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港湾の空間と記憶の再編成: 神戸市東川崎町の景観を中
Kobe University Repository : Kernel Title 港湾の空間と記憶の再編成 : 神戸市東川崎町の景観を中 心に(Restructuring the Space and the Memory of a Port : Focus on the Landscape of Higashikawasaki Town in Kobe City) Author(s) 小谷, 真千代 Citation 海港都市研究,11:21-39 Issue date 2016-03 Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 Resource Version publisher DOI URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009366 Create Date: 2017-03-30 21 港湾の空間と記憶の再編成 ――神戸市東川崎町の景観を中心に―― 小 谷 真 千 代 (KOTANI, Machiyo) Ⅰ. はじめに 巨大なショッピングモールにミュージアム、石畳の広場と海が見える遊歩道―このような景 観は、今や多くの海港都市において馴染みのものとなった。たとえば神戸のハーバーランドや 大阪の天保山、横浜のみなとみらいがその代表例であろう。休日ともなれば観光客や買い物客 で賑わうこれらの港湾は、かつて重工業や輸送業の拠点として栄え、工場や倉庫、そして労働 者たちがひしめく労働の空間であった。 しかしながら、1980 年代以降の再開発によって、港湾は商業・文化施設が連なる消費の空間 へと再編されたのである。港湾における空間の再編はまた、過去の記憶の再編を伴う。例えば、 近代工業期に「築港」と呼ばれた大阪の港湾は、再開発のなかで近代化以前の地名である「天 保山」と新たな文化・商業施設と結びつけられることで、近代以来の労働の記憶が忘却されて いった[原口 2012]。 ただし、過去の記憶は、新たな建築物の建設とともに消えていくばかりではない。例えば、 東京のららぽーと豊洲では、「造船の街であった豊洲の土地の記憶をよみがえらせる」[パナソ ニック web ページ]ことを意図して、石川島造船所の造船ドックが残された。 新たな建築物の建設と古い建築物の保存、過去の忘却と想起―—これらは全く逆の力のように も見える。しかしながら、現在の港湾には―例えば古い倉庫の一部だけがレストランに改装さ れたり、ショッピングモールの片隅に工場の煙突が残されたりというように―しばしば工場期 の設備が真新しい施設にまぎれこむように建っている。つまり、ひとつの港湾においても、新 たな建築物の建設、古い建築物の破壊と保存、過去の忘却と想起というような矛盾したいくつ もの力が働きうるのだ。港湾の再編とは、必ずしも消費の空間へ、記憶の忘却へと直線的に向 かうプロセスではないのである。 日本において、こうした港湾の再編は、都市計画との関連から建築学を中心に研究がなされ てきた。港湾再開発は大都市のインナーシティ問題を背景にしており、地域活性化のための集 客機能として、水に親しめる空間や、水辺を遮らない景観設計の手法に注目が集まったのであ 22 海港都市研究 る[川端 1994; 桜井 1998]。一方、地理学では経済地理学を中心に、物流および港湾システム の変化[遠藤 1981]や、施設の立地要因および利用者の行動パターン[佐藤 2001]、後背地村落 との関係性[永野 2009]に関する研究が積み重ねられてきたものの、社会・文化的な観点からの 分析[水内ほか 2008]は十分に行われていない。そこで本稿では、文化地理学における景観論を 参照しつつ、港湾における空間と記憶の再編の動態を明らかにしてみたい。 地理学において、カール・サウアーに代表される伝統的な景観論は、農村を対象に、土地に 刻まれた人々の生活を読み取ろうとしてきた[今里 2006]。しかしながら、1980 年代に入ると、 ロラン・バルトの思想に影響を受けた地理学者ジェームズ・ダンカンとナンシー・ダンカンの アプローチによって、景観は何らかのメッセージが込められたテクストとみなされるようにな った。そして 1990 年代には、景観テクスト論がマルクス主義からの批判を浴びて論争となった [今里 2004; 森 2009]。 景観テクスト論への批判のひとつに、現実の世界とテクストの世界を区別するあまり、労働 を通じた景観の生産過程やそれに関わる闘争を見落としているというドン・ミッチェルの指摘 があげられよう。ミッチェルは論争を通じて、物質的な景観―つまり建造環境には、物質とし ての側面と表象としての側面が併存しているという見解を示したうえで、その生産の背後にあ る権力関係や人々の生活などに注目する必要性を訴えた[今里 2004]。彼によれば、景観とはま ず物質であり、労働の生産物として存在する。そして、物質たる景観は特定の社会関係を通じ て生産されるがゆえに、権力関係をめぐるコンフリクトをはらんでいる。しかしながら、それ にもかかわらず、景観はその生産に関わる社会関係を消し去る機能を持ちうる。なぜなら建築 家や都市計画者といった景観の創り手たちが、物質的な景観の建設を通じて、自らにとって望 ましい自然な秩序の表象を生み出そうとするからだ。ミッチェルにとって、「まさにこの景観 の物質性こそが、景観をテクストたらしめる」 [Mitchell 2000: 144]のであり、景観がもつ物 質/表象としての側面は、分かちがたく結びついている。 こうした議論をふまえるのならば、港湾の景観が物質としてわたしたちの目の前に現れる過 程に注目し、景観に関わる社会関係やコンフリクト、それらを打ち消そうとする表象の生産を 検討することで、港湾の空間と記憶の再編成の複雑な力学を明らかにすることができよう。 そこで、本稿では兵庫県神戸市を対象に、その景観が生じる過程を通じて神戸港における空 間・記憶の再編の動態を検討したい。神戸は、1868 年の開港以来、造船業をはじめとする近代 工業の生産拠点として、また海外との貿易拠点として栄えた海港都市である。1890 年代後半に 東洋最大の港となって以来、神戸港は 100 年にわたりその地位を保ってきた。さらに、日本で もっとも早い時期にコンテナ化や再開発に着手したのも神戸港である。そうした意味で、神戸 23 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― はまさに日本を代表する海港都市であるといえよう。 図 1 神戸港におけるハーバーランドの位置 国土地理院 2.5 万分の 1「神戸首部」(2015 年発行)、神戸市(2013) 『社会資本総合整備計画 神戸ハーバーランド地区都市再生整備計画』より 筆者作成 図 2 展望デッキから見える景観 ハーバーランドにて筆者撮影。 左:記念碑 右:倉庫の上のマネキン 24 海港都市研究 1980 年代の再開発によって、神戸港にはショッピングモールやミュージアムが建ちならぶハ ーバーランドが整備された[図 1]。ショッピングモールの人混みを背にして海沿いの遊歩道を 歩くと、その一角には小さな展望デッキが設けられている。このデッキに立って最初に目に入 るのは、「八時間労働発祥之地」と刻まれた記念碑であろう[図 2]。そして、この記念碑の後 ろ、運河をはさんだ対岸には造船所と倉庫が広がっている。注意してこの景観を眺めていると、 倉庫の屋根の上には何らかの作業を行う人影が見えるだろう。ただし、これは労働者の姿を模 ったマネキンであり、いくら眺めていても動くことはない。 これらの古びた造船所や倉庫からは、かつて工業と貿易で栄えた神戸の姿を思い描くことが できよう。マネキンからは何かしらの労働者の存在を、また記念碑からは 8 時間労働制導入と いう歴史を感じることができるのかもしれない。今や消費のための空間と化したハーバーラン ドで、ここだけが漠然と過去の記憶を想起させる。そこで、本稿ではこの古い造船所と倉庫・ マネキンの労働者・八時間労働発祥之地の記念碑に注目し、この景観が物質/表象として現れ る過程を辿ってみたい。 ハーバーランドとその対岸は、ともに神戸市中央区東川崎町に位置し、かつての労働の空間 であった港湾の一部をなしていた。しかしながら、再開発によって北側にハーバーランドが造 られたことで、今ではまったく異なる景観を呈している。運河を挟んで古い景観と新しい景観 が交差する東川崎町は、港湾の再編成における多様な力のせめぎ合いを捉えるのにふさわしい といえるだろう。したがって、本稿ではハーバーランドを含む東川崎町を具体的な対象地域と して設定し、造船所と倉庫・マネキンの労働者・八時間労働発祥之地それぞれを東川崎町の景 観として位置づけたうえで、それが現在の位置に現れるまでの過程を検討していく。 第一に、近代以来の景観である造船所と倉庫に注目し、それらがいかなる社会関係やコンフ リクトを伴う物質であるのかを示す。第二に、1980 年代以降に造られたマネキンと記念碑に注 目し、造船所・倉庫にそれらが加えられることで、表象としての景観が生み出される過程を示 す。以上のプロセスを通じて、神戸港の空間・記憶の再編を、単線的ではなく矛盾をはらんだ プロセスとして捉え、そこにどのような力が働いたのかを明らかにしたい。 Ⅱ. 造船・港湾労働者のまち――東川崎町 2-1. 産業と労働の空間の生成 最初に、海港都市神戸のなりたちと東川崎町の位置について確認しておこう[図 3]。神戸は、 25 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― 古くからの貿易拠点である兵庫津と、それとは距離を置いて造られた居留地を核に形成された 都市である[加藤 2006: 107]。幕末までは兵庫を中心に市街地が広がっていたが、諸外国から 開港を求められた際、既存の市街地を避け、神戸が貿易港として開かれた。以来、兵庫側では 工業の集積が進み、神戸側では市街地化とともに商業の集積が進んだことで、都市の中心は兵 庫から神戸へと移っていった[加藤 2006]。そして、そのはざまに位置した東川崎町の空間は、 周囲をとり囲む施設によって、大きく特徴づけられていく。 図 3 東川崎町の位置 国土地理院 2.5 万分の 1 地形図「神戸首部」(1923 年測図、 1927 年発行)より、加藤(2006)を参考に筆者作成 一つは、造船所である。開港以前の東川崎町では、兵庫津に入港する和船の金具を造る鍛冶 屋が集まり、街を歩けば白足袋が吹籠の灰で真っ黒になったという[1916 年 6 月 5 日『神戸新 聞』]。神戸港が開かれたことで、神戸側の東川崎町にも、外国人技術者により近代的な造船所 が建てられた。その後、明治政府が造船所を買収し、さらに川崎正蔵に払い下げたことで、川 26 海港都市研究 崎造船所が誕生する。川崎造船所が神戸経済を牽引する大企業へと成長するなかで、東川崎町 も神戸港における工業の拠点となっていった。 もう一つは、鉄道である。1874 年、大阪と神戸を結ぶ官営鉄道の終着駅・神戸駅が設置され、 東川崎町には港へと延びる貨物路線が敷かれた1。周辺には三菱倉庫をはじめとする多くの倉庫 が建てられ、周りに港湾運送業者が集まることで、運送業の拠点が形成された。 さらに、東川崎町には造船所およびその下請工場の職工たちが住まう長屋が建ちならぶとと もに、造船業や港湾運送業の下層労働者たちが住まう「労働下宿」が軒を連ねた。後にその宿 泊料から「三十円宿」とも呼ばれる労働下宿は、これらの産業に独特の下請関係を反映した住 居形態であった[加藤 2006]。 造船業の場合、本工程のほか荷役や清掃などの付帯業務も含め、複数の下請業者を構内に配 置する下請構造が形成されている。下請業者の親分は下請人と呼ばれ、造船所から伝えられた 必要労働者数を集めて構内へと送りだしていた [池田 1963]。一方、港湾運送業では船会社を 頂点とした下請構造が形成されており、倉庫業者や運送業者の親分は、日々変動する貨物量に 合わせて「仲仕」と呼ばれる労働者を集めては港へと送りだしていた。その労働者の供給源の ひとつが、労働下宿である。親分は自身が所有しているか、取引を持つ下宿屋に一定数の労働 者を住まわせて管理下に置いたうえで、自身が下請けした作業に従事させた [兵庫県労働部 1971]。労働者の作業の多くは荷役であるが、なかには造船所に送りだされるものも見られ[神 戸市中央職業紹介所 1925]、港湾運送業と造船業の下層労働市場は、労働下宿を通じてつなが っていたことがうかがえよう。東川崎町は、造船所の職工のみならず、多様な労働者が暮らし 働くまちだったのである。 以上のことから、東川崎町には、造船業と港湾運送業を色濃く反映した景観が造られたとい えよう。神戸港の開港以降に造られた造船所・鉄道・倉庫という物質的景観が、造船業と港湾 運送業という産業と労働のまちとしての東川崎町を特徴づけ、またそれらの産業を中心に結ば れた社会関係が、長屋や商店、労働下宿のような景観を生み出したのである。次節ではさらに、 川崎造船所争議と港湾労働者リンチ事件という二つの大きな事件を通じて、造船所、そして倉 庫や労働下宿という物的景観が、造船業と港湾運送業における社会関係の緊張・矛盾が顕在化 する場であったことを示す。 1 後に貨客分離が行われ、貨物駅は湊川駅として独立する。 27 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― 2-2. 川崎造船所争議 本節では、1919 年 9 月 15 日に起きた川崎造船所争議を取りあげることで、戦前の造船業に おけるコンフリクトに注目したい。 1910 年代後半の造船業は、第一次世界大戦による造船ブームの影響から好況を呈し、川崎造 船所の門前町である東川崎町も、大変な賑わいであったという。東川崎町で生まれ育った作家・ 横溝正史は、随筆のなかで当時の東川崎町を以下のように回想している。 新しく引っ越してきたその家から新開地のとばっちりまで歩いて三分くらいの距離、造船 所の本社までおなじく歩いて五分くらい、本社のバックには広大な造船所がある。したがっ て朝と夕方は広いわが家のまえの道は人波で溢れ、夜ともなれば新開地へ遊びにいくひとた ちで、やはり溢れんばかりで、 薬屋にしろ何商売にしろこのうえもない格好の場所であった。 (…)中学の二、三年ごろ、夜の八時ごろともなれば新開地の通りは、文字どおり押すな押 すなの盛況で、歩くにしても一寸刻みにしか歩けなかった[新保博久編 2002: 106]。 この頃には「職工成金」という言葉が生まれるほど、造船所の職工たちの収入は高かったよ うである。しかしながら、1918 年頃の老職工の語りによれば、収入の増加のほとんどは残業手 当によるものであった。残業によって労働時間は 14 時間に達しており、怪我や病気のため欠勤 者が多かったという [津金澤・土屋 2004]。当時の日本の工業は、労働者の低賃金と、10 時間 を越える労働によって支えられており、造船業もこの例外ではなかった。この時代、職工たち の高収入を実現させていたのは、賃金の上昇というよりも残業に継ぐ残業だったのである[大 前・池田 1962]。 一方で、同時代には、1917 年に成立したロシア共和国(のちにソヴィエト連邦を形成)にお いて、世界初の 8 時間労働制が実施されていた。これを皮切りに、フィンランド、ドイツなど でも革命やゼネストがあいつぎ、労働運動への応答として 8 時間労働法が整備されている。ま た、1919 年には国際労働機関(ILO)によって 8 時間労働を定めた第一号条約が採択されてお り、8 時間労働制は国際的にも標準化しつつあった [大須賀・下山 1998]。 しかしながら、まだ労働運動が盛んではなかった日本では、1889 年にようやく初の近代的労 働争議が起きたばかりであった[大須賀・下山 1998; 津金澤・土屋 2004; 盛岡 1995]。そのた め、政府関係者や経営者も、欧米との労働事情の違いを根拠にして、その導入を見送っていた [大前・池田 1962]。日本において労働運動が大きく展開するのは、1919 年から 1920 年代初頭 の不況と世界的な労働運動の高揚を受けてのことである。大戦終了によって受注量が激減した 28 海港都市研究 造船業においてそれは顕著であった。とりわけ川崎造船所では、賃金に加え、近隣の造船所が 有していた病院・食堂・寄宿舎・浴場などの設備が整備されていなかったことでも不満が募り、 1919 年秋には労働争議へと発展している [大前・池田 1962]。 1919 年 9 月 15 日、川崎造船所の 1 万 6780 人職工たちは、当時の社長・松方幸次郎に対し、 賃上げ、特別賞与分配日明示、勤続者への賞与支給、食堂・洗面所・衛生設備の完備を求める 嘆願書を提出した。この嘆願は、先延ばしにされていた 8 時間労働制の実施計画を理由に、一 旦は拒絶されている。そこで職工たちは、労働争議の戦略として一般的だったストライキでは なく、工場に出勤し機械を動かしつつも作業効率を極度に下げる、という新たな戦略によって 交渉を続行した。松方はこのサボタージュに対して怒りを露わにし、労働者側を激しく非難し たという2。しかしながら、松方は 9 月 27 日になると突然 8 時間労働制の実行を宣言し、サボ タージュをしない者には賃上げも実施すると告げた。そのため、9 月 22 日、労働者がこれらの 宣言を受けいれるかたちでサボタージュは終結する[津金澤・土屋 2004]。 実際のところ、この時の 8 時間労働制導入は、残業代算出の基準に利用されたに過ぎない。 本当の意味での 8 時間労働制は、皮肉にも世界恐慌の不況下で、合理化の一環として実施され た。しかしながら、この争議は各地の資本家に衝撃を与え、労働者には 8 時間労働という目標 を与えたという意味で、重要な事件だったともいえるだろう [津金澤・土屋 2004]。川崎造船 所争議は、当時の造船業における矛盾や緊張の表出であるとともに、8 時間労働という基準を 日本に定着させる起点になったのである。 2-3. 港湾労働者リンチ事件 つぎに、造船所から倉庫・労働下宿に視点を移し、1956 年の港湾労働者リンチ事件を取りあ げることで、第二次大戦後の港湾運送業におけるコンフリクトに注目したい。 第二次大戦終戦直後、神戸港には 600 人の労働者が仕事を求めて集まり、親方を通じて、あ る者は仁川の航空機工場、川重や三菱造船の片付け作業へ、ある者はヤミ市での買い出しへと 送りだされたという[西出 1970:3]。1946 年に川崎造船所が建造を再開し、また米国から援助 物資が入港しはじめたことで徐々に荷役の仕事が戻っていった。また、1950 年代に朝鮮戦争が 勃発したことで、港は再び活気につつまれた[新修神戸市史編集委員会 2000]。 東川崎町は、戦前と同様に下層労働者の下宿が軒を連ね、港に近接する弁天浜や湊町ととも に「三十円宿地帯」[1952 年 9 月 2 日『神戸新聞』]と称された。1956 年 9 月の神戸新聞の報道 2 造船所に人夫を供給していた親方とその子分たちが松方側についたことも報告されており[津金澤・土屋 2004]、造船所の労働者といっても一枚岩ではないことは注に付しておきたい。 29 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― からは、三十円宿の劣悪な環境をうかがい知ることができる。 (…)三十円宿二階の大部屋は掃除もされず、黒ビカリした板の間に汗まみれのシャツか ら■散するアカのにおいが充満している。小窓が二つあるだけで部屋はまるで密閉された よう。その中でざっと三十人がゴロ寝していた。うす暗いハダカ電球が部屋の両端にぶら 下り、体臭がムンと鼻をつく。『ドヤ賃』と呼ばれる宿泊料は三十円だが毛布一枚借りる と十円、 フトンなら十五円がいるのでほとんどの人が着のみ着のままでゴロゴロしている。 ハエの群る薄暗い食堂で『韓国正宗』(ショウチュウのこと)を三杯、四杯とたてつづけ にあおり、三十円の天ぷらウドンと大メシを食う。ここにいる人たちはかせいだ金の八割 はメシ代だ。そのほとんどが『ツケ』で板カベに白ボクで書きつけられていく(…)[1956 年 9 月 19 日『神戸新聞』] 戦後に労働の民主化を掲げた GHQ は、港湾運送業で行なわれていたような労務供給事業を厳 しく批判し、1947 年の職業安定法によって禁止したはずであった[労働省編 1987]。しかしな がら、実際にはかつて親分が率いた「組」が「下請企業」に、「親方」が「社長」に、「小頭」 が「労務係」や「現場監督」に名を変えたにすぎなかった[ラジオ東京 1964]。この労務係は荷 役に必要な労働者を集める者のことを指し、「手配師」とも呼ばれた。三十円宿で暮らす労働 者たちは、荷役の現場で手配師の支配下におかれ、時にはまる 2 日から 4 日の肉体労働を強い られる。当時のラジオ番組で神戸港の港湾労働者が「人の命がこれ程容易に簡単に扱われてい るところは地球上にも非常に少い[原文ママ]、少いよりむしろ無い」[ラジオ東京 1964: 20] と語っていることからも、その労働環境がうかがえよう。労働者たちは手配師のもとで厳しい 労働に耐えた後、ふたたび手配師の管理する下宿に戻っていく。三十円宿と倉庫は、どちらも 手配師と労働者の支配関係が色濃く反映された景観だといえよう。 しかしながら、港湾労働者たちをとりまく状況は必ずしも絶望的なだけではなかった。1946 年に労働組合法が施行され、労働者の団結権・団体交渉権・団体行動権が法的に認められたの である[労働省編 1987]。これにより、全国各地で労働組合が結成され、日本の労働運動は高揚 期へと突入する。神戸港で初めて結成された労働組合は、1946 年の「神戸船舶荷役労働組合」 であった。その後も神戸ではいくつかの企業別労働組合が結成され、さらに連合と分裂を繰り 返した後、1949 年に全日本港湾労働組合同盟(後の全日本港湾労働組合、以下「全港湾」)の 神戸支部として統一された[神戸港湾福利厚生協会 1988]。全港湾は 1946 年に結成された産業 別労働組合であり、のちに港湾労働法の制定を求めて闘争を展開するのだが、この原動力の一 30 海港都市研究 つとなったのが、神戸港の港湾労働者リンチ事件であった。 リンチ事件が起きたのは、1956 年 5 月 20 日のことである。この日、神戸港では荷役中に砂 糖を盗んだ一人の労働者が手配師から暴行を受けた末に死亡した。手配師は当初、これを作業 中の事故として警察に報告し、居合わせた人々を恫喝して事件自体をもみ消そうとしたという [兵庫県労働部 1971; 大山 1964]。ところが、数カ月後にある労働者が酒場で事件の真相を口 にし、それを全港湾神戸地本の幹部が聞きつけたことで、リンチ事件が発覚した。 表 1 神戸新聞にみる「手配師問題」の報道 この事件を受けて、神戸新聞は 1956 年 9 月 12 日から「手配師問題」是正のキャンペーンを 組み、港湾労働者の生活と労働実態を詳しく報道した[表 1]。また、全港湾中央本部は抗議声 明を発表し、新聞報道および労働組合の抗議によって、手配師問題は一躍社会問題と化した。 1956 年 9 月 24 日には、衆議院法務委員会でも神戸港でのリンチ事件が取りあげられている。 さらに、1956 年末には政府・業界団体・労働組合による港湾労働対策協議会が設置され、翌年 7 月には「港湾労働対策に関する意見」が発表された。この意見書には労働者側の意見が強く 反映され、港湾の公共職業安定所機能の強化、港湾労働者手帳の創設などが盛り込まれている [全日本港湾労働組合阪神支部・大運部会 1984]。この動きは、のちの港湾労働法制定を求める 闘争へと繋がっていった。神戸港のリンチ事件、またそれに端を発する港湾の民主化運動は、 神戸のみならず全国規模の闘争を前進させる原動力になったのである。 31 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― 以上のことから、神戸開港以来、東川崎町は造船所や倉庫から住居までが一連となった労働 の空間であったといえるだろう。そこでは造船業と港湾運送業を中心とする社会関係が築かれ、 東川崎町にはそれらを強く反映した景観が現れた。造船所や倉庫、三十円宿など東川崎町に独 特の景観には、それらの産業における矛盾が噴出し、それゆえに矛盾をめぐる闘争の起点とも なったのである。次節では、以上のことをふまえたうえで、1980 年代以降の東川崎町の景観か ら、港湾における空間と記憶の再編成の具体的なプロセスを検討したい。 Ⅲ. 景観の生産による記憶の再編 3-1. 労働の空間の分断 造船所、鉄道、倉庫、三十円宿、行き交う造船所や下請工場の職工、港の仲仕に手配師たち ―神戸港の開港以来、東川崎町は造船業と港湾運送業によって特徴づけられる、労働の空間で あった。しかしながら、1970 年代の産業構造の転換と技術革新は、それらの産業の大幅な合理 化とともに、港湾空間の再編をもたらす。 オイルショック以降、当時世界一の建造量を誇った日本の造船業は、急速に衰退した。それ にともない、川崎重工は造船から車両や電気機器などの加工組立型産業へと主力事業を移し、 設備縮小・人員削減を進めている[新修神戸市史編集委員会 2000]。港湾運送業では、コンテナ 化の進行によって多くの労働者が失業した。さらに、臨海部の港湾設備はその自然条件からコ ンテナ化に対応しきれず、かわって 1970 年代に着工した人工島が輸送拠点となっていく。 こうして港湾から工業・輸送機能が失われ、労働者が姿を消していく一方で、造船所や倉庫 といった景観はなおも港湾を覆っていた。当時は、「『海が見たい』と港の方に向かって歩い ても建物や道路や柵に遮られてなかなか見えず、やっと海に到達してもただ殺風景な港が広が るばかり」[松下 2007: 36]であったという。産業の合理化と港湾の機能低下は、近隣の地域で の事業所撤退・人口流出をもたらし、それらは大きく問題化されていく。 このような状況下で、1982 年、東川崎町の湊川貨物駅が貨物量の減少に伴い廃止される。す でに造船業の拠点としての地位を低下させていた東川崎町は、このことによって、ついに運送 業の拠点としての地位も失う。しかしながら、湊川貨物駅の廃止は、この後の神戸港における 再開発事業を方向づける、重要な意味を持っていた。 神戸市は湊川貨物駅跡地を、「周辺地域の総合整備を進めていくまたとない機会[国鉄湊川貨 物駅跡地利用計画策定委員会 1984: 130]として取得し、ただちに委員会を組織してその利用計 32 海港都市研究 画を制定している。つまり、東川崎町は湊川貨物駅の立地ゆえに、労働から消費へと向かう、 港湾の再編成の最前線に立つことになったのである。その後、神戸市は開発計画を市民にアピ ールするとともに、港湾の地域イメージ向上をはかろうと、再開発地の愛称を募集した[川口 1987] 。その結果、再開発地は「ハーバーランド地区」と名付けられ、国による特定開発事業・ 新都市拠点整備事業・特定住宅地総合整備促進事業採択を経て、本格的な再開発事業が進めら れていく[図 4]。 図 4 湊川貨物駅停止によるハーバーランド地区の策定 国土地理院 1 万分の 1 地形図 「神戸首部」(1979 年発行、1973 年測図)、 神戸市都市計画局計画部計画課 1985『神戸ハーバーランド計画』より筆者作成 湊川貨物駅以北では、周囲の倉庫など港湾設備がクリアランスの対象となり、跡地に生じた 広大な土地に、つぎつぎと商業施設や文化施設が建てられた。一方、湊川貨物駅以南でも住環 33 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― 境改善事業によって道路や公営住宅が整備されたが、あくまでも局地的なものにとどまり、多 くの古い住宅が残された。また、川崎重工の工場や国鉄の倉庫が操業を続けており、これらの 設備もそのままのかたちで残ることになった。 計画段階では、ハーバーランド地区と残りの東川崎町および隣接する新開地との接続が意識 されていたものの、再開発が進むほどに両者の差は顕著になり、それは例えばショッピングモ ールと老朽化した倉庫というような、景観の対比となってわたしたちの前に現れる。ハーバー ランドの展望デッキから見える景観は、一連の労働の空間であった東川崎町が、湊川貨物駅を 境に分断されたことで生じた「景観の断層」[水内ほか 2008: 331]というべきものであろう。 しかしながら、倉庫の上にマネキンの労働者が置かれ、さらに 8 時間労働の記念碑が加わっ たそれは、むきだしの断層ではない。そこには明らかに、マネキンや記念碑を設置した者の意 図が介在している。次節からは、マネキンと記念碑それぞれが設置される過程を通じて、この 景観を物質/表象としてそこに生じさせる力学を明らかにしてみたい。 3-2.マネキンの労働者 ―対岸の「修景」として まずは、記念碑に先だって設置されたマネキンの労働者に注目してみたい。倉庫の上のマネ キンは、1992 年のハーバーランド街開きと同時に設置・公開されたものである。マネキンを管 理しているのは、神戸市と株式会社ハーバーランドだが、マネキンの具体的な発案・設置者は 不明だという3。そこで、本稿では都市計画者としてハーバーランド計画に長年関わった小林郁 夫の著作から、ハーバーランド再開発時の回想を検討することで、マネキン設置のプロセスを 明らかにしていく[小林 1993]。 小林によれば、マネキンの設置は、初期のハーバーランド計画には組み込まれていなかった という。というのも、マネキンが置かれている倉庫は、JR の管理下にあり、神戸市が手を加え ることができないからである。計画の初期段階で問題となったのは、対岸よりもむしろハーバ ーランド地区内の港湾設備であった。しかしながら、小林は老朽化した港湾設備を撤去して新 たな施設を造ることに対し、郊外のニュータウンですでに問題化していた均質的な景観が生じ るのではないかという危惧を抱いたという。小林の言葉を借りるならば、それは「歴史的蓄積 やその土地に染みこんだ想い出が街に反映されていない厚みの無さ」[小林 1993: 54]である。 そのため小林は、ハーバーランドに「なるべくかつての港湾倉庫地帯であった時の忘れがたい 想い出」[同: 54]を留めるために「歴史的建造物の保全」[同: 54]を提案している。そのかい 3 2015 年 3 月 24 日ハーバーランド管理会社職員の回答による。ただ、提案を行ったのはある民間事業者 の社員だったという。 34 海港都市研究 あってか、結果的に老朽化した倉庫の一部、望楼、信号所が、修繕・改築されたうえで、ハー バーランドのモニュメントやレストランとして残された。 こうして再開発事業が進むうちに、ハーバーランドのシンボルとして、巨大なはね橋が整備 されることになった。その際、はね橋ごしに見える倉庫や造船所のタンクが「整備されたはね っこ広場とあまりにも不釣り合い」4であるとして、本来ハーバーランド事業の対象外であるは ずの対岸の景観が初めて問題化している。例えば、小林は対岸の施設を「なんとか隠さないと せっかくのハーバーランド広場や『はねっこ』も台なしではないか」[小林 1993: 53]と感じて おり、「美しい壁を立てて隠すことばかり考えて」[同: 53]いたという。 突如問題として持ちあがった対岸の景観について、神戸市や再開発事業に関わる業者の職員 を含めて解決策が模索された。そのなかで、ある民間業者の職員が「老朽化して汚くなってい た倉庫も新しく変わっていくという作業中の様子を、マネキンを使ってディスプレイに」する ことを提案した。この提案を受け、神戸市とハーバーランドは JR 倉庫など対岸の土地所有者と の協議の末、マネキン設置の許可を得る。これによって、対岸の老朽化した倉庫にはペンキが 塗られ、さらにその上にはペンキを塗りかえる労働者を模したマネキンが置かれた。小林はこ れを「マネキンを配した修景」[同: 53]であり「まことにエスプリのきいた洒落た見事な解決 策」[同: 53]と評している。 以上のことから、まず、マネキンはかつての労働者を意図して造られたものではないといえ る。また、再開発のなかで綿密に計画されたというよりも、再開発の進行に伴い対岸の古い景 観が問題化することで設置されたものであった。古い景観がハーバーランド地区内のものであ れば、改修することで、ショッピングモールなど消費の景観に直接組み込むことができただろ う。その場合には、消費者にとって他とは差異のある魅力的な景観を造るべく、かつての「忘 れがたい思い出」を想起させようとする力が働く。しかしながら、それが対岸となると、むし ろ過去の記憶を払拭しようとする力がより強く働いた。対岸の倉庫、たしかに近代以来の運送 業の産物であり、その背後には港湾運送業の手配師と労働者という社会関係や、それをめぐる 激しい闘争が存在する。しかしながら、ペンキが塗られ、マネキンが置かれることで、1980 年 代の再開発という一場面が景観に上書きされることで、倉庫は「新しく生まれかわる港湾」の 表象と化してしまった。倉庫を覆うペンキは、古い倉庫に積み重なった記憶の層をも塗り替え たのである。 4 2015 年 3 月 24 日ハーバーランド管理会社職員の回答による。 35 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― 3-3. 8 時間労働発祥の地記念碑 ―在神戸企業の先見性アピールとして マネキンが対岸に設置されたのに対して、8 時間労働の記念碑はハーバーランド地区内に置 かれている。記念碑の正面に立つと見えないのだが、側面には「大正八年(一九一九年)当時 の川崎造船所の社長松方幸次郎が我が国で最初に八時間労働制を実施したことを記念してここ に碑を建立した」という解説が書かれていた。それによれば、マネキンの設置から 1 年後の 1993 年、兵庫労働基準連合会(以下「連合会」)によって設置されたものだという。連合会とは、 川重や三菱重工、川崎製鉄の役員が歴代会長を務める地元経営者の団体であり、その活動には 兵庫労働基準局も関わっている[兵庫労働基準連合会 1997]。そこで、本節では、この団体がな ぜ 1990 年代初頭になって、大正期の 8 時間労働導入を記念する必要があったのか、ということ を中心に、連合会の活動記録などから、記念碑の設置過程を検討する。 記念碑の解説が述べるように、日本で最初に 8 時間労働制を導入したのは、1919 年の川崎造 船所であった。ところが、これはあくまで名目上の導入にすぎず、実際には残業によって 8 時 間以上の労働時間が保たれたことは、前章で述べたとおりである。日本において、労働時間は その時々の景気にも左右されつづけ、1947 年の労働基準法で法的に 8 時間労働が定められて以 降も、この基準は達成されていない。労働運動の関心はもっぱら賃上げにあり、時短が闘われ ることは稀であった[大須賀・下山 1998] ところが、1970 年代後半以降、このような状況は一転し、時短を求める声が高まっていく。 その背景にあったのは、労働運動というよりも、日本の長時間労働に対する国際的な批判であ った。オイルショック以降、失業対策として時短を進めた欧米とは対照的に、日本では、とり わけ家電・自動車など輸出主導の加工組立型産業が、労働時間を延長することで国際競争力を 高めていた。このことが反発をまねき、日本企業は欧米から、長時間労働によって不当な利益 を得ているという厳しい批判を浴びることになった[中村 1992]。 そこで、東京サミットを目前に控えた 1986 年、中曽根首相が国際公約として、国際貿易摩擦 の解消と国内消費の拡大を意図した時短政策を宣言する。続いて 1988 年には経済運営五カ年計 画『世界とともに生きる日本』を発表し、1992 年までに労働時間を週 40 時間、年間 1800 時間 まで短縮するという具体的な目標を設定した。そして 1992 年、日本政府は達成期限を 1996 年 まで延長し、時限立法である「労働時間の短縮の促進に関する臨時措置法」を施行している。 記念碑が設置された 1993 年は、まさにこの時短キャンペーンの只中にあったといえよう。 こうした流れを受け、1992 年秋には、兵庫労働基準局と連合会の間に、時短の原点にあたる 8 時間労働が神戸で初めて導入されたことをアピールしてはどうか、という話が持ちあがる[兵 庫労働基準連合会 1997]。そして、1993 年 1 月、兵庫労働基準局局長であった畠中信夫は、日 36 海港都市研究 本労務研究会発行の月刊誌『労働基準』上で川崎造船所の 8 時間労働制導入を紹介し、「労働 時間短縮が日本社会の大きな流れとなって進んでいるが、その最初の出発点である八時間労働 制を、神戸の川崎造船所(の松方幸次郎社長)が英断をもって日本で最初に導入したという事 実は、何らかの形できちんと記憶に残しておくべきではなかろうかという思いがする」[畠中 1993: 34]と結んだ。 この記事がきっかけとなって、連合会内には「八時間労働制記念碑建立準備委員会」が組織 された。そして資金集めの結果、中小企業経営者災害補償事業団、全国労働基準関係団体連合 会、川崎重工の出資が決定している。また、畠中の記事を読み支援を表明した労働基準局長・ 石岡慎太郎を通じて、記念碑の制作は石岡と交流があった彫刻家・井上武吉に、台座の文字は 1947 年の労働基準法制定時の労働大臣・村上正邦に依頼された [石岡 1997]。1993 年 2 月 13 日の読売新聞によれば、当初は汗塗れの労働者をレリーフにして埋め込むなどの案があったが、 最終的なデザインは井上にまかされたようである。記念碑の建立地としては、人の出入りが多 く、旧川崎造船所が見える場所という条件のもと、川崎造船所を目の前に臨むハーバーランド の展望デッキが選ばれた。そして、1993 年 11 月、労働省が設定した「ゆとり月間」の期間中 に、経営者団体・労働省の関係者ら約 150 人が出席する大規模な記念碑の除幕式が行われてい る[兵庫労働基準連合会 1997]。 以上のことから、記念碑は 1980 年代以降の時短キャンペーンの盛り上がりを背景にして設置 されたといえる。また、マネキンが対岸の景観区を問題化することで設置されたのに対し、記 念碑は対岸の景観を在神戸企業の先見性をアピールしうるものとして発見したことで設置され たといえるだろう。ただし、連合会と兵庫労働基準局は、川崎造船所争議に言及しながらも、 長時間労働や低賃金といった労働争議の背景には、決して触れようとしない。ここには、過去 の記憶を想起させようとしつつも、特定の記憶を想起させまいとする力を読みとることができ よう。「松方幸次郎による 8 時間労働制導入」というただ一点のみが記憶から抜き出され、記 念碑の解説からは、神戸港における労働者たちの存在や、造船業の社会関係をめぐるコンフリ クトという要素が取りのぞかれている。 以上のようなマネキンと記念碑が現れる過程は、表象としての景観の生産を通じた、記憶の 再編過程として捉えられよう。1980 年代以降の港湾における空間の再編は、かつて一連の労働 の空間であった東川崎町を分断することで始まった。再開発が進むにつれこの分断は顕著にな り、物理的に消し去ることができない景観の断層として目の前に現れる。神戸市や民間業者、 労働基準局や経営者団体は、この景観の断層をそれぞれ別の文脈から問題化/発見し、マネキン や記念碑の設置によって物理的に手を加えることで、自らの願望を反映した表象を生み出した 37 港湾の空間と記憶の再編成 ―神戸市東川崎町の景観を中心に― のである。つまり、ハーバーランドに残された造船所倉庫、マネキンからなる景観の背後には 記憶の保存、消費の喚起という以上の力が複雑に重なり合っていたといえよう。 Ⅳ. おわりに 労働から消費へと向かう空間の再編、それに伴う労働の記憶の忘却―1980 年代を境にして、 造船所や倉庫、そして労働者がひしめく港湾は、確かにショッピングモールやテーマパークへ と姿を変え、労働の記憶は急速に失われている。しかしながら、港湾の空間の再編成は、消費 の空間に労働の空間がまるごと飲みこまれるプロセスではありえない。なぜなら造船所や倉庫、 労働者の住居などが一体となって広がる労働の空間とは異なり、再開発が生み出す消費の空間 は再開発地区という区画整備によって区切られているからだ。港湾の空間の再編は景観の断層 を生み出し、これを複数の主体がそれぞれ別の文脈から問題化/発見することで新たな表象が 生み出され、港湾の記憶が塗り替えられていく。こうした物質/表象としての景観を通じて明 らかになる港湾の空間と記憶の再編は、必ずしも労働から消費へという単純化された図式から 把握できるものではなかった。それよりも、むしろ多様な主体の意図や利害関係が交差し、港 湾に記憶を留めようとする力、逆に払拭しようとする力、古い景観を破壊し一新しようとする 力、古い景観を保存しようとする力という、多くの力がせめぎ合うプロセスであったといえる だろう。 本稿では、再開発地区に現れた特定の景観の生産を事例として港湾の再編の動態を捉えよう としてきた。今後の課題としては、こうした事例をインナーシティのジェントリフィケーショ ンなど、より広い都市再編の文脈に位置づけていく作業が必要であろう。 参考文献 英語文献: Mitchell, D., 2000, Cultural Geography: A Critical Introduction, Oxford. 日本語文献: 池田信 1963 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URL: パナソニック web ページ http://www2.panasonic.biz/es/solution/works/lalaport_toyosu.html (2016 年 1 月 10 日最終閲覧) (神戸大学大学院人文学研究科)