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法道仙人と陰陽師
林 正治 2009年3月5日作成 まえがき 太宰府の船頭・藤井麻呂が、租税米を船に積んで播磨灘 今回は池にまつわる伝承を調査しようと考え、い を通過していた時、仙人が空鉢を飛ばして食を乞うたが、 なみ野のため池めぐりと図書館通いをしながら 船頭が断ったところ、船中の米俵千石が空鉢に従って雁 半年が過ぎましたが、以外と伝承が少ない(過去 行し、法華山の仙人のもとに飛んできました。船頭が仙 の記録がない)ため一旦調査を中止していました。 人の所に赴き、詫びを入れたため米を返しました。 9 月頃より第 1 回目の講義で金子先生の研究事例 このことが後に宮中まで聞こえて大化五年(649 年) のなかに出てくる志方町の長楽寺に関連する法 孝徳天皇が病気になられたときに法道仙人が召され、た 華山一乗寺に関して調査を再開しました。 だちに病気が全快したため、天皇はお礼として法華山に この法華山一乗寺に関しては現在、私が所属して 大殿を寄進され白雉元年(650 年)に完成し、天皇も行 いる環境ボランティア団体である「リバークリー 幸された」との説話(飛鉢伝説)があります。 ンエコタン銀行」が主催した、2年前の「炭フォ 法道仙人の人物像 ーラム」で加古川出身の講談師「旭堂南海」さん 下の右側の一乗寺法道仙人立像写真は、13 世紀後半 が「伝説は法華山谷川を駆けのほった」と題して に製作された修験道の行者の様相ですが、左側は清水寺 一乗寺の開基者と言われている「法道仙人」の伝 (加東市)の法道仙人画象です 承を語ってくれ、興味を持っていましたので、こ が、14 世紀末のもので法衣に袈 の「法道仙人」について調査を開始しました。調 裟の僧形となっているように2 査を始めますと意外にも陰陽師との関連が深い 種類の様相が以降にも、朝光寺 ことが判明したため「法道仙人と陰陽師」という (加東市)、西林寺(西脇市)、 表題にして調査した内容をまとめました。 伽耶院(三木市)などに残って 法道仙人と法華山一乗寺 います。 法道仙人伝承は京都の東福寺海蔵院の虎関師錬 が 1322 年に著した「元亨釈書」や姫路の峰相山 鶏足寺の僧が 1348 年に著したと言われる「峰相 記」にも記載され、播磨国の寺院を中心とした有 名な伝承になっていますが、法華山一乗寺の寺伝 が最も有名です。研究者の間では法道仙人は歴史 上の人物ではないというのが一般的ですが、いろ いろ調査していると個人的には実在したのでは ないかと考えています。 法道仙人はお釈迦さんが法華経を説いた、天竺 (インド)の霊鷲山中の仙苑にすむ五百持明仙の 一人であり、金剛摩尼の法を修行して、悟りを開 き瞬時のうちに諸方を移動し、不死・不老の超人 だったようです。 清水寺法道仙人画像 一乗寺法道仙人立像 法道仙人の開基伝承 法華山一乗寺を起点として姫路、加西、加東、三木、 小野、多可町など旧播磨国を中心に丹波、但馬、神戸な あるとき法道仙人が紫雲に乗って中国・百済を ど兵庫県内に約120以上の寺院が法道仙人開基の寺 経て日本に飛来、山並みが蓮の花のように八葉に 伝を持っていると言われています。私が現在調査中の寺 分れた谷から五色の光を放つ霊地を見つけて降 院は別表の法道仙人開基一覧のように90ヵ所で、実際 り立ったのが播州印南郡(加西市)法華山(一説 に確認したのはまだ20ヵ所程度です。一覧表で注目し には奈良時代前期の三尊石仏がある、現在の一乗 たいのは開基の時期ですが、ほとんどが西暦 651 年近辺 寺の北側に位置する古法華寺あたり)でした。 となっていますが、神戸地区で仙養寺(826 年)と新善 法道仙人の持ち物は千手観音像と仙人の意の 寺(840 年)と開基時期が、かけ離れた寺があることで ままに飛び回り、人々から供養の食料を受け取る した。2ヶ所のうち仙養寺はまだ見つけることができま と言う空鉢のみでした。 「大化元年(西歴 645 年) せんが、新善寺は地元のご老人に聞き取り、元新善寺の 本堂(観音堂)をやっと見つけました。下の写真 中腹付近にある)で普光寺は 729 年に開基されたのでは のように、藁葺きの屋根ですが、よく管理されて ないか?写真の鎌倉寺は普光寺の寺伝では 1816 年に再 います。 建されたようです。 その他播磨地区の多くの寺院で、現在も行われている 鬼追いと呼ばれる行事の起源は、大晦日の宮中行事であ った追儺で、後に民間に広まって節分の豆まき行事にな りますが、天台宗系の寺院行事としての鬼追いは平安時 代の京都から始まり鎌倉時代に各地に広がり、播磨地区 新善寺本堂とその説明文 法道仙人は不老の超人ですから200年近く 寺院の開基をしてきたのでしょうか? でこの行事を行う寺院の多くは法道仙人が開基したと いう伝承が残っています。普光寺(加西市)、朝光寺(加 東市)、高薗寺(加古郡)などがあり、丹波市の常勝寺 さらに清水寺(加東市)縁起によると、3世紀 では翁姿の法道仙人が登場する「鬼こそ」行事がありま 中頃と思われる第12代景行天皇時代に法道仙 す。鬼とは通常は人々に危害や災厄を与える邪悪なもの 人が当地に来ているのです。新善寺の開基(840 の象徴ですが、ここでは人々に祝福を与える存在として 年)まで実に600年間に及びます。 行事が行われています。 このように普通に考えれば一人で120ヵ所もの寺 院を開基できる訳はありませんが、法道仙人伝承を持つ 寺院は大半が山岳寺院など山深い所にある寺で、山岳で の修行僧の活躍拠点ですから、指導者としての法道仙人 や修行僧達の時代を超えた寺院のネットワークの繋が りで平安時代から鎌倉時代の約600年を経て、開基者 が明らかでない寺院に法道仙人開基の伝承が波及した と考えられています。 播磨地区における法道仙人伝承 この播磨地区には寺院の他にも法道仙人伝承として この他に興味ある伝承の一つで「元亨釈書」の 今なお残っている場所が多数あります。 中で大和長谷寺の開基者として比丘道明と紗弥 加古川市と加西市の村落の境界として設置されたと 徳道の二人の名前がありますが、注釈では「徳道 思われる「駒の爪」(法道仙人が乗った馬がここから大 乃ち法道仙人なり」となっているようです。この きく飛び跳ねて法華山に向かったと言われる馬の蹄の 徳道上人は播磨の国揖保郡(太子町矢田部)の人 跡)や札馬大歳神社の境内(もとは近くの新池周辺)に で俗姓を辛矢田部造米麻呂と言い朝鮮からの渡 ある法道仙人の手跡と言われる「手跡石」(古墳時代の 来人と思われます。 石棺を利用したもの)と大歳神社付近で法道仙人が座っ また普光寺(加西市)の寺伝では西暦 651 年に 法道仙人が開基し、さらに 729 年に徳道上人が開 て伽藍を建立するための霊地を探したと言われる「腰掛 岩」等があります。 基したとありますが、同一人物なのか疑問です。 駒の爪 鎌倉寺の側面と正面 推測では法道仙人が 651 年に開基したのは普光 寺の奥の院である鎌倉寺(普光寺近くの鎌倉山の 空鉢塚 村落の安全や豊作を祈って祀られたものでは、高砂市に 先の一乗寺で紹介した「飛鉢伝説」に関連して法華山一 乗寺から米俵を返す時に一俵だけ途中で落ちましたが、 この場所を「米堕」(後に米田となる)と呼ぶよ 陰陽師と言う。陰陽寮のなかには陰陽道、天文道、暦道 うになり現在は「米塚堂」や飛鉢を常に置いてい を置き、吉凶の判断、天文の観測、暦の作成などを行っ た石が賀茂神社の境内に「空鉢塚」として残って た。この中で陰陽の部門には陰陽博士が 1 名いて、その います。 下に陰陽師が6人、陰陽生10人、陰陽得業生3人で構 また加西市では法道仙人が法華山一乗寺を開 成されていたようです。 いたときに、放り投げた松の枝が落ちて根付いた 平安時代になると占術に卓越した賀茂忠行・保憲親子 ものが「投松」として大師堂が建てられ、現在で が現れ、その弟子の安部清明や賀茂光栄に引き継がれま も地区の人々により祀られています。 す。そして平安時代末期になると陰陽道に天文道と暦道 加西市にはその他にも「ゆるぎ岩」といって、 善人が押せば動くが、悪心があると動かない岩が あり、法道仙人が人の心を試し導いたという言わ を完全に取り入れ、天文道の安部家と暦道の賀茂家の二 大宗家が陰陽道を独占しました。 その後、江戸時代初期までは、安部家は土御門家とし また賀茂家は幸徳井家として引き継がれますが、寛文年 れがあります。 間(1661~1673 年)に両家の支配争いがあり、結果と して土御門家のみが残りますが、政治に影響を及ぼすこ とが少なくなり、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰 として広く定着します。 明治時代になると新政府は陰陽道を迷信として廃止 させたが、神道や新宗教などに取り入れられた陰陽道の 投松(なげまつ) ゆるぎ岩 そのほか信仰の対象としての霊水の伝承は光 影響は今でも存続しています。 陰陽師について 明寺(加東市)では仏に供える閼伽水をとるため 陰陽師と言えば、京都の安部清明と播磨の蘆屋道満が に法道仙人が掘ったと言われる閼伽井、清水寺 近年に流行し一般には知られています。陰陽師の説話と (加東市)では法道仙人が水神に祈って湧き出さ してまとまった記録としては平安時代末期にまとめら せたと伝えられる滾淨水、伽耶院(三木市)の本 れた「今昔物語」があります。今昔物語巻二十四に八話 尊の福徳毘沙門天は法道仙人が金色に輝く滝壺 があり、特定の陰陽師の名を題名としているものが六話 から感得されたという言い伝えを持っており、こ あります。それは京都の安部清明、賀茂忠行と嫡男の賀 の池の水を毘沙門さんの「黄金水」と呼んでいま 茂保憲の三名と播磨の滋岡川人(滋丘朝臣川人)、弓削 す。 是雄、智徳法師の三名です。ここで疑問となるのが蘆屋 このように播磨地区には現在でも法道仙人に 道満の説話がないことです。ここでは詳細は記述しませ 関わる伝承が多数残っており、今後も研究が進み んが、智徳法師が蘆屋道満と同一人と言う説があります。 種々の「なぞ」も解明されながら伝承されること ここでは六名の中で伝説的な人物の滋岡川人と智徳 と思います 陰陽道について 奈良時代の律令制度のなかで「陰陽寮」という 法師について簡単に紹介します。 滋岡川人は神崎郡福崎町の七草滝に住む仙人として 「播磨鑑」に伝承があります。 技術官僚集団を設け、中国伝来の陰陽五行説(紀 「日照りが続いて穀物が全く 元前 305 年~240 年頃の古代中国に端を発する自 収穫できず農民が困っていまし 然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の五 た。秋の終わり頃に薪を刈りに農 種類の元素から成り各元素はお互いに影響を与 民の一人が滝のあたりまで登っ え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、 ていくと、日照りにも関わらず滝 循環するという思想)に基づき、天文・暦数・卜 は枯れずに流れていました。不思 筮(占い)などの知識を用いて日本古来の古神道 議に思ってどんどん山を登り、そ と融合し、独自の発展を遂げた吉凶・禍福を占う こに住んでいた川人に会います。 呪術の体系を陰陽道と言い、陰陽道に携わる者を そこで農民は里では水がなく来年 七草の滝 の穀物の種も収穫できないと嘆くと、川人は大き 術(魔術)などを学びました。ある日、安部清明の噂を な杉の根っこを掘って一袋の包みを取り出し村 聞いた道満は陰陽の術をきわめるため、式神を屋敷の井 人に与えました。その中には米、麦、粟、キビ、 戸に閉じ込めて一人で京都に行きました。式神は主人が ヒエ、大豆、小豆の七種類の穀物の種が入ってお いなくなっても、毎晩のように井戸を抜け出して、火の り、それをまくと水不足でも根付き、たくさんの 玉となって修行の場所に通いました。しかし主人がいな 収穫がありました。また不思議なことに、この袋 い悲しさのあまり天下原のお地蔵様に体当たりをする からはいくら取っても種が尽きることがなかっ ので、お地蔵様はこけてしまいます。次の朝、村人が立 たということでした。」その他、今昔物語では「滋 て直しても、その次の日には傾いています。そのために、 岡川人被追地神語」として西暦 858 年に亡き文徳 いつの頃からか「こけ地蔵」と呼ばれるようになりまし 天皇の御陵地選定にあたり、地神に追われますが、 た。」 陰陽術で地神を追放した説話があります。 知徳法師については「今昔物語」の「播磨国陰 陽師智徳法師語」では「西国から荷物を積んでき た船が明石浦で海賊に船を奪われたときに智徳 法師が現れ、小舟で海上に漕ぎし船上で呪文を唱 えると、どこからともなく奪われていた漂流船が こけ地蔵 セイメイさん 現れ、船に乗り移ってみると海賊は眠りこけてい 安部清明は京都で活躍した人ですが、神戸市西区にあ たので船を岸まで引いてきて荷物も取り返し、海 る慶明寺には清明自筆とされる石碑があり、その石の下 賊も捕らえたのです。」そして智徳法師の術に感 には鎌倉時代?の悪党「花岡太郎」が封じ込められてい 嘆して、「安部清明に識神を奪われているのに、 ると言われています。また加古川にはJR三木線の厄神 これほどの術が使えるのは怖ろしい法師である」 駅南側付近に安部清明に関する素朴な石像が祭られて と書かれています。 います。この石像は安部清明の術がかかっていると言わ 安部清明と蘆屋道満について れ、地元では「セイメイさん」と呼び病気平癒やマムシ ここでは京都の官人陰陽師・安部清明と播磨の 除けの神様として大切に守られています。 民間陰陽師・芦屋道満のことについて少し詳しく この他、西播磨天文台がある大撫山付近の佐用町大木 調べてみます。安部清明は歴史上の人物で誕生は 谷乙には道満塚が大木谷甲には清明塚があります。この 西暦 921 年で 1005 年に没していますが、芦屋道 佐用町との関り合いは、道満が京都で活躍していた時期 満についての詳しいことは不明です。 に、時の権力者・藤原道長が藤原顕光により呪詛された 「播磨鑑」によると、蘆屋 のを安部清明に見抜かれ、実行した芦屋道満が播磨へ追 道満の誕生地は現在の加古 放になり佐用町に留まったためですが、この地方は天文 川市西神吉町岸の道満屋敷 観測に最適な場所(天候が一定して 360 度見渡せる)で (現在は屋敷はなく近くの あるため、後に安部清明もこの地に来て天文調査をした 西岸寺に道満塚と道満井戸 ものと思われます。 がある)があり「どうまん の一つ火」伝説があります 伝説とは「道満は幼名を 奇童丸といい、陰陽師とし 北斎の清明と道満 て名高い智徳法師のもとで修行に励みました。や がて式神を自在に使うまでに上達した奇童丸は 大木谷甲の清明塚 大木谷乙の道満塚 名を道満とあらためます。深夜、式神を呼び出し このことはさらに岡山県の天体物理観測所がある鴨 ては屋敷から湯溝沿いに天下原をとおり、修行の 方町・竹林寺山の双子山になる安部山にも安部清明屋敷 場である升田山古墳の石室まで通いました。道満 跡と蘆屋道満屋敷跡があることから想像できます。この は明け方まで式神を相手に天文、暦法、占い、方 ことが播磨地区に古い時代から陰陽師が多数誕生し、引 き継がれていった理由の一つです。 悪者としての蘆屋道満 んで富士山に行って修行をしたと言われる人物。 第二の系統は「吉備真備」に関連します。吉備真備は 先に述べた藤原道長を呪詛して罪人として播 遣唐使として西歴 735 年に帰国した時に姫路の広峰山 磨に流されたことや、都の陰陽師を守るために安 に霊異を感じて牛頭天王(インド伝来の神様)を祭る広 部清明が必要以上に播磨の陰陽師を警戒し、徹底 峰神社を造営した人物ですが、おもには京都の陰陽師に して芦屋道満を悪者に仕立て上げるように仕向 引き継がれていきます。「簠簋内伝」によると、唐より けています。このことが、時代を経て、江戸時代 陰陽道の聖典「金鳥玉兎集」を持ち帰り、これが後に賀 初期になり古浄瑠璃で「信太妻」が演じられます。 茂保憲を経て安部清明へと伝授 また江戸中期には、これを基に「蘆屋道満大内鑑」 されます。 が歌舞伎として演じられるようになります。そし て安部清明の人気が上がるに従い、いよいよ蘆屋 道満が悪者として定着していきます。ここで「信 太妻」について簡単に紹介します。 「河内国の住人、石川悪右衛門は妻の病気を治す ために、兄の蘆屋道満の占いにより和泉郡の信太 の森に行き野狐の生き肝を得ようと狩りにでま す。そこに安部保名(安部清明の父親)がいて、 広峯神社 吉備真備 第三の系統は神崎郡福崎町の七草山で修行をしたと 追われていた白狐を助けますが怪我をしてしま 言われる「滋岡川人」で「播磨鑑」の七草山作門寺(慈 います。そこに現れた葛の葉という女性に介抱さ 岡寺)の伝承では、道教の流れをくむ「法道仙人」およ れるのです。この女性は保名が助けた白狐が姿を び聖徳太子の時代(西歴 574~622)に高麗国から来た 変えた女性でした。そして二人は結婚して童子丸 「恵潅上人」に学んだと言われています。そしてこの系 が生まれます。それから五年後に本当の葛の葉が 統から播磨の陰陽師として蘆屋道満へと引き継がれて 現れ、白狐が姿を変えていた葛の葉は森に去って いきます。このことは道満塚がある、佐用町大木谷に伝 いきます。保名は童子丸とともに信太の森に行き、 承されている安政三年(西歴 1856 年)の文書に 882 年 姿をあらわした葛の葉に再開し、水晶の玉と黄金 前のこととして「道摩法師来歴のこと」の中で「印南郡 の箱を受け取り別れます。数年後童子丸は清明と 蘆屋の里村主清太は常に天文に心をかけ一生懸命に学 改名し天文道を修め母親の遺宝の力で天皇の病 んでいたところ、天の助けか、法道仙人に出会い天文・ 気を治し、陰陽頭に任ぜられる。しかし蘆屋道満 地理・易歴を学び、これを書典に書きとめ道摩学を確立 に讒奏され、占いの力比べをすることになり、こ した。そして法道仙人の弟子として、法道の「道」の字 れを負かして道満に殺された父の保名を生き返 を取り「道摩法師」と名乗る・・・」 らせ朝廷に訴えたので、道満は首をはねられ清明 は天文博士になった。」と言う内容です。 この物語では、清明の力がとても人間技ではな いことを表すために狐の子と言うことで力を誇 張したと思われます。 陰陽師のルーツ 平安時代に開花した陰陽道には、平安時代以前 に三つのルーツがあったと思われます。 以上三系統を簡単に説明しましたが、別紙に三系統の 流れを表してみました。 しかし想像の領域になりますが、実際はもっと時代を 遡ったルーツがあると思われます。 これは第二の系統で「広峰神社由緒」の「社号の改称 及び土地名称の沿革」によると古代から中世まで、広峰 山は新羅国山と呼ばれ、広峰山を中心として四方に連な る峰一円と山麓までを含む広い地域を指していますが、 第一の系統として大和国の葛城山から出た役 この広峯山は有史以前から中国大陸や朝鮮半島との文 の小角(役の行者)です。この役の小角は賀茂家 化交流の場所として渡来人の往来があったと言われて の系統で呪術を身につけ鬼神を使うといわれ修 います。そして有史以前から存在していたと思われるシ 験道の開祖と言われる人で朝廷に逆らったとし ャーマニズムを受け継いだ巫女だった三世紀の邪馬台 て西歴 699 年に伊豆に流されながら、毎夜空を飛 国の女王「卑弥呼」に遡ることが想像できます。 陰陽道の変遷 あとがき 陰陽道の源流は縄文・弥生時代から日本に存在 法道仙人と陰陽師について、調査をしてきました。近 していた原始的なシャーマニズムと朝鮮の高句 年においても、色々な方が調査・研究をされていること 麗・百済・新羅・伽耶の民間宗教が、渡来人によ がわりました。予想以上にデータがあるのには驚きまし り伝来し交差して、吉備や播磨に民間陰陽道とし たが、それぞれ考え方や調査・研究内容に整合性がない て発展しました。 ものも多数あります。当然と言えば当然だと思います。 その後奈良時代の律令制度により陰陽寮が設 古代まで遡ることが必要であり、過去の記録・遺跡が無 置され官人陰陽道が確立され、天文・歴数・漏刻・ いのか・発見されてないのか、歴史の謎を解明すること 陰陽を国家の運営に携わってきた。 の困難さを知りました。 平安時代にはいるとしだいに目的が変化して 過去の研究者が何十年もかけて調査・研究されている 天皇・貴族のために活動するようになり、貴族社 ので、半年ぐらいで何ができるのかと痛感しました。講 会で肥大化し、陰陽家が繁盛した。 座のまとめをするにあたっても、まだまだ確認したいこ 南北朝時代を境に天皇王権の衰退に伴い官人 陰陽師の必要性が薄くなってきた。 とは多数ありますが、一応のまとめとしました。今後も 時間をかけて調査・研究を継続していきたいと思います。 室町時代に入り声聞師・散所法師と呼ばれた下 今回のインストラクター養成講座の中で大森亮尚先 級陰陽師(民間陰陽師)が活躍します。彼らは万 生の「播磨のため池と伝説」の講義の中で播磨地区には 歳や猿楽、大道芸など様々な芸能の分野に進出し 「かっぱ伝説」がないようですが、皆さんで伝説を作っ 人形浄瑠璃や歌舞伎の基盤を作り、のちに「信太 てはいかがですか?と言われたことが印象に残ります。 妻」などが語られるようになります。 ネス湖のネッシーや江戸時代から知られていて、最近で 江戸時代になっても下級陰陽師が活躍します。 は見つけた人に賞金を出すといわれ、死体と思われる物 彼らは武農工商の身分制から外れた雑業・雑技に 体が発見された謎の生物「ツチノコ」や怪しい飛行物体 たずさわり、巫術や卑俗な遊芸に携わる「道々の としてのUFOなども今後、数百年を経ると立派な伝説 者」として卑賤視されますが、現代の能・狂言の になるかと思います。 源流である猿楽能が「乞食所行」、人形浄瑠璃が また調査にあたって、陰陽師が活躍した魑魅魍魎の横 「傀儡子芸」 、歌舞伎が「河原者芸能」、万才「千 行した平安時代などと、現代の世の中の乱れは共通する 秋万歳」などの民衆文化を作ります。加西市北条 ように感じます。百鬼夜行の再来ではないですが、世の 町東室の高室芝居も播磨民間陰陽師の流れです。 中に妖怪的人間がうろうろしているのが現代ではない 延亨元年(1744 年)頃に村人 140 名が村歌舞伎の でしょうか。今回は時間の都合で陰陽師や僧侶との治水 興行を他地域でするために、土御門家から陰陽師 工事関連の調査まで到達できなかったため、今後も継続 免許を受けています。このように民間陰陽師の活 していくつもりです。 躍した一方、官人陰陽師は形だけの免許発行機関 として存続していたようです。 明治時代に入ると新政府は陰陽道を迷信とし て廃止させましたが、現在でも宗教や芸能の他に も日常生活の中でも生きています。 暦のなかにある大安・仏滅や節分の「寿司(恵 方巻き)」の丸かじりや「豆まき」、三月の「ひな 祭り」、五月の「節句」の行事、道教からきた「七 最後になりましたが、このような機会を企画していた だいた県民局の担当者殿および講義をしていただいた 先生方に感謝をいたします。 参考文献 今回の調査で参考にした文献等を下記に記述します。 文献:古事記・今昔物語・元亨釈書・峰相記・播磨鑑・ 続日本紀など 雑誌類:播磨史の謎・兵庫史の謎・神は野を駆けて・ 夕祭り」、中元(一年を三元に分ける中国の考え 東播磨の歴史・播磨陰陽師紀行・ 方)と言われる贈答の習慣、厄除け行事の「七五 インターネット情報ほか 三」等やお守りとしての「セイマン」や「ドウマ ン」印、そのほか子供の遊び歌の「かごめ」も、 真ん中の子供に神を降ろす所作のようです。 作成記録 志方西「里山・里池プロジェクト」研究レポート 「法道仙人と陰陽師」:2009 年 3 月 5 日:林 正治