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刑事手続における法律上の推定と表見証明

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刑事手続における法律上の推定と表見証明
53
増
刑事手続における法律上の推定と表見証明
特に責任推定と危険推定の問題性をめぐって
プロローゲ
齢 推定についての事前了解
事実上の推定︵自然的推定︶
② 反駁を許さない法律上の推定
㈲ 反駁︵反対事実の証明︶を許す法律上の推定
ω 仮象推定︵不真正の法律上の推定︶
㈲ 反証提出によって覆される法律上の推定
㈲ 表見証明
= いわゆる﹁責任推定﹂と︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則
ω ドイツ刑法旧二五九条における故意推定の問題性
② 我が国の現行法における責任推定規定の問題性
三 抽象的危険犯における﹁危険推定﹂
㈲ 証明責任規範としての︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則
反駁を許さない危険推定の問題性
田
豊
54
② 反駁を許す危険推定の問題性
③ エ7ア・グラウルの提案
四 刑事手続における表見証明の適用可能性
ω ︿具体的危険性V犯としての抽象的危険犯と表見証明
㎝ 表見証明の法的性格と刑事手続におけるその許容性
② 刑事手続における表見証明の許容性に対する異諦
エピローゲ
㈲ 刑事手続における表見証明の適用事例
プロローグ
単称的な出来事を自ら直接観察することを通じて認定するのではなく、証拠資料︵入力情報︶からそうした出来事の
およそ刑事手続における事実認定なるものは、何らかの意味において推定に基づくものである。裁判官は、過去の
一
叢
論
律
の言葉が、相変わらず現在でも妥当しているように思われる。
︵1︶
られているわけではなく、むしろ﹁法律上の推定の概念は全く不明確そのものである﹂とするレオ・ローゼンベルク
在が帰結されることになるのである。こうした﹁法律上の推定﹂の法的性格については、必ずしも見解の一致が認め
る。つまり、そこにおいては法律によって指示されている﹁前提事実﹂︵推定の基礎︶の存在から﹁推定事実﹂の存
もっともいわゆる﹁法律上の推定﹂においては、裁判官ではなく、まさに法律そのものが推定を遂行することにな
の知識の認知的な枠組・構造に依拠し想像力ないし構想力を駆使して推定・推認するものだからである。
存在を﹁経験則﹂︵背景的知識︶さらにはく柔軟でダイナミックなV﹁スキーマ﹂、﹁スクリプト﹂、﹁フレーム﹂など
一法
刑事手続における法律上の推定と表見証明
55
その上、法律上の推定の概念は、民事手続においても刑事手続においても、むろん同様に考察の対象とされてはい
るが、それぞれの領域における法原理や問題関心の違いからおのずから論点のずれも生じることになるし、延てはそ
の奮の理解についても食い違いが生じる・﹂とにもなり襲・ともあ塵刑事手続の観点か巨とりわけその法治国
家的原理の観点から法律上の推定につき考察することが本稿の先ず第一の課題として設定されることになる。
ところで、法律上の推定は、それが被告人への﹁︵客観的︶証明責任の転換﹂または被告人にとって不利益な﹁法
定の証拠規則﹂を内容とするものとして構成される限りにおいては、刑事手続の領域ではその法治国家的原理に反す
るため許容し難いものとなるであろう。
しかしながら、一定の前提事実の認定に基づき要証事実が﹁高度の蓋然性﹂をもって事実上推定されることになる
という事態は、刑事手続においても当然に想定し得ることであろう。 こうした事態を適切に説明するためには、︵ド
イツの︶民事手続の領域において認知されている﹁表見証明﹂︵﹀ロ゜・30言ωげ①≦①凶ω︶ないしコ応の証明﹂︵冒凶ヨ印I
h碧即①1ゆ①ミ⑦凶゜。︶なる観念を刑事手続においても許容すべきか否かが問われなけれぽならない。
しく争われているため、民事手続における表見証明をそのまま刑事手続に転用し得るか否かを単純に問えぽよいとい
もっとも民事手続における表見証明の法的性格をいかに規定するかについては、種々の見解が主張されており、激
う状況は認められない。だが、刑事手続における表見証明は、刑事手続という﹁言語ゲーム﹂に固有な法原理ないし
構造原理に適った仕方で規定されるべきことが強く要請されることになるため、かえってその内容はおのずから一定
のものに方向づけられ、限定されることになるであろう。ともあれ、わたくし自身の﹁予断﹂︵<o建溝巴︶によれば、
表見証明の観念を刑事手続の領域に導入することによって、これまでボレーミッシュなテーマとして扱われてきた若
干の基本的問題の解明が容易になるものと期待される。
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本稿においては、以上のような問題関心に基づき、刑事手続における法律上の推定と表見証明に関わる基本的問題
について探究することが主要な課題とされることになる。そこで先ずは、推定の概念自体につき概括的な﹁事前了
解﹂︵ノNON︿O機ω一似口山昌一の︶を確認し、それを踏まえて次に、具体的な論点として刑事手続におけるいわゆる﹁責任推定﹂
と﹁危険推定﹂の問題性につき主題的に考察する。そして最後に、刑事手続における表見証明の適用可能性につき検
討することにしたい。
︵1︶ 知霧§守ミ偽﹄︶δゆ゜毛゜剛ω冨ω♂9>βφ二お①押¢卜⊃Oρローゼンベルク︵倉田卓次訳︶﹃証明責任論﹄︵一九七二年︶二三
二頁。
︵2︶ 例えばドイツにおいては、︵反駁を許す︶法律上の推定は一般に、刑事訴訟では︵法定の︶﹁証拠規則﹂として、民事訴訟
Q◎霞臥おo露”目OリドQo°じこ①O中゜
では﹁証明責任規則﹂としてとらえられている。︿°qピ O、§さ︾訂昏爵80①隷冨含コσq巴。一障竃毒匹勺H舘ロヨ鉱o昌Φp一ヨ
推定についての事前了解
事実推定﹂︵αqΦ゜・卑N一凶島①↓象器。冨昌く①N日葺彗σq︶と権利が推定される﹁法律上の権利推定﹂︵σq①゜・①匡一。プΦヵΦ。ゲ↓ω︿臼−
︵αqΦω簿N一一畠Φ<臼日ロε昌σq’O吋器霊巨δ器゜。﹂母包とがある。法律上の推定は、さらに事実が推定される﹁法律上の
すなわち、推定には、 ﹁事実上の推定﹂︵韓ω似。誤。冨くΦ§葺§σq︾蜜器゜。貝巨圃8①゜。貯。ぼ︶と﹁法律上の推定﹂
その要件・効果さらには証明責任や自由心証の観念との関わりで種々のものに区別されることになる。
推定とは、ある事実を認定しそこから他の事実を推認することをいうものとして一般に理解される。この推定は、
法律論叢
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
57
巳葺巷㈹︶とに区別される。また法律上の推定は、その効果の違いによって﹁反駁を許す推定﹂︵≦にΦ二Φσqぎ冨く①学
ヨ暮巨σq︶と﹁反駁を許さない推定﹂︵巷≦凱巴㊦σqぎ冨くΦ同ヨ信け§σq”胃⇔⑦ω口巨δ器゜。冒H凶゜・。酔冒器︶とに区別される
ことになる。
ここでは以下に、推定の種類とその役割とを整理し、刑事手続における推定の観念の更なる探究のための︿一応
の﹀﹁事前了解﹂︵<o冥Φ房けぎ儀三゜。︶を明確化しておきたい。
ω 事実上の推定︵自然的推定︶
﹁事実上の推定﹂︵§。。ぎ窪。冨く臼ヨ暮信旨σq︶あるいは﹁自然的推定﹂︵ま葺島。冨く臼ヨ馨巨σq︶といわれるもの
︵1︶
の本質についても、例えばハンス・プリュッティンクが詳細に検討しているように、必ずしも一様の理解に到達して
いるわけではない。思考上、これを証明責任の問題とする見解と証拠評価の領域に位置づける見解とが成り立ち得る
であろう。
先ず、事実上の推定の本質を証明責任の問題に関わるものとして捉える見解においては、判例法によって創造され
る規範的な推定が事実上の推定として把握されることになろう。っまり、この見解によると、立法者ではなく、裁判
官が創造した新たな規範が推定の作用を生ぜしめることになり、したがってそうした規範は法律上の推定と機能的に
は全く同様のものとして理解されることになるのである。そこで、法律上の推定と事実上の推定とは、当該規範を単
に立法者が創造したか裁判官が創造したかによって区別されるに過ぎないことになる。だが事実上の推定をこのよう
に理解し、客観的証明責任を転換させるものとして捉えることは、法律上の推定との違いが不明瞭になるため、妥当
ではないであろう 。
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叢
論
律
そこで、事実上の推定は、これを裁判官の自由な証拠評価の枠内にあるものとして位置づけることが妥当であろう
し、今日では一般にはそのように理解されている。もっとも事実上の推定を証拠評価︵自由心証︶の領域の中に位置
づけた場合にも、この推定に強度の証明力を与える場合には、それはいわゆる﹁表見証明﹂と同一視されるか、ある
いはこれに類似するものと看倣されることになろう。これに対し、事実上の推定を通常の経験則と間接事実とから導
き出される推論︵情況証拠による証明ないし間接証明︶と看倣す場合には、このカテゴリーの独自の意味は失われる
ことになるであろう。ともあれ事実上の推定においては、裁判官の暫定的な心証を動揺させるような反証が為されれ
ぽ、そうした推定は覆されることになるという点が特徴的なものであり、客観的証明責任の転換を伴うものとして理
解されてはならないであろう。
② 反駁を許さない法律上の推定
﹁反駁を許さない法律上の推定﹂は、裁判規範によってではなく、実定法上の法律効果を規定する法命題によって
らず、aとして扱い、一律に同様の帰結がもたらされることになるので臥祝。
実が生活現実に相応していないことが全く明白であるにも拘らず、例えぽ擬制される事実が明らかにaでないにも拘
が許されないため一律に同様の帰結がもたらされることになるのである。これに対して擬制の場合は、擬制される事
には生活現実に相応しているからであって、それがたとえ個別事案においては相応しなくとも、そこにおいては反駁
る。つまり、反駁を許さない推定の場合に推定の効果が生じるのは、推定の基礎と推定の内容との結びつきが原則的
駁を許さないものであり、実体法上の法命題によって規制されるものだからである。その相違は、次の点に認められ
規制されるものにほかならない。それはいわゆる﹁擬制﹂︵閃蒙邑と類似するもので襲・というのは・擬制も反
一法
刑事手続における法律上の推定と表見証明
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いずれにせよ、反駁を許さない法律上の推定と擬制とを区別することは、理論的にはさほど重要な意味を持つもの
ではない。そこで、一般には反駁を許さない推定と擬制とはほとんど同一視されている。
③ 反駁︵反対事実の証明︶を許す法律上の推定
︵反駁を許す︶法律上の推定には、一定の前提事実︵﹀器σqきσq曾四冨舘冨︶あるいは推定の基礎︵<臼日葺ロロσqω訂ω凶ω︶
の存在から一定の事実の存在を帰結する﹁事実推定﹂と一定の前提事実の存在から一定の権利の存在を推定する﹁権
︵4︶
利推定﹂とがある。しかし、それらは、その構造と機能において本質的に同様のものであるということが今日では一
般に認められている。ともあれ、刑事手続において問題となるのは、﹁事実推定﹂としての法律上の推定である。し
たがって以下の論述においては、専ら﹁事実推定﹂を視野に入れた法律上の推定が問題とされる。
さて、先ず︵反駁を許す︶法律上の推定の特徴を際立たせるためには、その効果に関して﹁事実上の推定﹂と対比
してみることが有意義であろう。つまり、法律上の推定に対置される﹁事実上の推定﹂においては、裁判官の暫定的
な心証は﹁反証﹂︵○①σq①bげ①≦①包が提出されれば動揺させられるものであり、 これによってそうした推定は覆され
ることになる。だが反駁を許す法律上の推定においては、この推定を覆すためには、単なる﹁反証﹂の提出、すなわ
ち裁判官の暫定的な確信を動揺させるだけでは十分ではなく、反対事実についての完全なる証明、すなわち反対事
実につき裁判官に確信を抱かせるだけの証明が必要とされることになるのである。要するに、﹁反対事実の証明﹂
︵○①σqΦ暮①一一゜。ぴΦ≦①一切︶は、︵狭義の︶﹁反証﹂︵O㊦αq魯げ⑦芝①凶ω︶ではなく﹁本証﹂︵=9。信密げ①≦①一゜。︶であるが、法律上の
︵5︶
推定を覆すにはこうした﹁本証﹂としての﹁反対事実の証明﹂が必要乏されることになるのである。
次に、反駁を許す法律上の推定については、その本質は、証拠評価に関する規則、すなわち︵法定の︶﹁証拠規則﹂
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律
法
︵切①≦。一゜・器σq①一︶を内容とする点にあるのか、それとも﹁客観的証明責任﹂︵実質的証明責任︶ないし﹁確定責任﹂
︵閃Φ゜・馨㊦=§αqω冨゜。け︶の分配に関する﹁証明責任規則﹂︵ゆ①毒Φ匹ρ。ω霞①αq2︶を内容とする点にあるのかが問題となる。
前老であるとすると、それは自由心証主義と両立しないのではないかという問題が生じ、後者であれば、とりわけ刑
事手続においてそれは︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則と抵触しないかが問題とされることになる。
そこで、反駁を許す推定は、民事訴訟においては自由心証主義と両立し得る方向で理解され、一般に﹁証明責任規
︵6︶
則﹂として捉えられている。これに対して、︵ドイツの︶刑事訴訟においては、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原
︵7︶
則との抵触を回避するため、これを証拠規則として捉えるのがむしろ通常である。
ω 仮象推定︵不真正の法律上の推定︶
ローゼンベルクやその見解に賛同する論者は、︵真正の︶法律上の推定を︿法律要件外の﹀︵欝ひΦ゜。酔雪牙ヰoヨ匹︶事
︵8︶
情を前提事実︵推定の基礎︶とするものに限定して捉えようとした。つまり、この見解によると、真正の法律上の推
定規定とは、法律効果の前提となる法律要件として要求される事実がく法律要件外のV︵構成要件外の︶事情から推
定されるような法命題であるということになる。
そこで例えば、︿aプラスb︵前提事実︶が存在するならぽ、x︵推定事実︶の存在が帰結されるVという推定に
おいて、法律要件事実であり主要事実であるxの存在を推認させるaおよびbがく法律要件外のV事実であれば真正
の推定が存在するということになるが、aおよびbも法律要件事実であれぽ真正の推定は存在しないということにな
るのである。このように真正の推定においては、推定の基礎は常に︿法律要件外の﹀事情でなければならないとする
と、ある法律要件事実の存在から別の法律要件事実の存在を推定したり、あるいは無条件的にある事実の存在を推定
刑事手続における法律上の推定と表見証明
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したりすることは、本来的な意味における推定ではなく、ローゼンベルクはこれを﹁仮象推定﹂︵ω。プΦぎく臼ヨロ言昌σq︶
と称している。
こうした見解によると、刑事法における推定概念の古典的カテゴリーに属する、いわゆる﹁責任推定﹂の大部分の
ものや抽象的危険犯の本質に関する﹁危険推定説﹂の意味における﹁危険推定﹂それにいわゆる﹁無罪推定﹂など
は、真正の法律上の推定ではないということになろう。というのは、責任推定の場合には、通常法律要件︵構成要
件︶要素に当たる客観的事情から責任︵故意・過失︶が推定されるものであり、また危険推定の場合にも︵危険推定
説によれぽ︶、法律要件︵構成要件︶に該当する基本的行為からこれとは別な法律要件︵構成要件︶要素たる具体的
危険が推定されるものであり、さらに法原則としてのいわゆる﹁無罪推定﹂においては、一定の事実の存在から被告
人の無罪が推定されるのではなく、無条件的に無罪が推定されるものだからである。
︵9︶
その上、ローゼンベルクによると、真正の法律上の推定の場合には、推定事実は法律効果の成立にとって必要不可
欠な法律要件︵権利発生の要件︶を成しているのに対し、推定事実の存在が法律要件事実の存在から帰結される﹁仮
象推定﹂の場合には、当該推定事実は﹁権利根拠規定﹂としての原則規範から完全に切断され、反対事実の形態にお
いて﹁権利障害規定﹂としての例外規範の︵法律︶要件とされることになる。そこで、いわゆる責任推定を含む刑罰
法規の場合には、責任︵故意・過失︶σ存在は客観的事情の存在から端的に推定されるが、責任は処罰︵刑罰請求権︶
を根拠づけるもの︵可罰性の要件︶ではなく、ただ責任の不存在が処罰を阻却させるもの︵可罰性という効果の成立
を妨げるもの︶として把握されることになるであろう。したがってまた、抽象的危険犯における具体的危険︵性︶も
︵10︶
処罰を根拠づける要素、すなわち不法を基礎づける要素として捉えられず、ただ危険の不存在が処罰を阻却させる事
情になるであろう。
律
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論
法
しかし、こうした帰結は必ずしも説得的ではない。責任が処罰を根拠づけるものであるか、それともその不存在が
処罰を阻却するものであるか、また、危険が処罰を根拠づけるものであるか、それともその不存在が処罰を阻却する
ものであるかは、推定の基礎が法律要件︵構成要件︶外の事実であるか否かとは関係なき実体法上の問題であろう。
ともあれ本稿においては、一定の法律要件事実からこれとは別の法律要件事実が推定される場合を﹁不真正の法律
上の推定﹂と称することにしておこう。また、以上のような理解によれぽ、真正の法律上の推定と不真正の法律上の
推定との区別は重要なものではないということができるであろう。
⑤ 反証提出によって覆される法律上の推定
ドイツ法においては法律上の推定といえぽ、反駁︵反対事実の証明︶を許さない推定あるいは反駁︵反対事実の証
明︶を許す推定のいずれかであるが、英米法においては単なる反証の提出を通じて覆し得る法律上の推定の観念が認
められている。
例えば斉藤朔郎が、﹁法律上の推定は﹃甲事実の存在の証明あるときは︵一定法条の適用につき︶乙事実あるもの
と同様に取り扱うべし。但し、乙事実の不存在を証明するための証拠の提出あるときは、この限りでない﹄と解すべ
︵11︶
きである﹂と主張するのも、以上のような意味における法律上の推定の観念を認めるものである。
︵12︶
刑事訴訟においても平野龍一や松尾浩也によってこうした証拠︵反証︶の提出によって覆し得る法律上の推定の観
念が導入され、今日一般化している。つまり、刑事法の領域では一方でく疑わしきは被告人の利益にVの原則が妥当し
ているため、被告人に客観的証明責任︵説得責任︶を転換するような推定は認めるべきではないという観点から、反証
の提出によって覆し得る推定の観念が認知され、また被告人が反証を提出しなくとも裁判官は推定の内容どおりの判
刑事手続における法律上の推定と表見証明
63
決を下すべきことを義務づけられないということ︵許容的推定︶が自由心証主義の観点から導出されることになる。ま
さに法治国家的原理との抵触と問題を回避するため、このような推定の必要性が強調されることになったのである。
ところで、以上のような意味における反証提出によって覆される法律上の推定は、その効果の点において事実上の
証明の一種である﹁表見証明﹂と類似している。つまり、前老は制定法によって、後者は通常判例によって制度化さ
れるという点に違いが認められるが、いずれも暫定的な推定が単なる反証の提出によって覆されることになるからで
ある。それ故、それらを比較検討することが重要であるように思われる。
⑥ 表見証明
﹁表見証明﹂︵﹀昌ωOげΦ凶昌ロoげ①≦Φ一ω︶ないしコ応の証明﹂︵胃巨㌣︷β。9①1ゆ①≦①一゜。︶というものは、認知科学でいう一
種の﹁デフォールト推論﹂、すなわち情報が不完全な場合に仮定的な典型例︵デフォールト値︶を前提して取り敢え
ず暫定的な結論を導き出す推論に依拠するものであって、ある事実の証明から要証事実︵主要事実︶の存在が高度の
蓋然性をもって推認される場合に認められるものである。例えぽ、車の追突事故において先行車に追突する車の運転
手の不注意が推認されたり、見通しのよい道路で車が横滑りし街路樹に衝突して同乗者の死傷の結果を招いた運転手
の不注意が推認されるような場合などにそうした証明が認められるかが問題となる。それは、ドイツの民事訴訟理論
および判例において認知されている観念ではあるが、我国の民事判例において展開されているコ応の推定﹂もこれ
︵13︶
に類似するものである。
もっとも、この表見証明の法的性格をいかに理解するかについては争われている。古い理論︵証明責任説︶は、前
提事実につき一応の証明がなされれぽそれで客観的証明責任が反対当事者に転換するものとしてこの観念を理解して
律
叢
64
論
法
いたが、現代では証拠評価の枠内における経験則の適用が問題となっているに過ぎないものとしてこの観念を理解す
る立場︵証拠評価説︶が通説になっている。また学説においてはこれを証明度を軽減するものとして捉える見解︵証
︵15︶
︵16︶ ︵17︶
明度説︶や実体法上の要件を修正するものとして位置づける見解︵実体法説︶も有力に主張されている。
通説である﹁証拠評価説﹂によれば、表見証明においては、一定の間接事実が証明されると﹁定型的事象経過﹂
︵受宜ω。ぴ臼O窃島①ゲΦ蕊。げ一①ロh︶を記述する高度に蓋然的な経験則、すなわちディートマール・ハインミューラーの
いう﹁経験原則﹂︵国睦帥冨ロ品゜・αq歪巳ω舞N︶に基づき主要事実が推定され、反対当事者がこれを覆すには、裁判官の確
︵18︶
信を動揺させる﹁反証﹂を提出すればよく、﹁反対事実の証明﹂までは必要とされない。したがってこうした見解に
よれぽ、表見証明は﹁客観的証明責任﹂ないし﹁確定責任﹂を転換させるものではなく、せいぜい﹁具体的証拠提出
責任﹂︵犀o爵お冨Ud。毛Φ一゜。h爵歪旨σq°・一器け︶を転換させるに過ぎないものとして理解されることになる。そこで表見証明
にっいてのこのような理解を前提にすると、いわゆる﹁情況証拠による証明﹂︵一昌価一N凶O口げ①毛Φ凶ω︶との違いが問題に
なる。
先ず第一の相違は、通常次の点に認められている。つまり、表見証明も一種の情況証拠による証明すなわち間接証
明であるが、通常の情況証拠による証明の場合はそれほど高度に蓋然的ではない﹁通常の経験則﹂︵Φぎ富筈霞国眺。。マ
註口αqωω舞N︶が使用され、したがって証明に達するには複数の経験則が必要とされるのに対し、表見証明においては
高度に蓋然的な経験則、すなわちハインミュ!ラーのいう﹁経験原則﹂が使用されるため、この経験則一つによって
︵19︶
証明がなされることになる、と一般には考えられているのである。
第二の相違は、一般に次の点に認められている。つまり、表見証明は主として︵客観的︶過失と因果関係の証明に
利用されているが、その際﹁何らかの認定﹂︵マσq窪匹≦一①扇。ω鼓①一一βづσq︶、すなわちある種の不特定的認定ないし概括
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
65
的認定で満足する︵例えば、過失がスピードを出し過ぎた点にあるか、それともブレーキを掛けるのが遅すぎた点に
あるかのいずれかで満足する︶が、これに対し通常の情況証拠による証明にあっては個別的な事実につき認定が必要
である、とされているのである。
︵20︶
問題は、このような表見証明ないし一応の証明を刑事法の領域に適用できるか否かでみるが、この点については争
われている。これを客観的証明責任を転換するものと理解したり、証明度を軽減するものとして捉える限りにおいて
は、﹁無罪推定﹂の原則や︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に反する事態が生ずるため、刑事法の領域における
その適用可能性は否定されることになる。だが、これを証拠評価の枠内に位置づける限りにおいては、︿疑わしきは
被告人の利益に﹀の原則や自由心証主義との抵触も問題とならず、その適用可能性を肯定する余地が認められること
になろう。
︵1︶ ℃ミミ§駁O。σq窪毒゜。ユ紹Ho三①ヨo畠゜帰bd①惹゜・一器計H㊤゜。ω”ψαO酔
︵2︶産・℃ミ§堕罫9p牟ミ§ミ罫﹄δo毒匹蕃二臼じ・°蓄爵ωニヨN三喜N①炉H舞ψ゜・卜・h脚
さ亀ミ暮\⑦ミミミ℃〇三昌伍h鑓ぴq窪匹Φωゆ①≦o一゜・話゜茸ω℃日りo。合ω゜置ω゜
︵4︶N§肋ミ幕℃。聾o二ω﹄?‡ミ§鮪⇔°poこ゜D°軽゜。°
︵3︶ミミ§斡鉾pρ唱ω誌o°
︵5︶ さ防昔貯劃仁。°Pρ唱ψ①9なお、刑事訴訟では、通常、﹁反証﹂と﹁反対事実の証明﹂とが厳密に区別されないが、本
稿においては、用語法として本文に説明した意味において﹁反証﹂︵狭義の反証︶と﹁反対事実の証明﹂とが区別される。
用語法につき、新堂幸司﹃民事訴訟法第二版﹄︵一九八八年︶三五五頁を参照。但し、刑事訴訟規則二〇四条によれば、反
︵6︶<α・ド沁。恥§守ミ堕望①ゆ①墓互帥ωび9>島こ9・。同。。簿・。鵠3卜職慧、9切署゜巨Qω9σ・⑦ぎ毒勉αq①ω①巳凶゜冨く①§員−
証は証拠の証明力を争うために提出される証拠を意味している。松尾浩也﹃刑事訴訟法下﹄︵一九九三年︶二七頁参照。
叶§σq・ま9ω・。。03♀§砺婁O﹁巨爵σq魯島①ω<。昏﹃§鉾①。募”斡︾島゜口り謬ω゜&O⋮ミミ§hbp勲Pω゜
66
一 法律論叢
亟Pまた通常の証明責任規範と法律上の推定との違いについては、さ職瓢暮℃PPρ℃¢謡円脚ミ冨鴇ミ寒\⑦ミミミ℃。°
︵7︶ 学説については、Oミミ、﹀冨霞餌写①O鉱穿H侮§σq巴①諏聾①巨ら℃感゜。¢日菖8窪一日ω#臥話。算ψ卜。①O識゜を参照。
勲Oこω゜にO頃゜を参照。
︵8︶ 肉8§魯ミ騨P⇔°Oこω゜卜◎Ob。融゜甲卜臨、oミbPPOこω。りト。°
︵10︶ <σqHOミミ℃p°㊤゜Oこω゜卜◎合゜
︵9︶ 肉霧§富、酋PPO二ψ悼O刈酔ローゼンベルクの見解に対する批判として、OミミbPPρ矯ψb。心O賠を参照。
︵11︶ 斎藤朔郎﹃事実認定論﹄︵一九五四年︶六七頁。
年︶一二二頁以下参照。
︵12︶ 平野龍一﹁刑事訴訟における推定﹂法学協会雑誌七四巻三号︵一九五七年︶二三五頁以下、松尾浩也﹁刑事訴訟における
挙証責任﹂上智法学論集一巻一号︵一九五七年︶二三六頁以下、同﹁挙証責任および推定﹂刑事訴訟法講座2︵一九六四
︵13︶ ドイツ民事訴訟における﹁表見証明﹂︵一応の証明︶並びに我が国の判例における﹁一応の推定﹂については、中野貞一
郎﹃過失の推認﹄︵一九七八年︶一頁以下、太田勝造﹃裁判における証明論の基礎﹄︵一九八二年︶一七五頁以下、藤原弘道
﹁一応の推定と証明責任の転換﹂︵一九八三年﹃講座民事訴訟5﹄所収︶一二七頁以下、竜崎喜助﹃証明責任論﹄︵一九八七
年︶六一頁以下、小林秀之﹃証拠法﹄︵一九八九年︶五二頁以下、春日偉知郎﹃民事証拠法研究﹄︵一九九一年︶七九頁以下
などを参照。
︵14︶ ﹁証明責任説﹂について、b譜匙ミ詩曹§℃N9即。。げ件旨葺葺β巳゜・誘盆ヨ豊■■。ゲ窪oり仲①一一巨σq<8じd①乏臥。。一餌゜・件き山
﹀冨島①一霧び゜毒゜一9︿臼ω国HO①9ψ卜。=ご“ミ吻二閃o答ω鼻葺8冒鎚。σqヨ巴ω。冨昌く臼。。薮註三ω自。。・﹀冨。冨冒ωげ①乏。圃ω①・。輸
︵15︶ ﹁証拠評価説﹂について、鴫ミミ§ミ、ミbU霞︾窃島。ぎωσ。≦鉱ω賃ロ住象Φ閃9。穿一冴ω一σq犀o詳ぎゴ。三一σq。昌ω。げ巴窪①H,
NN℃°。H︵H8Q◎︶”ω゜罐”①O。を参照。
ω象N冒oN①ζ。噸HO①9ω゜Q。°。卑⋮、、ミ職§㍗即斜ρ噛ω゜HOO中を参照。
︵16︶ ﹁証明度説﹂について、肉oミミ“b孚Pρ℃ω゜お蔭中を参照。
︵17︶ ﹁実体法説﹂について、bご亀ミ詩曹§℃<o易男HO①9 ψ卜∂H刈中⋮織ミ恥こNN勺o。H︵Hり①゜。ソψ①G。中脚O、轟ミbじd①毒①δ
に巳≦Q訂ω゜冨一三一゜鼻゜一け℃ψHミ中∴匙ミ恥こ℃冨×冨ロ巳U。ゆqヨ簿障山①・︾器。冨剛昌゜・げ①妻。一゜・①ρ<臼ω菊HO。。9ω゜H8H卑
を参照。
U事手続における法律上の推定と表見証明一
67
︵18︶ ミミ§ミ忘き勲9°ρ”¢N①塗”ωどω9ハイソミューラーは、確実な認識をもたらす﹁経験法則﹂︵国臨号毎昌σqωσqo°・①言︶
と弱い蓋然的な認識をもたらす﹁通常の経験則﹂︵oぎ討島霞国眺m冨巷σq器9けN︶および高度に蓋然的な認識をもたらし、表
︵19︶ もっともムズィラークとフーバーは、過失の表見証明においては一つの経験則のみが適用されるが、因果関係の表見証明
見証明において使用される﹁経験原則﹂︵卑h。穿8σqωαq毎巳。。卑N︶とを区別する。
の場合には複数の経験則が適用される、と主張している。さ亀災暮\勲貸ミミbO歪巳蹄9。σq8α。のbd。≦①一■−話島登¢°。°。中゜
︵20︶︿σ・ドミミ§軸器゜9ω゜HHO⋮肉§§“、慧゜9ω゜§卑
O①脚ミ守ミ﹂O霧bdo零①凶゜・日餌じ。一ヨNぞ昌冒oNΦζ◎唱HOQ。ω剛ω’昌G。9
二 いわゆる﹁責任推定﹂とく疑わしきは被告人の利益にVの原則
刑法学における古典的カテゴリーに属する、いわゆる法律上の﹁責任推定﹂︵ω島ロ匡く臼ヨ三§σq”ω島巳匹實似警專
二。昌︶においては、主観的要素である故意または過失の意味における責任の存在が法定された一定の外部的︵客観
的︶事実の認定から推定されることになる︵もっとも現代の理論においては、故意・過失は責任要素というよりも不
法要素であるから﹁不法推定﹂という方が適切であろう︶。このような﹁責任推定﹂は、通常、︿構成要件外の﹀︵法
律要件外の︶事情から推定事実の存在が帰結される、ローゼソベルクの意味における﹁真正の法律上の推定﹂ではな
い。というのは、前提事実︵推定の基礎︶である客観的事情もまた法律効果にとって重要な構成要件要素︵法律要件
要素︶だからである。
ところで、このような責任推定の場合には、推定の基礎である客観的事情が責任に取って代わって﹁証明の主題﹂
になるのではなく、そうした客観的事情も独自に存在しなければならない法律要件として証明されなければならない
68
’
ことになる。そこで、ローゼンベルクの意味における真正の法律上の推定の場合とは異なり、このような,﹁責任推
ユ 定﹂を﹁証明主題﹂が変更されたものとして捉えることは誤りであろう。
ともあれ、こうした﹁責任推定﹂が現代の法治国家においても許容されるべきものであるか否かが決定的に重要な
E臼匿゜。︶といったものは今日では完全に克服され、全く取り上げるに値しないものとなっているとい、兄よう。これ
問題である。コ般的な責任推定の理論﹂あるいは二般的な故意推定の理論﹂︵ピΦ訂Φ<o昌号同胃器ωロ日目圃o伍o嵩
に関して﹁過失推定﹂という形態における責任推定がまさに通説・判例によって何の疑間もなく認められているとい
に対し、個別規定の中には責任推定の残骸らしきものが散見され得るし、また我が国においては、いわゆる両罰規定
σq
れていたため、法定された﹁諸般の事情﹂という推定の基礎から推定事実である臓物罪の故意が法律上推定されるこ
はく諸般の事情により認識していなけれぽならないV︵畠①ロdヨω品巳①昌ロ霧ゲ鎚昌①ゲヨ8ヨロじ○︶﹂という規定が置か
二五九条︵職物罪︶を挙げることができる。そこでは、﹁行為者が当該対象の臓物性につき認識しているか、あるい
いわゆる責任推定︵故意推定︶を含んでいるか否かをめぐって激しく争われた刑罰法規の一つとしてドイッ刑法旧
ω ドイツ刑法旧二五九条における故意推定の問題性
推定﹂の禁止を帰結することになる︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則の法的性格につき論究することにしたい。
性に関するドイッの議論につき考察を加え、次に我が国における責任推定規定の問題性につき検討し、さらに﹁責任
そこで以下においては、先ずドイッ刑法旧二五九条の規定に関連して展開された故意推定としての責任推定の問題
ではないのである 。
う現実が横たわっており、今日においても責任推定は過去について物語る法史学的考察の対象に決してとどまるもの
叢一
論
律
法
とになるのではないかということが問題とされたのである︵スイス刑法にはほぼ同じ内容の規定が一四四条に置かれ
ている︶。以下では先ず、この規定の性格をめぐる論争点を明らかにし、それを通じていわゆる﹁責任推定﹂に関わ
る周辺的問題について検討してみたい。
︵3︶
先ず、通説並びに判例は、︿諸般の事情により認識していなければならない﹀という文言の法的性格を反駁を許す
証拠規則の意味における法律上の推定として理解していた。例えば、ライヒ裁判所は、故意に関する不完全な証明結
果が法定の証拠規則によって補完され完全なる責任になるのであるとする見解を主張していた︵閃Oωけ ㎝α℃ 鵠O蔭中゜︶。
また連邦︵通常︶裁判所も、これを追認して故意に関する不完全な証明結果が証拠規則によって故意の完全なる認定
認されるが、ごれはいわゆる、︵反駁を許す︶法律上の推定でも法定の証拠規則でもなく、証拠評価の枠内にある︵法
い逃れをするのが通常であるといヶ点を考慮する。そしてそこにおいては、一定の定型的事情から臓物罪の故意が推
用事例として理解した上で、他の犯罪と比較すると職物罪の場合には、被告人は職物であることを知らなかったと言
のである。そこで先ず、ボッケルマンは、ビンディンクとナークラーの見解に言及してこの規定を自由心証主義の適
つまり、ボッケルマソは、この文言の性格をコ応の証明﹂︵表見証明︶を法定化したものとして捉えようとした
特別の発現形態ど考えていた。
︵6︶
これに対し噛パウル・ボッケルマンは、次のようにこの規定を反駁を許す法律上の推定ではなく、自由心証主義の
て捉えていた︶。.
して捉えていだ︵ぺー.タヒスは︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則を証明責任規則としてではなく、証拠規則とし
駁を許す法律上の推定︵責任推定︶として理解し、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則に対する実定法上の例外と
塁るのである︵し・Ω顕N§中︶、と説明した・学説においては・例えぽカール゜ぺif能・この規定を反
一刑事手続における法律上の推定と表見証明
69
叢
70
論
律
法
定された︶表見証明として理解されることになったのである。
またハンス・ヴェルツェルは、当初通説・判例に従い、二五九条には職物性を認識せざるを得ない事情が存在する
場合には行為者に故意が認定されるべきだとする証拠規則が含まれており、こうした推定は反駁を許すものであっ
︵7︶
て、臓物性の認識がないことが積極的に証明されるならぽ行為者は無罪になる、と主張していた。しかしながらその
後ヴェルツェルも、ボッケルマンの見解を受け容れ、この規定を法定の証拠規則の意味における反駁を許す法律上の
推定︵責任推定︶ではなく、自由心証主義と両立し得る﹁表見証明﹂︵一応の証明︶を認めるものだと改説するに至
︵8︶
ったのである。
︵9︶
ホルスト・シュレーダーも、この規定をある種のコ応の証明﹂︵表見証明︶を法定したものとして位置づけてい
る。シュレーダーは、この規定においては一定の間接事実︵徴愚︶から一般的な経験則に基づき証明困難な故意の存
在を推論することを裁判官に許容しているのだと主張する。だが、そうした一定の間接事実︵事情︶による推定は反
対事実が証明されない限りは覆されないものとして特徴づけられている。そしてこうした裁判官による推定が法定の
証拠規則、故意の推定、あるいは一応の証明と称されるべきかはむしろ用語法の問題である、と述べている。シュレ
ーダーによれば、裁判官による推定と法律上の推定との違いは、後者においてはただ徴愚が立法者自身によって規定
されているという点に存するに過ぎない。
︵10︶
こうしたシュレーダーの論述は混乱を招くものである。というのは、シュレーダーはこの規定の性格を一応の証明
として捉えながら、その推定は単なる﹁反証﹂︵暫定的な心証を覆す反証提出︶によってではなく、﹁反対事実の証
明﹂によって覆されるものとして特徴づけているからである。だが、一応の証明を証拠評価の枠内における問題とし
て捉え、客観的証明責任を転換するものとして捉えない通説によれぽ、一応の証明における推定は反証、すなわち裁
刑事手続における法律上の推定と表見証明
71
判官の暫定的な心証を動揺させることによって覆され得るものである。シュレーダーが一応の証明として位置づけた
ものは、むしろ反駁を許す法律上の推定と同様の機能を有するものであって、そうだとすればそれは自由心証主義な
いしはく疑わしきは被告人の利益にVの原則と抵触することになるであろう。
︵11︶
さらにハインリッヒ・ヘンケルの場合も、ボッケルマンと同様に、ドイツ刑法旧二五九条におけるく諸般の事情に
より認識していなければならないVという公式については、自由心証主義の発現形態であるということが前提とされ
ていた。
そこでヘンケルは先ず、この規定を法律上の推定と看倣す通説・判例の立場を次のように攻撃する。ヘンケルによ
れぽ、法律上の推定というものは、自由心証を排除するものであり、推定事実につき確信に達しなくとも、すなわち
疑いが残っていても前提事実が認められる限り当該推定事実の存在を認識するよう裁判官を義務づけることになる。
ただ、反対事実の確実性ないし蓋然性が証明される場合にだけ、推定の法定された証明力は効力を失うことになる。
そしてこのような意味における反証︵反対事実の証明︶がなされない場合には、そのことは実質的証明責任︵客観的
証明責任︶の効果として被告人に不利益に作用することになるのである、とされる。
このようなヘンケルの論述は、法律上の推定につき一方で自由心証を排除するものであるとし、他方で実質的証明
責任にも言及するため、誤解を招きかねない点も認められる。ともあれヘンケルによれぽ、法律上の推定は法定証拠
主義の真正の適用事例であり、その限りで法律上の推定と考えられる﹁責任推定﹂は実体的真実主義並びに自由心証
主義に反することになるため是認し難いものとして捉えられている。そしてまた、法律上の推定においては、法律自
体が法的に重要な事実︵推定事実︶の存在を帰結する一定の事情︵前提事実︶を特徴づけているということが必要と
されるが、二五九条の規定の場合には、前提事実は正確には特徴づけられておらず、むしろいかなる事情が故意の存
律
72
叢
論
法
在を帰結するかは個別的に裁判官に委ねられているから、法律上の推定を認めるための前提が欠けており、これを法
律上の推定規定として理解することはできないということになるのである。
その上ヘンケルは、この規定を表見証明︵一応の証明︶として理解するボッケルマンの見解にも反対する。先ず、
民事手続とは全く構造を異にする刑事手続に一応の証明という特殊な方法を導入することには原則的な疑問が存在す
る、というのである。つまり、事象間の定型的な結びつきに依拠し、それを証拠評価にとって決定的なものと看敬す
立証は、当事者間に真正の証明責任の分配が存在する弁論主義手続に相応しいものである、というのである。という
のは、民事訴訟においては一応の証明の暫定的な証明力は、定型的ではない事象経過の可能性を示す証拠が当事者に
よって提出されることを通じて動揺させられるものであり、一応の証明の暫定性と不完全性の中に潜む危険は当事者
の弁論を通じて排除されることになるからである、と主張される。これに対し、職権探知主義の妥当する刑事手続で
はそうしたことは期待されない、というのである。
もっとも刑事手続においても、.定型的な生活状況や事象経過は立証の枠内で重要な役割を果たすこともあるし、立
法老が例外的に一応の証明を許容し、それで十分だと説明することもできないわけではない。だがドイッ刑法旧二五
九条の公式において立法者は表見証明︵一応の証明︶を許容したとは考えられない。というのは、この規定は平均人
の認識能力といった定型的なものを基準にする定型的考察方法を許容しておらず、むしろ行為者個人の認識や認識能
力さらには事案の個別性といったものを証拠の評価に含めることを要求しているからである。その上、内的事象、意
識および意思などについては、事象経過の定型性といったものを考慮に入れることができないため、民事訴訟におけ
る学説・判例も、一応の証明をこうした領域においては許容していないし、したがって故意につき一応の証明を許容
することはできない、というのである。
一刑事手続における法律上の推定と表見証明一
73
こうしてヘンケルは、︿諸般の事情により認識していなけれぽならない﹀という公式について、それは自由心証主
義に服する情況証拠による証明の特別の方途を裁判官に指示ないし教示するものであり、自由心証主義と両立する意
︵12︶
味における、広義の証拠規則である、と主張するのである。
またヒルデ・カウフマンも、ドイッ刑法旧二五九条が法定の証拠規則ないしは法律上の推定を含んでいるとする見
解に疑問を提示し、次のように述べている。すなわち、主観的要素の証明は、行為者の自白や目撃者の証言がある場
合はさておき、主観的要素の存在を推測させる客観的な外界の基準によってのみ成し遂げられるものである。この規
定のように、主観的要素の証明の仕方が法律規定の中に含まれているということは、確かに余計なことではあるが、
古い刑法典にはしぼしぼ偶然的なことや余計なことが含まれていることもあるのだ、と指摘している。
もっともカウフマンは、以上のような解釈が正当であるか否かについて結局はその態度を未決定のままにし、そも
そも法定の証拠規則が実体法的性格を有するのかそれとも証拠法的性格を有するのかという問題を一般的に論ずるた
め、あえて二五九条は証拠規則を含んでいるとする仮定に依拠して、行為者に臓物性の認識があるかないかが解明さ
れないが、そうした認識に達していたはずであると推測させるような行為事情が存していた場合には、行為者に故意
が存在するものとされることになるのであり、したがって故意の存在に関してノン・リケット︵真偽不明︶の場合に
は、行為老に不利益な判決がなされることになる、とするのである。
しかしこう、した論述は概念的混同を招くものであろう。というのは、証拠規則というものは事実認定に関する規則
であって、事実を認定し得ないノZ・リケットの場合にはもはや問題にはならない類のものだからである。すなわ
ち、真偽不明で事実が認定されない場合には、誰がノン・リケットの不利益を負担すべきかという客観的証明責任
︵実質的証明責任︶の問題が生じることになるのであり、証拠規則の問題は生じないからである。こうした概念的混
74
叢
論
律
法
同は、カウフマンが︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則を証拠規則として理解している点にも認めることができる
であろう。
ともあれ、カウフマンの問題関心は証拠規則が実体法的性格を有するかそれとも形式法的性格を有するかという点
に集中しており、そこにおいては被告人に不利益な証拠規則ないしは法律上の推定が法治国家的観点から果たして許
容されるべきかという問題設定が全く欠落しているため、その論述はわれわれの聞題関心にとっては必ずしも有用で
はない。
われわれの問題関心からは、責任推定ないしは刑事手続における法律上の推定を単に﹁証明主題﹂を変更するに過
ぎないものとして捉える見解について批判的に検討することがより重要であろう。というのは、そうした見解は、責
︵ 1 3 ︶
任推定ないしは被告人に不利益な法律上の推定の法治国家的な問題性を巧みに隠蔽してしまうものだからである。
例えばクラインクネヒトとマイヤーは、法律上の推定あるいは反駁を許す法定の証拠規則というものは、被告人に
証明責任を課すものでも自由心証を制限するものでもないから、法治国家的原則と矛盾するものではない、と主張し
ている。そうした主張においては、法律上の推定や法定の証拠規則は単に﹁証明主題﹂を別様に設定し、必要な証拠
︵14︶
調べの限界および証拠評価の関係点を変更するに過ぎないものとして理解されているのである。
だがこうした見解は、エファ・グラウルも指摘しているように、基本的に誤りである。先ず、法律上の推定は証明
主題と証拠評価の関係点を変更するものだとして捉えることは、先にも指摘したように、ローゼンベルクの意味にお
ける真正の法律上の推定の場合には、すなわちく構成要件︵法律要件︶外のV事情を前提事実とするような推定の場
合には確かに妥当し得るものである。というのは、この場合には、構成要件︵法律要件︶事実となる推定事実の代わ
りにく構成要件︵法律要件︶外のV事実に関して証拠調べが遂行されることになるからである。
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
75
しかしながら、刑事手続における推定は、責任推定であれ危険推定であれ、通常、ローゼンベルクの意味における
真正の推定ではなく、 一定の構成要件︵法律要件︶要素である前提事実︵推定の基礎︶からそれとは別の構成要件
︵法律要件︶要素である推定事実の存在が帰結されるものであり、そこにおいては前提事実も推定事実も本来法律効
果にとってともに重要な要件︵主要事実︶であるから、そうした推定につき﹁証明主題﹂が変更されるものだと言明
することは不当であろう。例えば責任推定においては、推定の基礎である客観的構成要件要素は故意ないしは過失に
代わって﹁証明主題﹂とされるのではなく、それ自体証明されなけれぽならない法律効果の要件をなしているのであ
り、決して﹁証明主題﹂が変更されるわけではない。
また、クラインクネヒトとマイヤーのように、法律上の推定を︵法定の︶証拠規則として捉えるならぽ、前提事実
は確かに自由心証によって解明されるが、推定事実はまさに法定の証拠規則によって証明されたものとして認定され
ることになるから、そこにおいて自由心証主義が制限されることになるのは明白であろう。他方、法律上の推定を証
明責任規則として理解するならば、要証事実に関する真偽不明を前提にして被告人に客観的証明責任が課されること
になるから、それは明らかに︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に反することになるであろう。したがって、確か
に真正の法律上の推定は証明主題を変更するものであるといい得るとしても、だからといってそれは、自由心証を制
限しないし、被告人に証明責任を課すものではないとはいい得ないはずである。
このように法律上の推定を単に﹁証明主題﹂を変更するに過ぎないものとして捉え、そこから法律上の推定と法治
国家的原則との両立可能性を主張する見解は、刑事手続における法律上の推定の法的性格の理解についても、また法
治国家的原則の意味内容の解釈に関しても不当なものであるということがいまや明らかになったといえよう。
さてここにおいて、以上の論者の論述を総括し、その当否について判定を下すことにしよう。先ず、理論的には法
76
律上の推定は前提事実が法律自体に具体的に指示されていなけれぽならない性格のものであるが、ドイツ刑法旧二五
九条のく諸般の事情により認識していなければならないVという公式においては、具体的にいかなる事情が前提事実
︵推定の基礎︶になるのかが法律自体に明示されておらず、むしろそれを裁判官に委ねているため、これを法律上の
推定として理解することはできないということが帰結されるであろう。
また、この公式を反駁を許す法律上の推定として捉える場合、法律上の推定を法定の証拠規則として理解する限り
においては﹁自由心証主義﹂との抵触の問題が起こり、またこれを証明責任規範として理解する限りにおいてはく疑
こうした考察から、現代の法治国家においては︵反駁を許す︶法律上の﹁責任推定﹂なる観念は、﹁故意推定﹂
ように、余計なものであろう。
して理解するヘンケルの見解が正当であろうし、またそうであればそうした文言は、ヒルデ・カウフマソが示唆した
ともあれ、この規定の当該文言の解釈論については、これを情況証拠による証明の方途を裁判官に教示するものと
は、理論的にも実際的にも興味ある問題であり、更なる探究が必要とされている。
見証明﹂が刑事手続において一般的に適用可能か否か、また︿法定された﹀﹁表見証明﹂なる観念を認知するか否か
指摘しているように、この法規はコ応の証明﹂をも規範化していない、とする批判が可能であろう。もっとも﹁表
︵16︶
しては、表見証明を支える具体的な間接事実自体はこの規定には指示されておらず、したがってハンス・フェストも
さらに、この規定が法定された﹁一応の証明﹂︵表見証明︶の性格を有するものだとするボッケルマンの見解に対
︵15︶
てはならないという結論が導出されることになる。
おいては反駁を許す法律上の推定としての、いわゆる﹁責任推定﹂︵故意・過失の推定︶なるものは決して許容され
わしきは被告人の利益にVの原則との抵触の問題が生じるであろう。したがって、法治国家的観点から、刑事手続に
叢一
論
律
法
嬉手続における法律上の推定と表見証明
77
︵胃器ωロ巨δ匹oεであれ﹁過失推定﹂︵胃器霊巨δ。三冨①︶であれ、すでに理論的に乗り越えられてしまった時代
錯誤的な法形象にほかならず、決して正統化され得ないものだという結論が改めて確認されることになろう。
② 我が国の現行法における責任推定規定の問題性
以上のドイツの議論とそれに関する帰結とを踏まえて﹁責任推定﹂に関わる我が国の刑罰法規に目を向けるなら
ば、先ず爆発物取締罰則の六条が問題になるであろう。
この爆発物取締罰則は、その三条において、その一条に規定した目的をもって、すなわち治安を妨げまたは他人の
身体財産を害することを目的として爆発物などを製造・輸入・所持・注文することを禁止し、この禁止違反に対し三
年以上十年以下の懲役または禁固の罰則を規定している。ところがその六条においては、爆発物を製造・輸入・所持・
注文した老が、そうした犯罪目的がないことを証明することができない場合には、この者を六月以上五年以下の懲役
に処すべきことが規定されている。すなわち、犯罪目的につき真偽不明の場合には、被告人に不利益に有罪判決が下
されることになるのである。しかも興味あることに、立法老は真偽不明であることを考慮して、通常の場合、つまり
犯罪目的が立証された場合に比較して法定刑を軽くしている。これはまさに一種の﹁嫌疑刑﹂であり、﹁嫌疑刑﹂で
あることを立法者自らが認めているが故に完全なる証明があった場合よりも法定刑が軽くなっているのであろう。
この点はともかく、この規定は、真偽不明の場合に客観的証明責任を被告人に軽換することを内容とするものであ
ることは明白である。また推定という観点から見るならぽ、それは、行為者が爆発物を製造・輸入・所持・注文した
場合には、その犯罪目的を法律上推定するものである、ということができるであろう。もちろん被告人には、そうし
た推定を反駁することが許容されている。
律
78
叢
論
法
もっともこの規定の場合には、﹁推定事実﹂である犯罪目的のみならず、爆発物の製造・輸入・所持・注文という
﹁推定の基礎﹂︵前提事実︶自体も法律効果が成立するための要件であり、それは︿構成要件外の﹀︵法律要件外の︶
事実ではないから、ローゼンベルクの意味における真正の法律上の推定が問題になっているのではないし、また﹁証
明の主題﹂が変更されているのではない、ということも明白である。
ともあれ、こうした規定は、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則に反するものであり、さらに憲法三一条の適正
手続条項の中にこの原則が含まれているものと理解されるべき限りにおいて、たとえ犯罪目的が立証された場合より
も法定刑が軽くなっているとはいえ憲法に違反するものであるといえよう。
そこで、こうした憲法違反の規定がある場合に、方法論的にこれにいかに対処すべきかが問題とされなけれぽなら
反した法発見﹂︵園①。げ冨ゆ巳ロ昌αq8ロ㌶β。一①αq。ヨ︶が遂行されなけれぽならない。すなわち、裁判官はそうした規定を
ないであろう。私見では、こうした憲法や実定法内在的な法原理に反するような規定については、いわゆる﹁法規に
︵17︶
無視し、憲法との体系的整合性の観点から﹁憲法適合的解釈﹂︵︿2貯誘ロ昌σq降o厳o﹃ヨ①﹀島♂σQきσq︶を遂行しなけれ
ばならないことになる。したがって、爆発物取締罰則六条についていえぽ、犯罪目的の存在が合理的な疑いをいれな
い程度に立証されない限りは、こうした﹁法規に反した法発見﹂を通じて被告人に無罪判決が下されなければならな
いであろう。責任推定を内容とするこの規定は、現代の法治国家の観点からすれぽ、まさに時代錯誤的な規定の典型
例ともいうべきものであろう。
次に、具体的に検討すべき規定として、例えば児童福祉法六〇条三項と労働基準法一二一条一項とが挙げられる。
児童福祉法はその六〇条三項において、三四条一項の禁止行為に関し児童を使用する者は児童の年令を知らなかっ
たとしても処罰を免れないが、但し﹁過失のないときは﹂この者を処罰しないと規定している。また、労働基準法は
一刑事手続における法律上の推定と表見証明一
79
その一二一条一項において、事業主のために行為した代理人、使用者その他の従業者が労働者に関する事項について
違反行為があった場合につき、事業主をも処罰する旨を定め、いわゆる両罰規定を認めているが、事業主が﹁違反の
防止に必要な措置をした場合﹂には処罰しないと規定している。
だがこれらの規定は、刑法三八条一項担書に対応するものであり、過失行為を処罰する趣旨を明らかにするもので
あって、さらに﹁過失推定﹂︵胃g・①ω¢ヨま。三窓①︶の意味における責任推定や被告人への客観的証明責任の転換をも
内容とするものとして理解されてはならない。これらの規定においては、爆発物取締罰則の規定のように﹁証明スル
コト能ハサル時ハ﹂といった類の表現が使用されているわけではなく、したがって文理解釈上もそれは単に過失犯を
も処罰する趣旨を規定したものとして理解されることが自然であろうし、また法治国家的原理からも当然にそのよう
に解釈されなけれぽならない。
ところで、先にも指摘したように我が国の通説・判例は、この労働基準法=二条一項の規定をも含めていわゆる
両罰規定一般に関して過失推定としての責任推定を認めている。最高裁は、旧入場税法違反被告事件判決︵最大判昭
三二年一一月二七日刑集一一巻一二号三一一三頁︶において、旧入場税法一七条の三の両罰規定に関して、これは事
業主として従業員らの選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽くさなかった過失の存在を推定し
た規定であって、その注意を尽くしたことの証明がない限り、事業主も刑責を免れ得ないとする法意を表すものであ
︵18︶
ると判示して、従来の無過失責任説を改め、﹁過失推定説﹂を採る旨を明らかにした。多くの論老も、﹁無過失責任
説﹂に立・ていた大審院の判例髭較して少なくとも形式的には責任主義に依拠したこの判例を肯定的に評価遍・
しかしながら、実体法上の問題として過失︵責任︶がなければ処罰し得ないとする責任主義が堅持されたとして
も、その過失が法律上推定され、事業主︵被告人︶において無過失を証明しない限り処罰されるとするならば、まさ
叢
80
に真偽不明であっても被告人は処罰されることになり、それはく疑わしきは被告人の利益にVの原則に明らかに反す
ることになるであろう。その上、過失︵責任︶が確実に証明されずに被告人を処罰するならぽ、責任主義は実質的に
は貫徹されず、骨抜きにされることになるであろう︵なお、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則が、単なる責任主
義の訴訟的背面ではないことについては後述されることになる︶。むろん単なる行政的な取締目的は、そうした法治
国家的原理を後退させる理由とはなり得ない。
︵20︶
そこで、最近になってようやく学説においても、法治国家的問題性が意識され、こうした推定を認めない﹁純過失
説﹂の展開を促すような状況が成立するようになった。また、被告人に客観的証明責任を課すのではなく、単なる
﹁証拠提出の責任﹂を課すものとして両罰規定を理解することによって推定の意味を弱める方途を採用する論者も現
いずれにせよこうして、いわゆる法律上の﹁責任推定﹂なるものは我が国の現行法においても決して正統化され得
えるべきであろう。
べきであり、被告人は裁判官の心証を覆す必要が生じた場合において初め反証提出の責任を負担することになると考
罰規定の場合においても、通常のケースと同様に、客観的証明責任を負担する訴追者が先ず証拠提出の責任を果たす
的な理由は認められないといえよう︵爆発物取締罰則の推定規定についても同様のことが妥当する︶。したがって両
認めることは困難なように思われる。その限りにおいて、証拠を提出する責任を先ず被告人に課すべきだとする説得
為を犯せば、通常その選任・監督につき過失が認められるといった経験上合理的な関係性︵経験則︶の存在をそこに
の困難を解消するという政策的な理由は認められないこともないが、事業主が従業員を選任し、その従業員が違反行
だが、この証拠提出の責任を被告人に課すべしとする見解にも説得的な理由が認められるであろうか。確かに証明
勉・
論
律
法
刑事手続における法律上の推定と表見証明
81
ないということが改めて確認されることになる。
③ 証明責任規範としてのく疑わしきは被告人の利益にVの原則
被告人に不利益な反駁を許す法律上の推定が、法治国家的原理と矛盾するものだとしても、それでは具体的にいか
なる原理と矛盾するのかということは、まず第一に、この推定規定の法的性格をいかに捉えるかということにかかっ
ているし、第二に、法治国家的原理の法的意味をどのように理解するかに依存することになるであろう。
先ず、第一の点から取り上げよう。反駁を許す法律上の推定は、一般に︵ドイツの︶刑事訴訟では法定の﹁証拠規
則﹂︵ゆ①≦①圃ωおαq①一︶を内容とするものとして捉えられているのに対し、民事訴訟では証明責任を転換するもの、すな
わち﹁証明責任規則﹂︵切Φ≦①一゜。一四ω#①σqΦ一︶として理解されている。具体的にどのような違いがあるかというと、反駁
を許す法律上の推定を法定の証拠規則として捉える場合には、裁判官の自由な証拠評価ないしは確信に基づかずに法
律上の指示にしたがって重要な事実が認定されることになる。これに対して、それを証明責任規則・規範として理解
する場合には、事実認定が不可能な場合に、すなわちノン・リケットの場合に初めて推定規定は介在することになる
のである。そこで﹁証拠規則説﹂によれぽ、反駁を許す法律上の推定は自由心証主義を制約するものとして理解され
ることになるであろうし、﹁証明責任規則説﹂に従えば、それは疑いがあるにも拘らず証明責任規則によって被告人
に不利益な判決を下すものとして理解され、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に違反することになるであ孤53。
私見によれぽ、反駁を許す法律上の推定は事実認定に関する証拠規則でもないし、単純な︵無条件的な︶証明責任
規則でもない。反駁を許す法律上の推定においては、推定事実が直接証明されず、またその反対事実も証明されない
場合、すなわちノン・リケットの場合に、一定の推定の基礎︵前提事実︶の証明を条件として推定事実があたかも存
叢
82
論
律
法
在するかのごとく扱われるものである。このようにそれは、ノン・リケット︵事実認定の不能︶が前提になる限りに
おいては事実認定に関する証拠規則ではあり得ないということになるし、他方ノン・リケットの場合に無条件的に客
観的証明責任が分配されるわけではないので単純な証明責任規則でもない。結局、それは条件付の証明責任規則とし
て理解されることになる。つまり、反駁を許す法律上の推定の効果は、﹁推定事実につき真偽不明であること﹂のほ
︵23︶
かに﹁前提事実につき証明あること﹂を要件として生じるものであるから、そこにおいては前提事実の証明を条件と
する証明責任規則が設定されているということになるであろう。
以上のように反駁を許す法律上の推定が﹁条件付の証明責任規則﹂であるとすると、それは︿疑わしきは被告人の
利益に﹀の原則に反しないかが問題となるであろう。そこで次に、この原則の法的性格につき検討することが必要と
されることになる。
刑事手続における法治国家的原理として最も重要な︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則は、一般にノン・リケッ
トの状態に対処する﹁裁判規範﹂ないし﹁証明責任規則﹂として理解されているが、これを自由心証主義の例外をな
す﹁証拠規則﹂として捉える見解も主張されている。﹁証拠規則説﹂は被告人にとって利益となる方向において事実
︵%︶
認定すべしということをこの原則の内容とするものであるが、事実の認定につき疑いが生じているのに、すなわち事
︵25︶
実が認定不能であるのに、当該事実を法原則に従って認定するというのは論理的には矛盾に陥るものであろう。
さらにく疑わしきは被告人の利益にVの原則は、裁判規範ではなく実体法に、しかも刑法典の個々の規定に帰属す
るものだとする見解も主張されている。
︵%︶
例えば、ザルシュテットとブライは、︿人を殺したる者は⋮Vという刑罰法規は被告人が殺人を犯したか否かにつ
き疑いがある場合にはこの者に妥当しないものである、と主張する。つまり、殺人行為が証明された者についてのみ
惇手続における法律上の推定と表見証明
83
この規定は妥当することになるのである。換言すれば、殺人罪の規定は人を殺した者につき適用されるのではなく、
裁判官の確信によれぽ当該構成要件を実現した者につき適用されるものだ、ということになる。そこでこうした見解
によれぽ、要件事実の存在が真偽不明の場合には、いわゆる﹁法規不適用の原則﹂が妥当し、当該法規は当然に適用
されないのであり、﹁裁判規範﹂︵国茸ω。冨匡盲σqω8N日︶としての﹁証明責任規範﹂︵ゆ①ミΦ一ω一£。°・言o同目︶は不要なもの
となるのである。
しかし、こうした証明問題を実体刑法の規定の内容に含めてしまう見解は、実体法上の問題と手続法上の問題とを
混同するものであろう。・の点につきエ⋮グラウルは次のような批判を提出して馳・すなわ摂実体刑法は・
可罰性という法律効果を一定の行動という事実に結びつけているのであって、訴訟におけるその証明に結びつけてい
るのではない。このことは民法においては自明である。ドイッ民法四三三条によれば、二人の者が売買契約を締結し
た場合には、訴訟が行われるか否かに関係なく、当事者相互に商品の引き渡し義務と代金弁済義務とがそれぞれ成立
することになる。確かに刑法では刑罰効果は訴訟においてだけ実現され、実体刑法と手続刑法とが密接に結びついて
はいるが、法律要件に結びつけられる可罰性という法律効果と訴訟におけるそうした法律効果指示の貫徹もしくは実
現とを区別することは可能であり、必要でもある。さもないと実体刑法と刑事訴訟法との二元論を否定し、一元的な
法律観を主張して実体刑法と形式刑法とを不可分の統一体と看倣さなけれぽならないことになるであろう。しかし論
者もそこまで主張するものではない。だとすれば実体法は事実の存在に結びつくのであって、訴訟におけるその証明
に結びつくのではない。そこで、事実が不明の場合には法律効果の成立・不成立も不明となるため、実体規範のほか
に特別の裁判規範︵これが広義の実体法に帰属するか訴訟法に帰属するかは別にして︶が必要とされることになるの
である、と。
︵28︶
律
84
さらに、次のような批判が可能であろう。確かに要件事実が証明されなけれぽ負責的な法命題︵体系構成要件︶は
肯定的に適用されない。しかし、要件事実の存在が疑わしい場合には必然的にその不適用ということが帰結されるわ
けではない。例えぽ正当防衛規定のような免責的法命題においては、争点となっている要件事実の存在が疑わしいと
きはむしろ当該法規は適用されることになるのである。ある法命題はその要件事実の存在が疑わしいときは適用され
ず、他の法命題はその要件事実の存在が疑わしいときは適用されるのであれぽ、真偽不明の場合に当該法命題を適用
するか否かに関する特別の裁判規範・法適用法たる規範としての﹁証明責任規範﹂が必要とされることになるであろ
塑いわゆる﹁法規不適用の原則﹂はその限りにおいて妥当ではない・
く被告人の不利益にV︵OO昌什㎏鋤 H①口昌ρ︶作用することになってしまう、というのである。
被告人の利益に﹀の原則を引き合いに出すと、裁判所は判決で嫌疑を確定することになり、そのことは結果として
によって根拠づけられることになる、とモンテンブルックは考えるのである。また、裁判規範としての︿疑わしきは
ないという権利を有するのであって、そのことはボン基本法一〇三条二項︵法律による留保の原則、罪刑法定主義︶
い渡すものである。しかしながら、被告人は単に法律に規定された処罰の要件が存在しない場合には有罪判決を受け
続の残骸の中にその社会心理的背景を有するものであって、疑わしいときに被告人に対する恩恵として無罪判決を言
は被告人の利益に﹀の呪文はそもそも無用で有害なものだと断定する。すなわち、この通俗的な格言は糾問主義的手
する法原理としての価値を喪失することになるであろう。
︵30︶
この点においてアクセル・モソテンブルックの見解も同様に不当なものである。モンテンブルックは、︿疑わしき
する立法者の価値決定は無条件的に正統化されてしまうことになり、したがってこの原則は立法者の価値決定に優越
その上、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則の根拠を個々の刑罰法規の規定の中に求めるならば、この原則に反
叢一
論
法
1事手続における法律上の推定と表見証明
85
だがまず第一に、刑事訴訟においてもノン・リケットという事態が成立し得ることは無視し得ないし、そうした事
態を法律による留保の原則ないしは罪刑法定主義が処理し得るかは極めて疑わしいものである。というのは、刑罰法
規は明確に規定されていなけれぽならないし、﹁可能な語義﹂︵ヨασqま冨円≦o詳ω一目︶を超える類推は禁止されると
いった原則は、事実認定に関して疑いがある場合にこれをいかに処理すべきかということについて何も言明するもの
ではないからである。それどころか通説的見解によれば、法律解釈については疑いがあっても、すなわち一定の事案
が刑罰法規の文言の﹁可能な語義﹂の範囲内にとどまる場合には、法政策的な当否は別として当該刑罰法規は適用さ
れてもよいのである。例えば、拳銃が凶器準備集合罪の意味における凶器に当たるか否かについては、その適用可能
性につき確実性が認められる︵拳銃は凶器概念のプロトタイプであり、その﹁意味の核心﹂切巴①口ε昌σq降①ヨに帰属
する︶が、これに対して角材あるいは鉄パイプについては疑いが生じ得るものである。しかしながら、角材や鉄パイ
プは凶器概念に確実に配属されない対象︵適用可能性につき否定的確実性を有する対象︶でもない。すなわち、これ
らの対象は凶器概念の﹁意味の周縁﹂︵cd&⑦葺巷αqω8︷︶に帰属するものであり、﹁可能な語義﹂の枠内にとどまるもの
である限りにおいて、これに刑罰法規を適用することは少なくとも類推禁止ないしは罪刑法定主義そのものに反する
ものではないのである︵立法者の目的設定と両立し得るかという問題も残るが、その点は差し当り度外規しておく︶。
︵31︶
つまり、法律解釈に関しては疑わしくとも︵当該事案が﹁意味の周縁﹂に属するものであっても︶被告人に不利益
な方向において刑罰法規は適用されてもよいのであり、ただその適用不可能性につき確実性が認められる場合︵﹁可
能な語義﹂の枠を越える場合︶にのみこれを適用してはならないのであって、それが罪刑法定主義の要請するところ
である。これに対し、事実認定に関しては無罪が確実である場合のみならず、疑わしいときも被告人に不利益な刑罰
法規が適用されてはならないのであり、これがく疑わしきは被告人の利益にVの原則の内容である。だとすれぽ、す
律
法
86
叢
論
なわち一方は疑わしきときは法規の適用を認め、他方は認めないのであれぽ、後者を前者の中に還元することはでき
ないであろう。それらはいずれも確かに法治国家的原理であるという点においては共通性を有するが、別個の原則と
して捉えられるべきものであろう。
第二に、ノン・リケットによる無罪を認めると嫌疑が残っていることが確定され、それは︿被告人に不利益に﹀作
用することになるとするモンテンブルックの指摘は確かに重要ではあるが、こうした事態の成立を専らく疑わしきは
被告人の利益にVの原則の責めに帰するのは、全くのお門違いである。なるほどノン・リケットの故に、したがって
疑いが残っているのに無罪なのだということを裁判官が判決において強調するようなことは好ましいことではない
が、疑いが残る事案が現実に成立するということは何も︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則の故に生じることでは
ないし、この原則は判決においてノソ・リケットの故に無罪なのだと明示することまで裁判官に要求するものでもな
い。また、刑事手続においては犯罪事実につき証明度に達したか否かということだけが重大な関心事なのであって、
無罪の事実につき積極的に証明することはそもそも不要なのであるから、ノン・リケットによる無罪は法制度上も完
︵32︶
全なる無罪にほかならない。
ともあれ以上の探究に基づき、いわゆる﹁責任推定﹂は﹁証明責任規範﹂としての︿疑わしきは被告人の利益に﹀
の原則に反するものであるということが改めて確定される。
︵2︶ <σqドミ§譜さ一︶δご℃茜①ωq目ユo匹o冒、、一ヨω昏臥話oゲρ閏窃房oげ﹁罵什凄H国げ①Hぴ巴住ωoゲヨ圃伍件剛HO①ドψ㎝刈o。即︵ヘンケ
︵1︶ ︿σqピOミミヒ﹀げω#p聾①O⑦︷似腎山自αq巴①﹃ζΦ彗餌℃感・・ロヨニ8窪一白ω#織お。窪噂9卜。お38刈中
Oこ富噂9①匿σqoヨ①冒Φ<oHω簿N︿震日9巨σqげ9閃①爲震冨。買N曽≦刈。。︵HOO①︶嫡ψ㎝り中
ルの論文については、鈴木茂嗣﹁紹介・ヘンケル︿刑法における故意の推定﹀﹂法学論叢七〇巻二号一四一頁以下がある。︶⋮
「
刑事手続における法律上の推定と表見証明
一
87
︵3︶ <αqピミ帖ミ黛蕊§、↓、o鼠§、U臼く霞日三⑦8<o屋舞N冒㈱悼OOωけObd・Z一≦Hり認・ω・G。①①︷・なお、スイス刑法一四四条
昌節oゲ毛①δ⊆昌伍ヨ簿Φ臨①=窃Gαけ冨h話o﹃計HOo。9ψHωり中゜脚↓、鳴q隷怨さω07≦①圃N①ユωoゲoωQo自昧σq①゜・o訂げ自o﹃ちc。⑩殉ω゜念刈融゜
については、⑦きSミ導bN霞目冨σq≦包侍⑦匹①ωO歪昌島碧N①。・山臼d諺oず三匹ω︿興ヨ¢ε昌αq鴇Hり刈○。℃QQ°軽頃゜⋮§恥赴<o閉⇔言−
を参照。
︵4︶ 映゜、ミミFQり#臥胃oN①ζ⊃噂紳﹀島゜HりΦ9ω幽Hザ謹Oh°ペータースは、二五九条の規定はく疑わしきは被告人の利益にV
の原則の例外規定だとしているが、刑事訴訟では証明責任の分配の余地はなく、この原則も疑わしいときは被告人の利益に
事実を認定すべき証拠規則として捉えているため、この規定を証明責任を転換させるものとして理解しているのではない。
ω讐N⑦ロ。℃2臼ぐ﹃HO㎝トω.目刈軽①h二﹀昌日゜卜QO°
この点においてボッケルマンは、ペータースの見解を誤解している。︿α9ド切o簿ミ§§§U2Z鴛ゲ≦①︻ω鎚霧国。三霞<o昏
︵5︶b口8ぎ§§§餌﹄°○こH8心”ωのH謹α中゜
︵6︶切8書§§§ppO°”ω﹂謹゜。°
︵7︶き隷鼻U窃∪2ぎ冨ω霞pマ①゜ぎピ﹀島口リミ”ω.ド゜。ト
︵8︶ き隷ミ悔∪霧∪①β訂oゲ①ωけH鑑おoケ計二゜﹀口由こHO①O切oり゜ω⑩Q◎°
︵10︶ シュレーダーの見解に対する批判として、Oミミ、﹀げ゜・#餌聾①O①観﹃H山旨σQ巴。=犀8⊆口匙℃鼠。。ニヨユ8窪一ヨQQ#鋒話。罫℃
︵9︶即曽ミミミ輸N霞N巳似凱αqざ詳σ。①゜。①けNぎ冨㎏ゆ睾。剛ω話σQ。ぎ一日。。霞聾①。夏呂乏H8Pω゜H8G。中゜
︵11︶き蕊譜、㌧⇔﹄°Oこω゜ミOQ中゜
oり゜ωO°。 中 を 参 照 。
︵12︶ 鴫゜映§ミ匙§§ω霞鋒磐ω宮坦゜7QQ霞鉱ζoσq話゜ゲ計目り①゜。℃ω’H①軽中さらにカウフマンは、第三の可能性についても論じ
ている。すなわち、二五九条は反駁の余地なぎ﹁擬制﹂を含んでいるという可能性である。そうだとするとそれは、形式法
︵13︶肉貯§隷§象ミ\さ憲きω賃ロな8N①ζQoa口口口σq’心9>直山゜H8ジQD°8ω゜
上の制度である証拠規則ではなく、実体法上の命題ということになる、と指摘する。歳゜映§ミ黛§堕騨9°O二ω゜H①刈゜
︵14︶O、蟄ミ㌧9﹄°ρψ卜∂c。Φ中
︵15︶ ヴァイダーも、﹁故意推定なるものは現代の刑法の本質とはもはや両立し得るものではない﹂と断言している。 ミ斜ミミ踊
∪冨切巴①ロ嘗口σq匹①N冒器゜・¢日臨o畠o=凄同虫①QQ#餌ヰ①o窪の①三鼠o匡¢鵠σq冒∪窪一ω〇三睾儀讐匂億ωHり認噛ω゜○。Oり゜
88
叢一
論
律
法
︵16︶ 寄恥、㌧Po°O二ω゜置も。°
︵17︶ ﹁法規に反した法発見﹂の観念については、増田﹁法発見論と類推禁止の原則1﹃可能な語義﹄の公式をめぐって﹂法律
論叢五〇巻一・二合併号︵一九八〇年︶七頁以下のほか、≧鳴§ミ隔Uδ勾①。窪ωmP含昌αq8巨鍵一。αq⑦登Hり㊤N¢H。。笛卑
を参照。﹁法規に反した法発見﹂の適例として、刑法二〇〇条を憲法一四条一項に反して無効とした最高裁判例︵最大判昭
四八.四.四刑集二七巻三号二六五頁︶を挙げることができる。すなわち、最高裁は憲法に依拠して︵合憲的解釈に基づ
き︶、まさに﹁法規︵刑法二〇〇条︶に反した法発見﹂を遂行したのである。むろんこの判例における違憲性の理由付けに
ついては解釈論的には問題があるものの、法理論的には刑罰法規に関して﹁法規に反した法発見﹂が遂行されたという点が
︵18︶ 両罰規定に関する一連の判例については、金澤文雄﹃総合判例研究叢書︵一七︶﹄︵一九六二年︶四五頁以下、田中利幸
注目される。
﹁企業体の刑事責任﹂判例刑法研究1︵一九八〇年︶一七五頁以下参照。
︵19︶ 過失推定説を採る者として、例えば美濃部達吉﹃行政刑法概論﹄︵一九四九年︶二八頁以下、福田平﹃注釈刑法ω﹄︵一九
六四年︶六〇頁以下、同﹃行政刑法︵新版︶﹄︵一九七八年︶七三頁、大塚仁﹃刑法概説︵総論︶﹄︵一九七五年︶=八頁、
︵20︶ 純過失説を採る者として、木村亀二︵阿部純二増補︶﹃刑法総論﹄︵一九七八年︶一四八頁、神山敏雄﹁両罰規定と業務主
大谷実﹃刑法講義総論﹄︵一九八九年︶一二三頁、野村稔﹃刑法総論﹄︵一九九〇年︶九二頁参照。
の刑事責任﹂法学セ、ミナー二二七号︵一九七四年︶八五頁、村井敏邦﹁過失推定説﹂刑法判例百選−総論︿第三版﹀︵一九
九一年︶一一頁などを参照。木村亀二は、両罰規定においては、不作為犯が予定されており、しかも過失犯のみならず故意
定と理解している。金澤文雄、前掲書、六五頁以下、六九頁参照。これに対し神山は、両罰規定においては過失不作為犯の
犯もこれに含まれるとしている。金澤文雄も、こうした不作為犯説を採っているが、免責担書きにつきこれを一種の推定規
みが前提とされているとする。なお、戦前においてすでに純過失説を主張していた者として、飯塚敏雄﹁従業員の価格違反
︵21︶ 長岡龍﹁﹁両罰規定に関する一考察﹂東北学院大学論集︵法律学︶八・九合併号︵一九七六年︶五四頁、伊東研祐﹁法人
と事業主の責任﹂日本法学九巻二号︵一九四三年︶四三二頁以下参照。
の刑事責任﹂刑法理論の現代的展開総論H︵一九九〇年︶=↓四頁、光藤景咬﹃口述刑事訴訟法中﹄︵一九九二年︶一二九
頁。平野龍一は、児童福祉法六〇条三項の担書きにつき、証拠提出の責任を認めたものと主張している。平野龍一﹃刑事訴
訟法﹄︵一九五八年︶一八七頁参照。また三井誠は﹁過失推定とはいえ被告人側には一応の証拠提出責任の程度にとどめる
[
刑事手続における法律上の推定と表見証明
89
など訴訟法的手立てを考えるか、さもなくば純過失説の方向で考えるのが妥当であると思う﹂と述べている。三井誠﹁法人
処罰における法人の行為と過失﹂刑法雑誌二三巻一・二号︵一九七九年︶一五一頁。田中利幸も﹁推定説が妥当なように思
われる。合理的な疑いをいだかせるに足りる反証がなされれば、推定は覆ると解すべきであろう﹂と述べているが、 これ
は、業務主に客観的証明責任ではなく、証拠提出の責任を課す趣旨であろう。田中、前掲書、一九六頁。鈴木茂嗣も、基本
的には両罰規定をせいぜい業務主に証拠提出責任を課するものとして理解しようとしてはいるが、一律に扱うことに反対し
ている。そこで例えぽ、両罰規定に﹁業務主が従業員の違反行為を防止するための注意を尽くしたことの証明があったとき
は、これを罰しない﹂といったような担書きがある場合には、客観的証明責任の転換規定とみるべきであるが、﹁事業主が
阻却事由とされているに過ぎない、と主張している。鈴木茂嗣﹃刑事訴訟法﹄︵一九八〇年︶一八〇頁、同﹃刑事訴訟法の
違反行為の防止に必要な措置をした場合には、これを罰しない﹂といった担書きがある場合には、単に過失の不存在が犯罪
基本問題﹄︵一九八八年︶一九五頁以下参照。しかし﹁注意を尽くしたことの証明があったときは、これを罰しない﹂とい
った担書きがある場合でも、事業主に客観的証明責任を課すのは、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に反し、憲法に違
反することになるから、そこにおいてはいわゆる﹁憲法適合的解釈﹂を通じて﹁法規に反した法発見﹂が遂行されるべきで
︵22︶ <σq炉O、亀ミ、ー−6°O二Go°留o。中二ωミ即
あり、業務主に客観的証明責任を転換するような帰結は否定されなければならない。
︵23︶︿αQr9ミ鳴ミ⊆①﹀臣惹同ざ轟魯匹①同巨冨話。窯巴一8ぽ口ゆ睾。互器ニヨω8信①霞①゜窪゜巳巨ω冨マ①゜7ジHΦ゜。ρ
︵24︶ 例えば、映゜℃ミミ恥地QD爲畦冒oN①やF>口ゆこ目り○。9ψ鱒o。刈h⋮寅゜映黛ミ誉織§き即POこ¢H①①hを参照。
Qo・畠∴卜無慧ミ匂切o≦①一゜・一9ω辞①σq①ぎ仁匿σq①ωo什昌島①<霞ヨ葺巨σq①pQり゜りト。︷°
︵25︶<σqrヨ⑦き§﹄ロ含窪。胃。話ρ9①菊Φ。窪ω惹。包5σq①p餌①ωN幕蕾﹃冒ユ⑦9ω゜ゲ゜昌QDgh冒゜N①ζ。”望ω゜。°同什巴゜口
じdo口p這OPψHα塗⋮ミ、ミ亀、ミミF窪含窪o胃o話op尻αQ①=o巳①﹁菊①゜窪ωω巽N号ωヨ巽①ユ①=窪島窪房゜ゲ窪
ω旨臥器。年。。”望ωω⑦ユ仁。一〇ロ区α旦H8ωQD°①ゑ∴O踏ミミきく。旨二⑦=琶σq窪一日QD什鑓な﹁oN①ゆ霞ogω暮゜・βヨニgω﹁①♂<雪酔曾
毛9げ旨g曇①=最σqN乱ω。冨口﹀。穿辱彗αq。・℃白。犀ロa切①芝①密窪①耳自σq≦①﹃qgCp①臣゜窪゜算①ぎHO°。心噛ψ悼゜。中∴
↓ゆ畠帥。ゲ魯N≦①凹h①rHミ9ψω。。甲﹃§簿曹§9・毛螢聞巨8議什①=巨αqぎQD鉾p甘8N①こ。圃Hり゜。9ψHH卜⊃r切ミき
Oミミ・麟Pρ・ψ卜。①O中∴中⑦き§ミ、Uδ誌島け臼=。ゲ。ゆ①≦①剛ω毛鏑象σq¢昌σq葺ω霞駄冒oNΦζ。”Hりり妙ψ時O°。h但しハラ
ルド.ペータースは、この原則を証明責任規則として理解することにも反対している。これは刑事手続においては証明責任
叢
90
「
論
律
法
一
という観念を認めることはできないとする前提に立っているからである。そこでハラルド・ペータースはこの原則を疑わし
ρ”ψαω中”①も。中ヴォルフガンク.ブリッシュも、この原則はノン・リケットの状況に対処すべき民事訴訟における証
いときに被告人の利益に判決すべきことを裁判官に命ずる法適用法たる規範として理解する。︿σqピミミミ、ミミ鉾P鉾
いない。 ミ一、識恕画Nq日芝島①口匹霧〇三巳ω象N霧冒匹口げδ胃o巴⑦ρ国①゜・梓ωoゲユ蹄旨居即工o昌押①㌍目O置”HO漣導ψ
明責任規則に対応する﹁法適用法たる規範﹂であり裁判規範であると主張しているが、証明責任規則そのものだとはいって
年︶六三頁脚注一九参照。
卜。°。H中増田﹁刑事手続における裁判官の確信と証明度−相互主観説への助走1﹂法律論叢六四巻五・六合併号︵一九九二
︵26︶⑦ミ無ミ、\鴫騎ミ葺望①カ①︿巨。ロ一ヨQD什B︷°。p3ΦP9>島゜MH㊤゜。G。℃ψ卜。り①取∴しσミ㌧宣島口⊆°胃゜H①9璃>HO鋼ψ
卜。HNを参照。またザルシュテットとブライの見解に対する批判として、Oミミ、°。﹄’ρ堵QD.b。刈ω即を参照。なお、ザルシ
ュテットは、別稿では、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則は事実認定に関する︵法定の︶証拠規則ではないが、裁判官
る、と述べている。⑦ミ無ミさじdo毛①一゜・冨σq①一昌一日ω霞鉱胃oN①こ。”言鱒卜謙織ミ旨§\⑦自罫︵=屋叩Yω①ヨヨ胃”﹀ぴ≦①厨oげ①巳o。・
が一定の事実につき確信に至らなかった場合に法的にいかに判決しなければならないかを彼に指令する実体法の命題であ
︵27︶ O、黛ミbPPO二ω゜ミ①塗
<碧訂7①口目冒①αq窃①=°・ぴ鋤三即o冨幻①算二〇ロ窪︷区同一日一富一津節しu阜卜⊃℃HOミ矯ω゜漣O︷°
︵28︶ 裁判規範としての証明責任規範が訴訟法あるいは実体法のいずれに帰属するかについては争われている。通説は、証明責
ルトは、そもそも一義的な帰属は不可能だと主張する。<σqピトQ愚ミ9ρ。’勲Oこψ鳶庸.甲℃ミミ§㍗O①αq窪看費訂勺Ho−
任規範が実体法に帰属するか訴訟法に帰属するかは、それが関わる法規範の法的性格に依存するとする。これに対しライボ
三①ヨ①ユ①﹃じd°≦臨。。一器計ψH胡中脚9映、竃§P勲○二ψ繍円を参照。グラウルは、これを広義の実体法に帰属せし
︵29︶ ︿疑わしぎは被告人の利益に﹀の原則を証明責任規範ないしは証明責任規則として理解する論者として、肉.ミ訂ミ℃冒
めるかそれとも訴訟法規範として捉えるかにつきその態度を未決定のままにしている。Oミミ、P押ρ”ψ邸。。P
含げ一〇胃o話9︼︶同。σq①ω卑一。ゲ島。冨国暮三。巴巨σq窪一。i■窃Qo舞N窃§匹ω①ぎ①bd①伍①g毒σq冒ず2ユσq①口α〇三ω昏窪9鑓蹄①゜算
冒の。。臼$江8ζ自98Hり。。ρρ①。。擦きミ鱗冒忌ぴ一〇〇8器9=⑦時琶津ロ巳O①マq昌σq①ぎ霧巨σq①゜。°聞一①び窪①昌
O遷巳ωp§三ヨω9才①§ぎP穿゜・①器二。昌謬げ冨①ロ謹9ω゜①勢ヨ⑦らミ§窓゜9ω゜Hごト§ミ、勲p
Oこ¢嵩O庸∴くミ画国含げ団oO同o話o口民≧一三げ①≦①剛。。由Ω国ω汁卜。9悼゜。9冒ωHり謡矯ψ悼心♂“ミ恥こω島O曹①卜。
1事手続における法律上の推定と表見証明
91
︵30︶ ミqミ§町§鯉ぎ忌三〇づHo﹁8匿゜・ぎN日昏8冨詳゜冨びω珪臥廷巳ω窪鉱くΦ目討年窪巽①。窪一一92Q。一。葺℃H㊤゜。9ψ①H中
︵Nρヨ≧筐げ①婁。一ωソZo。園巳゜。ω噛ω゜誌G。甲9肉、無§ppOこω.卜。ω甲O、§卵p⇔°○こω冒いお円を参照Q
︵一九八九年︶一〇五頁以下、同﹁刑事訴訟における法適用原理としてのぎ含匪o冒oおo原則の意義﹂ 一橋論叢一〇四
ドイツの学説、特にモンテソブルックの見解については、内山安夫冒p窪信ぽo質o話o原則の本質﹂一橋研究=二巻四号
︵31︶ 類推禁止の原則及び﹁可能な語義﹂の公式については、増田﹁法発見論と類推禁止の原則1﹃可能な語義﹄の公式をめぐ
巻一号︵一九九〇年︶四一頁以下参照。内山はとりわけモソテンブルックの見解に肯定的な評価を与えている。
︵32︶ その上、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則は複合的な法原則であり、ノン・リケット︵認定不能︶の場合における証
って﹂一頁以下参照。
て、すなわち証拠評価のレベルにおいては合理的な疑いをいれない程度の心証を要求するものとしても作用することになる
明責任規範としてだけ機能するのではなく、それ以前の段階において有罪判決に関して高度の証明度を要求するものとし
と考えられる。したがって合理的な疑いが残れば証明度の問題として有罪﹁認定﹂はなされてはならないのであり、たまた
ま裁判官が無実を確信するようなことがない限りにおいては﹁認定不能﹂に至ることになる。それ故、高度の証明度が要求
れぽならないであろう。
される刑事手続においては、ノン・リケットの範囲は大きなものとなり、ノン・リケットであれば完全なる無罪と考えなけ
齟鰹ロ的危険犯における﹁危険推定﹂
夢Φo﹃凶①︶と呼ぼれる見解と﹁危険推定説﹂︵○Φ註町七感讐日ユo窃子①o同包あるいは﹁抽象的危険説﹂︵日げ8ユ①号同
︵1︶
9ぴ゜・↓冨宥80⑦融穿︶と称される見解とに大別され得るものである。
についての学説は、コ般的危険説﹂︵↓冨oユ⑦α臼σqΦ⇔9Φ=Φ昌O⑦ず訂︶あるいは﹁危険動機説﹂︵O①冨冨・ζo銘ギ
いわゆる抽象的危険犯については、久しい以前からその理論的性格をめぐって激しい論争が闘わされてきた。それ
一一
叢
92
論
律
法
先ず、今日の通説と目される﹁一般的危険説﹂︵危険動機説︶によれぽ、抽象的危険犯においては︿経験上定型的
に危険な行為﹀が禁止されているのであり、具体的な危険結果ないしは行為の具体的危険性は単なる立法老の規範定
︵2︶
立上の﹁動機﹂に過ぎないということになる。すなわち、そこにおいては定型的な危険性は個別行為の性質ではな
︵3︶
く、大量観察に基づく一定の行為群の属性と看倣されることになるのである。したがってこの見解に従うならぽ、個
別事案における具体的危険ないしは具体的危険性の成立は、抽象的危険犯の処罰にとっては全く不要であるというこ
とになる。
一方、﹁危険推定説﹂︵抽象的危険説︶は、抽象的に危険な行為と具体的な危険︵性︶とを証明問題・推定問題によ
って結びつけようとする見解である。すなわち、危険推定説によると、抽象的に危険な行為が遂行されるならば、具
体的危険︵性︶の成立が推定されるということになる。さらにこの危険推定説は、その内部においてそうした推定を
﹁反駁を許さない法律上の推定﹂とする見解と﹁反駁を許す法律上の推定﹂とする見解とに二分されることになる。
その上、法律上推定されるのは、行為の属性としての具体的危険性︵個別事案における行為の危険性︶だけである
か、それとも結果としての具体的危険︵危険結果︶も推定されるのかという問題も生じるし、また具体的危険に故意
︵または過失︶が及ぶことを必要とするか、さらにその故意︵または過失︶も推定されることになるかといった問題
も提起されることになる。
︵4︶
ここでは以下において、むろん抽象的危険犯の理論的性格についても考察を試みることになるが、刑事手続におけ
る推定問題というより一般的な視点から抽象的危険犯における﹁危険推定﹂の問題性について主題的に検討してみた
い。
刑事手続における法律上の推定と表見証明
93
ω 反駁を許さない危険推定の問題性
抽象的危険犯における危険を推定ないし擬制されたものとみる見解は、古くから主張されていたものであるが、代
表的な論者として、例えばM・E・マイヤーやハンス・ヘソケルを挙げることができる。
︵5︶
先ずM.E・マイヤーによると、抽象的︵一般的︶危険犯においては、原則的に危険な行為が立法者によって記述
され、禁止されてはいるが、実際には危険でなかったとしてもその行為は例外なく可罰的なものとなる。というの
またハンス.ヘンケルの場合には、警察不法︵℃O一圃NΦ凶¢昌同①O﹃け︶の領域における抽象的危険犯︵例えぽスピード違
は、危険は立法者によって推定されているからである、ということになる。
︵6︶
反など︶においては、危険は構成要件要素ではなく単なる立法者の動機に過ぎないが、彼が﹁非本来的抽象的危険
犯﹂︵巷①凶αq2島。冨⇔げωg犀辞Φ○Φ︷聾a§αq°・量韓Φ︶と称する刑事犯における抽象的危険犯︵例えばドイツ刑法三〇
六条の重放火罪︶においては、危険は単なる立法者の動機にどどまらず、︿擬制されたV構成要件要素として理解さ
れている。つまり、そこでは立法者の﹁擬制﹂によってあたかも個別事案において具体的危険が存在するものと看倣
されることになるのである。
これらの見解はいずれも、そうした推定ないしは擬制は反駁を許すものではないとする点において共通性を有する
ものである。戦後においてこれらと基本的に同様の方向にある見解を唱える論老としては、先ずアルトゥール・カウ
フマンを挙げることができよう。
︵7︶
ヵウフマンにょれば、抽象的危険犯においては一般的に危険な行動が処罰の根拠になるが、危険自体は構成要件要
素ではなく立法者の動機であって、具体的事案においては法律上推定された危険が全く成立しなくとも犯罪は実現さ
94
叢
ヨA
貢田
律
法
れたことになる。さらにこの場合、旧来の見解に従うならぽ、行為老が自己の行動を危険ではないと思っていても、
そのことは行為者に有利な結果になるわけではなく、その意味において責任も反駁を許さない形で推定され、擬制さ
、兄されてしまうことになる。例、兄ぽ、ドイツ刑法三〇六条︵重放火罪︶の規定においては、人命の危険を認識するこ
とは故意には不要であるということが一般に承認されているが、当該建造物の中に人がいないということを行為者が
確認した場合にも故意犯である重放火罪で彼を処罰しなければならないことになる。だがこれは、明らかに責任主義
に違反することになる、とカウフマンは指摘する。というのは、重放火罪においては、物件の損壊ではなく、人命の
危殆化が決定的な不法要素だからである。そこで、﹁不法と責任との相応の原理﹂︵℃言Nぢ山臼国暮ω胃①筈ロ昌αq︿8
d茸Φ。卸§αω警ロ匡︶によれば、故意はこの危険をも包括していなければならない、ということになる。
だが、こうしたカウフマンの見解は、矛盾に充ちたものである。というのは、危険は構成要件要素ではなく単なる
立法者の動機に過ぎないと主張するならば、それは危険動機説ないしは一般的危険説そのものにほかならないし、ま
たそうであるとすれば、実体法上構成要件要素ではない危険はそもそも推定される必要はないはずであろう。もっと
もカウフマンによると、危険は構成要件要素ではないにも拘らず、決定的な不法要素であるとされ、推定されるとい
うことになるが、そうだとすると危険の実体法上の位置づけが甚だしく不明確なものとなるであろう。
またカウフマンは、︵推定される︶危険についても故意が及ぶべきことを認めないと、故意が推定されることにな
り、したがって故意が実際にはないにも拘らず行為者を故意犯として処罰することになるから、そこには彼のいう
﹁不法と責任との相応の原理﹂の意味における責任主義違反の問題が生じることになる、と指摘している。だが、そ
︵8︶
うした指摘も、グラウルが批判しているように、どうして故意推定としての責任推定だけを問題にし、それに先行す
る危険推定としての不法推定を非難しないのかという点において理論的に不整合なものとなっているように思われ
惇手続における法律上の推定と表見証明
95
る。
カウフマンのほかに反駁を許さない危険推定を認めると思われる論者として、F・Cシュレーダi、ツィープフそ
れにオステンドルフらを挙げることができるだろう。
︵9︶
先ずF.C.シュレーダーは、ドイッ刑法三〇六条︵重放火罪︶以下の放火罪における行動の危険性は立法者によ
って﹁仮定﹂︵d三Φ翼①=量σq︶され、個別的には証明される必要はない、と述べている。もっともこうした主張を無
制限的に貫くならぽ、著しく硬直的な結論を招きかねない。例えば、違法に建設された小屋をその住人の不在中に放
火する場合や、一時的に人が滞在する場所に火を放つ場合に、たとえ事前にその中に住人がいないことを確認したと
しても、ドイツ刑法三〇六条によって行為者は処罰されねぽならないことになってしまう。実際、こうした結論は責
任主義に反するものであるから一定の制約を要するものであるとする見解も有力に主張されている。そこでシュレ!
ダーは、危険につき﹁不注意な行動﹂が認められる場合に抽象的危険犯の可罰性を制限しようとする、E・ホルンや
シューネマンらの見解にも言及するのである。だが彼は、個別事案において危険の存在につき反対事実の証明を許容
︵10︶
するラーブルとホルスト.シュレーダーの見解については行き過ぎであると論評し、結局その代わりに個別事案にお
いて実害が絶対に発生し得ない場合には可罰性の阻却を認めるべきである、と主張するのである。もっとも、危険性
は立法者によって仮定され、個別事案において証明される必要はないという前提と、個別事案において絶対的に危険
性がない場合には可罰性の阻却を認めるべきだとする主張とが両立し得るかは疑問である。
︵11︶
またツィープフは、具体的危険犯と抽象的危険犯との違いを実害発生の蓋然性の大小に求めながら、抽象的危険犯
において危険は構成要件要素である必要はなく、その存在は基本的行為が遂行されることによって﹁仮定﹂︵q葺Φ学
障Φ一一ロ⇒αq︶されることになるから、具体的事案において事実上危険が証明されるか否かに関わりなく行為者は処罰さ
96
叢
論
律
法
れることになる、と主張している。その際ツィープフ︵およびF・C・シュレーダー︶のいう﹁仮定﹂が︿反駁を許
す﹀ものであるか否かについては、明言されてはいないが、﹁仮定﹂︵¢茸興ω博①一一ロ昌αq︶は﹁擬制﹂︵閃涛ユo口︶とほぼ
同意義において使用されることもあり、断定はできないが、そこにおいては︵当該文脈においては︶︿反駁を許さな
︵12︶
いV推定ないし﹁擬制﹂が多分問題にされているのであろう。
︵13︶
さらにオステソドルフの場合にも、抽象的危険犯における定型的な危険状況は立法上の処罰の理由であり、構成要
件においては全く問題にされない。行為老は法益侵害の一般的危険性の故に処罰されるのであって、個別的に危険が
成立するから処罰されるのではない。ただオステンドルフにとって、抽象的危険犯におけるそうした危険は反駁を許
さない形態において推定されている、ということになるのである。
︵14︶
また我が国においても、擬制説がこれまで通説的見解であるとされている。例えば木村亀二は、抽象的危険犯︵抽
象的危殆犯︶につき、﹁刑法第一〇八条のように、特に危険の発生を必要とする旨の規定はないが、構成要件の内容
たる行為をすればそれだけで危険であるとし、危険を単に立法理由とするところの犯罪をいう﹂とし、抽象的危険犯
においては具体的危険犯と異なり、危険について故意を必要としないという点を強調している。木村はそこにおいて
確かに擬制ないし推定といった表現自体を使用してはいないが、﹁構成要件の内容たる行為をすれぽそれだけで危険
がある﹂と述べているのは擬制を認める趣旨であろう。だが他方で、危険は立法理由であるとも述べているため、そ
こにおいては危険擬制説と危険動機説︵一般的危険説︶とが渾然一体となっているように思われる。
︵15︶
また団藤重光は、一方で﹁危険犯はさらに別れて具体的危険犯および抽象的危険犯となる。前者は法益侵害の具体
的な危険の発生を要件とするものであり、後老はその単なる抽象的危険の発生で足りるとするものである﹂と述べ
て、抽象的危険犯においても何らかの危険が現実に発生することを要するものであるかのような趣旨を表明している
1事手続における法律上の推定と表見証明
97
が、他方で抽象的危険犯の典型例として挙げられている﹁第一〇八条の放火罪は、実は、処罰の根拠が公の危険にあ
るだけで、その抽象的危険の発生さえも構成要件の要素になっていない。抽象的危険の発生がつねにあるものと擬制
されているわけである﹂と記しており、危険擬制説を明確に表明している。
これらの主張のうち、ツィープフとオステンドルフそれに団藤が危険は構成要件要素ではないとしながら推定ない
し仮定︵擬制︶されるとしている点については、先にカウフマンの見解に対して加えられた批判がそのまま妥当す
る。ともあれ、反駁を許さない危険推定なる観念を認め、その際実体法上は本来処罰の要件となるべき要素が証明さ
れることなく行為者が処罰されることになると説明するならば、それは、裁判官の確信なしに有罪判決が下されるこ
とになるから、自由心証主義に反することになるであろう。また、危険が不法ないしは責任の要素であるならば、不
法.責任が完全に証明されずに被告人が処罰されることになるから、それは広義の責任主義にも反することになるで
あろう。さらに、論者の多くが、危険を立法上の動機︵理由︶であるとしながら、危険は推定ないし擬制されると説
いていることからも理解されるように、危険動機説と危険推定説とが判然とは区別されずに混在している。しかも結
局は、︵反駁を許さない︶推定説の立場からも危険は証明される必要はないし、危険の不存在の証明も許容されない
のであるから、理論的に見るならば危険の︵反駁を許さない︶推定ないし擬制ということは、過剰な要素であるとい
うことになるであろう。以上のような意味において危険の反駁を許さない推定説ないし擬制説は理論的に克服される
︵ 1 6 ︶
べきものであるということが確認されることになる。
② 反駁を許す危険推定の問題性
そこで、危険推定説の学説史において、とりわけ反駁を許す危険推定説を唱えたK・0・ラーブルの見解が注目さ
叢
98
論
律
れる・ラ少ル.麗・抽象的危険犯においては・葎的危険の成立は法律上推定されるが、・の推定は︿反駁を許すも
の﹀であり、︿証明を要するもの﹀であると主張した。彼の論究は、先ずいわゆる﹁純正不服従犯﹂︵同。ヨ。d口αq雫
ゴo誘9ヨω号鵠ぎΦ︶の観念を拒絶することから出発するものである。 つまり、いかなる犯罪類型にも外界の変更として
の結果が帰属するものであり、そうした結果は現実に発生しなけれぽならず、行動の危険︵性︶は訴訟において認定
されなけれぽならない、とラーブルは主張した。したがって、すべての抽象的危険犯における危険結果は書かれざる
構成要件要素として捉えられた。そこからさらに、危殆化の結果が擬制されるような犯罪類型の観念︵すなわち、反
駁を許さない推定説ないしは擬制説︶も、まさに純正不服従犯の場合と同じように、客観的には全く無害な行動の処
罰を許容してしまうものであるから、拒絶されるべきだということが主張されることになる。
もっとも反駁を許す推定においては、推定事実ではなく﹁反対事実﹂だけが︿証明を要するもの﹀であるから、ラ
︵18︶
iブルの論述は誤解を招きかねないものである。グラウルが指摘しているように、そもそも︿証明を要する﹀法律上
の推定というものは︵ドイツ法には︶存在しない。その点はともかく、ラーブルの見解によれば、反対事実、すなわ
ち危険の不存在につき完全なる証明︵裁判官の確信︶がなければ、被告人に不利益な判決が下されることになる。そ
の点において︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則との抵触の問題が起こり、また反駁を許す推定を︵法定の︶証拠
規則として理解する限りにおいては自由心証主義との抵触の問題が起こることになる。しかしその点については残念
なことに、ラーブルは些かの疑念も抱かなかった。
次に、反駁を許す危険推定を認めるものとしてホルスト・シュレーダーを挙げることができよう。 シュレーダー
抽象的危険犯が公共の安全や、犯行時には認定されないか、または認定し得ない客体に向けられている場合には、反
囎抽象的危険犯につき危険︵性︶の反駁を許さないものと危険︵性︶の反駁を許すものとを区別した。すなわち、
法
U事手続における法律上の推定と表見証明
99
対事実の証明の意味における反証は許されないということになる。例えば、交通法規の違反や凶器ないし爆薬の無資
格の所持それに麻薬の取り引きのような場合には、反対事実の証明の意味における反証は許容されない。これに対
し、構成要件が一定の具体化されている客体の保護に役立ち、個別事案において法益侵害の危険性の証明がさほど困
難ではない場合には、反対事実の証明の意味における反証は許容されることになる。例えば、ドイツ刑法三〇六条
︵重放火罪︶や二二七条︵乱闘罪︶においては行動の危険性は推定されるが、危険の不存在が証明されることで反駁
が許容されるものとして捉えられることになるのである。
なお、先のラーブルの見解においては、﹁危険結果﹂につき反駁を許す推定が認められているように思われるが、
以上のシュレーダーの主張においては、﹁危険結果﹂につき反駁を許す推定が認められるのか、それとも行動の﹁危
︵20︶
険性﹂につき反駁を許す推定が認められるのか、あるいはその両者であるかは必ずしも分明ではない。
ともあれ、この場合に行動の危険︵性︶の不存在が証明されないと、被告人に不利益に有罪判決が下されることに
なるから、そこには法治国家的な原理に対する違反の問題が生ずることになるであろう。この点につきシュレーダー
は、危険性が存在しなくとも被告人を免責する余地の全くない従来の理論、つまり危険の不存在の証明がなされるか
否かにかかわらず常に被告人が処罰される従来の理論よりは、危険性の不存在の証明の意味における反証︵反対事実
の証明︶を許容し、危険推定の反駁を通じて被告人を無罪となし得る自己の見解の方が被告人自身にとってよりよき
ものであると考え、そうした問題を回避したのである。
だが、ジュレーダーのこうした考えは楽観的過ぎるものであろう。危険ないしは危険性が実体法上処罰の要件とな
るのであれば、その存在については裁判官の確信に至る完全なる証明が必要であり、しぼしぼ指摘したように、反駁
を許す推定はそれを︵法定の︶規拠規則として理解する限りでは自由心証主義に反し、証明責任規則として理解する
律
100
叢
論
法
︵22︶
︵21︶
限りにおいてはく疑わしきは被告人の利益にVの原則に反することになるのは明らかである。
またJ・バウマンとU・ヴェーバーは、現行法上の抽象的危険犯における危険は法律上推定され、反駁を許さない
ものとして捉えた。例えぽ、ドイッ刑法三〇六条二号においては、住居の放火に当たって犯行時に住居内に人が居る
か否か、また生命の具体的危殆化が存在するか否かを問わず常に特別の危険が存在するものと仮定されることにな
る。だがこのような抽象的危険犯が責任主義と両立するかは疑わしいという理由で、立法論としては危険性の不存在
の反駁を認めるべきことを提案した。しかし反駁を許す危険推定も、ホルスト・シュレーダーの見解に関連して指摘
したように、法治国家的観点からは問題あるものである。
もっともバウマソとヴェーバーは、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則は事実認定にだけ関わるものであるか
ら、危険推定はこの原則を反故にしてしまうとする批判は不当である、と指摘している。だがこうした指摘は、危険
︵23︶
︵性︶が存在するか否かはまさに事実認定の問題であるが故に、全く納得し得ないものであろう。
︵笈︶
さらにヴェッセルスは、抽象的危険犯というものは一定の行動態様が保護客体にとって一般的に危険であるという
﹁法律上の推定﹂に依拠するものであって、そこでは行為のそうした危険性は構成要件要素ではなく、当該規定存立
の理由に過ぎないものであり、したがって裁判官は﹁原則的に﹂個別事案において危殆化が成立したか否かを吟味す
る必要はないのである、と述べている。ヴェッセルスの論述においては、そうした法律上の推定がく反駁を許すVも
のであるか、それとも︿反駁を許さない﹀ものであるかについては明言されているわけではないが、危険性は構成要
件要素ではないとしている点からすれぽ、反駁を許さない推定説ないし擬制説が採られているようにも思えるし、
︿裁判官は﹁原則的に﹂個別事案において危殆化が成立したか否かを吟味する必要はないVと述べていることからす
れぽ、それは︿反駁を許す﹀余地を完全には否定するものではないと理解することもできるであろう。しかしその点
について断定を下すことは困難である。
︵25︶
ともあれ、このようなヴェッセルスの見解については、危険は構成要件要素ではなく、単なる当該法規定立の理由
︵動機︶に過ぎないものとしながら、他方でそれは推定を要するものだと主張することは、先のカウフマンらの見解
に対しても指摘されたように、明らかに自己矛盾に陥っているとする批判が可能である。また、行為の危険性あるい
は危険結果のいずれが推定されるのかが必ずしも明確ではないという点においても、それは不当なものである。その
上、そもそも推定の法治国家的問題性には全く言及していないという点においても、そうした見解は承服し難いもの
であろう。
㈲ エファ・グラウルの提案
それは法治国家的な原理と両立し得るのではないかという問題については検討が加えられていない。この点について
以上の論究においては、危険の不存在を一種の刑罰阻却事由として捉えるならぽ反駁を許す危険推定を認めても、
は、近時、抽象的危険犯における危険と推定の問題に関して包括的な考察を加えるエファ・グラウルの見解を参照
し、その妥当性を先ず吟味することが必要であろう。
︵%︶
エファ・グラウルは、抽象的危険犯において危険︵性︶の不存在が証明されることによって行為者が処罰を免れる
のは、すなわち危険︵性︶の反駁を許す推定が認められるのは、︵狭義の︶刑罰阻却事由という形態においてのみで
ある、と主張する。要するに、不法推定および責任推定は、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則ないしは自由心証
主義に抵触することになるが、︵客観的︶刑罰阻却事由ないしは客観的処罰条件のレベルにおいては、︿疑わしきは
被告人の利益にVの原則との抵触の問題も、また自由心証主義違反の問題も生じないというのである。しかし、彼女
一刑事手続における法律上の推定と表見証明一
101
法
律
102
両冊
のこうした提案の前提が正当であるか否かにつきさらに立ち入って検討することが必要であろう。
グラウルは、反駁を許す法律上の推定につき、これを﹁証明責任規則﹂として理解するならぽ︿疑わしきは被告人
の利益に﹀の原則との抵触の問題が起こり、またこれを︵法定の︶﹁証拠規則﹂として捉える場合には自由心証主義
との抵触の問題が起こるとし、これらの原則について詳細な検討を加えるのである。
︵勿︶
グラウルは差し当たり、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則について、これを証拠規則とする見解や、特別の証
明責任規範ないしは裁判規範の存在を不要とし、実体法の規定の中にこの原則が内在しているとする見解︵ザルシュ
追求される実体的真実は、自由心証主義に基づいてのみ的確に認識され得るものである、とグラウルは考えるのであ
は不適切だからである。つまり、それは単なる﹁形式的真実﹂で満足するものだからである。これに対し刑事訴訟で
法上の要請として導き出されることになる。というのは、法定の証拠規則は、実体的真実の解明のためには究極的に
るという事実から、責任主義の妥当領域においては、法定の証拠規則の禁止をその内容として含む自由心証主義が憲
まず第一に、刑事訴訟法は実体的な責任主義と正義とを保証するために、実体的真実の探求の原理を必要としてい
︵銘︶
課題が提出されることになる。
ている責任主義から導出される。そしてこの実体法上の責任主義の実現を保証するために、刑事訴訟に対して二つの
ところで、グラウルによれぽ、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則は、今日のドイツでは憲法上の地位を獲得し
があるのではないかということを問題にするのである。
不存在を意味しており、したがってそれは被告人に不利益な法定の証拠規則を禁止する自由心証主義とも密接な関連
らに、この原則は単なる証明責任規範にとどまらず、﹁疑わしきは﹂ということは、裁判官の個人的な疑い、確信の
テット、ブライ︶を退け、真偽不明の場合に被告人の利益になる判決を指示する証明責任規範として捉える。だがさ
叢一
…ム
刑事手続における法律上の推定と表見証明
103
る。
第二に、実体的真実の解明については、証拠調べにつき自然的限界︵証拠資料の不存在、喪失︶が存在するだけで
なく、法的な制限︵証拠禁止︶も設定されるという更なる事実から、次のことが帰結される。つまり、責任主義の妥
当領域においては、実体的真実が解明されず認定不能︵ノン・リケット︶という結果に至った場合には、憲法により
く被告人に利益にV判決が下されなければならないということが帰結されることになるのである。というのは、さも
ないと憲法上保証された、︿責任なけれぽ刑罰なし﹀とする責任主義と矛盾する有罪判決が意識的に甘受されてしま
うことになるからである。要するに、ひょっとしたら無罪の者を有罪にしてしまうことは責任主義と両立しない。責
任主義は責任ある者の処罰を要求するのではなく、責任なき者の不処罰だけを要求するものだからである、とグラウ
ルは主張する。
こうしてグラウルによれば、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則と自由心証主義とは必然的に責任主義という憲
法上の原則に含まれており、したがってその憲法上の地位を共有することになる。つまり、責任主義はく責任の証明
なけれぽ刑罰なしVという原則も含んでおり、︿被告人に不利益な法定の証拠規則の禁止﹀と真偽不明の場合におけ
る︿被告人に不利益な証明責任規範の不許容﹀とがそこから導出されることになるのである。
しかしながら、グラウルによれば、責任主義の訴訟的背面である自由心証主義も︿疑わしきは被告人の利益に﹀の
原則も、責任主義の妥当領域、すなわち不法・責任の認定に関してのみ憲法上の地位を有するものではあるが、それ
を越える領域においてはそうした地位を有するものではないことになる。このことは、被告人に不利益な︵法定の︶
証拠規則ないし証明責任規則は、客観的処罰条件だとか︵客観的︶刑罰阻却事由といった刑法体系の第四カテゴリー
︵29︶
の領域においては憲法上許容されるものだということを意味している。
律
104
以上のような議論を踏まえてグラウルは、反駁を許す危険推定の問題につき一定の結論を導き出すのである。すな
わち、自由心証主義と︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則とは、責任主義の訴訟的背面として憲法上の地位を共有
しているということから、責任主義の妥当する領域にある外的・内的事実については反駁を許す法律上の推定を認め
ることは憲法上許容されないことになる。というのは、反駁を許す法律上の推定を︵法定の︶証拠規則として理解す
るならぽ自由心証主義に反することになるし、これを証明責任規則として理解するならば︿疑わしきは被告人の利益
に﹀の原則に反することになり、いずれにせよ憲法上許容されないからである。
な規範侵害を通じて完全に基礎づけられるが、違法・有責な行動は常に当罰的・刑罰必要的なものであるとは限らな
には憲法上許容されるものとなる、とグラウルは考えるのである。その際グラウルにとって、不法は故意的・過失的
以上のような理由で許容されないとしても、可罰性が阻却されるのは狭義の刑罰阻却事由に基づくと説明される場合
行為︶が証明された場合に、可罰性が否定されるのは構成要件該当性ないしは違法性が脱落するからだとする試みが
だが、具体的危険性の不存在︵法益侵害ないし危殆化の予防措置の遂行、結果を生ぜしめないように注意を払った
具体的危険︵性︶に対応する故意ないし過失の︵反駁を許す︶推定を付加するならば、それは責任主義の訴訟的背面で
︵30︶
ある自由心証主義と︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則とに二重に違反することになる、とグラウルは指摘する。
応させないならぽ、それは不法と責任との対応という意味における責任主義に反することになるし、またこの場合に
さらに、こうした旧来の理論において、具体的危険︵性︶という客観的に不法を基礎づける要素に主観的要素を対
上許容されないし、支持し得ないものであるということになるのである。
り、書かれざる構成要件要素ということになるが、まさにその限りにおいてグラウルによれば、こうした理論は憲法
この点に関して旧来の反駁を許す危険推定の理論によると、法益に対する具体的危険︵性︶の成立は不法要素であ
叢一
論
法
一刑事手続における法律上の推定と表見証明
105
いということが前提とされる。もっとも、こうした理論構成が裁判官による法の継続的形成の途においてなされるべ
︵31︶
きか、それとも専ら立法論として考慮されるべきかという問題につき、グラウルは自らの態度を未決定のままにして
いる。
しかしながら、グラウルのこうした提案、すなわち具体的な危険性の不存在を狭義の刑罰阻却事由とし、その証明
があった場合にのみ行為者を不可罰にするという理論構成によるならぽ、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則や自
由心証主義の原則との抵触の問題が起こらないのであろうか。これらの原則は不法・責任の領域においてのみ妥当す
るとするグラウルの前提は果たして正当なものなのであろうか。
確かに責任主義は、完全に証明された︵不法を包括する︶責任がなけれぽ処罰されないとすることによってのみそ
の理念が実現されるものである。その限りにおいて責任主義と︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則との間には目的
合理的な関係が認められる。つまり、責任主義は︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則を必要とする。だが︿疑わし
きは被告人の利益に﹀の原則は、責任主義の単なる訴訟的な背面ないし従属物にとどまるのではなく、これと並ぶ法
治国家的原理であり、その妥当領域は責任主義の妥当領域に限定されるものではない。
私見によれぽ、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則は、法倫理的原理としての﹁手続的正義﹂︵<。篤聾お器σq臼⑦−
︵32︶
。ゲ臨σq犀①凶辞︶の要請から導出されるものであり、それは刑事手続における論証の規則であるということになる。 つま
︵33︶
り、例えぽロベルト・アレクシーが﹁論証責任﹂︵﹀品ロ日魯$まロ。・蕾↓︶の規則を論証の規則に加えているように、
︵謎︶
﹁証明責任規則﹂はまさに裁判手続における﹁論証の規則﹂であり、また刑事手続においては訴追者に︵客観的︶証
︵35︶
明責任を課す︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則も﹁手続的正義のトポス﹂から要請される論証の規則にほかなら
ないといえよう。というのは、強大な権力を行使する訴追者に対しノン・リケットの場合における不利益を負担させ
律
叢
106
論
法
ることがまさに手続的なディスクルス倫理の要請に合致し得るものだからである。
また、自由心証主義の妥当領域を責任主義に対応する不法・責任に限定するグラウルの前提も正当ではない。何故
ならば、自由心証主義は刑事手続のみならず責任主義の妥当しない民事手続においても基本原則として確立されてい
るからである。確かに、責任の認定は法定の証拠規則ではなく、事実を認定する者の︵合理性を有する︶自由な確信
に基づいてのみ為されなければ責任主義の理念は貫徹されないといえよう。だがこのことから、自由心証主義の妥当
領域を﹁責任﹂に限定するのは誤りである。結局、以上のような論拠にょりグラゥルの提案は受け容れ難いものであ
るということが確定される。
ω ︿具体的危険性﹀犯としての抽象的危険犯と表見証明
刑事犯における抽象的危険犯の可罰性を制限しようとする試みとして示されたラーブルの提案は、﹁具体的危険結
果﹂を抽象的危険犯の成立の要件とする限りにおいて実体法的観点からは抽象的危険犯を結局は具体的危険犯化する
ものであり、抽象的危険犯と具体的危険犯との区別を否定することになるという点において問題のあるものであった
し、訴訟法的観点からは反駁を許す危険推定が︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則と抵触することになるという点
において問題のあるものであった。またホルスト・シュレーダーの見解も、法治国家的原理に反するものであり同様
の批判を受けなければならないものであった。そこで、別の方途により抽象的危険犯の成立を制限するためのアプロ
ーチが遂行され た 。
︵36︶
先ずぺーター・クラマーは、抽象的危険犯を具体的危険犯の前段階の危険事態によって特徴づけるべきことを提案
した。クラマーは、抽象的危険犯における行為手段は具体的危険結果の惹起にとって﹁適性﹂︵国蒔ロ毒αq︶を有する
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
107
ものでなければならないとし、﹁適性﹂という文言が使用されていない抽象的危険犯の規定においても︿適性を有し
ない﹀行為は構成要件を充足しないものとして理解しようとするのである。換言すれぽ、クラマーにとって抽象的危
険は具体的危険成立の蓋然性として捉えられており、具体的危険の前段階の危険結果を意味するものとして把握され
ているのである。こうしたクラマーの見解については、﹁適性﹂というものは本来具体的危険に対するものではなく、
法益侵害そのものに対する属性であって、事前的に判断される行為の属性であるという点を見過ごすものではないか
という批判が可能であろう。その上、仮に以上のような基準によって具体的危険結果と抽象的危険結果とを区別する
ことが純理論的・観念的には可能であるとしても、実際にはその区別は極めて困難であり、それは実質的には抽象的
︵37︶
危険犯を具体的危険犯に転化させることになるであろう。我が国ではこのクラマーの見解が比較的好意的に受け容ら
れているようではあるが、それは概念法学的な悪臭を放つ以上のものではないであろう。
︵38︶
次にマンフレート・フォルツは、﹁危険引受の原理﹂︵中ヨN骨儀①ω衷ω障。Φぎσq①冨諺︶なるものによって抽象的危険
犯の成立を制限することを試みた。フォルツは、この原理によって一般的に危険な行為であっても個別的には危険で
はない行為の不可罰性を導き出そうとするのである。つまり、一般的には危険な行為が遂行されても行為者の確信に
よれば危険が排除されている場合には、危険を冒しこれを引き受けたことにはならず、抽象的危険犯は成立しないこ
とになるのである。このようなフォルツの見解は、結果発生の蓋然性ではなく行為者の行為・態度を重視している点
においてクラマーの見解と異なるものである。つまり、フォルツにおいては、行為者の危険排除行為が抽象的危険犯
の成立を妨げ得ることになるのであり、その限りにおいて抽象的危険犯は一面不作為犯的性格を有し、またその可罰
性の制限の理由はその中止犯的性格に求められることになる。しかしこうした構成を抽象的危険犯の規定形式から導
出することには無理があるように思われる。
律
み ルドルフィーは、フォルツのこうした見解から示唆を受け、抽象的危険犯の中にむしろ過失的要素を見出そうとす
る。例、兄ぽドイッ刑法三〇六条の重放火罪は、放火された建造物に居住している人の侵害ないし危殆化に関して少な
くとも過失があったことを処罰の前提にしている、とルドルフィーは理解するのである。こうしたアプローチはその
成立は具体的危険結果との関係で不注立日心が認められる場合、換言すれぽ結果発生の︿注意を払った﹀予防措置︵結果
犯︵あるいはその一部︶は、基本的行為︵一般的・定型的に危険な行為︶に関しては故意犯ではあるけれども、その
筆例えばブ・麺・・ホ麺シ・東マ.濾らに・・ても試みられている・つ萱これによれぽ・抽象的危険
108
しかしこうした試みは、立法論上の提案としてならぽともかく、現行法の解釈論としては受け容られないものであ
︵44︶
にもなるであろ う 。
いとする点で﹁過失未遂犯﹂ということになるのである。別様に表現すれぽ、それは結果的加重犯の未遂ということ
犯は、具体的危険結果に対する関係では過失犯であるが、そうした結果の発生自体を抽象的危険犯の成立要件としな
回避措置︶叢られない・うな場合にのみ肯定され・・とにな・の鼠罷・つ蓋この轟によれば・抽象的危険
叢一
論
意も否定されるという帰結が導出され得るであろう。現行法の解釈論としては、危険性についても故意が認められる
を遂行する行為者が同時に危険結果を回避する措置を意識的に遂行する場合には、具体的危険性は成立せず、また故
ことを明らかにしたように、それは故意犯においても問題となり得る要素である。したがって、定型的に危険な行為
く、例えばアル、、、ン・カウフマンが未必の故意論に関連して回避意思の表動が実現意思としての故意を阻却せしめる
お けれぽならないからである。また、結果回避に向けられた行為者の行動は、何も過失犯にのみ特徴的なものではな
法律二特別ノ規定アル場合ハ此限リニ在ラス﹂と規定されており、過失を処罰の根拠とするためには明文の規定がな
る。というのは、とりわけ我が国の刑法においては、その三八条一項において﹁罪ヲ犯ス意ナキ行為ハ之ヲ罰セス但
一法
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
109
場合にのみ畿要件該当性を肯定するような理論構成が採用されるべきではないかと思わ輪・
抽象的危険犯をこのように過失的に構成する見解に対して、キントホイザーも実害の予防を行為者に委ねてしまう
ものだと批判している。この批判の当否はともあれ、さらにキントホイザーの構想においてとりわけ注目すべきは、
︵47︶
抽象的危険犯の構成要件、つまり彼のいう﹁保全規範﹂︵の8冨筈①圃♂昌o噌ヨ︶においては、法益そのものではなく、法
益に関わる﹁安全﹂︵ω一。冨︸Φ5が保護されていると主張され、素朴な法益保護ドグマに異論が唱えられ、ある意味
では法益保護思想が吉強化されてい・・酬で臥㌍キ・よイギによれば・この﹁安全﹂なるものは︿財を使用゜
処分する者に対して法的に保証された状態﹀を意味しており、例えぽ法律取り引きの安全、道路交通の安全、生活条
件︵食生漬住居環攣・︶の安全などが・れに属する・とに艶・そこで例えぽ・・イッ刑法三〇六条二号にお
いては、生命.身体という財の使用態様は居住することであり、そこにおいては︿放火による危殆化の恐れなき当該
場所における居住の可能性﹀が保護されているという・とに艶・だが・こうした構想は・安全を形式的には法益か
ら区別するものの、実質的には安全自体を︵広義の︶法益として把握するものだという一面もないではないし、旧来
の見解に何をつけ加えることになるのかは必ずしも分明ではないように思われる。しかもキントホイザーは、抽象的
危険犯の可罰性の制限の問題につき、一般的には危険な行動が個別的には実害ないし危殆化をもたらさなかったのは
被害者の観点から見れぽ偶然に基づくものと考えられる場合には、抽象的危険犯は成立しないと主張している。だ
が、抽象的危険犯の成否をこうした被害者の観点のみにかからせることには疑問が生以記。
結局、現行法の解釈論として抽象的危険犯の可罰性を制限するためには、A・H・マイヤーも指摘しているよう
Eれを︿危殆化﹀犯︵。Φh謹。纂ξとしてでは蕉く危険性v犯︵°Φ笙岳落一言として理
論構成する方途が正当であろう。端的に言えぽ、真正の刑事犯としての抽象的危険犯は︿具体的危険性﹀犯であると
輸w
法
110
ロ冊
叢
量ム
律
いうことになろう。つまり、抽象的危険犯は、具体的危険犯のように結果無価値としての︵事後的に判断される︶
﹁具体的危険結果﹂︵危殆化︶をその成立の要件とするものではないが、行為無価値の要素としての︵事前的に判断
される︶﹁具体的危険性﹂をその成立要件とするものとして捉えられるべきものである。
値﹂︵︵甲①︷餌ゴ同一凶Oゴパ⑦一辞oりβ]P<﹃Φ同停︶によって特徴づけられるべき犯行形式ということになる。私見によれば、この﹁危険
ところで、A・H・マイヤーによれぽ、︿危険性V犯としての抽象的危険犯は、行為無価値としての﹁危険性無価
︵53︶
性無価値﹂なるものは正しく理解された﹁志向無価値﹂︵一コ什Φ昌↓一〇昼ω信口≦ΦHけ︶としての行為無価値︵志向的行為の無
価値︶の構成要素にほかならない。つまり、刑法規範の目的は法益の保護にあり、この目的を実現するために規範は
法益侵害を志向し、これに対する一定の志向力・危険性を有する行為だけを禁止すべきことになる。さらにいえば、
志向無価値というものは常に︿何かに対する﹀志向の無価値であって、志向無価値一般があるのではない。つまり、
﹁舳先を向けること﹂などを意味しているラテン語の℃し葺①巳o、、という言葉に由来する﹁志向性﹂︵囲口けΦ昌↓一〇昌ロ一一け似け︶
は、例えば人恕憎むこと、人の死を願うこと、神を信ずること、死を恐れることなどのように、意識が何らかの対象
︵必ずしも実在する必要のない志向対象︶に関係づけられていることをその本質とするものである。
そこで、刑法ではその課題ないし規範目的が法益保護にある限りにおいて、常にく法益侵害の実現に関係づけられ
ているV志向無価値だけが問題になる。この志向無価値は、例えぽガラスなどの一部の論者が理解しているような、
︵54︶
内心的事象︵あるいは外的行動に先行する心的実体︶についての無価値︵主観的・内心的無価値︶などではない。志
向的な行為の無価値を内心的な意思︵心的実体︶の無価値と外的な行動・身体運動の無価値とに分断してしまう﹁二
元論﹂は、心的要素と身体的要素とを厳密に分離する﹁心身二元論﹂に依拠し、心的要素を身体的要素のヒューム的
原因と看敬す﹁因果主義﹂の行為モデルの立場に通ずるものであろう。
嬉手続における法律上の推定と表見証明
111
しかしながら、行為は﹁志向主義﹂の立場において理解されるべきである。したがって、意思と行動とは相互的な
依存関係にあり、意思はその﹁表現﹂である行動を通じて明らかにされることになるし、行動はその意思を通じて﹁意
味﹂を付与され社会的な文脈の中で一定の﹁行為﹂として﹁解釈﹂されることになると考えられる。つまり、行為は
︿心身の意味統一体﹀であり、志向無価値はこのような︿心身の意味統一体としての﹀行為の無価値にほかならな
い。それ故、志向無価値は法益侵害を志向する行動︵身体活動︶として表現される﹁制御無価値﹂︵因果的経過を目
的的.志向的に支配・制御する無価値︶でもあって、法益侵害の実現に関係づけられた行為の一定の﹁志向力﹂とし
ての危険性の無価値を包括するものである。こうして、﹁志向対象﹂としての法益侵害の無価値が大きければ大きい
ほど、また法益侵害に対する﹁志向力﹂が強ければ強いほど、換言すれば、法益侵害に対する志向・制御の危険性の
︵55︶
無価値が大きければ大きいほど行為無価値としての︵人格的︶不法は増大するということが帰結されることになるで
あろう。
ともあれ、以上のように理解された抽象的危険犯において、法益侵害の具体的危険性は構成要件の要素であり、し
たがって行為者に故意を認めるにはこれを認識していることも必要とされることになる。それ故、定型的に危険な行
為が遂行されたが個別的には法益侵害の具体的危険性が成立しない場合はもちろんのこと、行為が具体的には危険で
あっても行為者がこれを認識していない場合にも、行為老の行為は当該構成要件を充足しないことになると考えられ
る。ここでは以下に、︿具体的危険性V犯としての抽象的危険犯の問題として遺棄罪と刑法一〇八条並びに一〇九条
一項の放火罪についてのみ言及しておくことにする。
先ず、遺棄罪および抽象的危険犯としての放火罪の事案につき実体法的観点から検討してみよう。例えぽ、母親が
我が子を病院のベッドに寝かせ着替えとミルクを添えて立ち去った場合、すなわち、その母親はその子を遺棄した
律
112
叢
論
法
が、同時に法益侵害ないしその危殆化が生じないよう十分な配慮をなし、適切な結果回避措置を取っていたような事
案においては、また母親が我が子を公園に移置したが、その子が警察官に無事保護されるのを見届けて立ち去ったと
いうような事案においても、そのような行為はむろん一般的・定型的に危険なものではあるが、個別的事情を考慮に
入れるならぽ具体的危険性を有しない。そこで、抽象的危険犯を︿具体的危険性﹀犯として理解する限りにおいて、
そのような場合には抽象的危険犯としての遺棄罪の構成要件該当性は否定されることになる。したがって一説のよう
に、こうした結論を導出するために遺棄罪をく具体的危険結果V犯として理論構成する必要は全く認められない。
それでは抽象的危険犯としての放火罪の場合はどうであろうか。例えぽ、ある者が他人所有の建造物に放火した
が、周囲には家もなくしたがって延焼の可能性は全く認められず、また建造物の中にもその近くにも行為者以外に誰
︵56︶
もいない状況であれば、刑法一〇八条の放火罪はもちろん、さらに一〇九条一項の放火罪も成立しない、といえよ
う。何故ならば、確かに法益︵公共の安全︶侵害に対する︿定型的に危険な﹀行為は遂行されたが、当該行為は法益
侵害の﹁具体的危険性﹂を有しないからである。
わゆる﹁目的論的縮小﹂︵什巴①90αqぎ﹃①菊巴鼻けδ昌︶が遂行されることになるといえよう。それではこの﹁目的論的縮
ところで、遺棄罪及び抽象的危険犯としての放火罪を︿具体的危険性﹀犯として構成するためには、方法論的にい
︵57︶
小﹂が遂行されるべき理由は何に求められるのであろうか。
ドイッ刑法学においては、抽象的危険犯、例えばドイツ刑法三〇六条二号︵重放火罪︶に関する﹁目的論的縮小﹂
の必要性の理由を責任主義に求める見解が有力に主張されている。しかしながら、こうした見解は説得的ではない。
︵58︶ ︵59︶
何故ならば、定型的に危険な︵具体的には危険でない︶行為も、それが故意的ないしは過失的に遂行され、かつ行為
者に責任能力が認められる限り、責任は存在するものであり、これに刑罰を結びつけることはく責任なけれぽ刑罰な
刑事手続における法律上の推定と表見証明
113
し﹀とする原則に違反するものではないからである。問題は責任の前提である不法が認められるかどうかという点に
存するが、少なくとも定型的に危険な行為自体を禁止すべきか否かについて責任主義は何も言明するものではない。
仮に定型的に危険な行為自体を禁止することが直ちに責任主義に反するということになると、麻薬や覚醒剤の所持そ
のものを禁止する取締規則や道路交通における定型的に危険な行為の禁止規定なども責任主義に反する規定であると
いうことになるであろう。これはまさに背理的な帰結にほかならない。ただ︿量刑は責任の程度を越えてはならな
い﹀という意味における責任主義の第二のテーゼは、定型的に危険な行為に重大な法定刑が予定されているような刑
罰法規につき、当該行為が具体的には危険でないためせいぜい軽微な不法をなすに過ぎない場合には、その構成要件
の﹁目的論的縮小﹂を促す機能を有することになるであろう。しかしこのテーゼは、量刑問題に関する﹁比例の原
則﹂︵<①跨巴片巳ωヨ騒蒔犀Φ凶冨σQ≡民ω碧N︶の具体化をなしており、その限りにおいてのみ抽象的危険犯の構成要件の﹁目
的論的縮小﹂に関わりを有しているに過ぎない。
要するに、私見では、真正の刑事犯としての抽象的危険犯の構成要件の﹁目的論的縮小﹂は、﹁比例の原則﹂その
︵60︶
ものにその根拠が求められることになる。この﹁比例の原則﹂というものは、広義においては﹁適合性・有効性の原
則﹂︵O①①圃σQ器臣①一房σq窓民ω舞N噛国圃σq昌ロ昌σqωσq≡民ω舞N℃↓pロσq琴蒔①圃冨σq窓民ω碧N︶と﹁必要性の原則﹂︵国眺o巳臼一8蒔鉱ひ゜・・
αq同暮牙碧N︶とを内容とするものであり、狭義においては﹁相当性の原則﹂︵﹀昌σqΦヨΦωω①島①一畠σq同§牙口。旨︶を内容とす
るものである。すなわち、﹁適合性の原則﹂と﹁必要性の原則﹂とは、一定の手段が一定の目的の実現にとって適切・
有効であり、必要不可欠であるかというく経験的にV確定し得る﹁目的合理性﹂をその内容とする原則であり、﹁相
当性の原則﹂は一定の手段が価値論的前提と整合するか、価値の衝突が存する場合にいずれの価値を優先するかとい
った︿規範的な﹀﹁価値合理性﹂を内容とする原則である。
114
そこで、こうした原則から遺棄罪並びに抽象的危険犯としての放火罪の構成要件を解釈するならぽ、次のような結
論が導き出されることになろう。すなわち、生命・身体という法益の保護を指向する遺棄罪の行動規範の目的からす
れば、あるいは公共の安全という法益の保護を指向する刑法一〇八条並びに一〇九条一項の放火罪の行動規範の目的
からすれば、そうした法益の侵害に対して具体的危険性を有する行為だけが少なくとも原則的には禁止されるべきも
のである。何故ならぽ、法益保護にとってそうした行為を禁止することが、直接的には﹁適切﹂であり︵適合性の原
則に整合し︶、﹁必要﹂である︵必要性の原則に整合する︶から、換言すれぽ﹁目的合理的﹂であるからである。ただ
終局的に完全なる確信が形成され、有罪判決が下されることになる恐れが生ずる。しかしながら、無罪判決を獲得す
によってはそうした具体的危険性の不存在につき証拠を提出するなどして裁判官の暫定的な心証を動揺させなけれぽ
り法益侵害の具体的危険性も存在すると事実上推定されることになるであろう。したがって被告人側とすれば、場合
を導出し得るものである。すなわち、定型的に危険な行為の存在が認定されれぽ﹁特段の事情﹂なき限り経験則によ
次に、証明問題の観点から遺棄罪並びに抽象的危険犯としての放火罪の事案を考察するならば、以下のような帰結
値合理的なV﹁相当性﹂が認められないため、これを正統化することはできないであろう。
最後の手段︵q一一一旨P⇔1同9什一〇︶である﹀という価値論的前提︵刑法の補充性の原則、謙抑主義︶と整合せず、そこにく価
険な︵具体的には危険でない︶行為自体を禁止し、その違反に重大な刑罰を結びつけることは、︿刑法は社会制御の
から特別の正統化が必要とされることになるであろう。だが、遺棄罪においてもまた放火罪においても、定型的に危
その違反に刑罰を結びつけるためには、︿価値合理的なV﹁相当性の原則﹂、すなわち狭義の﹁比例の原則﹂の観点
られないわけではない︵例えば、道路交通における定型的に危険な行為の禁止など︶。しかしそうした行為を禁止し、
定型的に危険な︵具体的には危険でない︶行為自体を禁止することにも、場合によっては全く﹁目的合理性﹂が認め
叢一
論
律
法
惇手続における法律上の推定と表見証明
115
るために被告人は反対事実︵具体的危険性の不存在︶を証明する必要はない。むしろ具体的危険性の存在につき疑い
を生ぜしめる手掛かりが明らかにされたならぽ、検察官は具体的危険性の存在につき裁判官に確信を抱かせるだけの
立証をしなければ有罪判決を勝ち取ることができないと考えられる。ノン・リケットの不利益は原則どおり訴追老が
負担することになるのである。
要するに、定型的に危険な行為が認定されれぽ﹁特段の事情﹂なき限り具体的危険性が事実上推定されるという
﹁定型的事象経過﹂がそこに認められることになるため、被告人にはせいぜい﹁具体的証拠提出責任﹂︵犀8町Φ8
しdo芝。一ω塗腎毒σqω一霧辞︶が課されることにもなるが、客観的証明責任までもが課されることにはならないといえよう。
そこではまさに﹁表見証明﹂ないしコ応の証明﹂が問題になっていると考えられるのではないだろうか。
以上のように刑法における抽象的危険犯をく具体的危険性V犯として理論構成することに対しては、まず第一に、
そうした理論構成は、具体的危険犯との概念的混同を来すのではないかといった異論も予想されるかもしれない。だ
がこれに対しては、抽象的危険犯は行為の属性︵行為無価値︶としての具体的危険性をその要件とするのに対し、結
果無価値を処罰条件として要求する具体的危険犯は︿具体的危険結果﹀犯として構成されるため、概念的混同は回避
されることになると反論し得るものである。
第二に、抽象的危険犯はその名のとおり、抽象的危険、すなわち一般的・定型的な危険性を本質とするものであ
り、そのように理解しないと伝統的観念に反するといった異論も予想されるであろう。だがわれわれの理論構成にお
いては、すでに指摘したように、一般的・定型的危険性というものは刑事犯における抽象的危険犯の証明問題に関し
てなお意義を有するものとして捉えられることになるため、こうした異論も妥当性を有しない。
つまり、一般的.定型的に危険な行為は、それが証明されることにより具体的危険性が法律上推定されるという形
律
116
態においてではなく、具体的危険性に対して表見関係・一応の関係に立つという点において証明問題にとって一定の
意義を有することになるのである。そこで、一般的・定型的に危険な行為が証明されると、具体的危険性の不存在の
証明︵反対事実の証明︶が為されない限り被告人は有罪になるというのではなく、具体的危険性の存在につき反証を
提出し、裁判官の暫定的な心証を動揺させ真偽不明に持ち込めぽ無罪になるといえよう。したがって通常の場合と同
様に、具体的危険性についての︵客観的︶証明責任は訴追者が負担することになるし、有罪判決を下すためには裁判
官は具体的危険性の存在について合理的な疑いをいれない確信を形成しなけれぽならないことになる。
対する﹁単純不服従﹂︵①ぎ♂停興dロσQ。ずo屋⇔日︶が帰属することになる。そこで危殆化にとって﹁適性﹂を有する行為をい
る危険犯はいわゆる具体的危険犯に限定されることになる。この攻撃犯に属しない個別的には危険でない行為には、規範に
侵害を内容としているという点を捉えて﹁攻撃犯﹂︵﹀昌σqH凶中ω伍Φ冒犀け︶という概念を設定する。したがってこの攻撃犯に属す
︵3︶ <αqド切§ミ§堕‘−6°ρ”ψω﹃Pビソディソクは、侵害犯と危険犯の上位概念として、これらが法益に対する実質的な
≧一σq①ヨo冒霞↓o一一℃︼WF一噛HOO卜。℃ω゜卜。Hρを参照。
目①一一u卜﹀ロ山こ這゜。G。℃ω゜卜。ω﹃h⋮、暮&3ω窪鉱器。げ計﹀=σQ①白9 臼6①罫P>島二おりrψ一鳶⋮肉§§bω#臥お魯r
隷§ミhω#9マ8ゲf≧一σqΦヨ①ぎ㊦H↓巴℃P>島こHO誤讐¢卜。経h⋮鳶象ミ幕℃目①訂ゴ号匹窃ω窪9ヰ。。ゲ富噂≧蒔①ヨ。冒臼
︵2︶ 一般的危険性説ないし危険動機説を採るものとして、 き、怨さU9ωUo葺ω。冨ω霞oマ9犀讐Hド﹀島こψ①ω∴⑦きミミ,
件即o昌①p一日ω賃帥蹄Φo窪脚ω。=O鴇゜
∪°σqヨ餌け涛傷①ω。げω窪9揮魯O。︷跨巳巨σq°・匹⑦=ぎω矯Hミω矯ψHO3Qミミbbげ。・#Ω。揮⑦O①︷践乙暮σq。・傷①犀一一写①ロ昌匹℃H似。,ロ日,
︵1︶ ︿σqピ敦ミ§麟U帥①Z。同ヨ。pロ巳臣おαげ①葺①け§σq國9一燭卜﹀島二Z①&窪。rHO①9ψω①G。中∴bu、簿§・Nロ同
されることになる。
解決することができるように思われる。ともあれ、刑事手続における﹁表見証明﹂の問題につき更なる探究が必要と
このように理解することによって真正の刑事犯としての抽象的危険犯の実体法上並びに手続法上の問題を合理的に
「
叢
論
法
一刑事手続における法律上の推定と表見証明
117
特にいわゆる﹁適性犯﹂︵国凶αq自ロαq巴①累ぎ①︶をいかに捉えるかにつき、ぎ、孕¢霞。。窪ロ巳ω。げ巳自餌げω窪鋳8吋Oo惣ぼ−
かに分類するかがビンディソクにとって問題になるであろう。切§“§堕P穿ρ︾ψω忠中閣Q。竃酔ビンディンクの理論、
①ぎω。訂ぎ犀巨αqげ。囲⇔冨霞9ζ窪O①h穿a舅σq巴㊦躍犀け①戸H8ピP念中一︾°1即ミ昌馬、L︶δO①h畔島9冨評ω匹①団宥ρH8卜。、
含韓仙。蒔5U蕾。二簿ぎOα三品。PHOO。。唱ω゜蔭。。h⋮切鳶§︾p。°Pω﹄H3bミ§ミN§蓑砺§りω§穿円蚕房゜
︵4︶ 抽象的危険犯の理論的性格に関する我が国の文献としては、特に岡本勝﹁︿抽象的危険犯﹀の問題性﹂三八巻二号︵一九
oo°H蜜中を参照。
七四年︶一頁以下、山口厚﹃危険犯の研究﹄︵一九八二年︶を参照。
︵6︶さ蕊き§ミし︶臼o。h・訂げ。σ・象巨ω欝h§窪℃Hり゜。Pω﹄鼠゜
︵5︶ミ貞ミ亀ミ﹄・富=σ・・ヨ・冨6巴伍・乙9°・。ぎω欝︷§葺いΦぎ。°買pぎpしりト。ωひ§跨
︵8︶ O、犠ミ”⇔﹄○二ω゜HO◎◎°
︵7︶等ミミ肉§ミ§§9§げ;aω。ぎ匡ぴ・巨u。澤乙①N<°=琶時①島婁粛H。①ω℃¢おp
︵9︶蚕・§ミ砺§ミミ\§ぎ昼ω欝h§算じd・・。a・§↓・凶r日きき匹卜。ヨ﹀¢山こ日§ψH㌶⋮筆o°類§°
︵−o︶臼き・§窪・9ω・・。・。い⋮薫§§§斜ζ。住§・目・a・§三・山。・o。σ・暴鼻量鵠匿似゜・ω噂舞゜巨
職ミ噂UδOo観ゲa¢昌σq。。住①一障8噛ゆ①子①津Nωけぐ﹃Hりo◎b◎鯛ω゜q即
︵11︶ ζ餌霞国島\§蕊ω#鉱話。ゲけ鴇︾=σq①ヨ①ぎ臼↓亀℃↓皿一訂乱ど゜。°﹀島二ち⑩Nω゜卜。°。刈゜第六版の教科書においては、さ
O①密ずaロ昌σqωσq山①鵠宥ρ臼>HOメω゜悼置゜
らに危険に対し﹁故意推定﹂ないし﹁過失推定﹂が及ぶことも認められていた。冨窪鑓oげ\N帖葺ω窪駄お島↓”≧一σq①ヨ9ロ臼
︵12︶ ︿αqド○、貸ミ塾即PO二〇〇°N這゜﹀昌営゜心8’
↓。詳↓Φ譜げ餌巳ど①。︾島こH㊤刈Sω.ωO卜⊃°しかしこの箇所は第七版および第八版の教科書においては削除された。
︵13︶O象§織ミSO旨巳註σq①匹①ωぎ昌ζ簿①口O①h畔巳口昌σq巴①嵩町゜・闇冒ωHりo。卜。”QQ。おO°
︵14︶ 木村亀二︵阿部純二増補︶﹃刑法総論﹄一七〇頁。木村亀二﹃刑法各論﹄︵一九五七年︶一八七頁も参照。
︵15︶ 団藤重光﹃刑法綱要総論﹄︵一九八五年︶一一六頁。
︵16︶ ホイヤーによれば、反駁を許さない危険推定説に立つならば危険の存在は処罰にとって重要ではないし、その認定は不要
なものとして立法者は構成要件を構成しているのであるから、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則は対象なぎものとなっ
118
叢
論
律
法
[
ており、その違反の問題も生じないということになる。き罵きOδ国一σq §σq巴①目犀8矯お゜。8Qo°ω昏h°
︵17︶肉勲守、噂U霞O①寂ず円山ロ昌σqω<o﹁ω餌梓N︾HOωQo℃ω。H①中・
︵19︶自⑦忌ミ§、﹂︶δO①寂冨山巨σq°。号団犀酔①陣旨Q自詳⇔マ①。ゲ計Nωδ芝。。H︵Hり①OソψHO︷・︿σq §、⇔二﹀げ。。件同pζ,犀。蒔H㊦けΦ
︵81︶O、黛ミNb鉾PO二ω゜HOH°
︵︸①︷似げH鎚ロ昌σqω畠①一一犀けO’9℃HNHO①8ω’O卜⊃α。
︵20︶<σqド切蕊瀞ミ℃⇔°PO二ω゜刈トのh°⋮O、黛ミbP9。°○二ω・NOO中・
︵12︶<α゜ピ肉゜睾§囚゜号①け①○・寧巳巨α・匿蒙し⑩刈ω唱ψ邸舞6ミぎミ§・§p黛9ψ§琶、鴫・
さ覚鳴き蝉゜帥 ゜ O こ ω ゜ H ① O ︷ °
︵23︶︿αqピO、窺ミさPPOこω゜卜○卜⊇GQ讐﹀昌ヨ・戯①GQ・
︵22︶切黛ミミ黛§§\き伽ミ”ω霞9マooげ計﹀=αQ①日oぎ①H↓①ジO・﹀ロ山二H㊤OQ9ω・HQ◎㎝・
︵24︶ き旨乱やω霞臥お゜葺”﹀一侭⑦ヨ①ぎ臼日巴’悼P︾仁山こ這りト∂”ψ◎もっともヴェッセルスは、ドイッ刑法三〇六条︵重
放火罪︶につき、責任主義の観点から、客観的状況からすれば人命の危殆化が明らかに排除されており、行為者がそのこと
を確信している場合には︵むろんそれは一見して見渡し得るような小さい目的物においてのみ可能であるが︶、三〇六条の
︵25︶<σqピO、犠ミ執噂PPOこoo°邸卜o①h・>5ヨ・らo◎S
放火罪の成立を否定するという制限を設けている。犠ミ砺こω賃昧お。窪”ゆ①ωo巳臼①H↓①一一どHρ﹀島゜HO°。PψNO邸h
︵27︶O、黛ミさP9°O二ω。Q◎N]°中゜
︵26︶O、黛袋 卵 P P O こ ω ゜ ω 昏 O 頃 こ ω ㎝ o ◎ 中 ・
︵29︶<ゆqピき§30ぼ゜宥ぞΦき傷℃霞ω8巴。Nξ①。ぎ琶σq︿。口く臼冨ぽPO①︷p冨ロ巳く巴①言暮σq一口①一ロΦ旨︷信昌押菖。5帥一。p
︵28︶O、黛ミ卵PPO二ω゜oっω刈中
︵30︶○、貸ミさPPO二ω゜ωαOh’
ω茸⇔津P諾矯ω8ヨ℃Hりooどω’bQoQQo°
︵31︶ Oミミ隔ψω①b。剛﹀昌日゜零トオットーは、保護目的の観点からドイッ刑法三〇六条の抽象的危険犯を制限すべしとする見
解を原則的には退けてはいるが、個別的には実害が絶対に生じない・とを客観的刑罰阻却事由として捉、そいる。§。・
OH¢5侮犀q話ω霞餌マΦoゲ酔︾∪冨①ぎN匹ロ①づ∪Φ=犀けρω゜﹀属自二HOりどω・ω①幽・
一
刑事手続における法律上の推定と表見証明
119
︵32︶ 法倫理的原理としての手続的正義については特に、き㍉ミ§§<o睦p腎①霧σq①話。ゲニαq犀Φ一rHりりト。”ω゜αω卑を参照。さら
に、さミ§自§§]≦簿霞一p・一①自口山唱8N巴q母巴①O霞①oゲ江σq犀①詳一ヨω窪p才⑦眺聾話PNωけ芝℃HOH︵Hり゜。リソω゜認恥゜井田良、
︵一九九二年︶一〇一頁以下う切ミ塾魯]≦舞震一①=①二昌氏︷oN日①一一①<臼討げ①ロω﹃q①話゜ゲニσQ犀①一二日α①ヨo町象尻゜﹃°p園①゜げ叶゜。−
加藤克佳訳﹁ウルフリート・ノイマン︿刑事手続における実体的正義と手続的正義﹀﹂慶慮義塾大学法学研究六五巻六号
°。富゜計HOOどω゜ωω中゜も参照。
︵34︶ <σqドO&恕鳶§ミbU冨ざσQβ昌匹臼信臥呂窪α①pN”おG。卜⊃矯ω゜卜⊃ωΦ中。
︵33︶ ︾貯訣8↓﹃8二①匹臼冒ユ。・什房oゲΦ昌﹀おロ日①旨p缶oP笛゜﹀ロ出二H8どω゜ωω㎝牢
︵35︶ <σq一゜き瓢ミ§§⇔°PO二ω゜卜。09もっともホフマンは、無罪推定の原則は責任主義の訴訟的背面であるということも
︵36︶ O、蟄ミミ悟︼︶興<o=冨器o犀舞げΦω3旨鎚巴゜αpげ。。葺pぎ窃○Φ隷ゲ匡¢口σq°・氏o=ζ℃H8卜⇒°ω゜①H中旧ωoゲo口犀①\ωo冨α伍2\O、黛ミ恥、”
認めている。き㍉§黛蕊§o°POこω゜置9
ω#駄σq窃①訂げ口畠内oヨ日Φロ郎ひ 謹゜﹀島゜ω゜舘ω9ドイッ刑法三〇六条の抽象的危険犯を制限する見解に対する批判とし
︵37︶ <σqピ菊ロ島o甘臣\き、遷\60pヨ゜。o昌”ω甥盆ヨ⇔臨゜・o﹃臼区o日日〇三母N仁ヨQD時鋒αq①。。卑Nげ口07切pづ侮卜⊃噸ゆo°・o口氏霞⑦目↓Φ二G。°
て、きN㍉輸ω自鋒σq窃①言げ口。﹃い①ぢN陣σq巽囚o巳日①ロ$びHρ﹀島゜HO°。°。㎝ωOρ園α口。ω’を参照。
︵38︶ §、きロD°PO二HωQO中二置G。頃ニド8中
︾¢山こ這o o メ 吻 ω 0 9 ω ゜ り ゜
︵39︶ 沁ミ亀o奪ミbぢゲ巴δ二昌餌悶信口犀臨o印α①ω国p昌亀自コσq°。二旨≦Φ肖8°・一B幻9﹃日①β窪①﹁冨同ωoコ巴o昌d霞①o窪匹①ゴ同ρぎ”閃①■■ぐ
︵40︶ 切ミ隷ミ”PPO二ψ這刈中∴織ミ恥4∪δロ昌σq①︷餌訂=oゲoゆ屋ロ匹゜・口︷εロαQ・ゆ○山”Z一芝HΦ刈9ドωOρ︸βωち刈9ω゜悼心︷°
=■oゲ臨津︷O﹃ζ帥二目餌o買HO刈卜o”ω゜㎝Oh°
︵41︶ 肉゜き、§国○ロ町oけ①O①臨町匹ロロαQ°・山①冒町ρω’トこトΩhこ悼o。矯漣h∴菊信伍oぢま\き、§\ωoヨωo昌矯ω器8日⇔江ωoび臼スo日8①三母
︵42︶ ⑦忌詠ミミ黛嵩§P⇔°Oこω゜﹃⑩゜。°その際シューネマンにおいては、﹁主観的不注意﹂が問題とされる。なおシューネマン
N二目ω霞駄σqo.■Φ言げロo﹃ゆ鋤昌侮卜∂嘘ゆ①ωop山霞霞↓Φ詳ω゜﹀仁山こ㈱ω09ω゜ρに゜
は、抽象的危険犯を精神的な中間的法益が問題となるグループ︵例えば、贈・収賄罪や偽証罪︶、大量的行為に関わるグル
ープ︵例えば、道路交通における危険犯︶及びそれ以外のグループ︵例えば、ドイツ刑法三〇六条の重放火罪︶の三つのグ
ループに分類している。そしてこの第三グループに帰属する抽象的危険犯につき、可罰性を制限するために危殆化に関し.て
法
120
}
叢
論
律
主観的注意を払ったか否か、すなわち行為者の見地およびその能力からすれば危険の排除に必要な措置を取ったか否かが問
火罪︶についてのみ過失を要求することによりその可罰性が制限される。、幕o富℃ω#畦H①。ぼ矯≧一αq。ヨ。ぎ2↓①許N°
題とされることになる。ヤコブスの場合にも、ほぼ同様に抽象的危険犯が三つの類型に区別され、第三類型︵例えば、重放
︵43︶ <αqピN隷ミ蕊ミい=p巳一暮αq°・珪昌匹国臨9αqω巨毛臼二5¢旨①。窪ωげ①σqはタH竃G。”¢H謡中増田﹁人格的不法論と責任説の
﹀信臨二H8 ど ω ゜ 嵩 蔭 ︷ °
規範論的基礎﹂法律論叢四九巻六号︵一九七七年︶一六二頁脚注︵19︶参照。
︵44︶ <σqピO、亀ミbo°印゜○二ω゜○。α刈h°
︵45︶ ︾、ミ§肉貸ミ富轟ミき∪臼ユoξω①く①9舞評一日U①=ζ器信まpξ一﹃ωq⇔蹄①。ゲ畠匹oσQ日窪節N≦﹃。ゲ①pω①ぎ巨α芝臼f
︵46︶ ベルッの場合には、過失が認められても、行為者がさらに外部的事情に基づき危険が生じないと確信し、かつ法益の侵害
HOQ。卜σ”ω゜OO塗
ないし具体的危殆化が生じない場合にも、構成要件の縮小が認められるべきであり、さらに構成要件が充足されてしまった
後でも、任意かつ真摯に法益の侵害ないし危殆化を阻止しようとした場合に、しかも侵害ないし危殆化が生じない限りで
ωoゴ三N矯HOo。9ω゜Hに頃゜
は、不可罰にすべきだ、ということになる。ヒロミき頃o﹁ヨ⑦一﹃日讐び①巴餌p詠く臼毛マ匹8ず巷σqき匹日p8ユ巴霞菊Φ。葺のσq窪霞−
︵47︶ 肉ミ犠趣9,蕩ミ噛Oo故ゲa自5﹃q印尻oD茸鋒3戸Hり◎。Pω゜悼8︷°
︵48︶ 肉ミ§§器さPPO二ψ卜⊃ミ即︿αQド苺ミ§㍗U一①﹀げαqお自旨σq<。嵩く霞げ9①=巷σq偉巳く臼。・ロ。げ噂日8一りψ♂塗⋮
き趣ミ犠ミき∪霧菊①o窪ωσq葺匹①同d日≦①一包①鵠寮ρH8どω゜H①O頃゜
︵49︶ 肉§亀隷9、ミ肋ミ℃p。°⇔°○二ω゜卜⊃c。O題゜
︵50︶ 肉§職隷霧ミ㌧斜゜。°ρ”ψ卜。8hキントホイザーの構想に対する批判として、郎㍉寅゜ミ亀ミ嚇ψ置O鵠∴沁o逡§、黛P
ρ噛ψN①G。hを参照。 ロクシンは、抽象的危険犯を次のように分類している。すなわち、ドイッ刑法三〇六条をプロトタ
イプとする伝統的な抽象的危険犯、大量行為︵とりわけ道路交通における危険犯︶、精神的な中間的法益に関わる危険犯、
及びホルスト・シュレーダーによって﹁抽象的・具体的危険犯﹂と称されたドイッ刑法一八六条や三〇八条などが帰属する
︵51︶ 肉§亀壽織ミ肋ミbP勲O二ω゜8ら。。
﹁抽象的適性犯﹂︵菩■■#鋳冨国一σq旨琶αQ巴。一鱒富︶とに分類している。肉§§、PPO二9卜。①卜。中
刑事手続における法律上の推定と表見証明
121
︵52︶ 毎㍉鳶さ這きo°9’○二ω゜Hδ中゜
︵53︶︾㍉蛍ミ魯§pp9ω﹂°。刈中︿σqr⑦簿ミ§§°。ミ隔ω9h§算≧曹8晋9目鼻P>島二Hり録ω﹄8hこ
れに対しヴォルターは、危険性無価値︵不法︶をコ次的結果不法﹂と称し、結果無価値の構成要素として捉えている。
︵54︶ Oミ貯鉾N霞ω茸鼻ε肖号゜・ω酔罠ヰ①。げ二岡。冨ロ¢旨①。ゲ冨げ①αq二中9閏。ω誘。町一hけh欝しdo。冨一ヨ嘗PH㊤お噂Qo・H綬庸し
き、討きPPO二ω’刈α鵠二HOり頃。
肉、ミ器o斜く①︸巴8pωω9ロ①旨昌σq二乙O目σqp艮鴇ユoロ一日ω辞臥おoゲゴH㊤゜。9ψHOα酔同様にエーベルトとK.キュール
ω自駄富計冒茜6°。ど9悼卜。O塗ヤコブスも﹁志向無価値﹂と﹁客観化無価値﹂︵Oび一舞ユ鼠①2ロσqω琶≦①簿︶とを区別する。
も、内的な﹁志向無価値﹂と外的な﹁行動無価値﹂とを区別する。肉ミミ\映゜宍慧ミ℃U器d目Φ。窯匹臼くo屋卑N=島窪
ロ巳︿。鵠母N”O。島。窪巳゜。ω。冨一津︷鐸﹀同ヨぎ開。焦日9ロPHOc。PψOω9を参照。 シュトルエソゼーに対する批判として、
、貸ぎ冒b鉾POこH①Sこうした行為における心身の側面を分離してしまう立場に対する批判として、9ミ§器魯く①屋自ゲ
肉轟§帖蕊ミ”O臼〇三①ζぞoζpじ。°・8ぴ一ヨ↓碧げ窃3巳匹①。・閃夢二似゜・°。一σq閃①一富号=閃蛮HOONψ起卑を参照。なお、私見で
は、特別の状況や身分犯における行為老的要素なども志向無価値としての行為無価値の意味を規定する要素であり、志向無
価値を構成する要素として捉えられることになる。行為者的要素は規範主体を記述すると共に規範質料としての行為の社会
的意味をも規定するとする点については、増田、前掲論文、一四九頁参照。
︵55︶ 行為の﹁因果主義﹂のモデルと﹁志向主義﹂のモデルについては、増田﹁真実発見のアブダクショソ的.帰謬法的構造と
故意の目的論的立証﹂法律論叢六三巻六号︵一九九一年︶三九頁以下参照。また、行為の﹁結果志向力﹂の概念について
は、増田﹁人格的不法論と責任説の規範論的基礎﹂一五九頁、同﹁犯罪構成における結果無価値の体系的地位と機能ーシェ
ーネの反論をめぐってー﹂法律論叢五〇巻四号︵一九七七年︶九七頁脚注︵2︶を参照。そこで例えば、遺産目当てで叔父を
殺害しようとして飛行機旅行を勧める者の行為には、法益侵害に対する一定の志向力が認められないため、そうした行為の
不作為はその者に義務づけられないし、したがってそうした行為は違法ではないことになる。なお、義務の内容および義務
犯︶ないし阻止︵不作犯︶するという行動の﹁適性﹂によって決定されるとする﹁適性原理﹂︵℃二自ぢ匹臼田σQ巨巷σq︶に
侵害︵違法性︶は、事後に成立した結果ではなく可能的結果と行動の事前的な一定の関係性、すなわち結果を発生︵作為
ついては、増田﹁人格的不法論と責任説の規範論的基礎﹂一六六頁脚注︵59︶、ミ帽ミ答ミ㍗<①昏p﹃窪自口匹国臨9σq巴ω
O旨巳冨σ。Φp鎚臼菊①。窪ω≦一αユσq冨搾⊆鼠寓臥ε鵠σq”Hり①9ψH念塗を参照。
律
法
122
叢
論
[
︵56︶ 近時我が国でも、抽象的危険犯としての放火罪につき、当該状況下では公共の危険の発生が全くあり得なかったのであれ
ば、放火罪は成立しないとする見解が主張されている。例えば、岡本勝、前掲論文、二四一頁、内藤謙﹃刑法講義・総論
︵上︶﹄︵一九八三年︶二〇九頁以下、前田雅英﹃刑法各論講義﹄︵一九八九年︶三八一頁、曽根威彦﹃刑法各論﹄︵一九九〇
年︶一九九頁、中森喜彦﹃刑法各論﹄︵一九九一年︶二〇二頁脚注︵2︶などを参照。しかしこれらの主張が危険結果の発生
り、適切ではない。
を抽象的危険犯の成立要件とするのであれば、それは抽象的危険犯を実質的には具体的危険犯に転化してしまうことにな
︵75︶ ﹁目的論的縮小﹂については、増田﹁法発見論と類推禁止の原則﹂一頁以下、同﹁法典化された正当化事由の超法規的縮
HOQ◎GQ°
小禁止﹂法律論叢︵一九八四年︶五七巻四号一一三頁以下を参照。︿σqピ切、§織§守ミ㍗U冨け巴゜9°αq一ω停゜菊①匹爵臨゜量
︵58︶9§ミひpOこω゜置r⑦忘§§§§帥聾9ω゜刈O。。‘⋮き、ミ℃嘗。°9ω゜ミ゜。い縛ミミミ議塁帥’pPψ
卜。団﹀昌旨起⋮bQミミ詞∪28﹃日聾くΦOΦ融貯げΦσqH鼻Hり。。ρ¢Hω゜︿αqrO馬辱黛き望①゜。島≦臼。牢碧匹..籠ε轟
︵59︶映ミ§き9。°pPω゜H蜀︾毒゜b。卜⊃”§Wbσ。§ミb︾更円p写⑦津伍。;び゜・9犀醇Ω①寧a巨σqω琶蓉9甘ω円り゜。蔭℃
︵伽ωO①90ゆ︶℃冒冨お○。り℃ω゜お蔭゜
o。°H°。軽ごきミひ卑9ω゜°。合織ミ恥二N毒切。σq臨匹。莚げ゜・9犀§O①寧邑∼Oりρω゜H°。9建、§ミ曾§ミミ℃
︵60︶ ﹃比例の原則﹄ 一般については、ミ、象まミ騨O臼O歪巳切鉾N自興く醇﹃窪叶巳ω日農剛αq犀①置Hり゜。ご、職ミ“ミ$<①肱㌣
O器國暮冨巳ωo言魯ぴq⑦ヨ一ωo犀σq8暮暮興O①げ餌亀9言冨Hり。。○。剛ω゜蔭8匂心①。。中゜
゜。。。巨σq。。σq①ヨ餌ζ。﹃°搾くo口ωけ同臥お。露゜。P自ヨ①PドOりト。”¢HO°。中増田﹁刑罰法規の主観的・目的論的解釈﹂法律論叢六〇巻四・
自器。窪゜・きωω。包島矯お゜。°。”ψ嵩Φ中∴肉、ミ毬ら斜ppρ矯ω゜り㎝頃゜を参照。
五合併号︵一九八八年︶一八九頁を参照。また不法論との関連では、融㌔卜゜O謙ミミきGo言臥話島訂≦匡二σq犀①一け巨匹ω霞既6
一刑事手続における法律上の推定と表見証明一
123
四 刑事手続における表見証明の適用可能性
﹁表見証明﹂ないし﹁一応の証明﹂と呼ぼれる証明形態については、ドイツにおける民事訴訟の領域において久し
い以前からその法的性格をめぐって激しく争われてきたし、議論は現在でもなお続行されてはいるが、そうした証明
形態の存在自体については理論上も実務上も認知されている。
これに対し刑事訴訟の領域においては、無罪推定の原則ないしは︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則が支配して
エ いるためであろうか、これまで表見証明ないしは一応の証明は一般的に拒絶され、その正統性は否定されてきた。
だが近時、そうした状況は次第に変わりつつある。先ずクラウス・フォルクは、刑事手続における表見証明の適用
可能性の問題を主題的に論究するその論稿において、とりわけ過失犯との関連でその適用可能性の条件を明確化し、
一定の方向づけを試みた。
またハンス゜ハイナーキ言範・その刑事訴訟法の教科書において刑事手続における表見表明の問題につき比
較的詳細に論究し、その適用可能性を一定の条件のもとにおいて肯定しているし、ハソス.フェストも刑事手続にお
いて裁判官の心証形成の基礎として表見証明が問題となり得ることを是認している。
さらに。タール゜クーレ滝・刑法における製造物責任の問題に関連して刑事手続における表見証明の問題点を検
討した上で、その許容性を積極的に認めるに至っている。
もっとも刑事手続において表見証明を認めるか否かということは、結局、肝心の表見証明を刑事手続においていか
に理論構成するかという問題にかかっている。したがって以下では、とりわけ刑事手続における法治国家的原理との
叢
律
124
塾
ロ冊
関係で表見証明の適用可能性に関する種々の問題点につき検討し、
してその有用性を明らかにしてみたい。
① 表見証明の法的性格と刑事手続におけるその許容性
さらに刑事手続における若干の具体的問題に関連
︵ドイツの︶民事訴訟においては、表見証明︵一応の証明︶の法的性格について、先に指摘したように、﹁証明責
任説﹂︵ゆΦ≦Φ一ω一⇔ωけ昏8ユΦ︶、﹁証拠評価説﹂︵bdΦ≦①一。。≦母象σq§σq。■昏8H一①︶、﹁証明度説﹂︵ゆ。≦①圃゜。日島爵8膏︶、﹁実体
﹁証拠評価説﹂が通説であろう。こうした通説的立場に依拠する場合にのみ表見証明は刑事手続においても許容され
法説﹂︵日碧①ユ⑦=ら①o穿寓oゴΦ日冨〇二①︶などが主張されているが、表見証明を証拠評価のレヴェルにおいてとらえる
︵6︶
るものとなり得る。というのは、他の見解は刑法︵刑事手続︶における法治国家的原理と両立し難いからである。つ
まり、表見証明の本質を客観的証明責任の転換をもたらすものとして理解する﹁証明責任説﹂は、被告人に客観的証
明責任を課すことになり、明らかに︿疑わしき被告人の利益に﹀の原則に違反することになるし、また表見証明にお
いては証明度が軽減されるとする﹁証明度説﹂も、刑事手続においては証明度として﹁合理的な疑いをいれない程度
の証明﹂が要求されるため、許容し得ないものとなり、さらに﹁実体法説﹂も、立法者によって定立された可罰性の
張はあらまし次のようなものである。
し、しかもそのように捉えられた表見証明を我が国の刑事手続に導入しようとする論者として鴨良弼がいる。鴨の主
ところが、以上のような理解と異なり、表見証明の法的性格につき通説的立場と真っ向から対立する見解を主張
生じ得ることになるからである。
要件を裁判官による法創造を通じて被告人に不利益な方向に変更することになるため罪刑法定主義の観点から疑問が
一法
惇手続における法律上の推定と表見証明
125
︵7︶
すなわち、鴨によれぽ、プリーマ・ファーシーの法理、したがって一応の証明ないし表見証明は、証明の困難、と
りわけ︵犯罪の︶主観的要素に関する証明の困難を解決するための法理であり、それはノン・リケットを前提とする
ものであって、︵客観的︶証明責任の転換をもたらすものとして理解されている。そこで、こうした見解によれぽ、プ
リーマ・ファーシi法理はまさにいわゆる﹁責任推定﹂そのものを内容とすることになる。しかも鴨は、このように
理解された表見証明ないし一応の証明を刑事手続に導入しようとするのである。例えぽ、刑法二〇七条︵同時傷害
罪︶や二三〇条ノニ︵名誉殿損罪の事実の証明規定︶それに﹁人の健康に係る公害罪の処罰に関する法律﹂の五条の
推定規定などが以上のように捉えられたプリーマ・ファーシー法理を基礎に置くものとして理解されている。
しかしこうした鴨の主張は、以下のとおり種々の点において不当である。先ず第一に、表見証明ないし一応の証明
を客観的証明責任を転換するものとして捉える見解は、今日では過去のものとなっており、そうした主張はすでに理
論的に克服された見解に固執するものである。第二に、表見証明ないし一応の証明の本質を﹁責任推定﹂として捉え
ることも、現代の理論がその適用を客観的な領域に限定しようとしている点と整合しないものであり、不適切であ
る。第三に、刑法二〇七条や二三〇条ノニの規定の場合には、表見証明が是認されるための前提である﹁定型的事象
経過﹂が認められない。すなわち、名誉殿損行為の存在から摘示された事実の真実性を推認せしめる﹁定型的事象経
過﹂も、また同時的な暴行行為の存在から傷害の結果に対する個別行為の因果関係の存在を推認せしめる﹁定型的事
象経過﹂も認められないから、そうした事案に表見証明の法理を適用することは不当である。第四に、表見証明ない
し一応の証明を︵特に犯罪の主観的要素につき︶客観的証明責任を被告人に転換するものとして捉えることは、先に
指摘したようにまさに︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に反することになる。鴨は、︿疑わしきは被告人の利益
に﹀の基本原理は先の規定においては後退せざるをえない、と述べているが、単なる証明の困難の故に法治国家的な
叢
126
fima
訟
律
法
根本原則を後退させることは決して正統化され得ないものであろう。
こうして刑事手続においては﹁証拠評価説﹂に依拠して表見証明が構成されなければならないということが確認さ
れる。したがって、表見証明は証明の困難の故に認められる﹁弱い証明﹂ではなく、高度の蓋然性を内容とする経験
れぽならない。すなわち、表見証明は犯罪事実に関する客観的証明責任を被告人に転換させるものでも、証明度を軽
則︵ハインミューラーのいう経験原則︶を通じて導かれる﹁完全なる証明﹂︵<o=げ①≦Φ圃ω︶として理論構成されなけ
︵8︶
減するものでもなく、せいぜい反対当事者︵被告人︶に具体的証拠︵反証︶提出責任を課すものに過ぎない。そこで
は差し当たり、そうした反証により裁判官の暫定的・一応の心証を動揺させることが課題とされることになるのであ
る。そして被告人がこのことに成功したならぽ、訴追老は、通常の場合と同様に証明度として裁判官に確信を抱かせ
る程度の証明ないし﹁合理的な疑いをいれない程度の証明﹂をしない限り、有罪判決を勝ち取ることができないこと
になると考えられる。
② 刑事手続における表見証明の許容性に対する異論
表見証明の法的性格に関する以上の議論を踏まえた上で、さらに刑事手続における表見証明の許容性を否定する見
解について検討しておくことが必要であろう。その許容性に対する異論としては、通常次のものが考えられる。
①表見証明においては︵客観的︶証明責任を被告人に転換させることになり、それは︿疑わしきは被告人の利益
に﹀の原則に反することになる。
②表見証明においては確実性の代わりに定型的事象経過を通じて保証される蓋然性が証明度になるが、これは民
一刑事手続における法律上の推定と表見証明
127
事訴訟においてだけ許容されるものであり、刑事訴訟においては排斥される。
③表見証明におけるいわゆる﹁何らかの証明﹂ないし﹁何らかの認定﹂は完全なる証明を排除することになり、
刑事手続においては許容されない。
④民事訴訟と異なる構造原理に服する刑事訴訟にそもそも表見証明を転用することは不可能である。
︵9︶
以上のうち先ず①の批判は、例えぽペーター・レッフェラーによって提出されているが、それは、先に指摘したよ
うに、民事訴訟においても表見証明の本質を客観的証明責任の転換の点に認める見解は今日ではもはやほとんど主張
されていないという点を看過しており、適切ではない。すなわち、そうした批判は、通説である証拠評価説に対して
は全く妥当し得ないものであるということができるであろう。
︵10︶
次に②の批判は、例えぽクラウス・ロウフェンによって試みられている。ロウフェンによれば、刑事手続において
は証明がなされたとするためには裁判官が被告人の罪責につき真実であるとの確信を抱かなけれぽならないから、事
象経過が被告人の罪責を定型的に指示しているだけでは不十分であり、したがって一応の証明︵表見証明︶は民事訴
訟にだけ適合するものであって、刑事訴訟にとっては不適切な証明手続であるということになる。だがこうした主張
も、先に指摘したように、通説的見解を無視するものであろう。通説によれば、完全なる確信に代えて蓋然性が証明
度とされるのではなく、表見証明は裁判官の完全なる確信を仲介する役割を担うものとして理解されているに過ぎな
いからである。
さらに③の批判は、微妙な問題を含んでいる。というのは、﹁何らかの証明﹂ないし﹁何らかの認定﹂というもの
は、証明されるべき事象が個別具体的に詳細に証明される必要はないのだということをその内容とするものである
律
128
ことではない。というのは、フォルクとクーレソも指摘しているように、そこに認められるのは、反証の提出責任を
︵15︶
体的証拠提出責任は問題とならない、という点を論拠とするものである。しかしこの点は表見証明にとって本質的な
︵14︶
責任の転換という効果が表見証明に結びつけられているが、ドイツの刑事手続では職権探知主義が妥当しており、具
最後に④の批判は、次の点を論拠とするものである。すなわち、弁論主義に依拠する民事手続では具体的証拠提出
らないであろう。
﹁何らかの認定﹂ないし﹁概括的認定﹂を表見証明を特徴づけるものとして捉えること自体が疑問視されなけれぽな
あれば、何らかの過失・不注意が認定されればよいというのではなく、注意義務を課すに至った根拠、義務の内容、
︵13︶
義務違反の行為、結果、因果関係などが訴因として示され、認定されなけれぽならない。いずれにせよ、いわゆる
刑事手続においては、この﹁何らかの認定﹂はより限定されなけれぽならないことになるであろう。例えぽ過失犯で
題に関わるものであり、したがってそれは表見証明に固有の問題ではないが、とりわけ訴因制度に依拠するわが国の
このようにいわゆる﹁何らかの認定﹂︵不特定的認定︶は事実がどの程度詳細に認定されるべきかという程度の問
まうからである。
い。さもないと刑事訴訟においても許容されている情況証拠による証明も駆逐されなけれぽならないことになってし
明の主要な適用領域である因果関係と過失とは、実体刑法においても決して何から何まで詳細に証明される必要はな
であり、それは実体法が確定する﹁証明主題﹂︵しd①宅①一゜・跨Φ日9︶の問題であろう。例えば、民事手続における表見証
されるべきかは、刑事訴訟の原則によって要求される裁判官の確信の程度︵証明度︶の問題から区別されるべき問題
︵12︶
う問題が提起されることになるからである。しかしクーレンが指摘しているように、事象のいかなる個別事実が認定
塑そうだとすると刑事訴訟において表見証明を認めることは・完全なる証明を肇することになりはしないかとい
叢
論
法
刑事手続における法律上の推定と表見証明
129
反対当事者が負担するか裁判官が負担するかの違いに過ぎないからである。さらに当事者主義化した我が国の刑事手
続においては当事者の証拠提出責任の観念が認められており、こうした批判は、表見証明の許容性に対する障害とは
なり得ないであろう。
︵16︶
ともあれ、表見証明は﹁裁判官の自由な心証形成の枠内における補助手段に過ぎない﹂︵クーレン︶ものであり、
︵17︶
単に﹁裁判官の心証形成の基礎を形作り得るもの﹂︵フェスト︶であろう。したがって刑事手続における表見証明は、
単なる証明の軽減策であってはならない。というのは、確かに表見証明においては事象経過が必ずしも詳細に亙って
解明されるわけではないが、そのことは証拠法上の証明の軽減策としてではなく、それに先行する実体法上の問題と
して処理されるべき事柄であり、なにも表見証明に固有の問題ではないからである。
︵18︶
さらにいえぽ、クーレンも指摘しているように、表見証明が民事訴訟から刑事訴訟に転用されると述べることも誤
解を招きかねないものであろう。というのは、民事訴訟の理論を継受するという意味における転用を必要とすること
なく刑事訴訟において表見証明が存在し得るからである。
③ 刑事手続における表見証明の適用事例
表見証明の適用事例としては、通常、因果関係の事案と︵客観的︶過失の事案とが挙げられている。だが民事訴訟
における学説も連邦裁判所の判例もその適用領域をこれらの事案に必ずしも限定してはいない。もっとも、意思決定
などの主観的要素については、﹁定型的事象経過﹂といった思考形式に馴染まないという理由で一般に表見証明の適
︵ 1 9 ︶
用は排除されている。
︵20︶
これに対し例えぽフェストは、故意認定の事案においても表見証明の適用可能性を示唆している。しかしフェスト
130
叢
論
律
法
はただ、行為事情と結果についての行為者の認識から意思を推論し得る場合に表見証明という形象を使用し得ると主
張しているだけで、問題点にき周到な議論を踏まえることもなく、また表見証明自体を精確に規定もしていないの
で、そもそもそうした主張の妥当性につき論ずること自体が表見証明についての理解が多様なことも相侯って困難な
ものになっている。
ここでは以下に表見証明が問題になり得る事案を網羅的に検討するのではなく、若干の事案を取り上げ、問題の提
起をするにとどめたい。
先ず、先にも指摘したように、真正の刑事犯としての抽象的危険犯における具体的危険性の証明に関して表見証明
を用いることができるであろう。すなわち、一般的・定型的に危険な行為が遂行されたことが認定されれば、高度に
蓋然的な生活経験則︵ハインミューラーのいう経験原則︶に基づき﹁定型的事象経過﹂として具体的危険性の存在が
原則的に事実上推定されることになるといえる。この推定を覆すには、反証を提出することによって裁判官の暫定的
な・一応の心証を動揺させればよいのであって、反対事実、すなわち具体的危険性の不存在を証明する必要はない。
したがって、抽象的危険犯における具体的危険性の存在は、反駁を許す法律上の推定の対象としてではなく、表見証
明の対象として捉えられるべきであり、そうすることによって︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則ないしは自由心
証主義との抵触の問題も起こらないことになるであろう。
次に、﹁人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律﹂の第五条の推定規定に関しても表見証明が問題となってお
り、しかもそこにおいては表見証明の法理が法定されているのだと理解することが妥当であろう。すなわち、当該法
律の第五条では、﹁人の健康を害する物質を排出した者がおり、その排出により危険が生じ得る地域内で同種の物質
により危険が生じたときは、その危険はその者の排出した物質により生じたものと推定される﹂ことになる。
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
131
この推定規定を︵反対事実の証明によって︶反駁を許す法律上の推定として理解すゐならば、それは︿疑わしきは
被告人の利益に﹀の原則または自由心証主義のいずれかに反することになるのは明らかである︵もっとも前提事実自
体も法律要件の要素であり主要事実であるから、それは・←・ベル・のいう真正の推定ではあり得な肥︶・そこで・
この推定規定をめぐっては、アメリカ法における推定の観念に関連して、証拠提出の責任を転換するに過ぎないもの
︵22︶
で、
あ る
とか、許容的効果を有する推定であるといった見解が主張された。
私見では、この推定規定は、まさに表見証明ないし一応の証明を規範化したものだと理解することができるし、そ
うした理解に依拠することが最も適切な解決策になるであろう。そこで、前提事実︵推定の基礎︶の存在が証明され
た場合には、﹁定型的事象経過﹂が想定されるため推定事実の存在につき一応の推定が生じることになる。だが、被
告人が﹁定型的事象経過﹂とは異なる可能性の存在を基礎づける﹁具体的な手掛かり﹂︵反証︶を提出することによ
って推定事実の存在に関する裁判官の暫定的な心証を動揺させるならば、すなわち、被告人の側からすれば反対事実
の証明をすることなく単に真偽不明に持ち込めぽ、そうした推定は覆されることになるのである。また、そうした手
掛かりないし反証があるとすれぽその提出が被告人にとって﹁事実上可能・容易﹂であり、﹁法的に期待可能﹂︵例え
ば他の刑事責任を追及されるような恐れがない場合︶であるにも拘らず、それが提出されない場合には、そのことを
踏まえて自由心証により完全なる確信に達するならぽ裁判官は有罪判決を下すことができるものと理解すべきであろ
う。したがって、反証が提出されないからといって裁判官は有罪判決を義務づけられるのではない。﹁許容的推定﹂
のみが自由心証主義と両立し得るものだからである。
この点につきフォルクも、﹁民事事件の裁判官にとってはもはや自由の余地が残されていない場合でも、刑事事件
の裁判官はなお疑いを抱いてもよいのでなけれぽならない﹂から、﹁表見証明が証拠評価の自由に対する許容されな
い侵害をもたらすならば、その限りでそれは刑事手続には受け容れない﹂が、﹁それが単に証拠評価の自由に対する
︵23︶
内在的限界を提示するに過ぎないならば﹂、刑事手続にも受け容れられる可能性があることを認めている。
この推定規定を以上のように理解することによって、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則あるいは自由心証主義
との抵触の問題を回避することができるのみならず、推定規定が設けられた立法趣旨にも合致することになると考え
られる。
なお、この規定について田宮裕が、アメリカ法における議論を踏まえて推定を覆すためには推定事実の推認をぐら
つかせるだけの事実が示されなければならないとか、推定事実に疑いを投げかけるだけの合理的な事実が示される必
要があるなどと主張しているが、そうした主張はまさに表見証明によってこの規定を捉える我々の見解と実質的には
︵困︶
ほぼ一致することになるのではないかと思われる。
ともあれ、前提事実との間に﹁経験的に納得し得る合理性﹂︵①目づ三ω畠①団冨湧一げ崇↓馨︶を備えた高度に蓋然的な
経験則、すなわちハインミューラーのいう﹁経験原則﹂が存在しなけれぽ表見証明あるいはその規範化も認められな
u人の健康を害する公害犯罪に関する法律﹂の五条の規定は、そうした﹁経験原則﹂を前提にするものであろう。
と同様の法律効果が生じることになる。つまり、各人は傷害の結果、あるいはより重い傷害の結果につき行為者とし
い傷害の結果が生じたかが認定不能のときは、いずれの被告人についても共犯関係にないにも拘らず共同正犯の場合
この規定においては、二人以上の被告人の同時的な暴行行為のいずれによって被害者に傷害の結果ないしはより重
において若干の検討を加えておこう。
ては、そうした経験則は存在しないので表見証明さえ認められない。さらにこの規定には種々の問題があるのでここ
これに対し、同じく因果関係の証明が問題になっているとはいえ、刑法二〇七条の同時傷害罪に関する規定につい
囑ひノ
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叢
論
律
法
蟷手続における法律上の推定と表見証明一
133
て帰責されることになるのである。そこにおいては、﹁知ルコト能ハサルトキハ﹂と条文に規定されているように、紛
れもなく真偽不明︵ノン・リケット︶が前提とされており、したがってこの規定がそうしたノン・リケットの不利益
を被告人に帰せしめるものであって、客観的証明責任を被告人に転換するものであるということは文理解釈上明白で
ある。さらに推定という観点から見るならば、そこにおいては推定の基礎である暴行行為自体も明らかに構成要件要
素であるから、それはローゼンベルクの意味における真正の︵反駁を許す︶法律上の推定規定ではなく、仮象推定、
すなわち﹁不真正の推定﹂規定であろう。
いずれにせよ、客観的証明責任を被告人に分配することはく疑わしきは被告人の利益にVの原則に反するものであ
り、この規定は憲法三一条の適正手続に関する法治国家的原理に違反することになるであろう。そこで学説上は、被
告人に客観的証明責任を課しながら反対事実の証明度を﹁証明の優越﹂の限度に引き下げるといった試みもなされて
いるが、たとえ証明度を引き下げてもノン・リケットの不利益を被告人に負担させることには変わりがないから、そ
︵%︶
︵勿︶
うした妥協案もやはり︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則に反することになるであろう。
そこで他の有力な学説は、この場合には被告人に客観的証明責任︵説得の責任︶を課すのではなく、証拠提出責任
を負担させるだけであると主張する。しかしながら、二人以上の者の同時的な暴行行為の存在からその各人の個別行
為につき結果に対する因果関係が存在することを事実上であれ推認せしめる、﹁経験的に納得し得る合理性﹂を有する
高度に蓋然的な経験則の存在は認められないであろう。むしろいずれかの行為者の暴行によって傷害が惹き起された
ということは、いずれかの行為者の暴行はそうした傷害の結果を生ぜしめなかったということをも意味しているか
ら、両行為者の行為につきそうした事実上の推定をすることは論理法則ないし思考法則に明らかに違反するものであ
る。したがって、そこには一応の関係・表見関係も認められてはならないし、証拠提出責任も先ず訴追者側に認めら
律
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叢
論
法
れるべきであり、ただ通常の事案と同様に、被告人の行為に因果関係が存在することに関して訴追者側が裁判官に暫
刑法二〇七条の規定は憲法違反であるから、そこではいわゆる﹁憲法適合的解釈﹂に基づく<被告人に有利な﹀﹁法
定的な心証を抱かせた場合に初めて被告人は反証提出の責任を負うことになると理解すべきである。端的に言えぽ、
︵28︶
規に反した法発見﹂︵ヵ①。葺践註§σq8葺冨一ΦσqΦヨ︶が遂行されるべきであり、裁判官はこの規定を完全に無視しな
けれぽならない。それは小手先の解釈技術を駆使することによって解決されるべき問題ではないであろう。
さて、表見証明の適用領域としては、因果関係の証明の問題とともに︵客観的︶過失の証明問題が重要である。例
えぽ、手術後に長さ一六センチ、幅八センチの動脈クリップが患者の腹腔内に残っていたような場合には、手術を行
︵29︶
なった医師の過失は表見証明によって認定されるといった事案などを挙げることができるであろう。つまり、一定の
事実・行動に不注意の存在を推認させるような定型的事象経過が認められるときは、表見証明を通じて過失が認定さ
れる得ることになるのである。
こうした過失の表見証明については、一定の規則違反が認められるときには、刑法上の過失構成要件の意味におけ
る不注意︵過失犯における具体的危険性︶が推認されるようなケースとの関連で論じられるべきであろう。とりわ
け、行政上の取締規定︵例えぽ、道交法、消防法などの結果回避・予防措置規則︶が刑法上の過失構成要件の法益の
保護に規範的に結びつけられている場合には、そうした取締規定に対する違反の存在は刑法上の不注意の存在を事実
上推認せしめるという﹁表見作用﹂がそこに認められることになるのではないか、ということが問題とされるべきで
あろう。
︵30︶
すなわち、交通法規のような取締規定︵例えば、制限速度に関する規定や追越し禁止規定︶が繰り返し同じ仕方で
起こる事象を規制している場合には、こうした規定の遵守は法益侵害結果の回避をもたらす行為に結びつき、その違
一刑事手続における法律上の推定と表見証明一
135
反は結果発生をもたらす行為に結びつくことになるのが通常である。もっとも、常にそうなるとは限らない。この種
の規則を尊重しているからといって、例えぽ制限速度を守って走行したからといって、あるいは追越し禁止に違反し
ないからといって常に注意を払った行動をしたことにはならないし、これに違反したからといって常に結果発生に対
する不注意な行動が認められるのではない。刑法上の構成要件︵刑法規範︶の内容となる︿具体的な﹀不注意︵ある
いは不注意な行動︶は、︿定型的な﹀取締法規違反と同一視されるものではないからである。
しかし先に指摘したように、取締法規︵の目的︶も刑法規範の保護法益の侵害を回避することに定位されているよ
うな場合に、取締法規違反の存在から法益侵害をもたらす不注意行為の存在を﹁高度の蓋然性﹂をもって推認せしめ
る経験則が存在する限りにおいて、そこに表見関係あるいは少なくとも徴愚関係を認めることができるであろう。
要するに、私見によれば、以上のような取締規則違反における︿定型的・一般的﹀不注意性と刑法規範における
く具体的V不注意性との関係は、われわれの理解に基づく抽象的危険犯におけるく定型的・一般的V危険性と︿具体
的﹀危険性との関係にパラレルに対応するものであるということになる。したがって、先に指摘したように、抽象的
危険犯におけるく定型的なV危険性と︿具体的な﹀危険性との間に証明問題に関して表見関係・一応の関係が認めら
れるのであれぽ、同様に過失犯におけるく定型的なV不注意性︵刑法に先行する注意規則違反︶と︿具体的な﹀不注
意性︵刑法上の不注意行為︶との問にもそのような表見関係・一応の関係を認めることが帰結されることになるであ
ろう。
ところで、そもそも取締規則︵注意規則、技術規則、特殊規範︶違反と刑法の過失構成要件における具体的な不注
意性との関係をいかに捉えるかということは、実体法にも手続法にも関わる極めて重要な問題であるにも拘らず、我
が国ではこの点につき未だ十分な議論が尽くされてはいないように思われる。そこで、以下ではドイッの議論を若干
136
叢
論
律
法
参照し、検討しておくことにする。
先ず、定型的な注意規則違反と具体的な不注意性とを最も厳格に結びつける論者としてカール・ハインツ・ゲッセ
ルを挙げることができるであろう。ゲヅセルによれぽ、法的に規制された注意規則の違反は、︿反駁を許さない法律
︵31︶
上の推定﹀の効果としてその行動の不注意性を導き出すものとして理解されている。
しかしこうしたゲッセルの見解は、取締法規違反と刑法上の構成要件︵刑法規範︶の内容である具体的な不注意性
とを実体法上混同するものであるか否かはさておき、個別事案の特殊性を無視することになり、硬直的な帰結をもた
らすことになるという点において賛同し難いものであろう。なるほど、法的な︵刑法外の︶注意規則が刑法上の過失
︵32︶
構成要件の法益の保護目的に定位されている場合には、状況がく典型的なVものである限り、そうした規則を遵守す
る行為は具体的にも注意に適ったものであり、そうした規則に違反する行為は具体的にも不注意なものであるという
ことができるであろう。取締規定における注意規則は、多くの経験の集積に基づく成果を反映しており、まさに統計
的.蓋然的な経験則を表明するものにほかならないからである。しかしながら、そうした注意規則は︿典型的な﹀状
況における定型的に不注意な行為を禁止しているものであるから、︿非典型的なV状況においてはそうした規則を遵
守する行為は常に具体的にも注意に適ったものであるとは限らず、またこれに違反する行為も具体的には必ずしも不
︵33︶
注意なものであるとは限らない。この点につきヨアヒム・ボーネルトが挙げた次のような事案が参考になるであろう。
すなわち、確かに速度制限に関する規則を遵守して一定の道路を走行する運転者は、通常は︵典型的状況において
は︶注意に適った行動をなしていることになる。あるいは、信号が緑の場合に運転者は交差点を通過することを通常
は許容されている。だが、どこかから逃げ出してきた牛が車道を横切っているような場合には︵非典型的な状況にお
いては︶、あるいは、歩行障害のある老女が道路を横断しているようなときは︵非典型的状況においては︶、交通上必
一刑事手続における法律上の推定と表見証明一
137
要な行動は一般的な注意基準を状況関係的に具体化することによって規定されることになるのである、と。
またこれとは逆に、取締規則に形式的に違反していても行為者が適切な結果回避措置を取っているような場合に
は、具体的な不注意性が否定されるという事案も想定し得るであろう。例えぽ、赤信号を無視して交差点を通過する
運転者の行為は、道交法違反であることは明らかである。しかしながら、運転者が交差点を通過する際に他に車両も
なく人もいないことを十分に確認しているような場合には、法益侵害に対する具体的に危険な行為が認められないた
め、刑法上の過失構成要件の意味における具体的な不注意性は否定されるべきである︵むろん場合によってはその安
全確認行為自体に不注意が認められる余地はあるが︶。何故ならば、刑法規範は、故意犯であれ過失犯であれ、法益
侵害に対して具体的に危険な行為のみを禁止するものであり、したがってたとえ取締規則に違反していても具体的危
険性が認められない限り﹁刑法上の行為無価値﹂︵刑事不法︶は認められないからである。
ちなみに連邦︵通常︶裁判所も、交差点における追い越し禁止規定に違反する運転者の行為につき刑法上の過失を
否定した事案に関連して、取締規則違反を直ちに刑法上の不注意と看倣す見解に反対する立場︵ライヒ裁判所の見解
を踏襲する立場︶から、﹁ドイツ刑法二二二条の意味における過失という刑法的概念にとって、行政的な取締規則が
遵守されたか否かは決定的なものではない。予見可能性というものは個別事案の諸事情に常に依拠しており、可罰的
な交通法規違反が存在するか否かにかかわらず吟味されるべきものである﹂としつつ、ただ﹁むろん交通法規はその
基礎にある経験を通じて個別事案において予見可能性にとって重要な手掛かりを与えるものである﹂として︵切O=ω件
♪QD°H。。㎝⋮︿σq憎切O=ωけ9ψb。お゜︶、交通法規違反に刑法上の過失に対する﹁徴愚﹂としての意味のみを与・瓦てい
る︵むろんすべての取締法規に全く同程度の徴愚の意味が帰属するのではなく、そこには程度差が認められる︶。
ともあれ以上により、取締法規違反を直ちに刑法上の過失構成要件の意味における不注意と看敬す﹁反駁を許さな
叢
138
論
律
い推定説﹂ないし﹁擬制説﹂は、妥当なものではないということが確定されることになる。
次にクルンとfマス・ヴィンケマ牽﹁法規性を有す・舞規範﹂︵。っ。民①3。§邑↓寄。諺ω。けNρ琶護け︶と
﹁法規性を有しない特殊規範﹂︵例、兄ぽ、私的団体によって規定された技術的規則など︶とを区別して考察し、後者
の特殊規範違反には、刑法上の不注立田心性に対する﹁徴愚作用﹂︵ぎ岳N≦一時§σq”ぎ岳ぎ辞δ冨≦一蒔§σq︶のみを認める
に過ぎないが、前者の特殊規範違反には、注意基準がそうした規範の中に厳密に確定されている限りで刑法上の不注
出日心性に対する﹁拘束的作用﹂︵国巳§σqω三蒔ロ昌σq︶を認めようとする。そしてクーレンとヴィンケマンは、法規性を
有する特殊規範に﹁拘束的作用﹂を認める論拠を﹁法秩序の統一﹂の観念に求めるのである。すなわち、﹁ある現行
法規が禁止︵許容︶していることを他の現行法規は許容︵禁止︶してはならない﹂︵クーレン︶とか、﹁法秩序の統一
は、他の現行法規が許容していることをある現行法規が禁止することをまさに禁止するのである﹂︵ヴィンケマン︶
と主張される。
もっとも﹁法規性を有する特殊規範﹂の場合でも、非典型的な状況などにおいては、その注意基準も修正が必要で
する違反の存在は具体的な不注血日心性の存在を反駁を許す仕方で推定するということを認めるものであろう。しかしな
認められると主張している。要するに、そうした主張は、法規化された技術規範ないし法規性を有する技術規範に対
のと看敏される場合には、この技術規範は同時に法的な注意の要件に合致するものであるとの﹁反駁を許す推定﹂が
またレンクナーは、法律上の規定に基づき一定の﹁技術的規範﹂︵↓①07三ωo冨Zo同ヨ︶に照応する行動が適法なも
︵ 3 5 ︶
ることになるのではないかとも思われる。
ンケマンの主張は、結局は強い徴愚作用︵表見作用︶を認めるか弱い徴愚作用を認めるかといった程度問題に帰着す
あり、刑法上の不注意性にとって決定的なものとは看敏されないという例外が認められているため、クーレンとヴィ
一法
一刑事手続における法律上の推定と表見証明
139
がら、このように行動の具体的な不注意性の存在につき反駁を許す推定を認めることは、具体的な不注意性の不存在
につき客観的証明責任が被告人に転換されるということを意味することになる。そこで、被告人は、状況が非典型的
なものであり、自らに具体的な不注意が存しないことを裁判官に確信を抱かせる程度に証明しなければ、有罪判決を
甘受しなければならないことになってしまうであろう。だがこのような帰結は、明らかにく疑わしきは被告人の利益
にVの原則に反することになるであろう。それ故、﹁反駁を許す推定説﹂も法治国家的観点から採用し得ないもので
あるといえよう。
以上により、反駁を許さないものであれ許すものであれ、推定説は採り得ないものであるということが確認された。
他方、ドイッの通説並びに判例は注意規則に対する違反と行動の具体的な不注意性との間に特別の関係すなわち徴愚
関係を認めて麺・そこで・この讐関係をさらにいか鐘解するかが問題とされるべきであろう。
この点につきラルフ゜カミンスキ以哩﹁注意規則は過失犯の畿要件が充足されているという認定馨易にする
ものである。というのは、そうした規則の違反は、発生した結果が評価されるべき行動の予見し得る成果であるとい
うことに対する重要な手掛かりを提供するからである。だがこのことから、結局は結果の予見可能性が常に不注意な
作為または不作為の決定的な基準であるということを見誤ってはならない。したがって不注意性と定型化された注意
規則の違反とは同一視されてはならない﹂と指摘している。
このようなカミンスキーの見解は、通説・判例に依拠して取締法規における注意規則の違反と刑法上の具体的不注
意性との関係を正しく捉えるものであるといい得るが、さらに注意規則は過失構成要件充足の認定を容易にするもの
であるとか、重要な手掛かりを提供するものであるといった論述を煎じ詰めるならぽ、そこにはまさに強い徴愚作用
としての﹁表見作用﹂をも場合によっては認め得ることになるのではなかろうか。
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もっとも、そうした取締規定違反の存在と刑法上の不注意な行動︵過失行為の具体的危険性︶の存在との関係が表
見関係を成すものであるか、それとも単なる徴愚関係︵情況証拠による証明の関係︶に過ぎないかは、重要ではない
であろう。というのは、表見証明は、客観的証明責任の転換をもたらすものとしても証明度を軽減するものとしても
︵38︶
構成されず、証拠評価の枠内においてその役割を担うものとして理解される限りにおいて、情況証拠による証明の一
種と看倣されることになるからである。つまり、表見証明も通常の︵狭義の︶情況証拠による証明もともに間接証明
にほかならず、両者の違いは、相対的なものであり、単に経験則の蓋然性の程度に関してのみ認められるに過ぎず、
したがって機能的にはいずれも﹁事実上の推定﹂を生ぜしめるという点において違いはないからでみ縛。
ともあれ、表見証明を先に述べたような意味において理解する限りにおいては、それは刑事手続における法治国家
的原理と矛盾するものではないということを改めて確認しておこう。 つまり、刑事手続における表見証明において
は、表見関係から導かれる単なる蓋然性が証明度として理解されるのではなく、完全なる証明、すなわち合理的な疑
いをいれない程度の証明が要求されるべきものであり、また表見関係により生じた暫定的な心証によって客観的証明
O①蒔ぴq①。。①仲N窪ロ巳甲貯訂毎αq曽。σq色口=日閃。吻§冨凶︷二曾甲ロ゜。け≦。拝HO°。9ψお合譜§℃曽ぎ馬ミミ嫡bd霧①﹃億巳
望。駐。n。N§凶。昌竃自器鴨Hミトψ置。。恥♀§切婁o旨巳﹃σq窪α①゜・<。蹴帥冨①話器。窪ω℃p>島こHり刈腿”ψ戯経⋮ミ側ミミ℃
¢q。。。。卑⋮き鳴い偽魯恥、・o暮①諺ロ9巷αq窪謹ヨζ。同犀目・。一山興h邑。昌αび①這曾αq巨σqぎ留゜。①N℃o§伍竃20。箱ρ
︵−︶<αqr卜。§§・田§・ha・由。蓄ぼ一目ω匿骨。・・ζ。∼璽竃o国§o矯¢b。。累⋮さ薄斜聞①゜・房゜訂剛津穿国﹃ω゜ぎ聾讐
特殊な証明方式として捉えられるべきものでは魚糟。
せるべき反証の提出が被告人に要求されることになるにすぎないからである。その意味において、表見証明は決して
責任が被告人に転換されるのではなく、通常の情況証拠による証明の場合と同様に、せいぜいそうした心証を動揺さ
一法
刑事手続における法律上の推定と表見証明
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Hり゜。S¢H心①ご肉§§bω霞餌h︿o臨聾器昌.■お゜匿讐悼P>ロ自二HゆOどψ゜。ρロクシン︵新矢悦二、吉田宜之訳︶﹃刑事手続法﹄
︵2︶§銅﹀昌■■。げ晋゜・げ・幕一゜・β巳閃・琶似器同αq蚕ニヨω9骨§鈎o>Hり蚕ω・μ①三・
︵一九九二年︶=ご一頁参照。
︵3︶宍§ミ”°。器な§。ε。写・ρω゜ぎ自二Hり。。。。葡ψ§中゜﹄念h・
︵4︶苺界く。匿言葛3蓄一ω・巳§け9①=。°・ω9︷・①。拝ドo。。9¢ω三・
︵5︶さミ§b甲9σq魯9①民゜・9h§ゲ島島露中。含ぎ訂ぎロα・弘⑩。。ρω誌三・
︵6︶︿α・戸鴫§ミミぎ∪・・﹀§琶昌゜・げ・孟゜・きま一。守臣婁嘆・舜・ニヨ冨鼠σ・・邑2件・。冨島島・血。§H・,・§目。N・炉
ω゜ω゜。中゜⋮§画餌゜p9ω゜§脚§ミ鴨漏゜p9ω﹄&脚さミ§・。°勲Oこω・食㌔ミ欺蕊堕O①αQ窪器肖9H。げ8§
しu°≦①﹃毛葺象σq巨σq、ゆ①乏皿ω冨ω計9H°。b。中またムズィラークとフーバーは、過失における表見証明と因果関係における表
島臼切o乏①一゜。一霧rω゜09 HOO頃。もっとも証明度説も有力である。勘oミミ“bU霞﹀誹島①ぎωび①≦9ω卿目Oo漆σq①<8
見証明とを区別し、前者においては原則的に証明度の軽減は存しないが後老の場合には証明度の軽減が問題になる、と主張
している。さ篭ミ寒、Uδ○旨ロ臼⇔σq①昌匹臼ゆ①乏9°・冨2圃ヨNぞ号HoNΦこ。殉ω゜。。O題二 H卜⊃O題∴さ詮瓢寒\⑦器職貯、・O目ロ昌α,
︷冨αq雪匹窃ω①ミ9胃9窪哩−”ω゜O卜。噛りO甲ミ曾3U霧bd。婁。冨ヨ鵠凶日Nぞ臨智oN①ζ。噂ψHω9また近時、表見証明は証拠法にお
いて特別の役割を有しないし、不要のものであるとする見解も有力になっている。︿αqピミ§蝕ごミ要貸ミミbo.酔○二ω゜
°。卜δ噂8°
︵7︶ 鴨良弼﹁プリマ・フェシー法理について﹂︵﹃刑事訴訟法の基本理念﹄一九八五年所収︶=一二頁以下。
︵8︶ ﹁証拠評価説﹂を採るプリュッティソクによれば、﹁表見証明﹂と﹁完全なる証明﹂との間にはいかなる相違も存しないこ
互に厳密に区別されるべき制度だと主張している。肉o§§“bPPρ矯ψHωρしかし刑事手続においては、法治国家的観
とになるミミ§學P勲9¢H。ρこれに対し、﹁証明度説﹂を採る・ムメは、﹁表見証明﹂と﹁完全なる証明﹂とは相
点からロムメのような理論構成は採用し得ないものである。
︵9︶導さミ℃ぎ含びδ智。§誌げゲ①窪9。ぎ暑。場冨自⇔=①N蓄匿ω富σq①巳し>Ho。。Sω・・。メ
︵10︶ 卜Oミ竃§o°POこω゜卜◎㊤O°
︵11︶ <σqr§N画P◎。O二ω゜一①O題∴映袋ミ§℃印゜9°Oこψ躯禽肉o§§“、PPOこψ旨卜。頃・
叢
律
142
塾
ロ冊
一法
︵12︶ 肉黛ミ§”鱒鱒ρ唱¢心O脚ほぼ同様の見解として、ぎ、鯉o°勲ρ噛ψH①◎を参照。
︵13︶ 田宮裕﹃刑事訴訟法﹄︵一九九二年︶一九三頁参照。
︵41︶<σ・ド津ミミひp9ω﹄°。ρ
︵15︶ぎミ帥゜勲9ω﹂①卸さミ§°°p9ω゜参
︵16︶ 映ミミ§b勲勲ρ”ψ幽N同様に、肉舘魯§魯即勲○こψ謹9を参照。
︵17︶ §魯o﹄°O二ω゜ωH曾
︵91︶<αqド爵§⑦§ミミ℃舞9ψ。・ωh﹄罫⋮ミ駐ミ寒﹄一。。・・邑餌σq°二臼b・°量゜・一β・°・件ぎN三言N①ζ・旧¢
︵18︶さミ§器゜9¢駆゜。P
︵20︶ 隷魯 P o ° ○ 二 Q D ° ω ω ゜
ドト。り⋮ミ蕊ミ・。。郵9ω.§⋮§、画pp9。。°§旧欝義§∪①二垂N雪げ⑦幕置旨ω同O貫ω。自メ
︵21︶ 松尾浩也が、公害罪法の推定規定につき典型的な推定規定とは異なり、﹁証明主題の切り換え﹂という性質を有しないと
法下﹄一八頁、二一頁以下参照。
述べているのも、これがローゼンベルクの意味における真正の推定ではないことを示唆するものであろう。松尾﹃刑事訴訟
︵22︶ 岡部泰昌﹁形式的挙証責任に関する批判的考察﹂金沢大学法文学部論集法学編一八︵一九七一年︶四九頁、同﹁挙証責任
および推定﹂︵高田、田宮編﹃演習刑事訴訟法﹄一九七二年所収︶二六〇頁以下参照。
︵23︶ ぎミ帥﹄’Oこ¢ミ①゜
︵24︶ 田宮裕﹁公害犯罪と証拠法﹂︵藤木英雄編﹃公害犯罪と企業法﹄一九七五年所収︶一五〇頁以下、同﹃刑事訴訟法入門﹄
︵一九八一年︶一八四頁、同﹃演習刑事訴訟法﹄︵一九八三年︶一二七頁、同﹃刑事訴訟法﹄三〇四頁。同様に、田口守一
﹃刑事訴訟法﹄︵一九八九年︶一四八頁、光藤景絞﹃口述刑事訴訟法中﹄コニ○頁を参照。そこにおいて田宮は、推定を覆
すために﹁証拠提出の責任﹂を被告人に課すだけでは、推定規定を設けた意味が失われるとの理由から、本文に述べたよう
しているが、これに対し本稿でいう︵具体的︶証拠提出責任の場合にはドイツ法における犀oロ町卑。じU①≦9ω鵠ゲ暑昌ゆq匹器↓
な見解を展開する。もっとも田宮のいう﹁証拠提出責任﹂はアメリカ法におけるげロ匡窪oh賢o曾。ぎσq。<一似窪8に対応
が念頭に置かれており、裁判所の暫定的な心証を動揺させること、すなわち真偽不明に持ち込むことをその内容としてい
る。そこで、表見証明あるいはそれが法定された推定規定においては、客観的証明責任を負担しない反対当事者︵被告人︶
刑事手続における法律上の推定と表見証明一
143
に本稿の意味における︵具体的︶証拠提出責任が転換されるとだけ説明すればよいことになるであろう。なお、田宮自身も
害犯罪と証拠法﹂一五三頁︶。
﹁刑事訴訟においては、法律上の推定も内容的には事実上の推定にほぼ等しいものだといえる﹂と明言している︵田宮﹁公
︵25︶ ﹁経験的に納得し得る合理性﹂という基準については、映袋ミ§bPp。°ρ℃ψαO沖を参照。さらに推定規定の許容性の
新法と推定規定﹂︵一九九二年︶研修五二三号=二頁以下などを参照。
要件につき、田宮﹃刑事訴訟法﹄三〇四頁以下、田口、前掲書、一四九頁以下、光藤、前掲書、一二六頁、井上正仁﹁麻薬
︵26︶ 田宮、前掲書、三〇三頁、藤木英雄﹃刑法講義各論﹄︵一九七六年︶二〇二頁、鈴木茂嗣﹃刑事訴訟法﹄︵一九八〇年︶一
七八頁などを参照。
︵27︶ 井上正治﹁挙証責任﹂法学セ、・・ナー八八号︵一九六三年︶五〇頁、岡部泰昌﹁挙証責任および推定﹂二五頁以下、庭山英
雄﹃刑事訴訟法﹄︵一九七七年︶一九六頁参照。
︵28︶ 刑法二〇七条の違憲性につき、平野龍一﹁刑法各論の諸問題﹂法学セミナー一九九号︵一九七二年︶七八頁を参照。これ
に対し大谷実は、﹁挙証責任の転換を図って暴行犯人に傷害の罪責を問うことがあっても、直ちに憲法三一条に違反すると
まではいえない﹂とする。大谷﹃刑法講義各論第三版﹄三九頁。なお、刑法二三〇条ノニの規定︵名誉殿損罪の事実の証
明︶についても、これを客観的証明責任を転換するものとして理解するのは憲法違反である。この規定は客観的刑罰阻却事
由であるから、︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則が妥当しないと主張する者もいる。例えば、平野龍一﹃刑事訴訟法﹄
一九〇頁脚注︵5︶、前田雅英﹃刑法各論講義﹄一五八、一六二頁を参照。しかしこれは不当な主張である。そうした主張は
る。だが、この原則は法倫理的原理としての﹁手続的正義のトポス﹂から要請されるものであり、実体法上の責任主義の単
この原則が責任主義の単なる訴訟的背面に過ぎないものであり、その妥当領域を不法・責任に限定しようとするものであ
なる従属物ではなく、すべての可罰性の要件に等しく妥当すべきものである。また、証明度を﹁証明の優越﹂に軽減したと
しても客観的証明責任自体が被告人に負担させられる限りでは、そうした主張はやはりく疑わしきは被告人の利益にVの原
則に反することになろう。それ故、事実の証明規定については、他の免責的事由︵例えば正当防衛規定︶と同様に、せいぜ
い被告人に事実が真実であるということについての﹁主観的主張責任﹂ないしは松尾浩也のいう﹁争点形成責任﹂が課され
ることになるだけであると理解される。つまり、被告人が事実は真実であると︵理由を示して︶主張すれば、争点が形成さ
れ、訴追者は事実が真実でないことにつき証拠を提出し、立証すべきであり、真偽不明の不利益︵客観的証明責任︶を負担
法
律
144
叢
論
「
証拠提出責任﹂︵主観的・具体的証明責任︶と﹁主観的主張責任﹂につき、増田﹁刑事手続における裁判官の確信と証明度−相
することになると考えられる。﹁争点形成責任﹂につき、松尾、前掲書、一九、二四頁参照。また、ドイツにおける﹁具体的
互主観説への助走1﹂法律論叢六四巻五・六合併号︵一九九二年︶五二頁以下、六五頁以下、脚注︵20︶、脚注︵22︶を参照。
なお、ドイツ刑法一八六条︵悪評の流布︶の﹁事実の証明可能な真実﹂条項につき通説は︿疑わしきは被告人の不利益に﹀
が妥当するとするが、法治国家的原理の例外を認めるものであり不当であろう。
︵29︶ <αq 映鵠§$勲Pρ”ψ卜。戯↑表見証明に関するその他の事案については、中野貞一郎﹃過失の推認﹄二二頁以下、藤
︵30︶ <σq一゜ぎ、鯉勲勲ρりψお刈卑オットーも、車間距離を取らなかったとか、スピ!ド制限を越えたとかいった取締規則
原弘道﹁一応の推定と証明責任の転換﹂一四一頁以下などを参照。
ω゜ざo。°
違反は、表見証明を可能にすると、指摘している。Oミ90話震窪α霞国9穿一叫隆σqぎ一諾ゲ臥言ロσq一ヨωけ婦phお卑r冒QゆHり謹”
︵31︶ 竃髭雷臼\O曾恥ミ\N昼いω霞⇔陣8茸℃﹀=σq①日Φぎ①同↓o圃一℃目Φ︸一ぴ雪仙卜∂℃S︾ロゆ゜℃HOQ。Pω゜=刈゜
︵32︶ ゲッセルの見解に対する批判として、映黛§§簿斜∪霞oど⑦ぎぞ①冨9ζ。°・審げ凶目目鷺げ2富ロ侮畠⑦㎝国聾二跨ω茜犀9什巴①ぱ犀♂
ω゜卜。O頃゜を参照。
︵33︶ 切忌§ミ、bO器閃停二傍ψ幽σqざ一言くo層≦珪h¢巳ooo巳oヨ自3日国6Q。9ω゜◎。︷∴︿σqド宍ミミ§b印6°O二Qo°嵩ご§暮偽§貸蕊§
勺Ho窪゜日o儀霞閏①訂哉ω゜・一σq犀①詳一目dヨ箋巴房賃畦器゜ゲゴHりOど¢り9ボーネルトは、過失︵注意義務︶と特殊規範︵ωoβ。
山①旨o同目︶との関係につき、三つのテ!ゼを立てている。まず第一に、客観的注意義務と特殊規範とは原則的に相互に独立
している。したがって、それらは相互に構成的な意味をもつものではない。第二に、特殊規範を認識している者については、
三に、﹁制限的な特殊規範﹂︵=巨ユ。お巳。ωo巳。日o目ヨ︶が存在する。この﹁制限的な特殊規範﹂は、単に危険な行為を規
通常注意義務を認識可能であると推認される。つまり、主観面につき証明を容易にするという関係がそこに認められる。第
制しているだけではなく、一定の範囲でそうした危険な行為を許容するものである。それは注意義務そのものを制限するこ
b恥ミら神鳴き切㊦ω娼目oo,β昌σq矯7︻ω叶N︼bG◎QQ博ω゜ωりOQ’
とによって過失にとり構成的なものとなる。その範囲で第一テーゼは妥当しないことになる。b口o隷§ミ計9。﹄.O二Qo’①中゜︿σqド
︵34︶ 肉袋ミ§℃PPO二堕Hに酔脚ヨ蕊ぎミ§§魯゜PO二ψり゜。中さらにクーレンとヴィソケマソは、法規性を有する特殊
規範を一般的な注意基準およびその具体化に対してく制限的に作用するVものとく拡張的に作用するVものとに区別してい
嬉手続における法律上の推定と表見証明
145
る。つまり、︿制限的に作用するV特殊規範に対する違反は不注意の必要条件であり、その遵守は行動が注意に適ったもの
であることを保証する。そこで、一般的な注意基準によれば不注意なものと位置づけられる一定の行動をこうした﹁制限的
範﹂︵Φ噌く﹃①一侍①門昌自① ωO昌自Φ目旨OH目P︶に対する違反は行動の不注意性にとって十分条件になる。この﹁拡張的な特殊規範﹂は
な特殊規範﹂︵一冒一ユ臼。民oωo己①ヨoNヨ︶は注意に適ったものと看倣し得ることになる。これに対し、﹁拡張的な特殊規
一般的な注意基準によれば注意に適ったものとされる場合を不注意なものと看倣し得ることになる、と。肉ミミ§㌧p。°pO二
︵35︶卜§簿ミ、b↓①島三ω。冨Z。§Φ昌β巳閃昏忌゜・ω碍犀巴﹂昌“閃婁ω。ま︷=母守σq剛ω。﹃HO①Pψお鉾<σqピ曾ミ§恥ミ§§
Qo°目①⋮§§譜ミ黛§きm°o。O二ω゜りG。°
︵36︶ 取締規則︵特殊規範︶違反に刑法上の過失の微愚作用を認める通説として、 き凝鼻U器∪⑦ロ畠。ゴ①Q。需印ヰ⑦鼻♂ Hド
U凶o図①σqo﹃山oH↓o島三犀一日ω霞Qマooゲが閃①ω誘島ユh叶漆門い餌o犀ロΦひ目りQ。メω゜○。①刈題゜
﹀島こρHG。合、暮o富聯U⇔ω閏p冨辰切巴αQ冨一畠似①瞑犀梓嘘bd①ぎ①津Nωけ毛Hり謹”9b。O脚切ミ翰、ミ、ミL︶器閃聾二似ω゜・一σqぎ一持巴①一凶簿
≧一σq⑦ヨ⑦ぎ①㎏↓①一ゴμり。。戯”ψヨ⋮、塁簿ミ智い①年びロoげα①゜・Q自賃畦冨。窪゜。”≧一σq①日①﹃臼↓①二心゜﹀島二HO°。○。讐ω゜認O⋮
ぎQり賃9マ①。窪Hミトψ曲旧菊巳。昼\山03\貯§⇔§、ω甥8ヨ碧一゜・9霞区。ヨヨΦ箕賃遷ヨω#mhσqΦω象Nぴ口゜﹃じu⇔巳ど
肉㍉9曾ミoミミ匂U一。閃①げ二餌。。巴σq寄搾巴゜。国爵①口昌げ9時①津匹臼↓舞ぴ①ω冨巳。・<。H乱時一一島琶σq乙NHO°。O℃ψ﹃°。O⋮ω島8犀①\
ωoぴaα費\G、自ミミ触QD霞帥hσqΦ゜。⑦賃ぴ¢oゲズ08ヨ①昌$び漣’﹀口恥二HO⑩一嘘ψ卜◎①G°⋮肉貸ミミ簿評攣Pρ讐ψ心o。即などを参照。
︵37︶ 肉亀§§恥ミ馳06°O二ω゜㎝卜o°
︵38︶ なお、連邦裁判所の判例が明らかにしているように、取締規則違反と刑法上の不注意性との徴愚関係は、常に同程度のも
のではないが︵ゆ∩甲寓ωけ 心” ω゜ H◎Q㎝゜︶、さらに取規則違反は常に行動の不注意性の徴愚になるのではないという点も注意す
べきである。例えば、道交法九五条の運転免許証の携帯義務違反は、業務上過失致死傷罪の不注意性の微愚とはならない。
何故なら、運転免許証の携帯義務は刑法二=条の保護目的に直接結びつかないからである。また、取締規定におけるコ
般条項﹂、例えば、道交法七〇条の﹁安全運転義務﹂のようなものは、具体的な状況における具体的な行動を記述し、命じ
ないであろう。
ているわけではない︵特殊規範ではない︶ので、安全運転義務違反が行動の不注意性の微愚となるかという問題自体が生じ
︵39︶ <σq §、画僧孚Oこ¢旨O⋮鴫§物§匂鉾勲ρ℃ψω゜。ρデンカーは、通常の証明もコ応の証明﹂︵表見証明︶と同質
的な構造を有している、と指摘している。b§ら鳶きNロヨO①ω感巳三ωぎω窪鑑・ロ巳ω茸鑑冒oNΦζ。お。窪℃Nω件薫HO卜。
律
法
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叢
論
︵ちりO︶ω゜趨゜
甲N
①一
じu①≦①一㎝芝母巳σq§σq”HミPω゜N区︷°⋮Oミミミ職矯Qo3巴①冨・
︵40︶くσq=§恥ミ幕\ぎミミ℃p‘−願9ω゜り9さ
ミ①b
N霞①。ぎ巨αqロ巳ω停巴窪ω゜。。臣言自σqHミPψ卜。8い
エピローゲ
最後に、刑事手続における法律上の推定と表見証明に関する探究を通じて得られた主要な帰結を簡単に定式化して
おくことにする。
ω いわゆる法律上の﹁責任推定﹂は、﹁故意推定﹂であれ﹁過失推定﹂であれ、﹁証明責任規範﹂としての︿疑わ
しきは被告人の利益に﹀の原則に反するものであり、決して正統化され得ないものである。
② 爆発物取締罰則の六条における責任推定︵犯罪目的の推定︶規定は、憲法三一条違反であり、これについては
いわゆる﹁法規に反した法発見﹂が遂行されなけれぽならない。
㈲ いわゆる両罰規定に関する過失推定説は、その推定を︵反対事実の証明による︶反駁を許す推定として捉える
限り、伝統的な責任推定を認めるものであって、︿疑わしきは被告人の利益にVの原則に反することになるが故
に正統化され得ないものである。
凶 ︿疑わしきは被告人の利益に﹀の原則を証拠規則︵認定規則︶として理解する見解は、この原則がノン・リケ
ット︵認定不能︶を前提とすることと相容れないため不当である。
⑤ ノン・リケットの場合には法規は当然に適用されないものであるから、裁判規範としての証明責任規範は不要
刑事手続における法律上の推定と表見証明
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だとする見解も、不当なものである。何故ならぽ、免責的法規の場合にはむしろ疑わしいときは︵ノン・リケッ
トの場合には︶当該法規は適用されることになるため、裁判規範としての証明責任規範が機能していると理解さ
れるべきことになるからである。
㈲ 八疑わしきは被告人の利益に﹀の原則は無用で有害なものとするモンテンブルックの見解に十分な説得力は認
められない。モンテンブルックは、法律に規定された処罰の要件が存在しないときは有罪判決を受けないという
権利を罪刑法定主義ないし法律による留保の原則に基づき被告人は有すると主張するが、証明問題に関する法原
則と解釈問題に関する法原則とが別個の基準に服していることを看過している。また、ノン・リケットによる無
罪を認めることは被告人に不利益に作用することになるとする主張も、証明度に達しない無罪は完全なる無罪に
ほかならないということを看過するものである。
㎝ 抽象的危険犯に関する反駁を許さない危険推定説ないし擬制説は、次の点で疑問視される。先ず、危険要素を
立法理由であると同時に構成要件要素であると構成するならぽ、危険要素の実体法上の地位が不明確になるであ
ろう。次に、危険要素を構成要件要素として捉えないならぽ、それは、危険動機説に移行することになるであろ
う。さらに、危険要素を構成要件要素として把握するならば、それは、実体法上の処罰の要件が証明されずに
︵裁判官の確信なしに︶有罪判決が下されることになるため、自由心証主義に反することになるであろう。
團 反駁を許す危険推定説は、危険の不存在につき被告人に客観的証明責任を課すことになるため、︿疑わしきは
被告人の利益にVの原則に反するものである。
⑨ 危険の不存在を客観的刑罰阻却事由とすることによρて譜く疑わしきは被告人の利益にVの原則乏反駁を許す
推定説との調和を図ろうとするグラウルの提案は、この原則を単なる責任主義の訴訟的背面として理解し、客観
律
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叢
論
法
的刑罰阻却事由や客観的処罰条件にはこの原則は妥当しないとする前提に依拠するものであるが、こうした前提
自体が不当である。この原則は、手続的正義ないしディスクルス倫理の要請に依拠するものであり、不法・責任
の領域を越えて客観的刑罰阻却事由や客観的処罰条件にも妥当するものである。
⑳ 具体的危険犯は︿具体的危険結果﹀犯であるのに対し、真正の刑事犯としての抽象的危険犯は、︿具体的危険
性﹀犯として理解されることになる。証明問題からこのく具体的危険性V犯としての抽象的危険犯をみると、定
型的に危険な行為の存在が認定された場合には、﹁特段の事情﹂なき限り具体的危険性の存在も事実上一応推定
されるという関係が認められることになる。したがって、具体的危険性は通常﹁表見証明﹂ないしコ応の証
明﹂を通じて認定されることになるであろう。
ω 表見証明ないし一応の証明が刑事手続において許容されるかは、 これをいかに理論構成するかにかかってい
る。表見証明ないし一応の証明は、通説である証拠評価説に従い、単に具体的証拠提出責任の転換をもたらすも
のとして理解されるべきであり、客観的証明責任を転換したり、証明度を軽減するものとして理論構成されるな
らば、刑事手続においては許容し得ないものである。
働 表見証明において、反対当事者︵被告人︶が反証を提出しないからといって、裁判官は有罪判決を義務づけら
れることはない。被告人にとって反証があるとすればその提出が﹁事実上可能・容易﹂であり﹁法的に期待可
能﹂であるにも拘らず、それが提出されない場合には、裁判官はそのことを踏まえて自由心証により完全なる確
信に達した場合にのみ有罪判決を下し得るものである。いわゆる﹁許容的推定﹂のみが自由心証主義と両立し得
るからである 。
個 表見証明の法理は、差し当たり、抽象的危険犯における︵具体的︶危険性の認定の問題のほか、公害罪法五条
悼手続における法律上の推定と表見証明
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の推定規定それに過失犯における︵具体的︶不注意性の認定問題などにつき適用可能である。
@行政的な取締法規が刑法上の過失構成要件の法益保護に規範的に結びつけられているときは、この取締法規に
えば刑法二〇七条︵同時傷害罪︶の規定などには適用し得ない。
㈲ 表見証明の法理は、高度に蓋然的な経験則︵経験原則︶が記述する﹁定型的事象経過﹂を前提にするので、例
る。
違反する行為の存在は刑法上の具体的な不注意性の存在に対する﹁表見作用﹂を有し得ることになると考えられ
qの
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