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ヴォルフガング・ボルヒェル に
71 ヴォルフガング・ボルヒェルトに っいての覚え書一二 序 章 谷 崎 英 男 −燈台の光りとなって 風すさぶ暗夜にも 海に遊ぶ魚と海を渡る小舟の 遺しるべとなるのが わたしの願いであるのに、 ああ、わたしみずからが 難破する舟の身とたるとは! W・ボルヒェルトー 一九四七年九月十一目、敗戦に打ちひしがれたドイツから中立国であったスイスのバ:ゼルにあるカトリヅク系の クラーラ病院へ、一人の重病人というよりはむしろ﹁死ぬことに決まっている人聞﹂︵↓◎島①峯色軍。、︶が送ら九てき 72 た。戦争の影響を受げなかったスイスヘ行げぼ、食料も十分にあるだろし、満足た治療も受げられるだろし、燃料が 不足してこごえ死ぬようなことはないだろうとの友人達や愛顧者達の配慮であった。国境の駅ヴプイル︵オ2︶まで は、母親がつきそってきたのだが、彼女は国境を越えることは許されなかった。 敗戦国民であったドイツ人はすべての法律の保護を失っていたし、どこの国でも官庁の規則というものは人問のき ずたや苦しみを無視するものだからである。途中で列車︵その病人用の車室でこの母と息予は運ばれたのだが︶がラ イン川を通りすぎるとき、母親は息子に視線をこの川に向けようとしたが、息子は﹁大好きた灰色のエルベ川をもう 見ることができないのだから、ライン川も見たくない﹂といって苦しげに顔をそむけた。列箪が国境の駅から動きは じめると、患子は窓際にもう一度身を起して、母親に向ってサイソを送った。そしてがっくりと窓際からすべり落ち た。これが母親とそれ以来見ることのなかった故国ドイツヘの最後の別れの挨拶であった。 この病人は大きな希望をいだいてバiゼルヘやってきたのだったが、二三日するともう自分の身の不幸を感じ、場 遠いな所へ来たような気持をもつようにたった。外界から隔絶された病院の世界や、両親の力ぞえや友人たちの心づ かいのない孤独感が家にいれぽ何でもないことまで、彼には堪えがたいものにした。また病院の職員の冷たさ、スイ スの方言、寒々とした部屋の雰囲気、看護婦たちのむっつりした態度も彼の気にさわった。と︸﹂かくこの町には彼の 知っている人は誰もいたかったし、切手やレターぺーパ⋮を買う金さえたかったのである。 ある夜のこと、彼が洗面器を取ろうとして立ち上ろうとしたとき、突然痙撃の発作に襲われ床の上に劇れた。問断 ない叫びを聞いてしぼらくしてから、無作法な着護入が現われて二体あんたはこのスイスヘ来てどうしようという んだね。さっさとお国のドイツヘ帰ったらどうだね﹂。といった。その結果彼が輿奮と絶望の中からえたものは重い 肝臓出血だった。彼は夜も昼も疲れはてて、茶腕一つ、ベソ一本取る力さえなかった、 フ38 73 十月になって二週目に、ハソブルクの知人の紹介でゲォルク・ビiア︵Ω8お望實︶という学生がこの重病人を訪 れてきた。ビーアは﹁スイスドイツ人大学生同盟﹂の書記で、ゲシュタヅポに追われ列車の窓から飛び出してその難 をのがれた亡命ドイツ人であったが、この病人の不運を知ってすぐできるだげのことをしようと決心した。童ず友人 達やカール・ヴユルツブルガー教援︵穴胃−峯胃ま胃oq竃︶や運送店につとめていたマルティーソ.F.コルデス ︵呂彗ま声Oo&9︶に頼んで、病人を見舞せたり、また経済的には苦しかったにもかかわらず、若干の金銭を与え たりしたのである。なかんずく大学で神学を学んだコルデスは病人と親しくなり、﹁僕たちはとにかくおたがいにど こかで身近な存在なような気がする﹂といわれるようになった。後にたってコルデスは最初の出会いについて両親に あてて次のような報告を送っている。 ﹁十月十八日の土曜日に私は最初の訪間を致しました。私は病人がひじょうに長い髪をしていて高い声の持主だ と聞いていましたので、叙情詩人にお目にかかれるものときめかかっていました。私の第一印象はその期待が裏切 られたということでした。私がそこに見出したのは生命と行動への本当に男らしい情熟で、それが俳優と顔作家の もつ表現と造形の意志と結びついていました。﹂ コルデスが見たこの病あつき身を異国のベットで養いながら、なお生命と行動への雄々しい情熱を失なわかった詩 人こそ﹁裏切られた世代﹂︵<害墨箒篶○彗彗き昌︶、﹁結びつきも深さもない世代﹂︵Ω昌彗き昌亭篶里己目昌σq⋮エ ○臣㊦−①守︶、﹁幸福もない、故郷もたく、そして別離もない世代﹂︵○彗實き冒oぎo○豪県一〇事①葭色目簑冒︷ >副o巨&︶、﹁限界もたく、抑制もなく、庇護もない世代﹂︵o昌雲き冨oぎ⑦ΩH竃聰9亭塞=①昌昌冒αq自己黒臣一− 昌お︶の詩人ヴォルフガソグ・ボルヒェルト︵峯o濠彗口q︸o昌ま6が残り少ない生命を烈しく燃焼させている姿だ ったのである。ボルヒェルトはその前年一九四六年の十二月に詩集﹃街燈と夜と星﹄︵98;9z彗∼昌匹ω冨H竃︶ 73⊂ 74 を出版し、この年の二月には戯曲﹃戸口の外で﹂︵一︺量ま彗く昌︷實↓葦︶がラジオ・ドラマとして放送されて好評 を博し、四月には短篇集一一.たんぼぽ﹂︵g⑦=⋮宗巨目旨①︶が公刊されて、作家としての地位をようやく確保しつつ あるところであった。しかしスイスでは仕事をえられる訳もたく、またドイツからの送金も許されていなかったの で、ボルヒェルトはこれらの新しい友人たちの喜捨や僅かな贈り物をあてにせざるをえず、全くみじめた思いであっ た。前記のコルデスの報告はさらに次のように続げている。 ﹁病人︵ポルヒェルト︶はドイツ人、戦争とナチスの犠牲者としての自分に看護の職員の理解が欠げていること をこぼしていました。⋮−・ききただしてみると、まだ夏のように暖かかった九月の日にバルコニーの戸が開いてい ることはいましたが、看護婦はベヅトを戸のそばへはもちろんのこと、バルコニーの上へ押し出してもくれなかっ たということでした。私はこの病院の幹部の一人で当時自分自身入院していた弁護士のブラウソ博士に話して、病 人のために特別なはからいをして貰うように努力することを約束しました。しかし大した御利益はありませんでし た。病人は担当の治療医師であるギーゴン教授にははっきりした信頼感を寄せており、ときにはもっと長く話して いたいとひきとめたほどでした。ヴォルフガングがスイスに滞在できるようにお金を作った出版社のゴーヴェルツ 博士やオープレヒト博士は、定期的に小遣銭を彼に送ることはできませんでした。そこで私が彼と話した第一の間 題は﹃スイス・ドイツ文化同盟﹂や﹃在スイスドイツ人作家組合﹄などに、彼の日常のこまごました支出のために 寄付をしてくれるように、うたがすことでした。実際彼は最初のうちはひげをそってもらう金すらなく、たまたま 病院の理髪師がかつてハソブルクにいたことがあるという理由で、一週間に一度だけ無料でひげをそってくれると いう有様でした。L このようた悲惨な境遇にあったにもかかわらず、このベヅトにしぱりつけられたよるべない身のボルヒェルトが何 フ40 75 人かのグルiプの人たちを自分の周囲に集めることに成功したことは、驚嘆に値することであろう。もちろんこれは 大部分は個々の人たちのたゆまない努力のおかげでもあるが、この青年がさまざまな性格や主義の人たちを自分の周 囲に集め、その影響力をのちのちまでも残すに足る魅力の持主であったことは注目すぺきことである。十月の中旬に なると、前記の三人の亡命ドイツ人のほかに、ルーディン一家の人たちや若い女流版画家のソニア.ヘルスペルガー も加わり、さらにはスイス人の美術蒐集家のビュルギ夫人はそのパウル・クレーの蒐集品の中からいくつかの版画を 貸してくれて、病院の規則で画をかけることが禁じられていたので、病人の周りの椅予の上や放熱器の上に置いて見 ることもできるようになった。 病床にあってもボルヒェルトの世界状勢や政治や文学に対する関心は衰えることはたかった。コルデスが十一月十 五日、つまりその死の五日前に病床のボルヒェルトを見舞ったときも、ボルヒェルトが病気にも屈せずに元気で明朗 さを失わないのに驚いたほどであった。もちろん痙撃の発作の異常な苦しみを訴えて、そのことについての不安をも らしてはいたが、ヴユルツブルガー教授もやってくると、話題はすぐ文学の間題に移っていった。そして先輩の作家 であるカール・ツックマイヤー︵O胃−ざ良目葛胃︶から激励の手紙を受けとったこと潅どを話Lた。 十一月十六目の目躍目にゲォルク・ビーアがもう一度ボルヒエルトを訪ねたときには、病人は﹁比較的よい状態﹂ にあった。しかし最後の訪間老となった女流版画家のソニア・ヘルスペルガーは﹁火曜日には彼はもうまっさおにな って弱々しく蒲団の上に横わっていました。私は驚きの余り一言も口に出すことができませんでした。私は自分の目 を疑いたくなりました。彼は私の手をとって、また来てくれるように頼みました﹂と書いている。 ボルヒェルトの最後の数日について病院の報告は次のように述べている。 ﹁彼の健康状態について申し上げますと、十月に初めてうつ血した食道からの出血が起りましたが、これはすぐ 1’ 4 フ 脆 治療を行ったために止めることができました。十一月十八目にはまた烈しい出血があり、私たちがあらゆる手段を 講じたにもかかわらず、十九日には数回繰返され、二十目の九時に死に導びくに至りました。十九日の午後、私は あなたの御子息にお母さんに来て貰うように頼むかどうかたずねましたが、﹃ただ自分の容態がよくないことを手 紙で知らせて下さい﹄といいました。十九目の夕方意識はますます混濁となり、およそ二十二時頃からは死に至る まで、あなたの御子息は完全に意識を失っていまLた。従って苦痛も戦いもなく永遠の眠りにつくことができまし たご 病院ではボルヒェルトが親しくした少数の着護婦の一人である受付番の、、、ソナがバーゼルから彼の両親にあてて書 いた次のよう改手紙は彼の死の前後の模様をさらに補足してくれている。 ﹁貴女には先生の方からヴォルフガソグが水曜目の夕方から意識を失い、何もかもあっという重に進んでしまっ たことをお知らせしたことと存じます。彼はもう口をきくこともできませんでした。こんなに早く死たなげれば恋 ら恋いとは考えてもいたかったでしよう。容態があまりよくなかったので、貴女のとト﹂ろへ手紙を書いて欲Lいと いう申し出は月躍日にすでに私に対してたされていました。彼は﹃看護婦さん、僕は今目書くことができませんか ら・商親に;一星才紙を書いて下さい。丙親は手艇を待っているのです﹄といいました。、次の目の夜に彼ははじ めての出血を起し、それから審態は急逮に進んでしまいました。火躍目には私はもう一度両親に手紙を書いてくれ たかどうかたずねられました。水躍口]は彼は落ちつきを失っているように見え童したが、私がそぱにいるのをいや がりました。五蒔半に最後の出血を・起しました。私が八蒔にもう一度彼の所へ行ったときには、もう私を識別する 力もなくたっていました。この最後の夜は男の看護人がそばで寝ずに見守って下さいました。朝の七時からたくな られる少し前まで、私はずっと貴女の御子息のそぱについておりました。私たちは牧師を呼んで、彼に祝橿を与 77 え、祈って頂きました。このことはきっと貴女に喜んで頂けると思います。私はそぽにいることのできないお母様 のことを思い浮べながら、慎重に愛情をこめて資女の愛する息子さんに、死の門出のシャツを着せてあげました。 ⋮⋮彼はあなたがた二人のことをいつも心配しておりました。寒さのことや食料の足りたいことや、この冬はあ液 たがたと一緒にいることができないなどということです。彼は﹃去年の冬はつらかったけれども、素敵だった。親 子がみんな一緒にいられたんだから﹄といっていました。﹂ 葬饒に参列した友人の一人は次のように書いている。 ﹁十一月二十四日月躍日の朝九時に、私はバーゼルのドイツとの国境の森に接したヘルソリ墓地へ行き、ヴォル フガングが永遠の眠りにつくのを見とどけました。彼の額は少し前に短く切った黒い髪の下に、くっきりと大きく 温和な盛上りを見せていました。鼻は一層ほっそりと気高い形となっていました。眼と口の周りには平和と落つい た晴れやかさがただよっていました。私はそれを見て﹃とうとう君も無事におさまったね﹄といいました。あなた の御子息は白衣を着て、マーガレヅトに似た大きたえぞ菊にかこまれて白い床に横わっていました。足元には赤銅 色のバラが置かれ、胸の上にはうすバラ色のえぞ菊が飾られていました。私はきれいた黄色いバラのつぼみを黒い 棺布の上へのせました。後で聞いたのですが、このつぽみはW博士がもってきたものでした。私たちはこのつぽみ を見て、棺台の上の二つの黄色いえぞ菊の大きな花束ともども、たんぽぽ、ヴォルフガソグの黄色いたんぽぽの輝 きのことをきっと思い出したことでしょう。 バヅハの受難曲と﹃なんじの道をエホバにゆだねよ﹄の讃美歌がオルガソによって奏されて、式の周囲に響きわ たりました。カイザー牧師がイザヤ書からの言葉を述べてお祈りを行いました。﹃恐れるなかれ。われたんじを救 いたれぱなり。われなんじの名にてなんじを召したり。なんじはわがものたり。﹄牧師の後でヴユルツブルガー博 ?43 78 士が﹃在スイスドイツ人作家組合﹄を代表して、またとりわげ精神的に深い打撃を受げた父親のような友人とし て、持に今日五十から六十までのドイツ人の世代の遇失から、勇気ある行動と言論によって自分自身や青年たちの 運命となったものから、青年たちを救うことができたかったために、みずから重荷を背食わなければならなくなっ たことを述べました。最後にゴーヴヱルツ博士は三つの出会いについて−ヴォルガングの初期のリルケ風の詩 と、彼の散文と、彼自身との出合い−−i語りました。﹂ また前記のスイス人であるソニア・ヘルスベルガーはボルヒェルトの母親にあてて次のような手紙をよせている。 ﹁親愛なお母さま、彼は私にあたたのことや、手紙のことや、茶色のインクのことについて話してくれました。そ れであなたが彼にとってどんなに大切なかたであるかを感じました。火曜日に私は茶色のイソクを買って、彼を幸 福な気分にしようと思いましたが、彼はもう全く青ざめて弱々しく横になっていました。⋮⋮彼は私の手をとって、 また釆るようにいいました。私は次の目には行きませんでした。彼がその問ずっと休んで元気になってくれるとい いと思いましたので、私は金曜目に来ることを約束しました。金曜目の午前は私は学校には行かず、ずっと森の中で すごしました。まったくすばらしい天気で、うさぎや、りすや、きつつきや、くもや、時期はずれの蝶の姿さえ目にうつ りました。私はあれやこれやに思いをはせましたが、思いは絶えずヴォルフガソグのもとへと走りました。私は二 三のきずたの葉とはしばみの小枝をつみとって、朝の間ずっともちまわっていました。これでヴォルフガソグの孤 独な部屋に少しでも森の気分をもちこもうという積りでした。そして私は彼を愛していることを告げる籏りでした。 私は時を数えながら待ちどおしい思いをして出掛げたのですが−−彼はもうこの吐の人ではありませんでした。 いままた私は以前と同じような孤独な存在になったような感じがします。−といっても生活の上ではなく、 ︵私にはまだ両親やたくさんの友人がおりますから︶物事を考えたり感じたりする上でたのです。人生においてこ 744 のような孤独から救い出してくれる人にめぐりあって愛することができるのは、ごくまれなことです。 以前と同じように孤独と申し上げましたが、全くそうだという訳ではありません。ほんの少しだげ成長しまし た・とくにあなたの御子息であるヴォルフガソグのおかげで成長したのです。﹂ ボルヒェルトが遠い異国の土と化している間に、故郷のハソブルクでは町々の広告塔が彼の名前をふれ廻ってい た。小劇場がヴォルフガソグ・リーベンアイナー︵ミo厨竃oq=畠雪9鶉H︶の演出で、ポルヒエルトの戯曲亭、戸口の 外で﹄を初演することを告げていたのである。初演の一目前にバーゼルから最後の電報バひ届き、ボルヒエルトが遂に ︸﹂と切れたことが知らされた。しかし次の晩、小劇場においては、彼の絶叫はまるでたお生きつづけている人問のよ うに・人々の心を打ったのである。ハソブルクの劇場がこのような初演を経験したことはめったにないであろう。こ の晩は初演というよりはむしろ、打ちのめされた国の失われた青春に対する鎮魂祭であった。ボルヒエルトが絶叫す る苦悩に共感する世代の人たちは、この二十六才の詩人の死の中に、自分たちの青春から奪われたものを感じ取った のである。何人かの人たちは次のような感想をよせた。 ﹁父と母を私は失った。戦争だった。そして私は兵隊になった。帰ってみると、父も母も死んでいた。全く見知 らぬ他人によって埋葬されていたのだ。私は泣かなかった。こんたことは苦しいことだとは一度も感じたことはな かった。確かにそうだったのだ。何もかも死に、破壊され、よるべなき存在になった。私たちはいまさら苦しみを 感ずるには一余りにも悩みすぎたのだ。私たちは別離なき世代だ。ああ、私はどんなにこの言葉に愛着を感ずるこ とだろう。この言葉によってヴォルフガソグは私にとっては血を分げた存在に孜ったのだ。﹂ ﹁私たちは一度もあったことがある訳ではない。一通の封書、一枚の葉書、一皿⋮のうすい短篇集。それだけがす べてだった。恐らくヴォルフガソグは私のことなど、□一にしたことも放かったかも知れ恋い。しかしそんなことは 80 不必要なことだった。私にとっては彼の本を読むことができただけで十分だった。はっと不意を打たれて﹃お前は ひとりではないのだ﹄と分っただけで十分だった。お前と同じようにしやべり、お前と同じように考え、お前と同 じように悩んでいる人聞がいるんだ。私は嬉しくなって、力づけられた。﹂ ﹁私は感膓釣になっていた訳ではなかった。われわれの世代は惑傷的になるには、余りにもひどい仕打ちを受け すぎた。われわれはあらゆるものに、問断なく別れを告げることにならされてしまった。運命の打撃を受けても泣 くようなことはないし、いまだかつて涙を流したことはなかった。子供のときでもそうだった。われわれは子供で はなかったのだ。われわれは青春のない青年なのだ。われわれはのろい、絶叫し、自分の内部へ向って血を流すの だ。しかしわれわれは涙は流さない。われわれが涙を流すのを見たものはいまだかつていない。誰もいないのだ。 だがわれわれはみじめた世代だ。もはや涙というものを決して知ることがないだろうから、﹂ 一九四八年二月十七日の午後まだ早いうちに、ボルヒェルトの両親とハソブルクの友人たちは詩人の枢をオールス ドルフの墓地へ埋めた。小さた岡の斜面に︵この岡の頂きには低地ドイツ語の詩人フリヅツ・シュタiフェソハーゲ ソ︵寄ぎ望彗彗訂σ冒g畠“①−岩8︶が永遠の眠りについていた。︶やさしく枝をたれさげる白棒の下で、ポルヒェル トは遂に故国の地に帰ることができたのである。 ポルヒェルトがスイスで療養中に書いた唯一の作品は物語でも詩でもなく、一個の︸、ニフェスト﹃さらぱただ一ト﹂ とあるのみ﹄︵U四冒口oま窒⋮H旺易︶である。これは戦争に対する宣戦布告であり、ヒロシマを体験した彼の世代 一般の世界の良心に対する訴えである。かなり短いものなので、大衆や、オポテユニストや、権力に妥協せずに、二 十六才の若さで死んだ一詩人の遺言として次に訳してみよう。 ブ始 釧 さらばただ一ことあるのみ 機械にたずさわる人と工場に働らく人よ。もし君が明日水管や料理鍋はもう作ってはいけない、そして鉄兜と機 関銃を作るのだと命令されたら、そのときはただ一ことあるのみだ。 ノiというのだ。︵oo陣αq2昌2一︶ カウンターのうしろにいる娘と事務所で働らく娘よ。もし君が明[口榴弾をこめ、狙撃兵の銃に照準眼鏡を敢付げ るように命令されたら、そのときはたった一ことあるのみだ。 ノーン﹄い・つ の だ o 工場の持主よ。もし君が明目白粉やココアの代りに、火薬を売れと命令されたら、そのときはただ一ことあるの みだ。 、 、 ノーというのだ。 実験室の研究者よ。もし君が明日古き生をほろぼす新しい死を発弱することを命令された恋らぽ、そのときはた だ一ことあるのみだ。 ノーというのだ。 書斉で詩作にいそしむ詩人よ。もし君が明日愛の歌をうたってはいげない、憎しみの歌をうたうのだと、命令さ れたら、そのときはただ一ことあるのみだ。 ノーというのだo 病人の診察に打ち込む医師よ。もし君が明目男たちが軍務にたえると診断するように命令さ丸たならぼ、そのと きはただ一ことあるのみだ。 フ4フ 82 、 、 ノーというのだO 説教壇上の牧師よ。もし君が明目殺人を祝福し、戦争を讃美するように命令されたら、そのとぎはただ一ことあ るのみだ。 、 、 ノーというのだo 船上に君臨する船長よ。もし君が明目、小麦を運んではいげない、大砲や戦車を運ぶのだと命令されたら、その 、 、 ときはただ一ことあるのみだ。 ノーというのだo 飛行場のパイロットよ。もし君が明日爆弾や燐を都市の上へ運ぶように命令されたら、そのときはただ一ト一とあ るのみだ。 、 、 ノーというのだ。 仕事台で精を出す仕立師よ。もし君が明日軍服を仕立てるように命令されたら、阜、のときはただ一ことあるのみ 、 、 だ。 ノーというのだ。 、 、 法服をまとった裁判官よ。もし君が明目軍法会議へ行けと命令されたら、そのときただ一ことあるのみだ。 ノーというのだ。 停車場で働らく男よ。もし君が明[口軍需品輸送列車や兵員輸送のための出発の合図をせよと命ぜられたら、その ときただ一ことあるのみだ。 、 、 ノーというのだ。 74; 83 、 、 村や町の努よ。もし明目人がきて、召集令状をもってきたら、そのときはただ一ことあるのみだ。 ノーというのだ。 ノルマソディやウクライナの母親よ、サソ・フラソシスコやロンドンの母親よ、黄河や、ミシシッピイ河畔に住む 母親よ、ナポリやハソブルクやカイロやオスローの母親よ。全大陸の母親よ、全世界の母親よ。もし君たちが明日 野戦病院づきの看護婦や、新しい職争のための新しい兵隊を作り出すために、子供を生むのだと命令されたら、そ のときは1全世界の母親よ1ただ一ことあるのみ。 、 、 ノーというのだo 、 、 なぜなら、母親たちよ、もし君たちがノーといわなげれぱ、そのときはー− いつもは蒸気のもうもうとただよう喧騒をきわめる港町では、巨大な船舶がうめきたがら沈黙し、マソモスの死 体のように、死にはてた荒涼たる波止場にものうげに漂い、ありし目には輝きとどよめきをほしいままにしたその 肉体を、今は海藻と貝殻炉﹂つきまとわれて、墓場と腐敗した魚類のにおいをただよわせたがら、疲れはて弱りはて て死んだように浮べるだろう。 市内電車は正気を失って色あせたガラスの橿のように、もつれあった電線の骸骨と軌遣のそぱや、腐飾し屋根に 穴のあいた車庫や、ひっそりとして噴火口のように引き裂かれた路上に、打ちひしがれ皮をむかれて、弱々しく横 っているだろ う 。 泥沼のようにどろどろして鉛のように重い静寂が、次第にあたりに広がり、学校や大学や芝屠小屋や、競技場や 遊園地を、ぞっとするほど貧慾な眼をして絶え問なく侵飾して行くだろう。 ?49 84 日光を、つげて汁気の多いぶどうの実はやせ衰えた山の斜面で腐敗し、稲は乾き切った大地の上で枯れ、じゃがい もは耕作の手も入れられたい畑で冷害をうけ、め牛はその硬直した足を、乳しぽり用の椅子をひっくり返したよう に天に向っでゼ伸ばすだろう。 研究所では名医の天才的な発明は困難になり、かびが生え、細菌におかされたようにその活動をやめてしまうだ ろう。 台所や貯蔵庫や地下室や、冷蔵室や倉庫では、最後の一袋の小麦粉と最後の一つまみのいちごやかぽちゃや桜の 実の汁がくさりはてるだろう。 パソはひっくり返ったテーブルの下とこなごなになった皿の上でかびをつげ、こぽれ出たバターは軟石鹸のよう た異臭を発し、田畑の穀物はさびついた鋤のそぼで、打ちくだかれた軍隊のように死に絶え、煙をはき出す煉瓦の 煙突と鍛治場の炉と製粉工場の煙突は、生い茂る雑草におおわれてぼろぼろになり、崩れ、崩壊するであろう。 そのときは人類の最後の一人が内臓をひき裂かれ、肺を病毒におかされ、答もなくたった一人で毒々しく燃えさ かる太陽と揺れ動く星の下をさまよい歩くであろう。見渡す隈りるいるいとして横わる墓場と荒れ果てた巨大なコ ンクリートのかたまりとなった都会の冷たい残骸のあいだを人類の最後の一人が骨と皮ぽかりになって狂気のよう に口汚い言葉をはき、歎き悲しみながらさまよい歩くであろう。−そして彼の発する恐怖の歎き﹃何故に﹄とい う一言葉は、人に聞かれることもなく草原を通り過ぎ、爆破された嬢櫨の中を吹き通り、教会の瓦礫のあいだをも れ、トーチカに当って音を立て、血の海の中に没するであろう、人の耳にも達せず、答もたく人類の最後の一人の 、 、 最後の叫び声が。−−−こういう一切のことが明目にも、ひよっとすると今夜にもやってくるのだ。−もし、もし 君たちがノiといわなげれぱ。 750 85 戦争の愚劣さ、原爆戦争の恐怖を描き、人類に反戦を訴える文章としてきわめて密度の高いものであって、後世に 残る名文ということができよう。残念ながら訳文では調子の高い原文の雰囲気を伝える︸﹂とができないが、ボルヒェ ルト一流の頭韻法︵>曇實きg︶を駆使した流麗な文体である。例を挙げると、 U雲ωo■■厨①窒津賞①事9■ミーま印目α①目く實敏−⑦目①■葭叫目oq①自く實敏邑①貝宗﹃射①−ωミーa巨宗Hく⑦庄o胃8自 向a⑦く睾気oo斥自①p ぎo①目内饒oげ①貝内︸昌昌①昌目自o穴色−①;二目o①■内饒巨ブ畔易⑦昌⊆目︷ω肩庁︸實目老①a①目 昌⑦−9斗⑦目ω8汗①峯⑦巨一匝︸①−①Sδ目9雰彗■aσ①①屋貝内旨一Uげ目箏庄穴︸易Oげω印津く①鼻O冒冒⑦戸9ρ 以上われわれはボルヒェルトの死の前後の模様に焦点をあててみたのであるが、以下ではわずか二十六才の若さで 死んだ詩人の波潤にみちた生涯をふり返ってみようと思う。たぜなら文学作品は詩人の生活と全く切離しては考えら の 生 涯 れないものであるから、作品を理解する上にその生涯を知ることはきわめて重要たことであるからである。 二 そ ヴォルフガング・ボルヒェルトは一九二一年五月二十日ハンブルクのタルベンベヅク通りの八二番地で生れた。後 に彼は港町である故郷ハンブルクの特徴をその詩﹃ハソブルクにイ﹂﹄︵冒饒與冒ざお︶の申で次のようにうたってい る。 巨︸陣昌一︺昌αq︸9邑①之竃巨 目ざプけ冬庁︸自印目︷①H■ωけ叫創け①目 gΦ窒ま冨巨印目Φ向竃p 巨籟φ勇一︺膏σq︷黒9①①q轟目 ノoj 脆 ;己墨け置皆轟貝崇目葦叶げ箒貝 ぎ家oq竃ミ8弄 ま国φ旨巨握ミoげ巨昌①乞彗プ甘 ぎ巴−⑦昌籟黒①易o︸︸目汗①■ ⋮︷葦錯け亀①家鼻二90巨一 ω庁ぎ看①F吻召奉昌︷ωO巨色O昇 冬①目目窮與巨ωg昌巴①冒︸触■斥①目 色oげ=①津昌箏匝訂o巨. 巨雷印昌ぎ轟ぎ昌g①竺與争け 邑o葦豊︸①く色og①■窪昌昌①冒 昌岸z彗暮電一一g8目g一 ω庁奏①鼻則簑⋮ωまω巨①庄o亀ωo巨穿等g雪一 婁①彗ω 宗 旨 葭 黒 g 黒 邑 碁 蠣 H 雰 σ 昌 冒 旨 g 一 胴彗嘗ωo邑厨冒胃耳 つまり一﹂の詩でうたわれているハーブルクは霧︵σq轟ξ胃蒜甘蟹①内αo訂−〇一〇軍 ωo雲穿穿實彗呉o・︶の都会で、市中には彼が熱愛したエル、べ川が流れていた。 g9︶と汽笛 ︵監硯ご& ︷亀 752 87 父親のフリヅツ・ボルヒェルトはハソブルク”ニヅペソドルフの国民学校の教師をやっていて、静かで辛抱強く慎 み深い人で、余り人とうちとげない性格であったが、高い感受性の持主であった。フリッツの父親ぱ煙突掃除の親方 で、へぼな詩を作ることもあった。フリヅツは師範学校を終えると、少し役所務めもしたが、キルヒェソヴェルダー へ移ってここで教師としての職をえた。一九一一年に彼は上役のカルル・ザルヒ宮ーの娘である十六才になるヘルタ ・ザルヒヨーと婚約し、一四年の五月二十九日に結婚式が行われた。その後ハンブルクヘ転屠したため、特に着い妻 は環境の変化による気づまりを色々と感じるようになった。つまり馴れ親んだ田園の生活からそらぞらLい感じの大 都会へやってきたので、変った周囲の状況に適応するのが非常に困難であったのである。もちろん夫は妻を今まで未 知であった科学や文学の世界へ引き入れように試みたが、妻は田園生活や友人たちを失ったことを悲しんで、好んで 回想の世界へ引っこもるようになった。そしてその沈殿した気持を小さな物語に書き、人にも読んで聞かせた。とこ ろが聞いた人たちからよさそうだといわれて、自分の才能を示したいという野心にもかられ、その結果新聞や低地ド イツ語の雑誌の注冒をひくようになり、その短篇が掲載されたり、短篇集まで出版された。つまり一種の地方的な郷 土作家にたったのである。 妻のヘルタが物語りを書き終えると、最初の聞き手にもなり、批評家にもなるのが夫のフリツツであったが、後年 ヴォルフガソグが詩作するようになったときも、やはり父親が批評家になって大まかた指示を与えた。従ってボルヒ ェルト家の中には、詩人を生みだす文学サロン的な雰囲気があったといってよいであろう。 さて父親は性来弱い体質であったので、戦争が始まってからは病気勝ちに恋り、胃弱と心臓衰弱と甲状腺障害に苦 しめられた。従ってボルヒェルトの作品にあらわれている父親の姿は影のような存在として描かれている。それに反 Lて母親の姿が具体的に描かれているのは二つの短篇にすぎないが、幼年時代の楽園からの追放と母なるものへの回 753 88 帰というモティーフはボルヒェルトの全作品に通ずる特徴としてあらわれている。このようた母性像への定着は恋愛 関係においても、男の世界にはなじめず、女性に逃避を求めるような態度をとらせ、年上の女性に関心をもたせるの であるが、一﹂れについては後にふれよう。とにかくボルヒェルトの幼年時代はもっぱら母親の影響のもとにあったと いうこと、母親が兄弟のいない一人子であるヴォルヒェルトを控え目た父親よりも、その外向的な気質によって方向 づけたということは確かである。 ボルヒェルトの幼年時代については余り知られていない。活藩ではあったが、漠然とぽんやりしたところがあり、 特瑚た才能とか、偏愛によって際立ったこともなく、健全ではあるが幾分散漫な智能の所有老であった。病身ではあ ったが、大胆なところもあり、特に目立つとか、末頼もしいとかいえる性質は何もなかった。親戚のものや知人たち は口をそろえて、朗らかで気立のよい子供であって、烈しい個性や早熟な才能は認められなかったといっている。幼 年時代についての報告のなかで、いつもあらわれてくるたった一つのことは冗談好きで、我儘な点があったという︸﹂ とである。また観察能力がすぐれていたことも指摘されている。 父親のフリッツが一九五七年に圓想的に書いた小さな報告の中では、ヴォルフガングの幼年時代について次のよう に述べられている。 ﹁今息子の子供の時代のことをふり返りますと、たそがれどきに彼のそぼに坐って、物語りをする自分の姿が目 に浮びます。彼は−このことが一番重要なことなのですが1i本を読んで貰うのではなくて、物語りを作って諾 をして貰いたがり、特に自分勝手に創作した話が一番好きでした。特に森の中で演ぜられる動物の話を聞きたがり ま﹂た、これはおそらく四五才の頃、私がクラスの老をつれて森へよくハイキングに出かけたときに、一緒に達れ て行ったことに関係があるのでしょう⋮− 754 89 ヴォルフガソグには兄弟がいませんでした。従って近所の家の子供たちが彼の遊び仲間にたりました。船長や運 転士や商人や教師などの息子がいて、当時はまだ静かだったエヅペンドルフの地区で遊戯をやったり、フヅトボー ルをやったり、自転車競争をやったり、また喧嘩を派手にやったりしてずいぶん荒れたこともありました。﹂ ヴォルフガングと特に親しくなった遊び友達はいとこのカルルハイソツ・コルスヴァント︵穴彗亭9竃Oo冨峯竃串︶ であった。二人とも教師の子であったが、二人の仲ではヴォルフガソグの方がとっぴな思いつきをしたり、生意気な ブランをたてたりして牛耳っていたようで、コルスヴァントの方は無骨で単純な性格だったらしい。このいとこのこ とは幼年時代を取扱った数少ない短篇の一つである﹃クリームボンボソ﹄︵肉讐昌げoき昌︶の中で描かれている。 学校では最初はかなりよい生徒であったが、最後には極端に悪い生徒にたった。成績では数学が特によくなかった が芸術方面の学科でも﹁可﹂︵訂匡乱ポ⑦己︶以上になることはなかったし、ドイツ語の点数も﹁良﹂︵Oq巨︶と﹁可﹂ の闇を往来していた。総評では﹁おしゃべりで﹂﹁不注意で﹂﹁まじめな事柄をまじめに考える態度が必ずしも十分で ない﹂となっている。一九三八年十二月一目の卒業証明書にはラテソ語とフランス語が不十分、数学の知識が不足、 ドイツ語の作文は可と記録されている。 当時の級友たちの目にはヴォルフガソグは一部のものには陽気なお人好しに映り、また他のものにはめったに一定 のグループとは結びつくことのない感じ易い独行者として描かれているが。このように組織化された集団に入るのを 好まないという姿勢は彼の一生を通じての決定的な特徴であるように思われる。彼は常にアツトサイダーであった。 といっても決して人と接触をしないというのではなくて、人から強要されたり、うながされたりして集団化すること を好まなかったのである。一時は﹁青年団同盟﹂の一員であったこともあり、キャンプフアイヤのかもしだす一種の ロマンティヅクな雰囲気にとりつかれていたこともあった。一九三三年に﹁ヒトラーユーゲソト﹂に参加したときに 755 90 彼が最初に考えたのは楽隊行進の横笛吹きをやっていれぱ、普通一般の労役をしたいですむだろうということであっ た。従ってその後は色々な口実を設げて義務をずるけたり、催し物にもまれにしか参加せず、遂には全くやめてしま ったのである。 このようなポルヒェルトのアウトサイダーの哲学は当時彼が口にしていたモットー﹁絶対的な自由﹂︵昌げ乱ぎO日8 軍①亭o6という言葉の中で頂点に達したが、そのあらわれは常軌を逸した行動や振舞いをすることであった。例えぱ 想像もつかない恰好をして芝盾見物に出かげたり、挑発的なアクセサリーを衣服につけたりするのである。ボルヒェ ルトはネクタイの代りに二本の赤いリボソをつけたり、縁の広い帽子の縁を切取ったりして色々な手段で人目をひこ うとした。しかしながらこのようた道化芝居じみた行為は現在とは違ってまじめな意味で考えるべき社会現象と認め 在げれぱならないであろう。なぜならすべての個人的なものや個性的なものが抑圧され、一定の秩序からはみでたも のはメモされてあらかじめ注意され、その後の自由がいつ失われるかも分らない時代であったのであるから、そうい う全体主義的な風潮に対する消極的た反抗と考えられるからである。 さてボルヒェルトは一九三八年の末に学校を卒業した。父親から何になる積りかとたずねられて、彼は俳優になり たいと答えた。ところが両親の目から見ると、俳優という職業はもっとも不安定な職業であった。阜、こで両親は別な 職業につくようにすすめ、あれやこれやのやりとりの後で、本屋という職業を選ぶ︸﹂とで話がきまった。父親によっ てヴォルフガソグはハイソリヅヒ・ボイゼソ商会へ紹介されたが、そこで﹁あなたは本屋になりたいのですか﹂とた ずねられたとき、彼の答えは﹁いいえ、そうしなげればならないのです﹂というのだった。 かくして彼は本屋の見習の生活を始めることになったが、︵本屋では彼はハンニバルという緯名をつげられた。︶見 習生漬の単調さを色々な代償行為によって和らげようとした。毎目の仕事といえぽ、小包を作ったり、本に正札をつ 756 91 けたり、店のレッテルをはりつけたりすることだったので、彼は両親にはだまってヘルムiト.グメーリソについて 俳優術を学んだり、ステップ・ダソスの議習を受けたり、友人たちとぶらついたり、文学のディスカヅシヨ、ソをする サiクルを作り、そこで当時は禁制になっていた表現主義の作品や自作のオペラを読んで聞かせたりしたのである。 またあるとき、このレヅテルはりといういやらしい仕事からのがれるために、主人あてにいつわりの手紙を書いて、 店の某君は本がいつも﹁この古めかしいいやな定価札﹂でよごされているので、お客の予約を取り消Lたと書いたと ころ、それ以来本には定価を書き入れるようになったと伝えられている。彼のいたずら好きの一薗を余すところ危く 伝えているエピソードであるo またボルヒェルトがゲシュタッポとじかに初めて接触したのもこの時期であった。この事件のあった後で一九四〇 年四月十九目に、彼はある女友達にあてて次のように書いている。 ﹁先週、僕は真暗たところにとじこめられて、警察署で一晩すごしました。なぜだか今もって僕には分りませ ん。僕の手紙もときどき開封され、ゲシュタツポのスタソプが押してあるのです。童たときどき自分が監視されて いるのにも気がつきます。全く恐ろしいことです、自分の一挙手一投足がうかがわれているのを感じるなんて。﹂ 彼が逮捕された原因というのは、彼が同じ店にいた女の店員に読んで聞かせた詩であった。この作品は残っていな いのではっきりしたことは分らないが、古典のモデルに倣って男色を取り扱った一種の類歌であったらしい。 ボルヒェルトは若い男たちと同性愛の関係を結んでいる疑いをかげられたのである。﹁リiケ﹂︵家O訂︶という男 と関係をもっていると非難し、リーケという男の住所をさがしていたのである。ボルヒ.一ルトがそん次知り合いは在 いといいはると、手紙の中で﹁リーケの愛﹂︵室①−亭=①訂︶と書いていると指摘するのであった。迅問の結果明らか になったことは手書のリルケ︵聖寿①︶のーをeと読み違いたためであったという笑い話のよう話であった。 75フ 92 ポルヒェルトは十五才の跨から詩を書いていたが、その製作範囲は恐ろしく広く、一日に五つや六つ、十やそれ以 上の詩を書き下すこともたびたびあった。そして作品をいつもまず両親に見せた。すると父親は溜息をついて、たま にばもっと数少なく、一日にせいぜい四つ位作るようにできないかというのだった。とにかく自分の作った詩を両親 に何のわだかまりもなくあからさまに見せるのがボルヒェルトの特徴だった。ところが父親は教師らしく構文や文法 や正字法の誤りを訂正したり、詩人を気取っているのに正しいドイツ語が書けていたいなどと批評したために、その 後は父親には遠ざかるようになった。彼はずっと後に書いた手紙の中で﹁私は白状すると、製作中に詩や散文を苦心 して作り上げたことは一度もなかった。思いつくと、すぐ書きおろして二度と変えるようなことはたい。私が一つの 詩を書くのに必要な蒔問は丁度一冊の本の中から同じ量の単語を書き写すのに必要な時問と同じだ。その後で磨きを かげたり、変更したりすることは私にはできない。むしろ三年たってもう一度書き直すほうがよい。君はきっとこの 仕事にもならない私の製咋態度の皮相さをきっと感ずるだろう。それはせいぜい短い陶粋とでもいうべきだろう﹂と いっているが、彼の製作態度をもっとも雄弁に物語る文といってよかろう。 ボルヒェルトはこのようた詩でもって親戚の人たちや、知人特に母親の友達や年上の女性の好意をえようと試み た。このような女性、しぱしばすでにかたり年を敢った女性への求愛的態度は愛の観念的な純化であり、女性一般的 なものへの崇敬といえるであろうが、先に述べた母親コソプレヅクスとも無縁なものではあるまい。その中でも母親 の友人で、女優のアリーネ・ブスマン ︵≧ぎ①ωら冒彗冒︶が彼の助言者になってくれた。彼女は弁護土のハーガー 博士︵U﹃.ρP雷晶雲︶の夫人で、彼女の風変りた住居がボルヒェルトにとっては一種の文学サロソのようになっ たのである。 ポルヒ=ルトが公けにした.最初の詩は一九三八年の﹁ハンブルガi・アンツァイガー﹂紙に発表された﹁騎手の 758 93 歌﹂︵ヵΦま庄&︶で次のようなものである、 肉①岸①﹃竈①区 −o巨一︺︷目①巨丙98H ω叶口﹃冒①目φφζHoブ昌①N臥け一 ∪⊆﹃oげ皇①考o寿①目︷饒ブま昌⑦弐肉岸け1 竃①弐黒⑦巨αq5︸津印易一 くoH與目一 くo﹃ρ目一 〇實架胃昌−鍔け冨σ窒旨守一 <o﹃ρ箏一 竃①ぎ巾守H創一 <oH與■一 ∪目8︸亀①○①敏︸畠目巨目ωけo﹃昌⑦自峯庁− 庁プ⊆目創創目1− 昌①ぎ弔ぼ﹃創一 くo量自一 〇一﹄﹃oげ 昌 ⑦ N 9 二 Ho︸一︺ぎ①ぎ肉①岸①ユ 十七才の少年の作品らしく前進する若さにあふれた詩ではあるが、詩工、のものとしては極めて幼稚な作品といって ・.よいであろう。 一九囚○年の春にボルヒニルトは最初の恋愛ーそれも失恋の結果に終ったが1を経験した。相手はハーガー弁 759 760 護士の娘ルートであったが、彼女には別にボーイフレソドがいたので、あっさり拒絶されたのである。丁度この頃は ボルヒェルトにとっては青春期の混乱とそれに伴う精神革命の時期だったようで、この傷心の状態はたまたま同じ頃 に年上の女性と知り合いにたり、ここでもみじめな敗北を喫したことも加って一層高まった。彼がルiトにあてた手 紙を見ると、一方では﹁僕は完全にどうにも仕様がなくたりました。今までにこんなことはありませんでした。この 世の中一﹂は絶望しました。−⋮どうかこの混乱から私を助げ出して下さい。この不安から私を救い出して下さい﹂な どと哀願したりしているが、一方では﹁僕はもはや愛などというもの、二人の人問のあいだの偉大な愛などというも のを信じません。僕は余りにもみにくい幻減を経験してしまいましたので、僕の信念は一かげら一かげらとくずれて 行きました。−僕は愛のすべての局面を体験しました。人々が愛と呼んではいるが、実際は愛でないものまでもで す。⋮⋮僕はこんなすべての幻滅を味わなくてもすむように遊び始めました。次々と女に手を出し、次々と体験を重 ねました。しかしいつも遊びだけです。たぜならそうしてのみ僕は結末 そして結末は絶えずやってくるのです1 い、特に俳優術と演劇の先生であったグメーリンが彼を熟狂させ、ハンブルク小劇場を作ろうという構想が浮びあが この失恋の打撃によってもたらされた動揺の時期は短かかったようで、その後は明るい気分の期間が続いたらし るといえようo 女性へ結びつくことができないということは、明らかに前述の母親への結びつきが余りにも強かったことに関係があ 結びつくことができたいことに対する歎き﹂が既に暗示されているからである。女性関係だげについていえぱ、ある ぜならこの中にはその後ポルヒニルトの全作品をつらぬくライトモティーフになるもの、つまり﹁自分があるものへ る。この後の手紙に述べられている発言は別に考え抜いた・ものではたいであろうが、極めて輿味深いものである。な iをたやすくのりこえることができたからです﹂などと、いかにも実践を数多くふんだ人問のようにも振舞ってい % 95 り、その計画について論議したり、一晩中だべりあかしたり、酒場から酒場へ歩いて飲み廻ったりした。一日に四時 聞しか眠らない日が半年も続き、仕事が終ると自分の役を勉強したり、また詩や戯曲の創作に打ち込んだりした。 一九四〇年の末には彼の芸術的野心はもっぽら演劇に向けられていた。彼は国立演劇院の委員会の試験を受け、落 とされたと思っていたが、三ヶ月後には免状を貰い、リュiネブルクの﹁東ハノーヴァ州立劇団﹂に勤め口をえたの である。ルユーネブルクでは最初のうちはホテルに住んでいたが、その後はケルナーの近くのアドルフ・ヒトラー通 りの九番地の一部屋へ引越した。この劇団は連結車をつけて各地を巡回する劇団で、一九四一年五月には軍隊慰間の ためにベルギーへ行くことになったが、︵一九三九年の九月に第二次大戦が始まり、 一九四〇年の五月にはドイツ軍 はベルギーを占領している︶丁度その頃にポルヒェルトは召集令状を受けとったのである。三月の初めから六月の初 めまでのわずかな三ヶ月の彼にとっては﹁わが生涯の最良の時期﹂︵2①8ぎ冨旨N①岸昌五冒ω5訂畠︶はここで終 りを告げた。彼が劇団での友人であったハイディ・ボイエスにあてた手紙には﹁恐ろしい憂麓としめつげる世界苦と たえがたいほど青い空﹂について述べられており、﹁僕は今後思い出の中に生き、未来について夢みるのだ﹂と書い ている。また詩人であった友人のカルル・アルベルトニフソゲ︵O胃−≧訂昌■竃σ目①︶にあてては﹁もし世界の軍事 力と軍隊のエネルギーが完全に活動して消減してしまったら、そのときはもう一度文化的芸術的な事象や間題が確実 な地位をえて、世界の美が栄え、人生が再びその深い意義をえることだろう。しかし、しかし1今ではわれわれは 人類が成熟して魂の活動である芸術を理解するまで、内部に向って築き上げ、自已を深化させ、自分の蓄稜をふやす より仕方がないのだ﹂と書いている。 彼はがらんとしたハソブルクやリュiネブルクを歩き廻り、二三の女友達を訪ねたり、酒を飲んだりしてうさを晴 らしたが、.六月中旬にヴァイマールー−リュヅツ.一ンドルフの戦車補充都隊に戦車兵として入隊した、 %ユ 96 奇妙なことに彼がみずから﹁わが生涯の最良の時期﹂と呼んだ﹁東ハノーヴァ州立劇団﹂の蒔代のことは彼の小説 の主題には全くなっていない。しかし﹁どの劇場も演じ、ようとはせず、観衆も見たくない﹂戯曲とナブタイトルのつ いている一二戸口の外で﹄の中では明らかにこの時代のポルヒェルトの俳優としての態度の反映が見られる。 ︵続︶ ア62