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エチオピア南西部に暮らすマンジョの請願活動 ―1997 年から 2001 年

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エチオピア南西部に暮らすマンジョの請願活動 ―1997 年から 2001 年
エチオピア南西部に暮らすマンジョの請願活動
―1997 年から 2001 年にかけて提出された請願書の読解を通して―
吉田早悠里 ∗
Petitions by the Manjo in Kafa zone and Sheka zone, Southwest
Ethiopia,from 1997 to 2001
YOSHIDA Sayuri
要旨
1991 年以降のエチオピア人民革命民主戦線 (Ethiopian People’s Revolutionary Democratic
Front) が率いる現政権では、全ての「民族」の自決権が認められている。1997 年以降、南部
諸民族州カファ地方とシェカ地方に生活する一部のマンジョを中心に、政府に対してマンジョ
の社会的地位を改善し、民族自決権を認めるように要求する請願活動が実施されてきた。請願
書では、マンジョは居住するカファ地方とシェカ地方の住民に抑圧され、憲法で保障された権
利が守られていないこと、またマンジョは固有の「民族」であるため民族自決権を保障される
べきであることを主張してきた。本稿では、まず 1997 年から 2001 年の間にマンジョが連邦・
州・地方政府に提出した請願書の内容を提示する。そして、マンジョの請願書の内容を経時的
に検討し、その特徴と今後の展望を提示する。
Abstract
This article provides descriptions of the petition by the Manjo in Kafa and Sheka zone, Southern
Nations Nationalities and Peoples’ Regional State of Ethiopia. The Manjo are a socially discriminated
minority. Since the Ethiopian People’s Revolutionary Democratic Front (EPRDF) came to power and
ethnic federalism became the central policy of the federal government, such socially discriminated
minorities as the Manjo have been more marginalized and they have been deprived of their rights to
access to economic and political resources. In 1997, some Manjo individuals have got together to make
petition to the zonal, regional and federal government for improvement of social discrimination in Kafa
and Sheka zone, and they have request that they should be recognized as one of the ‘nations,
nationalities and peoples’. In this article, the contents of these petitions and examine the social-political
status of the Manjo today.
∗
日本学術振興会特別研究員/名古屋大学大学院文学研究科
University, Graduate School of Letters
1
JSPS Research Fellow/Nagoya
キーワード
エチオピア、マイノリティ、民族、差別、請願活動
はじめに
本稿は、エチオピアにおける被差別マイノリティが政府に提出した請願書 1を題材としなが
ら、被差別マイノリティによる自らの社会的地位の改善を目指した自発的な実践に関する報告
をおこなうものである
2
。エチオピア人民革命民主戦線による現政権 (Ethiopian People’s
Revolutionary Democratic Front、以降EPRDF政権とする) 樹立後のエチオピアでは、民族自決政
策のもとで、国内各地でさまざまな「民族」による政治的権利の獲得を目的とした活動が盛ん
である。そのような活動には、州や行政地方の境界の変更を求めるものや、「民族」としての
承 認 を 求 め る も の な ど が あ る 。 本 稿 で は 、 南 部 諸 民 族 州 カ フ ァ 地 方 (Southern Nations
Nationalities and People’s Regional State, Kafa zone) とシェカ地方 (Sheka zone) に生活する被差
別マイノリティ、マンジョ (Manjo) による自らの社会的・政治的地位改善のための請願活動
を取り上げる。まず、マンジョが提出した請願書を基礎資料として提示する。また、その内容
の経時的な変化を検討するとともに、こうした請願活動に対する政府の対応にも言及する。そ
して、マンジョの請願活動の特徴をふまえ、現代のエチオピアにおける被差別マイノリティを
とりまく政治的状況を考
察する。
1991 年からの EPRDF
政権は、「民族 (Nations,
Nationalities and Peoples)」
の自決権を認め、要求が
あれば分離・独立も認め
ている点や、民族ごとに 9
つの州に分けた連邦制を
採用している。
「民族」は、
「広範に亘り共通の文化
図 1 カファ地方および近隣地区 (ZOFED 作成地図に筆者加
工)
2
ないし同様の慣習をもち、
相互に理解可能な言語を
もち、共通のあるいは関連するアイデンティティをもつと信じ、心理的にも一体感を有し、大
部分がひとつながりの領域内に居住する」
人間集団と定義づけられている (憲法第 39 条 5 項)。
そして、憲法第 46 条 2 項では、州の行政区分は「居住様式、言語、アイデンティティ及び人々
の意見の一致をもとに定められるもの」とされ、第 47 条ではどの民族も規定の手続きにした
がうという条件のもとで、いつでも独自の州を立ち上げる権利が保障されている。また、第
48 条では州境を変更する権利も保障されている。
このようななか、現政権は少数民族に対して特別に配慮した取り組みを行っている。憲法第
54 条においては、民族の代表から構成される連邦政府の人民代表議会における少数民族の特
別代表枠を認めている。また、憲法第 61 条では、連邦議会が州議会によって選出された民族
代表によって構成され、諸民族は人口 100 万人以下の場合は 1 名の代表を持つことができ、さ
らに 100 万人増えるごとに 1 名の代表を追加することができるとしている (第 61 条 1 項、2
項)。近年では、少数民族の自治を認めた特別行政地区も多く設立されている。また、州政府
や地方政府のレベルでは少数民族に優先的な教育や就職の機会を与えている。
本研究で対象とするのは、エチオピア南部諸民族州カファ地方とシェカ地方に暮らすマンジ
ョである。マンジョは、南部諸民族州カファ地方を中心に、シェカ地方、ダウロ地方 (Dawro
zone)、コンタ特別行政地区 (Konta special wäräda)、オロミア州 (Oromiya Region)、ガンベラ州
(Gambela Region) など、いくつもの行政地区に分散して居住し、他の民族集団と入り混じりな
がら生活している。だが、いずれの地域に生活するマンジョも、共住する住民から蔑視され、
差別されている。
1997 年、カファ地方とシェカ地方に生活する一部のマンジョを中心に、マンジョの社会的
地位と待遇を改善し、マンジョを「民族」と認め、民族自決権を保障するように求める請願活
動が開始された。請願活動は 2 人のマンジョを中心に連邦・州・地方政府に対して断続的に行
われた。2002 年になると、カファによるマンジョへの差別に対して反感を抱いたマンジョが
カファを襲撃する事件が発生した。この事件をきっかけに、政府はカファ地方とシェカ地方で
は「グッド・ガバナンス (good governance)」が欠如しているとみなし、マンジョの社会的地位
を改善するための試みを実施するようになる。同時に、ローカル NGO がカファとマンジョの
関係を改善するための活動を実施するようになった。襲撃事件以降も、マンジョの請願活動が
継続されるなか、南部諸民族州議会第 10 回定例会第 1 期の 2008 年 5 月 21 日に、マンジョが
固有のひとつの「民族」ではないとする決議が通過した。しかし、マンジョはこの決議を受け
入れず、2010 年現在も請願活動を継続している。
本稿は、1997 年以来、断続的に行われてきた請願活動のなかでも、1997 年から 2001 年にか
3
けて請願活動の中心的役割を担ったA氏とB
氏が政府に提出した請願書の内容に焦点をあ
てる。本稿で用いる請願書は、A氏が複写保
存していたものである。これらの請願書は全
てエチオピアの実用語であるアムハラ語で書
かれ、2010 年までで合計 40 通以上、枚数に
して通算 100 枚を超える。請願書の記述に関
しては、内容が難解な部分は筆者が適宜、意
訳している。また、本稿で言及する人物の氏
名については請願書の政治性を考慮して一部
匿名とする。なお、エチオピアでは、エチオ
図2
ピア暦が採用されている。エチオピア暦は、
1996~2000 年のカフィッチョ・シェ
フィッチョ地方
13 ヶ月で 1 月から 12 月が 30 日、13 月は 5 日
(UNDP 作成地図に筆者
となっており、閏年には 6 日となる。エチオ
加工)
ピア暦の 2000 年 1 月 1 日は、グレゴリウス暦
の 2008 年 9 月 11 日に相当する。本稿では、グレゴリウス暦 (Gregorius Calendar, 以下G.C.) を
用いるが、請願書の文章中の記述に関しては、請願書の原文に準じてエチオピア暦をE.C.
(Ethiopian Calendar) と併記する 3。
Ⅰ.カファ地方とシェカ地方に暮らすマンジョ
エチオピア南西部のカファ地方を中心に、広域にわたって生活するマンジョのなかでも、請
願活動を中心的に担ったのは、カファ地方とシェカ地方に暮らす一部のマンジョである。カフ
ァ地方とシェカ地方は、現政権成立当初はカファ地方とシェカ地方として成立したが、1996
年にカフィッチョ・シェカッチョ地方 (Kaficho Shekacho zone) に再編された。その後、シェ
カがカファ語とシェカ語が異なることや行政上の予算配分への不満を根拠に分離を主張し、
2000 年にカファ地方とシェカ地方が分けられた 4。
現在、カファ地方は、人口約 90 万人を抱え、主にアフロ・アジア語族オモ系のカファ語を
話すカファ (Kafa)、あるいはカフィッチョ (Kaficho) と呼ばれる人々が生活している。シェカ
地方には約 21 万人が生活しており、アフロ・アジア語族オモ系のシェカ語を話すシェカ
(Sheka)、あるいはシェカチョ (Shekacho) と呼ばれる人々が暮らしている。だが、カファ社会
4
とシェカ社会に生活する人々のあいだには独自の集団認識があり、カファ語話者は自分たちを
ゴモロ (Gomoro)、マンノ (Manno)、マンジョ (Manjo) のいずれかに属するものとして区別す
る。ゴモロとは、マンジョ・マンノ以外のカファ語話者の呼称であり、カファ地方の人口の大
部分はゴモロ (以下、カファとする) に属する。また、シェカ語話者は自分たちをドーノ
(Doono) あるいはドンジョ (Donjo) 5、マンノ (Manno)、マンジョ (Manjo) のいずれかに属す
るものとして区別し、ドーノ・ドンジョはマンジョ・マンノ以外のシェカ語話者の呼称であり、
ドーノ・ドンジョ (以下、シェカとする) の大半はシェカ地方マシャ行政地区 (Masha wäräda)
とアンドラチャ行政地区 (Andracha wäräda) に居住している。同じオモ系言語であるカファ語
とシェカ語は、文法やいくつかの単語に共通性がみられ、カファ語話者とシェカ語話者が意思
疎通を図ることはさほど困難ではない。
マンジョの正確な人口は把握されていないが、カファ地方に暮らすマンジョは約 10,000 人
から 12,000 人 (1.1~1.3%) とされる。シェカ地方では、マシャ行政地区だけで 1,514 人
(0.04%) 6のマンジョが暮らしているとされる。マンジョはカファ地方とシェカ地方の全域に分
散して居住しているが、マンジョはカファとシェカとは異なる集落を形成し、地区のなかでも
周縁部に居住していることが多い。ただ、シェカ地方南部に位置し、シェカ地方の約 54 パー
セントの人口を擁するイェキ行政地区 (Yeki wäräda) には 7、アムハラ
(Oromo)、マジャン
10
(Majang)、シェコ
11
8
(Amhara)、オロモ
9
(Sheko) 等、多くの民族が生活しており、その社会
的状況はマシャ行政地区とアンドラチャ行政地区とは異なる状況を呈している。
19 世紀末まで、カファ地方にはカファ王国が、シェカ地方にはシェカ王国が繁栄していた。
従来のカファ研究およびシェカ研究では、両社会は王を頂点とした階層的社会秩序を備えた社
会として説明され、農耕民をはじめ、鍛冶屋、吟遊詩人、織工、皮なめしなどの職能集団、狩
猟集団マンジョ、奴隷の順に階層づけられてきたとされる。そして、マンジョは狩猟集団とし
て職能集団の一部として扱われることや、カースト概念によって説明されてきた (Lange,
1982)。だが、近年、野生動物の減少や社会・経済・政治的変化のもとでマンジョは狩猟をや
め、農業に従事し、共住するカファとシェカと同様の生活を送るようになっている。しかし、
今日に至るまでマンジョは共住する人々から対等な関係を許されておらず、その関係は、
「差
別」として注目を浴びるようになっている。
Ⅱ. マンジョを取りまく社会関係
今日、カファ地方とシェカ地方ではマンジョは生業形態と経済水準の面でカファとシェカと
5
比較しても遜色のない生活を送っているが、カファとシェカは、マンジョの食習慣、身体的特
徴、性向などに言及し、マンジョを差異化する (吉田, 2008: 30-31)。そして、マンジョはカフ
ァとシェカから明確に区別され、日常のやりとりにおいて蔑視をうけ、対等な関係を築くこと
を許されていない。
現在、マンジョは共住するカファとシェカから、社会生活のさまざまな局面において差別さ
れている。その顕著な例として、カファとシェカによるマンジョとの共食・同じ食器を用いて
食事をすること・家への立ち入りの拒絶、居住地や水場の別、埋葬場所の別、通婚がないこと
などが挙げられる (吉田 2008: 32-37)。また、マンジョがカファとシェカの家への立ち入りが
認められた場合においても、マンジョの座席はカファとシェカの座席とは区別され、食器も区
別されることが多い。
マンジョの多くは、村の周縁部に暮らしており、村の中心部や町に土地を保有しているマン
ジョはほぼ皆無である。さらに、マンジョに土地や部屋を貸与するカファとシェカはほとんど
おらず、これはマンジョの学生が都市部で高等教育を受ける機会を逸する要因になっている。
マンジョの中には、学校教育を修了したものがごくわずかである。そのため、カファ地方とシ
ェカ地方の行政役場で働く役人、教員、警察官などのうち、マンジョの占める割合はごくわず
かである。こうしたこともあって、カファとマンジョの間での諍いや問題が起こったとき、多
くの場合、マンジョに対して不利な判断が下されるとマンジョは考えている。実際のところ、
マンジョは地域社会の中で政治・経済的権利や、社会的平等を獲得できずにいるといってよい。
Ⅲ. 請願活動と担い手
1997 年 5 月 30 日、南部諸民族州カフィッチョ・シェカッチョ地方イェキ行政地区バチ行政
村 (Bach’i qabale、今日のシェカ地方イェキ行政地区バチ行政村) に暮らすA氏とB氏の 2 人の
マンジョは、イェキ行政地区とチェンナ行政地区 (Channa wäräda、今日のカファ地方ビタ行
政地区とチェンナ行政地区) に暮らす 207 人のマンジョから構成された委員会によってマン
ジョの代表者として選出された 12。そして、2 人は、マンジョが同地区に共住するカファとシ
ェカから抑圧されている現状を報告し、この状況を改善することを目的に連邦・州・地方政府に
対して請願活動を開始した。
A 氏と B 氏はバチ行政村の出身で、A 氏は 1970 年代に学校教育を 6 年生まで受け、デルグ
政権期 (1974~1991 年) にはショタ行政村 (Shota qabale) で行政村の委員の一員を務めた。B
氏は学校教育を 7 年生まで受け、A 氏と同様にデルグ政権期に行政村の委員の一員を務めた。
6
当時、マンジョのなかで学校教育を受けた人物はほとんどいなかったが、A 氏と B 氏は教育
を受けてアムハラ語の読み書きができ、加えて豊富な実務経験、社会経験を持っていたため、
マンジョの代弁者として選出されたのである。
請願活動を実施するにあたり、バチ行政村に生活するマンジョによって委員会が結成された。
委員会は委員長、副委員長、会計、書記をはじめとする 5 人から構成された。当時の会計役を
担ったH氏によると、請願活動の資金は、現在のシェカ地方イェキ行政地区バチ行政村やミッ
チ行政村 (Michi qabale) をはじめ、カファ地方ビタ行政地区ウォシェロ行政村 (Woshero
qabale)、ショタ行政村、イナ行政村 (Yina qabale)、さらにはゲシャ行政地区 (Gesha wäräda)、
デチャ行政地区 (Decha wäräda) に暮らすマンジョが出資し、約 30,000 ブル 13が集まったとい
う
14
。いずれの地区でも、資金の援助額は各個人の意思に委ねられた。特にバチ行政村では、
会計役が出資者の氏名、金額、支払日を出納簿に記帳し資金を管理した。また、マンジョのな
かには、A氏とB氏に対して「首都アディスアベバ (Addis Ababa) でコーヒーでも飲んで。
」と
いって、個人的に 1~10 ブル程度の少額の現金を手渡す者もいた。A氏とB氏が請願書を提出
しに行く際には、会計係が 2,000 ブル程度の金額を手渡した。一度の請願が約 1 ヶ月から 2 ヶ
月程度の滞在になることもしばしばで、請願先のアディスアベバや南部諸民族州の州都アワサ
(Awasa) でA氏とB氏の滞在費が不足した場合には、会計係がイェキ行政地区の行政都市テピ
(Tepi) の銀行口座に資金を納め、それを請願先に滞在しているA氏とB氏が引き出すこともあ
った。
図 3 バチ行政村と近隣行政村 (ZOFED 作成地図に筆者加工)
7
Ⅳ. 請願書の内容
はじめに、A 氏と B 氏をマンジョの代表者として任命する委任状を提示した後、主に A 氏
と B 氏によって連邦・州・地方政府に提出された請願書を年代順に提示する。
・1997 年 5 月 30 日
(E.C.1989 年 9 月 22 日) 手書き
E.C.1989 年 9 月 22 日
宛先 A 氏、B 氏
住所 イェキ行政地区バチ行政村
カフィッチョ・シェカッチョ地方のチェンナ行政地区とイェキ行政地区に暮らすマンジ
ョは、マンジョへの抑圧に対して地方政府に改善を求めるために、上記の 2 人をマンジョ
の代表者として選出する。我々は、エチオピアの国民の権利として認められる民族自決権
に基づいて、マンジョが政党を設立し、他の政治組織と同様に政治活動を行うことが出来
るように地方政府に許可を求める。これは、現政権の経済発展戦略とその計画に沿うもの
である。我々の民族としての対等な権利についての平和的要求を実現させるため、我々は
代表者を政府に送る。2 つの行政地区に暮らす 207 人のマンジョ年長者によって構成される
委員会は、A 氏と B 氏を代表者として任命し、ここに署名をする。
請願者 マンジョ民族の年長者委員会
イェキ行政地区バチ行政村
複写提出先 南部諸民族州:アワサ
この書状によって A 氏と B 氏がマンジョの代表者として任命された後、A 氏と B 氏によっ
て請願活動が実施された。以下、主に A 氏と B 氏によって政府に提出された請願書を具体的
に見ていく。
・1997 年 6 月 30 日
(E.C.1989 年 10 月 23 日) タイプライターで作成
E.C.1989 年 10 月 23 日
宛先 南部諸民族州:アワサ
請願者 A 氏、B 氏
我々は、カフィッチョ・シェカッチョ地方イェキ行政地区バチ行政村に暮らしている。
我々が南部諸民族州に要求するのは、以下の内容の通りである。
8
我々マンジョは、カフィッチョ・シェカッチョ地方に生活するマイノリティである。我々
は、前政権以来、長期にわたり政治的権力と平等を保障されてこなかった。そして、他の
民族によって抑圧を受け、近代教育を受ける機会を逸してきた。その結果、我々は長期間
にわたって個人の基本的な権利を侵害され、人間の尊厳を逸してきた。デルグ政権期には、
マンジョは (兵士として) 戦場へ無理やり送り込まれ、多くの出来事に耐えてきた。
E.C.1983 年 9 月 20 日 (G.C.1991 年 5 月 27 日) に、EPRDF 政権になり、我々は平和と勝
利を獲得した。しかし、EPRDF 政権は民族の平等を掲げているにもかかわらず、カフィッ
チョ・シェカッチョ地方に暮らすマンジョは平等な権利を剥奪され、自らの組織を持って
いない。そのために、マンジョは以下のようなことに悩まされてきた。例えば、(1) 他の民
族と同じ服を着ていることが原因で、多くのマンジョが殺害された。(2) マンジョは市場で
他の民族と対等な取引ができない。(3) デルグ政権崩壊後の E.C.1983 年 (G.C.1991 年) の政
権過渡期に、マンジョは自己防衛のために武器を購入したが、現在、マンジョは市民とし
ての武器携帯を禁止されている。(4) 政府の開発戦略と政策にもかかわらず、マンジョはロ
ーンを組むことができない。(5) この地方では、
「おまえはマンジョだ (アムハラ語では Ante
Manjo)」とは他人をけなす言葉として用いられる。そして、マンジョは民族としての権利
を得ておらず、マイノリティとして他の民族集団による抑圧されている。
以上のように、我々は抑圧を受けている。そのため、地方政府に対し、我々の民主主義
的な権利を認識し、民族として組織を設立することを許可するように要求する。
請願者 1.A 氏、2.B 氏
E.C.1989 年 10 月 25 日 (G.C.1997 年 7 月 2 日) には、同じ文面の請願書が南部諸民族民主戦
線 (Southern Nations Nationalities Peoples Democratic Front、以下 SNNPDF) 宛に提出されている。
・1997 年 7 月 12 日
(E.C.1989 年 11 月 5 日) タイプライターで作成
E.C.1989 年 11 月 5 日
宛先 カフィッチョ・シェカッチョ地方行政役場 (Kaficho Shekacho zone Administrative Office):
ボンガ
請願者 A 氏、B 氏
我々は、イェキ行政地区バチ行政村に暮らすマンジョであり、この請願の目的は以下の通り
である。
我々は、マンジョ民族がこれまでのエチオピアの各政権および社会システムのもとで抑圧さ
9
れてきたことに対して請願を行う。我々は何度も抑圧を受け、政治的権力や利益から排除され、
抑圧され、周縁部へと追いやられてきた民族である。マンジョはこれまでテオドロス 15、メネ
リクⅡ世
、ハイレ・セラシエⅠ世
16
の時代、17 年間の軍事政権であったデルグ政権におい
17
ても抑圧され、破滅的な被害を蒙った。マンジョは他の民族と平等な地位を与えられることも
公的機関から保護を受けることもなく、選択肢を与えられないまま戦地へと強制的に送られた。
E.C.1983 年 (G.C.1991 年)、EPRDF 政権は平等な民族自決の権利を認め、それぞれの民族に
権利と自由を提供したので、多くの民族が民主的権利と政治的組織化の権利を行使している。
そして、全ての社会が開発や経済的利益の恩恵を被り、全ての民族が開発計画に基づいた行政
的利益や経済的援助を獲得している。しかし、マンジョはこの民主的システムから除外されて
いる。その理由として 2 つが挙げられる。まず、マンジョは組織の設立が認められておらず、
開発援助を受けていない。そして、言語に基づく行政区分のもとで、マンジョはカフィッチョ・
シェカッチョ地方に組み込まれ、何ら地位を獲得しておらず、発言権を与えられていない。以
上から、我々はマンジョが民族自決の権利を行使できるように許可を求める。そして、将来の
行政を鑑みて、マンジョの人口を把握するためにセンサスを作成するように求める。我々は
EPRDF 政権に協力するつもりであり、我々の抱える問題が解決されることを願っている。
請願者 1.A 氏、2.B 氏
複写提出先 南部諸民族州:アワサ、南部エチオピア人民民主戦線 (Southern Ethiopia Peoples
Democratic Front、以下 SEPDF):アワサ
・1997 年 9 月 9 日
(E.C.1989 年 13 月 4 日) タイプライターで作成
E.C.1989 年 13 月 4 日
宛先 南部諸民族州議会 (Southern Nations, Nationalities and People’s Regional State Council):ア
ワサ
請願者 A 氏、B 氏
我々は、イェキ行政地区バチ行政村に暮らすマンジョであり、請願の目的は以下の通りであ
る。
我々の請願の目的は、EPRDF 政権下において明確にされている民族の平等と民族自決の民主
的な権利を重んずるように求めることである。
今日まで、エチオピアにおいて民族自決や組織化を含む民族の権利が認められてきたが、
我々マンジョは今日に至るまでその権利を認められていない。このことに関する見解の不一致
によって、カファとシェカとマンジョ民族の関係は緊迫している。カフィッチョ・シェカッチ
10
ョ地方ではマンジョの民族の権利と平等に対する尊重の欠如によって衝突が生じ、マンジョが
排除されている。地方政府は、カファとシェカのみを民族として認め、マンジョ民族はカファ
とシェカの民族に併合されている。さらに、同地方では、マンジョに対する抑圧が甚だしい。
それにもかかわらず、我々は自衛のために組織を設立する権利さえも逸している。このことに
対して、これまでにマンジョは何度も地方政府や行政地区政府にマンジョが組織を設立するこ
とを許可するように求めてきた。しかし、我々はいまだに回答を得ていない。E.C.1989 年 10
月 23 日には南部諸民族州政府に対して請願をしたが、南部諸民族州政府は我々に対して地方
議会に正式に請願することが好ましいと助言したにすぎなかった。我々は、南部諸民族州政府
の助言に従って E.C.1989 年 11 月 5 日にカフィッチョ・シェカッチョ地方議会に対して、我々
マンジョの民族自決権を尊重し、独自の組織の設立を許可するように求めた。しかし、地方政
府は、マンジョは固有の民族ではなく、あくまでもカファの一部であるという見解に基づいて、
カ フ ァ 人 民民 主 党 (Kafa Peoples Democratic Party) や シ ェ カ 人 民 民主 党 (Sheka Peoples
Democratic Party) の他に組織を認めないとし、マンジョの請願を却下した。その後、地方政府
は 2 つの行政地区に対して、このような請願を行うマンジョを処罰する旨を記した書面を送り、
行政地区は我々の多くを逮捕した。今日に至るまで、地方政府は我々に「軍隊をもって私たち
を破った後に組織をつくることができるだろう」と話し、我々を嘲笑している。つまり、我々
は地方政府と同様に行政地区政府によっても、マンジョの組織の設立は認められず、地方政府
と行政地区政府は自らの権力を保持するためにカファ人民民主党とシェカ人民民主党以外の
組織の設立を望んでいないのである。我々には、正義に基づいて裁くことができる人物はおら
ず、抑圧されている。今日に至るまで、4 つの行政地区に生活する年配のマンジョが集まり、
我々の抱える問題を話し合おうとしてきた。だが、そのようなことさえ行政地区政府によって
禁じられた。行政地区政府は、我々を脅し、他の民族と平和的に居住することさえ妨げている。
それゆえ、我々は南部諸民族州議会に対して我々の民族自決権の行使および市民としての政治
的組織の設立を許可するように要求する。そして、我々はマンジョ人民民主党 (Manjo Peoples
Democratic Party) の設立許可および、地方名をカファ・シェカ・マンジョ地方へと変更するよ
うに求める。そして、南部諸民族州がこの地方における問題を認識し、我々を保護するように
要求する。
最後に、我々は憲法に則って民主主義的権利を主張している。我々はこのことがエチオピア
国民によって広く認知されることを望んでおり、メディアでの公表を求める。
請願者 A 氏、B 氏
複写提出先 シェカ人民民主運動 (Sheka Peoples Democratic Movement):アワサ
11
・1997 年 11 月 6 日
(E.C.1990 年 2 月 27 日) 手書き
E.C.1990 年 2 月 27 日
宛先 カフィッチョ・シェカッチョ地方役場 (Kaficho Shekacho zone Organization Office):ボ
ンガ
請願者 A 氏、B 氏
我々の請願は、カフィッチョ・シェカッチョ地方役場に対して、マンジョがカファとは
異なる固有の民族であるという歴史的事実の理解を求めるものである。
マンジョの歴史は 515 年前に遡り、そのときからマンジョは抑圧され、周縁に追いやら
れてきた。例えば、マンジョは人間とみなされず、野生動物や野蛮人としてみなされてき
た。マンジョは、他の民族やイヌが許される、家に入るということさえ許されていない。
現政権は全ての民族を対等に扱い、他の民族が自由と平等の権利を獲得し、彼らの声が政
治に届くようになっている。しかし、マンジョは長期間にわたって権利と自由を奪われ、
全ての民族によって抑圧されてきた。そして、未だマンジョはそれらの権利や自由を獲得
できておらず、森においやられ、暴力をふるわれ、殺害されている。
EPRDF 政権が全ての民族の自由と権利を宣言したことは、マンジョにとって良い知らせ
に見えたが、それは偽りであった。E.C.1983 年 9 月 (G.C.1991 年 5 月) 以降、マンジョは
EPRDF 政権によって何の権利も保障されていない。マンジョは、昨日も今日も、抑圧に嘆
いているが、その声は誰にも届いていない。我々は、マンジョの権利について政府に対し
て質問をしてきたが、好意的な回答を得ることは出来ず、現在、我々の一員は逮捕されて
いる。我々は、被害者であり、我々の請願は法的手段に則って行われている為、違法では
ない。というのも、
1. 憲法 29 条-1 項では、思考、発言、表現の自由と権利が謳われている。
2. 憲法 30 条では、全ての人民が請願を行うことが出来る権利が謳われている。
3. 憲法 31 条では、全ての人民が、組織をつくる自由と権利が謳われている。
4. 憲法 32 条では、活動の自由と権利が謳われている。
5. 憲法 38 条では、投票し、選出される権利について謳われている。
また、憲法 38 条では、(a) 直接的かつ選出された代表者を通して、公共の事柄の解決に
参加する権利があること、(b) 18 歳に達した者は、法の下で投票する権利があること、(c) 政
府のいかなる機関においても定期的な選挙にて投票し、選出される権利があり、普遍的で
平等な選挙権はその意志の表現の自由を保証して、無記名投票で行われるものとする、と
ある。さらに、この第 2 項では、誰もが自らの意思で政治組織、労働結社、商業組合に参
12
加する権利について、第 3 項では、民主的方法で選挙が実施されることについて、第 4 項
では、第 2 項と第 3 項が公共における市民組織に適用されることが定められている。
憲法では、我々の要求を保障する条項は見当たらない。それゆえ、我々の請願は結社の
自由の権利に関する法的かつ正当性のある行為であるにもかかわらず、不法な行為として
みなされ、我々は我々の法的権利に関する請願の為に脅しを受け、注意され、そして投獄
された。また、我々は多くの行政官によって法律と結社の自由に対する脅威として見なさ
れて、彼らの多くがまるで我々が不法な行為をしたかのようにみなし、我々を起訴するた
めに動いていた。
また、我々は、我々の民族に対して啓発活動を実施するために、いくつもの場所を訪れ
てきた。だが、我々の選挙権および被選挙権は、これまで行政官によって剥奪されてきた。
行政官らは、聡明で公共の関心事について理解のある我々マンジョの代表者を、故意に落
選させてきた。このことについて、彼らが自らのためにしたことではないとしても、我々
は選挙に関して甚だしい不平を抱いている。
最後に、我々はマンジョ民族に対する抑圧を防ぎ、我々が権利を獲得するために、地方
政府が他の社会同様に我々の民族を啓蒙することを許可するように要求する。そして我々
は地方役場に対し、各行政地区が我々に協力を要請する正式な書面を発行することを命じ
るように求める。
請願者 1.A 氏、2.B 氏
・1998 年 3 月 5 日
(E.C.1990 年 6 月 26 日) 手書き
E.C.1990 年 6 月 26 日
宛先 カフィッチョ・シェカッチョ地方行政役場:ボンガ
請願者 マンジョクラン
イェキ行政地区に生活する請願者 A は以下のことを要求する。
すでに知られているように、マンジョはエチオピアの支配者階級によって社会・文化的
に支配されてきた。前政権のこのような社会・文化的抑圧から解放される為に、我々は繰
り返し現政権に対して援助を求めてきた。我々は地方政府に対して、我々の権利を認め、
組織の設立を許可するように求めてきた。我々は、仮にマンジョに教育がなくても、組織
を設立することが可能であると考えている。かつての習慣からの社会・文化的な移行は困
難を伴うが、マンジョは自らの社会活動を実践・推進するために組織を設立することを望
んでいる。これまでに、我々は組織を設立し、いくつかの行政地区において活動を実施す
13
ることを地方政府によって許可された。しかし不幸なことに、そこにはいくつかの理解の
不一致があり、地方政府はすでにその決定は過ぎ去ったものであり、我々の活動期間は終
わったとしている。そのために、近年、我々が啓蒙活動を実施する場所で、いくつかの問
題が浮上している。よって、我々は地方政府に、それらの問題を解決できるように配慮を
求め、同時に、以下のことに関して、我々の権利と自由を尊重するように求める。
1. 行政地区および行政村において我々の活動に対する、警察官の違法行為をやめるよう
に警察官に命令せよ。
2. 我々の活動を遂行するための移動手段にまつわる問題を解決せよ。
3. 我々が武装する権利を認め、我々から取り上げた武器を返還せよ。
4. 我々が公的機関において、および警察官として勤務する権利を尊重せよ。
我々は、我々の目的が法に則り、民主的であり、EPRDF、SNNPDF、カファ・シェカ人
民民主事務局 (Kafa Sheka Peoples Democratic Office) の目的と合致するものと信じている。
それゆえ、民主的権利に基づいて我々が組織を設立することを許可するように求める。
・1998 年 4 月 3 日
(E.C.1990 年 7 月 25 日) 手書き
E.C.1990 年 7 月 25 日
宛先 カフィッチョ・シェカッチョ地方役場:ボンガ
請願者 A 氏、B 氏
我々、マンジョクランの代表者は以下のことを要求する。
マンジョは長い間、「人間以下 (sub-human)」として扱われ、抑圧されてきた。どのよう
な状況においても我々の民主的権利は尊重されてこなかった。我々はこのことについて地
方政府に繰り返し主張してきたが、未だに何の回答も得ていない。イェキ行政地区、チェ
ンナ行政地区、デチャ行政地区、ゲシャ行政地区に暮らすマンジョはいくつかの行政地区
で起きている問題を解決するために、マンジョの組織の設立を試みてきた。そして、衝突
回避や問題を解決するための啓蒙活動を実施してきた。それにもかかわらず、我々の活動
は困難を抱えており、それらに耐えている。我々は、あなたがたが多くの問題を解決し、
平和と民主主義を実現することを期待している。短期間で差別や抑圧を解決することは困
難を伴うが、我々は対話を通して関係を改善し、問題を最小限にできると期待している。
そして、共に我々の問題を解決し、合意に至ることが可能であると考える。以下では、我々
が最も必要と考える議論の要点を示した。
1. 我々の最終的な目的は、カファ・シェカ人民民主事務局と見解が一致するものである。
14
それゆえ、我々がカファ・シェカ人民民主事務局に望むのは、マンジョに対して法的な
地位を与えることである。
2. これまで、マンジョは地方や行政地区レベルで開催される会議、セミナー、祭典等へ
の参加から除外されてきた。だが、我々も参加を認められ、EPRDF の指針や経験から
多くのことを学ぶべきである。
3. マンジョの社会・文化的地位に関して、メディアで公表し、マンジョの地位の向上に
努めるべきである。
4. マンジョは他の民族と良好な社会関係を築くために、教育を受けるべきである。同様
に、我々の一員がさまざまな地方をまわって啓蒙活動を行う際には、自己防衛のために
武装が許可されるべきである。
5. マンジョの中に、幾人か高等学校を終了した者がいる。彼らに就職の機会を与えよ。
6. マンジョは民族としての名前を認められていない。そこで、我々の民族の名前として
認めよ。
7. 我々に、コーヒー・農作物・果実の栽培、家畜の飼育などの生業開発のためのローン
や経済的援助へのアクセスを許可せよ。
8 つの行政地区に暮らすマンジョが集まり、話し合えるように会議所の使用を許可せ
8.
よ。
9. マンジョの会議を地方政府のレベルで開催せよ。
10.
我々が抱える問題をマンジョが共有するために、我々が各地を訪れる手段として中
古モーターバイクを提供せよ。我々は、モーターバイクを維持するための金銭的な負担
に対して準備がある。
最後に、我々の要求を考慮し、共に我々の抱える問題について話し合い、解決し、共存
することが可能になることを望んでいる。
署名 A
・1998 年 5 月 20 日
(E.C.1990 年 9 月 12 日) 手書き
E.C.1990 年 9 月 12 日
宛先 カフィッチョ・シェカッチョ地方役場:ボンガ
請願者 1.A 氏、2.K 氏
我々は、エリトリアが我々の国土に侵略してきたと耳にした
。マンジョは劣位におか
18
れて「人間以下」と見なされて抑圧され、民族としてのアイデンティティを認められずに
15
他の文化を押し付けられてきた。そして、我々は長い間、差別やスティグマ化のために森
へと追いやられてきた。だがEPRDF政権以降、マンジョの抱える問題が完全に解決したわ
けではないものの、マンジョは民主的権利を保障され、他の民族と同様に自らに誇りを持
つことができた。さらに、我々は食糧生産と経済発展のプログラムにも組み込まれた。そ
のため、マンジョもエリトリアの侵略に関する議論に参加し、エチオピア政府の側にたっ
てエリトリアを糾弾し、エチオピアの政治主権を守ることを望んでいる。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、K 氏
・1998 年 7 月 11 日
(E.C.1990 年 11 月 4 日) 手書き
E.C.1990 年 11 月 4 日
宛先 イェキ行政地区議会 (Yeki wäräda Administrative Council):テピ
請願者 A 氏
請願者 A は、行政地区に対して以下のことを求める。
エチオピアは長い歴史を持ち、他国の侵略を防ぎ、主権を保ってきた。今日、エリトリ
ア人民解放戦線 (Eritrean People’s Liberation Front) は我々の国に侵攻し、我が国の主権を
脅かしている。この侵略は、全てのエチオピア国民を挑発するものであり、我々はその侵
略から主権を守らなければならない。これについて、我々マンジョクランは、エリトリア
の侵略を防がなければ、我々の権利と自由を獲得することもできないと考える。我々の権
利と自由が尊重されるのであれば、我々は侵略行為を実行することはないし、権利と自由
を勝ち得ることが出来ると考えているからである。それゆえ、我々は行政地区議会に対し、
我々の民主的権利と自由を尊重することよりも、まず国家の主権を守ることの重要性を主
張する。我々は、共にエリトリアの侵略に対して戦い、国家の主権を守る準備ができてい
る。最後に、我々が行政地区に対して要求するのは、政府が描く計画に沿って、我々が活
動することに対する援助である。我々は、無実の犠牲者である我々を守るために、政府が
我々とともに立ち上がることを要求する。
提出者 イェキ行政地区に生活するマンジョ
・1998 年 8 月 31 日
(E.C.1990 年 12 月 25 日) 手書き
E.C.1990 年 12 月 25 日
宛先 カフィッチョ・シェカッチョ地方役場:ボンガ
請願者 マンジョクランの代表者 A 氏
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請願者は、以下のことを求める。
我々は、これまで地方・州政府に対してマンジョが都市で教育を受ける機会を設けるた
めにマンジョに都市部の土地を提供するように求めてきた。政府は、我々の問題が解決す
るまでしばらく待つようにと回答した。今年、政府はテピの都市部の広い土地を同地方内
居住者に提供した。その際、20 人のマンジョが都市部の土地の保有を求めたものの、5 人
しか獲得できなかった。それゆえ、我々の子ども達が 6 年生を終えても、未だにその後の
教育を継続することが出来ない。よって、我々の抱える問題を認識し、土地の保有に関し
て対策をとるように要求する。
請願者 A 氏
・1998 年 9 月 1 日
(E.C.1990 年 12 月 26 日) 手書き
E.C.1990 年 12 月 26 日
宛先 イェキ行政地区議会:テピ
請願者 バチ行政村に生活するマンジョの一員
我々は以下のことを求める。
マンジョは前政権において、支配者階級から社会文化的抑圧を受けてきた。現在、我々
の関心は、発展と成長にある。マンジョ民族の利益と社会状況の改善、生活の発展は、非
常に重要である。我々の憲法 40 条の第 1 項、第 2 項、第 4 項では開発の権利が謳われてい
る。それゆえ、我々は憲法に則り、我々の発展の権利を要求する。マンジョの生活の向上
および国家の経済に寄与するという目的のため、我々はバチ行政村北部のかつてはマルキ
と呼ばれ、今日アンドラチャと呼ばれる地にてコーヒーをはじめとした農業プランテーシ
ョンを開始することを望んでいる。そのため、我々はイェキ行政地区議会に対し、我々の
要求を検討するように求め、我々の計画をサポートする専門家を送り、開発銀行からロー
ンを組むことが可能になるように要求する。
請願者 A 氏、B 氏
・2000 年 9 月 15 日
(E.C.1993 年 1 月 5 日) タイプライターで作成
E.C.1993 年 1 月 5 日
宛先 人民代表議会 (House of People’s Representatives):アディスアベバ
請願者 マンジョ民族の代表者
住所 南部諸民族州カファ・シェカ地方、マンジョ民族
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我々マンジョ民族の代表者は南部諸民族州カファ・シェカ地方に生活している。我々は、
この地方に長い期間にわたり暮らしてきた。マンジョはカファとシェカとは文化・宗教・
社会的側面で明らかに異なり、冠婚葬祭、祝祭なども異なるが、ただ言語は同じ言語を用
いている。これはマンジョ民族の言語がカファとシェカの民族に組み込まれたためであり、
その結果、マンジョは民主的権利を尊重されずに抑圧を強いられている。我々は、我々の
言語がカファとシェカとは完全に同じでなく、わずかにイントネーションが異なると考え
ている。加えて、マンジョは南部諸民族州、オロミア州、ガンベラ州に散らばって生活し
ており、その人口は約 100 万人と概算できるが、マンジョはカファとシェカに抑圧されて
いるために自らの言語や文化を発展させる自由や権利を得ていない。それゆえ、我々は人
民代表議会に対して我々の主張を調査し、我々が民族自決権の獲得し、その権利を行使す
ることを許可するように求める。我々は、人民代表議会に対し、我々の抱える問題に配慮
し、我々の主張に基づいた結論に至ることを要求する。
請願者 A 氏、B 氏
特記事項:我々はこの文書に 30 ページにわたる 600 人分の署名の複写を添付した。
・2000 年 9 月 28 日
(E.C.1993 年 1 月 18 日) タイプライターで作成
E.C.1993 年 1 月 18 日
宛先 人民代表議会:アディスアベバ
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、B 氏
住所 南部諸民族州カファ・シェカ地方イェキ行政地区バチ行政村、マンジョ民族
以下のことを要求するのが目的である。我々、マンジョ民族は、独自の文化、宗教、社
会生活を持ってきた。我々は、現在は人口 100 万人で、かつては自らの王を持ち、文化、
宗教、言語、社会生活、アイデンティティ、婚姻、祝祭等をもつ歴史がある。だが、マン
ジョはカファとシェカによって抑圧を受けてきた。今日、マンジョ民族はカファとシェカ
による統治のもとでカファとシェカの民族の名前で呼ばれている。マンジョはカファとシ
ェカとは言語が異なることは考慮されず、我々の権利と自由はカファとシェカによって奪
われてきた。E.C.1989 年 (G.C.1997 年) に我々は南部諸民族州政府に対して我々がカファと
シェカとは異なることを主張したが、カファとシェカによって屈辱を受けることとなった。
憲法は、全ての民族が文化と歴史を保ち、それを発展させることを奨励し、民族自決権を
謳っている。だが、南部諸民族州、オロミア州、ガンベラ州に居住するマンジョは、カフ
ァとシェカによって独自の文化の認識と発展を否定されている。我々は E.C.1993 年 1 月 5
18
日 (G.C.2000 年 9 月 15 日) に、750 人分の署名をもとに、つまりは 1,500 人のマンジョによ
って選ばれたマンジョの代表者として人民代表議会に請願を行ったが、我々はなんの回答
も得ていない。そのため、マンジョの切迫した生活状況の改善を求めて再び請願する。加
えて、我々マンジョは自らの文化の奨励、生活の発展を必要としているため、我々はエチ
オピアの代表に対して回答を要求する。
請願者 A 氏、B 氏
・2000 年 9 月 28 日
(E.C.1993 年 1 月 18 日) タイプライターで作成
E.C.1993 年 1 月 18 日
宛先 ラジオファナ
19
(Radio Fana):アディスアベバ
請願者 法的に認められたマンジョの代表者 A 氏、B 氏
住所 南部諸民族州カフィッチョ・シェカッチョ地方イェキ行政地区バチ行政村
我々の主張は以下の通りである。我々は南部諸民族州カファ・シェカ地方のイェキ行政
地区バチ行政村に住むマンジョである。我々は歴史的に独自の王をもち、独自の行政シス
テムによって統治されていた。しかし現在、人口 100 万人のマンジョはカファとシェカ民
族によって抑圧されている。我々には民主的権利と自由がなく、我々の文化、言語、生業、
社会生活や冠婚葬祭等はカファとシェカ民族に統合されている。E.C.1989 年 (G.C.1997 年)
に我々は南部諸民族州政府に対して、現在の行政構造はカファとシェカに利益があるもの
であること、マンジョとカファ、シェカの言語はイントネーションにおいて明確な違いが
あることを書面にて主張し、それらを考慮するように求めた。そして、南部諸民族州、オ
ロミア州、ガンベラ州に生活するマンジョ民族の民族自決の権利と自由を要求した。我々
は E.C.1993 年 1 月 5 日 (G.C.2000 年 9 月 15 日) に、750 人分の署名をもとに、つまりは 1,500
人のマンジョによって選ばれたマンジョの代表者としてアディスアベバを訪れて人民代表
議会に請願を行ったが、我々はなんの回答も得ていない。しかし、マンジョの住民は、こ
の請願活動による成果を心待ちにしている。そのため、我々は、マンジョが抱える問題と
カファとシェカによって抑圧されて民主的権利と自由を奪われていることについて、ラジ
オを通して公開することを求める。
請願者 A 氏、B 氏
・2000 年 10 月 6 日
(E.C.1993 年 1 月 26 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 1 月 26 日
19
宛先 人民代表議会:アディスアベバ
我々は南部諸民族州カファ・シェカ地方のイェキ行政地区に暮らすマンジョ民族の代表
であり、以下のことを要求する。
我々の要求は、人民代表議会の成員について定めた憲法 54 条第 2 項に示された権利と自
由に関するものである。そこでは、人民代表議会の成員は選挙によって選ばれると明言さ
れている。我々は憲法よって保障された権利と自由に基づき、E.C.1989 年 (G.C.1997 年) 以
来、人民代表議会に代表者を持つ権利を、 (1) 人民代表議会、 (2) 南部諸民族州議会、 (3)
SEPDF 事務局、に対して要求してきた。だが、このような民主的権利と自由を掲げて権利
を要求する活動のために、8 つの行政地区で我々の多くが逮捕されてきた。そして、州政府
と地方政府からの回答に希望を失っていた時、E.C.1993 年 1 月 5 日 (G.C.2000 年 9 月 15 日)
に我々はアディスアベバを訪れ、人民代表議会に対して 750 人の署名を添付した請願書を
提出した。その際、人民代表議会は、州政府を通して決定を下すとし、我々に帰郷し、決
定を待つように回答した。
今回、我々は、再びここに 2 回目の請願に訪れた。これは、前回我々が人民代表議会に
対して請願を行ったことに対し、地方政府が我々に請願の理由を尋ね、我々の民族の拘束
し、困惑させているためである。我々の幾人かは幸運にも拘束から逃れ、アディスアベバ
を訪れることができ、人民代表議会に 2 回目の請願を行っている。
繰り返し主張するが、マンジョはカファとシェカとは異なるため、自らの文化と言語を
発展させることを望んでいる。南部諸民族州、オロミア州、ガンベラ州に生活するマンジ
ョの人口は少なくとも 100 万人である。E.C.1993 年 1 月 18 日 (G.C.2000 年 9 月 28 日) に我々
は我々の民主的質問を尊重するように要求する請願を行ってきた。だが、マンジョの成員
は拘束され、メディアでの公表も行われていない。以上をもとに、我々は人民代表議会に
対し、我々が人民代表議会に選出される権利を要求する。加えて、我々は以下のことを要
求する。
・我々と直接議論し、我々が抱える問題をオープンに解決し、最終的な結論を提示せよ。
・公共のメディアを通して、最終決定と回答を発表せよ。
もしも上記に関する解決を図ることが困難な場合は、我々は公正な裁きを行う政府の適
切な機関に我々のケースを送るよう人民代表議会に要求する。
署名 A、B
・2000 年 10 月 9 日
(E.C.1993 年 1 月 29 日) タイプライターで作成
20
E.C.1993 年 1 月 29 日
宛先 エチオピアラジオ機構 (The Ethiopian Radio Organization):アディスアベバ
我々はマンジョ民族の代表者である。マンジョは南部諸民族州カファ・シェカ地方にて
カファとシェカ民族から長期にわたって抑圧され、民主的権利と自由を奪われてきた。我々
の社会的価値観、文化、習慣は尊重されず、我々は自らの文化の発展を阻害されている。
E.C.1989 年 (G.C.1997 年) 以来、我々は繰り返し人民代表議会、南部諸民族州政府、地方政
府に対して、我々を民族と認定し、人民代表議会において代表者を獲得することを認める
ように要求してきた。それにもかかわらず、我々は我々の抱える問題に対して政府から回
答も決定も受け取っていない。我々は E.C.1993 年 1 月 5 日 (G.C. 2000 年 9 月 15 日) に人民
代表議会に対して憲法に則った平等と自由を保障するように要求したが、むしろ、我々へ
の侵害行為は増えるばかりである。幸運にも、我々マンジョの代表は再びアディスアベバ
に戻り、人民代表議会に対して E.C.1993 年 1 月 18 日 (G.C.2000 年 9 月 28 日) に 2 度目の
請願を行うことができた。しかしそれでもなお、我々は何の回答も得ていない。マンジョ
は、南部諸民族州、オロミア州、ガンベラ州に生活し、その人口はおよそ 100 万人であり、
クランは 30 以上を数えることができるが、憲法で保障される権利と自由を否定されている。
そのため、我々は人民代表議会に対して、マンジョの代表者が憲法で保障される選挙権の
もとで人民代表議会の成員に選ばれる権利があることを認め、それを尊重するように要求
してきた。そこで、公共マスメディアを通して憲法に則った我々の民主的質問を公開する
ことを求める。
請願者 カファ・シェカ地方、マンジョ民族の代表者 A
・2000 年 11 月 8 日
(E.C.1993 年 2 月 29 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 2 月 29 日
宛先 人民代表議会:アディスアベバ
我々は南部諸民族州カファ・シェカ地方のイェキ行政地区に暮らすマンジョ民族の代表
であり、我々は以下のことを要求する。
我々の憲法 54 条第 2 項では、少数民族が特別に人民代表議会に代表者を持つ権利を与え
られることが明記されている。我々は憲法に基づき、E.C.1989 年 (G.C.1997 年) 以来、人民
代表議会に代表者を持つ権利を、(1) 南部諸民族州議会、(2) SEPDF に対して主張してき
た。だが、いくつかの行政地区に暮らすマンジョは、この質問のために拘束や侵害行為の
対象となっている。
21
我々は、これまでに人民代表議会に対して E.C.1993 年 1 月 5 日 (G.C.2000 年 9 月 5 日)、
同年 1 月 18 日 (G.C.2000 年 9 月 28 日)、同年 1 月 26 日 (G.C.2000 年 10 月 6 日) にわたって、
750 人の署名を添付した請願書を提出した。しかし、我々は議会から何の返答を得ることも
なく、引き返して待つように伝えられたにすぎない。現在、このような我々の質問と要求
のために、カファ地方デチャ行政地区に暮らすマンジョが逮捕されている。我々の要求は
民族としてのアイデンティティを獲得することである。我々マンジョはクランではなく、
民族として認められることを望んでいる。マンジョはカファではなく、カファはマンジョ
ではなく、カファとシェカ民族はマンジョ民族の代表者になることはできないし、そうで
はない。我々の言語はカファ語に類似しているが、我々の言語とカファ語はイントネーシ
ョンにおいて相違がある。そして、我々の文化、習慣、結婚、音楽等も (カファとシェカと
は) 全てが異なる。だが、カファとシェカ民族はマンジョを民族とは認めず、クランだとみ
なしている。これは真実とはかけ離れている。カファ・シェカ地方で生活するマンジョの
クランは 40 以上であり、そのことからもマンジョは民族であるといえる。我々はカファと
シェカ民族のもとで生活することは望んでいない。それゆえ、我々はこのようなことを直
接意思表示するため、いくつかの政府機関に対して請願書を提出し、あるいはその複写を
提出することで、直接/間接的に、憲法に沿って人民代表議会において我々から選出され
た代表者を獲得することを認めるように求めてきた。以上をもとに、我々は、これらの政
府機関が我々の質問を受け取り、その質問に対してマンジョ民族の代表と直接対話を行う
ことを求める。さらに、我々が考慮を求めるのは、我々マンジョ民族の幾人かが拘束され、
解放されていないことについてである。我々は、我々の主張を早急に公共メディアで公表
することを求める。最後に、あなたがたが我々の抱える問題を扱うことができない場合、
我々マンジョ民族の質問を調査する政府機関に委ねるように求める。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、B 氏
複写提出先 連邦議会 (House of Federation):アディスアベバ、EPRDF 事務局:アディスア
ベバ、南部諸民族州議会:アワサ、SEPDF:アワサ、シェカ地方議会:マシャ、
カファ地方議会:ボンガ
・2000 年 11 月 27 日
(E.C.1993 年 3 月 18 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 3 月 18 日
宛先 南部諸民族州議会:アワサ
請願者 南部諸民族州カファ・シェカ地方に生活するマンジョ民族の代表者であり、我々
22
は以下のことを請願する。
この請願は、憲法第 39 条と第 54 条に明記される民族の権利と自由に則り、実施される
ものである。憲法 39 条の第 1 項では、エチオピアの全ての民族が自決権を持つことについ
て、第 3 項では、全ての民族の分離・独立について認めている。第 54 条では、人民代表議
会の成員について明記され、第 2 項では、少数民族が特別に代表を輩出することができる
ことを明記している。
我々は E.C.1993 年 1 月 5 日 (G.C.2000 年 9 月 15 日) から 4 回にわたり、人民代表議会に
対して、マンジョは南部諸民族州に少なくとも人口 100 万人以上が居住しているために人
民代表議会の議席を獲得することを認めるよう請願を実施してきた。我々は人民代表議会
に対して、以上のことを求める 2 つの書面と 30 頁にわたる 750 人の署名の複写を添付して
提出した。
マンジョ民族は、言語はカファとシェカと類似性があるが、社会・文化的価値、習慣、
文化的歌、ダンス、生活方法、冠婚葬祭などの点からカファとシェカ民族とは異なる。カ
ファ、シェカ、マンジョの言語が同じであるとみなされるために、カファとシェカがマン
ジョの代理人となっているが、そうあるべきではない。実際には、マンジョの言語はカフ
ァとシェカの言語とはイントネーションが異なり、またマンジョは独自の文化を持つ固有
の民族である。そして、2 つの地方に生活するマンジョは 40 以上のクランがある。だが、
マンジョはカファとシェカに組み込まれて同化を強いられている。それゆえ、我々は自ら
の文化を発展させ、社会生活を改善することを許されていない。さらには我々が権利と自
由を主張すると、妨害を受け、いくつかの行政地区ではマンジョが拘束・逮捕されている。
以上をもって、我々は、南部諸民族州議会に対して、憲法に則って我々の民族としての
地位を認め、憲法の権利と自由についての権利を受け入れ、我々が人民代表議会、州議会、
地方議会の代表として選出される自由と権利を主張する。もし、我々の問題の解決法につ
いて、州議会の立法部において問題があり、解決が困難な場合は、我々は公正な裁きを提
供する政府の適切な機関に我々の問題を委ねるように要求する。
最後に、我々はカファ地方のいくつかの行政地区で拘束されている一員の解放を求め、
公共メディアで我々のケースを公開するように要求する。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、B 氏
複写提出先 連邦議会:アディスアベバ、EPRDF 事務局 :アディスアベバ、アワサ
この時期、カフィッチョ・シェカッチョ地方は、カファ地方とシェカ地方に再編されてい
23
る。
・2001 年 1 月 22 日
(E.C.1993 年 5 月 14 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 5 月 14 日
宛先 南部諸民族州議会:アワサ
請願者 南部諸民族州カファ・シェカ地方に生活するマンジョ民族の代表者
我々は、E.C.1993 年 1 月 5 日から、人民代表議会に対して 3 回にわたり、我々の民族と
してのアイデンティティと民主的権利を認め、マンジョがそれらを獲得できるように書面
にて要求してきた。だが、我々は、適切な過程を経て我々の問題を提示するようにとの通
知を受けた。それゆえ我々は E.C.1993 年 3 月 18 日 (G.C.2000 年 11 月 27 日) に州議会に対
して、以下に示したように申し入れた。
1. 我々の請願は、憲法 39 条第 1 項と第 3 項に基づいて、民族自決の民主的権利の獲得
と連邦政府の公正な代表者を獲得することを要求するものである。
2. 我々の請願は、憲法 54 条第 2 項に基づいて、添付した 750 人の署名をもとに代表を
獲得することを要求するものである。
南部諸民族州の法務局 (Justice Affairs Office) は、カファ地方とシェカ地方に対して
E.C.1993 年 4 月 17 日 (G.C.2000 年 12 月 26 日)、書面番号DE/02/m92/203 号において我々の
問題を話し合いによって解決し、逮捕されている我々の一員を解放するように命令してい
る。しかし、カファ地方とシェカ地方は州政府の命令に従い、問題を解決することに意欲
的ではない。たとえば、政府は我々の問題を解決するための話し合いや交渉の場を持つこ
とにさえ積極的でない。我々は合法的に請願活動を実施しているが、この活動を担うマン
ジョは、人々に追跡され、衝突している。その結果、我々に対する拘束や拷問が頻発して
いる。また、カファ地方では、特にデチャ行政地区で多くのマンジョが拘束・逮捕され、チ
ェンナ行政地区ではマンジョ 6 人が拘束・逮捕されている。また、テンネシ・ゲシャ行政地
区 20 (Tenesh Gesha wäräda) ではマンジョ 6 人が拘束・逮捕されるのみならず、深夜に多く
のマンジョの家が焼き討ちされた。また、シェカ地方ではマンジョ 16 人が拘束・逮捕され
ている。以上から、我々は州政府に対して、中立的立場から 2 つの地方で発生している問
題について調査を実施し、マンジョ民族に対する抑圧を防ぐための予防策を立てることを
求める。また、現在拘束され、投獄されているマンジョの解放を命令するように要求する。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、B 氏
複写提出先 EPRDF 事務局、公安局 (Security Affairs Office) :アワサ
24
・2001 年 4 月 27 日
(E.C.1993 年 8 月 19 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 8 月 19 日
宛先 EPRDF 事務局:アディスアベバ
請願者 カファ地方とシェカ地方に暮らすマンジョ
我々はカファ地方シェカ地方イェキ行政地区に生活するマンジョ民族であり、以下のこ
とを要求する。
我々マンジョ民族は、これまで平和的かつ法的規則に則ってマンジョの民主的権利と自
由を尊重するように要求してきた。今日まで、我々は憲法に明記された権利が考慮され、
我々が抱える問題が解決されることを忍耐強く待ってきた。しかし、カファ地方とシェカ
地方の政治的構造は人々を混乱させ、民族の間での安定を欠いている。彼らは今、一般市
民を襲撃する準備をしており、キニジト特別行政地区 (Qinijit special wäräda) 21 とテンネ
シ・ゲシャ行政地区ウォシェロ行政村とショタ行政村に武装兵を内密に配置している。も
しこの事実を知る必要があるならば、EPRDFは人々を送り、事実を調べることができる。
それゆえ、我々は人命が失われないように適切な処置をとるように要求する。
請願者 カファ地方およびシェカ地方に生活するマンジョ
複写提出先. 首相府 (Prime minister Office):アディスアベバ、連邦政府、南部諸民族州
問題事務局 (States’ Affairs Office):アワサ、南部諸民族州法務局:アワサ、南部
諸民族州公安局 (Regional Security Affairs Office):アワサ
・2001 年 4 月 30 日
(E.C.1993 年 8 月 22 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 8 月 22 日
宛先 エチオピア連邦共和国事務局 (The Federal Democratic Republic of Ethiopia, Federation
Office):アディスアベバ
請願者 南部諸民族州カファ地方とシェカ地方に暮らすマンジョ民族の代表。氏名はこの
請願書の文末に署名した。
我々は、E.C.1989 年 (G.C.1997 年) から、他の民族と同様に我々の自決権と行政に関する
法的権利と自由を尊重するように州政府に要求してきた。また、我々は E.C.1993 年 1 月 5
日 (G.C.2000 年 9 月 15 日) から人民代表議会に対しても請願を開始し、所定の形式に従っ
て請願を実施するようにとの回答をえた。その後、州議会は E.C.1993 年 3 月 18 日 (G.C.2000
年 11 月 27 日) の我々の請願に対して、E.C.1993 年 4 月 17 日 (G.C.2000 年 12 月 26 日) の
書面番号 DE/02/m92/203 号にて、カファ地方とシェカ地方に対して我々の民主的権利と自
25
由についての質問を解決することと、この請願活動のために拘束されたマンジョを解放す
るように明記している。しかしながら、2 つの地方議会は南部諸民族州議会の書面を受け取
った後も、その内容を履行していない。そのため、我々は 2 回目の請願において南部諸民
族州議会が我々の事例を連邦議会に上告するように求めた。
我々マンジョは、南部諸民族州カファ地方、シェカ地方、ダウロ・コンタ地方、ベンチ・
マジ地方、北オモ地方、南オモ地方、オロミア州、ガンベラ州に居住している。マンジョ
の人口は約 100 万人であるが、カファとシェカ民族は、マンジョは民族ではなくクランに
すぎないと主張している。マンジョは、マンジョの文化、言語を発展させることを妨げら
れ、カファとシェカ民族の抑圧のもとで生活している。これは、ひいては政府がマンジョ
の権利を否定しているといえる。実際には、マンジョには 40 以上のクランがあり、固有の
社会・文化的価値観、習慣、文化的歌、ダンス、生活方法、冠婚葬祭などがある。我々マ
ンジョはカファとシェカ民族と同じ言語を話しているとされているが、それは全く同じ言
語ではなく、実は異なる言語である。以上に基づき、我々マンジョは憲法のもとで保障さ
れる権利を要求し、自己アイデンティティおよび自らの文化や習慣の向上を政府が認める
ように要求する。また、我々はカファ地方で拘束されているマンジョの解放を求め、公共
メディアで我々の事例を公開するように要求する。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、B 氏
複写提出先 EPRDF 首相事務局:アディスアベバ、連邦事務局:アディスアベバ、エチオ
ピア選挙連盟 (National Electoral Board of Ethiopia):アディスアベバ、南部諸民
族州議会:アワサ、南部諸民族州法務局:アワサ、SEPDF:アワサ
・2001 年 5 月 29 日
(E.C.1993 年 9 月 21 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 9 月 21 日
宛先 南部諸民族州議会:アワサ
請願者 カファ地方とシェカ地方に生活するマンジョ民族の代表者であり、我々の氏名は
文末に記載した。
我々は、E.C.1989 年からマンジョ民族としての自己アイデンティティの承認に関する請
願を実施してきた。我々の南部諸民族州政府長官アバーテ・キショ (Abate Kisho) 氏は、
E.C.1993 年 5 月 28 日 (G.C.2001 年 2 月 5 日) にイェキ行政地区テピにて会議を開催した。
会議の際、氏はマンジョ民族の質問は南部諸民族州政府や地方議会および行政地区議会で
はなく、連邦議会において決定されるものであるとの結論を下した。その後、南部諸民族
26
州議会、EPRDF 州事務局、シェカ地方、イェキ行政地区に対して解決策について記載した
書面を送付した。E.C.1993 年 8 月 22 日 (G.C.2001 年 4 月 30 日) に、我々はその決定に関す
る複写を添付した請願書を連邦事務局に提出した。そして、連邦事務局は以下の項目に関
する報告書の提出を州議会に求めたとして回答した。
1. 我々の居住地の断定について
2. この件に関する南部諸民族州政府の認識の有無について
3. この件が南部諸民族州政府の管轄を超えるものであり、連邦政府が扱うことを承認す
る書面の提出について
以上に関して、我々は南部諸民族州議会が、連邦議会に対して書面を作成するように要
求する。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏、B 氏
複写提出先 エチオピア連邦共和国首相:アディスアベバ、連邦議会:アディスアベバ、エ
チオピア連邦共和国連邦事務局:アディスアベバ
・2001 年 8 月 27 日
(E.C.1993 年 12 月 21 日)
ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 12 月 21 日
宛先 南部諸民族州議会:アワサ
請願者 カファ地方に生活するマンジョ民族の代表者 A 氏
カファ地方とシェカ地方におけるマンジョ民族に抑圧を防ぎ、それらを撲滅するために、
我々は州議会と SEPDF に対して繰り返し以下のことを要求する。
・憲法で保障された我々の権利と自由を尊重せよ。
・我々の自己アイデンティティを認めよ。
・我々の文化・宗教・自己アイデンティティの要素とその価値を認めて尊重せよ。
・他の民族と同様の自決権と行政権を保障せよ。
・我々の民主的権利についての質問のために拘束されたマンジョを解放せよ。
・公共メディア等にて、我々の伝統的ダンスと歌を放送せよ。
我々は、民族の自由と権利を守るために戦ってきたが、マンジョを擁護する者は誰もお
らず、マンジョは拘束され、拷問を受けてきた。カファとシェカは、我々が連邦政府や州
政府に請願を実施していることについて、カファとシェカが自らの行政組織をもっている
ために、我々マンジョの請願は何の結論を導き出すことのない愚かな試みであるといって
嘲笑した。事実、彼らがそう語るように、いくつもの場所で我々の抱える問題について議
27
論がなされてきたが、我々にとって有利な議論はなく、我々の要求は却下され屈辱を味わ
ってきた。ある政党は我々に対して、衝突や暴力的問題に発展するのを避け、そして金銭
的な負担を軽減するためにも、民族についての質問をやめるようにと助言した。しかし、
我々マンジョの民主的権利が軽視され、憲法が汚されているのは事実であるため、我々は
自らの質問に対して躊躇することはないと考えている。だが我々に対し、
「あなたや私が立
法者なのか?あなたは法律を知っているのか?EPRDF を知っているのはあなたか私か?あ
なたに何をすることができるだろうか?あなたに何ができるか見ていてやろう。」と皮肉を
言う者ものもいた。
このような屈辱的な扱いに対して、我々は地方と行政地区の委員やカファ・シェカ人民
民主事務局の職員ではなく、連邦議会に請願を行った。だが、連邦議会は、我々に対して
南部諸民族州議会から我々の居住地を明記する書面を持参するように求めた。我々は
E.C.1993 年 9 月 21 日 (G.C.2001 年 5 月 29 日) に州議会に請願を行い、南部諸民族州政府は
我々の問題を扱う委員会を設立するまで待つようにと述べ、現在に至るまで返答を待って
いる。さらに、我々は同時に南部諸民族州議会から、我々の多くが侵害行為を受けている
ことを認識する書面を得るためにも待ち続けている。今では、警察官が我々を拘束しよう
と探しているので、家に帰ることもできない状況である。それゆえ、我々はカファ地方議
会とシェカ地方議会および 2 つの政党とその幹部が人民に対する責務を果たし、生活を守
るべく、このことを議会へ報告する。そして、我々は南部諸民族州議会に対して、(カファ
地方とシェカ地方の) 2 つの議会と委員会に、我々に危害を加えることを終わらせるように
要求する書面を発行することを求める。そして、我々は憲法に則り、このような問題がさ
らに議論されることを求める。
請願者 マンジョ民族の代表者 A 氏
複写提出先. エチオピア連邦共和国首相:アディスアベバ、連邦議会:アディスアベバ、
EPRDF 事務局:アディスアベバ、連邦事務局:アディスアベバ、SEPDF:アワサ、
南部諸民族州最高裁判所:アワサ、南部諸民族州公安局:アワサ、カファ地方高
等裁判所:ボンガ、シェカ地方高等裁判所:マシャ
・2001 年 8 月 31 日
(E.C.1993 年 12 月 25 日) ワードプロセッサで作成
E.C.1993 年 12 月 25 日
宛先 南部諸民族州法務局、南部諸民族州政治委員会 (Political Committee ) :アワサ
請願者 マンジョ民族の代表者 A
28
我々マンジョ民族は、カファ・シェカ地方の先住民 (indigenous people) であるにもかか
わらず、憲法で明記された我々の権利と自由は尊重されていない。そして、我々のアイデ
ンティティは認められず、他の民族から抑圧されている。それゆえ、我々は E.C.1989 年
(G.C.1997 年) から我々の自由と権利について連邦政府と南部諸民族州政府に対して繰り返
し主張してきた。E.C.1993 年 5 月 28 日 (G.C.2001 年 2 月 5 日) に南部諸民族州政府の長官
が 2 つの地方を訪れて臨時会議を実施し、それぞれの議会の年長者と民族の代表者が参加
して問題を解決するため、E.C.1993 年 5 月 28 日から E.C.1993 年 6 月 16 日 (G.C.2001 年 2
月 23 日) にわたって議論がなされた。その際、南部諸民族州議会と地方議会はマンジョ民
族の質問に対して結論に達することができず、人民代表議会と連邦議会が回答を提示する
という結論に至った。同時に、この結論の決定を妨げる障害は一掃された。そして我々は
議会の決定を受け取り、人民代表議会を訪ねた。だが、いくつかの行政地区では、警察が
我々を妨害し、多くのマンジョが追跡され、拘束された。このような違法行為に対して、
州政府は我々の一員を解放するように書面で命令したが、地方政府はそれを受け付けず、
我々の一員は今も刑務所に入れられている。このような非人道的な扱いに対し、我々マン
ジョの代表者は、平和的かつ民主的な質問を実施するために居住地に戻ることに恐れを感
じ、生命の危機さえ感じている。それゆえ、このような個人に対する違法な暴力行為をや
めさせるように 2 つの地方議会と警察署に書面で命令するように求める。請願者は、その
命令に関する複写を請願者に提供することもお願いする。
請願者 カファ・シェカ地方に暮らすマンジョの代表者 A 氏
Ⅴ. 政府の対応
1997 年から始まったマンジョによる請願活動に対して、政府は長い間、直接回答すること
は避けてきた。政府がマンジョの請願活動に対して書面で回答するようになるのは 2000 年以
降である。2000 年 12 月 26 日 (E.C.1993 年 4 月 17 日)、南部諸民族州の副長官がカファ地方と
シェカ地方の行政議会に対して書面を送り、マンジョから数回にわたって、マンジョを固有の
民族であると認めること、拘束されているマンジョを解放することについて要求をうけている
こと明記し、マンジョの請願に回答をすることと、拘束されているマンジョの解放を命令して
いる。
また州政府は、2001 年 2 月 6 日から 2 月 12 日 (E.C.1993 年 5 月 28 日から 6 月 5 日) にかけ
て、イェキ行政地区テピにて臨時会議を開催した。計 15 頁に亘る会議録によると、この会議
29
の議長は、南部諸民族州政府、シェカ地方役場、イェキ行政地区役場の長官が担い、シェコか
ら 15 人、マジャンから 15 人、マンジョから 12 人、他の民族から 2~3 人が参加した。会議で
は、シェカ地方およびガンベラ州に居住するマジャンや、ベンチ・マジ地方やテピの近辺に居
住するシェコ、そしてマンジョに関する議題について話し合われた。
この会議におけるマンジョに関する議題は 2 項目あり、(1) マンジョが「人間以下」として
カファによる暴力を受けていること、(2) マンジョの民族としての自己アイデンティティが他
の民族集団および政府から認められておらず、権利も尊重されていないことが議論された。だ
が政府は、マンジョが実際にカファ地方とシェカ地方において共住する住民から抑圧され、暴
力を受けているか否かについては、的確な情報がないため、判断が困難であるとした。そして、
カファ地方とシェカ地方におけるマンジョの社会的地位は同社会の伝統的かつ文化的背景に
基づくものであるため、州政府はそれについて回答できないとした。
Ⅵ. 請願活動の中止とその後
マンジョの請願活動は 1997 年以来断続的に実施されたが、1998 年 10 月 (E.C.1990 年) から
2000 年 9 月 (E.C.1993 年 1 月) にかけて、請願書は提出されなかった。このことに関して、A
氏は、カファ地方デチャ行政地区のマンジョの請願活動の代表を担ったマンジョのY氏とQ氏
の 2 人を含む 6 人のマンジョが「税金を納めていない」として警察に逮捕されたために、自ら
も逮捕されることを恐れて請願活動を中断したと語っている。これに対して、Y氏とQ氏らの
釈放を求める請願も何度も実施された。そして、A氏とB氏はカフィッチョ・シェカッチョ地方
の全ての行政地区をまわり、マンジョの人口やクランに関する調査をはじめ、マンジョの結婚
や葬式などの慣行、歴史についての口頭伝承に関する調査を実施した。ただQ氏によると、カ
ファ地方東部のタッロ行政地区 (Tello wäräda)、アディオ行政地区 (Addio wäräda)、チャッタ
行政地区 (Chatta wäräda) におけるマンジョの請願活動の賛同者を募る活動は、Q氏とY氏に任
され、A氏とB氏は同地区を訪れていないという。そのQ氏とY氏も、自らが逮捕されたことに
よって同地区での活動を実施することができなかったという 22。
2000 年になると、A 氏と B 氏はマンジョの近隣に住む民族集団であるマジャン、シェコと
連帯して行政職の獲得をはじめとする権利獲得に向けた取り組みを行うことを提案した。マジ
ャンとシェコはそれぞれ固有の言語と文化を持っており、そのうえ教育を受けた者が多数いる
こと、人口がマンジョに比べて多いこと、さらに既に独自の政党をもっていることなど、マン
ジョよりも圧倒的に有利な条件を備えていた。そのため、A 氏と B 氏の提案は人口が少ない
30
マンジョが連帯することで発言力を強めようとする狙いがあった。しかし、請願活動を支援す
るマンジョからは、マジャンとシェコと連帯することについて賛否両論の意見が出た。その後、
マンジョ内での意見が一致しないまま、A 氏と B 氏はマジャンとシェコの政党の党員となり、
内密に自らに賛同するマンジョから署名を集める傍ら、請願活動を継続した。そのため、こう
した A 氏と B 氏に反発するマンジョも現れた。
2002 年 3 月 11 日 (E.C.1994 年 7 月 4 日)、カファ地方ビタ行政地区ウォシェロ行政村、ショ
タ行政村、シェカ地方イェキ行政地区バチ行政村を中心に、マンジョが共住するカファの隣人
を襲撃するという事件が発生した。請願活動の代表者を担った A 氏と B 氏がこの事件の首謀
者であるとみなされ逮捕され、他にも事件に関与したとされるマンジョ 200 人以上が逮捕され
た (吉田 2007; Yoshida 2008)。
襲撃事件のために A 氏と B 氏は、約 3 年間の刑に服すこととなり、2003 年 12 月 (E.C.1996
年 4 月) には請願活動の代表者として C 氏と D 氏が新たに選出され、さらに委員会も新たな
顔ぶれで再編成された。また、A 氏と B 氏にかわって C 氏と D 氏が代表者に選出された理由
として、A 氏と B 氏が服役している間も請願活動を継続する必要があったこと、マジャンと
シェコとの連帯をめぐって A 氏と B 氏がマンジョの代表者としてふさわしくないと判断した
ことの 2 点が挙げられた。また、C 氏と D 氏は、マンジョの代表者として正式にシェカ地方
政府、イェキ行政地区政府、バチ行政村からも承認された。そのため、C 氏は、
「A 氏と B 氏
は単にマンジョが代表者として選んだだけで政府から正式に承認されたマンジョの代表者で
はなく、我ら C 氏と D 氏の 2 人こそが正式な代表者である」と語っている。
2005 年 6 月 (E.C.1998 年 9 月) に A 氏と B 氏が刑務所から出所した。すると A 氏と B 氏は
2006 年 11 月 (E.C.1999 年 3 月)、政府によってシェカ地方イェキ行政地区の行政職に登用され
る。一度は襲撃事件の首謀者と政府からみなされた人物が、その政府によって行政職に登用さ
れるのは奇妙なことみえるが、これについて多くの人々は A 氏と B 氏をシェカ地方の行政職
に登用することで、マンジョの請願活動を鎮静化させようとする狙いがあったのだと語る。ま
た、C 氏と D 氏は、A 氏と B 氏は出所後にシェカ人民民主党の党員になったために登用され
たのだと語る。2003 年 12 月以降、請願活動は C 氏と D 氏が行っている。ただ、襲撃事件に
よって死者が出て、多くのマンジョが逮捕されたために、政治的活動に関わりたくないと感じ
るマンジョも現れるようになった。今日では、請願活動に反発するマンジョによる活動妨害や、
資金提供者の減少による資金不足等により、請願活動はかつての推進力を失っている。
おわりに
31
本稿では、EPRDF 政権のもとでマンジョが自らのおかれた社会的・政治的状況を改善する
目的で、政府に提出した請願書の内容を経時的に検討した。マンジョの請願書は、請願活動を
開始した当初の 1997 年は、マンジョがカファ地方とシェカ地方で抑圧をうけていることを訴
えるとともに、自分たちが政党を結成することに対する認可を求める内容となっていた。この
当時は、請願活動は地方政府と州政府のレベルで請願活動を実施されていたが、1997 年末か
ら 1998 年に行われた請願活動では、マンジョは憲法に言及して同地方におけるマンジョへの
社会的抑圧に対する改善とマンジョの権利の保障を求めた。2000 年になると、請願書は主に
連邦政府へ提出されるようになり、A 氏と B 氏はカフィッチョ・シェカッチョ地方の全 8 行
政地区に生活するマンジョの代表者として請願活動を行った。マンジョはカファとは異なる独
自の文化・宗教・社会的側面を持ち、言語はカファ語・シェカ語と異なるマンジョ語を話す固
有の民族であると主張し、共住する住民であるカファやシェカからの抑圧に対する保護、政党
の設立許可、人民代表議会での議席の獲得を要求した。これらの変遷をみる限り、マンジョの
請願は、カファ地方とシェカ地方におけるマンジョの社会的地位の改善を要求するものから、
マンジョを「民族」として認定し、人民代表議会の議席を獲得することを目的とする要求へと
変化しているといえる。
マンジョの請願活動および請願書の内容は、EPRDF 政権樹立後のエチオピア国内における
諸民族のエスニシティの勃興や、「民族」による政治的権利の獲得を目的とした動向と大きく
かかわる。現在のエチオピアの憲法では「民族」と認定されることは、国家によって行政的権
力や資金を与えられることを意味する。それゆえに、さまざまな人々が「民族」としての認定
を求めて行動をおこしている。本稿で紹介した請願書からは、マンジョもまた、ひとつの「民
族」であるとして自ら名乗りをあげ、「民族」として政府に認められようと努力している姿が
浮き彫りになる。
一方で、マンジョの主張が変化してきた要因として、エチオピアでは「民族」に対する保障
が法的に整備されつつあるのにもかかわらず、マンジョのような被差別マイノリティに対する
保障や政策の整備の実践は、依然として立ち遅れているということも指摘できそうである。こ
れには、たとえマンジョが彼らに対する差別や蔑視の存在を訴え、社会的・政治的状況の改善
を求めようとしても、それらの状況を第三者に対して具体的かつ説得的に提示することが困難
であるということも関係している可能性がある。このことは、2001 年に州政府が開いた会議
にて、マンジョの項目について政府側がカファ地方およびシェカ地方でマンジョがカファとシ
ェカから抑圧を受けている状況について把握できていないと判断し、何の方策もとらなかった
ことからも推測できる。
32
今後は、請願書におけるマンジョの主張をさらに緻密に分析し、マンジョの社会・経済・政
治・歴史的背景を踏まえてそれらを理解することで、マンジョの請願活動の特徴を明らかにす
るとともに、マンジョが請願活動を継続することを可能にしている理由を多角的に検討するこ
とを課題としたい。なお、2003 年以降にマンジョが政府に提出した請願書に関しては、紙幅
の関係により提示することができなかった。別稿にて、マンジョの請願活動の一連の動きと請
願書の関係に踏み込むことで、請願活動を支援するマンジョの内部での葛藤や対立にも言及し、
請願活動が抱える困難を内部からも明らかにしていきたいと考える。
本稿は、平成 20 年度文部科学省科学研究費 (特別研究員研究奨励費) の研究成果の一部で
ある。
1
1997 年から 2001 年までマンジョの活動の代表者を担った A 氏と B 氏が請願活動を実施する
際に、政府から活動の実施に対する許可やマンジョの代表者としての承認を受けたことを示す
文書は保存されていない。1999 年頃に A 氏と B 氏の活動に同行したマンジョ男性は、A 氏と
B 氏が各地で活動を実施する際に地方政府が移動手段として公用車を無料で提供することや、
各行政地区に協力を依頼する文書を発行するなど、A 氏と B 氏の活動に協力的でもあったと
語っている。しかし、A 氏と B 氏は地域政府によって活動に対する妨害行為を受けたとも語
っており、政府側が A 氏と B 氏の活動を許可していたのか、あるいは正式なマンジョの代表
者として承認していたのか明確ではない。そのため、A 氏と B 氏が政府に提出した文書を陳
情書とみなすか、あるいは請願書とみなすかは判断に難しい。一方、2003 年に代表者が A 氏
と B 氏から C 氏と D 氏に交代した後、C 氏と D 氏はマンジョの代表者として請願活動を実施
することについて、2003 年 12 月にシェカ地方政府から請願活動の許可と正式なマンジョの代
表者としての承認を受けている。政府の認可・承認という点からは、A 氏と B 氏による活動
と、C 氏と D 氏による活動には相違があるが、請願活動の拠点、活動の支援者であるマンジ
ョ、請願内容等に大きな相違が見られない。そこで、本稿では A 氏と B 氏によって政府に提
出された文書と C 氏と D 氏によって政府に提出された文書を統一して請願書と表記する。
2
本稿に関する調査は、(1) 2005 年 8 月から 2006 年 2 月までの 7 ヶ月間、(2) 2006 年 8 月半ば
から 10 月半ばまでの 2 ヶ月間、(3) 2008 年 2 月半ばから 3 月半ばまでの 1 ヶ月間、(4) 2008 年
6 月から 2009 年 3 月までの 9 ヶ月間、(5) 2009 年 11 月から 2010 年 1 月までの 3 ヶ月間の合計
1 年 10 ヶ月であった。(1)、(2) の調査は、次の科学研究費補助金によって可能となった。平
成 17 年度科学研究費補助金 (基盤研究 A)、課題番号:17251014、研究課題:国民国家の形成過
程における民族紛争の史的検証-北東アフリカ諸社会の比較研究-、研究代表者:京都大学大
学院人間環境学研究科教授:福井勝義。(3) の調査は国立大学法人名古屋大学文学研究科グロー
バル COE「テクスト布置の解釈学的研究と教育」2007 年度「大学院生海外派遣プログラム」
による助成を受けた。(4)、(5) の調査は、平成 21 年度科学研究費補助金 (基盤研究 B)、課題
番号:20401046、研究課題:開発国家支配-連邦制国家エチオピアにおける開発エージェントと
国家権力の相克、研究代表者:大阪府立大学人間社会学部教授:宮脇幸生、および日本学術振興
会特別研究員研究奨励費によって可能となった。また、(5) の調査は、日本学術振興会優秀若
手研究者海外派遣事業による助成を受けた。
3
本稿ではエチオピア暦の月を、マスカラン (Meskaram) 月を 1 月、トゥクムト (Tikmut) 月
を 2 月、ヘダール (Hedar) 月を 3 月、タヒサス (Tahisasu) 月を 4 月、タル (T’ar) 月を 5 月、
ヤカティト (Yekatit) 月を 6 月、メッガビト (Megabit) 7 月、ミヤジア (Miyaziya) 月を 8 月、
33
グンボト (Gimbot) 月を 9 月、サネ (Sene) 月を 10 月、ハムレ (Hamle) 月を 11 月、ナハセ
(Nahase) 月を 12 月、パグメ (P’agume) 月を 13 月として記述する。
4
カフィッチョ・シェカッチョ地方からカファ地方とシェカ地方へと行政区分が再編されたこ
とに伴い、行政地区の区分も再編されている。例えばカフィッチョ・シェカッチョ地方チェン
ナ地区は、カファ地方ビタ行政地区とチェンナ行政地区に相当し、カフィッチョ・シェカッチ
ョ地方ゲシャ行政地区はカファ地方サイレム行政地区とゲシャ行政地区に相当する。本稿では、
原則として 2000 年 11 月/12 月以前の請願書に記された行政地区はカフィッチョ・シェカッチ
ョ地方の、それ以降の場合はカファ地方とシェカ地方の行政区分を指すものとして記述し、混
同しやすいと考えられる場合には再編前と再編後の地区名を適宜併記する。
5
カファ地方とシェカ地方では、ドーノは「~氏 (Mr.)」の意味で用いられる。また、ドンジ
ョはカファとシェカの成人男性の意味でも用いられる。
6
2009 年 12 月 8 にマシャ行政地区役場の役人から聞き取り。同年のマシャ行政地区の人口は
約 36,000 人である。
7
2009 年 12 月、シェカ地方の統計局のデータによる。
8
アフロ・アジア語族セム系の言語を話す。
9
アフロ・アジア語族クシ系の言語を話す。
10
ナイロサハラ語群スルマ系言語を話す。
11
アフロ・アジア語族オモ系言語を話す。
12
C 氏は、A 氏と B 氏は同地区のマンジョから署名をもって代表者に選ばれたが、役場や行
政村からの承認は得ておらず、
「正式な手続きを経て承認された代表者」とはいえないと主張
している。
13
当時、会計係が出納簿をつけていたが、2002 年の事件の際に出納簿が焼失し、集まった正
確な金額は不明。ブルはエチオピアの通貨で、1ブル=7 円 (2010 年 2 月現在)。
14
2009 年 12 月 14 日に聞き取り、マンジョ、男性、50 代、シェカ地方イェキ行政地区バチ行
政村。
15
テオドロスはエチオピア北部出身のエチオピア帝国の皇帝で、
在位は 1855 年から 1868 年。
16
メネリクⅡ世はエチオピア北部ショア地方の王で、後にエチオピア帝国の皇帝となる。在
位は 1889 年から 1913 年。
17
ハイレ・セラシエⅠ世は、エチオピア帝国最後の皇帝で、在位は 1930 年から 1974 年。
18
エチオピアとエリトリアは、1998 年 5 月に武力衝突した。
19
エチオピアの私営のラジオ局。
20
テンネシ・ゲシャ行政地区は、現在のカファ地方ビタ行政地区のことである。
21
アムハラ語でキニジト (qinijit) とは、
「協調」や「調和」を意味する。このような名称の特
別行政地区は、南部諸民族州とガンベラ州など、請願活動を実施したマンジョが居住している
地域には確認されていない。正式な行政地区の名称であるかは不明である。
22
2008 年 9 月 16 日に聞き取り、マンジョ、男性、60 代、カファ地方デチャ行政地区アガロ
ブシ行政村。
文献
Lange, Werner Jürgen 1982 History of the Southern Gonga (Southern Ethiopia), Wiesbaden, Franz
Steiner Verlag.
吉田早悠里 2007 「差別に抗する人々 エチオピア南西部カファ社会におけるマンジョのカフ
ァ襲撃事件」
、福井勝義編著『抵抗と紛争の史的アプローチ エチオピア 国民国家の形
成過程における集団の生存戦略』 中西印刷 pp.2-27.
34
吉田早悠里 2008 「差別されるマイノリティ ― エチオピア南西部カファ地方に生活するカフ
ァとマンジョの事例から ―」
『人文科学研究』 第 37 号 pp.25-42.
YOSHIDA Sayuri 2008 Searching for a Way out of Social Discrimination: A Case Study of the Manjo
through the 2002 Incident in Kafa, Nilo-Ethiopian Studies, 12: 47-60.
政府刊行物
Federal Democratic Republic of Ethiopia
1995
The Constitution of the Federal Democratic Republic of Ethiopia. Addis Ababa.
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36
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