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4-1.理性の限界と物自体の認識と神の証明 ここでは、今までと一転して

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4-1.理性の限界と物自体の認識と神の証明 ここでは、今までと一転して
4-1.理性の限界と物自体の認識と神の証明
ここでは、今までと一転して、理性の限界ということに関して考えてみたいと思います。
この本の土台というものは、第二章で議論したように、調和と発展という2大原理を前提
にして書かれています。宇宙には調和と発展という2つの理法が流れており、その理法に
従って宇宙は運航しており、我々人間にもその原理が適用されている、ということを前提
として書かれています。
そして、第一章において、デビットヒュームの経験論的な議論、因果律など想像の産物で
しかないという投げかけを行ったということを記載しました。そして、神の100%の証
明は不可能であるとそのようにも記載しました。
したがって、調和と発展という2大原理の証明というのも実は不可能なわけです。これは、
もしかしたら、私がたわごとを言っているだけかも知れないわけです。調和と発展などと
いう2大原理は嘘であり、そんなものは偶然であり、明日起きたら違う世界が展開してい
る、その可能性も完全否定はできないわけです。
そこで、この章では、人間の理性によってどこまでが認識可能なのか、そして、それを超
えたものの認識はどのように可能なのか、また、実際の世の中はどのように動いているの
か、この辺を焦点を当てたいと思います。
認識論の部分でカントの『純粋理性批判』の話をしましたが、カントはその中で、人間の
認識形式は、人間にアプリオリに備わっている時間と空間という「感性」の形式と12の
カテゴリという「悟性」の形式、それと、外部から受け取る情報との共同作業で行われて
いると説明しました。
カント以前の哲学は、大陸合理主義という演繹法を主体とする哲学と、経験論という帰納
法を主体とする哲学の2つの流れがありました。大陸合理主義は、ライプニッツ、スピノ
ザらが代表ですが、神概念を肯定し、神とはいかなるものかを議論する、形而上学的なそ
のような哲学の流れだったわけです。
一方で、経験論はロックやホッブス、ヒュームらを主体として、人間が経験することが全
てであり、経験できない神などは論じてはならない、実証可能なものだけを論じなければ
ならないという哲学の流れです。
そして、この2つの流れは対立してきますが、決着はつかなかったわけです。
しかし、18世紀の哲学者カントから始まる観念論哲学によって、両者の決着が付くわけ
です。すなわち、先ほど記載しましたように、‘認識はアプリオリ(先天的)とアポステリ
オリ(経験的)なものの共同作業によって行われる’と主張したわけです。
アプリオリというものは経験以前から存在しているものであり、認識がアプリオリな形式
に従っているということで経験以前の形而上学との整合性を図り、形而上学の再興をはか
りました。一方で経験する過程がなければ何も認識することはできないとして、経験論と
の整合性も図ったわけです。
これでようやくすべてが解決したかと思ったら、それでもやはり根源的なる疑問は依然残
ったままなのです。アプリオリとは一体何か?ということです。
アポステリオリは経験に基づくものであり、それは明確に分かります。しかし、アプリオ
リ、つまり経験以前に存在しているものとは一体何か?それはその存在を肯定したとして、
なぜそのようになっているのか、証明が可能なのか?ということですね。
これは非常に難しい問題なのです。
実は、カントはデビット・ヒュームの影響を受けています。ヒュームは何を主張したかと
いうとそれまで当然と思われていた因果律、つまり原因と結果の法則の否定を主張したわ
けです。
因果律というものを、実際にある原因が結果になっているということを、理性的に証明す
ることはできない、経験的にそうなっているくらいにしか分からず、したがって、そんな
法則は存在しないと主張したわけです。徹底的に疑っていったわけです。
デカルトは人間の感覚器官を疑いましたが、ヒュームは因果律を疑ったわけです。そのよ
うなわけで、ヒュームは懐疑論者の代表的なひとりに数えられるわけですが、因果律を否
定し、そんなものは人間の想像に過ぎないといったわけです。
証明できない、理性で説明が不可能なものは受け入れることができないというある意味乱
暴な態度ですが、そのような結論をヒュームは行うわけです。これに対して、カントは、
認識論において形而上学の再興をはかろうとするものの、直接的にはやはり神や因果律を
証明することはできない、として理性的な対象の外に追いやることになります。
しかし、カントは神や霊魂の証明はできないまでも、その存在はある程度信じていました。
それらは哲学の対象とすることはできないが、道徳的な認識によって知覚が可能であると
したわけです(
『実践理性批判』
)
。
要はいずれにしても物自体は理性的な認識、つまり証明はできないということを主張した
わけです。
さて、ここで、疑問に浮かぶのは、
‘物自体が証明不可能というのは本当か?’ということ
です。カントは物自体は証明不可能であり哲学の対象とすべきではないといっていますが、
それは本当かということです。
これに対しては20世紀の数学者ゲーテルが回答を与えます。ゲーテルはゲーテルの不完
全性定理第二命題によって、‘証明が可能かどうか分からない命題がこの世には存在する’
をいうことを‘証明’しました。つまり、この世には理性的認識では証明可能かどうか分
からない白黒はっきりしないことが存在しているということです。
つまり、物自体も証明が可能かどうか、要は分からないわけです。これは、実証分析から
非常にその存在が確からしく思える。しかし、それが正しいかどうかは分からないという
ことです。
ひとつ例を挙げましょう。
‘自然の斉一性原理’というものがあります。これは、デカルト
の機械論的自然観にも該当しますが、自然や宇宙というものは偶然バラバラのものが動い
ているのではなく、規律ある正しい運行規則によって動いている、宇宙の法則性が存在し
ている、ということです。
これは、要は太陽は昨日も今日も東から上って西に沈んでいるが、宇宙には自転や公転と
いう規則があるから、その動きというものは今後も続くということです。過去から未来へ
と永劫に続くという帰納法を前提とした内容になります。
しかし、これが証明可能かというとやはり証明できないわけです。自然の斉一性原理は帰
納法によってその原理を成り立たせていますが、自然界に対する帰納法自体の成立が危ぶ
まれるためどうしても証明できないのです。循環に陥ってしまうのです。
おそらく99.99・・・%正しいでしょう。しかし、残りの0.000・・・・1&の
確率でもしかしたら、偶然そのようになっているのかもしれない、明日起きたら太陽が西
から昇っているということが可能性としてゼロではないだろう、ということです。
これは確かにどのとおりです。要は、‘現時点では‘どうしても証明できない事柄がこの世
には存在しているということです。非常に確からしいと感覚的にはわかってもそれを証明
することが不可能なわけです。
これが第一点。理性的な認識が不可能か、または非常に難しい領域が存在し、現段階に置
いて証明不可能な事柄があるということですね。それは物自体であり、神概念や霊魂、魂、
因果律、時間と空間といったものです。
さて、このような理性的には証明不可能な事柄があって、物自体の存在を疑う人が多い中
で、一方で、現実世界は物自体を前提として動いているのです。この矛盾する状況、これ
はどういうことでしょうか?
近代科学の出発点はニュートンの力学的な発見であり、ニュートンの著書「プリンキピア」
でしょう。ニュートンはその中で、運動の三法則、すなわち、慣性の法則、万有引力の法
則、運動方程式を提示しています。そして、これは何を前提としているかというと、すな
わち、先ほどお話した‘自然の斉一性原理’を前提としているのです。自然の斉一性原理
は証明不可能ですが、その証明不可能な原理をその議論の前提としているわけです。
この不整合、つまり、神概念を証明できない、事実関係しか証明することができないとい
うヒュームの主張を正とした場合には、このニュートン力学の正当性は主張できないわけ
です。なぜなら、ニュートン力学というものは形而上学的な自然の斉一性原理を肯定し、
それを前提にしているからです。もっと言えば、ニュートン力学や自然科学は宇宙の背後
にいる存在、神を前提にしているということです。
すなわち、ヒュームの主張が正であると証明されたならば、すなわち、宇宙に神など存在
しない、宇宙に必然性は存在せず、全てが偶然であり、今まで積み上げてきた自然科学と
いうものはすべてが嘘であった、と崩れ去ってしまうことになるのです!!これは大変な
ことなのです。
これは大変なことであると、なんとか形而上学のはっきりした土台を与えたく議論を進め
たのがカントの『純粋理性批判』であるということです。ここにおいてカントは形而上学
に対してはっきりとした土台を与え、自然科学に基盤を与えることになったのです。
(少な
くもそのように言われている)
まあ、このような基盤を与え、そして、その後、電磁気学へと物理学の領域は発展してい
きますが、電磁気学に置いても万有引力の法則が使用されているわけです。その後も、相
対性理論、量子論として現代物理学が発展していきますが、それらは全て‘自然の斉一性
原理’をその土台に置いているわけです。
つまり、科学の検証方法は、1.現実の観察による科学的仮説の構築、2.実証分析、3.
法則の確立という3つのルートをたどることになりますが、この3つのルートを仮定して
いること自体が、
‘自然の斉一性原理’を土台としていることが分かるわけです。自然界に
は規則が存在している、だからこそ、実証分析による法則の確立が可能になるということ
です。
さて、法則の確立が可能であるということは、それは同時に因果律の存在を前提にしてい
ます。なぜなら、原因と結果がバラバラであり、毎回結果が異なるならば、法則として確
立が不可能だからです。毎回結果が同じであり再現性があるからこそ、法則として確立が
可能なのです。
そして、現代社会はこの科学的な発展を根拠として生活が成り立っています。時計の存在
は地球の自転を前提としたものですし、蛍光灯や電球は、電磁気学の法則性を利用したも
のです。自動車や自転車の力学的な法則はニュートン力学に基づくものですし、微分積分
学によって高速道路のカーブの曲がり方も決定されます。カーナビゲーションはアインシ
ュタインの特殊相対性理論を応用したものであるし、飛行機の設計や滑走路の長さ、それ
らはやはり力学の応用です。我々の生活は全て科学的な法則、つまり、
‘自然の斉一性原理’
を前提にしているのです。
そして、スイッチを入れれば、必ず電気はつくものであり、蛍光灯が切れている場合を除
いて、スイッチを入れても偶然つかない場合もあるし、偶然つく場合がある、今スイッチ
を入れたらどうなるのだろうと思ってハラハラしている人は、世界中探しても一人もいな
いでしょう。つまり、スイッチを入れると電気がつくという因果律を世界中の人が信じて
いるわけです。
つまり、こうです。世界中の人に「あなたは物自体、つまり神や霊魂や因果律というもの
を信じますか?」と聞かれれば、ほとんどの人が分からないと答えるでしょうし、そんな
ものは存在しないという人も多いでしょう。
しかし、一方で「あなたは電気の無い生活を信じられますか?」と聞かれれば、そんな生
活は信じられない。私の生活の一部になっている、と首を大きく横に振るでしょう。
要は、物自体を直接的に信じているかといわれればそれは分からない、証明されなければ
分からないというのですが、自動車や電気、電波そういったものを通して間接的には物自
体や法則性を肯定し信じているわけです。信じていないならば、現代社会においては生活
が不可能なわけです。
電気の存在を信じず、これは次の瞬間爆発するかもしれない、気まぐれを起こして電気が
つかないかもしれない、または液漏れなど不具合が起こるかもしれない、と不信感を持っ
ているならば、それは現代社会で生活できないわけなのです。しかし、そんな拒否反応を
示すことが無い、またはあったとしても非常にまれでありほぼゼロであることを考慮する
と、人は無意識に法則性の実在を信じているわけです。
そして、もっと言えば、現実世界というものは、神を否定する人や神などわからないとい
う人も多くいますが、その前提に神概念を置いているということです!!わからないとか
否定的な意見を言っているにもかかわらず、根本的な前提に神を置いているのです!!
これに対して、それでもまだ、
「理論は破壊される場合がある、であるから、その理論はや
はり完全ではなく法則性を有しない、つまり、宇宙には法則は存在しない」と主張する学
者もいます。前者の理論は破壊される場合があるというのは、これは確かにそうです。不
完全な理論はその後に出てくるより完成された理論によって書き換えを余儀なくされます。
これは、たとえば、ユークリッド幾何学が19世紀リーマン幾何学によって修正を余儀な
くされたこともありますし、何度かこの論文でも扱っているニュートン力学が相対性理論
によって修正を余儀なくされたという場合、これが該当します。
では、完全な理論は存在するのか、宇宙に法則性が存在するのか、というと、これはまた
不完全性定理に逆戻りするわけです。証明不可、なわけです。
しかし、このような場合でも、我々はそれぞれの法則を利用して日常生活を営んでいると
いう事実には目を向けなければならないのです。
これが第二点目のポイントです。物自体は証明できないが、現実の生活は物自体を前提に
おいている、というなんとも不思議な事実です。
さて、神や霊魂といったものは現実にその存在を確認できるのでしょうか?これが最後の
ポイントになります。
ここにおいては、私は今後の科学の発展が鍵を握ると思っています。それは、量子力学の
発展であり、超ひも理論の発展により物自体が確認されるようになるとそのように思いま
す。
神の証明は、霊魂の証明は相変わらず、なされないと思いますが、科学によってその存在
が確認される段階がもうすぐやってくると思います。証明はできないが、その存在が確認
される段階がやってくる。
現代科学は、これは科学というよりも哲学という領域に入っているといわれます。色即是
空、空即是色を地で行く、特殊相対性理論の E=mc2 のエネルギー方程式、量子論の命題
であり、物質は複数の空間を同時に占有する、という不可思議な現象、エネルギーと時間
の時間の不確定性原理、それらはもはや科学というよりも哲学である、とそのように言わ
れることもあります。
そして、深く量子論の研究をしていくうちに、多くの科学者も「もしかしたら霊というも
のも存在するのかもしれない」とそのように考えるようになってきているのです。これは、
科学の分野の発展により、その現象をまざまざと見せられることで、実際に確認し、その
存在を肯定し始めているということです。
つまり、どういうことかというと、証明が必要ないわけです。その存在の確認ということ
によって証明の代替がなされるということです。理性的な認識の証明ではなく、存在の確
認による存在証明ということです。
これが第三点。神や霊魂の実在を経験する段階が科学の発展によってなされる日がやって
くる、そして、証明を要せずしてその存在が白日の下に明らかにされるということです。
それはもう数十年でなされると思います。科学というものは、非常に重要な役割を担って
いるのです。科学は神と別個に存在するのではなく、その延長上に神が存在しているとい
うことです。これは、極めて重要なことなのです。
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