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Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 Page 5 古武士の備そのままの人::三浦
明治学院大学機関リポジトリ
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
Title
Author(s)
明治学院史資料集 第8集
明治学院百年史委員会
Citation
Issue Date
URL
1978-12-13
http://hdl.handle.net/10723/1293
Rights
Meiji Gakuin University Institutional Repository
http://repository.meijigakuin.ac.jp/
明治学院百年史委員会
’(後列立っているのが三浦徹,次女信夫前列左より叢りう,長女次代,長男太郎)
と
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(上は恥か記のまえがき,下は本文の一部)原本は乳横14.5cm,縦23cm
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目
三浦徹手記 恥 か .記
.次.
古武士の悌そのままの人⋮:⋮し⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮・⋮⋮⋮⋮:⋮去一浦信乃⋮︵一︶
解.題⋮⋮↓⋮⋮・﹂⋮−・−:↑・隔⋮・⋮⋮⋮・−⋮⋮−⋮い⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−⋮・工藤英マ・︵.六︶
第﹂巻︵審尋章建言二十章︶::⋮⋮三⋮三・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮:⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮︵・一ξ
第二.巻︵第二十一.章三三三十八章∀::↑:÷::⋮・::・⋮:レ:⋮:こ・⋮・﹂⋮⋮⋮⋮⋮・:ぞ・ゼぞ:︵一空︶
第三巻︵第三十九章三三六十二章︾・−遣⋮⋮⋮⋮⋮一⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮三・・⊥⋮−⋮⋮⋮⋮・−︵六三︶
第四巻.︵笙ハ+三章∼第八+七章︶・・﹂⋮⋮⋮山雪・⋮遷・三⋮・﹂⋮−⋮﹂−−・⋮⋮︵八七︶
第五巻︵第八十八章ピ第百十二章︶⋮し⋮⋮⋮:し::・⋮⋮⋮:⋮⋮三・:⋮⋮⋮⋮ザ・↑・⋮⋮⋮⋮︵一三︶
.第六巻︵第百十三章∼第百三十八章︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮::⋮:・:・::・⋮⋮⋮⋮:::⋮:・ザ:⋮一⋮︵西一︶
例
は一部注をつけた。
一、巻中引用聖語出処について利未記、申命記など難読の書名には注をつけた。また難解と思われるものに︷
一、三文はすべて読点のみ用いてあるが、読み易くするため、最小限の句点を施した。
ママのルビをつけた。
一、原文に忠実であることをつとめ、漢字送り仮名はそのままとし、漢字で著しく一般的でないものには、‘
凡
古武士の悌そのままの人
信
乃
して お り ま し た 。
と名づけられた名前だそうでございます。父は﹁だから自分は何事も終りまで成しとげるように心がけている﹂と申
くなり、そのあとに生れたからと聞いております。徹と申しますのは、後で、尊敬する方から物事を徹底するように
思い出すままに書いて見るこどに致します。父は幼名を幸三郎と申しました。その訳は男の子が二人生れて直ぐ亡
こうざぶろう
何とお礼を申上げてよいか分らぬ程でございます。
でございます。特に秋山先生には、読みにくい昔風の字を原稿用紙に写しなおしておられると聞ぎ、そのお骨折には
れて認めました﹃恥か記﹄が出版されることになりましたことは、私共遺族にとりまして実に思いもかけぬよろこび
今度明治学院百年史編集委員の方達のご好意により、夫・三浦太郎︵一八八ニー一九四〇︶の父.三浦徹が折にふ
浦
小さい頃から、沼津藩主水野侯の若君のお相手に上っていて、帰りにお菓子を頂くのが一番嬉しかったと申してお
りました。
古武士の悌そのままの凡
1
三
吉武士の儂そ0衷まの人
肖父ばなかなかの美青年で、蠣爽とした馬乗姿は実に美事で、若い娘のいる家々では、﹁ほら、三浦の幸さんが馬で
,
父
ひろ
曲ち玉
千尋は、江川太郎左衛門の門下生で、砲術の免許皆伝の巻物が今も残っております。父は鉄砲が好きで上手
来るよ﹂.といっ﹁て窓を閉めたものだったとか申します。
で、よく舟で千葉方面へ行っては鳥をうった話を致しました。何不自由のない身分でしたし、何でもいろいろ好きな
ことが出来たようでございます。
十八歳の時志を立てて外交官になる目的で上京しました。それには先ず第一に英学だと思い、英国宣教師デビソン
氏の許で、日本語ピ交換で英語を学んでおります中に、氏の立派な性格に魅せられて信者となり、遂に牧師にまでも
なり ま し た 。
父は写真をうつ・すのが好ぎで沢山ございますが、それを見ますと、年代によりその性格の移り変りが分って面白い
のです。十七、八歳頃の青年時代は野心に燃え、寧ろ奔放とも思われる位ですが、キリスト教に入ってからは、その
ヘ ヘ ヘ へ
容貌が温和に、上品になって来ました。
父はおしゃれで、足袋はめうがやに自分の足型を持っていて、晩年になるまでここのでなければ穿きませんでした。
そして義太夫、寄席が好ぎでしたが、相撲と歌舞伎は嫌いでした。義太夫はインテリの竹本呂昇がひいきで、私もお
伴をいたしたことがございます。食物はうなぎ、そば、餅莫子など好物でしたが、また大のハイカラで、朝食は、パ
ンとコーヒー又は紅茶、コーン・ブレイクやオ聖トミールなどでした。若い頃は衣服もすべて洋服だったそうです。
銭湯が好きで、家に風呂があるのに洋装で銭湯に行ったそうでございます。これ程好ぎだった洋服も、晩年には和嚴
許り着ておりまし虎。
2
﹂父が日本橋教会の牧師になりました時、﹁三浦の徹さんがやそになったそうだ﹂といって、親類縁者は申すに及ば
も へ
ず、日曜日には我も我もと押しかけて参りましたので、母はそのもてなしに大わらわだったそうでございます。父は,
金持牧師といわれていたそうでございます。何しろ浜町には三浦銀行があり、銀座四丁目の今の三越の隣には貸家も
持っていたそうでございます。然し、いよいよ美露さん︵ミスタ.ミラー︶と共に盛岡へ伝道に参ることになりまし
た時には、家の財産や家財道具のよい物は魚網にやって、自分は無一物となり、月給だけでつましい生活を致したそ
うでございます。
父の父が亡くなりました時、その葬式の世話をしていた親しい人が香典をそっくり持って逐電致しましたとか。然
し父はその人を逐わず、その儘にしておきましたそうです。何十年も経ってから、その人は罪を悔いてあやまって来
ました。そして罪亡ぼしのつもりか、父を大阪へ招待して呉れました。
父が盛岡におりました時、一人の青年が信者になりました。その人は屡々誘惑に負けて行衛をくらましました。す
ると程経て夜中に父の寝室の雨戸の外で﹁先生! 先生!﹂と如何にもかしこまった、しのびやかな呼び声がして、
放蕩息子のように帰って来たのだそうです。この話をする時、いつも父の声はふるえていました。そしてこの人は何
度もこういうことを繰り返している中に、とうとう行方不明になってしまいました。所が後年突然、実直そうな中年
の商人風の人が、私共の今里町の家に訪ねて来ましたが、実にそれはかっての彼の青年でした。、父の喜びようは大変
なものでした。大島紬の取引をしているとかで、お土産に上等なものを一匹持って参りました。
父はあらゆる階級の人と親しくし、又愛されもしました。話題は豊富、話しぶりは上手で面白く、同じ話を何度聞
いても硬きませんでした。隣室で聞いていた母は、 ﹁その話は四度目﹂とか、 ﹁五度目﹂とか書いた紙切れを父の所
古武士の悌そのままの人
3
古武士の悌そのままの人
へ届けたそうでございます。
父は愛妻家だったと思います。よぐ亡くなった母のことを﹁おりうが﹂ ﹁おりうが﹂と何かにつけて申しておりま
した。この母は七年間も肺結核で床についておりましたそうですが、父はやさしぐ世話をしたそうでございます。毎
朝魚屋が来ますと、自分で生のいいのを見立てては、井戸端でたすきがけで刺身をつくったりしたそうでございます。
いぎ
当時、三島教会は日本家屋で、二階が礼拝所でした。父は階下にやすんでおります母の耳に聞えるように、大きな声
で説教をしたのだそうでございます。
私が初めて父に三島で会いましたのは明治四十四年で、波をうった美しい白髪と山羊髭が印象的でした。この髭は
母が亡くなってから貯えたのだそうでございます。或時私は義妹しのぶに、 ﹁私は先生のように立派な方は見たこと
がありません。私の一番尊敬する方は三浦先生よ﹂と申しました。すると妹は、 ﹁でも母の方が父よりもっと偉い人
でした﹂と申しました。私が三浦太郎と結婚︵一九=二年︶致しました時には、もうこの母は此世におりませんでし
たので会うことが出来ず、.誠に残念で堪りません。父がデビソン氏に、この人︵納跨りう︶を妻に選んだことを告げ、
まし識ら、 ﹁あの人は体が弱そうだから止めた方が宜しかろう﹂と申されたそうですが、父は初志を通してこの人と
こ う も と ま こ
結婚を致しました。
日本で最初の婦人長老となられた、富士見町教会の河本平担子さんと、自由学園創立者の羽仁もと子さんは共に、
盛岡で父から洗礼を受けられた方々です。
父は実にぎちょう面で、勤勉家でした。大きな机はよく整頓され大小の引出しの中はどこに何が入っているか、暗
闇でも分るようになっておりました。一番深い引出しには、大工道具一切が入っていて、仕事に倦ぎた時などいろい
4
うな手仕事を致しておりました。植村正久先生は父のこういう処を見て、 ﹁君はそんなことをしているから偉くなれ
ないんだよ﹂といわれたと、父は私に.話したことがございます。
三浦の家は父の祖父が奪入りして来ました頃は貧しかったそうでした。この祖父は頭よく、一寸した日用品を造っ
て売って見ると、それが当ってよく売れました。そういう事が何回もあったそうでございます。この祖父は又俳句も
よくし、仲間同士本も出しておりました。沼津の屋敷内に、自分で考案した地震に強い家を建てて、孫幸三郎をかわ
いがっていて、夜は二人でそこにやすんでおりました。或時夜中に大地震が来ました。父はまだ小さい時で、恐くて
恐くて早く外へ出たいのに、その頃盲目になっていた祖父にしっかり手をつながれ、 ﹁慌てると怪我をする、慌てる
と怪我をする﹂といって、ソロソロ、ソロソロ歩くので、気が気でなかったそうです。父には大にこの祖父の影響が
あったのではないでし・うか・その時母屋は心いや奮になりましたが、この離れはビクともしなかったそうでござ
います。
父は書をよく致しました。いろいろな方から頼まれた時は、先ず画すりから始まり、毛鶴を敷いて、大きな筆で、
聖書の旬などを書いておりました。当時の牧師の中では仲々の書家だったようでございます。雅号は二州と申しまし
た。それは、初めは日本橋教会におり、のち両国教会を継したからだと聞いております。
順序もなく思い起こすままに書きましたが、まことに父は温くやさしく、それでいてきびしい処は飽くまでもぎび
しく、古武士の悌そのままの神の仕え人でした。父は私が心から尊敬する人でございます。
古武士の佛そのままの人
5
滋
藤
英
一
は今員ながらへている四十五歳以上の人たちには、多少ともその記憶に残っていることと信ずる。
﹁亡き父、三浦徹は、伝道のかたはら、好みて筆をもち、青少年にむかって基督教の宣伝を試みたのであった。是
かなるものかを示すに最もふさわしい文章であるので、そのままここに引用しておく。
右の三篇の前には、三浦徹の長男太郎が亡父の手記について書いた次の文章が載せられている。 ﹃恥か記﹄とはい
語っている。
スタント伝道北まつわる苦心談とでも呼ぶべきもので、その具体的な記述は当時の伝道上の困難をきわめて直裁に物
激昂せしめたる事﹂ ﹁青梅にて説教のできざりし事﹂の三篇が収載されている。いずれも、明治初年におけるプロテ
︵昭和五年.アルパ書店︶によってである。同書には、右の手記の中から、 ﹁押川方義氏の事ども﹂ ﹁千葉の僧侶を
三浦徹牧師に﹃恥か記﹄と題する彪大な手記﹂のあ為ことを知ったのは、卜部幾太郎編﹃日本伝道めゆみのあと﹄
題
題
解
口
解
父は、説教でも、結婚式でも、葬式でも、祈祷会の講話でも、悉くそれを原稿に認めて、それを演述されたもの
であった。彼はその原稿に、語りたる時日と場所とを丁寧に記入して、それを記録として保存している。妾に掲ぐ
るものは、その書き遺されたる旧記のうち、僅かに三章を書き抜きたるに過ぎない。
父の旧記のうちには、﹃恥か記﹄︵五巻、百三十八話︶、﹃続恥か記﹄︵六巻、九十五話︶、﹃続々恥か記﹄︵十一巻、
百七十話︶、﹃三続恥か記﹄︵七巻、八十二話︶といふ、二十九巻の大部のものがある。是は自己の履歴より始まつ
て、多くの見聞批評に終ってをる。その趣旨は団自己の恥を書き遺こすまでであって、其れを他人に示す意はな憐
ったらしい。
故に他人の名も隠さず、自分の恥と同様きはめて卒直に書いてある。押川、植村ハ井深、北原、石原、伊藤、桜
︵三浦太郎︶﹂︵卜部編前掲書・一九九−二〇〇ページ︶
井、奥野、小川、安川、其他の諸氏にも及んでをる。併しぺーヂに制限があるから、左の三時置坐することにした。
7
右の文章が書かれてから、四十数年を経た昭和五十一年、文字どおり久しく筐底に蔵されていた﹃恥か記﹄ ﹃続恥
し の
か記﹄ ﹃続続恥か記﹄の原稿を、三浦信乃姉︵太郎氏未亡人︶をはじめ三浦家の方がたのご好意によって拝見するこ
とができた。一章一章を閲読するにつれて、日本プロテスタント史研究上きわめて貴重な史実や逸話が数多く含まれ
ていることがわかった。当初、この﹃恥か記﹄の閲読を希望したの億、明治学院百年史編纂のためであり、特に、従
来の明治学院史研究において、最も手薄であったスコッ干ランド一致長老教会関係の資料を、同ミッションと関係の
深かった三浦徹の手記に期待してのことであった。もちろん、この点に関しても予期した以上のものを発見すること、
題
ができたが、ただ単に学院百年史編纂の資料として独占するには余りにも貴重な手記であることを痛感し、いつの日
解
,題
かこれを活字として、広く日本プロテスタント史研究家や日本近代史の研究家の利用に供さねばならぬことを感じて
いたのである。
幸い昭和五十二年十一月、明治学院百年史を上梓し、五十二年度内に﹃明治学院百年史資料集﹄全七巻の刊行を終
えたので、ここに改めて、﹃明治学院史資料集﹄編纂の仕事を開始し、そこに収録する最初の資料として、右の﹃恥か
記﹄をとりあげたのである。毛筆による草稿を原稿用紙に書きとる最も困難な仕事は、明治学院史料室の秋山繁雄氏
が担当し、その原稿を平林武雄教授が校閲した。
二
﹃恥か記﹄の筆者である三浦徹牧師を知る人は、現在きわめて少いであろう。日本プロテスタント史の研究家の間
でも、三浦の名を知るものは決して多くはない。その略歴については、拙稿.﹁東京一致神学校開校当時の人びと﹂
セ治学院百年史資料集﹄第一集所収︶の中で、約六ページ︵九五−一〇一ページ︶にわたって触れたので、ここに
三浦徹︵一八五〇i一九二五︶が、沼津の水野藩士の家に生まれ、主家の転封により上総国市原郡菊二村に移り、
明治三年上京してフランス式兵学を学んだが、明治四、五年に英学に転じた。それは、三浦が外交官を志望し・てのこ
とだったともいわれるが、それを契⋮機として築地居留地において、アメリカ長老教会の適適ゾルスやスコットランド
一致長老教会のダヴィドソン︵デビソン︶等の宣教師と接触し、やがて明治八年九月二十二日、ダヴィドソンから受
洗するに至った。受洗当日の情景については、 ﹃恥か記﹄第五巻八十八章に記されている︵一=一ページ︶。・
三浦の属した水野藩は徳川の譜代大名ではあったが、戊辰戦争には官軍側につき、三浦も名地に転戦している。し
8
解
は詳述を避ける。その人柄については三浦信乃姉の別稿に詳しい。
(『
かし三浦は、維新後の社会で安定した進路を見いだしていくことはできなかった。かれが、キリスト教の伝道者を志
すに至ったのは、もちろんかれ自身の信仰のゆえもあるが、そのような社会的進路に将来を托す以外に生きる道がな
かったからでもあった。
明治九年の夏、伝道者となるための勉学を志して、三浦はダヴィドソンに師事し、スコットランド一致長老教会ミ
ッション派遣の宣教師たちの薫陶を受けた。 ﹃恥か記﹄第五巻軸八九章には、当時三浦が受けた入学試験についての
記事がある︵一=ニページ︶。三浦自身、﹁其簡略なりしことは驚くばかりにして﹂と回想しているが、・地理の試験問
題などは現在の中学の入試程度のものであった。
明治十年の東京一致神学校の開校とともに、三浦は同校に移った。かれのほかに、スコットランドの長老・、・ッショ
9
ン関係で、同校に入学した人物としては、横井元峰、重富柳太郎ならびに石井勘太郎がいたようである。特に、石井
勘太郎は、三浦の手記によってはじめて紹介されたコー途な伝道心に燃えながら、学業なかばにして世を去った﹂神
学生である︵﹃続々恥か記﹄第十巻・一五三章﹀。
周知のように、東京一致神学校は、アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会ならびにスコットランド一
致長老教会の三ミッションが合同して開校したものである。しかも、その背景には、当時の日本国内における日本基
督公会と日本長老教会との合同による日本基督一致教会の形成があったわけである。いうまでもなく、これらの合同
のいずれも、各ミッション・各教会が対等の立場に立っての一致・合同にほかならなかった。しかし、東京一致神学
校についてみると、その入学生においては、横浜のブラウン塾出身者が多数を占め、同校における指導権を掌握する
麺
かの感が強かった。かれらが、日本基督公会の信徒であることはいうまでもない。これに対して、東京築地において
解
にて開催︶で、教師試験に合格したものとして、三浦の他に、井深梶之助、植村正久、瀬川浅、田村直臣、重富柳太
一致神学校卒業の年の明治十二年の十月三日には、三浦は教師試験に合格した。その第六回中会︵東京新栄橋教会
千葉での仏教僧侶との激しい対立と討論につ.いては、﹃恥か記﹄第五巻第九十一章に詳しい︵一一五ページ︶。
に神学校入校以前から、三浦は、スコットランド・ミッションの宣教師とともに、近県の伝道に従事していた。特に、
三浦は、神学校在学のまま、明治十二年四月二日の日本基督一致教会国会において、教師試補の准允を受けた。既
って居る。﹂︵五三ページ︶
一見して遥に首座を占めて居る。従って我等長老主義の為に奮戦した者は、三浦翁の歎息せし如く実際日蔭者とな
建設時代と塾せる章を読む時は、殆ど全章無宗派主義の歴史を以って埋められて居り、長老教会主義の歴史よりは
息の声を発せられた。繁れでも恐らくは大会の手に依ってなりし日本基督教会歴史を開き、第二章の日本基督公会
られた日本基督教会略史を手にも、 ﹃田村君、此の日本基督教会の歴史を読むと、我等は日蔭者だな、﹄と一言歎
﹁先日、私は病床に在りし三浦翁を、東京市外の落合村の自宅に訪れた。翁は日本基督教会大会事務所より発行せ
いする。
についてはなお考証の余地を残すが、田村のいう﹁横浜党﹂11無宗派主義に対する三浦の晩年の述懐として注目に値
た三浦について、田村直臣の自伝﹃信仰五十年史﹄・︵大正十三年.警醒社︶は、次のように述べている。記事の内容
強い対立意識をもってかれらに対峙した。この点に関して、スコットランド一致長老教会ミッションと関係の深かっ
カロゾルスの薫陶を受け、長老教会に所属していた田村直臣のごときは、ブラウン塾出身者を﹁横浜党﹂と称して、
題
郎、北原義道がいた。三浦は、明治十四年、母教会である両国教会の牧師に就任するが、同教会の創立︵明治十年十
10
解
二且十八日︶当初から執事の職にあ馴、仮牧師ダヴィッドソンの通訳ないしは日本語教師として同教会に深く関係し
ていた。
このように、三浦は、スコットランド一致長老教会ミッションときわめて密接な関係にあったが、明治二十年両国
教会を辞し、翌二十一年、アメリカ・オランダ改革派教会の宣教師E.R.・、・ラー︵当時ミロルと書かれていること
が多い︶夫妻とと慰に、岩手県盛岡に移り、同地の伝道に従事した。この時期に、三浦がなぜスコットランドの・、・ッ
ションかろ改革派ミッションに協力関係をかえたのか、その理由はさだかでない。ただひとっこの点に関連してい、回
ることは・明治十五年からミラー夫人が﹃喜のお鶴れ﹄を発行しており、三浦がその編輯に関与している点である。同
年三月発行の﹃喜の音﹄墨型第一号には・編輯蓄.襟バしとして、﹁東京雲華殻町壱丁目三浦徹﹂と記さ
11
れている。このことから、三浦とミラー夫妻と親密な関係が始まったと考えられないことはない。
盛岡時代の三浦の活動については、上田哲・ホーレンシュタイン編著﹃岩手福音宣教百年史﹄に若干の記述がある。
ミラー夫妻と三浦の赴任の事情に関して、次のように述べられている。
﹁明治二十年代に入るとプロテスタントの伝道の活発化がみられる。米国ダッチリフォームド・、・ッション外国伝道
局の宣教甑窮ブ・アール・ミロルが二十年に夫人と共に北海道よりの旅行の帰途盛岡により、岩手の自然と人情に
感じ、この土地に伝道することについて具申した。リフォームドミッションで協議の結果、・、・ロル夫妻と日本人伝
道者二名の派遣を決定、二十年の末に伝道師林竹太郎が盛岡に先発して着任、外加賀野に伝道所を開いた。これが
一致派11日本基督教会の岩手における伝道の始めであった。ついで、翌二十一年三月・、・ロル宣教師と三浦徹教師が
題
着任した・同年の四月小山陽吉ら芳名の青年男女が受銑、日本基督教会の岩手龍おける初めての僑者となつ旋。そ
解
解 題
の後三浦徹は下小路にミロルは上田に住して伝道を展開した。﹂︵九七ページ︶
明治二十五年から二十六年にかけてのミラー夫妻の帰米中には、ピヤソン、ウィンの婦人宣教師が盛岡に来て、三
浦に協力した。ミラ奮は、アメリカ信徒の献金をもって盛岡に戻り、それを資金として、盛岡日本基督教会の会堂建
設が進められ、二十九年一月献堂式が挙行された。当時、青年学生層を中心として、教会員は七、八十名に達したと
いう︵前掲書・九八ページ︶。
盛岡を拠点として、岩手県下の花巻や一ノ関への伝道もおこなわれた。特に一ノ関については、 ﹁明治二十七年八
月三浦徹教師が佐藤詮蔵を伴って地主町で説教会を開き、これを端緒に同町に講義所が設けられ、初代の主任者とし
て宮川巳作が定住した。﹂︵一〇一ページ︶という。佐藤詮蔵は明治二十六年、宮川巳作は同山二十一年、いずれも明治
学院神学部の卒業である。
三浦が盛岡を去った時期については、従来明治三十二年とされていたが、左に引用する﹃福音新報﹄ ︵明治三三年
九月十九日号︶の記事から、明らかに三十三年九月と考えるべきである。同月二日の説教が、盛岡における最後のも
のであった。
﹁ 三浦徹と盛岡講義所
明治二十一年より盛岡日本基督教会講義所に於て十二年間一日の如く伝道せられし三浦需品今回静岡に転任せらる
の ママ ることとなり去月卦一日夜牧師館に於て送別会を開けり。来会者五十余名、中に浸礼、美以両教会の牧師も見受た
り。席上三浦氏は過去十二年間に於ける教会の歴史を演べ更に盛岡人士の長処と短処とを挙げて将来を警められた
り。氏の談によれば同士赴任以来の授洗者は百八人︵小児共︶転出者四十四人、転入者三十八人、死亡六、除名一、
12
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㌧
♂ ,
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〆
ワ、
昭和五十三年十二月十,日印刷・
昭和五十三年十ご且十三a.発行 、 ・う‘
明治学院三三三三,︻第八集︼
東京都港区白金台一メごノ三七・
編集代表.平﹂林♂武,志雄.、、
東京都港区白金台一ノ、ニノ三七
発行者金井信﹂・郎
発行所 明治学院百年史委員会
東京都港区白金台一ノニノ三七∴
電話︵〇三︶﹂四四八Ψ五一一八八
東京都墨田区文花三≠一八ノ一四、
印﹁刷所 ・.育英印刷興業株式会社
電話︵六一七ゾご入四六・九二三六.
445
禁餐四・失面一・成長陪餐一にして現在の会員は男十七、女十三、小児九、計三十九他県に在る者五十三人なりと。
又講義所設立当時の信者は皆単純なる信念を有し何の集会にも決して欠席することなかりしが、両三年を経て京地
より来りし一信徒が東京の教会は斯く斯くにて集会のある毎に出席する者とては皆無なりなど唱へ規則正しく教会
ママ
に出つる者を冷笑せしょり、一般に信仰上の態度くつれ礼拝にすら出席するを怠るもの多きに診れりと語られたり。
同氏は九月二日の聖日に告別の説教せられ中旬を以て盛岡を出発せらるる由。﹂
その後三浦は、明治三十三年から三十五年まで、静岡市に伝道し、爾後大正五年まで三島教会を牧した。同五年か
ら七年までは、高輪教会仮牧師として説教を担当したが、それ以後は健康を害してこれを辞任した。 ﹃福音新報﹄で
は・大正十四年九月、同誌記者を東京・下落合の三浦宅に派遣してその病床を訪問させ、九月十日号の二週一人﹂
13
欄にその記事を載せた。これはおそらく、生前における三浦に関する最後の記事であろう。またそこでは、かれと
﹃喜の音﹄との関係について詳しく触れられている。同記事の全文は、﹃明治学院百年史資料集﹄第五集に収載して
ある ︵ 一 八 五 ∼ 一 八 六 ペ ー ジ ︶ 。
﹃福音新報﹄大正十四年十月八日号は、三浦の永眠を次のように報じている。
﹁三浦徹氏 予ねて病臥中の落去三十日死去せられ三日高輪日本基督教会にて其の葬儀執行せらる﹂
葬儀に際して、井深梶之助は、故人の遺言によって式辞を述べた。その原稿は、前掲資料集.第一集に掲載されて
いる︵九六∼一〇〇ページ︶。その終りの部分で、井深は三浦の﹃恥か記﹄について触れ、病床にあってもなお執筆
を続けていたと記している。そしてその回顧録の最後に、三浦は詩篇十六篇六節を引用し、 ﹁感謝﹂の二字をもって
題
筆を欄いたという。おそらくそれは、 ﹃三続恥か記﹄の最後の部分であろう。
解
のうしょりゅうこ
って、キリスト教による葬儀は禁止されていたため、当時のキリスト教徒は、一般に、まず申しわけ的に合法的葬儀
べて神官僧侶によっておこなわれねばならなかった。この太政官布告は、明治十七年十月まで命脈を保っていた。従
話である。周知のように、明治五年六月二十八日の太政官布告第一九二号によって、 ﹁自明﹂が禁止され、.葬儀はす
キリスト教式葬儀を拒否され、やむなくまず仏式の葬儀を挙行し、そのうえでキリスト教式葬儀をおこなったという
第一.二四章の﹁諸仏実教葬礼の事﹂は、、井深梶之助の実妹たみ︵真野文二夫人︶の死に際し、婚家先の父によって
一致英和学校の卒業生である。
ロウ﹂等の作曲者として著名な納所弁次郎︵一八六五∼一九三六︶は、柳子夫人の弟であり、明治学院の前身、東京
納所柳子との見合い、結婚式についての手記もまた、同様貴重なものといえよう。なお、 ﹁うさぎとかめ﹂ ﹁モモタ
塾の入試のことなどは、明治初年のキリスト教の実状を知るうえで貴重な資料であることはいうまでもない。また、
らかのように、ここでは回想的伝記のようなものをまとめる意図が強くみられる。すでに触れた受洗時の模様や神学
年十月二十一日の段階で﹁まえがき﹂を付してとりまとめたのが、 ﹃恥か記﹄全六巻である。 ﹁まえがき﹂からも明
明治二十六年春頃から、三浦は、みずからの過去を回想レつつ、年代を追ってその思い出を書ぎ綴り、明治二十六
されていない。
以下、号を追って全巻を紹介する予定であるが、・現在のところいまだ三浦家の書庫から﹃三続発か記﹄全七巻は発見
本号に濫発する﹃恥か記﹄全六巻は、総計二十九巻・四八五章にわたる三浦の手記の初篇ともよぶべき部分である。
三
題
をおこない、それとは別にキリスト教式葬儀を挙行することが少なくなかった。しかし、禁令を無視してキリスト教
14
解
式葬儀をおこなうものも皆無ではなく、その場合、僅かの﹁賭罪金﹂をとら理るか、まったく何らの処分も受けない
ケースがみられたのである。しかし、明治十六年の段階において、井深下之助のような指導者の周辺においても、な
お右にあげたような現実のあった点注目すべぎである。
明治二十七年五月二十六日の日付で書かれた﹁続恥か記緒言﹂によると、執筆の動機や内容についての若干の変化
がうかがわれる。その点につぎ、次のように三浦は記している。
﹁続航か記は名の如く続書か記なり、恥か記は一度やれば沢山なるに何故わざわざ討論をかぎたるや、自分ながら
理由は分らず、強ひて理由を求めたらんには、恥か記に書き落としたるものあるを思ひいだしたると、前には一個
人の性行等に関係あるは多く記さざりしが、後には考へかはりどうせ世に公にするものにもあらざれば記しておく
15
もよからんと思いいでたるものとを集めたるなり︵後略︶﹂
明治三十二年二月八日の日付の﹁続続恥か記のはしかき﹂は、次のようなものである。
﹁続恥か記の成りし頃はもしやかくこともあらざるべしと思ひしに又思ひつることから、見聞することかも、此の
こと、彼の事と手帳に記して備忘としたり、光一年の五月までは聖経課程発行の為に寸暇なく、いつ筆・とることと
なるべきかは知るよしもなかりしが同月中より課程のことは他にまかせ、少しは余暇を得ればと思ひしは空頼にて
六月よりは病にかかり、病院に入り、七、八、九月は休養し、其の月頃よりやや筆とる時のあるにまかせ、さてこ
そ手帳に記したるを種とし.暇さへあれば筆をとらて遂に又第一章より第百三十四章に至りぬ、然し此の分にては
いまだかくこともあらんにとて第九巻には白紙をさへ附しおぎたり、第百光四章にて筆を欄ぎたる、は升三年二月六
題
日に一ありける、﹂
解
のこと、或いはかわゆる内村鑑三不敬事件についての秘話ないしは真相等々、興味ある事柄が、きわめて明快に記さ
えばハ初期の教会における謎の人物のひとり安川亨のことやアメリカ長老教会宣教師0・M・グリーンの遺伝性病患
手記には、、自分以外の人物とりわけキリスト教界のさまざまな人物の逸話や秘話の類が比較的多く含まれている。例
以上の緒言ないしはまえがきから推測されるように、自分自身の回想に限定された﹃恥か記﹄よりも、それ以後の
題
れている。それゆえ、日本キリスト教史研究にとっての貴重な資料は、﹃続恥か記﹄や﹃続続恥か記﹄により多く期
待できるのである。
16
解
恥か 記 の ま へ が き
記
自第 一 必
至第二十章
のことは妙なりと思ひいつることあレて履歴のうちにかかばやと
てさへ是く思へば、あかの他人が見た砂んには何の為に是を加へ
潜く木端を噛む心地するもあるに至れり。自己が其主人公となり
こっぱ
然し、中には強ひて一章に加へたるもあれば自分ながら面白くも
き、、これもありきと次第に其著増して遂に一百四十章とはなりぬ。
初ば二、三十章もあらんかと思ひしに記して見ればあれもあり
わざとはなりしなり。
不似合なり、よし、別に一冊にものして見んとさては此恥か記の
思ひしこともあれど、是くては徒に長くのみなりて履歴としては
ママ
には、面白くもあり、益もあらんとて俄に筆を執り、書くことと
加りて程なくできあがりぬ。書きて行く間に彼の事は奇なり、こ
なり、よきことは教訓ともなり、時々取出だして読みで見たらん
六年の春頃、余が幼き時よりの履歴を記したらば、失敗は警醒と
おさな
此書は不図したるできごとより書きたく思ひしなり。明治二十
か
第 一 巻
たるの観あり。
しきもσをさへ加へしが、冒頭の数回の如きは蛇足に蛇頭を添へ
せめて一度草稿を為して、而して清書したりしならば、まだ幾
分か読みよぎ文もできたらんが思ひいだすままに其儘筆とり草稿
清書兼帯なれば﹁これは﹂と思ひても其儘強ひて﹁こじつけ﹂た
ママ
るところなど頗る多し。時としては害なき限り事実是くはあらざ
べきを忘れて後から無理に加へたるもあり、又はどうしても云ふ
りしがと思ひても其儘に過ぎゆきたるところもあり、又前にいふ
べき場合を得ずして止めたるもあり、どうせ恥か記なれば。
余は筆とりて書くことは好みたれど、さりとて飽きたることも
あり、又近頃は白髪の増すと共に眼力も衰へ、眼鏡ありても夜な
かぬる所も少からず。
ど困難を感ずることもあり、是の如き時にかきたるところは読み
ママ
たるは明治三年遅春よりにして、それさへ見聞したる事実を精し
事実は大慨まちがはぬやうにとしたれど余が日記をかきはじめ
おまけに
く記てはあらず、加之、明治六年十二月一日より九年八月三十一
たりやど思ふもあらん。余が妻女さへ﹁自分のみ面白がりて気違
ひじみたり﹂と云へり。然し、是が恥か記の恥か記たる所ならん。 日までは築地新栄町に勉学中、類焼にかかり焼失したるか失ひし
か、無し。故に時日の分明ならざるもの多し。又旧友などの知る
幾分か利益あらしめんと思ひて各章に聖書の語を加へ、教訓ら
恥か記 第一巻
17
恥
恥か記 第一巻
ものあらんかとて照会したるもあれど満足なる回答に接せざるも
あり、又記して後に得たるもあり、是等は其儘に為しておきぬ。
人の不徳を発くに似たる所もあれど事実なれば記名を書きたる
もあり、三世に公にするものにあらざれば。
第 四
第 六
第 五
第 七
第 八
第 十
巻は分ちて六巻となせり。第一巻斗一章より第二十章まで、第
二巻第二十一章より第三十八章までは、余が一歳より十七歳の正
月に至る十七年間、即ち嘉永三年より慶応二年までに見聞したる
第 九
ことなり。第三巻第三十九章より第四巻第八十七章までは余が御
奉公人となりたる時より基督信者となるまで十年間、即ち明治八
第十
第十
年九月まで。第五三三八十八章より第六巻第百三十八章までは信
又第十
第十
第十
第十
第十
第十
第十
第十
閻魔を恐れて泣く
大人と競争して敗る
かけくら
御覧に失敗す
講義を素読す
弾丸なくして的中す
火の玉を見る
鉦を叩きて僧侶を困らす
知らずして叔父を訪ふ
偽りて父に叱らる
光る刀にて大将と為る
矢田部良吉氏と捻合ふ
もくし
箱根氏に叱らる
上士威張りて失敗す
盲人に書物を教へて嘱す
ほ か
犬を以て盗賊とす
百打をして誇る
ひやくうち
水中に放下さる
温泉場にて女を驚かす
章 鈴木氏の令嬢を打つ
第二 十章
︵岡見氏家庭回︶
九八七六五四ご申
立立立立立立立立立立立網山立立立立
早早早早早早早早早早早早早早早早早
章 某氏を斬らんとす
18
者となりし時より明治二十五年七月二十二日に至る十八年間のこ
とと知るべし。
第百三十八章にて筆をとどめし後、思ひいだしたるものもあれ
ば或は追加として又記すこともあるべし。
目録
盛岡に於て
明治二十六年十月二十一日 二州生野
恥か記
第
第第二
第闘 巻
常徳院殿に召さる
某氏草履を失ひて泣く
御隠居さんと叫ぶ
__
ェ
十十
第 一
第 二
第 三
出立立
早早早
調練の奇事、木を以て竹に接ぐ
山本氏怪我す
危険を免かる落魚隠たる
しびん
緋ズボンをはく
三瓶にて手を洗ふ
ころが
石を回して堂を倒す
麦人に化さる福二の爪
将軍を送迎す
木より落ちんとす
鈴木氏河に落ちて母を呼ぶ
近眼者失策す纏嬰のこど
酒を飲習はんとす
ぎゃくまと
おぎなます
客的に官を辞す
沖膳を初めて食ふ
柴田氏の息水死す
名人と舟を競ひて失敗す
子は 親 に 似 る
第四十三章
小隊長として困難す
わぎが りやう ぶ
第四十四章 大力者を見る醍霧炭
第四十五章 甲府人、人数の多少を以て藩の大小を区別す
第四十六章 身響困らす叙勲氏
第四十七章 三物屋おだてられて損す
第四十八章 嚢物屋に洋服を命ず
第四十九章 紙帳に落書して怒らる
.第五 十章 腋臭一両二分に価す
第五十一章 うなされさする
第五十二章 御油断あるなと叫ぶ
第五十三章 纏頭して失敗す
第五十四章 甲府人傘を貸す
第五十五章 田舎芝居を見物す
やぶにらめ
第五十六章 藪鰍の妻女を怒らす
第五十七章 魏取り失敗す難嬰のこと
富士川下り船
三子を困らす
婦人に挑まる
箱根山に斥候す
三島関門にて叱らる
伊藤某氏に欺かる
柏崎氏と望月氏
甲冑を着る
第五十八章
第五十九章
第六 十章
第六+一章
第山ハ十一二立早
第四巻
鱗叩山ハ十二立早
嚢物 屋 の 主 人 毅 勤 に 過 ぐ
て い ね い
切腹 し て 金 を 借 り た る 人 に 感 ず
教訓 を 旧 く る に 道 あ る と 感 ず
か 記 第一巻
19
某氏の家庭に驚く
十十十十十十十十十 十十十十十十十
八七六六五四三ニー十九八七六五四三
立立山立立立立立立立立立立立列立立・
早早皐早早早早早早早早早早早早早早
ま , 早早早早
又
第第第三第第第第三第第三第第第第第
第
第第第第三
四四四三巻
十十 十
恥ニー十九
恥 か 記 第一巻
三山ハ十晶ハ立早
己が犬を撃つ
第五巻
握手を遁げらる
説教できず
銅像の胸に銘す
車夫水瓜を矯む
すゐくわ
落雷を預言す
廃と拝と間違ふ
媒介して失敗す
某嬢目的を誤つ
納所嬢と談判す
千葉の僧侶大に激昂す
千葉県庁に広田氏と議論す
入学試験の容易なるに驚く
見証人一人の前に洗礼を受く
第八十七章 氷を解かす
佐野某氏を罰す
新庄家の人を救ふ
父の金を浪費す
海を歩む
某氏放火す
英語を用ゐて帽子を買ふ
通弁と思はる
郵便を初めていだす
ぽけもの
人力車に初めて乗る
フリーム氏を叱る
妖怪を見んとす
北川氏大に変化す
基督教を信用す
旅亭主人客を追出だす
カステラを解かす
おめしもので間違ふ
南小柿氏大阪を知らず
歌の名人に驚く
隣室の客と論ず
20
一本燈心にして叱らる
第八十八章
第八十九章
第九 十章
第九十一章
第九十二章
第九十三章
第九十四章
第九十五章
第九十六章
第九十七章
第九十八章
第九十九章
第 百 章
第百 一章
御葬送に御先乗す
鶴及び雁を打つ
良心に負ける謬菱巡査に
やとりをんな
罪あれば恐る 望月某氏の盗
駒留氏をなぐる
矢取女の畑眼に驚く
故郷を誇る
立 立 立 出 立 立
早・早早早・早早
第六十四章 舟を流して狼狽す
ぬぎで
第六十五章 抜手にて漁夫を驚かす
第六十七章
第六十八章
第六十九章
第七 十章
第七十一章
第七+二章
第七十三章
第七十四章
第七十五章
第七十六章
第七十七章
第七十八章
第七十九章
第八 十章
第八十一章
第八十二章
第八十三章
第八十四章
第八十五章
第八十六章
第第第第第第
百百百百百百
七六五四三二
第百 八章 京橋まで二円八拾銭取らる
第百 九章 日本貨幣は通用せず
第百 十章 富士山の嶺は晴る﹁
す
第百十一章 金時計を槍らる
第百十二章 虎屋の下女を叱る
第六三
三百十三章 疑心暗鬼を生ず
第百十四章 木賃宿に泊る
第百十五章無道理を得
第百十六章神宮閉.口す
第百二十九章
庚申山にて嘔吐す
第百三十章 知った振で失敗す
第百三十三章
三所若松の書風を感化す
日原の奇事
女を男と思ふ
傘を指して湯に入る
小佐越橋にて震へる
第百三十四章
上杉氏と奈良に遊ぶ
老人家を移す
第百三十五章
白髪弥メ増加す
第百三十一章
第百三十山ハ立早
下三三帳を焼く
第百一二十二立早
第百三十八章
回申引用聖語出処
第百三十七章
利未記︵注・レビ記︶ 略字﹁利﹂
第百十七章 村田三三を喫す
第百十九章 二円五十銭の電報料に喫驚す
二十一。六︵九七︶
撒母耳前書︵注・サムエルぜんしょ︶
略字﹁母上﹂
十。十七︵一〇︶ 三十二ゆ二十く九九︶
申命記︵注・しんめいぎ︶ 略字﹁申﹂
二十六。三十六︵四︶
十九。二十九︵一〇七︶ 二十一。十四︵一〇七︶
第百十八章腐れば鯛も食へず
第百二十一章 鉄道馬車より飛下る
第百二十章 人力車夫を叱陀す
第百二十二章 鴨を残して館林を去る
第百二十三章 船に乗後れて犬喫驚す
第百二十四章 二途の葬礼、一所に行はる
第百二十五章 執事某氏の犯罪に失望す
第百二十七章 死にかかりし人を見過ぐす
第百二十六章 敵の留守中に其城を乗取る
第百二十八章蚤と颪に苦しむ
恥か記 第一巻
21
恥か記 第一巻
雲王紀子下︵注・れつおうきりゃくげ︶
十四。九︵二七︶.
略字﹁約百﹂
略字﹁王下﹂
十四。七︵六五︶ 十四。八︵三四︶ 十四。十二︵=一二︶
十五。一︵九一︶ 十五。六︵一〇八︶ 十五。二十︵二二︶
+四・+五蘭蓋W+四三+︵八︶+四・二+九︵≡・︶
十五。二十一︵三六︶十五。二十二︵六四︶十五。二十七︵七二︶
四。八︵八二︶
十六。四︵一一六︶ 十六。三十一︵=二七︶ 十七。四︵四
約百記︵注・ヨブ記︶
十八。七︵一〇七︶十八。九︵一二六︶十八。二相へ=三一︶
二十。十一︵一一七︶ 二十。十八く六四︶ 二十.一。四︵九五︶
九︶ 十七。二十一︵二二︶ 十七・二十八︵三四︶
詩篇︵注・しへん︶ 略字﹁詩﹂
十九。二︵一一九︶ 十九。十六︵二五︶ 二十。一︵一〇五︶
二十一。五︵七五︶ 二十一。六︵=一︶ 二十一。二十ニへ四五︶
二十二。二十四、二十五︵五〇︶ 二十三。二十七︵一〇七︶
。四︵=二︶
︵=二八︶ 百二。十四︵八六︶
一。一く七四︶ 三。四︵三三︶ 五・九︵四七︶
九。十五︵二五︶五十三。五
二十四。五︵又=二︶ 二十四。十七︵四六︶二十五。八︵五七︶
百三十七。一︵八六︶ 百四十一
箴言︵注・しんげん︶ 略字﹁箴﹂
二十一、。二十七︵九三︶ 二十二。七︵=ご︶ 二十二。九︵六九︶
一。十五︵==︶ 一。三十二︵一〇四︶ 一。三十三︵五二︶
二十六。十二︵一〇六︶ 二十七。九︵三〇︶ 二十七。十七
︵三〇︶ 二十七。十九︵三〇︶ 二十七。二十︵五一︶
四。十四、十五︵一一二︶ 五。三、四︵八︶ 六。十、十一
二十七。二十三︵八四︶ 二十八。七︵一〇七︶ 二十八。二
︵=一六︶ 六。二十六︵一〇七︶ 七。二十五“二十七︵六二︶
八。十︵七三︶ 八。十七︵一三五︶ 十。一︵二二︶
十四︵.一二︶ 二十九。六︵八三︶ 二十九。十五︵二三︶
︵=一︶ 十二。二十︵五九︶ 十二。二十七︵四四︶
伝道之書︵注・でんどうのしょ︶ 略字﹁伝﹂
︵=八︶ 三十一。三︵五五︶ 三十一。三十︵九二︶
二十九。二十三︵八○︶ 二十九。二十五︵七︶ 三十・八
十。十二︵五四︶ 十。二十一︵二八︶ 十。二十八︵八三︶
﹁十一。二︵五︶ 十一。十六︵又=二︶ 十一。十七︵五六︶
十一。十九︵七二︶ 十一。二十五︵五四︶ 十二。四︵九二︶
十三。四︵七五︶ 十三。十︵四二︶ 十三。十八︵=二〇︶
九。四︵六〇︶ 九。十八︵四五︶
七。十九︵四五︶ 七・二十六︵五五︶ 八。四︵三二︶
十二。五︵五九︶︵七一︶ 十二。十五︵四二︶ 十二。十九
十三。二十︵三〇︶ 十三。二十四︵二三︶ 十四。三︵七五︶
22
以費亜書︵注・イザヤしょ︶ 略字﹁審﹂
一〇三︵一一︶ 四十五。二十︵九八︶ 四十七。十︵一九︶
ママ
耶利米回書︵注・エレミヤしょ︶ 略字﹁耶﹂
二十六。七十三︵一〇三︶
馬可伝︵注・マルコでん︶ 略字﹁可﹂
九。四十四、四十六︵=一八︶
路加之︵注・ルカでん︶ 略字﹁路﹂
二七︶ 十二。二十︵八七︶ 十四。二十八11三十︵一〇〇︶
八。十五︵=一=︶ 十。十六︵九九︶ 十。三十1一三十七︵一
十四。三十一、三十二︵三八︶ 十六。八︵一一一︶ 十六。
四。三十く二七︶ 十七。九︵四三︶ 十七。十一︵七二︶
哀歌︵注・あいか︶ 略字﹁哀﹂
三。十七︵=︶ 九。六︵八九︶ 十四。十六︵一〇一︶
使徒行伝︵注●しとぎょうでん︶ 略密﹁使﹂
︵三三︶
三四︶ 十五。二︵一八︶ 十九。十一︵六七︶ 二十。二十七
二。四︵六三︶ 三。三︵七九︶ 九。四︵三七︶ 十。四︵一
三三伝︵注・ヨハネでん︶ 略字﹁約﹂
十︵二︶
三。四十八︵八六︶
馬拉基書︵注・マラキしょ︶ 略字﹁拉﹂
・四・一︵二七︶
馬太伝︵注・マタイでん︶ 略﹁馬﹂
四。七︵三一︶ 五。四十四︵八五︶ 五。四十八︵三九︶
七。八︵=二五︶ 九。十五︵六〇︶ 九。十六、十七へ二四︶
六。十九、二十︵一〇三︶ 六・二十一︵一一四︶ 七。六︵七〇︶
十。十九︵九〇︶ 十。二十九︵二六︶ 十。三十三︵一=二︶
二十六︵二〇︶ 十六。三、四︵九六︶ 十六・二十五︵六六︶
十三。十二︵一六︶ 十三。三十一、三十二︵八八︶ 十四。
︵五八︶
三一︶ 十二。二十︵八五︶ 十三。十四︵三五︶ 十四。一
一。二十六︵一〇七︶ 五。三、四︵一八︶ 五。四、五︵一
羅馬書︵注・ロマしょ︶ 略字﹁羅﹂
十。四十︵一〇二︶ 十一。十七︵九︶ 十二。十二︵一二九︶
十︵一二三︶ 二十五。十三︵一二三︶ 二十五。二十一︵六八︶
二十四。四十二︵三七︶ 二十四。四十六︵八四︶ 二十五。
恥 か記 第一巻
23
恥旧記 第一巻
寄林多前書︵注・コリントぜんしょ︶ 略字﹁前芸﹂
八・二︵五七︶ 八。五、六︵七七︶ 八・九︵五八︶ 九・
十九︵九四︶ 九。二十二︵七八﹀ 九。二十五﹂︵三六︶
九。二十六︵一七︶十三。主︵五三︶十五。三十三︵三〇︶
六。二︵一四︶ 六。十四︵=一四﹀ 六。十六・︵一三六︶
票多後書︵注・コリンとむ・︶略字穫晋
十 三 コ 九 ︵ 二 〇 ︶
加三太書︵注・ガラテヤしょ︶ 略字﹁加﹂
五。堀︵七六︶ 六。四︵四三︶
羅所書︵二三ペソし・︶肇﹁鈷
五。三︵二三︶、
腕立回書︵注●ピリピし・︶略字扉﹂
四。十三︵一二五︶
二。三︵八○︶ 二。九︵四〇︶ 三。十七︵三〇︶.
提摩太前書︵注﹂。テモテぜんしょ︶ 略字﹁前提﹂ ・
旨六。八︵一一八︶、
二。七︵三︶
提多書︵注・テトスしょ︶ 略字﹁多﹂
十二。山回 ︵山一一︶
希伯来書︵注・ヘブルしょ︶ 略字﹁希﹂
三。五︵七六︶
三三書︵注・ヤコブしょ︶ 略字﹁雅﹂
彼得前書︵注・ペテロのまえのしょ︶ 略字﹁三三﹂
二。十八︵六︶ 二。二十一︵=二四︶ 三。七︵二一︶
三。十八︵四σ︶ 三。二十︵=二三︶
四。十八︵八三︶ 四。十九︵一︶
約翰第一書︵注。ヨハネのだいいっしょ︶ 略字二約﹂
三。二十く又三穴︶
黙示録︵もくじろく︶略字﹁黙﹂
24
第一章 常徳院殿に召されたる事
愛したまひ、召したまふこと屡3なりき。召されたるは余一人
十八歳にていまししが余を召したまふや御幼年にも似ずいたく
を特に貴くするを以て途とぜり。然れども選れ安全の途にあら
昔時一国の君たる者其威厳を保たんとせるや人民と離隔し其身
記憶すべきにあらざれども、梢3物心つきてよりは召さるるご
等なりき。余は沼宣れたる当時如何なることのありしか固より
太郎氏、大野隆之助氏、鈴木主税氏、土方次郎氏︵後功といふ︶
にあらず、清水久太郎氏、大岡亀寿氏︵四駅といふ︶、原田寿
○約週日く﹁我家神を愛するは彼まつ我償を愛するに因れ
ざるなり。若し臣民をして忠君の念を起さしめんとぜば、臣民
は多く賜はることもあり、又御次に於て食事を賜はることもあ
とに種々の遊戯を為し、或は絵草紙、錦絵など拝見し、駈る時
@り﹂︵一極四。十九︶
を見ること子の如く、恩愛の途によらざるべからず。蓋し恩愛
学びて可なり。
却て忠君愛国の念を生ぜしむるの功あり、国君たる脹雀秘訣を
ざるなし。故に女帝の此挙動は其威厳を失はざるのみならず、
りしを記し居れり。又掌る時は糸竹管弦の御宴に訂することあ
ママ
り、或は福引の御慰みあり、島津悔華氏が附訂して肩絹かけ御
余が袴の紐の結び方を覚えたるは千代次といふ御側女の教示な
女中どもに愛さるること父母にも優るが如く感じたることあり。
ママ
のことなれば何覧る所なく御町にも入るを免されしが親切なる
しが余は是くまで美味なるものは世になしと思ひたり。又幼年
ママ
御菓子を賜はり、又主君が鉋鰹魚を好みたまひ、余にも賜はり
かんなかつを
り、御暇を賜りて退かんとする時は例として御納戸より美しき
は威厳を示すに優りて困難なるべしといへども其困難は即ち安
全の途たるなり。聞く英国女帝ビクトリヤは尊号侍女一、二人
を携へ微行して貧民の家に入り、親しく彼等を慰め時に金を賜
余は二年の二月︵正味六ケ月︶より主君忠良公に召されたり。
前にいでて引き当てたる箱を開けば氏が大嫌ひの蜘蛛二、三疋
ふと。受くる者は之を無上の栄誉となし、聞く者は其徳に泣か
其次第を尋ぬるに、同主君は不思議にも小児、幼者を好みたま
さい
ひ、当時余が父の君側にありたるを以て余の生れたるをきかる
這出だし、氏は君側にあるも忘れて逃出ださんとし附髭を落と
はれ
し肩揚を踏破り元の木阿弥藤野となりて満座の大笑を為したる
るや忽ちに召されたりと。然れども余が父母は小児の君側にい
こともありき。是の如く余が主君は余が無礼有心の無礼も認め
かぜ
たまはざるのみならず大名風を吹かしたまひしこともなく、御
ママ
膝に罷りしまつりしさへ嫌ひたまはず、快く楽ませたまへり。
の ママ
お
つか
つるは君側を汚すの恐あり、且晴の場所にいださば衣服など
然れば余は﹁殿様は御弱きものなりとは思ひしが︵主君は常に
自ら花美に湿るることもあるべし、傍以て辞し奉りし由なる
たるを御物見より見そなはして是非いだせと命じたまひ、倦は
が嘉永四年の二月初午の日誌が母に携へられて稲荷社に参詣し
父母も辞みまつらん術もなくしていだしたるなり。主君は当時
恥か記 第一巻
25
時下男に負はれて馬場に馬術を見物ぜり、地震前の馬場は余の
恥か記 第一巻
のはなし﹂と思へり。余は是く主君の恩遇を蒙りたれば幼心に
煉薬を召あがるを見たり︶同時に殿様程優しく、ありがたぎも
が此日に限りて下男を促して止まず。母は遂に余の請を許し下
家より一、二丁西の方にあり、いつも一人行きて見物したりし
忠君の念を養ひたりと信ぜり。ああ人を心服せしむるは威厳に
等のことより胚胎したるものなり。余は此事によりて早く既に
とにても為すべし﹂と思ひたり。乾し余が主家を思ふの念は是
るものあり。地震の起りし時下男は余を負ひて・急ぎ家に帰らん
しが如くなるを覚ゆ。又一事の余の記憶に印して忘るる能はざ
りし書家は全く倒れて屋根は地に伏し恰も地より瓦の山を造り
に如何なることのありしかは記憶せず。唯余が家の門前に帰来
男に命じて余を負はしめたるなりといふ。余は地震の腫せし時
ママ
も其ありがたみは忘るる能はず﹁主君の御為ならば如何なるこ
あらずして恩愛にあることを知るべし。 ﹁我笹神を愛するは神
にあらずや。
まつ我憐を愛したまふによる﹂とは此事実に徴して、明白なる
に立ち居たり。其時余が側に泣きて来りし一人あり、余が親し
としたる由なるが歩行のできかぬるがために暫く厩の前の草原
き友某氏とて余よりは四、五歳の兄なり。何故に泣き居るかは
群れ人の世に生るるや禽獣又は昆虫の如く自然の良能︵一ま↓ぎ・
26
島津絢堂氏のこと続々恥か記第六十二章に見ゆ。
余は下男に負はれながら彼が草履半足のために気慨なき童子な
其言葉によりて知られたり﹁草履がかたくなくなったアi﹂、
ただ
基督曰く﹁小事に忠しき者は大事にも篤しく小事に忠しから
るの人物にはあらざりき。 ﹁槍⋮檀は二葉より馨し﹂ ﹁三児の魂
るものとなりたり。彼は若くして死したれども、叢々、為すあ
りと思ひき。ああ、不幸、余が是く思ひしは彼の生涯を預言す
第二章 某底草履を失ひて泣きたる事
ざる者は大事にも忠しからず﹂ ︵路十六。十︶
百まで﹂と、大人は始めより小人にはあらざるなり。
亙れ大功は小功の集りしもの、大悪は小悪の積まれたるものな
やや
り。若し小事に心を用みることあれば遂に大事となるなり。人、
動もすれば﹁大功は細書を顧ず﹂の古言を楯とし小事を棄てて
○パウロ テトスに教へて日く﹁爾何事をなすにもおのれよ
第三章 御隠居サンと呼びし事
徒に大事を望むの弊あり、戒めざるべからず。之を移して他意
らず、善く小苦難を堪へて後園に大苦難に堪へ得べきなり。
&を有すること少し。故に其成長するに従ひ自己の周囲にあ
@きわざの模楷となるべし﹂︵虐∀
を学ぶべし。若し四苦小難に狼狽するものは大苦大難に堪べか
余が五歳の年即ち安政元年十一月四日駿河地方に大地震あり。
余が家は当時御添地にありしが又転覆の禍に罹る。蓋し沼津城
おそへち
の内外倒れざるもの二、三軒を残せるのみ。余は地震の起りし
るものを模倣して其知識、才能を発達せしむるなり。故に先進
壊せぬ家と信じたれば固よりいでて来るべぎ筈もなし、いくら
﹁御隠居さん﹂をよびたるを大に笑へり。ああ、下脾は余に
ママ
叫びても功とてはなかりしが側にあるものも余も心付きて余が
るべからず。
者たるものは自己の後髪に模倣するものあるを思ひて注意せざ
ぜざるべからざるなり。
らずして之に模倣したるなり。吾人は我行事に十分の責任を感
﹁御隠居さん﹂を呼ばせんとしたるにあらずといへども余は知
ママ
壊せられ、余が父母の家も舌禍を蒙りて転倒したり。余が父は
余が郷里は安政元年の大震の為に二、三軒の家を除くの外皆破
仮に小屋を造りて之に住ひ、余が祖父は自己の工夫にかかる一
○利麗容に日く﹁彼は木の葉の揺くにも驚きて逃げ一1また追
第四章 閻魔王を恐れて泣きたる事
棟を造り、如何なる大震も破る能はざるを期し、夜は必ず其家
に眠る。安政二年十月二日といふは江戸の大震にして其余波里
をなす者は光を悪み其行の責められざらんがために光に就ら
とが ぎた
所にいつるを好まず。基督曽てユダヤ人を責めて曰く﹁凡て悪
﹁脛に疵あれば笹原を走る﹂とかや、身に暗き所あるものは明
ふもの奮に離ばん﹂︵利二十六。 三十六︶
余が郷里にも及びたり。其夜蛾は母の側に眠りしが当時余が母
は破傷風といふを患ひ日夜止痛の太甚しきがために安眠したま
はず。其丈は幸に快癒にむかひ痺痛もなしとて早く眠りたまひ
しょしなり。其夜の十時頃なりけん一震動を起したり。余が母
せんぼんはま
は余が父と余とを起したまひしが父は其日大砲の稽古にとて
余は幼少の頃より諸種の縁日に神社仏閣に詣つるを好みたり。
れんや、其之を恐るるものは其身に後暗き所あるによるなり。
ふも格別のことはあらじ、余は六歳の児なる故に携へていでざ
喫し神仏を信じたるにはあらず。一は何物をか買ひてもらはん・
ず﹂︵約三。二十︶と.若し心羨しぎ所あらざれば誰か探偵を恐
るべからずと慈愛の手は其痺痛をも忘れ余を家の外に抱へてい
との野心ありしと、一は乞食に銭を投ずるの面白かりしがため
でぐち
なり。余幼き頃一日母に伴はれて沼津の西端にある出口町の閻
たまはず。母は止を得ず、仮小屋なれば大人は家の下になりま
でたまひしよし。其時までは余は何事も知らず居りしが余の覚
魔に参詣せんとす。余は其日の朝より窪みて待ちたりしが、弥
千本浜を奔走し、いたく疲れて眠りたまひしが故に中々に覚め
めたる時下女の一人は余が祖父の眠れる彼の家の入口にて﹁御
いひたり、予て聞く閻魔大王は虚言者の舌を抜くと。若し母と
ママ
共に参詣したらんには余が唐馬からんかと。戴に於て余は渋々
3時来りていでんとする時不図思ひいだせり。余は此頃虚言を
隠居さん漫々々﹂と連呼したり。最早其時は震動も終りし頃な
らんが、余は祖父が家の中にあるの危険なるを知りたれば余も
祖父いでよかしと思ひ側に﹁御隠居さん﹂と連呼せられたれば
余も之に微ひて四、混声﹁御隠居さん﹂を叫びたり。祖父は破
珊か記 第一巻
27
泣出だしたり。母は余の肺肝を見たり﹁何か悪いことをしたよ﹂
たり、殿様でも中々に侮るべからずと。宜なり、主君は其時二
遥に遠く即けいでたまひて勝負は明白になれり。余はおどろき
出したり。ああ.馳出でていまだ二、三間も行かざるに主君は
恥か記 第一巻
と。余はいたく笑はれて恥辱は我一身に集りたりき。箴言に曰
たり。世の論士が我基督教を知らずして妄に之を攻撃し以て得
らざるなり。余は敵を知らずして徒に之を侮り敗れて恥をかき
十三、四歳の壮年にして七歳の童子に敗をとりたまふ理由はあ
く﹁音聾薯逃唯義者毅然如獅﹂︵二叶八.︶ζ是れ此謂萱
第五章 常徳院殿と競争して失敗したる事
々勝利を得たりとするが如き余の競争と何ぞ異らん。パウロ曰
・ソ呈ン曰く﹁驕萎れば辱も亦来る﹂︵職さ語に日く
﹁漫損を招く﹂と。人若し人を侮らば人又我を侮るべく、よし
く﹁智者安在、書士安在、斯世之弁論者安在、神上使此世之智
一人也﹂︵前二一。二十五︶と.
慧乎﹂︵前寄一。二十︶蚤く﹁神之難事智過於へ神之弱乃強勇
我を侮ることなしといへども驕傲に栄誉の生じたることはあら
ざるなり。若し自己のカを謀らずして人を侮るあらば其結果心
謂なり。
れど同時に﹁此君は強ぎ方にはあらず﹂と思ひたり。又常に余
ならんと思ひき。然れば余は常に辻君の恩愛には深く感じ居た
銃の打方を教授しまつるに余が幼少の目にも武術には御無器用
めに﹁芳林﹂の二字を撰み御覧の時揮毫すべしとて与へられた
余は七歳の時より本田氏に就きて書法を学ぶ。本田氏は余のた
ば遡れ侮るに至るべしつ親むもの殊に自ら警めざるべからず。
ママ
余が七、八歳の時主君忠良公の文武の伎を見そなはすことあり、
語に曰く﹁親みて理るべからず﹂と。親むに礼節を以てせざれ
28
ず破るるにいたる。孫子が﹁敵を侮るもの滅ぶ﹂といひしも此
余は幼少の時より旧藩主常徳三殿に召されしが此君は余ヶに健
康にはおはさず、常に薬を用みたまふを見まつりき。三子風采
が父母の,﹁御健康に渡らせられず﹂と眉攣めて語り居るをも聞
E彼得毒筆姦て主人に選べし﹂︵一彼二・十八︶
第六章 御覧に失敗したる事
ぎ居たれば弥ヌ余の信仰は強くなり、生理的能力は敢て恐るる
り。師たるものは徒弟のよりできんことを欲し、徒弟等は他の
を云はば色白く痩形にして婦人の如く、余の父が時々いでて小
に足らずと思へり。余が七歳の時と覚ゆ。御表の御庭先にて遊
寺子に敗けまじとて労せり。余も﹁芳林﹂を与へられて毎日の
てらこ
び居りしが﹁殿様は御弱し、いざ競争して勝をとらん﹂との野
習字は此二字にとどまり、紙を吝まず筆を吝まず一生懸命に習
よし
ひ、遂には先生もよしとし自らも可と信じ、定められたる御覧
げに許したまへり。鼓に慌て距離を定め二、二、三﹂余は馳
かけくら
心を懐き﹁競争を仕らん﹂と願へり。主君は笑を含みて悦ばし
く御前にいでて書くを嫌ひたり。恐れたるにはおらず、熱る所
序に従ひて出づべぎ筈なりき。然れども何故なりしか余はいた
の日を待ちたり。御覧は御三書院に行はるるを常とす。余は順
の試みるを御見分といひ毎年一回之を行ふ。蓋し文武の道を奨
学術を試みるの類にして主君の試みたまふを御覧とい、ひ、重役
余が旧藩には御覧、御見分と称することありき。藩士文武の諸
ことあるなり。
学を学び一、二回漢書素読の御見分にいでたり。余が十歳位の
励したるなり。余は幼にして余が父の従兄弟なりし稲垣氏に漢
いや
もあらず、唯何となく嫌になり、強ひて御前にいだされたれど
緋盤景に座したる時ははや大声に泣出だしたり。傍にある余が
時ならん素読は余りに幼し、講義を為さんと思ひ稲垣氏も之を
おさな
と警めてすすめたり。然れども﹁御前です﹂は余を泣止ましむ
師選士は慧としたるならん、小声に翻しく﹁御前です々々﹂
為せとて此説中の一文をえらみ氏は言文一致体に認めて余に与
となり、朝早く稲垣氏に行きしに氏はまだ総懸にあり、帳外に
よ
暗記したる所を講じたるに氏は多しと許し﹁誤はあらざれども
で板なきに水といふべき程よく記憶したり。弥々御見分の当日
へたり。余は読みたり1屡々読みたり。遂に蹴板に水にあら
るに功なかりき。蓋し余は屡々主君に召され競争をなす殿様な
ればなり。余の泣止まざるを見て人々は余を溜に退かしめたり。
自然を欠きたり、﹁エー﹂﹁ウー﹂等の間投詞を加ふべし﹂と忠
ママ いや
になりたりといふの外対ふべき言葉もなく、後に御次の間に於
御納戸よりは美しき菓子を賜はりたり。御覧の終りし後余は御
て﹁芳林﹂を認めてさしいだし漸く二十を塞ぎたりき。是れ余
きぬ。御見分は大書院と称する所にて執行せるものにて正面に
告せられたり。余は悦びて家には帰らず其催御見分の場所に行
29
前に召され﹁何故に泣きたり﹂やとの御尋をうけたり。然し嫌
の主君に埋れて大に礼節を欠きたるの致す所、警めざるべから
は老職四、五人、左右は役人と先生二、三十人列座し頗る威厳
ず、慎まざるべからず。
を装ひ人々皆平生の面はなく﹁余所行き﹂の面にて苦虫を食潰
にがむし くひつぶ
したるが如く勢ひ正々堂々たり。下級の生徒等いでては読み、
てっぺん
読みでは去り、高きあり低きあり、黄なる声もあれば頭の天辺
第七章 講義を素読したる事
勇は人の天性なり。然れども之を養はば大に発達せしむるを得
にては余は下級なり。余は通路よりすすみいでたり。出でて緋
よりいだす声もあり、久しからずして講義となれり。講義の組
E晟言旨く﹁人を捻るれば罠に陥る﹂︵獣.︶
べきこと、種は天然なれども其培養によりて大に善良ならしむ
毛競を⋮敷きたる其一端に座して二一拝して書を開く。余は列座
ママ
の人々の多くして且威儀あるを見て大に難したり、私してはな
るを得るが如し。勇を養ふに道多しといへども屡ヌ勇を用みる
恥か記 第一巻
るものなり。人此場慣れざるがために屡3人を恐れて失敗する
ヘ ヘ へ
の境遇において所謂﹁場慣れ﹂しむるは其培養法の最も必要な
恥か記 第一巻
は一生懸命、講義を始めたり。否、読みはじめたり。一分時も
らんと思ひたり、脱すまじと思ひたれば余は大に激昂せり。余
経ざるにはや終り、余は少しく驚きたり。何れの辺をか落した
るにあらずやと疑へり。然し問ふべき時にあらざれば拝一拝し
ひそか
て退ぎ去る。余が溜の問に入るや余の友も私に傍聴したる者も
皆余を見て笑へり。余は其何故なりやを一友に問へり。即答へ
て曰く﹁君の講ずるや転語余りに速くして誰も聞取りたるもの
はあらざるべし、講ずると云はんよりは寧ろ素読一気に非常
に速き素読なりぎ﹂と。余は失敗せり、所謂場慣れざるがため
に。然し余の早口なるは余が天性なりと見え、此時より三十年
ママ
とありき。
り可なりといへども若し﹁罪人に告げて汝は回しといふ者をば
難之を呪ひ諸民これ憲まん﹂︵箴脇骨幽.遷し真実にあ
なるなり﹂︵箴十九。六︶余壽屋物︵詔誤︶のために友となりし
らざればなり。然れども﹁およそ人は贈物を与ふるものの友と
一人なるなり。余が高島流の火術に入門したるは未だ十歳に達
ぎ
せざる時にして其技に慣れざるが故に世話役の一人、必ず附添
ひて打たするを常としたり。其一人に柿崎氏といふあり。余は
が氏の世話をよろこびたるは抑3理由あり。余が入門して後当
ゆ え
彼の人に世話さるるを他の人に世話さるるよりも喜びたり。余
然るに柿崎氏の余を世話する時はいつも的中するを常とせり、
分は銃に火薬のみを入れて弾を装填せず、唯唯発火を習ふのみ。
に的中すれば﹁カァークー﹂と呼び星に的中すれば﹁ホーシi﹂
豊奇ならずや。火技の稽古場には﹁角見﹂といふものあり、角
と叫ぶ。余が発射したる時は弾なきが故に角見は黙して報ずる
楽なし。柿崎氏は大声に呼んで撞く﹁今のは三浦の幸さんだ、
﹁ああ、中った﹂と。余聞いて得々事たりき。逼れ余が他の人
あた
当らないよ﹂と。角見回声に応じて﹁カァークー﹂、氏は曰く
よりも柿崎氏を悦びたる理由なりしなり。
@薯遣うたずといふに似たり﹂︵幅姓.︶.
第九章 鉦を叩きて濫僧を困らせたる事
かなしみ
○基督旧く﹁我鱈笛ふけども爾曹をどらず、 哀をすれども
自ら面白からんと思ひて人に語り更に悦ばれざることあり。是
30
を歴たる今日に於ても屡3﹁余りに早くて﹂との愚痴を聞くこ
第八章 弾なくして的中したる事
○箴言に曰く﹁淫婦者其唇滴レ蜜、口滑子於脂一、惟其終苦死菌
@陳一、利同・鋒刃三五愚三、︶,
○又曰く﹁貧者は其隣にさへ悪まる、されど富める者を愛す
@るもの多し﹂︵十四。二十︶
ため いんちん
娼婦は客の甘心を得んが為に巧に詔へり。然れども其詔ふは他
くち ユダヤ
に為にする所あるが故に之を信ずる者は遂に菌陳︵ねずみよも
ぎ︶の口に苦きが如く結局は善きこと能はざるなり、猶太の賢
こころよぎことば
王ソロモンは日へり﹁良言は蜂蜜の如くにして霊魂に甘く
骨に暴となる﹂︵三十六。二十四︶と.然戦真に暑なれ箇よ
の大黒鼠現象によりて殊に余が霊眼に明なればなり。
ずるに至りてより殊に天地の大勢力を見るを楽しめり。蓋し神
安政六年の十月余が自己の家の如く出入して親しかりし柴田
れ蓋し期に投ぜざるの誤なり。殊に其悲むべきに笑ひ、笑ふべき
全輔氏の家は江戸勝手を命ぜられたり。余は其時十歳なりしが
に怒るが如き其⋮機を知らざるの過失にして場合に応ぜざるなり。
したり。余が祖父の死したまひしとき大泉寺の老僧釆りて通宵
余が家は元来浄土真宗にして念仏のために供せられたる鉦を蔵
に乗じて氏が一家を送り、沼津をいで東の方黒瀬の松原にかか
大に別離を惜み出立の際三、四人と共に未だ夜の明けざる月夜
る残月高く天に懸り松間を洩る月光は余輩が身体の影を地上に
ときぎ祖父の成仏せんがために念仏せんと思へり。然れども機
会を得ず。今老僧が仏壇に対して読経するを見て好機なりとし
なる響を聞き、未だ其何たるを思ふの暇なき頃天地は忽ち白昼
現滅せしめたり。其時南方香貫山の方にあたりて轟然一発偉大
読経せり。余は死者のために念仏すれば仏果を得ること速なり
心中に南無阿弥陀仏を繰返したるのみ。ある時は急にある時は
然として畏縮したりき。此時漸く其何たるを知らんとの好奇心
よりも明く、月光全く失はれて有れども無きが如く余は一時棘
撞木をとりて之を叩く。然れども敢て高く称名するにあらず、
.寛に矢鱈無法に叩きたるなり。ああ、老僧何程困難せしか余は
其時何も思はざりしが今此記事を為す時も之を思へば冷汗の背
の光よりも明き直径二、三尺の玉愛鷹山の東麓にあり、見るも
の喫驚して﹁火の玉く﹂と絶叫す。玉は忽ち山の端にかくれ
園地におちたるものなるべし。ああ、一個の火の玉すら其勢力、
きものを見たりとなせるのみなりしが叢れ置石の空中をとびて
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を生じ仰いで左右を見れば北の方に一塊の團光あり。白色電燈
あしたか
て見えずなりしが余輩の眼には暫く竹をむしりとりたるが如き
を濡すを覚ゆ。
第十章 火の玉を見たる事
人は勢力を見るを悦び楽むものなり。大風、大雨、大水、大火、
其美観今に於て漁るべからず、誰か天地の風雨火震にあらはる
光の山の上に残るを見たり。余は当時其何たるを知らず唯恐し
大震の如きは大に人の恐るる所なりといへども其事るるは大風、
る勢力を見て上帝の全能を思はざらんや。勢力を好むもの誰か
似??髣カるべ轟にましませり﹂︵#︶
○申書記に曰く﹁汝の神エホバは神の神、主の主、大にして
大震其物にはあらずして其及ぼす所の害を恐るるなり。故に其
其本源たる神を好まざるものあらんや。唯罪ある者害の其身に
六印一、時我観レ之、見、地大震日書写一如γ禍、月変如γ血、天
及ばんことを恐れて神を好まざるなり。黙示録に弾く﹁開二第
て激浪怒濤の磯を打つを見て誰か悦ばざらんや。大船に乗りて
天に閃くが如き余は深く其美観壮士を愛せり。殊に余は神を信
恥か記 第一巻
陸に森林の得るを見て誰か其勢力を歓ばざらんや。彼の電光の
身に害あらざれば却って其勢力を見るを悦ぶなり。断崖に立っ
恥 か 記 第一巻
つきて入りしに氏は此家の人々に懇意なりと見え挨拶も町寧に
る家の前にて此家に立寄りてゆかんとて入りたり。余も其後に
はせず。談話の序に﹁これは三浦の子です﹂といへり。忽ち主
七癖レ地、如下無花果樹為一一大風一所ソ揺而落中線未レ熟之果上、天
人の夫婦は余に対する待遇の風を変じ親切懇情其言葉と其取扱
逝如二軸之樋門、山与レ島皆移而離二其処一、世上諸王、大夫、将
山及垂幕堕・値上匿・我避・坐・面癖鼻面無の︶与鑑醜︶
ポンポチ米の下等米なることを知れり。其米によりて此家の主
義︵幕府︶のポンポチ米といふンだ、甘くなからう﹂と。余は
ママ
て性の悪き余が口にも驚かれたり。氏は余に云へり﹁塗れが公
度もできたりとていだされ箱根氏と共に食ひしが其米の黒くし
もよく知り居る人にて余は不思議に思ひたり。いっかタ飯の支
はいふも更なり、祖父母をもよく知り、其他余が家のことなど
とによりて知るに余あり。主婦が語るを聞けば彼等は余が父母
軍、富人、勇士或奴僕或自主者皆自匿二於穴及山之巌一、且呼二
マ マ
雪隠孟其怒之杏里菱籠禦・三三︵霊迎。十二H十七︶と.あ南
寅畏すべきは神の勢力なるかな、勢力なるかな。
第十=早 知らずして西沢氏を訪ひたる事
i使三。十七︶
人も亦公義の人なりと知りぬ。食を終り、暮れぬ内にとて辞し
去りたり、家をいでて少しく来りし頃箱根氏は問へり﹁今の家
i十二。十九︶
32
○使徒曰く﹁爾曹が行ひしことは知らざるによりてなり﹂
@ ○イザヤ曰く﹁牛は其主を知り末女は其あるじの厩を知る、
@然れどイスラエルは智ざりき﹂£.︶
は誰の所だか知って居るか﹂と、余固より知らずと答ふ。氏は
@ @ 失敗は知識なきより来るもの多し。知識は失敗を救ふのみなら
@ @ ず自己の生命をさへ救ふことあり、知識の価大なるかな。知る
きたり。余は幼少ながら失策せりと思へり。叔父さんの家なら
笑ひズ﹁あれは西沢の叔父さんの所だ﹂といふ。余はいたく驚
@ @ ことなきがために余も亦失敗したる一例あり。余が父と共に初
@ @ めて江戸に出でたるは十歳の冬なり。当時本所に住へる幕臣に
土産物もありしなり、挨拶の仕方もありしなりと恥しくも思ひ
だま
ぬ。箱根氏は余の驚きたるを見て﹁甘く欺してやったナ﹂と大
@ @ して余が父の叔父に当る西沢氏といふあり、然れど余は一度も
笑せり。ああ余は知らずして此失敗を為したる也。
@ @ 面会したることはあらず。江戸に行くと定まりし頃西沢の叔父
@ @ さんをも訪ひて云々などの話は父母よりも聞きたれど何時誰と
@ @ 共に訪はんとは未だ定まらざりしなり。一日箱根栄蔵氏は浅草
かはます
観音の見物をさせんとて余を伴ひていでしが観音に参詣し川升
@ 第十二章 偽りて父に講汚せられたる事
まぱたぎ
○箴言に日べ﹁虚偽をいふ舌はただ瞬息のあひだのみなり﹂
@ @ といふ料理店にて午飯を為し遂に本所にいでたり。余は何方に
@ @ 行くにや固より知らず唯箱根氏に従ひしのみ。不図箱根氏はあ
○又曰く、虚偽の舌を以て財を得るは吹きはらはるる雲姻の
如し﹂︵二十一。六︶
○又曰く﹁父母の物を盗みて罪ならずといふものは滅ぼさる
又余は父の物を盗みたることもあり、余が家には一年間の用紙
みるを常とせしが余りに多く無益ならんと認めらるる時は父母
大なる箱に入れて保存せられたり。余は父母に乞ふて其紙を用
れど余は情慾を禁ずる能はず密に納戸に入り紙箱より一枚をと
たく思ひて父に乞ひたり。然し父は之を許したまはざりき。さ
の許したまはざることもありしなり。一日余は追入紙一枚を得
﹁真理は最後の全勝者なり﹂、虚偽心術の一時利あるが如く見
りいだし一正しく云はば盗み一て使用したり。父は余の挙
るものの友なりL︵二十八。二十四︶
しからずして消滅し再び得べからざるなり。余が稲垣氏に漢書
動によりて察したまひしならん、忽ち問はれて余は蔽ふの術な
ゆるは暗夜の一閃電のみ。一時人の目を射て光彩燦燭たるも久
の教授をうくる頃一朝寝過ぐして時を誤れり。余は他の人の帰
る程打ちのめされたり。余はいたく泣けり。父は中々に許すべ
く盗みし旨を白状したり。父は怒れり。忽ち捕へられて目の廻
しと見えざりしが、母は余のために中保人の労をとり漸くに許
る頃にノソリとゆくを恥しく思ひ今朝は休まんと云へり。然れ
いでたれど稲垣氏には行かず、其辺一、二度まはりて時を計り
なることを知りたり。余は滅ぼさるるものの友となりしなり。
され、後来を深く警められ余は親の物にても盗みいだすは不義
33
ど父は許したまはず行けと命じたまへり。余は止を得ず家をば
て家に帰れり。父は余の虚偽を知りたまひしゃ否教へられたる
層く富
は
ぼ
ねん
じ身
ん を潤ほすと教へたるものあるを聞かざれど富あるが為に
は木念人も議員となりて天下の大政に参与し、富あれば娼婦も
E箴言に曰く﹁富者は薯を治む﹂︵仁+二.︶
第十三章 光る刀ありて大将となりし事
所を読みできかせよといひたまへり。余は虚言発覚すべしと思
ひたり。然し﹁乗りかかりし船﹂辞するを得ず書物をいだせり。
ども一行だに読み得ず。父は余の虚偽を看破し父の愛の鉄拳は
ああ、余が虚偽は忽ち破れたり、読みで父を購着せんとしたれ
余の頭上に落つること七、八回﹁虚言をいふ子は家の中におけ
て朋友集り、富あれば賢人君子も手前に拝切ぜり。犬の尾を振
綾羅錦繍を身に纏ひて交際界の女王となり、富あれば招かずし
人に告ぐるに実を以てす。夫人は或は叱り或は慰め、余はいた
日の世界は徳其身を潤ほすにあらざるなり。
るは其人に振るにあらず其手にある肉片のためなり。ああ、今
余が幼き頃は藩中の童児等の間に戦争遊び流行したり。余が其
く恐れて先生の帰るを待ちしに其日の午後にいたりて先生帰り
恥 か 記 第一巻
虚偽に成功なき実例を見たり。
来り、余が家に往復し父に詫び伴はれて家に帰りたり。ああ、
へて稲垣氏にいたれり。先生はすでに役所にいでて居らず。夫
ず﹂と、其儘に家外に突出だされたり。余は泣くく書をかか
仲間となりしは中流の人の児童にして戦争の相手は下流の人々
スルや氏ハ其身ヲ原川氏二托ス。余が書法ノ師本田氏ハ愛川氏
豆国韮山二生ル。其航路雲氏強情ヲ以テ市名噴々タリ。慶雲曲馬
ママ
理学博士矢田部良吉氏ハ沼津ノ士原川徹平氏ノ姪ナリ。予研伊
恥 か 記 第一巻
の児童なり。然れども下流は其数多きがために衆寡敵せず多く
アリシナリ。
氏が博士タル決シテ偶然ニアラズ早ク既仙髄幼時二於テ強気慨
三二悪マレタリ。然レドモ此強情ハ氏ヲシテ学ヲ成サシメタリ。
三テ初メテ手ヲ放チ矢田部氏自由ヲ得タリ。氏ハ此強情ノ為二
テ三川氏二告グ。徹平氏ノ強悪リ、余二請フコト頻ナリ。鼓二
ドモ余ハ﹁御免ナサイ﹂ヲ云ハシメントシテ題画ズ。其人往イ
﹁御免ナサイ﹂ヲ云ハズ。通行ノ漫罵ヲ見テ引分ケントシタレ
﹁御免ナサイカ︿﹂ト問フ。氏ハ泣出ダシタリ。然レドモ
起シ運航忽チ氏ノ髪ヲ取り捻倒シテ其横面ヲ地二十ケコヅキテ
タブサ
日片羽通二在り。其原因ハ今記憶セザレドモ氏ト一場ノ紛争ヲ
かたはどほり
薬日武芸二出席セズ、又水ヲ⋮游ガズ。故山其機ヲ得ザリキ。一
テ肱力境域氏二優ル。余氏ノ専横ヲ怒り之ヲ苦メントスレドモ
ルモノアリ。然レドモ薄暮余ヨリモニ、三年冬少者ナリシヲ以
二縁故アルヲ以テ大二威張リ時トシテ国造ノ威モ服スル能ハザ
ナリ︵父ヨリ遺伝シタルハ形体ノ小柄ノミニアラズ︶。聯想生
盤座ス。外部二見ハレザルヲ以テ謎責ヲ受ケズ。氏ハ性来強情
アグラ
様ヲ学ブ。且当時生徒平袴ヲ着セザルニ福原リ袴ヲ着シ脳中ニ
レドモ氏ハ独リ手本ヲ島津禅堂氏ヨリ受ケテ御家流中、一人唐
ノ従兄弟ナリ。蝕ヲ以テ氏モ亦本田七二来リテ書ヲ学べリ。然
は破らるるを常とせり。余は勝利の策略もがなと工夫の末、其
威儀を整へるの必要を感じ封事を作り、余は自ら源義経を撰み、
ママ
弁慶あり清正あり着流の紙旗をタ風に翻し整々堂々出陣したり。
一時敵軍は其威風に避易したるが如くなりしが縢馬獅皮を以て
保つ能はず、蚊に於て余は又新に工夫したり。余は一称父に乞
其身を蔽ふも獅子たるにあらず、細流の軍旗は遂に以て軍威を
ひて光る長き脇差をかりて行きたり。町家の裏、板屏の中に屯
うら ママ
@増す﹂︵箴二十四。五︶
@(
34
して軍議に余念なき時忽ち多数の敵軍来りて屏外に押寄せ屏を
たたぎ鯨波をつくり戦を挑むこと急なり。余は頼む所の一刀あ
り。木戸を開くと同時に彼の光る刀を大上段にかまへて敵中に
飛入りたりつ敵軍之を見ていかで驚かざらん蜘蛛の児を散すが
如くに穿れ一人も踏止まるものはなかりき、敵は我刀に驚きた
り、身方は余が勇気に敬服したり。舷に於て忽ち推されて児軍
ママ
の大将となりき。ああ、余が彼等の将となりしものは余にのみ
光る一刀ありしが故なり、余が光る刀は鈍刀者を軋むるにいた
れり。片目盲目島に王たるの類にあらずや。
第十四章 矢田部良吉氏ト捻合ノコト
○所羅門日ク﹁柔順なる婦は栄誉を得強き男子は資財を得﹂
シ十一・十六︶三日ク﹁智慧ある者は強﹂知識ある人は力を
第十四章 箱根氏に叱られたる事
Eパウ昌く﹁今は恩恵の時なり今は救の薫り﹂︵蓬ハ︶
ぎたり又恐れたりか此驚愕と畏怖とのために泣出だした、0ひ泣
は他に機会を得て十分置其誤聞なることを弁ぜんと思ひ其日は
出だしたるがために抗弁するの言なく分疏する辞さへなし。余
さ ことさら
弁解して氏の誤聞なるを明すは或は氏を辱しむるが如くならん
其儘にて終れり。其後屡タ弁明せんと思ひたり。然れど故に
機会の失ふべからざること今更喋々を要せず。西諺に日ふ﹁機
会は前頭に毛ありて後頭は禿げたり、若し来る時に捕へざれば
にたつに至りては尚更弁ずること妙になりて遂に氏の死に至る
かと遠慮して遅延せり。其後余が父は次第に用ゐられて氏の上
後より追ふも捕ふべからず﹂之。パウロが吾人の救はるべきを
h教へてL今といひしは決して偶然にあらざるなり。
には忽ちに明なりしものを。
まで明にするを得ざりき。ああ、若し彼の際に於て弁じたらん
箱根粒五郎氏は余が父の叔父にして余が為には大叔父たり、余
ママ ママ
朝日照る間に いそしめよ
疾くいそしめよ 夜はきたるぞ
が父と共に御勘定奉行たり。或る人余が家に来り母と余とに云
ため
へり﹁箱根氏は姪と同僚たり、箱氏には不名誉にして御宅の旦
那には名誉なり﹂と。蓋し為にする所ありて虚辞を呈したるな
i計
り。余は此言をききて一度は悦びたり。然れども亦同時に憂ひ
夜の来ぬまに いそしめよ。
@ 何もなすこと かなふまじき
@ 第十五章 牧士失敗の事
む ち
○箴言に曰く﹁愚なる者の口には其驕傲のために鞭答あり﹂
l.︶
@ たり。若し其言箱氏の耳に入らば大に氏の感触を損ずべし思ひ
しなり。其後久しからずして箱根氏より使あり余に来るべしと。
余は其何の用なりやは知らざれども其家に行きたるに氏はいま
だ役所より帰らずと。暫く待ちて氏は帰りきたり座敷に呼びこ
まれたり。其伝に入れば氏は上座にあり厳然容儀を正し﹁手前
@ も短気なり中々に強く怒り居たりと見えたり。又氏は余に此不
馬をかひ、毎年幕吏出張し来りて﹁馬捕り﹂を挙行せり。同山
余が生地沼津の北に愛鷹山といふあり。徳川家にては此山に軍
恥か記 第一巻
徳ありと深く信じたるものの如く毫も疑はざるが如し。余は驚
ママ
若し人﹁ひかへめ﹂にして人と交はりしならば失敗少く又失敗
は世間の人に対して父と叔父と同役なり、父の人物叔父に優れ
@ するも恥少かるべし。之に反して愚なるものは自己の﹁ある地
@ るの証なりと云触らすよし、其言葉の余に対して無礼なるのみ
@ ならず手前の馬指は手前の無智と驕傲とを披露すると同時に父
@ 従って大く其恥更に甚だしかるべし。
@ 位﹂よりも高く斯く見せんとする驕傲あるが故に其失敗するや
@ の徳をも損ずるなり。以後是の如き言は必ず慎むべし、急度此
@ 事を云ひおかんために呼びよせたるなり﹂と。氏は余が父より
35
ぼぎぱ なか まぎ
恥 か 記 第一巻
中には四ケ所の牧場あり見物のためには中の牧といふをよしと るのみならず其隣地の百姓どもを追払ひ、尚ほ酒肴を贈りて悔
るを見、夫より暫くして牧場に入り来るが故に静に見物の場所 彼はいよく畏縮し牧場の方の見物場を周旋して其罪を詫びた
す。蓋し中の牧は遠くより馬の追はれて来り前の平地を通過す 改の意をあらはさんとす。根井氏は其礼物を返へして受けず。
を移すの便あり。余が十二、三歳の時余が名簿親根井早太氏に りき。余は彼が驕りて失敗したるを善い気味と思ひ又人中にて
ねのみはやた
み敷物を為し野馬の遠くチラリホラリと見ゆるを望遠鏡などい 罪なりしなり。彼の行ふ所は﹁慢損を招き﹂たるに相違なきも、
伴はれ中の牧に見物したることあり。極地に行着きて場所を択,彼に詫びさせたるを愉快に思ひたりき。今より思へば余も雷同
だして見て居たる時一人の牧士来れり。牧士とは馬捕りの役人 余は﹁汝の寄倒るる時楽しむごと詣れ彼の亡ぶる時心に喜ぶこ
しぎ馬に乗り馬捕りの全権、時としては傍若無人の振舞もあり
なれど平生は農商など為し其時のみ奈を横へ袴羽織を着し美と泊れ﹂︵箴二十四・ 十七︶と教へられたるに反したるもの毒
しなり、今此所に来かかりし牧士は其名を何といひしか余は知 第十六章 廉の市に書経を教へて落したる事
もたぬもの
らざれども何れの馬捕りにも其面は見る人にて余もよく知れり。 ○基督曰く﹁無有者は其もてるものをも取らるるなり﹂
場所を与へんと思ひしが理不尽にも﹁此所をどいてもらはう﹂ 自ら智ありと思ふものは智なきなり、自ら識ありとす者は其識
彼は余輩の座したる傍に来り自己葎ひ来りし一一、三の男女に ︵馬十三・ 十二︶
と云へり。根井氏は﹁此所は早く来て、見らるる如く見物場と るべき程をも識らざるなり。却って自己に智なしとする者は智
かりしものを﹂と答へて何も云はず。彼は余輩の占領地を譲ら 者たるべし。基督の意蓋し蚊にあるなり。
なしたれば容易くは応じがたし、場所が欲しくば早くとらばよ を求めて智者たるべく自ら識なしと思ふ者は識を求めて遂に識
ざるを見て弥3怒り後には手つから鷲をまくり﹁全体どこのも 余が十三、四歳の頃余が母を療せんとて毎日来る盲人あり廉の
のだ、早くどかないか﹂と聾し、はや二、三の男女を押込ませ 市といふ。彼頗る才子にして強記なり。一日彼は余に書経を教
んが勢なり。根井氏ははや勘忍袋の口を破りたり。氏は大二一 へてよと乞へり。余は固より十分なりと信ぜざりしが彼は盲人
さつぎ
るか、おれは沼津の根井早太だコ・﹂。ああ、此一声は彼のため 枚を記憶さすること困難なるべしと思ひたり。弥3黒むるや彼
声﹁前程から、だまって居れば善い気になって⋮⋮何を無礼す なり当分は其責を塞ぐを荒べしと之を諾したり。余は一日に干
に青天の繕言なりしなり。彼は引言を聞くや俄に頭を下げ、あ は半枚にて満足せず﹁マダ﹂﹁マダ﹂と乞ひ遂に二枚となる。
ママ
りたけの言葉を尽くして其無礼を詫び其場所を与へよと乞慧ざ 是く多き上に唯三回読みてきかすれば彼はや大半を暗記し尚抵
36
一回忌して全く暗記し一字を煮たず。余はいたく驚きたり。翌
日よりは下読を為して教へたれど余が下読は彼の暗記に追つか
の己を得ざるに至れり。ああ、盲者と侮りて自己の力を測らず
ず。余は遂に降参して上巻一冊を終らざるに余より中止を乞ふ
﹁若し自らよくものを知ると遵ふ者はいまだ其の知るべき程を
軽諾遂に此失敗をなしたり。パウロ、コリント人を教へて曰はく
も智ざるものなり﹂︵蠕二︶.又ソ呈ン日はく﹁汝、おの
って愚なる人に望あり﹂︵職与ハ︶と.慎むべぎは己を智ざ
れの目に自らを智慧あるものとする人を見るか、かれよりも却
ある棚を落して逃去りたる跡もありき。其度毎に余が母は僕を
呼びて逃去らしむるが如し。母の意は之を捕へざるも逃ぐれば
ものか余も一回は人を斬りて見たしと望みたり。よって只管母
以て足れりと為すなり。余は世聞の騒々敷がために誘はれたる
ぬ。其後のことなるが誰か余の首の近くに私語くものあり。ふ
に乞ひ、此次盗人来りしならば密に余を覚してよと頼みておき
るき居れりと。余は悦びたり。然したしかに胸の動悸くを知
と、目を覚せば下女なり。何用かと問へば盗人入りて台所をあ
ど ぎ
りたり。余は枕辺にありし刀をとりながら窺いで如何にして台
せ我障子を開くと同時に燈をいだせよと命じてゆけり。障子は
所に入らんかを考一考せり。下女に命じて燈を袖のかげに蔽は
開かれたり。余は燈と共に勢込んで抜きながら台所にいでたり。
寃pウ重く﹁難は忍耐星じ忍耐績達星ず﹂︵蝿一陣︶
○基督曰く﹁我にありて凡て実を結ばざる枝は父これを勇り
とり、すべて実を結ぶ枝は之を潔む、蓋はますます繁く実
@を猿しめんためなり﹂︵三十五。二︶
37
るにあり。
十
七
章
犬を以 て 盗 人 と 為 し た る 事
第
口の方五、六寸明き居りて人の出入したるには少し狭し。よく
然し何もあらざりき。余は失望せり。彼方此方をよく見れば入
よく見れば其辺は犬の足跡時ならぬ梅花を散らせるのみ。ああ、
Bパウ遠く﹁わが戦は空難つが袈にあらず﹂︵前玩物・二十六︶
めに事実無きことを有りと認めて独角力を為せるなり。為に当
たり、呵々。
疑心暗鬼を生ぜり、盗人くと思ひて遂には犬を盗人とはなし
ママ
世に捕影論を為すものあり。彼等は一種の憶病心と誤解とのた
人は狂人の独り笑ふて楽しむが如く面白きこともあるべしとい
なり。井上博士が﹁教育と宗教との衝突﹂を論じたるが如ぎ煎
じ来れば氏が証拠として挙げたる事実は皆悉く誤聞たりしが如
ひとへもの
き其証拠にして誤聞なりとすれば氏が千言万語は唯氏の憶病と
誤解とをなするのみ。憶病旅人が乾忘れたる単物に驚きて腰
ぬかしたると同じことなり。余が十四、五歳の頃父の江戸にあ
る時盗人来りて屡3余が家を窺ふが如し。一夜の如きは窓外に
恥旨か.記 第一巻
第十八章 水中に放下されたる事
へども吾人より見れば彼等は空を撃つなり、影を捕へんとする
西諺に日く﹁言置は工夫の母﹂と。文我意諺にいふ﹁愛する子
かんもよしと屡ヌ余にすすめたれども余は従はざりき。水泳場
早﹁むかふ越し﹂を試みよ、舟もて守るもよし又我附添ひてゆ
はとても游ぎて渡ることは為し得ずと信じ居たり。鷲見氏は最
恥か記 第一巻
に旅をさせよ﹂と。其意皆同じ。困苦辛酸は時として全く人を
果として成功せざるものなきなり。 ﹁梅蕾春に魁くば霜雪先づ
挫折し終らしむることなきにあらずといへども多くは患難の結
せり。余一日衆説と共に東岸にありて遊び居たる冷笑を迎へん
﹁遠浅﹂にして、よく游ぎ得ざるものの為の稽古場にはよしと
となりたる所、稽古場となるも西岸は急に深く、東岸は所謂
に逢はせて而して後一世の功を為さしむ﹂と。困苦は決して吾
いたく驚き汀にかけつけしが其時舟は水の激して流れも早く且
とて来たる舟は余が知らざる間に皆乗せて漕出だしたり。余は
之を去り而して後微妙の香あり、英雄時を得ざれば造化屡3厄
人の生涯に無益ならざるなり。殊に基督信徒の如きは天に属す
し、然し彼舟は西をむかひて漕行く所なり、舟の行くは爾の游
は余に私語きたり﹁止まりし舟なれば爾は容易く⋮游着くを導べ
氏は舟中にありて﹁来れ、⋮游ぎて来れ﹂と云ひしが其時憶病神
深き所を三、四尋いでたる所なりき。余が汀に立ちたる時鷲見
るの実を要し、世を救ふの大任あり、世の実相を観ずべきの責
あり、迫害に堪ふべきの胆勇を要し、経験を要するものに於て
は神事ヌ之に患難困苦を与へて以て之を養ひたまふなり。
がにふどう
ぐよりも速なりと。余は憶病神の言を真実なりと思へり。余は
余が叔父鷲見氏は大胆なる武人なりき。我入道盗め不動は霊験
反すと。鷲見氏は大砲演習の際其堂の弾薬置場となり、二、三
き、又香貫村霊山寺の天井には人の足跡ありとて人々幽霊の道
焼砂にころがり、独り楽しみ居たり。大凡一時間も歴たらん後
﹁次にせん﹂とて再び砂地に帰り、暑ければ水に入り寒ければ
著く聖像の方に足をいだして眠るものあれば明朝其足必ず像に
の人々と其堂に宿泊まる時砲台用の綱を以て自己の足を不動の
像に縛し、明朝其足の依然たるを以て其虚誕を発きたるが如
りやうぜんじ
したるが如き、又水口氏の老人と首を賭して囲碁したるが如き
撰みて自家の墓畔にいたり、陰火と戦ひ遂に其燐火たるを発見
なく、東は西よりも遥に近しと思ひたれば戴ぞ一生懸命東にむ
でか驚き恐れざらん、一回沈みて浮いつるや眼口の水も拭ふ暇
しが鷲見氏は突然余をかかへて水中に放下し込みたり。余如何
といへる人の独り⋮游ぎ居るを見たり。舟は其傍を通過せんとせ
て舟に入り五、六間もいでたらんと思ふ時中流に佐々木菊次郎
に鷲見氏は二、三の大人と共に舟もて余を迎へたり。余は悦び
乱暴と評すれば乱暴なりしが其胆力には余常に感服し居れり。
場といひ、夜陰其墓地に行くものなどなき所なるが氏は雨夜を
余が十三、四歳の時なるべし。御用川岸に設けたる水泳場に水
ごようが し
し鷲見氏も舟より﹁むかふく﹂といひながら自己も飛入りい
かひて⋮游ぎいだせり。其時佐々木は﹁むかふく﹂と西岸を指
.の稽古を為したり。余は己に狩野川を游ぎ越ゆるの技に達し居
たりしが自己はいざ知らず、単に﹁大川﹂と称する川なれば余
38
も産むは易し﹂游ぎて見れば何でもなし。上陸して鷲見氏が佐
ひ阿波屋の川岸といへる薄気味悪き所に着きしが﹁案じるより
.り、余は三人の保護者あれば安心なりと思ひなほして西にむか
つ水に入りしか先より舟中にありし島津精一氏も余の近くにあ
の生徒の自分より年齢の多きものを教へて得々たることもあり、
けたるも十六、七歳の時なりしなり。既に是の如くなれば新入
し、進歩も幾分か他の人々よりも速く﹁初段﹂といふ允許を受
を有したりき.故に砲術には多く父母の勧誘を受けずして出席
々木氏に語るをきけば予て余を投込まん計画ありて余の守護を
ともありしならん。余が幼少の頃より製薬所に至りて余に反逆
心を起さしめ余が大望を弥3強くせしめたる一事あり。夫は製
又世話役と称する教授等も多くは余が父より教を愛けたる人々
ママ
なれば余は随分我儘に振舞ひ留る人の目には傍痛く見えたるこ
薬所の壁に高く﹁斜地﹂の額なるもの掲げありき。夫は角打の
氏に依頼したりしなり。鷲見氏は余にいへり﹁それ見ろ、わけ
り。氏は余に自信を生ぜしめんとて倦は此困難に陥らしめたる
なく游げるではないか﹂と。鼓に於て余は叔父の深意を知れ
なり。余は初めに叔父さんは余りひどいと恨みたるを悔いて却
技に慣れたるもの一日に百発して九十以上打当てたる者は年月
り。余も之を見る毎に我も為して見んとの野心あり。久しく絶
日姓名を記し九十何発的中として掲げ角打を奨励するの風あ
って氏の余を愛したまふを知りたり。ああ﹁神は其愛する子を
えて塁打の挙はなきが如し。余が野心弥3其極点に達し二、三
@ @ @ @ @ @ @︵四十七。十︶
@ ○基督波上を歩して徒弟の舟に至る、徒弟等大に驚きて動く
第二十章 吉名の温泉に女を驚かしたる事
@﹁此は変化の物ならん﹂︵輝畑.︶
も﹁生兵法大疵の本﹂少しく知識あり伎爾あるがために之を頼
余は遺伝と境遇の然らしむる所にて砲術には幼き時より興 味
恥 か 記 第一巻
39
鞭てり﹂余は叔父の鞭に打たれたりしなり。因にいふ島津氏は
舟中にありて余が放下さるるを見て可愛さうにといひたれば鷲
人を語ひ世話役にまうしいでて許可せられ九十一発の的中にて
さう
三二は﹁然、思うなら行きて助けよ﹂とて氏をも亦突落したる
額を掲げ大に他に誇りしことありき。然し今より思へば百中の
なりと。
九十以上は敢て難きにはあらず。唯当時百打を為すものの少き
ひやくうち
さとぎ
第十九章 弊店の事
かしこぎ ○イザヤ臼く﹁汝おのれの悪によりたのみていふ、我を期し
@ みて却って其愚を披露するなり。
インテレスト
たるがために求めて識者の笑を招きたるなり。
がために﹁鳥なき里の編幅﹂たりしσみ。余全く砲術に興味あ
なまじ
らざりしならば是の如き挙はあらざりしものを生餌ひ少しく得
@ ものなしと、汝の智慧と汝の聰明とは汝を惑はせたり﹂
@ 人若し全く何も有せざれば誇るべき種もあらざるなりゅ然れど
恥 か 記 第一巻
誰ならんと密に窺見て屡ヌ風呂の中にて落合ふ婦人なることを
ママ
知識のいまだ発達せざる時に於て荒唐不稽なる怪談あるは怪談
て楽しまんといと悪き望を懐きたり。音のせざるやうに久しく
知り、彼が余の居るを知らざるが如くなれば慰みに彼を驚かし
忍び居りたれば彼婦人は一入りしていで、風呂の縁に腰かけ両
の実際にあるにあらず、之をありと信ぜしなり。近頃に至りて
し。然れども余が幼少なる頃に於ては其談の多かりしのみなら
き頃なりと思ひたれば静に余が髪を解⋮ぎ音なぎやうに湯の中に
足を湯の中に入れコクりくと夜舟をこぎはじめたり。余はよ
其怪談の減じたるが如き我国の知識の度大に進みたるを見るべ
ぜらるるが如ぎ其証どして見るべきなり。
ながら不意に長き髪かむりたる頭をいだせり。ああ、余は却て
もぐり板支切を抜けて彼の婦人の前にいたり、彼の両足を捕へ
ず余自らも幾分か之を信じたるなり。誠に怪談の婦人の間に信
の頃母は伊豆の温泉場に入浴するを常とせり。其時日は今明な
余が十二、三歳の頃は余が母の持病の殊に悪ぎ頃にて毎年春秋
らざれども伊豆の国吉名村の温泉に行きたまひし時余も之に従
て自己の髪の毛をかきわけ目の湯をこすりながら彼の婦人を見
れば婦人は既に流しに倒れて息絶え居たり。余は第二の驚愕を
驚きたり、彼の婦人の一声高く叫びしに驚きたり。余は両手も
喫したり。止を得ず声を放って扶助を乞ひしに婦人の絶叫に驚
ひたり。三、四週間の後母は沼津に帰り余が父来りたまはんと
いふには余と同年なる子ありて遊び仲間には屈寛なりしが夜は
のことにて余は独り吉名に残りて父を待てり。温泉宿豆腐屋と
人は我にかへり、いたく驚きたりとて当分は言葉もなく人々は
るもあり、名をよびて覚さんとするもあり、久しからずして婦
らず、止を得ず夜はただ湯に入りて独り楽しみたり。一夜余は
余がために詫言いひて執成したるに婦人も漸く安堵したるもの
ママ
の如く苦笑しながら﹁お坊さんが居れば急度悪戯をしなさるだ
ぎ居たる近くの人々二、三人急ぎ来り水を持来りて婦人にかけ
湯に入りしが同浴の人もあらざれば板支切に添ひて風呂の際に
らうと思ったが少しも居るを知らなかったので驚きたり﹂と。
彼早く眠りて余の相手とならず。父は又公用のために予期せる
あり、燈火はあれどもよくは照さず、殊に湯気の昇るがために
余は其言葉をきぎて初めて安心し、夫より一層親しくなりて屡
よりも後れ余は無意に堪へず。余のためには隣室の客は友とな
湯中暗くして明には見えざりぎ。其時本陣と称する家よりして
いふことを信じ居たりしょり驚きたるものならざらんや。
3菓子など貰ひて悦びたりき。此婦人必ずや河童に引かるると
いたじぎり
誰やらん来りて余がよりかかりて居たる板支切の後にある驚き
を窺見たるよしなりしが余は少しも其事を知らず、又彼女は湯
風呂場に入りたり。後にて聞けば板支切の脇より余が居りし方
中の暗かりしがために板支切の根に余の居りたるをも見ざりし
といへり。余は本陣より来りて入りたるものあるを知りたれば
40
自第二十醐章
至第三十八章
第 二 巻
︵良吉ト云ヒ後博士ト為ル︶之ヲ聞キ余彼二曹アルナリトス。
此風評一度伝ハルや一犬虚二色ヘテ万犬実ヲ伝フ。遂二手習場
が方法ヲ得ズ、彼二迫リテ其取消ヲ為サシメントスレバ彼ハ自
己ノ無爵据ヲ棚二上ゲテ余ノ分封二巴据無シト主張ス。余既判
ママ
一法ヲ得タリ。一日余ハ急ギテ手習場ヨリ帰り竹刀ヲ携ヘテ島
風評ノ虚ナルヲ示サント其方案ヲ求ムルニ熱心セリ。幸ニシテ
ノ友ト共二包物ヲ抱エテ其門前ヲ通過セリ。余ハ忽チ馳出ダセ
津氏︵余が片羽通ノ家ノ隣家︶ノ門内二潜ム。トミ子二一、ニ
与へ詔フが如ク誤ルが如ク阿ネルが如キハ文明国ノ弊ナリ。然
庭︵出oBΦ︶ヲ造ラントナラバ男子ハ婦人ヲ遇スルニ破壊シ易
リ。固ヨリトミ子二怨アルニアラズ=言ノ問答ヲ為スノ理由モ
リ。彼ハ一声ノ叫喚田屋喫驚ヲ示セリ。島津氏ノ妻女ハ急ギ出
ベシ。是レ幸福ナル家庭二欠クベカラザル要素タルナリ。若ツ
来リテ余ヲ制シタリ。余ハ固ヨリトミ子ヲ悪ミテ撃テルニアラ
ノ勇アリト錐ドモ如何デカ驚カザラン、彼ハ忽チ地二倒レタ
ザルモノナルナリ、故二筍モ人生二幸福安寧ヲ望ム者ハ婦人ヲ
ズ、故二第二撃ハ下サズ。忘八遁レ余材家三帰レリ。アア高力
ナシ。突然竹刀ヲ上ゲテトミ子ノ島田髭ヲ撃一撃ス。トミ子巴
重ンジ之ヲ愛撫スルノ習慣ヲ造ラザルベカラズ。世間真正幸福
人一家ヲ為シ夫ハ嘆願ヲ愛撫シ妻ハ庭竃ヲ愛敬シ、夫ハ妻ノ保
ナル交際及ビ家庭ヲ求ムル者多シト錐ドモ婦人ヲ見ルコト恰モ
ル評判ハ先ノ評判二優リテ噴々藩中二弘布シタリ。鼓二於テ余
不幸力余ハ目的ヲ達シタリ。其翌日ヨリ余ガトミ子ヲ撃倒シタ
ノ冤ハ雪ガレタリ。アァ可憐無罪ノ少女余が冤ヲ雪グノ具二供
娯楽ノ器ノ如クスル者アルハ痛歎二堪ヘザルナリ。余が十五、
レリ。容婆艶麗ナリ。余曽テ漁網美人ナリト品評ス。矢田部氏
六歳ノ頃沼津ノ豪商鈴木氏ノ妹トミ子トイフ者余が手習懸爪来
護者ト為り、妻悼惜ノ扶助者タリシナラバ其幸福や奪フベカラ
キ土器ヲ扱フが如クシ、女子ハ男子二接スルニ愛敬ノ道ヲ尽、ス
レドモ若シ平和、幸福、和気、鶉然、安慰、快楽ノ充満セル家
婦人ヲ軽蔑スルハ野蛮半開国ノ風俗ナリ。婦人二過度ノ尊敬ヲ
@し﹂︵前上三・七︶
中ノ一大風評ト為ル。余大二之ヲ怒り矢田部氏ヲ苦メントセシ
記
第二十一章 鈴木トミ女ヲナグリシコト
あっか
○使徒ペテロ日ク﹁夫たる者よ瀬瀬も妻を遇ふこと弱き器
か
の如くし11これを敬ふこと生命の恩を嗣ぐものの如くすべ
恥
恥か記 第二巻
41
恥 か 記 第二巻
セラレタリ。婦人ノ為目障地獄ノ世ノ中ナル哉。
しき大言を吐き居たり。彼の大言は遂に其方向をかへて余にむ
なり、元来生意気なるが上に其夜は酒気をさへ帯び居りて聞苦
ンピン﹂﹁ナマクラ武士﹂﹁腰ぬけ﹂などの言をならべ遂に余が
かへり。余は、いまだ彼とご言をも交へざるに彼は余を見て﹁サ
腰を見て﹁士らしく大刀を帯びるも、何のためにする考にや、
等二十二章 某氏を断らんとしたる事
よろこ
@郵.なり﹂︵一〇・ 一 ︶
○箴言に曰く﹁知慧ある子は父を欣ばす、愚なる子は母の
余の肱は筋金入りなり、其鈍刀軟肱、とても斬ることはならざ
るべし﹂といへり。余が無頓着の血も煮えたり。劔道の心得は
E又曰く愚なる人は其野鶏んず﹂︵十五。二十︶
同じと思へり。余が藩には切捨御免の例は聞及ばざれど彼の無
ありといはねど彼れ素町人ども二、三人を斬るは豆腐を切るに
罪は情慾より生ずるなり、神を信じて更生したるものは情慾
刃傷、彼に勝利となりしは此頃のことなり。今彼を斬るも却て
礼の大言十分に彼を斬るの価値あり。上田右馬之助が松田楼の
@なるものの父は喜楽毒ず﹂︵十七。二十一︶
○又曰く﹁愚なるものを産むものは自己︵おのれ︶の憂を生じ、愚
︵不義の︶を断つべし、故に罪を犯さざるなり。又神を愛する
余の不利とはならざるべし。我藩には余り例なきことなれども
者は罪を犯さず、評し罪は神の大に窪む所なればなり。ヨハネ
教えて曰く﹁凡そ彼に居る者は罪を犯さず。凡そ罪を犯すもの
たり。沈思熟考の末余はたしかに斬らんと決心せり。然し其決
心を為したる時電光一閃、余が前に母の温顔を見だり。余は必
此挙大に士気を鼓舞するに足るべしと。余は黙して十分に考へ
んぜんとする暴雨大罪にを犯すを免るるを學べきなり。聖経
ず勝利たるべし。然れども城下に歴然たる商人を斬りたりとい
はいまだ彼寛ず、未だ彼を識らざる也﹂︵一斗三。六︶と.よし
に憂は律法を完全す﹂︵羅十三。十︶といひしも古人が﹁孝箸
ために江戸に行きたしと思ひ居たれど勘当的に江戸に行くとな
神を信ずることなしといへども善く其父母を愛し父母の心を賓
余が十六、七の時天下は次第に騒々敷く試斬などいふ噂常に聞
は諮問の親に優りき。余も他の子に優りて母の心を悦ばせまつ
らば余が母は何程心痛したまふべぎ、余が母の余を愛したまふ
らざるべからず、母を憂へさするは子たるものの道にあらず、
ぎれあじ
る所となり父に乞ひて他に鋭利の刀を得、心私に頼む所ある頃
ざるべからずと漸くに思ひかへして決心を翻し﹁母があるから
今の辱恥を忍ぶは一時のみ、之を忍ばざれば長く母を泣かしめ
へば余が父は余を家にはおきたまはざるべし。余は文武修業の
え、人の心も幾分か殺伐になり、又余が若者との交際は刀劔の
行の本﹂といひしも其意相近し。
ためしぎり
利味などを品評し余が幼少の頃より差したる刀は余の満足せざ
なりしが一夜城下の某氏に行く︵何の用ありしか今記せず︶。
ママ 某家に来あはせたるは其近傍に乱せる城下の豪商○○○○○氏
42
許しおくそ﹂の一言を残して其場を去りたり。ああ、危いか
な旭若し彼の時に母を思ひいださざりしならば余はたしかに○
○氏を斬りたるならん。ああ、母、母、母は余が犯罪を防止し
ことあり。錯書の体裁は小本と称する小説によく似たり。母は
せわ
其余が座右にありしを見、いたく驚かれたるものと見え﹁それ
によって終世人情本は一回も余が手に上りたることなし。余は
は人情本にあらずや﹂と、忙しく問ひたまひき。余は母の即言
此家庭より何程の感化を受けたりや知らざれども兎に角に余が
家庭は比較的に善良なりしなり。
余が熱血を冷却したまへり。
ものありき。其家には男女の子数人あり。其長と次とは余よ
@ @ @ @ @ @ @︵二十九。十五︶
@ の士は多く賢母よりいつるを以て単に遺伝の然らしむる所とす
すれば家庭の空気を純潔にせざるべからず。古より英雄又高潔
超せらるるものなればなり。故に純潔、方正の品性を造らんと
母は﹁お前はおよし、若いものが温泉に行くのは温泉が目的で
丁度いいから一緒に往かう﹂と云へり。其時傍にありし各家の
連なりと思ひたれば﹁私もとうから往かうと思って居たのだ。
二、三日中に熱海の温泉に行きます﹂と。余は是をききて善き
得べきなり。
の母は玉子の買淫旅行を黙許せしなり。余は当時深き考はあら
はない、それに子供がついていくと邪魔になるから﹂と。余は
ざりしが後に思へば此家庭にして其母を辱かしむるの子を造り
驚きたりi其意を解したるが故に驚きたるなり。ああ、此家
いだしたり。余敢て人の不徳を発かんとにあらざるも其二子の
余が幼時の家庭は可なりに健全なりしと思へり。固より当時の
し。一日余は﹁妙竹林話の七変人﹂といふ滑稽小説をかりたる
らざれども余が余の家庭教育には心を用みたまひしものの如
習慣によりて家中に一回も淫辞を耳にすること無かりしにはあ
む む
るは誤なり。若し其家庭にして高潔なりしならば又高潔なるを
らず女の子のみなりしが一人の女子は云へり﹁兄さんは二人で
ざりき。是さへあるに一日余が三家に行きたる時男の子は皆居
にて人情本を手にせるを翻しが其母は之を禁ずるやうにも見え
乱し居ることなり。余より少しく若き二人の女子も炬燵のなか
余が不思議に感じたるは其家に入るに座敷も居間も人情本の散
りも五、六歳の長なり。余は時々彼の家に行きて.楽しみしが
之に反して余が幼少の頃時々往復したる家に余の大に驚きたる
第二十三章 某氏の家庭に驚きたる事
けがれ
○パウロエペソの教会に教へて日く﹁寒詣および凡の汚稼た
むさぼる
ること、また貧禁ことを互にいふことだに為る勿れ、淫辞
@と潔たる響過れ 蓼 言 ふ 訪 れ ﹂ ︵ 旺 . 三 、 ︶
@る者はしぎりに之をいましむ﹂︵十三。二十四︶
○箴言に温く﹁鞭を加へざる者は君子を憎むなり、子を愛す
こころまかせ
@ ○嘉日く﹁任 意になしおかれたる子は其母を辱かしむ﹂
@ 人の品性は其幼時の家庭と大なる関係あり。蓋し人は境遇に鋳
@ 珊か記 第二巻
43
補ふ所のもの反って之を壊り其綻もっとも甚だしからん、
恥か記 第二巻
生涯を叙せざるべからず。 ﹁身から出た錆﹂此二人は遂に三生
あやま
又新しき酒を旧き革嚢に盛る者はあらじ、蓋し訂せば嚢は
世に不釣合、無調子のものあり。駿馬駄二痴漢一走、巧妻伴二拙
兄は後東京にいでて放蕩愚なく、余が知ることのみにても五、
六人の婦人に関係し、芸妓あり、娼妓あり、人の妻あり、,少女
も免るるを尊べしといへども創業の時代に於ては通ること能は
夫一眠、も不都合なり。社会の整頓したる時に於ては此無調子
閧ウけ酒もれいでて其嚢もまた讐んL︵馬九。十六、十七︶
涯を過りたり。
あり更に勉学し得ざるのみならず婦人のために苦しめられて究
はきたるが如き不釣合は明治二十六年の今日にても都鄙ともに
ざるなり。、和服着て帽子をいただきたるが如ぎ、洋服着て下駄
鬼一日も其身を去らず。余は明治三年頃と覚ゆ。彼若し放蕩を
‘止めざれば絶交すべしとの書を送りもが彼遂に改めず今も尚ほ
量るること能はず。慶応年間我藩の重役某氏がシャツ一枚にて
朋友としては交はらざる間柄なるが今鞍接となり居るは品川の
り。彼自身の過誤たるは論なしといへども教へて厳ならざる其
娼婦にして子は一人もなく、夫婦して内職に漸く糊口し居れ
が見たる事柄の中に不釣含のものも多かりしが立華の調練など
馬に跨り意気揚々たるが如きは有理千万のことなりしなり。余
もっとも
父の過失も幾分の責任を負はざるべからざるなり。
の改革を行ひたり。此時まで兵式の演習をなすものは足軽の鉄
奇中の奇なるものなりしならん。我藩にては慶応の初年に兵制
砲組と砲術を為すものに限り其他の文官俗吏は之に関せざりき。
其弟某は兄に先だって洋学を修め今一身の糊口に黒まるが如き
を妻とし、後其妻の先夫の子に通じ其親を去って子を妻とし其
止を得ざる小数の人を除き其他は皆出席せざるべからざるに至
然れども改革に於ては他の武芸を皆廃して独り砲術のみとなし
にはあらざるも或る家の少女に通じ、自己の師の妾に通じて之
に其家室に平和なきこといふまでもなく婦女のために一家の和
り白髪梓腰の人々さへ道路に負摩するの奇観ありき。余は当時
死後先妻の妹第二妻の叔母を妻とせり。既に是の如くなるが故
ンをして其家庭を評せしめしならば﹁妻の相争ふは雨漏の絶え
楽を欠き常に団々として不快を感じ居るものの如し。 ︵ソロモ
以て此改革は鮫竜の雲を得たるが如く毎日調練場にいでて老人
組を教ふることもあり、少年の隊を練ることもありき。是く圧
十五、六歳なりしかども砲術は余の得意となしたる所なりしを
からず﹂不潔の家庭は決して高潔の人をいだすべからず。
なる不釣合なる、無調子なる不都合なる駿馬と痴漢との類にあ
制的に文官俗吏を呼出だして調練せしむることなれば其不体裁
らざりしなり。石橋清三郎氏が女浪男浪の打寄するが如き歩行
めなみおなみ
44
ぬにひとし﹂︵蝉九.︶といはん.﹁水源濁りて量水いつべ
○基督嫁く﹁新しき布を以て旧き衣を補ふ者はあらじ、,藍は
第二十四章 調練奇事の事
’
之、氏の父は三毛有名の保守家にして洋服を悪むこと甚しく常
れんとすれば﹁余は御取次役を勤め居れり﹂と訴へたり。加
十指差は其身幹僅に四尺、大人と伍すべからず、少年隊に組入
に止を得ざるなり﹂と長嘆大息したることもありき。又石川七
は其無器用に苦しみ、本人は其恥しぎによわり﹁君命なれば実
しめんとすれば一列中の他のものは休息せざるべからず教授方
振は何程教へても太鼓の調子にはあはず、強ひて正しく歩行ぜ
人の主義は兵士にのみ銃を荷はしむるを気のどくなりと思ひて
操練したる時老人も亦兵士と同じく細身の銃を荷へり。蓋し老
言葉に従ひ﹁稲荷さん⋮⋮﹂と絶叫す。又大手内の芝生に於て
しめんとし私に﹁稲荷社の方をむいて直れと命ぜられよ﹂と忠
ママ
告す。此時老人は気、大に昂り分別に暇なく、薬量器的に余が
社の裏に調練せり。隊兵の静止したる時﹁直れ﹂の一令を発せ
を避くるものありき。余は一日老人の顧問となり、ニノ丸稲荷
なり。当時の兵式にては進行の命あれば銃を荷ひ、静止の令あ
れば銃を肩にす。然るに老人は如何にして誤りしか自ら静止の
に洋風兵式に反対して日く﹁外人に踵なきは其靴を見て明なり、
わさびおろ
を肩に⋮⋮﹂と告ぐ。老人余が声に応じてコ肩へ1銃﹂、何ぞ
令を為したれども自己は依然として銃を荷へり。余財私に﹁銃
戦を開かば彼を陸上におびきよせ、玉藻は左手に山葵卸しを執
り右手に日本刀を取り、彼発砲せば山葵卸しを以て其限を受け
ちかづ
思はん兵は已に銃を肩にし己れ一人銃を荷ひ居らんとは。老人
游ぐ者よく溺る﹂と。皆謹慎を欠く言置結果のよからざるをい
45
とめ、近ききたらば山葵卸しにて其造面をかちり、彼がひるみ
自ら恥ぢて笑ひ兵士又大に笑へり。是の如きの奇事中々に少か
第二十五章 山本伝平氏怪我の事
が故なり。
らず、創設の際矢鱈に洋風を採用せんとして木に竹を接ぎたる
らず。溢れ無勢兵を募るに法なく年令身幹など更に問ふ所にあ
たる所日本刀を以て彼が首に加へば可なり﹂と。既に此主義な
を折返へしたるを着用せしめたり。氏の風采想像し得べし。小
り。故に其息七十郎氏にも人並の筒袖、股袋を許さず和服の袖
つぎだ
寺泰輔氏は身体非常に肥満し居たれば官より交附せられたる革
短きが故に其歩数を多からしむるにあらざれば同時間に同距離
まざれば災害を免るること能はず。﹁山立は山で果つる﹂﹁善く
諺に曰く﹁念には念をいれ﹂と。大凡事を為すもの深くつつし
列を一人減ぜざればつりを合はす能はず。宮川某氏は太くして
帯は継足しして僅に用みるを得、身体の幅二人前なるを以て後
を進行せしむる能はず。五十嵐親六氏︵後親とす︶は股袋を造
まち
るに和服にても着用するに差支なからしめんとて其撹を膝の辺
ふのみ。
E箴言曰く﹁其道をかろむる者は死ぬべし﹂︵什航.︶
に為したれば遠足の短きこと象の如くなりしなり。実に千態万
に隠居したる服部氏の老人の如ぎ其熱心本気なる少壮者も三舎
恥か記 第二巻
状、奇々怪々、笑草となるもの頗る多かりきつ然れども当時既
に砲士は皆謹慎して装填、点火悉く法にかなへり。余が一隊中
列し千本浜の松原中に挙行せり。初めは皆稽古と思ひたるが故
余幼にして野戦砲の演習を為したることあり。甲乙埋門左右に
何れより生じたりや、其理は明なり。元来一発毎に棚杖をとる
出だされて松の枝に当りて折れたるのみなりき。抑3此過失は
も甚だ軽症にして四、五日にして癒えたるよし幸に大量にいた
を助け遂に稽古まで中止となりて引揚ぐるに至れり。平氏の疵
妓に於て速射の競争は自ら中止となり競争者さへ来りて山本氏
恥か記 第二巻
にて打方を為したるは本庄粒心氏、装填を為すものは山本伝平
はやうち
氏、余は点火を司りたり。後馬に甲乙の赤門速射の競争を為し、
者は巣離を拭ひ同時に巽中に残る所の火あらば之を消し其安全
らず。損害といふべき山本氏の手にありし棚杖一本巣中より打
て装填する者も古草聖をひろひ又玉蜀黍の心をとりて発射する
数の多きを以て勝利とせり。其競争次第に烈しく仮に弾に擬し
かりしと注意の至らざりしが為に山本氏は糊杖を巣底にまで達
なる時火薬を装填するを法とせり。然れども此日は競争の烈し
せしめず火のいまだ消えざるに火薬を送りたれば倦は点火せざ
にいたれり。是の如くなるが故に彼は次第に熟し目を閉つるも
るに発したるものと知られぬ。ああ﹁上手の手より水が漏る﹂
天地の間に生ずることは皆悉く上帝の摂理中に支配せらるる者
左手の甲と横腹とには黒ぎ.うちに襖形したる三角の小穴を多
を以て戦国の危険なるを知らず。然れども大砲の稽古に於て危
頼むの弊を避くべきのみ。余は一回も敵と交戦したることなき
ざるが故に自己の力の及ばん限り安全の道をとりて徒に上帝を
46
点火し得る程になり蕾に謹慎せざるのみならず用の少き者は互
に私語などするに至れり。当時点火を為すには雷管等を用みず
て居るを見たり。余は手にある﹁シユンドルス﹂を棄てて氏を
なり。上帝許したまはば天地の大も理解することあるべく一髪
@曹の父の許なくば茎羽も地に讐ことあらじ﹂︵馬長。二十九︶
第二十六章 危険を免れたる事
う
○基督曰く﹁二羽の雀は一銭にて濁るにあらずや、然るに爾
注意を欠きたるの害鼓にいたりしなり。
﹁シユンドルス﹂といふ燃質物に火を点じ、打方の火門を去る
を待って点火せしなり。余は一発して体を反け打方の挙動を注
り、余は驚けり。いまだ点火ぜざるに如何にして発火せしか、
視して装填の方を見ざりしが轟然一発不意に耳辺をかすめた
余が其理由を知らんとせる時込方を為したる山本氏は其半面と
助けんと其傍に近づけば氏はいたく周章したりと見え﹁どうか
にして其長短皆其掌手にあり、唯人は上帝の摂理如何を洞見せ
の微も失はれざるべし。吾人の生命の如き上帝の司りたまふ所
手とを黒くし、其左袖は已に焼切れ、横腹の辺ブシ︿と燃え
なったか﹂と二、上声繰返したり。余は他の人々と共に其衣服
たる本庄氏も揖の腹に同形の疵を造り血は巳にいでて居たり。
く生じいまだ血はいつるに至らず、右手の揖もて爆撃を塞ぎ居
くさびがた
の火を擦消し、借怪我は如何と見しに面はただ黒くなりしのみ
険に際し幸に免れたることありき。我藩にて大砲の発火演習を
余の前に砂埃をたてて数個の砕片散乱せり。近づきて熟視すれ
の中心−離見の後、余の前にて轟然破裂せり、白煙は破裂し
に打込みたると白煙をして真に破裂せしめたるとは彼等の不注
手を責めしが彼等は只管其不注意を謝したり。彼等が松原の中
舌を吐き高運を祝し脇士の不注意を語り、後破片を証として砲
ママ
ば砕片の拳大なるもの一個を砂中に拾ひ得たり。互に面を見、
たるなり。忽ち松の枝の直径三、四寸のもの折れたり。同時に
為すに二様の法あり、一は規則通りに其弾を破裂せしめ一は弱
ただ
力の破裂薬を適中に嘱して単白煙を選出せしめて破裂に擬する
のみ。之を﹁白煙﹂と称す。蓋し此第二法を用みたるもめは弾
はくえん
丸を保存せしめんが為なり。一日例に従ひ千本浜に町打を為せ
や み
り。其初のは破裂せしめたるを以て海中に発射せり、 ﹁速見﹂
地を報ずるためなりしなり。然るに余が白煙を打つから遁うと
る時は砲士に発火してよきを報じ紅旗ぱ弾丸の到着地又は破裂
意たるに相違なかりしも過失は矢見にもありき。元来白旗を振
西人あり白煙たることを報じて避けさせざるべからず。鼓に於
て守れり。半頃に至りて﹁白煙﹂を打たんとの議あり、白煙は
かわら
海中に発射ぜずして海浜の金地に発射すべし。磧地は桜見三、
のよきものと認めたるなり。ああ、危かりき。二十九ドイムの
告げたる頃彼等は旗をかつぎて遁げたるを以て砲士は已に準備
と称するもの三、四人弾丸の到着する所と同距離の海浜にあり
て出過ぎものの余は其使命を奉じて急ぎ矢見の方に走れ9.。二
も害はれざりしなり。
弾丸は余が頭上にありて数片に破裂したり。然れども余が一髪
見は発射の中止したると余の走行くを見たれば宝地に横ばり首
をあげて注視し居たり。余は庭梅に近づく一町許にして余は連
ある時又我入道村に演習あり。余は其日三見にありしが其時発
呼せり﹁白煙を打つから逃ろi﹂、余の告ぐること急なるが為
に矢見は驚きたり、余の声に応じて立ちたり。傍にありし紅白
射し居たるは﹁ダライバツ﹂と称する狙撃をなす大砲なり。目
下軍艦に装置して水雷艇を狙撃するに供したる砲の如し。千本
うしぶせ
浜は的なき破裂弾を打つに供し我入道浜は的をたてて狙撃をな
の旗を執り風に翻して松原の方に走れり。彼等が松原の方に走
れるが故に余も亦彼等に同ぜんと進路を斜にしたり。農時下辺
に発砲の響を聞く。余輩は驚き互に﹁打ったぞ一﹂相和して遁
をたつるの便利ありしなり。的打なるが故に矢見も安全なる障
壁を造り其蔭にありて弾の的中するや否を見、其弾丸の到着し
すに供せり。蓋し同所は東南の方に牛臥山といふあり其節に的
く松原の中に入らざるべからず。余輩が松原の中に入りていま
の発射毎に出でて的の前にたち、而して報告し居たりしが一発
たる所に小旗を振りて砲士に報ずるなり。余は﹁ダライバツ﹂
ぐること弥ズ急なり。元来白煙は適地に到着せしむべき筈なれ.
だ数歩ならざるに忽ち頭上に空気を切って弾丸の飛来るを感ぜ
ども時としては大に其方向を誤るこどあり、出来得るだけは遠
り。 ﹁逃ろく﹂の声、弥3急なり。何ぞ思はん、弾丸は余輩
恥か記 第二巻
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恥 か 記 第二巻
ぎ行きて的の前にたち新に弾丸の通りたる穴ありゃと見たり。
あらしめんが為に殊に保護したまひしなり。余は振事を思ふ毎
にあらざるを得んや。今より、之を思へば上帝は余をして今日
一個受けざりしものは豊上帝の暗々裡に余を守りたまひしもの
然れども無し。余は弥3乱れり。砲声は確に聞きたり、然し弾
に上帝の過去の恩寵を謝して止まざるなり。
の砲声を聞きて弾丸の来りしものを感ぜず。余は訥りながら急
は来らざるが如し。余は天狗につままれしかと思へり。奇なる
第二十七章 緋ズボンの事
かざり
○エレミや曰く﹁設営臨くれなみの衣を着↓金の飾物を以て
の砂地は一面に小震動を為し、砂塵は煙の如く立ち其様恰も意
かな此時﹁フル<<﹂の音を聞くと同時に余が立てる周囲
中に砂を盛り其橡を叩きて砂に震動を与へたるが如くなりき。
身を粧ひ目をぬりて碧くするとも汝が身を粧ふはいたづら
@なり﹂︵四。三十︶
此時余は心付きたり。今、聞きたる砲声は﹁ダライバツ﹂にあ
○メラキ日く﹁すべて驕傲者と悪を行ふ者は藁の如くになら
らずして野戦砲の﹁武力ドース﹂を打ちたるなりと。 ﹁武力ド
ース﹂といふは落書の小禽数十個を武力製の罐中に詰め之に木
ん、其来らんとする日彼等を焼きつくして根も枝ものこら
○列王記略下巻に急く﹁レバノンの荊棘かつてレバノンの檜
@ざらしめん﹂︵四。一︶
製の﹁オクリ﹂を添へて発射ぜるものにして其罐の破るるや数
だ遅く、今漸く其小器の此所に達したるものと知りたり。余は
樹に汝の女子を我子の妻にあたへよといひおくりたること
十の弾丸を射て便利なるが如しといへども其小弾丸は其速度甚
驚きて逃れんかと思へり。然れども余が逃れんとしたる時は最
¥四。九︶
ありしにレバノンの野獣とほりて其装着をふみたふせり﹂
遅きものなることを初めて知りたり。砲士も是くまでとは思は
早小弾の此に到着したる後にてありき。余は武力ドースの是く
@ @(
あた
るものの無かりしは実に奇中の奇なりしなり。家の中に眠りて
さへ鼠に噛まれて死する者あり数十の弾中にありて﹁かすり傷﹂
余が十四、五歳の頃よりは我藩に日々の練兵あり、余は其場に
ずα
大凡世間を見ずして其局量の懐古なるや他を知らざるか故に自
@ ざりしならん、余は其実用果して如何、十分に信用せざるに至
@ ら為す所を大なりと信じ徒に驕傲を極むるものなり。然れども
@ 退いて深く自ら思ひ又善く他人を知る時は大に自己の愚を悟り
@ りき。
@ ああ、童男、此小池一個︵目方十匁以上︶余が身体i頭脳の
@ て恥しく思ふに至るべし。故に凡そ一の事物を為さんとする時
@ 如ぎ所に中りしならば或は余の生命にも関はりしならん。幸に
@ は自他を考へ将来を思ひ其後悔恥辱なきものを択まざるべから
@ して弾は皆下りて余が足の辺に落ちたると一個も身体に触れた
@ 48
に三、四人の鼓手を要すべく又楽隊といふまでには至らざるも
ママ も謀り太鼓の新調を其筋に申立て真鍮銅は許されざりしが武力
似寄りたるものは非らざるを得ずと。鼓に於て先輩の教授等に
いで教授を助けたり。当時の兵式は﹁六十一年式﹂と称する蘭
法なりしが其用みる所の太鼓は木製長葱にして其音調の沈欝な
胴数個を得、又鼓手と普通の兵士たるを区別せんが為に余は緋
りしはいふまでもなく其譜も﹁ドンドコドンく、ドンく
ぐ﹂の楽調にして面白みなく唯聞く者をして午睡を思はしむ
人も其奇装には驚きたるが如くなりき。然れど人気に投じたる
呉郎のズボンを新調して之をはきしが初めは自己も恥しく見る
ものか我もくと緋ズボン増加し遂には二、三十人の緋ズボン
るあるのみ。余は之を改正せざるべからずと思へり。元治元年
時未だ蘭式なりしが丹羽みる所の太鼓は真鍮製短胴にして其譜
ズボンを着用するに至りたり。余の得意知るべきなり。時々総
を見るに至り又後には諸教授等は教授職の記号として黄呉郎の
の頃長州征伐の挙あり歩兵は日日城下を通過す。彼等の式は当
も亦我藩の如くならず、余は之を羨み日日城下にいでて其進行
ママ
に進みたるが如き今より思へば総身棘然たるものあるなり。若
兵を合して千本浜に練兵し余自ら鼓手長を任じ鞭を取って先頭
を見余が改革せんとの念は弥ヌ切なるに至れり。慶応元年寺田
る靭だ野栄左衛門氏の兵を率みて城下に止宿したることあり。
は何と思ひしならん、井底の蛙其為す所知るべきのみ。
し当時他の我より発達したる者ありて余の為す所を見たらんに
49
信三郎氏︵後に将美といふ︶の知人にして幕府の歩兵指南役た
余敢て乞ひたるにはあらざりしが寺田氏は余を伴ひて氏の宿に
は無知の為に其身を滅ぼすものあるなり。彼の猶太国民が基督
世に智慧と知識の無き程恐しきものはあらず、甚しきに至りて
E箴言に強く﹁愚な薯は智碧きに害て死ぬ﹂︵什一二︶
第二十八章 漫瓶にて失敗したる事
しびん
至り余を紹介せられたり。何ぞ思はん氏は又鼓手長にして軍鼓
の教授を為す人ならんとは。翌日氏と共に吉原宿に至り氏の宿
に一泊し音譜三、四種を写し得たるのみならず運手の法など教
授を受けて沼津に帰れり。当時又余が父は余のために真鍮製短
を礫殺して却って其国を滅亡せしめたるが如き、目下の非雑居
盛暑テ我入道村ノ町打二至ル。前日ヨリ少シク病アリ、此日我
見る能はざるなり。
に反対せるが如き皆其智慧なきによりて自己を殺すの害あるを
論者が雑居を肥るるがために国権の重んずべぎを忘れて雑居論
コく乎、余が母の如何にやかましく梅ぼしつらんが其時は何
は今より思へば冷汗かくべき話なりしなり。然れど此無遠慮、
おのつか
恥か記 第二巻
余は又思へるは練兵を終りて弥ヌ銃隊を組織するに至らば各隊
の先生の如くなり、太鼓を習はんといふ者数人あるに至れり。
無頓着のために二、三の進行曲をも装えたれば余は自ら太鼓
とも思はず、家の中、家の外、所嫌はず無遠慮にたたきたてし
気の太鼓を購ひて余に与へたまひしかば日夜ジヤカく然、ド
頭ハ弥メ痛ミ胸ハ苦シク今ニモ嘔吐セントテ幸二不動堂ノ別当
入道村二至リシが気分頗ル悪シク乞フテ独り不動堂二休息ス。
犬糞ヲ以テ復讐シタリト思ヒテ慰メタリシナリ。
レタリ。アア、老僧ノ尿ハ老僧ノ茶碗ト共二挺ハレタリ、余ハ
ヲ見ル。鼓二戸テ余ハ復讐ノ心ヲ以テ余が左手ヲ塗桶ノ中二入
二走レリ。其流シヲ見レバ老僧が茶碗ヲ入レタル小輩二水アル
、恥 か 記 第二巻
ヲ三三リ。三図二尊投打ニヨリテ信用ナシ。然レドモ時二取リ
世に奇怪の談あり、天狗といひ、幽霊といひ其種類頗ゐ多し。
E箴言に曰く揺薯はすべ萎一薯信ずL︵十四。十五︶
第二十九章 香貫山にて石を転がしたる事
某院ノ住持医ヲ兼業スルヲ以テ薬剤ヲ乞フ、彼ノ旧式ナル煎薬
テハ鼻糞モ腹痛ヲ癒スノ功アリ煎剤亦功ナカラン。之ヲ服スル
コト一、二回、然レドモ余が病艶事モ快カラズ。久シクシテ思
便所ノ不潔ナル余ノ気分ハ弥3悪シ。余別当老僧ノ無精ナルニ
て皆無智不知より生ずるものなり。若し天狗といい、幽霊とい
然れども是の如きは皆人智の未だ開発せざる時にありし談にし
ヘラク、若シ快ク通ジタランニハ可ナラント住持ノ便所二入ル、
ニシテ出デタリ、出デテ手ヲ洗ハントスレバ自然石ノ見手盤己
不平ナキ能ハズ。未ダ十分二通ゼザリシが長ク居ルニ堪ヘズ半
ルナリ。必ズや水母ノ類アリテ駅手二供スルモノナラント其辺
モ亦以為ク老僧ハ潴水中手署ヲ生ズルヲ恐レテ故二水ヲ汲マザ
の如き今は之を信ずるもの殆ど無きに至り無智盲昧の人々すら
る者すら之を信じて疑はざるに至る。彼の狐愚の如き、犬神
明ならざるもの皆天狗となり幽霊となり、遂には幾分の教育あ
るなり。殊に物理、心理等の学の起らざる時に煽ては其道理の
二乾燥シテ水一滴ヲ存セズ、余弥3老僧ノ無精ヲ怒ル。然レド ふものを仔細に調査研究したらんには其妄を見ざるものあらざ
ヲ回視スレバ飴色ノ土器アリ、其形円平ニシテ大ナルロアリ其
や。
狐につままれたるの例少きに至れり。残れ文明の余沢にあらず
ぎつねつぎ
背ニハ取手アリ以テ水ヲ灌グニ供スルが如シ。余ハ未ダ此類ノ
水撃ヲ見タルコトアラザリシが水ヲ要スル時ナルが単二何事モ
土方次郎氏と共に鳥打ちせんとていでたり。何処とあてはあら
余が十六、七の時空よく晴れて風さへなき冬の日なりしが友人
考フルノ暇アルコトナシ、右手二之ヲ取りテ左手二三グ、アア
過テリ。憂色番茶ノ煮出シタルモノノ如ク臭気鼻ヲ打チ堪フベ
しびん
カラズ。余ハ輿迎テ知レリ、是レ老僧が常二用ヰル漫瓶一久
ざりしが狩野川の渡船場を渡り、市場より左に折れて面白から
然リ、余ハ此失敗ノ為二怒レリ。僧二対スル不平ハ坐上煮エテ
の傍に休み四方八方の談話に興じたりき。談話中出にありし小
鳥は一羽も目にとまらず、楽みもあらざれば丘陵の上、一小祠
ハ是迄落盤ヲ見廻ルコトアラズ、知ラザルが故歳余ハ失敗セリ。 ぬ隔壁を過ぎて香貫村に入り霊山寺の墓地に近き丘陵に上りき。
ママ
シク前ヨリ棄テザリシ尿ヲ満タシタル漫墨田テアリシナリ。余
沸騰点君達セリ。余ハ漫瓶ヲ鉢前二放下シ出遅シテ別当ノ台所
50
り﹁余此頃ある書を見しに山に入りて道を失ひたる時、何れの
石をとりて茂りし樹木のうちに投入れたるに土方氏は見て云へ
辺に道あるかを見出ださんとならば石をまろばし其石の止りし
破壊したる響にあらずや、イザ遁れん﹂、此一声は電気の如く
速に爆ぜられ、余の言葉のいまだ終らざるに土方氏は己に自己
り。タ刻に至りて家に帰らんとし再び霊山寺の近傍にいでたり。
一目散霊山寺の墓地に下り、寺の裏を過ぎて我入道村に走れ
の銃をとれり。余輩は道を択むの暇なし樹木の間に飛入り唯々
自ら止るなり﹂と。氏は余よりも善く漢書を読みたり。余は其
同意せり。よって村道より寺門を入り墓地に入らずして左折し
余は土方氏に謀れり﹁彼の響の跡を一見するは如何﹂と。氏は
辺を見よ、9必ず道あるものなり。蓋し道は平坦なるが故に石は
らんと拳大の石をとりて投じ、投じて如何なる結果ありゃと考
りて忙しく働き居れり。何食はぬ面湿して近着き見れば何ぞ思
おももち
山麓に沿ひ此辺ならんと思はるる所に至れば農夫等等、五人あ
説の面白きに感じ余は実際に試みては如何と問へり。氏は善か
ふるに石は木の根にゴトりくと当りて其後は如何になりしか
更に分らず。今度は頭大の石を転ぜしめたり。上より雑木を見
の中心には見覚ある彼の大石、半、茅中に埋りてあらんとは。
ん﹂と、余輩密に大に笑へり。久しからず彼の堂は天狗の所為
余は思はず舌を吐けり。農夫等互に語りて曰く﹁鼻高先生なら
はん造りて未だ程なき二、三間四方の一堂圧倒せられ茅葺屋根
足せず、更に大なる石を転がしたらんには興更に深からんと其
なりと伝へられたるならん。余は其後のことを知らざりしなり。
れば置石の触るるもの其梢のブルくと震へるを見しが又久し
辺を見れば直径大凡三尺、厚さ一尺四、五寸の一石あり。之を
@ @︵同上十七︶
@ 51
からずして何れの辺に止りしか分らずなりぬ。余輩はいまだ満
転ぜしめんとするに中々動かず、然りとて中止すべきにあら
@ て こ
ず、遂に小祠の柱を抜き暫く拝借などと戯れつつ之を桓粁とし
第三十章 朋友を撰むべき事
なら
○パウロ ピリピ人に教へて曰く﹁兄弟よ爾曹皆我に効ふも
@ 七、八尺を移し漸く断崖に転ぜり。視よ、石はドカりく、ゴ
のとなれ、且なんぢらの酸模となる我らに循ひて行を為す
@ ツンλ\、小木は倒れんとし大樹は傾かんとし其勢の猛烈なる
@ものを視よ﹂︵三。十七︶
@ こと讐へんにものなく進むに従ひて弥ヌ甚しく余輩の愉快云は
@ んかたなし。木の揺れるを見て﹁彼所に行けり﹂ ﹁彼の所に達
@して勧言忌ふる友の美しきもまた斯の如し﹂︵箴二十七。九︶
○箴言に日くコ骨と香とは人の心をよろこばすなり、心より
@ せり﹂と興益ヌ加はる。忽ち聞く﹁ドシン﹂、﹁メりくく﹂、
@ 響は止みて寂静再び来れり。余輩は驚きたり。固より山麓は人
@ ○又曰く﹁鉄は鉄を研ぐ、斯の如く其友の面を研ぐなり﹂
@ 家なき所なり。然れども彼のメりく或は人の居宅にあらずや、
余輩愕然、為す所を知らず。余は土方氏に云へり、 ﹁人の家を
恥か記 第二巻
恥 か 記 第二巻
う
○又曰く﹁水に照つせば面と面と相肖る如く人の心は人の心
に似たり﹂︵桐祉︶
○箴言に曰く﹁智慧ある者と催にあゆむものは智慧を得愚な
・パウ遠く磯.蕉りは謝婁徳を害ふなり﹂︵前寄十五。三十三︶
る婁となる者はあしくなる﹂︵十三・二〇︶
りし朋友の中には余のために益友として見るべきものはあらざ
りしなり。其の新来の友の中に手島精一氏ありぎ。氏は初め銀
り今は職工学校の長となり又博覧会の事務に長じ英仏米等の大
次郎と称し後英米に留学し長く文部に職を奉じ同省書記官とな
余は屡ヌ氏の塚に遊び氏に誘はれて酒楼に上りしことも無きに
博覧会ある毎に事務官として派出し今は第七回の洋行中にあり。
ことなど語りて余のために益となりしことなども多かりしな
して人物となるべきやなどの談もあり、互に志を立てたる時の
り。又一友は松崎連氏なり。氏は余が家に遠縁なる上に余より
あらざりしが時としては古今の人傑などの性行など語り如何に
己の生涯を満足せしめ自己の品性を高貴ならしめんとすれば三
互に相投じ互に其感化を乾くるをいふものなり。故に人若し自
は五歳の兄にて屡3往復せる間に大に感化せられたるものあり
古語に曰く﹁水は方円の器に従ひ人は善悪の友によると。或る
友をえらむべきなり。吾人は彼、我に益ありと思ふことありて
て余は史記漢書等の書を読みたることなり。是等の書を読めと
しと思はる。殊に余が今に記憶して忘れざるは氏の勧誘により
人日く﹁其人を見んとせば其友を観よ﹂と。皆是れ朋友は意気
は殊に注意し力めて之と交り以て其感化を幽くべし。是れ自己
も時としては其友を厭ふの情なき能はず。是の如き時にありて
は父も云ひ師も云ひ他の朋友も云ひたるごとなれど余は其興味
て氏が屡3其書中の人物又は名句など余に語りて余に読みたく
あらざりしが故に読むこともせざりき。松崎氏と交はるに及び
の品性を形成する秘訣の一なり。
ものあり。彼等は田舎武士よりは開化したる人なり其風俗習慣
をとりたることもあり、鼓に於て余は幾分の興味を感じ自ら読
思ふの念を起さしめ又時としては自ら師の位地に立ち解釈の労
余が十四、五歳の時江戸よりして藩士の多く沼津に移住したる
余が眼に新ならざるはなく、新なるが故に経験少き余の目には
ありと覚ゆ。余は必ず此交際に於て田舎風の質朴なるを失ひて
興敗を察し、学校にありて教育を趣くるよりも余が為に実際の
みで味ふに至り鼓に初めて前後漢書、史記、通鑑等を読むを得
ママ
たり。此読書によりて文字を覚え、属文に馴れ、人物を学び、
と少しとぜず。思ふに余の言語の如きも其頃大に改まりしもの
慕はれざるもなく、余は悦びて彼等と交り其感化を受けたるこ
華美虚飾の風俗に染みしならんと思へり。愉し余が喫煙の風の
学問を為したるなり。是の如きは皆松崎氏の賜たらざるを得ん
や。氏は寧ろ文人なり余は寧ろ武人なりしを以て時としては意
如き現に其一人によりて伝へられたるものなればなり。然れど
﹂も余は此新友に総て得停るものあり。着し田舎の旧くより交は
ママ
52
したることなし。余は此地に朋友もありたれど余のために真に
見の衝突することなきにあらざりしも曽て一度も氏と争論など
思はず又学者なりとせず。然れども若し此二尊あらざりしなら
益ある友といふべきは此二恩なりしなり。余は自ら人物なりと
ば今日の位地さへに決して得ること能はざりしなり。ああ、択
むべきは友なるかな。
第三十一章 八幡社の樹より落ちんとせし事
@ @ @ @ @ @ ︵馬四。七︶
@ ○基督日く﹁主たる爾の神を憾むべからずと亦訂せり﹂
@ まざるべからず。
余が長じたる沼津片羽通の屋敷の裏に一枚の田を距てて八幡の
かみさ
社ありき・其勧請はいつの頃なりしか有名なる大松あり︵礫
難︶、又椋の大木数株あり境内は広からざりしがいと神閑びて
れば何れの椋にも少年の一、二人を見ざることなく、木原源次
見えき。余輩が剣客に興味を有したるは椋の木なり。其実熟す
らず。天神の小祠の傍にあるは最も高くして天神椋と称し、常
郎氏が落ちたる為に源椋と称するはあれども危険の紀念とはな
に風の当りて音の聞ゆるを風椋といひ少年の間には此称呼を知
らざるものなかりぎ.余が棄原賢太郎氏︵灘藩聾は
奔るべぎなり。之に反して不注意に事を処し而して其結果の不
の智に従ひ識に従ひ、為し得るだけの注意を為して自己の途を
のある所何の辺なりや毫末も知る能はざるが故に吾人は唯吾人
る所に至り手を伸べて風椋の細ぎ枝−揖大の枝一をとり両
り。風椋に乗らんとする者は先づ此﹁コガ﹂に乗り其殆ど尽、く
乗る方法を教へたり。風雲に近く土俗の﹁コガ﹂と称する木あ
余は元来冒険的の遊戯を為さざりしが氏は配る時八幡の風椋に
掌を以で確と其枝を掴み二、三回身体を前後に動揺せしめ惰性
体は椋の枝にぶらさがりて八、九尺先にある一の枝に我足は達
に乗じて﹁コガ﹂にある足をあげ其枝を跳るなり。然る時は身
り。然れども地中海にありて難風に逢ふや其身の必ずロマに至
船は無難なるべしとて何も為さざりしならば神を試むるの罪に
ば徒にぶらさがりて進退究まることありとて栗原氏は初より大
若し其移らんとする時﹁コガ﹂を離れたる足椋の枝に達せざれ
を全く安全なる地位におくべし。然れども鼓に一の危険なるは
すべし。其足達したらんには片手送りに他の枝を手操りて其身
陥らんも亦知るべからず。己を頼む者又血気にはやる者深く慎
︵使二十七。十︶.若し神・マに達芒むべしと教へたまひしが故に
るべきを信じたりしが其者を救はんために力を尽くしたりき
・マに達すべし﹂︵使二十三・十一︶と暴不を蒙り深く之を信じた
を試むるの不義たるなり。基督の徒パウロは主より﹁其身必ず
可なるを見て過れ天命なりといふは徒に神を頼むものにして神
いひたり。氏は余よりも二歳の弟なりしが其冒険は遠く及ばず。
@ 有名の木乗りの名人にして氏の乗り得ざる木は沼津中になしと
@ 天下に起ることは国家の治乱興廃より一身の栄枯盛衰に至るま
@ で一も神の預定摂理の外にあるものなし。然れども吾人は神意
@ 恥か記 第二巻
53
胆に跳て十分に身体を癬げよ・といひきコ帰り来るとぎは移る時
れば下らんとして例の如く為さんとすればコハ如何に我足をか
うしたり、山車の本町通りを行くを見たり。余は目的を達した
放ちて幸にも身は風椋に安全なる位地を得たりか余は目的を全
恥 か 誕 第二巻・
に.掴みし枝は足場になり其上にある枝につかまりて﹁コガ﹂に・
けて﹁コガ﹂にゆかんとする其枝は今我裂かせたる枝にして足
飛移るべし。之を風椋の途とせり。余は初め危ぶ・みて敢、てせざ
りしが栗原民の懇切なる勧誘によりて一回之を試みしに思ひし
がかりはあらざりしなり。止を得ず他の枝に足をかけて幸に
﹁コガ﹂に移りて下るを得たり。ああ、危哉、若し彼の枝全く
ょりも易く又面白かりしかば其後は屡3風椋に乗りて楽しみた
りぎ。ああ、危難、如何に椋の木の無爵硬なりといへども早大
べからざりしなり。仮令石に触れず木の根に当らずといへども
幹より離れたらんには余は少くも三十尺の上より地に落ちざる
若し落ちたらんには人も知らず独り小祠の後に長く求まざるを
の一本に自己の一・命を托したるは実に無智無謀なりき。果せる
で,て賑なりしが前日より雨ありて其日も午時頃より漸く晴れた
哉余は殆ど生命を危くせり、或る.時城下に祭礼あり山車などい
り。遠く大鼓の音など聞きしが果して山車など練歩くものにや
膚これを父母に受く敢て殿介せざるは孝の始なり﹂。又聡く﹁父
得ざりしなりゅ孝を基礎とする道徳家は教へて云へり﹁身体髪
母在不二遠遊一・遊臆面γ方﹂又曰く﹁孝子は壷焼の下に立たず﹂
54
いかにと逢ふ人ごとに問ひ試みしも知る人なし。不図余は風椋
ずるもの神を試みるの行為あるべからざるなり。、
と。皆其父母を思ふて其身の慎むべきを教へたるなり。神を信
を思ひいだし彼の木に乗りしならば山車の頭を見るを並べしと
たやす
裏より飛出し慣れたる木とて何も思はず平地を行くよりも容易
回して足を離せり。.アナ、恐ろし、余が生命を托したる枝は其
ぎ
げ ひとい
気に例の飛移りにいたり足をあぐべき枝さへもよくは見ず一門
さかさま
幹に着きたる所よ.り裂けて足は踏むべき枝に達したれど余が身
混信高貴、尊栄ヲ好ム者ナリ。又爵位アル武器学識アル者ニ
@汝何をなすやといきとを得ん﹂︵八。四︶
第三十二章 将軍家茂公を迎絆したる・事
ことば
○伝道言書二日ク﹁王の言語には権力あ、り、然れば誰か之に
見ユルヲ好ム者ナリ。蓋シ高貴ナレバ其意行ハレ易ク学識アレ
るは裂けたる枝のまだ幹を離れざると足の先にて踏むべき枝を
体は枝を握りしまま倒になり余が身体の落ちずして保たれた
からまへたるのみ。余は此時漸く其成行を考へて生命に係る
バ事理ヲ弁ジ大二我二得ル所アルガ故ナリ。然リ、人ハ高貴ト
宙ノ大権ヲ握り全能、全知、絶対的二高貴ナル者ナリ。奇ナル
マミ
べしとは思はざりき。然れど倒になりたる我身体を如何にして
高貴二接スルトヲ喜ブナリ。夫レ神威諸王ノ王、諸主ノ主、宇
り。遂に片手を放ちて躰を曲げ足のかかりし枝を捕へ又片手を
も と
し。去りとて手を離さば長くは堪へじ。余は独り工風を凝した
旧態に返すべきか。足を離さば裂けたる枝は余を支へざるべ
マザルナリ。之ヲ好マザル理由ナキニアラズ、平皿シ世ノ高貴ハ
哉、世人ハ世ノ高貴、尊栄ヲ好ミテ之二野ル神ノ高貴尊爵ヲ好
居ルヤヲ知ラザレバ平伏スベキ時ヲ知ラザルナリ。左右ノ人々
意向モ地二平伏セザルヲ得ズ。然レドモ余輩ハ何レノ辺二誰ノ
ヲ感ジタルハ将軍ノ前後ニハ高官ノ人々ニシテ余輩ハ其人々ノ
又殊二可笑シカリシバ見合ハセタルニアラザレドモ皆将軍ノ御
金扇ノ御馬印ノ見ユル頃ヨリ自然二平伏シタリ。然レドモ鼓二
余輩ハ如何ニスベキカヲ知ラザリシが其光景ノ自ラ厳粛二為リ、
然リトテ区々当為リテ老人ノ歯並ノ如クナランモ不体裁ナリ。
ニハ小声二相談スルヲ得ルモ固ヨリ発声ナドスベキニアラズ。
己ノ罪ヲ轡メズト錐ドモ高貴ナル神ハ道徳界ニモ大権ヲ握り給
フが故ナリ。﹁凡て悪を為す者は光を悪み其行を責められざらん
がために光に轡ず﹄︵謹。.¥ハ醤ノ言ナリ.光明ハ吾
人ノ為二愉快ヲ与フルモノナレド・モ吾人二眼病アレバ却テ之ヲ
恐ル神ノ高貴一罪アル心二恐ルベキモノナルナリ。
容貌ヲ見奉ラントノ活量ナリシコトナリ。余輩ハ平伏シタリー
余が十六歳ノ時将軍家至公ハ長藩ノ反ヲ夷ゲンが為二御進発ヲ
仰出ダサレタリ。先二御上洛ノ時ハ普通ノ旅人宿又寺院ナドヲ
ノ壁塗網代ノ御駕籠二見ギ、十人一列二井ビタル人々ハ首筋ノ
1然シ名ノミ。i余輩ノ首ハ殆ド地二附ク程ナリシが眼ハ彼
何人力知ラザレドモ来りテ﹁最早苗田ハ及バズ﹂ト忠告セラレ
二為リシ頃忍耐心ノ少キ者ハソロりくト首ヲ揚ゲタリ。此等
将軍家一点二大手御門二二リ貝、大鼓ノブウくドンくモ微
右ヲ見テ水二﹁潜りテ朋友二逢ヒタル時ノ如クニヤリト笑フノ・、・。
上リテ善キヤノ問題ナリ、余輩ハ忍ビテ伏シ居りタリ、時々左
レドモ亦余輩最新ナル困難二野遇シタリ。今度ハ何レノ時二起
筋ヲ痛メタル功ハアリキ。余輩ハ民需家君公ヲ拝シタリキ。然
シが供奉ノ人々モ三三笑ヲ含ミテ過グル者モアリキ。余輩が首
ヲ異レリトスルノミ。余輩ハ時々左右ノ人ヲ見テ可笑シク思ヒ
ニ頭ヲ踏欄カレタルが如ク唯目ノ玉ノ莚ノ如ク飛出ダサザル
彼ノ草双紙二見ユル雲助が女ノ一人旅ヲカラカヒシ髭武者修業
ラツキヨ
痛ヲ忘レ願ヲ地二流ケテ面ハ直立シ体ハ後二長ク平クシ其様ハ
以テ其ノ旅館トセラレシが御進発ハ平常ノ御旅行ニアラズ進軍
トハセラレタルナリ。沼津城モ亦五月下旬一夜ノ旅館ト為ル。
ナリシヲ以テ多クハ経過地ノ城主ヲ立退カシメ其城ヲ以テ旅館
我順ハ此時大凡二十人許ノ士ヲシテ帰塁セシム。余ハ当時部屋
住ニシテ未ダ公務アラザリシが御人少ノ故ヲ以テ一時御雇ト為
り俄二前髪ヲ剃り迎送者中二加ヘラレタリ。将軍御到着ノ日ハ
之ヲ奉迎センが為二東御領分界ナル石田村二出張シ御着ヲ待チ
イデタチ
テ御先供ヲ為シタリ。先ヅ其扮装ヲ云ハンニ衣服ハ普通ノモノ
ナリシが割羽織ヲ着シ袴ヲ穿キ脚脾草鞍二陣笠ヲ戴キ大小ヲ横
へ皆二様二塁ヲ携ヘタリ。今ヨリ思ヘバ余が心得モ無キ鎗ヲ携
ヘデ何ヲ為ス考ナリシカ無我夢中ナリシナリ。余輩ハ石田村二
待テ御行列二先ジテ進ミシが余輩ハ之ヲ無上ノ栄誉トシテ山ノ
如キ見物人中ヲ意気揚々ト練行キタリ。大手御門ノ前二達シ余
輩ハ左右二分レ鎗ヲ前山横ヘテ三二座シタリ。鼓二余輩が困難
恥 か記 第二巻
55
より親しく野にも遊び川にも共に戯れしが十二、三歳の頃共に
余が友に鈴木甲子郎氏といふあり。余と同年令にして幼少の頃
恥か記 第二巻
余輩ハ蘇⋮生シタル思アリキ。翌朝御出立ノ時モ昨日二輪ジクシ
小舟よりいでたり。鈴木氏は余に続き小舟よりいでて石垣を伝
狩野川に遊び小舟に乗りて楽しみしが最早家に帰らんとて余は
得タリ。日本全国ノ大権ヲ握レル大君ヲ拝シタリ。誰力高貴ノ
はり上らんとせしに生憎其時舟少しく岸より離れたれば氏は遂
たけ
に舟と岸との間に落ちたり。其所は余程深ぎ所にて大人の長さ
壷マゴλ\シテ終りタリ。アア余輩ハ将軍家ヲ公然ト信奉ルヲ
テ西間門村ノ御領分境二奉送セシが此時ハ忠告者無キ為二又大
人ヲ見ルヲ喜バザランや神ヲ見奉ル者如何二嬉シカルラン、如
るものと見え落つるや否﹁おッかさんl﹂と絶叫せり、人皆
の半までを水中に落したるのみなりき。然し氏は余程狼狽した
何二楽シカラザランヤ。
第三十三章 鈴木町の川にて母を呼びたる事
之を聞きて笑ひ余も亦笑ひたり。然し氏が其母に依頼する母に
へたたぬ程なりしが氏は石の間より生じたる草にとりつき身体
○ダビデ曰く﹁われ声をあげてエホバによぱはればその著き
・耶蘇←スに云っ着く﹁信ぜざる零れ信ぜよ﹂︵虫魚
親みし如くなりしならんには如何に平和なるかな、如何に気強
証すべし。若し基督を信ずるものにして其信仰単純に氏が母を
信任する母は自己を尽くる者なりと信用したるの深く且篤きを
寝れ信仰に数種の名称あり歴史的信仰といひ、道理的︵ラショ
ぎことなるかな!
56
R吉我にごたへたまふ﹂︵詩三。四︶
ナル︶信仰といひ、被笠的︵セービング︶信仰といふ。人若し宗
@魏.は歎くにあり﹂︵同十四。八︶
○箴言曰く﹁賢者の智慧はおのれの道を暁るにあり愚者の
○又曰く﹁愚なる者も黙するときは智慧あるものと思はれ、
道理的の二個を含まざるも害なきなり。且信仰なるものは人の
挙証を閉つるとき鋒.蒼おもはるべし﹂︵十七。二十八︶
性論にもあらざるなり、自己の感情によりて自己の罪悪を認め
し、事毎に神の誘導扶助を受けんとするを云ふなりコ
損あるは稀なるこ之なり。知ることを知るといひ知らぬを知ち
口は禍の門といふ。実に口ききて善きことあるは稀なり。口ゆ
ママ
﹁神にあらずして誰か罪を赦すを得んや﹂との直覚的信仰を有 えに又は長柄の橋柱燈子も鳴かずば打たれざらまじ。黙するに
よし
可とす。此単純なる信仰とは有神論にもあらざるなり、基督神
感情に基きたる信任なれば複雑なるものよりも単純なるものを
消毒的信仰あらざるべからず、而して被救的信仰中には歴史的
,り。若し罪悪の勢力、習慣より救はれ、神の子たらんとならば 第三十四章 石井、南条二氏近眼の事
といへども歴史的道理的の二個は被救的の如く重要ならざるな
教的生活を為さんとせば是等の信仰を要すべきは固より論なし
ずといふは仮令禍ありとするも悪ぎものにはあらず。然し知ら
余が藩に石井某といふ近眼の人ありけり。近眼の為にせる眼鏡
も
なきにあらねど其頃は今の人ほど用みず。石井某は眼鏡を有て
するはいと悪きことなりかし。
ルや今之ヲ云ハザルベシ。然レドモ酒ガ﹁百悪ノ基﹂タルコトハ
夫レ酒ハ百薬ノ長ト云ヘリ。余ハ百薬ノ長タリや将百病ノ源タ
○羅馬書第十三章第十四節ノ終二日ク﹁肉体の慾を行はんが
第三十五章 酒ヲ飲習ハントシタルコト
も︵以下欠︶
りや否知らざりしが兎角、見える振をする人にて可笑しきこと
つけい
多く、道行く折などに朋友は彼の弱点に着入りて慰まんと老婬
源ヲ調査シタルモノヲ見レバー百中九十五人温酒ヨリ罪ヲ得タ
余断言スルヲ揮うザルナリ。英米ノ監獄中二坤軸スル囚徒ノ罪
ぬを知るが如く云ひ無きをあるが如く云ひて人を胡麻化さんと
などの来かかりし時﹁彼は美人ならずや﹂と唆かせば欺かるる
などは度々此方法にて氏をからかふことあり。余が幼少の頃祭
など口を合はせて大笑をされ大恥をかくことあり人の悪き朋友
暴根、皿争闘11刻薄11鼠害、,殿諺H獅侮、濟奄、畿詐11不孝、
鶉、好色、鑓離蒙狂妄︵可七。二十一、二十二︶霧−
前二兎ハレタル﹁悪念、姦淫、畑鼠、凶殺、直配、貧焚、悪毒、
ルモノタルナリ。否遠ク海外ノ例ヲ引用セズト錐ドモ吾人ノ目
ために書算をなすこと勿れ﹂
とも知らず見ゆる面して﹁如何にも美人なり、何方の娘にや﹂
しきこととて余が家も表通り物置の破目板を破り俄かに窓の如
肇平和転筆慈奉魚臭忠信、温柔︵加五。二十二、二十三︶ノ如
ク飲酒二無関係ナルモノハアラザルナリ。之二反シテ仁愛、喜
些心、慰書結党消嫉放蕩︵加五。十九1一二十一︶ノ如茎
頑梗、背約、不情不慈︵羅一。二十九11三十一︶汚稼、好色要急、
礼あり城内へも山車、屋台など引込みたることあり。是は珍ら
きものを造り若き人々七、八人も首を出だして見物せしが其内
に近眼の南条某氏あり。ある人同氏の近眼より石井氏のことを
にも其意を通じ﹁ああ、彼所に来れる婦人は美ならずや﹂と。
思ひいだしたるものと見え又氏を欺きて慰まんと他の一、二人
凶悪ノ基ト為セリ。
余が父母ハ酒ヲ嗜マズ、殊二母ハ甚ダシク之ヲ嫌ヒ酒客ヲサへ
キハ多クハ禁酒家中二求ムベキナリ。妓二於テ余ハ断ジテ酒ヲ
厭ヘリ。余ハ此家庭二成長シタルが故二性来酒ヲ好マズ幼少ノ
意を受けたる二、三の人々も頗る同意し﹁如何にも美なり、艶
や﹁まてく、己にはよく見えんから﹂と急ぎ懐中物より近眼
時点奈良漬ノ瓜能ク余ヲ酔ハシメタリ。然レドモ余が十五、六
なり﹂と賞賛し密に南条氏の挙動に注視せり。民は斯くと聞く
鏡を出だし、眼にかけてキヨロく﹁何だ、あれは老姪だ﹂と
歳ノ頃若キ者ノ仲間入ヲ為シシが彼等ハ余が飲マザルヲ無粋ト
皆其正直なる無頓著なるに呆れ再び氏を慰まんとするものはあ
ママ
らずなりたりつああ知った振は恥辱を迎き、正直は何につけて
恥か記 第二巻
57
為シテ飲ムコトヲ勧メ飲マザレバ以テ交際ノ道二円滑ヲ欠クノ
二十人ノ仲間ヲ語ヒ的ノ裏面二不規則ナル区劃ヲ為シ其中二客、
流ノ砲術場一ニノ戯アリ、之ヲ客 的ト称ス。其法、十人乃至
が故二真二益アルモノ朗唱アラザルナリ。余が入門シタル高島
恥か記 第二巻
不便モ.アリ盆景ム者が失敗ヲ為スモ翌日二野リテ﹁昨日ハ大二
キヤクマトウ
酩酊前後忘却﹂トサへ云ヘバ其失敗ノ跡ハ洗フが如ク為ルヲ見
トシ、家ヲ打チタル者ヲ家即チ座敷ヲ貸ス人トシ、掛菜皆然ス。
家、飯、菜ノ四種ヲ記シ以テ之ヲ射撃セシメ客ヲ射タル者ヲ客
而シテ等差マリタル時相会シテ之ヲ食フナリ。然レドモ是クシ
テ羨シクモ思ヒ余ハ如何ニモシテ酒ヲ飲習ハントセリ。是ク思
シガ、生得好マザリシモノカ小寒一ツモ飲得ル日算ラズ、遂二
テ唯食フハ客的ノ目的ニアラズ︵其初等然リシナラン︶其目的
ヒタルが故二強テ飲マンドシタルコトモ三、四回ニハアラザリ
余ハ第ニノ天性ヲ作ラズシテ今日二合レリ。酒アリテ交際ノ円
トスル所ハ古参相集リテ新参ヲ苦シムルナリ。如何トナレバ若
ヲ塗抹スルノ要ヲ為スト同時二巴ナル多クノ失敗ヲ醸シ居ルニ
余ト代りテ客タレト、新参ノ人以為ク客ハ唯食フノ・・、家ヲ貸ス
シ古参ノ人客ト為りシ時ハ新参ノ家飯菜等ノ人二乞ヒ願バクハ
滑ナランヨリハ交際無キヲ是トス。交ヲ結ブニ黄金ヲ以テスル
アラズヤ。 ユダヤノ大智者ソロモン日ク﹁酒は人をして嘲け
ト為りタルナリ。席二就キテ食ヲ初暦稻3其終ラントシタル頃
ノ煩ナシ茎菜ヲ出ダスノ費ナシト直直ビテ我請求二応ズベシ。
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気ノ毒ナル哉墨客ト為りシ人一郭二捕獲セラレタルナリ、犠牲
ハ黄金ノ尽クル時悠々タル行路ノ心タラザランヤ、又酒ハ失敗
︵箴二十∴︶余や妾シテ此大害一捕ヘラレザリシナリ.アア危
@ @ @ @ @ @ @ @ O心魂・二十五︶
@(
○箴言二日ク﹁無智なる者は愚なることをよろこび冠者は
@其途を直くす﹂︵十五。二十一︶
世柄暴食暴飲ヲ為シテ誇ルモノアリ。此野蛮ノ風習時トシテハ
士気ヲ鼓舞スル等ノ利ナキニアラズト錐ドモ元其道ニアラザル
ヲ食ヒシバ江本岩蔵氏一人ノミナリキ。其時余ハ家ヲ取りテ氏
スミヤグラ コ
ヲ客トシ初メ十杯ヲ食ヒシ時衆二藍フテ日ク﹁余ヲシテ角櫓⋮
シタルコトアリ。余が記憶スル所司ヨレバ客ニシテ能クニ十杯
故二一回モ客ト為りシコトナカリシが屡二人ヲ苦シメテ快ト称
シナラバ彼ノ名誉トシテ長ク彼ヲ賞賛シ、若シ食ヒ得ザル時ハ
コンタン
弱虫ナリトシテ長ク潮回スルナリ。余ハ初ヨリ三三丹ヲ知ルが
ラバ=各能ク十・杯ヲ食ハザルヲ得ズ。彼若シ其十杯ヲ食ヒ尽シ
座シテ前ノ如クシ、若シニ十人ノ仲間ニシテ古人ノ客アリシナ
食ハン﹂ト云ヒ強ヒテ一杯ヲ食ハシム。三三レバ又一人其前二
一人空碗ヲ取りテ客ノ前二三シ﹁粗飯一杯ヲ献ズ我モ亦一杯ヲ
らせ濃酒は人をして騒がしむ之に迷はさるる者は無智なり﹂
哉。
@ 第三十六章 客的ノコト
ひか
○パウ三日ク﹁勝を競ふ者は何事をも節へ済しむなり﹂
@ さとぎもの
︵トハ片羽通ノ終ル所ニアリテ余が家ヨリ三丁許アリ︶ノ所マ
ず我を信ずる者は恒に渇くことなし﹂︵三六・三十五︶.
二漁業ヲ禁ズルヲ常トセリ。一日余輩ノ演習セル玄海中二鱗魚
群ヲ為シ、時トシテハ渚汀二飛躍スルコトアリ。余輩ハ陰影奇
千本浜二大砲射撃演習ヲ為セル時ハ官ヨリ其旨ヲ布告シテ漁村
肝要クノミ。漁未等ハ此有様ヲ目撃シテ恰モ狂セルが如ク一網
デニ、三回運動セシメバ能ク食フベシ﹂ト衆面白シトシテ之ヲ
リ美事食ヒ尽シタリ。衆皆瀬キ爾後大食先生ヲ以テ称シ氏ハ得
セバ以テ数回金ノ利ヲ得ベシ、彼等東西二奔走シテ恨ムが如ク
許ス。弦二於テ氏ハ馳足ノ運動二、三回ニシテ入り来り約束通
々タリキ。然レドモ冷気や愚ナルコトヲ喜ブモノニシテ其無知
二譲ルモ敢テ不可ナシト。蝕二於テ俄二演習ヲ中止シ彼等二漁
彼等ノ為ニハ一獲千金ノ時ナリ千歳一遇ノ時ナリ、余輩ハ他日
訴ルが如シ。余輩ハ彼等ノ狂セルが如キヲ見テ気ノ毒二三ヘズ、
タルヲ免ルルコト能ハザルナリ。
第三十六章 黒石の事
三二舟ヲ出ダシ網ヲ投ズ。余輩ハ其成行ヲ見ンが為二浜ヲ去ラ
業ヲ許セリ。彼等ハ宝ノ山二野リテ手ヲ下スヲ許サレタリ。彼等
もと いた
○ヨハネ基督の言を記して憂く﹁視よ我戸の外に立て叩く若
@義は其人と僧に其人は我と僧に霧ん﹂︵黙三。二十︶
が為二其獲ル所論予想ノ十分一二及バズ。然レドモ彼等ハ余輩
若シ演習中心テアランニ一跨サレザルモノナレドモ一二演習ハ
茶ントス。演習ニハ元来沢庵漬梅干ノ外携フルコトヲ許サレズ。
ガ漁業ヲ許シタルヲ徳トシテ沖瞼二荷ヲ料理シ以テ余輩二献
おぎなます
ズ。遂二網ハ引寄セラレタリ。然レドモ彼等ハ時期ヲ過チタル
し我声を聞きて戸を開く者あらば我其人の所に就らん而し
夫福音ノ召招ハ神ノ其二挺立召招シ給フナリ。且加之、其召招
二応ズル者置賜フニ永生ヲ以テセラル。君命ジテ召セバ駕ヲ待
ノ主、宇宙ノ大権ヲ有スル者ノ召招ヲヤ、況ンや賜フニ永生ヲ
タズシテ往キ父召サバ唯トシテ諾セズ、況ンや諸王ノ王、諸等
以テセラルルヤ。然レドモ世人ハ此召文ヲ耳ニシテ而シテ之二
中止セリ。余輩ハ一個人ノ資格ヲ以テ之ヲ受ケ﹁一ノ小屋﹂ト
称スル漁小屋二座シテ待テリ。諸氏ハ小屋中ノ板ノ三二円座シ
応ゼズ。蓋シ之二深更ザルモノハ其召招ノ真味ヲ知ラザルが為
テ各タ携フル所ノ腰苞ヲ開キ沖腰ヲ待ツコト恰モ新郎ノ新婦ヲ
ママ
迎フルが如シ。書見ル一人ノ漁夫汐汲桶二個ヲ荷来ル、是ナン
こしっと
彼等が漁舟中ノ調理シタル沖膳ナリ。余輩ハ其体二二驚キタリ。
ナリ。世食ハズ嫌ト称スル者頗ル多シト錐ドモ彼等若シ主ノ召
カラズ。其救挺や秦皇ノ求ムル所二二リテ食フ者ノ永生ト為ル
招ヲ信ジテ鎖壌へ給フ天ノ美味ヲ食ヒシナラバ意味長ク忘ルベ
ベキナリ。基督日ク﹁今我父は天より真のパンをもて気嚢に賜
連之助氏ノ潔癖ナル之ヲ見テ嘔吐セリ。忌寸元来膳ヲ好マズ、
其桶ノ稼ゲナル一見シテ農夫が田間上荷行ク肥桶ノ如シ。加藤
ふ・神のパンは天より降りて器を世に賜るものなり﹂︵婁
塾二︶ド.又日ク﹁我諸袖のパンなり我に就るもの簸ゑ
恥か記 第二巻
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恥か記 第二巻
沖膳ハ名ノミ聞キテ未ダ一回モ味ヒタルコトナシト雛ドモ鱗肉
うち わざ
第三十七章 柴田氏の息水死ノコト
@ @ @ @ @ ︵酌九.︶
@ ○基督日ク﹁昼の問は我かならず我を遣はしし者の行をなす
わざ
ハ深ク之ヲ喜バズ。其体裁ヲ見ルニ及ビテ幾分力嫌厭ノ情ア べきなり、基きたらん其時誰も行をなすこと能はず﹂
ヲ海水二者ヒテ酸二重ジタル極メテ単簡ナル製法ナリト聞キ余
リ、漁夫ハ板ノ間ノ中央二桶ヲ下シタレドモ盛ルベキ器ナシ。
かわら
@ シ桶二就テ熟視スレバ其様味噛汁ノ如シ。三子が海水ヲ汲ミテ
ろべそ スク
死期程不確実ナルモノハアラズ﹂ト。然リ、人世力死ノ確実ナ
ズ、遂二野ノ底ヲカヂルニ至リテ止ム。アア、余が食ハズシテ
ル所、余が頬ハ飛去ルカト思ヘリ。余日幾片ヲ食ヒシカヲ知ラ
リ。其味ノ美ナルコト余が曽テ知ラザル所、余が毫モ予想セザ
ハ何方二行クベキヤ﹂。古ヨリ大聖哲士ハ此問題ヲ解釈セント
リ、日ク﹁人ハ何レヨリ来りシヤ﹂﹁人ハ何ヲ為スベキヤ﹂﹁人
得ントシタルナリ。夫レ人生二解釈シ得ザル重要ナル三問題ア
ルヲ知ラザランヤ、其確実ヲ知ルが二二武帝秦皇ハ不死ノ薬ヲ
好マザリシ沖膳ヲ食ヘリ。世人が沖繋甘甘キモノナリト云ヒタ
ヲ知ラザルナリ。余ハ.二二至リテ三十余年其三尊ヲ忘ルルコト
唯我父のみ天の使も誰も知るものなし﹂︵玉什姻Y誰モ知ル
期即チ未来無究封入ルハ何時ニアルカ﹁其日其時を知るものは
人が世耳遠ルハ未来ヲ定ムルノ試験場ニアラズヤ。而シテ其死
能ハザルナリ。アア彼ノ時ノ要望ハ一時ノ美味ニアラズシテ余
者無キが故二吾人ハ天ノ未ダ淫雨セザル日当ツテ其矯戸ヲ網縁
イハシ アハヅケ
会キタルコトアリキ。アア宗教ヨ、世二重教アラザルナラバ爾
吉野三二止宿セル時鰯ノ粟漬ヲ出ダサレ之ヲ食ヒテ其美味二
余が十五、六歳ノ頃夏日水泳場二遊ブ。人皆去リテ余未ダ去ラ
氏ハ二野リモニ、三歳ノ弟ナリ。余急斜ヲ得テ大二喜ビ忽チ同
ザル時柴田与三郎氏ノ男与作.来りテ余二游泳センコトヲ促ス。
が為二爾ノ名ヲ聞キテ之ヲ厭フ者アルナリ。身金ハ正金ノ通用
ギテ他方二流シヤル為二造レル石ヲ積ミタルモノニシテ出シノ
意シ水泳場ヨリ少シク上流ニアル﹁出シ﹂︵出シトハ流水ヲ防
ヲ歓迎セザルモノハアラザルベキモ偽りテ宗教ト為スモノアル
スベキナリ、吾人ノ死淫雨ヨリモ意外ナルニ於テヲヤ。
が生涯ノ美味ナルナリ。余ハ又明治十三年ノ春下総銚子ノ旅舎
ルヲ今真実ナリト思ヘリ。余が胎ヲ好マザリシバ未ダ真正ノ膳
シテ皆失敗セリ。独り基督教二於テ明解ヲ与フルノミ。アア吾
シテ平野ナルノミ。余モ一片ヲ石皿二盛リテ食フ。余ハ驚キタ
艦膀ヲ濡スニ供スル柄杓ヲ以テ肉片ヲ抄フニ大サ握拳二斉シク
ウヲーウヰク氏日ク﹁死程人生二確実ナルモノハ無シ然レドモ
怠らずして守れ﹂︵馬二十四・四十二︶
@ ○又日ク﹁是故に爾曹の這いつれの磨きたるかを知らざれば
@ 鼓二更テ或ル人ハ磧生出デ成ルタケ平坦ナル石ヲ拾ヒ来り以
@ テ三二代用セリ。衆皆之二倣フ。余モ亦試二其一片ヲ食ハント
@ ヲ妨ゲ偽宗教ハ真正宗教ノ前途二横ハル峻阪険路ナル哉。
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正面ハ深カラザル所ナシ︶ノ正面ニアリテ泳グ。余ハ第二回ノ
水泳ナルヲ以テ大二寒気ヲ感ジタルヲ以テ出テ独り柴田氏ヲ残
シ御用川岸畔ノ裁縫ノ師団ノ家二至リ休息ス。雑談シテ大凡半
モグ
時間ヲ経タル頃六、七歳ノ一童崖下点在リ﹁与ササンが潜ツタ﹂
ト云ヘリ。余心誤言ヲ聞キタレドモ游泳中二水中二潜ルハ珍ラ
シキコトニアラズ、又彼童ハ識見ル所ヲ噂セルが如キロ調ナリ
シヲ以テ余開聞キタルノミ心ニハ留メザリキ。大凡十分許リ過
ギ彼童子再ビ現ハレテ日ク﹁与ササンガマダ出テ来ナイ﹂余目
此﹁マダ﹂ノ言二驚キタリ。生憎余が居タル家ハ南ノ方二千ヒ
リ。然レドモー然レドモ斎言、遂二功ナクシテ死シタリ。余
ハ出来得ルダケ事情ヲ述べテ余が共二藍居ラザリシコトヲ弁ジ
ハ恐レタリ。或ハ彼等が余ノ言ヲ信ゼザランカト。幽門若シ彼
テ暗二思死ハ余ノ誤謬ニアラザルコトヲ明艦齢リ。然レドモ余
人々二余ヲ疑フノ語気アリシナラバ余ハ仕立師ノ主婦ヲ証人ト
シテ依頼セント思ヘリ。然シ彼人々ハ余ヲ疑フノ語気ナシ、其
語気ナキが故二証人ヲ出ダスノ機会ヲ得ズ。今日至リテ尚ホ遺
憾ナリ。余ハ未ダ善ク人情ヲ解スルノ時ニハアラザリキ。然レ
ドモ柴田氏ヲ見ル毎二余ハ其事ヲ思ヒ出デテ気ノ毒ナリキ。ア
ア、人生ハ朝露ノ如シ。三十分前ハ余が游泳ノ友ニシテ三十分
時不帰ノ人ト為りテ来ラントハ思ハザリシナリ。彼が行ツテ来
後ハ幽鳶口界ノ人ト為レリ。アア、彼ノ父母ハ彼が家ヲ出タル
タルが為二﹁出シ﹂ノ辺一見エズ。余ハ転ブが如ク石階ヲ南国
下り折レテ北二向ヒ﹁出シ﹂心馳ケタリ。 ﹁出シ﹂三歳リテ見
○基督日ク﹁また王いでて他の王と戦はんに先坐して此一万
第三十八章 名人ト舟ヲ競ヒテ失敗シタルコト
アア準備セヨ、準備セヨ、死ノ為二。
昨日今日とはおもはざりけり
ついに行く道とはかねて知りながら
リ。
仙人ト目引サザリシナリ、然レドモ昨日今日トハ思ハザリシナ
案外意外ノコトヲ以テ充満セル哉、彼ノ父母ハ彼ヲ以テ不死ノ
シナリ。彼ノ父母霜野ノ後来二望ヲ属シタリシナリ。アア世ハ
マスノ言ヲ聞キタル時不言ノ冷躰ト為りテ来ラントハ思ハザリ
シが固ヨリ其人無シ。脱棄テタル衣服ハ空シク主人ヲ待チテ出
シノ上ニマロメラレテ存スルノミ。置石直二水中肝入ラント思
ヘリ。然レドモ何レノ辺二沈ミタルヤヲ知ラズ又越階ミタル所
出シノ正面ナリシナラバ水ノ深キ軸流ノ早キト余ノ湖沼テハ何
事ヲモ為ス能ハザルヲ知レリ。鼓二於テ余ハ柴田氏ノ父が大手
御門ノ内張二詰合ハセタルヲ思ヒタレバ彼ノ童子ヲシテ急報セ
シメ余ハ近傍ノ三二扶助ヲ乞ハントシテ大声二子ビテ求メタリ。
然レドモ来援クルモノハアラザリキ。大凡五、六分ニシテ内張
ヨリ一人馳来レリ︵其誰ナリシ心門記憶セズ︶彼ハ直二裸体二
三リテ水中二入レリ。一回ハ無益ナリキ、第二回ノ時彼ハ与作
レリ、彼等ハ親ノ愛、朋友ノ親切、出来得ルダケノ手ヲ尽、シタ
氏ヲ抱エテ出来レリ。其時氏ノ父モ来レリ、他二五、六人モ来
恥か記 第二巻
61
へだた
恥 か 記 第二巻
はか
人を以て彼が二万人に敵すべきや否を馨らざらんや、もし
@ @ @ @ @ @ ・韮皇+︶
及ずば頑なほ遠れる時に使を遣して和睦を求むべし﹂
@ @ 三三距離ハ九尺ニシテ余が三二力ヲ入ルル時モ敢テ近ヅカズ又
シテ余が密二競争ヲ企テタル時ヨリ余が舟ノ舳ト彼ノ舟ノ櫨ト
身汗ノ流ルルコト滝ノ如クナレドモ彼ヲ追越スコト能ハズ。而
が舟彼二三ツケバ彼急ギ余少シク緩スレバ彼又後ラス。余ハ全
如ク彼ノ進ムコト急ナリ。余バカノアラシ限り骨折リタリ。余
レソト密二急ギテ三舟二三着カントス。彼之ヲ知りタルモノノ
余自ラ大二誇居ルノ際ナレバ彼ヲ追越シテ手並ノ程ヲ知ラセ呉
忽チ蛇松ノ三二於テ一平田舟二竿シ行ク者アルニ追付キタリ。
一日例ノ如ク下流二遊ビ黄昏二際シ清水屋ノ川岸二三ラントス。
ビ或ハ逆流二三シ或ハ高波二漕ギ自ラ大二得タリトシテ楽メリ。
リ清水屋ヨリ舟ヲ借り狩野川二浮べ蛇松、江川、我入道三二遊・
ヲ漕得ルニ至レリ。爾来機会ヲ得ル毎二下小路ト称スル所二三
余十四、五歳ノ頃ヨリ竹竿ヲ以テ舟ヲ漕グヲ習ヒ後ニハ平田舟
ザルナリ。
確実ナル成算アルニ至リテ着手セザレバ失敗ヲ免ルルコト能ハ
ナキニアラズト錐ドモ通常世二起来ルコトハ我ヲ知り彼ヲ知り
ハ愚ナリ。時トシテ破ルルヲ知りテ勇進セザルベカラザル場合
ズ己ガカヲ量ラズシテ事二当ルハ愚チリ、敵ヲ知ラズシテ競フ・
兵法二日ク﹁敵ヲ侮ル者ハ破ル﹂ト。世ノ中ノコト何事ニヨラ
@ 余が舟ノ緩ナル時モ敢テ遠ザカラズ、余三三ナリトハ思ヘリ。
然レドモ余ハ唯奇ナリト思ヒタルノミ。遂二鼠戸追着キモセズ
モヤ
シテ舟ハ共合室水屋ノ川岸二着セリ。余ハ舟ヲ肪フ時二初メテ
以テ舟ヲ漕グ無双ノ名人ナラントハ。余ハ驚キテ一言モ出ダサ
其人ヲ見目リ。思ハザリキ、彼ハ熊ト称スル網打ニシテ竹竿ヲ
ザリキ。余ハ余ノ伎偏ノ足ラザルヲ悟り大二恥カシク思ヘリ。
彼ハ微笑シツツ余二云ツテ日ク﹁御坊サン、大分上手ニナツタ
ル者破レザランヤ。
ナi﹂余ハ此言二思ハズ畏縮シタリキ。アア敵ヲ知ラズシテ侮
62
自第三十九章
至第六十二章
第 三 巻
と為りし時其頃の風習にて関係ある役々の人の家に二塁して吹
ふ人立ひぜり。此人は格別に懇意の人にもあらず且は近頃江戸
が沼津城の東北隅に後藤松と俗称したる所あり、・大河内某とい
まったぎ まったく
しき時は鏡をぞ見よ﹂
@し﹂︵馬五。四十八︶
よくお出でなさった、サアおあがんなさい﹂と云へり。余が父
入りしが妻は余の父を浮嚢マア佐太さん︵余が父は幼名佐太郎と云ふ︶
霊の恩化によりて心理的作用の然らしむる事たるなり。世の諺
は十六歳の時沼津に移住したりといへば妻女が余の父を見ざり
余も亦談話など七たることはなかりき。余は父に従ひて其家に
に曰く﹁親に似ぬ子は鬼子﹂と。蓋し子は親を敬ひ親を慕ふが
て四十三歳の父を捕へて其幼名を呼べり。夫さへ一の奇談なる
しは三十年に近かりしなり。然し幼面の失せざりしものと見え
要れ人の子たる者の尊父に似るは生理的及び心理的の顕象にし
故に形体遺伝の外は其心意、挙動自ら親に似るに至るなり。故
失笑したり。ああ奇なるかな、彼女は余が父を見たる時に其幼
に父の後から余が上り行きたるを見て妻女は更に大に驚きたる
少の頃の面影を思ひいだしたるに余を見て余が父の幼時を又思
人の関係亦是と異ることなし。若し信徒にして其道義の神に似
り、神に似ぬ信徒は鬼信徒たるなり。
ものの如く﹁オやくく又佐太さんが!﹂と主客共に一時に
親子の酷似したるは実に争はれぬものなり。余は元来余の父に
の目には似たりと見ゆ。似んことを求むる基督教徒にして神に
ひいでて借は驚きたるものなり。似ざるが如くなれども或る人
似ざる恥づべきにあらずや。
似ずして余が母の容貌に似たり、人も是く云ひ余亦是く思へ
ひしことあり。余が十七歳の正月召出だされて初めて御奉公人
り。然れど余もまた父に似たる所ありと見えて余の可笑しく思
たるものあらずば其人神を黙想せざるなり基督に模倣せざるな
に似ざれば以て鬼子即ち親を慕はざるの寸たるなり。宗教上神
て似ざるは例外なり。基督教徒が其品性、心意の神に似るは聖
より移住したる人にて余が父も其家の妻子には久しく面会せず、
○基督曰く﹁天に在す爾曹の父の完全が如く爾曹も完全すべ
聴を為すべかりしなり。余は父に伴はれて彼方此方に回肥せし
記
第三十九章 子は親に似たる事
か
○ある人の歌に導く﹁子は親に似るなるものと聞くからに恋
恥
恥か記 第三巻
63
恥か記 第三三
三四十章 切腹して金を借りたる事
@ @ @ @ @ @ @ @ @ i彼三。十八︶
○ペテロ曰く﹁義しき者義しからざるものの為にせり﹂
@ ては如何なる都合ありてか其請求を拒絶せり。氏は君命を帯び
回し主命を伝へ若干の金幣を借らんことを請へり。紀州家に於
て紀州家に使し拒絶ぜられて空しく主家に帰るは其身の不面目
はいふまでもなし、主家の困難如何ならんと遂に意を決して旧
所あればなり。義者は其身に負ふ情なし故に不義者の負ふ所に
能はざるなり、不義者は其身不義にして自ら其不義の為に負ふ
義者ありて不義者に代らば可なり、不義者は不義者に代ること
も余は世人が彼の愚に微ばんことを希望して止まざるなり。人
流を以て之を評したらんには或は愚となすものあらん。然れど
りと。余は此事実をききて転3感慨に堪へざりき。今日の才子
て先生其墓表を建て自ら其碑銘を書して以て具徳を顛したるな
地に割腹したり。紀州家に於ては其志の殊勝なる主家を思ふの
め
切なるに愛でて其請求する金額を江川家に貸与へたり。鼓に於
代りて負ふことを得べきなり。且不義者は其不義の為に刑せら
にあらざるなり。国家百年の大計は楠公の死を以て権助の首総
情は日々に薄く軽薄を以て才子となすの世は決して国家の吉兆
とも
りと同じものなりとする人と共に同にするを得ざるなり。
ためなり。英武氏に謁し法鑓に繋り、後先生の墓に詣ず。墓は
とせず。先生没後十三年期に相当せるを以て其法鑓に列せんが
久しく先生の門にありて砲術を学び其春顧を受けたること少し
英三三は近世の良二千三江川太郎左衛門氏の息なり。余が父は
く能はず、身を以て主家の急を救はんとし、謂らく、今日千金
難を極め、頗る究乏の境に達す。家人望月直好之を知り憂苦措
る程なれば、救出元より支ふ能はず、負債益3加はりて家計難
愛し村を待つの厚き、先に云ふ如く家緑の大半を挙げて顧みざ
彼れ家を継ぐや、無生の財政紫乱して整理し難きに、彼の士を
月二十山ハ日隅謄写
矢田七太郎葦江川坦庵﹂︵五十八11六十︶二貝ク三+六笹
同所本立寺にあり。余父と共に之に諸でたりしが余は先生に直
てすれば立所に千金を得ること望むべきにあらず幸に紀州公は
を得るにあらざれば到底急を救ふ能はざるに、今非常手段を以
主家ど姻縁︵紀州公の祖頼宣の母﹁おまんの方﹂は伊豆の出生
父は余を導ぎて一基の墓碑を示せり。父は諄々として語って日
ママ く﹁抑3此墓表は江川家の忠臣望月鴻助氏の墓なり。先生在世
接の関係なきを以て別段の感覚ありしにあらず、然れども余が
余十七歳の時父と共に豆州韮山に江川英武氏を訪へり。氏の父
死すべきものにあらざればなり。
ず、義者其身を以て代るあらば其死を功ありとすべし。蓋し刑
るべきものなれば仮令其身死することありとも功と為すに足ら
@る名を之に予へたまへり﹂︵腓二。九︶
○パウロ日く﹁是故に神は甚しく彼を崇めて諸の名に超︵まさ︶
@ の頃財政頗る困早し先生の命を奉じて紀州家に使す。彼事情を
64
にして江川氏の養女なり︶就て哀願ぜば事或は成らんかと直に
江戸に赴き紀州家の用人安藤札右工門に面し、請願哀訴、辞を
こめ、情を展べ、意を傾けて頻に哀願すること再三、札右衛門
頑として応ぜず、直好即ち非常手段を採るにあらざれば到底成
ママ
適しがたきを知り、面を決して更に哀願せんとし、窃に悉曲を
尽したる哀願書一通を作り、之を懐にして紀伊公の所に赴き、
札右工門に面会を求む、在らず、即ち室に入り腹を屠して死
す、家人見て驚き騒ぎ、事紀伊公に聞ゆ、公感嘆して曰はく稀
世の忠臣なり、彼の志空うすべからずと、即ち千金を贈附し、
江川氏に於ては辛うじて家運を回復するを得たり、坦二元より
之れを知らざりしが薄志を憧み、此の血族を断絶せしめざらん
驚ノ如キ名ヲ得、人々来リテ其髪ノ塵ヲ払プアレバ自ラ得々乃
篠ラズ驕傲見ル生船ビザルモノァルナリ。彼ノ官海二游泳シテ
二尊候シテ御機嫌ヲ伺ヒ奉ル者ハ他二為ニスル所アルガ為ナリ。
公ノ徳望然うシムルナリト。然レドモ何ゾ思ハン彼等が御屋敷
彼一朝罷免ノ禍区営ヘバ彼等ハ無二ヲ食フ者ナルナリ。鳴呼悪
ムベキハ虎ノ威ヲ借りテ自ラ高ウスル小人ナルカナ。
余が十七歳ノ春ナルが初メテ駿府︵今ノ静岡︶二勤番ヲ命ゼラ
ル。元来駿府ソ商人ハ客ヲ取扱フニ頗ル不親切ニシテ知ラザル
レ御小屋ニアル頃鈴木広次郎氏二伴ハレテ呉服町ノ袋物屋二至
者ハ屡ヌ立腹スルコトアル程ナリ。然ルニ此家ノ主人ノ愚巴町
土間二下りテ余輩ヲ送ル。余ハ深ク彼ノ懇勲ナルニ感ジ是レ畢
瞭ナル余が未ダ曽テ見ザル所、余輩が辞去ラントスル時主人ハ
寛治藩ヲ尊敬セルナリト。其後余ハ一人其店二至リシニ主人ノ
挙動前日ノ如クナラズ。余大二之ヲ怪ミ之ヲ鈴木氏二間フ、鈴
木氏笑フテ日ク、然リシモノアラン。余曽テ主人ノ不遜ナルヲ
証ヲ挙ゲテ之ヲ責メ遂二主人ヲ殴打セリ。其後余が彼店二三ル
怒り煙草入ノ金物ノ曲りタルヲ曲ラズト主張シタル時其曲リシ
毎二彼ノ三三丁重ナルコト是ノ如シト。アア彼ノ懸勤ナルハ為
ニスル所アリテナリ。余自ラ昔謬ノ猿公ナルコトヲ思ヘリ。
第四十二章 教訓ヲ受クルニ道アルコト
E箴言二日ク﹁智慧ある者はすすめを干る﹂︵皇.︶
65
とし、物色すること数年、弘化元年二月京極顕徳を下総香取郡
小見川村に得たり、因て斉藤弥九郎を遣し、貴徳の二男大象
︵経書に精通し、後年幕府の軍艦役となり、八口田士山艦に艦長た
り︶を伴ひて韮山に致し、望月家を継がしむ、彼れの情誼に厚
き凡て斯くの如し。
○一二二日ク﹁猿アリ⋮鮫二乗リテ海ヲ渡ル、魚族群来リテ敬
第西十一章 袋物屋ノ主人懸勤二過ギタルコト
礼ヲ表ス、猿公得々タリ、猿公以為ク彼等御シ易キノ・、・ト、
一日海・二遊ブ魚族大二喜ビ群来リテ遂二猿公ヲ食ヘリ﹂ト
二二魚族ノ敬礼ヲ表シタリハ猿ニアラズシテ鮫ナリシナリ。
世二人々ノ尊敬ヲ受クル時其尊敬ハ彼ニアリテ我ニアラザルヲ
恥か記 第三三
暴罫郵糞は三三L︵什三・︶
ニ対シテハ其忠告勧言ヲ謙りテ受容レザルベカラズ。人ノ品性
人ハ境遇ノ感化ヲ受クルモノナレバ我先輩ト仰グ所ノ朋友ナド
ハ先輩ノ勧告ヲ善ク受タルト受ケザルニョリテ形造ラルルモノ
ナレバ善キ品性ヲ建築セントナラバ其道ヲ撰マザルベカラズ。
其道トハ何ゾヤ、他人が忠告ヲ為シヨキヤウニスルコ→ナリ。
士二争友アレバ其身ヲ失ハズト古人ハ云ヘリ。争友アレバ善ク
○預言者エレミや日ク﹁心は万物よりも偽る者にして甚だ
すべてのもの
第四十三章 小隊長トシテ困難シタルコト
@悪し誰か之を知るを得ん岬﹂︵十七・九︶ かく
@誇る基はただ己にあり天に論ず﹂︵蹴山ハ.︶
○使徒パウロ曰く﹁各人陸行す所を勘へ齢ん︶へ見よ、如号せば
○箴言に曰く﹁愚なる者の11口唇はおのれの霊魂の署とな
人よく己の技偏才能を知らば自ら災厄困難を招くの不幸には陥
@る﹂︵十八・七︶
テ人二物事ヲ尋ネタル時二人ヨリ教ヘラレ﹁成程、然デシタ﹂
之ヲ受クルヤウニ為スハ当二我為スベキ所ナリ。余一二癖アリ
らざるべし。己が力を謀らずして其望の余りに聖なるが故に自
ら張りし署に自ら罹る愚を学べるなり。
ト答フルコトナリ。固ヨリ余三悪意アリテニハアラザリシが問
慶応四年︵後明治元年と改まる︶の春伏見鳥羽の戦に徳川氏は
ハレテ教ヘタル人ハ此答ヲ聞キテ快クハ思ハザリシコトナラ
ン。余が駿府二在勤セル時鈴木広次郎氏ト同室団居リ氏ハ砲術
の為に何か相当の御奉公あれかしと思へる時駿府御警衛を命ぜ
られぬ。二月の始と覚ゆ。余は御用ありとて召され何事ならん
破れ官軍の勢、旭の昇るが如くなりし出鼻藩も勤王と決し朝家
と出でて見れば高ひもよらず小隊長として駿府出兵を命ぜられ
又馬術無事テ常二世話ニナル人ニテ余ト伍ヲ為スベキ同年輩ニ
コトトテ日夜物事ヲ問ヒ又文字ナドノ分ラヌ時ニ日立ヌルヲ常
モァラザリシヲ以テ余ハ先輩トシテ尊敬シ居りタリ。倦同室ノ
トセリ。此迄ニモ余ハ例ノ﹁成程、然デシタ﹂ヲ答ヘシ源氏ハ
たまふは御上の為にもならず御さるる兵士の不幸にして又余の
に面会して余の如き若年者学識経験ともに足らざるものを命じ
一日親切二﹁其応答ハ不遜二聞ユ、教ヘタル者ノ感触ヲ損ズル たり。余は大に驚き恐催にたへざりしを以て御目付田中錆鼠氏
ノ嫌アリ仮令﹃成程然ダツタ﹄ト思ヒシニモセヨ其時ハ謝辞ヲ
ためにも求めて困難に陥るものなり、あはれ此職は他人へ仰付
けられてよと再三再四辞退したり。氏は御用部屋︵藩の内閣︶
しか
の内訓なりとて懇々余を説きて曰く﹁自らは然思はんが差当り
ト云フニアラネド御身ノ後ノコトヲ思ヘバ﹂.トテ勧告セラレタ
リ。余ハ実ニモト感謝リ。忌事ハ甚ダ小事二三タレド朋友ト交
適任と思はるる人も見当らず御身が銃隊のことに執心なるは余
述べテ終ル方塞直二聞覚テ大当ヨシ、余二対シテハ必ズ然セヨ
ハ先輩ノ感化ヲ受クルニ大ナル益アリト思へり。
ハル上ナドニ於テハ他二感触ヲ損ゼズ忠告ノ為ヨキヨウニ為ス
66
も善く知る所なり、且中隊長には富沢兵馬︵後修吉︶氏もあり
たるものの如し。余が隊の中にも此両説ありて余は忽ち其処置
双方共に明朝の出立を希望し、事に托して夜行を料れんとなし
も其実ば十分に休息ぜんとぜし矢先に此命ありたるものなれば
に苦しみ、富沢氏に相談するも氏は﹁隊長の職権を以て御身決
万事氏に相談したらんには可からん。学識経験は必要なるに相
ることもあらじ。他に善き人物ありとするも繰練のことに暗く
ママ 違なきも兵隊には厳格なる規律もあるものなれば然まで困難な
し厳重に令して野良十時頃に出立し未明に駿府に入りたること
定せられよ﹂と云ふのみ。遂に同僚諸氏に謀り裏通り進軍と決
ありき。ああ自己の力を量らずして不適任のことに従ふは愚な戸
ば鷲に不都合なるのみならず他藩などに対して藩邸となるべ
申立つるもよし、出兵の期も迫り居れば今辞するは御上の御差
かなる,べきものを。
り。人もし己が力に余ることを企てざりしならば其生涯は安ら
し。若しどうしても不適任なりと認めたらんには出張先に於て
支となるべきなり、是非とも御下然るべしと。余は今なりせば
を立ちて其夜は蒲原に泊り翌日タ刻江尻に.達し湯にも入り食も
@ @ @ v惹
@(
るに一部のものは曰く﹁我兵は朝命を奉じて駿府に進軍するも
てかなふまじきもの竺なり﹂︵騨¢と教へたまひしも此
り。蓋し人の奪ふべきものは真の宝にあらざるなり。又﹁無く
天に財をたくはふべし﹂︵馬六・二十︶といひしは真正の宝なるな
を招くものなり、宜しく正々堂々本通を進むべし﹂と又之に反
のなり、霊堂にあたりて裏通を行くが如きは故に官兵の疑惑
ことさら
する者は曰く﹁我兵は朝命を奉じて駿府城の御警衛たらんとす
徒に紛争を生ずるが如きことあらば仮令後に其正邪黒白明にな
用頗る多きものなり。是く人に奪はれざるものにして其用多き
一の資本﹂と。是亦決して人の奪ひ得べぎものにあらずして其
にあらざれば決して失はれざるなり。又西諺に曰く﹁健康は第
る者なり、然るに途中に於て万一他藩−激昂ぜる官軍iと 謂なり。墨筆なるものは自己の裏︵﹁つち︶に存するが故に自ら罵る
じて裏通を進むべし﹂と。右は其外面に見ゆる所の議論なれど
るにもせよ本務たる御警衛のことを如何にすべぎ宜しく命を奉
恥 か 記 第三巻
67
強ても辞すべきに是く説かれて脆くも御父して出でたり。沼津
@ 第四十四章 大力の事
@ 済みし頃駿府出張の藩吏より使あり﹁御用の都合もあれば面識
@ ○箴言に曰く﹁勉めはたらくことは人の貴き宝なり﹂
ば夜中の進軍他藩と思はぬ衝突などありては面倒なれば裏通を
@ 出立来着あるべし﹂と、又内訓あり﹁本通は官軍下向頻繁なれ
@ 世に宝と称するもの多し、金銀財宝珠玉等の如き皆人の争ひて
@ 来るべし﹂と。倦兵士に其命令も内訓も伝へて支度次第出立せ
@ 得んとするものなり。然れども真正の宝は金銀にあらず又珠玉
しみ
にあらず、基督曰く﹁露くひ書くさり盗うがちて、矯まざる所の
@ んとしたりしに蝕に忽ち一場の紛議を生じたり。其次第を尋ぬ
ずして尚ほ問ひしに、彼は百五十貫を荷ひ得れども其代りに長
四、五十貫の木炭を荷ひて運搬し得るなり﹂と。余は之.を信ぜ
恥 か 記 第三巻
・が故に又断れ人より譲与せらるべぎものにあらず、自ら労して
く堪へず一、二丁にして長く休息し又一日労して二、三日は休
息せり。故に其得る所の賃銭は四、五十貫を荷ひて日に費する
味殊に美なり、勉めざるべからず。此奪はれざる財宝のために
労せざるべからざるなり。
にして普通の馬の荷に倍せり。彼に固より幾分の天賦あるに相
ものと異ることなしと。仮令百五十貫を半分にするも七十五貫
得べきなり。自ら労して得るが故に得たる時其快他に優りて三
き。駿河より甲州山中に入りし時余輩が携へたりし野戦砲を運
違なしといへども力め励みて得たるものにあらざらんや。吾人
明治元年余が主君に従ひて甲府城に行くとき余は大砲方たり
搬せしめんがために多くの人足を雇へり。時に富士山に旅客の
得て宝を貯得べきなり。
若し彼等の如く勉めたらんには精神肉体何れにせよ発達せしめ
がうりぎ
人来りて野戦砲を見、痩馬と称する器を持来り容易く之を荷ひ
荷物をかつぎて上下するを業とせる﹁強力﹂なるものあり。一
第四十五章 甲府の人、人数の多少を以て藩の大小を定むる標
@人に優るなり﹂︵七・十九︶
○伝道砂書に曰く﹁智慧の智者を轄くることは邑の英雄者十
量を問へば重きは六十貫軽きも三十貫に下らずと。余は又驚き
皆伝二尺余、太さ直経二尺余の炭俵二個つつを負へり。余毒重
て木炭を荷ひて銅山に下るもの群を為して来るを検しが彼等は
気の如何にあるなり。蕾兵事に於てのみ然るにあらず、一国一
少数なりといへども善く訓練し善く規律を守り、要するに其士
ず。烏合の菊瓦万ありといへども頼むに足らず。唯頼むべきは
英にあるなり。天の時は地の理にしかず地の理は人の和に如か
人多ければとて必ず戦に勝つにあらず、勝利を期するは兵の精
・伝道之書に曰く﹁智慧は軍の器に優れり﹂︵桐軌.︶
て其事を問ふに彼等皆云へり﹁次第に慣れてだんく其量を増
68
吉田村に運びたりぎ。彼の野戦砲は実に二十八貫ありしなり。
余輩は彼が其名の如く強力なるに驚きしが彼は云へり﹁慣れれ
準と為したる事
@むところを倒す﹂︵亘.︶ ま;ぎもの
つよぎもの
○箴言に塞く﹁智慧ある者は強者の城にのぼりて其堅く頼
ママ る宝を得たりしなり、彼が一人にて五人前の賃を得たる固より
ば誰にも為し得らるる所なり﹂と。ああ、彼は勉みて此力量な
其当を得たるなり。
導燈は明治十八年の夏野州足尾に銅山を見物したることあり。
同所は石炭のあらざるがために木炭を用ゐ、日々近傍の諸山よ
すにいたる﹂と。ああ、彼等も勉めて此力を得たるなり。其時
家を処理する皆事理を沁流すべきなり。
ママ
余轄又聞きたり、﹁足尾村に居る某︵名をききしが忘れたり︶は
り焼きていだすもの莫大の額なり。余が庚申山に昇る時途中に
旧藩は我国の開化に対して先鞭をつけたるものなり。種痘術の
如き砲術の如き其早く行はれたるを以ても見るべし。然れば兵
制の如きも和流は萎微振はざる有様にて善︽する者も少き上に
維新前受、五年越頃廃せられたれば甲府出張の時も文武官とも
に洋服︵勿論折衷なれども︶にて君公の御君側に一本の御手鎗
ありしのみ。是の如くなれば古式なれば若党鎗持等少くも二、
三人の僕を伴ふべき身分の人すら一人の従者あるにあらず、唯
きものも少く大砲方十八人の荷物は随分に多かりしが五百人の
其身分に従ひて隊を編成したるのみ。軍器の外手荷物といふべ
行軍に二百の人足を要せざりしによっても知るべし。之に反し
讐敵の教訓は基督の前、世に見ることを得ざりし所なり。ユダ
ひ目を以て目を償ふ﹂とて仇は必ず報ゆべきものなるやうに教
ヤ人の如き其精神を教へられたるにも拘らず﹁歯を以て歯を償
へ、其仇を憾むべしとまで教へたりき。然れども基督の教へた
ハママ は基督の精神を体して﹁其仇を報る勿れH爾の仇若し飢なば之
まふ所は大に之に反し﹁爾の仇を報る勿れ﹂といひ、又パウロ
て愛敵の精神は初めて世に明かなりしものなり、況んや自己の
に食はせ若し渇かば之に飲ませよ﹂︵燵一一.しと.慈於
快楽のために友を苦しむるをや。
につけいりて某氏を苦しめ楽しみたり。甲府に着したる翌日食
大砲方の一人某氏は頗る﹁みえばり﹂なりしかぽ人々は其弱点
器を買はんとていでたり。柳町といへる町の陶器店にいたり茶
ものなればとて皿鉢などは満足なるものは殆どなく引け物と称
碗皿鉢など購ひしが何時何方に行かんも知れず其時は棄つべき
も驚きたるが如くなりき。此皿鉢など皆一に縛りて出だされし
する疵物をかひ中にはロの欠けたる片口などもありて商店にて
が其体裁の余りよからぬために我持行かんといふものも無く、
又其時心付けば向側は妓楼にて五、六人の遊女等簾の間より半
面を出だして何か私語ぎ居る様子なりしかば血気の若者どもい
せては如何と問ふ。某氏のみえばりなるは誰とて知らぬものも
よいよ衡ごみして隈陽もなし。其時誰いひいでけん某氏に持た
なし、至極よからん、いと妙なりと皆某氏に持てと迫りぬ。某
氏は強ひられていと迷惑なる様子にて苦笑しつつ左手に提げて
69
て信州松代藩はまだ凪鄭が脱する能はざるものと見え御城代交
代の時に零しに正味の人数は二百人に足らずして其従者人夫の
多き又古式の軍法によってか人数を多く見せんが為に人と人と
の問を広くしたるを以て我藩の半数にも足らずして其行列の長
きこと我に倍し余輩は其開けざるを見て密に之を笑ひしが、甲
府の人々は大に我を軽視したるものの如く流石に十万石は五万
石よりも賑かなりなど私に評し居りたりと云ふ。鳴呼彼等は人
の多寡を以て大小の標準と為したるなり。然れども一人の英士
は十人の雑兵に優ること遠きなり。
み ぼ う
@るとぎ心に喜ぶこと括れ﹂︵仁廿四.︶
第四十六章 見え坊を困らせたること
○箴言に曰く﹁汝の仇だふるる時楽しむこと還れ、彼の亡ぶ
恥 か 記 第三巻
恥 か 記 第 三 旧
いでたり、 ﹁みえばり、よき気味よ﹂とて余輩は笑ひ彼の妓楼
にても笑声さへ洩聞えたれば某氏は火のいでんばかりの面回し
て独り走りゆきて見へずなりたり。某氏は余程苦しかりしもの
と見えて甲府より帰りて後までも屡ヌいひいでては余輩の思ひ
遣りなきを恨みたりき。余輩の為す所望よりよきにあらず、然
し弱点あれば其所を襲はるるものなり。
第四十七章 袋物屋おだてられて損す
まこと うち
○ダビデ歌ひて曰く﹁彼等の口には真実なく其衷はよこしま
なり。
ず。ああ彼は其弱点︵人情の︶を攻撃せられて遂に破れたりし
第四十八章 袋物屋の洋服仕立
軍旅旧事未之学也﹂
○論語に曰く﹁衛霊信越陣於孔子孔子対日狙豆揉事一嘗聞之
○又曰く﹁或る人死を問ふ孔子日く三生を知らず焉ぞ死を知
孔子が軍旅を学ばずといひ死を知らずといひたるは其文字の如
らん﹂
く解すべからず。他に意ありしものなりといへども亦以て人は
良薬は口に苦けれども必ず毒あり、吾人敢て之を知らざるにあ
らん。西郷隆盛をして大丸の番頭たらしめば旬日を出でずして
盗電専門の長所ありて万能に通ずる能はざることを教ふるに足
@其喉はあばける墓、その舌は讃ひを云へばなり﹂︵遭
らず。然れども﹁貴君の御嬢様は鼻低し﹂と云はるるよりは御
身代限の掲示を見るべく、屋根屋をして穴蔵を掘らしめば荷物
たか
袋物屋に命じたらんには必ず為すべし﹂と。一大に悦び某町の
洋服の裁縫を為すものなし。余は氏に忠告して云へり、 ﹁若し
余が友土方功氏甲府にあり短胴服を造らんとす。然れども当時
成功を期すべからず。
チヨ ツキ
の安全を保つべからず、人歩得る所あり、其道を以てせざれば
膨隆しと云はるる方快きなり。故に人来りて我に賛辞を呈する
時は誘惑の来る時なりと知るべし。
甲府の某町に一人の袋物屋あり彼多く回金を有せり。余輩之を
得んとして適当の相場にて売れよと乞へり。彼聞かずして日く
﹂一回失へば再び得ること難し相場に関らず売らじ﹂と。騰る
人平を得んとして彼の店に就き四方八方の話の序に信玄を賛む
ること甚し。甲州人は信玄を語るとき単に信玄といはず信玄公
を見れば其針の細きこと煙草入を縫へるが如し。余も忠告者と
ひ之を袋物屋に詰りしに彼曰く﹁煙草入一個の縫代は並数寸に
り。蓋し仕立代三両余なりき。余はいたく氏に気の毒なりと思
して大に誇れり。其仕立代を払ふに当りて土方氏はいたく驚け
袋物屋に見本を送り仕立を命ず、久しくして遂に成る。其仕立
る人平盆を得んとするが故に故に信玄公といふ。遂に袋物屋
ことさら
といへり、余輩が語る時にも公字を加へざれば不快の如し。或
其口車に乗せられて甲金を売れり。其後此手認否十段によりて
彼の甲金は殆ど皆売尽すに至り、彼大に悔いたり然れども及ば
70
薬剤中筏苓の入らぬは稀なりとの意よりいでしなり。彼の人は
ぶくりう
を容れざることなければ皆彼の人を漢苓といへり。蓋し漢法の
振を為し大言を吐く癖あり、己が知らぬことにても人の話に瞼
三両余は決して高価にあらざるなりしと。ああ其道を得ざれば
して壱分乃至二分に価ひせり、彼の短職服の縫代は数尺なり、
天下のこと皆然らざるなし独り短重服の袋物屋に於るのみなら
例の茨苓にて他の人が妓楼の話などする時に必ず其中に加味し
かぜてやりたしと思居たり。其頃彼の人は﹁我某楼の妓何某より
無人なれば誰とても悪まぬものは無く、云ひ合はさねど一泡吹
て彼の妓はお馴染なり、彼は我に特別の愛情を回せりなど傍若
んや。
○箴言に曰く﹁悪を行ふ者は虚偽の唇にきき虚偽をいふもの
夜﹁まだ貰はずやく﹂酔ひてからかひしが誰か覚えねど其事は
らせんものと外辺に感服の体を示し、いたく羨み其後は毎日毎
うはべ
懐中物を貰ふの約あり﹂と。皆其高なるを知りたれど彼の人を困
第四十九章 紙帳の落書の享
@は悪し喜に憂傾く﹂︵骨瓶.︶
此等のもの︵衣食︶は皆堆砂に加へらるべし﹂︵鵡杁むと.
と抗弁し遂には真偽を賭にせんとて真実ならば一同より彼の人
虚偽ならんといひたり。彼の人躍起となり﹁いな真実なりく﹂
基督教へて寒く﹁爾曹まつ神の国と其義しきとを求めよ然らば
孔子は曰く﹁言寡レ尤、霧箱レ悔蘇在二雨霧中心 ﹂と。語に聡く
方は日々夜々紅炉を加へ来て彼の人もはや堪へられぬに至りし
人は酒一升を買ふべしと堅き約束できたり。然れば余輩の責め
の為に酒三升を買はん、若し虚偽なりしならば一同の為に彼の
﹁天爵ををさめて人爵之に従ふ﹂と。是等の教訓は徳高ければ
に例外なきにあらずといへども逃る羊を南郷くものは稀なり。
と見え一日美しき懐中物一個を持来り﹁視よ約束通り彼の婦人
自ら人々の愛敬を受くるものなることを教へたるものなり。世
然れば人に不義を負はせられたり、欺かれたりといふは己が徳
に買ひて来たるならん、彼の婦人は懐中物まで御身に与ふる妓
のまだ彼等を服せしむるに足らざるを証すべきなり。人に欺か
にあらず﹂と強く云ひたり。彼の人は中々に承知せず貰ひたる
が○○氏の如ぎは中々に信ぜす、 ﹁此は御身が責めらるる苦さ
の明家にて五、腰間ある家なりき。大砲方の中に少しく智慧の
由主張したりしが○○氏は然ればとて書状を出だして真偽を問
より貰ひたり﹂とて示しぬ。余は真実なりしかとて内心驚きし
足らぬ○○○○氏といふあり仲間の玩弄物となりて興あること
ひ質して見ん、彼の妓より真実なりとの返事あらば我等信じて
るる者は人を欺く人なり。猪食ひし報、謹まざるべからず。
もありき。然し彼の人は智慧の足らぬ割合に正直ならず、他の人
降参すべしと。○○氏は彼の人の見る前にて真偽問合の書状を
甲府出張中余輩大砲方の屯所と為りしは御勤番と称したる旗本
の金借りて返さぬこともあり玩弄物とせらるる間に又悪まれも
ひやかしもの
のたりしなり。彼の人智慧もなく金も無きくせに何事も知った
恥 か 記 第三巻
71
恥か記
第三巻
とって来よとて出だしやりぬ。房司はかねて○○氏の意を受け
認め房司と称する小使を呼び、此を某楼に持行きて直に返書を
たるものと見えて門をば出でず他の上りロより○○氏の室にと
が彼の人萩苓ならざりしならば此災厄は免れしものを。
・だけを許したることありき。余輩の為したる所轄より悪たりし
第五十章 腋臭の高価なりし事
○箴言に曰く﹁怒る者と交はること由れ、憤ほる人と共に往
持行きたり。○○氏は三筆に凝して巧に返事をかき懐中物さし
あげたる覚ははべらず何かの間違ならんと認めて房司に渡した
¥二。二十四、二十五﹀
くこと傾れ、恐くは汝其道に敷ひて自ら署に陥らん﹂
彼の人も赤面し虚偽なりと自白して酒一升をかひたり。余は其
らず、其発生するは遺伝なりや又は他人より伝染するものなり
臭といふものあり、臭気堪難きものなれど有するものは自ら知
西諺に曰く二の腐れし葡萄は他の葡萄をくさらすしと﹁世に腋
ありて取る手も遅しと其書を開き大声にて読あげたれば流石の
り。時を計りて房司は帰来れり。最早○○二等は彼の人の室に
の人が彼の妓を知れりといふさへ虚偽なりしを以て其虚偽を制
でとも思はず、遺伝にて罪を有てるもあれば伝染せるものもあ
なり。其有様人の罪悪とよく似たり。罪悪は有てる本人は然ま
や知らざれども一回発したらんには中々に去り難きもの⋮⋮⋮
ママ 計略の余りに残酷なるに驚きしが或る人は内情を善く知り、彼
ぜんが為に此虚偽の計略を行ひたるなりといへり。ああ彼の人
の日一同徒然の余り何かいたづらせんとのことにて余が筆をと
は人を偽りて偽られたりしなり。其後一日のこと彼の人が当番
り彼の人の紙帳に墨黒々と落書して子供の手習草紙の如くし宿
もたせ
直の役所に為持やりたり。後に聞けば彼の人はいたく立腹し落
ものなり。
り、又一度罪人となりては自己の力到底全く去ること能はざる
其価は何程なりしかよくは記憶せざれども一両二分程なりしと
余が甲府出張中一日梅村某氏より洋服の上着一枚をかひたり。
書したるは誰ならんと苦心したれど彼の人は己が名を漸く記し
ど遂には余なりといひたりと。然し、余の書法の師本田氏は之
思はる。余は着んとて買ひたれば悦びて半日程着しが、不図脱
得る程の人なりしかば人の文字を見て鑑定する力はなく、然れ
を見て﹁三浦氏は余が弟子なりしを以て余は一目して知るを得
かりなり。予て伝染するものと聞きて居たれば裸体になりて人
ぎて見れば何ぞ思はん、其上着には腋臭ありて鼻持もならぬば
を頼みて己が腋を曝ぎてもらひしにはや伝染したらんといはれ、
べし、此文字は三浦氏よりも能くできたり、余の知らざる人な
は人々におだてられて筆をば執りしが彼の人が其後紙帳をつら
峨に幾度も石強にて洗ひしが中々臭気は去らず、止むを得ず人
り﹂といひたるよしにて幸にも余は当の敵たるを免れたり。余
ずに眠るを見て気の毒に思ひたれば余が蚊張の中に痘毒の同居
72
(二
を頼みて其衣服を売らせ去状を買はせたりしに件の人帰り来り
て爵査分︵今の二十五銭程︶を買ひ上着思至に売りたりと.ああ
高価なるかな半日の腋臭一両二分に価ひせり。然し幸に全く其
臭を断つを得たるを思はば又然まで高価とはすべからず。世に
罪を去らんが為に情慾習慣を犠牲とすることを好まず生涯罪悪
の囚虜となるものあり、慎まざるべからず。
うなさ
第五十一章 魔れずして回れさする仲間に入りし事
E箴言に日く﹁聯と鑑とは飽く・︺と芒﹂︵=什七.︶
方にまはりて勝れたることはなかりしやと問ふに彼の人々は云
へり﹁初め御身をも試みしが如何にしても感ぜず、鼓に於て感
ぜぬ者の仲間に加へたるなり﹂とききぬ。謂ふに神経質の人即
ち神経の鋭敏なる人はよく感ずる人にて鈍きものは感、ぜぬ人と
借らずして感じ得べきものなるを証し得べぎなり。
見えたり。奇なるかな、自体は己に眠るも霊性は五官の扶助を
おだやか わざはひ
第五十二章 ﹁御湿心あるな﹂の事
て労する所なり。此安心立命の道を得るに二種あり。一は仏教
安心立命は人の大に欲する所にて殊に宗教家たる者の得んとし
@ふ恐怖なくして薫ならん﹂︵一・三十三︶
○箴言に曰く﹁されど我に聞く者は平穏に住ひかつ禍害にあ
の如しと。又﹁目の寄る所に玉が寄る﹂と。其主義目的を同じ
に教ふる悟道にして寂滅為楽を観ずるなり、一は基督教の教ふ
志同じければ千里も合壁の如く、志同じからざれば骨肉も胡弓
くする時は自ら相結托するをいふなり。
しかたがない的にて安心を得んよりは有心的、慈愛的の神の手
二者同一なるが如く見ゆれども前者は寂滅なるがゆゑに希望な
る所にして神を信じ神を頼み神に任せ一切万事其身に生じ来る
甲府出張中一夜床中に眠居りし時二、三の老人余を覚すこと急
こと皆神の聖旨なりとして心を安んずるなり。其結果に於ては
と。余の不審は晴れざりしが彼等に従ひて他の室にいたるに白
よ
刃を執りたる者、熟く眠りし一人の上に跨り今にも刺通さんず
に任せて安心せんことを望むなり。人若し神の約束を信じ其手
く後者は有神なるがゆゑに有望なるを異れりとす。余は運命的、
も距り居るに眠りし者は俄に掌れ捻声をいだし煩離して手足を
勢を示したり。不思議や、白刃の鉦は眠りし者より一尺の余
ことを免るべし。
甲府出張中は大砲方の人々御玄関番を為したり。余一夜当直に
に任せたらんには俄然として山嶽其身に倒来るも周章狼狽する
て御玄関脇の休息所に臥居たり。何か四辺騒がしく思ひて営む
動かす。久しからずして止め、覚して其故を問へば敵にあひて
り、普通騰れたると同じ事をききしが夫よりはいと興あること
追はれたりといふもあれば高所より落つると夢みしといふもあ
ぎつさぎ
なり、何事ならんかとて驚覚むれば一人は白刃を手にして立て
わ け
り。何事の起りしかを尋ねしに﹁先、来よ理由は後にて知れん﹂
に思ひて毎夜徒然の慰みにはなれり。借余は何故に遡れさする
恥 か 記 第三巻
73
れば大須賀悠介氏が寝衣の上に羽織と袴とを着、家の内ながら
れば蚊張の外に人あり﹁御油断あるなく﹂と連呼す。誰かと見
こと能はざるのみならず窄むべきもの多し。彼等が盛人を賑は
するに余りありといへども其志に至りては無下に賎しく賞する
他海防費を献じ又製艦費を献ぜんとするが如ぎ其事固より賞賛
ずるより学校の資金を投じ、道路修築のために金を出だし、其
恥か記 第三巻
に大刀をも横へ左手に馬上提燈をブラリノハ\と引提げ﹁黒駒の
し、学校道路を造るは名誉を買はんがためなり。海防費は葦五
遊撃隊甲府を襲はんとして既に出立せり今や石和の辺に於て我
兵と開戦の頃なり、御油断あるな/\﹂、余輩は夜中ながらに
位或は黄綬章を買はんがためのみ。若し世に名誉といふもの無
地にあれば余輩の知らざるものを知りたるならんと。余輩は氏
して偽善者偽君子の名を得ざるに優れり。
ハママ は思ひたれども大須賀氏は御使番なり、余輩よりは重要なる位
未だ石和の砲声さへ聞かず又註進とてもありしを知らず還しく
かりしならば彼等は多く残忍の徒たらんのみ。ああ﹁心なくば
ママ
数ふるに足らぬものなり﹂。報酬を望みて人に予ふるは予へず
者に手を着けたらんには武士なりとて其実にはおかじ忘れても
府の人気は侠客風にて荒々しければ芸娼妓は例外として所謂地
へり﹁貴君は血気の青年なれば之を養しむる色にあり、殊に甲
なりしかば余も時々訪ふことありき。一日遅八は余に対して云
ればとて万事の忠告を頼みぬ。魚八は中々才子にして面白き人
しを以て余も紹介状を得て魚八に行き土地の状況にも不案内な
余輩が甲州に出張したる時藩の御用達を為したる雨避といふ人
ママ
ありき。此人は余が家に出入する沼津の魚問屋池清の下主なり
に問ひて﹁然らば出兵すべきや、或は甲府東口をでも固むべぎ
に逢へば周章ざるもの稀なり。
に応じたる時長く御身に侍するの秘伝をお授けまうさん。御身
地者に関係したまひそ﹂と。三又曰く﹁御身に芸妓の御身が招
若し芸妓を招きたらんには其場に居る芸妓一同に祝儀を与へた
まへ。而して一人辞して帰りたらば後に残りし者一同に第二の
祝儀を与へたまへ。是くして一人帰る毎に祝儀を出だしたまは
ママ ば最後に残りしものは多く得るなり。屡3すれば彼等の署に罹
74
ゃ、又は御城代御屋敷に一同詰合はすべしとのことにや、或は
ず唯﹁御油断あるな﹂の声次第に遠かりて遂に聞えずなりし
大手口をでも警衛すべきや﹂など問ひたれども更に要領をば得
とほざ
のみ。余輩は狐につままれ.たるが如く思ひて不平たらく再び
眠りしが後にて聞けば三夜の雨にて川水俄に増したれば洪水の
たいまつ
危険ありとて農夫等松明つけ彼方此方奔走したるを闇の眼に敵
と思ひて註進したるが尾に尾を生じて遊撃隊来襲とは為りたる
なりと。ああ人は皆自ら勇者と思へり。然れども不意の出来事
あはて
第五十三章 .芸妓に纒頭の失敗
もちもの
○パウロ曰く﹁仮令わがすべての所有を施し又焚かるる為に
@我身襲ふるとも若し愛なくば我に益芒﹂︵﹄罰旬可十三。三︶
世に慈善家と称するもの頗る多し。彼の患難不幸の人に金を投
り。五人の芸妓を呼びて五回纏頭を与へいたく優待せられ、一
会あらば試みんとせしに一日機会は来れり。余は之を試みた
鉄に於るが如くなるべし﹂と。余は愛染をききて面白く思ひ機
るの恐あり、時々為したまはば御身の座敷に来るものは鉄の磁
の年は入梅の期節前より降雨の日殊に多く市中に用達しを為せ
余維新の際藩主に従ひて甲府にあり、三月より五月に至る。彼
彼等は唯悪しきのみにあらず又善き所あるなり。
の人と上野の人とは﹁人悪し﹂とて世人の大に忌む所なりしが
の店にて﹁傘を参らせん、差して行きたまへ﹂と云はれたるこ
る時俄に雨に逢ふこと屡3あり。其頃余が驚き感じたるは諸処
となり。勿論我藩主は御城代にて又余輩の肩には藩の記号もあ
人得々たり。ああ、失敗せり。余が其事を試みたる三、四日の
りたれば中には詔誤の意味もありしかなれど兎に角人の難儀を
後余は沼津出張を命ぜられ第一回の祝儀壱両壱分第二回壱両第
三回章分権四回二分第五回壱分合して三両三分の損を為した
救はんとの義気もありしことは疑ふべからず。余は沼津の城下
・にて是の如くせられたることなければ深く之に感じ、沼津の人
り。余は祝儀を以て彼等の歓待を買はんとせり。其行、己に偽
に間じ失敗せざらんとするも得べからざるなり。
なり。愛なくして金を投ずるは従五位を望みて海防費を献ずる
かさんといふものなく余はつぶ濡にて家に帰りたりき。固より
上土町より裏町を通行したることあり。ああ、あはれ一人も傘
75
は如何あらん試して見んものと三年の七、八月頃俄雨を待ちて
第五十四章 甲府人の義気
帚シ言旨く﹁なんちの力を女についやす勿れ﹂︵三十一・三︶
@のごとくなる者は是死よりも苦きものなり﹂︵伝七。二十六︶
○ソロモン日く﹁我了れり婦人の其心羅と網の如く其手繰紬
さと わな しはりなは
第五十五章 田舎芝居見物の寄談
くはあらざるべし、故に又善くもあらざるものか。
あらざるは驚くべき不義気なるかな。沼津の人は甲府郵程に悪
ママ 時より知るもの、否、殊に平生懇意にする家さへあるに一人も
限もあらざるべきか。去るにても多くの店の中には余が幼少の
ママ 城下のζとなれば藩士の濡れるを見る毎に傘かしたらんには際
○ソロモン曰く﹁施与を好む者は肥え、人を潤ほす者はまた
E同曰く憂はすべての箏掩ふ﹂︵箴十・十二︶
@ 利 潤 を う く
﹂
︵
職
#
.
︶
諺に曰く悪に強き者は善にも亦強しと。一意悪を多く為す者同
時に多く善を為すとのことにはあらず、社会を煮れずして悪を
誉褒疑等に頓着せず其為さんとする所を為すの根性あるなり、
為す程の根性ある者は其悪を改めて善を為さんとする時人の殿
優柔不断義を見るも之を為すの勇あらざる者は悪を為さんとす
る程の勇気もあらざるなり。若し悪にのみ大勇ありて善に小勇
をも有せざるは取るに足らぬ小人のみ、若し小悪といへども之
を恐れ小善にも大勇あるは真正の君子といふべし。昔より甲斐
恥か記 第三巻
の男子と已に親交ありといへば暴漢も当分挑むこと能はず。甲
を得ず。女は已に若者の犠牲になり罵りしなり。然れども一人
恥 か 認 第三巻
難しといぺども社会の境遇大に其悪を増長せしむるに力あり、
村の若者より見物せよといはれぬ。蓋し宿陣とせし家の若き人
一日何方よりか俳優ども来り村の某寺にて芝居を為すとのこと、
れば怠屈いふべからず。詩歌など為す人すら無騨に苦しみしが
九人は農家何某方に宿陣せしが為すことも無く消日することな
明治元年の夏甲府より同国都留郡県野村に出張したり。大砲方
らん。此事によりても田舎の風俗の素乱したるを知るべし。
より挑まれたる時其を拒まん材料にとて其名義のみを望みしな
由なりしやを知らず又考へもせざりしが今より思へば他のもの
国にても余が十六、七位の頃度々人を以て城下の若き娘より名
その
義だけの親交を為し呉よしと乞はれたりき。余は当時某何の理
りしといふ。或は此こと自ら風俗を為したるものと見え余が生
り﹂なき村の若者我村の何某女を挑みたりとて生ずるものもあ
るは賭博より生ぜし紛争も多かりしが皆然るにあらず﹁わた
州辺に於て彼の村と此の村と大喧嘩︵寧ろ戦争︶を為すことあ
青年の女子に惑溺するは其情慾に根ざすものなれば挙るること
怪怪禁ずべからざるものありといへども境遇之を免さざれば溜
るること難からざるなり。彼の存娼論を主張するもの此理を知
らざるが故に娼妓を存すれば他に向ふの情を制するを得べしと
為す。何ぞ知らん彼等は他にむかふ情を制せんとして一方に情
を起さしむるの策を取らんとは。愚も亦甚しぎなり。
我国の俗、殊に田舎に於ては更に其制裁なきのみならず甚しき
は其風俗によりて無垢の徒を色慾の奴たらしむるなり。余が生
国近傍の田舎にては農家にして若き娘をもてる者は其娘を無垢
に保存すること中々に難し。鼓に於て已を得ざる必要より村内
若者に其保護を依頼するなり。全く其保護の下に置く時若者の
一人の所有となる代りに他の者又は他村のものに自由にせられ
ざるの利あり。若し若者の保護に依頼せざる時は何人に挑まる
るも抗する能はず其極、廃物同様にせらるるの憂ありといふ。
にて見物し本堂の北側に陣取りて芝居兼見物人の見物に面白く
も若者の一人たりしなり。余輩は﹁開いた口に牡丹餅﹂大悦び
馨ば甲の村に一人の若者あり乙の村の一女に懸想し之を挑まん
とする時は甲の村の若者に酒ど金とを送りて親交のことを申入
感じたり。然し余輩は若者に唯見せらるるも心苦し若者に謝礼
るるなり、之を﹃わたりを付ける﹂といふ。倦渡りを付けし後
何某女を挑みたき由乙の村の若者にまうしいるべし。己に肉交
とて贈りぬ。若者よりは総代を定めて答礼を為し返礼の心にや
酢若干を受けたり。宿の若き人は屡ヌ余輩の傍に来り﹁何か用
すべしと。借宿の若主人を招ぎ酒三升と金三分とを若者一同へ
はなきや、茶を取変ん﹂など親切に世話せしが其時余輩の眼に
を為すものあれば若者は其旨を以て拒絶し、幸にして誰もあら
みなれば女は其男子を好まざるも従はざるを得ず、又其身を潔
ざる時は若者之を承諾し媒酌の労をとるべし。若者よりの申込
白にせんとて拒みても若者の勧誘︵寧ろ命令︶あれば行かざる
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なりとて畳めたるを心ありと解⋮したりしなり、余は気の毒に思
せ
へり。されど余は其意を通じ斯く稼はしきことをば為じとて
とまりしは見物人の中央に見えたる一少女なり。碧色の白ぎ其
拒りてやみたり。余輩は論証によりて大に尊敬と信用とを得
︵即ち美人︶を拒みたる為に若主人は驚きて其事を家族等にも
時は肥料小屋に行くを常としたりしなり。余輩は若者の礼物
たり。余輩が宿陣と為したる家には雪隠なく用を便ぜんとする
ことわ
容貌の気高き衣服さへに美しかりき。多き見物人中に彼は上乗
﹁彼の女は何方の人にや美しき婦人なり﹂と云ひしに彼は﹁狩
なりと輿論も既に定まりたるが如し。余は戯に宿の若き人に
り彼女は上初狩村の何某の女なり﹂と答へぬ。暫くして若主人
岩城氏に問へり﹁他の家に宿泊せらるる方は毎夜出でて村中を
語りしと見えたり。一日岩城軽士氏のみ居りし時鞘当の老姫は
は余の側に来り﹁願はくは其敷ぎたまふブランケットを聞した
まへ﹂といふ。当時外国品は余輩の眼にさへ珍しければまだ此
雪隠の普請にかかりて日ならずして美しき雪隠できたり。第一
の俵より干鰯の満足なるものを焼きて出だし又大工さへ来りて
云へりと。其翌日は俄に餅を乾き蜂蜜を添へて出だし、土蔵中
ば無礼とも思はざりき、御身よりよろしく詫してたまはれ﹂と
るさへ有難きに食物も粗末なり雪隠もなし然ることと知らざれ
り﹂と。老婬の驚き大方ならず﹁我家に然る貴き方を宿しまつ
の二氏の如きは身分も貴く家には二、三十人の家来ある人な
るものにて然る卑しきことなどすべき人にあらず殊に土方三浦
れ、家にあれば五人も十人も郎子召遣ひて殿様若様と傅かる
ひとつ云ひたまふものさへ無し、最と奇妙にはべり﹂と。岩城
いはれ
氏は冗談者なり此言葉をききて真面目に﹁其は理由あることな
いくさ
り、此家に居る方は戦陣なればこそ一人で此所へは来たまひた
かしつ
い なるが我家に居らるる方々は一夜たりとも遊びにいでたまひし
ざれこと
こともなく又我家にも年頃の娘︵若主人の妹なり︶あれど戯言
俳虚し善き娘どもある家には必ず二、三人つつは遊びたまふ由
辺にては見たることなきものさへあり、余は若者のうちに見た
き人のあるならんと思ひたれば翌翌若主人に渡したり。彼は若
さ
者の溜にでも持行くよと思ひしに然はなくして見物人を押別け
く如くなりしが忽ち余がブランケットは後より彼の美人の背を
彼の輿論の既に定まりし美人の後駆にゆき何か彼の婦人に私語
蔽ひたり。見物人の視線は皆彼の婦人に集りたり。彼の婦人は
恥かし気に下うつむきて在りしが余輩は寒くもあらぬに何故に
ブランケットを着さするやと証しく思ひて居たり。久しくして
を返さんとて持来り小声にて1去りながら公然と測る色もな
芝居もはや終りに近からんと思はるる頃若主人はブランケット
くi云へり、 ﹁彼の婦人に談判ぜしに承諾いたせり、御遠慮
なく御自由に﹂といへり。余は其何の考へたりやを解せず尚ほ
仔細に問へば彼臼く﹁本日は皆様より酒肴を賜はりたれば己に
はあらず﹂と。余は彼の意を解していたく驚きぬ。彼は余が美人
貴君方より我村には﹃わたり﹄を付けたまひしなり。又我村よ
け
り彼の村にはわたりも済み居れば手を出だしたまふとも異しう
恥か記 第三巻
77
のために耳語にして却て藪鰍の方彼らのためには隠語たりしな
恥 か 記 第三巻
回の宿泊所には何もせずして辞去りしが余輩は二、三十人の主
余が生国にては斜眼を称して﹁藪轍﹂といへり。甲州人は之を
て密に批評することあらんかと疑心を抱かしめざらん為なり。
る言葉を以て談話せざるを常とせり。蓋し其知らざる言葉を以
きは更に大に悪しきことなり。欧州人の交際法には客の知らざ
いふものなく却て其失敗を喜ぶが如し。鼓に於てか其恥辱は弥
敗せるなり。故に其失敗するや人は同情を表して気の毒なりと
ら思惟する程の伎爾あることなく独り自らありとして而して失
あらずして自ら招くものなり。又不幸にも恥辱を蒙るものは自
人の恥辱を受くる其源を尋ぬれば多くは自然の成行︵結果︶に
@べぎ程をも智ざるものなり﹂︵囎二︶
○パウロ曰く﹁若し自ら能くものを知ると意ふ者はまだ知る
@りて汝の墜辱められん﹂︵に+五.︶おも
○箴言に曰く﹁汝軽々しく出でて争ふなかれ恐くは終にいた
第五十七章 斬罪に黙る某氏の失敗
と、慎まざるべからず。
﹁人の罪を定むる回れ恐くは爾曹も三三に定められん﹂︵蓮︶
り。ああ人を咀ふ者は穴二個を掘らざるべからず。基督曰く
両を投じたりき。
人と吹聴せられたるが為に此家には土方氏と相談して特に金壱
やぶにらみ
○箴言に曰く﹁慈悲ある者は己の霊魂に益を加へ残忍者は
あはれみ なさけなぎもの
第五 十 六 章 藪 緻 の こ と
@おのれの身を擾はす﹂︵十一。十七︶ 一ひ
人に対して不親切なる言葉と行為とを為すものは自ら禍害を招
ぎ、其人に加へたる者は遂に己に加へらるるものとならざらん
﹁見当﹂といふ。余輩甲府にある頃其方言を聞きて余輩仲間中
を示さんとするが如き失策を為すべからず。
ヌ大なり、若し人恥辱を蒙らんことを悪まば自ら求めて其伎偏
や。公然人を罵るは固より不義なり然れども密に人を誹るが如
の隠語となり、斜眼を見る毎に彼は﹁見当﹂なりといふを常と
して喜び居りしが後置待遇俄に変じ呼べども尚ほ応ずるものな
語を用みて見当々々といふ。初余輩は此宿の待遇の善きに感服
の斜眼にして白玉の一節理たり、余輩妻女を品評する時例の隠
宿泊したることあり。其宿の妻女若くして美なり。然れども彼
と為したり。余輩が白野村に出張したる帰途駒飼と称する村に
めずといへども乙某は無念流の撃剣に長じ自ら大に得たりとせ
者は我意の足軽甲甲乙某の二藍なり。甲某は平日深く武伎を修
るを発見し朝命を乞ひ彼と其従者とを斬れり。其時執行者たる
称する勅使、東の方より来り甲府に入る。我藩は遂に其偽物な
を欺取るを常とせり。我藩の甲府御城代たりし時小田切八郎と
維新の際諸所に﹁偽勅使﹂なるものあり、諸所を俳徊して金銭
けんたう
す。余輩の為には心意の明ならざるものあるが為に最上の隠語
き光景となれり。何ぞ思はん余輩が隠語と為したる見当は此家
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り。小田切等二人の斬に処せらるると聞くや乙某は執刀者の任
慶応四年︵後明治元年︶五月沼津にありし遊撃隊同地を脱する
又笑ふべきものなからんや、慎まざるべからず。
の報甲府に達し大砲一門に二小隊を打手として差遣はさる、余
に当らんとて大に周旋し漸く熱望を得たり、彼の得意思ふべ
六時を以て同所を発す舟は合して五、早手にして余が乗りたる
其中にあり。二十四日甲府を発し鰍沢に一泊し二十五日午前
かじかざわ
切を斬るよく斬たり。乙某彼が巧に斬りたるを見て我も一時の
舟先頭たり。蓋し乗組人少く︵大砲方と荷物のみ︶他は人多く
し。弥3刑期の当日となり二凶を引出だし警世刀を執りて小田
り、ああ又誤てり。彼周章狼狽又二、三刀を下すこと恰も樵夫
鰍沢より駿州岩渕まで十八里程をニタ時︵四時間︶にて走り得
耳早ければなり。抑富士川の急流は本邦に有名なるものにして
栄誉を得んと刀を下すや誤りて骨にかかりたり、又一刀を下せ
の薪を伐るが如く四、五回にして首漸く落ちたりといふ。警世
乗組人が一時に大声に悲鳴したると自己の喫驚したるが為に
鹿﹂の語あり以て見るべし。沼津依田氏の老人が危険に際して
べく又随ひて頗る危険なれば里俗・﹁乗るも馬鹿、乗らぬも馬
は武術あるものにあらず乙某は武術に長ぜり而して聖恩あるも
のは彼等に得たる技偏を頼み精神上甲某に及ばざるものありし
が故なり。ああ彼は恥辱を蒙りたり。彼が数年の武芸何の用を
﹁金三者﹂となりしは余が幼少の時より聞きし所なり。其他難
かなつんぼ
何れの川流も洪水ならざるはなく富士川の如きも久しく川留と
船破船の話は常に聞く所なるに此年は入梅の頃より降雨甚しく
に平水より四、五尺高きまでに減じ、余輩の三舟を以て減水後
称して舟をいださず。四、五日前より降雨少しく欺みたるがため
始めてのこととし危険は平生に倍し又興味も平生に倍せりとい
知識ある者より智識なきものを見れば見るさへ気の毒なる馬鹿
、黒々しきことあり、智者の目より無智を見れば憐むべきものあ
序を逐ひて発し余が舟止れば他の舟も亦下流に沿ひて止る。其
余の乗りたる舟の船頭は艇隊長とも称すべきものにして他の諸
ふ。余輩は﹁怖いもの見たし﹂おっかなびっくりに乗船せしが
り。然れども無識者も其自ら信ずる所は正なり善なりと思ふも
を見んと思ひ船頭に教示を乞ひて通過するの際見逃がすまじと
模様恰も一隊の兵の如し。余輩は彼の奇木﹁ナンジャモンジャ﹂
@れ﹂︵瑠八︶
のなれば有識者有智者は之を教ふべし決して詰るべからず。吾
舟は皆彼の命令を待つものの如し。故に余が舟発すれば他舟順
人識あり智ありといへども更に吾人に優る者より見たらんには
恥 か 記 第三巻
79
ママ も為さずと見えた抄。 ﹁出る杭は打たる﹂謙退は人生の難路を
滑かならしむるものなり。
うけ おも
第五十八章 舟子を苦しめたる事
○パウ二日く﹁信仰の弱き者を納よ血汐ふ所を詰る勿れ﹂
@よはぎ︵葬四︶
@ @ @ @ @ @ @ @ ○同曰く﹁然れども尊皇慎みて其自由を柔弱者の匿となす勿
は四、五丁の間なりしなるべし。彼の兜岩と称するは駿河に入
関係なきが如し。屏風の総幅は何程なりしか今は記えず、多分
恥 か 記 第三巻
ャ﹂は目に触るる暇なしと。然れども実際は然らず其木のあり
かまへたり。予て聞く舟の行くこと速くして﹁ナンジャモンジ
約束に従ひて﹁アレあの木がナンジャモンジャだ﹂と云ふれど
岸に沿ひて流れゆく所なれば馬にて走る程にはあらず。船頭は
といふ所は水深くして流然まで速かならず、高くもなき芝生の
よりも高かりしを以て其面を出だすことは多からざりしが如
して遂に其岩を破砕し認れりといふ。余輩の通行する時は平水
難破し、氏は自ら味ひて始めて其危険を知りたりしか、技師を派
難所として名高きなり。後に山梨県令藤村紫朗三惑岩に当りて
水流の都合によりて屡ぷ舟を打あてて砕けるよし、名所よりは
り中流にある急なる島に激して流水の俄に深くなる真中にあり、
さ 所まだらに多くの木ありてどれがナンジャモンジャやらなんじ
ゃもんじゃさっぱり分らず﹁アノ木がく﹂という問に舟は過
の俵石といふ名所を通過せり。川の西川岸積上げたる俵の小口
なり。此辺より河は次第に深く底より打叩かるることなく又写
大小を横たへたるまま四遣にて越えたりと後にききたるは此橋
凡六尺許にして長さは二、三十間なるべし。余が縁家丹羽氏が
にして藤蔓をよりて東岸より中の島へと架したるなり。幅は大
条の紐の如きものあるを見・る。﹂是れなん有名なる富士川の釣橋
中に紫雲たなびくかと思はるる。其実は下手な蜘の巣の如き一
れて流の幅俄に狭くなるが故なり。此深き急流に入るや忽ち空
し。兜石より下りて直に深き急流に入る是れ島のために妨げら
ぎて後はいつまでも﹁あの葉の細き木か﹂﹁あの小き木か﹂﹁あ
のづんぐりした木か﹂など思ひくに見たりと思ふもの想像を
画けるのみ。船頭さへに如何なる木なりとは説明せず、果は
﹁なんだ馬鹿々養しい﹂と異口同音に称へて止みぬ。余輩は乗
船の頃幾分か気味悪く思ひしが一、二里を下りたる頃は最早心
ゆくて な ボ
配は何方にか消失せて左右の景色は旅情を慰するに屈童の材料
にて著る時は遠く長く行方を長視め回る時は水深くして油の上
を行くが如く或る時は浅瀬の為に舟底を叩かれて荷物と共に身
くだりゆ さぎ
体を飛揚らしむることにあり、﹁或る時は遠近諸山の緑着て我を
ふりかへ
歓迎するが如く或る時は下往く先、山の端に隠れて河尽きた
て富士川の名所は尽きたり。
を見るが如く高くはあらねど長さは数町ありしと記ゆ。是れに
は全く尽き今は成たけ舟に長く居りたしと思ふ程になりしが余
余輩が船中の奇談を挙ぐれば次第に舟に馴れて恐ろしと思ふ心
りやと思はるる所もあり、或る時は漢書りて過ぎ来りし後を見
はれたるもの扇を開きて立掛けたるが如く其岩骨を現はしたる
たれば物なれたる船頭ども、流水の二個になりたる所にいたれ
輩の好ましからず思ひしは近頃の出水のために河身の模様変じ
れば河身の我より高きこと弓丈にして勾配の鈍き滝を見るが如
よこつら
き感あり。 ﹁屏風岩﹂と称するは数百尺の山の横面の泥土を洗
のと思ひしに屏風は其髪積の細きがために直流して其出入には
なり。水は屏風の裾を行くが如く、怪し秘し屈曲して要るるも
ひ だ
80
水次第に尽きて舟を本流にやること能はざることあり、時とし
多く幅も広く其方を下りて可ならんと思へる所にも遂には其流
ぱ何れを下りて本流に入るべぎやを知らず。素人の目には水も
ギリとする勇気はあらざりき︶切りて河の中に投じたり。余は
避けんとす﹂と云ひ終りて差添を抜き髪半程︵いまだ全くザン
着せざるべし故に余は髪の毛を切りて身延山に献上して禍災を
とあり、余輩は其間炎天に曝されて待たざるべからず。固より
すなり。速きも理数分時、遅き時は一時間を費して復命するこ
胆などしたらんには彼の一突の悼余輩の生命に関するものなり
な、気のどくなるかな、御幣かつぎを苦しめて彼若し甚しく落
に同意してザンギリとなり笑ひたることもありき。ああ危きか
いと気の毒なれど其時は却て興あることとて他の二、三人も余
今に其時の船頭の面を忘れず。彼は何程心地悪しか、今節へば
傘もなく日蔽もなく其無卿と困苦いふべからず。然れば始の程
のを見て之を愚弄するが如きは大に慎むべきことなるなり。
しなり。血気の人己よりも智なきものを見、己と信仰の異るも
ては数等下りて其事を見出だすことありといふを以て其何れに
せ み
は黙したるものすら次第にロきくに至り、多弁なるもの弥3多
下りてよきやを弁ぜざる時は道理を止めて瀬見二、三人を出だ
弁になり奇談に人を笑はするものもありしが元来舟子どもは知
多し。誰が始めしかソロ︿と世子をからかひ始め、彼等の言
第五十九章 伊藤敬之助に欺かれたる事
に同所を発せざるべからず、今より少しく休息する方可ならん
81
識なき上に御幣かつぎなれば彼等の語る所屡3笑草となるもの
○論語に曰く﹁小人窮すれば斯に聞す﹂ ︵述而︶
@はかる者の心には羅あり﹂︵箴十二・五、二十︶
あしぎもの
葉尻捕へて嘲弄し、彼等が身延山を遥拝するを見ればいたく笑
○箴言に曰く﹁悪者の計る所は虚偽なり﹂、又曰く﹁悪事を
こわれる一﹂ ﹁舟がひつくりかへるぞl﹂など思子の好ま
ひ舟底のガクくと川底に当るときは﹁難船だアー﹂ ﹁船が
人触か過失と罪悪と無きを得ん、善く其過を改め、其上を侮る
.を君子といひ、之を為ざるを小人といふなり。小人は其過を改
を附加するに至る、慎まざるべからざるなり。
明治元年五月二十五日遊撃隊打手として甲州より富士川を下り
め罪を煙ることをせざるが故に其罪過を蔽はんが為に更に罪過
駿州岩本村に上陸し吉原宿に休息し午後五時過同所を発す。余
たらんには忽ち戦争始まるべし、戦争目前にあり頭髪の長短な
どいふべき所にあらず、好き機会あらば髪の毛を切るべしと思
恥 か 記 第三巻
しも何ケ度なりぎ、多分は此舟岩本︵岩渕の上にあり︶までは
﹁我舟は川留後始めての下聞にして先刻より岩に打当らんとせ は沼津着の上は直に戦争始まるべし、然らざれば追撃として更
ひたれば舟子をからかふには屈寛の時なりと余は船頭に云へり
より叱られたる例もあれば未だ果さず。然れど五日沼津に着し
ザンギリになりたく思ひしが高見沢茂氏がザンギリになりて藩
ざることは尚更何ケ度も繰返して量子を困らせたり。余前以て
恥 か 記 第三巻
と。他の人々に遅れ宿駕籠を討ひ乗りて出づ。三、四時間を経ば
しゅくかご
を与ふべし若し途中にて下居たりと見ば駕籠と共に余を棄てて
遁れよ、然れば危きことはあらじと漸くに納得せしめて進みた
は大砲方の一人なるに大砲弾薬などは何方にあるか夫さへ知ら
戦争始まらんかとの懸念もありしが今より思へば無頓着にて余
入らんとすれば往来の真中に箋火焚きて人々多く集居れり。何
り。燈火の梢ヌキラ︿と目に付く頃原宿の西端に達し選評に
徒爾として居たりしなり。七時に近き頃柏原といふ村を過ぎ松
かず、歩兵組の人々も後か前か知らず無我夢中にて駕籠の中に
の報知によりて前途を談ずる最中なり。然れども蝕に奇なるは
議などもあらんかと駕籠を返へし僧人々につきて問へば皆伊藤
きにもあらず、下りよといへり。伊藤のこともあれば戦争の評
を為せるにやと見れば仲間一、二人は最早駕籠に乗りて行くべ
あひことば
ず、何方にて隊を組みて進軍するにや訓令もなく又暗号語もき
原の降道を揺られて往く時、突然三浦さんといふ者あり、誰か
暁幕兵に不意撃をくひ城にありし兵とては老人と少年多く且兵
はここに来りしやと問へば彼力なく﹁実に大変なり、沼津は今
いひ、或る人は伊藤の挙動に怪むべき所ありたり余輩は彼に欺
を与へられて知らずと云ひ敵は不意撃を為さん策略なるべしと
誰も知らずといふことなり。或る人は此辺の村人敵より口止金
今暁沼津にありしといふ変事を僅に一里半玉たりたる原宿にて
つくねん
と見れば御職人組の伊藤敬之助が余を迎へるなり。何しに御身
数少ぐ残念ながら城を落され皆四散寸書、何れに遁げしか分ら
かれたるにあらずやといふもあり、更に其真偽は知れず。一隊
り人をたつねて暫く時を待たんと思へり﹂と。余はいたく驚
ず、或は隊を組みて陸行すべしと主張する者あり、或は小舟に
の長ともいふべき監察某氏に権力あらざるを以て全隊は一致せ
ちりぐばらぐ
しものを、戦ひたくも味方は分らず、止を得ず余は吉原在の知
ず、若し御身等が今一日早く来まししならば此不幸はあらざり
きぬ。心安からず思ひたれば﹁大殿は如何になりたまひしか、
若し変事ありと見たらんには注進せもめば可ならん、全軍は大
て千本浜に上陸し不意に沼津に入るべしといふもあり、監察に
上、家族のことも如何と問ひたく思ひしが問ひたりとて知りも
たれど彼は混雑にまぎれて善くは知らずといふのみ。余は其の
すまじ、家族の私事を間ふも恥かし、婦女子のことなれば何れ
凡一時間を遅れて進み斥候の報知によりて何れとも決心すべし
討死は多かりしか、何方より如何にして攻められしやなど問ひ
にか避けたらんと其儘別れて味方に追付かんと輿丁を急がせた
にせしか唯各自一挺のピストルを腰にさげたるのみ雑談しなが
と。二小隊は隊を組みて暗夜を幸に微行し、大砲方は大砲を如何
迫りて其決答を促せども彼の躊躇して決する能はず。久しく談
.論の末誰が云ひいだしけん、先づ斥候として二、三人を出だし
おきたり。輿丁は沼津敵の手に落ちたりと聞きいたく恐れ沼津
らに歩兵の後に従ひたり。余は伊藤の言を偽ならんと思へり
りしが余は半時野球かり前に輿丁と約し沼津まで行く筈に為し
まで御免を蒙りたしといふ。余は原宿に至らば沼津までの賃銭
82
一何となく偽ならんと思ひしなり、余は偽なれと願へりひ次
○基督曰く等新郎の友その新郎と共に屠るうちは哀むことを
べきなりL︵酔払・十五︶
得んや、将来新郎をひぎとらるる日来らん其時には断食す
あれば夜目にも城の櫓など見ゆる筈なれど暗夜なれば夫もかな
第に夜は更け聞門村を過ぎて沼津の町に入らんとする頃月さへ
を智たらしむるが故に又人を時勢後れとならしむることあり。
故に経験ある者は其有する経験に新思想を加へて始めて全きを
人は新を好むものなり、新を競ふものなり。然れども経験は人
とて藩士は錦のビラくと共に鉄砲の的の如き六、七寸方形の
るにあらず、其経験の為に新を取るに躊躇するなり。世の古老
得べきなり。老人の社会に容れられざるものは敢て新を好まざ
はず、遂に出口町に入り宮之後と称する所を過ぎて追手の御門
白ぎ板二枚つつガうくと肩に着け其頭髪は紫の糸もて泥天神
に入らんとすれば平日と更に変りしこともなく夜間の記号なり
と称する根を慮りて後に髪を下げたるものを見可笑しく思へ
に古衣を加ふるの愚を為すべからず。
明治元年五月二十六日の早天沼津城の追手より直々たる多士隊
たるもの小壮者の血気を警むるは善し自己の経験に泥みて新衣
伍を為して東の方に進発したるは風なん遊撃隊の再脱者函嶺の
り。来りし者は無事を喜び伊藤に欺かれたるを喋々し、待ちた
ざく余輩を迎へられ一同に謁を賜ひ優握なる慰労の言を賜は
整列して居りし間に、はや十二時をも過ぎたりしが忠寛公はわ
られたり。其勢何程なりしか知るべからずといへども総勢は百
険に拠りたりとの報あり沼津より打手の兵の旅行するものと知
@ @ @ @ @ @ @ @ ︵九。四︶
@ し五月の末なれば前途を照す朝日は焼くが如く蒸すが如く誰と
て玉の汗流さぬもなく其登り道の険しくなりては其困苦いふべ
からず。前途の高嶺を長視ては胸をさするものもありき。余は
ながめ
に旧兵式を廃して新兵式を採用し豊原の泥天神なきにあらざれ
忽ち一個の奇観を見たり。我藩は小きだけに開化も早く疾く既
ども兵士の服装は皆筒袖股袋ならざるなし。然るに余が見たる
現象は何物ぞ、我藩柔術の師範役を為して名を知られたる柏崎
83
る者は援兵を得たりとて喜び互の挨拶に忙しく追手内の芝生に
り、尚ほ其上一人毎に金二両つつを賜はり、余輩は主君の無事
余人なりしならん。挙兵は同日木瀬川村辺に一泊して二十七日
を祝し奉ると共に其恩恵に感泣したりき。後に聞く伊藤は戦の
の午前十時頃河原ケ井を過ぎて函根山にかかりしが閏月のあり
@ 恥か記 第三巻
@ ゆくて
風聞甚しかりしが為に恐れて遁げたるなりと。彼途中に余輩に
ああ虚偽多きは愚物の本性か、斗組に反き不忠を働き尚ほ其非
逢ひて究したれば出放題もて其身の非を蔽はんとしたるなり。
を改めんとはせずして之に不義を加ふ、其悪鈍むべく其愚憐む
べきものありしなり。
ママ
第六十章 重藤の弓と白糸威のこと
@ ○伝道選書に曰く﹁生る犬は死せる獅子に愈ればなり﹂
恥 か 記 第三巻
るを悟らしむるなり。天其人に大任を与へんとする時は患難を
じて罰の下にあらざる者に困苦の来るは之を懲らして其足らざ
いでたち
又四郎氏が奇々怪々妙々不思議の扮装なり。凡て黒色の服装中
ママ に氏は金小札白糸威の鎧を着し兜はわざと冠らずして背に負ひ
慶応四年五月我藩士の遊撃隊を追ひて函根に出軍したる時余が
は蓋し此謂なり。
父の従兄弟稲垣氏は監察として其兵の中にあり。同月二十八日
与へて以て鍛煉せしむることあり﹁愛する子に旅をさする﹂と
の小具足に重藤の弓を小脇にかかへ白羽の征矢は簸に高く差さ
し、直ぐ其後に続きたるは高島流砲術の免許望月英助氏が紺糸
の夜山中宿に癒す。稲垣氏より使あり、何用ならんかと往きて
白の甲斐絹を折りて後鉢巻を為しユラリ︿ガサりくと顯よ
れ、是も同じく兜は負ひて冠らず鉢巻は柏崎氏と異らず。あ
問へば元山中の方に敵軍来れりとの報あり平兵衛︵消防夫ノ親
り汗の雨滴をポツリ︿といはんよりは寧ろガシャ︿と流
あ、砲術の免許者砲を棄てて弓を取れり。柔術家が白糸威幾分
なりしならば松明をも携ふべきなれど密に敵の動静を窺はんと
方ナリ︶を連れて斥候し、見聞せる所を報ぜよと。普通の旅行
する者が燈を携ふることも叶はず。余は山中の位地を知らず平
か恕すべしといへども砲術家の弓をとるは愚と評するの外なし。
くしたらんには其上の準備あらざるに於てをや。幸にして余輩
ガサ︿と鳴り、音させじと思へば一歩も進むを得ず、谷に下
兵衛も不案内なり。道は雑木の生茂りたる細道にて動くたびに
あり、自から招くあり、人より与へらるるあり蓋し千差万別
して其原因を尋ぬれば固より一様ならず父母より遺伝せらるる
人は配剤困苦の器なり、貴蔑ともに之を葬るるもの稀なり。而
を命ずるとは奇妙なりど思ひしが果して真の斥候にはあらざり
たるなり。余は人もあらんに余の如き若くして経験もなきもの
きことなりしが稲垣氏は余を試みんとて借は事を設けて出だし
思ひたり。後にて聞けば元より敵兵来れりなどいふは後形もな
しくも思はざりしが腹の多き所とて其禍に罹らざりしを幸運と
84
況んや我兵には矢の準備を為したることなく十数本の矢を射尽
は開戦に至らずして止みたり、若し戦ひしならば糞壷二氏は単
となりしが道火はさて置き螢の光さへなし。何か狐につままれ
夜なれば何方に村のあるや何も見えず。打火の光見ゆるとのこ
り漸く峯に上り元山中の目下に見ゆるといふ所にいでたれど暗
独の運動を為すべかりしなり。
第六十一章 箱根山にて斥候にいでたる事
ヌノく
○玉磨来に曰く﹁主その愛する者を懲しめ記すべて其此る所
なり。然れども是を神より見れば懲と罰との二に外ならざるな
しなり。然し稲垣氏が余の一身を利せんとして斯く為したりし
しとは是等のことならんなど平兵衛と笑ひつつ帰りしが敵は恐
り。罪と不義とありて自ら之を知らざる者は患難の罰によりて
@の子を鞭てり﹂︵計二.﹀
罪と不義とを悟りて之を棄つるに至らしむるなり。已に神を信
は余の為に幸福のことなりしなり。
○箴言に旧く﹁汝の心を淫婦の道に傾くること薄れ、又これ
第六十二章 婦人に挑まれたること
よ み
が径に迷ふこと震れ、蓋は彼は多の人を傷けて遭せり、彼
@室に下りゆく﹂︵七・二十五11二十七︶
に殺されたるものぞ多かる、その家は陰肩の途にして死の
若きものに色の戒むべきは今更いふを要ぜず。若し婦女子に惑
回せば以て其身を失ふべく之を避くれば其身を全うするを得べ
し。世に人を不善に導くの第一の原因は酒にして第二は色な
り。不幸短命貧窮窃盗等の其起因を問へば色と酒とに関せざる
たらんには田舎の少年、見るに足らぬ思ありしなるべきが奇妙
し﹂との評あり。而して好男子は其割合に愛されずして彼等の
なることには彼等の問に﹁何某氏は好男子なり三浦氏は男ら
愛は皆余が一身の上に落ちたるなり。彼の歌がるた会といふは
れば此会に招かるることも度々なりしが三会毎に余が不思議な
余が郷里にも盛に行はれしが江戸より来りし人は遊戯にも巧な
りとせしは何れの会にも﹁今一度の御幸またなん﹂といへる下
﹁不思議﹂ ﹁初にはありしが⋮⋮﹂などの声のみなりしが遂に
の句の一枚は誰の目にも見えざることなり。其度毎に﹁奇妙﹂
余は其見えざる理由を発見せり。其牌の中には﹁幸﹂の字ある
めざるなり。蓋し婦女子の間にはかるた会にて其牌を持居るを
がために婦女子には其余が名の字なるを以て深く秘して見せし
以て栄誉となしたるなり。以て余が如何に彼等に愛されしかを
もの殆ど稀なり、若うして戒むる色にあるかな。余は色慾の奴
たらんと望みしならば十分の機会を有したるなり。余は少年の
見るべし。又かるた会の帰途余は挟の中より艶書を発見したる
なり。余が十五、六歳の頃天下の形勢一変して江戸住居の人々
命ぜられ三島宿に出張したり。其時二、三の友に誘はれ某楼に
明治元年の夏余は足軽組の半与島士として三島関門の御警衛を
ことも一、二回には止まらざりき。
頃美少年なりとて至る所称賛ぜられたり。然れば凌ぎ婦女子の
多く沼津に移住し来り西の城と称する一構は江戸士のみ居る
して当時彼地の第一全盛と称せられぎ。余は唯美人なりと思へ
飲みしが其時三盆を弄して酒席に侍したる某妓あり、頗る美に
ある所にて余が彼等の品評に加へられざりしことは少なかりし
所となり、余と同年輩の少年も多く且彼等は流石に江戸育なれ
りき。其談話も珍らしくて面白ければ屡ヌ彼等を訪ひ、時とし
の平州屋に止宿したり。此家には近頃江戸より来りし芸妓あり
は其後再度彼に逢はざりぎ。同年十月江戸に召さるる時沼津宿
り。其後彼は人を遣はし書を送り真実を以て挑まれたりしが余
に し じ ゃ う
ば武道などには疎かりしが田舎者に比すれば利口なり又栄町な
ては夜半までも雑談に時を移すことあり。又彼等江戸士の中に
余が十日許の滞在中郡に対する彼の親切は妻女も及ばず余が出
は妙齢の女子も少なからず。其髪の結様其衣服の着様其言葉の
誰余が田舎目より見ては皆悉く善なり美なり。彼等より余を見
恥か記第三巻
85
恥か記 第三巻
でんとすれば下駄などなほし帰来れば余が衣服を畳み、暇あれ
ば余が傍を去らず又時としては其主家の無情を余に訴へて余が
意見に従はんと云ひ回る時は余に迫り余を捕へて放たざりし事
もありき。ああ、余固より木石にあらず彼等に此情ありと思へ
ぱ余が情も動かざりしにあらず。去れど余は幸なりき。是の如
ママ きことのある毎に余が身分を考へたり。余に不義あらば余が父
かりし情は幸に制するを得たるなり。ああ吾人が若き生涯の行
母は何と思ひたまはんと思ひたり、是く思ふが故に余が動きか
路には酒色の誘惑のみ充てり。之を制して勝利を得んこと中々
へ、父母を思へ、其身分を思へ、余は其方法によりて其他数多
に難し。若し若き者の前に是の如き誘惑の来るあらば神を思
の誘惑に克つを得たり。
86
自第六十三章
至第八十七章
第 四 巻
する偶像祭あり大岡氏と共に出でて群集する男女と行かんとし
て軽重することあり。其賭易き軽重に至りては人過つこと少し
世の事物には軽重あらざることなし。又同一事にして時に応じ
相識なり、揮る所もなく番所の前を通過せんとする時大喝一声
者なからんを務むるものの如し。大岡氏は勿論余も皆番士には
行する所なれば平日よりも多く居舛び皆目を皿にして紛れいる
東の方に遊[空白]︶。関門に詰めたるは皆藩士なり。群集の通
て関門の前を通行せんとせりと記したれども或は関門を過ぎて
るに新関門は橋麓にありたりと思ひたれば此地蔵に行かんとし
といへども場合によりて軽重する事物の如きは之を決するに才
小時として基督の言をきき基督に孝心なしといふものあり、其
ために親を忘れたるものにして善く其軽重を誤らざりしなり。
たるなり、余輩は理の当然に群衆の中をスゴ︿と去りたり。
大須賀氏の言葉は正義なり、余輩は私を以て公を破らんと為し
形の無きものは通行相成りません﹂と。ああ余輩は失敗せり。
ひしが笑ひもならず、﹁手形は持ちません﹂と答へしに氏は﹁手
﹁手形を出だされよ﹂と。余輩は誰ならんと一瞥すれば其叫び
おか
しものは大須賀悠介氏にてぞありける。余も大岡氏も笑しく思
へども之を判別するの力あるものは却て其私心なきを賞賛すべ
ことなれば﹂と答へしに氏は曰く﹁表は表、裏は裏なり﹂と。
帰っておしまいなさった﹂と問へり。余輩は﹁通行不相成との
然れども氏の言はよく軽重を弁じたるなり。
後に大須賀氏に逢ひし時氏は笑ひながら﹁何故、此間はあの儘
大岡氏と共に三島にあり、=佼河原ケ井に縁日︵毎年七月二十
きなり。明治初年に於て箱根山中の関門を廃して其西麓三島の
二日に法界会といふあり、恐くは塁壁の夜なりしならん︶と称
東河原ケ井に新設し其守衛を我藩に命ぜられたり。余は小隊長
軽重を判別するの明なきものに於ては然思ふことあるべしどい
禺の洪水を治むる間三度其事を過ぎて入らざるが如き、基督が
よ
其宣教に任じては其母を他人の如く称びたること淫婦れ大義の
能を要す。人の其親族に関するもの固より重大なりといへども
@や﹂︵約二,・四︶
○基督其母マリヤに云て曰く﹁婦よ爾と我と何の与あらん
関門の前に至る︵法界会なる地蔵は河原ケ井の橋西にありと然
記
第六十三章 三島関門にて大須賀氏に叱られたること
か
○語に曰く﹁大義滅親﹂
かかはり
恥
恥か記 第四巻
87
恥 か 記 第四三
彩六十四章 掲を流して狼狽したる事
E箴言に曰く﹁相議ることあらざれば謀計やぶる﹂︵註¢
・又乾く﹁戦はん善第つよく迂るべし﹂︵二十。十八︶
りて流るることもあり、舟は弥3遠かりどうしても舟には追
とほぎ
て岸の二途を走れり、走れば舟の流るるよりは余程早く忽ち舟
着かず、鼓に於て漸く思ひいでたり。余は急ぎ岸にかけあがり
に疵をば受けざりしが膝も腰も胃も肩も黒垂だらけ痙痛を忍び
でたり。舟に入りて身体を見れば洋服を着て居たるがために幸
て余は水に入り舟の来るに游着きて岸につけ松崎氏を乗せて出
よりは五、六二も先になりぬ。流水の深くして緩くなるに至り
明治元年の最良藩は上総国市原郡に転封を命ぜらる。蓋し駿遠
で寓家に帰れり。ああ失敗せり。若し舟の流れたる時に岡を走
○語に曰く﹁遠慮なければ近憂あり﹂
二州は徳川家の封土となりたればなり。余が家は一時香漁村の
思ひはかる所あらざりしがために此不覚を為したるなり。世に
ることを考へたらんには此不体裁はあらざりしものを。前以て
飴屋に寓居す。此家は狩野川の岸にありて小舟をさへ有したれ
是と同じぎもの頗る多し。事に当りて狼狽せずよく考へて而し
ば余は其舟を借りて毎日川に遊べり。一日松崎氏とともに舟を
いざるや
同家に至り談話したる後辞して川岸に行き舟に入らんとせしが
川に浮べ上りくて遂に山王前の瀬に達し筑屋の裏に舟を繋ぎ
て後に処置したらんには長途平易にして成功を期すべし。失敗
人、人を知るは難しといへども己を知るは殊に難し。人若しよ
E又曰く﹁賢薯は競業を慎む﹂︵十四・十五︶
E箴言に旧く﹁汝芸かなるものの辿則誉れ去れ﹂︵骨組.︶
第六十五章 抜手を切って漁夫を驚かしたる事
あらざるなり。
の跡を追想したらんには多くは此深謀遠慮なきに原因ぜずんば
上りゆきたる岩舟を繋ぎたれば舳は上に向ひ下さんとするには
不便なり、よって舟の纏にある縄をとり舳の方を押出だして下
にむけんとする際急流の為に舟のめぐること甚だ早く若し縄を
ゆるめて三流にさからはずして下の方をむけたらんには仔細な
かりしを誤って縄を強く引きて居たれば櫨の一方の岸に接する
や縄は忽ちに断れたり。縄断るるや舟を捕ふる間もなく舟は其
るも舟なければ粗末なる洋服にて大刀もなく下駄もなくして町
く己の真の杖を知りたらんには自己の徳を養ふに益あり、困難
儘に流出だしぬ。余は舟を流して失ひては大変なり、又失はざ
中を通過せざるを得ず、是く思ひたれば余は五、六善言かけて
者は己を知らざるが故に過失多しとす。
に陥るを攣るるの利あり賢者はよく己を知るが故に弥3賢に愚
明治元年の九月余は沼津を去り父母と共に伊豆国の戸田村に寄
忽ち早瀬の中に飛入りたり。余は游がんとするに急流の早撃上
ロと転がり、頭の下になりて水中に入ることもあれば仰向にな
に游得る程は深からず。夫が為に身体の横になると共にゴロゴ
88
を知らざりし虚偽たりしなり。
第六十六章 己が犬を銃撃したる事
しを以て小舟をも有せり。余はよき家に寓したりと毎日小舟に
寓す。余輩の寓したるは同村の太田氏なり。氏が家は船持なり
乗りて港内を漕廻して楽みしが一日村の対岸にある長半島に至
○基督曰く﹁豊生命を保全うせんとする者は之を失ひ、我為
@に其生命を失ふ者は之を得ぺければなり﹂︵三十六・二十五︶
まった
り舟をば岸につけ遊び居たり。最早タ方にも近きたればソロ
若かじ游ぎて舟に追行かんには、暖き頃の洋服なれば脱ぐにも
は面倒なり、舟なくして岸を迂回せば一里余の所道もなし、
洋にいつるにあらで港内の方に流れゆくなり、余は舟を流して
理を応用するを得べし。唯勝つことをのみ思ひて戦ふ者は勝利
たるや童に軍陣のことのみにあらず宗教のこと学問商業等皆此
ひ、失ふ者は得べしと教へたるが如き是なり。蓋し此教の精神
彼の背水の陣の如き其例なり。基督が生命を得んとする者は失
兵事の秘訣に己を死地に陥れて以て敵を破り己を救ふの策あり、
易く余は忽ちに裸躰になり、勢よく飛込みたり。余は余りに遠
失を招かざること稀なり。
を期すべからず、儲けんことのみを思ひて売買を為すものは損
っか浮みはや十五、六間も岸を離れ上潮の世なれば幸に舟は外
く帰らんと舟をおきし所に来りて見れば上潮のために舟はい
くてはむつかしと知れど二十間足らずの所なれば抜手を切りて
らず、これを人に問へば﹁此頃半島にありて舟を流したる時沖
村人の評判せるを聞ぎたり。余は何故に其風評のありしやを知
伴ひて諸家に帰りぬ。二、三日過過ぎて余は⋮游泳の名人なりと
ひしに毎夜二、三疋の犬来りて余が犬を苦しめ其都度襲来の犬
に止宿したり。余も同氏に止宿せしが其頃余は一疋の白犬を養
り。当時未だ彼地に居るものは少く松崎氏も小源太といふ農家
明治二年の秋余は松崎連氏に伴はれて藩の新領地菊間村に至れ
し
游着き舟に飛上り膳を押して半島に帰り急ぎ衣服を着同行者を
より帰る漁夫ありしが井田屋︵太田氏の屋号︶の舟の繋るるを
見たれば救はんと為せる折忽ち半島より余が游出だしたるを見 を追へども中々に去らず一度逃るも亦来る余は我犬を愛するの
しが抜手を切りて舟に游ぎつきぬ、尊書なること海に世渡る船 深きだけに他より来る犬を混むこと甚しく遂に波の犬どもを銃
殺すべしと決心せり。然し銃撃は夜間なるべし且実弾を発射す
ママ 頭漁夫にも及ばず﹂といへり。ああ、余は未だ足を用ゆる真の
びっくり
て待てり。十二時頃に至り忽ち犬の声を聞く、其声次第に近よ
法を知らず、彼等若し近づきて見たらんには二者喫驚をなした るは危険なりと霰弾を装填せんと決して準備せり。尚ほ暗夜の
るならん。彼等はただ遠くより余が両手を見たるのみ、余は彼 砲撃なれば我が犬と他の犬とを見分くること困難なり。鼓に於
て我が犬は綱を以て橡の下に繋ぎ少しく戸を開けて銃を出だし
りたらんには漁夫等の見る前に抜手はせざりしものを。結局己
等を欺かんとは思はざりき。然れども若し余が己の真の状を知
恥か記 第四巻
89
りて築山の前にあり、余は銃取りて一発す。キャンノ\く門
権威に相当する徳望ありて権威を弄するは然まで悪からざれど
恥 か記 第四回
形は見えずなりぬ。余は目的を成就せり、余が犬の為に仇を打
の甚だしきなり。ピラトの基督に対する其情編むべきものなき
ず余が同僚も皆之を悪み機会あらば彼が高慢の鼻を挫かんとの
くわたい
を以て大に自負し時々不遜の挙動あり、余のみ独り然るにあら
にて余は幼時よりよく知れり。彼近頃少しく柔術に上達したる
しめたり。松崎氏の隊に佐野周三郎といふものあり、余と同年
り知事も有司も日々出入したる着なれば足軽を以て其門を守ら
上総の国菊漁村の千光院といふ寺院は明治の初年に我略述とな
にあらずといへども其権威を暴用したるは悪むべきなり。
斗管の小人が不義擁倖の権威を有して蔑者を遇するは噛むべき
は平生よりも早く覚め、いそノ\悦び戸をくりあけ我犬はさぞ
ちたり、余が胸はすがくとしたり、雲夜は安眠したり。翌日
愉快ならん仇をば既に報いたり、首突出だして言掛の下を見れ
ば繋ぎし綱は切れて我が犬は居らず、白々と呼べば声に応じて
築山の彼方より尾を振りて白はいで来りぬ。首をなでて﹁昨夜
は敵なくて安眠せしならん、汝の仇を打ちてやりたり﹂と善く
見れば何となく憔狂したる容子なり。 ﹁何故に敵を打ちたるに
ところまだら
り。是は不思議と尚ほよく見れば思ひきや、全身五、六ケ所に
千光院の門番を命ぜられたり。一夜至急を要する官用あり同僚
意ありて待てり。偶3彼に落度あり科代奉公と称し数日間昼夜
と謀り遂に同僚久米資氏へ急使を出だすべきに決し松崎氏の隊
松崎氏に謀らんとして燐光院に至る、他の同僚二、三人あり、之
兵佐野周三郎に命ぜんと彼を呼出だして之を命ず。時に大雨覆
盆の如く零点労を厭ひて之に応ぜず。 ﹁余は己に科代奉公を命
ぜられて御門番を勤むること数日に及び、今や疲労して歩行す
る能はず、此雨を突きで位すること能はず﹂と。余は平日の復
れり﹁長官の命に従はざるは兵たるの道にあらず、且疲労して
讐此時なりと思へり。他も三三、0と思ひしに松崎氏はいたく怒
と知らば疾已に情を具して其勤を免ぜらるべきなり、御門衛た
とく
歩行し得ざるもの何故に黙して御門衛たるや、自ら歩行し得ず
るものは旧任に堪へるを信ずるが故なり、今にして歩行し得ず
90
是︽は不活溌なりやとよくく見れば所 斑に血痕の存するあ
我が敵なりと見て打ちたりしはいつか繋ぎし綱の解けて我が犬
霰弾を打込みて弾の残るさへあらんとは、ああ失敗せり。昨夜
の築山の前に居たるを打ちたるなりけり。尚ほよく考れば毎夜
敵犬来りて襲ふと思ひしは誤にて我が犬の許に其養ふ所の牡犬
来り他の犬ども之を羨みて其牡犬を襲ふものなりしなり。余は
余りに敵を悪み余りに我が犬をかばひよくも分別せず軽挙して
是くは誤ちたるなり。ああ生命を得んとするものは之を失ふ。
鑑みざるべからず。
第六十七章 佐野周三郎を罰したること
@ひて畿あること芒﹂︵弊九.︶
○基督ピラトに答へて曰く﹁爾上より権威を賜らずば我に対
りしが裁判所の規則の改正ある毎に其生活の道困難になりて其
よわたり
本燈心の精神は大に余の生涯を益したりと思へり。ああ重箱の
妻子をさへ養ひ得ざるときぎぬ。余は大事をこそ為し得ざれ一
とは横着なり不忠なり﹂と。鼓に於て直に彼を監察に致す。彼
り。虎の威を借る狐彼は何程苦しかりしか、気の毒なることな
i馬二十五・二十一︶
・網主く﹁三見憲薯は又婁る﹂︵仁+二.︶
第六十九章 新庄家の人を救ひしこと
する人は留針にも注意する人なるなり。
隅を楊枝でほぢるとは賞むべきことにあらざるも鉄の棒に注意
翌日相当の罰を受く。ああ吾人は官権を弄して私憤を零ししな
りかし。
@ 第六十八章 燈心を一本にして叱られたる事
わっか
○基督曰く﹁ああ善かつ忠なる僕ぞ爾露なることに忠なり﹂
@ 東京浜町の藩邸にありし時同室の一人あり、此人は余が眼にも
たまひき。余は其教に従ひ常に之を守りしが明治元年の暮余が
ものは主の喜びたまふ所となるなり。故に聖書中施与仁恵の行
信仰の心よりi主を愛するによりて主の為にi善行を為す
困苦者を轟くるも以て吾人の救挺と為すには足らずといへども
べしと解せざるも可なり。主が﹁臨くるよりも与ふるは福なり﹂
り報を得べしと教へたるもの必ずしも現に物品的に二郎を得
の報を得べきを教へたるなり。然れども吾人が貧者に施し主よ
あらは
叱りて曰く﹁御身の如く若き人は其様なる小きことに頓着すべ
物なりや否を惜しが二十五、六年を過ぎたる今日彼の人は未だ
有難しとて逼りぬ。余は其後此忠告者は果して大事を為すの人
き。然し彼の人は長者なり其忠告に反するも悪しと思ひたれば
や。
一の善事は長く心の喜となるべし、是れ善悪の報ならざらん
云へるものと見るを得べし。一の無慈悲は長く苦痛の種となり
より来るもののみにあらず吾人の心に生ずる愉快の念を指して
︵使二十・三十五︶薮へたまひしも其与へたる物に対する報酬は外
一の大事否小事をも為し得ず、某県にありて三百代言を為し居
す能はず、以後注意せられよ﹂と、余は其時心よりは服さざり
ぎものにあらず、今より其様な心掛けにてとても後来大事を為
は行燈に油を足し其燈心を一本に為したり。其時彼の人は余を
不経済のことなどする人なりしが一夜皆床に入らんとせる時余
○諺に鋭く﹁仁恵は人の為ならず﹂
@ 聖書の教ふる所によれば吾人が善を行ひたりとも以て救挺を得
@ 第二章に於て大功は小功の集りしものたることを云へり。蓋し
@ ﹁一事は万事﹂若し人勤倹の風習を造らざれば遂に其身を不幸
@ 葎法の行によらず﹂︵羅三・二十八︶と.然れば吾人が薯に施し
@ るに足らずといふ。パウロが﹁人の義とせらるるは信仰により
@ の地に陥らしむるの危険あるなり、謹まざるべからず。
@ 余が母は常に行燈の不用なる時は其燈心を一本にすべしと教へ
@ 回か記 第四巻
91
恥か証 第四三
其顔色青くなり又赤くなり眼はキヨロツキ唇頭は動き頗る苦心
動静を窺ひ居りしに士も遂には大に決心したるものあるが如く
は堅く執りて動かず。余は主人の剛腹を怒り士の困苦を試み其
にある蕎麦店に入れり。五、六組の客ありしが一人の士の年の
明治初年余が浜町の藩邸にありし頃人形町通を遣侍し界町の角
の体にて余は彼の心中を読得たり。彼は主人が貸さじとならば
むねうち
はや他に施すべき処置なし一刀引抜き主人に刀背打くらはして
ら幾分か大声に幾分かせきこみて尚ほ只管に乞ひたりしが主人
頃二十五、六とも見ゆるが隅の方に独酌し居りて余が蕎麦を食
其混雑に紛れて遁出だし一時の急を救はんとの決心あるべしと
余は管長事の報を得たる経験あるなり。今其よき報を舷に記す
ひ始めんとする頃何か心痛ありげに主人を呼びたり。主人は帳
見たるなり。余は戴に於て籔を容れたり、 ﹁主人此方の勘定は
べし、若し第百二十七章を参照せぱ余が意弥3明なるべし。、
り。 ﹁余は近傍の旧藩の士なるが過刻大坂町の湯に入り出でて
場より立ちて其々の前に坐せしが士は言を卑くし慰撫に云へ
さん﹂。士はいたく喜びたる容貌にて﹁其は黍し、他に此急を
困難を推察せり、若し許したまはば余貴殿に代りて御払ひまう
直様此所に来りて飲食したるなり、今勘定を為さんと銭嚢を探
支払に甚だ当惑せり、何程なるかは知らざれども明朝まで支払
遁るべき道なし、明朝まで貸してたまはらば償ひまうさん﹂と。
士に云へり﹁甚だ失礼に似たれど先刻よりの御問答にて深く御
の猶予を乞ひたし、若し幸に許されたらんには密に主人の姓名
何程なりや告げよ﹂と主人は曰く﹁一貫二百文なり﹂余は彼の
も余の姓名も明に告ぐべし、明朝まで貸すべきや否﹂と。主人
あるにもせよ是く無慈悲の取扱を為すは無礼なり又其方が店の
余は主人に一貫二百文を与へ、一言を添へ﹁他に如何なる士の
ぐれば如何になしけん、あるなし、取られしか落ししか当店の
は是くききてこ言に撒付けて曰く﹁否、御筆しまうすことは相
ママ 成りません、此節柄⋮⋮﹂と。是くきかば主人の言葉如何にも
めみ。余は余の勘定も終り急ぎ店をいでて帰らんとし其混混ま
⋮と。主人は赤面して何も云はずただ﹁ありがたし﹂といへる
でいでしに彼の士は周章余を討ひ﹁余は新庄藩のものにして浜
損なり、其方江戸ッ子の気象としては今少し寛大なるべきに⋮
食店の困却し居たるを察すべし。蓋し是の如き手段にて飲み倒
町の邸にあり何某といふ、願はくは尊藩と貴君との名を示した
無慈悲の如くなれど此節柄の一言にても屡3士が権威を肩に着
し食ひ倒す類は極て珍しからざるなり。士はいと困却の躰なり
て町人を苦しめ借りたる者は返さず貸さざれば乱暴するなど飲
しが返す言葉も無く﹁然らば羽織なり袴なりを形におかん、夫
じ彼の名もきかじと思ひしが彼は理由なく金を借るは本意にあ
まへ、明日償ひまうさん﹂といへり。余は初め余が名も云は
らず、余は遂に抜刀して遁んと決心したり、余が此暴行をとど
にて許しくれよ﹂と力なく云へり。主人は﹁御預り物一切不奪
はあらじ﹂といふ。士は此言葉に少しく思を含み同じことなが
還とは定書に見ゆる通りなり、銭を払はれよ、然ればいさくさ
92
して如何で心を休むるを得んと。余は止を得ず名を示して別れ
め、店主に利を得させたまひしは恩なり、其恩人の名を知らず
か驚きたれど己を得ず二十五両包を破り又一分二分と出だして
つつ出だしてっかひしがいつか其十五両は費しつくせり。幾分
中よりつかはんとて壱分銀にて十五両ありしうちより一分二分
四両余なり、駕籠は二両はいでざりしなり。ああ、其他六十両
余はいたく驚きたり。何のために六十両をつかひしか、三品は
皆尽きて旅費として余の手にあるは二、三両ならんとは。ああ
払ふべしと。余は其命の如くせり、何ぞ思はん六十五両は殆ど
れ、買物の入費井に旅費は先に受取りたる六十五両の中にて支
ば唐晶一包をかひ垂駕籠一挺をかひ夫に乗りて迎の為に帰り来
たれか ご
り父より文通あり近々家族をまとめて移住することとすぺけれ
っかひ遂には又此の二十五両包も破るに至りぬ。二年の春とな
しが翌日余が不在中陰の人は銭に添へて茶器と用紙とを携へ来
りて深く謝辞を述べて帰りたりと。余も其後相当の礼物を携へ
て彼を訪ひしに彼又居らず面会せずして去りしが余は余が読み
しか たる如く彼の決心の然ありしを知りて善きことをしてけりと今
に記憶して悦び居れり。余が彼を救ひし一貫二百文は翌日返り
尚ほ二十余年の今日に至るまで余は是がために愉快の報を得つ
つ居るなり。﹂
第七十章 父の金を浪費したる事
なく況して妓楼などをや。其費す所を終れば人形町通りの立食
足らずは如何にして尽きたりや、余は一回も酒楼に登りしこと
ママ
93
○基督日く﹁灰 の前に爾曹の真珠を投与ふる撮れ恐くは足に
@て之を践まん﹂︵馬七。六︶
しては両国辺の揚弓店につかひたるなり。然し何れの所にも一
ー天獄羅、酢、菓子、又はドッコイく、軍談、落語、時と
分銀一個以上を出だしたることなし。ああ﹁塵も積れば山とな
る﹂其額の大ならざりしが為にいっか費し尽したるなり。余は
戸田村に至りて父に報告する時如何に心苦しかりしか、父は失
は父の誤失なりといはず、蓋し父は其受取りしことを知らざり
望したまふ顔色もあらざりしが夫だけ余の心は痛みしなり。余
しなり。然れど余の為には小人の懐ける玉なりしなり。
明治元年の秋より二年の春まで余は東京浜町の藩邸にあり又は
恥か記 第四巻
入の隅におきたり。余は父より小遣金を受くる筈なれば其金の
を信じて其儘余に托し余も亦父の金なりと思へば箱に入れて押
り父に付すべき金六十五両ありて余に付されたり。余が父は余
御用の都合にて冬の半に伊豆国戸田村に在り、十二月の末書よ
ざるべからず。
損、委ねらるる者には罪となるべし、双方ともに巧に之を避け
るのみならず委ねられたる者にも害たるなり、委ぬる者には
すべからざる人物を信じて之に事を委ぬるは委ぬる者の損失た
信用すべき実力ある者を信用して事を委ぬるはよし、若し信用
恥 か 記 第四巻
して罷むべしと思ひしは誤にて雨はいよく強く所によりては
り。同所を発して一里近く行きたる頃急雨俄に来り久しからず
脚を没するの注水さへあり、雨宿すべき家もなく菅野氏母子が
E箴言に日く愈ぎ拶計る所は麟なり﹂︵十二。五︶
第七十一章菅野氏母子を伴ひて海を歩みしこと
誰か虚偽の不善なるを知らざらんや、知りて尚ほ之を為すは必
は暮れて真の闇なり。余は少しも早く宿に着きて婦人の為に迎
の人を出ださんと諸氏に先立ちやや船橋に近きたる頃佐渡屋と
雨天にと傘をもてるのみ其他は傘の用意あるものなく其中に日
記したる提燈さげて来るものにあひ其仔細を問へば誰か知らせ
ず自己又は他に利益する所あるべしと思ふが故なり。然れども
て善を生ずる能はざるなり、一時或は利と善とを生じたりとす
﹁悪樹は善果を結ぶ能はず﹂虚偽は元来不義なり、不義は決し
るも久しからずして害と悪とを来すの不幸に逢ふべし。且虚偽
が衣服は羅紗なりしかば横腹の辺などは外より雨を通さざりし
たるものありて迎へるなりと番傘五、六本を抱へて居たり。余
も帽子は仏式の小形のものなれば襟より水入りて濡れざる所も
を避けたるが為に不利を得たりとするも我に於て恥つる所な,
の苦痛は其利を減じて余りあるべし﹁善を来らせんとして悪を
は断りて独り宿に急ぎぬ。宿に着きて衣服をかり濡れたるもの
なし。是の如くなれば今更傘を借りたりとて何にもならず、余
し。温泉の水を飲まば仮令渇を医するの利ありといへども良心
ぎなり。
は皆明朝までに乾しくれよと乞ひ、一同困難を物語りて三夜を
為すはよからずや﹂後の利害を見んよりは其事の善悪を見るべ
明治三年の六月二十二日夜湊町より乗船して上総に行かんとし
すとききいたく悦び同行を乞ひ金一両をいだし彼地に至るまで
乾籠をつくらせ二、三人の下女は夜半過まで世話したり、是に
泊出迎の人を出ださせ衣服を乾さんために夜中橡側に五、六の
止宿料を払へばはや多くは残らず。然るに昨日の午後昨夜の一
田の二氏五大力船にて上総に直航の考なりしかば船賃と湊町の
の諸費を賄ひくれよとのことなり。同行の小野邦衛氏久保田穂
明ししが倦翌朝になりて一の困難を生じたり。余も小野、久保
波氏に謀り金は余が保管する所となる。翌二十三日暁に覚まさ
心付けの金何程かを与へてはや手許に存するは二、三銭のみ。
船宿に一泊す。偶3藩士菅野氏の母其女を携へて宿にあり、彼
れ一同五大力船に乗りて発せしに品川砲台をいつる一里許にし
べかりしなり、実に大胆無法の旅行なりき。余は考へたり、若
若し菅野氏より一両を預らざりしならば昨夜の止宿前に落城す
等亦上総に行かんとてなり。菅野氏の夫人は余輩が上総行を為
て忽ち雨あり、風さへよからざりしかば船子は船を戻し新銭座
食ひたらんには賄方の任を全うすること能はず、然りとて一両
し普通の街道を行き菅野氏の女が屡3休息し其都度菓子にても
に碇泊し風を見て出帆するなりといふ。余輩は無益に日和を待
たんよりは陸路を行くべしと一決し新銭座を発し其日の午後六
時過ぎに下総行徳に達し船橋に一泊せんとて尚ほ質地を発した
94
さかしだ
預ったれば最早尽きたりとも云へず鼓に於て一策を案じ船橋を
第七十二章 某氏放火の事
過ぎて海岸の道にいでたる頃余は賢立ち菅野氏の夫人に云へり
しゃこ
﹁昨日よりの旅にて御身は兎に角角様はさぞ草臥れたまひしな ○耶壷飾亜の預言書に曰く﹁鵬鵡のおのれの生まざる卵をい
@てこれに聾其式に異る者とならん﹂︵十七。十一︶
だくが如く不義を以て財を得るものあり、其人は命の半に
@ @ @ @ i十五・二十七︶
i#.︶
不義を為して﹁財を得る者の其終局の不幸なるは人よく知る所な
れども血気少壮の盗癖3此大真理を忘れて遂に自己を不幸に陥
らして終るは憐むべきなり愚なることなり。余が藩に○○○○
り血のいでたるものさへありて親切ごかしたる余の意見は恨ま
へて菅野氏の女は貝殻茶碗の片などにて足の裏は疵だらけとな
りしなり。而して彼の室は直に家外に出つるの口なく余が隣室
の室は余の室より二間を隔てて最東にあり、余の室は最西にあ
ども応ぜず、遂に毎日必要なる官物を典物とするに至れり。彼
足らずして商店に負債を出来すに至れり。余輩屡3忠告したれ
で か
官物を質入れし筆耕を為すとて紙筆を借り来りて之を売り尚ほ
るる種となりしそ無情かりける。ああ余の計る所虚偽なり、虚
主文とは読まれぬ、臆!
き。同室の小野氏は余が火を点じたるによりて同じく覚め最早
図目を覚し何時ならんと火蓋を点し時計を旨しに正に四時なり
マ チ
の前にあるものか余が室の前にある台所口を通ずるにあらざれ
田氏に托して送らせ余は小野氏と共に菊皇道に入り互に面見合
うなつ
はせて莞爾と苦笑し言外の衷に点頭きしが菊間に入らんとして、 ば家畜にいつる能はざりしなり。同年四月十五日の午前余は不
うたて
偽如何にして善果を生ずべき。浜野村にて菅野氏母子をば久保
したるが為に労と時とは普通の往来を往くに優りて多く之に加
余は彼と共に東京浜町の藩邸にあり。彼放蕩にして常に貧しく
@ といふ者あり。彼才ありたれども其性善良ならず。明治三年
@ らん見らるる通り浅き露なれば街道を行かんよりは海の中を行
@ @ に曲りて陸地に達して濡を越え又斜に沖に向ひて進み屡ヌ是く
@ きたまはば弓と弦のちがひありて時をも労をも省きたまはん、
@ ○箴言に曰く﹁不義の利をむさぼる者は其家をわづらはす﹂
@ @ 保田の二、氏もかねて余が意を受けて居たれば余の言葉の終らぬ
@ @ 余輩先導すぺければいざ海に入りたまへ﹂といへり。小野、久
@ @ ○又良く﹁悪を追ひもとむる者はおのれの死をまねく﹂
@ @ うちに先導の任にたちたり。勢已に是の如くなれば菅野氏母子
@ @ ぬ。ああ畑水練は実地の役にはたたず、海は浅きに相違なし、
みを
然し少しく人家のある所に至れば船を通ぜんが為に濡と称して
た け
深く掘りたる所あり裸体にてもあらんには身長のたたぬ程にも
ママ あらねで衣服あれば越すこともならず、濡堀に突当れば金の手
不承知なりとて.不承知の云はるべき同意して余輩の後に従ひ
@ @ 去るにてもいくら銭を余したりやと二人の懐中をさぐれば六十
恥か記 第四巻
95
房司を覚してもよき頃に近しなど語りて未だ呼覚すに至らず。
余輩は皆○○○○氏の所為なることを疑はず。彼の人は自ら小
にて調べられしが証拠とすべぎものを得ずして終りたり。然し
恥か記﹂第四巻
其時誰か室外を過ぎて台所の口より落果に出つる気色あり、然
居たれば或る人が其室にいたりし翠煙の満ちたるを見、尚ほ○
○○○氏が目覚めて居りながら火の消ゆる頃に漸くいで来りた
便をせんために出でたりといひ又其室は炭俵のありし所に接し
るなど証拠は無きにもせよ決して其疑惑を免るることは能はざ
し極めて徐かなりき。久しからずして犬の吼ゆるをききしが忽
ゆなど噂し居りしに又徐に前を過ぎて室に帰るものあるが如
りしなり。其後彼は自ら辞して去りしが後に法律に罪を得て懲
ちキャンZ\の声をきき小野氏と共に誰か石を打当てたりと見
し。余は房司の覚めて用便を為したるならんと思ひしが其時紙
と聞く。ああ不義を為して悔いざる者は己が一身を苦しめざる
役となり満期放免の後天主教の伝道者となり真実に働ぎ居れり
子をかつぎて臥したる房司が口の音ムニやぐ、紙子の音ガサ
るガサ︿を聞くべき筈なり。誰ならん一∼にて四、五分を過
ぐを聞きたれば否房司にはあらじ彼ならんには其出入に大な
の特寵を受くるにあらざれば彼は必ず自己の不義のために其身
を得ず。今や臨幸にして天父に救はれたり。若し彼にして天徳
あかる
ぎたりと思はるる頃家書の俄然明くなりしを見たり。入口の
を失ひしなり。
り。其時○○○○氏を除くの外は導管来り共に炭俵を引出だし
入口に近き雪隠の手洗鉢をとりて奔付けざま一杯をなげかけた
面火となり居るを見たり、余は﹁火事だアーi﹂の叫喚と共に
量感疲労失望の四敵に襲はれ頗る蒸しみ今数時間中に救助あら
没して乗組の三五人一の岩礁に游着きたり。岩礁にある時空腹
快楽を得べく又生命をさへ遊べぎなり。嘗て聞く一船洋中に沈
因にして金銀は結果たるなり。知識あらば金銀を喜べく精神の
人屡3金銀を以て知識に優りて貴しと為す。然れども知識は原
96
障子も余が室の障子も穴だらけなれば少し首をあぐれば二重の
穴を通して表の方を見るなり。小野氏は余に対して臥したれば
第七十三章 英語をつかひて帽子を買ひたる事
余の見得る方は氏に反対して見るべからず。余は小野氏に﹁明
くなった﹂と云ひつつ床より出でて入口に至れば其障子は火の
○箴言に曰く﹁汝等銀をうくるよりは我教をうけよ、精管よ
水を注ぎ屋根に上り二、三十人集来りて容易く揉消し幸に大事
ざれば生命危しとまでに見えたり。否敵は蕾に四個のみにあら
@りもむしろ知識蕎よ﹂︵八。十︶
ペラぐ・と量るを写し居たり,余は障子をいでて右の方を見れ
に至らずして終りしが終らざるは其原因なり。余と小野氏とは
ず尚ほ一個の聖賢あり、何ぞや、潮水次第に増来り久しからず
ば最東の方にある平生用ゐぬ雪隠の前に積みたる炭俵の小口一
初より覚居たりといへるを以て証人の第一として取締黒沢氏に
はせつ
其窯業を語りたり。夫より遂に○○○○氏の挙動思しとのこと
精査して潮に没する岩には決して生ぜさる草あるを見て其岩礁
ひ、気の弱きははや失神せんとす。其時一人あり仔細に岩礁を
はれたるなり。彼等は潮水の満来るがために死期の近くを思
して彼等が唯一の依頼物たる岩礁は遂に海水の下に没せんと思
ー、マキノンの二氏と共に発せんとせしが二氏は農馬を傭ひ携
許され其夜を明かし翌十五日広沢氏は先に行きて居らず、ルシ
さへなさぬなり、東屋といへるを叩き数回問答の末漸く止宿を
着せり。はや夜の十一時頃にして宿は皆眠り何程叩きても返事
宿もあらざれば十四日の月をたよりに一里ばかり来りて金沢に
止を得ず深浦といふ所に着ぎたり。臨地は漁村なるが上に旅人
へたる馬具をおきて横浜に行かんとのことなり。余は独り膝栗
の水に没せざるを知り之を告知せり。蝕に起て皆気力を回復し
らざりしならば彼等は失望の為に死したるなり、知識は.精金よ
遂に船の近くにあび救はれたりといふ。ああ若し此人の知識あ
はずしては困難なりと金は持合はせざりしがルシー氏より借り
毛にて走らんも馬鹿々々しく又横浜より東京への馬車に問に合
シー氏の来るを待ちしに其間マキノン氏は一、二回見えたれど
ふに日本人は知らずといひ外人は取合はず駕籠屋を待たせてル
〇七番の馬車屋とききたれば其所に至りルシi氏は居るかと問
て払はんと倦南村にて駕籠を傭ひて乗りたり。かねて横浜の百
りも貴し。
る。翌十三日本町通五十三番商店に至り当時流行のビスマーク
明治四年十月十二日水野公に従ひ汽船に乗り東京より横浜に至
帽を買へり。余外人に接して会話を学ぶこと二月半、実地に英
も彼は毫も和語を解せず余は単語の二、三十、天気のよしあし
語を用るたく思ひたれば好き機会なりと腹中何ケ度となく繰返
して漸く其価を問ひダラ相場を問ひ一個を購求し得たり。ああ
ママ 却す金は駕籠屋に払はんためなどのことは固よりいふべから
ぐらゐは英語にて発言するを得べきも金を借りたし東京にて返
余はニケ月半の英学実際に用を為したりと思ひて其喜びいふべ
からず。今より思へば馬鹿々々しきことなりしが其時は魔法を
つかひ得たるが如く思へり。然し笑ふべき程なりしとはいへ知
人に和語と手真似とを以て駕籠人足に払ふべき金を貸呉よと乞
の毒なり、余は決心して其頃に入りたり。事務をとりたる一外
ひたり。然し彼は目のみパチくして何も答へず、金も出ださ
ず、いと困却したり。去りとて徒に駕籠の人足を待たするも気
り。同年十二月中夜が英語の師としたるルシ二号は斗南の人広
識の用をなすものなるは知るべきなり。
沢斑晶氏と共に房州峯岡の牧場を見物せんとのことにて逆又同
いでたれど一言の応答を聞かず。余は失望と恥辱とに囲まれて
ず、余の手持無沙汰思ふべし、困苦を忍び恥を忍び漸くにいひ
之に反して余が知識なきの故を以て非常に困難したる一例あ
行を乞ひ鹿野山を経て峯岡に至り去って天神山にいで十四日の
店をいで駕籠人足にいふべき言葉もなければ彼等を避けて家の
午後四時漁船に乗りて同地を発す。富津の鼻を三つるや東北風
頗る強く神奈川に行かんとの船なりしが船子さへ酔ふ程なれば
恥か記 第四巻
97
恥 か 記 第四三
マキノン両氏と共に武州金沢の東屋にいたりて止宿を乞ひた
明治四年の十二月十四日の夜十一時過ぎたる頃余は英人ルシー、
り。一婦人戸を開ぎて余輩を見しが其風体の悪ぎに恐れしか
キヨロくしながら一外人余の方に来るあり見れば余が事情を
訴へたる人なるが今は用もなければ迎へもせずに居たり、彼は
外にありて又止宿を乞ふ旨を述べたり。婦人旧暦を開けて﹁御
﹁御断りまうします﹂の一言を以て戸を閉ぢて応ぜず、余は門
六に入り時々と門の方を窺ひてルシ二品の来るを待ちぬ。其時
余に近きたり。何も云はねど手に若干の金を握り言葉はなくて
開かれたり、許さるるかと思へば﹁風呂も既にあけたり、魚も
らん﹂と。鼓に於て応答はなく暫く相談の様子なりしが.又戸は
ならば当村の名主に案内を乞ひ名主の指宿にて又乞ふこともあ
浜には帰る能はず、止を得ず止宿を乞ふなり、若し座敷なしと
びて房州に行ぎたる英人なり、風の為に深津に着して今より横
通りの談判にては許さじと思ひたれば﹁是は民部省の御用を帯
客様が多くて御座敷がございません﹂と又戸を閉づ。余は一と
余に附したり。見れば其高は人足に払はんとする高にして余が
先に借らんと請ひたるものなり。ああ余は﹁地獄で仏﹂ただ礼
たりき。ああ帽子を買ふだけの英語はまだ何の用をも為さざり
を述べて之を受け人足に払い暗夜より俄に白昼に入りし心地し
しなり、世に知識なき程苦しきことはあらざるなり。
はかりごと
○詩に曰く﹁悪しきものの謀略にあゆまず罪人の途にたた
人の売りて得るの利益よりも多きことありき。彼の商人は是を
取証の高を多く書かせ、時としては彼の上前として得る所は商
せり。彼は買物を為す毎に上前をとらんが為に晶質に命じて受
る神田辺の一商店へ駿河台に住へる某伯爵の僕来りて買物を為
て不可なしといへども往々上前といふを取るものあり。余が知
為すと同じ。彼の商人等が公然口銭と称するものを収むるは敢
聴かず﹁余が家は言入宿にあらず料理店なり故に料理代のみを
は半夜の座敷料二両は高し一両にて可ならんと云ひしに主人は
ス﹂とは何ぞやと問ひぬ。主人は御座敷料なりと答ふ。ルシー氏
偽は皆あらはれたり。翌朝出立の時勘定書をとれば漁法に﹁ハ
.ウス話語﹂の一条あり、ルシi氏は片仮名を読み得れば﹁ハウ
を与へられ焚たての飯に鱗の煮付け鶏卵焼などありて東屋の虚
となれり。入りて見れば止宿したる客もなく余輩は三個の座敷
と問ひ、ありとの答をきき夫にて足れりとて遂に止宿すること
尽きたり﹂と。余輩もいひがかりとなりたれば﹁米はあるや﹂
以て大なる不義とは為さざるが如きなりしが薫れ悪しき者の謀
98
第七十四章 通弁と思はれたる事
@ず嘲るものの座 に す わ ら ぬ も の は 禦 り ﹂ ︵ 一 . ︶
略にあゆむものなり。我国の俗此事頗る多し深く謹むべきこと
澗答しても議論は終らず。噛舷に於て余も言葉を添え一両にて可
得ては引合はず二両のハウス決して高からざるなり﹂と。何程
うはまへ
なり。
自ら悪事の主謀者とならざるも其悪者に同意したらんには悪を
さざりしか、夫なら一両にてよし﹂と。遂に一円にてハウス代
と。余は初意意を解せざりしが後に所謂上前なることを知り、余
おは
は一銭をも要せずといひしに主人は驚き﹁貴君は通弁にては在
きぬ。何事よと行きて聞けば﹁貴君には何程差上げてよきや﹂
ならん二両は高しといひしに主人は余に一寸といひて別席に招
りしが当時大阪辺への往復は極めて速きも三十日以上を要した
認め藩庁の書中に同封せり。其後久しく松崎氏より音信あらざ
厭はずとのことなりしを以て余が父は松崎氏に宛てたる一通を
寮にありたるを以て之を通知せんとせしに幸ひ藩庁より大阪に
賜治三年の末松崎氏の長男資死したり.当時松崎氏は大阪兵学
ずといへども多くは自ら招くものなり。若し人畜らずして勤勉
人生の不幸患難は自然にいでて実に止を得ざるものなきにあら
の往復三十六時間なるべし。当時の郵便はまだ整頓せざるもの
書状其行衛を失ひても求むるに所なく今は二銭の郵書大阪まで
知りたりとあらんとは。視よ当時の不便なりしことを。三両の
資死去報知の状は同氏に達せず余が出だしたる郵書にて始めて
して松崎氏より来信あり之を見れば何ぞ思はん昨年出だしたる
しかば東京より大阪まで二十六銭の税なりしなり。久しからず
時は里程によりて賃銭を定めたること今の小包郵便の如くなり
考へいだし其中に資の死したることなども亦繰返したりき。当
いだしたり。然し、別段に用向ありしにもあらざればようやく
郵便法設けられ余も実地に試みたく思ひ松崎氏に一書を認めて
れば音信なしとて怪みもせず其儘過ぎたり。翌四年五月初めて
通信すべきことあり、一封の状三両に価したりしが其大なるを
は談判行届きたり。余は鼓に初めて通弁人の悪弊を知りぬ。此
偽通事悪人の繭に座する悪人たるなり。
第七十五章 通信不便の事
○箴言に曰く﹁惰る者はこころに慕へども得ることなし、勤
@めはたらく者の心は羅なり﹂︵十三・四︶ゆたか
○又曰く﹁勤め働く者の図る所は遂に其身を豊希ならしむ﹂
なる生活を為したらんには不幸患難の大半を駆逐し得べし。勤
ありしと見え両国の郵便箱に五月二十四日附を以て去十八日神
@ − ︵二十一・五︶
勉なる人は富み勤勉なる国民は栄ゆべし。而して此勤勉と瀬野
戸港に大風雨ありと掲示したるを見たり。掲示する者は郵便の
らんには勤勉の利一目して明なるべ七。
を添ふべきなり。若し我国維新以前の状態と今日とを比較した
なるかな。
すれば六十時間︵二日半︶の遅速なるなり、ああ勤勉飽々勤勉
ママ とは其貧富に直接の関係あるのみならず国の文野に単なる関係
@ を及ぼすべきなり。欧州の文明の如き偶然の結果にあらず、勤
@ 四日を要したるものなりしならん。是を汽車開通後の今日に比
@ 速きを知らしめんが為なりしならんが夫さへ七日目にして正味
@ 勉忍耐等の諸学集りて遂に此果を生じたるものなり。我国民の
@ 如きも大に数に見る所ありて勤勉の俗を成し弥3我文明に光輝
@ 恥か記 第四巻
99
恥 か 記 第四巻
第七十六章 始めて人力車に乗りたる事
・パウ昌く﹁謁の諜は畿をみ集れしむ﹂︵拉五・九︶
Eヤコブ曰く﹁視よ微難いかに委る林を燃すを﹂︵雅三。五︶
りて見んかと思へり。三年七月二十三日神田に所用あり筋違御
門を入りて大通に曲らんとせる時車夫は乗車を乞へり。余が好
然れども余は自己の主義に反するが為に余が良心は余を責めて
奇心は主義に勝てり余は長谷川町まで五百文の約にて乗りたり。
に見られまじと思ひたりき。然れども人力車の重宝なるは余が
罷まず、余は長谷川町に至るまで大半は面を蔽ひて成るたけ人
主義を決行せしめず余も遂に人力車乗と云はるるまでになりた
点れ罪悪は鰐卵の如し。其未だ全く形造らざる時に撲滅せしめ
を除去せんこと容易の業にあらず、一点の火は之を消滅ぜしむ
からずといへども遂に性となりては蕾に之を責めざるのみなら
り、罪を犯すもの是と異ならず其初発に於ては其苦実にいふべ
んとなれば大なる力を要せずといへども已に成長したる後は之
ること一指頭の労を要ぜざるべしといへども其林を焼くに至り
れども﹁我正しく見たり﹂といふものは余論だ一回も面会した
まさ
怪物談はよく吾人の耳に聞く所又多くの人の信ずる所なり。然
@蓮華於ては塗の神すな童歌あるのみ﹂︵前嵜八・五、六︶
在り或は地にありて多くの神多くの主あるが如しといへど
○パウロコリント人に教へて曰く﹁神と称するもの或は天に
第七十七章 伝法院に怪物を見んとした事
ず罪に誇るに至る。其初発を誤まざるべからず。
ては其勢猛烈にして手の着くべきなきが如く未だ罪悪の習慣の
初発に於ては消滅せしむること容易なるべし。然れども既に習、
性となるに至りては天然の性質を改造すると其労を同じくすべ
し﹁二葉にして摘まざれば斧を用みるに至る﹂とは蓋し此謂なり。
明治四年中英人ゴブル氏人力車を発明し忽ち東京に伝はり市
中﹁お安く御供﹂の声を聞くに至れり。当時の製は今と全く異
り細形は椅子の足を取りたるが如く其a蔽は満幅傘の雪ぎあり
或は四本柱にして珍く蔽を為したるあり、客の乗りたる様は手
遊物の天神様の如く体裁何となく可笑しかりき。余は頗る人力
しといへども人を役して車を曳かしむるは外国に対して国辱な
実なりしならば説明し得ざるもの一も無ぎに至らん、若し人怪
説明し得ぺければなり。若し彼のメスメリズムと称するもの真
ることなし。蓋し怪談なる者は皆神経の一種の作用にして悉く
余は正当の意見を有したるなり。余が論じたる所は一時の議論
﹁余は幼より幽霊怪物を信ぜず、蓋し余が読書の結果なりしなり
ものあらん。
り、余は堅く此論を主張して決して人力車には乗らざりしなり。
ども余は人の多く乗ると余の好奇心とに駆られて遂に一回は乗
にあらずして何の時までも真理なりしなり。然れどもああ然れ
物を見たりと聞かば哲学的に之が解釈を試みよ思ひ半に過ぐる
車に反対せり。人力車は人を以て馬に代用するなり、人の価安
100
ざるなり。
ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ
りたり見たり等の過去談のみにしてある見る等の現在談はあら
怪物の所業なりといふもののみを見たり。世の怪物談は多くあ
ヘ へ
︵墓儲窮幾等讃除壌麓掌側℃しY明治五年四
居れりと伝聞す。余当時神田の共立学校にあり同月二十一日教
月浅草伝法院の寺侍某氏の家に狸の怪物いで家人いたく畏縮し
第七十八章 フリーム氏を叱りし事
員深沢氏其他二、三人と弁当を用意しタ刻よりいでて三家に至
る。然れども突然怪物を見たしとも云ひかねて猶予せしが遂に
入りては羅馬人の如くなれ﹂といふものと同一の意義なり。其
諺にいへり﹁郷に入っては郷に従ふ﹂と。興れ西諺に﹁羅馬に
@り遅いがにもして彼有人姦はん為なり﹂︵前葛九・二十二︶
よわぎもの
入りて夫人に面会し﹁怪物の見物を許されたし﹂と討ひしに夫
○パウロ曰く﹁柔弱者には我柔弱者の如くなれり善柔弱者を
さま
得んだめなり、聴すべての人には我その衆の人の状に循へ
に於て其次第を問ふに夫人のいふ所は左の如くなりき。
教ふる所は土地各其土地固有の風俗習慣あり、仮令新に美俗良
の祠を造りてよりは其事止みたり﹂と余輩の失望思ふべし。鼓
人答へて日く﹁五、六日前までは奇怪不思議のことありしが狸
初は何方よりか小石を投じて座敷の障子を破りたるなり、然
ず社会を教化せんとするものの如きは殊に其辺に十分の注意を
れど奇なることには其小石何方より来るや見えず、障子は破
為すべきなり。
りしが骨に打当てたることは一度もなく又障子の中に石は入
中に古草鮭のありしこともあり、殊に其所為に反対する時は
余が神田共立学校にある頃英語の教師にフリームといふ人あり、
於ては其国風に従ふべきなり。捗れ交際上の便利なるのみなら
其荒れかたも甚しと見え或る日一人来りしものあり其様なる
余輩の教場は中央の二階にありて運動場を臨見るべし。一日五、
風ありといへども長く国土の風俗となりしものは一朝にして改 01
むべからず。不義罪悪の如きは論なしといへども其他のことに 1
道理はなしとて主人と議論せしが其間に眼前にありし茶碗な
六の同級者と英語の教授を受くる時教師フリーム氏は何事か独
りても其中に居る人の身体にあたることもなし、痴る朝は飯
ど一時に皆天井に附着し而して落ちたるが為に大半は砕けた
り苦笑し居れり。何事かと窓より見れば前田家の息脩吉君とい
結びたるが脩吉君の側に露鋸し一々首を下げて何事か聞居るも
へる幼年生の運動場にあるあり老若の二婦人例の椎茸髭に髪勧
り、又其日は石も多く来りていと困難したり、狸の所為なら
恥か記 .第四巻
一ケ所もあらざりしが骨は皆無事なりき。余は怪物を見ざりき のの如し。余は教師フリームが必ず彼等の敬礼する風を見て笑
余輩は其障子を見たり。夫人の云へるが如く紙の満足なる所は
り。
んといふ者ありたれば小祠を造りて祭りしに其日より止みた
を焚ける釜の中に砂の入りて居りしことあり又蓋したる鍋の
恥 か 記 第四巻
ふならんと思ひたれば﹁何を笑ふにや﹂と問へり。教師は﹁彼
余が親しく見聞したる変化の例少なからずといへども彦根藩士
はずして新生、再生、新造、更生といふなり。
改めて云へり﹁何故に之を笑ふや余其理由を解せず其首を下げ
北川清左衛門氏の如きは稀なり。氏は井伊家の重職にはあらざ
故に聖書中には其意を明にせんがために銀葉といはず電電とい
て敬礼するを見て笑ふべしと為すか大に不可なり、忘れ邦国各
る如く井伊侯の大老職にある時外国との通商条約を決行せんと
りしが去りとて暑しき士にはあらざりしなり。世人の已に知れ
の風を見よ﹂とて弥ヌ笑へり。余は不平なき能はず。余は容を
々国風あり、特殊の国風あるは独立国の常なり、我国に低頭平
するに際し天下の物議は其最極度に達し遂に桜田の変をさへ惹
身の風あり欧米に握手接吻の風あり、若し貴君欧米人の目に低
きなり、余輩が握手接吻を笑はざるは彼の風俗を知るが故な
頭の礼笑ふべしと云はば余輩日本人の目には握手も頗る笑ふべ
決行するの妨害たるを認め遂に彼を禁鋼に処せり。然れども氏
主に反対し主君を諌むること頗る強硬なり。侯は自己の主義を
礼なりといふべし、況んや敬礼の風なるものは多く古代の風俗
は書志を改めざるのみならず弥3反対の度を高め重爆緯主君に
起すに至れり。是より先、北川氏は強く鎖港の主義をとり其藩
を存するものにして道理を以て批評すべからざるものなるに於
対するの礼を欠くに至り、之に加ふるに侯の怒気甚だしく遂に
102
り、貴君我国にありて我風俗を知り而して尚ほ之を笑ふ頗る無
てをや﹂と、気頗る昂る。フリーム氏痛く驚きたるが如く恥ぢ
死刑の宣告を受け唯白刃の其頭上に臨むを待つのみとなりき。
生の節侯は桜田門外に刺客の手に遮れたれば氏の処刑は行はれ
時に幸といはんか不幸といはんか未だ其処刑の日の来らざる弥
たるが如く黙して何も云はず其儘にして終りき。
○基督ユダヤ人の折戸コデモに教へて曰く﹁人若し新に生れ
第七十九章 北川氏大変化の事
後大に感ずる所ありて小石川に唐物店を開き官女静子を共立学
ずして止めり。ああ時勢は人を化して智者たらしむ。氏は瓦解
明治六年六月二十八日共立学校の教員深沢要橘氏生徒神田信三
校に入れ教師フリーム氏はいたぐ静子を愛し遂に婚儀の約なり
@ずば神の国論ること能はじ﹂︵約三・三︶
夫れ﹁新に生る﹂とは心の変化の大なるを意味するものにして
敗によりて起るにあらず、経験によりて前非を知りたるのみに
ああ極端の擾豪家は変じて極端の欧化家となれり是の如きは変
化といはんよりは寧ろ改造といはんのみ。
郎氏及び余の三人は其証人として其適量に立合たることありき。
るが故のみにあらず悪者全く亡びて善人に改造せらるるなり。
ふなり。然れば悪者の変じて善を行ふに至るは悪の結果を恐る
あらず、聖霊の誘導鉱化によりて天賦の性質まで変化ずるをい
基督教の教理中最も重要なるものなり。其変化たるや一時の失
第八十章 御葬送御先騎の事
@誉を得﹂︵二十九・二十三︶
○箴言に曰く﹁人の傲慢はおのれを卑くし心に謙るものは栄
むなしぎほまれ
@たる心姦て互に人を己に愈れりとぜよ﹂︵腓二・三︶
○パウロ曰く﹁虚 栄を求むる心を懐くべからず各3謙り
人は思ひの外に愚なるものなり。自ら有せざるものを有りと
し、知らざることを知れるが如く而して自ら得ヌたり。何ぞ知
らん其虚栄は全て自己の卑劣なるを吹聴し居るを。
々たりしといへども余が此傲慢は自ら卑くせられたるものに
せのつか
なり。然れども余は何の関係ありて此栄誉の任に当りしや、旧
あらざるを得んや。松崎氏が此任に当りしは其当を得たるもの
の家令たりしを以て公然非難するものはあらざりしなり。ああ、
藩士中には必ずや私に之を議するものありしなり。当時余が父
恥かしき哉余は自己の卑劣を披露して更に知らざりしなり。
第八十一章 鶴及び雁を打ちし事
ただしぎもの
○箴言に曰く﹁義者はその畜の生命をかへりみ、悪者の濟
たりし故を以て其行列に於ては重要の位地を諌むべきなり、余
通院に埋葬せらるるの予定なり。松崎連氏は曽て同君の御近習
り。明治七年一月[空白]日両国矢ノ倉の邸より出棺小石川伝
より銃猟を好み屡ヌ近郊をあさりしが明治五、六年の頃なり
らざるも大に残忍なる念を養成すぺければなり。余は幼少の頃
獣を銃殺するが如きは甚だ不可なり。蓋し銃殺其事は罪悪にあ
の如くなれば固より敢て不可なし。然れども若し遊戯として禽
世に禽獣を銃殺する者あり。若し止を得ざる営業と武術の研究
@糎残忍なり﹂︵什二.︶
幾分か羨しく思ひ又余も行列中に重要の位地を占めたきの野心
き。深沢上橘氏︵神田共立学校の教員︶渡辺寅吉︵蔵前の銃砲
余が一個の書生たりし時旧藩主の祖父温突院殿麗去せられた
掛の者に御行列を賑かならしめんが為に騎馬の士二人を加ふべ
あり、然れど余は同君に公務上の関係なし。載に於て余は行列
取りて追ひ其距離近からざりしが一発せしに左脚を折りたれど
遠く翔りて下る、渡辺又一発す、又獲ず、余は強ひて彼の銃を
り。広き水田中はたして三羽の鶴あり、渡辺一発するに獲ず、
なりと主張せり。掛の人は同意したり。然れども一人の騎士は
も亦獲ず、時己に昏黄なり。止を得ず其日は帰り次の土曜日又
商︶の二氏と金町に銃猟す。蓋し彼地に鶴の群ありと聞きてな
誰を以て充つべきや、彼等は評議の末余を撰定して余に騎士た
二品と約し、六日は唯鶴のみを目的となしたれば亀有まで人力
し其一人は幸い松崎氏を以てすべし、氏は嘗て君側にあ.りたる
るべきやと問へり。余ははや羅生門に着る﹁綱の如く大に喜びて
車にて走り、河を渡りて直に堤防の上を左折し前の広田にい
関係もあり且大阪兵学寮にありて騎兵科を修めたれば最も適任
諾したり。余が策略は当り余と松崎氏とは暑して行列に加はり
ママ 体裁頗る可、論著ら得々たり、余は一時の慾望を遂んが為に得
恥か記 第四巻
103
づ。見れば其中央に一羽の鶴あり、余輩如何でか悦ばざらん。
く思ひしは余輩が食事を終りて暫く談話し居たる時旅亭の主人
の老姫は白紙をもち来り血を乞ひたり。又余輩のいたく可笑し
恥 か 記 第四巻
余は二氏を止めて銃をとり留場を認めて進む。然れども水田中
に屠らんと一決し忽ち首をねぢる、彼苦痛に堪へず煩悶したる
の身体痩せて重量を減ずべしと。余輩は素心の理あるをもて遂
がために美しく画きし襖は血だらけとなれり。余輩はいたく恐
は来りて忠告せり。甲乙にして長く屠りたまはざりしならば彼
ず。止を得ず余は体を屈し時としては水の胸部に触るるを忍び
れたり。讃美しぎ新しぎ襖に血を染めたるは過失なりきと。急
なりしを以て匿場なし。鳥より三、四十間の所に一個の肥桶あ
漸くにして桶に近づく。余は一生懸命なり。桶の,傍に座して発
り、之に身を隠さんとするに桶低く我は高く上半身を蔽ふ能は
す、獲たり。鶴は翼をひろげたたんとして立つ能はず、余は遂
んやとて悦びたらんとは。鼓に於て三人互に面見合はせて胸を
血の染着したるは何よりもめでたし、如何でか詑らるる理あら
んとす、余は竹棒をあげて其頭と背を乱打し其少しく弱りしを
ぎ情を具して主人に詑びたり。何ぞ思はん、此家の老若は鶴の
待ちて頭を掴み其体を抱ぐ。男時深、渡の二黒も近づきて或は
なでたり。若し是くまで貴きものなりしならば娯楽のために之 04
1
を銃殺したるが如き弥ヌ其不可なるを知りぬ。又一話あり。明
ズ
治十五年中余は又銃猟を為したり。其頃千葉の豊田氏は新銃を
に其立たんかを恐れたり。忽ち傍にありし細き竹の二尺余あり
々然、縄を以て之を縛し其疵には紙を貼し銃にくくり、此獲物
しを拾ひ走りで近づく、彼中々に怒り長階をひらきて我を噛ま
あれば他を猟するに及ばずとて新宿に帰り同所の某旅人宿に
んとする際豊田氏より書あり千葉の海浜には雁鴨の類居り其他
欲しとのことにて余周旋して一筆を製せしめ其銃を千葉に送ら
二十一日越前堀より乗船して千葉に行けり。豊田氏に至れば迎
小鳥類もあれば来り駕しては如何と。余は大に悦び其年十二月
ぼロ にひじゆく
余が伎偏を賞讃し或は幸運を祝し或は其体の大なるを評し、得
入る。余輩は新しぎ一室に入り傍に席をかりて敷き鶴の座と称
に他を疑して自己を高くし若し隣室に客ありて傍聴したりしな
でて寒川より乗船していでたり。差し余が携へたりし大砲と称
さんかは
りし所なり、舟も己に用意して待てり、いざ行かんとて其儘い
へんとていでたれども船着せざるが如くなりしを以て今家に入.
して之に伏さしめ、彼一顧我一瞥或は水田歩行の苦を喋々し互
らば、何程可笑しかりしか今にして之を思ふも尚ほ冷汗の背を
濡ほすを知れり。余輩は鶴を打ちしを嬉しく思へり。然れども
さんがは ぎみつか
する銃もて大物を打たんとてなり。いでて寒川沖を過ぎ君塚の
其貴きをば知らざりき。余輩が銃を持て荷ひゆきたる時一の農
家より女房走りいでたり。彼は殼勤に挨拶して罵るく余輩に
て浮び其長きこと一里にも越えんと見えたり。余響丁子に命じ
沖に近づきしに月数何千なるを知らず雁の群、鴨の群帯を為し
マ マ
を少しく白紙に濡らせしめよと余輩が宿に入りたる時にも此宿
乞へり、鶴の血は金創に大功あり。願はくは長足よりいつる血
したればなり。距離大約五、六十間となれり、鳥は一時に皆立
田氏は余が後にあり、余が後部に倒るる時余を抱かんとの用意
て鳥にむかはず帆をあげて斜に走らせ、舟中には蒲団を敷き豊
明治六、七年頃頃なり。余は銃巌を好めるが故に屡3東京の近
時は決して蔽ふこと能はざるなり。
然らざるはあらざるなり。人是を知るが故に自ら悪ありと思ふ
不義に不義の報あり、悪に悪の報あるは人の善く知る貸室実際
地に行かんとす。余が母も同伴せんとの事に余は才領をかねて
郊を猛せり。其頃余が妹は霊鳥松崎氏が千葉にありしを以て同
なり。蓋し余は此大砲を発射する時は必ず後部に倒るるを常と
三尺上りし群中より雁五羽は落ちたり。舟中の混雑騒動云はん
り。母は暫く千葉に残り余は独り先に帰らんとていで其日の薄
行きたり。幸ひ銃搬の免許を得居たれば余は銃を携へたりしな
たんとして翼を伸したり。余は其中心をめがけて一発す。二、
かたなく、ソラ、アッチ、ソレ、コッチ舟子はまごつき、帆を
暮奥戸村に来れり。何故にや此日は獲物多からず奥戸まで帰来
下さずして逆に捧さす笑ふもあり怒るもあり、近づきて見れば
三羽は己に波上にありて二羽は零れんとして屡3水中に入れ
に近く余は幾分か気をいらち、何か獲物あらんと求めたりしが
る間に珠数かけ鳩と称する鳩五、六羽を得たるのみ。最早薄暮
じゅず
り。小銃をとりて三、四発して漸く一羽を得、更に他の一羽を
不図ある農家の裏にある往来に鳩の五、六羽居るを見たり。当
からずとの明文あり。余よく之を知るが故に其五、六羽を見た
105
獲んとせしに何方に行きたりゃ見えず、徒に一羽のために時を
る時、家よりの距離を考へ三十間に足らざるを知りたれば一時
費さんよりは他を書せんには如かずと。他にむかはんとせしに
り剰へ豊田氏は舟に酔ひたりといへば其儘に舟を戻して寒川に
時の三盛規則によれば人家を写ること五十間以内にて発砲すべ
至りしに豊田氏はいたく悦び此大獲物を携へて人少き所を通過
は宝の山に入りて手を空くして去るが如し、よく行かば二、三
は止めんかと思へり。然し幸に見る人もなし影写に見過ぐさん
此時俄に風起りて海面忽ち白く鳥さへに遠くにも見えざるに至
するはをしきものなり、よろしく迂をとりて市中をかつぎては
羽を同時に獲べしと。人家を後にして一発せり。予想にたかは
如何と大に笑ひて氏の家に入りしが近辺の評判俄に騒々敷く見
物人の山を為したりき。ああ、他を殺して自己の栄誉を得んと
で運よくも二羽を獲たり。不猿の日今にして二羽を得たるは思
彼は手帳をいだして姓名番号を記し、云ふて曰く﹁貴君は今方
思はざりしが彼余に近づき鑑札を見せよといふ、余計を示す。
らんと思へる頃後に靴音聞えて一人の巡査来れり。余は何とも
はざるの幸福なり。いざ、今日は是にて帰らんと四、五丁も来
す。残忍も亦甚しといふべし。
@ものは其穫る所も亦是の如し﹂︵四。八︶
第八十二章 良心には勝得ざる事
○約百の記に曰く﹁我の観る所によれば不義を耕し悪を播く
恥か記 第四巻
ればはや四方既に暗く発砲し得ざるの時となりき。人は其蒔く
の頭の上にて阿放阿房と鳴くスゴく西をむかひていでんとす
恥か記 第四巻
発砲したりや﹂﹁然り一発せり﹂﹁鳥をとりしや﹂﹁当り二羽を
第八十三章 罪あれば安心なき事
所を獲るなり。
獲たり﹂ ﹁家より五十間以外なりしか﹂と。余は此問に対して
﹁以外﹂と答へたり。彼曰く﹁余の見る所にては五十間以内な
よりて知るを得たり﹂と。余は尚ほ﹁以外﹂を主張したり。巡
り、余親しく目撃したるにあらざれども、三家の老姪の証言に
○箴言に曰く﹁義者の望は喜悦にいたり、悪者の望は絶ゆべ
人若し心中疾しき所あれば真に心を安んずること能はず、真の
@錘は苦を有てり﹂︵一約四・十八︶
○寺池曰く﹁愛の中に櫻あることなし全き愛は隈を除く、そ
@しむ﹂︵だ+九.︶
○同に曰く﹁悪き人の罪の中には苦あり然れど義者は歓び楽
@し﹂︵君八︶
査は余に屯所まで来れといふ。余は屯所とききて驚きしが奥戸
村の派出所なりとききたれば彼と共に行きたり。又問ふ﹁五十
間以内ならん﹂と。然し余は飽くまでも以外と主張するを得ず、
内に回しき所あるが為に強く主張する能はざりしなり。巡査は
固より見て居たるにあらず、農家の老鐙とても亦巡り。余が発
安心は無罪より生ずるものなり。基督が罹る人の病を癒されん
砲の音をききて出で来りたるものなれば発砲する所を見たるに
もあらず。若し強く主張したらんには水掛論となるべきなれど
ずや、其職にありながら内外を明知し得ざるは不都合なり、ど
は曰く﹁思へりとは不都合なり、其方の鑑札を見れば職籔なら
強大なるものにして死すると信じて実際に死したるの例乏しか
健全を得ざるが故なり。心理的作用の肉身に及ぼす影響は頗る
あり。贈れ罪あれば心に平和なく平和あらざれば尚ほ其肉身の
﹁以外と思へり﹂と添加するに至りたりりたり。鼓に嘗て巡査 ことを乞はれたるとき﹁爾の罪赦さる﹂と宣告したまひしこと
も余は強く云ふ能はず初は﹁五十開以外﹂といひたれども今は
ん﹂と。余ははや草臥れたり。此辺にて車に乗りだし、小梅ま
うしても以外といふならば致しかたなし向島の屯所まで同伴せ
余が父の金を盗みたる某氏捕へられたり。警察署は余を召喚し
て其心を安んずること能はざるなり。
らざるなり。ことに罪に必ず報あるべきを信じたらんには決し
て其事情を問はんとせり。余が同署に至りしは某氏の捕へられ
であるかせられては大変なりと思へり。余は鼓に於て﹁若し五
巡査は初より是く云はしめんとしたるなり。余の此言に応じて
十間以内なりしならば余が過失なり、其過失を許したまへ﹂と、
某氏捕へられたれども彼白状せず﹁三浦氏には預ケ金こそあれ
﹁今日は其儘に為しおかんに弥ヌ十分に注意して規則に触れざ たる日の点燈時なり。余は署の楼上にありて警部某と語る。蓋し
るやうにせよ﹂と。余は唯々として出つれば鴉は巣を求めて余
106
に対して彼の所為に相違なき事情を陳述し、今終らんとせる頃
氏の金を盗みたる露なししと主張せるによりてなり。余は警部
所為たること発覚したれども其居所明ならず某氏の母は自首せ
明治七年の丘上藩士色砂が父の金二百余波を盗む。遂に某氏の
しく﹃○○君、君は余程空腹の様なれど咽喉を通らざるは君の
しに箸をとりて口に入れしが咽喉に下らざるを見たり。余は親
ること明なれば唯今弁当一本を与へ食事時なれば食へ﹂と云ひ
玉は余を見て﹁休みたまへ﹂といふ。余固より云はしめんと思
が某氏の挙動を探知せんが為に故に心血の前を通過したり。於
知れり。余は五、六年間揚弓店に行きたることなどあらざりし
於玉といへる婦人あり彼が明治三年の頃両国に居りたるは余も
彼が郡代の揚弓店藤橋といふに屡ヌ行きたる由をきき其々には
ぐんだい
しめんと其居所を踪遇し苦心大方ならざりしが明ならず。余は
ママ やった事を白状して居らんではないか﹄と云ひしに彼は力なげ
ことに及ばし﹁彼が近頃の動静如何﹂と問ふ。於夏島へていふ
ひ居たれば其店に入り腰かけ四方八方の雑談の末話頭を某氏の
刑事巡査来り﹁○○は白状せり、彼の挙動によりて彼の所為た
に問ふべぎことも無しとて余は去れり。○○両氏を為したり、
に﹁三年も肩を痛くしたら済みませうか﹂といへり。 ﹁既に其
よし
言によりて其犯罪は明なり﹂と警部は之を聞きて﹁善﹂最早余
﹁○○さんは近頃某店に行きて妾が店には来りたまはず一昨日
の午後なりき、不図妾が店に入り来られしが道面様子の変りし
こと驚かるるばかりなり、思ふに米相場でもして一時に利を獲
られたるものか、いつもとちがひ俄に立派になりたまひき、然
し店の中には入りたまはず店先に立ちて腰の煙草入をとり一、
ニ三三ひながら﹁明日芝居見物に連れて行かん﹂といひたまひ
ママ
たれば妾は喜びて奥に入り母に相談せしに母は云へり﹁俄に立
派になりたまひたるは最と危し、体よく謝絶せよ﹂と妾も尤な
﹁残念ながら御断りまうさん﹂といひしに﹁然ればとて其身立
りと思ひたれば母に問ひしに三、四日は外出すなとのことなり
﹁帽子より下駄まで皆いつもと異り一帽子は茶色の山高、羽
去られたりき﹂と。余は其衣服などを閥ひしに於玉は答へたり
ママ 織は何、衣服、帯、地衿、金時計、煙草入皆新ならぬは無く唯
107
心中一の恐濯あり、其心の作用は氏の肉身の食慾を圧倒し去れ
り。ああ罪ある間は濯あるなり、灌あれば安心はあらざるなり。
第八十四章 揚弓場の婦人の燗眼
あるじ
○基督日く﹁その主人の来らん時かくの如く勤むるを見らる
@る僕は禦り﹂︵馬二十四。四十六︶
蹴か記 第四巻
り。人其職分に忠なる時は必ず利達を得べきなり。
るのみならず自ら忠義にして余輩のために好模範を示したまへ
其第一に基督を挙げんとす。彼は職分に忠義なるべぎを教へた
自己の職分に忠義なる者の例を挙げよと乞はれたらんには余輩
@留めよ﹂︵二十七・二十三︶
○箴言に曰く﹁汝の羊の情況をよく知り、なんちの群に心を
ありさま
恥か記 第四巻
煙管のみは前よりもちたまひし赤銅に銀の象眼あるものなり﹂
る由聞きぬ、唯小林と変名し居らるる故に○○氏と問ふては知
にのみ止まらず﹁歯を以て歯を償ひ目を以て目を償ふ﹂の俗を
は他の道念をも支配したるものあるべぎも其念は独り君父の仇
たり。独り君父のために復讐の念あるは秩序なき社会にありて
の仇には倶に天を戴かず朋友の仇には郷党を同うせず﹂と教へ
ら消滅するに至るべし。然れども断腸古の道徳の大家は﹁君父
れざるべし﹂と答へたり。余は要領を得たるにあらねど幾分か
と。余は其居所を問ひしに﹁何方か知らねど何某方には来らる
明になりたれば辞して去りぬ。其二日後に某氏は捕へられ其日
し偽に対しては偽り其極遂に救ふべからざるに至らん。ああ基
督の先見卓識二千年の前号に復讐の不可なるを教へたり。彼が
為して暴行に対するに暴行を以てし暴言に対するに暴言を以て
赫々の名声を以て道徳界に雄飛する故なきにあらざるなり。
警察署にて本人の所持品数点を余に預けられしが余は之を見る
に似たりき。ああ彼が其職分に抜目なき畑眼ただ驚歎の外な
まで詩書のいふ所と毫も異る所なく其煙管は彼が旧物にて女持
余が藩の医師駒留随斉氏の第二子良蔵氏は幼より人に語りて日
@ @ @ @ @むなり﹂︵羅十二。二十︶
若し人生より復讐の念を去りたらんには社会の困難の大半は自
i都
ふことあるも通例の知り人といふまでの交際なりぎ。一日水野
氏が幼時よりの言に不平ありたれば氏と親からず水野家にて逢
して同じことを何ケ度も繰返し、人を択まず相手として罵り遂
家の矢ノ倉の邸に会したる時習は痛く酔ひたる上酔狂人の癖と
には﹁是の如き会合には取るも快からず﹂と放言せり。汽缶を
108
に当りていたく驚きたり。其帽子より衣服其他の所持品に至る
し。其相対する間僅に二、三分時にして一切の所持品を悉く知
いへども余は其一粒をも食はず故に恩なきなり﹂と。余幼時よ
く﹁余が父は水野家の粟を食へり固より水野家に負ふ所ありと
り此言を耳にして頗る不平、写るる能はず。氏は長じて仏国に
べき。
れり是れ彼が其職分に忠実ならざるよりは如何で是の如くある
後にきく此のお玉はなかくの女子にて刑事巡査の手先にな
留学し明治六、七年の頃帰朝せしが忽ち警視庁九等出仕を命ぜ
@ 情を厚からしめんとの目的なりき。氏は悪意ある人にはあらず
らる。当時毎月一回水野家に旧藩の有志者相会す。蓋し親睦の
り居り、後には娼妓となりて北郭にありしといふ。
@ 謂﹁きいた風﹂の挙動ありて好まざる人も多かりしなり。余は
@ 換言すれば性質悪しき人にはあらざりしが幾分か生意気にて所
@ よ く なやめ せむる
@ 曹を憎む者を善視し、虐遇迫害ものの為に祈祷せよ﹂
@ 第八十五章 駒留良蔵氏をなぐりし事
あだ
○基督教へて曰く﹁爾曹の敵を愛しみ爾曹を誼ふ者を祝し爾
@ ○保羅主の精神を体して曰く﹁爾の仇若し飢ゑなば之に食は
かく あつぎひ
せもし渇かば之に飲ませよ.法馬此するは熱炭を彼の首に積
に行き﹃連るを快からず﹄と為さば速に去りたまへ、場所も顧
悪めるが上に今や持あっかひて居たる所なれば余が父は氏の傍
是く思ふと共に余は余が非なるを知りたり。其後久しからずし
父の頭を打ちたるも故意にあらで過失なりしと後には思へり。
みず相手を択まずのりさはぐは余輩も居らしむるを好まずしと
て余は基督を信じ馬太の本文も読みで氏に余が非を謝すべしと
せよといへり。然し余は未だ幾分か負け食みありて故に氏に謝
思へり。又奇石教の信徒なる旧士尾崎氏も其事を伝聞して謝罪
ママ いへり。氏は是く聞きて奮然として立上り﹁去らなくてどうする
上の数多の困難を生ずるものなるかな。
思ひて昨非を謝し鼓に調和するを得たり。ああ復讐の念は交際
罪せざりしが谷井之次郎氏の葬礼ありし時余は好き機会なりと
か﹂と旧主公へ対する挨拶さへせず群遊立ちて台所口に至り七
が又再び立戻りて入来らんとす。余が父は﹁去らんとならば去
れ﹂といひつつ氏を押戻さんと為したる無下は左右の手を打振
りながら余が父の頭を打ちたり。余は平生悪く思ひ居たれば氏
第八十六章 古屋を誇りて失意したる事
が余の父を打ちたるを見て余は痛く怒れり、余は怒りしが為に
つづけざま
前後を思ふの暇もなく忽ち氏を捕へて板の間に引倒し、続様
@灘.しむ﹂︵詩百二。十四︶
○詩に日く﹁汝の僕はシオンの石をもよろこび其塵をさへ
○同日く﹁我等はバビロンの河の辺に坐りシオンを思いでて
@涙を流しぬ﹂︵増︷﹂
むすめ
@河流る﹂︵三・四十八︶
○哀歌に曰く﹁わが民の女の滅亡によりてわが眼には涙の
燕雀南枝に巣ひ胡馬北風に断くとは人の其古郷忘じ難きを形容
したるなり。誰か古土の山河を思はざらん、是れ人生に備はり
たる自然の情にして之を愛国心の端緒とは為せる。スリヤのナ
大に怒り﹁ダマスコの河アバナとパルパルはイスラエルのすべ
ーマンがユダヤ国に来りヨルダンの河に其身を洗へと云はれて
ての河水にまさるにあらずや﹂と叫びしその懐郷の念を見るべ
109
に七、八回氏の頭を打ち尚ほ水瓶と下流の間に突落し又四、五
回蹴飛ばしたり。氏は怒れりーー固より怒り居りしなり、氏は
﹁警察に来れ﹂といふ。余如何で辞すべき﹁固より望む所なり﹂
と云ひつつ入口の下駄をはき腰障子を詰開くれば何ぞ思はん巡
査二名角燈を携へ立居らんとは。余は氏其他証拠人二、三人と
共に両国橋畔の警察署に至りたり、警部は三等二人を楼上に招
き其事情を問へり。先駒留氏は其身の職分より始めて弁に任せ
て陳述せしが余は忍びで其終るを待ち氏の誤謬を正して余の知
る所を述べたり。ああ酒を飲まざるの得心時に現はれ警部は余
の言を皆信じて駒留氏の言をば聞くのみなりき。蝕に嘗て警部
は云へり﹁此方はいたく酪柔して居らるる様子なれば少しく醒
めたまふまでおとめまうさん、貴君ははや帰られよ﹂と。余は
夫れ見たことかと目もて知らせて其儘に去れり。余は氏が余の
恥か記 第四巻
恥 か 記 第四巻
きものにあらずや。着古郷を誇るは聞苦しからざるにあらずと
ども見分の憂きがために余は失敗したりしなり。
ママ ママ
第八十七章 塔の沢の氷
いへども大に又愛すべきものあるにあらずや。
余明治八年の夏松崎誠氏尚三曲ハ氏及び余が弟不二尾と共に熱海
○基督曰く﹁無知なる者よ今夜繭が霊魂とらるることあるべ
り、余は序を以て余が古郷なる沼津に至らんとし松、尚二氏に
是れ其計画する事の悪きにあらずして其方法不可なるなり。故
人多く計画す、而して其計画したるが如く成就する者甚少し。
@し﹂︵路十二・二十︶
おろか こよひ たましひ
の温泉に遊びたることあり。初二、三週日入浴すべしとの計画
説く、尚氏は沼津に縁故なく直面は余と同藩なりしが東京に長
ならんか何程成功を望むも皆無益なり。人財貨を蓄ふるはよし、
に成功の有無は方法の良否によりて定むべきなり。其方法不可
なりしが熱海の暑気甚しく遂に函嶺の温泉場に移らんとの議あ
じたれば沼津に対して興 味を有せず。余は所謂古郷前じ難く
失望せり。本町上土町の生なるは日本橋通に優れりと思しな
天下得易からざる所と為し遂に各氏を説得て沼津に至る。余先
の奇、千本浜の大、 鷹山の緑、市民の富余が見分の陳隆なる
にあり。日中炎熱の増来る毎に氷水を呼べども当時氷を売る者
を益せず社会を利せざるなり其方法を撰むは大切なることなり。10
1
余明治八年の八月中松村、尚村二男と共に箱根の温泉場塔の沢
然れども其方法不可なれば仮令一時其目的を達したりとも其身
はんちょうあげつち
り、狩野河の歪なるは隅田河に超えたりと思ひしなり、来りて
あらず。互に其不便に不平を唱へ居りしが一日東京より氷を売
りゃ、狩野河といふは何れなりやとだたみかけて聞はるるには
威張りて曰く、 ﹁東京より此所まで持来るに何程の労と何程を
と余輩は喫驚せり。其不当を詰りて其価を減ぜよと云へば氷屋
ふの暇なくして五斤を買へり。其価を問へば一円二十五銭なり
へども其幅は東京の外濠に劣る。二氏が其誇りし町は何方にあ
余いたく困却せり。余は分疎に究し余が誤想の実を告げ、我入
が為に千本浜には漁搬なしといふ。鮫に於て江の浦戸入道の遠
ずや﹂と、余輩は説破せられたり。﹁時の用には鼻も削ぐ﹂余輩
溶解せしむるかを考へよ一斤二十五銭は尚ほ大に廉なるにあら
天にして炎熱然迄に甚しからず宜しく明日の為に貯蔵すべしと。
は氷を以て必要品と為し遂に之を投じたり。然れども其日は曇
蓋し其価の貴きが為に曇天の日に食ふを勿体なしと思ひてな
征も心に任せず二氏の失望又更に甚太しきものあり、余は不二
の沢に避けたりき。ああ余が愛郷の念故に不可なかりしといへ
尾の疾の少しく快方に至りしを機として際々の体にて函根、塔
より不二尾病に罹りて余は看病せざるを得ず。又暑気の甚しき
え うら
ハママ 道江の浦の秀美、千本浜の網引を以て償はんとせしに着せし頃
る者来れりと云ふ。盲亀の浮木、大旱の雲覧も露ならず其価を問
是を目撃すれば其道幅は東京の横町の如く狩野川の水清しとい
せんぼんはま あしたかやま ママ かぬぎやま かのがは がにふだう
インテレスト
往かんことを欲し富嶽の美、香山の秀、狩野河の清、我入道
凋
り。夫より大なる鉢を借り大鋸屑を多く貰ひ尚ほ鉢を包むにブ
ママ とを翼ひしなり。ああ幸か不幸か其翌日は暑気殊に強く午後に
ランケッ︸を以てし用意周回なり、余輩は暑気の甚しからんこ
至りて来客さへありぎ。好機得易からずとし砂糖を命じコップ
を得んが為に川を越えて北の方山麓に至り新鮮なる水を汲み尚、
を呼び鉢はブランケットに包みし儘縁側に出だされたり。冷水
松二氏はコップを屏列せしめ余は座して徐々に包を開く大鋸屑
を棄て氷塊を出ださんとするに手に触るる者なし。余は驚け
に栂の先ぐらみの一氷塊を認めたるのみ。ああ、失敗せり。水
り、盗まれしかと思へり。よくく大鋸屑を握みて検すれば遂
は徒に汲まれたり砂糖は無益に取寄せられたり、コップは無駄
ハマこ
に盆上に列べられたり、而して一も其要を為すもめはあらず。
余輩が呆然たる間に栂頭大の氷塊一虎の子の如き一氷塊は溶
解して大鋸屑の濡れたるを見しのみ。ああ一円二十五銭を以て
大鋸屑と失望を買ひたるなり、暑気は更に一層酷烈なるが如く
感ぜられたり、蝿の声は一入高くシン︿乎たり。ああ﹁当て
事は向ふより外る﹂其方法−生涯iのよきを得ざれば其到
達する所は必ず失敗のみ。
恥か記 第四巻
111
恥か 記 第五巻
第 五 巻
ば其式はよく整ひたる者なりしならんと思はるるなれども然ら
至 第百十三章
自 第八十八章
第八十八章 見証人溜悶人なりし事
和田虎次郎にして其年の四月十一日に受け一人は越後の人青柳
ず、当時デ氏より洗礼を受けたる者は二人のみ。一はデ氏の僕
よりは小けれども長ちては他の草より大にして︵パレスタ
二十日号洗礼を受けたりといふ。其頃一定の講義所もなく固よ
球平氏︵後に野上球平と称して茨城に代言人たり︶にして八月
とが洗礼を受くることとなりし時デ氏の家の一室を其式場とな
り会堂もなし、否、教会もあらざりしなり。・後に余と松村誠氏
如何なる事物も其創設の時に於ては愚なるものにあらず時を経
たるのみ。デ氏は卓の向にあり余と松村氏とは卓の此方にあり、
あらざれば古き密柑箱をおきて之にシヨンボリと腰かけ膝の上
青柳氏は来会せず唯和田一人半天の前を無理にかきあはせ椅子
す。其室には敷物なく什器なく椅子なく唯一脚の小き卓を置き
も誰か当時に於て今日四億三千万の信徒を得尚ほ其進歩駿々と
所となり此時より十年の後には毎月三十三、四円の負担を為し
て四人のみなりき。ああ此四人は遂に両国教会となり浜町講義
に肱をのせて見証人たりしのみ。温室にありし者は悉皆を算し
余が始めて基督教を聞きたるは明治七年の頃にして之を研究す
らざりしが見証人一人の当時に比すれば感謝すべきなり。ああ
得るに至りしなり。十年の後といへども余輩満足したるにはあ
一粒の芥種是ぐまでに成長したりしなり。
るの機会を得たるは同八年九月一二日の頃なり。爾来デビッド
デ氏の勧誘頗る急激にて余も自ら早しと思ひたれど其年忌月二
ソン氏方に同居したるを以て日夜研究の末忽ち之を信ずる至り
ののみ得べきなり。
しくして遂に大海を為す、始小心大は唯汲々として怠慢なきも
して止る所なきを思ひし者あらんや。岩間をくぐる一細流も久
るに従ひて成長増大するものなり。特に我基督教会の如き早発
@宿るほどの聖なるなり﹂︵馬十三。三十一、三十二︶
イン国の芥種は木となりて重年す︶天空の鳥きたり其枝に
そだ
○基督煮て教会の発達を讐へて曰く﹁天国︵基督教又は基督
記
教会を指す︶芥種の如し人これを取りて畑に播けば万の種
か
十二日を以て洗礼を受けたり。然し単に洗礼を受けたりと云は
112
恥
程は謀主と仰ぎし基督の刑死なり。仮令預言ありたりといへど
地中海は何れの辺にありゃ
三国の都府の名如何
第八十九章 入学試験の事
書を読みで其意を問ひ或は天道湖原を読み余はダビッドソン氏
に入りたりと覚ゆ。其卒業したるは十二年五月三十日なりしが
にして生徒の数は二十人程なり。是を三級に分ち余輩は二年級
ドクトルタムソン、ドクトルインブリ、ドクトルアメルマン等
立ぜられ横浜にありし志願者も来り教員はドクトルフルペッキ、
神学を研究したるなり。翌十年十月八日初めて築地に神学校設
の忠告により耶蘇教略問答のフヰシヤル氏註を翻訳するを以て
ママ ば其後の受業法も日々時を定めて課目を修むるにはあらず、聖
ママ 其他三、四なりき。其他の問題は之によりて推知すべし。然れ
○使徒行違九章六節に曰く﹁彼戦き腰きて日ひけるは主よ我
な
に何を行さしめんとしたまふや主かれに日ひけるは起きて
な
邑に入れ、さらば難行すべきことを示さるべし﹂
如何なる事物も其初期に於ては大ならざるが如く又初期に於て
るや.﹁邑に入れ、さらば爾の為すべきことを示さるべし﹂とあ
は簡約単純なるものなり。パウロが主の召を蒙りて伝道者とな
りしのみ、彼ダマスコに入るや揮らず道を伝へ其職に就くの余
りに簡単なるが為に人々之を信ぜず大に恐れたりき。然れども
りしが如き創業の時に於ては敢て珍しきことはあらざりしなり。
りしなり。彼のアンブロースが未だ洗礼を受けずして監督とな
@ @ @ @ @ @ 縺j
i馬
113
今や伝道者たらんとする者は大学の卒業を要し、教会の推薦を
即ち卒業の言葉にして証書一枚をも附与せられたるにあらず。
卒業式などありしにあらず、 ﹁最早来ずともよからん﹂の一言
是を二十年六月厚生館に於ける卒業式に海軍楽隊の奏楽、文部
要し、七会の試験を要し少くも十数年の歳月を経ざれば召募に
会は規律によりて其秩序を保つ、今日にして然るものは蓋し当
ああ此入学試験にして此卒業式あり、前後の照応に於ては可な
次官、大学教授等の列席せるものなどに比すれば其相違如何、
入る能はず、暗迷簡の相違雲泥も蜜ならざるなり。然れども社
然の理由あるなり。余が重富柳太郎氏と共に伝道者たらんの志
立前にして学ばんとする者は一個人に就きて学びしなり。余輩
ママリ
望ありて之をスコッチ、ミションと謀るや当時まだ神学校の創
又デビッドソン氏に就きて学ばんとす。然れども亦入学試験あ
@ マクラレン氏フヲールス氏ダビッドソン氏の四人とす。而して
り明治九年の夏余輩は其試験を受けたり。試験委員はワデル氏
@ んと思ひ煩ふ勿れ其時言ふべき事は軍曹に賜はるべし﹂
@ 第九十章 千葉県庁に広田某氏と大に議論したる事
わた
○基督使徒等に諭して曰く﹁人畳屋を解さば如何に何を言は
@ ばかりにして地理の部に重る例を挙ぐれば
@ 其試験の問題は今善く記憶せざれども其簡略なりしことは驚く
英国の都府の名如何
恥か記 第五巻
余日く﹁耶蘇教を説きたるなり﹂彼轟く﹁耶蘇教を説くは即ち
恥 か 記 第五巻
説教を為したるなり﹂と。余厳に於て凹まされたるを知りた
﹁耶蘇教を説くから説教なりと云はるるならば説教と認められ
ヘ へ
によれ珍。故に使徒等妹基督より三年間の教育薫陶を受け其得
基督教は天啓の教なり。故に其組織、伝道、維持多くは神の業
り。其儘黙するは大に不体裁なりと思ひたればハ余は云へり
ヘ へ む
たる所を其儘に発露して以て勝利を得たるなり。固より神の人
て不可なし、然れども余が説教を為すは教部省より命ぜられた
を用ゐ尭まふや人を器械と為七たまふにあらず。然れども人は
るにあらず神より命ぜられたるなり、教部省より命ぜられざる
かあらん、教部省より命令あるも県令より命あるも否、皇帝の
なり。
命令あるも神の命を如何にせん﹂と。彼は余の言に道理あるを
信仰の為に大に勇気を得て之が為に人を服せしむることありし
と基督教の珍しきが為に毎日集る者頗る多く、時に三百人を算
めよと命じたまはば即座に止むべし、教部省の命令余に於て何
し得たることあり。忽ち県庁警保課︵?︶より出頭せよとの命あ
に適用すべし余輩に適用すべきものにあらずと知りたり。蓋し
知りたり、教部省の布達は同省より教導職として任ぜらるる者
ものは教部省の命令布達によりて止むべきにあらず、神もし止
り㍉余之に応じて出頭せんとするやダビッドソン氏は曰く﹁如
余明治九年の夏ダビッドソン氏、重富柳太郎氏と共に千葉町に
何に何を言はんと思煩ふ勿れ﹂と。余諾して出づ。警保課の吏
ものなればなり。然れども彼は余と共に閉口するを嫌ひたり。
彼が此布達云々といひしは千葉町の中教院より教唆せられたる
伝道す。同町紅屋といへる家を借り毎日午後説教す。当時外人
広田某傲然余に問ふて日く﹁其方は教部省の布達第二十七号を
し卓を叩き無暗矢鱈に罵りたり。余は彼の怒りしを見て彼我術
彼奮然として怒り面色恰も悪鬼の如く出来得るだけの大声を発;
鼓に於て彼は暴言暴威を以て余を屈服せしめんと為したるにや
知るや﹂余日く﹁知らず﹂彼曰く﹁之を見よ﹂と一葉の書付を
示す、余之を見るに
中に陥りたりと思ひたれば余は言葉を柔げ然れど頗る堅確に十
教 導 職 試 補 以 下 の 者 に し て 公 衆 に 対 し 説 教 不 相 成 候 爵
に於て説教をいたしたる趣なるが此布達面に反するを以て以後
と。余業ふて曰く﹁此布達は何ぞや﹂彼曰く﹁其方は当町紅屋
戴に於て彼は前言を改めたるなり先に﹁説教不相成﹂といひ今
教するは可なりや﹂と。彼羨く﹁其は我知る所にあらず﹂と。
んとならば其事は命に従ふべし、然らば家外i往来に於て説
﹁呑屋に於て説教することは不相成﹂と。余は﹁群言にてなら
分の決心あるを示して前言を繰返したり。飼畜に罵り止みて
すべぎものにあらざるを知りたり。然れども余は何故なりしか
不相成然様心得べし﹂と余は此布達を見て此布達は吾人を支配
其事を云はず﹁余は説教といふべきこ之を為さず、余輩の看板
﹂を見られよ﹃耶蘇教講義﹄と記したり、是れ説教を為さざるの
証なり﹂と。彼曰く﹁其方は黒蓋に於て何を説きたりや﹂と。
114
イ
の知識頗る低度にして一の主意を精細に説く能はず。故に基督
と.蓋し余も亦一回は此迷妄に陥りしなりひ且当時余が基督教
教講義の看板を掲ぐるも其説教を酷に評したらんには神仏教の
ば,知る所にあらず﹂と。余辞して去らんとぜしに彼﹁請書を
誤謬欠点を罵署するものなりしなり。明治九年の夏千葉町の紅
出だせ﹂と。余は酒屋に於て為さずとの旨を認めいだして去る。
あらず何事か彼等の信仰を確実ならしむるの要素あるべきな
の妨害たりといふを以て之を禁ず。余輩は後に猪の鼻の公園に
服さず遂に往来に覧て所謂路傍説教を始めたり。巡査は通行人
だし余輩の説教を禁ぜんとせり。然れども余輩は県庁の命令に
劣にも官権を借りて余輩を圧せんとし教部省の布達を県庁にい
の如しゅ鼓に於てか余輩は旧地の僧侶を怒らせたり。彼等は卑
今や義の真太陽出でたり諸氏よ早く戸を開いて幽光をうけよ等
が﹁世の光﹂と題するものの如き神仏教はランプなり行燈なり
屋に於て日々説教を為したりしが其説く所は前述の類にして余
後に聞く広田氏は豊田氏に就き﹁基督教は中々侮るべきものに
﹁り、余彼等の経典を得たし﹂と云ひたるよしなり。余は後に彼
が漢学者なるよしききたれば彼に漢訳の新約書を送らんとして
一冊を用意しおきたりしが遂に便を得ずして遺憾ながら其の儘
に終りき。
やはらか いぎどほり はげ
第九十一章 千葉の僧侶を激昂せしめたる事
○箴言に日く﹁柔和なる答は憤恨をとどめ、属しき言は怒
しむるは愚なり益なきなり。否、大に害あるなり。人に対して
に怒らしむるは已を得ざるなり。怒らしむべからざる時に怒ら
らすべぎ時あり、怒らしむべからざる時あり、怒らしむべぎ時
可なり怒るべからざる時に怒るは愚なり、不義なり。又人を怒
る一隊あり。誰かと見れば十人の仏僧、二人の神官威儀を正し
たり。余輩が去らんとする時散じ行く聴衆を押分けて現出した
たりといふ。其日の午後五時頃に至り余輩は一旦説教を中止し
然れば招かずして集る者頗る多く公園の茶店は思はざる利を得
余輩が県庁に召喚せられたりとの評判も町内至る所晴々たりき。
を見ざることなき程にて僧侶等の激昂は己に人々の知る所、又
説教す。此日千葉の町内は右を見ても左を見ても一、二の僧侶
言説を為すものの如き大に鼓に鑑みざるべからす。
1i5
@貢す﹂︵一五。一︶
余が千葉町に伝道したるは明治九年の頃なり。然れども当時は
問とならば旅宿に来られよ﹂と。遂に彼等を誘ひて止宿所に帰る。
言葉に角立てて大に質問したしといふ。余は答へて日へり﹁質
神官二人は何故か途中に辞して曰く﹁明日御宿にいつべし﹂と、
余が神仏教の迷妄を悟りて之を排斥せんとするに熱心して彼等
﹁人が従来服し居たる迷妄を覚り極めて之を忌避するの時に
而して去り僧侶十人は衣の袖を列ねて来れり。未だ去らざりし
恥か 記 第五巻
は迷妄を避くるの迷妄あり﹂
の真理をも往々排撃したることあり。ベーコン氏曰く
怒るべき時あり、怒るべからざる時あり、怒るべき時に怒るは
恥か記 第五巻
聴聞人あり又途中より加はりし見物人あり豊丘仏大議論ありと
三、四の大広間は人を以て満ち宿の主人は二階落ちんとて大に
伝聞して来る者あり、余輩が宿に入りて座を占めたる頃には
心痛し階子段の上にありて昇り来る者を制し其混雑大方ならざ
りき。座定りたる時僧侶三会名刺を出だす。之を見るに千葉県
基督教に関係なき質問を為す時余は﹁其事は知らず余の関する
おろか
所にあらず﹂と答へたり。蓋し﹁愚なる者の痴にしたがひて答
ロモンの教ふる所、基督教外のことにて尻尾を捕へられざるが
ふること勿れ、恐くは己も是と同じからん﹂︵箴二十六。四︶とはソ
頃より貴君等が説教を聴くに我阿弥陀如来を指してランプ行燈
部外七人なり。余は彼等に質問の件を問ひしに彼等は蒔く﹁此
といふ。彼此言を聞きて躍起となり又坐す。然れども遂に瑞穂
﹁貴君は言葉算すれば然様ならといふ大に怯なるにあらずや﹂
様なら﹂の言を残して去らんとせり。余は彼を止めんと思ひ
ひたるが故なり。彼等は屡ヌ怒りて瑞穂氏の如き二回まで﹁然
為と公平を失はざらんが為と彼等に其誤謬を自覚せしめんと思
といひ仏菩薩は皆偽のものなりといふ、抑仏菩薩は仏教の本尊
氏と小松氏とは自己の位置を思ひてか八人の生徒を残して去り
曹洞宗中三雲詰権大講義瑞穂俊童、中講義小松慈忍、生徒歌沢
しにして貴君等の耶和華基督に塗るが如く我信徒の信仰皆仏菩薩
に対するものなり、然るに之をランプなり行燈なりといふは我
に我教義を説きしが彼等は余輩の言に証拠なしとて服せず。 1
経の所説なれば真理なり﹂と断定す。彼等曰く﹁貴君は聖経を
蓋し余は彼等に罵言を発せしめんとなしたるなり。余は又﹁聖
たり。鼓に立て議論は変じて談話となりたり。余は極めて温和 16
貴君等が宗教の面目なりといふか﹂と。余は直に弁じて曰く
教を識芳し又我信徒の信仰を妨害する者なり、是の如きも尚ほ
﹁余輩の目より見る時は仏菩薩固より虚偽仮面なり細部の仏菩
を以てすれば聖経も尚ほ反古紙に同じ﹂と。ああ彼等は余が手
信ずるが故に其所説は真理なりといふ、然れども余輩の見る所
中に陥りたり、余は又是く云はしめんと思ひたるなり。戴に於
薩を以て悪神と云ひ仏教の教理の虚偽なるを以て虚偽とするは
識諺の所為にあらず、若し蕊諺の所為なりと認めたまはば公衆
て余は厳然容を改めて曰く﹁貴君等が聖経を以て反古紙に同じ
尚ほ盗人を指して盗人といひ犬を指して犬といふに同じく毫も
に対して諸君を誹蔑し諸君の誉栄を傷けたるものとして余輩を
とするは未だ聖経の何たるを知らざるによれり、イザ今より聖
諸氏の迷妄を説かん﹂と聖書の世界最古の書物にして第十九三
書は天啓の書物にして天下唯一のものなりとの証拠を羅列して
の忠告を要せず﹂と。夫より諸種の質問ありしが要するに彼等
潔人の意表に傑出したる事、基督の教へたる道義は其高潔なる
期の諸学術も矛盾する所あらざる事、聖書所載の教義は極清甚
ふ所を知らず。瑞穂西口を開きて﹁告訴するとせざるとは貴君
は余輩が仏教を署署したりとて其不可なるを餐むるに外なら
告訴せられよ。余輩は其所にありて弁ずべし﹂と。彼等呆然い
ず。余は屈せずに弁じたり。唯彼等が余りに馬鹿這々しくして
﹃
天下無双にして其一をも取るべからず又一をも加ふべからざる
不縁砂胆ど心得開講の節数名の者と共に行いて大に彼等と論
じ閉口縮退せしめ候得共彼等の狡鈍なる又何方に出没致し候
も難斗此後又彼等の開講仕候節は直様出張前回の如く閉口縮
と。而して教部省は之に附賭して曰く
退せしめ候て可然哉云々
ず弥3其頒布の速にして且広き事、聖書は真に悪人を変じて善
事、聖書が最残最酷なる迫害に逢ふて麿に失はれざるのみなら
人となし堕落したる小人を改めて大人たらしむるの実力ある
たるべき事
んがために温和の手段をとりて彼等を訪問いたし前垂は勝手
守り自己の本務を尽くし候得ば可なり、但し其教義を質問せ
く前略︶故に出張閉口縮退せしめ候に不及自ら善く其信徒を
事、聖書の記者は数十人にて数千年に記載したるものなれども
徹頭徹尾一口より出でたるが如く前後よく符合したる事、聖書
せば以上の事を解釈する能はず鼓を以て之を天啓といふ、天啓
と。彼等は何故に此伺書を出だしたりや其深意知るべからず。
記者の奇跡、聖書中の預言の照応等を挙げて﹁天啓にあらずと
て一言の云ふところなし。余は鼓に於て余輩は余輩の信仰に十
なるが故に真理なり﹂と論ずる事大凡二時間に近し。彼等黙し
若し伺書の通り指令を得たらんには官権を後楯として我教を圧
彼等は仏力も頼むに足らざるを悟り自己の力も尚ほ頼むに足ら
せんとせしものか、然れども其義に及ばずと指令せられたり。
ママ 分の根拠ある事を説き聖書を研究せよと諭せり。彼等は始の弓
究を約して去る。時々杜に帰り諸家燈を点ずるの頃なりき。
たり。鼓に於て壇家に説きて基督教を聞かざるべしとの条件の
ざるを知り今は官権さへ彼等の後援とは為らざるの悲運に接し
勢なく唯々諾々唯余輩の命令を待つものの如し。彼等聖書の研
後仏教の機関明教新誌は千葉県耶仏大議論と題して此顯末の通.
も功力なき此防禦線を張りたり。然れども一、二年にしてはや
下に曹洞宗信徒なる表札一枚宛を配布し海囎に対する砂堤より
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
信を記載せしが大半は誤謬にして笑ふべき記事多く一日配達人
て居ります﹂と。以て記事の実を失ひたるを知るべし。
て失敗したるのみならず味方と頼みし明教新誌の如きも彼等に
其札を見る家は殆ど無きに至りて止みぬ。彼等は密に民事に於
日く﹁余り御負けなさりがたが厳しいので社員も妙だとまうし
余輩は其翌日千葉を去らんとしたるを以て昨日来りし神官某氏
屡メ黙して答ふる能はざるにもせよ彼等は瑞穂氏等に対して
の二教問答に見ゆるが如くなるが其問答を見るに三浦三等が
千葉の瑞穂氏等が耶蘇教の伝道師等を論倒したりとの事は彼
対しては反旗を翻したり。彼論じて曰く
を千葉神社に訪ひしが不在にて逢はざりき。
其後瑞穂三等は其熱腸冷却せざりしものと見え教部省に伺署を
出だしぬ其意に日く。
近頃三浦徹なる者英人ダビッドソン又重出口田柳太郎なる者を伴
ひ本県に来りて基督教を伝播し追々帰依の者も有之趣に付き
恥か記 第五巻
11.7
恥 か 記 第五巻
し み
めたるまでにて仏教教義を説きたるにあらず掌れよく其職分
法の堕落したるを知り彼に逢ふをさへ不愉快に感じたりき。其
様の信仰あるものの如くせんとす。余は彼の言によりて弥3仏
も糞も⋮⋮L。・ああ彼禅宗の面目を曝露して我も同じく彼と同
るべ.し、互に論ずる時は功徳を賞讃するものの、ああ、阿弥陀
を尽くしたるものと為すを得んや、其後氏等は其筋に伺書を
来られよ、余が千葉の不品行は此衣服に酒の汚斑あるを以て知
出だし跳付けられ的の指令を受け其事の蕾に藪蛇たりしのみ
後彼如何になりしかを知らず。二十年夏十二月余は東金、九十
其督教の教理を述べて其職分をば尽くしたるなり然れども瑞
ならず官権を借らんとせしが如き我仏教に対して恥づべきの
九里よりの帰途千葉に半日を消したり。其時胤重寺に至り小松
穂民営は閉口せしめたりといふも夫は唯詰問を為して黙せし
写影たりしなり、氏等は此上大に顧る所あらざれば隣を噛む
島精一氏に語って曰く﹁余は千葉にありて三浦の幸さん等が十
唯彼等の怒気を買ひたるの損ありしのみ。若き伝道者は他を排
如く大凡一時間の雑談にて仲直りを為したり。氏は今や隠遁者
を知らざりき。余が当時の短歴史を語りて始めて思いでたるが
氏を訪ふ。氏は十年を経たるがために己に余を忘れて其誰たる
ヒ 人 許
侶 とこ大議論を為るのを聴いたが耶蘇には感服した、年
の
ゆ僧
でだ
頃の僧侶等茄章魚の様に腹を立って掴みかかる程であったが耶
にこく
蘇は少しも立腹するなどの様子もなく始から仕舞まで莞爾して
撃するの愉快なるがために怒らしむべからざる時に怒らするの
と云へり。彼等は重々の失敗たりしなり。後田辺氏の老人は手
の悔あらん云々
居た﹂と語りたるよし。以て其時の一斑を推知すべし。
ならんや。
愚を為せり、余も一回は此愚に陥りしなり。三顧念ぜずして可
ああ、千葉県の一議韓国の益ありしや、我に難なく彼に益なく
@ @ @ @ @)
一身の運命を定むるのみならず其良否ば子孫に大関係を議せり、
夫れ妻の良否は其夫の生涯の運命を定むるものなり、蕾に自己
・濃く﹁賢き婦は其夫の冠弁なり﹂︵断二.︶
@ 118
の隠遁者にして唯発句にのみ耽り居れりと自ら云へり。
たる頃新栄教会に行きて説教を聴き其終りし時二、三脚の椅子
明治十年の三月余が築地の高島長屋にダビッドソン氏と共に居
第九十二章 初めて妻女と談判を開きし事
を隔てて前を見れば鼠羽二重の衣服に給子の被風を着たるもの
あり、何心なく見れば小松氏なり。余は幾ぎて﹁小松さん﹂
○箴言に曰く﹁艶麗はいつはりなり11唯エホバを漁るる女は
@誉められん﹂︵主せ.
と呼びしに彼は﹁否、余は小松にあらず瑞穂なり﹂といふ。余
は其誤認したるを謝し我寓にとて誘ひたり。氏は同伴者と共に
来て一時間許談話したりしが氏は﹁最早御互に喧嘩は止めませ
う﹂とて雑談せり、何故に東京にありゃを問ひしに﹁飲過ぎて
遂に中教院を免職になりたり今は浅草の心月院にあり時々訪ひ
を誤つもの多し、慎まざるべからざるなり。
り。悲哉世の少壮者は血を盛る皮嚢に眩惑せられて百年の長計
斌に於てか妻の暴まざるべからざるは固より論を待たざるな
を鼓して氏の座敷に入れり。嬢は広き扇子を手にして端座せ
り拒絶すべし、我は彼の艶麗を愛するにはあらざるものをと勇
然し衣服のために談判破るるが如くならば其様なる婦人は我よ
と思へば衣服も今少し美しきものに改めしものをと考へたり。
二個を抱き夫人に導かれて其家に入りぬひ余は納所嬢来るべし
づ
は云へり﹁仮令賢なるも醜婦を婆りたらんには其賢愚を知らざ
り。余は何を云ひてよからんかを知らず、 ﹁おあついではあり
余が友某と余は妻を撰むの方法を談じたることありき。余が友
る者に妻を紹介する時如何にも恥しきにあらずや﹂と。余は旧
ませんか﹂といひしのみ。櫛部氏の夫人は茶などを出だしたる
後何れにか遁げたりと見え家中寂として猫の声さへ聞えず。余
説をききて幾分か有理なりと思へり。然れども余は其説の安全
なる時は﹁娼妓なりとも賢なれば着るに酷なし﹂と論じて余が
ならざるが為に之に反対したることあり。故に余が道念の低度
こと、問はんとすることは途切れくに一と通り述べ終りしが
前額の汗は耳の前を遷りて顧より落つるを薄き。ああ余は生涯
は胸の動悸の静まりし頃漸く談判の口を描き余が云はんとする
の説変じて﹁よき信者を黒むべし﹂となりき。
母を驚かしたることもありしなり。余が信者となりてよりは余
くたび
の一大関門を通過せり、甚しく草臥れて優待せらるる旅舎に投
からかみ
が如く思へり。余は辞して去らんとせり。立って次の間にいで
じたる心地せり。根生悪き試験掛りの難問に答へて及第したる
ママ 明治八、九年の頃に至り余が母の余に妻を借れと促したまふこ
と弥3切なり、余も急ぐには及ばざれど撰定し置くもよしとて
之を櫛部国手に謀りたり。氏は余の為に周旋する所あり九年の
夏米国婦人ヤングマン嬢の女学校にある納所柳子を推薦せられ
を流したりき。余は夫人を恨めり﹁紙門に身を寄するは果して
の談判を聞居らんとは。余は人に聞かれて恥しきことを談じた
親しく談判せよ﹂といふ。余は人の家にて公然談判するは恥か
おぼえ
しとて他の策を求めしに櫛部氏の夫人は曰く﹁私だって経験が
粋なりや﹂と。夫人は冷然一されど経験的にi云へり﹁若
て見れば何ぞ思はん櫛斜線の夫人は間の紙門に身を寄せて余輩
ある其時は粋を通してあなた方ばかりにしてあげまさアネ﹂と。
二人の内情も知らなくってどうするもんですか﹂と余は閉口し
しお互に出来た日にヤア差詰媒.灼人の務は私どもちゃアないか、
を為し終りて出でんとするや夫人は来りて﹁お柳さんが来て居
余は艶麗の婦人を婆らんとは思はざりき、余は唯生涯の豊作を
たり。納所嬢は初の約束を知らざるが為に平気なるも悪かりし。
るにあらず、然れども余は思はず面を紅くして背に一掬の新汗
余は嫌と嬉しきと相半して躊躇せしが夫人に鼓舞せられて遂に
ぬ。氏は﹁若し其人物を知らんとならば余が家に招くべし其時
決心せり。同年八月中余は例に従ひ築地病院の指診患者に説教
ます﹂と。余は此言を聞ぎて糧まつドキリとせり、心に喜憂の
恥 か 記 第五巻
119
したり。其頃ある日曜日の礼拝に美しく着飾りたる妙令の一婦
恥 か 記 第五巻
考へたりき。余が既婚の後失望したることも多く予期に反した
輩は教会に硬骨の男子多くして女子の少きを憂ひ居たれば嬢の
は未だ嬢が家に訪問せざりし怠慢を謝し茶果をすすめんどする
ママ に三又来れり、礼拝の式を終りし時嬢は又余が室に来れり、余
茶果をすすめ之を優待せり。次の日曜日は如何あらんと思ひし
人来れり、自らいふ銀座○○○○町に住する○○嬢なりと。余
るものもありぎ。然れども余は納所嬢と婚したることを一回も
そ
悔いたることはあらざりき。余は神の綱はせたまひしもの、否
来りしを大に喜びたり、喜びたるが故に余は嬢を余の室に請じ
たまもの
恩賜として満足し居るなり。
これ かれ
あしぎ そなえもの
第九十三章 此にあらずして彼にありし事
時嬢は云へり﹁洗礼を受けたし﹂と。余は喜びたり、去れど同
しに無しといふ。余は蝕に於て嬢が洗礼の意義を知らず、聖教会
時に驚きたり。何方にてか是迄道を聞ぎたることありゃと問ひ
@撃るものをや﹂︵二十一。二十七︶
○箴言に日ぐ﹁悪者の献物は悪まる況して悪きことの為に
埋れ方法なるものは目的に達せんとするの方法なるなり。跨れ
に加はらんことを望むの切なるのみと思ひたればダビッドソン
ども世人は往々方法を以て目的と誤認せり。馬術を学ぶ者は馬
嬢の余が室にありし時納所嬢の来りしことあり。嬢は余と已に
を馳らするが目的にあらず馳らしめて他の更に大切なる目的を
親し誰にも渡る所なく談話してありしが彼の嬢は久しからずし
成就せんためなり。掛り宗教に賜るも亦悟り、宗教を信ずるは
目的とす。是の如きは人は之を知らざるべしといへども遂に其
て辞去りたり。後に某嬢は余に云へり﹁彼の嬢は其去る時﹃三
て其信仰を養ふべしと告げたり。其後一、二回来りしがある日
偽善を知られざることあらんや、甚しぎにいたりては其宗教を
浦さんの所へ来たあの婦人は何ですか﹄と。菓嬢は答へて﹃何
氏にも通じ洗礼は信ずる人の熱くべきものなれば先づ当分来り
方便︵方法︶として処世の便利を得んとするが如き人あり、妻
安心立命の位置に達せんとするものなれども人屡ヌ宗教其物を
女の温柔ならんことを求めて之を信者たらしめんとし、息子の
れは三浦さんの奥さんになる方です﹄と。彼の嬢は之をききて
﹃然ですか﹄の一言を残して去れり﹂と。不思議、彼の嬢は其
放蕩を防がんがために教会に送り又其店の安全を得んがために
番頭手代を信者たらしめんとするが如き皆其類なり。尚ほ更に
か無礼の所為にてもありしかと心痛したりき。三家をも尋ねん
之ふても、ああ悠々たる行路の心、彼は挨拶さへぜず、余は何
後来らず、洗礼まで乞ひたる嬢は来らざるのみならず途中に相
なるかな。
ゆとも思ひたり。然し域る人拡余に云へり。 ﹁塁上が﹃三捕さ
一層甚しきに至りては宗教を以て己が情慾の方法たらしめんと
げ
するものあり。如何に不徳の世の中とは云へ実に恐るべきこと
明治十年の噸五口人拡築地小田原町に一家を借りて礼電の所とな
120
づ
んの奥さんになる方です﹄と云ひたる時小声に﹃それぢゃア駄
一年の頃余がソロ/\交際場裡に面出しせんとせる頃余が友松
えん
四月頃余は松浦氏に行きて其事を談じたるに松浦氏夫婦は云へ
り、彼等は互に約既に成り余に媒.介を依頼せられたり。其年三、
り﹁余輩は欝病のことに慣れざるが故に其談判は一切伯父大井
村誠氏は松浦久氏の嬢延子と結婚せんとの意あり、嬢も亦意あ
き。憐れ、彼女は呪はれたるものなり悪者の献物は憎まれざる
某に委ねんとす﹂と。余は方向を変じて大井老人に向ひしに老
目だ﹄と独語したりしとききぬ。ああ、彼の嬢は神に事ふるの
を得ざるなり。世の教会を方法とする人顧みざるべからず。明
道を知らざりしなり、否、洗礼を受けたしといふも虚偽なり
家の前を通行せしが人のいふ所をぎけば其の抱ける児は父なく
治十一、二年忌無事の嬢は嬰児を抱きて屡3余が銀座四丁目の
に先だちていふ、実に粋中の粋なるもの。余は媒介の談判など
人純粋の江戸ツ子にて頗る老練、余が云はんとすることは彼余
毫も六ケ敷きものにあらずと思へり。次第に談判進み来り其約
して彼の生みたるものなりと。アア。
を受けて﹁取りかはせは暫く待たれよ松村氏は未だこの結納の
束の記として結納の取りかはせ云々の段に至り余は松村氏の意
人は頭をふり﹁イや三浦さん、お待ちなさい、母に告げざる結
ことを軍卒に告げざれば⋮⋮﹂と序言の未だ終らざるに大井老
○パウロ曰く﹁われ衆の人に向ひて自主のものなれど更に多
O二九。十九︶
@(
母の心を安んずるは子たるものの自然の情ではござらんか、仮
ママ て軽忽なる人々は我に何の風俗習慣あるかを知らざるに早く己
令御本人は何といはるるとも其媒介をせらるる貴君までが其
け
事に同意せらるるとは怪しからんこと、若し其様なことなら折
に不可なり。近く国粋保存といふ主義の勢力を得たるもの敢て
人の為に大にへこまされたり、余は余の談判がよからざりしと
角のお談示だが先づ御断りといたしませう﹂。ああ余は大井老
に彼の風俗習慣を採用し我美俗良風を棄てて顧みざるが如き大
理なきにあらざるなり。
なら
余は欧米の風俗習慣を学ひて大に感服したるものなり。明治十
恥か記 第五巻
121
第九十四章 松村氏の媒介を為して大井老人に叱られたる事
@ くの人を得ん為に自ら己をすべての人の奴隷となせり﹂
@ 婚の約束なら此老人の甥の女はあげられません、抑3婚姻は男
@ 凡て交際の道を円滑ならしめんとせば己が意見をのみ行はんと
@ 女の大礼、斉家の基でござる、其大切の礼典を母に告げずとは
@ すべからず、よく人情風俗を考へ接する者の感触を害ふべから
@ 以の外のこと、若しお互に結納もしまひ、後に母に告げて若し
@ ず、仮令其事の善なるも其主義是なりとするも不義不正にあら
@ にせられたも同様でござる、また又己の結婚を父母に告げて父
@ 母人に異存あらば仮令疵物とはならざるも私の甥の女を慰み物
@ ざる以上は己を曲げて他の意を迎へざるべからず、是を上乗の
@ 交際法とはいふなり。近頃我国に欧米の新主義新風俗入り来り
悟れり。余は鼓に於て百方弁解し分疏七漸くに旧に復して更に
何﹂
﹁貴君は説教者にも不似合に二枚の舌をつかひたまふは如
恥 か 記 第五巻
談判をまとめたりき。余は其時内心老人は頑固なりと思ひた
余は寺号に驚きたり。数多の聴聞人の前にありて﹁二枚の舌を
ど捕へたるならんと思ひたれば余は答へて云へり。
つかふ﹂とは聞棄てならずと思ひぬ。余は彼が余の言葉の誤な
り。然し我風俗にもかまはず妄に事を処せんとせしは余が軽忽
の至りなりき。パウロが﹁自主のものなれど奴となれり﹂とい
然れども二枚の舌はつかひたる覚なし、幸に其事を指摘し
﹁余も亦誤あるべき人間なれば過誤失策を回るること能はず、
﹁然らば云はん、先夜貴君は偶像をはいすべからずといひ、
ひたるものは交際法の秘訣なるかな。
第九十五章 廃と拝との事
あしぎひと
○箴言に曰く﹁高ぶる目と驕る心とは悪人の光にしてただ
今夜は偶像は仮神なり、是の如きものは棄つべきものなり
に至りては既に罪なり、慎まざるべからず。余明治十一年八月
も名誉は屡3人をして驕傲ならしむるの危険あり、驕傲となる
られたし﹂
﹁余不敏にして貴君の意を解する能はず願はくは今一回述べ
余は十干の意たるを解せず
といふ、是れ前後矛盾、二枚の舌といはざるべからず﹂
て教へたまはば自他の益なり﹂
人の戒むべきは名誉なり。名誉固より悪しきにあらずといへど
馳罪のみ企士.︶
千葉町に出張し大竹といふ旧藩の人寄席を営業と為したるを以
と乞ひしに彼いふ所先の如し。余は此時僅に其意を解したりI
て之を借り二十五日より二十九日まで毎夜説教演説を為しぬ。
其初めし時より神官僧侶等の来りて妨害的質問を為すもの陸続、
ば少しく不正直なりしが余は尚ほいへり。
に十分自己の非を悟らせんが為又幾分か彼を辱めんと思ひたれ
り、六三遁甲を学ぶ寒河江某氏、和学に名ある伊藤二歳氏、胤
﹁何分貴君の意は明白ならず、今一回明白に精細に教へられ
i彼は余の言葉を誤解したるならんと思へり。鼓に託て余は彼
重寺の住職某︵前住職は半谷雲瑞と云ふ︶氏の如し。然れども
よ﹂
聴いたく困じたり。其重なる者を挙ぐれば﹁尊墨実村大覚寺住
其質問の如きは馬鹿々々しきもののみにして一も記すべき価値
したり。其時突然傍にありし盲人言葉を発して曰く
彼は余が手段に乗せらるると知らず尚ほ精細に其半途まで繰返
職藤井教巌本年二十二歳﹂と名乗りいでて仏名を連呼するあ
あるものにあらず。其中潮の殊に可笑しくも亦面白かりし一事
﹁誠に失礼ですが此方の先生は文字を間違へられたと思ひま
てくだ なかば
あり。=佼︵二十八日の夜なり︶例の通り説教を終りし時胤重・
寺の住職某は傲然容を改め咳一咳して其物を進め
122
r
の僧を辱めたり、近くにありて問答をよく聞きたる者はドット
たり。余は思はず手を拍ちて彼を賛す、余が彼を賛したるは彼
ああ彼1しかも盲人にして彼はよく﹁拝﹂と﹁廃﹂とを弁じ
イ﹄でせう﹂
す、耶蘇の先生は手偏の﹃ハイ﹄で此方の先生は麻垂の﹃ハ
婦はいたく驚き一時は其座に伏したり。余は何方に落ちたるや
ちたるが如く家は震ひ棚にある器物は落つるもあり、横田氏夫
だ二分時を経ざるに突然一声一実に青天の癬塵一近くに落
き﹁然るか﹂と答へしのみ格別心に留めざるが如くなりき。未
り。余は横田氏に云へり﹁雷鳴あるべし﹂と。氏は余の言をき
して雑談し居たる時大粒の雨ポツリ︿と橡先に落つるを見た
司
たるにや質問も為さざりき。彼の高ぶる心は罪となりき。
笑へり。彼の僧手持無沙汰に苦笑して引下りしが其後は角隠ぢ
@ @ @ @ @ @ @ ︵馬十六。三、四︶
@ ﹁実に然り、千光院の松の樹に落ちたり﹂と氏はいたく感服の
で回るることかは﹂といへり。氏は橡に出でて千光院の方を見
様子に見えき。何故なりやと問へば氏はいへり。 ﹁未だ雨もな
る所を知りたまふは如何なる術のありて然るや、耶蘇教の方術
く電光もなきに雷鳴を知り、又落つるや室中にありて其落ちた
にもあらざるべし﹂と。余は可笑しく思へり。余は舷に於て雨
知りしものは蓋し此理によれり﹂と。氏弥3感服したるが如く
常とすれば多くは高き樹木ある所におつるなり、余が見ずして
滴の大なるは電気のある証なり、雷は近き所を撰みて通ずるを
なり。﹁視而不見、聴空馬聞、食而不知重厚味こものは心レ不ワ在
なりき。
第九十七章 車夫水瓜を窺食ひし事
ンを与へたり其は彼所に落前のパンの外はパン元かりけれ
そなえ な
○撒母耳前書第二十一章六節に記して曰く﹁祭司彼に聖きパ
明治十二年七月上総国菊間村に伝道す。二十一、二日越頃同村
ぜなり即ち其パンは下る日に熱きパンをささげんとて之を
さげ
の横田氏を訪ふ。其日少しく曇りて暑気中々に強く団扇を手に
得べし。
無きにあらずといへども多くは注意聾心の深き所未来を知るを
荷を知るべし。ヴエスビヤス、磐梯山の破裂の如き突然のもの
人を知るべく沙漠の僧の如くしたらんには目見ずして酪駄の積
ママ 焉が故のみ。若し北米の土人の注意を以てせば目見ずして其盗
者深く注意したらんには幾分か前知すること能はざるもの稀
の恐れたるを医さんがために﹁千光院に落ちたるならん、然ま
を知らざれども千貫院の外高き木のある所もあらざれば横田氏
ゆふべ ゆふやけ
第九十六章 落雷を預言したる事
あさやけ
@ 論か記 第五巻
123
○基督築く﹁怪事暮にはタ紅によりて晴ならんといひ農に
@ は朝事又曇によりて今日は雨ならんといふ、偽善者よ空の
しるし
景色を別つことを知りて時の休徴を別ちあたはざるか﹂
@ 世に不意の出来ごと無きにあらず、然れども目に触れ耳にきく
恥か記 第五巻
為を許すべきものあり。ダビデ神殿にありて飢ゑたる時祭司は
︵羅三。八︶と.然れども時としては其軽軽考へて以て機変の処
パウロは教へて嘆く﹁善を来らせんとて悪をなすは宜らず﹂
如く房中に面を埋めてまだ白き実を食ひ尽くしぬ。ああ、彼は
彼は人頭大の未だよくも熟せざる一穎をとり畑にありし杭にた
め ん
たきつけて水瓜を破り其一片を両手にもち小児が仮面かむるが
り。何するかと見て居れば彼は右の方の水瓜畑に飛込みたり。
の方にある畠を見て﹁旦那、御免なさい﹂と車の舵棒をさげた
、如何に﹂と問ひたり。彼は何も答へず居りしが不図往来の右
り。実に是の如きは己を得ざるものにして直に悪と定むべから
祭司の外食ふことを禁ぜられたるものをとりてダビデに与へた
其窃盗を是認するの止を得ざるを知覧たり。走るも尚ほ四、五
水瓜を霧みしなり。然し時の要には鼻もそぐ今の事情には余は
エホバの前より取りされるなり﹂
ず、況して屡3人は其軽重を誤認むる事あるに於てをや。
第九十八章 銅像に銘したる事
デが神殿のパンを食ひしは実に止を得ざるものなりしなり。
達し余も車夫と共に冷水を得て蘇生したる心地したりき。ダビ ー
能はざるものならん﹂と。夫より大凡一時間にして箱根ケ崎に 24
命の水たりしなり。彼は云へり﹁此水瓜の味は余が生涯忘るる
十分時を経ざれば水を得るの道なし、彼の為に此水瓜は真に生
明治十二年八月十八日余は武州青梅に伝道せんとして東京を暮
せり。書下炎暑焼くが如く余が車夫は痛く疲れたりと見えき。
は躍るべしと思ひたれば車を取換へよと云ひたり。然れども車
おく
余は田舎車のきたなきを好まざりしが車夫には気のどくなり時
夫は其利を失ふを厭ひてか余が言を容れず。元来正午十二時ま
るも此辺なれば休むべきよき木陰もなく又掬すべき冷水の一滴
でに青梅に達せんとの約束なりしが一時頃に漸く箱根ケ崎と称
にげみつ
する辺に達したり。此辺は武蔵野の中心にして彼の三水と称す
之を為すは幾分か恕すべぎものありといへども其身知識ある神
夫﹁れ偶像を造りて之に学事するは夢中の愚なり。下愚無識の民
@に聾する者は無智なるなり﹂︵﹄什五.︶
○イザヤ歌ふて日く﹁木の像をになひ、救ふこと能はざる神
る手の甲は埃のために斑紋を作り、車夫は苦痛に堪へずとて、
官僧侶にして之を為し情として恥ぢざるものは抑ヌ何ぞや。彼
もなし、日は脳天より照し風は少しも無く、焼埃は車夫の足を
いぎれ
二、三十尊爵に立止り息を吹ぎ汗を拭ふ。余は見るに忍びず下
とりまきてポッポ︿とたち草の熱蒸は時々鼻を襲ひ傘さした
りて少し歩まんとすれば車夫は余が先に忠告したるを容れざり
として崇拝の念を養ふのみと。﹂然れども思へ、之を拝撃する者
玉章は云はん、之に生命あり美ありといふにあらず、之を方法
の十中七、八は偶像其物を神仏と為すを。既に此危険あり。而
しがためか平に乗りて居てたまはれと乞ふ。彼は水あらんかと
水のあるべき様もなし。車夫は止まれり。余り久しき故に余は
やう
て其辺を求めたれども固より川・さへ尽ぎて無くなる建水なれば
@ ︵三十二。二十︶
@ 司
慰するの力あらんや、呵々鉢
@ して尚ほ之を知りつつ黙過し1否、寧ろ偶像礼拝を奨励する
@ ものは彼等の過失たるを回るる能はざるなり。
○申事記に曰く﹁われ我面を彼等に隠さん我彼等の終を観ん
第九十九章 青梅にて説教のできざりし事
@ 余明治十二年八月武州御岳山に登る。同月十九日基山避暑中の
@ 彼等は皆背き惇る類のもの真実あらざる子等なり﹂
@ 英人ドクトルフヲールス氏及びホワイト氏と同山中の豊滝を見
して一の山贔に登るに一深谷の尽くる所にいでたり。谷に臨み
@ 夫れ神の人を説きたまふや其意に反し強ひて説きたまふにあら
主人及び太一さんと称する人ありといへり。余は何となく進ま
どもフヲールス氏は屡ヌ派出を促しきたり又周旋人には旅舎の
る者あらざれば其結果面白からざるを常とせしが故なり。然れ
を聞くにあらずして外人見物を多とし監本邦人の十分野斡旋す
せよと。余は之を聞きて直に諾せざりき。蓋し外人の説教は教
説教を為したりしに集る者数百人なりき、速に同所に派出伝道
あり。青梅町の人爵に道を求む、氏が同所阪上に止宿したる時
明治十二年の八月武州御嶽にあるドクトルフヲールスより飛報
量るる勿れ其道を述る者を棄るは神を茂るものなることを。
び一人は甚しく之を障むの類吾人の常に見る所なり。然れども
したまふなり。故に同一の真理、教義にして一人は痛く之を貴
ば之を助けて弥ヌ明通せしめ、好まざる者あらば自ら下面を隠
を人の前に示して其撰択を自由にす。若し喜びて若くる者あれ
ず、蓋し人をして自由の動物たらしめたまふなり。然れば其教
@者は我をつかはし給ひし者を棄つるなり﹂︵三十・十六︶
○基督曰く﹁爾曹を二つる者は我を棄つるなり、我を棄つる
@ 物す。滝は甚だ大ならず敢て見るべきものにあらず。滝より右
て一大石あり其半は我立つ所の土中に入りて其半面谷にむか
@ 底を見るべし。黒石の上に這ひて其角より見んとす。ホワイト
ふ。谷の深きこと二、三十間、皇子の角より窺見たらんには其
@ 氏等危しとて制す。余は聴かずして這出でしがフヲールス、ホ
ワイトの二氏は余が左右の足首をとり余をして深く窺見ざらし
めんとし余は二氏に制せられて十分に窺見るを得ざりき。岩の
こんが ら
上に一個の銅像立てり、又一個は遠く遜りて立てり。蓋し彼の
諮翔羅と称するものの類なり。若し其前に立ちて片手の労を以
てせば谷底に突落すこと頗る易し。然れども余は然までの損害
を与ふる勇なし。心胸のあたりの平かにして広き余は屈寛のい
たづらと思ひたれば近傍にありし角だちたる石を拾ひ其胸に左
の銘を刻せり
有口而不能言 課目而不能見
有耳而不能聴 有鼻而不能嗅
有手而不能椚 有足而不能行
フ、ホニ氏見て以て大に笑ふ。蓋し聖詩第百十五篇の語なり。
如何にして人の1殊に自己のために創造主なる人の禍福を守
恥か記 第五巻
125
たり戸長小沢弥左工門氏に面会し又之に依頼す。氏は初め余が
恥 か 記 第五巻
ざりしが先づ行いて試みんと僅に諾して同月十八日青梅に至り
語る毎に一々応答を為ししが遂に其斡旋を乞ふの一言を聞くや
、氏は木偶の如くなりて応答せず身動きせず、其身体冷却し居る
にあらずや触りても見たき程なり。余は到底無益なりと思ひた
人と同行せりと余は先づ第一の失望に出会せり。即日御岳山に
阪上の主人を問ふ相州大山に行きて居らずと太一さんを問ふ主
登りフヲールス氏に談じ二十日再び青梅に帰り阪上に投宿し主・
は迷惑でござる﹂と。遂に去る。ああ、余は木より落ちたる猿
ろし﹂と云へり。氏は初めて動けり。久々にて口を開けて﹁実
となれり。然れども盲亀にも浮木なきにあらず、旅舎の主人と
れば﹁強ひて願はんといふにあらず御迷惑ならば御蚕感にてよ
を着るを常とせしが此時は非常の暑気なりしを以て浴衣を着し
太一さんとは帰来れりと聞けり。其聞きたる時には主人近所に
て又第二の失望に際したり。余は伝道の為に出張せる時は洋服
揮帯をしめ又脚絆をうがちたり。然れば旅舎は余を以て普通の
人の帰るを待つと共に斡旋する人を得んとせり。余は不幸にし
書生と思ひしか表二階に請じたり。日中は一人表二階を占めた
て太一さんを訪へり。太一さんに面会して周旋を依頼したるに
行きて居らずといふ。余は主人の帰来るを待つの勇なし、出で
126
あひぎゃく
れば敢て不便を感ぜざりしが夜は合客と称する旅人の同じ血
一夜人力車夫の余が隣床に寝ねたることあり。夜半非常に苦し
氏は日く﹁余は佐田介石氏の渾天儀を造る時にも其資金の周旋
中に眠るものあり、普通の商人等の同宿は然まで厭はざりしが
べしといへども余のためには寧ろ聞かざるをよしとせり。然ら
を為したり﹂と。蓋し氏は宗教に冷淡ならざるを示すものなる
ば余のためにも亦周旋せらるるやと問ひしに、氏は曰く﹁目下
ぎ夢見て覚め来れば車夫の堅くして汗ばみたる太三余が咽喉の
金時計あり且旅費さへ幾分か所持したれば中々の心配にて一夜
日を約して去り宿の主人に面会して之に問ふに氏は日く﹁今朝
非常に繁用にて当分は他事に関係すること能はず﹂と、余は他
上に横はるあり。余は当時旧知事より余が父に賜はりし高価の
も安眠したることはなかりしなり。第一第二は尚ほ忍ぶべし。
なしたる主人も太一さんも更に其帰来る時を知らざることな
余が家に出産ありて当分は内外多忙なりお断りまうす﹂と。あ
た よ
あ、無情、浮木と思ひしは真に浮木なりき。余ははや手縁るべ
然れども第三の失望は最大なるものなりき。何ぞや、余が頼と
り。余は夜毎に変る止宿人を捕へて幾分か教義を語り無卿を遣
主人と談じたり。主人は此談話によりて余が困難し居ることを
き綱を失ひたり。余は一日旅舎の前の洋髪床に至り二、三十分
知り彼の義夢心余のために其店を貸さんといへり。然れど営業
るのみ。余は一日公立学校に行き教員某氏に面会して説教会の
るものにして知る者一人もなし御断まうす﹂といふ。後に聞く
の妨害となるも困難なれば夜の十時後一時間を貸すべしと。余
周旋を依頼したり。彼直に答へて日く﹁余は他より近頃来りた
彼は僧侶にして還俗したる者なりと。余は去りて戸長役場にい
、
は十時後の一時間も無上の賜物なりと思へり。鼓に於て安息日
し﹂と云へり。然し納所嬢は其ことを聞かざりしが如し。弥3
もよし﹂といへり。蚊に於て余は又タムソン氏に﹁為すもよ
余は又嬢に握手のこと如何にすべきと談じたるに嬢は﹁為す
づ
の夜人なき慮外にむかひて説教を始めしにひやかし帰りの若い
たる手を後に引きたり。余は出だしたる手のやりばを失へり。
べしといふ。余は嬢の方に手をいだしたり、嬢は、無惨、さげ
ヘ へ
其式は始まれり、タムソン氏は数条目を読み遂に互に手を取る
ヘ ヘ ヘ へ
衆七、八人立止りて聴聞したりき、ああ苔癬、八人も亦時にと
りて盛会なりしなり。
余は此土地に見込なきを知りたり。其後二日フヲールス氏の帰
失敗を為したるなり。
京に際し余も亦辞して去れり。
巾着切的の目を有したる田村氏はすかさず、附入り﹁君、あの
ああ、余は失敗したりしなり、準備の十分ならざりしが為に此
第百章 握手を遁げられたる事
時手を出したのは何だぐ﹂と。
ぎつぎか
○基督日く﹁誰か城を築かんに先づ坐してその費この事の竣
どだい
るまでに足るや否を計らざらんや恐くは基を置ゑて之を
然れどもかねて聞く欧米の風俗には結婚の時の失敗は決して失
@といはん﹂︵露光.二+八︶
敗として見るものにあらずと。余は欧米によき風俗ありと喜び
成能はずば見る者皆殺笑ひて此人は築盛けて成遂げざりし
たり・余は僅に欧米の風俗をかつぎいだして唯一の防禦具と為伽
し其場を切抜けたりぎ。用意周到ならざれば失敗は必ず之に伴
徳むことを轡たまへり﹂︵蝉四.︶
第百=早 旅舎の主人客を追出したる事
すぎ
○パウロ日く﹁往にし世には神すべての異邦人に其己が道を
ふの結果たるなり。
余が納所氏と結婚する時其式はドクトルタムソン氏に依頼せ
し。用意は周到ならざるべからず。
り。明治十二年十一月十一日を以て結婚の日とし嬢と共に叫日
者は幾分か恕すべきものあり、蓋し﹁信仰は聞くよりいつ﹂、
聞かざれば以て信ずべき機会あらざるが故なり。吾人が恩ある
人の神を信ぜざるは罪なり。然れども信ずるの機会を得ざりし
ものに感謝の念を懐くべきは道なり、商人が花主︵擬選を
タムソン氏を訪ひて万事の打合はせを為したり。タムソン氏よ
輩に握手したる時云々といふ、嬢は握手を好まず止めたしと乞
恥か記 第五巻
ふ。氏は好まずとならば為ざるもよしとて又他事を談ず。其間
り其時のことを問ひしに氏は町嘩に云々教ふる所あり。氏は余・
も其関係の大なるものに至りては遂に其身を害するにも至るべ
なし。其関係の少き小事なれば其失敗も害少かるべしといへど
の失敗談を聞くに大小とも其準備の不完全なるより生ぜざるは
何事によらず用意周到ならざれば失敗を免るること能はず。世
左に拒み入口の混雑は一場の紛闘を生じたるが如く、来客は主
恥 か 記 第五巻
尊敬すべぎは道なウ。然れども其事情の止を得ざるものある時
る、而して点燈時にいたりて漸く止む。此時家中を見れば所と
して人ならざるはなく板の間廊下に至るまで人は人ど接し真に
人の右を向ける時左より飛込み、左を見たる時右の袖下をくぐ
寸地を余さず。屡3通行を遮断せられて人の足を分けて踏みた
は意ありて実行し得ざるものありとす。是の如き場合には大に
下総国銚子港は二万余の人口ありて久しく繁昌したる所なり。
恕すべきものあらざるべからず。
殊に鰯漁のある時は俄然演劇場は開かれ寄席、見せ物興業せら
めてなり、旅舎の板の間まで旅客の臥したるを見たるは始めて
ることありき。余は旅舎の主人が顧客を追出だすを見たるは始
と見ゆるも妙なり。
らざりしなり。其場合によりては無礼の挙動も却て愛嬌の挙動
なりき。然れども主人の挙動を無礼なりと浸むる者は一人もあ
れ土地の繁昌予想の外にあり。其一斑を挙ぐれば漁夫等が銚子
一人一円札をいだして六、七十銭の釣銭をとり、幸に二十銭札
港にきたりて買物を為すとせんに三人来りて三足の下駄を買ふ
一銭又は二銭の銅貨にていだされたらんには彼等精算して取る
第百二章 基督教に信用ある事
う
○基督曰く﹁爾曹を葺くる者は我を重くるなり又我を接くる
余は明治十三年三月伝道のため要港に行きしことあり。当時特
性の然らしむる所なり。其教徒を信用するは其行為の方正高潔
者は少し。基督教を好まざるは其良心の作用にあらずして其悪
世に基督教を好まざる者多しといへども基督教徒を信用せざる
@者は我を遣はしし者をうくるなり﹂︵馬十。四十︶
別の大漁ありしにはあらざれど芝居、角力などありとて集りき
なるを知るが故なり。曽て雷撃なる一商人あり基督教を信ぜず
128
三枚をいだされたらんには一人一枚宛をとれり。然れども若し
ことをせず店頭に三個の三山を造り各ヌ其一をとりて去れり
と。以て其銭ををしまずしてっかふを見るべし﹁貨三二入者亦
陣向出﹂とは銚子港の景況なるかな。是の如くなるが故に近在
たる者頗る多く余が止宿したる吉野屋といへる旅舎の如き毎日
して其傭入るる所の番頭手代は必ず善良なる教徒を重める、人
より銚子港に人の集来ること濁しく日々何千を以て数ふべし。
は入口に大手をひろげ入来る者を謝絶するを例とせり。謝絶す
るに安全なるものなしと。蓋し世に此類の人物少からざるなり。
其理由を問へば曰く金銭の出納物品の管理は基督教徒の外托す
然れども之を善悪混清只管基督教及び其教徒を嫌ふに比すれば
で曰く﹁もう座敷がない、はいっても駄目だ、他にいかつしや
れ、寝る所がない﹂と絶叫す。然れども鴬声に応じて去るもの
⋮幾分の取柄ありといふべし。然し主は云へり﹁我と僧ならざる
とりえ
は殆ど無し。主人は入り来るものの肩をおし胸を突き右に支へ
るといへば立派なれども其光景は寧ろ追返すなり。大声に呼ん
ヘ ヘ へ
タ刻に至れば来客ひきもきらず何十人か入りたる頃旅舎の主人
調
又一の記すべきものありひ明治十九年の二月余は博士フルペッ
,
者は我に背縫と健敏めざる者度すなり﹂︵馬十二・三十︶其
二十五日沼津より江原素六氏に同伴を乞ひ御殿場に至り演説会
キ其他二、三の内外人と共に駿豆に伝道したることあり。同月
を開き黒豆二十六日江原氏は沼津に帰り余はフルペッキ氏と共
オトミ
せる者は少し。然れば凡て皆洋風にして上宿臥床浴室に至るま
の富士屋に投宿せり。同家は外客の旅人宿にして本邦人の止宿
で一も御国振を見ることなし。余輩が投宿の後下嬉は宿帳を持
に御殿場を発し阿富峠を越え仙石原を経て其日の午時過宮の下
宮内氏に一泊し二十六日同氏を去らんとせしに宮内氏は金弐拾
来りしが是亦日本風にあらず。余は先の例に傲ひて国Φ︿.O●団・
高田村の宮内赤城氏を訪ふ。氏は大森教会の長老宮島発太郎氏
円をいだし余に托して曰く﹁余が女目下病に罹り築地病院にあ
﹁私は山口仙之助でございます﹂といへり。余は如何なる人な
29
りしか知らざりしが二、三の談話によりて此人の当旅舎の主人 1
︿Φ旨Φo犀U.U●d.ω・﹀・渕Φ︿・隔●ζ寄鎚”日。犀Φ一と記したるの
り,仮令宮島氏の添書ありたりといへども初めて面会したるも
なることを知りたり。氏は余に﹁明日帰京せらるるや﹂と問へ
りて治療中なり、此頃通知あり遠からず画院せんとす入院料を
のなり、之に托するに二十円金を以てす、余は鼓に於て基督教
り。余﹁然り﹂と答へしに﹁御帰京後社にでらるることがあり
み。暫くして年の頃二十五、六とも思はるる書生体の人訪来り
の是くまで世人に信用せらるるかと驚きたり。余は主に感謝し
と。余は驚きたり。仮令伝道者なりといへど一介の書生たるな
て其金を請取りたり。余は余が嚢中の十分ならざるを知りたり、
しが遂に警醒社なることを知れり。蓋し当時余は基督新聞社に
署名し居たればなり。余は之を知りて﹁然り﹂と答へしに氏は
ますか﹂と問ふ。余は社とは何のことなりしか直に推し得ざり
こともあらん、夫にてもよきや﹂と。宮内氏は少しく当惑の様
懐より三、四円の金をいだして﹁社より新聞代の請求ありしが
よって余は問へり。−﹁余は二、三日中に東京に帰らんと期すれ
子にて﹁女は並べく早く送りくれよといへり﹂と。余は更に問
とど
へり﹁然らば余は余が父に書を送り余が書の青き次第在病院の
てせり。我教を信用するにあらざる以上は決して為し能はざる
ぬ。氏は一面識ある人にあらず、然るに余に托するに此金を以
所なり。
未だ送附せざりき、幸に会計へ渡しくれられよ﹂と。余又驚き
此二十円を使用して可なりや﹂と。﹂氏は大に悦びて之を諾し余
恥 か 記 第五巻
も思はざる便利を得たることありき。
嬢に二十金をお附しまうさせん、其代り余が懐の都合によりて
ども佐原、東金、千葉などの模様によりて或は四、五日遅るる
送らんとして未だ得ざりき、願はくは之を余が女に附されよ﹂
の実父なりしを以て宮島氏の添書を携へたり。同月二十五日夜
明治十三年三月下総銚子港に伝道したる時同工の西二里にある
教徒を信用するものといへども基督を信ぜざる以上は神の嘉納
、噸
したまふものにあらざるなり。
ヤ
らず、余輩は横浜より汽講和冨の浦丸に乗り神戸に着せり。着
恥 か 記 第五巻
余明に信ぜり宮内豊は教を知る人にあらざれども其子宮寸書に
ママ 舎後藤に入るや其出だし来る器物の上等なるに驚き、何から何
かんこほり
ハママ 影石なるに驚き、陸に上るや﹁寒暴く﹂の売声に驚き、旅
差するや本船に入り来る旅舎の手代の言語に驚き、石村は母御
ヘ ヘ へ
絃横浜の学校にありて信者たりしなり。此妻女の山院氏に承る
よりて基督教を見たり。山口氏も亦信者にあらざれども其妻女
又宮島氏の宮内氏に於るが如くなりしなり。余の接げられたる
衣服を改め奥野田村の二三と共に松山氏を訪はんとして二階よ
まで喫驚せざるはなかりき。先弥次北的の活劇もなく食事を終
回燦絆浴衣等の洗濯物二、三枚をいだして下碑に洗濯を依頼し
第百三章 おめしものの事
たり。余は土間に下りんとするに余が下駄は遠く下駄箱にあり、
り下りたり、主婦も下脾も余輩が外出するを知りて其所に来り
は彼等の基督を憎くるなり。
○基督捕へられて書箱にある時其徒業偽証成行如何を憂ひ密
ぐちなまり
むかひ﹁おめしものく﹂といふ。余は彼がまだ洗濯物ありゃ 30
余は土間を距て下駄箱に対して此方に立つ。下露の一人は余に
に法庭に入りて窺ふ、労に立てる者彼得の言を聞ぎて曰く
i馬二十六・七十三︶
﹁爾も其党の一人なり蓋は爾の方言爾をあらはせり﹂
@ 大阪の親睦会は四、五日を経ざれば開会にいたらず、後より来
分置りしを以て有馬に着したるは夜の十時四十分差りぎ。余輩
吉停車場に下車し駕籠を命じて発す。住吉を発したるは六時十
着したる南小柿氏、田村氏と有馬の温泉に遊ばんと同月九日住
固より浪華の芦と伊勢の浜荻と鋳物にはあらざれども方言風俗
」
匹
は例の好奇心もて土地の風俗名物など頻に問ひたく潤、南の二
によりて河野屋というに投ず。室に入るや易いで菓子いつ。余
は何といふ宿がよきや固より知る所にあらず唯駕籠人足の忠告
『
は見るもの聞くもの珍しからぬはなし。当時いまだ汽車の設あ
へ
余は明治十三年越月初めて神戸に遊べり。見聞の播き余の目に
等の東西相異るは珍しからぬことなり。
ママ 浪華のあしは伊勢のはまをぎ
ものの名も所によりてちがひけり
めば殆ど清国人と同様なるものあらん。
を問ふものと討ひ﹁いや先刻だした浴衣だけだ﹂と。下女は驚 1
@ き田村氏は吹出し奥野氏は﹁江戸ツ子やられたナ﹂といへり。
@ 交通の不便なる世にありて同一政府の下にある同国民にして其
@ 下女の後の各号によりて始めて知れり、 ﹁おめし物﹂とは衣服
@ 言語の相異ること実に驚くべきものなり。彼の清国民の南北両
@ にあらずして履物なりしことを。
@ 端の人相語らんとせば三、四の通弁あらざれば通ずる能はずと
@ 余は方言に通ぜざりしがために第一の失敗者たりぎ。
@ いふが如き敢て珍しからざるなり。我国の如きも若し曽て他県
@ 人と交はりたることなき九州人を以て同様の東北人に相対せし
の婦人来り町嘩に挨拶せり。余はよくも見ざしりが不図其歯の
氏は固より相手とならず下舞ども見えよかしと待居たる所一人
女にいひおき留守中に来着あるも外出せしむる勿れ、久しから
人の着神を待ちたれども来らず。一日所用ありていでんとし妻
に書をいたして近日神戸見物のために来るべしと。高橋氏は四
神戸港に余が友あり高橋某といふ.四国の人某々等四人高橋氏
,
黒きを見たれば荷物など片付けながら下女の顔をばよくも見ず
四人は帰来れり一愴⋮然として帰来れり。高橋氏は寒暖の口上
所をぶらつきて来らんとていでたりと。・大凡二、三時間にして
久しからずして四人は着したり。暫く待たれよと乞ひたれど近
を二、三塾す。田村氏いよく笑へり、今は余を笑へりと思へ
もなく何方にゆきしや何を為したりやを問へり。蓋し雷干なる
ずして我帰り来らんと。いでて帰り来りて問へば主人いつるや
り、余は真面目に何故に笑ふやを問へり。田村氏ははや絶倒せ
人物の罠に罹りたることはなかりしかと思ひてなり、不幸にも
流氏は何事か彼方に坐して笑ひ居れり。余は下愚に対して一、
は未だ其故を知らず田村氏漸く云へり﹁君は此女をいくつぐら
ママ 高橋氏の予想は適中せり。彼の四人は近傍を遣漏せんと出でし
かたあげ
からずして厚焼玉子の一品にて食をいだしたれば之を食ひ其価
に午飯の時となりたれば彼等は一茶店をトして食を命ず。久し
が図らず生田の森にいで遂に布引に行きたり。見物を為せる間
するもの皆若くして歯を染むるを常とせりと。其風俗を知らざ
を問へば一人前五円四人合して金弐拾円なりと。四人は喫驚せ
り。彼等は敵の術中に陥りたりと思ひたれば何故に是く高価な
りやと問ふことをも得なさず、着がけ幸に懐中の温なりしが
ちゃく
悪み告発せんと主張し四人も一時は告発と決せしが他に障るこ
故に二十円を払ひて薫れきたりたりと。高橋氏は大に其処為を
悪者の悪をなすは屡ヌ智あるが如く見ゆることあれども其結局
命じて酒を飲み飯を食ひ遂に其価を問ふ。彼等はよき鳥罹れり
滝下の茶店に憩はせ独り姿を変じて一店をトし五、六器の肴を
であり。遂に当時の県令森岡氏其弊を矯めんとし警部長をして
せず。摂州布引の滝を其一例とすべし。
とありて遂に果さず止みたりと。此弊は明治十六、七年の頃ま
@藻己を婆ん﹂︵一。三十二︶
○箴言に曰く﹁拙者の偽証はおのれを殺し愚なるものの幸
つたなぎもの そむぎ
第百四章 カステラ溶解の事
りしがために第二の失敗者たりしなり。
気の毒に思ひて詫びぬ。後にて聞けばは湯女と称して浴客に待
肩上ある十三、四歳の下女なりしなり。余は驚きもし、下女に
ゆ な
みと思ふのか﹂と。余此言によりて彼の下露をよく見ればまだ
り。南小柿氏日く﹁君のおかみさんといふが可笑きに﹂と。余
二の問を発したれども彼点々敷くは答へず。余憤﹁おかみさん﹂
例の名物など問はんと﹁おかみさんく﹂と連呼せり。田、南
判
滅亡の淵に沈下せしむるなり。世に此適例とすべきもの少しと
恥 か 記 第五巻
131
,
は愚なり、一時不義のために幸福を得たりとするも遂に自己を
と悦び十男爵を要求す。森岡氏は其価を払ひ、一書を落して警
にあらずや。
ども修繕し得ざるものを見き。 ﹁拙者の違逆は己を殺す﹂もの
土地の衰頽を来し、造りなしたる回廊の基礎崩れて廊傾ぎたれ
恥 か 記 第五巻
いださしめ、其いでたる時を待ちて二人の知事と警部長たるこ
部長を招く。森岡氏譜店に命じて自己の食ひたると同様の肴を
○箴言に曰く﹁酒は人をして嘲らせ、濃酒は人をして騒がし
第百五章 大阪不案内者の事
とを示し主人を招けり。主人は恐るくいでたり。森岡氏は一
々其肴をとり各回の価を問ふ。主人嘉して答ふること能はず。
こぎさけ
鼓に於て警部長は主人を召喚し之を罰し、此時より其弊を見ざ
価を問ふべし、是れ万全の策なり﹂と。余輩は高橋氏の忠告に
を出だすも食はざるをよしとす。若し食はんとなれば一々に其
橋氏は彼の四人のことを以て余輩の注意を促し、氏曰く﹁菓子
る者の七分は酒よりいで、死者の全く酒に関係せざる者は十分
.所の租税は毎年大凡八千万円にして不生産的有害に酒のために
に於て其損害実に心しきものあり。我国民が義務として出だす
酒の社会を害する今更喋々を要せざるなり、経済、道徳、衛生
@む之に迷はさるる者は響なり三不.︶
従ひ下の滝の前にある茶店に休ひ衣服をあづけて滝をあびしが
しぶぎ
出できたりて見れば皿に盛りたる菓子のうちカステラは繁吹に
中三分一厘のみ。以て酒の何程社会を害するかを見るべし。
るに至りたりといふ。余輩が布引の見物を為さんとしたる時高
滋ひ半は溶けて角を存したるものなきに至れり。余輩は少し気
余が初めて大阪に入りたるは明治十三年七月十日なりとす。此
日午前摂州有馬を出立し住吉停車場より汽車に乗り午後六時頃
費すもの大凡五千万円とす。道徳上に罪を得て鉄窓下に坤吟す
の毒におもへり。余は高橋氏の忠告を実行して幾分か利を得さ
ぜんとし﹁此菓子は一個いくらだ﹂と問へり。少女は答へて
単物と帯と下駄の三品ありしのみ。茶店の人々は往来を以て私
野氏を残し田村氏と二人にて行きしが余輩の身体に着きたるは
余輩は上の滝を見んとし身に着きたる物は皆下の茶店に預け奥
余が三年間勤番したる悪なれば案内すべしと、或は大阪城の大
足らず歩きたれどもまだ得ず。予て南小柿氏は云へり。大阪は
の見てよからんと思ふものは客満ちたりとて謝絶せられ二時間
と旅舎を問ふに止宿せしめんといふものはぎたなげなり、余輩
は不在にかかる。よって仮に一旅舎をトして其日の労を医せん
梅田停車場に着せり。出でて玉江町に古木氏を訪ひたれども氏
有地と為せるが如く往来の中央まで床机をいだし一の店の如き
を説ぎ或は心斉橋通の夜景を誇り頗る土地に密なるが如くなり
二皿拾銭でおます﹂と。余輩は安堵して食尽くせり。
は余輩の帰路を要し一少女いできたり余が腰を捕へて放たず、
ハママ 婦人に対してまさかに肱力をも用ゐられず余はいたく困じたり
き。余は初より氏の案内に頼めり。舷を以て梅田をいつるや氏
、 .
き。彼等の歯根犀鳥あるが如くなれども彼等は湿て是がために
﹂
132
に導者たれと乞へば氏は不思議の面目にて豆鉄砲を食ひし鳩の
如く題目のみ見張りて逡巡の体なり。余は遂に氏の頼むべから
近傍の旅舎に投じ僅に足を延ばすを得たり。後飛島賢次郎氏に
しとて絶えず酒を飲みで居たりと。ああ、氏にして白面なりし
儘溺死の不幸にあへり。後其死体を検するに袴の紐に手をかけ
之に相対するの一事あり。元治元年余が父主君に従ひて広島に
@を見るか彼よりも却ぞ愚なる人に望あり﹂︵葺山ハ.︶
第百六章 何者にてもよろしき事
ひと
○箴言に日く﹁汝おのれの目に自らを智慧あるものとする者
ならば或は氏災禍を免れたるものありしならん。ああ。
居たりといへば氏は⋮游がんとしたるなり。然れども氏は舟中寒
酔中の大阪は醒中の大阪にあらず大阪己に別物となれり、願は
ながら白面にて市中をあるきたるは今日を以て初めてとせり、
しらふ
り。氏は面目なげに頭をかき﹁余は三年間大阪にありき、去り
逢ひ氏が已に止宿したる八軒屋の播権といふに止宿することと
にも舟は浅葱に嚢底をあてしが波のために舟は転覆し、氏は其
る帰途、小舟にて海を渡り狩野川のロを入らんとする時、不幸
まず、明治十年頃のことなり。氏は伊豆の国の病家に招かれた
4
なりぬ。﹂後に余は痛く南小柿氏を責め何故に攣りしやを問ひた
ざるを知り田村氏の知る人の中の島にあるを聞き其人に問ひ其
ρ
氏は讃美歌集を手にとりて﹁何番にてもよろし﹂と。余は是く
依頼し﹁歌は諸氏の歌ひなれたるものにてよろし﹂といふ。某
訂せる某教師余に一夜の説教を乞へり。余諾して=久と共に説
それ
三所に至る已に某氏居れり。余は聖書の某の所を読みくれよと
明治十三年八月四日大阪よりの帰途某地に滞在せり。其地に伝
あらば大に反省せざるべからず。
思はば大に自ら顧みざるべからず、若し自ら罪なしと思ふもの
りては其酩酊の度の如何にも深きを知るべし、人置ら恥なしと
ひたるを知れるはまだ酔はざるなり、我酔はずと絶叫するに至
故に破廉恥たることを知らざるなり。酒に酔ひたるもの自ら酔
恥を知らざる程恐るべきことなし。破廉恥漢は破廉恥漢.なるが
便諺にいふ﹁恥を知らざるものは恥かきたる例なし﹂と。実に
くは其不案内を許せ﹂と。皆大に笑へり。
あるの不在蔵造が母は疫病に罹り一時頗る危篤なりき。当時余
が母の主治医は川鰭某氏なり。幸にして母の病は癒ゆるに近き
しが一日川鰭氏の来診したる時他より貰ひたる蒲焼の鰻あり、
母は川鰭氏に食をいださば可ならんとの事にて鰻をすすめた
り。氏は喜びて食ひ終り篤く謝辞を述べて去れり。後深沢国手
ヘ ヘ へ
は余が父に語りて日く﹁川鰭氏は先に貴家にて始めて鰻を食ひ
に氏は日ふ余は好みて鰻を食ひしが酒なくして食ひしことな
鰻の美味なるを始めて知りたりと。余は怪みて其理由を問ひし
し、三浦氏にて食ひし時は酒あらざりしを以て真に鰻の甘きを
知りたるなりと答へたり﹂と語りぬ。
ああ﹁酒は人をして嘲らせ﹂智者をして愚者たら白むるなり。
酒害を示さんがために=茜を附すべし。川鰭氏の酒癖は長く止
恥か記 第五巻
133
募
@(
恥.か 記 第五巻
ヘ父を辱かしむ﹂︵二十八・七︶
をとめ
@ 聞きて彼の歌に巧なるを驚き、また同時に余が歌ひ得るものの
○利未記に曰く﹁汝の女子を汚して娼妓の業をなさしむべか
@ 少きを恥ぢたり。余は一、二を夢みて某氏に呈し、定時の来る
十一。十四︶
轤ク恐く鐘事国に行はれ罪悪国に満ちん﹂︵十九・二十九︶
@ を待ちて初む。某氏は講壇にたち歌何番と告げたれど余は他人
あそびめ
@ ○同日く﹁妓女又は汚れたる女を妻に回るべからず﹂
@ の説教所に先頭に口を開くを回り彼の歌ひいだすに任せたり。
ふし
当に評したらんには讃美歌の素読を長く引きて少しく之に抑揚
@ 吾人は
奨励したるの傾向さへありき。然れども今や第十九下期の道徳
34
的光明は此軽杓を照して其敗徳を鳴せり。 1
りて睡中の財を他に雑ぜしめず自己に集めんがために故に之を
後其用は寧ろ政略上と変じ殊に大小の諸藩国中に割拠するに至
るなり。
神の教訓に反すること
道徳法に反すること
悪疫蔓延の因たること
不生産的営業なること
人生の天然に反すること
ト逆性の用と垂め︵羅一。二十六︶ つかみ
○同曰く﹁それ妓婦は深き坑の如く淫婦は狭き井の如し﹂
@のこすのみに薫る﹂︵六。二十六︶
○箴言に曰く﹁それ娼妓のために人はだだ僅に一握の糧を
@へ
碗
‘
○同日く﹁律法を守る者は智子なり、放蕩なる者に交るもの
さとぎこ
¥七︶
(二
旅舎に投じたり。余一人なりしを以て六畳敷の一室に大和の商
明治十三年八月十二日大阪よりの帰途相州大磯駅の山本といふ
ず、是れ正しく愛国者の自任すべき義務否薬理なるなり。
の幸福を増進せしめんとせば我国に書跡を断たしめざるべから
の如きを以て大に之に反対せり。若し我国の品位を高くし真正
○パウロ天下の不徳を嘆じて曰く﹁婦女さへも順性の用を変
第百七章 隣室の客と大議論の事
をんな
ものにあらず。善を知らざれば善を為すは決して困難にあらざ
、ものと毫も異る所なく素読的なりき。鼓に於て余は﹁何番にて
もよろし﹂ぎ理由を明にせり。歌を知らざれば歌はむつかしき
は又余が示したるものを何番と告げて歌ひ初めしが其節は前の
れあり。蓋し其最初に著ては唯情慾を遂ぐるの具だりしなり。
@ 古来娼妓なる者のあらざる国は殆ど稀なり。我国に於ても亦こ
@ は噴飯を免れざりしなり。余は之を忍びで説教を終りしが某氏
@ 彼は歌ひいだせり。余は驚きぬ。其節を聞くに乱暴に狼籍、適
を加へたるものなり。ああ、若し讃美歌にあらざりしならば余
@ ■
方八方の雑談を初めしが彼の商人は護身のために砂鉱を所持せ
人と同室することとなりぬ、着後久しからずして彼の商人と四
度々妨げられたり。氏は其騒々敷に不平ありて主人に談判し彼
妓を相手として大陽気の一座開かれ、且騒々敷余輩の談話さへ
ママ 等を遠く去らしむるか然らざれば我を他の静なる所に移せと迫
からかみ
りとて余に示せり。余は刀劔類を見るの眼なきを以て辞したる
を兼業するの不可なるを語りて元来娼妓を公許するとは不都合
り主人も困じて一時は三線の音も止みたり。余は此旅舎が娼家
千万なりと説くや彼の士族は余に反対し存娼の利を説く。余又
に隣室照門を距てて﹁お隣のお客さん、失礼ながら此所を開け
るに紙門は俄に開かれたり。其所に現はれたるは年の頃三十
之に反対して廃娼の利を説き存娼の害を述べ彼れ一撃余一駁論
てもようございますか﹂と。余は彼の商人と共によしと答へた
五、六にして見たところ騰しからず、其容貌といひ刀劔を見た
過なりしが十二時に至りてまだ止まず。余も半狂人の相手とな
喧嘩にならんとて心痛したりといふ。其議論の始まりしは八時
戦次第に歩を進め勢ひなかく当るべからず、彼の立論は唯人
しと乞ふ所士族の為の果と思はれたり。彼は自ら云ふ﹁余は金
マこ
谷原の士族なり、次第に衣食に痒し止を得ず旧幕臣の要路にあ
として屡ヌ彼を愚弄せり。主人は驚き相客は恐れ大和の商人は
情を基礎とし時としては無法の愚論を為し余は多く道理を根拠
ども刀劔を好むの癖あり、廃刀の世の中帯刀してはあるけず油
なれ
る人々を歴問して三円五円宛を貰ひありくなり、零落はしたれ
紙に包み是くして持あるけり、お望ならば御覧に入れてもよ
れば其人の如くなり、問へば果して夫なりと云ひ彼の人は余が
駕籠のかた彼の人よりは早く遂に追越したるものありしが今見
が箱根西口の上りにて刀をかつぎて先に行くもの見たり、余の
は推参したるなり﹂と。夫より又も雑談となりしが此日の朝余
にして床中に入りしが彼れいまだ止めず余も少しく相手を為し
に十二時を過ぎたり。他の安眠を妨ぐるも如何あらんと室を異
是れ一身の栄辱にあらずと余はますく弁じたり。然れども既
りしが余若し止めたらんには基督教負けたりと思はん、然らば
居り殊に彼の娼妓を招きたる客も芸娼妓と共に聞居るが如くな
るは愚なりと思ひたれど此家に止宿したる人は皆勝敗如何と聞
駕籠に乗りたるを見同行者共に君を警部ならんと評したりき
て遂に互に眠れり。翌朝三時過余は下心に覚されて先づ顔を洗
−はんと浴室に至りて見れば彼はや已に彼所にあり、彼は挨拶を
し、今紙門越しに伺へば短刀を持たるるよし見たく思ひて是く
と。余は其時紺色のフロックコートを着て居たれば警部と見た
の人も自己の室に帰りしが食後又紙門を開きて雑談となりぬ。
りと明し幾分か教法談も為したり。寒中に食事となりたれば彼
して而して後に来れ﹂と云放って止む。彼れ流石は江戸ッ子更
理の分からぬ人物と論ずるは余が恥なり、君尚ほ三、四年修業
為して﹁昨夜のつづきを論ぜんか﹂といふ。余は﹁君の斜な道
りといふも無理ならず、此問答よりして余は基督教の伝道者な
点燈時となりしが一、二室を距てて二、三の来客芸妓を招き娼
恥 か 記 第五巻
135
と余りに高ぎが故に帰りきたれり、又帰来るために三十銭を要
銭を払はんとして問へば二円五十銭なりと、持合はぜあらざる
恥 か 記 第五巻
には余の説の真味を味ひ得べし﹂といふ。鼓に著て互に叢る。
くなれど我家の焼くるも救はずしていでたれば決して高きにあ
求し、鉱車を引きながら云へり京橋まで二円五十銭は高きが如
に怒りたる様子もなく﹁君二、三年浮世の活劇中を歩みたらん
大和尚論評して曰く﹁人情博士ど道理博士と論ず衝突なからん
姦智ある﹂かな。
りし時よりも得たる時の方不愉快なりしなり。 ﹁悪者の利潤は
ヘ ヘ へ
彼れ力なく手をいだし黙して去れり、ああ、彼は得んとして来
れば手前の骨折を謝する問もなし﹂と︵糠動乱燦㌍さ
うな、、一番地まで焼けてきたとは思はなんだ此家ももはや危け
はず二円八十銭を渡し一言して曰く﹁手前の家はもう焼けたさ
らず﹂と。余は今更論判するも無益なるを知りたれば何事もい
とするも得べんけんや﹂と。余と彼とは互に相見て莞爾たり
き。
第百八章 人力車賃二円八拾銭の事
まうけ
○箴言に曰く﹁義者の家には多くの資財あり悪者の利潤には
@難あり﹂︵十五・六︶
○孔子曰く﹁不義而富且義者於我如浮雲 ﹂
○基督曰くコ贔くひ鍔くさり盗うがちて霧む所の地に財を蓄
第百九章 日本通貨不用の事
ず、道にあらざるが故に破るるは必然の勢なり。
勤勉正直にして而して富むは道なり不義にして富むは道にあら
明治十四年二月十一日夜神田柳町より出火す初め西北風烈しか
人未来経営の必要を知らざるにあらず、然れども人多くは其真
@財を薫べしL︵馬肥。十九、二十︶
ふること早れ、露くひ轟くさり盗穿ちて霧まざる所の天に
しみ さび
りしがために蛎殻町の住居に火の降ること雨の如し。近傍の騒
擾大方ならず。当時余が母は死褥にある時にて早く安全の地に
を憂ひ人力車を求めしむ。然れども得ず。其時旧藩の人宮部某
正の方法を以て準備せず、未来の為に準備せよといへば彼曰く
避けしむるにあらざれば如何なる困難あらんも知れず、余は之
雨飛込み来り病人は如何といふ、余は人力車を得ざるを以てま
し﹂と。細意は此善行あるが故に以て未来は満足なるべしとの
﹁余幼よりして不義をせず偽りたることなし盗みたることな
の行為を以て決して救ひたまはざるなり。
によらず信仰の義によれり﹂︵七三。二十八︶神は其套ず偽らざる
意なること明なり。然れども﹁人の義とせらるるは律法の行為
だ避けしむるにいたらずといふ。氏は高くてもよぎや我求めき
たらんとて馳出だししが久しからずして二人引一輔を捕へきた
れり。鼓に於て昼夜と共に母を乗せ京橋の高瀬氏にゆかしむ、
仲直は其儘彼の家に止るの約なりしなり。大凡半時間にして仲
し
女は其人力車に乗りて帰来れり。其故を問へば曰く﹁行いて賃
暁
136
アニ.ア﹂号なり。明治十四年六月二十五日を以て横浜を解撹す。
ママ 余が妻の師ヤングマン嬢米国に帰省せるよし船は郵便船﹁オセ
し。
りといへども其罪悪を排したらんには恩寵の明なるものあるべ
人は神の恩寵摂理の罪悪のために蔽はれて見る能はざるものあ
屡3之を蔽ひて吾人に其光明を仰がしめざることあるなり。吾
明治十四年八月余は父に伴はれて富士山に登らんとし東京を発
余は妻と共に嬢を送らんと其日同室に至り﹁オセアニア﹂号に
は懐中より二、三円余の古型をいだし石原保太郎氏に与へて曰
達す。解三三大凡一時間にして人々皆辞去せんとせしが其時嬢
会し、同月十七日富嶽に登る。其日午時頃より屡3雨あり木立
いたり、兼て書を以て相会せんとしたる伊豆戸田村の太田氏に
を過ぎて野山にいでたる頃は晴天にして四辺の眺望美ならんと
し箱根に一泊し新潟より一人の僕を雇ひお録音を越え御殿場に
に感じたるものありき。我紙幣は吾人本邦人の活路に於て必要
く﹁余米国に航すれば日本の通貨は余に用なし、是を君に托す
欠くべからざるものなり。然れども米国に航すれば反古紙に同
れたり、蚊に於て月夜を撰まざりしを悔み、四合五勺に一泊し
思はれしが既にタ誤審峯に隠れ麓の方より黒み渡りて其日は暮
願は風は啓蒙学校のために使用し賜はれ﹂と。余薫にありて大
として世事に奔走す、其事固より不可なしといへども其世事を
き江の島鎌倉辺を遠く見、箱根の湖水は土手の中の水溜の如
マご
く、山中の湖水は梢ヌ大く見えて足下に接するが如く殊に彼の
十八日午前三時頃再び登り初めたり。麓の景色の次第に変じゆ
じく毫も価値あるものにあらず。人の世にありて拮据勉励汲々
以て未来の通貨たらしめんとするに至りては大なる誤謬たるを
よぎもとみ
免がれざるなり。ああ、世を頼むものよ、﹁己の為に善基を蓄
へ黍の備をなすべし是真の生重んだめなり﹂︵前提六。十九︶ζ
何あらんと思ひくの想像を画きつつ登りて第九合に至らんと
きも無く唯アレ︿の喚声を発するのみ。余輩は山贔の眺望如
御来光と称する太陽の地平線を破りて昇る其美馬大、形容すべ
第百十章 富士山簸晴天なりし事
する頃より麓の方は次第に雲蔽ひて目に遮ぎるものもなく北の
思はざるべからず。
○基督黙示を以てパウロに語りて曰く﹁わが恩なんぢに足れ
理を見るの眼光なく屡3神の恩寵を疑ふことあり。 ﹁神の弱き
通れ神は無限にして人は有限なり、有限なるが故に其無限の摂
の無学を後世に披露するは何れの辺ぞ、銀の底ひきたるが如く
らみに見えんか、絵の如く美なりとて江の浦と名付け仮名違ひ
異ならず。我が生れし故郷は何方ぞ、我が遊びし香山は盛砂ぐ
際より青く其贔を突出せしめしのみ。其他は唯綿を広げたるに
方を長視すれば甲斐信濃の諸山の八、九千尺以上のもののみ雲
は人よりも強し﹂何ぞ知らん吾人の知らざる所に大恩寵の隠れ
、り﹂︵騰+二︶
たるものあるを。太陽は其光明を失ふことなし。然れども浮雲
恥か記 第五巻
137
して草津に達し小蒸汽船にて湖水を渡り大津に着す。三井寺の
発し四日掛に上陸し其日近州水口に一泊し翌十四日同所を出立
恥 か 記 第五巻
見ゆべき狩野川の流は如何に、昨年初めて渡りし遠州灘はどの
見物など終り同所前にて食事を為し十二時十五分量の汽車に乗
辺なりやと何程目をこすりても白き綿の外見るものはあらず。
下界の人々は曇天なりとて蒸暑き露なれば太陽の光も見ずして
を争ひ余は中等を主張し氏は下等を主張す。余停車場に入りて
思へらく若し横井氏に切符を買はしめば或は下等を買はんか、
らんとて停車場に至る。停車場に入る前より横井氏と汽車の等
如じ余自ら中等を買はんにはと。横井氏に荷物を托して余は売
さへ無ぎ青天の下にありて太陽の光線温熱最と快く華氏四十度
の気候は日向ぼこりを悦び居れり。ああ、下界にありては太陽
措き居るならん。然れどく富嶽の頂上に居る余輩は一点の雲
の光線無しと思はん愚人もあるべし。然し天際にある余輩は麗
し。余が売出口前にたてる鳥居形の手摩りの前に立ちたる時一
出口に至れり。最早、人多くは切手を買ひて其所は毫も混雑な
人の商人体の人口の前の板に二言を左右に広く張り口をのぞき
かなる皇霊を楽しめるなり。神の恩寵吾人の目に見えずとて神
の恩寵を疑ふ者深く思はざるべからず。
138
に恩寵なしと思ふは自ら其愚を吹聴し居るものにあらずや。神
込みて切符を受取らんと待つものあり、余が右の方に又一人あ
もどか
りて今買居る者を待つものなり。右の人はいと焦躁しき様子に
さっ
て前の人の左の脊をおしのけ一枚の札を口に入れんとせり。其
一時手を引きしが又手をいだして前と同じことを為したるに余
時前の人は三顧りて一声高く余が右の方の人を叱りぬ。彼の人
ふりかへ
第百十二君 金時計を鎗適せられたる事
こどもら
○基督温く﹁訪れ此世の子等は此世に於ては光の子等より尤
@も巧なり﹂︵着帯︶
ぎつて
はらん﹂と声は弥3高く勢中々に恐ろしかりき。余は其人の怒
が前の人は大に怒り﹁札を買ふなら、何故横より順当に来な
の是く遅きや隠しと思ひ居る臨急の人は右の方へと抜けて行き
りとて無関係の.余なれば唯見て居るのみ。何故に切符の売出し
るを見て余り酷なりと思ひ隣の人に幾分か気の毒に思ひしが去
ふが如くなるなり。然るが故に世の狡猜なる者は信者の此欠点
口に入らんとす。ああ余の胸に当るものあり、見れば余が外套
たり。余は其人の居らずなりしを見てマセ木を左によけて売出
の衣嚢に入れたる時計の鎖のブラノ\と下り居るを見たり。今
督は世の子等は光の子等よりも巧なりとて警め又﹁蛇の如く賢
﹃
明治十四年十月石州津和野に伝道せんとし横井某と共に東京を
く鵠の如く馴良なれ﹂と教へたまひしなり。
にっけいって信者の金銭を奪ふことあり、此危険あるが故に基
は悪者が世人は皆悪者なり人を見たら盗人と思への諺にしたが
はず、信徒は自己が正直なるを以て他人も皆正直ならんと思ふ
々として不義を避くるが故に幾分か活発機敏を欠くの嫌なき能
世人は狡猫不義の分子を含みても機敏なるを貴み信徒は戦々莇
停車場に入りて時をあはせたる時までは時計に着き居りしに不
さつ
思議なりと思ひ右手にては売出口に札をいだしながら左手にて
明治十四年十月横井元峰氏と共に津和野伝道の途次讃州琴平神
於ては非常の用心あらざれば危し。少年血気の人慎まざるべか
白
衣嚢を上よりさぐり見れば中には何も無し。ああ、やられた
なりと、又聞く、曽て神戸の商人某同家に投じ食を命ず何程に
社に詣る。予て聞く同所旅人宿虎屋と称するは日本第一の大館
企て倦は三人、計りて一人は買手怒り手となり一人は膏を押し
を費したりやを問ふ。下路答へて日く﹁御吸物の中には八円の
下碑久しからずして丁重なる食を出だす。食後客は二十円の価
て食はしむるやと問ひしに下言掛へて﹁十五銭以上何程にて
らず。
り、いつ、いかにしてやられたりや自ら知らず。後にて思へば
てしからるる者となり、余が前と右の方に気をとられたる時他
わざ
の一人子の左の方より来りて術を為したるものならん。今より
鶯二羽つつを入れたり﹂と。以て其不当なる其負軋みの甚しき
たる鮮魚積んで山を為せり以て来客の必ず多きを察すべし。.家
を疑ひ且一時の云ひがかり馬鹿々々しく感じ、何が為に二十円
も﹂と。客其言葉の無礼なるを怒りて一人前二十円の食を命ず。
考れば余の右にありて焦躁しがりたる彼の人は余が切符を買ふ
ち ぼ
頃には何方に行きしか其辺には見えざりき。西京大阪の撰徒は
り。、若し余が己が身を知りて下等の汽車を甘んじ又普通の銀時
第百十二章 虎屋の下女を叱りたる事
続したるを見るべし。
縁故ありて筆者は有名なる大家を多しとす其数代虎屋として連
用うべき所に虎を用ゐ畠中の軸物扁額襖の張付等多くは皆色に
よこしま
○箴言に曰く﹁邪曲なる者の途に入ること量れ、悪者の路を
@れ↑︵四。十四、十五︶
なり。食事中余輩に侍したるは三十歳余と見ゆる下脾なりしが
止を得ざることとし程よく之を拒絶す、彼中々に承諾せず。彼
食後余輩に妓楼の遊興を勧誘す。余輩驚きたれども異教人の常
満つる所朱膳朱椀、二の膳附にして三十銭には高価ならざりし
しとすればなり。殊に罪悪の具︵芸娼妓の類︶備はりたる所に
人は毒性罪を犯すものなり、然れども誘惑あらざれば罪を犯す
余輩も一室をトして午飯を命ぜしが一人前三十銭を注文せり。
歩むこと勿れ、これを避けよ、過ぐること替れ、離れて去
の構造は先づ古風と称すべく室の数九十九個あり、屋上鬼瓦を
計にても雲居たらんには此災には罹らざりしものを。
もどか
しとは思はざりしなり。ああ此世の子等は光の子等よりも巧な
東京のものよりは巧なりと聞きしが大津にて已に槍奪せらるべ
を見るべし。虎屋は有名なる程に大なり。先づ其家に入れば長
いけす
き土間あり、左の方は家人の住居にして右の方に生巣あり澱々
す り
余が時をあはせたる時撰徒ども余が時計を見、之を捻薫せんと
剛
悪を為すに至る、是れ不義罪悪は互に相誘ひて以て成立つを多
恥か記 第五巻
139
,
こと少し、人は一人なる時悪人たるもの少く多数相合すれば大
恥か記 第五巻
は三日く﹁此地の妓娼には太夫さん︵神官のこと︶の母さんが
を以て拒絶す、彼中々にきかず﹁お勤はお勤、これはこれで
ありますからお世話すべし﹂と。余輩遂に基督教の伝道者たる
す﹂と。後には余輩を捕へて強ひて誘はんとせり。余輩最早黙
するに忍びず遂に余は厳然容を改め大喝一声彼を叱陀す。彼驚
きて去り、其後手を打つも彼来らず、久しからずして去りたり
き。後十六年中宇都宮の手塚といふ旅舎に於て是と同じきこと
ありて困却したることありき。ああ、世人は己に罪悪の奴とな
なり。
140
りき。世と交はるもの殊に注意せざれば之に化されざること稀
ノ
擬
至 第百三十八章
兜 第百十三章
第 六 巻
ママ ぐ、
るるを見たれば不思議に思ひて舷によりて居りしに僧来りて突
ヘ ヘ ヘ ヘ へ
ヘ へ
然余に問へり﹁貴君はセイショウなりや﹂と。余は二、三回聞
問ふの露ならんと察し、余は答へて﹁所持せり﹂といふ。彼驚き
きなほして遂に彼は余の伝道師たるを知り聖書を所持せりゃと
ひしなるを知得たり。ああ、彼が余に得して船室に出入したる
たるが如く又二、三問せり。舷に於て彼は余を船長なりやと聞
ひたるが為に余の動静を窺ふものと為したり。彼が船長といひ
ヘ へ
は袈か問はんとして待ちたるな三余は彼に知られたりと半弓
も我を番目附くるに至るべし。
ママ しは余の耳に聖書と聞えぬ。若し余に是等の疑心あらざりしな
ヘ へ
第百十四章 木賃宿に止宿したる事
らば此誤解はあらざりしなり。
にある時一人の僧あり余が昇れば彼れ昇り余降れば彼れ降り常
服を脱して舟中に放下し出だし舟子を助けて舟を漕ぎ以て自ら
曽て聞く陳平夜河を渡る、渡船の舟子盗人を為すを知り、彼衣
@り﹂︵馬射。二十一︶
○基督曰く﹁爾曹の財のある所に心もまたあるぺければな
聖書讃美歌等のあるを見たらんと思ひたればなり。余は彼と語
其財なきを示して安全なるを得たりと。易には其危きを形容し
伝道者と為ししなるべしと思へり。蓋し彼必ず余の手荷物中に
らんかと思へり。然れども若し宗教上の議論にても生じては不
恥か記 第六巻
可なりと思ひたれば彼余に近くも余は敢て言葉をかけざりしな
に余に尾して余の動静を窺ふものの如し。余は彼必ず余を以て
板にありて変化しつつ行く景色を見るに忙しがりき。余が甲板
得も云はれず満目の秋色掬すべし。余は船室にあるに忍びず甲
公が山村滴涯激変棋島松笠置似翠傘と詠じたまひし内海の景色
に乗り広島に向ふ。春日天気晴朗、掌大の雲も目に遮らず恋恭
山の岩永氏を訪ひ二、三日を歴て十月二十二日尾の道より汽船
余明治十四年津和野伝道の時同行者横井氏に直謝に別れ余は福
ママ 疑ふ心ありて幽霊怪物出で来らんかと思ふものは屡3幽霊怪物
@在す我父の前に 之 を 識 ら ず と い ふ べ し ﹂ ︵ 覇 府 も
り。余が船の音頭の瀬戸に近ぎ時空水中に大粒の砂の混じて流
直
第百十三章 疑心暗鬼を生ずる事
か
○基督曰く﹁人の前に我を識らずと云はんものを我も亦天に
恥
に出会するものなり、疑ふ時は己が足音も我を襲ひ朋友の一瞥
恥 か 一記 三山ハ巻
て﹁錦を着て懸る行くが如し﹂と云へり。若し金銀の奪はるべ
りて長く其儘に用ゐられたるを示せり。又次の問には七、八人
ママ の壮漢等車座になりて潜くみかはし或る時は罵り或る時は笑ひ
食ふに堪ふるものはあらざるべしと思ひたれば主婦を呼びて
の集りたるものといふべし。余は粋家にて何を調理したりとて
或は低く私語き或は高く歌ひ若し遠慮なく評したらんには山賊
ささや
きものなどあらざりしならば吾人生活の困難其半を減ずるを得
べきなり。
に横井氏に後れてより独旅となり厳島神社を見物したるは十月
明治十四年石州伝道の旅行は奇事珍談少からざりき。余は靹津
﹁数々の食物を備ふるに及ばず、錦川にてとりたる鮎あるべし、
はんみち
あらば塩焼にしいだぜよ、其他には飯にて足れり﹂といへり。
主婦は云へり﹁時後れて鮎は少し、あるか無きかを問ふべし、
二十四日にして翌二十五日同所を出帆し、新湊に着し岩国に至
れり。同所錦帯橋畔の一茶店をトして一休し人足一人を雇ひ荷
なくは
物を負はせ案内者を兼任せしめて発す。かねて南桑と称する村
ん、鶏卵はとても手に入るまじ﹂と此一言また余を驚かした
米は生憎無し半里ほど下れば米あり、今一と走りして買ひ来ら
り。 一時間許にして飯はいでたり、味ひは思ひしょりも美な
ママ に一泊せんと思ひしが岩国を出立したるは午後二時にして錦
急げども秋の日かげの短くて
は眠らんとして床を敷きてよと乞ひしに主婦の配意にて余だけ
り、鮎は唯一尾ありしのみ。食を終りて何も為すことなし、余
んには布袋の中に綿をちぎりて入れたるが如く拳大の綿の塊不
は蒲団ありたり。然し蒲団といふは名のみにて適当に評したら
142
川を沿ひて上るや、はや既に鴉は杜に急ぐの時となりぬ。
あとより渡るる玖珂の山路
面も見えぬ程になりき。案内者は云へり、 ﹁吉谷には宿屋もあ
規則に列を為すのみ。余は眠らんとして次の間の壮漢に懸念せ
ぎちだに
など独り捻りつつ行きしが吉谷といふ所に達したる頃ははや人
の家に入れり。家中は多人数ありて混雑し居るが如くなりしが
は福山の岩永氏にて金を借りたる程なれば今多くはあらざりし
り。蓋し大津にて時計をとられ幾分か怖気つきたればなり。余
ればお宿りなされイ﹂と。余は彼に導かれて山の根にある一軒
人の家かと問はんとして﹁此家は何だへ﹂と云へり。妻女は床
へ着たるままに横はれり。然し余が腰骨は痛みて眠る能はず綿
ぐ工夫の末遂に僅少の金は靴足袋の底に入れてはき、外套さ
が此所にて無けなしの所持金を奪はれては大変なりと、いろ
平家の構造にて宿屋とは思はれざりき。余は何気なく指環は素
に立ちて﹁私方は木賃宿でございます﹂と答へぬ。余は木賃宿
の語に驚きたれども家中を照す五分野ランプにて見れば然まで
の塊にのせて一時疹痛を配るるが如くなれば忽ち外れて又痛み
きたなくもなし且他には止宿すべき家もなければ一泊すべしと
床中に入りても一時間余は眠る能はざりき。余は心配ありし故
,
て橡もなき土間より直に座敷に上りしが、鼓に驚きしは座敷に
−冶
は、否、家の中には何方にも畳は一枚もなく床板ははや光沢あ
F
¢
しぎ議論なれども下愚者に対しては幾分か勢力ありしならん、
もと
しやと見ればはや一人も居らず、家中寂として微に主婦の鋳を
に配布したるものなれば中々に得易からず、余輩が京坂を経て
が得ず、後には寺院に入りて施本を乞ひたれど又得ず。よき機
神戸にいたりし頃横井氏は一本を得んとて人にも店にも尋ねし
余輩は其小冊子を得んとしたれども固売品にあらずして仏者問
には手さへ入るべき竪穴あり又家の周囲に壁あるはなく松の野
り十月二十日多度津より第一広島丸に乗りて発せり。余輩は見
会もあらんとて遂に神戸を発したり。途次琴平神社の見物を終
@ @ @ @ ︵九。十五︶
@ だして曰く﹁余が船は尾の道に達し同船の角三等皆上陸したる
は津和野に着せしが横井氏の傍に耶蘇教無道理由、三冊あるを
43
見たり、余は驚き如何にして得たりやを聞ふ。氏は得々然三三 1
和野に入りしは余よりも四、五日の前なりき。同月二十七日余
井氏に与へ余は靹津にて上陸せり。横井氏は其日広島に航し津
福山の岩永氏にて金を借らんとて余が持合はせたるものも皆横
物のために多く旅費を費したれば二人ともに嚢中己に軽し余は
板を縄もてからげ付けたるありき。然し若し余にして多くの旅
くにびと あな
第百十五章 耶蘇教無道理を得たる事
にとりて幸福なりしなり。
をも得ざりしならん。されど余が心のあるべき財なかりしは時
費を携へ又大切なる品物など所持したりしならば一時間の安眠
覚めしが見れば余が注意の床の問はまだ荒壁の儘にして柱の側
きくのみ。初めて余は安堵せり。黎明枕辺の冷気に驚かされて
に珍しくも十二時過に覚めたり。次の間の壮漢どもは如何にせ
の
○聖詩に高く﹁もろくの国民はおのがっくれる隣におちい
@ りそのかくしまうけたる網におのが足をとらへらる﹂
@ しが余の甲板にいつるや彼大に我教を攻撃せり。余は彼の卑劣
ら一封の書状の如きものを﹃御一覧ください﹄とていだしたり。
て止みぬ。空船は宇品島に果てて艀船に入りしに彼の僧は何や
なるを悪み彼を論倒せんと思ひしが争闘を惹起さんことを恐れ
東京に耶蘇教無道理なる小冊子の流布するあり、蓋し仏徒藤島
教無道理学一巻より第三巻まで及び耶蘇⋮教雨落論ならんとは。
余は艀船の発したる後に何ならんと説き見れば何ぞ思はん耶蘇
恥か記 第六巻
りいでしものなり。然し其湿る所は固より取るに足らぬ撮めか
器楽なるものの著述したる所にして我教を攻撃せんとの目的よ
明治十四年十月横井氏と共に石州津和野に伝道す。是より先き
はしむるが如き其一例なり。
傷はんとして耶蘇退治演説会を開き却て地方の人心を我教に向
を以て船室中僅に五、六人の客あるのみ、中に一人の僧侶あ
@ 愚者悪者が人を陥んとして設くる所の謀略は往々自己を陥るる
@ して余を見たり。彼は余の船室にある時は黙して何も云はざり
@ り、余が傍にある者に我教の教義を語れる時彼は苦々敷き顔色
@ 者となれり、織れ神の冥々裡に摂理したまふ所にして愚者悪者
@ 滅び義者善者の遂に栄えるに至るの途なり。彼の売僧等平米を
たる時に及びて之を得たり﹂と。彼の僧侶が自己の主義のため
余の悦び知るべし。得んとしたる時は得ずして己に其望の絶え
と。夫より彼に反対するものもあり余も彼に反対し一時は大議
如く又は蜂などの如く人を害し苦しむる竜の教多きにあらずや
が如く慈悲愛憐の神にはあらざるなり、視よ、世間には蚊蚤の
とのことなるが若し果して然りとせば法嗣は彼の信徒の云へる
恥か記 第六巻
に熱心なるは賞すべしといへども其卑劣なる又其小冊子が余輩
論となりしが遂に余は神官に問へり﹁貴君は先刻より餅を食ひ
に伝道の材料を与へたるとは愚なりといはざるべからず。あ
て舌打したまふが果して其味は美なりや﹂と。彼は曰く﹁美な
たる蜜にあらずや﹂と。神官曰く﹁然り、実に蜜の味の美なる
り﹂と。又曰く﹁其美なるは餅其物の味のみにあらず之に添へ
あ、悪者の張る網は自己の足をかくるものたらざるを得んや。
第百十六章 神官閉ロの事
は抑3誰の造りしものぞ、君が世に害ありとしたまふ蜂のつく
メたりと鋭く神宮に問へり﹁君が美なりとして悦びたまふ其蜜
は余一人の考のみにあらず世間皆よく之を知れり﹂と。余はシ
○箴言に曰く﹁エホバはすべての物をおのく其辺のために
@造り、悪人をも悪しき日のために造りたまへり﹂︵叶六.︶
物必ず表裏あり、其利害得失を知らんとするものは善く其表裏
金銀の楯を金とし又は銀と為すの不覚あるべし。
ひたまふにあらずや﹂と。神官は此語をききて語塞り何か云は
りし所にあらずや、君は蜂の刺すをのみ思ひて蜜を貯ふるを思
はり
はず、君が基督教の神を無慈悲なりといふも唯蜂の刺のみを思
を観察せざるべからず。若し還せずして一方に偏したらんには
明治十四年十一月中余は石州津和野の旅舎にあり。一夜眠らん
止みたりと。
んとしたるが如くなりしがいふべきの言葉を得ず其儘閉口して
とする頃旅舎の斜向ひの家に大なる議論あり甲論乙駁其声鴛々
ああ、世には此神官の類頗る多し唯毎事に其一方を見るのみに
たり。余輩は何の議論なりやを知らんとせしが其言葉は聞取す
る能はず、時々凸神、耶蘇等の言を聞きたり。余輩は何となく
の感謝によりて神の栄をあらはさんためなり﹂︵後配四。十五︶菟
﹁万事は皆なんぢらの益となれり、この其鴻 恩おほくの人
おほいなるめぐみ
て全体を悟らず妄に神を攻撃して悟として恥ぢざるものあり、
遺憾に思ひたれど聞くべき策もあらざれば其許に眠りたり。翌
朝近傍薬種屋の主人来る。余輩昨夜の議論云々を以てせしに彼
思はざるべからず。
曰く﹁昨夜何某方に於て面白き議論ありき、当町に神官某なる
憾あり、彼いたく基督教をきらひ基督教の説とし云へば悉く皆
﹁㌻
反対せり、昨夜も彼何某方に集り四方八方の話をしながら餅を
焼ぎて食ひ居たり、其談話中不図余が近頃基督教を聞くとの話
より彼の神官はいたく余に反対し基督教の神は万物を造りたり
島
ユ44
@の清きか或適しぎかをあら讐︵二十・十一︶
第百十七章 村田氏喫茶の事
わ ざ
○箴言に曰く﹁幼子といへども其動作によりておのれの根性
,
塑
とも称すべきものあり何ぞや、氏が衣服下駄などの粗末にして
氏を困却せしめて氏を懲さんとしたりしなり。又氏が一の潔癖
新しきことなり。氏は綿服の他着せざりしが未だ其一部分も垢
は一足一、二銭のものにして二、三日にして放棄し以て新なる
付きたることなく其地衿の如きは一、二日にして必ず洗ひ下駄
を用みるといへり、然れども世に所謂潔癖の類にはあらずして
示すを得ぺければなり。
るを見るや氏は清服を着し、世人が縞のヅボンを着する時は氏
や其一石を置く毎に﹁碁なら県令でも糞でも﹂といふ。又一日
び御髪の埃を払ふ氏は之を見て不平なき能はず県令と碁を囲む
より善ぎ茶を喫するものはあらざるなりと。翌日午前九時の約
を祝さんために余が家に来れ、茶を進ぜん、蓋し島根県下に余
温く吟ずるを見て君等は茶を好むや、若し好まば明日の天朝節
45
余輩の碧玉に来れり。一日横井氏が五十銭の茶をビイ︿然と ユ
明治十四年十一月中余が横井氏と共に津和野にある頃氏は屡≧
更に他人を害するものにはあらざるなり。
県令の家にいたる有平糖製の鯛品等の間に飾られたり。氏近き
や忽ち鉄拳を挙げて其節を塵写し御菓子なら頂戴せんと連呼し
に入らんとし其楷段より仰いで其上を見れば一の横額あり。
にして敢て美なるにあらず。氏に誘引せられて一の中二階の室
なり。余は横井氏と共にいでて氏の家に行く。普通士族の第宅
貴人俗客不許入
つつ之を食へり。県令は氏の挙動を怒りたれども公然其情を洩
るや県庁より受取るべき金一百両あり。県令は氏を招き太政官
免かれず君入るを許すや否と三人共に大に笑ひて入る。余は子
と岩沼其奇癖に驚く。余曰く余は貴人にあらざるも俗客たるを
発行の百両楮幣一枚を与ふ。氏は諸払を為さんとするに三円五
マご
円の支払に釣金をいだすものなく大に究し会計掛に行きて乞ふ
福に入りて大に驚きたり。何に驚きしや、其掌中にある器物は
恥か記 第六巻
も小札無しとて其乞に応ぜず夫がために無益に三日を費し術計
すを得ず時の来るを待てり。氏は職を辞して古郷に帰らんとす
ママ て是は何かと問へば県令はこたへて菓子なりと。氏菓子とぎく
を奉ず偶ヌ県令の知遇を得囲碁の敵手となる官吏等皆県令に媚
赤のヅボンを着し、多くは世人の反対に出づ。曽て島根県に職
石州津和野の士村田春生氏は奇癖ある人なり世人の洋服を着す
人の性質の自ら外部に顕はるるものにして時としては其人品を
生に於て二、三の癖ある実に止を得ざるものなり。唯其癖の自
より一両札百枚をいだして交換して氏に附したり。蓋し県令は
亦困じたりやと。氏が困却せりとの言を聞くや県令は小箱の中
県令は微笑しつつ閥ひて日く、釣金をいだすものなくして君も
尽きたるを以て県令を訪ひ其事情を明し小札の交換を乞ひたり。
砲
己と他人とに逆なきものを択まば可なり。蓋し癖なるものは其
世の諺に曰く﹁無くて七癖、あって四十八癖﹂と不完全なる人
ざるはなし。久しからずして氏は一茶碗をいだす。其煎法の如
畳とブランケット一枚を除きて一物も支那又は朝鮮の製にあら
応じて一片を食ひ暫く味ひて﹁否、然らず﹂と答へぬ。余は此
り声をかけて﹁其蒲鉾は鰻にあらずや﹂と問ふ。若者其声に
り。此店の若者台所にありて口取を作り居りしが老主人帳場よ
の一店をトして荷物のための人足を待てる時例の赤蒲鉾を見た
恥 か 一記 第山ハ巻
ぎ複雑極りなく記憶するを得ざる程なりき。茶は宇治製の由な
き。叢叢十一月十八日余は独り津和野を去り已に山口にある横
問答によりて此辺簸を以て製するの風ありと思ひ大に恐れたり
りしが名付くるに﹁江上清風﹂といふを以てす。遂に其価を問
へば金四円なりと。五円と七円の茶あれども今用ゐ尽くして大
井氏を追ひしなり。徳佐より駕籠に乗り午時鷹の巣に達し一店
とくさ
をトして駕夫を雇はんとて其店の主人に命ず。主人は日ふ客を
かを問ひしに氏は歴て京都にあり某卿に就きて学びしなりと。
阪に注文しまだ来らずと。余輩は又如何にして氏が茶事を知る
実に氏は島根県中の茶人なるべし。余は四円の茶を喫したるこ
時間を要すべしと。余は待つべしとて人足を呼ばせ其間に午飯
待つ駕夫とては一人もなし、人足は畑にあり呼びて来るには二・
を喫ぜんと店の中を見ればかねて余が食ひたく思ひし赤蒲鉾も
と此時を以て始めてとす、蓋し又終りならん。其他氏の奇行は
論孟を暗請し得ること足袋をはぎたることなきことなど皆人の
問ひしに彼答へて否、然らず簸は食はるべきものにあらずと。
あり又幸に護憲もありき。余は主入に其蒲鉾は簸にあらずやと
@ @ @ @ @ @ @ @ i堰ハ︶
り。余は徒歩するの労よりは駕中の欝屈をよしとす人足と談話
ママ しつつ行きしがまだ一時間を経ざるに胸の悪きこと甚しく吐嘔
ママ せんとせしが去りとていでざりき。如何にしたらん駕籠に酩ひ
しかと考ふるに然るにもあらず。胸はいよく苦しくはや堪へ
られぬまでになりしが二時不図彼の赤蒲鉾を思ひいだせり。主
のにあらずといひしが食ひ得ずとならば岩国の飲食店にて老主
・人は簸にあらずといひしが偽なりしならんか、彼は食ふべぎも
余が明治十四年津和野行を為すや始めて見る所多きがために食
らんと思へば何となく心細くも感ぜられ、若し簸に中りしなら﹂
人の疑ふべぎ筈なしと。是く思へば胸は益ヌ苦しく籐の中毒な
隻影は飽食暖衣の小心を過ぐるが為に来るもの少しとぜず。
ひて見たく思ふものも少なからざりしなり。余が殊に食ひたく
隻
思ひしは赤き蒲鉾と焼鯛との二品なりき。余が岩国に至り橋麓
咲、
ゆ
146
毎日長州萩まで撃劔の稽古に通学したること︵其問七里あり︶
気性を見るべし、氏は明治の一撃人なるかな。
@ 余は悦びて食を命じ之を終りし頃人足は駕籠をかつぎて来れ
為し得ざる所なり。ああ、氏の此奇行は氏の酒々落々たる氏の
E箴言に曰く﹁ただ無くてなら糧をあたへたまへ﹂︵葺
第百十八章 腐れば鯛も食ひ得ざる事
@ 夫れ衣食に足ることを知るは人生の一大幸福なり、世人の不幸
@ ○パウロ曰く﹁それ衣食あらば之を以て足りとすべし﹂
ば早く療治ぜざれば危し若し途中に寄るるが如きことあらば菅
に苦痛したり鯛も腐るときは食ふに堪へざるなり。
りたるに中りたるなりきひああ、下司にも食を熱りて夫がため
E箴言に曰く﹁心に思慮なければ霊口からず﹂︵十九。二︶
第百十九章 電報、料二円五十余銭の事
に恥かしきのみならず我死を慰むる朋友もなし。ああ我過ちぬ
と後悔すれば胸は張裂くるが如く思へり。かねて聞く簸に中り
しものは苦痛甚しく見るさへ恐ろしきものなりとのことなるが
語に日く﹁遠ぎ慮なければ近き憂あり﹂と。世の失敗の歴史を
余の苦痛は大に其性質を異にせり、或は是の苦痛の初期にして
余が津和野に旅行したる時其経過する所の珍しきが為と横井氏
今に大苦痛の来れるかといよく安き心はあらざりしなり。然
の同行したるがために多くの金と日とを費したり。故に中国に
よく思慮を運らす時は大成功なきも大失敗はあらざるなり。
じ余を下乗せしめ、上着を脱ぎて駕に入れ身体を軽くして急歩
至りし頃は已に懐中欠乏を訴へ余は横井氏と分れ福山の岩永氏
見れば其多分は思慮なきより生ずるものなり、愚者といへども
大歩暗雲に走り駕夫も人足も余に追従し能はざる程に行きしが
にて金を借り又横井氏は広島にて佐々木氏より借りたり。是の
し余は思ひかへしたり。余独り心痛したりとて何の答あらん、如
大凡一時間にして全身に汗を発し胸の苦痛は幾分か軽く又一時
如くなれば津和野を去らんとする頃東京より金を送らせんとせ
かじ成敗は神に一任して早く山口に近づくにはと余は人足に命
問にして大に快くなれり。五時半頃篠目に達し駕籠も駕夫も
しが郵便にて往復し居りては徒に多くの時日を費さざるべから
しののめ
に尚ほ先までを約し家に入りて洋服を皆脱ぎ和服をいだして悉
換へんとせしに無しといふ。止を得ず賃を増して鷹の巣の人夫
ず。弦に於て余は横井氏を山口に送り彼地より電報を発し電報
ママ く変へ蒲団一枚を借りて駕に入りて発す。岸里已に薄暮、四方
氏の報を待ちしに十一月十七日のタ刻使あり書と金とを持ちて
六十銭を費さば可なりと思ひしなり。余は津和野にありて横井
銭許なり余は是く思ひたれば仮令一百余字の通信なりとも五、
差出人受取人の姓名住所金五銭音信文は一音信と称するもの五
留にあひし客の如しなどの贅言を加へたり。蓋し当時電報料は
の景色も見る能はざるに至りたれば自ら心中に眠り久しくして 為換にて金を受取らんことをすすめたりしなり。余は横井氏に
一茶店に駕をおろされて覚むれば既に夜となりて先刻までの胸 電文を代りて与へたり。其文はよく記憶せざれども其急迫の状
を明にせざれば不可なりと字数は一百余字なり而して其文中河
の苦痛は忘れたるが如くなりき。徒歩したるがよかりしか発汗
したがよかりしか又は前の茶店にて快く通じたるがためなりし
か何れにせよ最早平日と少しも異る所なし。悦びて其所を発し
久しからずして人車のある所に達したれば車にかへて駕夫をか
へし轟々然山口の横井氏が宿に入りたり。後に人にも問ひて考
ふれば其胸の苦しがりしは簸の毒にはあらずして焼鯛の古くな
恥か記 第六巻
147
過横井氏が山口の宿阪本に達したるなり。渚氏より其顛末を聞
横井氏より来りたれば諸賢を済ませて十八日に出立し当夜十時
り。是くすること三回に及ぶ。余は何となく彼に問へり﹁手前
れ﹂と。蓋し彼等の符牒にして其走ることを遅くやれとの意な
二、三十町を走るや彼は小声して他の車夫にいへり﹁柳にや
恥 か 一記 榊弟山ハ田春︸
は一電信局を経過せる毎に二銭を加へるものにて山口より東京
くに及びて余が大に驚ぎたるものあり。其故は当時の規則にて
ては二円五十銭に価したるなり。殊に余の失策は其のみならず
はぬ車夫は出で来りて余に問へり。 ﹁此所はよき車夫のある所
はず原宿の一店に休息す。車夫等私に語る所あり、彼の気に食
口を揃へて﹁我等は出来得るだけ走るなり﹂と。余は其余を問
たちは是より早くは走り得ざるや又走るに意なきや﹂と。彼等
五十円の為換を乞ひたるに当時第一銀行にては百円以下を取扱
にして今車を代へたまへば走ることも早く御便利ならん、車の
までは僅に十字の一文三十軒置にて余が横井氏に托したる文に
はずといふを以て余が父は不用の金五十円を送りたるにてあり
ぜり。よって余は云へり﹁若し交換したく思はば交換したしと
交換を許したまふや否﹂と。鼓に於て余は彼を面すの必要を感
ママ ぎことはあらざるなり。
千万なる車夫等なり余は手前等の如き﹁よぎ車夫﹂をば雇ふを
148
き。ああ、思慮なぎは何事によらず何時でも何方でも誰にも善
や、手前たちは知らざるならん、余は沼津にありしこと十九年
なり、原宿がよしとならば手前たちも亦原宿のよき車夫ならず
乞へ、原宿が殊によぎ車夫ある所とは我一回も聞きしことなき
第百二十章 人力車夫を叱咤したる事
@は愚なることを顕 は す ﹂ ︵ 箴 十 四 ・ 二 十 九 ︶
○所羅門日く﹁怒を遅くする者は大なる知識あり気の短き者
にやれ﹂の為に其足をとどめたること三回ありき、重ヌ不都合
殊に元吉原を発してより後彼の車夫等少しく走れば手前の﹁柳
りや否我よく知れり、手前等の虚言に欺かるるものにあらず、
間、原、吉原は我故郷に異ならず、原宿がよき車夫のある所な
優る利益なきにあらざれども多くは其結果自己の愚をあらはす
余は自ら性急なりと信ぜり。然れども他人を盗塁したることは
深く畏縮せるものの如し。彼等が交換せんといふは其賃銭の何
呼して彼等を追返さんとす。車夫等大に驚き;自の弁疏なく唯
分を収めんと思ひてなり。若し此所にて止められ他に雇はるる
好まず、直に去れ、余は他の車夫をやとひて乗らん﹂と、疾
車夫変りしが其変りし時に一人の何となく心にかなはざるもの
時は三文の利色もなく一里半の仕事を失ふだけ損せるなり。彼
唯二回あるのみ。明治十五年五月十七日のことなりき。余は静
あり、余は故に論集を呼び念を押して沼津まで菓時間にて行き
嘆
得るやと問へり。彼轄答へて其時厚内に達すべしと。出でて
岡市を発し人力車三輌を連ねて東にむかふ。元吉原に来りし時
せっかち
に終るものなり。
狸諺に﹁短気は損気﹂といふ。怒るべき時に怒るは怒らざるに
等頻に詫びたれども余は之を許さず、自ら壷中に他の車夫をや
とひて発したりぎ。
尚ほ一件あり明治二十一年六月九日余は妻子を携へ岩手県盛岡
に移住せる時東京より一の関までは汽車汽船にて来りしが一の
関より以北は人力車に乗りしなり。余は小距離にて車夫を変へ
るの煩しさを避けんとして出来得るだけ遠く約したり。水沢を
見えたれば余は車夫一同に決して車をかへることを許さず又四
発したる時車夫等は先より来る車と代らんことを望めるが如く
輌の人力車は互に相離れず共に行くべしと命じたり。然るに水
沢を出でて少しく進むや柳の車夫は一人家の裏に入りたり。余
は車中より他のものを制し其行くことを止めんとせしが容易く
は従はず、二、三町行きて漸く止めて待ちしに久しくして柳の
車は来れり。見れば水沢をいでたる車夫にはあらずして他のも
は大喝一声余が車夫に﹁止れ﹂と命じ余は車より飛下り林氏が
んとするや唯に代へんとするのみならず偽りて病と称し婦人を
車夫に近き﹁かねて車を換へることを禁じたるに何故に又代へ
侮りて不正を働く不届千万なり﹂と。此一声に車夫一同は畏縮
せり、一人も口を開くものなく其儘にして走りいでたり。
ああ、余は車夫を叱航したり。彼等不都合なりといへども固無
のみ毫も自己に益する所はあらざるなり。
学無識の小人なり、怒りて之を臥するは狂人を追ふの狂人たる
○聖詩に日く﹁邪曲をおこなふものと共に悪しきわざにあっ
よこしま
第百二十一章 鉄道馬車飛下りの事
@からしめたま暴れ﹂︵百四十一。四︶ 49
吾人は境遇の感化をうくる動物なり、故に又我周囲を感化しつ
@の足藁めて其路にゆ三と勿れ﹂︵一。十五︶
0箴言に曰く﹁わが子よ彼等と共に途をあゆむことなかれ汝 1
つあるなり。人或は自己の感化の何程社会に影響し居るかを知
明治十五年六月二十五日を以て我東京市中には鉄道馬車なるも
十分の責任を負はざるべからざるなり。
だし居るを思はざるべからず、之を思ひて吾人は自己の行為に
らざるべし。然れども我一挙手、一投足は偉大なる模擬者をい
りと。余は之を聞きて直に彼等の計略ありしことを知れり。若
恥か記 第六巻
雨正明氏の乗りたる車夫は止りて﹁代へことせん﹂といふ。余
ども其時は何も云はずして行かしめたり。金ケ崎を過ぎて黒沢 の開業し其敷設せられたる町内に苦情あるにも拘らず便利なる
尻に近き頃一車あり北より来る。余輩が車と行過ぎんとせる時 がために乗客頗る多し。余も屡メ之を利用するに至りしが予て
米国等に行はるるものなるを以て其評判は聞き居たる所なり。
をして他と代らしめんど為したるなり。余は其計略を知りたれ
の車夫等は余が制する間に二、三町行きて余の知らざる間に彼
り、且余は其策に乗らざるべしと鼓に於て彼は仮病をつかひ他
んとせば先より来りし車夫と代りて他の客を曳かんこと不便な
し其代らんことを余に乞はば許さざるべし、又病なりとて代ら
のなり柳に其仔細を問へば彼腹痛せりとて代らんことを乞ひた
0
と、余が恰も彼に云はんとせることを彼酒池へり。余は彼の此
ぎ人物は二、三回も転倒して大に自ら戒むる所ありて可なり﹂
恥 か 記 第六巻
余は其評判にて知り居たれば西の方に行かんとして車を見ざる
とど
時は東のかたに行きて車を迎へて乗るが如き又近づきたる時は
るや余は飛下りたり。ああ、失敗せり。余が其体のまだ全く止
言によりて彼は伎偏あるものと思ひ、馬車の交番所の前を過ぐ
まらざる時−馬車の余が傍を過ぐる石淋は其身体を以て地に
止めずして上下するが如き余の早速に試みたる所なりき。余は
り。然れども余は車を下る時に余が後より下るものを四、五回
其度の重なるに従ひて次第に巧になり、よく上下するに至れ
なりしや、彼が咽喉をいためしにあらずやと。見れば煙管は飛
大の字を画せり。余は恐れたり、彼がくはへたる煙管は如何に
幸にして初より一回も失敗せず、僅に呼吸を得て巧に上下し、
転倒せしめたることあり。人の多く転倒せるは飛上りの時にあ
ども余が下車の例彼の先にあらざりしならば彼は下車ぜざりし
ならん、余固より彼に示さんとして為したるにあらずといへど
んで数尺の先にあり。ああ、彼固より生意気なりしなり。然れ
如し。是れいまだ其伎急なきもの之に模倣して撃てるものな
を記憶せざるべからず。 1
も彼は余に模倣したるなり。吾人は自己の行為に責任あること 50
らずして飛下りの時なりとす。而して人の飛下りるを見るに毫
り。余は一回人を転倒せしめたる後は余に続いて下りんとする
も別段の伎偏を要するものには見えず、いと容易く下り得るが
ものある時注意を促さんと思ひたることもありき。然れども彼
んも亦知るべからずと遂に一回も注意を促したることはあらざ
第百二十二章 鴨を残して館林を去りし事
は大に巧なるものならんも知るべからず、彼に対して無礼たら
りしなり。一日余は新橋より乗車せり。其日秀英舎に行かんと
明治十六年二月余は宇都宮より館林に行きたることあり、時の
ものなるべしといへどもまた移して此戒となすべし。
たるなり、箴言の教訓は実に重大なる宗教上の真理を教へたる
﹁当事と何とやらはむかふより守る﹂といふも蓋し其事を教へ
あてこと
人自ら信ずること余りに甚太しき時は誤謬に陥ること多し、
@つひに死にいたる途遷るものあり﹂︵十四。十二︶
○箴言に曰く﹁人のみつから見て正しとする途にして其終は
したるを以て初より銀座四丁目の角にて下車せんと車中には入
らずして御者台にありき、余が下らんとする一、二丁の前より
余が傍に二十歳前後の頗る生意気なる若者少しく酒気を帯び紙
巻煙草をくわへ車掌に対して車中の婦人を品評するなどいたく
は是の如き人物こそ忠告せざれぼ危しと思ひ余は夫となぐ下車
五、六の兄弟と出でて館林の旧城に入り同所の沼に消す朝より
よかりしがために余は鳥銃を携へたりしなり。同月二十三日
、
﹁未だ其伎心なくして飛下りなどなす生意気なるなり、是の如
の見るよりも難きことを語り暗に彼をいましめたりき。彼は
余が感触を害し余は彼の生意気を怒り大に不平なき能はず。余
は
西諺に轟く﹁機会は後頭の禿げたるものなり﹂と。蓋し子飼は
噸
自己の前に来りし時之を捕へたらんには敢て捕へること難から
’
て東京に帰らんと思ひたれば諸氏に別れんとし何か一獲物を分
十二時に至りて僅に驚一羽を得たるのみ。余は其日関宿にいで
なく捕ふるの方なきを教へたるなり。この富貴利達を得るは巧
に機会に乗じたるなり、失敗は多く機会を得ざりしによれり。
ずといへども己に建前を過ぎたる時は捕へんとするも禿して髪
三羽は余が頭上を高く西に飛べり、余は舟中にありて一発した
なきなり、怠らずして守らざれば頗る危し。
殊に吾人が救挺の如き得らるるの時に得ざれば後悔るも更に益
たんとせり。其時沼の一端に鴨の十薬羽浮び居だるを見たれば
るに一の雄鴨其翼をいため次第に下り余が伴侶の一舟が後れて
同月十七日仙台を発して塩釜にむかへり。余輩は壷の碑を見物
余は明治十六年十二月函館教会の建会式の委員として吉岡、北
の午後乗船し東京に帰るを得たり。余は暴挙艘をやとひて朝よ
せんと馬車を止めて下り一見して再び発ぜしが余輩は萩の浜通
51
ひの小蒸汽船玉川丸の出発に遅れんかとて恐れたり。然れど御 1
れと知らせ我舟の兄弟には帰るを急げば其所より別れん琴歌の
り沼に猛したれば幾分か賃銭を払ふべきを知りたり。然れども
との議あり函館より新潟丸に乗りて萩の浜に達し仙台にいたり
兄弟等に一時払はしむるを然まで気のどくとは思はざりき。蓋
者は安心して馬車の着せざる間は船の発することなしとて敢て
原の二教師と共に彼地に行きしが其帰途松島仙台等を見物せん
し重なる鴨一羽を与へたるを以てなり。然るに何ぞ思はん其年
したりと。余輩鼓に第一驚を喫せり。今更御者を期したりとて
急がず、十二時に塩釜に達し玉川丸はと問ひしに船は既に出帆
兄弟にも其由を告げよ鴨は諸氏して食ひたまへとて其儘にして
の夏彼地にいたりて兄弟に問へば鴨は何程さがしても遂に得ざ
無益なり。宿に対して十二時前の出帆を詰りしに宿は手代を会
と思ひてなり。ああ、貧すれば鈍する、如何に玉川丸遅しとて
を得ず余輩は小舟を雇ひて乗出したるが或は玉川丸に近着かん
社に走らせたるに彼帰り来りて社の時計は已に一時なりと。止
○基督磐喩を以て教へて曰く﹁新郎来りければ既に備へたる
@ @ @ @ @ @ @ @ i馬二十五。十、十三︶
愚も亦甚しかりしなり。三時前我舟は東名に着し上りて一店を
トし車を問へば無しといふ。鼓に余輩は第二驚を喫せり。漸く
彼は蒸汽船なり我は小舟なり、究すれば智を失ふ後にて思へば
とうな
第百二十三章 船に乗りおくれたる事
り一時兄弟等に徒労を為さしめたりしなり。
りしと聞かんとは。ああ、余が余りに信じたるがために大に誤
去り途中大雪にあひ其夜の九時頃漸く栗橋に着し一泊して翌日
来る其舟の近くに落ちたり。余は声を揚げ手真似して其鴨を取
其中心を見て一発せり。然れども一羽も得ず、皆高く翔り二、
タ
ものは之と僧に婚鑓に入りしかば門は閉ぢられたり11然ら
@ ば怠らずして守れ爾曹其日時を知らざればなり﹂
@ 恥か記 第六巻
らず。其里数を問へば十里といふ、余輩の﹁やきもき﹂思ふべ
恥 か 記 第六巻
人足︵但し婦人︶二人を賃して荷を負はせ野蒜にいでたり。四
唯怒濤の磯を洗ふの響をきくのみ。三人膝を抱きて仙台の御者
し。去りとて余輩は造物主より翼を与へられず四方は已に暗黒、
時半野蒜に達しタ食を為し同所より小舟をやとひ乗りて五時に
かふもん
発す。風なければ海をも行くべく工事中にあらざれば楼門をも
せて発す、三時間半にして二里を来る其遅ぎこと知るべし。此
半高屋敷といふ所に上陸し一農家に入りて馬を雇ひ荷物を負は
を罵り以て僅に欝奮を晴せり。野蒜より大凡二里許を来り八時
ハママ を得ず旧河を尽りて新河にいで夫より堀割を石の巻に行かんと
通ずべきに風は強く海は荒れ固より小舟にていつべからず。止
して発ぜしなるが新河に水を落さんがために軽重の中には石を
高屋敷より石巻までは半里余なりしを以て然までとは思はざり
ひぎしほ
ば舟は其堤を越ゆべからざりしが不幸中の幸、時満潮なりしを
積みて堤防の如くなしたるものあり。若し欠汐の時なりしなら
しが此所に来りても余輩は如何にして萩の浜に達すべぎや更に
わだ は
経管のあるにあらず。石巻の束里許にして渡の波といふ所あり、
に足らずと胸をさすりて進み九時四十五分に石巻に入りたり。
余輩は第四驚を喫せり。反問すれば小道十里にして正味は三里
其所より萩の浜に何里ありゃと問へば馬子は答へて十里といふ
ヘ へ
にして索状を為し滝の如く水を落し又一、二分にして堤は水中
らじと見えたり。河水は海水の動揺によりて上下し一、二分時
以て堤はある時は隠れある時は見はれ小舟もて越ゆること難か
に没す。余輩は藤江をはげまし其没したる時に急ぎ越えんとし
いふに手代様の人ありて、諾、直に立ちて社員に談じ云々と。
やう
月の出つると共に風は大に凪ぎたるが如し。風減じたらんには
我舟を上せ舟の中央まで進みたる頃、ああ、不運、水は下りて
ママ 滝を為し我舟は舳を天に朝し膣を水面に浸し舟は下手な与次郎
舟にせんと船宿を問ひて其家にいたり萩の浜へ舟をやとはんと
余は先づ乾魚を問はん何程なりやと、卜いふ大凡十五円と。あ
ヘ ヘ へ
に余輩は第三驚を喫したり。然れども舟子の機敏なる二人とも
あ、余輩は第五驚を喫せり。止めよ何をかいふ、若し十五円を
兵衛の如く舟中の器具元宮の方に転げ騒動大方ならざりき。鼓
に堤上に飛入り舟を支へて水の再び上るを待ちたり、再び水は
払はんとならば次回の定期船を待つに如かず、十五円とは途方
其仔細を問へば彼は小蒸汽船をいだす考なりしと又大に笑ひて
に燃付けざるを得ず十五円は敢て高価なるにあらず﹂と。余輩
たぎつ
もなしといふ。彼不思議な面冒して﹁已に鍵も消したれば更
おももち かま
上に来りぬ。鼓に於て漸く我舟は堤の上を越えて浮びたり。余
は評して云へりスタンレーのコンゴ河源を下りしも是くありし
に入る。新河に入りて左に堀割に入りしが舟子は一人陸上にの
止を得ず出でて半町許行く一人の男にあひ渡の波まで人力車を
辞し日本の小舟はといへばまだ浪高く小舟は出だすべからずと
ならんと。吉岡氏は膝を打って﹁適評﹂と絶叫し相笑ふて新河
ぼり綱を其身体にまとひて行く其行くこと遅々牛の歩も蜜なら
戯‘
ず。余輩は萩の浜まで行ぎて明朝出帆の高砂丸に乗らざるべか
、
152
’
﹂と。余は此車を渡に舟の心地したり。然れど彼はいふ道路悪
傭はんとす車屋は何方にありゃと問へば彼日く﹁わしは車屋だ
し一人曳にてはむつかし二人曳にして行かんと。余輩は最早金
銭の多少など論じ居る暇はなかりしなり﹁よし﹂の一言彼を促
したるに彼は忽ち下駄をぬぎ跣足となりて何方にか走りゆきた
り。余輩は互に面を見あはせて奥州人に似ぬ機敏な奴かなと評
し其所に待ちしに近く轟々然たる音をきく六人の車夫砂をたて
てかけきたりぬ。余輩は先を争ひて車に乗り足が寒からんブラ
ンケットはと問ふに何方に行きけん三人ともに一枚もなし、余
輩は又第六驚を喫したり。 ﹁如何にしたらん﹂と車上に数回繰
返して漸く高屋敷の農家に遺忘したるを思ひいだせり。ケット
三枚を忘れたりと聞きて活発なる車夫も落成為す所を知らず当
惑の体なりしが遂に行け後にてどうかならんと一決せり。行け
の一声三輔九人の同勢は勢よく石巻を走りいでしが恰も一輪の
明月雲中より吐出だされ数百羽の鴉軍忽ち向ふの山より翔りい
でたり。余輩平家の軍勢にはあらざれども如何でか第七驚を喫
せざらん。あれは何ぞと見あぐる間に車夫はサッサと走りしが
聞きたるよりも道はよく、又よきのみか思ひしょりも近くして
忽ち渡の波に入り十一時少しく前一の旅人宿に近きぬ。先頭に
つぎあ
進みし車夫が﹁此所だ﹂の一声車を駐めたれば余が車は旅人宿
の入口にたてる雨障子の腰に突当てミリくミリ、余輩は第八
かつぎ うら
驚を喫したりき。ああ、﹁案ずるよりも産むは易し﹂。来りて聞
けば玉川丸も潜か浦に来りし時風強くして進む能はず、船は彼
恥 か. 記 第六巻
所にとどめ客は多く東名野蒜の辺に下りたりと。幸ひ雨宿に玉
川丸の会計も居りて十一時半に小舟にて発せしが風もよく月も
よく左に美しき景色をながめながら十八日の午前二時萩の浜に
、達し高砂丸に入るを得たり。午前七時船は糺せしが会計の帳簿
しめきりの後に乗船したればとて遂に船賃の一割増をとられ十
九日の午前十時横浜に入りたる時は東京までの汽車賃も無きに
いたれり、余輩は更に第九驚を喫せり。然し北原氏が聖書会社
の菓氏に二、三回の貸金あり、之を促し僅に東京の家に入るを
らば此大騒は為さざりしものを。たとひ玉川丸は途中にて客を
得たり、ああガッカりしたり。若し今半時間を早くしたりしな
おろしたるにもせよ彼の船に間にあひたらんには是くまで屡3
と面倒とを徒費芒めたりき・あ発 娚
驚かさるる不覚はとらざりしものを。怠慢の結果苦労と金と時
第百二十四章 雪仏二道葬礼の事
@と何の交ることかあらん﹂︵口寄六。一四︶
○パウ断髪く﹁義と不義と何の侶なることかあらん、光と暗
明治十六年七月二十日井深氏より使あり氏が妹即ち真野博士の
葬礼を一場に挙行するが如き実に奇妙なるものなるべきなり。
場に演説会を聞きしならば更に奇々怪々なるべし。耶仏二教の
し座敷と台所と隣りしならば甚だ奇妙なり、若し民吏両党が一
あらず。若し信者と不信者と夫婦たりしなば頗る奇妙なり。若
世に主義の相反するもの二個を混ぜんとする程可笑しきものは
妻女此日病没し明朝四時を以て葬儀を挙行せんとす。教会の牧
に座敷の隣りに台所あると同じかりき。奇遇なるかな、奇観な
さへ珍しきことなるに此所には耶仏立教の葬式行はれたり、実
一言をすすめ祈祷して塗りたり。一人にして二回の葬式をなす
恥 か 一記⋮ 笹剛山ハ巻
ども午前四時を以て式を熟むとては三時頃に我家をいでざるべ
基督信徒には失望落胆を要ぜず、蓋し其信ずる神は全能者なれ
@を為し得るなり﹂︵腓四。十三︶
○パウロ曰く﹁我は我に力を予ふる基督に因りて諸のこと
第百二十五章 兄弟の犯罪に失望したる事
すべて
るかな。
師不在なれば願はくは来りて其式を為せと。余は之を諾したれ
からず、如かじ今夜より行き通夜して明朝にいたり式を挙行せ
んにはと、晩凍に乗じて氏が市兵衛町の家にいたる。氏は悦び
て余を迎へたれども雷電に入りて見れば其光景何となく死者あ
りし人の家に似ず翠蔓は新栄教会の長老なるに兄弟さへ見え
ず。余は語りながら弔詞を述べ明朝の葬儀なれば余は通夜せん
とて来れりと云ひしに氏はいと気の毒さうに謝辞を述べて且云
くは明朝墓地に来られよ、余が父は知らるる通り基督教嫌ひに
り、然れども吾人の信仰常に進歩しつつあるものにあらず、時
たるを記憶する者には失望を要せざるなり﹂と。叢り、実に然
ばなり。ジエレミー、テイロル曰く﹁自己を助くる者の全能者
て余が基督教の式を為すといひたるにていたく激昂し、余はホ
とては一所にとどまり、時としては退くことあるを労るる能は
へり﹁司式のことを願ひわざく来られたるは恭く思へど願は
ト︿もて余し居れり﹂と。夫さへ家中に気がねして私語き聞
としては密雲畳々吾人をして其赫々たる光輝を見せしめざるこ
ざるなり。天に其所を定めたる大陽滅するにあらず然れども時
のか又は余を見て更に発したるものか身を震はせ言葉もよくは
真野氏の紹介にて初めて面会せしが其怒気は未だをさまらぬも
失望なきにあらざるなり。余が両国教会に牧師となるや幸に熱
れども辛苦して漸くに佳境に入らんとして挫折するにあへば又
喜ぶにあらず、憂ふべきことあるも甚しく憂ふるにあらず、然
余が性、元来冷淡、無頓着なり。喜ぶべきことあるも敢て大に
とあるなり。
ママ にせんとて其儘去り二十一日の午前青山の墓地にとて行きた
えぬ、余は却て気の毒に思ひたれば何事もいはず。然らば明朝
り。墓地の扱所に行きて見れば已に四、旧名の僧侶あり仏式の
いでず、傍に見る真野氏はいと面目なげに見えたり。余は氏と
五、六年の頃は其最も繁盛なる時なりしなり。然るに隠匿の茂
心なる兄弟の補助を得て教会は大に進歩したりき。蓋し明治十
葬礼を終りし所にて真野氏の父は威儀を正して座したり司余は
﹁最早仏式の葬儀も済みたれば後はどうともせられよ﹂と云へ
らんとするや秋風之を破る。我教会大に進み来りて何事も意の
共にいでて墓地に行かんとせしが漸く真野氏の父は口を開きて
り。鼓に於て余は聖書を読み二、三の兄弟とこ、三の親族とに
眞
154
蛮〆
あ、余は○○氏の過激なるに苦めり、性急なるに困却せり、教
∂
如く為らざることなきに至りし頃面白からざる兄弟ありて我会
の才なきを嘆じ○○氏の此所為を思ひては余が徳化の及ばざる
会と世問に対して氏の処置に究したり。余は其処置に齢して余
を痛めり、余は神が我教会を見棄てたまふかと疑へり、・神は何
の進路を妨ぐるものありき。余は当時いまだ牧会の困難を知ら
故に余が教会のために祈る祈祷を聴きたまはざるかと思へり、
ず、無頓着なる余も大に頓着せざるを得ざるにいたり、主事を
思ふ毎に快々として楽しからざるものあり、加之、其頃余は大
今は力なしと思ひ、我を慰むる余が妻の柔和なる顔も怒りて居
余は世の墓なぎをのみ思へり。平生力と為したる朋友も兄弟も
マこ
に身体の健康を失ひて心気の爽快ならざることもありき。余が
友植村君は一日余を相して﹁教会は困難だナ﹂といへり。余は
か余が困難の情を明して、せめては一時の思ひやりにせんとて
るかと思へり。固より基督の約束も思はざりしなり。余は誰に
氏が眼光の鋭きに敬服して其困難を伝へしに氏は例の口調を以
て﹁何だ、いくちのない、やるべしく﹂と大笑して去れり。
横浜の稲垣氏に書を送れり。蛍心し余は其頃我同労者中に氏より
も
もよき信仰を穿てるものなしと思ひてなり。氏は直に長文の書
余は如何にしてやるべきか幾分の苦慮なきにあらず、否、大に
を派して余に送れり。氏は或は厳父の如く或は慈母の如く世界
苦心し或は祈り或は考へ居たる十七年の四月中なりき。一日兄
と。余の冷淡なるも如何でか驚かざらん。予て○○氏が○○○
弟は怪しく余の家に来り﹁○○氏は○○○嬢と共に亡命したり﹂
らん、成功の佳境は平坦の道に得らるべきにあらず、労苦辛
・の進路は決して平坦砥の如きものにあらず、山もあらん谷もあ
あり、又此頃人を以て嬢の父母に結婚のことを云入れしに○○
にあらず、労苦の後にある利達にあらざれば泡沫のみ夢幻のみ
酸の結果として得べきものなり、患難なきの成功は真の成功
嬢を嬰らんとして余に其所望を明し余が意見を問ひたることも
氏の位地低じとて謝絶したりといふをも聞きたり。然れども○
と懇々余を慰め最後に特筆大書して曰く﹁我は我に力を予ふる
○氏は其頃信仰熟し居たれば父母の許諾を受けずして私に結
婚するが如きことはあらざるべしと思ひ居たり。繋り、氏は嬢
でいたく驚きたり、大に恥ぢたり。余は氏の云ふ所を知らざり
基督によりて諸のことを為し得るなり﹂と。余は氏の書を読み
しにあらず、氏の言の如き説教をすら為したることあり、何故
を携へて何れにか走りたり。然れども其亡命は敢て神の前に罪
には毫末も後暗き所はあらざるなり。唯我国の風俗に反したる
いて而して又祈り又読めば主−其約束に忠実なる主は我為に
に余は徒に失望したりや、言書ら其理由を知らず。是く大に悔
だるにはあらず、○○氏も○○○嬢も既に丁年に達し二人の間
てにげたりといふは弱き兄弟の前に肉を食ふことなり、況んや
父の神に祈りたまふを見たり。 ﹁爾曹世にありては患難を受け
と教会は世の模範となるべきの責任あれば○○氏が婦人をつれ
○○氏は教会の執事にして○○○嬢の父は長老なるをや。あ
珊か眼記 第六巻
155
恥か記 第六巻
ん、然れども濯るる勿早耳に世に勝てり﹂︵約十六・三十三︶﹁薯
へたまひし珍しからぬ聖語は今活きて余が心に働くを悟れり。
心に蒙ること湿れ神を信じ又我を信ずべし﹂︵黙々︶と教
パウロが﹁多くの患難を歴て神の国にいたるべきことを教へ﹂
¥二︶たるをも思ひいでた洗あ三余は﹁饗一肖は活
べきものと思ひき。ああ、彼等は閑散為す平なく其怠惰のため
葬るの外、用なぎもの彼等は読書、生花、茶の湯等に世を渡る
に其教勢を衰へしめたること大に与りて力ありしなり。
リ、余ノ日記二﹁千葉県伝道ノコトアリ、十七年十月茨城県二
明治十七年差十七年ハ如何、辞書ノ加波山ノ条ニハニ十年トア
アリ、余恥右記ニハ加波山ト為ス、何レが正シキヤ、不審ナ
暴動アリ、逆井橋二於テ又千葉三二於テ警察官二取調ヲ受クト
リ︶十月上総国九十九里に伝道せんとて其向二十日戸田教師と
共に東京を発す。其夜千葉町に一泊し加波山暴挙の為に警察の
二日松ケ谷村の学校に試験あり若し其校に演説せば招かずして 56
探偵頗る厳に、至る所取調を受けて二十一日田越に一泊し二十
本須賀に移したりとのことにて遂に其目的を達せず、同所某氏
聴聞人を得べしとて之に会す。然るに往きて問へば試験は隣村 1
全く終らざるを以て其所に開演すべからず、よって無住の成就
方に午飯を為し本須賀にいたる。周旋人某氏はいふ試験いまだ
しぼらく まっしぎ ともしぎ
片時休む、さらば汝の貧窮は盗人の如くきたり汝の欠乏は
@饗の如く餐べし﹂︵六。十、十一︶
@ @ @ @ @ @︵十八。九︶
@ ○佳日く﹁其行為をおこたるものは滅すものの兄弟なり﹂
@ ども其寺院の持主は承諾したりや否と間ふに此寺は無住にして
当村の共有物なり世話人どもに談判したるに不都合なしといへ
織などに於て基督教に及ばざること遠しといへども若し宣教の
住にはあらず。耶蘇の演説あるべしと伝聞し住僧大に驚き居る
就院といふは隣村に本寺あり其住職は成就院を兼務して真の無
りて止め松ケ谷の旅人宿に行きて投宿す。後にて聞けば彼の成
噴
を来らすことはあらざるなり。余は幼少の時より坊主は死者を
亀γ
職にある僧侶等にして一層勤勉なりしならば決して今日の衰頽
は本村上流の人々なり。戸田氏と共に一席つつを弁じタ刻に至
@ りと。久しからずして人々集ひ来り遂に百人程を得たり。多く
@ 夫れ勤勉は成功の母にして何事によらず勤勉ならんには廃亡を
@ 招くことあらざるなり。慧智の仏法を見よ、其主義其教理其組
@ 院といふ古寺を会場と定めたりと。余輩は敢て不都合あらざれ
○箴言に曰く﹁しばらく臥ししばらく睡り手を叉きてまた
第百二十六章 敵の不在中に其本城を乗取りし事
こまぬ
の思なりしなり。
ふ一針は九針を救ふ﹂と、稲垣氏の此時の一書は余が為に再生
に陥るを通るることの多きを経験せり。西諺に曰く﹁時にかな
ひたり。余は一時より大に基督に頼むべきを学び爾来絶望の域
きてかつ能あり両刃の劔よりも利﹂︵希四・十二︶きことを真に味
(使
わ さ
メ
﹁
際既に演説始まらんとすとの石倉により住持は俄に信徒惣代を
招き貸与拒絶の軍議を開き漸く其議をまとめ百代を使として本
示すべきの時あらば決して怠るべからざるなり﹂︵伽倣六Y
明治十八年八月六日余は宇都宮に行かんとして午前上州館林を
て惣代はスゴぐ,寺に帰りて其由を告げたりといふ。ああ彼の
はいふまでもなく車中にある余さへいたく其熱に苦みたり。
前より非常なる暑気にして、加之余が荷物甚だ多く車夫の困難
出立し午後四時頃野州壬生と安塚との間を通過せり。帰日は午
みぶ やすつか
僧﹁手を叉きて片時休み﹂敵を見て矢を矧ぎ其問に本城は乗取
和泉に至りし時車夫ははや疲労して進み得ずといひしが二人乗
須賀村に来らせたる時ははや演説を終りて人々の散ずる所にし
られしなり。怠惰は﹁滅すものの兄弟﹂なるかな。
此日は風さへあらざりしを以て車輪よりあぐる灰の如ぎ埃は車
を経て畑の間の平地にいでしなり。此平地は左右に樹木もなく、
中に襲ひ来り快くは呼吸もできず。余は車中にありて早く宇都
りの車の代るべきものあらざれば賃を増して行かしめ栃木壬生
いつみ
第百二十七章 死せんとする乞食を慰めざりし事
ひて路傍に伏す、祭司あり其傍を過ぎたれども見ずして行
宮に行けよかし、早く日落ちて涼風を送り来れかしと思ふの外
@ @ @ @ @ @ @︵三十。三十1一三十七 大意︶
@ 愛心ありしならば其心情を示すべきの機会を得ざること稀な
沢庵漬などの類配列しあり、莚は誰人か日光を遮らんがために
をさげ往来の高き方に足をいだして横はれり。其周囲には飯、
なさけ
り。而して其示し咽べき時にして之を示さざりしならば長く自
ば﹁病気と見える﹂と独言せし車夫には余が声に応じて﹁もう
悼につけて立てたるにてありき。余は其様の気の毒に見えたれ
死にましたらう﹂と。其言彼の耳に入りしか彼はクワツと眼を
ら疾しき所あり、故に﹁慈愛は人の純ならず﹂、仮令鷲宮に多
ず却て自己の幸福を増加せしむるの大利あるなり、親切仁慈を
恥か記 第六巻
157
○基督﹁隣﹂の義を解釈して曰く﹁ある人盗人にあひ傷を負
けり、レビの人来りしが見たるのみにて過ぎたり遂にサマ
の畑は大小の瓢畳々蒼白き顔あらはし居る辺をすぎしが車中よ
り数十間の先を見れば一、二枚の莚をさげたるものあり。余は
他念なかりしなり。四時少し過ぐる頃其辺乾瓢の産地とて左右
其全快まで看護せしめたり、此三人中盗人にあひしものの
深くも考へず瓢を盗まれぬ為の番小屋の類なりと思ひしが後に
リヤの人来り之を見て大に慨み薬を与へ傷を裏み己が騙馬
﹃隣﹄とは誰そやと問ふ者其介抱を為したる人なりと答ふ
に乗せて旅舎に至り自ら介抱し尚ほ旅亭主人に金を与へて
るを待ちて﹃爾も往きて其如くせよ﹄と教へぬ﹂
@ 少の金銀労力時間を徒費せるが如しと難も決して無益にはあら
の所に年の頃五十ぐらゐ肥満したる男の乞食ならん低き方に頭
思へばタ顔に番小屋のあるべき道理もなかりき。莚張に近きた
くぼみ
る頃何心なく見れば番小屋にはあらず畑と道との聞にある凹処
@ 西諺に曰く﹁親切は行けぬ所へ這ひ往けり﹂と若し一片の親切
彼の脳髄を刺戟したらんと思ひて滅りいるが如く感じてなり
余は彼の眼を恐れたるにあらず﹁もう死にましたらう﹂の語、
見開きて余を見たり、余は身の毛よだち棘然として恐れたりき。
上るが如く勇者、勇を用みるに途なく英雄も其三聖を用みるに
・は全身落胆と称すべし。然れどもイソプの所謂獅子と蚊の戦に
百万の大軍に遷れざる大勇者あり、抜山蓋世の英雄あり、彼等
ぎず火消えず﹂
恥か記 第六巻
き。余はいたく気の毒に思ひたれば何事も考ふる暇もなく唯1
ぎ話しきを形容して﹁虫尽きず﹂と教へたまひしもの簡にして
方なきものあり熊の蜂に漁るの類なり。吾人又下翼数十の敵を
明なるものなり。
一唯其所を早く去らんと思ひ﹁急げ! く﹂と車夫を促して
は隣とは誰をいふかをよく知りたり。サマリや人のことは屡ヌ
何故に死にかかりし彼の兄弟を慰むることを忘れたりしや、余
明治十八年八月二十四日野州荒針村に伝道したる時某氏の家に
蚤颪の如き大に抗し得ざるに魅せり、主が地獄の刑罰の嫌はし
聖書に読みたり、何とて其時に主の甘言を思ひいださざりし
乎、蚤軍夜に乗じて襲来るものの如し。眠らんとするに眠り得
退す枕頭の燈火を滅し眠らんとすればムヅく然、チク︿
誉れず彼等に立向ふの勇あるべしといへども彼の蚕爾たる蛆虫
ゃ。よし其所に冷なる一杯の水はあらざりしも一句の異言を与
ず、彼方を摩し此方を揆き転々反側或は右し或は左す。同行の
後弥3重く感ぜり。宇都宮に入りても余が心は安からず。余は
ふることは実に易々たるのみ。主は﹁我痛み耳垂にありし時空
158
去りき。ああ、余は去りて愉快を感じたりや、否、余は去りて
ん、ああ、余は早く去りて忘れんとして却て余が心は長く疾し
を見まはず﹂とのたまはん、其時何とて余が過失を詑び奉ら
と。初めて知る氏も亦余と同じくムヅ︿乎なるを。余襲軍の
某氏私に問ふて曰く﹁おねむりなさることはできませんか﹂
あり燐寸を摩して火を点じて豊中に坐し蒲団を見ればコハ如何
数多きによりて余が好奇心、見たく思へり。用意の蝋燭枕頭に
くありき。若し彼の時一言にても彼を慰むることありしならば、
に馴すなり﹂。余は兄弟に対する責任を欠きて今も尚ほ悔い居
余は愚なる幸福を得られしものを﹁貧しきものを忌むはエホバ
れり。然し、此失敗のために余は学びたり、後日是の如きこと
の白隊なり。ああ、如何に無頓着の余も其実際を見てははや其
に、ムヅく然たるは蚤軍の赤兵にしてチクく乎たるは颪軍、
疲れて僅に一睡するを得たるのみ。
に告ぐる程無遠慮にもあらず、夜半に至るまで苦戦し遂に戦ひ
中に横はるの勇気あらざりしなり。ああ、不運! 然れど主人
にあはば決して其時機を失はじと。然れども後に時機を失はざ
るは前の失ひしものを回復し能はざるを記憶せよ。
○馬可伝九。四十四、四十六に曰く﹁彼処に入るものの三つ
ママ うじ
第百二十八章 蚤と鼠に苦しめられたる事
≒
へ
メ
第百二十九章 胃を損じて安息日に旅行したる事
寞gく﹁吉日に善をなすは宜し﹂︵蝉一一.︶
だいや やまめ
なること下るにあらずして建つるなり、十時半に下り始め二時
八日は小舟にて湖水を渡り小丘を上りて遥に下を見れば其急峻
たり。二十七日は中禅寺に一泊し大谷の鯉に舌打ちして二十
安息日は基督教徒の休日なり、殊に主の復活したまひし日なれ
一杯を食ひて発し二時半足尾︵本名赤倉村︶の斉藤旅店に着す。
間にして九蔵︵クンゾウ︶に一休し米飯を乞ふに無しと。鑑鈍
に登り午後二時半別所に達す。余輩は別所と称する所に至らば
其日銅山を見物し二十九日午前九時半案内者をやとひて庚申山
に腹はかへられず﹂ ﹁時の要には鼻も削ぐ﹂安息日の休日も必
ば吾人は心霊の糧を得べき日として之を守れり。然れども﹁背
要と恩恵のためには守らざることもあるべし。音量は必要と不
たるなり。着して見れば思ひし如くあらざりしを以て余は到着
相州大山、武州御嶽などの如く旅人宿を為すものあらんと思ひ
必要、恩恵と然らざるとを明にするにあり。其区分を明にせざ
れば遂に安息日なきの弊に陥らん。
ず。高氏は金氏の伯父なり。二十六日高橋氏の馬に送られ今市
氏を訪ひ昼夜二回説教し二十五日新里村の高橋氏に至り謡講
無米飯の境にはあらずやと思ひしなり。午飯は弁当にてすまぜ
息日は一日此所に居らんと思ひしに彼の口上にて案ずれば又是
げます﹂と答ふ。余輩は此答をききて大に後悔したり。明日の安
第一に食物ありゃと問ひたり半僧半俗の人物﹁生命だけはつな
わたらひ
明治十八年八月二十四日度会氏を伴ひ宇都宮より荒針村の金沢
にいで日光にいたり中禅寺湖を渡り足尾に下り銅山を見物し二
せり。余輩は其膳部を一見して驚きぬ。米飯−米飯には相違
たれば直に奥院見物を始め薄暮再び別所に帰り野芹を食はんと
十九日庚申山に登る。余輩が荒針村の金沢氏に至りし時氏は
﹁米の飯は東京人に珍しからず﹂と独断して余輩に一回も米飯
なし、然し其色は醤油飯程の茶色なり或は茶飯かと箸をとれば
を供せず玉丁丁、蕎麦、飴館、下等を調理して出だししが其調
理法は平生其食に慣れたるものに適して余輩に適せず、余輩は
いたらば米飯あらんと思ひしに行きて見れば氏も黙許氏と同意
せしものか大半は味も無く草を噛むの心地したり。翌期は何か
は大根の切乾の醤油につけたるなれど余輩の顔を見てより用意
ハママ いたく困じて辞せんとせしが長き逗留にもあらず且主人の好意
はざるべからず強ひて二杯を食へり。其菜として膳に添へたる
何ぞ思はん五、六年前に収納れたる玄米ならんとは。去れど食
義にして一回も米飯を給せられず、余輩は弥3写したり。論れ
に対して見れば昨タの食と同種なり。ああ、大変! 余輩は強
変りしものあるかと幾分の希望を抱きて其夜は眠りしが翌朝膳
そむ
に反かんも如何にと遠慮して言意に任せたり。新里の高橋氏に
ども絹針に於ると同じく辞しもせずして食ひしがはや余は甚平
迫的の断食を為さざるべからず、一杯を無理に呑下し度会氏と
タルを起して心気甚だよからざりき。二十六日の午時今市に久
しぶりの米飯を食ひ日光にいたり小西に投宿し幾分か胃を養ひ
恥か記 第六巻
159
恥か記 第六巻
明治十九年二月二十六日フルベッギ博士と共に御殿場をいで阿
り。
富嶽を越えて宮の下の富士屋に投宿す。同家は何事も皆洋風に
ば洋食に細水器の水を飲みで笑はるるの・不覚はとらざるべきな
しが一時頃に覚めて見れば其気分の悪きこと云はんかたなく午
して日本風の客を拒絶し洋風にして一夜二円の止宿料を払はば
眠りたり。余輩は眠る前より頭痛し胸苦しく時々悪寒さへあり
飯も固より食ふべきにあらず居りしが三時後にいたりては弥3
髪に聖書をよみ祈祷を為し午前十時頃に横はりて伏し暫くして
か、余ははや堪へられじ﹂と。余もはや殆ど堪へられず感じ居
甚だし。度会氏は云へり﹁足尾に帰るは必要にはあらざるべき
凡一時間にして度会氏は俄然下痢を発し四、五丁行きては叢中
未だ時なきを以て暫く休息して入浴せんとて下女をかへせり。
頃下女来りて﹁御湯に御案内すべし﹂といへり。然し余は食後
を以て洋風にて止宿した、るなり。午飯を終りて少しく過ぎたる
固より日本客を辞するにあらず、余はフルペッキ博士と共たる
に隠れ、是くすること三、四回、余は忽ち二、三回嘔吐を初め
に外人に接し居れば洋風浴室の構造など疾く知る所なり敢て案 60
余は私に誇れり余はいまだ海外に渡航したることなど無きも常
たれば遂に同意し支度を整へて四時頃に発したり。其時より大
二人合して上を下への騒動とは善事なんめりと思ひぬ。一時間
り度会氏は入浴して爽快を覚えたりといひしが余は終夜困苦し
めて湯に入らんと諸道具を携へ浴衣一枚になり湯殿の方に行き
内を要せずと思ひしなり。余は我室に入りて久しく眠りタ智覚 1
ヘ ヘ ヘ へ
余にして二人とも上下止み、其夜八時過ぎ漸くにして足尾に入
て明し、三十一日午前出立して大間々に一泊し九月一日足利に
たり。行きて程よき一室をえらみ入りて見れば湯船は空なり。.
さ
かねて期したる所、然もあらんと右方の湯口を捻り湯をいだす
おほま ま
ヤングマン嬢を訪ひ粥と牛乳とを食ひ其日東京に帰着するを得
たり。然れども余が胃は帰宅後数日は元に復さざりき。
に酒樽の呑口をぬきたる程の勢もなし、湯の湛へる間はとて廊
六寸に満たず、余は其薄のろきに不、審をいだきたり。此分にて
からず、蚕室に入りて何程になりしかと見れば湯の深きは五、
i十三。十八︶
下にいでて少しく運動せしが厳寒の頃の浴衣一枚は甚だあたた
@ まっしぎ
@ ○箴言に曰く﹁貧乏と恥辱とは教訓をすつるものにぎたる﹂
@ 第百三十車 知ッた振失敗の事
@ ㌧
は一時間を経るも入る程には増さざるべしと思ひて一方の浴室
@ ある方に行きて見れば湯気のいでたる浴室二個あり、コレハと
@ 昔孔子は大廟にいって毎事に問ふ、陰る人孔子は礼を知らずと
@ 詰る、孔子聞いて曰く﹁これ礼なり﹂と。是の如き虚礼固より
@ 思ひて入りて見れば何ぞ思はん此二個は即ち余と博士の為に来
@ 着したる頃より備へられたるものならんとは。余は失敗せりと
@ 認むべきにあらずといへども其段や必ず事を慎むより生じたる
@ ものなり。若し吾人其精神を学びて知った振を為さざりしなら
、
思ひながら下りはじめたり。午後一時四十分四千五百尺の鎭を
﹂
思ひて急ぎ元の浴室に帰り湯口を止め、誰か見て居るものはあ
より俄に満し嘉し羊腸たる潮雲を下り、右を沢にして行く時忽
ば之を干して発し三時に栗ケ原といふ一軒家の前を過ぎ、それ
ち左方に一大磐石!寧ろ岩もて造れる一個の山岩を見る。是
発し二時二十分山中に着し一休す。靴足袋汗のために濡れたれ
りしが其事を思ふ毎に余が顔の赤くなるかの如く感ぜり。若し
なん有名なる屏風岩︵旧名仏岩︶にして其長さ数町、翠色茶褐
らざるかと肩身せまく狐欺く浴室に帰りて入りたり。ああ、
たるものを。恥辱は教訓をすつるものに来りしなり。
色あり、白色あり、黒色あり、紫色あり、見あぐれば三三邸の
の大、花の美、誰か此所に来りて造花の大賞を思はざらん余は
今を盛りと咲乱れたる誰に見せんとてか得も云はれぬ光景、岩
のみ。ああ、曽子は飴を見て老親を養ふに可なりと云ひ盗妬は
去るに忍びずしてそ立せり。 一人の旅客上り来る。余は﹁此
さ
大、此美如何に盛ならずや﹂問ふに彼は﹁然様なア﹂と答へし
勝を得たるが如き前者は蛙に学び後者は蜘蛛に教へられて遂に
老人、身に浅黄色精管の衣服をまとひ道の傍に坐して休ふを見
り。梢3屏風岩を終らんとせる頃、年の頃五十前後の肥大なる
らず、彼は大勢の手工を語るものにあらざりしなり。余は進め
錠を開くに便なりといひしとかや。道同じからざれば相共に計
彼の成功を得たるなり。余出て三聖が山を移すの談を聞いて是
三、四本を載せたる小車あり、老人が曳かんとて置きたるもの
たり。手に新聞紙の破片をもちて読み道の中央には柱梁の類
しかば其側にたち先づ岩の名を問へり。彼は快く余が問に対し
なり。余は屏風岩の美を語らんとして未だ相手を得ざる時なり
十六日に勝て実際の愚を見たり。
願あり。余は東京第二中会の委員として裏地に行き規則に従ひ
だ旧道を知らざるを以て新旧の岐路に於て余が手荷物を小林氏
を発したり。余は碓氷峠の新道を上下せること三回なり。いま
へば彼は山中村の人にして新道の成りたる後通行人減じて困却
忌み屏風岩と変へたるなりと。余は老人に何方の人なりやを問
て旧名仏岩と称したりしが今上皇帝御東降あるべしとて仏名を
こもろ
て教会を組織し、其帰途小諸に至り小林氏に会し氏と共に同所
累年信州北佐久郡春日村に為る信徒二十人許、新教会設立の請
れ教訓談の寓言なりと思へり。然れども余は明治二十年四月二
本朝三筆の一人に算せらるる、ブリユース王の敗戦を変じて全
忍耐勤勉が成功め秘訣たるは今更喋々を要せざるなり。道風の
@を来らせざる要る﹂︵羅五。四、五︶
○保羅曰く﹁忍耐は練達を生じ、練達は希望を生じ希望は恥
E基督驚く﹁之を守護び藁を結ぶ﹂︵辣.︶
第百三十口章 家を移す老人の事
下女をよびて問ひたらんには時を損せず寒さを知らず快く入り
知った振旦失敗を招ぎたり。幸にして神の外は知るものあらざ
1
に托し余は独り旧軽井沢を過ぎ山贔に達し日本武尊の古事など
恥か記 第六巻
161
恥 か 記 第六回
おこたらず行かば千里のさきも見ん
には道風の蛙となりブリユースの蜘蛛となりき.彼たとひ其目
牛のあゆみのよしおそくとも
せりといへり。然もあるべし、余は彼の材木の小車は老人のも
を業としたりき、然るに新道成りてよりは客を相手に営業すべ
泰山 [欠]
たりしなり。
きにあらず、去りとて山中のこと耕すべき畑もなし、坐して食
ああ、彼は自己の働を助くる神あることを知らざるなり。吾人
的を達せざりしといへども彼は余のために有力なる忍耐の天使
ふべき財産もあらざれば新道にいでて又旅客の愛顧に余命をお
のなりやと問へば、然りといふ、何が為に材木を運搬せるやと
くらんとし、新に家を造る資力もなければ身体の強壮なるを頼
に至るまで守ることを為し得るを信ずればなり﹂︵叢喜・
は﹁わが信ずるものを知りかつわが彼に託したる者を彼かの日
問へば彼は云へり﹁余は近年山中村に家を新築して旅客の休泊
みに家の引越を初めたるなり、山中村より新道の岐路まで大凡
人は大に此老人に恥つる所あらざるを得んや。
二里あり又新道を登ること大凡二里にて往復八里朝よりタまで
○箴言に乏く﹁人の心のたかぶりは滅亡に先だち謙遜は貴ま
第百三十二章 小佐越にて震へたる事
驕傲の損なることは人の善く知る所なり、而して人の最も陥り
@るる事にさきだつ﹂︵十八。十二︶
易きものは驕傲なり、豊奇ならずや。謙遜にして而して過失に
162
かかりて材木を移し得ること得なるは二本、小なるは四、五
本、まだ半にも至らざれば当年一杯はかかるべし、幸なること
には旧道は険しけれども下り道にして新道は上りなれども険し
からず、若し新を下りて旧を上るならば余が力には及ばざれど
の忍耐に驚きたり、又同時に時勢の変遷とはいひながら其逆境
陥ることあれば人柄を憐み驕傲にして失敗すれば人は其失敗を
も⋮⋮﹂と。余はいたく驚きたり、彼の気長きに驚きたり、彼
も与ふべきものなし。 ﹁谷川に流したらんには雑器を省くべき
なり、慎まるざべからず。
悦ぶべし。故に謙遜は安全にして驕傲は危険なり、否驕傲は罪
明治二十年八月八日江藤義資氏と共に野州日光より若松に行か
んとし日光を落せり。昨夜に至るまで五、六日間屡3大雨を降
し諸豪平水あるなし。其日午後塩谷郡小佐越に達す。聖地に達
ママ せざる前鬼籍川増水したれば仮橋流失し或は渡るを得ず或は二、
こ さこえ
ト式の鉄道さへいできたれり。彼は鉄道なる大敵の起るを知ら
㌧
ざりしなり。余も亦知らざりき。然れども彼の起業は余のため
に成功したりとするも久しからずして馬車鉄道成り遊具はアプ
労もなし﹂と。ああ、彼今成功したりや否やを知らず。よし既
に﹂と云へば彼は笑ひて云へり。 ﹁川に流したらんには満足な
なに
る材を得ること難し、人を頼めば銭をとらる、何、下りには苦
をいと気の毒に思ひたり。余は彼に智恵を与へんと思ひたれど
﹂
三時間を過ぎたらんには仮橋竣工すべしなど評判とりぐにし
て一定せず。幸にして小佐越に近くこと一里許にして仮橋を渡
りて来りたりといふものにあへり。小佐越村にいたり午飯を食
ひ村中より右に折れ畑の間を行き河に達して峻阪を下り水辺に
しも
いでたり。余輩が下りし所より大凡一町許の下に高き大岩の左
右よりいでたるに架したる橋ありたらんと思はるる跡あり、人
足に問へば二、三年前野火の為に焼落ちたる小佐越橋なりと。
戴に於て余は其光景を察するに十余年前に一枚の写真を底ひた
ることある其実景なりき。余写真をかひて後腐実地を見んこと
の丸太は一歩毎に擁ひ左右の高低四、五寸あり、若し擁はざら
しな
るの危険あり、若し足を横にして二本を一時に踏むを得ば其擁
しめんとして二本の問を踏めば左右に開きて足を踏入れんとす
むこと主なかるべしといへども身体を横にせざれは能はず。余
少しく蟹行の文字は学びたれども身体を蟹行せしむる能はず、
余は進退極りたり。橋下の流水を見れば岩に激して流るる勢頗
る猛烈にして泡沫を飛し目標に眩せんとす。頼る所は唯右手に
ほふく
持てる一本の洋傘のみ。余は葡旬せば安全なるを知りたり。然
れども余が驕傲は余をして飼恕せしめず、傘を送って足を送り
り。然れども余は自ら余の面色の変じたるを知りたり。然り、
其行くこと恰も蟻の如く辛うじて後五分の二の所まで達した
然れども余は討ひて笑顔を作り勇気あるものの如く修飾せり。
に熱中したりしが其写真には小佐曙橋と記したるを以て誰に問
ふも知る人なく常に遺憾を感じ居たる所なれば余の喜び讐ふる
と為し、此方の岸より大凡五間、之に架するに杉丸太三本を井
中に之を知りたるものありて急ぎ先の橋を渡り来り岩の中段に
もたれ今疑り落んばかりなり・余が其危険を知ると共に舌
み居る丸太は其先平坦なる所にかかるにあらずして岩の斜面に
其時余は又新なる危険を感じたり近づきて見れば余が左足の踏
に物なく其岩石の奇を称し、其工事の困難なるを談じ、久しうし
べたり其中央の磐石より対岸に達する問は三間許にして已に丸
て遂に仮橋を渡らんとせり。其仮橋は河中にある一大磐石を台
太の上に一枚の板を敷きたり。裸体の人足大凡二十人許休息し
下り肩を以て丸太を支へたり。又一人は竹樟の三間許あるを持
危かレき。若し一歩を過ちたらんには余は彼の急滞中に陥らざ
後は中央の岩に飛移り蚊に初めて蘇生の思ひを為したり。ああ、
あと
以て自ら進まんにはと、遂に之を謝絶し四、五尺の所まで進み其
とらへたる時遠慮なく引かれたらんには見て危し。如かじ漸を
捕へて助けられんかと思へり。然れども亦思へり、若し竹樟を
来り中の岩より長くいだし余に其先をとらへよといへり。余は
うち
て彼岸にあり。江藤氏は三本丸太を見て大に恐れたるが如く見
えたり。余は幼少の時より冒険を好み且幾分の⋮游泳を為し得る
を以て是の如き架橋を渡るは大に馴れたりと自信し、鼓に大に
江藤氏を軽蔑するの念を生じたり、是れ余の滅亡に先つ驕傲な
ぎりやう
りしなり。余は余の冒険の伎偏を江藤氏と工事の人足とに示さ
に突進ぜり。進みで梢3中央に近よらんと思へる時余が踏む所
んとの野心を懐き、未だ江藤氏に謀らず、独り先ンじて三本橋
恥 か 記 第六巻
163
恥 か 記 第六巻
るべからず。初より其嫁ぎを知りて用意したらんには此不覚を
江藤氏と共に粗造の石段を下り川淵に下る。石段の途中より下
のあり時々其動くを見たり。余輩は其何たるを解せざりしが下
を見れば河水と一板を以て区画したる温泉の中に番傘の如きも
い た
なり。余は岩の上にありて江藤氏は如何と見たり。彼は余より
あ、奇観、余も江藤氏も初めて見る所、余輩大に笑ひしが彼老
りて近き見れば一人の老計量の中にありて傘をさせるなり。あ
ばとらざりしものを。江藤氏を軽蔑するの念鼓に至らしめたる
も困難ならんと思へり、否、予想外、氏は其身体の余よりも軽
が湯は断崖の下にあり其断崖には樹木多きを以て今止みし雨の
遂に衣服を岩の裂目におきて入れり。此酒面に降雨あらざりし
は固より湯に入るる覚悟なり。余輩の髪は濡れざるも洗ふべし。
を濡すがいやで﹂と。余輩も傘を用みんかと思ひたれども身体
婬も回しく底ひしか笑ひながら曰く﹁木から落ちる滴に髪の毛
をか
き故か擁ふことも少く容易く渡り得たり。ああ、余は弥3赤恥
をかぎたり。ああ、驕傲は滅亡に先つものなるかな。
はこぶね
第百三十三章 傘を指して湯に入る老娚の事
○彼得曰く﹁此方舟に入り水によりて救はれしものは僅にし
滴はいまだ中々に雨下し、下は温にして上は冷、実に不思議の
@て唯議会りき﹂︵ 前 彼 三 。 二 十 ︶
のは其一部分を砂にて満したる風呂桶に湯をたたへたるを存す
懸れノアの時の方舟は神のノア一族を救ひたまはんとの道なり
るのみ。諾意の傘は彼が雨滴を蒙らざる唯一の器たりしなり。
の流されんことを恐れて皆取除きたりと。然もあらん唯あるも
み。夫れ基督は神の子にして一も罪あるなし、而して十字架に
若し人基督の救握なる一方法によらざれば神の怒の大雨を送る
感ありき。聞く四、五日前よりの降雨にて河水大に増し湯小屋
刑死し以て罪あるものに代りしなり。故に罪を免かれて救握を
るの道なし、雨滴に濡ほさるるを叢るるもの傘を用ゐざるべか
しなり故に其方舟に入らざりし者は皆滅亡したりぎ。神が人を
得んとぜば基督を信じて基督と一ならざるを得ず、基督と一な
らず、刑罰を免れんとするもの基督を信ぜざるべからざるなり。
罪より救はんとしたまふの方法は基督を信ずるの一事あるの
るものは其刑既に基督に来りしが故に漏せらるることなし。若
べからず。
、
.○彼得教へて曰く﹁基督爾曹の為に苦をうけ爾曹をして己の
@り之に従ふ﹂︵約十・四︶
○基督曰く﹁彼風靡を引出だす鼻先に行くなり羊彼の声を知
第百三十四章 尤物に大感化ある事
し基督と一ならざらんか神は其人の罪のために其人を刑せざる
光近傍温泉場の一にして久しく誤射を聞く鼓を以て午後五時
かはち
余が明治二十年の八月八日野州塩谷郡川治村に至る。同所は日
前温泉宿近江屋に投じ温泉は何方にありゃと問ふ、手代答へて
牡鹿川の側にありと。雨未だ全く晴れず傘を借り下駄を借りて
をじか
164
‘
かた
@ ¥一︶
i前
跡に随はんめんとて式を爾曹に遣したまへばなり、﹂
@ を及ぼしたるに相違なきなり。土地の人々は皆以て先生を崇拝
樹の近江に於るが如くならずといへども此地方に偉大なる感化
を形容したるなり。若し其模範者の崇拝さるるに至りては中江
重事につきて一の奇談あり。余は江藤氏と共に俗塵を避けんが
之に摸賦せんとするに託てをや。
るなり。殊に基督は塾徒をして自己に学ばしめんとし、徒弟は
る基督信徒が其品性を高尚優美ならしむる決して偶然にあらざ
なり。是によりて見れば基督の如く至聖至仁なる人物を崇拝す
藤樹の近江の百姓に於るよりも大なり、其身少しく社会の表面
兄弟等は演説会を開かんとの計画あり中村船蔵氏等来りて演説
為に到着したる其日車を命じて東山の温泉にいたりしに若松の
に開会す。余が演題は﹁信仰によりて救はる﹂にて善行は神に
を乞ふ。余は之を諾し八月十一日の夜山岡氏望月氏及び余寄席
あるを記憶せざるべからざるなり。
に入り糸沢、田島等を経て若松に着せしが余の不思議に思ひし
救はるるの道にあらずと説き、然らば善行を奨励するの力を減
之に服従するが故に其品性は自ら高く善行を為すに至るべしと
には己が崇拝する基督なる完全の模範あり、愛と感謝とを以て
ずべしとの説あらん、然れども憂ふる勿れ、基督を信ずるもの
は十中一、二もあらず、似たるのみにして先生の位地には達せ
板はまだ得所先生に及ばず、幾分か拙劣なりといへども先生の
所先生の若松に由るが如しどいひ尚ほ一言を添へて、此辺の看
感化ならざるを得んやと。余輩演説を終りて旅舎清水屋に帰り
説き其例として一の尤物あれば其感化は偉大なるものなり、得
若松人は他国人に優りて彼の先生を敬慕せるなり、先生の徳を
ざるなり。余始め其何故なりやを解せざりしが後に佐瀬墓所が
崇拝するなり、先生の伎備を誇るに相違なきなり。其感化は藤
若松出身なりしことを思ひいだして深く先生の感化を思へり。
突くばかりに感じたり。然れども真に得所の揮毫にかかるもの
る清水屋旅亭の看板を初めとして得所風の看板を見ること目を
を以て禦ぎたるもの頗る多く若松の町に入りては余が投宿した
は会津領に入りてよりは旅人宿居酒屋等の看板に得所風の文字
余明治二十年八月十日野州より三王峠を越えて岩代国南会津郡
にある者深く慎まざるべからず。其一挙手一投足皆急なる責任
多し﹂といへるが如き其模範者の上流にあるは其勢力の大なる
﹁呉王論客を愛して百姓に斑痕あり楚王細腰を好みて宮中餓死
せざるべし。然れども先生の感化自ら土地の人々に及び自然に
@ 此結果を来したるものなり。一個の尤物は大に其土地皇国に感
@ 趨れ人は境遇の感化を書くること偉大なるものなり。故に一の
@ 化を及ぼせるなり。釈氏の印度に於る孔子の支那に於るソクラ
@ 偉大なる人物あらんか、知らず識らず社会は其感化を受け其品
@ テイスの欧州に於る化さるるに意なきものも自ら化成せらるる
@ 性気風に大変化を見るに至るべし。殊に其模範となる人物の上
@ 流にあるに至りては更に其感化の大なるを見るべし。古人が
@ 恥 か 記 第六巻
165
を発し旧道を米沢にむかひて進む。熊倉に至り馬を雇ひて乗り
明治二十年八月十二日余は山形県上の山に行かんとし独り若松
恥 か 記 第六巻
其室に入りて座するや旅亭の主人は入りきたれり。彼初対面の
板の多数は余が筆にかかるものなり、余先生を学びていまだ得
ず。若し時遅れたらんには一泊するも可なれどいまだ日暮まで
と。大塩にて継ぎたる馬は檜原より北に行くを好まず檜原村に
檜原村の杉本屋に一休す。馬を問ふに無しと網人を問ふに無し
ヘ へ
挨拶を終り誘く﹁今晩演説を拝聴したり、得所より劣りたる看
ずといへども先生に似たりとて乞ふものあり止を得ず其拙劣な
には二、三時間あり、且は明日早く上の山に着せんとの望ある
を求めんとして諸所を求めたり。然れども得ず、蓋し聖日は村
を以て余は此日二、三里を進みたく思へり。余は人なり馬なり
一泊せよとすすめたり。村に似ず杉本屋は然までに見苦しから
るか、夫ならば云はなければよかりしものを、去れど志を挫か
るものを揮ふなり汗顔昏々﹂と。余は此言をききていたく気の
し
毒に思ひ慰むる言葉もなく弁解の為やうもなし、止を得ず﹁然
ざれば遠からずして先生の位地に達せん﹂といふ。彼苦笑して
には杉本屋にて余を宿泊せしめんの計略なるかと思ひ弥3人足
中に祝事ありて人皆休息し居りしが故なり。余は術計尽きて遂
を強ひること急なり。其時猿股をはき手拭もて頬冠りしたる一
頃十六、七島田干に結びたる少女にてありき。余は驚きて其粗
彼は母の此言に応じて其頬冠りをとれり、とりしを見れば年の
を見たり、母はいへり、今から行けば夜に入りて帰るなれど夜
166
去れり。
第百三十五章 女を男と思ひし事
@くものは開かるぺければなり﹂︵馬七。八︶
○基督曰く﹁すべて求むる者は得、尋ぬる者はあひ、門を叩
ひて綱木まで行けといへば彼は驚きたるものの如く返答もせず
壮三余が側に立ち見て居たり。余はシメたりと彼に余の荷を負
たるが如く見ゆるものなきにあらず、ニュートンの引力発見に
何事によらず求むれば得らるるものなり。世には求めずして得
傍にありし杉本の女房は余の言をきぎ﹁コレハ女でがんす﹂と。
於るが如き、人多くは之を偶然の発明となせり。然れどもニユ
まだ人を得んとの念止まず、固より止むべきにあらず、今度は
忽を詑びたり。彼は歯糞だらけの歯をいだして笑へり。余はい
たるなり。世に求めずして得たる成功はあらざるなり。人若し
分はどうせ用はなきと。明日の小遣銭を得るの意なきや、何某
一人物友をよび来れ賃銭は多く与ふべしといへり。彼は母の顔
側に居りし一童子に行けといひ一人にて負ふ能はずといはば今
得んことを望まば熱心して本気に真面目に求めざるべからず。
に座して食ふを忘れたりや。ああ、彼は食を忘るるまでに求め
めたるなり。若し求めたるにあらずとせば何故に彼は客と食膳
ートンの引力発見は決して偶然にあらざるなり、彼深く之を求
@遇はん﹂︵箴八・十七︶
○ソロモン神の意を宣べて曰く﹁我を切に求むる者はわれに
’
筆の雪ぎ忙しく中々に去らず。一山あれば上杉氏は止り一流に
筆にして見終りて去らんとすれば上杉氏は画幅の前に立ちて木
︵,
と二人して行きては如何と。彼容易く同意し忽ち二人の童子を
たる農家、面白くもなき麦畑、或は春貝神社の華表、猿沢の池
あへば氏は去らず、留に山川のみならず見るも厭はしき権傾き
得て発したり。尊家の童子は十三歳にして今一人は十四歳なり
といへり。余にして若し人足を得んとの熱心足らざりしならば
@ @ @ @ @ @ @ i後
共たること能はざるのみならず、其意向同じからざれば以て同
上杉熊松氏の二氏と共に奈良見物を企て共に人力車にて発す。
明治二十一年十一月二十九日余は大阪大会の帰途石原保太郎氏
士と決して相共なる能はず。
にして知識と経験とあらざらんか白髪は山師の玄関にして勝て
るものは其衷に存する知識経験なるなり。然れば若し白髪の人
ざることなし。犬と馬と羊と白しとて貴まれず、人のみ貴まる
て貴まるるとせば裏店の白犬、連銭藍毛、囲の中の羊皆貴まれ
其恥辱たるなり。
十一年岩手県に移住したる頃より弥ヌ其進度を速めたるが如
きものなし。余は石原氏と共に美なりと一言せるのみ橋上に戻
し.蓋し同年は三十九年令なりしなり。明治二十二年の秋より二
らざるごとありたれども減じたることなく次第に増加し明治二
漸くに氏の来るにあひ、如何にせしやと問へば’﹁善き景色あり
十三年の春まで余は毎週花巻に派出し安息日毎に某家に会して
余は十八、九歳の頃より白髪を生じ其増加の度は時として速な
たれば﹃スケッチ﹄をして居たり﹂と。余輩は愚痴こぼしなが
り来りて上杉氏を待てり。久しくして氏来らず車夫をして氏を
ら去り法隆寺を見物す。余輩の見る所は建築物及び彫刻せる像
迎へしむ、車夫来りて何方にも居らずといふ。余輩久しく待ち
うち
見物の第一着として竜田橋を見物す紅葉は既に時遅れて見るべ
白髪の人の社会に貴まるるは白髪其物にあらず。白髪美なりと
E箴言に曰く﹁白髪は栄の馨なり﹂︵裏判︶
第百三十七章 白髪の事
ああ、神の殿と偶像とは同じきこと能はざるなり。
するは懲々なりといへば氏は素人との旅行忌々したりといふ。
といへば氏は少しく静にしては如何と。余輩は究して画人と旅
輩は退屈又退屈、旧びし伸し、氏に対して少しく急ぎては如何
見るもの過ぐる三一として上杉氏の筆に乗らざるものなし。余
翠黛童子を得ざりしなり。余が女を男と誤る程に求めたれば遂
に之を得たるなり。
第百三十六章 上杉氏と奈良に遊びし事
@ ○保羅曰く﹁神の殿と偶像と何の同じきことかあらん﹂
¥六︶
語に曰く﹁道同じからざれば相共に計らず﹂と。蓋し保羅が神
@ の殿と偶像と云々といひしものに同じ。独り信者と不信者と相
@ 恥か記 第六巻
167
@ じきこと能はざるなり。利を射るの言質と真理を探究するの学
恥か記 第六巻
○箴言旨く﹁薯は逐薯なけれども逃ぐ﹂︵耳八︶
太平の世に不勇者なし、真に勇ありゃ否は危険に際して初めて
講ず。一日会場に入る五、六の有志家信にあり、余を見るや皆
笑へり。余は問へり﹁何事のありしや﹂と。佐藤昌治氏は答へ
に罹り其生命旦タに迫り、今や永遠に入らんとするに当ては神
を求めざるべからず。吾人が不慮の災禍にかかりて怪てざらん
知るを得べし。健康の時に人神を罵る。然れども彼不治の疾病
とすれば平生十分の心得あらざるべからず。
て云へり。 ﹁今貴君の年令何程ならんとの議ありたり﹂と。余
に於て大笑し余は戯れて日く﹁今日より十七年を生活し得たら
問ふ﹁何年と決着したりや﹂と。氏はいふ﹁五十五歳﹂と。鼓
んには五十五年となるべし﹂と。黒蓋3笑へり。同じく二十四
ども意外に一事の起り来る時は狼狽したることなきにあらず。.
明治二十五年七月二十二日午前三時十五分は余が生涯に大狼狽
余は何事にも余り惇てて失敗したることはなき性質なり刃然れ
署名の人に三浦千尋又三浦不二尾とあり貴君の親戚なりや﹂
より伴ひ来り第三列車にて彼を東京に立たせやりたれば疲れて 68
を為したる時にてありき。余は二十一日の午後松崎の妹を青森
年なりき。余は黒沢尻に伝道せり。紋竈教会の信徒にして当時
と。余は答へて﹁千尋は父﹂と。尚ほ云はんとせしに島岡氏は
同所に居りたる島岡氏来り雑談す。島岡氏は問へり、﹁喜の音﹂
非常に驚きたるものの如く余が言を制して云へり﹁貴君はいま
視は例の如くなしたれども下女に命ずることは忘れたり、余が
視し又下碑には燈火を消すべしと命じて眠る。其侭は戸締の巡
平生よりは早く眠れり。余は眠る時の例として家中の戸締を巡 1
だ父ありゃ、尊大人の年令如何﹂と。余は﹁六十七歳なり﹂と
せ
いふ。氏はいよく急きこみ、﹁然らば貴君は何年なりや﹂と。
妻は余の不在の時必ず余に代りて是等のことを為すよしなれど
余は氏が余の白髪に欺かれたりと思ひたれば﹁当年四十歳なり﹂
といふ。氏は呆然たること久し。余は問へり﹁貴君は余を何年
も五夜は余の帰宅したるに安心し問ふこともせざりしと。初め
かなしげ
は何時なりしや固より知らず、余は下碑常女が運気なる費する
支切にある板戸の隙より著く光線の見えたるなり。余は見て直
しぎり
は知らざりき。蚊帳をいでて余は驚きたり。下嬉が眠る台所の
り。然し余程急ぎたるものと見えて如何にして蚊帳を出でしや
ぎ覚まさんと﹁起さねばならん﹂ の一言と共に蚊帳をいでた
が平生よりは甚しく苦業なれば其儘おくも気の毒なりと思ひ急
くるしげ
を微に聞さて覚めたり。余は常女がまたうなされたりと思ひし
と思ひしゃ﹂と。氏はいへり﹁五十歳位ならん﹂と。傍にある
もの共に大に笑へり。ああ、余は白髪の為に屡3十年又は十五
年を多く見らるるに至れり。然れども余の白髪は栄の冠弁には
あらずして恥辱の徴たるを免れざりしなり。
第百三十八章 下碑蚊帳を焼きたる事
レ
@それたり﹂︵霊+三︶
○ダビデ歌ふて動く﹁彼等は覧るべきことのなき時に大にお
郵
に下蝉が蚊帳に火を◇けたりと思ひたれば等ヤヅタな﹂の一声、
ラ然たり、急ぎもみ消さんとするに中々に消えず、釣緒を切ら
其支切を開きしに蚊帳は下より上まで二条の火線を引きペラペ
んとして手繰りしに蚊帳はミリくと切れたども釣緒はきれず、
漸く切りて落し揉消さんとして見ればカンテラは横になりて其
に蔽はれて見えたり。三女は何方に行きしか、三時已に傍にあ
根にあり、又よく見れば三女は中に居らずして道女の頭は夜着
りし妻に乞ひて燈火を持来らしめて見れば彼の女は竈の側、流
せしやと問へば蚊帳に火を付けたりと思ひて覚めたれば水を取
しの前に座して物も云はず目のみパチくして居たり。如何に
らんとして出でしが此所に来りてはや動くこと能はず、叫ばん
とするによくは声もいでず、我ながら何を云ひしか知らねど捻
りたるならんと。鼓に初めて騒動は終りしが、余は蚊帳の火を
揉消さんと為せる時一人の力にては如何あらんと思ひたれば幸
に泊りあはせたる田鎖氏をよび来り援けしめんとて﹁田鎖さ
たくさり
ん﹂と連呼せり。然し余は自ら知れり﹁田鎖さん﹂と発声する
を得ず幾度繰返すも皆﹁タウサイさん﹂にてありき。何故に回
りしやは知らざれども余りに狼狽したるが為に歯の根のあはざ
るより﹁ク﹂ ﹁リ﹂等の音をいだすあたはざりしものなり。田
ものとは思はざりき﹂と。ああ、余は怪てたりしなり。若し平
鎖氏は云へり﹁何か呼ぶやうに轄感じたれども判然自分を呼ぶ
生より今少し心がけたりしならば此不覚はあらざりしなり。覚
悟なきものは穗るべからざることに回るるなり。平家の水鳥の
恥 か 一記 第山ハ巻
みを笑ふぺけんやか
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