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﹁日像聖人﹂について

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﹁日像聖人﹂について
第
回
師さまのご入滅の折、帝都・京の弘
お祖
通 を 命 じ ら れ た の が 経 一 麿︵ 日 像 聖 人 ︶。
この日像聖人が京都に最初に建てたお寺が
に京都で御題目を弘めてもよいという勅許
︵ 天 皇 の お 許 し ︶ を い た だ く ん だ よ。 そ し
て、京都に御題目を弘めるための最初の道
場﹁妙顕寺﹂を建てられたんだ。
妙 本 寺 の 歴 史
日像聖人が建てられた﹁妙顕寺﹂を中心
して、御題目は京都の町中に弘まってい
と
そして、日像聖人︵初代住職︶がお亡く
り に な っ た 後 も 、 大 覚 大 僧 正︵ 第 二 世 住
な
くんだ。
入 寺 し 修 行 に 励 ま れ る ん だ け ど、 今 回 は
職︶
、 朗 源 和 尚︵ 第 三 世 住 職 ︶
、日霽 聖 人
妙 顕寺︵妙本寺︶。門祖 聖 人はこのお寺に
その妙本寺の歴史について見てみよう。
6支・常法寺先住・元弘通顧問
横谷日具上人がご遷化
権大
僧正
宗門においては、海外
通後援会理事、海外弘
弘
通対策委員、七諱奉賛会
本部委員等の要職を歴任
には熱海妙立寺 され、特には弘通顧問と
で養生がてら不 して五期にわたり、その
惜身命のご弘通 任を果たされた。支庁内
に精進、妙立寺 においても、支庁参与、
はその年の教化 佛立修学塾教員、布教区
数全国一の成果 長、参与等に挺身された。
を 挙 げ ら れ た。 昨年七月の講有巡教後、
に臥せられ本年二月、
第六支庁・栃木常法寺
また蒲田妙泉寺では通 床
三世住職、元弘通顧問 第
信を発刊、乗泉寺でも通 嗣法・日熾師に後継住職
権大僧正・横谷日具上人 信部参与として文書弘通 を委ねられ、お誕生日の
におかれては、去る平成 にも傾注。昭和四十一年 三月二十日早暁、眠るが
二十四年三月二十日午前 には関東初のブラジル派 如く寂光へ旅立たれた。
門祖日 隆 聖 人が修行のためにやって来
京都の妙本寺というお寺は、
た
﹁日像 聖 人﹂
京都に入った﹁日像聖人﹂は、都 の 大路
立 っ て 多 く の 人 々 に 法 を 説 か れ た ん だ。
に
洛︵京都に入る︶を決意されるんだ。
師 さ ま か ら の ご 命 令 を 実現 するために、上
とお名前を変えられ、二十五歳の時、お祖
励 ま れ る ん だ。 成 長 さ れ る に 伴 い﹁ 日 像 ﹂
の 六大 弟 子 の 一 人 ︶ の お 弟 子 と な り 修 行 に
まだ幼かった経一麿少年は、お祖師さま
亡くなられた後、日朗 聖 人︵お祖師さま
が
んだ。だけど比 叡 山側 は 未だ ﹁ 妙 顕 寺 ﹂ の
そ れ か ら 六 年 後 の 明徳 四 年 ︵ 一 三 九 三 ︶
、
霽聖人は京都に戻られお寺を復興された
日
だ。
なく若狭︵福井県︶の小浜に避難されるん
る︶されてしまうんだよ。日霽聖人は仕方
妙 顕 寺 は 破 却︵ こ わ す 。 め ち ゃ め ち ゃ に す
宗 や 比 叡 山 延 暦 寺 の 怒 り や 嫉 み を か い、
妙 顕 寺 の お 住 職 が 第 四 世 日 霽 聖 人 の 時、
寺 は 益 々 発 展 し た ん だ け ど、 そ れ が 他
お
上人は大正十二年三月 精進された。
日、大本寺・乗泉寺住職・
二
十
日
生
ま
れ
。
昭
和
十
八
昭和四十三年に帰国さ 川口日智上人、また葬儀
ると常法寺第三世住職 は、二十三日午後十二時
年十一月、第十五世日晨 れ
上人を師僧として得度、 に就任され、小山別院建 より、講有日誠上人導師
僧名を﹁乗種﹂と賜る。 立、境内地移転、本堂並 のもと、常法寺葬の礼を
葬儀は二月二十三日、
住山内御導師、妙照寺
当
戦火の最中、広島原爆 びに納骨堂建立と寺観を もって、有縁の教講多数
二次被爆に遭遇。翌年 整えられた。
の
が参列して執り行われた。
元宗会議員・支庁参与・特一級
池本御導師のご出座のも
と、有縁のご信者多数が
京都 大阪 東京 名古屋
︵第四世住職︶と妙顕寺のお住職は受継が
というお方が建てられたお寺なんだ。
す る と 次第 に 日 像 聖 人 の 御 説 法 を 聞 い て 御
再 興 を 嫌 がり、再 び ﹁ 妙 顕 寺 ﹂ を 破 却 す る
岡田 悟氏が帰寂
メディアカンパニー
れていったんだ。
﹁ 日 像 聖 人 ﹂ と い う お 方 は、 お 祖 師 さ ま
日蓮 聖 人︶がお亡くなりになる時は、ま
︵
題目をお唱え す る ご 信 者 が 増 え て い っ た ん
お そ れ が あ っ た ん だ。 そ の た め﹁ 妙 顕 寺 ﹂
出両面にわたり努力する。 参列して、しめやかに執
〒604-0847
京都市中京区烏丸通二条下ル秋野々町 518 番地
(代)
TEL:(075)254-7899
零時三十分、法寿八十九 遣教務として、モジ隆昌
仮通夜は三月二十一日、
都宮常照寺住職・井上
歳をもって、化を寂光に 寺住職・ブラジル支庁長 宇
だ十二歳で、経 一 麿と い う お 名 前 だ っ た ん
だ。しかし、それが他の宗 派からの嫉み と
と名乗ることができず、やむなく﹁妙本寺﹂
創業明治元年─お客様の要望に技術で応える。
として二年間のご奉公に 日宇師、本通夜は二十二
だよ。この経一麿少年は、お祖師さまから
なり、いろいろな妨害を 受 け る こ と に な る
と名前を変えることにしたんだ。
第四世住職・森下日燈 行された。
人の信頼厚く、倉敷別
上
喜んで承ります。
遷された。
枕 元 に 直 々 に 呼 ば れ、
﹁ 帝 都︵ 京 都 ︶ に 御
ん だ。︻ 三 黜 三 赦 ︼ と い っ て﹁ 三 度、 京 都
院の設立はじめ、昭和五
ホームページ制作まで。
﹁日像聖人﹂
について
題目を弘めなさい﹂と命じられたんだ。
を 追 放 されたり、許 さ れ た り ﹂ と 日 像 聖 人
この﹁妙本寺﹂が、門祖聖人の入 寺さ れ
たお寺なんだ。門祖聖人が上洛して入寺さ
は大変なご苦労をされるんだ。
十年以降の記念事業ご奉
さまざまなご法難の末、日像聖人はつい
公委員長として率先、財
問・第八代事務局長、宗 間事務局長を拝命。特に
第九支庁・岡山妙現寺 のご奉公を積まれ、昭和
住職・山内良徹師︶顧 五十三年から六期十二年
︵
門特一級功労者である岡 平成十四年、高祖立教開
田悟氏は、去る二月二十 宗七五〇年記念本堂改修、
門祖五五〇記念事業にも
日、行年九十六歳で帰寂 会館建立に手腕を発揮し、
最後の勧財に多大の功徳
を積まれた。
された。法号は、
日悟大居士
妙現院清勲積徳
氏
は
戦
後
、
神
戸
大
法
寺
また布教区・支庁のご
山実次氏の折伏をいた 奉
公も三期九年間、また
横
だき、長女の出産や仕事 昭和六十三年より二期六
の面で現証ご利益を頂戴 年間、宗会議員ご奉公を
し、夫婦そろって信仰に 歴任。永年のご奉公に対
精進。現在の関西特殊炉 し、平成二十二年秋﹁特
材株式会社を起こし、世 一級﹂の栄を授与される。
ビデオのデザイン印刷から、
5
れた頃が丁度そんな時期だったんだ。
経一麿に帝都弘通が命じられる
パンフレット・機関紙・社史
平成 24 年5月1日 火曜日 (毎月 1 回 1 日発行) (8)
聞
新
立
佛
第 6 2 9 号 (昭和 41 年 6 月 17 日第三種郵便物認可)
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