に土地を収奪する事件が相次いでいる。また、ベンガル人入
植者のキャンプ地や軍の訓練施設造成、大型開発事業などがあ
るたびにジュマの人々は強制的な立ち退きをさせられてきた。
ベンガル人入植者の人口流入とさまざまな開発事業や不正な
土地収奪により、ジュマの焼畑農業の土地が年々減少し、焼畑
農業のサイクルはこれまで 7 年から10 年のサイクルから、3 年か
ら 5 年のサイクルまでに縮まっている。また短いサイクルでの耕作
のため土地の荒廃もひどく、単位面積あたりの収穫高も、1860
年代にはエーカーあたり750kg 収穫があったと言われるが、1963
年ではそれが 225kg にまで落ちていると言われる
(Adanan 2004:
。
116)
%
100 974445
100
民族対立によるフード・セキュリティの課題とその解決の模索をめぐって 115
Adnan が政府統計から処理した数値によると、1985 年~ 86 年
のこの地域の総生産は、森林に関連した事業が 51%を占めてお
り、ついで穀物生産が 16%といった順だった。それが 1997 年~
98 年になると、森林関連の事業の収入は 42%に落ち、2 番目に
は商業サービスが 21%に増加する一方で、穀物生産 11%と低下
する傾向が見られる。森林事業の低下の多くの理由は、もっぱ
ら公然化している森林の盗伐の影響が大きいと思われる
(Adanan
。また、商業サービスはベンガル人が独占的にか
2004: 124-125)
かわっている領域であり、これらの数字の増減も、ベンガル人人
口増加の影響が一部みてとれる。
チッタゴン丘陵地域の変容は、不当な弾圧といった政治的な
理由ももちろんあるが、やはり大量に流入したベンガル人入植者
の存在が与える影響が大きいと思われる。バングラデシュ政府
や軍の後押しによって、ベンガル人入植者がジュマの人々の社会
的機会を食いつぶしていく。真綿で締め付けられるようなジュマ
の人々の生活機会の後退が、和平協定が結ばれた 1997 年以後、
ずっと続いているのだ。
4. ジュマ・ネットの草の根の平和構築の試み
4.1 多様な市民プレイヤーを繋ぐこと
チッタゴン丘陵問題は、まさしく国際社会から放置された平和
構築であり、失敗例である。チッタゴン丘陵の変容は、一方的で
あり、政府主導の略奪行為に近く、国際社会の人権感覚から考
えれば許されるものではない。筆者は、チッタゴン丘陵問題解
決に関心のあるボランティア数名と、ジュマ・ネットという NGO を
2002 年に組織し、積極的に問題解決にかかわってきた。ジュマ・
ネットがどのように取り組んでいったのか簡単に紹介し、もうひと
つの平和構築のあり方を考えてみたい。
今回の問題解決のための連携対象となったプレイヤーを挙げ
るならば、被害を受けている「ジュマの人々」
。バングラデシュ社
会の主流民族であるベンガル人でジュマの人々の権利を理解でき
る「ベンガル人サポーター」
。ジュマの人々の権利を守るために活
動する「国際 NGO」
、これには巨大な人権 NGO もあれば、難民と
して国外に定住しているジュマのグループもある。そして最後は、
国連機関、関心のある第三国、マスメディアなどで、活動の効果
116 フード・セキュリティと紛争
が一定の量に達すると、なんらかの形で平和構築を促進する可
能性のある「予備的国際プレイヤー」
である。以上の 4 つのプレイ
ヤーの重層的な組み立てと連携によって、平和構築を促そうとい
う活動であった。
4.2 NGO による平和促進活動
事前に確認しておくが、一般的に平和構築の活動ルールは、
紛争が終結し対立グループの双方が他者
(他国)
の介入を了解した
ときに限られる。しかし、チッタゴン丘陵の問題は、圧倒的力を
もった国家機関と少数の民族の対立であり、それを期待すること
は不可能で、まさしくそこが問題の核心でもある。そのため、こ
こではジュマ・ネットが少数の民族側の声を代弁し、マジョリティ
側に和解の意欲を生みだすためのアプローチを最初からとらざる
を得ない。今回は、その中でも 2008 年から 2010 年にかけて活
動をおこなった「チッタゴン丘陵委員会」と、2009 年から 2010 年
にかけて実施した「チッタゴン丘陵和平協定の完全実施を求める
世界同時キャンペーン」
の二つの事例を紹介したい。
4.3 チッタゴン丘陵委員会の再結成と監視活動
チッタゴン丘陵委員会
(以下丘陵委員会)
は、1990 年にヨーロッ
パの活動家で結成されたチッタゴン丘陵問題の監視グループで
あった。詳細な調査と証言による人権侵害レポートを毎年のよう
に発行し、政府と軍の弾圧実態を暴き、当時かなりの国際的関
心を集めた。しかし、1997 年に和平協定が締結されると、ジュマ
・
リーダー内部の分裂が起き、委員会の活動は 2002 年頃から実質
停止状況となった。そのためチッタゴン丘陵問題への国際的な関
心は急速に低下していった。
ジュマ・ネットは、過去チッタゴン丘陵問題にかかわっていた
NGO の関心を再び喚起しようと、2006 年にヨーロッパ各地の
NGO を訪問し、チッタゴン丘陵問題解決のための呼び掛けをし
ていった。結果的に、先住民族の権利擁護を行うデンマークの
NGO である IWGIA
(International Work Group for Indigenous Affairs)
が動き、2008 年には国際的に知名度の高い活動家 11 名
(内バン
グラデシュ人 3 名、
ジュマ・ネットから日本人1名)
で構成されるチッ
タゴン丘陵委員会が再結成された。これにジュマ・ネットも資金
提供する他、現地訪問ミッションに関係者を参加させた。
民族対立によるフード・セキュリティの課題とその解決の模索をめぐって 117
この丘陵委員会は、当初予想した以上にバングラデシュ人
(ベ
ンガル人)
リーダーたちのリーダーシップによって活動が推進され
た。丘陵委員会は、チッタゴン丘陵を訪問して人権侵害調査を
行う一方で、ハシナ首相を初め、バングラデシュ国内のハイレベ
ルのステークホルダー(与党野党議員、関連省の大臣、ベンガ
ル人入植者団体、ジュマ関連団体、軍関係者等)との面談や意
見交換の場づくりの調整し、和平協定実施の必要性を訴えるミッ
ションを合計 4 回実現させた。2009 年 8 月の 3 回目の訪問時は、
軍の 1 旅団がチッタゴン丘陵から撤退する動きを生み出している。
また現地マスコミの注目度も極めてよく、バングラデシュ社会で
の露出度は非常に高かった。
4.4 チッタゴン丘陵和平協定の完全実施を求める世界同時キャ
ンペーンの実施
委員会が活発な活動を進める中、バングラデシュ国外から一
定の政治的圧力をつくる必要があった。そこで、2009 年 7月から
2010 年 3 月にかけて平和を願う市民から和平協定実施に賛同す
る署名を集める「チッタゴン丘陵和平協定の完全実施を求める世
界同時キャンペーン」
(以下世界同時キャンペーン)
を、ジュマ・ネッ
ト、Organising Committee Chittagong Hill Tracts Campaign(オラン
ダ)
、Indigenous Jumma People's Network USA(アメリカ)
、Jumma
の 4 団体
People's Network of Asia Pacific Australia(オーストラリア)
が共同で開始した。
その後、関心のある層に協賛団体の依頼をし、署名および広
報の依頼を広げていった。和平協定後分裂がちな国際グループ
が、このキャンペーンを機会に連携するところが徐々に現れ始め
た。またバングラデシュ社会でも、署名を集める動きが高まって
いった。
ノーベル平和賞受賞者の Mairead Corrigan-Maguire、62 名の日
本国会議員、4 名のオーストラリア議員、ネパールの議員を始め、
多くのバングラデシュの市民社会のリーダーなど、105 の国と12
の地域から 35,757 筆の署名が集まった。キャンペーン賛同人の国
会議員・阪口直人氏らがバングラデシュを訪問し、2010 年 3 月 20
日にハシナ首相と会談し、直接署名を手渡すことができた。
118 フード・セキュリティと紛争
5. おわりに
今回のこの二つの活動を振り返ると、市民プレイヤーとして「ベ
ンガル人サポーター」
「国際 NGO」
の部分は比較的うまく動いたが、
「ジュマの人々」の部分がまだ弱かったと言える。そして、丘陵委
員会が現地政府との実際の交渉窓口になっていったため、丘陵
委員会がより中立的な立場をとらざる得なくなり、国際 NGO であ
るジュマ・ネットが圧力づくりの役割となっていったと言える。しか
し、活動の今回の運動量・影響力が十分でなかったため、
「予備
的国際プレイヤー」である国連、第三国、マスメディアは十分動
き出さなかった。
おそらく今後重要なことは、ジュマの人々の抵抗運動をさらに
強化させること、
「ジュマの人々」
「 ベンガル人サポーター」
「 国際
NGO」の水面下の連携と目標の共有を行い、運動量を飛躍的に
増やす必要があることだ。そのことで、さらに「予備的国際プレ
イヤー」
が動きだし、平和構築のための政策変更が図られる可能
性が出てくるだろう。
もうひとつの反省材料は、キャンペーンのターゲットのことで
ある。国際キャンペーンの対象はバングラデシュ政府であった。
しかし、この民族対立構造が継続することに一番利害関心を持っ
ているのは軍の和平協定反対派・慎重派だ。2008 年 12 月に政権
に戻ったアワミ連盟のハシナ首相は、マニュフェストに「チッタゴ
ン丘陵和平協定完全実施」を掲げるほどの和平協定推進派だっ
た。チッタゴン丘陵委員会もハシナ首相とのパイプをいかし、交
渉を展開していった。しかし、これまでのバングラデシュの各政
権は、軍の利害関係を常に調整するかでその存続が決まると言っ
ていいほど、軍の強い影響を受けてきた。ハシナ首相もこの件に
ついては、軍との調整をしきれず現在に至っている。チッタゴン
丘陵の平和構築を実現させるためには、
「このままだと損だとバ
ングラデシュ政府軍の和平協定反対派・慎重派に思わせること」
、
つまりバングラデシュ政府軍をターゲットにしたキャンペーンが
必要だということだ。
国家機関がこれらの「忘れられた紛争」にかかわることの制約
が多い今、世界の市民の有機的な連携により、平和構築に一定
の効果をもたらす可能性はある。そして、成功例が増えることに
よって、他の忘れられた紛争にも影響を与えていくようになるの
民族対立によるフード・セキュリティの課題とその解決の模索をめぐって 119
ではないだろうか。NGO の多様な平和構築の試みへの関心はま
だ十分ではない。さらに真摯に議論されるべきなのだ。
参考文献
藤田幸一
2005 『バングラデシュ農村開発のなかの階層変動 貧困削減のための
基礎研究』
、京都大学学術出版会。
Adnan, Shapan
“Migration Land Alienation and Ethnic Conflict”, Research & Advisory
2004
Services
Gurr, Ted Robert
“Peoples Versus States-Minorities at Risk in the New Century”, United
2000
States Institute of Peace Press
Bangladesh Bureau of Statistics
“Statistical Yearbook of Bangladesh 2009”
2009
Johnson, B.L.C
“Bangladesh”, Heinemann Educational Books LTD
1982
The Chittagong Hill Tracts Commission
“Life is not Ours - Land and Human Rights in the Chittagong Hill Tracts
1991
Bangladesh”, IWGIA and Organizing Committee Chittagong Hill Tracts
Campaign
GLOCOLブックレット編集委員会
栗本英世(編集委員長)
宮原 曉
津田 守
宮本和久
住村欣範
石井正子
上田晶子
思沁夫※
本庄かおり
敦賀和外
中川 理
常田夕美子※
編集実務:宮地薫子
※担当編集委員
GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
07
フード・セキュリティと紛争
Conflict and Food Security
松野明久・中川 理[編]
2011年12月15日 初版第1刷発行 非売品
発行 大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)
〒565-0871 吹田市山田丘2-7
電話 06-6879-4442 FAX 06-6879-4444
http://www.glocol.osaka-u.ac.jp/
制作 有限会社ブックポケット
デザイン オルタ・デザイン アソシエイツ
©2010 Global Collaboration Center, Osaka University
ISBN:978-4-904609-07-1
ISSN:1883-602X
GLOCOL ブックレット 07_ 表 2- 表 3
B
120106
book
pocket
有限会社ブックポケット
DIC 162
GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
GLOCOL ブックレットの創刊にさいして
「GLOCOL ブックレット」は、大阪大学グローバルコラボレーション
センター(以下、GLOCOL)が企画・実施している、教育、研究、実践の 3
領域にわたる活動の成果を大阪大学内外に知らしめるために創刊されま
した。2007 年 4 月に開設された GLOCOL は、大阪外国語大学との統合
BACK NUMBER
01
06
紛争後の国と社会における
人間の安全保障
Human security
in the Post-Conflict Period
もう一つの日本語で語る
多文化共生社会
栗本英世[編]
Easy Japanese as Communication Tool:Towards a New
Multiculturalism in Japan
2009.2.25 発行
宮原 曉[編]
後の新大阪大学における新たな教育理念を具現化するため、教育プログ
ラムの改革をおこなうことを第一の使命としています。
グローバル化のなかで、現代の世界は、紛争、貧困、文化の衝突、感染症、
02
環境破壊といったさまざまな問題に直面しています。経済的繁栄のなか
多様性・持続性:
サステイナビリティ学教育の挑戦
も、ナショナルな枠組みのなかで安住することはもはや困難になってい
Teaching Sustainability Studies
in Higher Education:
Challenge of Dealing with
Diversity of Sustainability”
で、他の国や地域の問題は「他人事」ですましてきた日本という国の住民
ます。現在の総合大学に課されているのは、こうした世界の状況を適切
に 理 解 し、そ の 改 善 や 解 決 に 向 け て 真 の「国 際 性」
(intercultural
communicability)をもって主体的に行動することのできる人材を養
成することであると考えます。この責務を実現するためには、従来の学
部・研究科の枠組みを超えた連携(コラボレーション)が必要です。連携
思沁夫[編]
2009.12.25 発行
のパートナーには、学外・国外の研究機関、開発援助機関や市民団体も含
03
とです。
食料と人間の安全保障
Food and Human Security
まれます。GLOCOL の役割は、こうした連携の媒介者兼牽引者となるこ
先端的な教育プラグラムの開発は、先端的な研究の裏打ちがあっては
じめて可能になるものです。GLOCOL が、
「人間の安全保障」と「多文化
共生」を二つの柱とする研究の推進に力点を置いているのはそのためで
す。また、GLOCOL における教育研究のプロジェクトは、現代世界の動
態と深く関連しているがゆえに、学生と教員の双方は必然的に「現実と
上田晶子
[編]
2010.3.25 発行
の か か わ り 方」の 模 索 を 求 め ら れ る こ と に な り ま す。そ れ ゆ え に、
GLOCOL が教育・研究・実践の「三位一体」をスローガンにしているの
です。
04
「GLOCOL ブックレット」は、シンポジウム、ワークショップ、研究プ
コンゴ民主共和国東部における
人間の安全保障の危機への理解
のさまざまな事業を報告するメディアです。皆様のご理解とご支援をお
Understanding Human Insecurity in
Eastern Democratic Republic of Congo
ロジェクト、教育プログラムの開発、実践とのかかわりなど、GLOCOL
願いするしだいです。
ヨハン・ポチエ[著]
Johan Pottier
2009 年 2 月
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOCOL ブックレット編集委員会
コミュニケーションツールとしての
「やさしい日本語」
2010.3.31
発行
05
ベトナムにおける
栄養と食の安全
Nutrition and Food Safety
in Modern Vietnam
住村 欣範[編]
2011.3.30
発行
2011.3.30
発行
GLOCOL ブックレット 07_ 表 1- 表 4
B
111122
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pocket
有限会社ブックポケット
DIC 186
02
フード・セキュリティと紛争
ISBN:978-4-904609-07-1
ISSN:1883-602X
GLOCOL ブックレット
GLOCOL BOOKLET
07
フード・セキュリティと紛争
Conflict and Food Security
松野明久・中川 理[編]
GLOCOL ブックレット 07
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
GLOBAL COLLABORATION CENTER
OSAKA UNIVERSITY
大阪大学グローバルコラボレーションセンター
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