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世界初の本格的広域海洋天気図 「北太平洋天気図」(海

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世界初の本格的広域海洋天気図 「北太平洋天気図」(海
Kobe University Repository : Kernel
Title
世界初の本格的広域海洋天気図「北太平洋天気図」(海
洋気象台)の創刊 : 解析例,「ツェッペリーン伯号」の太
平洋横断飛行
Author(s)
半澤, 正男
Citation
海事資料館研究年報,21:9-13
Issue date
1993
Resource Type
Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
publisher
DOI
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81005665
Create Date: 2017-03-30
世界初の本格的広域海洋天気図「北太平洋
天気図 J(海洋気象台)の創刊
一解析例、「ツェッペリーン伯号」の太平洋横断飛行-
半;畢正男
天気図の歴史は、クリミア戦役に始まる O ク
リミア半島のセバストポール軍港で、ロシア艦
1.海洋気象台の設立
海 洋 気 象 台 は 、 岡 田 武 松 (1874-1956,文化
隊を折から包囲中の英仏連合艦隊は、 1
8
5
4(
嘉
勲章受章者)という優れた気象学者、行政官の
永 7)
年1
1月 1
4日、突如来襲したいわゆる「パラ
若々しい現想、情熱と、這しい実行力とからう
クラパ台風」のため四分五裂となり、壊滅的な
まれたものである O 彼は長く中央気象台にあっ
打撃を蒙った O これが契機となってフランスで
て台長中村精男のよき女房役として、また天気
気象予報の可能性の研究が始まり、ついにパリ
予報の第一入者としてきこえていた。中村がど
天文台長ルベリエによる「天気図」の定期刊行
ちらかと言うと穏健な実務家タイプであったの
が実現したわけである。これは 1
8
6
3(文久 3)年
に対し、時国は学問の面でも、業務の面でも理
のことであったが、わが国ではちょうど明治維
想を追って一路その実現に遁進すると言った風
新という一種の革命がこのすぐ後に生起し、文
が見られた。
物一新の気風が強かったため、気象台の設置、
8
8
3(明治 1
6
)
天気民の刊行は意外に早かった o 1
その岡田の胸中に、いつの頃からか芽生えた
のが気象事業の三分化、つまり三本の大きな柱
年には、もう東京気象台(後の中央気象台、現
をたてて、それをわが国の気象業務の根幹にし
気象庁ー)から天気図の定期刊行が開始されてい
ようというものであった O 三脚を見てもわかる
る,根本(19
5
9
).半津 (
1
9
8
7
),半津(19
8
8
)。
様に、三本足は物理的に一番安定したものであ
るのがわかる G この辺に物理学者岡田の思いが
の質、
気象学、気象事業の発展と共に、天気[ヌl
あったのであろうか。ぞれはそれとして、外遊
表示の万法等は年々向上して行ったが、天気図
で当時最も進んでいたヨーロッパ各国の気象事
で最も大切な要素の一つであるその範囲は、長
業を見て来た岡田には、気象学、気象事業の最
い問、当時の日本国の版図と、周辺の海域とだ
先進国ドイツのそれが理想、としてうつった様で
9
2
0
(大正 9)年、神戸に
けに隈られていた。 1
ある。すなわち、首都ベルリンには中央気象台
i
I毎洋気象台 J(現在の神戸海洋気象台の前身で、
があり、主に気象事業の統括と陸上の気象観測、
文部省所管)が設立され海洋気象、海洋の観測
i
n
d
e
n
b
e
r
g
)
天気予報業務を担当。リンデンベルク(L
や研究の新しい中心となった。同台では 1
9
2
3
には高層気象台があって凧や気球を使う大気高
(大正 1
2
)年,世界に魁て、初の本格的広域海洋
層の気象観測を行い、自ら優れた高層気象学の
天気図である「北太平洋天気国」の定期刊行を
学術雑誌まで刊行していた。さらに港都ハンブ
開始した。これは今日の目をもってしでも大変
ルケ (Hamburg)には、「海洋気象台、ゼーワルテ、
画期的で、斬新な試みであったと言える。
(S凹 warte)Jなるものがあって、海洋気象、海洋、
航海用測器の観測、調査、研究を行 Lミ自らも大
「北太平洋天気図」創刊の経緯と、その海洋
きな海洋観測船をもって広大な大西洋の観測を
気象学的意義について述べ、本図を用いて解析
実施するという整然たる車i
l
U
哉、さかんな研究活
9
2
9
(昭和 4)年、
した一例として、 1
動を誇っていた。正に陸、海、空一体の見事な
「ツェ
ドイツの
yペリーン伯号」大飛行船が、その世界一
周飛行の途次敢行した北太平洋無差陸横断時の
気象について触れてみよう。
業務形態であった。
r
l
f
i
J田の頭に焼きついたのは、この姿、特に「ゼ
ーワルテ J であった c わが国はドイツ国よりも、
-9
四面環海の国だけあって、海洋の持つ比重は遥
あったであろう。それは、この様な全く新しい
かに大きい。ぞーワルテを手本にして、これの
業務の開始は、相当長期間の準備、関係官の慣
日本版をわが国に創設しよう。彼の決心はこれ
熟が必要だからである G
であったの一度、決心するとその行動は速やか
いずれにせよ、海洋気象台は創立僅か 2年余
だった彼にとって幸運疋った事、見方を変えれ
後の 1
9
2
3
(大正 1
2
)年 1月 1Elより、「北太平洋天
ば岡田が最大限に利用した社会状勢は次のもの
*
気図」の作成を開始した(神戸海洋気象台
であった。大正の中葉、 わが国は 1
9
1
4-18年
年)の第一次欧州大戦交戦閣の一員と
(大正 3-7
1
9
7
4
)
0 もっとも、その刊 f
子は、高句 6ヶ月あとの
大正 1
2年 6月、実際の発行は問年 8月 l日とな
なり、造船、海運、貿易等の業界は未層有の好
景気に沸いていた。ここに呂をつけたのが岡田
で、海洋気象台の設立をこういった業界の寄付
っている。
「北太平洋天気図」は、第 1図に示すように
縦約 3
5
c
m,横約 4
6
c
mの相当大版のものである。
金で、賄おうと言うものであった C 色々の粁余曲
第 2図に示す当時の中央気象台天気図(印刷天
折はあったが、結局、大正 9年 8月25日気象台
気凶、いわゆる印天)より遥かに対象域が広範
官制が公布施行、翌 2
6日、気象台技師岡田武松
囲で、その名の如く北太平洋のほぼ全域を含ん
が新設の海洋気象台長に補され、それまでの日
でいた O すなわち、北はベーリング海峡以北の
本にその類を見なかった新 Lい形態、内容の官
7
0
.Nあたりまで、南は赤道まで、西は約 1
0
0
.
E
署、海洋気象台が雄々しい孤狐の声をあげるに
の大陸奥地、当時の仏領インドシナまで、東は
至ったのである。一方、茨城県館野(現在のつ
アラスカを含む北米西岸のほぼ 1
1
0
.Wまでと言
くば学園都市)には広大な敷地を持つ高層気象
う広大なものであった。
台が設置され、わが国の気象業務の体制は開田
ただ、岡田が刊行の緒言で言っている様に、
の理想通り、中央気象台、海洋気象台、高層気
当時の:無線の能力、通信の事情から外地の気象
象台という陸海空三位一体の姿で再発足したの
資料は無線で入って来るいわゆるリアルタイム
である O
のものでなく、もとの国で天気図なり気象資料
として印刷され、船便で送られて来るものを神
海洋気象台の設置が神戸とされたのには、種
戸の海洋気象台でプロットして作成するといっ
々の理由があったであろうが、(1)設立の寄付金
た予の混んだものであった。従って、シノブテ
の大部分が神戸の海運、造船、貿易等の業界か
ィック(総観的)な天気悶とは言うものの、今日
らのものであったこと、 (
2
)
海洋気象台は役所で
の様に観測してから僅ーか数時間でテレビ、新開、
あるものの、文部省所管の故もあって、研究所
FAX放送等を通じ一般市民や船員のところに
的な色も濃く商都大阪にこれを置くより神戸高
達するものではなかった o r
天気回」とはいっ
商や神戸高等商船などのほか高等教育機関、研
ても、非即時 (
n
o
n
r
e
a
l
t
i
m
e
) のものであった
究施設の動かった神戸に設ける方が分があった
のは事実である O 上述のように観測日から、ほ
こと、 (
3
)一朝有事の際、東京の中央気象台の代
ぼ 6-8ヶ月の t
i
m
e
I
a
gがあった訳で、
行官署としての役割もある程度考えられていた
岡田の緒言にある通り、すぐ役立てるというも
こと、等によったものと思われる。 (
2
)、(
3
)は筆
のではなく」種の気候図、気象資料の意味あい
者の想像に過ぎないが、第三の点について 3年
がi
農かった。
これは
後の関東大震災にあたり、海洋気象台はその強
力な最新式無線機の威力を縦横に発揮、一時東
天気図の表現法については、今日の目から見
京の本台の代行という重要任務を立派にやりと
ると、等圧線、高・低気圧等の記入があるだけ
げた点は記憶、されるべき事と言えよう。
のもので、いわば気圧配置国と言ったものであ
る。現在のそれの様に寒冷、温暖前線等の解析、
2
. 北太平洋天気図の発刊
「北太平洋天気図」 刊行の構想、がいっと貢始ま
ったのかは定かでないが、恐らく創設直後から
一
一1
0
*fJ本標準時 1
2
0
0の観測偵を用い、毎 f
l
1菜作成子
予告行:主毎 H、1[rlJの形式。
第 1図
1
9
2
9
(昭 和 4
)年 8月 2
3日 1
2
0
0(日本時間)の海洋気象台 「北 太 平 洋 天 気 図 J,
アメリカ側は 8月 2
2日になる 。
表示は無し L これは、ヨーロッパで当時誕生し
点の 着 陸 の 世 界 一周飛行に挑戦、見事に成功し
たばかりのビヤークネス流の現代的な気象解析
て世界を睦目させた 。 この飛行のうち、わが国
990)が未だわが国に伝え
の思想 、技法 (
半湾
、 1
の霞ヶ浦、米西海岸のサンデイエゴ聞は、 同 号
られる 以前のことであ ったので致し方なかろう O
が北太平洋の大圏コースを飛行しているので、
「北太平洋天気 図」は 、こ の様に今から見ると
,~ヒ太平 洋天気図」の範囲ともよく合い、解析が
m
i
t
i
ve なものではあ ったが、
色々問題のある pri
可能である O ツェッペリーン飛行船の開発、建
とにかくその刊行に踏み切 った英断には全 く頭
造の歴史 や、ツェ 伯 号 世 界 一 周 飛 行 の 詳 細 に つ
の下る忠いがする D
いては本報の目的ではないので割愛する D 筆者
の別報(半津, 1
9
9
3
)を参照されたし 凡 なお、同
「ツェッペリーン
3
. 本図による解析例 -
号 の飛行について驚くべき事は 、それ が単なる
伯号」飛行船の北太平洋横断飛行
5名の
記録目的の 旨険飛行だ ったのではなく、 2
北太平洋のほ ぼ全域が対象である本天気図の
乗 客 を の せ て の 純 然 た る 商 業 ベースのそれだっ
特長を生かし、そこに生起した種々の歴史上の
事件の解析が可能であろう
O
本報では、昭和 4
た点である D
ツェ伯号は日本到着後、昭和 4年 8月2
2日に
年に行はれたドイツの「ツェッペリーン伯号」
出発予定であ ったが、これは悪天のため翌 日に
飛行船による太平洋無着陸横断飛行の事例を示
延期された O 小 低 気圧がこの日 、関東地方にあ
す。
った為である o 8月2
3日は当時の報道によると
'
2
3日正午頃より雨止み、風も}J1:
t
いで来た」の
第一-次大戦後の天文学的なインフレ、混乱、
疲 弊 か ら 雄 々 し く 立 ち 直 ったドイツは 1
9
2
9年
、
巨大な硬式飛行船「ツ ェ
yペリーン伯号」
(
Grα
j Zep
ρe
l
i
n, LZ1
2
7)をもって f
董か 3地
5
1
2(日本時間 , 以下同
で、ツ ェ伯号は、同日 1
じ)、霞ヶ浦を離陸 、出 発した D 同日 1
2
0
0の「北
56ミリ 0007.9hPa)の
太 平 洋天気図」によると、 7
5N,1
4
5E 付近にあ
小さい低 気 圧 が 関 東 沖 の 3
0
0
-1
1
日1
2
0
0,7
7
2ミリ 0029.5hPa)以 上 の 大 き な 高 気
って、 ENEに進んでいるのがわかる D
一・
方
、 8月2
3日 1
8
0
0の中央気象台(現気象庁)
匝(北太平洋高気圧)が、 4
5N,1
6
5W付近にあり、
0
0
天気閃によるとこの時間、同低気圧は石巻はる
一 方、カムチャ ッカ半島沖と、アラスカ湾とに
8N,1
5
1 E付近に去っているので、ツ
か沖合の 3
は夫々低気圧がある。このような気圧配置と、
ェ 伯号出発の理由にな っ た天候 [I~ 復の様千が裏
ツェ伯号が大圏コースの飛行経路をとったため、
0
0
なお、第 2図 に 示 し た 中 央 気 象
同号は北太平洋高気圧の北の縁辺部をす‘っと飛
f150E まで
台大.気閃から、これの東限は、ほ (
行したことになり、追い風と好天とに恵まれた
であったのがわかる 。
と言 えよう
書きできょう
O
0
天 気'
1
O
この北太平洋高気正は、その後、中心示度が
~
WEATIII~ H
CI
寸八 R T
THECENTRALMETEOROLOGICALOBSERV
ATORYOFJAP
'
,A
N.TOKYO
7
8
2ミリ 0023.9hPa)と低下しながら、同時に中
fモι」 斗 ト ヰ ヤ77???af
・If=1チヰ平手管長
心 位 置 が 3TN,1
6
5W と南下しているのがこの
0
後 の 「 北 太 平 洋 天 気 凶 J(省略)から明らかにな
っ ている
O
高気「玉のまわりの風は時計まわりな
ので、北の縁辺部を飛行していたツ ェ伯号は、
西経海域に入 って特に西風、すなわち追い風に
より速度も上 って順調、平穏な飛行を続けたも
のと思われる D 天気の方も、「北太平洋天気 l
刈
」
にプ ロ
y
卜された各船舶の海上気象報告 (観 測
結果)からもわかる様に、暗、快晴の海域が多
く、飛行は好天続きであ った
O
乗組員と乗客と
は、ゴンドラから北太平 洋の 青い海を見ドしな
がら快適な飛行を満喫できたと想像される O
サンデイエゴ到者時も、
8月25日の「北太平
洋 天 気凶」から、同地は風弱く、晴れであった
のがわかり ツェ 伯 号 の 着 陸 に 大 き な 支 障 が 無 か
った事がわかる c 私 事 で 恐 縮 で あ る が筆 者 も 千
供の頃、
8月2
3日の夕方、仙台平野と太平洋を
望む八木山というところから、海岸線沿いに悠
・
・
・
/戸~ 1 z
川
刷
・
阿
佐
川 10"
'
.
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'川
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… ~.,
1
:
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1
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0
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,
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川
崎
〆 家風 S
山
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.
川札h 向,..,...侮凪醐咽..削叫M.I-.I~II/Ú;明 .... lIí ..II' ''.lõ.帽仇町間内s 弘 叩
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師
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第 2図
1
9
2
9(昭和 4
)年8月2
3日 1
8
0
0
(日本時間)
の中央気象台天気図。
然と飛行する同 号 の勇姿を実見した O 幼 時 の 記
憶でもこの時は晴で、銀色に輝く同号の長影が
よく見えたのを覚えているが、これは 8月2
3日
1
8
0
0の 石 巻 測 候 所 の 天 気 が 時 と 観 測 、 記 録 さ れ
ている事からも裏書きされよう
O
ツェ伯日-は霞ヶ浦から金華山付近までは、常
磐、仙台干野の海岸線に沿い、数百メートルの
高度で北上、金華山からは大圏コースを取 って
4. r
北太平洋天気図」刊行の賀したもの
海洋気象台による「北太平洋天気図」の画期的
アメリカ西岸ヘ向っている O 現 在 の よ う に 非 常
な刊行は多くのものを、わが国の気象、海洋、
な高空を常用する ジェ ッ ト機については地上 (
海
海運、造船等の各界に粛した D これらのなかに
面)天気閃の利用が出来な l)0 しかし、ツェ伯号
N
a
c
h
e
f
f
e
k
t
) が兄
は、今日も尚、その後効果 (
は数百メートルから、せいぜい 2,0
00メートル
られるものがあるので
が常用高度だ った の で 、 む し ろ 「 北 太 平 洋 天 気
それを列挙してみよう O
(1)船員、海運、海事関係者にと っては、それま
l
刈」のような海面天気図の方が参照に便である 。
で単なる伝承、体験としで代々語りつがれて来
同号出発の日、北太平洋の一般気圧配置は次
た北太平洋、特に大圏航路とハワイ航路にむけ
の立I
Jくであ った O 第
1
2
1
1
河に示すように、 8月2
3
る気象の様相、荒天の程度等につき、は っ きり
とした気象学的説明、裏づけが与えられたこと。
る。もっとも、この利用の仕方は、同国の解析
これは、海洋気象台創設の当初の目的にも合致
の方法が旧いので、最新の解析技法を駆使した
する大きな収穫、利便であった o (
2
)気象学者、
米気象局発行の
技術者に、わが国の東に存在する大洋、太平洋
WeatherMap"に一歩譲る感があるのは止むを
の大きな気象学的影響を無言のうちに説き、「東
えないところである。
H
i
s
t
o
r
i
c
a
l
「歴史的天気図 J "
方、海洋域」の学的重要性を教えたこと。それ
(文中一部敬称、略)
までの中央気象台天気図の範囲でもわかる様に
当時の日本の気象解明には日本周辺と、大陸方
面の気象の動向把握だけでよかった。天気は一
般に西から東へ移って行くので、これは当然だ
ったと言える O しかし、「東方の天気」、
謝辞
本報を草するにあたり神戸商船大学斎藤
教授、神戸海洋気象台龍村
賞
昭予報課長より種
換言す
々御教示を賜った。また、神戸海洋気象台滝本
れば北太平洋高気圧と、アリューシャン低気圧
図書係長、神戸商船大学附属図書館の中川、松
との動向、知見はわが国の天気の解析、解明に
下両係長より、文献、資料の面で色々御協力を
今日では不可欠のものとなっているのは周知の
いただいた。記して御礼申し上げる次第である。
とおりである O これの重要性は、中・長期の予
報、予想に関連し、ますます増加しているのは、
3
)
上記の (
2
)
これもよく知られている事である o (
参考文献(直接関係分のみ)
1
9
8
7
) :天気図刊行のルーツ,クリ
・半湾正男 (
にも関連するが、昭和初期、わが国の東北、北
ミア戦争、仏艦の海難,海洋気象史話 3,
海道は屡々、凶冷とそれに伴う凶作に見舞われ
3, 3, 1-12,海洋気象学会
海の気象, 3
たO その結果、気候の長期予報の必要性が叫ば
れた。,-北太平洋天気凶」が、直接これに役立
1
9
8
8
) :ログから明らかになったパ
・半津正男 (
孟戚,
ラクラパ台風の j
クリミア戦争,仏艦
った訳ではないが、気象学者のなかには、アリ
の海難(
2
),海洋気象史話 7,海の気象, 3
4,
ューシャン方面の海水溢(当時えられなかった
2, 9-22,海洋気象学会
ので気温で代用)から長期予報の研究をする人
9
0
) :父子そろって優れた気象学
・半津正男(19
もあらわれた。これから、「北太平洋天気図」は、
者,近代気象学の開祖, V
_ピヤークネス(父),
わが国の長期予報業務に相当深い影響を J
j
・えた
J
_ピヤーケネス(子),海洋気象史話 1
7,
4
)大規模海気相互作
のではないかと思われる。 (
海の気象, 3
6, 3, 1-16,海洋気象学会
2
)、(
3
)の研
用研究の基礎となったこと O 上記、 (
幸正男(19
9
3
):,-ツェッペリーン伯号」大飛
・半 j
究、考察が発展して行くと、自ら北太平洋にお
行船の訪日、世界一局飛行,海洋気象史話
ける大規模な a
i
r
s
e
ac
o
u
p
l
i
n
gの研究や、
3
7,毎の気象, 3
9, 5, 1-16,海洋気象学
遠隔
地気象の相関性(t
e
l
e
c
o
n
n
e
c
t
i
o
n
) の研究になっ
て行く。この方面では、本図より海洋気象台が
殆ど同じ時期に刊行 L始めた北太平洋の気候表
の方が直接使用され、また役立った様である O
これは今日、世界気象機関 (WMO)の唱道で
h
.
.
:
z
;
:
;
-神戸海洋気象台(19
7
4
) :神戸海洋気象台沿革
4
p
p
_
誌,神戸海洋気象台葉報特別号、 2
・根本1
)
辰吉 (
1
9
5
9
) :天気図の 1
0
0年,科学, 2
9,
6, 303-308,岩波書庖
各先進国が分担して行っている「国際海上気象
5
)気
統計」業務につながったものと言えよう。 (
候の長期変動を見る有力な資料となっているこ
と。北太平洋高気圧や、アリューシャン低気圧
のその年の動向、勢力等がはっきりつかめて、
6
)
色々の歴史的事
この点で今日的意義がある。 (
件、例えば本報で述べたツェ伯号太平洋横断飛
行時の気象解析が可能となること。これは、気
象学と言うより歴史の方から興味のある点であ
-13-
Fly UP