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Report 2001
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
Memorial Conference in Kobe VI
報告書
2001年(平成13年)1月20日(土)
神戸海洋博物館 大ホール
阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会
実行委員会
2
Report 2001
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
開会
プログラムと目次
Program & Contents
● 会場
組織委員会委員長
神戸海洋博物館 大ホール
展示 ・研修室及び廊下にて関係各機関の
復興の取り組みを展示いたします
・2000年の災害映像
・これまでのメモリアル・コンファレンスのあゆみ
● 午前の部
新野 幸次郎
9:30
開会の辞
9:45
テーマセッション
組織委員会 委員長 ・・・・・・・・4
わたしの「災害ボランティア」体験
−それは何をあなたにのこしているか?−
阪神・淡路大震災をきっかけとして、いろいろなところで「ボランティア」と
いう言葉を聞くようになりました。
被災地では、この六年間さまざまなかたちでボランティア活動が続けられて
きました。ご自分がボランティアとなられた方、ボランティアに助けられた方
など、被災地にはたくさんの震災ボランティアに関わる体験があります。
平成十三年は国際ボランティア年ということもあり、この六年間に災害とボラ
ンティアの関わりについてあなたが思ったこと、感じたこと、実践したことを「証
言」として集め今回のメモリアル・コンファレンスで検証していきたいと考え
ます。
1.ご挨拶
2.証言発表
●中国歌曲・音楽
京都大学防災研究所 巨大災害研究センター
河田 惠昭
12:00
昼食
13:00
パネルディスカッション
(司会) 皆様、おはようございます。ただいまか
ら「Memorial Conference in Kobe VI」を始め
させていただきます。
早朝から、そして風花の舞うお寒い中、たくさん
の方にご参加いただきました。本当にありがとうご
ざいます。本日、司会進行をさせていただきます、
私 藤原正美と申します。どうぞよろしくお願いい
たします(拍手)。
そして本日、手話を担当してくださいます方は
「Memorial Conference in Kobeのための手話の
会」の皆さんです。どうぞよろしくお願いいたしま
す(拍手)。
それではまず最初に、Memorial Conference in
Kobe組織委員会を代表いたしまして、神戸大学元
学長で神戸都市問題研究所理事長の新野幸次郎組織
委員長から、ご挨拶を申し上げます。
・・・・・・6
・・・・・・・・・・・・7
りこうれい
李 浩麗(ソプラノ)
・・・・・・・・・・・・・・20
3.記念品贈呈
わたしの「災害ボランティア」体験
・・・・・・・・・・・・・・24
コーディネータ
山口 一史
ラジオ関西
パネリスト
細川 裕子
被災地NGO恊働センター
天川 佳美
きんもくせい
榎本 まな
特定非営利活動法人 コミュニティ・サポートセンター神戸
荒井 勣
ひまわりの夢企画
田中 保三
15:00
会場エントランス
(株)兵庫商会
ニューフィルハーモニー・ジュニアオーケストラ 演奏会
・・・・・・・・・・・43
メモリアルコンファレンスのオリジナルテーマ曲 井上尭之 作曲 ''DISASTER'' の関西初演
●指揮 武田博之
15:30
パネルディスカッション
「対談・震災6年目のまとめと提言」
3
開会の辞
・・・・・・・・・・・・・45
土岐 憲三
京都大学大学院 工学研究科
山口 一史
ラジオ関西
実行委員会 委員長
16:30
閉会の辞
土岐 憲三
16:45 ∼
交流会
2階「フィルドメール」にて 会費 3000 円
司会:藤原正美
新野 幸次郎
(新野) おはようございます(拍手)。大変寒い中
を、こうしてたくさんの皆さん方に早朝からお集ま
りをいただきまして、組織委員会を代表して厚くお
礼を申し上げたいと思います。
震災から満6年が経過いたしました。何年たって
も、6432人というたくさんの方々が亡くなられ、
その肉親の方々や友人や親しい近隣の人、そういう
人々を加えてまいりますと、その何倍かの人が亡く
なられた人のことを思い起こして、毎日をお過ごし
になっているのだと思います。また、20万を越え
るような家が全半壊いたしました。したがって、そ
れに伴ういろいろな生活の思いがこんにちまで続い
てきていると思います。そういう意味で、大震災と
いうものがどれだけ大きな、あるいは深い痛みをそ
れぞれの人々に与えているかは、何年たっても忘れ
ることができないことであります。
考えてみますと、今から6年前の震災直後に
「The New York Times」というアメリカの有名な
新聞にこういう記事が出たことがありました。「今
まで震度8や7程度の地震は、世界中あちこちで起
こったことがある。しかし、その多くは人口の比較
的過疎の地域や経済状態の非常に悪い国々、あるい
は科学技術の発展の程度も少ないような地域で起こ
ったことが多い。ところが、今度の神戸を中心とし
た阪神・淡路大震災は、国民所得で世界第2番目の
水準を持った日本で、しかも大都市で起こっていて、
その大都市を囲む国というのは、世界でも科学技術
の発達の程度が非常に高い水準の国である。そうい
う国で震災が起こったあとに、これからどのように
震災復興がなされるかということは、きっと世界の
各国に大きな貢献をすることになるだろう」という
記事を出しておりました。考えてみますと、確かに
その指摘は当たっておりまして、私どもの地震を経
験いたしましてから間もなく、トルコや台湾やギリ
シャや、最近は国内でも有珠山、三宅島の伊豆列島、
そして鳥取西部地震のようなかたちで次々と地震が
起こってきております。この神戸を中心にいたしま
す阪神・淡路大震災のいろいろな経験を生かすこと
が、その意味ではできているかもしれません。
その意味でも、「Memorial Conference in
Kobe」というものを震災後、この組織委員会、さ
らに皆さんのお手元に配布されておりますパンフレ
ットの11ページにある実行委員会の方々のご努力
を得ながら、こういう組織が発足をいたしまして、
4
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Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
こんにちまで6回にわたって、こうして会を重ねて
まいりました。単に神戸でやるだけではいけないの
で、できるだけ日本のほかの地域でも考えていただ
けるようにしようということで、東京でも1回開い
ております。こういうかたちの会は、当初少なくと
も10回はやっていこうということで、これまで努
力をしていただいておりました。この努力の結果が
いろいろと各地方に波及し、そして先程申しました
ような各地で起こります地震のいろいろな教訓にな
るような、ある支えをしているのではないかと思っ
ております。
今回は皆さんにご参加をいただきまして、「わた
しの『災害ボランティア』体験」というかたちでた
くさんの方々からボランティアとしての体験をお話
ししていただき、それがまた、これからどういうか
たちで生かしていけばいいのかという議論につなが
っていくのではないかと思います。そういう意味で、
1つの会を運営するということだけでも大変であり
ますけれども、最初に申しましたように、大変な被
害を受けた経験の中から生み出された知恵を作りあ
げていこう、この経験をほかの地域で少しでも災害
を減らしていけるように、努めていける仕組みづく
りを考えていこうというこの会は、私は大変大きな
意味を持っているのではないかと思います。
今日皆さん方がこうしてお集まりいただきまし
て、貴重な体験をお話し合いしていただく中で、き
っとまた新しい震災に対応する我が国の大きな力を
作り出していくことになるのではないかと期待をし
ております。どうかこの1日を、皆さんの熱心な討
議の中で、新しい決意をし、そして新しい仕組みづ
くりをしていくきっかけになることを期待いたしま
して、最初のご挨拶に代えたいと思います。本日は
まことにありがとうございました(拍手)。
テーマセッション
わたしの「災害ボランティア」体験
(司会) それではさっそく、プログラムに入らせていただきます。この「Memorial Conference in Kobe」
は、毎年テーマを決めて、多くの市民の皆さんの声を聞き、研究者やさまざまな分野の方々との意見交流を通
じて、阪神・淡路大震災から学んだことを話し合い、そしてその結果を全国、全世界に発信していこうという
ものです。今回は、先程の新野組織委員長からのご挨拶にもございましたように、「災害ボランティア」をテ
ーマに、参加者全員が学んでいこうと思います。
それではここで、実行委員会の京都大学防災研究所巨大災害研究センター長で教授の河田惠昭がご挨拶申し
上げます。
1.ご挨拶
(河田) 皆様、おはようございます(拍手)。この
Memorial Conference in Kobeの事務局を仰せつ
かっております私どものセンターを代表いたしまし
て、今日のこのテーマにかかわるこれまでの経緯を
お話ししたいと考えています。
皆様ご存じのように、この震災ではおよそ140万
人のボランティアの方が活躍いたしました。そして
それを契機に「震災ボランティア」という言葉が生
まれ、そのあと、ナホトカ号の重油流出事故では
27万人、昨年の東海豪雨では約2万人のボランテ
ィアの方が活躍していただいております。また先程、
新野組織委員長からご紹介がありましたように、台
湾、トルコの海外での災害に対しても、我が国から
たくさんのボランティアが駆けつけるというような
ことで、このボランティアという活動が我が国で根
付いた初めての震災という位置付けがなされている
わけであります。
私どもは、このMemorial Conference in Kobe
でいろいろなテーマでこれまで検証してきました
が、今年は実は国際ボランティア年ということで、
我が国が中心となっていろいろな行事が企画されて
います。明日もこの神戸で大会が企画されておりま
すけれども、そういったことと符合させる意味で、
今年は「ボランティア」を取り上げて検証したいと
考えました。
私どもは毎月1回、実行委員会を開いておりまし
て、この夏過ぎから、今日のこのミーティングをど
のように進めるかと話し合いをしてきました。ご承
知のように私どもも実はボランティアでやっている
組織でありまして、いろいろなマスメディアの協力
を得まして、今日ご発表いただく証言を応募してい
挨拶:新野幸次郎(組織委員会委員長)
(司会)
た。
5
−それは何をあなたにのこしているか?−
新野組織委員長からご挨拶申し上げまし
ただきました。そして今日、ぜひ発表していただき
たいという方に、午前中、発表していただくことに
なっております。そこでは、この震災を通して思っ
たこと、感じたこと、実践したこと、こういった
「ボランティア」という言葉で共通する事項につい
て、証言していただくことになっております。
この震災で生まれたボランティア活動は、このま
までいきますと、いろいろなかたちで発散する危険
性があると私どもは考えております。今日この機会
に、6年間のボランティアの体験、経験を踏まえて、
今後にどう結びつけていけばいいのかということを
中心としたテーマで進めたいと思っております。1
日、長いと思いますが、このような趣旨で皆様のご
協力を得まして進めたいと思っておりますので、よ
ろしくお願いいたします(拍手)。
挨拶:河田惠昭(京都大学防災研究所 巨大災害研究センター)
(司会) ありがとうございました。実行委員会の
京都大学防災研究所巨大災害研究センター長の河田
惠昭教授でございました。
2000年の災害展示
6
Report 2001
2.証言発表
感謝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三田 ひで子
私の阪神大震災ボランティア体験∼瓦礫の町にひまわりを∼・・・・・・・・・ 荒井 勣
わたしの「災害ボランティア」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 山崎 主知子
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 岩瀬 利治
わたしの「災害ボランティア」体験 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中嶋 栄子
ボランティア元年の幕あけ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 渡辺 芳一
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東田 せつ子
避難所での春祭り、そして今、ハローボランティア・・・・・・・・・・・・・ 山本 康史
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 佐藤 杏子
震災医療に参加して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 竹岡 秀生
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 高室 悟子
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 小川 敬三
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三上 成子
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 辻 隆
たった二日間のボランティア体験から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今井 和代
わたしの「災害ボランティア」体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 朝野 千明
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
(司会) さあ、それでは最初に、実行委員会と阪
神・淡路大震災記念協会が共同で募集いたしまし
た、災害ボランティアの体験をつづった証言をご紹
介いただきます。全国各地からそれぞれのボランテ
ィアの経験や、そして思いを込めてたくさんのご応
募をいただきました。本当にありがとうございまし
た。
その中から、今日は証言16編を選びまして、本
日会場の皆さんと一緒にお聞きしたいと思っていま
す。これは作文コンクールではありませんので、ぜ
ひ多くの方に知っていただきたいと思います。16
人の方全員にこの会場にお越しいただきたかったの
ですが、それぞれにご都合もございまして、本日は
14人の方に会場にお越しいただきました。
それでは、最初の方をご紹介いたします。神戸市
の三田ひで子さんです。本日、会場にお越しいただ
きましたが、「作文を読むのはちょっと」というこ
とで、私が代わりに読ませていただきます。ご紹介
させていただきましょう。
「感謝」。
震災から、早くも6年の歳月がたちました。避難
先の体育館では、あふれ出るゴミのあと片付けとト
イレの掃除に追われていました。
「恐ろしい」
「怖い」
などと思う余裕すらありませんでした。忙しかった
おかげで、一瞬でも震災のことを忘れることができ
ました。ケガひとつすることもなく助かった命に感
謝をしながら。
「私にも何かできることはないか」と考えました。
考えて選んだ仕事が清掃のお仕事でした。不思議な
くらいに「恥ずかしい」とか「汚い」とか、全く思
うこともなく働いていました。被災された方々の被
害の程度は、人それぞれ違ってはいましたけれど、
みな心を1つに通い合い、大勢のボランティアの
方々に助けられ、大勢の方々と知り合うことができ
ました。今も本当に良い経験をさせていただいたと
思っています。
神戸市の三田ひで子さんの作文でした(拍手)。
続きまして、神戸市の荒井勣さんの作文です。題
名は「私の阪神大震災ボランティア体験∼瓦礫の町
にひまわりを∼」。
(荒井) 失礼します。荒井勣と申します(拍手)。
文章中、54歳となっておりますが、1月8日に55
歳になりました。読ませていただきます。
「私の阪神大震災ボランティア体験∼瓦礫の町に
7
ひまわりを∼」、神戸市西区、荒井勣。
私は平成3年から、青少年の健全育成ボランティ
アの実践として「ひまわりの花いっぱい運動」を展
開していました。毎年、大輪のひまわりに元気をも
らっていた私は、このひまわりに明るいまちづくり
をゆだねることにしました。震災当時、県の「心豊
かな人づくり500人委員会」で会員として受講して
いた私は、仲間に声をかけて「ひまわりの夢企画」
というボランティアグループを立ち上げ、約700リ
ットル、350万粒の種や苗を被災地に配布しました。
もちろんほかのボランティアグループにも、どさり、
どさりと配布を依頼しました。希望者多数に郵送し
ました。
やがて夏。仮設に、公園に、さら地にと化した住
宅跡地に、たくさんのひまわりの大輪が咲き、秋に
なると山のように礼状が届きました。「勇気付けら
れた」「心いやされた」などなど、たくさんありま
した。その礼状と写真に心を打たれた私は、「幸せ
の黄色いひまわり展」という小さな展覧会を開きま
した。来場したたくさんの人が感動の言葉を残して
くれました。その一言一言が、ボランティアに疲れ
た私の心をいやしてくれました。
その中に、少し目線の違った人がいました。じっ
くりと展示を見てから、「人間セラピーの実践だ」
と言われたのが、防災心理学を研究している林春男
先生と立木茂雄先生でした。当時「セラピーって?」
と、無知な私は聞き直したのを今も覚えています。
「人のために」などと考えてもいませんでしたが、
何か胸のつかえが取れたようで、目頭が熱くなり、
何度も何度も握手を求めていました。
以来6年、復興のかけ声のもと、多くの人の笑顔
に支えられ、いろいろなひまわりを被災地に咲かせ
続けています。年明けの1月17日、神戸21世紀・
復興記念事業が始まりました。感謝の花としてひま
わりが選ばれ、ポートアイランドの仮設跡地に巨大
なひまわり畑を作る計画があります。もちろん、私
たちがたくさんの種を提供します。復興文化の1つ
として、ひまわり文化を残すことが私たちの夢です。
ひまわり関係を少しずらしまして、その他の活動
を少しだけ紹介させていただきます。「ひまわり温
泉の出前」ということをしておりました。トラック
の荷台に3人一度に利用できる仮設の温水シャワー
を特設出前いたしました。被災後の1月24日から
27日まで、港島中学校校庭、1月28日から31日
まで楠中学校校庭、2月1日から4日まで神戸生田
8
Report 2001
中学校校庭、2月5日から9日まで五位ノ池小学校
校庭、2月10日から8月5日まで若宮小学校。利
用者の累計は延べ1万人。6か月に及んだ若宮小学
校では、ふろのほかに「ひまわりサロン」を設置、
避難所でいろいろな支援活動をしました。夜ごとの
一品のおかずの提供、温泉卵1万個の製造、配布。
住民と一緒にひまわりの種の袋詰め。勇気付けのひ
まわり温泉放送など。たった1つこの中で自慢でき
るのは、公立小中学校内の校庭でのふろの提供は、
自衛隊以外私たちだけではなかったかと思われま
す。ぜひ、機会があったら検証をお願いしたいと思
います。なぜかという話はまた横に置いておきます。
以上いろいろ書きましたが、書ききれません。実
は震災前から月1話のエッセー「笑いのセールスマ
ン」というものを書いておりまして、その1話と2
話は自費出版で勝手に作りました。多田野文(ただ
のぶん)という名前で書いておりまして、私自身が
A君で登場します。車のセールスをやっておりまし
たが、せめて自分の体験だけでも残そうと思いまし
た。この本は現在、三宮駅前のフェニックスプラザ、
震災復興支援館に寄贈しておりますので、もし機会
がありましたらお読みください。
以上、いろいろとお話をさせていただきましたが、
ありがとうございました(拍手)。
(司会) ありがとうございました。さら地に咲い
たひまわりの花を思い出しました。神戸市の荒井勣
さんの作文、題名は「私の阪神大震災ボランティア
体験∼瓦礫の町にひまわりを∼」でした。ありがと
うございました。
続きまして、神戸市にお住まいの山崎主知子さん
の作品です。題名は「わたしの災害ボランティア」。
(山崎) 神戸市の山崎主知子でございます。今回
「わたしの災害ボランティア」という作文を応募さ
せていただきました。この機会を得ましたことに感
謝を申し上げます。
「ふれあい植樹の会」と申しまして、コープ神
戸・生活協同組合の支援を受けながら、高齢組合員
とボランティア組合員が48名、毎月1回の会食と
ふれあいタイムの交流を進めています。
阪神・淡路大震災のあの日、1月17日が定例日
だったのです。前日に準備をいたしました食材、食
器などがちりぢり床に飛び散りまして、悲しい思い
をいたしました。豚汁の炊き出し、淡路島三原町の
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Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
農業研究グループから炊き出しを受けました。コー
プ深江店の店頭で、地域の方々はもちろん、道行く
方々にお声をかけまして、1600人の被災者に温か
い豚汁が振る舞われました。「ごちそうさん」「よろ
しゅうおあがり」、たったこの一言の交流ですが、
熱い思いが通い合ったと確信しております。
深江北夏祭り、出てまいりましたが、これもコー
プ神戸の青少年活動として長年続けておりました盆
踊り大会を地域の夏祭りとして、夜間開放の小学校
校庭へ持ち込んで5年目でした。当時は各自治会の
活動も休止をしておりました。開催が危ぶまれまし
たが、この夏祭りには、地域住民のコミュニティの
場として役立ってほしいという当初からの強い願い
がありましたので、継続をしたいという思いが日々
強くなりました。
当時神戸には、全国の芸能人の多くのボランティ
ア出演がありまして、その中から雨の降る日に出会
ったのが「河内音頭」初音家秀若一門だったのです。
「もう一度神戸へ来たい」とおっしゃってくださっ
たその一言に、すがる思いでお願いをしてみました。
そしてその夏、「震災犠牲者初盆供養、河内音頭大
会」として実現をいたしました。小学校の校庭を1
万人の住民が埋め尽くしました。秀若さんの歌の中
に「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」と、
みんなで歌いました。1万人の大合唱でした。そし
てみんなで泣いてしまいました。
仮設住宅の訪問が始まりまして、小物の手芸づく
りから話し相手になったり、カラオケのお手伝いを
したりということで、盆踊りの練習も始まりました。
多忙な訪問日でした。地蔵盆の夜に2日続いた小さ
な広場のちょうちんの明かり、喜びの輪、踊りの輪。
復興住宅、仮設住宅へお伺いしてから初めて見る笑
顔。とてもすてきでした。
そしてふれあいサロンと申しますのは、町の小さ
な医院の待合室で、通院患者さんやそのご家族の方、
また近隣住民の方たちなどと一緒に手芸を楽しみ、
励まし合ったものです。1つの医院のご支援で「お
でん大会」が開催されました。温かい思いやりの味
が、このときはみんなの胸に染みました。
講演活動では貴重な体験をさせていただきまし
た。先程の荒井さんと同期生なのですが、「兵庫県、
心豊かな人づくり500人委員会」の第3期研修生と
して、2年間の成果が実る直前の災害だったのです。
同期生から「何か市民レベルで書き残そうよ」と呼
びかけがありました。そして心の底からの思いをつ
づって投稿いたしました。『私の阪神大震災』の発
刊がきっかけとなりまして、東京市民防災研究所研
修会に参加の機会をいただきました。「地域に生き
る」というテーマを持ちまして、災害時の主婦の暮
らしや、神戸の復興状況などを語り伝えてまいりま
した。東京都、横浜、金沢などのご依頼をいただき
まして、防災推進の一端を担う貴重な体験は、私に
とって生涯忘れることのできない有意義な活動とし
て心の奥に残っております。
「ふれあい喫茶」を現在もやっておりますのは、
神戸市営復興住宅の集会室を借りまして、ボランテ
ィアの手作りケーキとお茶で、月1回集っておりま
す。95%が65歳以上の高齢者の復興住宅です。こ
の1時間半の喫茶にお集まりになるのも大変なので
す。全戸お誘いにまいり、そしてお一人お一人お誘
いをして、やっと今月は15人でしたか、おいでに
なりました。独り暮らしの方たちは、あっという間
におしゃべりの時間がすんで、「また来月ね」と寂
しそうにお帰りになります。
このように地域社会にボランティア参加をして
40年近くになりますが、どの活動も私自身の心の
支えになり、ときには励まされ、慰められ、充実し
た日々を過ごしております。
昨年、半世紀を共に生きた夫と永遠の別れがあり
ましたが、悲しみの中にもこのような活動に大変助
けられました。21世紀に入り、この数々の体験を
生きがいとして、町づくり、人づくりのために、そ
して何よりも自分のために「地域に生きたい」と強
く願っております。ありがとうございました(拍手)。
(司会) ありがとうございました。生きがいとし
て頑張っていらっしゃる、神戸市の山崎主知子さん
の作品、題名は「わたしの災害ボランティア」でし
た。
続きまして、西宮市の岩瀬利治さん、題名は「わ
たしの災害ボランティア体験」です。では、お願い
いたします(拍手)。
(岩瀬) 西宮からまいりました、岩瀬利治でござ
います。
人生では災難というものが何回か繰り返されるも
のであります。私の最初の災難は、昭和22年、戦
後大変な時代に長野県飯田で大火に遭いました。私
のうちは料理屋でありましたが、3300所帯が一夜
にして焼けました。そのときに私どもは「何をしよ
うか」ということで、とりあえず灰を片付けなけれ
ばいけないので、焼け跡の片付けをしました。いち
早く、レコード屋さんがレコードを流そうというこ
とで、バラック建てのレコード屋から並木路子さん
の「りんごの唄」が流れ、そして私どもは「りんご
の唄」を聞き、「これは復興のシンボルだ」という
ことで、灰の片付けをいたしました。だからその当
時はまだまだ大変な時代でありました。そして町に
25メートルの防火道路ができまして、まだまだそ
の時分にりんごの木は少なかったのですが、校長先
生の案で信州飯田に「りんごの木を植えよう」と中
学生の手で約50本植えさせてもらいました。今ま
で考えていたボランティアというよりは、「勤労奉
仕」という言葉ではないかと思います。
そして第2回目の震災。今回は高齢で西宮の商店
会で設計事務所をやっておりまして、遭いました。
前のときは中学生の親元での災難でありましたけれ
ども、今回は高齢になっての災難。皆さんご存じの
とおり、大変な時代でありました。そして私どもは
「何かしよう」と、やはり勤労奉仕というよりもボ
ランティアということで、仮設の建物で紙芝居「は
なさかじじい」を老人の方とやりました。
たまたま西宮は桜の花が盛んに咲いておりまし
て、そういう意味におきましても「桜の花のはなさ
かじじい」ということでした。ところがふと考えま
したら、私は「りんごだ」ということで、これをり
んごの花に替えようと*ゆしゅつ神社*とか商店会
の方に相談しましたら「それならりんごを植えよう」
と。西宮は1146人の方が亡くなった、その1000
本に挑戦してりんごを植えよう。今度は震災の復興
りんごということで、それがたまたま新聞に載りま
したために、全国からりんごの苗木を送ろうとか、
ボランティアを組もうという大変なご支援をいただ
きまして、たくさんまいりました。
10
Report 2001
まず学校の庭に植えようということで、写真があ
りますけれども、6人の方が亡くなりました浜脇中
学校で、その1周年の記念に6本のりんごの苗木を
植えました。りんごというのは4年で花が咲いて5
年で実がなる。「桃栗3年・・・」という言葉があ
りますけれども、そういう意味で浜脇中学に植えよ
うということで、西宮の約40校の公立中学に対し
て、約230本のりんごの苗木を市民の皆さんの手で
植えさせていただきました。
そして次に公園に植えようということで、行政の
指導などいろいろとありまして、またその当時は西
宮みたいな地にりんごがはたしてなるのかというよ
うなこともありましたが、生産地の方がいろいろと
研究してくださり、暖かい所でもりんごはなるとい
うことでありました。そして私どもが公園に植えた
ことがまた地域のためになりまして、老人の方など
がりんご畑の手入れをしようということになり、ま
た学校では、夏休みにクラブ活動の前にりんごに水
をやって、先輩の霊をしのごうということがありま
した。
おかげさまで西宮では、今803本終わりました。
目標は1000本でまだまだでありますけれども、こ
れを続けてやることが私の人生だと思います。そし
てりんごの実もなりまして、地域の皆さんは非常に
うれしいと思います。まして、また飯田ではりんご
が半世紀たちましたために、その当時は飯田には桑
畑が多かったのですが、りんごの並木のために、町
おこしで信州りんごというものができたと思いま
す。ですから西宮の町でも、1000本のりんごがゆ
くゆくはなって、あちこちに震災の教訓になって、
将来伝承されればいいと思います。以上でございま
す。ありがとうございました(拍手)。
(司会) ありがとうございました。西宮市の岩瀬
利治さん、本当に実を結んだボランティアですね。
11
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
題名は「わたしの災害ボランティア体験」でした。
続きまして、神戸市の中嶋栄子さん、題名は「心
の支えとなった、胎児応援ボランティア基金」です。
証言でご紹介がありますけれども、震災の年の5月
にお生まれになったお子さんとご一緒に今日はお越
しいただきました。それでは中嶋様、よろしくお願
いいたします(拍手)。
(中嶋) おはようございます。神戸は須磨からま
いりました中嶋栄子です。この写真にもありますよ
うに、おなかの中にいた赤ちゃんが5歳となって、
今、そちらの席に座っております。名前は中嶋*り
さ*と言います。では、体験を読ませていただきま
す。
私が、現在「エンブリオ基金」と改名をしました
「胎児応援ボランティア基金」と出会ったのは、避
難所に生活して10日ほどたったころでありました。
上にも子どもが2人おりますが、子ども2人のこと
はもちろん、当時妊娠5か月だったので、体のこと、
栄養のことなど大変心配でした。それに地元出身だ
ったので、両親はもちろん、妹夫婦、弟夫婦も一緒
でしたので、死ぬときは家族一緒だと、予震が来る
たびにそう思っていました。そんな中、避難所に妊
婦さんを探して、全然知らない東京から、また明石
の方から妊婦さんを探してやってきてくれました。
私の不安な気持ち、子どもたちのこと、家のこと、
そして何より赤ちゃんのことを本当にいろいろお話
ししました。栄養はもちろん、風邪もすごくはやっ
ていましたので、「本当にこの子は無事産まれるの
だろうか」といつも不安な気持ちでおりました。そ
の話をじっと聞いてくれ、励ましてくれたのです。
そしてすぐに必要なものをそろえてくださいまし
た。そして、その中にこの「お母さん頑張れ、赤ち
ゃん頑張れ」と書かれたこの基金と生命尊重ニュー
スがありました。
お話をしたことで私は、家族だけではなく、おな
かの中の赤ちゃんを応援してくれる人が自分たちの
中だけではなく、他のいろいろな所から来てくれた
ということで、大変勇気付けられました。そして自
分たちの置かれている状況を再確認することで、少
しずつ心を落ち着かせることができました。話をす
ることで心の重荷が少しずつ取り除けたのだと思い
ます。その後この「お母さん頑張れ、赤ちゃん頑張
れ」という文字を見て、頑張って来られたと思いま
す。
そして5月23日、無事長女を生むことができま
した。今5歳で、元気に走り回っている姿を見て、
本当にたくさんの方々の愛を持って育っているのだ
なと思っています。この誕生の知らせを機に、現在
私もこのエンブリオ基金のメンバーの一人として活
動しています。今この基金箱があるのですが、一口
1円の基金で幸せな赤ちゃんが生まれてくるよう、
また、命の大切さをたくさんの方に知ってもらえる
よう、娘と共に続けていきたいと思います。どうも
ありがとうございました(拍手)。
(司会) ありがとうございました。神戸市須磨区
の中嶋栄子さんの作品、題名は「心の支えとなった
胎児応援ボランティア基金」でした。今日はお子さ
んが一緒ですので、せっかくですからお顔を皆さん
に見ていただいてください。お母さん、抱っこして
あげてください。恥ずかしいかな? どうもありが
とうございます(拍手)。
続きましては、西宮市の渡辺芳一さんの作品です。
題名は「ボランティア元年の幕開け」です。それで
は渡辺様、どうぞよろしくお願いいたします(拍手)。
(渡辺) ただいまご紹介に預かりました、渡辺で
ございます。本日朗読していただく方々の平均年齢
を押し上げました元凶でございます。まことに申し
訳ございません(笑)。
さて、大正12年といえば、あの関東大震災が発
生した年であります。干支の亥年であったこのとき
から数えて、奇しくも7回目の同じ亥の年、「災害
は忘れたころにやってくる」という言葉どおり、
72年目に私たちの住む町を人を傷めつくしたので
あります。
忘れもしない平成7年1月17日、月曜日。鉛色
の空、老夫婦だけの一軒家、何をどうしてよいのか、
しばらくはぼうぜん自失の状態、薄暗い戸外へ出る
と仰天するような光景が。そんな折り、近くの会社
独身寮から駆けつけた一団の若者たちが、生き埋め
の高齢者を手際よく引き出し、病院まで運び込んで
くれる。日ごろは地域では全く疎遠な人たちなのに。
翌18日火曜日、容赦ない寒風。昨日助け出され
た老人の家族が寮を訪れて、お礼をと思っても、だ
れ一人名乗り出てくれなかったそうだ。さわやかな
余韻の残る青春群像に乾杯。
21日土曜日、晴れ。顔見知りの老大工さんが突
然に訪れ、「明日から雨だろう」とかわらのずり落
ちた屋根に青シートを張りめぐらしてくれる。自分
の家は放ったまま、連日高齢者宅の奉仕を続けてい
る。昔かたぎの職人だ。寝不足と過労から目も充血
してしまった顔を見ると、とてもそれ以上の応急処
置は口に出せなかった。
22日日曜日、廃屋に無情の氷雨。妻が知人の葬
儀へ参列する。重いはりの下敷きから助け出された
のに、様態が急変したとのこと。あんなに優しい人
柄だったのにと嘆く。駅前の倒壊建物の基底から、
かすかに鳴く子犬を通行人が発見。近くを工事中の
職人さん10人が、雨の中を3時間も穴掘りの末、
子犬を6日ぶりに救出。飼い主の老人がうれし泣き
する中、周りから歓声と拍手がしばらくは鳴りやま
なかったそうだ。
27日金曜日、晴れ。墓地へ出向く。この年にな
るまで見たこともないクラッシュ現象を目にする。
水害の直後のように墓地全体が沈み込み、至る所か
らゆう水している。近くの川の上流で激しい土石流
が発生。その関連かとも思う。我が家の墓碑も泥の
中にめり込み、転げ落ちたままだ。ただ、通路に面
した墓石の崩れだけが整とんされている。学生風だ
ったとも、社会人だともうわさだけだが、墓石をも
くもくと片付け去っていったとのこと。
28日土曜日、晴れ。寒風吹く小学校の庭で、宍
道湖のシジミ汁が振る舞われる。遠く松江から来て
くださったそうだ。「ありがとう、ありがとう」何
回となく言っていく、老被災者の涙声。
30日月曜日、寒気凛冽。妻の立ち直りは早い。
物資配布のボランティアとして出掛ける。帰宅後の
土産話。東京から駆けつけた救援の大学生、一向に
昼食をする気配もないので事情を聞くと、持ち合わ
せがないとのこと。リュックには何枚かの下着を詰
めてきただけ。女たちがカンパして弁当を渡すと、
あっという間に平らげてしまい、大笑いする。しば
らくたち、救援物資に食料もあったのに、指1本触
12
Report 2001
れない感心な青年だとみんなの評価が一変したとの
こと。無鉄砲だが純真、いい若者だ。もう行き詰ま
りと苦悩する人にとっさの機転で義きょうの行為に
出る。そして相手からも、まして己の名も告げずに
去ってしまった人。そんな輝きに満ちたボランティ
ア元年の幕開けだった。
以上でございます(拍手)。
(司会) ありがとうございました。西宮市の渡辺
芳一さん、題名は「ボランティア元年の幕開け」で
した。
続きまして、神戸市の東田せつ子さん。題名は
「わたしの災害ボランティア体験」です。では、よ
ろしくお願いいたします(拍手)
(東田) 今日のためにのどをいたわってきたので
すが、ますますおかしくなってしまいまして(笑)、
申し訳ございません。
私は震災の年の8月から病院ボランティアをして
おります。それは今の私の命が12年目のボーナス
であること、また全壊の下敷きになり、一度はあき
らめかけた息子を、通りがかりの男性の方2人と夫
が必死になって助け出してくださった尊い命に対し
て、当時のいろいろなありがとうのお返しを少しで
もできればとの気持ちからです。
1995年夏、兵庫区にある鐘紡記念病院で、8名
のメンバーからスタートしました。多くの患者さん
の中に、震災による心のケアが必要な方やいろいろ
な病気の方が来院されました。私たちはロビーでそ
の方々とお話をし、聞き役になり、共に涙を流し、
手を握り合いました。私は息子の件は心の奥に秘め、
親身になって相手のお話を聞くことができました。
帰られるときの足取りが少しは軽そうに見えたの
は、私の気のせいでしょうか。
13
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
あれから6年。月日が患者さんの心をいやしてく
れたと思います。現在はメンバーも36名に増え、
院内の案内や、目や体の不自由な方々の代筆、車い
すの用意、赤ちゃんの子守り、お茶の用意など、土
日以外毎日交替で頑張っています。私たち病院ボラ
ンティアの役割は、来院される患者さんに対して人
間らしく生きるための心配りと、病院の雰囲気をで
きるだけ明るくさわやかにとの気持ちから、地域と
病院との橋渡し役として、ずっと続けていきたいと
思っています。
これは余談ですが、震災から2年目の2月1日、
私の夫が仕事中に2階大屋根から転落し、脳挫傷、
左上半身多発骨折となり、*さんじ*救急病院へ運
ばれました。本人の不注意もありましたでしょうが、
昼は大工仕事、夜は兄弟の家の修理と、当時は休日
も取れないまま疲労が重なっていたのではないかと
思います。幸い命は取り留めました。が、仕事に復
帰することはできません。でも、この幸運に感謝し
て、微力ながらもっと弱い立場で困っておられる
方々に、少しでもお力添えできればと思っておりま
す。私の体力が続くかぎり・・・。ありがとうござ
いました。
(司会) ありがとうございました。とてもすてき
なお声でしたよ。ありがとうございました。神戸市
の東田せつ子さん、題名は「わたしの災害ボランテ
ィア体験」でした。
8人目の方です。三重県は伊勢市からお越しいた
だきました、山本康史さんです。題名は「避難所で
の春祭り、そして今、ハローボランティア」です。
では、お願いいたします。
(山本) 三重県伊勢市という所からやってまいり
ました山本と申します。私が震災のボランティアに
参加できたのは、当時大学生でありまして、大学の
後期試験が終わった3月初めでした。すでに復興に
向けての声が聞こえ始めたころでした。大学生協の
ボランティア募集に個人で参加いたしまして、西宮
のボランティアセンターに赴きました。そこで指示
された先が東須磨小学校という避難所でありまし
た。
さっそく小学校へ向かいました。当時はまだ電車
が東須磨までは行っておりませんで、すぐ近くの駅
から歩いて赴いたのですが、そこでは5人の学生ボ
ランティアが避難所のお手伝いをしておりました。
避難所の管理は校長先生が主になって行っておりま
して、それから被災者の方々のかなりしっかりした
自治組織がありまして、自治会長さんはおばさんだ
ったのですが、ものすごくパワフルな方でした。そ
のためか、避難所の雰囲気がとても良く、ボランテ
ィアの仕事というと、主にその当時は配給される食
事の分配ですとか、それから昼間の子どもの遊び相
手、サッカーが当時盛んでしたが、子どもの方がう
まいのですね。私はサッカーなんてほとんどしたこ
とがなかったものですから、子どもにばかにされな
がらサッカーをして、それから夕方、夜になります
と、年配の方々の話し相手で10時、11時までいろ
いろ話を聞くということで、言ってしまえばとても
簡単な、ある意味気楽なボランティアばかりでした。
そんなある日、まだ3月の初めだったのですが、
校長先生が子どもたちのために春祭りを、復興記念
も兼ねてしようということになりました。私たちの
ボランティアのメンバーは、校長先生とか自治会長
さんの指示のもと、救援物資の中から、お祭りに使
えそうな冷凍のお好み焼きや焼きそば、くじ引きの
商品になるようなものなどを探し出したり、レンタ
ル屋さんに向かい、綿菓子機や鉄板を借り、輪投げ、
バスケットボールを使ったゲームを作ったり、また
近くの牛乳屋さんから牛乳瓶のキャップをたくさん
いただきまして、それを手作りのお金にして、避難
所や近所の子どもたちに配りました。そして春祭り
の当日、私はお好み焼きの手伝いや輪投げゲームの
手伝いをし、避難所や近所の子どもたちと思い切り
楽しい1日を過ごさせていただきました。子どもた
ちの笑顔というのがやはりいいのです。そういう笑
顔に誘われて、避難所の全体がすごく優しい気持ち
に包まれたような気がしました。
その翌日、またいつものように子どもたちと一緒
に近くの公園でサッカーをした帰り道に、1人の男
の子から「お兄ちゃん、地震が起きてどうだった?」
と聞かれました。「いやあ、僕は三重県伊勢市だか
ら大丈夫だったけれど、おまえ大変やったやろ?」
と聞き返したのです。すると彼は「ううん、そんな
ことなかったよ。お兄ちゃんたちに会えたから。あ
りがとう」と言ってくれました。もう、僕もうれし
くてうれしくて、でも本人に対しては照れ臭くて
「そうかぁ?」と苦笑いをしていたのですが、心の
中では「本当にこちらこそありがとう」と答えまし
た。
現地に入るまではテレビで見ているだけでしたの
で、被災者の方々はもっと大変で、もっとつらい
日々を送っているのだろうな、僕も現地に入ったら、
そういうつらい日々を一緒に送るのだろうなと思っ
ていました。それがいい意味で裏切られたように感
じました。神戸の人たちは、僕が思っていたよりも
ずっと陽気に、神戸の子どもたちはずっとたくまし
く、震災を乗り越えようとしている。そしてこの思
いは、このとき以降の私自身の災害ボランティアに
対する考え方にも大きな影響を与えてくれました。
「楽しくてもいいんだな。たくましく前進していけ
るんだな」、そういうふうに考えることができるよ
うになりました。
それが阪神から3年後の、日本海で重油流出事故
が起きたときにも私は赴いたのですが、そのときの
活動に向けての糧になりました。そして今行ってい
るイベントを支援するということの中で、地元地域
に防災のノウハウ、知恵を残していこうという「ハ
ローボランティアネットワーク三重」というボラン
ティアグループを作り、その立ち上げの際の原動力
になってくれました。本当にありがとうございまし
た(拍手)。
(司会) ありがとうございました。三重県は伊勢
市からお越しいただきました山本康史さん、「避難
14
Report 2001
所での春祭り、そして今、ハローボランティア」で
した。どうもありがとうございました。
さて、8人の方から証言をご紹介していただきま
した。それではここで、一休みということで、中国
のお歌をお聴きいただきたいと思います。歌ってく
ださいますのは李浩麗さんです。どうぞ盛大なる拍
手でお迎えください(拍手)。
李浩麗さんは神戸でお生まれになりまして、小学
校、中学校、高校は台湾で学ばれ、大阪音大声楽科
を卒業後、アーバンリゾートフェアKOBEや国際
交流イベントなどに積極的に参加されているのをは
じめ、阪神大震災、そして台湾大地震などのチャリ
ティーコンサートにも参画されました。また日本人
に中国の歌曲の良さを広める活動にも取り組んでい
らっしゃいます。
李さん、ご準備いただいておりますが、歌ってく
ださいます歌は「アメージンググレース」
「花の町」、
中国民謡の「ドラムフラワーソング」同じく中国民
謡の「あふれんばかりの歌声」の4曲、続けて歌っ
ていただきます。それではお願いいたします。李浩
麗さんです(拍手)。
●中国歌曲・音楽 李 浩麗
(司会) ありがとうございました。李浩麗さんで
した。今一度盛大なる拍手をお願いいたします(拍
手)。ソプラノの李浩麗さんでした。歌ってくださ
いました歌は、「アメージンググレース」「花の町」、
中国民謡の「ドラムフラワーソング」同じく中国民
謡の「あふれんばかりの歌声」でした。本当に美し
い中国の音楽を聴かせていただきました。ありがと
うございました。
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
●うた 中国歌曲・音楽
ソプラノ
李 浩麗
( りこうれい )
神戸市生まれ。本籍は中国台湾省。
小、中学、高校時代を台湾で学び、声楽を始める。
神戸山手女子高等学校音楽科を経て、大阪音楽大学
声楽学科声楽専攻卒業。
アーバンリゾートフェアKOBE・北野音楽フェステ
ィバル、新人音楽家演奏会や国際音楽祭等に出演。
広島アジア大会などの国際交流、日中台友好関係交
流会等の漬奏会で活躍中。
また、コンサート・イベント舞台演出も手がける。
(1999年神戸100映画祭<香港>に携わる)
阪神淡路大震災・台湾集集大地震後、積極的に避難
所での演奏やチャリティーコンサート(台湾現地4カ
所でのコンサート)に出演する。
日本の方々に中国歌曲・音楽を広める活動にも積極
的に取り阻んでいる。
中国民族音楽グループ『紫陽花』のヴォーカルを担
当。
2000年4月 東 大氏とのユニット「Leeast」のオ
リジナル作品でKOBEドリームオーディションの特
別賞を受賞。分野にとらわれず、様々な音楽にチャ
レンジする。
現在、コープ神戸生活文化センター ボイストレーニ
ング講師。
樋本栄、蔡旭心、張文乃、大森地塩 各氏に師事。旅
日華僑音楽家協会会員。
日本・中日・台湾語司法通訳をも務める。
うた 李 浩麗/伴奏 大迫めぐみ
15
それでは続きまして、後半の8編の朗読に移りた
いと思います。ご登場いただきますのは、横浜市か
らお越しいただきました佐藤杏子さんの作品です。
題名は「わたしの災害ボランティア体験」です。佐
藤様、どうぞよろしくお願いいたします。
(佐藤) はじめまして、こんにちは。横浜から来
ました佐藤杏子といいます。私は今19歳、大学1
年生で、横浜市のフェリス女学院大学というところ
に通っております。
私が今回作文を応募したところ、採用していただ
いて、発表することになったのですが、前半の皆さ
んの文章を聞いていて、阪神のことについていろい
ろ参考になることを聞かせていただいたのですが、
私の読む文章というのは、全然阪神とは関係のない
ところにあります。
実際、阪神大震災が起こったときというのは、私
は中学校1年生で、大学にも入ってないし、まだ地
元の秋田にいて阪神大震災のニュースを聞いたわけ
ですけれども、そのときは私はまだ実際ボランティ
ア活動というものを始めていませんでしたし、すご
い遠いところのような気がして、自分の身近なとこ
ろで起こっていることとは思えないテレビの中のこ
とでしかなかったのです。
大学に入って現在、IVUSA(国際ボランティ
ア学生協会)という東京の大学生のボランティア団
体に入りまして、大学1年生から約半年間ほどボラ
ンティア活動をさせていただいています。私が実際
今年行ってきた活動としましては、三宅島に降灰の
除去作業に行ったり、愛知の大雨の災害のときに災
害派遣ということで、うちの国際ボランティア学生
協会から20∼30名ほど、岐阜の方へ行きました。
去年の10月末に岩手県で行われた、岩手山の噴火
を想定したボランティアコーディネータ側の訓練と
いうものがあり、東京から先輩と一緒に3名で参加
させていただきまして、今日はその研修会について
お話ししたいと思います。
その研修会というのは、岩手山噴火を想定し、実
際に避難所を設営するという研修だったのですが、
私がそのときに一番思ったことは、災害への対応と
いうのは、私たちのようなボランティアをやる側は
もちろんなのですが、普通にそこで暮らしている人
がもっと常に考えているべきなのではないか、そし
てボランティア側も災害が起こったときだけ行くの
ではなくて、もっと常に災害について考え、それを
住民の生活の中に浸透させていくべきなのではない
かということでした。それに必要なのは、岩手県で
行われたような、住民を交えた訓練を行っていくこ
とではないかと思いました。
岩手県では避難所設営という訓練もしたのです
が、実際に近くの体育館に住民の方々が体験で寝袋
や布団を持って避難してくるという状況を作りまし
て、避難所が実際にどういうものになるのかを住民
の方々が知ることができました。今まで私たちの団
体でやっているボランティアというと、肉体労働と
いうか体を使って、動いて学生にできるということ
がメインだったのですが、その研修会に参加してみ
て、ボランティアをするだけではなく、来たボラン
ティアをどの作業に就かせるかとか、運営側、事務
や総務のような上の仕事のボランティアも必要にな
るのだということを知ることができました。そして、
ときにはそこで暮らす住民がボランティアと一緒に
仕事をするということも知ることができました。
また、私が岩手でとても驚いたことが1つあった
のですが、それは現地の人々の意識の低さでした。
訓練だからということもあったのかもしれませんけ
れども、マニュアルなしの状態で動かなくてはいけ
なかったのですが、地元の人たちや、訓練に参加し
ていた岩手の方々の意識の低さがとてもあらわにな
っていて、あまり岩手山噴火の危機というものを感
じていないのではないかと思いました。初めは、
「私は東京から参加したボランティアだけど、何で
自分たちのことなのにもっと意識を高められない
の」とやりきれない気持ちでいたのですが、じっく
り考えているうちに、私のすべきことは怒ったりす
ることではなく、そこでどうしたらみんなが意識を
高めていけるかということをしていくべきではない
のかと思いました。
今、大学生のボランティアという団体に所属して
いるので、これからそれを目標に、災害が起こった
場所だけではなく、日本全国、世界中がいろいろな
人の心配をしてあげられるというか、常に自分たち
が災害が起こったときにどう対応していけるのか
を、生活の中で少しでも考えていけるような世の中
になったらいいなと思いました。
今、災害がどこかで起こると、世間は起こったと
きだけ注目し、少したつとニュースも少なくなって
しまったり、地元ではわかるのですが離れた所だと
ニュースがなかったり、報道も少なくなってしまい
ます。三宅島には私も行きましたが、それが良い例
16
Report 2001
で、噴火してしまった直後はニュースで大きく取り
上げられていたものが、いまだに東京で避難してい
る人たちはいるのに、ニュースとしては扱われなく
なり、みんなから少しずつ忘れ去られていってしま
います。
私たちボランティア側でも、緊急災害派遣という
急きょなものだけでなく、それ以上に前もっての準
備や対策など、あとは長期を考えたボランティアな
どをやっていけたらいいと思います。私自身はまだ
本当に未熟で学んでいる立場ですが、これから自分
にできることや、IVUSAという団体としてでき
ることをやっていけたらと思っています。ありがと
うございました(拍手)。
(司会) ありがとうございました。横浜市の佐藤
杏子さん、「私の災害ボランティア体験」でした。
続いては10人目の方にご登場いただくのですが、
先程すてきな歌を聴かせてくださいました李浩麗さ
ん、そしてすてきな演奏を聴かせてくださいました
女性の方、「あのきれいな方はどなたなのだろう」
と思ってらっしゃる方が多いと思うのですが、大迫
めぐみさんがお手伝いくださいました。前後いたし
ますが、ここでご紹介させていただきました。
続いては、10人目の方です。広島市の竹岡秀生
さんです。題名は「震災医療に参加して」。お願い
いたします(拍手)。
(竹岡) 広島からまいりました竹岡と申します。
私たちは、ニュースなどマスコミを見まして、県か
らの要望などがあり、震災の医療活動というボラン
ティアに参加させていだきました。私たちのチーム
は広島からのチームと地元神戸の神戸市立西市民病
院のチームでした。その病院は5階がつぶれて機能
しなくなりまして、そこの看護婦さんや医師たちが
17
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
いろいろな保健所などに所属しておりまして、そこ
でチームを編成して巡回診療班というものを作り、
活動しました。私たちのチームは総勢が大体30名
でした。当時の手記を発表するのですが、そのまま
表現したものですから、医者の言葉で非常に硬い表
現があるかもしれませんが、お許しください。
私たちは、阪神・淡路大震災の医療ボランティア
として、神戸市須磨保健所管内の避難所の巡回診療
を行うことになり、私はこの医療ボランティアの一
員として参加しました。以降、その手記をそのまま
読ませていただきます。
2月12日、神戸市に入る。須磨保健所のあるJ
R鷹取駅周辺は、南側東側が長田区で、北側西側が
須磨区というように、両区の境界にあたる。特に長
田区は区全体が焼けただれ、鷹取商店街が焼け落ち
て地獄のようで、隣接する須磨区でも多くの建物、
高架橋が倒壊あるいは損壊していた。本日より毎朝、
医療拠点である須磨保健所でミーティングを開始。
巡回診療班スタッフは、私を含め広島チームと病院
が倒壊し保健所に配属された神戸市立西市民病院チ
ームの混成で編成された。
2月13日∼15日。毎日つけられず、まとめ書き
をした手記なので、日にちが圧縮したりしています。
緊急車両であるマイクロバスに乗り込み、保健所を
出発した。マイクロバスは全半壊した家やビル、瓦
礫の中を縫うように、コスモス、松風南地区福祉セ
ンター、環境局事務所、天理教、旧須磨署跡、うず
しお、JR鷹取工場、朝鮮総連、須磨水族館、高倉
中学体育館、外浜老人ホームなど、須磨区に散在す
る避難所を巡回した。各避難所の避難者数はおおむ
ね50∼100名であった。
私が滞在した期間に診療した患者数は、1日平均
30名。風邪、気管支炎、高血圧、便秘、腰痛、胃
炎など内科疾患が多かったが、幼少児で、へその周
りの周囲炎(さい周囲炎)が2名いた。多くの患者
さんが高齢者であり、中には105歳の女性がいた。
また、ある女性患者は泣きながら目の前で親族を失
った悲しみを話してくれた。特筆すべきは西市民病
院の看護スタッフの懸命な活躍で、勤務していた病
院が倒壊し、各保険所に巡回診療班スタッフとして
配属されていたが、的確に避難所と患者さんたちを
把握しており、診療が順調であった。
一般診療やメンタルケアも確かに重要ではある
が、災害時の巡回診療ではさらに重要な役割があっ
た。それは各避難所の衛生情報の収集、衛生、健康
指導という役割である。避難所では、衛生環境の低
下、トイレ、寒気、暖房、ペットの扱い、敷いたま
まで干されないような布団、プライバシーが保てな
いなどが大きな問題で、医療の基本とは何かを見せ
つけられた思いであった。しかし一方、医療ボラン
ティアにとって避難所でのこれらの問題に関して
は、なかなか手が出しにくい領域でもあったと思う。
巡回診療班は避難所での衛生指導を行ったが、保健
所との連携があり、収集した情報が生かされ、私の
短い滞在期間にもかなり問題が改善してきたように
思われた。住宅の確保は、医療の面からみても早急
に解決すべき問題と思われた。
ボランティアの引き揚げのとき、姫路から新幹線
に乗りますと、新幹線の中で不思議に涙が出まして、
車掌さんから不審に思われました。この写真は、
1995年2月15日の巡回診療班のスタッフです。
この写真を選んだ理由は、ここに載っているのが
我々のチームメイトだからであります。巡回診療班
は神戸の西市民病院と広島チームの混成で編成され
ました。被災地と被災地外部のチームの連携ができ
た例でもあります。広島から参加した医療チームだ
けでは、どこから医療を始めるのか、またどこにど
んな患者さんがおられるのか全く把握できませんで
した。西市民病院チームと外部・内部との連携によ
って、初めて私たちの医療活動が成し遂げられたと
思います。以上です。
(司会) ありがとうございました。広島市の竹岡
秀生さん、「震災医療に参加して」でした。
続きまして、京都市の高室悟子さん、題名は「わ
たしの災害ボランティア体験」、今日は代理で*木
戸潤子*さんに朗読いただきます。では、*木戸*
さん、よろしくお願いいたします(拍手)。
(*きど*) 今日は、高室さんがどうしても仕事
のために沖縄へ行かなければなりませんので、仲間
である*きど*が代読させていただきます。
阪神・淡路大震災が起こったとき、被災地のため
に何かしたいと思った私の頭をよぎったのは、「生
協」の2文字でした。「そうだ、生協でなら何かで
きるかもしれない」、そんな私の思いにまるで呼応
するかのように、生協のチラシと一緒に届けられた
のは、「頑張れ神戸カード」と名付けられたボラン
ティア募集の紙でした。それから6年、今も生協の
仲間との震災支援の活動は続いています。
最初は障害者の安否確認、避難所での炊き出しや
物資配布などを経て、やがて仮設住宅ができると、
私たちは仮設住宅で「バザー」と呼ばれた活動を始
めました。このバザーは一般に行われる不要品の販
売ではありません。生協の組合員から募金を集め、
その募金で食料品や日用雑貨を買い込みます。そし
てそれらを仮設住宅に持っていき、定価の半額以下
で売るというものでした。仮設住宅がおおむね町は
ずれや山の上など、買い物に不便な場所にあること
から思いついた、生活者の発想から始まった活動で
したが、仮設住宅の皆さんには大変人気でした。そ
のうち焼きそばやカレーの屋台を始めたり、文化的
な催しもと抹茶席やちぎり絵教室、年末はにぎやか
なことをと福引大会など、月に1回の訪問ごとに、
知恵を絞り工夫を凝らしたものです。このバザーは
仮設住宅の最終期限となった1999年6月まで続き
ました。
しかし、そこで私たちの活動が終わったわけでは
ありません。京都に避難されてきた被災者の皆さん
の会、「県外避難者京都の集い」と私たち京都生協
ボランティアが出会いました。故郷を離れて暮らす
皆さんの心の傷は深く、私たちにできることといえ
ば、お食事会にご招待したり、お花見や散策のお供
をすることくらいです。それでも何かしら役に立っ
ているのでしょうか、私たちに会うことを楽しみに
していただいています。
「災害ボランティア」というと、直後の救援活動
や炊き出し、物資配布などをだれでも思い浮かべる
のではないでしょうか。もちろんそれはそれでとて
も大切なことです。けれども災害から歳月がたてば
たつほど必要とされるボランティアもあるのだとい
うことを、私は知っています。ただ寄り添っている
こと。華やかな活動でも目に見える支援でもなく、
それで被災者の方が救われるわけではありません。
18
Report 2001
けれども、私たちは「この人たちと一緒にいたい」
という気持ちを大切に、これからも県外避難者の皆
さんとの交流を続けていきたいと思います。以上で
す。ありがとうございました(拍手)。
(司会) ありがとうございました。京都市の高室
悟子さんの作品、
「わたしの災害ボランティア体験」、
*きどじゅんこ*さんに朗読いただきました。あり
がとうございました。
続きまして、12番目の証言です。広島県大野町
の小川敬三さん、題名は「わたしの災害ボランティ
ア体験」です。小川さん、どうぞよろしくお願いい
たします(拍手)。
(小川) 広島県から来ました小川敬三です。私は
震災の年の4月20日から26日までの1週間、鷹取
中学校で皆さんと生活を共にし、貴重な体験をする
ことができました。
さて、40年間の会社生活を終え、少しでも地域
にとけ込みたいと思っていたころ、視覚障害者のた
めの点訳の講習がありましたのでそれを受講し、ボ
ランティアの知識もないまま点訳の仲間に入り、1
年ばかり続けておりました。そんなある日、福祉セ
19
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
ンターで阪神大震災のボランティア募集の掲示を目
にし、「私のような者でも大丈夫だろうか。現地で
の生活はどうだろうか」等々の不安と「何かしたい」
という気持ちとが交錯する中、4月20日の早朝、
鷹取中学校へ出発しました。中学校へ到着すると、
簡単な説明を聞き、持ち場に着きましたものの、要
領をえず、ただ右往左往し、ある時は「邪魔者扱い
されているのではないか」という思いさえしました。
初日の作業が終わり、寝室代わりの教室の一部で
数人が寝袋にくるまってからのことです。いろいろ
話し合っているうちに、私たちは共に父親を早く亡
くし、戦中戦後、母の手1つで隣近所の助けを借り
ながら育て上げてもらったおかげで今があることへ
の思いで、そのとき私は、母の後ろ姿を思い浮かべ
ると同時に、いろいろと支えてくださった方々への
感謝の気持ちでこみ上げるものを感じました。翌朝
起きてみると、もうお年寄りの方がトイレや廊下の
掃除をしておられ、「おはようございます」と声を
かけると「おはよう。寒くなかったか。よく眠れた
か?」と優しい言葉が返ってきたり、またある人は
「汚れ物があったら持っておいで。一緒に洗ってあ
げるよ」と親切に言ってくださったりで、昨夜あれ
だけ思い詰めた気持ちはもうどこへやら、皆さんと
一緒に料理作りを楽しんだり、授業を終えた生徒さ
んたちとも楽しく作業ができました。夜は学校のロ
ビーで皆さんとテレビを見たり、将棋をしたり、広
島県出身の方からは「4年前に襲った台風19号の
ときはどうだった?」と懐かしく話しかけていただ
くなどで、皆さんに親しみを感じました。震災後初
めて水族館が開園されたときには、私は車いすの方
の世話を引き受け、被災者の方たちと一緒に水族館
へ行くこともできるなど、本当に有意義な体験がで
きたことに、送り出してくれた仲間たちにも感謝し
ております。
あのとき以来、積極的に人との出会いに努め、共
に生き、共に歩む喜びに生きがいを感じ、今では点
訳作業だけでなく、いろいろな方々とも直接接する
ことができるようになりました。最近では、中学校
の選択教科で点訳を選んだ生徒さんたちとも週1回
かかわったり、ある時は自然保護活動にも参加して
おります。最後に皆さん、共に元気いっぱい頑張り
ましょう!(拍手)。
(司会) ありがとうございました。広島県大野町
の小川敬三さん、「わたしの災害ボランティア体験」
でした。
続きまして、堺市の三上成子さんです。題名は
「わたしの災害ボランティア体験」。では、よろしく
お願いいたします(拍手)。
(三上) 今朝、堺を6時半に出まして、夫と一緒
にここにまいりました。この地震からはや6年が過
ぎましたが、当時の細かいことは風化されかけてい
ます。それで心にとどめ、書きとめておきたいと思
いました。
さて、私の親、親族がこの神戸に住んでいました
ので、あの日の5日後には、私たち一家は堺よりリ
ュック、ショッピングカーに肉、コンロ、水等を入
るだけ詰めまして、重い肩を痛めながら夕方から夜
の東灘へと、2号線道路を家屋のつぶれた間を縫っ
てぞろぞろと歩き、またヒッチハイクというものを
生まれて初めて体験しながら行ったものでした。そ
の3か月後には、新聞で探した灘のボランティアグ
ループに入り、篠原北町、灘浜、王子の各仮設住宅
訪問と、そこでのバザーや親ぼく音楽お茶会、また
堺の生協より参加しました六甲アイランドでの焼き
豚焼きと販売、また私の協会からの尼崎の大物(だ
いもつ)仮設訪問や西宮、三宮、長田区での炊き出
し。私個人としましては、私の母校の教室に入って
おられた母子との交流がありました。
どれも印象深いものでしたが、少し具体的に述べ
てみますと、この母子は、小学校の教室開放の解除
近くまで仮設住宅が抽選で当たらず、私の母校、灘
の稗田小学校の4階に長い間いました。運動場にあ
る洗濯機まで行くのに、また買い物に行くのに日に
何回も階段を上ったり下りたりしまして、この70
歳代の母親と病弱の50歳の息子さんは疲れてしま
いました。また、住んでいる教室に3∼4家族が一
枚の間仕切りのみの生活で、本当に心身共にくたく
たになったと思います。そのうえ、ようやく王子仮
設ができて入所できたとき、母親はバイクに追突さ
れ転んで入院、そのうえぼけも出て病院を転々と変
わり、この親孝行の息子さんは、病弱にもかかわら
ず、毎日見舞いとお世話をなさっておりました。私
も見舞いに伺ったときは、母親の変わりようにどう
してあげたらと思うばかりでした。その後、上筒井
住宅公営に入られ現在に至っていますが、年賀状は
毎年同じように、お母さんの入院とお世話のことば
かり書いておられます。
また、真夏の暑い中、焼きたての豚肉を並んで喜
んで買って行く人、バザーの100円均一の日用品を
両手いっぱいにして喜んで帰る方々、私が仮設を訪
ねますと、初めての私に身の上話で写真と共に孫の
ことなど話し、ストレスと寂しさを紛らわそうとな
さる方、行くと返っておやつを出してくださったり、
トイレ、電話を貸してくださり、本当に反対に慰め、
世話になったこともありました。
JR灘の線路南で、集会場にするために外国から
送られた大テントを何日もかかって、草取り、石拾
いして整地し、試行錯誤してようやく張り終えて、
3∼4日使ったある夜、大暴風に見舞われ、明くる
朝、線路に飛んで引っかかり、とても残念な目に遭
いました。また、ボランティア仲間との会合も何回
も持ちました。
余談になりますが、私には障害者の子どもがおり
ます。あの当時まず思ったことは、「障害者と言わ
れる人はどうしたか? 今どこにいるか? 何をし
ているか?」と心配したことでした。孤独者、特に
弱者といわれるお年寄りや障害者の力になれたか、
段ボールのみで隔てられ、隣の人に気を使い、話や
着替え、赤ちゃんも泣かせづらいという人々の気持
ちをわかってあげたか、せめてお話だけでも聞いて
あげられたか、十分に相談に乗ってあげられたか、
欲しいとおっしゃる品々を十分間に合わせられた
か、仮設の夏の暑さ、冬のすきま風の寒さに私だっ
たら耐えられるだろうか、孤独死にまで至る孤独な
人の心の中はいかばかりかわかろうとしたか、障害
のある方が普段以上に不便さのある施設、状況の中
で困らず過ごすことができたであろうか、交通、光
熱、水道、ガスの断たれた中、私はもし他地域の災
害地にわざわざ泊まり通ったりして行ったでしょう
か、と自分のボランティア精神の不足を反省いたし
ます。
これも余談になりまして、これは私のふるさと、
20
Report 2001
灘の両親の家の庭のことであります。これが倒れま
して、3つに分かれて池の中に落ちて、うまい具合
に父親がその当時、橋の代わりだと行って向こうへ
渡るようにして、そのまま使っておりました。私の
ふるさと灘は、その日両親はホームこたつにおしり、
足を出したまま、頭だけ突っ込んで怖さで震えてい
たそうです。幸い半壊ですみましたので、私は外で
お手伝いできたのでした。私は、こんなに神戸と堺
を往復しながらボランティアさせていただけたの
も、私の家庭と両親の協力のおかげと感謝しており
ます。その両親もこの6年の間に亡くなり、家、土
地もさら地になり、人手に渡り寂しくなり、私も神
戸に来ることもなくなりつつあります。今日、久し
ぶりにまいりまして、とても懐かしく愛すべき神戸、
やはり神戸はいいなとうれしく思い、1日も早い全
復興を強く望んでおります。震災直後、亡き父は
「復興に5年はかかるな」と言っていたことを今さ
らのように思い出しますが、現在建物のみの復興が
進んでいます。まだ心の傷、病に悩まされている
方々、子どもたちが多くいることに、とてもとても
心が痛んでおります。
天災は防ぎようがないかもしれませんが、人災と
いうものは防いでほしいと思います。今日、私のさ
さやかなボランティアについて、こんなに多数の
方々の前で発表させていただきましたことを、大変
お恥ずかしいことと思っておりますが、何か今後の
災害のお役に立てたらと思いました。どうもありが
とうございました(拍手)。
(司会) 堺市の三上成子さんでした。どうもあり
がとうございました。「わたしの災害ボランティア
体験」をご披露いただきました。
続きまして、滋賀県大津市の辻隆さん、題名は
「わたしの災害ボランティア体験」です(拍手)。
21
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
(辻) 大津市からまいりました辻です。今日は家
族と一緒に寄せていただきました。読ませていただ
きます。
私が阪神・淡路の地震を体験したのは、京都市消
防局の職場にいるときでした。京都では震度5。消
防署の仮眠室のベッドで、今までに体験したことの
ない縦揺れと横揺れに飛び起き、ベッドの下で身を
守り、揺れの収まりを待ってテレビのニュースを見
ると、近畿地方でかなり強い地震があったことが各
地のニュースでわかりましたが、まさかこの地震が
阪神地域に大きな被害をもたらしているとは想像も
せず、8時30分に勤務を終えました。その後、被
害の状況は甚大であることがテレビのニュースでわ
かりました。当局からも連日のように消防隊、救助
隊、救急隊が被災地に向け派遣されましたが、私は
仕事では現地に行きませんでした。ボランティアで
現地に行きたい思いから、赤十字奉仕団員として、
地震から1週間後の24日に車で三宮に入りました。
大津市の日赤滋賀県支部を午前3時に出発、地震
前なら1時間半もあれば三宮に着きますが、阪神地
域の高速が閉鎖されていることもあり、名神高速道
路の吹田インターから近畿自動車道の松原に行き、
途中、救援の緊急車だけが通行可能となり、渋滞の
中、他の機関の車両と共に阪神に入ったときは、う
っすらと夜が明けかけた7時過ぎでした。助手席の
私の前に、阪神高速の高架が無残にも折れ曲がった
状態で、また木造民家が崩れていたりと、現地対策
本部の三宮に到着するまでに見た光景は、テレビで
見ていたとはいえ、自分の目で見て、あらためて自
然の力のものすごさを感じました。
現地での私の仕事は、日赤の兵庫県支部に集まっ
た全国からの救援物資を各避難所に移送する役目で
した。車は滋賀県から持っていきましたが、地理に
不安がありましたので、地元の学生ボランティアが
乗り、スムーズに移送することができました。また、
避難所で救援物資に並ぶ長い列のどの顔にも不安と
疲れがありました。ボランティアの人たちはその中
で懸命に優しい声をかけあい、励ましておられてい
たのが印象的でした。長田区、新神戸駅、須磨区と
車の渋滞の中、救援物資を配り終えたときは夜の8
時になっていました。被災者の方々を見ているとも
っとやりたい思いを感じましたが、三宮をあとにし
ました。途中大混雑の中、尼崎を過ぎても被害が続
き、京都市内に入ったとたん地震がなかったように
スムーズに車が走っていました。
地震後、私に何かできることはないかと、新聞に
「子どもさんを預かります」という記事を載せまし
た。しかし遠くであることもあり、連絡はありませ
んでした。その後、大津市のボランティアセンター
から芦屋の方でバイクの提供を希望しているとの情
報を得ました。その方は芦屋の駅前で商店をされて
いるおじいさんでした。話をお聞きしますと、地震
のとき1階の寝室で奥さんと一緒に寝ていたそうで
す。あの強い揺れで奥さんと共に布団の中で身動き
もできず、倒れてきたタンスが布団に、そして気が
付いたときには、2階の床が1階まで落ちていたそ
うです。2人とも身動きができず、自分たちを助け
てくれたのは近くの親しくしている青年だったそう
です。おじいさんは、家がもう崩れてしまったので、
近くの避難所から大津の親せきに来ました。しかし
奥さんは避難生活に疲れ、元気がない。ご主人は奥
さんが買い物をすると元気になるだろうと思い、そ
の交通手段として中古バイクを譲ってほしいと申し
込まれたのでした。おじいさんが「みんなが被害を
受けているならあきらめもつくが、こうして同じ地
域で被害を受けなかった所があることが辛抱できな
い」とおっしゃっていた言葉が印象的でした。
この地震のあと、日赤の災害ボランティアができ、
年に1回の訓練に参加しています。地震直後はあん
なにボランティア活動が盛んだったのが、人ごとの
ように感じることが情けないと思います。人の命の
尊さを教えてくれたのが阪神・淡路の地震でした
が、今、命を軽視した行動に怒りを感じるのは私だ
けでしょうか。
最後に、昨年我が家の引っ越しをきっかけに、就
寝場所にはタンス等倒れる物は置かず、2階ベラン
ダにロープを置いて避難に備えました。また、家内
の実家の老夫婦近くに引っ越しをしました。また、
隣の人が年寄りの方なので、親しく付き合いをして
います。もし今、阪神・淡路大震災クラスの地震が
我が家で起きたとしたら、消防職員として職場にい
て帰れないかもしれませんし、また家族を置いて職
場に行かなければなりませんが、できる限りの備え
だけをして、家族、近隣者の方の安全を守っていき
たいと思います。終わります(拍手)。
(司会) ありがとうございました。滋賀県大津市
の辻隆さん、「私の災害ボランティア体験」でした。
15番目の作文です。千葉県は八街市にお住まい
の今井和代さん、題名は「たった二日間のボランテ
ィア体験から」。今日は代理で*細川けんじ*さん
に朗読していただきます。よろしくお願いいたしま
す(拍手)。
(*細川*) 今井和代さんという方が応募され、
発表者に選ばれて大変本人は喜んでいたのですが、
実は彼女は千葉県の佐倉市という所で消防職員をや
っております。今朝7時ちょうどに、神戸のホテル
から今井さんのうちへ電話を入れました。「代わっ
て読むからね」と言ったのですが、電話のコールが
1コール終わる前に「今井です!」と出てきたのが、
ご主人の*ひでお*さんでした。「すみません。女
房が変なことを頼んで」とおっしゃっていました。
「今日は勤務?」と言いましたら、「そう」と言って
いました。実はご主人の*ひでお*さんも消防職員
で、今日は泊まりで明日の朝まで仕事をします。
発表者に選ばれた今井和代さんは、阪神・淡路大
震災を契機に翌年から全国的に行われている「防災
とボランティア週間」の行事がありまして、実は彼
女は今消防本部の予防係というところで仕事をして
おりまして、今日、明日とも、その各イベントの仕
掛け人兼実行部隊長みたいなもので、地元でボラン
ティア絡みの仕事をどうしてもしなければいけない
という事情がございます。たまたま私は東京で消防
の仕事をしておりまして、個人的に去年もおととし
もこの会場で皆さんの発表を聞かせていただいてお
ります。そのことを彼女は知っておりまして、「行
くのなら、同じ消防なのだから代わって読んでちょ
うだい」と頼まれまして、お引き受けをいたしまし
た。
今井さんも特に地震以降、非常に阪神地区に感心
を持っておりまして、自分ももちろん現地に入って
おりますけれども、当時中学生で高校受験を控えて
いた*みほ*ちゃんというお嬢さんがいらっしゃっ
たのですが、彼女が高校へ入ったらすぐ、「あんた
も現場を見ておいで」と、カメラ1つ持たせて、高
校1年生の娘を自分の目で見るために現地へよこし
たような肝っ玉母ちゃんです。彼女は本当はここへ
来て皆さんに直接発表したかったのですが、その気
持ちを考えながら、彼女が書いた体験記を私が代わ
って読ませていただきます。
「たった二日間のボランティア体験から」。千葉
県八街市、今井和代。
地震の日の朝、テレビの画面を見ていた夫は、命
令も出ていないのに当然のごとく支度を整えて出勤
22
Report 2001
し、そしてその日、神戸へと出発していきました。
同じ消防職員である私といえば、「何かしなきゃ」
と思うものの、2人の子どもを抱えて身動きは取れ
ず、ある団体から相談を受ければ「生理用品、おむ
つ、粉ミルクを送って」とお願いし、農家の方たち
には「大根、ニンジンをいっぱい積んでいって、豚
汁を作ってよ」と頼むことくらいしかできずにじれ
ていました。
1週間後、神戸から帰った夫は「おまえも現場を
見て、これからの自分の仕事を考えるべきだ」と言
いました。その10日後、やっと休暇が取れ、子ど
もたちの協力もあって神戸に向かいました。地震か
ら半月以上も過ぎているというのに、現場は涙も出
ない惨状でした。「何かしたい」、その思いは帰宅し
てからも私の頭を離れることはなく、日々強くなっ
ていきました。そして1年半後、「復興のイベント
スタッフ募集、期間は2日間」という呼びかけに、
私は飛び付きました。
8月16日、出発直前に交通事故で先輩が亡くな
ったと連絡が入りました。「残されたご家族のため
に何かしなければ」との思いと、「1年半も待った
神戸に行きたい」という気持ちが頭の中で渦巻きま
した。そんなとき「おれも救助隊員だ。おまえの気
持ちはわかる。早く行け」という亡くなった先輩の
声が聞こえた気がしたのです。奥様に事情を話し、
新幹線に飛び乗りました。着いた所は、被災者が不
法占拠した公園のど真ん中、自称「大学生ボランテ
ィア」という人たちが、全国から送られてくる救援
物資で生活をしている、私には何とも理解しがたい
世界でした。「何これ? 話が違うじゃない。私は
先輩のお葬式まで放って来たのよ」とすぐにも帰り
たい気持ちになった私を、一緒に参加していた高校
生のちーちゃんが「おばさん、ここに住んでいるお
じいちゃんやおばあちゃんに喜んでもらえるように
頑張ろう」と励ましてくれたのです。そこには行政
の支援を受けられないお年寄りが肩を寄せ合って生
活している姿がありました。それを見かねた近所の
青年たちが、夜になると酒とつまみを持って、話し
相手をするために通ってきてもいました。
予定の2日間を終えてバス停に向かう私を、仲良
しになったおじいさんは「元気で暮らすんだぞ。だ
んなと仲良くな」と優しく見送ってくれました。そ
のときのおじいちゃんのステテコ姿を私は今も忘れ
ることができません。自分の力で立ち直れる人はそ
れで良いのです。その先に希望をつなぐ力を持つこ
23
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
とのできない人をどう支えていくのか、それが大切
なのだとこのとき強く感じました。
昨年8月、私たち夫婦は隣の空き家を無理をして
買い取りました。70歳を越えた母と一緒に暮らす
ために、そしてお年寄りや近所の人たちとコミュニ
ケーションを持つスペースを確保するためです。夕
方仕事から帰宅すると、玄関に1食分の野菜がビニ
ール袋に入れられて置かれていました。まるで被災
者宅に届いたボランティアさんからの野菜のようで
す。届け主はちーちゃんのお母さん。彼女もまた2
日間のボランティアの参加者です。隣の建物からは
とんかちの音が響いています。宿直明けの夫が修理
費を浮かすために自分で床を張り替える音です。
地震の発生を阻止することはできなくても、みん
なが自然に助け合って生きることのできる地域社会
をと望みつつ、私たちは小さな歩みを続けていきま
す。神戸は私たちをそんな気持ちに導いてくれたの
です。終わりです(拍手)。
(司会) ありがとうございました。15番目の証言
は千葉県八街市の今井和代さん、「たった二日間の
ボランティア体験から」。*細川けんじ*さんに朗
読いただきました。ありがとうございました。
さて、最後の証言になります。広島県の朝野千明
さん、題名は「わたしの災害ボランティア体験」で
す。よろしくお願いいたします(拍手)。
(朝野) 広島レスキューサポートバイク赤十字奉
仕団の朝野です。「レスキューサポートバイク赤十
字奉仕団」をいったい手話でどうするのか非常に興
味があったのですが、このあとも手話通訳の方には
大変ご苦労をおかけすると思いますけれども、ぜひ
よろしくお願いいたします。
私は昨年9月の東海豪雨水害で、愛知、名古屋広
域ボランティア本部の情報班で情報収集ですとか、
バイクでボランティアセンターに書類を運ぶといっ
た活動をしておりました。9月23日、発災から10
日後のことですが、この日は大雨注意報が出されて
おりまして、降りしきる雨の中を、私は情報収集の
ために西枇杷島のボランティアセンター、略して
「ボラセン」と言っておりますが、そちらへバイク
で向かいました。西枇杷島町は、この水害でも最も
大きな被害を受けた地域の1つです。道路には水に
浸かった畳や家具が山のように積まれて道幅を狭め
ていまして、大渋滞していました。その車を縫うよ
うにしてバイクを走らせて、西枇杷島のボラセンに
着くころには、雨はさらに強くなっていました。ボ
ラセンに集まってくれているボランティアの人たち
も、作業に入る前だというのに、すでにもうびしょ
ぬれになっているという状態でした。髪までびしょ
ぬれになりながら、非常に寒くて震えながら、ボラ
センが配るカッパを着る女の子を見たときには、私
は非常に切ない思いに襲われました。
どんどん強くなる雨に道路が冠水し始めまして、
そのことを広域本部へ連絡をしますと、間もなくボ
ランティア活動を中止しようとの連絡がありまし
た。この時点はまだ昼前で、ボランティアのニーズ
も未消化な部分が多かったのですが、安全には代え
られないということで、素早い判断をしたボラセン
のスタッフを非常にすばらしいと感じました。私も
西枇杷島のバイク隊と一緒にハンドマイクを持って
町内を回りました。ボランティアの人は、黄色いガ
ムテープに名前を書き、胸のあたりなどにはってい
るわけですが、私たちはそのボランティアの人をバ
イクで走っては捜して、活動が中止になったという
ことを伝えました。ボランティアの人はちょっと残
念そうな表情をしながら、比較的遠くから呼びかけ
ますので、片手を挙げて「了解」という合図をして
くれるのですね。たったこれだけなのですが、不思
議と連帯感のようなものを感じました。
我々、広島レスキューサポートバイク赤十字奉仕
団は、災害救援ボランティアとして昨年の2月に設
立をしたばかりです。東海豪雨水害では9月14日
に現地でボランティアセンターを立ち上げるという
情報を得て、トラック1台、バイク3台、四輪駆動
車1台で、その日のうちに広島を出発しました。名
古屋に出動する際には、被災地でバイクがどれだけ
役に立つのかと少し不安に思う面もありました。阪
神・淡路のときにはバイクが非常に活躍をしたとい
うことで、我々の組織もそれを参考にして作ってお
りますけれども、水害というものに対して、バイク
がどれだけ役に立つかという思いでした。実際には
大渋滞の中で、消毒液、医師や看護婦の搬送ですと
か、情報収集、物資の輸送からボラセンのスタッフ
と予想外に幅広い活動をすることができました。広
島水害で覚えた得意のヘドロのかき出し作業に一生
懸命になっている者ももちろんおりました。
現地では、警察、県庁、日赤の愛知県支部などを
はじめ、震災から学ぶボランティアネットの会とい
ったボラセンのスタッフが、我々を信頼していろい
ろな仕事を任せてくれました。この支援には我々、
非常に感謝をしております。広島のメンバーが名古
屋から撤退する日には、ボラセンのスタッフがみん
な立ち上がって、拍手で我々を送ってくれました。
「これは卒業式以来だね」ということで、みんなで
非常に感激していました。さらにうれしかったのは、
被災地の方々からいただいた言葉です。名古屋から
かなり南へ行った所の大府市のバイク屋さんに、道
を尋ねに私が入ったところ、その後にバイク屋の人
が「バイクが壊れたら、いつでも持ってこい」とい
うふうに声をかけてくれました。ほかにも多くの
方々から「お疲れさま」という声をかけていただき
ました。
広島を出動する前に、名古屋はすでに水も引いて、
それほど大きな被害は出ていないという情報が実は
ありました。しかし実際に現地で私の目に映ったの
は、役場も浸かって、車も家もすべてが水に浸かっ
た悪臭漂う町でした。ボランティアが片付けを手伝
いに入った家でも、畳を捨てて床板を壊して、床下
にたまっているヘドロをかき出したという状態で
す。表の扉を閉めてしまえば普通の家のように見え
ますけれども、実際、中はとても快適に住める状態
ではありませんでした。私が行きました避難所の壁
には、1.5メートルの高さの所に浸かった水の汚れ
の跡がありました。これを見た時には、情報伝達の
大切さ、そして難しさというものを痛感しました。
被災地の皆さんが、日常生活を取り戻すには、まだ
長い月日がかかるとは思いますが、その日が1日も
早く来ることをお祈りしています。
また今回の活動では、赤十字奉仕団の母体となり
ました「広島レスキューサポートバイクネットワー
ク(通称広島RB)」と連携をとっていた各地のレ
スキューサポートバイクネットワーク、そして日本
救難バイクや個人的に参加してくれた人たちと1つ
24
Report 2001
のバイク隊として活動をしました。これは非常に意
義のあることだったと我々は思っています。私ども
は、少しでも多くの方々と日ごろからコミュニケー
ションをとっておくことが災害ボランティアには不
可欠だと考えまして、ホームページを作って情報交
換に活用しています。「広島RB赤十字奉仕団」で
検索していただければ見つかるかと思いますので、
皆さんもぜひ見ていただければと思います。
広島には防災ボランティア連絡協議会というもの
がありまして、今日は9時半に震度5弱、後に6強
の地震を想定した訓練を今まさに実施しておりま
す。この模様も、私の仲間が現地のボランティアセ
ンターに入りまして、ホームページでリアルタイム
に紹介をしております。
短い時間でしたので、伝わるものは多くはなかっ
たかとは思いますけれども、最後まで聞いていただ
きまして、本当にありがとうございました(拍手)。
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
3.記念品贈呈
(司会) それではここで、証言をご紹介いただき
ました皆さんに、実行委員会から記念品を贈らせて
いただきます。どうぞ証言をしてくださった皆さん、
前の方にお進みくださいませ。ご起立をお願いでき
ますか。
本当にありがとうございました(拍手)。証言を
くださいました16人の皆さんでした。
さて、ここでお昼の休憩に入らせていただきます。
午後の再開は1時の予定です。1時にはパネルディ
スカッションが行われます。「わたしの災害ボラン
ティア体験」をテーマにしたパネルディスカッショ
ンです。どうぞ1時までお休みいただきまして、1
時になりましたらこの会場にお戻りいただきたいと
思います。それではしばらくの間、お昼休みという
ことで休憩させていただきます。
午前の部 終了
∼昼休憩∼
午前の部
(司会) ありがとうございました。広島県の朝野
千明さんの「わたしの災害ボランティア体験」でし
た。
以上で16人の方々の証言をご紹介いたしました。
いかがでしたでしょうか。証言をお伺いしておりま
して、6年前のあの大震災の日を思い出しました。
そして各地での自然災害の状況も目の前に次々と浮
かんでくるような感じがいたしました。皆さん、本
当にありがとうございました。
さて、会場の皆さん、どうかここで大きな拍手を
もって、証言してくださった方々と気持ちを結び合
わせたいと思います。証言してくださった皆さん、
本当にありがとうございました(拍手)。
25
記念品贈呈
26
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
パネルディスカッション 1
わたしの「災害ボランティア」体験
●コーディネーター
山口一史
PROFILE
ラジオ関西
∼プロフィール∼
やまぐち かずふみ
・1941年 神戸生まれ。64年神戸新聞社入社。
・経済部、東京編集部、大阪編集部、整理部などで勤務。
・経済部長、論説委員、情報科学研究所長、神戸新聞文化財団常務理事な どを経てラジオ関西へ。99年から社長。
・地域おこしや地域づくりをテーマに取材を続けていたが、震災後は、被 災地のくらしの復興やボランティア活動、コミュニティービジネスなど に強い関心を持っている。
●パネリスト
細川 裕子
PROFILE
被災地NGO恊働センター
∼プロフィール∼
ほそかわ ゆうこ
・神戸生まれ。
・震災後、救援活動に関わる団体のネットワーク事務局であった「阪神大 震災地元NGO救援連絡会議」で、情報の収集・発信を中心に活動。
その後、仮設住宅支援から被災地内外のさまざまなネットワーク事務局 を担うようになった「被災地NGO恊働センター」のスタッフとなる。
・国内外の災害救援活動の事務局、「市民とNGOの「防災」国際フォーラ ム」の事務局等、一貫して事務方を担当している。
●パネリスト
天川 佳美
PROFILE
きんもくせい
∼プロフィール∼
あまかわ よしみ
・1950年(昭和25年)8月10日生
・1974年∼1986年株式会社 都市・計画・設計研究所
・1986年∼株式会社コー・プラン
・1997年∼有限会社きんもくせい
・参加、活動している会
港まち神戸を愛する会/共同研究1930年阪神間世界/甲麓文化研究会
ユイの会/日本ナショナルトラスト会員/兵庫県「緑の総量確保推進委員会」委員
神戸市「
(仮称)ポートアイランドフラワーガーデン実行委員会」委員
24
Report 2001
●パネリスト
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
特定非営利活動法人 コミュニティ・サポートセンター神戸
榎本 まな
PROFILE
∼プロフィール∼
えのもと まな
・1970年北海道札幌市生まれ。
・聖和大学教育学部キリスト教教育学科卒業。
・卒業後、研究所や自然食レストランでアルバイト。
・95年の神戸の震災でボランティア活動に参加し、CS神戸の前身「東灘・地域 助け合いネットワーク」スタッフとなる。
・96年10月、同グループからスタッフと共にCS神戸を立ち上げる。
・現在NPO法人コミュニティ・サポートセンター神戸プロジェクトマネジャー
●パネリスト
ボランティアグループ「ひまわりの夢企画」代表
「ひまわり銀行」開業 頭取兼一人社員
荒井 勣
PROFILE
∼プロフィール∼
あらい いさお
・東京生まれ、25歳で神戸で所帯を持ち30年。2男1女の父。
・小学校PTA会長を歴任して青少年健全育成のボランティアに目覚める。
・平成3年から子共たちと、地域を耕す「ひまわりネットワーク運動」を実践。
・震災では、仲間と「ひまわりの夢企画」を立ち上げ、風呂を出前する傍ら「瓦礫の町
にひまわりを」と、大量のひまわりの種を配布。被災地をひまわりで優しく包んだ。
21世紀へ「ひまわり文化で心の復興を」と、提唱し続けている。
(司会) 皆様、間もなく午後のセッションが始ま
ります。どうぞお席の方へお着きいただきたいと思
います。
皆様、大変長らくお待たせいたしました。会場の
お席の方へお戻りいただいてますでしょうか。それ
では、午後のパネルディスカッションを始めてまい
ります。
パネルディスカッションのテーマは「わたしの災
害ボランティア体験」です。パネリストの皆さんを
さっそくご紹介させていただきます。順不同になり
ますが、「被災地NGO恊働センター」の細川裕子
さんです(拍手)。「特定非営利活動法人コミュニテ
ィ・サポートセンター神戸」の榎本まなさんです
(拍手)。「きんもくせい」の天川佳美さんです(拍
手)。そして「ひまわりの夢企画」の荒井勣さんで
す(拍手)。荒井さんには先程の証言でも体験の一
端をご紹介いただきました。続きまして「兵庫商会」
の田中保三さんです(拍手)。そしてコーディネー
ターはラジオ関西の山口一史さんです(拍手)。
なお、プログラムに出席予定となっております弁
護士の戎正晴さんは、ご都合によりご欠席というこ
とですので、ご了承くださいませ。
それでは山口さん、どうぞよろしくお願いいたし
ます。
・自称ひまわりオジサン。
●パネリスト
田中 保三
PROFILE
(株)兵庫商会
∼プロフィール∼
たなか やすぞう
・1940年(昭和15年)
兵庫県武庫郡魚崎町横屋生まれ。
・1995年 阪神・淡路大震災で6棟の社屋、倉庫のうち5棟を全焼。
周りに大勢の犠牲者が出たのを見て生死紙一重を実感し、命の尊さを知る。
地震から一週間後よりボランティアの若者たちと交わり人生観が変わる。
・震災では6棟の社屋・倉庫のうち5棟が全焼、1億余りの部品と合わせて約2億円の
被害を受けつつも、被災当日、約40名の社員を一人も解雇しないことを宣言し、
その日より再建に走り回る。
・ボランティア活動や地元協議会役員としても奔走。
ユーモアと正義感にあふれ、自ら労を惜します、見返りを期待せず、気軽に
しかし真剣に若い者に語りかけながら、大学時代ボート部で鍛えた体をフルに
使って動く姿は、感動を与える。
25
(山口) ただいまから、パネル討議を始めていき
たいと思います。この「Memorial Conference」
は、主に大学の先生が中心になって実行委員会を構
成して、いろいろな企画をしたり段取りを決めるの
ですが、この実行委員会は本当に恐ろしいところで
して、欠席裁判がまかり通るという組織です(笑)。
それを知っていましたので、今年のこの分は去年の
8月くらいからずっと会議で詰めてきたのですけれ
ども、前の方で欠席するとえらいことになりそうだ
ということで、私も1回目は何とか出たのですが、
2回目、3回目にちょうど仕事と重なって出られな
かったら案の定当たっていまして、「ちょっと似つ
かわしくないよ」と申し上げたのですが、「もう満
場一致で決まったから君や」ということで(笑)抗
議も受け付けてもらえず、ここに座っている次第で
す。そういうことで、それほどボランティアについ
て詳しいわけでもありませんが、進行役をさせてい
ただきます。
今日は午前中に16人の方の証言を聞いていただ
きました。証言を聞いていただいて、非常にさまざ
まな活動、あるいはさまざまな思いでボランティア
にかかわっていらっしゃるということを私たちは知
ったわけですけれども、そういうお話をもう少しし
っかり聞いていこうということで、ここにはボラン
ティア活動を震災以降ずっと続けていらっしゃる
方々にお集まりをいただいたわけです。
今日は大体の流れとしては、それぞれの方がどん
な活動をしてらっしゃるのかということと、地震の
前は何をしていらっしゃって、どんなきっかけでこ
ういう活動に入られたのか、あるいは活動を進めな
がら今感じていらっしゃること、あるいは提案、提
言したいことなどがありましたら、どんどんお話を
いただこうという趣旨であります。もとよりボラン
ティア活動ですから、ここでみんなの意見をまとめ
て一本化するということではもちろんありません。
非常に様々な活動ぶりを、ぜひとも皆さんに知って
いただきたいということで進めてまいりたいと思い
ます。ご発言は、並んでいる順番に、できるだけ短
い時間で何度もお話をいただこうかと思っておりま
す。
最初に皆さん同じ質問なのですが、今どういう活
動をしていらっしゃるのか、いつごろからどんなグ
ループでどんな内容のことをやっていらっしゃるか
ということを、それぞれご説明いただけますか。で
は、最初に細川さん、お願いします。
(細川) 被災地NGO恊働センターの細川です。
よろしくお願いいたします。まとまらない発言にな
るかもしれませんが、お許しください。
私たちの団体は、95年の8月に、当時仮設住宅
の支援活動をしていた20数団体が集まってできま
した。もちろん今はもう仮設住宅はありませんけれ
ども、それぞれ活動をやめた団体もありますし、仮
設から公共住宅へ移られた方々への支援を、ふれあ
い喫茶の経験や移送サービスの経験などを生かしな
がら続けている団体もあります。私たちの被災地N
GO恊働センター自身は、そういう団体のネットワ
ークの事務局という機能をしております。事務局と
しまして、そのような団体の情報交換や交流の場を
設定しているのですが、その中で出てきた情報を、
ネットワークだけではなく、広く内外に『じゃりみ
ち』という機関誌などを通じて発信しています。
話し合いの中で、あるとき高齢者の方の生きがい
をサポートしなければいけないという問題が出てき
ました。その中で生まれてきた「まけないぞう」と
26
Report 2001
いう事業があります。今日は現物を持ってこなかっ
たのですが、ここにあるのはその子ゾウ版で、実際
はこの倍か3倍くらいの大きさがあります。全国の
方からタオルを寄贈していただきまして、そのタオ
ルで被災地の中で主に高齢者の女性の方にこういう
ふうな壁掛けタオルを作っていただきまして、1つ
作ったら100円を手間賃のようにお渡しして、でき
た製品はまた全国の方に買っていただくという事業
が今、発生しております。これが私たちのセンター
の1つの大きな事業になっています。
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
す。これは市民団体だけではなく、コープ神戸とか
YMCAとか学者の方とか*ジャネス*の方なども
実行委員に加わっていただいております。そういう
ことで、2年目に仮設の方々の声を集めて本にして、
『「仮設」声の写真集』という本を発行しました。3
年目にはそれを分析して、『市民のつくる復興計画』
というものを委員会として発行いたしました。そし
てこの6年たった今までの検証をもとにして『くら
し・地域アクションプラン2001』というものをま
とめて、これから私たち市民一人一人が新しい社会
を作っていくのに何かしましょうというような提言
を、ここにまとめさせていただいています。これも
また宣伝になって恐縮なのですが、外で1冊1000
円で売っておりますので、興味をお持ちの方はぜひ
ともお求めください。
(山口) ありがとうございました(拍手)。
続いて榎本さん。
もう1つ大きな柱になっているのは、国内外への
災害救援の事務局をしているということです。阪
神・淡路大震災は95年1月17日でしたが、同じ年
の5月の終わりにサハリンで大地震が起こりまし
た。5月といいますと、まだ避難所にたくさん人が
おられて、支援活動も避難所中心にやっていたので
すが、海外で起こったからといって放っておくので
はなく、私たちにできることをしようよという声が
被災地の中から起こってきまして、避難所で余って
いた毛布を出していただいたり、募金活動を呼びか
けたりして支援活動をしていきました。それから5
年半ほどたっているのですが、海外で起こった大き
な災害でこれで24回ほど救援会を立ち上げまして、
その事務局をさせていただいています。24回目は
この1月13日に起こったエルサルバドルの大地震
の救援会でした。外に出たところに募金箱を置いて
あります。奥の部屋では日赤さんでもされているよ
うですが、このように市民団体独自でやっておりま
すので、よろしければあとで募金をお願いいたしま
す。
そのような直接の被災者支援ということとは別
に、この「Memorial Conference」ほど大きくは
ないのですが、周年行事として「市民とNGOの防
災国際フォーラム」というものを毎年やっておりま
27
(榎本) 私たちは略称で「CS神戸」といってい
るのですが、その団体紹介ということですけれども、
山口さんに1時間くらいいただかないと、全部紹介
できないくらいたくさんあります(笑)。
私たちはよく言われる「中間支援組織」というも
ので、自立した、でも孤立しない個人、あるいはコ
ミュニティを作っていこうということで、たくさん
のグループを起業してきました。例えば、高齢者の
人が高齢者の人にデイサービスをする。60歳、70
歳のおばちゃん、おじちゃんたちが、震災後の炊き
出しから始まったのですが、その人たちにもっとも
っと元気になってもらおうよということで、「あた
ふたクッキング」というグループを作りました。私
も震災から毎日いただいていますが、その人たちが
毎日朝9時に来まして食事を作ります。それをまた、
60歳、70歳の移送サービスのグループがデイサー
ビスセンターですとか、2人暮らし、独り暮らしの
高齢者に運んだりしています。月曜日から金曜日ま
で毎日大体30∼40食を作っており、夜のお弁当も
時々作っておりますので、かなりの食数になってい
ます。
そういった高齢者が高齢者にサービスをする、あ
るいはコミュニティの中で障害者、外国人、女性と
いういわゆるマイノリティー、本当はコミュニティ
の中で助けてもらわなければいけない側の人たち
に、何かその人たちにもできるということで、震災
のあと、障害者、高齢者、女性、外国人の人たちが
チームを組んで、コミュニティのために何かできる
ことをしてもらおうと、たくさんのグループを始め
ました。1つは先程ご紹介した「あたふたクッキン
グ」、高齢者が障害者に教えるITのグループ、車
いすのダンス教室をするグループ、アカペラのグル
ープ、デイサービスをしたり、目の見えない人のた
めの点字を起こしたり、高齢者ばかりで介護服を作
る布のグループ、地域の庭をきれいにしようとお花
のグループなども作ってきました。このようにして、
「やはり地域の中であなたが必要なんだよ」という
ステージを作ろうということでやってきました。
このように小さいボランティアグループ、NPO
を作ってきたのですが、一方でネットワーク事業と
いうものも作ってきました。CS神戸はNPO法人
を持っておりますので、法人格のある私たちが窓口
になり、主に行政からの大きな仕事をいったん受け
ます。そうしまして、神戸市全域、被災地全域で調
査活動やあるいは事業というものをするわけです。
行政の場合は公平性や平等性を重んじますので、例
えばCS神戸がある東灘区だけではなかなか仕事は
下りてきません。あるいはNPO法人のない小さな
ボランティア団体に事業が落ちてくることがないの
ですが、地域のボランティア団体がやっている仕事
が行政とネットワークすると、仕事として事業とし
てお金が回ってくる、あるいは信用が付くというこ
とで、仕事を引っ張ってくることもしています。例
えば、阪神間全域でやったのが、車いすのガイドマ
ップです。車いすのクライアントを持っているボラ
ンティア団体はたくさんありますので、そこがたく
さんのノウハウを持ちながら、阪神間全域の北野の
異人館ですとか、ハーバーランドとかしあわせの村
とか、そういったところを調査しまして、1冊の本
が出来上がりました。今やっているのは、それ以外
にデイサービスセンターを全域でやることをしてい
たり、それ以外に配食サービスなどもスタートして
おります。
このようにして地域の中で力のあるNPO、災害
のときにも動けるようなNPOを作っていこうとい
うことで、たくさんのボランティア団体のご支援を
させてもらってきています。今、重点を置いている
のはそのようなネットワーク事業、個々の自立した
ボランティア団体を作る一方で、「サスティナブル
コミュニティ」ということです。やはり地域や人も
そうですけれども、いろいろなものを循環させる必
要があるのではないかということで着手している事
業としては、エネルギーも地域の中で作っていこう
じゃないかということで、市民が出資し合って、太
陽光発電をやり、できた電気を地域のために使って
いこうと、できた電気を使って電気カーを走らせて、
福祉ゾーンを回るという試みもしています。
それ以上説明すると大量になるのでこのくらいに
しますが(笑)、震災のあと、いやしのプログラム
が非常に多かったのですが、96年10月にCS神戸
ができまして、それはやはり自立、あるいは孤立し
ないコミュニティを作っていこうということで、
「自立と共生」というテーマの下に、地域でたくさ
んのボランティア団体を作ったり、コミュニティを
作ったりしています。以上です。
(山口) ありがとうございました(拍手)。CS神
戸は、今もお話がありましたけれども、3か月行か
ないとやっていることが変わっている、新しいこと
がどんどん増えているという団体で、CS神戸を取
材する人間は3か月遊んで行かないと昔話になって
しまうという、とてもいろいろなことをやっていら
っしゃる団体です。
次に天川さんにお願いしたいのですが、今日は天
川さんは「きんもくせい」ということで来ていただ
いています。きんもくせいとは何だということもあ
りますけれども、私も見ておりまして、どこからど
こまでがきんもくせいの仕事で、どこからがそうで
はないのかよくわかりませんので(笑)、きんもく
せいのお話も含めて全体像をお願いします。
(天川) 今日、こちらのプログラムということで
皆さんにお配りいただいた資料に、どういうわけか
私のところだけ、今していることが印刷されていま
す。すみません、私だけたくさんのページをいただ
いたようですけれども、先程山口さんもおっしゃい
ましたように、欠席裁判といいますか、いつの間に
かパネリストに決まっていて、経歴書のようなもの
を出せと言われて、たまたま書いていたものをその
まま送ったらそのまま載っているというあつかまし
い話なのです。「まな板の上のコイ」で、この上に
乗った以上は説明をしないといけないので、きんも
くせいの説明からさせていただきます。
もともとは、震災が95年1月に起こりまして、
その直後に都市計画や建築などの分野の専門家が集
まって、神戸や西宮などの阪神間の被災地での様子
28
Report 2001
の発信をするという一枚物のニュースが「きんもく
せい」という名前だったのです。その名前がどうし
て付いたのかということは、多分榎本さん以上にか
なり長い話になりますのでカットしますが(笑)、
きんもくせいという10月ごろに小さな星の形をし
た花が咲く植物、皆さんおわかりだと思いますけれ
ど、そこから取った名前でした。
2年半、月に2回ずつ発行を続けてきたのですけ
れども、ある意味で我々は都市計画や建築などの分
野の専門家で、まちづくりにかかわっていた者たち
のネットワークとして、震災後に発足いたしました
が、メディアといいますか、活字の物を発行すると
いうことを急きょ始めてしまったわけです。もちろ
ん交通機関が全然機能しておりませんでしたし、電
話やファクシミリも当時は全く使えない状態で、私
たちが仕事場で使っていた場所も全壊でしたので、
電話線を自分たちでつないだという大変な状況だっ
たのも、すでに6年も前になってしまったと今思い
返しているわけです。文字で発行するということが
当時も本当に大変だったのですが、メディアの面か
らまちづくりを全国に向けて発信していくというこ
とを続けてきた名残で、2年半を終えてからは、1
月に1度というかたちで少し縮小しました。
そのメディアが、ある意味で自分たちでは終止符
を打ったつもりですけれども、それだけで終わって
はいけないという思いは当然だれもが持っておりま
すので、本職の仕事をしながら、きんもくせいをス
ペースというかたちに置き換えました。スペースと
は場所という意味ですけれども、私たちの全壊して
しまった事務所は2階建ての古い日本の木造の住宅
だったのですが、それを3階建ての鉄筋の建物に大
家さんに建て直していただいたので、1階を地域や
研究者や学生さんなどに開放ができるような場所に
造り替えまして、そこをきんもくせいという名前で
呼んでおります。震災関連の資料をそろえて置いた
り、そこでまた話し合いとか勉強ができるようなス
ペースに置き換えたわけです。
「今していること」とオーバーに書いているとこ
ろで、大体のことはお読みいただいたらわかると思
いますが、私自身は大したことはしておりません。
ある意味では専門家たちが専門家のまちづくりを発
信するのを、どちらかというと手伝っていたのが私
の仕事だったのではないかと今は振り返っておりま
す。そうは言っても、都市計画や建築を学業として
学んだわけではなかったのですが、私自身も27年
29
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
間その人たちと一緒に仕事をしておりましたので、
何か自分にできることはないのかと震災直後に考え
ました。そして皆さんの力を借りながらですが、私
自身がしてきたことも1つや2つはあったなと今は
振り返って思っています。それはまたあとでお話し
できたらと思いますので、きんもくせいの説明に尽
きましたけれども、またあとでいろいろなお話に加
えていただきたいと思います。
(山口) ありがとうございました。
では続いて荒井さん、お願いします。
(荒井) ひまわりおじさんの荒井でございます。
午前中からいらした方は2度目の話になる部分があ
るかと思います。釈明ではないのですが、ある日突
然、大学の先生から「おまえ、1月20日空けてお
け」という電話がありました。それから何の音さた
もなく突然パンフレットが届きまして、「ああそう
か、これに応募してみろということか」と思いまし
て、きちんと応募をしましたら通ったというはがき
が来ました。そのあとパネルのところにも名前があ
りまして、両方出るような羽目になりまして失礼い
たしました。午前中とダブりますけれども、自分が
やってきたことをあっさりと言わせていただきま
す。
平成3年、11年目になりますけれども、子ども
たちと一緒に何かおもしろいことをして青少年の健
全育成をしてみようということで、新しい手法とし
て「ひまわりの花いっぱい運動」で子どもたちと
「地域を耕してみようか」という発想で手を挙げて、
いろいろなことをしました。かなりの逆風がいろい
ろと吹きまして、神戸市いっぱいに広げようといろ
いろな行事に参加しましたけれども、教育委員会も
何も横を向いていました。そういうことがいろいろ
とある中、積み重ねていくうちに、例えばひまわり
迷路の出前、組み立て式の迷路だけでも、神戸市内
の小中学校50回ほど出前をしました。かなりの数
です。そのたびにひまわりの種を配ったり、絵をか
いてもらったり、いろいろなことをしていました。
それから震災が起こりました。
お金も何もなかったけれども、手元にはひまわり
の種がどっさりとありました。「これを何か使えな
いやろか」と思いまして、真っ暗になった瓦礫の町
にひまわりをいっぱい咲かせてみようという気持ち
でひたすら配りました。自分たちが懐に入れて配っ
たのではなく、例えば今、両隣にたくさんの方がお
られますが、それぞれの団体さんに「ひまわりの種
があるんだけど、配ってよ」と渡したのが良かった
のだと思います。あっちからこっちからひまわりが
咲き出しまして、涙が出るようなうれしい思いをし
ました。そのかたわら「ひまわり温泉」というのを
作りました。実はトラックを売っているという商売
をしておりまして、それがあったのでそういうこと
をしました。非常に喜ばれました。仕事では怒られ
ましたけれども、ボランティアでは非常に喜ばれま
した。
あれから6年たっても、ずっとひまわりのイベン
トを続けております。私がイベント等をやるときは、
いつも自分でやって見せます。汗を見せます。背中
を見せます。そのあと「一緒にやらない?」と言い
ます。言わなくてもみんな付いてきてくれます。何
かやるときは、あえて会員がどうの、金を取ってど
うのというよりも「この指とまれ」という、「こう
いうことをするから、よかったら手伝ってくれる人、
この指とまれ」とか「いついつ空いている人」「真
冬のひまわりを咲かせよう」「どこどこに迷路をす
るよ」とか、そういうことをやっております。その
たびに都合のついた人が集まって、それで解散しま
す。その次にまた流れを出します。そうすると寄っ
たり集ったりしながら、そのうち「このおじさん、
いつもおもしろいことをしているから、今度も言っ
て」という人が何人か出てきます。そういう人が支
えてくれるようになっていまして、10年たっても
いまだに相変わらずひまわりのイベントを続けてお
ります。
最近になって一番うれしかったのは、神戸市が6
年たち、そろそろ感謝のありがとうという気持ちを
出そうということで、21世紀の復興記念感謝事業
を始めたのですが、その中にひまわりの花が選ばれ
たことです。感謝のイメージフラワーです。本当は
もう少しエピソードとしておもしろい話があるので
すが、みどり銀行が震災直後につぶれたことはご存
じでしょうか。それからみなと銀行に変わりました。
そのとき、一般公募でどんな名前にしようかと募集
しました。実は1位は「ひまわり」だったのです。
「ひまわり銀行」だったのです。でもなぜか2位の
「みなと銀行」が選ばれました。そのとき多分喜ん
だのは私だけだったのではないかと思ったりします
(笑)。おもしろいことをするものです。1番になっ
たから選ばれない。それだったら募集しなくても良
かったのではないかと思いながら、これは冗談で横
に流しておきます。
そういうことをしながら、今年は感謝事業に選ば
れました。昨年はそれに対応するために、少し知恵
を出しました。「種が足りない」と思いまして、「ひ
まわり銀行」というものを作りました。今までは黙
って皆さんに差し上げていましたが、それは「種を
差し上げましょう。楽しんでください。でも、採れ
たら倍にして返してください」という銀行です。昨
年で500件くらい送りました。たくさん帰ってきま
した。その中の一環で、乾田にひまわり畑で神戸市
に渡す分を一生懸命作りました。新聞に何度か「赤
いひまわりが咲いた」というカラーの写真が出たと
思います。あれは私たちが汗を流してやったもので
あります。昨年の暮れに、黄色いサンタクロースに
なって、神戸市長にドラム缶1杯、200リットル
(約150万粒)、神戸市の市民全部くらい、仲間の協
力を得て渡しました。今は一生懸命夢を膨らませて
30
Report 2001
いるのですが、夢の続きはまたあとでということで、
よろしくお願いいたします。
(山口) ありがとうございました。荒井さんは
「ひまわりおじさん」とおっしゃったのですが、実
は天川さんもプロフィールに書いていらっしゃいま
すように「ガレキに花を咲かせましょう」というこ
とで、震災のあとの焼けた土地や家やつぶれたとこ
ろに花の種をまいて歩いたという、「はなさか少女」
としてデビューした人なのです(笑)。
(天川)
いやいや、ガレキばばあです(笑)。
(山口)
それでは田中さん、お願いします。
(田中) 長田の田中です。当初、避難所にたくさ
ん地域の人々がおられたときは、まちづくりまでは
いかなかったのですが、瓦礫を撤去しようとか、こ
れからの町をどうしようといったときの話は非常に
やりやすかったのですが、その後、仮設があちこち
にたくさんできまして、住民がどんどん離れていき
ました。そうすると、まちづくり協議会の総会にも
あまり人が来られない、まちづくりをどういうかた
ちにしようかという会合にもあまり出てこられなく
なりました。そのときに「みんなが避難所に行って
しまって、これでは町の中がどうなるのか。町の中
がどんどん片付いていかないことには、仮設もなく
ならんのではないか」ということで、たまたま私の
敷地の中にボランティアグループで入っておりまし
たSVA(曹洞宗国際ボランティア)、あるいはピ
ースボートの流れをくむ「すたあと長田」というも
のがありまして、その中から男女一人ずつ、やはり
同じ同志がおりまして、3人で震災の年の秋からま
ちづくり協議会の書記役という名目で入ってきてい
ただきまして、町に携わってきました。当初、区画
整理の中で非常に難しい用語がたくさん出てきます
ので、それをわかりやすくかみ砕いて広報する役目
をやらせてもらいました。
その明けの第1回の慰霊祭のときに、彼と彼女と
私の3人で「まち・コミュニケーション」というも
のをこしらえようと、御菅地区のイベント役も引き
受けまして、いろいろなことをやってまいりました。
基本的には、町の住人と行政コンサルタントの緩衝
材の役割を果たしてきたと思います。共同住宅の建
物をコーディネートして、ワークショップを何度も
31
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
やりました。千葉大学の遠藤先生、真野の宮西さん
とか、あるいは近大の小島先生を引っ張ってきて、
いろいろな方に狭小宅地の今後のあり方として、
「狭小宅地に階段ばかりの3階建ての建物を建てる
のが能じゃないだろう。もう少し平面的なものがい
いのではないか。そのためには共同住宅がいいので
はないか」ということで、まちコミが共同住宅建設
組合の事務局を果たして、1棟建てました。そうい
うことをやっていたり、慰霊祭やらあるいは河内音
頭の盆踊りも毎年やっております。
それがどういう役割を果たしているかということ
なのですが、それはひとえに地域の人々を呼び戻す、
そして地域の人々の融和、きずなをもう一度強め合
おうということです。私どもの御菅地区の中には
100戸ほどの受け皿住宅が建ったのですが、6割強
が外部から来た人なのです。その人に町の中に出て
もらって、町の中の人たちといろいろと話し合って
もらいたいし、なじんでもらいたいと思いまして、
共同住宅の1階にプラザ5というものをこしらえま
して、ふれあい喫茶やら食事会、あるいはパソコン
教室、絵手紙教室、写経等をやってもらっています。
このたび7回忌を前に慰霊塔を建てました。慰霊
塔も地域の人たち、新しく入ってきた人たちも含め
まして、基礎の掘り方からコンクリートの打設まで
みんな自分たちでやって、「これが本当の自分たち
の手作りだな」という実感を持ってもらいながら、
要するに参画意識を持ってもらって、これからも町
を作っていきたいなと思っております。
している、すばらしい方です。
今、ひととおり「こんなことをやっているよ」と
いうお話を聞かせていただきました。このあと、今
までの話の中にもあったのですが、どうしてそうい
う活動に入っていったのか、活動に入る前は何をし
ておられたのかということをお尋ねしていこうと思
います。
それから、会場の皆さんにいろいろご発言をいた
だきたいのですが、このセッションでは時間があり
ませんので我慢していただきまして、このあとオー
ケストラの演奏があって、その最後のセッションで
会場の皆さんのご意見、あるいはご提案をいろいろ
と聞いていこうと考えておりますので、しばらくご
辛抱ください。
それではもう一度細川さん、地震の前は何をして
いて、どうしてこういう活動に入ったのか、簡単に
教えてください。
(細川) 私は今、姫路に住んでおりまして、地震
の前は大阪まで通って、そこで人材派遣会社のイン
ストラクターをやっておりました。今は姫路に住ん
でおりますけれども、生まれも育ちも神戸で、私は
「自分は神戸っ子だ」と今でも自負しております。
また、実家の両親は神戸に住んでおりますので、被
災しました。地震があったときにもまだ大阪の勤め
があり、3月までは一応勤めたのですが、最初は電
車が通っていませんでしたから、さまざまな方法で
大阪まで行きました。三田回りで行ったこともあり
ますし、どこかの駅から駅まで代替バスを使って、
だんだんそれは距離が短くなっていったのですが、
最後の最後、3月まで大阪へ行っていました。被災
地の様子をずっと目の当たりにしながら、自分はそ
の2か月間ほとんど何もできないというもどかしさ
が、4月になってすぐこのような活動に飛び込んだ
一番の原動力になったのではないかと思います。
(山口) ありがとうございました。
では、榎本さん。
(山口) プロフィールをご覧になると書いてある
のですが、田中さんは会社も倉庫も全部つぶれてし
まったのですね。それにもかかわらず、会社の再建
とまちづくり支援と、それからそれを支援するボラ
ンティアチームの支援に震災後からすぐ取り組みだ
(榎本) このプロフィールにも書いているように、
あまり大したことはしていなかったのですが、不思
議なことにお隣の細川さんが今事務所にしている所
で、前は自然食レストランをやっておりまして、私
はそこでキッチンとウェイトレスをしていました。
環境のことをとても勉強したくて、プライベートで
は環境系のNGOに入って活動しておりまして、そ
の建物も被災をしましたので、しばらく緊急救援と
いうことでボランティア活動に参加しておりまし
た。
そのあと、震災ボランティアというものにいろい
ろな疑問等を感じまして、自分の精神状態も良くな
いと思いまして、友人の所とか沖縄とか北海道など
にちょっと旅に出たりしていました。そうしたら、
環境系のNGOのグループからアジアのNGOを見
に行かないかということで、その研修に行かせてい
ただきましたら、今ちょうどCS神戸がやっている
ような地域で助け合うシステムを作ろうと、あまり
環境にも負荷がなくて、一人一人が自分らしく生き
られるまちづくりをやっている村がいくつかありま
した。非常に感銘を受けて帰ってきたときに、たま
たまうちの理事長の中村さんたちと出会いまして、
「やってみないか」という声があり、「ぜひやらせて
ほしい」と参加しました。
(山口) ありがとうございます。
天川さんはどこからが何でというけじめが非常に
つけにくいのですが(笑)、ちょっとメリハリをつ
けて説明していただくとどうなりますか。
(天川) 震災前も震災後も全く変わりないと言っ
ていいのは、ひょっとしたら私一人なのかもしれま
せん。どちらかというと震災前の方がボランティア
をしていたかもしれない感じですが(笑)、もとも
と都市計画のコンサルタントの会社におりましたの
で、まちづくりの専門家たちの中で20数年ずっと
いたわけです。都市計画とは何ぞやとも本当は全然
わかっておらず、大きなことをしていても会社とし
ては小さな組織ですから、当然電話を通じてとかみ
んなの話を聞きながらとかで大体のことはわかって
いるつもりで全くわかっていなかったのが、多分震
災直後の現状だったと思います。
ただ、1つだけ今言えるのは、震災というのは災
害で、たくさんの命を犠牲にしたわけですからあま
り大きな声では言えないのですが、専門家は嬉々と
して毎日を送っていたというのが、私には本当は一
番大きなきっかけだったというふうに思います。
嬉々としてというのは非常に言葉が悪いかもしれま
せんけれども、自分たちがもともと職業でやってい
たことを、職業でなくてもやるのだという意気込み
のようなものが嬉々としていたわけです。心の中で
32
Report 2001
は泣いていたり、怒っていたり、歯がゆかったりす
るわけですが、それで非常に一人一人の顔が輝いて
いたのが事実です。
それはどうしてかというと、午前中にお話しされ
た方の中で一人、三重県の伊勢市からいらした方が
「楽しくてもいいやないか」という言葉を言われた
のを、午前中いらした方は覚えておられると思いま
す。「楽しくても良かったんだ」ということを、み
んな本当は思っていたと思うのですが、やはり言っ
てはいけなかったという時期も確かにあったと思い
ます。でも専門家というのは、たまたまそれが自分
の仕事になった方も当然ですけれども、やはり自分
の仕事が楽しくないとだめだと思うのです。「それ
が仕事なんや」という、それにお金が付いてくるか
どうかというのは別の問題だと思うのですけれど
も。もちろん「楽しい」というのは「町が壊れて楽
しい」とか「人が亡くなって楽しい」ということで
は決してありません。自分たちがゼロになってしま
ったところから、「あの人がここに住んでいた」と
か「ここでお仕事していた」ということを「もう一
度作り直すんや」「ここで自分たちが長年築いてき
た町をもう一度作り直すんや」という「嬉々(喜び)」
だったと今は思っています。
ですから、ちょっとテーマとははずれるのですが、
ある意味ではそのこと自体が、震災から目をそむけ
させずに、私はたまたまここにとどまれたと思って
います。1月17日の直後の3日間ほどは、とどま
るべきか、どこかへ避難するべきかと本当の意味で
迷われた方が多かったと思うのですけれども、ほと
んどの人がここを離れたくないと思われたと思うの
です。私自身もそうでした。1時間でも1日でもこ
こから離れるのは、本当の意味で恐怖だったのです。
家もない、水もない、ガスもない所にさえとどまれ
たのは、やはり「この町が好きだった」とか「ここ
におられる人が好きだった」というような思いだっ
たのではないかと思います。
(山口) ありがとうございます。
荒井さんは、先程の話で地震の前からひまわりの
活動をされていらっしゃるということなのですが、
お仕事とボランティア活動とどのような比重をかけ
てご覧になっていますか。
(荒井) 軽くその質問をかわして、ちょっときっ
かけの方へ行かせていただきますが(笑)、僕の大
33
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
好きな詩にこういうのがあります。「太陽を刻んで
僕の体に張り付けたら、僕はどんなに明るい少年に
なれるのだろう」という詩を高校2年くらいのとき
に読んで、頭にインプットしていました。ある日、
子どもが小学校を卒業するときに「お父さん、卒業
生の文集を書いてくれ」と持ってきました。「また、
そんなものを」と思いながら、これしかないと思っ
てそれをそのまま書いて、「明るい少年になってく
れ」と出しました。そうしたら3か月して「PTA
の役員になってください」と校長先生が来ました。
それがとんでもないスタートのまちがい、神戸市西
区の出合小学校の*おだきよじ*先生なのですが、
これが私の人生を変えてしまいました。
なったとたん、それならば、と副会長、会長とや
りましたけれど、みんな「ご苦労さんね。PTAは」
と言うのです。「これはいかん」と思いまして「い
や、楽しいですよ。おもしろくてやってますよ。好
きでやっていますから」と言い換えるようにしまし
た。そうするといろいろなことから逃げられなくな
りまして、いつの間にか前向きでどんどん取り組む
ようになりました。気が付いたら、PTAが終わっ
たときに神戸市の青少年問題協議会という青少年の
健全育成の会の支部長をやれと言われて、今までシ
ンナーだめとか暗いパトロールばかりやっていたの
ですが、「それは違うよ」という考え方を持ちまし
て、「良い子を育てたら追いかける必要はなくなる。
それが大事」と。それはどういうことかというと、
親がしっかり背中を見せて、親が素行を正すことが
大事だ、それなら地域を耕すことからぼちぼち明る
いまちづくりでも始めようかと、ちょっと極端です
がすっとまいりまして、「花いっぱい運動」を始め
ました。
ただ、そこに至る過程でいろいろと勉強もしない
といけないと思いまして、青少年育成国民会議とい
う総務省の下でやっている通信教育で、青少年育成
アドバイザーという資格みたいなものをいただきま
した。日本レクリエーション協会のレクリエーショ
ンインストラクターの資格も取りましたし、文章教
室にも通いましたし、暇つぶしに仕事半分のそうい
う裏人生をいろいろと歩んできて、こんにちに至っ
た結果、いろいろなことをボランティアで真っ正面
から受け取るとこういう道に入らざるをえなくなっ
て、今、この場に立っているのが現状です。質問の
答えになっていませんでしたでしょうか(笑)。
(山口) ありがとうございました。
田中さんは、先程のお話で私はふと感じたのです
が、田中さんを駆り立てているそのもと、例えばそ
の御蔵という地域に対する何か思い入れが非常にあ
ったり、「大好きな町だ」ということで、いろいろ
な活動のきっかけをつかんでいらっしゃるのでしょ
うか。
(田中) 私自身、震災までは一商売人として「こ
れ1個売ってなんぼもうかんねん」ということばか
りだったのですが、震災後多くの人々に夜どおし朝
駆けで救援物資の配送等をやってもらいましたし、
物心両面にわたるたくさんのものをいただきまし
た。ちょうど1月下旬のみぞれが降る晩のこと、ピ
ースボートのテントが河原にありまして、そこに友
人を訪ねていったときに出会った梅田隆司というピ
ースボートの世話役に、仏教用語でいう「無財の七
施」を見たのです。僕自身は「無財の七施」という
のは知っていましたけれどもそれが何であるかはわ
からなくて、目と心と言葉と顔、それから僕自身を
テントの中に招じ入れて用件を聞いてくれるわけで
す。自分が座っていたいすを私にくれまして、「ど
うぞ掛けてください」と「牀座施(しょうざせ)」
というのですが、それも本当に温顔で何となく安堵
感がいっぱいになりまして、「親子ほど年が違うの
に、この若者はいったい何や」と非常に衝撃を受け
たのです。
自分は商売のことだけをやってきており、実際、
御蔵の町でまちづくり協議会の相談役をやっている
のですけれども、会長もそれまでは全然知らなかっ
たし、面識がなかったわけです。副会長は女性が2
人いるのですが、それも全く初対面と言っていい、
相談役も僕を入れて3人なのですが、その顔も知ら
なかったぐらい全く関係がなかったのですが、その
青年に衝撃を受けてから、善をなす機会と能力があ
りながら、その行為を行わないのは悪につながると
いうような気持ちに駆り立てられました。もちろん
会社も一生懸命やったのですが、今はどちらかとい
うと非常に不況でしんどいのですが、震災3年くら
いまではまあまあ順調にいったかと思います。
今、大学院生、あるいは設計事務所の所員をやっ
ていた者がリタイアしてうちに転がってきていて、
20代の若い青年たちがいつも4∼5人ごろごろし
ているのですが、彼らをやはり次代の担い手として
しっかり育てないといけないのではないかと思いま
す。もちろん、建築家たちがたくさん来ます。真野
の宮西さんとか武田先生とか、小林郁雄さんとかあ
るいは野崎さんあたりもよくやってきて、若い者を
鍛えていただいております。こういうことがこれか
らの神戸につながっていくのではないかと思いま
す。
私自身が駆り立てられているのは、1人の青年と
出会ったのがきっかけではないかと思います。その
他いろいろな人に出会いましたけれども、そもそも
のきっかけはそこに至るのだろうなと思います。
(山口) ありがとうございます。何か運命的なも
のを感じさせられるお話でした。
ひととおり、皆さん方がどんな考えからこういう
活動に入られたか、おわかりいただけたかと思いま
す。非常にさまざまで、一つ一つ違う立場から、あ
るいはステージからこういう分野に飛び込んできて
いて、そのきっかけもそれぞれ違うということだっ
たように思います。このあとは、少し突っ込んだか
たちでお話を聞かせていただこうと思っています。
まず細川さん、最初のお話で、中間支援といいま
すか、現場を持っているいろいろなグループをコー
ディネートしたり、あるいはそのセンターになるよ
うな役割を果たしているということでした。いろい
ろな言い方があるのですが、榎本さんも言われたよ
うに中間支援組織と何となくまとめて被災地では呼
んでいるのですが、ボランティアグループを総合、
統合するようなセンターになるような中間支援組織
というものが、いくつかこの地域に生まれています。
神戸・阪神間ではおそらくこういうかたちで生まれ
てきたのは初めてのことだろうと思うのです。そう
いう新しいかたちを皆さん方は担いながら進めてい
らっしゃるわけですが、今現在は、例えば細川さん
のNGO恊働センターは運営がうまく行っているの
か、あるいは課題があるとすればこんな課題がある
とか、それは自分たちが思っている課題もあるかも
しれませんし、外の環境の方に問題があってうまく
行かないということもあるかもしれません。そのあ
たりのことを少し詳しくお話しいただけますか。
(細川) 今現在のこととは少しはずれるかもしれ
ませんが、最初に申し上げましたように、私たちの
ところは最初から中間支援センターとしてできたの
ではなくて、最初は仮設支援をしている団体の意見
交換や情報交換の交流の場であったわけです。それ
34
Report 2001
がだんだん問題点などを話し合うことによって、例
えば、いろいろな団体が仮設に住んでいらっしゃる
方を病院や少し離れたセンターへの入浴に移送する
サービスをやっており、車の問題や人の問題など、
それぞれみんな悩みを抱えていたりしていました。
そこで、「だったら共同でやって、共同でボランテ
ィア募集をしたりしてうまく回していきましょう」
というようなプロジェクトができかけてきました。
そのときに、株式会社フェリシモさんから資金的な
サポートをいただけるようになりまして、移送サー
ビスだけではなく、配食や子どものこと、訪問介護、
物を作ったり、フェリシモさんのお金を使ってやる
プロジェクトということで「フェリシモプロジェク
ト」と名付けたのですが、それで中間支援のセンタ
ーのような役割を果たしてきたのかと思います。
うまくいっているところとうまくいっていないと
ころということですが、私たちはそのネットワーク
の事務局をやっていまして、一方、各団体は現場で
いろいろ対応しているわけです。月に1回くらい話
し合って「こういうように進めていきましょう」と
やりますが、やはり現場と事務局の感覚のずれとい
うものはどうしてもあったと思います。しかし、こ
れで丸5年以上一生懸命やってきておりますから、
それぞれの団体が本当に顔と顔が見える関係になっ
て、「あの団体にはこういう人がいて」ということ
までお互いにわかり合えまして、単なるプロジェク
トというよりも、もっと親密な各団体間の交流がで
きてきたのではないかと思っています。
去年の4月から介護保険制度がスタートしました
けれども、それに合わせてフェリシモさんの助成を
受けましたホームヘルパー養成講座というものを、
被災地障害者センターを中心に2期目のものをやっ
ておりますけれども、そういうところで育ったヘル
パーさんなどもネットワークすることによって、ト
ータル的な生活支援センターのようなものが私たち
の団体との共同でできないかと今思っています。
(山口) ありがとうございました。そのヘルパー
の養成講座などには、たくさん受講生がありますか。
(細川) ええ。2級とか3級とかいろいろとある
のですが、第1回目のときは定員50名で全部満員
でした。
(山口)
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それを受けられた方は、終了したあとど
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
うしていらっしゃるのですか。
(細川) 受けた中には、加盟団体の移送サービス
や配食サービスなどにかかわっている人たちもいま
して、そういう人たちは今までやっていたことをヘ
ルパーの資格を持って今度はできるわけですし、そ
れ以外の人は登録しておりますので、必要なときに
はそこで人のやりくりができるのではないかと思っ
ています。まだそこまでちゃんとした生活支援セン
ターみたいなかたちではやっていませんが、そうい
うことを目指しております。
(山口) 参加団体のある種の介護する力だとか能
力というものを高めていくことも、講座の目標の1
つだったわけですね。
(細川)
そうですね。
(山口) わかりました。
榎本さんのところも中間支援組織ということで非
常に活躍していらっしゃいます。特にCS神戸は、
先程ご紹介がありましたけれども、いろいろな事業
をコミュニティビジネスの手法を取り入れながら継
続できる発想をずっと取っていらっしゃるように思
います。代表的な例を1つ2つくらい挙げていただ
いて、コミュニティビジネスとしての進め方がCS
神戸の場合は今どんなレベルにあるか、そのあたり
を教えていただけますか。
(榎本) そうですね。最初に、まだ震災から1年
ちょっとしかたってない96年10月にCS神戸を立
ち上げたころに、「コミュニティ事業を立ち上げま
す」と言いました。そうしたら「何やそれ」という
ことで、ボランティアは無償で物をあげる、仮設に
行って物をあげる、配る、食べ物を与えていくとい
うことが一般だった神戸でしたので、「うちは事業
をやります」と言うと行政系のところからかなりた
たかれましたし、同じボランティア業界でもかなり
たたかれました。しかし、やはり私たちがやってい
く中で、皆さんもご経験があると思いますが、とん
でもないものが寄付としてきますよね。使い古しの
下着とか賞味期限の切れた物とか、象徴的だったの
が「寒そうなので毛糸の帽子を作りましたので配っ
てください」と200個ぐらい来たのです。真っ赤な
毛糸の帽子なのですが、「これは好き嫌いあるやろ
な」「あげても使ってくれるやろか」というものが
あったり。やっている本人の自己評価はとても高い
のですが、もらう評価が低いのです。そこで、やは
り事業にしていって、コミュニティ事業、コミュニ
ティビジネスというのは、あくまでもコミュニティ
に根差して、お互いが顔の見える関係でいるという
ことが基本だと思います。ですので、作ったものの
評価、例えばその帽子でも何でもいいのですが、
「100円だったら買うのか」と言っても、気に入ら
なかったら100円でも買わないのです。やはりそう
いうことがボランティア活動にも、善意の押し付け
ではなくて、いるのではないのかと考え出しました。
それが1つの趣旨です。
もう1つは、やはりどんなに与えても与えても、
立ち直れない人というのはいらっしゃいました。そ
れは40代50代の男性に非常に多くて、アルコール
依存症ですとか、こもりがちになってしまうケース
がありまして、この話はよくするのですが「おっち
ゃん、これ以上何したらええんや?」と私が聞きま
したら「あんた、わからへんのか。1週間人に頭下
げて生活してみ。どんな気持ちになるか。1か月や
ってみ。半年やってみ。あんたどない気持ちになる
かわかってんか」と言われまして、「それはそうだ
なぁ」と思いました。社会の中あるいは家庭の中で
大黒柱、支える側だった人が、本当にどうでもいい
ような物に頭を下げてもらっていかなければいけな
いということは、非常につらいだろうと思いました。
「おっちゃん、何したらええねん」と言ったら「事
業や、仕事や」と言われまして、「ああ、仕事か。
おっちゃん何できんの?」「自転車の修理だったら
できんで」と言われて、「これは仕事になるかなぁ」
と思いながらも、先程言いました「あたふたクッキ
ング」をはじめ、やはり障害者、高齢者、こもって
いる男性、アルコール依存症の人たちと一緒に事業
を立ち上げていくことがこれから必要じゃないかと
始めたわけです。
コミュニティビジネスとコミュニティ事業の評価
には、3つの軸があると思います。1つはやはり
「自己評価」。作った人、やった人が自己満足をする、
あるいはやってよかったなと思う満足、人の笑顔を
見られて良かったというものが1つあると思いま
す。それから2つ目にクライアントの評価。これは
もらう側が「してもらって良かった」「助かった」
「本当にうれしかった」ということが、値段として
くれるサービスに合わせて考えられると思います。
3つ目にはやはり社会的な評価がかかわってくると
思います。コミュニティビジネス、NPOボランテ
ィア団体には、行政や民間の財団からお金をいただ
いてやるケースが多いです。寄付もあると思います。
そういったものから「継続してほしい」「やってほ
しい」「続けてほしい」という評価が3つあって、
やはり地域の中で位置付いていくものなのではない
かと思います。
このようにしてコミュニティビジネス、コミュニ
ティ事業を展開していきまして、アルコール依存症
の人、あるいは自閉症の障害者の人たちが、地域の
中で自分のできることを生かしながら生きていける
ということは、本当にすばらしいことなのではない
かと思っています。具体事例を言うにはもう少し時
間がいりますので、切りますが。
(山口) 次々と事業を展開していますが、その知
恵はどこにあるのですか。
(榎本) やはりうちの基本としてはヒアリングに
行くということです。今も太陽光発電をしよう、地
域の中で車を走らせよう、どこにどういうニーズが
あって、どこに車を走らせたら一番便利で、電気の
エネルギーを使うのに何が今必要なのかということ
を、老人会とか婦人会とかに足を運んで。今日も夜、
魚崎の協議会の方でお話をさせてもらったり、障害
者の団体に行ったり、足を運びます。その中のアン
ケートで「何に困っていますか」と必ず聞き、もう
一方では「あなたは何ができますか」「地域のため
に何ができますか」ということを両方聞いていきま
す。そこから、できることとニーズの2つの面が見
えてくるのだと思います。
(山口) なるほど。地域のニーズをしっかりつか
んでいくことが基本だということですね。CS神戸
は、私も取材をしていていろいろなことを学んだり、
びっくりしたりすることがあります。今おっしゃっ
たいくつかの仕事を実際に立ち上げてやっていて、
例えば自転車修理をできるようなお年寄りを集めて
しようとすると、既存の自転車屋さんから「そんな
安い値段で仕事されたら困る」とクレームが来る、
あるいは移送サービスで病院に運ぼうとすると陸運
局から「おまえ、何しとんねん」とクレームが来る、
あるいは大工仕事ができる人をどこかの家庭に派遣
しようとすると、労働基準監督署から「派遣法違反
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Report 2001
ではないか」とクレームが来るとか、常にここの地
域ではそういうビジネスを一番先頭に立って展開し
ているので、風当たりもまず受けます。しかしここ
がクリアするとほかのグループも問題なくできると
いう、少し羅針盤的な役割も実は果たしています。
続いて天川さんにお尋ねしますが、少し視点を変
えて、先程の話にもありましたし、田中さんの話に
もありましたけれども、専門家の方が地域づくり、
まちづくりあるいは復興というところにいろいろな
かたちでかかわって、先程は「いい意味で楽しいの
だ」というお話があったのですが、専門家とボラン
ティア活動とのかかわりですとか、あるいはそれを
越えた地域とのかかわりはどんなふうに動いてきた
のか、あるいはどんなふうに動いていけばいいのか、
そのあたりをコメントしていただけますか。
(天川) 専門家を語るほど専門家ではないので、
これは非常に荷が重い話で先程から顔色が変わって
いるのですが、「専門家がいったい何ができたのか」
という話をする前に、今まさしく榎本さんがおっし
ゃったように、迫力が違いますね。「専門家がいっ
たい何したんや」と都市計画や建築のえらい方がい
らっしゃるのに言うのは何ですけれども、「建物倒
れたやないか」という言葉は一番に降ってきました。
例えば私は専門家ではありませんけれども、「あん
たたちが造ったりっぱなりっぱなビルが壊れたじゃ
ないか」という言葉も、震災直後に雨のように降っ
てきたわけです。ただ、「そやからごめんなさい」
で終わったわけではなくて、室崎先生がずっと言い
続けておられるように「専門家としてしかできない
何かをせんといかんのや」というのが一番大事だっ
たのだろうと思います。
それが何だったのか、専門家が何ができたのかと
言葉で言うとものすごくオーバーに聞こえるのです
が、例えば皆さんも良くご存じの森崎さんという方
は建築の専門だったのですが、野田北部という地区
で区画整理事業が決定したときに、都市計画家のよ
うになってしまった建築家だとよく言われました。
たまたま自分が勉強してこられた、本当は専門外な
のですが、それでも何とか自分の仲間ですとか先輩
ですとかを駆使して区画整理というものに取り組ん
で、しかも住民をどういうふうに説得していくのか
ということを、その中で学んでいかれたと思うので
す。専門家でもその中で学んでいったことがたくさ
んあったということだと思います。
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Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
私自身のことでお話ししますと、例えば私たちが
事務所として使っていた場所が全壊してしまったと
きに、自分たちの建物だけを再建するのではなくて、
地域の中でどれだけ役に立つものに変えていけるの
かということをずっと考え続けたと思っています。
例えば、行政が発信する広報ですとか新聞での呼び
かけでも、ある意味では一般の方はそこに目が行き
ませんよね。わかっているのですが、文字にされる
と読んでもわからない、読むことすらできないとい
う時期だったと思うのです。それをある意味では
「これはこういうことを言っているのだ」とお伝え
するだけでも、専門家としての意味があったと思っ
ています。建て替えるにしても、こういう状況なら
こういうふうにすれば、例えば金銭的にも自分たち
の負担が軽くなるとか、町の中での暮らしやすい条
件が整えられるとか、そのような専門家の側から言
うと何でもないこと、自分たちの中で日常あること
でも、一般の方に置き換えるとそれは全然日常的で
はないわけです。その間の架け橋をどれだけ専門家
の人が自分たちのノウハウを伝えたのかということ
で、その町の復興の遅さや早さが決定付けられてし
まったような気がします。ですから、もっと自分の
持っている専門的な知識や専門的な仲間のエネルギ
ーのようなものを伝えていけなかったのかという反
省も、多分残っていると思います。
(山口) 田中さん、先程専門家、特に都市計画、
建築の先生方との交流のお話があったのですが、ま
ちづくりをしている立場から言うと、専門家との関
係はどんなふうにあったらより良いとお感じです
か。
(田中) やはり専門家が今まで町に下りてきてい
なかったと思うのです。ちょっと天川さんを批判す
るようなかたちになるのですが、今、我々の御菅地
区ではプレハブの家が非常に多いのです。ほとんど
が3階建てです。多分中は階段ばかりです。建築家
に頼んで建ててもらったら、木造で、もっと動線
(人の動き)を考え、例えば冷蔵庫とかタンスとか、
そういうものを上手に組み込んでもらえると思うの
です。そうすると例えば2800万円かかって3階建
てといっているのが2200万円くらいでできると思
うし、かなりすっきりしたものができると思うので
す。今建っているもので「本当にこれで良いのかな」
というものがものすごく現実にあるのです。
それはどういうことかと言いますと、「プレハブ
は3か月でできるよ」「2か月でできるよ」、あるい
は「設計屋さんに頼んだらものすごく高くつくよ」
という話でだまされているわけです。本当に良いの
は何かということを考える間も与えずに、どんどん
3階建てができているのです。いずれ高齢になって
きたときに3階まで人が上がれるかと言ったら、と
てもじゃないけれどもほとんどが狭い階段で、物を
上げるのにも一苦労しないといけないような階段ば
かりです。とてもじゃないけれどもこれは住宅じゃ
ないと思うのですが、いかんせん、町の設計屋さん
があまりにも今までお高くとまっていたというの
か、そういうところでおられたので、町の住民たち
は一般的に「何を言うとんねん。設計屋なんか入れ
たら高うつくわ」と一様に答えます。残念でなりま
せん。かわらがいけないと言われたら、かわら屋根
がほとんどないのです。いらかの波が全然ない、
「これでほんまにええんやろか、町としてええんや
ろか」と思うのです。これで全部建ってしまったら、
とてもじゃないけれども見られたものじゃないと思
います。
もう1つ言わせてもらうと、神戸の町にあれだけ
高層の住宅がどんどん建って本当にいいのか。我々
が子どもの時代には、ちょっと高台へ上がれば海が
見えたわけです。今は全く見えません。海の見えな
い町なんて、僕は信じられないです。本当にこれで
いいのかと思います。建築屋さんに猛省を促したい
くらいです。僕の家の御蔵ファイブという家のすぐ
隣に12階の受け皿があるのですが、6階から上の
お年寄りは、一度中に入るとなかなか外に出てきま
せん。めんどくさいのです。出てきたがらない。多
分閉じこもり現象が起こってくると思います。これ
からこういう問題がもっともっと出てくると思いま
す。
(山口) ありがとうございます。最初に会場から
のご発言は次の時間でと申し上げたのですが、今の
件で何か「違うよ」とか「そうだよ」ということも
含めて、専門家とボランティア、専門家と地域の関
係でコメントなりご意見のある方がいらっしゃいま
したら、ちょっと手を挙げていただけますか。いら
っしゃいませんか。
(*杉浦*) 私は震災時西宮におりましたが、*
仙台*の方に避難していました。現地の方々のお話
を伺って、やはり地域にいて何かやりたかったなと
切実に感じました。今ずっとパネリストの方のお話
をお聞きしまして、一番最後の田中先生のおっしゃ
ったように、今の復興住宅には非常に問題があるな
と感じております。これはアメリカがプレハブの3
階建てを売り込まんがために日本で3階住宅を受け
させたものであって、それが何か復興住宅に悪用さ
れてしまったような感じを私は受けております。そ
の3階建ての、土地がないから連棟住宅というのか、
そういうものがたくさん建って、下にガレージがつ
いて、どうしても2階、3階で生活せざるをえない。
高齢化社会、将来的にこれは問題が起こるだろうと
痛切に感じております。
それから、地元から離れたのが失敗だったなと思
ったのは、先程も天川先生がおっしゃった「どうし
ても残りたい」というのが私は一番初めには・・・、
しかしあのときの現状から見たらやむをえなかった
のかと思っております。ボランティア活動の中でそ
れぞれの分野で特徴を出してやるということが、ま
だボランティア組織ができていなかったものですか
ら、これからの課題として、どういう方向にボラン
ティアというものの組織づくりをしていけばいいの
かが大きな課題ではないかと、今朝からいろいろお
話を聞いていて感じました。以上です。
(山口) ありがとうございます。記録を取ってい
ますので、所属なりお住まいなりとお名前を教えて
いただけますか。
(*杉浦*) 個人ですが、今、京都の長岡京にお
ります*杉浦*と申します。
(山口) ありがとうございました。会場でほかに
ご意見のある方はいらっしゃいませんか。ご意見な
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Report 2001
り、「パネリストの考えと違うよ」とか「一緒だよ」
ということがありましたら。よろしいですか。どう
ぞ。
(*マツナガ*) 芦屋市からまいりました*マツ
ナガ*と申します。皆様の大変な熱心なるボランテ
ィア活動の話を、胸が締まる思いがしながらお聞き
いたしております。今だって、毎日思っていること
なのですが、あなた方がおっしゃっているようなそ
の思い、それは確かに震災のそのときからしばらく
は「物なんていらない」「命あって良かった」「みん
な助け合おう」「1個の物でも分け合いましょう」
「寒いですか」
「これ、いりませんか」というような、
本当の人間らしさ、これこそ本当の人間の姿である
のだろうなと思って、本当にうれしかったです。
私の家も全壊しまして、芦屋市の市民センターで
しばらく避難生活をしていましたときのことなので
すが、その中で弁護士さんのボランティア活動の
方々も印象に残りました。私のうれしかった印象と
申しますと、湯飲み茶わんです。今だって生きがい
として大切に残しております。女性の方がコンコン
とノックされてドアを開けてくださって、「何か困
っている物、ありませんか」「何か欲しい物、あり
ませんか」、その言葉でわっと泣いてしまいました。
本当なんです。紙コップでやっていたのです。5回
くらい使いますとふにゃっとなってしまいますが、
それでも大事に使っておりました。ぜいたくなこと
を言ってはいけないかな、でもこんなつぶれかかっ
た底の抜けた物を手で受けながら、お湯を、水を、
そういうような物を入れて飲む。怖いな、もう次は
ないだろうなと思いながらいたところにそういうお
声をいただいて、本当にうれしかったけれども、言
ってはいけないかなと思いながら「あの、湯飲み茶
わんが欲しいのですが、そんなのないですよね」と
おねだりしてみました。すると「ちょっと待ってて
ね。何個いりますか」と言ってくださったのです。
1個でもいただければみんなで家族で順番に使わせ
ていただけるのに、「何個いりますか」と言ってい
ただいた、その言葉でまた、2度泣いてしまいまし
た。「ちょっと待っててね」と言ってお行きになら
れました。私は何個とは言えなかったのですが、す
っとのぞいて、家族の分をそろえて、おまけにきゅ
うすまで、そしてお盆まで持ってきてくださったの
です。「もったいない。ほかにもっと困っている方
があるので、1個でいいです。ありがとうございま
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∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
す」と申し上げたのに、「いいのいいの、いいのよ」
と言ってくださった。本当にうれしかったです。
そのあとにもいろいろなこと、つらいことがいっ
ぱい重なって、主人が仮設で亡くなってしまいまし
た。震災のくたくたになった疲れで亡くなってしま
いました。どうしていいのか右往左往して、仮設か
ら仮設へやむをえず命令によって移らなければなら
ない。お隣の方と裏にいらっしゃる同じ避難者同士
の方でしたのに「奥さん、頑張らないといけないよ。
おかゆさん作ったから一緒に食べる?」と言って持
ってきてくださった方、それから「おりんごいただ
いたのよ。これ、半分食べる?」と言って持ってき
てくださった。本当にこれこそ、昔のそれこそドラ
マなどでよく見る、長屋の助け合いだと思いました。
今、そういうような気持ちが風化されつつありま
す。それを非常に残念に思います。早くそういう気
持ちがもう一度戻ってほしいという思いです。まだ
そういうことに携わってくださっている前にいらっ
しゃる皆様、本当にご苦労さまと申し上げたいです。
ありがとうございました。
(山口) 大変いいお話をしていただきまして、あ
りがとうございました。
このMemorial Conferenceは、前にも書いてあ
りますように震災の教訓を発信するということで、
風化させないということはもちろんあるわけでし
て、市民の皆さんのいろいろなご意見をいただきな
がら考えていきたいと催しております。どうもあり
がとうございました。
それではこちらにまたマイクをいただきまして、
荒井さんと田中さんとにお尋ねします。お2人は企
業の経営者でいらっしゃいます。経営者であると同
時に、ボランティアとして、あるいはボランタリー
な活動をしていらっしゃるわけですが、最初に細川
さんから少しご紹介があったように、新しい市民社
会を実現していきたいということで、いろいろなグ
ループが提言をしたり、あるいは実際に研究をした
り発表をしたりしています。地震を受けて、次にど
んな社会を期待するか、どんなことを期待するかと
いう話をいろいろなグループが詰めていくと、市民
の一人一人が自立をして、かつ連帯をして、自分た
ちで責任を持って物事を決めていくような社会が望
ましいのではないかというような声が、もうちょっ
とぼんやりした言い方ですが、出てきているわけで
す。そういう新しい市民社会というようなイメージ、
これはなかなか一言で言うのは難しいのですけれど
も、そういう活動と企業の経営者としていろいろと
活動しているお立場から見ると、そういうボランタ
リーなあるいは市民活動の動きというものをどんな
ふうに評価し、見ていらっしゃいますか。荒井さん
からお願いします。
(荒井) 先程、もう1つ前に質問された「企業の
経営者の視点から」ということで、やっと言う気に
なってきましたので、あちらの方に戻していいです
か。内容的には同じなのですが、少しだけお時間を
いただきます。
皆さん、こういう名刺がありますよね。テレビを
見ていて、こうやって折ってぱっと投げた、こうい
うシーンを思い出しますでしょうか。これは私の名
刺なのです。荒井産業機械という小さな有限会社で
すけれども、クレーンの付いたトラックを専門に売
っている会社です。実は、今日、私の会社はなくな
りました。これは事実です。ある先生が重たい話ほ
ど笑いながら軽く言うので、軽く言いますが、隣に
おられる兵庫商会の田中さんが非常にうらやまし
い。すばらしいな、頑張ったからだと思います。
私がここまで至る中にいろいろなことがあったの
ですが、「神戸が荒井を必要としている」、こう思っ
たことが2回ありました。最初は1月24日の震災
間もないとき、ポートアイランドの港島中学校とい
うところに、自分の会社のクレーンの付いたトラッ
クに温水シャワーをスチーム洗車機を改造して作っ
て、港島には銭湯がないという話を聞いて夜、持ち
込みました。徹夜で作りましたけれども、そのとき
に、さあ300人くらい並んだでしょうか。夕焼けの
中に湯けむりが上がりまして、感動しました。「お
お、これやな。わしを神戸が呼んでいたのは」。こ
のために私は呼ばれたのだと感動を覚えました。こ
れが震災ボランティアに入った原点だったと思いま
す。
それから今のひまわりのことがありました。「瓦
礫の町にひまわりを」。天川さんも今、同じような
ことをされて、いろいろなところでいろいろなこと
がありました。「はるかちゃんのひまわり」もそう
でした。それはそれですばらしいと思います。
実は今、本人がいないからあえていいますけれど
も、京都大学の防災研究所の林先生が、私に「あな
たがやっていることは園芸セラピー」と言われまし
た。「そうですか、ひまわりセラピーと言うんです
か」と。ひまわりを植えるというのは園芸という手
法なのですが、それから心をいやすという、「災害
があったときにヨーロッパなどでは花を植えてもら
って心をいやしてもらうという手法がある。あなた
方はそういうことをすでにやってしまっている。や
ってしまった。できた。すばらしい」、この一言が
私を変えました。「しまった」と思いながら、いつ
やめようかと思っていたのがやめられなくなりまし
て、「とんでもないことを言ってくれるな」「そこま
で言われたなら、ひまわりおじさんになろう」と、
ぐっと入りました。
会社のお金をつぎ込んだわけではないのですが、
あらゆるイベントとか種を作った、供給したとか、
そういうことで会社のコピーなどを片っ端から使っ
ていましたし、何よりもさかのぼると、これはざん
げなのですが、震災があったとき、うちは9割は建
設業者が相手で、どっと需要が出ました。そのとき
業者は、例えば関東へ行って車を仕入れてきて売っ
たり、北海道のレンタカーがうろうろしていたのを
よく皆さんご存じでしょう、ああいうことをしまし
た。私もそれをやったら非常にもうけられたのです
が、ところがやはり震災前からいろいろと地域との
つながりがあったし、知っている人がたくさんいた。
僕はインターネットではなく「あんたーネット」と
言っていますが、顔の見える関係でいろいろな助け
合いをしています。その方が頭に浮かんで、それが
できなかったのです。それで手元にあったひまわり
の種だけ、あと会社のできるのは知恵を絞った末、
ふろを作るということをしました。それが非常に受
けたために、半年間おふろを作っていました。
特に若宮小学校では、半年のうち、いろいろなこ
とがありました。思い出すことがたくさんあります。
例えば「ひまわり温泉放送です」と、夜「今からひ
まわり温泉を開業します」「これで終わります」と
いうことを続けていました。その中で「寒いな」と
思ったら「皆さん、今、外に雨が降っています。こ
れは、私もわからないけれども『木の芽起こし』と
いう雨で、『もう春だから、芽を開いて花よ咲けよ』
という雨なのです。それでは、どちら様もおやすみ
なさい」という放送を延々と毎日やっておりました。
3日ほどして、ある人が「あれは学校の先生のセリ
フではない」と言いました。実は先生に読んでもら
っていたのですが、「きっとひまわりおじさんが書
いているのだろう」「私たちはそのひまわり温泉放
送の終わりを合図に教室の電気を消しています」と
40
Report 2001
いうことがありました。感動して、冗談半分だと思
いながら、また同じように「今日は啓蟄といって、
私もよくわからないけれども土の中の虫がそろそろ
出てきて『春だ、春だ』と言うらしい。それではど
ちら様も、明日は洗濯日和でおやすみなさい」とい
う文章を書き、女の先生が読んで、見ていると教室
の 電 気 が 消 え て い く の で す 。「 よ か っ た な 」 と 。
時々言葉を失いますけれども、そのときもやはり感
動しました。思い出しながら言っていくうちに深く
入ってしましたが、そういうことをいろいろとやっ
ているうちに、自分自身がだんだんいやされながら、
深く入る。
もう1つ、少し元に戻しますが「皆さん、震災が
終わりましたね。神戸に何か新しい文化ができまし
たか。震災文化ができましたか」と言われたときに、
「これだよ」と言えるものが何かありますか。それ
ぞれに思うでしょう。でも、僕は言います。「もう
ちょっと待ってください。ひまわりが文化になりま
すよ」。感情を抑えているのですが、前に出てしま
ってうまく言えないのですけれども、そういうふう
にしたいと思っています。
2回目に神戸が私を必要としていると思ったの
は、神戸が記念事業を始め、感謝の花としてひまわ
りを選んだときでした。「これはやらないかんな。
多分これはおれを必要としている」。私はいつも勝
手に判断しますから「よし、じゃあちゃんとやろう」
と思いました。私のイベントがわりとうまくいくの
は、先に先に手を打つからです。例えば、今年種が
いるのだったら去年のうちに大きなひまわり畑を作
って種を作ります。ですから、「今年いるやろう」
という分だけたくさん植えていました。もちろん仲
間も手伝ってくれました。そんなことをしてやって
いました。
「ひまわり文化」というのは今までの文化とちょ
っと違うのです。切り口が違うのです。例えば、人
の流れを年代別にやったら、老人会、子供会、婦人
会などいろいろな会があります。ひまわりというの
は全部縦割りができるのです。「ひまわりで、子供
会の皆さんやりましょう」「老人会の皆さん、花を
植えましょう」ということができるのです。芸術で
もそうです。教育でもそうです。「ひまわりで音楽
会で回しましょうか」「できそうですね」、「花いっ
ぱい運動」「できますよ」、そういう一色主義、イエ
ローカルチャーか何か知らないですけれども、ひま
わりがかかわる文化だったら何でもやりましょうと
41
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
いうことです。山口さん、この一色文化というもの
が、これからいわゆる多様化する文化の新しい切り
口のかたちだと私は思うのです。ですから、そのあ
たりの切り口を変えるといくらでも新しい文化がで
きる。先程も言いましたように、私の悪い癖か良い
癖かわかりませんけれども「自分でやってみせる」
「汗をかく」「結果を出す」、そうしてから「皆さん
一緒にやりませんか」ということが、いつも自分の
癖になっています。これからもいろいろとやろうか
と思っています。
またさかのぼりますが、先程の企業がつぶれると
いう話をしておきます。そういうことでボランティ
アを一生懸命やりました。それだけでどうのという
ことではなかったのですが、社会の情勢が建築屋さ
んが食えるような時代ではなくなった、それ専門に
トラックを売っていたという状況の中で、自分の努
力不足も事実です。普通、倒産というのは不渡りを
出した状態です。つらいです。多分経験がないと思
います。私も初めてのケースです。1度目が1月
10日に、「片目をつぶる」というのですが、資金不
足で手形が落ちなくて、2度目が20日に、今度は
資金不足ではなくて、「両目をつぶる」といって、
いわゆる不渡り、その時点で一般的には倒産といわ
れます。私のうちの手形というのは20日、今日回
っています。資金は入れていません。多分、月曜日
に確定されます。いろいろと考えましたけれども、
転ぶことが想定できたので、「転んだら痛いだろう
な」と思って自分で転びました。弁護士さんに「今
あるったけの金はこれだけです。法的処理をお願い
します」ということで、1月5日に決心をしました。
しかし、その前にひまわり銀行がたくさんのひま
わりという資産を持っていました。実はこれは荒井
産業機械の企業のメセナ活動でやっていました。笹
山神戸市長に黄色いサンタクロースということで、
ひまわり銀行の全部の種をクリスマスプレゼントと
して寄付しました。それがきっと今年の夏、大きな
ひまわり畑になって咲いてくれるだろうと思いま
す。
今までいろいろなことをやってきましたけれど
も、「うれしいな、温かいな」と思ったことがあり
ます。みっともない話なのですが、1月5日からい
ろいろともめてもかなわないと思いまして、17日
まで私は身を隠すというか、少し遠いところへ行っ
ていました。「ボランティアの仲間にもたくさんの
仲間にもいろいろ言わないといけない、この事務局
にも言わないといけない」と思ったのですが、一切
言わずに、電話番号を全部変えました。そうしたら、
ありがたいというか、おせっかいの涙のうれしいこ
とがありました。17日にイベントがあるから帰っ
てきました。玄関に来たら、隣のおばさんが飛び出
してきました。「荒井さん、生きてたの!」と私の
手を握りました。「何で隣のおばさんが知っている
んやそんなこと。黙っていたはずや」と思っていた
ら「いや、実はね、昨日何か知らないけれども頭の
毛の白い人と若い人が2人来て、荒井さんの姿が見
えないのだけれど、隣の人は事情を知らんやろか
と」。2∼3軒尋ねて歩いておられました。だれと
は言いませんけれども、この会場にいるようです。
多分顔を赤らめた人だと思いますので伏せておきま
すけれども、本人は非常に心配して来てくれました。
うれしかったです。涙が出ました。でも「ああ、こ
れで隣近所に『荒井産業機械がつぶれた。この人は
倒産した』と知られてしまった」という思いをしな
がら今日臨んで、どうしようかと思いましたが、こ
こで思い切ってすっきりしゃべって、ざんげしてい
いのではないかと思いました。
私は今まで、一生懸命ひまわりを支えてきました。
これから1年間、半年、神戸のポートアイランドに
ひまわり畑を作る肥やしとなって、植えてみようと
思います。別に死ぬという意味ではなくて、汗を流
してみようと思います。もしそのあと自分が支えた
ひまわりが自分の支柱になってくれたら、きっとひ
まわり文化というものはきれいに出来上がって、震
災文化として、おそらくCS神戸さんにも負けない
ような、NGO恊働センターさんにも負けないよう
な、NPOの「ひまわり文化協会」のようなものが
できたらいいなと思っています。
上手にまとめられませんでしたけれども、本音で
言いました。これはうそではありません。笑ってい
ますけれども事実です。以上、もうつらいですの
で・・・。
(山口) ありがとうございました。コメントのし
ようがないお話を聞かせていただきました。
(荒井)
体験談です(笑)。
(山口) 田中さん、それでは同じ質問ですが、企
業の経営者側として、今の市民活動をご覧になって
いてどんなことをお感じになっていますか。
(田中) ちょっと今の話がショックで、明日は我
が身かなと身につまされました。
当初、やはり市民活動家というのは、ぼくらのよ
うに商売をやっている者、ずいぶんだまされた経験
のある商売をやっている者から見ましたら、自分の
理想を追いかけるばっかりに、他人が見えなかった
のではないかと思うのです。ずいぶん偽善者に食ら
わされているのだろうと思います。私も間接的に食
らわされていまして、「何でこれくらいのことが見
抜けなかったのかな」という気がするのです。荒井
さんの言葉で気付いたのですが、人が良いというこ
とは、一般的に言われていることなのですが、道徳
的価値判断ではないわけです。「周囲の者にとって
好都合な人間」という意味以外の何ものでもないよ
うな気がします。ですから時々、私もこの言葉を自
分に投げかけながらやっているのです。
今、神戸は非常に景気が悪い。長田の人口が13
万あって、一時8万8000人まで落ちて、今10万
5000人です。中身ですが、高齢化率は4分の1、
25%です。私の商売に直接つながっている自動車
修理工場が大体兵庫区と長田区に密集していまし
て、ここに人口が戻っていないのは致命的なのです。
もちろん、人のせいにしたらいけません。あくまで
も自分のせいにしないといけないと思いまして、去
年は収支が真っ赤だったのですが、あくまでも自分
のせいでそうなったと反省をしているわけです。
それはさておきまして、私はこれから活動を広げ
るために、やはりボランティア同士が手を組まない
といけないと思います。それから、これは個人でで
きる仕事、問題というように、できるだけ、先程山
口さんが言われました自立という話がありましたけ
れども、そういうかたちのものも必要だと思うので
す。個人個人はここまでやれる、そしてこれ以上は
地域住民が一体となって取り組もうじゃないか、そ
れ以上になると行政にやってもらわないといけな
い、この3つをやはり仕分けしないといけないと思
うのです。3段階でラップするところは当然あって
当たり前で、明確には分けられないところも当然あ
るだろうと思います。しかし、こういう基本的な共
通認識が大事ではないかと思います。
我々の町では、1つは生ゴミをたい肥化しようと
いうことをやりました。現実に、都市計画の公園用
地を貸してくれと言いました。都市計画局は「いや、
まだそれは公園として認められていないから待って
42
Report 2001
くれ」という話です。狭小宅地が多いので、あるい
は公営住宅の人たちは土をどこにも持っていくとこ
ろがないわけです。はたと困って、都市計画にどれ
だけ言ってもだめだ、それならば公園に1度かけあ
いに行ったらということで、公園に行ったら2つ返
事でOKなのです。やはり責め方を変えないといけ
ないと思います。硬直思想でいつも都市計画ばかり
つついても、なかなか答えは出てきません。少し攻
め方を変えれば、かなり融通がきくと思うのです。
攻め方の違いですが、例えば3回忌のときに精霊
流しをやったのです。127個の精霊を川に流した。
当初、環境局は「とてもじゃないけれど、そんなば
かなことはするな。昭和40年以来、川にゴミを流
さないという運動を君らはわかってないのか」とい
う話です。それは若いボランティアの人に行かせた
ので失敗したのかと思うのですが、その後僕がかけ
あいに行きまして、「おれ自身が川の中に入って取
ったるやないか。それでもあかんのか」とやりまし
たら、「そうしたら社長、中入ってくれるんやな。
まちがいなく入ってくれよ」ということで、一札は
入れなかったのですが、現実にできたのです。やは
り本気でやっていたら、だれかがきっと助けてくれ
ると思うのです。その本気になれるかなれないか、
このあたりが微妙なのですが、荒井さんを前に失礼
なのですが、商売の面ではまた別です、ボランティ
アの面でそういうことを感じております。
現実に今、地域のことは地域で支え合おうという
運動をやっております。年寄りはお互いに見守ろう、
どこの年寄りも自分の父親、母親として見守ろう、
子どもにいたってはみんなで育てようじゃないかと
いうこともやっております。だれかれなしに子ども
には声をかけるようにしています。「おはよう」、帰
ってきたら「おかえり」というようなかたちで声を
掛け合っています。私自身も震災後、小学校に結構
呼ばれます。今日も本当だったら午前中にあったの
ですが、こま回しをやります。こま回し1つ取って
も今の子どもたちはひもが巻けないのです。ほとん
どこまなんて扱っていません。ボランティアの青年
たちが来ても「おれも巻かれへんわ」という子が現
実にいるのです。いったいどうなっているのかと思
います。私は震災後、特に若い連中に「なるべく早
く帰って、子どもと一緒に飯食えよ」と言っていま
す。企業人として、企業の中に足1本で立っていた
ら不安定なのです。そうではなく、やはり地域にも
足を踏み入れないといけないし、なおかつ家庭にも
43
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
足を踏み入れて、3本足で立たないといけないと思
うのです。そうしないと安定しないと思いますし、
子どもの教育なんてさらさらできないと思います。
この前ラジオで、今幼稚園や保育園の子どもがま
まごと遊びができないという話を聞きました。母親
役のなり手がないそうです。それはなぜか。母親役
を無理にやらせると、もう指示と命令しか出てこな
い。「子ども役なんてさらさらいやや」、とにかく子
どもの役などといったら文句ばかり言われているか
ら、だれもやらない。父親役はどうなのかといった
ら「父親役なんてとんでもない」、親をあまり見て
いない。「朝早く出ていって、晩遅く帰ってきて、
ほとんど見てないから父親役なんてできない。問題
外や」と言うのです。「何をやりたいのや」「ペット
やりたい」「雨の日でもカッパ着せてもらって、リ
ボン着けてもらって」と言うのです。そんなばかな
話はありません。もうちょっと2本足でしっかり立
って、ものを見てもらわないといけないと思います。
ちょっと話がそれました。すみません。
(山口)
ありがとうございます。
(天川) 山口さん、すみません。ちょっとだけい
いですか。
(山口)
はいどうぞ。
(天川) 今、荒井さんが破った名刺を私にくださ
ったのですが、「次はおまえの番や」ということか
なとショックを受けてます(笑)。明日は我が身と
いうのは、田中さんだけではなく本当に私も一緒で
すが、大変だったと思います。荒井産業機械はなく
なって、それを私たちが支えることはできないと思
います。けれども、ひまわりの活動は支えられると
思います(拍手)。
(山口) ありがとうございました。もう少しいろ
いろとお話をしていただかないといけないのです
が・・・。
(荒井)
山口さん、ちょっと1つだけいいですか。
(山口)
どうぞどうぞ。
(荒井) みんなが非常に暗い気持ちで閉じてこの
まま終わると、みんなでそのまま集団自殺でもした
ら困るので(笑)、正直な話を言っておきます。
私はこの1月8日に55歳になりました。子ども
3人の最後の1人が今年大学を一応卒業できる予定
です。今まではやはり仕事、食うということに対し
て離れることができなかったのですが、これからは
家内と2人で「ボランティアを続けながらでも、そ
の日の飯が食えたらいいじゃないか」ということで、
そういう決心をしたということです。ありがとうご
ざいます(拍手)。
(山口) 荒井さんから大変ショッキングなお話を
聞きまして、天川さんがおっしゃるとおり私たちは
会社をどうすることもできないわけですが、ただ荒
井さんの運動を支えていく、一緒にやっていくとい
うことは、これからもご一緒できるかと思っていま
す。
今日は短い時間で5人の方にいらしていただいて
お話を伺って、お感じになったと思うのですが、そ
れぞれものすごいエピソードというかストーリーを
持っていらっしゃるわけです。お一人お一人が1時
間でも2時間でも3時間でも話ができるような中身
を持っていらっしゃるのですが、こま切れで良いと
こ取りといいましょうか、エッセンスだけを話して
いただいたので、お話をしていただいた方も、会場
の皆さんも少し消化不足かなと感じております。そ
れは私の司会のまずさということで、お許しをいた
だきたいと思います。
もともとまとめるようなパネル討議でもありませ
んのでまとめませんが、今、お話を伺って一緒に会
場の皆さんと1つ感じたと思うのですが、それぞれ
ばらばらな立場といいましょうか、地震の前はそれ
ぞれ何の関係もなかった立場の人が、そういう多様
性の中から震災の救援や支援ということで入ってこ
られて、今ぐっとまとまって、そしてまた次の多様
性のところへずっと展開をしようかというかたちに
なっているのではないかという気がしたわけです。
この展開することが荒井さんの言葉を借りれば「震
災文化」というものにつながるのでしょうし、ある
いは一人一人の自立だとか、新しい活動というもの
にもつながるというふうに思いながら伺ってきまし
た。このあとオーケストラの演奏を聴いて、さらに
最後のセッションで少しまとめの話が皆さんと一緒
にできるかと思っておりますので、ご期待をいただ
きたいと思います。
このセッションはこれで終わらせていただきま
す。どうもありがとうございました(拍手)。
(司会) どうもありがとうございました。さまざ
まな体験を通して、感じたもの、得た事柄などをお
話しいただきました。お話を伺っておりまして、ボ
ランティアというかたちでお話しすると、7年目の
今だから私たちにできることはまだまだあるのだな
と感じました。皆様はいかがでしたでしょうか。パ
ネリストの皆さん、どうもありがとうございました。
ご参加いただきました皆さんに、大きな拍手をもっ
てお礼とさせていただきます。どうもありがとうご
ざいました(拍手)。
それではご退場くださいませ。被災地NGO恊働
センターの細川裕子さん、どうもありがとうござい
ました。特定非営利活動法人コミュニティ・サポー
トセンター神戸の榎本まなさん、ありがとうござい
ました。きんもくせいの天川佳美さん、ありがとう
ございました。ひまわり夢企画の荒井勣さんです。
どうもありがとうございました。そして兵庫商会、
田中保三さんです。そして、コーディネータはラジ
オ関西の山口一史さんでした。どうもありがとうご
ざいました(拍手)。
44
Report 2001
さて、このあとはしばらくの間、すてきな演奏を
お聴きいただきたいと思います。Memorial
Conferenceではもうおなじみになりました、ニュ
ーフィルハーモニー・ジュニアオーケストラの皆さ
んの演奏なのですが、準備が整いますまで少しお時
間をいただきます。準備が整いしだい始めさせてい
ただきますので、よろしくお願いいたします。準備
に2∼3分のお時間をいただきます。その間、ご休
憩いただいても結構です。ただ、準備が整いしだい
始めさせていただきますので、ご了承くださいませ。
このあとはすてきなオーケストラの生の演奏をお楽
しみいただきます。
(司会) さあ、準備の方もだんだん整ってまいり
ました。どうぞお席の方へお座りくださいませ。間
もなく始めさせていただきます。今日はこの
Memorial Conferenceのテーマ曲であります
「DISASTER」を作曲してくださいました、井上尭
之さんも生でご出演くださるということですので、
どうぞ楽しみになさってください。
間もなく、ニューフィルハーモニー・ジュニアオ
ーケストラの皆さんによる演奏が始まります。どう
ぞお席の方へお戻りくださいませ。今日演奏してく
ださいます曲は、コレルリの「合奏協奏曲」と井上
尭之さん作曲の「DISASTER」、この2曲をお聴き
いただきます。間もなく演奏してくださいます皆さ
んがご入場されますので、しばらくお待ちください
ませ。
(司会) 皆様、大変長らくお待たせいたしました。
ニューフィルハーモニー・ジュニアオーケストラの
皆さんの演奏をお楽しみいただきます。
このニューフィルハーモニー・ジュニアオーケス
トラは、神戸市の東灘区を中心に活動しているオー
ケストラで小学生から大学生で編成してます。曲は
とてもお子さんや学生さんがメンバーとは思えない
力強い音楽、響きがありまして、国内はもちろん、
国際的にも数々の音楽交流を続けていらっしゃいま
す。ウィーンフィルのメンバーと一緒に演奏された
経験のある方もいらっしゃるそうです。団員の皆さ
んもどんどん力を付けてきていると音楽評論家の間
でも温かいメッセージをいただいている、そんな注
目のオーケストラです。
今日は2曲演奏していただきます。演奏していた
だく曲の中には、去年生まれましたこのMemorial
45
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
Conferenceのテーマ曲であります、井上尭之さん
作曲の「DISASTER」があります。この「DISASTER」は、関西で初めて今日ここで演奏されるとい
うことですので、楽しみになさってください。作曲
されました井上尭之さんにも今日はお越しいただい
ております(拍手)。ありがとうございます。この
日のために神戸に来てくださいました。共演してく
ださいます。どうぞお楽しみに。
準備が整ったようでございます。ニューフィルハ
ーモニー・ジュニアオーケストラの演奏、指揮は武
田博之さんでお送りします。曲目はコレルリの「合
奏協奏曲」と、井上尭之さん作曲の「DISASTER」
です。どうぞ。
(司会) どうもありがとうございます。盛大なる
拍手をお送りくださいませ(拍手)。
本日「DISASTER」を作曲してくださり、演奏
してくださいました井上尭之さんと指揮の武田博之
さんに、感謝の気持ちを込めまして、お花が届いて
おります。どうもありがとうございました。すてき
な演奏をお聴かせくださいましたお2人に、今一度
盛大なる拍手をお願いいたします(拍手)。ありが
とうございました。そして、演奏してくださいまし
た小学生から大学生までの皆さんです。ニューフィ
ルハーモニー・ジュニアオーケストラの皆さんに
も、今一度盛大なる拍手でお送りくださいませ(拍
手)。皆さん、どうもありがとうございました。
都大学大学院工学研究科教授でいらっしゃいます土
岐憲三さんにお願いしております。どうぞよろしく
お願いいたします(拍手)。そして対談のお相手は、
先程パネルディスカッションのコーディネータを務
めていただきました、ラジオ関西の山口一史さんで
す。それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
●ニューフィルハーモニー・
ジュニアオーケストラ 演奏会
指揮
武田博之氏
井上氏と武田氏
いかがでしたでしょうか。すてきな演奏をお聴か
せくださいました。本当にありがとうございます。
こうやって演奏してくださいます方を見ていただき
ますと、こんな小さなお嬢さんまでいらっしゃいま
した。大きなお兄ちゃんから小さなお嬢さんまで、
ありがとうございました。東灘区を中心に活動して
いらっしゃる、ニューフィルハーモニー・ジュニア
オーケストラの皆さんでした。どうもありがとうご
ざいました。
さて、このあとは最後のプログラムになります。
「対談・震災6年目のまとめと提言」ということで、
今日のこのシンポジウムを振り返りながら、パネル
ディスカッションを振り返りながらお送りしたいと
思います。
(司会) それではご案内申し上げます。「対談・震
災6年目のまとめと提言」、最後のプログラムです。
毎年このコーナーの司会をお願いしております、京
46
Report 2001
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
パネルディスカッション 2
「対談・震災6年目のまとめと提言」
土岐憲三
京都大学大学院 工学研究科
PROFILE
∼プロフィール∼
とき けんぞう
・1938年 8月 香川県生まれ
・1961年 3月 京都大学工学部土木工学科卒業
・1966年 3月 京都大学大学院工学研究科博士課程修了
・1966年 4月 京都大学助教授(工学部、防災研究所)
・1976年 4月 京都大学教授(防災研究所)
・1993年 8月 同上(工学研究科)
・1995年 4月 ∼ 1997年 3月 京都大学評議員
・1996年 4月 ∼ 1998年 3月 東京大学教授(工学系研究科・併任)
・1997年12月 ∼ 1999年12月 京都大学 大学院工学研究科長、工学部長 現在に至る
・地震工学専攻、京都大学工学博士
日本学術会議研究連絡委員(災害工学、基礎学)、日本土木学会理事及び副会長、
Soil Dynamics and Earthquake Engineering 編集委員、国際連合上級科学顧問、
世界地震工学会日本代表、日本自然災害学会会長などを歴任
・土木学会論文賞奨励受賞、土木学会論文賞受賞、国土庁長官表彰、通商産業大臣表彰.
・著書に「構造物の耐震解析」、ほか共著書6編.
山口一史
ラジオ関西
PROFILE
∼プロフィール∼
やまぐち かずふみ
・1941年 神戸生まれ。64年神戸新聞社入社。
・経済部、東京編集部、大阪編集部、整理部などで勤務。
・経済部長、論説委員、情報科学研究所長、神戸新聞文化財団常務理事な どを経てラジオ関西へ。99年から社長。
・地域おこしや地域づくりをテーマに取材を続けていたが、震災後は、被 災地のくらしの復興やボランティア活動、コミュニティービジネスなど に強い関心を持っている。
(山口)
土岐先生、よろしくお願いいたします。
(土岐)
こちらこそよろしく。
(山口) このセッションは、土岐先生がホストと
いうかここの亭主であるわけですけれども、先程の
お話の続きで、前半は私の方からご質問といいまし
ょうか、お尋ねをする格好で進めていきまして、後
半は先程約束しましたので会場の皆さんにいろいろ
ご意見を伺う形で、進めていきたいと思います。
最初に、午前中、16人の方からいろいろなお話
47
があったのですけれども、あれをお聞きになって、
ボランティアについてどんな印象をお持ちになりま
したか。
(土岐) そうですね。印象というよりは、実は私
はこのボランティアという事柄については、以前か
らあまり語る資格はないと思っているのです(笑)。
実行委員長をしながらそういうテーマを選ぶのは何
事かということになるのですが、私は名ばかりであ
りまして、ほとんどが事務局をやっていただいてい
る河田、林両教授にやっていただいています。弁解
になりましたが、ボランティアということに対して
語る資格がないと申し上げているのは、実は私は日
本人にはボランティアというものはなじまないので
はないかと思っていたのです。
自分の体験なのですが、1976年だったと思いま
すが、イタリアのベニスの少し北の方、オーストリ
アの国境に近いフリウリというところで地震が起こ
りまして、1000人あまりの人命が失われました。
そのときに、被災の状況を、構造物がどうだという
ような種類の見地からでしかありませんでしたけれ
ども、調査に行きました。そのときに出会ったのが
イタリア人の、今でいうボランティアの人でした。
どういう方かといいますと、私どもはイタリア語が
できません。かろうじて英語しかできない。向こう
は日本語ができないし、フリウリといってイタリア
の田舎の町ですから、英語を話す人もほとんどいな
い。私どもはいわば耳の聞こえない状態で行ってい
るわけです。それでは調査にも何もならないわけで
すが、現地の災害対策本部のような所へ行ったとこ
ろ、何人かの少し年がいった若者がおりまして、そ
の人たちがたまたま私たちに英語で話しかけてきま
した。「何しに来たのだ」ということになりまして、
これこれしかじかだと言うと、「じゃあ困っている
だろう。自分は英語ができる。中学校の英語の先生
をしているので、自分が通訳をしてやろう」という
ことになりました。その先生はもちろん自分の授業
があるわけで、授業が終わったら駆けつけてくる、
その代わりに自分が授業をしている間は自分の友達
を手配するからということで、3人ほどの仲間でし
たけれども、交替でだれかが私どもに付いてくれて、
常に通訳をしてくれたのです。
実は私は初めての経験でしたから、「なぜそんな
ことをするのか」と尋ねると、「地域の多くの人た
ちが人命を失った。自分は幸いにも被害を受けなか
った。だから何かのお手伝いをできるならばと思っ
て対策本部に来ていたのだ」、そして「自分たちに
しかできないことはより意義が深いだろうと思って
いたところ、おまえたちに出会ったから、自分たち
の最も得意とするところであるから助けてやろう」
ということでした。「そうか、こういうのがボラン
ティアか」と、初めて私は自分の体験として持った
わけでありました。
そのときに「はたしてこういう考え方をする人間
は日本にいるのかな」と思って、しばらくは考え込
んでおりました。今ではまちがっていたと思ってい
ますが、こういう種類の考え方をするのは、ひょっ
としたらクリスチャンの宗教に根差しているのかな
と当時は思っていました。ですから、私はどうもそ
ういうものは日本人にはなじまないと思っていまし
た。その後、またほかの国々で地震が起こったとき
に出掛けてみましても、直接そういうサービスを受
けたわけではありませんが、そういうボランティア
というものを目にして、どうも日本では違うのかな
と思っていました。
ところが神戸の地震で、皆さんご存じのように大
変多くの人々が、それもいろいろな姿でボランティ
ア活動をされたということを、自分の目でも見まし
たし、あるいは今日のようなお話でまた新たに勉強
したこともありました。そして、どうもこれは日本
人にできないと思っていた私の考えがまちがってい
たのだと気付いたのですが、そうすると次なる疑問
が私にわいてきまして、いったいボランティアとか
ボランティア活動というものはどこに根差している
のかなということが、まだ十分には解けきっていな
いところなのです。
今日のお話を伺っていましても、だれかが困って
いるのを見ていて、やむにやまれないというボラン
ティア活動もあります。前後の見境もなく、自分が
どんな犠牲を払うかも考えないで、とにかく放って
おけないというボランティア活動もあるように思い
ます。もう一方は、意義の高い低いを言っているつ
もりはありませんけれども、今度は自分の方から何
かをしたい、遠くの方でいろいろなことが起こって
いる、そのときに自分が何かをしたい、言葉を選ん
で言わないといけないのですが、何か自分のために
ボランティア活動をしているというところもあるよ
うに思うのです。これは決して非難する意味ではあ
りません。なぜかといいますと、今日のように、あ
るレベルまでは日々の暮らしもほぼ満足のいく状態
になった、あるいは社会全体が豊かになった、ある
いは社会全体の年齢も高くなってきたということ
で、いろいろなところで余裕ができてきますと、人
間は自分のことだけを考えていればいいのではなく
て、日ごろから何か人の役に立ちたいだとか、ある
いは何十年間人間として社会にお世話になった、何
らかのかたちで還元しないといけない、お返しした
いという気持ちがどこかみんなの底流にあるのだと
思うのです。それが災害というときに、トリガーに
なる、きっかけになるだけではないかと思うのです。
ですから防災ボランティアというけれども、災害
48
Report 2001
のときだけに出てくるのではなく、底流としてある
ものが一気に集まるいいきっかけにしかすぎないの
ではないか。どうもそこなのかな、ボランティアと
いうものが災害のときに出てくるのは、どうもそう
ではないか。常日ごろ人の役に立ちたいという思い
は結局みんなが持っているのではないかと、私は何
かそういうふうにだんだんと思っていったのです
が、今日のお話を伺って、さらにそのあたりかなと
いう思いに今至っているところなのです。
(山口) 先生がおっしゃったことに1つだけ付け
加えさせていただくと、今日の作文16編をお聞き
していて、兵庫県が進めている「心豊かな人づくり
500人委員会」という組織に入っていたからとか、
京都で生活協同組合の活動をしていたからとか、あ
るいはボランティアの登録をしていたからとか、そ
ういう地域コミュニティではない、ある種のクラブ
コミュニティなところに加わっていたことも、1つ
引き金を強く引く力になったのではないかという気
がしたのですが。そういうどこに根差しているかと
いうことと、根差していたものがどういうふうに発
露できるかというところは、一人一人いろいろ違う
のでしょうね。あまりここで「こうだ」というふう
に押さえつけるのもおかしいですね。
(土岐) 決める必要はさらさらないと思います。
私が疑問に思っていたことを自分で考えているよう
に、皆さんもそれぞれお考えになればいいことだし、
それがどんなかたちで現れるかはそのときそのとき
で、災害だけではないと思うのです。ほかのところ
で現れる、今後ボランティアという活動をする人も、
あるいは今までしなかったけれどもそれを見聞きし
た人で、どこかで触発された人が、今度は災害でな
いところでそういう活動を始められる人も出てくる
かもしれません。ですから、あまり限定しないで考
えた方がいいと思います。
(山口) 最近、自然災害が起こるたびに、ボラン
ティアがこんなに集まって活動したとか、逆にうま
く情報が伝わらなくて集まらなかったという話が新
聞などに報道されるのですけれども、阪神大震災よ
りも前の段階で、行政の防災計画の中にボランティ
アというものはどういうふうに位置付けられたので
すか。
49
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
(土岐) 私は関西のいろいろな自治体の防災関係
の委員などをいくつかしていますし、過去にもあり
ますが、神戸の地震以前に、ボランティアあるいは
ボランティア活動ということが表の言葉として出て
きたことはなかったと思います。どこかに1∼2行
くらいは書いてあったのかもしれませんが、それは
要するに「書いてあった」というだけの話であって、
実態のあるものとしてとらえられたという認識は、
私はなかったように思います。
神戸の地震以降でも、いろいろな自治体が地域防
災計画というようなことを書き換えたりしています
が、その中でも明確なかたちでボランティアをどう
とらえるとか、どう把握するとか、どう対処すると
かいうことをきちんとやっているところは、そんな
にあるのでしょうか。そういう目で見直していませ
んのでまちがっているかもしれませんが、私はそん
なにきちんとはやっていないのではないかと思うの
です。
先程の議論を伺いながら、少し頭が整理できたこ
とは、私はこういうふうに思っているのです。先程
はボランティアの定義の話ですが、今度は意義です
ね。防災の問題、災害の問題というのは、結局、最
終的には行政が直接手を下すことなのです。基本的
には。行政がここにあるとしましょう。そうすると
行政の災害の問題を、技術でもって支える分野があ
るわけですね。技術の分野とそれをさらに支える研
究の分野があるわけです。その行政と研究の間とい
うものがうまくつながっていないところがあるので
す。災害が起これば、行政の人は研究や技術からの
発信がないと言うし、研究者の方は自分たちはいろ
いろなことを研究して講評などを発表しても、行政
の人は理解しないと、ひどいケンカをするわけでは
ありませんが、お互いそういう不満を持っているの
です。そのあいだをつなぐ人がいない。
これはまたあとで言うかもしれませんが、一方、
この行政と住民とがあるわけです。その住民と行政
の間をつないでいるのが、どうやらこれはボランテ
ィアの人たち、ボランティア活動だろうと思うので
す。行政では、どうしたって細かいところで目の行
き届かないところが出てきます。行政としてどうし
てもやらなければならないプライオリティの高い仕
事もあるし、行政から見たらプライオリティはそれ
ほど高くないけれども、住民から見れば大変大きな
問題がある、そこのところをつないだり、潤滑剤の
役目を果たしているのが、結局ボランティア活動な
のだろうなと思います。
それに引き替え、この行政と技術や学問との間を
つなぐ、これはもっぱら私どもの分野のことなので
すが、そのインターフェースが今のところないので
す。ですから私は、我々の技術や研究分野の者が持
たないインターフェース、行政と住民とのインター
フェース、これがボランティアなのかなというふう
に考えると、自分の頭が非常にすっきりします。そ
ういうことでとらえていけば、今後どうすればいい
のか、あるいはまた、私どものような行政と研究の
間のインターフェースを作りあげなければいけない
のですが、そのときにこのボランティア活動のあり
方というものを学ぶことができるのかなということ
も、今朝から話を伺いながら考えているのです。で
すから、私は本当は今日勉強しているので、ここで
したり顔で話をするのはあまり適当だと思っていな
いのです。
(山口) 今のお話でいきますと、技術や研究の領
域と行政との間というのは、確かに阪神の地震の前
はそういう状態だったと思うのですが、地震以降、
むしろ行政も積極的に情報が欲しいとか、指導が欲
しいとか、助言が欲しいというふうにはなってきて
いるのでしょうか。
(土岐)
そうは思いません。
(山口)
そうですか。
(土岐) 私は研究や技術の分野に属する人間では
ありますが、それでも多少なりとも行政などに顔を
向けた人間だと思っているのですが。その立場で考
えても両者の間のリンクは非常によろしくない。私
はこれは、私どもの方の世界に属する人間の責任だ
と思っているのです。行政の責任だとは思ってない。
なぜかというと、災害にかかわる技術や研究の事柄
というのは非常に専門的な話で、長年の蓄積がある
わけです。そして一人一人が非常に狭い分野で高い
ところを目指してやっているわけです。その分野を
行政の担当者に勉強してやってくださいと言って
も、それはどだい無理な話なのです。行政の人はそ
こに何十年といる人ばかりではないし、ある程度の
ローテーションだってあるし、できるわけがありま
せん。ですからそのところの技術や研究の成果を防
災の行政に生かすには、研究や技術の世界の人間が
こちらを向いて、行政の方へ入り込んで、そこの人
と一緒に何かをやらなければいけない。そのために
は、人の交流だって本当はいるわけです。例えばの
話ですが、大学にいる人間が行政の中に3年とか5
年とか身を置いて、そして自分の蓄積を吐き出すと
共に、そこで行政が何を必要としているのかをまた
勉強してきて、また自分の仕事をすればいい。そう
いうリンクが全然ない。また、行政の人が研究する
場に来る、これは逆は難しいかもしれませんが、と
にかくそういうリンクがないと、それぞれが独立し
てやっているわけで、せっかくの蓄積が実際の場に
生かされていないと思います。
こういうことを言うと誤解されるのですが、全く
されていないのかというと決してそうではないので
すけれども、極めて特殊な例でしかない。行政では
なくて、産業界、企業などが自分たちのプロジェク
トにおいて地震に対する対策、安全性を確保しよう
というときには、割合にリンクがうまくいくのです。
しかし行政との話になってきた場合には、なかなか
うまくいっていないように思います。これは全体と
しての話をしているので、部分的には非常に密接に
行われている分野もありましょうし、そういう意識
を持っていろいろな行動をしている人たちもたくさ
んいます。大学の人間といっても、今日のこのカン
ファレンスにかかわっているような人たちは、もち
ろんそういうマインドを持っていますから大丈夫な
のですが、そうでない人も多くいるということが非
常に気がかりなのです。
そういう点から見ると、住民と行政との間のイン
ターフェースとしてのボランティア活動、あるいは
そういうことに意を尽くしている人々を見るのは、
非常に私どもとしてはうらやましいところです。
(山口) 先程のパネル討議でも少し話題があった
のですが、住民と行政の間に専門家、都市計画であ
ったり医療であったりいろいろな立場の方がいらっ
しゃるのですが、専門家の役割が今回ほど強調され
たり、評価されたり、焦点が合ったことはなかった
のではないかという気がします。そういう行政と研
究の間のインターフェースを、少し遠回りですが、
住民と行政の間のインターフェースとして専門家が
役立っていただくということから解決していく道は
ないのでしょうか。
(土岐)
おっしゃるとおりです。それをしなけれ
50
Report 2001
ばいけないのですが、例えば話が偏りすぎる心配が
あって、お話しすると誤解があるかもしれませんが、
私は地震災害あるいは地震工学という分野を何十年
か研究してきた者で、その立場の人間で言いますと、
神戸の地震が起こるまでは、「内陸の地震は1,000
年に1回とかそんなものだから、その影響はいいん
じゃないか。それよりは東海沖とか土佐沖で起こる
ような巨大地震を対象にすればいい」、一言でいえ
ばそういう考えで来たわけです。考えで決まるので
はなくて、ある種の科学的な論拠があるわけなので
すが、ところが神戸の地震を経験しますと、
1,000年に1回であったとしても、1,000年に1
回というのは、誤解を受けるのですが、これは
1,000年先しか起こらないと皆さんはすぐ勝手に
思ってしまうのです。違うのです。1,000年に1
回ということは、1,000年先の確率と来年の確率
は同じなのです。999年目に起こるのと、2年先に
起こるのと、確率は似たようなものなのです。つま
り、1,000年に1回ということは500年目くらい
に起こる確率が一番高いと思わなくてはいけないの
ですが、そこでそもそも皆さんが勝手に解釈してし
まう。話が飛んでしまいましたけれども、そのよう
に、1,000年に1回ということでも、自分の住ん
でいる所やすぐそばで地震が起これば命がなくなる
かもしれない、何千人、下手すると何万人の命がな
くなるのだったら、やはりそこに断層があり地震が
起こる可能性があったら、それをまず考えるべきで
はないかというふうに、私などはそれまでとは全く
違った考えにもう変わってしまったのです。
そういう考えを、いろいろなところで自分たちの
仲間内で話をして、議論を重ねていますと、だんだ
んそういう人が増えてきました。まちがいなくそう
なっています。ですから、先程、企業のプロジェク
トと申しましたが、例えば仮に大きな橋を造りまし
ょうといったときに、断層がすぐそばにあれば「そ
の断層が動いたときに橋が安全かどうか、これを検
討します」、あるいは発電所を造るというときに
「じゃあどうすればよろしいでしょう」ということ
で、我々と議論が始まるわけです。そして今日の最
も進んだ技術や研究の成果を取り込んで、安全か否
かということをきちんとやるわけです。
ところが、そういう考えがだんだん広まっている
にもかかわらず、断層があることを前提として、例
えば建物の建築の基準法を変えるかといったら、変
えないのです。まだ変えるに至っていないのです。
51
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
私などはどう考えてもそうすべきだと思っていま
す。神戸の地震の経験というものを契機にして、専
門家の見方がいろいろと変わってきているわけで
す。ところがその専門家の見方、考え方というのは、
行政、私は地元の神戸や兵庫県のことを言っている
のではなく、日本中あるいは国の話をしているわけ
ですが、そういうところでの考え方は変わっていな
いし、そういう議論をしようということが、ゼロで
はありませんが、まだ十分には行われていません。
そういう意味で行政と研究、技術の分野のリンクは
密接ではない、むしろ企業などの方がより積極的で
すねと申し上げているのです。
ですから、それはだれが悪いのかということにな
っても、悪いところを糾弾する必要はないのですが、
じゃあどうすればいいのか。やはりいろいろな物事
を変えようとするときには多くの人間がかかわらな
いと、少数の人間が声高に言ってもなかなかだめな
のです。ボランティアでも、先程の話でもありまし
たように、神戸では140万人とおっしゃったかな、
要するに大変な数の人が何がしかのアクションを起
こし、行動を起こすことで、何がしかの影響を持つ
わけなのです。ですからそういう観点からいくと、
私は行政と住民の間の方がまだいろいろなことが密
接に動いていて、こちらの方はまだだな、専門家の
活躍、活動は遅れているなという印象を持っていま
す。先程ここでパネル討論しておられましたね。専
門家の話が出たときに「ああそうだ、これは我が方
はだいぶ遅れている」というふうに思っていたので
す。
どうも私ひとりでしゃべっていて、いけませんね
(笑)。対談にならないですね。
(山口) またその点は会場の方からもご意見をい
ただかないといけないと思っているのですが、ボラ
ンティアに話を戻しますと、震災が起こって、今お
っしゃったように130万とか140万という方々が
おられたわけですね。大半の方はもちろん引き揚げ
たわけですが、その当時はこんなに支援活動が長期
化するなんて、だれも思っていないのです。それが
もう6年たってもまだいろいろなことがあるという
ことで、もう防災計画という枠を越えて、ボランテ
ィアというものをもう一度考え直すといいますか、
押さえ直す作業も必要なのではないかという気がす
るのですが、その辺はどうなのでしょうか。
(土岐) それも、これは決して山口さんと私の出
来レースをやっているわけではなくて、たまたま先
程、皆さんのお話を聞きながら私の頭に浮かんだこ
とをうまい具合に聞いていただいたのですが、特に
先程のパネリストでいらっしゃった方々は、長期に
わたってこういう活動をなさっているわけですが、
あのように長きにわたってこういう活動をしておら
れる方は、ほかの方々には想像もつかないような大
変大きな蓄積を持っているのです。ところがその活
動の中身というのは、神戸なら神戸の地震の起こっ
たこの地域にかなり限定されているのではないかと
いう気がしているのです。
例えば、朝の作文で、岩手山の方へ出ていってシ
ミュレーションをしたという若い女性がいましたけ
れども、あれは例外的な話ではないかと思うのです。
私は彼女の話を聞いていて「そうなんだ」と思った
のです。何を「そうなんだ」と思ったかというと、
長期にわたって、この神戸なりこの地域でボランテ
ィア活動の何たるか、どうすればいいといういろい
ろなノウハウを持っている人たちがいるわけです。
そういう人たちが、このあたりで活動するだけでは
なくて、私はぜひもっと日本中に散っていっていた
だいて、できないのだろうかと思うわけです。要す
るにキャラバンのようなことをやっていただいて、
災害が起こったときのボランティアのありようだと
か、活動とか、あるいはそのボランティアの人々と
どういうふうに行政が一緒に働くのだというような
ことを、これから災害を受ける可能性のある所に伝
達すべき、「すべき」という言葉はいけないのかも
しれませんが、伝達してもらうことが大変大きなプ
ラスになると思うのです。
そういう蓄積はよその地域、よその自治体にはな
いのですから。ですからその人たちにぜひ伝えて、
そしてその人たちに演習をやってもらわないといけ
ない。ただ知識として頭にインプットしただけ、あ
るいは物を読んだだけでは本物の役には立たない、
現実に災害が起こった状況のシミュレーションをや
らないといけないのです。先程の岩手県に出ていっ
た彼女は非常に不満だと言っていましたけれども、
地元の人ははなから起こると思ってないわけです。
ですから、初めはだめなのでしょうけれども、それ
を実際に繰り返し繰り返し演習をしなければ、実際
に起こったときに役に立つわけはない。これは今の
ボランティアの話に限らず防災の問題全般にそうで
して、だれかがデスクワークでいろいろなシミュレ
ーションをしても、実際に起こったときには絶対に
役には立たない。
これは多分言葉が過ぎると思うのですが、軍隊な
どが年中日夜体を動かし、頭を使って訓練している
のは万が一のためにやっているわけで、それと同じ
ようなことを防災の問題だってやらないと絶対に役
に立たないということは、私は長年いろいろなとこ
ろで言い続けてきているのですが、実際見ていてそ
うではないですね。1年に1回演習して、それでお
しまいのような話です。ですから、実際に危機的な
状況が起こったと想定して、年中それをシミュレー
ションなりトレーニングしておかないと、いわゆる
危機管理などというのはうそっぱちに決まっている
と私は思うのです。危機管理というのは、要するに
想像もしていないことが起こる、それに対してどう
対処するかなのですから、前もってわかっているよ
うなこと、あるいは頭でこんなことが起こったらど
うしようかというような、思えることをやってみて
もしょうがないのです。思わぬことが起こる、それ
に対してどう対処するかなのですから。
ですから結局はいろいろな状況設定をして、思わ
ぬことが起こるようなシミュレーションをやらない
と私はいけないと思うのです。これも年来言っても
あまり実行されていないのですが、防災の問題、あ
るいは災害の訓練といったようなものは、コンピュ
ータシミュレーションのような、コンピュータゲー
ムのようなことをやるべきだと思うのです。例えば
軍隊が机上訓練をしますね。作戦室でもって船をこ
う動かして、戦車を動かしたりということをしなが
ら、「あ、ここに弱点があった」とか、いろいろな
ことがわかってくるわけで、昔だからそういうこと
をやっていたのでしょう。でも今だったらコンピュ
ータでいろいろなシミュレーションができるわけで
すから、ランダムにいろいろな状況設定をしたら、
52
Report 2001
思わぬところで「あ、こんなところにこんな状況が
出てくる。これは頭の中で想定していなかったこと
だ。ああそうだ、ここが抜かっていたなあ」という
ことがわかってくるわけで、そういうシミュレーシ
ョンを年中しないと、私は危機管理だとか突発現象
に対処などと言ってもお題目にすぎない、実際の役
に立たないだろうと思っているのです。
ですからぜひこのボランティアの問題について
も、そういう経験豊かな方々が、地域で活動するだ
けではなく、せっかくの蓄積やノウハウを持って、
いろいろな日本各地をキャラバンなさったらどうだ
ろうか。思いつきでしかなくて「じゃあ、それを具
体的にやるのはどうするんだ」と言われると返答に
窮するところがあると思いますが、ぜひ生かす道が
ないものかと思うのです。
(山口) 神戸阪神間のグループは、今先生がおっ
しゃっているようなことをまさにやっているので
す。
(土岐)
そうですか。それは私も不勉強でした。
(山口)
例えば、1つはネットワークですね。
(土岐)
ええ、先程ありましたね。
(山口) いろいろなネットワークの中で、例えば
救援物資でどんな物が良いとか、それをどう配分し
たらいいのかということをブックレットにしたり、
震災をキーワードにして全国のそういうチームのネ
ットワークのセンターに情報だとか経験を送り込ん
でいたり、あるいは関東の横浜のボランティアの人
たちがやっている同じような活動に積極的に勧誘し
たり。先程細川さんという方が「まけないぞう」と
いう小さなゾウの話をされていましたけれども、あ
あいう「まけないぞう」をキャラバンで各地に持っ
ていって、そこでゾウの話をするだけでなく、バッ
クにあることを伝えるということもやっていまし
て、少ない人数でそれぞれやっているわけなので十
分ではないかもしれませんけれども、ずいぶんそう
いう蓄積と体験は全国に発信しているのではないか
という気がしています。
(土岐) 今のところは私の不勉強なところもある
のですが、もう1つ長期にわたってこういうボラン
53
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
タリーな活動をしておられる方の問題で頭に浮かぶ
のは、長く活動をしていると、ある種の組織化が行
われますね。その組織化をされたものもボランティ
アなのでしょうね? その定義の話ですから言葉は
どちらであってもいいと思うのですが、例えばそれ
をもうちょっと明確なかたちで組織化する。例えば
水防団ですか、今はどれだけ残っているのかわかり
ませんが、昔は水防団というものがありましたし、
自衛消防団という種類のものもありました。ああい
うものは明らかにボランタリーで、しかし組織化さ
れて行政と密接な関係を持っているという、そうい
う種類のものを、水防だとか消防ということ以外の
ところで組織化するということに対してはどうなの
でしょう。私はこれは自分の考えがあるのではなく、
こういうボランティア活動をなさっている方々にむ
しろ教えてほしいと思っているのですが。あとで機
会があれば教えていただければと思っています。
(山口) 先生、それはイメージとしては行政が組
織化するという感じですか。
(土岐) 行政がするというか・・・、どちらがす
るということはちょっと微妙ですかね。例えば今の
例のNPO法案ですか、あれは「行政の及ばざると
ころを、そういう自主的なグループの活動を組織し
てください。そこに対して、本来行政がやるべきか
もしれないところを行政の側から経費的には援助し
ましょう」ということですよね。ですから、そうい
う活動が全くないわけではない。ちゃんと法律もあ
るわけですから。そこのところをいったいどうした
らいいのか、ちょっと私にはよくわからないのです。
「組織化されたものをボランティアとは言わないの
だ。だからそんなことは不愉快だ」と皆さんがおっ
しゃるのか、「いや、それはそれでいいんだよ」と
おっしゃるのか。そこのところはボランティアの定
義の話だから、どうだっていいのだということがあ
るのかもしれませんし、私はちょっとよくわからな
いのです。
(山口) では、そろそろ会場の皆さんのご意見を
聞いてみましょうか。
このような話題提供をさせていただいたのです
が、今30分ほど話をしたこと以外のことでももち
ろん結構です。朝からのお話、特にここでは「土岐
先生にこれを尋ねるから答えろ」ということよりも、
「私はこう思うんだ」という提案、提言、意見の言
いっぱなしをどんどん言っていただいた方がむしろ
おもしろいのではないかと思うので、どなたでも手
を挙げていただいて。記録をとっていますので、お
名前、所属なりお住まいなりを一言おっしゃってか
らご発言いただけませんでしょうか。どうぞ。
(*谷*) 私どもは、地震のときにアマチュア無
線で非常通信をやったグループです。現在も地震以
後、近畿地区のアマチュア無線のグループで「近畿
地区アマチュア無線非常通信ネット」というネット
ワークを組みまして、今、大阪、神戸の防災訓練に
も参加しています。日ごろ訓練しておかないともた
ついたらいかんということで、やっております。
地震直後から非常通信をやったのですが、ボラン
ティアとして来られたのは初めての体験で、ボラン
ティアという言葉の内容もフランス語で「志願兵」
というような言葉らしいのですが、はっきり言いま
したら、来られた方の動機は、土岐先生がおっしゃ
ったような方もたくさんいらっしゃいました。それ
以外に、私が見たところやはり観光気分で「地震の
あとはどんなんやろか」という、おもしろ半分とい
うのは非常に失礼ですが、そういう気分で来られた
方も3分の1くらいはいました。学生ボランティア
などの中で、「1回地震の所へ行って見てこようか」
という方が、私は3分の1あったと思います。来ら
れて1日たって帰られる方、2日、3日あるいは1
週間、ときには我々は3月31日まで非常通信をや
ったのですが、最後まで来られた方もおりました。
私の家は神戸の灘区です。そこでボランティアを経
由してやったのですが、はっきり言いましたら、1
∼2日来られても、教えるだけで非常に足手まとい
で役に立たなかったです。やはり最低3日以上来て
もらわないといけないのです。しかし、ボランティ
ア活動に入り、避難所の中に派遣しまして、そこの
過不足の物資などを無線情報で流したりしたのです
が、被災地に入ってそこの方が非常に喜んでくれる
姿を見て、「これはやめられないな」ということで、
居ついた方がたくさんいらっしゃいました。あげく
の果てに中にはいわゆる「ボランティア病」みたい
になってしまって、家に帰るのも忘れて、家から
「行ってますか?」と問い合わせがあった方もおり
ました。いろいろとありましたが、よくやってくれ
たと思います。
それから2番目の問題ですが、行政との間のお話
がありましたね。私はボランティアの方で行政では
ありませんけれども、現在も行政の方としょっちゅ
うコンタクトしているのですが、行政側としたら、
ボランティアの行為が責任を持ってやってくれない
のではないかという懸念もあります。現実問題とし
て、ボランティアに責任を持って仕事をやらせても、
行政の方は給料をもらって業務としてやっているの
ですが、ボランティアはあくまでも無報酬でやって
いるわけです。ですからはっきり言ったら途中で抜
けてしまうことも可能なのです。そういうこともあ
って、行政の方がボランティアに責任を持って仕事
を任せられないというような気分があるのではない
かと思います。
そして途中、私どもが実際に活動してから気が付
いたのは、ボランティアの方がケガをしたり、交通
事故を起こしたり、2次災害が起きたときの補償問
題、そういう問題も絡んでくると思います。いわゆ
るボランティア保険もあって、途中で大阪の方から
入ってもらったのですが、今は変わりまして契約し
たらその日からできるのですが、当時は名前を言っ
てその明くる日から保険が発行というかたちであり
ましたので、明くる日になったら本人は帰ってしま
っているというようなことがあって空回りしていま
した。今はそれは改善されましたけれども、行政が
仕事を頼んで、もしその人が事故をした場合の補償
というような問題もあって、行政の方がボランティ
アに仕事を完全に任せられないという傾向があるの
ではないかと私はみております。
(山口)
ありがとうございました。
(*竹岡*) 広島の*竹岡*と申します。医療の
方でボランティアをしていました。私たちと同じよ
うにボランティアで来た、広島から派遣した別の集
団もあったのですが、ちょっとこういうことを聞き
ました。「行ったのだけれど、用はないと言われた」
と。やはり実際に行ってみると、確かに避難所に入
ると多くの患者さんがおられます。ただ、足がない。
例えば老人でも、交通の便がないので仮設診療所へ
は行かれないということをずいぶん聞きました。や
はり情報の伝達が前回の阪神淡路大震災のときはう
まくいかなかった面があると思います。せっかく善
意で、広島とか遠くから来るわけですが、行っても
あんまり用はなかったとがっかりして帰ったボラン
ティアも結構あったと思うのです。
54
Report 2001
ですから情報を1か所に集めるような、あるいは
それをさらにコーディネートするような組織なりシ
ステムがやはり必要であると思います。先程も専門
家という話が出ましたけれども、災害のときはいろ
いろな技術を持った専門家が集まってくると思うの
です。それをうまく振り分ける組織、あるいは指令
する、集約するセンターなりシステムがないと、い
ろいろな技術者が集まってもあまりうまく活用でき
ないという面が出てくると思います。
(山口)
ありがとうございました。どうぞ。
(*タニ*) 私も無線をやっていましたので、当
時のあらゆるいろいろな情報が入ってきました。裏
話とかをほとんど知っているのですが、今のAMD
Aなどの方が来られて非常に救援をやってくれて、
お医者さんの一部の方と私どもは連絡を取ったので
すが、最初は1週間やられたのですが、早く帰るの
です。その理由を聞きましたら、地元の医者からお
金を取らずにやってくれるので困るというクレーム
があったという話も裏話で聞いております。
(山口)
ほかにご意見は。どうぞ、前の女性の方。
(山崎) 午前中の発表者の山崎と申します。当時、
全国からいろいろなお助けをいただきましたことは
身をもって体験しております。しかし、その中から
何が一番と思いますと、やはり地域であり近隣であ
ると思うのです。近隣の日ごろのコミュニティが、
最近では逆です。特にそれが言えますのは、私事情
で恐縮なのですが、2年ほど前に私事情のためにあ
る45年住み慣れた地域を捨てまして、マンション
に移ってみました。夫の病気の関係で20か月そこ
に置いていただいたのですが、元の家とほんの5分
ほどしか離れていないのですが、やはり住みにくい
のです。昨年の12月16日にやはり意を決しまして、
元の家の1分ほどの所に引っ越しをいたしました。
私の年齢になりますと、5分違ってもやはり近隣の
コミュニティは大きな差がある。元の地域へ戻りま
すと、黙っていてもご近所の方とコミュニケーショ
ンが図れる。ああいう災害のときに、1杯の水を分
け合った仲、1杯の雑炊を半分ずつした仲が、それ
が日常の近隣コミュニティでないと、遠くから来て
いただいて、確かにできないことをたくさんしてい
ただいてありがたかったのですが、「お隣のおばあ
55
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
ちゃん、どうしているだろうか」というところから、
いろいろなボランティアが始まっていくのではない
でしょうか。ですから主婦の立場として、大変それ
も重大なことだと思います。21世紀には、ぜひ近
隣のコミュニティを深めていただけたらありがたい
なという思いを強く持っております。ありがとうご
ざいました。
(山口)
ありがとうございました。
(土岐) 今の方のお話は、初めのところで私が申
し上げたような、ボランティア活動だとかボランテ
ィアとかそういう言葉を持たない、要しない、要す
るに「見ておれない」「やむにやまれない」という
行為ですね。いろいろな議論をするときに、ボラン
ティアという言葉をめいめいがイメージして話をす
るわけですが、そこで少しばかりイメージしている
ことの食い違いが出てくるかもしれませんね。です
から今のご発言のときには、ボランティアといった
って、自分たちの思っているのとちょっと違うもの
もあるかもしれないよというご趣旨かと思います
が、もっと広く取れば、要するにやむにやまれない
隣の人との助け合いだって、これは明らかにボラン
タリーな活動ですよね。自分のことをさておいての
話ですから。ですから、私は議論あるいは話し合い
をするときに、できるだけ広く、あまり自分の定義
をあてはめないで議論した方がいいのではないかと
思っているのです。余計なことを言いましたが。
(山口) どうぞご意見のある方、何でも結構です。
先程、広島の*タケオカ*さんがおっしゃった、専
門家がたくさん来ても、それをコーディネーション
する場がないと無駄になる、あるいはどうしていい
かわからないということは、防災計画の中でこれか
らは当然大きな要素になるのでしょうね。
(土岐) そういう専門家の人々への対応というの
は、受ける側にも専門家がいるでしょうね。お医者
さんがたくさん来られても、全くの水道屋さん、消
防しかやっていない人がそういうものを相手にでき
るわけがないですから。やはり行政の側における医
療にかかわる人でないとできっこないですよね。で
すから、私は行政の側でボランタリーな活動をどう
やって受け止めるのか、それをどうやって対処する
のかというのは、やはり日ごろから行政なら行政の
全分野がそれに感心を持って考えておかなければ。
しかし、考えただけでは多分だめで、先程申し上げ
たようにそれをシミュレーションしておかないと役
に立たない。お医者さんなら医療の人、それぞれの
分野の専門家でないと多分だめでしょうね。素人じ
ゃあできないでしょう。
それから今のお話で、お医者さんが行っても、地
元のお医者さんから安いとかただで診断されたら困
るというような話が出てきたり、先程、移送サービ
スをすると陸運局が文句を言うとか、そういうもの
はどんなことをしてもあるのでしょうね。絶対にな
くなることはないでしょうから、そういうものはも
う無視してかかるしかないんじゃないでしょうか
(笑)。そういうことを気にしていたら、できっこな
いですよね。そういう状況は問題があって、例えば
陸運局が何を言ったところで、決してそれを罪に問
うようなことは絶対にしないです。そんなことをし
たら一般の人が黙っているわけがないですから。
「何でそれが悪いんだ」と、要するに行政の側がき
ちんと対応していないだけのことですから。
私の話も飛びすぎるのかもしれませんが、大災害
の場合には、通常のルールはなしということをもっ
と日本の人々が受け入れなければいけないと思うの
です。「超法規的」という言葉が昔ハイジャックの
ときにありましたけれども、そういう種類の、非常
時と常時とはルールを変えたっていいんだという、
そこのところをもう少し議論するべきではないでし
ょうか。そこのところは、神戸の地震のあとでも私
は起こっていないと思うのです。あるいはもっと広
くなると私権と公権のどちらを優先させるかという
ような話になってきて、大変大きな社会問題になる
と思いますが、そこのところをどうもみんなが逃げ
ているように私は思っています。ただ、これは私の
偏った考えかもしれません。どうでしょう。
(山口)
うぞ。
そうですね。非常時は・・・。はい、ど
(*タニ*) 今の件に関しまして、2件ほど事例
を申し上げます。
まず、我々が無線でいろいろと非常通信をしたの
ですが、そのとき非常通信というのは電波法で決ま
っておりまして、非常通信をやらなければならない
ということで、郵政大臣から言われることもあるの
です。我々はそのときは自発的にやったのですが、
通常は免許がいるのですけれども、非常通信の場合、
免許のない者でも電波を出すことができます。ただ
し、原状に復帰したときにはやめなさいということ
になるのですが、非常の場合はいい。例えば簡単に
いいましたら、船が沈没する前、その通信士が死ん
だ場合、SOSを出すのはだれでもよく、通信士で
なくても出せるのです。そういうようになっていま
す。
また、もう1つの事例は、これは3月の終わりご
ろでしたが、非常通信をやる前に避難所を回ってお
りましたら、午前中お話があったのですが、妊産婦
の方がいらっしゃいまして、たまごママ、ひよこマ
マという新生児の講習を保健所がやることになって
いました。私どもはそういう情報を得たものですか
ら、保健所に行きまして、妊産婦の方、新生児の保
健講習をやってくれないのかと言いましたら、「保
健所は避難所回りで手が回らないので、とてもでき
ません」という話がありました。そこで、私どもは
灘の保健所と東灘の保健所の2か所の許可を得まし
て、近在の看護婦さんとかお産婆さん、産婦人科の
お医者さんにお願いをして、我々独自でそういう講
習をやりました。森永乳業とか明治乳業からいろい
ろミルクなどをもらってやりました。そういうこと
も、通常なら我々民間が妊産婦の講習などをやるこ
とはできないのですが、それを現実に2回ほどやり
ました。3回目、また中央区でやってくれと言われ
ましたが、そのときは婦人団体が引き受けましょう
と言ってくれましたので、3回目以降はそちらへ移
管しましたけれども、私どもは1回目は灘区、2回
目は東灘区で妊産婦の講習会をやりました。それに
ついては何のおとがめももちろんありませんでし
た。以上です。
(山口)
はい、どうぞ。
(
) このまとめのセッションというのは「土
岐憲三に勉強をしていただく会」というものを兼ね
ておりまして(笑)、どちらかというと、日本の耐
震工学の権威なのですけれども、決して土岐憲三で
も万全ではないという姿を年々いろいろな角度でこ
の場でさらしていただくことが、大変うけていると
いうことです(笑)。それで一番苦手そうな点をず
っと選んでお話をいただいておりまして、そういう
意味ではボランティアというものはあまり土岐先生
が得意なわけではありません。最初に白状している
56
Report 2001
わりには、山口さんがしつこく「防災計画では」と
詰めるので、放っておくとどんどん危険なことを言
いそうなので、少し公式見解をご説明したいと思い
ます(笑)。
阪神・淡路大震災がございまして、その年の夏、
95年の8月なのですが、国は防災基本計画という
国の防災計画を改定いたしました。その中に応急対
策の1項目として、「自発的支援の受け入れを行政
はすべし」ということを計画の1項に定めました。
その「自発的支援」の中にはいろいろございまして、
1つは外国から犬が来るとかそういうものを何とか
しようというもの。2つ目は義援金がたくさん寄せ
られたことがあるものですから、それをうまく配れ
るようにしようというもの。そして3つ目にボラン
ティアの人たちがあれだけ来てくれたのだから、行
政もちゃんと何とかしなさいよということになりま
した。おまけに、この1月17日を「防災とボラン
ティアの日」と位置付けてしまいました。
今申し上げていることはどういう意味を持つかと
いうと、防災基本計画に書いてあることは、都道府
県あるいは市町村の地域防災計画、それぞれの地域
を守るための防災計画なのですが、そこに反映され
なければいけないということがもう1つ上位の法律
で決まっています。ということは、都道府県あるい
は市町村、特に都道府県、政令市も同格としてお話
をしますが、1月17日、防災とボランティアの日
を大体ねらって、何かボランティア絡みのことをし
ないといけないということを真剣に考えざるをえな
くなってしまいました。ところが、土岐先生でも頭
をひねるくらいですから、行政の人にもなかなか良
い知恵がなくて、どうしよう、こうしようと考えな
がら来たのがこの5年くらいです。
兵庫県がとった答えは、専門職能を持っている人
たちに事前に登録してもらって、その人たちの知恵
を活用しようということで、その中には今日手伝っ
ていただいている手話の皆さんも入っていたり、ト
ラックの方がいたり、いろいろな方がいるというこ
とです。そしてもう1つ、そちらはもっと多いので
すが一般ボランティア、今日お話になっているよう
な、特に水もない、電気もやっときた、ガスもない、
みんな避難所にいるという段階でいろいろな支援を
してくれた人たちは、大体みんなそういう意味では
専門ではない人たちが多いわけですから、一般ボラ
ンティアと称しますが、その人たちを受け入れるた
めのコーディネーション、今そのキーワードまでは
57
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
出ていて大変良い方向だと思っていますが、それが
当然必要だということになりまして、ボランティア
コーディネータというものを養成せねばならない
と、いくつかの県でそういう事業を始めています。
ちなみに去年の9月に名古屋で大きな水害があり
ましたが、そのときには、愛知県庁の一室に、愛知
県と名古屋市が共同でボランティア活動を広域的に
支援する本部を作りました。言ってみれば、行政の
本丸の中に一室をもらえたということは、頑張って
いる方たちには大変大きな進歩に見えたというよう
なところまでは、この6年間で事態が推移しており
ますので、あまり土岐をいじめないでいただけたら
と思います(笑)。
(山口)
(土岐)
皆さんに問いかけたいのですが、6年でこれだけ
きれいな町にする必要があったのでしょうか。私は
もうちょっと時間をかけても、地元の業者でこつこ
つと「今日建て柱が建った」「今日自分が食えた」
ということを少しずつ、もう少し身近な業者の間で
やりながら、6年の倍、12年くらいかけてやった
ら、自分たちが立ち直れる。そんなふうに思います。
その部分が非常に欠けていた。そういう発信だけち
ょっと残したいと思って、建築の下請けの第3下請
けくらいの労働者を代表して言っておきます。以上
です。
ティアを作っております。ところが消防法の規定で、
京都府警察本部とか京都市消防局のヘリポートに着
陸できないのです。公共へリポートが京都にはない
のです。神戸にはポートアイランドに公共へリポー
トがありますから、許可さえもらえば自由なのです
が、ほかの所では公共へリポートがないところが非
常に多い。そうすると、活躍できないのです。これ
は1つの例ですけれども、ですから制度の規制緩和
を、それに関連するところをどんどんやらないとい
けない。
(山口) ありがとうございます。では、河田さん
どうぞ。
ありがとうございました。
ということのようです。
(山口) 初めはいじめると言って、あとは何か助
けてくれたり、複雑な人格ですね、あなたも(笑)。
ほかにご意見は。どうぞ、荒井さん。
(荒井) 先程発言させていただいた荒井です。こ
こに建設業者の方などはほとんどおられないと思い
ます。その人たちの代わりに弁明してしゃべらせて
もらいますけれども、震災があって、大手のゼネコ
ンが非常に暇だったものですから、全国から一気に
たくさん寄ってきましたね。あっという間に立ち直
って、さっと帰った。ところが実際建ってさっと直
せる人たちは、非常にお金があったり、いろいろな
ことがあって支払い能力のある方です。それをゼネ
コンといわれる、全国の業者がさっと持っていかれ
た。地元の建設業者はそれどころではなく、自分が
食うこと、仲間のこと、先程田中社長が言われたよ
うに、身内の雇用を守るとかいろいろなことをやり
ながら、落ち着いてきて住む家もできて、「さあ、
建築の仕事をやろうか、みんな、何かするよ」と言
ったら、もうほとんど仕事がなかった。これは何と
かしてほしい。これは災害の教訓として残してほし
い。今やろうと思ったら「復興住宅でこれしか予算
がない。ごはんだけ食べられる金で良かったら仕事
するか?」、こんな仕事しかない。今、みんな細々
とやっています。今、関西空港が賛否両論言いなが
らありますが、一般の仕事まではまだあたっていな
い。
(河田) 少しボランティアの制度的な仕組みだけ
ご紹介したいと思うのですが、ヨーロッパでは、防
災を支援する機関として「シビルディフェンス」と
いうものが軍隊の下にあります。これはもともとド
イツのロケットがロンドンを空襲したときに市民組
織としてできたのですが、要するに防火隊ですね、
これが実は戦後軍隊の下にシビルディフェンスとし
て、いわゆる市民防衛隊というかたちでヨーロッパ
では組織されています。アメリカでは、少し形態は
違いますが、やはり同じ流れで退役軍人などが「ベ
テランズ」というものを作っているのです。我が国
では、明治29年に河川法ができて、水防団という
ものは実は法律的にきちんと担保されておりまし
て、98年の全国的な水害のときには、水防団が約
20万人活躍しています。これは一応公務になりま
すから、当然保険にも入っておりまして、ですから
こういうシビルディフェンスがいいのかというと、
実はトルコにもあったわけですが形がい化していま
して、全然働かなかったという実情もあります。例
えばフィリピンなどにもあるわけですが、実情は本
当に形がい化していると言ってもまちがいではない
と思います。
ひるがえって我が国の場合は、私はやはりボラン
ティアというものは行政ができることを肩代わりす
るのではなく、行政ができないこと、いわゆるいろ
いろなすき間を埋めることが主とした仕事だと思う
のです。そうしますと、今やらなければいけないこ
とは、例えば規制緩和ということが非常に必要なの
ではないかと思います。例えば、京都市には活断層
が3つあるのですが、ヘリコプターの団体がボラン
それからもう1つは、今は仕方がないと思ってい
るのですが、防災が福祉とつながってしまっている
のです。私どもの21世紀のこの国というのは、も
うじき高齢者が4分の1から3分の1を占めます。
こうなりますと、高齢者は災害弱者ではないという
覚悟をしないと、大きな災害には対処できない。と
いうことは、今の防災福祉ボランティアという枠組
みも変えていかないといけない。こういう先を見通
した変化というものが、ボランティアのこれからの
変革につながっていく必要があると思うのです。そ
うなると、先程、神戸のボランティア団体のみなさ
んから発言があったのですが、もっと大きな組織に
なっていただかないといけないと思うのです。それ
はきちんとした組織でなくて、もっとルーズでいい
と思うのですが、やはりその窓口を一本化できるよ
うな組織を作らないと、我が国はどちらかというと
リーダーを育てることが非常に下手ですので、みん
なお互いにけん制しあうというかつぶしあいをする
というか、そういうところがありまして、もっと大
同小異と言いますか、そういう大局的なところで一
致団結したようなかたちで、ボランティアというも
のを育てていただきたいと思っています。
残念ながら、日本の赤十字という組織は、基本的
にこういうことをできないような仕組みになってい
58
Report 2001
ます。アメリカでは連邦政府の補助金をもらってボ
ランティアを育成してA・B・Cとランク付けをし
て、きちんと対応しているのですが、日本ではそれ
ができないということですので、そうなると今のボ
ランティア組織がもっとルーズなかたちでもいいで
すから大きくなっていただかないと、なかなかこれ
から対応できないような仕組みに陥っていくのでは
ないかと心配しています。以上です。
(山口) ありがとうございました。会場に被災地
NGO恊働センター代表の村井さんがいらっしゃる
ので、ちょっとお聞きしたいのですけれども、今、
河田先生からもっと大きなネットワーク、ゆるやか
でもいいから大きく構えたらどうかというお話があ
りました。防災ということに必ずしも限らなくても
いいのですが、現状とネットワークというものは現
在どんなふうになっているかということと、どんな
ふうに考えているかということをコメントいただけ
ますか。
(村井) 被災地NGO恊働センターの村井と申し
ます。阪神・淡路大震災後、全国からたくさんの人
たちが来たわけですが、それがきっかけで97年に
「震災がつなぐ全国ネットワーク」というネットワ
ークができ、今20地区の人たちで作っています。
また別にNVNADという組織がありまして、これ
も全国ネットワークの組織です。あと少し、そうい
うものがあるようです。それから個別に、毎年災害
が続くものですから、結構いわゆる災害系のボラン
ティアというものは増えてきているようです。
昨年3月31日の有珠山の噴火災害で、一応今ま
で別々にやっていたのが、ゆるやかに有珠山支援全
国ネットワークを作りましょうということで、かた
ちだけはできました。しかしさまざまな課題を残し
たものですから、今年度は、実質どういうふうに、
それぞれ別々の団体が少なくとも現場では何を共有
するのかということに取りかかっています。おそら
く今年1年かけて、一定の枠組みなり、何をやるの
かということも整理されるのかと思います。
それからボランティアといっても、やはりいわゆ
る活動資金がなければなかなかできません。全国規
模の災害時に使える「おたがいさま基金」というも
のを全国規模の基金として作ろうという話も実は年
末から始めておりまして、どういうふうに作ってい
くのか、今これから話そうとしています。今のとこ
59
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
ろはそういう現状です。
土岐先生のボランティアを組織化していくという
絡みの話で一言お話ししたいのですが、先程紹介が
ありましたように、東海水害のときに愛知県と名古
屋市とが一緒になってボランティアのサポートセン
ターというものができたのですが、当然行政は一定
の状況を見て対策本部を閉めます。閉めたと同時に
ボランティアの活動も閉めてしまうわけです。しか
し実際には、水害というのは表には見えないけれど
もまだまだ被害が長く続くという状況があるので
す。そこで、そこに集まったお金は行政としては使
いにくくなるわけです。そのまま続けたいというボ
ランティアグループがあっても、そこに回せないと
いう事情が出てくるわけです。
規制緩和というほどのものでもないと思うのです
が、この辺も柔軟な対応ができるようなことを、今
日はいろいろな専門の先生方がおられますから、各
自治体なり、あるいは国のいろいろな委員もしてお
られると思いますので、そういうところも特に言っ
ていただかないと、ボランティアは被災者にとって
何が必要なのかということをまず中心に考えて動こ
うとしているのに、上の方で閉められてしまうと動
けないという事情が出てきます。もちろん勝手に動
きますけれども、勝手に動く中で、ボランティア同
士がまた少し溝ができていくような状況にもなりま
す。そのようなこともあるものですから、最初に申
し上げましたように、少なくとも現場ではこういう
ふうにしましょうということを話し合っていこうと
しております。
(山口) ありがとうございました。話がちょっと
おもしろくなりかけたところで時間が来てしまって
残念なのですが、先生どうですか。まとめられます
か。
(土岐) いや、難しいですね(笑)。
ただ、今までのお話を伺っていて、まとめにはな
りませんけれども、やはり私は冒頭に申し上げたと
ころに戻ってしまうのですが、残念ながら日本のボ
ランティア活動というのはまだ十分でないように思
うのです。災害が起こったときにばっと集まってく
る、しばらく時間がたつとだんだん減っていくとい
うのがパターンじゃないかと思うのです。
防災の災害にかかわるボランティア活動といって
もいろいろなものがあるわけでして、私などの専門
分野の話として、地震の対策ということになります
と、例えばアメリカのロサンゼルスのあたりに行き
ますと、家庭の主婦が専門家のところへ寄ってきて、
専門家から地震とは何ぞやというところから勉強す
るわけです。そして専門家からレクチャーを受けた
家庭の主婦が、今度は近在の仲間を集めて「こうな
んだよ」という教育をするわけです。専門家が一度
に何千人などを相手に教育はなかなかできませんか
ら、そういう間に立って通訳をする役目をする人、
そういう種類のボランタリー活動もあるわけです。
災害が起こったあとにやるのではなくて、日ごろか
らそういうことをやっている、そういうボランティ
ア活動だってあるのです。
話は飛びますが、大きなゴルフの大会をするとき
ですら、彼らの国にはボランティアというものが、
要するに無料奉仕でやるということが染みついてい
るわけです。日本の大会でボランティアというのは、
このごろやっと少しずつ出てきているようですが、
それほど根付いていない。ですからボランティア活
動、無償でもって人のために働く、場合によっては
何がしかの犠牲を自分が払ってでも何かの役に立つ
という意識は、何だかんだ言ってもまだ少ないので
はないかというふうに私は感じています。まとめに
はならず、もう少し頑張ってやりましょうというこ
とになっているかもしれませんが。
Conference in Kobe ヲからの提言をご紹介して、
そして皆様方に賛成をいただくという役目をさせて
いただきたく存じます。
お手元に刷り物がいっていると思います。これを、
提言でありますので丁寧に読み上げさせていただき
ます。ただ、やはり言葉で言うので、少しアドリブ
で直させていただきます。
(山口) ありがとうございました。これでこのセ
ッションを終わりましょうか。会場の皆さん、どう
もありがとうございました(拍手)。
(司会) どうもありがとうございました。京都大
学大学院工学研究科教授でいらっしゃいます土岐憲
三さん、そしてラジオ関西の山口一史さんでした。
皆さんとの意見を交えてのセッションをお送りいた
しました。
それではここで、今年のMemorial Conference
からの提言をいたします。提言案を実行委員長の土
岐先生からご紹介いただきます。お願いします。
Memorial Conference in Kobe ヲからの提言
(土岐) プログラムによりますと、何か私が閉会
の辞を述べることになっていたようですが、辞とい
うような難しいことは言わないで、本日の朝から数
時間にわたってやってまいりましたMemorial
60
Report 2001
Memorial Conference in Kobe VI からの 提言(2001年 1月 20日)
Memorial Conference in Kobe Vl は、2001年1月20日、神戸海洋博物館において、
悪天候にもかかわらず、多数の参加者を得て開催されました。震災発生から6年間の
Memorial Conferenceを通して、阪神・淡路大震災が持つ多様な側面について学び、震
災について正しく理解し、異なる背景を持つ人々が語り合い、伝え合う努力を続けてきまし
た。今年のMemorial Conference in Kobeでは、災害ボランティア活動を全体のテーマ
として取り上げました。「わたしの『災害ボランティア体験』−それは何をあなたにのこし
ているか−」とした証言募集を行い、応募をしていただいた中から、被災地だけでなく、全
国各地から寄せられた16の証言を選び、午前中の会議で朗読していただきました。
午後のパネルディスカッションでも「わたしの『災害ボランティア』体験」について語り
合いました。李浩麗さんは美しいソプラノを大迫めぐみさんの伴奏で聞かせてくれました。
井上尭之さんが作曲してくださったMemorial Conferenceのオリジナルテーマ曲、
「DISASTER」が、井上尭之さんご自身のギター、ニューフィルハーモニー・ジュニアオ
ーケストラの演奏で関西初演されました。また展示会場では、さまざまな団体の試みが展示
されました。
今年の会議から得られた教訓は次のとおりである。
すなわち
1. 被災地外から多くのボランティアが訪れ、それ以上にたくさんのボランティ
アが被災地内から生まれました。
それは人間としての使命感に始まり、感動につながりました。
2. ボランティア体験を通して、私たちは日ごろ失っている優しさ、感謝、希望、
たくましさという言葉の大切さを思い出すことができます。
3. 木を植える、花を咲かせる、話をする、ただ寄り添う、地域を生きるボラン
ティア活動の広がりは無限であり、それぞれに喜びがあります。
4. 災害ボランティアは助ける人、被災者は助けられる人という区別はない。ボ
ランティアも被災者も共に出会い、支え合うことで大きな力をもらいました。
5. ボランティアは決して震災を契機に生まれたわけではありません。震災前から
さまざまな社会活動をしてきた人たちが、この震災の中で自分がするべき活動
を見つけ、実行に移してきたことをボランティア活動と呼んでいます。
6. 「あなたは何に困っていますか」「あなたは何ができますか」という2つの問い
に答えることが、ボランティア活動を成功させるかぎであります。
Memorial Conference in Kobe VI
∼阪神・淡路大震災の教訓を21世紀に発信する会∼
来年の「Memorial Conference in Kobe VII」
は、2002年1月19日土曜日、神戸海洋博物館に
おいて、志を同じくする多数の参加者を得て開催を
いたします。
以上でございますが、ただいま読み上げましたこ
とを、本日の「Memorial Conference in Kobeか
らの提言」として取り上げていただけますでしょう
か(拍手)。どうもありがとうございました。
(司会) ありがとうございました。大きな拍手で
提言が採択されました。
皆様に訂正がございます。こちらの「Memorial
Conference in Kobe ヲからの提言」の上から10
行目、今日伴奏してくださいました大迫めぐみさん
の漢字がまちがっておりました。大きく迫る、ひら
がなのめぐみと書いて、大迫めぐみさんです。訂正
いたします。そして大変失礼いたしました。おわび
申し上げます。どうぞ皆様、訂正をよろしくお願い
いたします。
朝の9時30分から長時間にわたりお付き合いい
ただきました「Memorial Conference in Kobe
ヲ 」、これで終了の時間となりました。本当に長時
間お付き合いをいただきまして、ありがとうござい
ました。
皆様にご案内申し上げます。このあと、すぐ会場
の西よりの北側にあります神戸タワーホテル6階の
サファイアで交流会を行います。お時間の許します
かぎり、どうぞふるってご参加いただきたいと思い
ます。長時間のお付き合い、ありがとうございまし
た。これをもって終了とさせていただきます。本日
はどうもありがとうございました(拍手)。
プログラムによりますと、交流会はこのあと45
分からになっております。ぜひ皆様、お時間の許す
かぎり、ふるってご参加ください。お待ちしており
ます。
7. ボランティア活動に踏み出す前に、自分の回りに信頼に満ちた健全な人間関係
の存在が必要であります。
8. ボランティア活動をさらに活発にするためには、個人の善意だけではなく、防
災にかかわるNPO活動を支える基金を作り、ボランティアを教育・訓練する
仕組みづくりが不可欠でおります。
来年のMemorial Conference in Kobe VII は、2002年1月19日(土)、神戸海洋博物館において志を同じくする多数の参加者を得て開催いたします。
ネスレさんによるコーヒーブレイク
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Report 2001
● Memorial Conference in Kobe VI 報告書
Report 2001
平成13年1月20日 神戸海洋博物館 大ホール
発行 2002年 1月19日
Memorial Conference in Kobe 組織委員会
京都大学防災研究所
63
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