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Instructions for use Title 党史と政権 : 歴史的・比較的研究

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Instructions for use Title 党史と政権 : 歴史的・比較的研究
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党史と政権 : 歴史的・比較的研究
木村, 汎
スラヴ研究(Slavic Studies), 16: 1-55
1972
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/5016
Right
Type
bulletin
Additional
Information
File
Information
KJ00000112943.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
党史と政権
一樫史的・比較的研究一発
汎
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まえヵ:き
I
(
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) “スターリン"問題
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) “フ fレ シ チ ョ フ " 問 題
歴史的概観
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I ブレジネフ政権
I
I 比較的アプローチ
まえがき
一「ネルジ γは,つぎつぎに出る党史(党史は数種
類出版され,その各々が違っていた)をみな読ん
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だ。」ソルジェニーツイン『懐獄のなかでt
情 報 過 多 と い わ れ る 現 代 の 例 外 を な し , い ぜ 、 ん と し て 秘 密 の 鍛 帳 を 深 く お ろ し 諒 誤u
以
外われわれの接近を厳しく拒み,客観的な研究のネッグをなしているのが,
ソピ、エト政治
の 苦 界 で あ る 。 し か し そ れ は , た だ た ん に 厳 格 な 検 関 市j
震によって外界からの譲触のチ
ャンスを可能なかぎりシャット・アウトせんとする.いわば量的主情報の窪少性のみに由
来 す る の で は な L、。そこでの国難性は,そのように限定されて入手される資料のすべてが.
党 や 国 家 の 好 む 方 向 に コ ン ト ロ ー ル さ れ 着 色 さ れ た も の で あ る と Lづ 質 的 な 事 情 に よ っ
て,さらに倍加される。つまり,ソ連では,科学を含むーさいの人間活動についての{吉報は,
正確な事実をインフォームすることで・なく,人間を一定の政治吾標に向って「動員する」
(mobilize)2) することを.第ーの狸し、としている叫
し た が っ て , こ の よ う に -}j的でョ歪
んだ報道を郎事実ないし完実と受けとることは危険きわまりなく.研究岳の厳に戒めなけ
ればならないこと改めて説くまでもない。
にもかかわらず,これらのソピェト出版・報道物は重要かつ注吾に悼するのである o i
な
青にもとづく。た
ぜ、か Y その訳は,それ以外に資事初マμ 、ということの抱に,つぎの事 i
とえソピ‘エトの報道・出版が特定体制に都合のよい教義を人民大衆に伝達・普及すること
勢
み;稿の要約(約三分のー〉として,早川徹訳 Fソヴェト連邦共産党史(追檎第三版)j(東京:読売新
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江 の 拙 解 説 [ 四 つ の 『 党 史 』 を 比 較 し て Jp
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. 230; 木村浩/松永緑弥訳 J
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煉獄のなかでJl 1 (東京;タイム・ライフ・インタ
ーナショナノレ, 1
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9
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3
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.
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) ソピエト体制を「動員 (
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) 体 耕j の 典 型 と み る 最 近 の 西 部I
Jの研究重志向にかんしては,
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. (NewYork: TheFree Press,1
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), p
p
. 388-90 参照。
3
) 辻村明氏は,社会主義社会における情報の特畿を,①政治権力の全体的統制,①ー孟的な情報によ
る指導,①大衆への不信,①プリミティプな需報手段の発達,①流言の横行,に求めておられるむ
1
)
j 大衆社会と社会主義社会j] (東京:東大出販会. 1
9(7
), p
.7
7
.
辻村l
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木村
況
を吾的とする宣伝媒体であるにしても(またそうならば尚さら λ そ れ は 亦 宣 伝 一 般 の 法 則
に頴さねばならぬ。即ち,宣去は送ち手によって操作されたものであるとはいえ,その効
率は受け手たる畏衆の反応の頭数によって示され,しかもそのさい「童偽は,結局は宣伝
を阻害する J4)からである O 受 け 手 が 真 面 白 に 受 け と め な い パ ン フ レ ッ ト の 生 差 は た だ 徒 ら
に無意味な反古の r
!Jの構築にすぎないのである。ここにおいて,ソピ、エト指導者の側は摂
界にぶち当らざるをえな L、。つまり,報道・問販の吉パーセント政治化・官製化は不可能
なのだ。その中になにがしかの本物の清報を挿入しなければ,受け手に見向きもきれなく
なるのである O
そして,このように混入されたー握りの真の情報こそ,
ソピ、エト社会の研究者がまさに
見逃してはならぬ貴重な資料である。ここに口、かに謹小な断片的証拠で、あれ,それを手
掛りにして,クレムリン城壁内で進行中のことを誰論する神秘科学jりとしてのクレムリノ
ロジーが作動を開始せねばならなし、。もちろん膨大な贋物のなかから真理の一片をえり分
汁キャッチすることは至難の技である。しかしこれ以外に方法はなく,又ていどの差こ
そあれ抱のいかなる体制にかんしても行なわれている作業である。そして,そのさい要請
される最も有効なアプローチは,
ソピ、エト資料を注意深く謎続的に詑較検討することであ
り,かくしてはじめて一枚岩的な報道管制下におかれているソビエト文書にもその記述の
ア Fセ:;1-
謹かばかりの強弱の推移に重大な致策や指導者の変化が,反映せしめられていることに気
づくであろう。亡命後西側最大のソ連通となった
w. レオンハルトも L寸。「ソピ、エト・
システムのもっとも明敏な鑑定家ですら,唯一つのソビエト覚え書きまたは唯一つの党決
議を分析するのでは,ほとんどなんらの発展額向について語りえないだろう。だが,
ドイ
ツ問題にかんするすべてのソビエト覚え書きまたはスターリン死後の企業経営にかんする
すべての党ドキュメントや公式論文を比較するならぽ,興味深く広範な結論が与えられる
であろう戸(傍点一木村),と。
さて,前置きが長くなったが,以上のような問題意識にもとづき,本稿において筆者が
試みようとするのは,ソ党史の比較研究である。間違いなく同一系統とみなしてよい一冊
本 の 「 ソ 連 共 産 党 史 」 が 過 去 四 謹 類 7)発行されハンデイであるうえに,
それらはそれぞれ
スターリン,フルシチョフ〈三種),プレジネフ期的にまたがって刊行されたためその間の
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) 第 ー は ,Hcmopufl 8cecolO3HoU 1
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) プレジネブ期の第二のもの,即ち『ソ連共産党史〈追補第四寂)JHcmopufl1
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) の刊行が 1
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1年 末 に 予 定 さ れ て い る が (H08ble KHUZU CCCP. MocKBa: <<Me.
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党史と政権
差異はきわだっており,筆者によるまず手はじめとしてのプリミティブなコンテント・ア
ナ ザ シ ス の 操 作 対 象 と し て 恰 好 と 思 わ れ る の 。 大 方 の 忌 障なき批判を乞いたい。
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そのさい,四種類の党史の検討は,大芳Jjして二つの作業に分けられよう。ーは,歴史的な
1
)。
推 移 の な か に 変 化 の 要 因 を 模 宗 す る 試 み で , い わ ば vertical なアプローチといえよう (
二 iL 文 字 通 り 四 つ の 党 史 を 同 一 組 上 に 載 せ て の 比 較 , 即 ち horizontal な ア プ ロ ー チ で
ある (
1
1
)。 だ が , 政 治 学 徒 の 最 終 日 標 は 歴 史 の た め の 歴 史 , 比 較 の た め の 比 較 に は な く ,
あくまでそれらを踏まえての現地点の分析(そして未来子掛けにある
1
それ故,このつ
つの作業中におし、ても筆者の最大の関心が最新版たる『ソ党史(第三販)j] (仮に‘ブレジ
ネフ'党史〉
に向けられることは三うまでもないが,さらに問題をこの点のみに絞り『党
史(第三板)j]を素材に使い現ブレジネフ政権の基本路線を迫持集 I!~ ,(z
]に 探 求 Lて λ る必
要 が あ ろ う ( 11
1
)。
I 歴史的概観
先に科学を含むーさいのソピ、エト社会の情報活動が政治イとするのを祖止する要素と L
て,それら清報の受け手たる民衆の存在を挙げたが,
もう一つ忘れてはならない ~ljlJ 約要素
がある n そ れ は , 情 報 の 直 接 の っ く り 手 た る 人 々 . 本 稿 と の 関 連 で い う な ら ば I
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であるのたしかに,
ソビエト埜史学者ーたちは,科学アカデミー歴史部会,マルクス・レー
アギト・プ賃プ
ニン主義研究所等に所思し党中央委場動宣伝部の監督・管較に服し体制イデオロギー
の鼓吹・宣伝に奉仕する忠実な存在ではあるのだが,その専門家としての知識,経験,プラ
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を確{掠呆せんとする職業業-菜集-団でで、でで、もある 11
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子受乏,動的な」そ;flで、あれ
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を招き'被らの白発的協力がえら れ
j工;なくなれば,体制 I
L苛{との
ための神話づくりや者蒙・普及活動はたちまむ絶大なるピンチに追いこまれること必定で
ある。ここに,歴史家たちと体制とのその時:々の力関係を反映しての徴妙な綱引き競争が
展開する基盤がある。したがって,ソ速における政治と歴史学との関係は,アメリカの専門
家 S
.ヤコブソンが述べるごとく, I
命 令 的 ア プ ロ ー チ と 自 由 選 択 と の 事 実 そ の も の 戸 rse
でなく,体制の政治的基礎の強化に関心のある国家ならび党当局によって前もって規定さ
9
) こ の ほ か , 除 名 の [ ソ 連 共 産 党 史 jと 題 す る も の が 紛 ら わ し い ほ ど 多 稀 多 様 に 存 在 す る が , い ず J
lも
本稿の対象とする一間本の公式党史と同売に比較されるべき頬のものでないことに注意。たとえば,
教科書震に編纂された I
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; さ ら に こ れ ら と 比 較 に な ら ぬ ほ ど 重 要 な も の と し て H下 刊 行 緋
続 中 の 六 巻 本 HcmopUfl K
flCC(8 mecmumO.Max) (MOCKBa: 口OJ
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T, 1964~) があ
り,これは全巻完了の暁に, ソ 連 邦 に お い て 最 も 大 部 で 権 威 あ る ' 党 史 決 定 版 左 な る こ と が 約 束 さ れ
ているものではあるが,やはり本椋の対象外である
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.エ ン テ ィ ー ン も 述 べ る o iソピエト生出ーの西鎚観測者は,
ソピエト壁史学を政治的バロメーター
として解読する。彼らによって意識的 i
こ拙かれた諸事件よりも声明の'性搭こそが研究のた;象である j
と
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) こ の 「 ソ 連 邦 に お け る 歴 史 学 の 政 治 か ら の 相 対 的 独 立 性 」 が , N. Heer l;..:史の卓越したハーパート
大 学 提 出 博 士 論 交 の 結 論 で あ る o Nancy W
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木村
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れ た 発 見 と 事 実 資 料 の 自 岳 な 解 釈 と の 間 の 絶 え ざ る 葛 藤 の ス ト ー リ -J12)とみなされる。
では,体制ー歴史家一民衆の三つ巴の函数としての党史は,具体的にはし、かなる歴史を
辿 っ て い る か ? 党史の歴史的変遷の側面を.このような視点に,その背景や内容上の特
徴を織りこんで素描してみよう。
(
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) !iスターリン小教程j]-1938年一
ノート
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第 一 番 目 の 党 史 で , 一 般 に 「 ス タ ー リ ン 小 教 程j と 呼 ば れ て 悪 名 高 い 『 全 連 邦 共 産 党
スターリン小教程』ないし単に刊、教程』と略すーーー
(ポリシェヴィキ)小史 jj13) _ 以 下 f
1
9
3
8年 9月に出版された。 1
9
3
8年 と は , ソ 連 が 社 会 主 義 建 設 の 段 階 を ほ ぼ 完 了 し
は
,
いよいよ共産主義をめざし漸進的移行を開始したと公式にみなされた転換点で、ある。また,
スターリンが,
一応 2
0年 代 の 権 力 関 争 期 に 敗 北 せ し め て い た 政 敵 た ち を さ ら に 物 理 的 に
抹殺しさることにより,自己の権力を挑戦不可能なまでに確立せしめた時期であった。こ
のように 1
9
3
8年 の 『 小 教 程J出版は,
ソピエト国家とスターリン個人にとり,
まことに
タイムザーであるとともに,それ自体が一つの里程表を聾するという象徴的価値をも担っ
たのである。
のちの党史がやや便宜的に「フルシチョフ党史ム「ブレジネフ党史」と略称されるのに
たし、し円、教程』のばあいは名実ともに「スターザン党史 J と呼ばれて然、るべき理由が.
二つある。ーは,それが「スターワンによってつくられた」からである。刊、教程』の正
式の著者は編集委員会なる(匿名〉集団であるが,そこでスターリンが演じた役割の大き
さに異論をさしはさむ余地は全くなし、。彼は,少くともその一節「弁証法的および史的唯
物論について J14)を自ら書きおろすほか,
編集委員長として監督校関を陣頭指揮し,
全編
の構成・叙述について細かい指示を与えたといわれる。したがって,実糞土問、教程』を
スターリンがつくった党史とみなして間違いないのである 1530
つ い で な が ら , 後 年 フ ル シ チ ョ フ は , ス タ ー リ ン が 刊 、 教 程2全 部 を 一 人 で 執 筆 し た か
の ご と く 主 張 し た 廉 で 非 難 し たO これは,フルシチョフが,他方において円、教程』の内容
自体を批判している点と矛盾するのであるが,スターリン打倒のみが念頭にあった彼は,
そう Lづ 矛 盾 に は ー さ い お 構 い な く , ス タ ー リ ン 弾 劾 に 役 立 つ も の は 何 で あ れ 一 切 合 切 援
用したので、ある。つまり,例の秘密演説 (
1
9
5
6年 の 第 20回党大会〉中において,フノレシ
チ ョ フ は , ス タ ー リ ン の 独 占 的 な 名 誉 欲 を 示 す ー 証 左 と し て 『 ス タ ー リ ン 小 伝j
j
(
1
9
5
1
)の
校正脱が最終織にいたる経過中に,
J
I小 教 程 』 の 著 者 が 集 団 か ら 個 人 ( = ス タ ー リ
γ〉 へ
1
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) Sergious Yqkobson,“ Postwar Historical Research in the Soviet Union,
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)一以下 Kpam1Cufi 1
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田開雷太郎訳『全連聯
共産党小史Jl (東京:大雅堂, 1
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)な ど のl
日訳ほか, 東 方 出 版 部 訳 Fソ連共産党〈ポリシエヴイ
J (東京:東方書庖. 1
9
7
1
) などがある。
キ)歴史小教翠J
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小教程』を,
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党史と政権
と,つぎのように名義変更された例を指摘した1
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[fスターリン小{云』最終尉〕
一九三八年同志スターリンによって執筆さ
れ,全連邦共産党中央委員会(ボ)の小委員
会で、承認された f
全連邦共車党(ボ)小教
程Jが現われた均。
スターリン小伝』校正融〕
全連邦共産党〈ボ)中央委員会の争委員会
は,罰志スターリンの指導下に,その最も積
極的な個人的参加を得て, r
全連邦共産党
〈ポ〉小教程Jを準備した 17)
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二は,円、教程』が,
レーニンを除けば,「スターワンをも主人公、として中心に据え
た 」 党 史 だ か ら で あ る O それは,まず, 1) 党史がスターリン{白人の発三やビ‘へイヴ
f
ヤー
中 心 に 展 開 し て ゆ く 内 容 構 成 に な っ て い る 事 実 を さ すO こ の 西 側 専 門 家 に よ っ て 「 党 史 の
バーソナ
{
詩
Fゼ ー シ ョ y
人
化 J (B.ウノレフ)19)と名づけられる現象は. 1:去にソ連内部でも指弾の的となった。
た と え ば , フ ル シ チ ョ フ は , 例 の 秘 密 演 説 の r}
,
で
,
円、教程J
が ~J: と L て「スターリン,
ス タ ー リ ン の 演 説 , ス タ ー リ ン の 報 告j に つ い て 語 り , す べ て の こ と を い さ さ か の 例 外 も
20
なく「スターリンの名称と結びつけている J
)と非難した。つぎに,
2
)
r
I
J、教程 Jに お け
るスターザンは栄光に包まれた勝手J
Iのも英雄事として現わ,1
eて い る 事 実 を さ す 。 同 書 中 に
は
,
rレーニンとスターリンム
「レーニンースターりン J と い っ た 試 に ス タ ー リ ン を レ ー ニ
ン と 等 詰 同 列 に 高 め た 記 述 が 見 ら れ る 21)ほ か , ス タ ー リ ン 個 人 の 言 動 を つ ぎ の よ う に 極 度
に 美 化 し た 移 飾 匂 や 讃 辞 は 枚 挙 に 患 が な L、。日く,スターワンは.
り,生徒であり J
.
rレーニンの戦友であ
r
レーニンの立場を全面的に支持し J
.r
党の名において露大なる誓いを
たて J
.r
党 を 中 央 委 員 会 の ま わ り に 毘 結 さ せ J(ただし,別の箇所では. 1
党はスターリン
のまわりに団結」とある),
r
最 も 露 大 な 政 治 的 意 義 を 有 す る 論 文J を書き, r
歴史的意義
を右ーする発言 Jや 「 大 き な 意 義 を も っ 報 告 j をおこない,
.
算 を つ けJ
r
重大な革命活動を遂行したJ
22
),等々つ
グローリ 7 イケ--;;ョ y
この丙側専門家によって fスターワ
ン の 栄 光 化 J (しシ?ピーロ)23)と 名 づ け ら れ る 現 象
ことになった σ たとえば,フルシチョフは,
日、ロツキズムとの関争 i
こ総決
ι
後にソ連内部で非撃される
同じく秘密演説の中で.
r
スターリンは自己
の 人 格 を 賞 め 讃 え , 光 栄 あ る 共 産 党 の 10月 革 命 以 後 の す べ て の 歴 史 的 全 時 期 を ひ と え に
もスターリンの天才、の行動に変形せしめている J243と攻撃したゥ
さらに,
自らが著者で
あると主張する書物の中でのスターリン岳身による自己讃美の厚顔無恥ぶりを批判して,
「マルクス・レーニン主義者がこのように自分自身のことを書き,自己の人格を天に J~ì く
1
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tUnion,February25
,1956,
"The
,ColumbiaUniversity,(
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Communism (New York:ColumbiaUniversityPress,1
1
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.
1
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) マルクス=エンゲノレス=レーニン箭究所編,宮本良夫訳, r スターリン小伝~ (東京:大月書!吉田氏
文庫, 1
9
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), p
.1
2
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fKhrushchev… p
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,249,3
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. 187
,132,256,255
,266,295,300,182,255,7
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.
2
3
) LeonardSchapiro
,
“ ContinuityandChange i
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, p,7
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, "p.73.
2
4
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5
木村
汎
ま で 賞 讃 す る こ と が で き る も の か J25)と弾劾したc
また,問、教程』は,も善玉、同様,も悪玉、も至極明解な形でうち出しているのが特色
を な すc エネミー・ナンバー・ワンとされたのは,
トロッキーである 2的。トロッキーは,
『小教程』刊行当時すでにメキシコに亡命中で,スターリンにとりなんら現実的な脅威と
ならなかったはずで‘怠るが,スターヲンは,国の内外におけるその侮るべからざる影響力
のゆえにトロッキーがあらゆる反スターワン派を糾合する精神的結節点となることを倶れ
たのである。そしてこの最大のも悪玉、トロッキーに唆かされそのまわりに屈集して陰謀
を企んでいるとされたのは,
ピャタコフ,
ラデック,
ラコフスキーらのトロツキストた
ち,そしてジノーヴィエフ,カーメネフ,ブハーリンらであった。トロッキーおよび彼と
ジノーヴィエフ連合に向けられた目、教程』のレッテルはただ凄絶の一語に尽きる。たと
. 1"労働者階級の歎蟻者 j,1"外昌信報機関によって編成されたスパイム
えば, 1"人民の敵 j
「節操のない立身出世主義者ム
{度し難い二股膏薬 j
. 1"政治的ペテン師 J
, 等々。
さらに
『小教程』最終章最終節のタイトノレも, 1"プハーリン=トロッキー的スパイ,害毒者,裏切者
Jvヱ,これら国内の裏切者たちの背後で
の 残 党 の 精 算 J2めと題されている。最後に, Ir小教程I
彼らを操り使験しているのが帝国主義者ことに呂独ファシストに他ならぬと断定する 2
9
L
も ち ろ ん , か よ う な 「 善 玉 - 悪 玉 Jな い し 「 友 一 敵 」 の 図 式 を 単 純 明 解 に う ち だ し た 完
全 な 勧 善 懲 悪 型 の 刊 、 教 程Jがふつうの意味で、の歴史書たるはずはな L、。良くも悪くも一
定の立場をとることを正直すぎるほど卒直にうち出した政治的パンフレヅトとみなしたほ
うがよし、。いな,逆に,特定致権を宣伝・擁護するための資料たることこそ,
円、教程』
が当初からめざした目標なのであり,この意留は,円、教程』出版に付随した党中央委の特
別手匡告中に公表されていた。すなわち,布告 i{
全連邦共産党史小教程》出版にかんする
1
9
3
8
. 11
.1
4
) は,町、教程』の課題が「マルクス・レーニン主義
党 宣 伝 の 実 施 に つ い て J(
にかんする脊害な俗流化を排する Jこ と に よ っ て 「 党 史 に か ん す る 統 一 的 指 導 を 可 能 に
カ -.
.N
しj 1"理論・宣伝活動に従事している幹部要員に資する j た め に あ る 旨 , 明 確 に 宣 言 し て
いたきの。つまり,この刊、教程 J出 版 は , 対 イ ン テ リ 宣 伝 を 従 来 の 口 頭 に よ る 方 法 か ら 印 刷
物 へ 転 換 Sり す る に さ い し て の 最 適 の 宣 伝 媒 体 を 提 供 す る も の と 目 さ れ た の で あ る 。 か く し
. 1"党の基本的イデ
て,刊、教程』は, 1"ソ連邦におけるすべての政治教育の基本テキスト j
2
5
)l
b
i
d
.
2
6
) トロッキーは,その後のすべての版で非難され, r
党史の数少ない園定された点の一つ (oneofthe
few f
i
.
xed p
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)Jになっている。 た立し, かつての「裏切りの陰謀家というイメージから政治
上の敵J とLづ風にやや非難のニュアンスが変ってきていることに注意。 Nancy Whittier Heer.
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. (Cambridge,Massachusetts: M. 1
.T. Press,1
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. 少くとも 1
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7年におけるトロッキーの功績に触れようとする最近のソピエト歴史家
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の動きについて,“ Discussionofthedraftthirdvolumeofthe註 i
(No.6
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.Apri
11967),p
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.
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) Kpaml
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,CTp. 226-227.
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.CTp. 331
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) “ no白 aHOBKenapT凶 日0員 nponaraH)l.bI B CBs3H C BblnycKoM 総予aTKoro Kypca H位。pHH
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"K万CC8 pe30.ll1O勾UHX U pelUeH.UHX Cちe3δ08lCOH.rtepeH.勾UU U n.lleH.y.M08llK.
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,1953),CTp. 859-860.
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. (MOCKBa: rOCnOJIHTH3瓦aT
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J
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,CTp.86丘
6
党史と政権
カ テ キ ズ ム
オ ロ ギ 一 文 献J
,I
党 の 教 義 問 答 書J
,I
諸 科 学 の 百 科 辞 典J と し て , ス タ ー リ ン の 死 (1953)
バイプル
までの 15年 間 に わ た り , ソ 連 , 諸 外 国 の 共 産 党 , そ し て 国 際 共 産 主 義 運 動 の 聖 典 と し て
打1
取 し つ づ け た 。 総 発 行 部 数 5,
000万 部 と い わ れ る O
(
2
) 党史不在嘉一語和と引締め--
--1953~1959 年一
1953年 3月 5 日のスターリン死去とともに,
三及されることも次第になくなった。
u
ス タ ー リ ン 小 教 程 J も ま た 印 刷 を 止 め SD,
こ の 時 点 か ら 1959年 6月フノレシチョフの手によっ
て 『 ソ 連 共 産 党 史 』 が 刊 行 さ れ る ま で の 6午関. ソ ビ エ ト 社 会 に は 党 史 不 在 の 時 期 が 続
くつだが,それは,党史の完全な空白期.すなわち党史をめぐる一切の動きの存在しなか
っ た 時 期 だ っ た の で は な し 、 否 , む し ろ , そ れ は . 円、教程 J の 権 威 を 否 定 し そ れ に 代
る新党史の作成を正当イとすると L、う大作業がなされた時期なのである。
改めて言うまでもなく.この価値転換;土,
1956年 の 第 20回 党 大 会 で 幕 を 切 っ て 落 さ れ
たスターリン批判の歴史学における必然的な帰結として生じたのである。では,スターリ
ン 死 後 か ら そ の 批 判 ま で の 時 期 (1953
一日年) に 党 史 批 判 め い た こ と が 全 く 起 ち な か っ た
かというと,容は否である。すなわち,
rとっちつかずの J (A. ワース戸へ「移行の J (1¥.
I
混 乱 し た 中 間 期J (
N
. へアー)33)と規定されるこの 3年 間 に , 以 下 の よ う
可党大
な . と り 様 い か ん で は 歴 史 学 の 分 野 に か ん す る か ぎ り , ス タ ー リ ン 批 判 が . 第 201
マズーア)め,
会を侯たずして既に火ぶたを切っていたと解釈される諸事実が発生していたので忘るC
アギト・プロプ
まず注目すべきは, 1953 年 8 月 ~6 B発 表 さ れ た 党 中 央 委 討 属 宣 伝 潟 動 部 の 「 ソ 連 共 産
7,
500字 ) 中 で . ス タ ー リ ン の 名 前 が ほ と ん ど 言 及 さ
党 50周 年 (1903-53) 記 念 テ ー ゼ J (
れ な か っ た ( レ ー ニ ン -83同 , ス タ ー リ ン -4同 ) 事 実 34)で二ちるのもっとも,スターリン
の代りに他の党幹部の名前があげら,れたわけでもな Lいけだし宅、当時主だ明確なスターリ
ンの後継者iJ~ l
i
i現
Lて い な か っ た か ら で あ る っ そ こ で 、 こ の 事 件 は , 両 側 の 明 敏 な ク レ ム
リ ノ ロ ジ ス ト の 自 に と 主 り , 混 沌 と し た 「 不 確 定 な 新 時 代 の 開 始 を 告 げ る 兆r
f
芙J (
B
.ウ
ノレ
フド a)と受けとめられ,
された。つぎに,
さ ら に は 「 公 式 党 史 修 正 の 第 一 歩 J (¥^1.レオンバルト)30) と解釈
1954年 1月 刊 行 の 『 党 決 議 ・ 決 定 集 』 新 版 に ス タ ー リ ン 持 代 に 含 ま れ
l, そ れ ら が 円 、 教 程 」 に か わ る 新 Lい 党 史 教 育 の 基 礎
ていなカミった多くの文書が公表さ J
と さ れ る こ と に な っ た 8730 また,
19S4-56年 に か け 『 毘 史 の 諸 問 題 』 や
Tコムニスト J誌
上で展開された. ソピ、エト社会史の時代 i
三分論争 38)に よ っ て , そ れ ま で 結 対 視 さ れ て き た
3
2
) M. ラ ッ シ ュ に よ れ ば , ス タ ー リ ン 死 徒 も j小手~;jj)J]は依黙出寂されていた(たとえば 1955 年 9JJ
2
9日に 20万 部 )
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,TheRiseofKhrushchev. (Washington,D.C.:Public A百a
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. 安田志郎訳 Eニキタ・フルシチョフJl (東京:時事通信社, 1
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) AlexanderWerth,R
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. (England: PenguinBooks,1
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敏 訳 Fロシアー希望と懸 J
念一Jl (東京:紀伊唇l
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. CPrinceton,NewJersey: D
. Van NostrandCompany,Ltd.,
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. 加藤雅章訳 iソ連の指導者と政策.Jl(東京:サイマル出販会, 1
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),p
.
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9
.
3
7
)I
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. 向上。
:
)
8
) 詳しくは,国中跨児/米 J
I
I哲夫訳編『ロシア史の時代区分Jl (上・下) (東京:有斐霞, 1
9
5
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), と
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2
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4
5
2考照。
に程田章夫「ソビエト社会史の時代灰分論争J
7
木村
汎
f
小教程』の時代区分の権威が揺り動かされることになった。
これらの事実は,たとえ先駆的意義をもっとはいえ,まだ断片的,萌芽的な胎動にしか
すぎず, ['スターリン小教程』にた¥..、する正面切っての挑戦とみなしえないかもしれない c
だが,第 20回党大会の直前,今度はとうてい無視しえない事件が起った。服部年 1月 2528 B,モスクワで 600名以上の『歴史の諸問題』購読者の参加をえた歴史家協議会が開か
.H.プノレジャーロフを先頭とするリベラル
れ,司会議の席上, ['歴史の諮問題J編 集 次 長 3
な歴史学者が,旧来のスターワニスト党史研究に重大な疑いをさしはさむ発言をおこなっ
一部の党史研究者がドグマに虜われて多くの重
たのである S的。とくに,ブ、ノレジャーロフは, I
40
要 問 題 を 解 釈 し 刊 、 教 程Jの祖述に自らを閉じこめている J
)事 実 を 大 胆 に 揖 発 し ス タ ー
リンによって抑圧された壁史家 M.H.ポクロフスキーの再評価を示唆した 4130 主として党
人歴史家の強い反援に出遭って会議全体の主流とはなりえなかったとはいえ,このブ、ノレジ
ャーロフ発言はスターリン史学批判への注目すべき重大な一矢と解釈されねばならなし、
このように次第に勢いを募りつつあったスターリン史学および刊、教程』の批判は,つ
いに第 20回党大会 (1956年 2月 14-25日〉で爆発点に達した。多くのスピーカーが党史
の弊害を個人崇拝に結びつけて批判したが,そのうち主なものは,フルシチョフ,
γ,
ミコヤ
A.M.パンクラートヴア(['歴史の諸問題J編集長,党中央委員)の 3人だった。
まず大会初日 (2/14) の党中央委員会報告のなかで,
フルシチョフ
〈党第一書記,
首
相)は, 1938年成立の刊、教程』がその後の党の歴史的発展をカバーしていないうえに,
党幹部の宣伝・教育資料としても失格であるため,新党史の作製が必要となったことを,
つぎのように指橋した。
「過去 1
7年間,
われわれの宣伝の基礎にすえられていたの法,
主として町、教程』党
カ -1
" A-
史だった。わが党の名誉ある党史は今後も幹部要員教育のもっとも重要な典拠のひとっ
たらねばならぬ。それ故に,党の世界史的意義を有する,共産主義をめざす試みが科学
的に総合され,今日までの叙述をカバーする,歴史的事実にもとづいた,一般向き党史
教科書を創る必要がある心的
大 会 3 日目 (2/16), ミコヤン
(第一副首相,当時フルシチョフに次ぐ No.2 の実力者)
3
h すなわち,
も,同様の主旨をさらに敷約した 4
I
わが党とソピエト社会の歴史の分野に
おける学問的アルバイトが,恐らく,わがイデオロギー活動のなかでもっとも遅れた部分
である j と診断したのち,
ミコヤンは,
I
われわれの宣伝活動〈傍点一原文〉が思わしく
ない状態にある j 主な理由を「マルクス・レーニン主義をひとえに刊、教程J党史にのみ
準拠して勉強している J ことに求め, Iこれは,もちろん,誤っている」と断言した。
3
9
) 会議の様子は, Ii歴史の諸問題 3 誌二月号に搭載された。 “
Ko
日
中epeHUH兄 可HTaTeJIe詰>KypHaJIa
<<BonpOCbI I
1CTOPHH>)",BonpocblHcmopuu. (地2,1956),CTp. 199-213.
4
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) TaM:JICe,
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14-25 cte8pa
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H 1956
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2
) X X Cbe3
Cui
J omttem.TOM1
. (MocKBa:rOCnOJIHTH3
,
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,1956),C'I手 114.
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) :CmeHOzpactUtteC1
.c
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.
4
3
) TaM :JICe
8
党史と致権
i
現 存 の 刊 、 教 程 』 党 史 が わ れ わ れ を 満 足 さ せ え な Lゴならば, わ が 属 の 壁 史 家
たちの任務は「円、教程 3 に記述された多くの事実や事件に, レーユン主義の見地から,
そして,
よりよい照明を与える J ょ う 努 力 す る こ と で あ る と 結 論 し た 。 こ の よ う に 最 高 政 策 決 定 者
の爆弾的発言に東日戟され. 1月 の 歴 史 家 協 議 会 で は 二 股 膏 薬 的 な 立 場 を と っ て い た パ ン ク
ラートヴァも 44
,
〉 つ い に 大 会 7B目 立/
2
0
), 明 擦 な る 『 小 教 程i批 判 派 に 態 度 を 踏 み き
った o !;(史は,
i現在,
r
党史にかんする真言語目な学問的労作を誌とんど発見できずJ
, わ
が偉大な共産党の歴史研究を真に学問的な高みにひき揚げるという任務が,まったく焦居
の急に追っている j が , そ の 主 た る 理 由 は 「 進 歩 的 学 問 に と っ て 障 害 物 と な る 摺 入 崇 拝 の
影 響 が こ の 分 野 に と く に 強 く 現 れ て い る Jか ら だ と 説 明 し た 45L さらに,彼女は,この個
人崇拝がー謹の明らかな英雄史観となって円、教程』を貫流しているが,それは唯物史観
ならびに人員大衆の役割を重視するマルクス・レーニン主義と相容れないと非難した。
「周知のごとく,マルクス・レーニン主義は個人崇拝を,唯物史観からの重大かつ有害
グロイ
な逸脱のひとつ,観念論の広汎にゆきわたった形態のひとつ,
とみなしてきた。〈英雄
と民衆》の理論は,大衆の創造的役割の過小評簡と結びついているの
歴史の真の創造者および原動力としての人民大衆の決定的役割にかんするレーニンの
教えを実現しつつある中央委員会誌,とうぜん個人崇拝にたいする競争を要求した。 J46)
ミコヤンとパンクラートヴァとの間には一種の連繋があった模様で,両者の発言の文言
にもいちぢるしい類似性がみられる。また,両者はともにはげしい刊、教程』の批判をお
こなったにもかかわらず,その実質的製作者たるスターリンの名前に京接言及していない
点も符合をーにしている円正面切ってスターリンを名指しで非難し『スターリン小教程』
批 判 を お こ な っ た の は , や 辻 り 大 会 最 終 日 (2/24-25) のフルシチョフ秘密演説であったの
既出と一部重複するが,関集部分をあえて引用する内
i[J全連邦共産党(ポ)小教程』は, {国人崇拝に満ちている…。スターリンがこの書物の
著者であるとするならば,なぜ伎は昌己の人格をそれ誌ど賞め讃え,わが光栄ある共産
党の 1
0月革命以後の歴史的全時期をひとえにもスターリンの天才もの行動に変形せしめ
る必要があったのか?……この本はソ連の社会主義的変移,社会主義社会の建設,工業
化と集団化における党の努力,ならびにその能レーニンによって示された途を逸脱する
ことなく歩んできた党のとった処置にみられる党の努力を正しく反映しているだろうか
?
こ の 書 物 は 主 と し て ス タ ー リ ン , 彼 の 演 説 , 彼 の 報 告 に つ い て 語 っ て い る O すべて
のことをいささかの例外もなく,披の名前と結びつけている。そして,スターリン自身
が
f
全 連 邦 共 産 党 ( ボ ) 小 教 程3を 自 ら 書 い た と 主 張 す る の は , 少 く と も 驚 く べ き こ と
4
4
) ソビエト歴史学の指導的地位にある絞女が,党路線の変更に退合して能えず昌己の見解を変えたこ
とにかんし, AlexanderD
allin
,
“ RecentS
oviet Historiography,
" Abraham Brumberg (
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.
),
R
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. (NewYork:FrederickA
.Praeger,
1
9
6
2
),p
.4
8
1
;Yakobson,
o
p
.c
i
t
.,
p.127参照。
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9
木村
汎
である。マルクス・レーニン主義者がこのように自分自身のことを書き,自己の人揺を
天に届くまで賞め讃えることができるものかり 47)
そして結論として,
フルシチョプは.
r
非常に近い将来,
科学的・マルクス主義的客観性
にしたがって編集された真語目な党史教科書を編集することが特に必要である J48)と言明
した。
第 20回党大会後,
ソビエト歴史家たちにとってさらに不確定な混乱期が訪れた 4930 な
ぜなら,大会によって遂にスターリン批判の「パンドラの籍」が関かれたものの,それを
どのていど真剣に受けとって歴史学に反映してよいものやら大いに途惑わねばならなかっ
0回党大会は,歴史家たちを,安
たからだ。 M.フェインソド、の比轍を借りるならば,第 2
;
O
)へ 押 し ゃ っ た 。 あ る 涯 史 家 は 用 心 深
全な浅瀬も危険な培礁も未発見の「海図のない海J'
く大事をとり与えられた自由の援界を教える事件をまとうとしたが,なかには新政策を額
面どおり(ないし過大に)解釈して直ちに行動開始した者たちがし、た。
F
歴 史 の 諸 問 題i
(科学アカデミー歴史研究所刊)に論揮をはる歴史家,なかんずく 1953年半ば以来同誌の
. ブ、ノレジャーロフが後者の代表である。大会 1カ月後刊行の
事実上の指導者となった 3
『歴史の諸問題j] 3月号は,
(恐らくブ/レジャーロフ執筆の 51))論説において,スターリン
を名ざしで非難しつつ「スターリン個人崇拝が主要史的真実の直接の歪曲を導いた J53)とし
な批判を展開した。さらに,同論説は,
て. [J小教程』の詳結i
役割の藍史的再評舗を促がした o
r
怠る歴史家は,
1905年のメンシェヴィキの
メンシェヴィキをツ
7 ーザズム専髄の
共犯者と描き,メンシェヴィキとポリシェヴィキとの……合同委員会の歴史を拒否してい
果 し て そ の よ う な … 事 実 を 抹 殺 し う る も の か ?J53)同誌翌月号のブノレジャーロ
る。だが,
フの詩文 D917年 3-4月におけるボザシェヴィキの戦術について」は,
さらに,
趣旨を
敷おしてつぎのように述べた。
f多くの地方で,メンシェヴィキと合同した組織がつくられた。合同の趨勢の展開は,
f
再然ではなかった。この事実をたんにポリシェヴィキの組織的弱さのみでは説明しえな
い。合同組織の結成は,多くの指導的ポリシェヴィキが,当時ロシア革命の発展の基本
的問題にかんする十分正確な路線をもっていなかったことを証明していた。 J54)
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fKhrushchev… p.73.
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) その後ずっとこの「不確定な過渡期 J (
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は,ほ
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完全に重複しているので,以後,前者のみ引用することにする。
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) 多くのアイデアならびに文言が, 歴史家協議会 (
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I)におけるプルジャーロプの発言内容と酷似
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,anpe品 1956),crp.39.
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党史と政権
Lか L,これは超えてはならぬ--線の侵犯を意味した。なぜなら,たとえ部分的にであれ
メンシェグィキを復権・擁護することは.ポリシェヴィキ的方法が唾ーの正しい途だった
と説くよ申話を稀薄イとすることに連らなり,
r
党の不可謬性」にたし、する最大の冒漬行為
;
'
5
)
どからである。
がんらい,
第 20回 大 会 に お け る フ ル シ チ ョ フ や ミ コ ヤ ン に よ る ス タ ー リ ン 批 判 の 一 環
としての歴史の書換え要求は,歴史的正確性を追い求めての高逼な学問的関心から発し
た紛のではなく,きわめて実務的かっ政治的な動機にもとづくものだったのスターリン批
判は,スターリン時代に形成された生活の全面におよぶ凍結一一沈滞,無気力,非能率一一一
えするためには,
状 態 か らE
ドラスチックな縞笹転換によるショック療法より他はないと直
観的に悟ったフノレシチョフの危険な〔ーだが,そうしないことは一層危険だった/~)賭け
であった。党史もまた従来の独占に由来する弊害一一現実遊離,ステレオタイプ,退屈なお
題自の反覆のため,革命の封印をかきたてるより冷却する方に役立っていためー
捨て懐疑的でソフィステ
f
をふり
ケートされた若 L、世代に訴えるよう工夫をこらす必要があっ
た。党史改変の意図は,これ以上でも以下でもなかった。換言すれば
20回 党 大 会 が 変
更 Lたのは. r
統制の緩和ではなく,むしろ党路線の変イヒJ
5りだった。その意味で,
心、ぜんとして大前提であるのみならず,
可 謬 性 Jt
r
党 J こそが.
r
党の不
スターリンという古い
偶段の破壊のあとその身代りとなりうる唯一のものとして,以前にもまして強化されねば
t
"
りに岳ら制約のあるこ
ならな治追ったのであるのしたがって,遅かれ早かれ非スターリン 1
事パーカヅずヨ y
と が 知 らしめなければならなかっ たので、あるが,国の内外におけるその忠わぬはね返 り
(とくに東欧動乱)に遭遇したフルシチョフ指車部は,託、密演説以来わずか西カ月経ぬうち
に子縞の引締めに転じ,それは当然歴史学の分野にも及んだのである。
1956年 6 月;末と推定される詰めこの政策転換は,
産史学者たちに「段階的に
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切に知らされたのつまり,はじめ口頭による警告,それが効を奏せず内外状勢がさ
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) ミコヤンは, 第 20回 大 会 に お け る 演 説 中 で , つ ぎ の よ う な 学 問 の 本 質 論 を 展 開 し て 拍 手 を 搭 ひ て
r
わが国の理論家の大多数は,慎い主されたヲI
J
詩句,公式,命題を色々ないまぜて反覆,パ
いた。
ラプレイズすることに専念している。(だが〉創造なしに,なんの学問か?それはスコラ主義,学
校 の 練 習 で あ っ て , 学 問 で は な L、 。 な ぜ な ら , 学 問 と は , な に よ り も ま ず 部 造 で あ り , 新 Lい も の の
造 出 で あ り , わ か り 切 っ た こ と の 反 覆 で は な L、からである J(拍手 )
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) Schapiro,Ojう.c
非 ス タ ー リ ン 化 J,主,もちろん西側の毘語で, ソピエトの文献中で用いられている黒語で;まない。
5
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ソピエト長I
Jの 「 ス タ ー リ ン 個 人 崇 拝 の 批 判 J に ほ ど 近 L
。
、 こ こ で は , 両 方 を 用 い る 。 Thomas B
.
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" ProblemsofCommunism.(vol
.XVI,March-Apri
11967)
p.82.
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0
) 党 機 関 誌 『 コ ム ニ ス ト j 6丹号上に例!の「スタ-1 } ン は あ ま り に も 粗 暴 す ぎ る … … 」 と 述 べ た 有 名
0回 大 会 以 来 の 非 ス タ ー リ ン 化
な fレ ー ニ ン の 遺 言 j の 未 公 開 の 補 遺 が 発 表 さ れ , い ぜ ん と し て 2
政 策 が 継 続 さ れ て い る こ と を 示 し た に も か か わ ら ず ( “ Heony6
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入 6月 30日 に は , 一 転 し て 本 文 中 の
中 央 委 決 議 が 出 さ れ た こ と か ら , 政 葉 転 換 の 決 定 は こ の こ つ の 事 件 の 短 L、 期 間 に 下 さ れ た と 推 定 さ
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木村
汎
らに緊迫したとき行政的実力手段に訴えられたのである O 第一の信号は,ポズナニ暴動開
始 (6/28) の 3 日後の党中央委決議「個人崇拝の克服とその結果について」だった。非ス
ターリン化にかんする唯一の公式見解発表であるこの 1956年 6 月 30 日付決議は,スター
リンによる「許しがたい誤り Jを彼の個人的資質と当時の具体的歴史状況の結合によって
もたらされたものと説明し,それが現在では清算され,将来二度と繰り返されない類のも
のとしづ立場をとった 62)0 7月には,党中央委の機関誌『党生活』に『歴史の諸問題』誌
の最近の論調を批判する論文も登場した。即ち,
E
. プガーエフ(同誌編集長,党煽動宣
I
W小教程Jが,たとえ事実上多くの誤りや不正確な点を含んでいるにせよ,
伝部長)は,
その有用性において初期の教科書とは比較にならなしづと名誉回復を図る一方,ブ、ルジャ
厳しい科学的アプローチを採ってい
ーロフ論文がレーニンの教えた「客観性を忘れj, I
8
3
0 ところが,この段階においてまだこれら党とその代弁者による警告
ない」と攻撃した 6
の意味に気つeかなかった(または気づかないふりをした)
W
歴史の諸問題』編集部は,
逆
にブルジャーロフ弁護に精力を集中した。たとえば,同誌 7月号は, Iブガーエフ論文は,
その本質において,すべてを旧態依然、に止めおくことを狙っている」が, I
第 20回党大会
は,マルクス・レーニン主義歴史学のみのりある展開のための明確なプログラムを与えた」
のであり,
Iソピ、エト歴史学者は,首尾一貫, 毅然として,このプログラムを遂行してゆ
4
3
0 プルジャーロフも負けずに,同誌 8月号に「再び 1917年 3-4月
く」との決意を述べた 6
5
入自己の見解をさらに敷約した。しかし 10-11
のポリシェヴィキの戦術について」を書き 6
月ポーランドおよびハンガリー動乱が激化したとき,党はさらに一層の引締めの警告をお
こなう必要を感じた ο すなわち,党の日刊機関紙『プラウダj] (11/20) は B . ス ミ ル ノ
ーフ
(モスクワ大学ソ連共産党史講座助教授) の同編集部宛の手紙を掲載したが,
その
歴史の諸問題』の或る論文が「個人崇拝の結果を批判するふりをして j,その実
主旨は, w
「党によって決定済みの問題を再検討し議論の余地ない真理に疑問符を投げかけようと
試みている j66)というものだった。また,党中央委員会は,年明けの 1月 12 日突如,同委
員会付属マルクス・レーニン主義研究所から新雑誌『ソ連共産党の諸問題Jl(隔月刊, 1963
年 1月から月刊)を創刊すると発表した 67)が,これは党史にかんするかぎりその独占的管
轄を従来の科学アカデミー歴史研究所発行の『歴史の諸問題』から剥奪することを意味し
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),
CTp.372. 初代編集長は,マルクス・レーニン主義研究所長
J
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. オピーチキン (06HQKHH) で
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.
あるが,彼は『歴史の諸問題』の元編集員時代,パンクラートヴア,ブノレジャーロフと「折りあい
が悪かった」と推定される。 Schapiro
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. 71
.
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党史と政権
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61 党 に よ る 自 由 主 義 歴 史 家 の 引 締 め の 最 終 ラ ウ ン ド は ,
なわち,党中央委員会は,間決議
J
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"二 訪 れ / こ 問 っ す
β 月7
11)1のの '
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'で,U[古里
1957.
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j
'
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1[ 1 照 史 の 諸 問 題 』 に つ い て 」
史 の 諸 問 題 』 編 集 部 の 「 許 し が た L、 誤 り 」 を 理 論 的 に 糾 弾 す る 71)と と も に , は 編 集 部 を ほ
ぼ完全に改組するめという実際的な制裁手段に訴えたのであるの編集長ノ二ンクラートヴァ
議責込分 73入編集員 11 名中フーノレジャーロブを合む 8~-- 罷免の現実に直面 L ,
さしも
の 『 涯 史 の 諸 問 題 j74)も.プj向 転 換 せ ざ る を え な か っ た i5)c
かくして,第
20同 党 大 会 に は じ ま る ソ 連 史 上 未 曾 有 の 「 県 史 学 の ル ネ
したのもちらん,
y
サンスれは冬お
Iソ ビ エ ト 歴 史 学 の 暗 黒 期 J(6)た る ス タ ー リ ン 期 へ の 逆 戻 り を 意 味 す る の
で は な L、 。 数 々 の 最 早 や 抱 消 し え な い 改 善 が 資 ら さ れ て い た 77)。 だ が , そ れ は 百 花 斎 放 で
はなく,あくまでコントローノレされた枠円での白出を怠卦ょしたわでは,
イ本ブノレジャーロ
ブ あ る い は 「 ブ 、 ノ レ ジ ャ ー ロ ブ 事 件 f吟 の 意 味 は な ん だ っ た の カ ミ ? ブ ェ イ ン ソ ド は , ü品;え~
rプ
(
8
) クレムリノロジスト B
. ニコラエアスキーは,権:力争いの見地からこの 1956-57年 の 「 プ ル ジ ャ ー
ロブ事件 Jを 眺 め よ う と す る 。 つ ま り , 彼 に よ れ ば , そ れ は , ま ず , 連 邦 科 学 : ア カ デ ミ ー 付 属 壁 史
s
. 党 中 央 委 員 会 付 属 マ ル ク ス ・ レ ー ニ ン 主 義 研 究 明 の 権 力 争 い で あ る 。 つ ぎ に , 1I霊史
学訴究所 v
の諸問題~ v
s
. W'~'t 生活』の見、'0 之, 党中央芸員会書記局内の二つの部門, 1
mちよる等教育科学部
(
第2
0酒 党 大 会 ま で パ ン ク ラ ー ト ヴ ァ が と り し き っ て い た ) v
s
. 幹部行政部(ロシア共和対モスク
.
ア リ ス ト ア 支 配 刊 の権力争いとして理解する必要が
ワ・ビューローのブルシチョブ代時 A
Lる
, と
。 Keep. (
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. なお, こ の よ う な ソ 連 邦 に お け る 歴 史 家 と か れ ら を 監 督 ・
J法にかんしては, Heer
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. 34ー持参照。
管轄する会式・非公式の組織機関とそのコントロール }
(
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) 党 に よ る 歴 史 家 の 引 締 め 処 舟 の 主 要 な 内 外 の 背 去 と し て は , ① 1956年 6月ーポズナニ事件, @
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;
J
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.
年 1
1月 ポーランド,ハンガヲー動乱,があげられるが, こ の ① 1957年 3J
](7)ばあ L、
は
, 特定
の政治的危機よりも t
rしろそれまでの警告を姉、出しつづける‘部産史家 iこた Lづーる I, された怒
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.
り」だったと推定される。 Heer
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) Cnpa80吃HUKnapmuuHozopa6omHuKa. (
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1)この決議は未公開〈当時)だったが, I
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J様の遊旨は, I
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'コムニストJl 3月号Ii命説中にくり返されたの
“CTporoco6J1おえ aTbJleHHHCKH員 npHH
,
uHnnapTH長HOCTH B HCTOpHqeCKO品 目 ayKe,
"Ko.M.MyHl
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),C
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) この改組が中央委員会書記局によって決定されるまでの経過は, クレムリン内のデシジゴン・メー
M. フェインソド教契紹介・ f
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Iの イ タ ザ ア 共 産 党 指
キ ン グ の 興 味 あ る 一 例jと し て 参 考 に 値 す る
導 者i
の報告 (
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' URSS.Roma: Editori Riunite,1958,p
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) 参照。 Merle
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:HarvardUniversity
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5
)。 刀p
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7
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)
) パンクラートヴアは,ほどたく失意のうちに死亡した (
BonpoCblHcmopuu. (ぬも a
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.
歴史学政誌の変化にしたが
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4
) ソ ビ エ ト 歴 史 学 の 主 要 誌 た る 『 歴 史 の 諸 問 題 』 は , その時々の党のよJ
って,たびたび改組,ときには誌名すら (
1
1階 蔽 闘 争 1 1931→『歴史雑誌j] 1937→ f壁史の諸問題』
1945
→ 〉 変 更 L てきており, 今恒j (
1957年 3月 ) の 受 難 ( ? ) が な に も は じ め て で な L、。このこ
と に つ き 示 唆 的 な の は Yakobso
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杢 史 科 学 に お け る レ ー ニ ン 主 義 的 党 派 性 を め ざ Lて !J と題する l
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命
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5
) 新 編 集 部 下 の 毘 誌 3月号は, I
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-,mをか L げ , メ ン シ ェ ヴ ィ キ と ポ リ シ ヱ ヴ 4 キとの;基本的相違を強調するとともに,スターリンを,
数 々 の 誤 り に も か L わらず, I
党の撤の曝露と根絶, 党の大義の勝利をめざす闘いにおいて, もっ
λ
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郎
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王y
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悶
とも大きな役割を誤じた, 卓 越 せ る マ ル ク ス ・ レ ー ニ ン 主 義 者 」 と 規 正 し た 。
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7
7
) た と え ば , キ ー プ は , 研 究 の ① 範 隣 , ① 資 料 , ⑦ 機 関 , ① 交 流 の 拡 大 を Keep. (
ブェインソドも,①アルヒーフ解禁,@国際的接触の増大,⑦新雑誌の発行,などを挙げている
Fainsod,
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7
. Dallin,0ρ.
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.783-4 も参照。
7
8
) この事件のもっとも秀ました解説は,既出の Fainsod,“ Soviet Russian H
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. (NewBrunswick,New Jersey:RutgersUniversity Press),p
1
3
木村
uの中で, r
過渡期は,歴史家にとっても,
ノレジャーロフの教訓
ランベットが吹かれるとき,
汎
危機である。不確定なト
きまってその調子を担え損う歴史家が幾人かでてくる」めと
書いているが,その「調子を担え損った震史家 j がプノレジャーロフを指すことに異論はな
L、。たしかに,
ブ、ノレジャーロフは自らをとり巻く政治的気流の変化を誤算した頭間な非政
治的人間の典型である。それ故.かようなソ連社会における歴史と政治のりアリズムの観
,
点からは. 1956-7年の「プノレジャーロフ事件 j は
紛れもなく震史の徒花であり,悲劇
と呼んでもさしっかえなかろう。だが,他方,伎がたんなる機会夜乗を金らむ「野心的な
学 箭 役 人J
(
A
.ユーラム)80)でなく,
自己の学問的信条に忠実に行動する歴史家であるこ
とを,その援の経歴(とくに 1962年 12丹開{匿の全連邦歴史家協議会の席上,彼は自己の
1956-7年の見解を変更していないことを立証したグ)81)で証明し,
さらに彼の見解の少な
からぬ部分がソピ、エト竪史学に影響を与え包摂されていきつつある助事実を識るとき,彼
および彼の事件の真の評価は未だ時機尚早であるというべきであろうの
それはともかく,
の時期が開始され,
r
混乱が収まり,
新しい主人の歌が高らか且つ明擦に響くと,
地留め
歴史家はふたたび行進しはじめる J (
M
.ブェインソド )83)0 1957年
7
月創刊された薪雑誌 Fソ連共産党の諸問題Jは,それまで『麗史の諸問題』が担当してい
た党史問題を決して行きすぎない形で受け継ごうとしたっ創子守第 1号の編集部の言葉は,
f哲人崇拝論争にかこつけて,スターリン著作中のもっとも重大なものを忘れさる弊害の
除去 J
8
4
)を力説したのそして我々にとって注意すべきは,
このような「スターリン批判J
に腰くだけとなった『ソ連共産党史の諸問題』に爾後分載されたソ連共産党史§めがそっく
りそのまま,
つぎに解説する 1959年の単行本『ソ連共産党史』
となっていった事実で、あ
るO
(
3
)
U~ ソ連共産党史j]
-1959年一
『スターリン小教程J の「誤りと欠陥を克服」し. 1"新しい文献を利用し新しい研究課題
を換討」した「最初の集大或fめとしての『ソ連共産党史 ~87)一一以後『ブノレシチョブ第一
版 Jないし E
五九年版 Jなどと略称一一ーが, 1959年 6 月刊行された。執筆者は,町、教程』
と異なり,明記され, 5.H.ポノマリョーフをリーダーとする 1
1名の科学アカデミ一正会
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. フェインソドらの反論, I
司書 p
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1 参照。
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.当時プノレジャーロフは,モスクワのレーニン教育研究所勤務だった。
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5
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. 以 下 HcmopuflKnCC (
1959) と略す。
円
1
4
党史と政権
テ 今 λ bプ ソ タ
コース
i
えからなる特別に迂命された執輩出である判。題名は i
;
数百 J (kypc) -c/
.
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可e
oHlfK) となっている司
出 版 の タ イ ミ ン グ は . ス タ ー リ ン 死 後 6年目的で,
ブノレシチ
ゴ ブ が マ レ ン コ ア ら の 政i
敢 を 打 倒 し 、 一 応 自 己 の ま わ り に 権 力 を 集 Iわした時点といえるの
、教程I
J (~~5 :2 p
.
) の 2倍 以 上 (74:
2p
.
) であるが,これは対象期間が:20年 も 明
分量は, u
ソj
大した事実にもとづく当然の結果といえるつ
I
L¥抜部数は,初抜 75万:
3へ 総 J
I
-500万(196:
2
fド現在 )9ηo :
2
-3撞 類 の 翻 訳 め が あ る 。
つぎに内容上の特色幼に移るつまず第--~二,
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小教室J
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萎I
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王神にも手しい地位から一挙に功j
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いうまでもなくスターリンであるのスターリンは,、ドi
半 iど す る , さ し て 重 要 で な い 人 物 に 転 落 し た の 次 章 で 1芹 述 す る が , ス タ 一 り ン は . た と え
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, 1917年 の i
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づけ, [-戦争!守的な誤葬 (
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11,加えした j告の,等々と掛かれている n
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) 強 調 LたJ'川入予々と宅スターリング)--定の功績も詳倒されている門
では,
u
五 九 年 版 J 党更において,
ブルシチゴプが曾つてのスターリンの地{立を J
I1¥めぐ
い る カ ミ と 云 え ば . 待 は 大 部 分 に お い て 「 ノ -J で あ る n
なぜなら,
['五九年;
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J におし、て
ソノレシチョブは『小教f!ljj におけるスターリンのおi き、 ì~ 人公、と L ては決 L て描カーれて
ないからである門
るのは,
745 ページからなる F 五九 1f.Jtf:d においてブノレシチ :1 ブの~が初衣場下
ょうやく 314ページに江ってカるらで
LjJ'も{也の:2:)名のポリシェヴーィキたちに
8
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) た'>:L,ブノレシチ三プ,伎の煽動-:t(伝担当官のスースロブ/J‘全較的監督をおこ/:(ったと
L、われ
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) レーニンタヒ佐, スターリン死法, プルシチョフ1::関i
徒 Gi
r討 の 時 点 に お け る そ れ ぞ れ の 後 継 1
1の 佐
か状況につしての, R
. レ ー ヴ エ ン タ ー ル の 興 味 あ る 比 較 と 1て, Richard Low
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3巻 〈 東 ;jt: U本 共 産 党 中 央 委 員 会 立 伝 ;
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),その能。
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&'~'t ~J2~ に つ い て J
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木村
汎
出 つ て の ア ル フ ァ ベ ッ ト 連 記 方 式 第 18位 ( ス タ ー ワ ン は 第 12位 〉 を 占 め て い る に す ぎ な
L。
、
ょうやくフノレシチョフが華々しく描かれはじめるのは,
6∞ ペ ー ジ を 過 ぎ た 第 四 回
党大会 (
1
9
5
2
) あたちからである。このような〈出場率》では,全編フノレシチョフを屯主
人公、とする党史とはとうてし市、いがたいのである。
《常時出場》の「傑出した活動家,深い理論家,輝かしいオルガナイザー jl02)の 別 格 官 幣
大社たるレーニンを一応到にして,スターリンもブノレシチョフもも英雄、として記述され
五
ていないとすれば,そのかわりに『五九年版』の中心に据えられているのは,誰か? u
九年版』党史は, 1
固人崇拝の弊害を或しめる風潮にも合致して,いわば特定個人不在の歴
史であり,強いていうならば,人民大衆,国家,致府,なかんずく「党」が歴史のも主人
ずイズイプル
イムグイズイプん
公、の地位に坐っている。つまり具体的・可視的な特定人物でなく,抽象的・不可視的な
存在としての《党》を主体として前語に押しだすのが,
u
五九年版』の基調と考えられる
のである。そして,明らかにそのような設定は,当時,過去の貢任を免除し現在の支配を
強化するのに打ってつけの工夫であった。つまり,個人崇拝から生れた数々の誤りや歪曲
にもか方¥わらず,
r
党はつねに正しく,
また党のみが正しかった」ことを主張せしめ,さ
らにこの「党 jの不可謬性の錦の御旗にかくれて「党 jを 権 力 基 盤 と す る 特 定 グ ル ー プ ( =
フルシチョブ一派〉の権威を正当化せしめえたのである。
では,、悪、玉、はだれか? 一説によれば,
J
I
五九年版』において,
も悪玉、もまた特定
個人でなく,メンシェヴィキという集団に変っているという。つまり,
s
. トロッキー」に担当する基本的対抗図式は,
る「スタリーン v
メンシェヴ、ィキ」となる州、ここで,
この国式は「ポリシェヴィキ
u
小教程』におけ
u
五九年版』では「党
v
s
.
r
党 J とはポリシェヴィキ党にほかならないから,
VS. メ ン シ ェ ヴ ィ キ 」 と な り , 客 観 的 に も ソ 連 共 産 党 の 権 力
闘争史の真髄にふれた叙述方法と考えられる。
キ」を単なる狭義のそれ自体と解さず,
というのは,このばあい,
r
メンシェヴィ
R
. ダニエノレスが『革命の良心』のなかで指措し
たように1O~)もっと広義に受けとる O 即ち,あまりにも正統なマルクス主義者であったが故
に却ってレーニン培下のポリシェヴ.ィキとの権力関争に敗れ異端のレッテノレを貼られた,
ェス・エル
ア yチ
すべての反ポリシェヴィキたち(=社会革命党,メンシェヴィキ,左翼共産主義者,労働
者反対派,民主的中央集権派,
トロツキスト,等々)の総合体に対する象徴的呼称と解す
る。そうすると, u
五九年版』党史は,まさしく「正統 v
s
.異 端 」 の 歴 史 と な り , 何 人 も 異
J
命をさしはさみえなくなるからである。
なお, [J五九年版 1 v
こは, この「メンシェヴィキ j のほか, 個 別 的 な 非 難 の 対 象 も 登 場
する。新しい
^ケープ・ゴーツ
r~責罪の羊」第一号は,ベリア。
ベリアは,
スターリンの護でスターリン
政 治 的 冒 険 者 j106), r
党 と 国 民 の 呪 う べ き 敵 jlO7)と描かれて
を 唆 か し た 「 ペ テ ン 踊 jl05), r
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.409-410; 届際社会主義運動
研究会訳『ロシア共産党党内調争史 J (東京;現代思海社, 1
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。
,
1
6
党史と政権
いる。つぎは,
1957年 7 月フルシチョフとの権力関争に敗れた「反党グ、ループ J の マ レ
ンコフ,カガノゲ
4 チ,モロトフ,シェピーロフ,ベノレヴーヒン,サブーロフ。そして,
この権力闘争過程でフノレシチョフに利用された後来てられたジューコフとブソレガーニンで
ある O
彼らは,そろって,その活動と業議を故意、に抹殺され 10,
吟
rレーニン的方針に反対ー
す る 分 派 的 ・ 反 党 的 な 活 動 に 従 事 し た J10の呂ーと描かれている。
F
五九年版』党史は末尾に近づくにつれ,
フ ル シ チ ョ フ 色 をJ
色、速に濃厚にし,
章 に お い て そ れ を a爆 発 的 な ま で に 高 め て い る 。 た と え ば ,
フノレシチョフの演説からの引用は,
最後の二
く最終章〉とく結論〉における
[i小教程』のスターリンに決して遜色がなし、 o .
f
t
l
lち.
円、教程 Jの〈最終章シの最後の引用文はスターリンであるが 110¥ [i五九年ー版』のく最終章〉は
フノレシチョフの引用文そのもので終っている 11130 円、教程 3の 〈 結 論 〉 が ス タ ー リ ン の 引
用 文 そ の も の で 終 っ て い る の に た L、
し 112), l
i
五 九 年 版 Jは マ ル ク ス と レ ー ニ ン か ら の 引 用
で 終 っ て い る 113) ものの, [i五九年版 Jの ぐ 結 論 〉 全 体 に わ た り , レ ー ニ ン ( 10河 ) と な ら
4回)ただ一人で、あるという状況である 11430
び引用されているのは,フルシチョフ (
『五九年抜 1 の も 主 人 公 も は 決 Lてフノレシチョフではない。
Lかし. 以 上 の 如 き 『 五 九
年 版 J の内容上の持色,すなわち①「党」の高揚,ミ会「反党グループ j の 攻 撃 , ③ 最 終 部
分におげるフノレシチョフ r
l
l心の叙述ー←ーこれらすべてを綜合してみると.やはりフルシチ
ヲフ偶人権力の正当 f
ヒという一点に収数 Lている事実を承認せざるをえないの『小教程』の
スターリンのぼあいほど直接的あかちさまではないが, l
i五 九 年 版 』 も ま た 時 の 支 配 致 権 の
νジ テ イ ミ テ ー 争
正 統 性 確 立 の た め の 手 段 的 性 格 を 担 っ て い る 点 に 変 り は な L、ところが,かような耳的か
らみて、 F 五九年版』は未だ不 I~ 分であり,軒定販と L ての資格 L か認めちれぬ代物だった門
F
五 九 年 版 J 党史が当初から過渡的使命を;需びていたことを示す三, 二.の事例がある門
た
。
主ず出版当時,刊、教程 J 刊行ーにともなったような鳴りもの入りの華やかさが欠けて L、
,
の λ ならず, [íコムニスト~ (1959年 7 月〉誌上の書評は『五九年版』党史の「銭舌な記述 J
云
「理論的援活の欠如 Jず ら 指 摘 し た 113L ま た , 党 中 央 委 決 議 「 現 在 の 状 惑 に お け る 党 主 f
の 課 題 に つ い て J (1960年 1月 9 f
l
)は
,
i一円、教官Ul を1. 1' 心として il 'r~ í.L~を推進する過去の
アブノーマノレな状態が除去された J
l
lのと述べたが,
九 年 版 』 に 一 言 も 触 れ な か っ た 117h 同様に,
そ の 代 う と Lて つ く ら れ た は ず の 『 五
1960年 春 の 高 等 教 育 施 設 に お け る 党 史 プ ロ
108) 一例をあげると,第四回党大会の記述のところでは絞らの演じた役割り,す主主わちモ戸トフ [
}
f
l
会演説,マレンコフ-1:要政治報告,ベリヤ一民族問題報告,サブーロフー第五次五か年計画i
報宍,
ブノレシチョブ,ブルカ ーニン, ミコヤン 党規約改正報告,カガノヴイチ 網罷改正報告 ρ、完全に
. CTp.6
0
8
.
抹殺され, r フルシチョフが党規約報告干上た」とのみ書か~.ている ν Ta.M JlCe
109) Ta
.M JlCe
.CTp.654-657.
1
1
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) Kpam1
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ypC.CTp.336.
1
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) Hcmo
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1959),
CTp.7
1
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.
1
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) Kpam1
C
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i
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C
ypC.CTp.346.
1
1
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) HcmopuH KflCC (
19
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9
),
CTp. 7
3
6
.
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1
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) HCmOpuHKflCC (
19
5
9
),
CTp.724
,730.
.5epe3KHH,C. Me3eHyeB,
“ repOHl.JeCKa冗 HCTOpHH KOMMyHHCTHl.JeCKO負 naPTHH COBe1
1
5
)A
"f(O.M.MYHucm.
TCKoro COI03a (K BhlXO江Y B CBeTHOBoroyl.Je6HHKa no HCTOpHH KnCC),
(XXXVI,N
210,
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.
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117) Ta
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. CT予
. 59
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1
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.
A
1
7
木村
グ ラ ム の 改 正 教 授 要 綱 も 『 五 九 年 版 i を 公 式 テ キ ス ト に 指 定 し な か っ た 118h さらに.
汎
wソ
連共産党史の諸問題』誌に F
五九年版』と戟触する内容の新しいドキュメントが掲載され
つづけたが,これは,少くとも『小教程』脊行後はその内容と矛話する一切の歴史書や資
料の発表・出版を厳禁して党史の独占的権威を擁護しようとした態度と異なるものだった。
(
4
) If'ゾ連共産党史(遺構第二販)~ -1962年一
1962年 11月 , 改 訂 抜 と し て の fソ連共産党史(追補第二版)j]-以下, wフルシチョフ
第 二 版 』 な い し 『 六 二 年 版 』 と 略 す 一 ー が 出 版 さ れ た 115)0 J
I
五九年版』と比べ執筆陣はわ
ずかー名の変更。分量は,
新らたな一章を加え,
41ペ ー ジ 増 の 784ページ。
これはその
後 3年 間 の 記 録 を カ パ ー す る 必 要 に も と づ く 。 発 行 部 数 は 100万 120九 日 本 訳 は な L、
12ih
『五九年版J と『六二年版』
との差異は,
たんなるページ数の量的増大にとどまるもの
ではなし、加うるに,三年間の政治=イデオロギー的気候の変化を反映した糞的な修正が
全 編 に ほ ど こ さ れ , む し ろ こ の 方 が ず っ と 注 目 に 値 す る の で あ る O そして,
1959
-62年 の
政治諸状況のなかでクライマックスをなすのは, 1961年 10月 間 擢 の 第 22同 党 大 会 122)で
あるが,それは次の三つの璽要課題の挙行舞台を提供したからである。
ー は , フ ル ジ チ ョ フ に よ る 第 二 次 「 ス タ ー リ γ北 」 お よ び そ れ に 名 を 借 り た 政 敵 の 根 絶
作業であった。フノレシチョフは,
既 に 彼 が 一 度 ( 1957年 7月 〉 打 倒 済 み の 「 反 党 グ ル ー
プ」の有・在をあらためて国民に公表した。その動機は,もちろん彼らの拾頭にはなく〈一一
フ ル シ チ ョ フ は そ う 晃 せ か け よ う と 装 っ た が 一 一 )123). 彼 ら の 完 敗 の 事 実 の 確 認 と 利 用 と
にあった。
.H. シェレーピン自身の大会中のつぎの発言が,
フノレシチョフの腹心 A
この
意図を十二分に物語っている。
「われわれが大会で、反党クソレープについて語るのは,それが党にとり現在なんらかの危
険 を 提 供 す る か ら で は な L、 否 , 反 党 ク ソ レ ー プ 参 加 者 は , な ん ら か の 危 険 ど こ ろ か , 今
しかぽね
や一片の危険すらも提供しない政治的屍である。われわれがこれらのグループについて
1
1
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9
6
2
) 一以下, HcmopuflHflCC (
19
6
2
) と略す。
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2
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,
n
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Hse <
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1CTOpssKOMMyHsCTs1JeCKO員 npaTss COBeTcKoro COI03
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" (TACC)
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.(
1
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9
6
2
),
C
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p
.2
.
五九年版』と i
七較した数少ない貴重な紹介として, 奈 I
E流「書きかえられたソ連共産党
1
2
1
) とくに F
史 j,河『モスクワ一五 0 0f
i
,
j
J (東京:朝 B新聞社, 1
9
6
4
),p
p
.1
1
6
1
1
9参照。
1
2
2
)第2
2毘党大会の解説として泣, Merle Fa
i
n
s
o
1,
“ The 22nd Party Congress,
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Communi
幻n
. (vol
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. No. 6,N
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. Ulam
“KhrushchevandBoccaccio."TheNew.
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p
.1
7
9
2
1
7 が護れ
ている。
1
2
3
) たとえば,フルシチョフは,第 2
1罰党大会の開会演説中で, 吉己の身に襲いか L る危険にもめげ
ず自分が1.'iJバこ反党グループ壊誠の困難性と-''1-っているかを,次のように説明 Lた。「中央委幹部会
のなかに,権力の乱用,まさに大衆的抑圧の罪をもっ人々自身が含まれている時にかような問題を
反党グループ」庶閥主義者)は,
決定することがし、かに困難か想録できるだろう。……彼ら(= I
私がこれらの問題を提起する義務を負っている限り……中央委第一書記としての私にたいして砲火
を集 Iわさせたのだ。 J XXII C
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.
1
8
党史と政権
語るのは,かれらの本当の顔をもう一度曝露し かれらがまったくとるに足らぬ存在た
J124) (傍点
ることをもう一度強調せんがためで・ある o
つまり,
木村)
反 対 派 か らJ
l
l
V
't:のための L、
か
ス タ ー リ ン に よ る 30午代の点清と主ったく同誌,
なる潜在方(殉教者ーになる可能性すらも含む)を奪わず、にはおかない独裁の強化に必要な一
12
;
;
)
過 程 だ っ た 。 と も か く , か く て ス タ ー リ ニ ス ト に た L、する「取消 L不 能 の 永 遠 の 訣 別 1
が宣言された。
二
ベ
主
, 『新共産党綱領」の発表だったっブノレシチョフの権力が確立するにつれ,
日フル
シ チ ョ フ 主 義 ' と は 呼 び え な Lづ(1. ドイツチャー)12り ま で も ‘ フ ル シ チ ョ フ 路 緯 ' と名
づけられるものがおのづから形成されてきた。それは
で fグ ラ ー シ ( = ハ ン ガ リ ー の
r
j
内 シ チ ュ ー 料 理 ) 共 産 主 義 j のニックネームを奉られる,
つ ぎ の 内 容 を も っ て い た 127九
①物質的豊かさこそが,共産主義の不可欠要件ないし最大目標そのものであるO ゆ そ れ
は
,
ソ連では,従来説かれたごとく遠い未来でなく.近い将来に実現可能であり.また実
_が 最 重 要 で
現 さ れ ね ば な ら ぬ 。 ③ そ の 方 法 と Lて は , 人 間 労 働 の 生 産 性 向 1
(
4i ソピエ
こ 強 化 ・ 活 用 さ れ ね ば 之 ら ぬ っ そ Lて.
ト国民の物質的関心の刺戟という捷子がフノレ i
こジヲ
よ う な フ ル シ チ ョ フ の 大 構 想 の 文 章 的 結 品 化 が . [l'新党編領J に他ならなかった。つまり、
こ tJ) ! 近 づ き つ つ あ る 共 産 主 義 の , 近 f
r
t
l
ちでなく完全に精確で干十学 (
I
'
Jな 未 来 図 を 与 え る J
(
.
r
r.イリイチョフ)12めことを豪語する『綱領」中におし、て.
と記のような方式で、共産主義
の 物 質 的 ・ 技 能 的 基 盤 が 「 ア メ ザ カ に 追 い つ き 追 い こ す J形 で 20年 間 に 形 成 さ れ . 19ぷ0
年にはソビエト社会が共産主義の入 r
l
iこ ま で 到 達 す る こ と が 約 束 さ れ た の で あ る 。
以上のごとき.← ~1j~ 二台げるスターリン iち過去ヵ、らの訣~!1.他方におけるパラ色の共産
主義的未来の提示
一一このプ.つの課題遂行を通じ. ブノレシチョフが 1
1
iっ た の は , 現 政 権 が
ソ述史に;おいて新時代を妻J
I
する体制であるとのイメージの慎t
Hであり,
~ I
らにその路線の
但当推進者としての彼自身のイメージ・アソプに外ならなかったのそして.この全ては.
見事功を奏したといわねばならなし、。なぜなら,
第 22!
r
!
1大 会 開 催 r
l
lに
,
ブノレシチ四ョフ
Uヲ
地 位 は 挑 戦 不 可 能 な ま で に 高 ま り , 彼 に 独 占 的 に 集 11 した讃辞は , I
l
i
J大 会 が 主 さ に 否 認 1
,
た は ず の ス タ ー リ ン 倍 人 崇 拝 を は う ふ つ と さ せ る ほ ど の も の だ っ た 泊 、 ら で あ る 121L
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.TOMI
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.1Iブラウダj] (
1
9
6
1年 1
1J
l2
1 (])のー論支も述べた。「あるお
は問う なぜ党は,第 22国大会で,第 20回大会で批判された伺人崇拝の問題にたち帰るのか…?
と 一 第 22[
i
J
J
大会は, わが党において領人崇行の時期の背館、仰な形式と )j法にたい L, 取消し不
能の永遠の訣7J
J
Iがなされたことを H瞭然にしめすものであるム“ XXII Coe3
.
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)
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yCommunisrn. (London: Oxford University Press,1
9
6
6
),p
.1
21
.
1
2
7
) 詳 L くは,木村汎「移行期としてのフルシチョフ毘j-Jj[実主義とユートピアニズムとの民活 ( )
-,
詰 1巻,第 1i}, 1
970{
:
f
-~~ J
l
)
, p
p
. 124-143 参照く
Ir神丙学院法学J] (
1
2
8
) 丘.おJ1
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f可eB,"TeopmlHay可HoroKOMMyHlf3Ma B 江e誌C
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B
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I
l N2
1
3,ceHT完6pb1961
)
, CTp. 1
0
.
1
2
9
) たとえば,ブレジネフ 〈当時最長会議幹話会議長) によって述べられたフルシチョフ賞讃の言主主
1
は
,
その?をの摩史を匁 iる者にとうてい信じがた L、ほど熱烈なものだった
f
l,
く
r
r
k
j家と党の傑 H
l
i た活動家ニキタ・セルーゲーエヴィチ・ブルシチョフ(込のように長くつづく約千 )υ その無 ~I'えのよ仁
1
9
木村
ともかく,上述の三つの契機が『六二年抜』党史の中にもちこまれた 188h 第一は,
汎
ス
ターリン批判の徹底化である。 F
五九年版Jl v
こ残っていたスターリンの名前や引用文がさ
らに削られ,事実上すべての積極的な文章が消滅した。逆に,スターリンを非難する文章
r
農民の私的小規模経営にたい
す る 愛 着 を 過 少 評 摘 (H句 o
o
u
.
e
l
底的
,
)
l r
成功の舷惑」で卒伍を翠苦しさせ 132), r
キー
ロフ書殺を彼の気に入らぬ人々の粛清の理由として利用し J133), r
、定然、自失, 不 決 断 , 緩
母 の ゆ え に 」 第 二 次 大 戦 初 め の 敗 北 を 招 い た 134入等々。第二は, r
共産主義への移行」と
1
1
1
) 詳述するが,たとえば,
が添加・明記された。後に (
13
LJ
いうフルシチョフ的ヴィジョンの全編にわたっての散布である。その結果,一例をあげれ
ば,従来たんに「社会主義」とのみ記されていた笛所の多くは, [J六二年版』において弓土
会主義および、共産主義J(傍 点 一 木 村 ) と 書 き 換 え ら れ た 。 最 強 に , フ ル シ チ ョ フ 讃 美 が 加
五九年抜』 に お い て も 既 に ス タ ー リ ン 以 後 の ソ 連 に お け る 唯 一
わった。フルシチョフは F
の指導者として措かれていたが,
た
。
[J六二年版』においてさらに新しい功績がつけ加えられ
た と え ば , フ ル シ チ ョ フ は 第 二 次 大 戦 中 ス タ ー リ ン に 重 大 報 告 を 行 い 1343, スターリ
ングラード前緩の責任者として 136)活躍した,等々 O
もしもその後フノレシチョフの権力がひきつづき伸長し続けていたら,さらに第三,第四
の フ ル シ チ ョ フ 飯 党 史 が 続 刊 さ れ て い た こ と だ ろ う 。 し か し 二 年 後 (1964) にフルシチ
ョフ自身が辞職に追いやられると L、う政治状勢が展開したため,この f
六二年寂』が最終
かつ決定版フルシチョフ党史となってしまったのであるの
(
5
) F
Iソ連共産党史(追構第三販は -1969年一
1969年 12月
, [Jソ連共産党史(追祷第三販見 137)一一以下,
[Jブレジネフ抜』な L、
しF
六
九年版』と轄す一ーが出販された。執筆陣は,フルシチョフ期の『六二年版』と比べ,死
亡 に も と づ く わ ず か 一 名 の 変 更 を 除 き , ま っ た く 司 ー の 11名。分量は, IT'六二年版』刊行
ネルギー,革命的熱情はわれわれすべてを斗争へと鼓舞する。同五フルシチョフの持徴は,人民と
わが党の力にたいする信頼,党路競を遂行する揺ぎない確信,共産主義の敵にたいする断毘たる離
意,党とソピエト国家の内外政策実現における勇気と決断である(長い語手〉。これらの資質は,同
志フルシチョフを……忠実なるレーニン主義者とする……旺盛な活動,信むことなく平和とすべて
の人民の自由を擁護し,……勤労者の提案にたいする思いやりある態度,庶民の声に注意ぶかく耳
を額ける能力のすばらしい模範。……人民と密接に結びつき,……オルガナイザーとしての大き主
才 能 に よ れ わ が 党 と 全 ソ ビ エ ト 人 民 の 愛 と 深 い 敬 愛 を 克 ち え たJ
o XXIICoe3δ
.
.
.,1
,C
T
p
.340
,
345
,3
51.もっとも,
マ二年板』党史は,フルジチョフが第 2
2思 大 会 の 康 上 九 っ た し に 宛 て て 言
ι
われたことすべては,わがレーニン主義党の党中央委員会,同幹部会に宛てられるべき」との謙患
な 発 言 を し た と 紹 介 し て い る 。 HcmopUHKflCC (
19
6
2
),C
T
p
.7
2
9
.
r
1
3
0
)新党史出肢を告げるタス通信も,新党史が「スターリン個人崇拝の弊害を一層詳細に解明しJ
,第
22由 党 大 会 と 新 党 綱 領 に 特 別 の 一 章 を 与 え た 」 と 述 べ た 。 flpa8
δa
.(
10 HO兄6pH,1
9
6
2
),C
T
p
.2
.
1
3
1
) HCmopuH KflCC (
19
6
2
),
C
T
p
.4
4
4
.
1
3
2
) Ta.M JlCe
.C
T
p
.4
4
5
.
1
3
3
) Ta
.M JlCe
.CTp.486.
1
3
4
) Ta
.M :
J
I
C
e
,CTp.541.
1
3
5
) Ta.M :JICe
.CTp.540.
1
3
6
) Ta.M :JICe
.C
T
p
.5
5
5
.
1
3
7
) HcmopuH KO
.M.M
yH.uCmu'tec1Coa napmuuCOBemc1Cozo CO/l.ヨ3a (U3δaH.uempembe,dono・
.
/
l
H
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H
.
H
.o
e
)
. (MocKBa:口O
J
I
H
T
H
3
.
l
1
.a
T,1
9
6
9
)
.一 以 下 HcmopUHKflCC (
19
6
9
) と略す。
20
党史と政権
時 か ら 7年 間 の 記 録 が 追 加 さ れ て い る に も か か わ ら ず . w
六 二 年 版Jと詞じく 19章構成で,
六二年ー板 J と比べ,それぞれ 7, 48ペ ー ジ 少 い 736ページとなってし、
逆に『五九年版ふ F
るの日本訳がある 13の
の
ブレジネフ政権成立から五年後の時点における出版である。むろん,ブノレシチョフを否
o
. が遅かれ早かれフノレシチョフ党史を否定
定 し て 或 立 し た 政 権 と し て の ブ レ ジ ネ フ &C
し岳らの党史をもつだろうことは.当然かつ予想されたことであった。とはいえ政権成立
}
l
ミーから数えて五年目の 1969年 12月(また『第四版』刊行時と Lて 1971年末)の時点がこ
とさら選ばれる必然性は見当らなし、。だが,ブレジネフ期 tこ,ブノレシチョフ期の r~ ドスタ
ーリン{ヒム「反党グノレープ J 打倒,
u
新党縞領』発表に類する劇的な事件はなにも起らな
かったのだから,党史の刊行ないし改変のための絶好の区!lJ1Jはもともと欠如していると
もいえるのである。しかも,プレジネフ致権の基本方針がなによりもそのように極端な変
革や断絶を嫌うことにある点にも注意しなければならなし、。
ブレジネフ・コスイギン&
C
o
. の最も得意とし好むコトの進め方は,くなしくずしの路線変更〉であり〈静かなる誼f
直
訟換〉である。つまり,勇猛果敢.銭舌なフノレシチョフ政権がよろず鳴りもの入りで新方
式導入をおこなったのと対照的に,ブレジネフ政権は,公式の無効宣言を存わない黙殺に
穏撚たる J13の
よる段階的空洞化,その傍らにおける明示のステイトメントなしの代替物のf
準備・脊成をなによりの身上とする。フルシチョフ期の遺産のなかで現在このような形で
清算されつつあるものとして,
r
全人民国家」論, r
米国t
こ追いつき追いこせ j スローガン,
F
新 共 産 党 綱 領J な ど が あ る 。 も っ と も , 臆 病 な ブ レ ジ ネ フ 政 権 に 「 チ エ コ 軍 事 介 入 」 を
好例とするど一万再断的〉側面が存在することもたしかである。だが,それは,
くなしく
ずし的漸進〉方式が〈裏呂にでるなどして〉挫折,効を奏しない時に,喪われた時間とエ
ネルギーを一挙にとり戻さんとして訴えら れる例外的非常手段であり,むしろ平常の原則
J
を 補 完 す る 性 質 の も の と 考 え ら れ る 140%
しかし,
ブレジネフ期の最初の党史たる本書が
大した前触れやセンセーションを伴うことなしに出版されたといっても,予告らしきもの
す ら 皆 無 だ っ た と い う 訳 で は な い の 竺 結 な も の と は L、え.つぎのような諸事実が注意深い
苫にはまえもって観察されたのである。
1
. 第ーの資料となるのは. 政 権 交 替 の 翌 年 1965年 刊 行 さ れ た
Fソピ、エト歴史百科辞
典』第七巻所収の「ソ連邦共産党史」の項呂である。そこでは「近年,党史の作成の仕事
に
,
141
)と記されたが,
主観主義,主意、主義. 一 面 的 評 留 と い う 欠 陥 が 生 じ て い た J
「主観
の常主的レッテノレで
主 義 , 主 意 主 義 jがブレジネフ政権によるフノレシチョフ統治方式批判j
あることからして,文中の非難がフノレシチョフ党史に向けられていることは一白瞭然であ
1
3
8
) 早 川 徹 訳 Fソヴェト連邦共産党史Jl (上・下) (東京:読売新開社, 1
9
7
1
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"
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2
)。
1
3
9
) たとえば,ブレジネフ政権下におけるスターリン主義復活の進め方にかんし,故1.ドイツチヤー
(
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) ス タ ー リ ン な レ し ス タ ー リ ニ ズ ム の 譲 護 者 と は な ら ずJ
, i
語、然た
と表現した。 I
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cDeutscher
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. (London: Oxford University Press,1
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は「決して公然とは
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) ス タ ー リ ニ ズ ム j を実話させている,
る (
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1
4
0
) かつて筆者は,
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ブレジネフ政権のチェコ介入を「盤馬なる保守政権こそがその現状維持なる至上
訂 的 の た め に は 時 と Lて 勇 猛 果 敢 な 非 常 手 段 に 跳 躍 す る 逆 説 」 と 説 明 し た こ と が あ る 。 木 村 汎 「 ソ
速 の 対 東 歌 政 策J
, B本 圏 第 政 治 学 会 編 『 吉 際 政 治 , 第 4
4号 ( 戦 後 東 欧 の 政 治 と 経 済 江 ( 東 京 ; 有
斐閣, 1
9
7
1
), p
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) CocemclcaflHCmOpU'
2
1
木村
った。だが,
w
歴史百科』はこの一般的批判のみで,
汎
それ以上フルシチョフ期の二つの党
史 に 言 及 す る こ と は 避 け た の で あ る 。 余 り に も ブ レ ジ ネ フ 的 な 〈 黙 殺 に よ る 否 定 >! とも
かくこのような独特のテクニックで、田党史の否認作業を終えた『歴史百科 J は,新党史の
作成にかんしても,同様にきわめて原則的な立場の暗示に自らを止めたのだった。日く,
,
近 年 党 史 に 生 じ た 上 記 の 欠 陥 を 除 去 す る こ と を 場 け た r1964年 10見. 11月
65年 3月
の諸決定(=すべてブレジネフ政権成立後の決定である-木村一〉が,党史のー屠の創造
的研究の基礎である j凶〉,と c
アギト・プ..プ
2
. 第二は, ブレジネフ政権発足後再編成された党中央委煽動宣伝部の一人で、科学教青
. トラベーズニコフの発言である。即ち. 1965年 10月 8 日付『プラウ夕、』掲載
部長 C
論文中で,最近社会科学の分野に「主観主義,主意、主義的要素を証拠だてる深刻な欠陥や
怠 穫 が 現 れ て い る 」 と 報 告 し 143) さらに党史にかんし次のように述べた。「ソ連共産党史
の体系的コースを研究するかわワに,本賞的にこの学問をもっぱら最近十年間の研究に掃
してしまういわゆる問題のあるコースを提案するくだらぬ歴史家たちがし、た J144)(傍点一
木村〉。ここで「最近十年間」がフルシチョフ期を指すこと改めて説明するまでもない。
3
. 同様の趣旨は, 1967年 11見 18日付『プラウダ』の論説「党史研究家の託務 Jv
:
こも
みられた。即ち,国論説は,
r
党史がマルクス・レーニン主義教青の最重要源泉のひとつ」
r
その学問的研究水準がまだ不満足」であち ,
〉 とくに最近の壁
史叙述の偏向ぶりを非難したo r
歴史研究の著作のなかには, 論 議 さ れ つ く し た 結 論 や 靖
であるにもかかわらず,
報が不足しており,
145
時としては過去の事実や事件にある傾向性をもっ
(Te
限 eHUs03Hoe)
解釈をほどこしているものがある。 J14ぬ(傍点一木村〉
4
. 最後にもっとも重要なものとして屯スターリン復活、の動きがあるが,
ては別稿で論じたので
147)
これについ
とくに戦史の分野におけるそれについて一言するに止めるO
屯スターリン、再評価の開始時点は,一般に 1965年 末 な い し 1966年 初 め と も い え る が 148九
も軍人としてのスターリン、名誉回復作業は,早くも 1965年 4月頃からはじまった 149%つま
り,フルシチョフが秘密演説で「軍事戦略の天才」としてスターリンの偶像を破壊して 1め
以来,
ソビエト社会には軍事指導者としてスターリンがまったく無能力とのイメージが定
着しようとしていたが,プレジネフ致権下になってから,そのような批判が f
行き過ぎ」
で壁史を歪めるものであり,スターリンは対独緒戦の敗北を別にすれば全体としては秀れ
1
4
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) 木村汎「媛小(?) l
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主権の強硬路隷 J
, 関 西 外 交 史 研 究 会 編 f現代外交の理論と歴史Jl (京都:有
詰堂, 1
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) 豆.
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.
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9
) プレジネフ党第一書記〈当時〉は, 1
9
6
5年 5月 813の 第 二 次 大 戦 戦 勝 20周 年 記 念 集 会 で ス タ ー
143) “ ~apKCH3M-~eHHHH3M--He3~ô~eMa兄
リンが「敵軍を撃退するためのすべての活動の指導にあたったj と称讃した G “ Be~HKa兄ロoôe瓦a
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.2
. ただし,このプレジネフ摸説によるスタ
ー り ン 言 及 の 意 味 の 過 大 評 錨 を 戒 め る 見 解 も あ る 。 Thomas B L
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2
党史と政権
た軍人だという評価が,多くの将軍や戦史家によって桔ついで詣捕されはじめたのであ
る 151h
もちろん. そ の よ う な ス タ ー リ ン 擁 護 論 が 直 ち に そ の ま ま 受 け い れ ら れ た わ け で 、
は な い 13230 だが,
ブノレシチョフ期の一方的行き過ぎを是正して「よりバランスのとれた
歴史的客観性」追求の美名のもとに展開さ
ス タ ー リ ン 像 J153)を 確 立 し よ う と す る 勤 き が f
れてきたことは事実であるC そして,このような軍人スターリンの再評価の気運がとうぜ
んフノレシチョフ撲に執筆された党史全体の再点検・書き換えを促すーっの重要な契機をな
Lた こ と は 想 探 に 難 く な い の で あ る 。
f第三版』党史の内容上の特色については,以下章を改めて論ず、ることにするの
日
比較的アブローチ
四つの党史の全面にわたる比較はとうてい不可能であるしごく概括的な比較はすでに
I の霊史的概観のなかで、も一部なされたと思うので,
ここでは思いきって最重要ポイント
二 点 の み を 期 扶 し や や 詳 細 な 検 討 を 加 え る こ と に Lたし、。その二点とは,
(1)スターワ
ン の 取 扱 い 方 如 何 ? と く に 『 六 九 年 版J に ブ レ ジ ネ フ 政 権 の 「 ス タ ー リ ニ ズ ム j 復 活 が
どのていど表れているか t
'
(
2
) フルシチョフの取扱い方如何?
と く に 『 六 九 年 版 Jに
ブレジネフ政権の[フルシチョフ路線」否定がどのていど表れているか?
であるゥ既述
f
i
l、 は , 輪 郭 の 定 か で な い 現 ブ レ ジ ネ フ 政 権 の 基 本 的
のごとく,この二点を通ビての真の:j
姿勢と方向性の探求であるC
(
1
) 、スター 1
)ン、問題
ー ス タ ー リ ン に た L、する態遣は,
政治的姿勢をしめす
a
しばしば根本的な
有!の尺度 (
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) とな
っ て レ る (W. レ オ ン ハ ル ト ) 山 〉 ー
A. パ ロ メ ー タ ー と し て の 屯 ス タ ー ワ ン 、
ソ 連 の 将 軍 で 戦 史 問 題 研 究 家 で も あ る A.ボルチン少将は,
ソビ、エトの「若い世代にと
I
歴史家にとっては, ス
ターリン賛・否の評価が今後長年にわたって本格的な仕事になるだろう J と語ったといわ
っ て 辻 , ス タ ー リ ン が も は や 激 烈 な 論 争 の 的 で な Lづとはいえ,
プロ
コY
れる)""九この言を侯つ主でもなく,もスターリン、評価の問題がここ当分ソ連の歴史家の
みならず政治家をも↑訴ます最大の亡霊であり続けることは間違いない丹ソ連に;お L、てもス
1
5
1)たとえば, E.50JITHH,'‘ 50JIHY 幻 U~(He C
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.232-239
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. 清)11.栢場・大沢よt;
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( W クューコフ孟宮市密想、長一革命・大戦・平和-,~ (東京:朝日新聞社,
1
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)
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. 173-177
,2
2
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.
1
5
2
) 100パ ー セ ン ト の 信 長 牲 を も た な い と は い え , こ の よ う な ス タ ー リ ン 評 価 に つ い ず の ソ ピ エ ト 摩
史家たちによる論争の貴重な内幕を西側仁伝えた貴重なドキュメントとして,
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.63,April 1
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. 175-180 と く に p
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. 1I5-180 参照。
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) TheNew l
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. (May27, 1965); Heer,0ρ.c
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.
1
) もN. Leonhard,
“ Politicsand ldeology i
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t Khrushchev Era,
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. (EnglewoodCli在s
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. 42; 加藤雅彦訳,立iI掲 p.397.
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23
木村
汎
ターリン、抜きに過去を語りえず~スターリン、と対決することなしに現在何事もなし
えないといって過言でなし、。
スターリンは,
レーニン死後 30年 に わ た っ て 争 う べ か ら ざ る ワ ン ・ マ ン 独 裁 者 と し て
クレムりンに君臨,ソビエト社会の政・経・文・イデオロギーのすべての分野に測り知れない
ほど大きな刻印を捺した。ソビエト体制の形成,発展期におけるその役割と影響の大きさ
のゆえに,現在までソ連,東欧,その飽の社会主義諸国において,本来あるべき社会主義
とスターリニスト的適用の識別がきわめて困難となっている。たとえば,スターヲンない
しスターリニズムという言葉は.秘密警察や強制収容所のテロ,力づく上からの工業化や集
団化,
ワン・マン独裁,政治的反対者の抑圧と粛清,中央集権的計画経済などのイメージ
を連想させるが,果してこれらのうちどれが特殊スターリニスト的要国であり
1563,どれが
本 来 あ る い は レ ー ニ ン 主 義 的 社 会 主 義 15η に 無 議, .
1
互いし異質の要因なのか?辛IjJ
Jj国難で
ずア 97:'-争
ある。またかりに識別可能としても,スターリニスト的変形はあまりにも今日のソビエ
ト体制の抜きさり難い一部分つまり体質とイとしているので,それを除去すれば体制そのも
i
{スターニスト》は,
のが揺らぎ収拾っかぬ混乱,崩壊すらを導く危険が内包されている。 (
ス タ ー リ ン 同 様 , 共 産 主 義 と L、う韓大な名称から不可分である」ーフルシチョフー)158)0 こ
れこそ,まさにもスターりンもがソ連邦においてただの一度として完全には否定されたこ
とがない所以である。郎ち,もスターりンものアンチ・テーゼとして登場しもスターワン、
批 判 を 表 看 板 と し た フ ル シ チ ョ フ に し て も , 結 局 「 ス タ ー リ ニ ズ ム の 措 囚 (prisoner)J15的状
態 か ら 脱 け だ し え ず , 最 絶 頂 期 に お い て す ら , 中 途 半 端 で 部 分 的 「 非 ス タ ー リ ン 化 j しか
おこないえず,また今日のプレジネフ政権がもスターリン、問題にいやが上にも慎重な態
度をとっているのも,すべてこのためで、ある O
ところが,まさにスターリンとソピエト体制とのかような密接不可分のからみ合いの故
に , も ス タ ー リ ン 、 は , ス タ ー リ ン 以 後 の す べ て の ソ ピ エ ト 政 権 , 各 国 「 社 会 主 義J政権,
世界共産主義運動にとって,避けえない一種の《踏絵》的存在ともなる。つまり,従来の
ソビ、エト体制からなんらかの変革を志す者(または志さない者〉は,好むと好まないとに
かかわらず,
もスターリン、という壁に突きあたり,
それにたし、する態度表明なしにこの
関門を擦り抜けえないからもスターリンもをどう取扱うかによって,
勢 を 推 測 す る こ と が 可 能 と な る O たとえば,
各政権の基本的姿
屯スターリンもを長髄的に扱えば({7
U-第 20
回 党 大 会 後 の フ ル シ チ ョ フ 期 ), その政権がスターリニスト的伝統治、ら訣別,
逆にもスタ
ーリン、を肯定的に取扱えば(例-1965年以後のブレジネフ期),スターワニスト的遺産の
温 存 の コ ミ ッ ト メ ン ト を 示 す 。 だ か ら , ス タ ー ワ γ個 人 に た い す る 態 度 〈 例 ー 遺 体 撤 去 あ
1
5
6
) 周知のごとく,露請などにかんし,故トリアツチが個人(=スターリン〉と体制との結びつきを鋭
く追求した (PalmiroTo
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) のにたいし, ソピエト公式見解はこれをキッパリと否認した。 “O
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) もちろん, この二つ却ち f
本来の社会主義」と fレーニン車支社会主義j は各々大いに異なる。 木
村況「レーニン主義とロシア J,Ii世界思想、Jl (京都:世界思想、社, No.7,1
9
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.参照。
1
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4
.
24
党史と政権
るいは胸操再設置)も.純然たる感情のレベルで、なくきわめてホットな政治的決定をシン
ボライズした行為と解されるのであるの
か く し て , ス タ ー リ ン の 亡 霊 は 徒 ら に ソ 連 社 会 に 俳 伯 し て い る の で な <. 各 政 権 の 政 治
,
的 体 質 を 予 知 す る 風 針 計 と し て 役 立 っ て い る が , でl主既刊の四つの各時代の「党史 j は
もスターリン、をどのように取扱い,
いるか?
それぞれの時代のどのような政治的姿勢を反映して
この視点からとくに問題となる箇所を選んで,検討してみよう。
バータ y
B
. 一般的定型の抽出
1
. 臨時政府にたし、する態度
活ーの{如上
1917年 3-4月に犯しーたスターリンの戦術的誤謬である丹
レーニパヱ 1917
年 4月帰国するや,臨時政府を否認して「すべての権力をソビエトへ /Jと叫んだが,このレ
I60
ーニンの方針を知るまでスターリンは, 1"臨時政府に圧力をかけ講和交渉を開始させる J
)
ことが適当と考える半メンシェヴイキ的誤りを犯したのこの事件をどの程度まで明らかに
するカペ主. 1956年弓ドスターリンイヒ J 以来の最大の論争点であったが,
四つの党史はそ
れをどのように取扱っているか? 四つの版から該当箇所をとりだし対比すると,以下の
﹄一を持政一
版一 iJ郎 う タ に 戸
年一力のいス旬略
九一正渉とはの省
六
一
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フ一に和すたた比る
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一リ一'てを一心一までの省
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U一 ン か 関 同 じ が す た 九
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一一リを時 一一一一一力関うつ場調一て
一九一タ圧のいと立同タベ
η一 ス に 渉 と を の に ス 述
上一府交る場こンう
一りフとの訪の国け
副一かトと任国和帝か
MM一 ば ロ 数 信 祖 平 ' び
せ一たモ多不''争呼
べ一つ'の府しし斗を
ハ一帰ン党政通対的対
ペ一らリ'時り反極反
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) H.CTaJIHH
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1
9
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1
),
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.邦 訳 fス タ ー リ
ソ全集J; (東京:大月書 f
ん 1
9
5
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),第三巻, p
.
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2
.たとえば,西艇の代表的教科書として, Leonard
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. (NewYork: Randam House,1
9
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),p
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. TheCommunistP
1
6
2参照。
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) Kpam1
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) Hcmopufl KflCC (
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2
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木村
汎
:を唱導した。 1
9
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7
年 4月
;中頃,スターリンは,自
j己の│頁至宝 立場を
:すててレーニンの政綱に
j向調した出〉。
i
同ーの歴史的事実をとり扱って,このように大きな差異が見いだされるのはまことに興
味深いことといわねばならなし、まず,目、教程』が完全なほおかむりをきめこんでスター
リンは当初から臨時政府不信案政策をとったとしているのにたいし,残りの三つの版は,ス
ターザンの臨時政府支持の事実を等しく承認するσ だが,そこにみられる強弱ニュアンス
の 差 は 大 き L、。即ち,
qHa的
Iiフルシチョフ五九年版』は,
ス タ ー リ ン が 「 ま ち が っ た (0
回 日 60
・
立 場J を と っ た と い う た だ の 一 言 で 簡 単 に 済 ま す 。 『 同 六 二 年 版 Jは
,
さらに「二!
で屈んだ部分をつけ足してスターリンの誤りの敷約作業をおこなっている。『ブレジネフ
,
六 九 年 版 Jは
Iiブノレシチョフ五九年版』にほぼ近いが,
た だ し 「 ま ち が っ たj という修
飾語を省略している。
2
. Irレーニン主義の基礎について i
つぎの関は,
1924年 4月 刊 行 の ス タ ー リ ン の 著 作
ある。この場合は,
Eレ ー ニ ン 主 義 の 基 礎 に つ い て i で
v
U1 . と 異 な り , ス タ ー リ ン の も 誤 り 、 で な く む し ろ も 功 績 、 に 属 す る
事柄であるが,四つの党史は,つぎのようにニュアンスの異なる記述をおこなっている。
fスターリン小教程Jl :
J
Iフノレシチョブ五九年販Jl:!Fブノレシチョフ六二年版J!jIrプレジネフ六九年版』
トロツキズムの思想的
1
9
2
4
年に刊行されたス
1
9
2
4
年に刊行されたス
1
9
2
4
年に刊行されたス
粉砕,レーニ γ 主義の擁:ターリンの著書 fレーニ(ターリ γ の著書 fレーニ jターリンの著書 Fレーニ
護において, 1
9
2
4
年刊行;:/主義の基礎についてJl :
γ 主義の基礎についてJl :
γ 主義の基礎について』
された毘志スターリンの iも,このことをたすけた。:も, トロツキズムの曝露;も, トロツキズムの曝露
理論的律品『レーニン主 iこの著書では,レーニ γ
:をたすけた。この著書で:をたすけた。この著書で
義の基礎について』は主義の基本的諸問題,プ:は,レーニ γ 主義が圧結:は,レーニン主義の基本
重要な意義をもって Lペロレタリア革命の理論とされたかたちで論述され:的諸問題,プロレタリア
:革命とプロレタリア独裁
た。この小冊子はレーニ j戦衛,プロレタリア独裁;ている mL
ン主義の罷れた論述であ jの 理 論 と 戦 街 が , 圧 縮 さ の 理 論 と 戦 構 が 論 述 さ
り真面呂な理論的基礎づ jれ た か た ち で 的 確 に 論 述 れ , レ ー ニ ン が マ ル ク ス
けであった。それは当時:されており,レーニンが主義のなかに持ちこんだ
全世界のポリシェヴ 4 キ jマ ル ク ス 主 義 の な か に も 薪 し い も の が 解 明 さ れ て
を マ ル ク ス ・ レ ー ニ ン 理 : ち こ ん だ 新 し い も の が 解 : ¥ , 、 る 1S8L
論の尖鋭な武器によって j明されている揃〉。
武装し,かっ現在も武装 j
している。 165)
すべて好意的な取扱いには違いないが,謹かとほし、え多少の差が生じている。つまり,
円、教程』はもっとも長くもっとも好意的,
年版』はかなり好意的,
Iiブノレシチョフ五九年版』と
Fプ レ ジ ネ フ 六 九
!Fフルシチョフ六二年販 3 は も っ と も 短 く 最 小 限 度 好 意 的 な 記 述
1
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26
i.r
~ー胃ー一一宮γ
ーで~一一一一一一一
.
司
党史と政権
といえるの
,
ξー タ y
この二例によって. 、 ス タ ー リ ン 干 の 処 遇 に か ん し 四 つ の ソ 党 史 問 の 一 般 的 定 型 を 類 推
すると,つぎのようなことになるの司『スターリン小教程』は.スターリンの業績を〈質
る O ②こ
的 量 的 に 〉 最 大 限 に 礼 讃 ず る 一 方 , 彼 の 欠 陥 を ( 質 的 量 的 に ) 最 小 限 に 止 め て L、
れと汁極をえ£すのは『ブノレシチ三プ六二年版 Jで , ス タ ー リ ン 称 讃 を ( 質 的 量 的 に ) 最 小
限に抑える ~)j ,
するのが,
彼の批判を〈質的量的に)最大限おこなう。③この再極の中間に位置
u
フノレシチョプ五九年版 J と 『 ブ レ ジ ネ フ 六 九 年 版 」 と で あ る 。 換 言 す れ ば ,
Fプ レ ジ ネ ブ 六 九 年 版 J に み ら れ る 〈 ス タ ー ワ ン 復 活 与 の 程 度 は ,
フノレシチョフ期『第一
,
εー タ γ
!
反J
J (
1959年 刊 行 〉 と は ぼ 同 程 度 と い う こ と で あ る 。 こ の 一 般 的 定 型 を 念 頭 に お き つ つ ,
今少し具体例をみることにするO
c
. も省略、と Lづ 致 治 技 街
テタユヅク
3
. レーニン出廷問題
1917年 7月 経 起 鎮 圧 の あ と , 臨 時 政 府 が レ ー ニ ン そ の 他 に 裁 判 所 出 頭 を 命 じ た た め , ポ リ
シ ェ グ fキ!討に,
レーニンが出頭して公開裁判による法廷闘争に訴えることの是非をめぐ
って、活発な討論が展開されたっこのとき‘スターリンは,レーニンの身柄の安全保障という
条件つきではあったが,レーニンが身を隠すよりも広範な大衆の面前で、ドイツのスパイ、
の 嫌 疑 を は ら す 案i
こう二した円結局第 6 @党 大 会 は , 出 頭 す れ ば 、 刑 務 所 へ 連 行 の 途 中 で 告 殺
されるに違いないと判断し,出廷恒否を決定したが,ここにスターリンの一時的誤謬の問題
が残ったのである門この歴史的事実を.四つの党史はそれぞれつぎのように述べているの
J
『スターリ γ 小教程I
i
u
ブノレシチョブ五九年寂J!;
Uフルシチョブ六二年版J!:
:rプレジネフ六九年版』
大会において,レーニ
最初の議題のひとつと、 最初の議題のひとつと
最初の議題のひとつと
ンの裁判所出頭問題が審!して代議員たちは,レー;して代議員たちは, レー して代議員たちは,レ一
議された。ニソの裁判所出頭問題を;ニンの裁判所出頭問題を:ニンの裁判所出頭問題を
審議した 170)
審議した。審議した。
カーメネブ ,Jレイコプ,
I
l /
J
,
{
j
)
再議員弓: I
し三五五杢頁孟亘│は,
;スターリン, ヴォノレダ !
iレーニ γ の身の安全が保
トロッキーおよびその飽
;ルスキー,マヌイノレス話され,裁判が民主的に
拭,大会開擢言甘からレー
1キーーは,レーニンり
おこなわれることを条件
ニソが変革命主義者の裁
身の安全が保証されるこ jに,レーニシが出頭して
判所に出頭する必要があ
とを条件に, レーニンが iもし決、と考えた。しかし
ると考えていたっ
スターリン, ~主,レーニ
三
出頭してもいいと考え!この審議の過程で, I
ンの裁判所出頭にたいし
た。~ i
l
!
?
_
Q
竺議員i
は
, 自案
ては,話国として反対し
ス
一7
ター一言ジ丘7
冨蒔万i
:を撤冒した 171)
た詩的。
ロシアの政治状況の評
値を間違って,七丹事
件後プルジョワジーが
統一権力を達成したに
もかかわらず,あたか
も誰の手に権力がある
か定かでないかの如き
発言をしていた。しか
し,プルジョワジーが
0
バス
J
0
1
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) 傍点一引用者。 KpamlCUU KypC,
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木村
汎
一'いもあ
成をかは一
達 γいと五
をニうこm 一
力一いいた一
権レとなっ一
統来な証で一
に以し保か一
くて罰るら一
とし処な明一
つまり. w
小教程主主,レーニン出廷を主張したのは,スターワンでプ£く「カーメネフ,ノレイ
コフ,トロッキーら jであり,スターリンは「断固として反対した J (傍点一木村一部分参照〉
と し て い る 。 フ ル シ チ ョ フ 期 『 五 九 年 版 iは , あ た か も か よ う な 論 争 が 存 在 し な か っ た か
のごとく言及を回避し,極力簡単な叙述ですましているのところが,同 F
六 二 年 版 Jは
,
ス タ ー ザ ン が レ ー ニ ン 出 廷 を 主 張 し た 円 、 く 人 か の 代 議 員 」 の 一 人 た る こ と を 明 記 L. か
つ「当時のロシアの政治状況の評価を間違ったj とスターワンを弾劾している〈亡コ部分
六九年版』は,円、く人かの代議員」がレーニン出廷を主張したと
参照〉。ブレジネフ期 F
の み 記 し そ の 筆 頭 が ス タ ー ワ ン で あ る と の 『 六 二 年 額 』 の 記 述 を 完 全 に カ ッ ト Lている。
このように,都合の悪い笛所,徴妙なところは史実におかまいなく省略してしまうとい
う技能は,どの販のソ党史においても頻繁に用いられる常套手段であるが,とくにスターリ
ン批判の最も法げしい F
六 二 年 版 』 に 明 記 さ れ て い た ス タ ー リ ン に か ん す る 叙 述 が . wプ
レジネフ六九年抜 J で削除されるというケースがもっとも多いといえる。
4
. ワルシャワ進撃
9
2
0年 夏 に 敢 行 さ れ て 見 事 に
たとえば. 1
C
?
)挫 折 し た 赤 軍 の ワ ル シ ャ ワ 進 軍 は , 以 後
「武力による革命の輸出」の失敗併とされているが,
このさいのスターリンの責径にかん
して. wフノレシチョフ六二年該』と『プレジネフ六九年抜』
とを比べてみると,
前者にお
の笛所)が,援者では(※印の
ける Fイ・ヴェ・スターリン,ア・イ・エゴーロフ(i二二i
笛所において)完全にカットされていることに気づくのである O
『スターリン小教程jJ :Ii'プノレシチョフ五九年寂jJ:1i'フルジチョフ六二年寂 J !rブレジネフ六九年版J
ワルシャワ進撃のさい: ワルジャワ進撃のさい
;に視榎となったのは,司:に禍根となったのは,司
;令部の行動が敏活でなか;令部の行動が敏活でなか
:ったことだった。南西戦:ったことだった。高西戦
:悶塑|万七~r~ 線司令部(※)がぐずぐ
スターリ γ ,ア・イ・ェ 1
:ずしていたこと,第一騎
│ゴーロフ 示干子ミす;兵軍の西部戦線への転進
:していたこと,第一騎兵:が遅れたことは,そのひ
:軍の西部戦線への転進が jとつである 174L
;遅れたことは,そのひと
;つである 173L
L
I
5
. 外昌実易の独占
同様のスターザン名の操作は,
1
9
2
3年 の 外 国 貿 易 を め ぐ る 論 争 の 記 述 中 に も み ら れ る 。
四つの版から同一箇所を対比してみよう。
1
7
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) Hcmopufl KflCC (
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党史と政権
『スターリン小教程J] :
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iフノレシチョブ五九年版J]:
uブノレシチ三ブ六二年間:iJ]: fプレジネブ六九年版I
J
プハーリンとソコーリ j ソコーリニコフとプハ( ソコーリニコフとプハ
ソコーリニコプとプハ
ニコフは,大会前から外:ーリンは,大会前から外;ーリンは,タト冨貿易独占:ーリンは,外国貿易独占
l
.r
-主主とを部分的に寵止すること
国貿易独占を解消するこ:国貿易独占を部分的に廃;を部分的に廃 l
とを主張した。この提案~ 11:することを主張した:を主張した。 スター引 を主張した。 党中央委
もまたネップを自己の立五,このことは実際には,り ジノーヴイエブ 1: -里会C 大多塑は,これ
場の資本主義への引渡し;この独占の露止を導くこ !ヵーメネブを含む党中 i~に傾いた 0 178 )
と解した結果だった J町 と だ っ た 176)
央委員会の大多数は, I
外国貿易の独占の緩和 1
:
に額いた。スターリン│,
は,その《緩和が不可 i ~
避となっている》と考 i ~
1
0
足立。
上記で明らかなように,
五九年版ふ
円、教程J1, 1
177
)
1
レ ー ニ ン に 反 対 し て 外 国 貿 易 の 独 占 緩 和 を 提 案 Lた 者 と Lて
,
『六九年版 j の三つは「プハーリン,
いるのそして,フルシチョブ F
六二年版』のみが,ジノーヴ
ソコーリニコブ│を挙げて
f エア
カーメネブとともに
C
二Jの 箇 所 今 弱 点 も 木 村 J が , プ レ ジ ネ ソ 『 六
本的氏名を削除し
九 年 絞 』 は そ れ を 「 党 中 央 委 員 会 の 大 多 数J と の み 述 ベ ス タ ー リ ン ら 具f
スターワンに二度にわたって言及した
ている。
4
.と5
.)は,
以と二つの部Ij (
[~ブノレシチゴブ六二年版 J で明記されていたスターリンの
名 前 が Fブ レ ジ ネ フ 六 九 年 版 j で 抹 殺 さ れ た ケ ー ス で あ っ た が , つ ぎ の 三 間 (
6
.,7
" 8.)
は,スターリン批判の文章全誌が跡形もなくンヒ全に出減したケースであるつ
6
. ジノーヴィエプ,カーメネブ擁護
1917年 10月 の 武 装 蜂 起 を 時 機 尚 早 と Lて 反 対 Lた ジ ノ ー ヴ
fエブとカーメネプの二人
が後のちまで「革命のスト破り!として非難され説けたことは周知の事実であるが.当時:
その二人をかばったのは後にこの罪状のもとに授らを点請するスターリンその人だったっ
新生活 J 誌 に 掲 載 の 労 を
スターリン iL 当 時 , 彼 九 三 人 の 手 に な る 蜂 記 反 吋 の 警 告 文 を 7
とり,
こ の こ と が レ ー ニ ン の 激 怒 を お く や レ ー ニ ン 非 難 の 論 文 を 発 表 す る と と も に IiG入
こ れ ら の 効 票 を 和 ら げ る 妥 協 的 社 説 を 掲 げ て 両 者 の 調 停 を 試 み た 内 こ の 事f
宇の解明は. I
I
I
J
f
ド は じ め の ス タ ー リ ン の 対 臨 時 政 府 の 「 誤 っ た J態宣(例1.)と等しくスターリンをジノー
セ芝
ヴ ィ エ ア , カ ー メ ネ フ と 変 り な い 半 メ ン シ ェ ヴ ィ キ 立 場 に お く 結 果 を 存 : く の で , 19
民年来
の1
歴 史 論 争 j に お け る 長 大 の 焦 点 を な し て い た の だ っ た ωLしかし, 1962年 の Fブノレシ
チ ョ ブ 第 二 販 Jは , こ の 事 件 を 思 い 切 っ て つ ぎ の よ う に 国 民 の 前 に 暴 露 す る に い た っ た 円
iス タ ー リ ン は , 中 央 委 員 会 と の 同 意 な
Lvニ , そ し て 編 集 局 の 組 の メ ン バ ー の 承 n去をえ
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.2
5
0
-1
.
1
7
5
) KpamKuiiKypC,C
1
7
6
) HcmopuHKnCC (
19
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),c
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5
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.
1
7
7
) 傍点一引用者。 HcmopUHKnCC (
19
6
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),
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7
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6
.
1
7
8
) HcmopuHKnCC (
19
6
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),
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.
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7
9
) Isaac Deutscher. S
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lBiogra
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. (London: Oxford University Press
,1
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4
9
),
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.1
0
4
; と原和夫訳『スターりンj) (東京:みすず書房, 1
9
6
3
), (
1
)p
.1
3
8
.
1
8
0
) A.B
.CHeroB,“ HeCKO~bKO cTpaHHUH3HCTOpHHnaPTHH (MapT・H
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Oanpe~兄 1917 r
.
),
"
BonpOCblHcmopuuKnCC. (
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,1
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),
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.
2
9
木村
10月 20日ジノーヴ
ずに,
4 エフの手紙を,
汎
r
問題は解決したと考えうる」という復の
声明をつけて,新聞に掲載した。カーメネフとジノーヴィエフのスト破りを党から除名
する什・についてのレーニンの手紙は,
ターリンは,
10月 20 日の中央委員会の会議で討議された。ス
ミザ斗ーチンとウリツキーの支持をうけ,
レーニンの要求に反対して妥協
的立場をとった。彼は,カーメネブとジノーヴィエフのスト破りの党からの除名に反対
するのみならず,彼らを中央委員会の構成から排除することにも反対しこの問題の検
討 を 中 央 委 員 会 総 会 ま で 廷 期 す る こ と を 提 案 し た oJ18l)
ところが,
[fプレジネブ六九年販 Jは
,
この部分の記述の全面的削除をおこなったのて
ある O
7
. プレスト=リトブスク講和
結 局 は 1918年 3月 3 日締結されたプレスト=リトフスク講和条約をめぐり,
ボワシェ
ヴ ィ キ が ① 即 時 講 和 派 ( レ ー ニ ン ), ② 「 革 命 戦 争j 継 続 採 〈 ブ ハ ー リ ン ら 「 左 翼 共 産 主
義者 J
), ③ 「 戦 争 も 講 和 も し な し づ 派 〈 ト ロ ッ キ ー 〉 の 三 つ に 分 裂 し て 大 論 争 を 展 開 し た
ことも,
よく知られているが,
この時のスターワンの態度が問題である。
レーニン以上
に ヨ ー ロ ッ パ 革 命 の 幻 想 に 葱 り つ か れ る こ と が 少 く 「 ロ シ ア J革 命 の 擁 護 が 最 大 の 関 心 事
だったスターザンは,最初からレーニンに与みする講和派だったと考えるのが常識的妥当
7"/チ
な見解というものだろう。名高い反スターザンのトロツキストの権化1.ドイツチヤーで
すら,この見解を採る 182)つだが,他方,
スターリンが講和派にまわったのは「後になっ
て (
later)Jl詰めからだと説く見解もある。生憎本稿の筆者にその真偽を民j答 す る 能 力 は 欠
如しているが,
ここでより重要なことは,四つの党史中『フノレシチョブ六二年販』のみが
つぎに引用するようにこの後者の見解をとり, [fブレジネフ六九年版』が産ちにその部分を
削除した事実で、ある。
「スターリンは動揺し講和交渉に賛成しはしたが,新しい条件下で講和条約を続二結する
ことに反対であった。レーニンに批判された後,スターザンは,この条件で講和条約を
緯結することが必要であると述べた。 Jlb4)
8
レーニンの遺言
「レーニンの遺言」の檎遺として最も有名な部分, 1
1
1
1ち「スターリンは粗暴すぎる。この
欠陥は,われわれ共産主義者のあいだのつきあいでは十分許されるけれども,書記長の職
務 に あ る も の と し て は 許 し 難 い J185)と述べた部分は,
どの党史にも痘接には引用されてい
ない。だが,そこでレーニンがスターリンの「若干の否定的な{国人的資糞」を指摘し,スタ
ーリン自身の長省と矯正の必要を促がし,
代りの書記長選出を提案したことは,丹、教程』
1
8
1
) HCmopURKflCC (
19
6
2
),
C
T
p
.2
4
4
.
1
8
2
) Deutscher,S
t
a
l
i
n
,p
.1
8
8
;邦 訳 p
.
1
5
5
. 西部!の権或 LeonardS
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h
a
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i
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o も同見解のようである。
S
c
h
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p
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o
. TheCommunistP
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ynft
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t Union
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.1
8
4
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o
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o
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u
s
s
i
a
.(NewYork:FrederickA.Praeger,
1
8
3
) た と え ば . GeorgevonRauch,A H
I
n
c 1
9
5
7
),p
. 74; 丸山修吉訳 F ソヴエト・ロシア史~ (東京:法政大学出版局. 1
9
7
1
),p
.7
0
.
1
8
4
) HcmopuRKflCC (
19
6
2
),
c
r
p
.271
.
185) “ Heony6~HKoBaHH~e ぇoKyMeHT~ B
.
I
1
.JIeHHHa,
"crp.18.
リ
30
党史と政権
を除くすべての版にぶされているのとこるが,
[í~ブルシチョプ六二年版 J
のみは,
このぷ
述だけではなお不ト分であるとして,スターリンがその後レーニンに指示された貞務を
「 実 行 せ ず ム 「 そ の 結 束 ; 党 が 蒙 っ た 凶 難j に ヵ 、 ん し , つ ぎ の 一 節 を 付 加 し て い た っ
「しカミ L ,その後の生涯が /J~ したごとく.
必然的な結論を実行
スターリン i
工
,
レ ー ニ ン の 批 判 的 評 dρ ‘らの
Lな か っ た っ 彼 は 大 会 に 従 わ ず ‘ 自 己 の 約 束 と 保 障 を 実 行 Lな か っ
た。その結果,党と国家は。その後スターリンの偶人崇拝によって芯きおこされたあら
ゆる医業主に耐えなけれ i
工ならな治ミったのである。 f863
『プレジ t
二ブ六九年版 3は , そ の 前 後 は 一 千 二 一 句 立 わ ぬ 之 章 を 保 持 し つ つ I
I
T
Iも こ の 合 口
Iったのである円
のみは汚J
D
.
三大キー・イシ
J
一
1
)[ : , 四 つ の 党 史 │ 誌 の 差 異 を き わ だ た せ よ う と 上 て も ス タ ー リ ン 、 に β きんする I
nJ訟をア
I
刊 は 一 応 達 成 さ れ た こ と と 思 う の つ ぎi
れ、よ
ット・ラン夕、、ムにとりあげてきたが‘この U
W
J
i
とするさいの決ふう子
いよ,ふつうもスターリン、色をi
(key i
s
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) とみなされている
'
i
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Jア プ ロ ー チ を 試 み る こ と に し よ う ぺ そ Lて、そのようなもスタ..--項目に正面からの現点I
f
ミ
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,?
f
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fJ (9. ,
) I
一段;装集団{ヒ J (10. 人 ! 大 出
ま ず 異 議 な L、とこんと忠わ h る
リ ン 、 問 題 の や ま な い Lか ん ど こ る と し て .
国 戦 争 ](11.)の三つを選ぶことは、
9
. 東南
η
キーロフ暗殺を中心として一
もスターリン、許可 j
芭を論ずるさいのf
長大ホイントと之るグ〕 i土
、
1
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i
清J と く に
[
I
i
j義 語 と も L、うべき 1
スターリニズム i
l
;
'
じた到の
:
m年 後 半 の 「 大 必 清 」 で あ る つ ス タ ー リ ニ ズ ム の こ の
局 面 の た め に ロ シ ア │ 司 氏 と 社 会 が 支 払 っ た 犠 牲 187)の十全な母子明な Lに ス タ ー リ ニ ズ ム 1同
J、L、てはソ連 }~I~ i
近 代 化 J の真の五粁!日i
1
0当初:不 Itrtì~ なこと改めて説く宝でもなし円そ
L て,
自らの歴史の耳心部にどの{立芳敢にメスを入れうるかは. H
世史書を真に客観的なものたら!
める試金石といえる門しカ診し.これは所詮ソ党史にたいするないものねだりではあった「
なぜなら, J
Iス タ ー リ ン 小 教 毛U が ス タ ー リ ン に よ る 点 清 に つ い て た だ の 1
J
:も
, i己L て L、
ないのは当然としても,
スターリン以後の三つの党史も.
l
社会主義法秩序の伎'占と大量
持i
圧 」 と し て の 点 法 に 二 ペ ー ジ ば か り 紙 数 を 市 き は し て い る も の の ‘ そ - flは つ ぎ の よ う に
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) 英国の詩人 J工つ現代 f
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:界有数のクレムリノロジストR.コン'クエストは, 1936-38年じ約lO
O万
人が実際に粛清,少くとも 200万人以上方 s強制収容所で死亡,集団化の過担に少くとも 350万,総
;
n1930-40年に 650万人の生命がスターリンのテロリズムによって史われた,と推定する。 Robert
Conques
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. (London: Macmillan, 1
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),
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. 529-533; Z,ブジェジンスキーは, 1
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7
:
3
8年中に党員だけでも 85万人が粛請されたと比護っ
ている。 ZbigniewB
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. (Cambridge,Massachusetts: Harvard
University P何
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),p
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. 98-99: 原子林二部 rt1'~ W 全体主義と)晶子N~ (束;;(:1
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主事通 f
亘社, 1
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5
7
),
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) プジェジ γ スキーは, ソピエト社会のスターリユスト的変形を「浪費 J
.I残酷J
,I不成功 J
,
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不 必 要j
と詳摘する。 ZbigniewB
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) ロシア革命五十年の損益表にかんしては,さしあたって ,S
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. (No. 64,luly 1
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) の特生
“TheSovietRussianRevolution 1917-1917: A Balance Sheet" 参類。
3
1
木村
汎
i
浪定された性格のものだからである。第ーに,故トリアッチによって鋭く追求された粛清
と 体 制 と の 関 連 190)が 余 り に も 軽 く い な さ れ て い る 。 つ ま り , 斎 清 は あ く ま で 社 会 主 義 体 制
の本質には無設な,勝利におごった一個人の例外的逸脱行為として処理されている。たと
えば, [J六九年版 Jは , つ ぎ の よ う に 断 言 す る 。 「 社 会 主 義 的 法 秩 序 の 破 壊 と 大 量 弾 圧 は , 共
産 党 , 社 会 主 義 建 設 に 深 刻 な 損 失 を あ た え た 。 し か し こ れ ら の 不 正 常 細eHOpMaJIhHhle)
現象も,社会主義的社会体制の性格と性質,社会主義国家の性質と本質を変えることはで
き な か っ た し , 亦 変 え は し な か っ た 。 J191)(傍点一木村〉。第二は,粛清がきわめて抽象的な
形で語られるのみで,その経過,議牲者の名称や数等の具体的事実にはーさい口をつぐんで
明 ら か に し な い 方 針 が 貫 か れ て い る 。 つ ま り 第 20由 党 大 会 (1956年 ) で の フ ル シ チ ョ ブ 秘
密演説は点清の具体的様相をかなり大担に暴露したが,その後のいず~JL の公開党史もその
方針を敷約,継承することを強く拒否する姿勢を故黙としてとり続けているのである。
したがって,
こ こ で も き わ め て 不 本 意 な が ら 30年 代 後 半 の 大 粛 清 の 発 端 と な っ た キ ー
ロブ暗殺事件を検討,比較するに止めざるをえない。
1934年 12月 1 日 , ス タ ー リ ン の 一 番
弟子でジノーヴィエフ派の拠点レニングラード乗っとりのため派遣されていた
C.M. キ
ーロフが,ニコラーエフによって狙撃され謎の死をとげ、た。当時の公式発表は,ジノーヴ
ィエブ,カーメネフら「レニングラード派」をニコラーエフの背後の使験者であるとみな
い 事 件 を 彼 ら に た し 、 す る 弾 圧 ・ 粛 清 開 始 の 口 実 と し た の だ が , 事 件 か ら 22年 後 の 1956
年フルシチョフは,その説、密演説中において,キーロブ暗殺が反対派抑圧の口実をつくるた
め ス タ ー リ ン 自 身 に よ っ て 註 紐 ま れ た も の で あ る 旨 示 唆 し た 19230 ま た , 元 メ ン シ ュ ヴ ィ キ
.ニコラエフスキーは,事件を政策,声
の経歴をもっ西側きつてのクレムリノロジスト B
望,権力をめぐるスターリン
VS.
キ ー ロ フ の 闘 し 、 と い う 角 度 か ら 説 明 し よ う と し た 193%
このような背景や予稿知識を念頭において,四つの党史の記述を比較してみるとどうか?
E
スターリ
γ 小教程Jl
:Ifプノレシチ豆ブ五九年販Jl Irプノレシチョプ六二年寂 J
L Irプレジネブ六九年版』
犯罪の現場で取押えら! 犯罪の現場で取押えら; 犯罪の現場で取持えら: 犯罪の現場で取押えら
れた殺人者は,レニ γ グ;れた殺人者は,……党の:れた殺人者は,……党の;れた殺人者は,……党の
ラードで│ラ7二ごす7.;L:指導的活動家たちにたい j
指導的活動家たちにたい;指導的活欝家たちにたい
:三;の反ソ団体の加塑者 jする敵意と増悪の感情に;する敵意と憎悪の感清に jする散意と憎悪勾感情に
により組織された反革命:みちていた脱落者であっ;みちていた。みちていた。
的秘密グループのメンパ円斗ジノーヴイエフ反 11
ーであることが判明し: I
党グループの以前の加 I
:
た。……審理と裁判の結! I
担者の一部と交際して I!
果ジノーヴイエフ_'I
司:日
l i│か れ は , … … 党 か れ 出 … … た
くかれは〉……党
i
ーメネブ,エフドキー I ~員証にかくれて凶悪な犯;員証にかくれて凶悪な犯:員証にかくれて凶悪な犯
竺~_,J その能前記団体 j 罪を犯したのである。罪を犯したのである。罪を犯したのである。
の指導者たちが・・・・・・費量悪:
な役割を演じたことが明
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fKhrushchev…
,
"pp. 125-2
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. (New York:
.Praeger,1965),p
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,とくに p.102; 中村平八・南塚信吾訳『ソヴエト・エ
FrederickA
りートJl (東京:みすず書房, 1
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)
.p
p
.80-108 とくに p
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8
.
32
党史と政権
らかになった。
彼らは 1
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';
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と j エス・エム・キーロフ: Iこ れ は , 共 産 藤 扇 : エス・エム・キーロブ
j回党大会の席上で,ェ 1
:の暗殺は,党とソビエト
の関謀を隠蔽した。……:の暗殺は,党員註がけが j
ヌ・エス・ブ/レジチョ I国民の警戒心を強めさせ
キーロフの暗殺は,……:らわしい反ソヴエト活動: I
この合同トロヅキストを隠蔽するために利用さ; Iブが報告したごとく, 1: た。事件は革命的警戒心
I?~"-= 厄徒党によっ j れるばあいがあることをその状況がいまだに調I1 :をたかめることの必要性
査されつつある故意犯1
:を島らためて患いおこさ
て行なわれたのである。;あきらかにした。それが: I
……すべてこの暗殺者と どんな荻面によって諒蔽: I
である。エス・エム・ 1せた。それがどんな訳語
スパイ自の主な使張者と;されていようとも,社会:片ーロブの暗殺は,党十によって隠蔽されていよ
組織者誌,ユダ・トロツ十主義とソピエト国家の科: Iと国家の生活に大きな 1: うとも,社会主義とソピ
影響を与えた。これは 1
:エト国家の利益とに敵対
キーであった。 トロツキ;益とに敵対する行為を不: I
ーの…・・指示の遂行者は j
可能にするために,党を. I
完全に個人崇拝の状況!:する行為を不可能にする
下のことであった。 1
:ために,党を異分子から
ジノーヴイエスカーメ 異分子から守ることが必: I
!主主二二一言己は,復刻:守ることが必要であっ
ネフ,その抱トロツキス:要であった 195)
ト 的 追 随 者 だ っ た 。 彼 ら :I
気にいらなし、全ての人 1
:た 197)。
は萱量三正義者jの ソ 連 邦 :
1
々を処罰するキッカヶ;
攻 撃 の ば あ い に お け る … :I
としてこの暗殺事件を i
吾空三三三五!の卑し
;持閉した。多くの逮捕;
むべき下僕となり手先ど
:Jが続いた。大量抑圧と;
J社会主義的法状序の高
なった出〉。
:
大な違反の端結となっ i
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坦主一。一一一 i
『 小 教 程 』 が お こ な っ て い る 殺 人 の 教 唆 者 の 範 囲 を Lだ L、 に 拡 大 し て ゆ く 過 程 に は 驚 く べ
きものがあるの郎ち,ニコラーエフ→ジノーヴ
fエ フ → 「 レ ニ
γ グ ラ ー ド 派 J→ジノーヴ、
f エフ=トロッキ一連合→[l独ファシスト帝国主義者。?五九年版』では,
をだ殺人者ーが
J
小
過 去 に ジ ノ ー ヴ ィ エ フ 一 派 と 連 撃 が あ る と Lていたが, [J六二年版』にいたって一転 L[
教 程 J以 来 の 背 後 関 係 、 を 絶 ち 切 る 一 方 む し ろ ス タ ー リ ン の か く れ た 動 機 を 示 唆 L, $
TLい
六九年版三は.主主任追求を断念 L抽 象 的 な
方向を払-くかに見えた。だが,プレジネフ期 F
表現と無人称の蔭に問題を[司避する方針をとった内
1
0
. 農業集団化のゆきすぎ
今日,高麗先進国と目される諸国中でソ連邦のみが農業不振に悩んでいる原因として,
f非 体 制 的 理 由 J (天設不1
I
員 , 投 資 不 足 手 〉 の ほ か に 体 制 的 理 由 J (集団{ヒの結果と L
ジ ヤ イ ガ Yテイズム
て の 巨 大 病 や f ンセンティヴ、の欠如, IS~) が指摘されている O しかしソビ、エト公式見併
は,あくまで集団化が子?;.観的に必要不可欠ム「党によるひ理的な選択の結束;j,
の 協 同 化 プ ラ ン の 実 現jで あ る 12ah ただ,
Iレーニン
集[
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f
l{との具体的な執行の方法?スピードにか λ
〆
1
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) Kpam1
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,CTp.310-312.
1
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) HCmopufl KflCC (
1959),
CTp. 463.
1
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) J1
cmopufl KflCC (
1962),
CTp. 486.
1
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) J1
cmopuflKflCC (
1969),
CTp. 437-8.
198) B
.n. ,
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“ MaTepHaJIbHO・TeXHHQeCKa兄 6333CeJIbCKOrOX03組 CTBaCCCPH3K3HyHe
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cmopuu.(N27,1956),CT予・み 1
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.H.norY.
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CllJIOWHO長 KOJIJIeKTHB区33UHH
“HeKOTopbIe BonpocbI HCTopHorp3中HH KOJIJIeKTHBH3aUHH B CCCP,
"Bonpocbl Hcmopuu.
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地 9,1958),CT予
. 119,121,123; 5
.口.且 aHHJIOB,
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KpeCTb完封 CTBaH KOJIX03HOro CTpoHTe
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,
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),
CTp.34-64.
33
木村
汎
し誤りやゆきすぎが犯されたにすぎなし、。しかも,集団化にあたってのレーニン的自発性
の原則が侵犯されたのは,主としてクラークその他の敵の陰謀,現実状況との接触を喪っ
て 勝 利 を 焦 っ た 地 方 の 現 場 指 導 , 党 内 の 左 翼 的 偏 向 に 基 く , と の 立 場 を と っ て い る 19930
さて,それらの誤りやゆきすぎにおけるスターリンの役割であるが,四つの党史におい
I小 教 程 』 と 『 五 九 年 版 』 は , コ ル ホ ー ズ イ と に お い て 「 欠 陥
て次のようになっているo J
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強制(ロ戸HY
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,
お こ な わ れ た 事 実 を 卒 痘 に 承 認 す る が 2め
(onm6KH) j が
スターリン個人にたし、する責任追求をまった
I
党 組 織 j202)の 責 任 に 転 嫁 す る O ところ
が
, [Jフルシチョフ六二年版』は,スターザンを名指しで(六回) Iコ ル ホ ー ズ 建 設 に お け る
)
l
く 行 な わ ず , そ れ を 「 党 員 労 働 者 よ 「 地 方 組 織 j20,
え ① 1929年 12見
深 刻 な 誤 謬j の 責 任 者 と し た の で あ る 。 同 党 史 に よ る と , ス タ ー リ ン i
末
,
マルクス主義農業専門家会議で,農業生産の協同化遂行にかんし f
過度に急くゴこと
を戒しめたレーニンの指示やエンゲルスの教えを無視して,集団化テ γ ポを速めるよう呼
び、かけた 293% ② 1930年 2見 3 日付
Fプラウ夕、、』社説中に「最近の集由化の予定 (=1930-
31年 中 に 貧 - 中 農 経 営 の 75%) は , マ キ シ マ ム で な し 、 」 と 書 く よ う 指 示 し た 蹴 〉 。 ③ 起 り
うるゆきすぎをまえもって予想するために社会化の意義を平急に暁らかにするようにとの
地 方 党 委 員 会 に よ る 執 揚 な 請 願 に 必 要 な 説 明 を 与 え な か っ た 205L ③ 農 民 の 小 規 模 経 営 に
た L、する愛着を過少評価するという
「 最 大 の 誤 算 で 多 く の 誤 り の 原 因 (C3Mhl'
t
I KpynH
組員
npOCqeTH HCTOqHHK MHOrHX onm6oK)j を つ く っ た 側 、 『 プ レ ジ ネ フ 六 九 年 販 iは , 集
団化のゆきすぎ一般はこれを厳しく批判するが,その責任の所在を「党カードル j207)~こ帰
してスターリン偶人には言及しないという立場に後退
(1) した 208)。 最 後 に , 四 つ の 販 に
おけるこの問題の取扱いの差異がもっともよく現れているのは,スターリン論文「成功に
よ る 舷 惑 J (1930年 3月 14 日 ) に か ん す る 次 の 記 述 中 に お い て で あ る o
『スターリ
γ小
教程.11
:
Irフノレシチョブ五九年版.11:Ilフノレ、ンチョフ六二年版,J
L Iiプレジネフ六九年取』
同志、スターリンの論文; この論文は, コノレホ- 党中央委政治局はスタ i この論文は大き主蓑極
誌,もっとも大きな政治;ズ建設における党の政策:ーリンに意見を述べるよ:的役割をはたしたい
的意義をもっていた。こ iを説明したものでありう頼んだ。しかし,スタ;論文は党幹部が,コノレホ
の論文は党組識がその誤;党の基幹活動家に,コル iーリンはこの論文を政治 iーズ建設でおかした誤ち
1
9
9
) このソピエト公式見解にたいし, わが国の渓内謙氏は, きわめて実証的な研究によって集団化が
「党の特定の指導者の頭脳によって岳覚的に先取されたものでなく」穀物危機と Lづ現実状況にた
L、する「追随と適応との便宜主義のなかから自然発生的に形成されてきた帰結」である, とのユニ
スターリン政治体制の成立(第 I蔀〉ー農村における危機→J1(東
ークな設を提唱された。渓内議 F
9
7
0
), p
. 490
,p
. 384以下。なお筆者による同書評, Il朝日ジャーナノレI
J(東京:
京:岩波書!占, 1
9
7
1年 3月 5 A号
)
, p
p
.63-64; Il社会思想研究I
J(東京社会思想研究会, 1971年
朝日新聞社, 1
8丹号), p
.4
3-47も参賠。
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) KpamKuuKypC,
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.293-29
告;Hcmopufl KflCC. (
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) KpamKuuKypc,
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.293,
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.M :JICe
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208) Ta
.M :JICe
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.
34
党史と政権
りを是正するのを助けホーズ連動で、おかした誤:局員と講和させなかっ
ソビエト権力の敵にもっ;りを是正し,集団化の成た。論文は二重の意味を
と も 強 い 打 撃 を あ た え 果を屈めさせるために書!もった。.
7
こ か れ たc ・
・
やゆきすぎを是正する途
に向かわせた。しかしこ
の論文にはまえに述べた
これら誤ちの諒闘が十分
には解暁されていなかっ
た。……
誤りのエネノレギヅシユ
杢孟│は農民大衆: コノレホーズ建設でおか
コルホーズ建設でおか
を安心させたmL
;した誤りの是正にかんす された誤りのエネルギッ な是正は農民大衆を安心
:る[至 のエネルギッシュシュな是正は農民大衆を させた 212)
;な措震は,農民大衆を安 安心させた 211)。
;心させた210L
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11
. 大祖国戦の指導
た担国戦,すなわち独ソ戦開戦後の第三次 I
H
:界 大 戦 (1941-45)
!にお;十るスターリン
11
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i. 、 ス タ ー ザ ン 、 問 題 の や ま ば の 一 つ で あ る 。 こ の 期 信 1 . 党書記長,
の 功 罪 評f
員 会 議 々 長 〈 首 相 入 間 防 人 民 委 員 の ほ か , 大7
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:(
;
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,
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人民委
ソ連邦軍長高司令'
(
C, 同 家 防 衛 委 只
会 議 長 の 重 要 ポ ス ト を 兼 務 Lた ス タ ー リ ン は . ソ 連 邦 の 国 防 な ら び に 戦 争 遂 行 上 の i
H来 不
I
H来 の 最 終 責 任 者 だ っ た 円 まず,
存 命 中 な ち び に 死 後 1956年 ま で 「 軍 事 戦 略 の 大 天 才 J
と い う 一 律 的 評 価 が 支 配 Lた。だがフルシヂョフは,
561f.秘寓演説 11で,この軍事英部こス
r
タ ー リ ン が 大 戦I
t1 どの t
i
J線 ま た は 解 放 都 市 を も i
訪 問 せ ずJ
. r地球援で作戦 ~~hfIij をたて 1.
「数
1
-万 の 兵 士 を 犠 牲 に し た J と 非 難 213)
栄光のft6:からひきずりおろ Lた。し力、 Lp}び プ
レ ジ ネ フ 政 権 下 の 1965年 以 後 , フ ル シ チ ョ フ 倍 人 の 政 治 的 動 機 に よ っ て 不 当 に 歪 め ら れ た
も軍人スターリン、評舗の振子を再度逆方向に動かしよりバランスのとれた「存観的なス
ターリン
214
)
1
の歴史像再建の機運がもりあがり
215)
" ス タ ー リ ン 復 活 J Iの の 兆 候 と し て 騒
がれた。 以 上 簡 単 に 要 約 し た も 軍 人 ス タ ー リ ン 、 主 信 託 の 変 遷 が , 党 史 〈 ー と う ぜ ん 担 国 戦
l
i
i
j
f
lJ行の円、教程』をのぞく一)におし、て,いかに取扱われてし、る治、?罰していえば,二
つの党史ともデリケイトで最終評価のi
れ て い な い こ の 問 題 を 不 同 に ふ Lて い る 感 が 強 L、
が
(ー慨をあげれば,大桂国戦に当てられた 50~60 ページにおよぶ膨大な章に;f乱、て,
のごとき員品責任者たるスターリンの名前はわず刀、 6~7
.
1
.
述
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1 カ込三及されていない!)217入
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) KpamKuiiKy
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7年 1J
14日付 Eブラウダ i掲載のB.モロゾフ論支は,スターリン評l
i
1
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が,結誌は 己弁明
J
J討しようとする卒事回想、録の続出によって境言しされている実状にた L、
L.
のためにスターリンを本I
ソビエト思想録による過去の事{牛の「厳しい客観的 (
CTporoo6beKTHBHoe)Jtr.解明そ要請したの
“oBoeHHbIx MeMyapax,
"flpa8ぬ (
4HHBap匁 1
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1
5
) 木村抗前揖「棲小'政権の強硬路線 Jp
p
.3
7
0
3
7
2参照。
n
216) 終にブレジネフ致権~.でネオ・スターリニズムと呼ばれる現象を「反スターリン・キャンベーン
の持 l
L
J と「スターリン f
主権の事i
キャンベーン j の二つに峻別するならば, S
. ピアラーは“軍人
Sewe
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スターリン"をめぐる動きを前者の性格の域にとどまるものと捉える
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.
υ
3ラ
木村
汎
この逃げをうった大同小異の中にもやはり若干のニュアンスの差誌発見される。問題を,
N. へヤーにしたがし、 2 m, ス タ ー リ ン の ① 緒 戦 の 散 北 に た し 、 す る 責 任 ,
②部下たる軍
事指導者たちの取扱い,③大戦全体の指導,の三点に分けて検討してみよう。
①
独ソ戦開始直前の時期にスターリンがおかした予見の甘さ,その結果としての戦争
準備不足については,どの抜の党史も卒直に承認,
記 述 し て い る 219h た と え ば 「 戦 争 前
夜 の 軍 事 戦 略 状 態 の 評 価 に お け る ス タ ー リ ン の 許 さ れ ざ る 誤 算 j, I
スターリンの戦争の脅
威 の 過 少 評 価 j, I
フ ァ シ ズ ム に た L、 す る ス タ ー リ ン の 警 戒 心 欠 如 j,等々 O だが. !l六二年
版』および『六九年抜』は. I
著 る し い 部 分 の 責 任 Jが. I
赤軍に戦開準備態勢をとらせる
.K.ティモシエンコ,
緊急措置をとらなかったj C
r
.K. ジ ュ ー コ フ ら 国 訪 人 民 委 員 部 や
参 謀 本 部 首 脳 に も あ る と し 220〉,さちに『六二年版』のみは,
1941年 4月 フ ル シ チ ョ フ が
ス タ ー リ ン 宛 て 送 っ た 「 信 号 , 懇 願 , 警 告 Jが 後 者 に よ っ て 無 視 さ れ た 挿 話 を こ と さ ら 付
カヨしている 22130
②
スターリンが,果してヒトラーの攻撃時期につき正確な'情報を入手していたか否か
入 また入手した'情報を正しく評価したか否か 2283, に か ん し て は 議 論 が 分 れ る が , 西 側
222
では,仮にスターリンが当時ナチの攻撃を予知しえたにせよ,彼にはそれに対処しえない
内 政 的 事 由 の た め ど う す る こ と も で き な か っ た と 説 か れ て い る 22430 そ し て そ の 「 お 家 の 事
情 J とは,
な に よ り も ま ず ス タ ー リ ン 自 ら が 30年 代 の 粛 清 に よ り 優 秀 な 軍 事 指 導 者 を 大
〉
量 に (75パ ー セ γ ト
喪っていた事実で、ある 225% この事情を, !l六二年寂 J お よ び f
六
九 年 版 』 は つ ぎ の よ う に 記 す 。 11939年 か ら 1941年 8月までの期間,
軍事力はほとんど
3倍に増加された。...一・しかし,赤軍の建てなおしと技者守的再軍備は完成されなかったっ
カードル
… ー ・ 赤 軍 は , 経 験 を つ ん だ 幹 部 要 員 を 欠 拐 し て い た 。 多 く の 重 要 な 司 令 官 -B.K. プリュ
2
1
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,
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40541
.
2
2
2
) たとえば, ジューコフは, 当時スターリンが得ていた情報や資料がきわめて不完全なものであっ
て,攻撃持期を見抜くことは「当時の条件のもとでは極めて層難 j で,たとえスターリ γ 以外の誰
であっても,誤算を犯しただろう,と述べる。況yKOB
,o
p
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i
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.2
3
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.
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7
. これにた
いして,当時の軍事構報担当者は,猛然と反論し, “司H
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1
5
6
; Ir六九年版』も「信ずるに足る(ぇocroB
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I
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) 資料j があったと Lづ。 J1
cmopufl KllCC (
19
6
9
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7
8
.
2
2
3
)1
1
.D.プルサーノフは,スターリンが自己の軍事構報顧問たちを過少評題していたと述べるが日.
訂. DpycaHoB
,
“ DOBblmeHHeopraHH3y
回
I
.
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"BonpocblJ1cmopuuKllCζ. ( 地 主 中eBpaJIb 1965),CTp.
1
. KOHeB,“ COpOK nHTl元首 ro.
n
4
6
; コーネフ元帥はスターリンが彼らを重吊したと述べる。 1
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,Ma詮 1965),CTp.38.
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. もっと
2
2
4
) MauryLisann
も
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r
六九年寂』は, スターリシが防衛準備態勢をとることによって「攻撃のためのなんらかの口
実をドイツ・ファシストたちにまらたえることを慎れていたため」と一応説明する。 J1
cmopufl
K万CC (
19
6
9
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8
.
2
2
5
) Lisann
,p
.61.プ/レサーノフもこれを裏づけ「消耗戦の前夜に多くの才能ある軍事指導者 r
司令
官,政治部員を根絶したことが悟入崇拝のもっとも深刻な結果だった J と断言する。 DpycaHoB,
o
ρ.c
i
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.6
.
3
6
党史と政権
へノレ, A
.H. エ ゴ ー ロ フ . M.H. ト ク ハ チ ェ フ ス キ ー . 1
1
.
n
.ウ ボ レ ヴ ィ チ , 日.3. ヤキ
ー ノ レ , そ の 也 一 一 ー が , 戦 前 に 謂 わ れ な く 抑 圧 さ れ て し ま っ て い た り 226)
③
大祖国戦開始後ならびに期間中の軍事指導者としてのスターリンの評価にかんし,
三 つ の 党 史 は ニ ュ ア ン ス を 変 え る . 四つ[7
J
Iを あ げ る 。 ー は ,
独 ソ 開 戦 後 10日を経なし、 6
月初日結成の国家防密委員会の記述である。創設とともに議長に就任したのはスターリ
ンその人で、あるが.これを明記したのは,
u
五九年版三のみで, u
六三年版』および『六九
年版』はスターリン名を次のように省いたっ
『スターリン小教程~
:ír ブノレシチョフ五九年版 lír フルシチョフ六二年版~: l
iブレジネフ六九年版i
l イ・ヴェ・スターリン I:
:!主塑主ち!国家間:
国家防靖
国家防禽
委員会がつくられた227L 委員会がつくられた剖)0 :委員会がつくられた 22句
。
二は,
1941年 11丹 6 日 に ス タ ー リ ン が モ ス ク ワ 勤 労 者 代 議 員 ソ ピ エ ト 完 て お こ な っ た
演説であるO 三つの党史の叙述は以下のように異なっている。
「スターリン小教程~
:[Jフノレシチョフ五九年脹Jj, [fフルシチョフ六二年坂Jl: Iiプレジネフ六九年版』
言
t
r
線が近いにもかかわ
1
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1年 1
1月 6/3,前
1
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4
1年 11月 6司,倒
らず, 1
9
4
1年 1
1月 6/
3:線が近いにもかかわら:年のとおり前議が近いに
モスクワで,首都の党組:ず,例年のとおり, 1
0
見;もかかわらず, 1
0月社会
織と社会団体との共詞主!社会主義大革命2
4周 年 の 主 義 大 革 命2
4周年のため
催で,モスグワ勤労者代:ための,党組織と社会団の,モスクワ・ソビエト,
議員ソビエトの伝統的な;体との共同主濯で,モス党組織と社会団体との共
会議がひらかれた。イ 1
':クワ勤労代議員ソピエト民主催でモスクワ・ソピ
[ヴヱ・スターリンがlO の勝利の会議がひらかれエトの勝手Ijの会議がひら
i
月社会主義大革命2
4周;た 230)
ぞ
イ .ij二 三 五
年 記 念 の 報 告 を お こ な :I
ーリンが報告演説をが
った。彼は,国に襲い
:J
三む主色村γ かかっている危機がつ:
よまったことを指擁
L,前線をたすけるた
めに献身的に労働する
よう党政府を代表して i
ソピエト国民に呼びかi
け
, ドイツ・フアシス I
:
ト軍の軍事力を壊滅さ j
せるという任務, ソピ
エト人民を奴隷化する
ためにソビエト領土に
畏入してきたフアシス
│ト侵略軍全部をひとり
のこらず殻滅するとい i
i
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i
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:
i
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i
:
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.
3
7
木村
汎
;
iう任務を提起した232〉。!:
解説を加えるまでもなく,
間ーのスターワン演説を,
w
五 九 年 版 』 は じ つ に 詳 紹 ・ 7寧 に
紹介. Ir六二年版』は抹殺, Ir六九年版』はわずか一行に要約している。
三の翌日スターリンが赤い広場の赤軍関兵式でおこなった演説にも,まったく同様の差
異がみられる。
『スターリ
γ 小教程』
;
fフノレシチョフ五九年版 J
j:li'フルジチョフ六二年版 l u
プレジネフ六九年版』
1
1月 7
1
3
. モスクワの
1
9
4
1年 1
1月 71
3
.赤
1
9
4
1年 1
1月 7日,赤
:赤の広場で赤軍の伝統的;の広場レーニン窮の前で:の広場のレーユン需の前
;な関兵式がおこなわれ:ソビエト軍の伝統的な謁:でソビエト軍の伝統的関
jた
。 I
イ・ヴェ・スター 1
:兵式がおこなわれた。兵式がおこなわれた。
男女パ Jレチザ γ ,全ソ i
ピエト国民に呼びかけい
てつぎのように述べ1
:
i
7
こ
。
「全世界は,諸君た 1
:
ちをドイツ侵略軍とい I
:
う強盗的大軍勢を絶滅1
:
しうる力と看なしてい1
:
る
。 ドイツ侵埼軍の穏
につながれたヨーロッ i
パの奴隷化された語国 1
:
民は,諸君を畠分たち 1
:
の解放者と看なしてい 1:
る。偉大な解放の使命1
:
が諸君の役目となっ i
た。この使命にふさわい
1;
しくあれ f レーニ γ
の旗のもとに一勝科に 1
:
むかつて龍進せよ/JI
~
戦闘装講をしたソピェ: 部隊は,関兵式からま; 蔀隊法,関兵式からま
:ト軍は,謁兵式からまっ jっすぐ前線におもむい;っすぐ前線におもむい
:すぐ前棋におもむし、 jた254
。
〉
Jた2
2
5
)。
西は,大担菌戦争の最終的勝利の功績者は果して誰かす
換言すればわがスターリンが
どの程度その名誉に与りうるかの点である。三つの党史は,きわめて個性的な対照をしめ
す o Irフルシチョフ五九年版』は,
スターリンの功労を真正面から賞讃する。「大祖国戦
1
.B
. スターリンを先頭とする共産党および党中央委員会の
争におけるソ連邦の勝利は. 1
0 Ir同六二年版』は,これと正反対である。
指 導 の も と に 克 ち と ら れ た J236)(傍点一引用者 )
すなわち,まず.
r
大祖国戦争におけるソ連邦の勝利は,
党中央委員会を先頭とする共産
232) Ta.M :JICe
.
19
5
9
),
c
r
p
.5
3
5
.
233) HcmopuRKflCC (
234) HcmopuRKflCC (
19
6
2
),
c
r
p
.551
.
2
3
5
) J1
cmopuRKflCC (
19
6
9
),
c
r
p
.4
7
8
.
2
3
6
) HcmopuRKflCC (
19
5
9
),
c
r
p
.5
7
6
.
3
8
,
党史と政権
党 の 指 導 の も と に ソ ビ エ ト 人 民 に よ っ て 克 ち と ら れ た J23η と,勝利の功議をフノレシチョブ
支配の党中央委左人民に与え,きらにスターリンにかんし意味を嬰確にして,次のように
述 べ た 。 [ ソ ビ エ ト 人 民 に よ る 岳 由 と 独 立 を 求 め る 英 雄 的 な 戦 い の 試 み は , {W~ 人崇拝期に
つくられたあたかもI/
L B.スターリンが戦線と銃後に;おけるすべての最も重要な勝利の唯
一の創造者であったかのごとき伝説を,
完 全 に 論 駁 す る J2草分 F
プレジネフ六九年版』は,
この二つの真向から対立する見解のどちらに宇みしたか? 答は,あまりにももブレジネ
コミットメ Y ト
フ的、( !
?)であったのすなわち,態度-決定を迫るすべての煩らわ Lい 問 題 に た L、する例
の
J
/ノー・コメント
Jと い う 逃 げ の 一 手 で あ る 。 す な わ ち , こ の 部 分 ば .
~ブレジネフ版』
に お い て 全 面 削 徐 さ れ て い る 2紛 月
1
2
. 個人崇拝批判
最後の例として,スターリン批判を註接的な形でおこなっている笛所を比較しよう。こ
Eス タ ー リ ン 宇 教 程 』 が 除 外 さ れ る の は 言 う ま で も な い と Lて , の こ り の 三 つ の 党
史 で 正 面 切 っ て の 「 ス タ ー リ ン 偶 人 崇 拝 批 判 JI'こ紙数を割し、ているのは, ソ 連 共 産 党 の 第
こでも
こ の う ち , 第 18回 大 会 (
1
9
:
3
9
) の直 f
J
I
Jに つ い
1H, 19, 20@J大会の記述のとこんであるの
ては,すでは
,
i!
t清 J (
9
.
) を 論 じ た さ い く32ペ ー ジ 〉 少 々 触 れ た の で 割 愛 す る 。 第 19同
大会 (
1
9
5
2
) の前人崇拝批判は, ~六二年版i のみに存する。すなわち,
大祖国戦争が経
24U
個人崇拝の有害な影響がし、ちぢるしく現れた J
了した時期にすで;こ i
)と 説 く ス タ ー リ ン
弾劾(廷ベ 3ページ)は,
~フノレシチョフ五九年版』になく 241)
~同六二年版』に添加さ
れ 242) J
Iブ レ ジ ネ フ 六 九 年 抜 』 で 再 び 消 え た 248%
だが,最も本搭的なスターリン個人崇拝が最もまとまった形で、畏関しているのは,三つ
の 党 史 に お い て 例 外 な く 第 20面 党 大 会 (
1
9
5
6
) の'笛所ーであるの
スターリン批判の幕をき
っておとす発大点となったのが同大会京上のブノレシチョフ託、密演説である史実からも,、当
然であるのその最終部分において.それまでほぼ向ーだった叙述は,三つの版でつぎのよ
うな差異をしめずにいたるの
『スターリン小教程~
:
rr フノレシチョブ五九年版~: r
rフノレシチョフ六二年版 1 rブレジネフ六九年寂』
党の{医人崇拝批判の本; 党の個人崇拝批判の本; 党の悟人崇拝批判の本
質は,この崇拝の結果と:質は,この崇拝の結果と;質は,この崇拝の結果と
しての害毒を排掠 L,そ:しての害毒を排除し,そ;しての害毒を排除し,そ
れによって社会主義の地 jれによって社会主義の地;れによって社会主義の地
歩を強化することにあっ:歩を強化することにあっ:歩を強化することにあっ
て
, 局云ょが白色亙忌:た。
。
こ
i
f
こおいてイ・ヴェ・ス;
i
ターリンがはたした積
l
極的な役割を十把ひと
│からげに否定すること
:
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1
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.
239) HCmopufl KnCC (
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.
240) HCmOpUfl KnCC (
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3
9
木村
汎
にはなかった。共産党, I
そしてイ・ヴェ・スタ i
ーリ γ が指導的役割を I
:
演じた党中央委員会の I
~
指導のもとに, ソ連邦I
:
は発展し,巨大な世界 I
:
史 的 な 成 功 を お さ めI
~
た。イ・ヴェ・スター i
リンは, ソピエトの国 I
!
にとり,ソ連邦共産党 I
:
にとり,全菌擦労働運;
動にとり,多くの右益i
な生事をなした。│
エヌ・エス・フノレシチ i ェヌ・エス・フノレシチ i スターリンの活動むな
jョフは述べた。
われわ iョフは述べた。
われわ:かに,党は二つの側彊を
jれは,同志スターリンの:れは,同志スターリ Y の j
認め,肯定彊は評掘し,
:活動に,二つの側面があ:活動に,二つの側面があ:その否定面を批判し非難
:ると見ている。われわれ:ると見ている。われわれ jする 248L
:が支持し高く評価する積:が支持し高く評価する積:
j
極的な面と,われわれが;極的な面と,われわれが:
:批判し排除する否定的な;批判し排除する否定的な i
;面とである。……わが:面とである。 ・ ・わが党, :
;党,われわれのすべて拭:われわれのすべては,党:
i
党の事業,雷民の事業に;の事業,国民の事業に重;
j
重大な損害をもたらした j
大な損害をもたらした深;
;深刻な誤りと歪曲の廉;刻な誤りと歪曲の廉で,
jで,スターリ γ を断昌と jスターリンを断固として:
:して非難する。 J244)
非難する。 J245)
r
r
H
H
三つの党史でスターリン批判が言定・否定の南側面に分たれることを等しく指摘しつつ
も
, [1フルシチョフ五九年版』はスターリンの肯定面の強調に少からざる行数を費したが,
『同六二年肢』はその部分を全面的に削除し
用 さ れ た フ / レ シ チ ョ フ の 言 葉 を カ ッ ト L,
Fブ レ ジ ネ フ 六 九 年 版 』 は こ の 萌 二 版 中 に 引
r
スターリ
γ
の肯定匡は評価し,
否定酉は批判
する」の一行で箆単に済ましている。ここにも,三つの販の特徴,なかんづくできうるか
ぎりく沈黙は金〉の立場を国守せんとする『プレジネフ版』の性格がよくでている。
×
さて,
×
×
以上 12ヶ の 例 を あ げ て ソ 党 史 の ス タ ー リ ン に か ん す る 記 述 を 対 比 ・ 検 討 し た 結
果,屯まとめ、として, [1プレジネフ六九年販 J党 史 な ら び に プ レ ジ ネ フ 政 権 に つ い て 何 を
L、し、うるか?
バータ γ
第ーは,冒頭でー,二の例からテ γ タティヴに抽出した一般的定型 (
25-27ペ ー ジ 参 照 )
がスターリンにかんするほぼすべての記述に共通のものとして妥当することが判明した結
果 , 主 張 し う る 特 色 で あ る 。 つ ま り , [1ブレジネフ六九年版』の特色は, [1フルシチョフ五九
年版」とともに,スターりン札讃の町、教程』とスターリン批判色のもっとも濃い『フル
シチョフ六二年版』との中間に位置するということである。このようにもスターリンもの
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40
党史と政権
取扱いにかんし,
[Jプレジネブ六九年版』が Fフルシチ三ブ五九年抜』
ときわめて{以かよ
っている事実から推しうるのは,次のことである。即ち,最近プレジネフ政権下における
、ネオ・スターワニズムの動きもが騒がれているが,
1969年 現 在 の ス タ ー リ ン 復 権 の 程 度
959年 当 時 の レ ベ ル を 出 な い と い う こ と で あ る n
とは, [/フルシチョフ五九年版』出版の 1
『ブレジネフ六九年版 J 第二の特色は,
つのどの党史と比べても,
その笥単な叙述形式にあるわ
フルシチョフ期の二
[/プレジネフ六九年版 Jがその対象期間の増大とは反対に,
そ
の総ページ数を減少させていることは既述したが,このことはもスターリン、にかんする
記述において特に際立っているの明らかに,ブレジネフ政権は,このデリケイトな「諮絵j
たるもスターリン平問題をできるだけ槙重に回避して,
立場決定からくる種々の説約や不
手J
I益を免れ言動の自由を確保しようとしている。
(
2
) 、フルシチョフ、問題
- f壁 史 家 は 危 険 な 人 々 で あ る 。 彼 ら は す べ て の も
のをひっくり返す力をもっている o
J(フルシチョ
プ )247)
ー
プルシチョブ死亡時の東西の報道にあらわれたこのソ連政治の前任者にたいする評髄の
差 異 は ま だ 記1
意に新しし、西鶴が「レーニン,
政 治 家J ([fニューヨーク・タイムズ~)
トロッキー,スターリンと同列に並ぶソ連
と礼讃したのにた L、
し
,
必 要 最 低 限 度 の 事 務 的 発 表 を お こ な っ た 切 り だ っ た 24830 しかし,
当のお膝元のソ連政府は
問 題 は こ れ でU
、ってソ
連 邦 に お け る も フ ル シ チ ョ ブ も の 最 終 的 評 価 が 下 さ れ た わ け で は 決 し て な し 、 2.9)ことであ
るの否,むしろ,現政府によるぎこちない黙殺行為;工、プレジネフ政権によるもフルシチョ
ブ、問題の最終的決定ができておらぬか,それを回避しようとする姿勢のように見受けら
れる。そして,それも無理はなし、。なぜ、なら. フルシチョフは,スターリンとは比較にな
らぬとはいえ,やはりその後の政権がもはや決して軽卒には扱いえない象徴的極砲を担っ
た人物となっているからであるつつまり,彼は,重大な自己矛居・と制約をもちつつも,ス
ターリン批判という大事業を開始した人物で‘あるからして,
フ
'
"
・
コY
プルシチョフの賛否はその
まま伎のはじめた「非スターリン f
ヒ」路線の継続,停止.逆行などの立場表明と解される
のである。ここにもフルシチョフ、問題に真剣に取組む意義と必要が生ずるの
A. もフノレシチョブ、の凋落
、ブノレシチョフ、問題を論ずるに当って,事実上『スターリン小教程~ (
1
9
3
8年 出 版 当 時
ブノレシチョフは,一分(?) の ウ ク ラ イ ナ 共 産 党 第 一 書 記 ) が 除 外 さ れ る の は 当 然 で あ る
が,のこりの三版のうち,ブノレシチョフ期の二肢にかんしても略述した。
(
r壁 史 的 議 観
u
フルシチョフ五九年版 Jは 巻 末 に お い て 急 に フ ル シ チ ョ フ を 中 心 に
.u
同六二年版 Jはさらにその色を強めて, 限 定 さ れ た 意 味 と は い え
押し出す傾向を示 L
フノレシチョフ党史となった,と。そこで本節では主として. u
ブレジネフ六九年版 i に お
(
2
), (
3
)),つまり,
けるもプルシチョブもの取扱いについて論ずることにするが,その特色は一言でいってフ
ルシチョブのく搭下げ〉と要約しうる。フルシチョフ期の二版に見られたフルシチョフ・
2
4
7
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o
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3から再引用。
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1
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2
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9
) 大 脳 人 一 「 フ ル シ チ ョ フ と ソ 連 民 衆J
.IF世界~ (No.312,1971年 11月号), p.3
2
8
.
4
1
汎
木村
カラーが完全に払拭されたのみならず,さらにもブノレシチョフ、弾劾の冷たいトーンが全
編を貫流しているのである。
第ーに,
フノレシチョフの〈格下げ〉は数字で証明司龍である。すなわち,
フ 五 九 年 販 Jや
w
ブノレシチョ
F
同 六 二 年 抜 Jに ふ ん だ ん に 盛 り こ ま れ て い た フ ル シ チ ョ フ の 名 称 , 役 割
や行動の叙述,発言,演説,著作からの引用などの回数が激減しているのであるO 刻表の
wフノレシチョフ五九年版j),
示すように,
W同 六 二 年 版 』 に お い て は , そ れ ぞ れ 37回
, 36活
三つの党史における政治指導者の登場回数
版
3
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│ 乃
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1
/
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/
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可
『ブ/ルレシチヨフ五九年寂拠 1(6
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Fブノレシチョプ六二年版Jl I
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s.Js.J
〔木村作製〕
( )内は引用文の回数
フ ル シ チ ョ フ に つ い て の 言 及 が 島 り , 彼 の 演 説 や 著 作 な ど か ら の 引 用 回 数 ( と も に 6回〉を
加えると実に合計羽田,
通じわずか
42回だったのが,
!lプレジネフ六九年版 Jにおいては,
全巻を
8回 ( 演 説 , 著 作 か ら の 引 用 は ゼ ロ わ に 激 減 し た 。 1
0年 近 く に わ た り ソ 連 の
ワン・マン為政者の地位を占め,鏡舌,多弁,自己顕示欲旺盛でソビエト紙上を賑わさな
い日はなかったフルシチョフの晃るも無惨な(?)調落ぶりで忘る。プレジネフと対比す
る 時 , こ の フ ル シ チ ョ フ 言 及 頻 度 の 不 公 平 な ア ン バ ラ ン ス は L、 っ そ う 際 立 つ 。 党 史 出 張 当
時 わ ず か 5年 間 ソ 連 統 治 者 の 座 を 占 め た に す ぎ な い , こ の 先 例 の な い ほ ど 寡 黙 な ブ レ ジ ネ
フが, W六九年版』において,
1
9@
]
‘ 3自 の 引 用 文 を 加 え る と , 実 に 22[
D
](フノレシチゴブの
ほ ぼ 3倍 〉 に わ た っ て メ ン シ ョ ン さ れ て い る の だ 。 ブ ノ レ シ チ ョ フ は , 今 回 の 『 六 九 年 版 』
において,ほぽコスイギン
(
9回 , 引 用 ナ シ ) 並 み あ る い は そ れ 以 下 の 扱 い と い え よ う 。
フノレシチョフ言及数がかつての 43な い し 42か ら 8回 に 減 少 し た と い う こ と は , 過 去 の
販 に 35な い し 34ケ 所 に わ た っ て 存 在 し た も フ ル シ チ ョ フ 、 の 抹 殺 作 業 が 『 ブ レ ジ ネ フ 六
九 年 販 Jで お こ な わ れ た こ と を 意 味 す る 。 紙 数 の 都 合 に よ り そ の 実 例 を 1ケ に か ぎ り し め
す。それは,
従来のすべての党史仔小教程』を含むグ〉においてブノレシチョフの名前が
デピ旦ー
初笠場する笛所なのである。その「国内戦
った指導者一覧表」の後半部分
f
スターリ
i
(
1
9
1
8
2
0
) 後の時期に社会主義建設に功労あ
(
2
0名 ) を 比 較 し て み よ う 。
γ 小教程Jl :
W
ブノレシチョフ五九年京工『ブノレシチョフ六二年版Jj:
亙 三9~I
モロトフ
カリーニン
スヴェノレドロフ
カガノヴィチ
オノレジョニキッゼ
キーロフ
クイプイシェフ
:グーセフ
:ジエノレジンスキー
;ジダーノフ
:ゼムリャチカ
カリーニ γ
:キーロフ
:コシオール
:クイプイシェフ
:キーロフ
:コシオール
:クラシン
:グノレジジヤノフスキー
:クイプイシェフ
:マヌイリスキー
ミコヤン
ミャスニコプ
42
W
プレジネフ六九年版』
jキーロフ
:コシオール
;クラシン
:クノレジジヤノフスキー
:クイプイシェフ
:マヌイリスキー
ミコヤン
ミャスニコプ
党史と政権
メブリス
ミコヤン
オノレジョニキッゼ
ベトロプスキー
ポストゥイシェフ
スヴェルドロプ
│スターリン!
フ
ノ
レγ ゼ
J
オ fレジョニキッゼ
:ベトロアスキー
:ポストゥイシェフ
:ノレズタク
スヴヱ/レドロブ
スクノレイプニク
オノレジョニキッゼ
ベトロフスキー
ポストゥイシェフ
ノレズタク
スヴェノレドロプ
スクノレイプニク
区互-9:
/
1
ヨ 三 五i
プノレン売f
ブ fレン'-ti
!云丙子三2
!
ツュノレーノミ
シュヴェー/レニク
ヤロスラフスキー
│
三
ー
三EZi
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パー一ニブ 2
コ一三ルト計
ン三ご一(
ヤリ一川一ヴリ
チフ一り一ユキ
シ メ iiiシ シ
ミコヤン
ジ夕、ーノフ
アソドレーエフ
ベトロアスキー
ヤロスラフスキー
エジョブ
ジェノレジンスキー
1J'
n
'旬
n
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名
、
ジュヴェーノレニク
シチャテンコ
ヤロスラフスキ5十23名)251予
(
計2
8名)2a2)
ヅュノレーノミ
シュヴェノレニク
ヤロスラフスキー
〈
計 27名)253)
一言瞭然、なように,一貫ーした「スターリン鱈人崇拝批判}政策の波に試してスターリンす
ら い わ 生 き 残 り え た リ ス ト に お L、て,ブノレシチョブは『プレジネブ版 J で 振 り 落 さ れ て
い る の で あ る の さ ら に 注 尽 す べ き は . [Jブレジネフ六九年版~ (
2
7名 〉 は Fブ/レシチョフ六
二年版~ (
28名 ) の り ス ト を そ っ く り そ の ま ま 踏 襲 す る ! 日 慣 墨 守 方 針 を 採 り 市 も フ ノ レ シ チ
ゴブ 1名 の み は こ れ を カ ッ ト す る 挙 に 教 え て で て い る (!
)点である。
B
. 、
!.把ーからげもの操作
つぎに. [Jブレジネブ六九年版 i に お け る . プノレシチョブ〈抹殺〉の箇所でなく. 逆 に
ブノレシチゴブ〈残存〉の笛所の検討に移るのその方が数が少く便利であるばかちでなく,
興味も大きいからである門だが
Fブ レ ジ ネ フ 六 九 年 版 』 に お し 、 て フ ル シ チ ョ ブ が 8ヶ 所 に
日来の記述と全く同ーの形で残されているのでは
わ た っ て ど 残 存 > Lて い る と い っ て も . I
決してなく,すべて徴妙な変形がほどこされてのことである司
1
. [Jプレジネフ六九年版』にブノレシチョフが初登場するのは大祖国戦 (1941-45)に か ん
す る 記 述 . 正 確 に は 482ペ ー ジ で あ る σ 国 内 戦 で 登 場 さ せ た フ ル シ チ ョ フ 期 の 二 版 よ り も ,
150-170ペ ー ジ 分 だ け 遅 れ て の 登 場 と い え る の 換 言 す れ ば ,
[jプレジネフ六九年版』は冨
内 戦 か ら 大 裡 菌 戦 ま で の 25年 間 フ ル シ チ ョ フ が な ん ら 党 史 記 載 に 価 す る だ け の 活 動 を お
こなわず,また特筆すべき人物でもなかったとの立場をとっている。しかも,この笛所の
記述をブノレシチゴフ期の二肢の該当箇所と比べてみると.さらに興味深い変形に気づくの
であるのそれは.一克なにげないようでいて,クレムザノロジストには決して克逃しえな
L、指導者の配列く!瞭序〉の変化である。
fスターリン小教程Jl :[iフノレシチョフ五九年版.
rIfフノレシチョフ六二年版.ll: [iプレジネフ六九年版』
ソ連邦軍の主班には,
j骨三三互三がすえられ
:た。……
軍隊の指導に泣すぐれ; 軍隊の指導にはすぐれ j 全連邦共産党中央委員
;た党指導家,ウォロシー:た党指導家,ウォロシー;会は,多くの中央委員,
Cl フ,ジダーノブ,マヌ;ロフ,ジダーノフ,マヌ i
中央委候補,すぐれた党
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木村
iイリスキー, I
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竺之主-,イリスキー, 巴竺主主:活動家たちを軍に派遣し
た ・
…
:三三己シチェルパコフ j
三三日シチエノレパコフ j
;が麓極的に参加した。…!が襲極的に参加した。.
ソ連邦軍の主涯には,
:I
スターリン i
がすえられ j
jた。……
軍事会議は,経験にと; 軍事会議は,経験にと i そのなかには, 17/
1
i む党活動家-17'Y芝;f l む党活動家-I~プ~~;f l
三 主 コゥォロシーロ
j三 工 プ/レガーニン,イ;ヨ工│イグナートフ?ヵ:フ,ジダーノフ,イグナiグナートフ,カノレソベン :
1
レンベンジン, クズネツ;トフ,カルジベンジン,ク
jジγ ,キリチェンコ,ク iォフ,ムジャヴァナツゼ, .ズネツオフ,マヌイヲス
:ズネツオフ,ムジャヴァ!スースロフその趨が構成;キー,ムジャヴァナッゼ,
iポノマレンコ,スネチク
:ナッゼ,スースロフその;した255L
i
j人スースロフ・
豆:
;他が構成した制〉。
• -シチョフ. I
シチェパコ
iブその地がL、
た256)。
0
Z
i
1
2
fブノレシチョフ五九年版 Jで は ① ス タ ー ザ ン → ② フ ル シ チ ョ フ → ③ プ レ ジ ネ フ の 1武
『 同 六 二 年 版 』 で は ① フ ノ レ シ チ ョ フ → ② ス タ ー ザ ン → ③ ブ レ ジ ネ フ の 穎 が , [iブレジネ
フ 六 九 年 版 J ではスターリンを削設,
アルファベット!震を採用①プレジネフ (
f
i
)→ ②
アタセ:.'~
フルシチョフ (X) の!煩序に変更している。これほど巧みな強調点転往の演出も珍らしい。
2
. [iプレジネフ六九年頭』でフルシチョフが二度目に登場するのは,
第 20回 党 大 会
(1956) の 箇 所 で あ る 。 同 大 会 を 壁 史 的 な も の に し た 「 私 密 演 説 」 に 触 れ る わ け に は L、かな
いにしろ,フルシチョフ期の二つの党史は,同大会の立役者フルシチョフのために独立の
パラグラフを設け,
iフノレシチョフのおこなったソ連邦共産党中央委員会の報告では, ソ
連の国際的地位と国内情勢が全面的に分析され,
第四回党大会後の時期における党の活
動 が 総 括 さ れ , 共 産 主 義 建 設 の 展 望 が 規 定 さ れ て い た J257)と 記 し た 。 だ が , こ れ を 『 ブ レ
ジ ネ フ 六 九 年 版J は
,
iブノレシチョスモスカートフ,プノレガーニンが報告した J2aめという
一 行 で す ま せ て い る 。 光 栄 あ る 一 人 舞 台 か ら , 事 務 的 な 十 把 ー か ら げ (oneo
f them)
へ
の転落以外のなにものでもなし、。
3
. 1957年の「反党グノレープ」との関争の記述を比較すると,
ここでもフルシチョフは
実績(?!)以下の取扱いを蒙っている。
f
スターリ
γ小
教程.ll
:
Wブノレシチョフ五九年寂JIfプノレシチ三フ六二年寂X F
Iプレジネア六九年寂』
この斗争の過程で
この斗争の過程で
この斗争の過程で,幹
幹 部 会 ヲ 瓦 亨 手 玉 三 二 同様に j
部会員,同侯祷,中央委
;庁五子亨王ヲ, I
;員,同侯補,中央委員会;幹部会員,同挟槙,中央 j員の
1
/
三
五 二!キリ
プレジネフ. キ jレンコ,コズロプ,コス
;書記のアリストフ,ベリ i委員の i
;ャーエフパデレクネブ ~ll リレンコ,コズロフ, コjイギン, ターシネン,マ
;キリレンコ,コズロフスイギ γ ,グーシネンズーロフ,ムジャヴァナ
:ミコヤ γ,ムヒジノフマズーロフ,ムジャヴァ:ッゼ, ミコヤ γ,ポドゴ
i
I
r
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Z
2
5
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) HcmopuflK
ncc(1959),CTp.526.
2
5
5
) HcmopuflKflCC (
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),
C
T
p
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.
2
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) HcmopuflK
ncc(
19
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9
),
C
T
p
.4
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2
.
2
5
7
) HcmopuHK
ncc(
19
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9
),
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r
p
.637;HcmopuHKncc(
19
6
2
),
C
T
p
.6
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2
.
2
5
8
) HcmopuflK
ncc(
19
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),
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r
p
.571
.
4
4
7
T
...
岬清司,,~,~I
aζ よ
党史と政権
:ボスベロプ,スースロソナッゼ, ミコヤン,ポド!ーノレヨ4イ,ポリャンスニヤ
:プノレツェヴァ, シヴェー:ゴーノレヌイ,ポリャンス;ー, スースロブブノレ
:ノレニク,その地党指導者;キー,スースロブ,シヴ;三竺ヲ ~I シヴェーノレ
:は,反党グループに決定:エールニク,その飽の党:ニク,その能党指導飴ヱ,
i的に足立した259)
指導者は,反党クソレープ;反党グノレープに対立し
:~こ決定的に対立した 286〉。:た281L
0
つまり,ブノレシチョフ期の二抜はともにブルシチョフを他に先駆けトップに記していた
が
,
[]ブレジネブ六九年}弘d では,
l
f
虫の者と 1
1
1
"
]じリスト(アルファベット 1
I
頃) I~I に収め結
局 ブ レ ジ ネ ブ の 後 盛 をJ
干しているのである。
これは,
が結局フノレシチ三ブ対マレンコフ,モロトフ,
1957:
:
1
:
.の対
i反 党 グ ル ー プ j 間 争
カカヂノヴィチの権力関争以外のなにもので
もなかった事件の核心を,アルファベット列挙方式という平準化に名を灯りて,
J
L
仁志に見
誤 ら せ よ う と す る 「 墜 史 の 歪 曲 i作業といわねぽならないの
4
. 四,五,六番目にフノレシチョフが登場する例のまえに,
七百=Ljのケースたる第:22111
党 大 会 ( 1961) の笛所を検討するわ Fフ ル シ チ ョ ブ 五 九 年 版 」 に は と う ぜ ん 該 ゴ 部 分 が な
L、から,
r
rフノレシチョフ六二年版』と『ブレジネフ六九年版』の二つの比較となるの i
見述
の ご と く ( 18-20ページ) この第 22同 党 大 会 の 開 擢 そ Lて 同 大 会 に お け る 『 党 桝 領 』 の
t肉の一つであり,
採択こそは, []フルシチョフ六二年抜』刊行を捉した :
J
フ六二年版』は. !r党綱領~
事実, []フノレシチ
(別名、プノレシチョフ、綱領〉の路娘:共産主義への移行 J
第 2:2同党大会のためにあてられたー草においてフルシチゴブの出
のカラーで色どられ,
品 が 3凶も引用されていた必〉門
ところが. [Jブレジネフ六九年版 J では,
与~ 2
2
1
f
l
J党 大 会
そ の も の が 独 立 の ( 五 節 か ら な る ) 一 章 カ ミ ら 一 節 に 縮 小 さ れ る ( そ の βミわりに,プレジ
r:l]党大会に独立の一章が与えられた!-)とともに,この晴れの舞台での,
ネ フ 期 の 第 23l
1
-1'己ーからげも方式の一行で片町けている。「大会で i
,
よ
H
.C
. フルシチョブ . l
¥
.中.コソレキン, φ
.P. コズロフが報告演説をおこなったの J~(3) この
書換え L
t, 現 ブ レ ジ ネ ブ 政 権 が フ ル シ チ ョ ブ の み な ら ず , 号jら元通にその路線のー却をも否
プノレシチョフにつし、ても,仔Ijのも
定しようとするよI
E左と解釈される。
C
. フノレシチゴブの
4
罪状、
以 上 の も ブ ノ レ シ チ ョ フ 、 批 判 は ま だ 間 接 的 で あ る 。 ソ ル シ チ ゴ ソ の 名 が J及 さ れ る の こ
り四箇所はすべて,より直接的な形で厳しい、フルシチョフ、批判をおこなっている ο と
りあえずそれらを,以
n二例示する(三二
I
木村)
I
1
J
時-に.
5
. - 11958年 3月ソ連邦閤{京会議議長にブルシチョプが任命された円これと I
フノレシチョフは,
ソ連邦共産党第一書記の役職に留任したっ…・いその結果憂国制丙扉
同空豆豆!と,いくたの問題の処理にあたる場合で l
土 産 主 重 が 見 ら れ る に L、たつ
f
こj。
2843
259) Hcmopufl KflCC (
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),
CTp. 6
5
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.
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) Hcmopufl KflCC (
19
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),CTp. 6
71
.
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) Hcmopufl KflCC (
19
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9
),
CTp. 5
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.
2
6
2
) Hcmopufl KflCC (
19
6
2
),CTp. 728
,729.371
.
2
6
3
) Hcmopufl KflCC (
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9
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CTp. 6
1
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.
2
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4
) Ta.M JlCe
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T
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.5
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.
45
木村
汎
6
. - iフ ノ レ シ チ ョ フ が 熟 慮 を 欠 い た 庄 扇 王 蚕 │ 的 な 措 置 を と っ た 結 果 農 業 指 導 i
の
面での重大記あやまちがおかされ,
I
亘
窒l
発展?こ悪い影響をおよぼした
J265)
7
. - i
社会主義生産の│杢塑色塁塁一塁型 i
を厳密に考恵し,正しく活用する必要があっ
た。にもかかわらず,護婦需│の原因の解明に実務的な態度でとりくみ,
鷹葉│をさら
に振興させる具体的施策をとろうとはせずに,フルシチョフは……|要産尋~I の生産と国
家への売り渡しに関する国家計画が完遂されなかった罪を,現地の党組織とソビエト機
関と{裏棄i組 識 に な す ち つ け た Jo266ヲ
8
. -
r
総会は,老齢と健康状態悪化の理由から,中央委員会第一書記,
中央委員会幹
部会員およびソ連邦関援会議議長の職務を辞任したいとのブノレシチョフの要請を承認し
たの総会は,こんご,同ーの人物が中央委員会第一書記とソ連邦閣僚会議議長との!職
務 否 蚕 荏 ! す る こ と は 不 適 切 で あ る と 認 定 し た Jo267)
上の四つの引用文を素材として理解されるの法,ブレジネフ政権のフルシチョフ批判の
プノレシチョフが 6年 半 (1958年 3 月
ポイントがつぎの三点にあることである。第一点は,
一6
4年 10月〉にわたり「集団指導の原期に違反し党第一書記と関探会議議長(菖-相〉を兼
5
. と8.)。これは,要するにフルシチ
務 (COBMememle) し権力を窓まにした J点である (
ョフ個人への権力集中を非難しているのであるが,
「権力集中 J が 独 裁 を 特 徴 づ 汁 る 第 ー
の 要 因 268)た る 点 に 鑑 み 尤 も と い え る 。 た し か に , フ ル シ チ ョ フ 第 一 書 記 は ,
を更迭後ブノレガーニンを塊儲の閤援会議議長に据えて
く 1955 年 2 月~)
マレンコブ
自己の思いどお
りの操縦をおこないえていたとは L、え,自己が党と政府のトップのポストを兼職して以後
(1958 年 3 月~)手中に収めた権限と行動の自由はそれ以前と比べようもなく大きかった
のである。さらに,
ブノレシチョブは,
ロシア・ビュロ一議長,新憲法作成委員会議長も兼
在した。
フノレシチョブ批判の第二点は,
フルシチョフの統治スタイルにかんするもので,
r
lプレ
ジネフ六九年版』は, {,主観主義 (
cy6
も eKTHBH3M
け な い し 「 客 観 的 法 期 の 長 犯 J なる用
.と 7
.はフルシチョフの名前が明示された場合にすぎず,その他ブノレ
語で総括している。 6
シ チ ョ ブ の 名 前 こ そ 直 接 引 き あ い に 出 さ ぬ と 法 L、
え
,
義 t (ほとんどの場合,
散見される 28930
明らかにフノレシチョフの〈主観主
イタリックで強調〉的統治スタイルを批判している箇所は随所に
そ し て フ ル シ チ ョ ブ の 政 策 ぞ 路 線 で は な く 伎 の 統 治 ス タ イ ル を 〈 主 観 主 義t270)也として
弾劾するのは,従来ソ連内外で誌ぼ合致をみているフルシチョフ解任の真因の説明を裏づ
265) Ta
.
M
.:
J
I
C
e
.crp.587.
266) Ta
.
M
.:
J
I
C
e
.crp.609.
.
M
.:
J
I
C
e
.crp.628.
267) Ta
お8
) H. Lasswell& A
.Kaplan.PowerundS
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i
e
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. (London: まoutledge & Kegan Paul,L
t
d
.
1
9
5
2
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.2
2
4
.
2
6
9
) た と え ば ,H
cmopuHK万CC(
1969),CTp.627,629,630
,631,632,633.
2
7
0
) た笠 L,r
主 観 主 義j は ソ 連 に お け る 政 敵 非 難 の 常 套 語 句 で あ る こ と に 注 意 。 た と え ば
r
利潤と
価 格 の 競 念 の 重 要 性 を 無 視 し た ス タ ー リ γ は 主 観 主 義 の 誤 り を 犯 し たJ J
I
. r3TOBCK賢治,“ POJIb
沼6
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J
I
HB COUH3JIHCTHQeCKO員 9KOHOMHKe."KO
.
M
.
.
M
.
yH.u
c
m
. (XXXIX,地 18,
瓦eK36pb1962),
np
白 p.6 6
5 など。
←
46
党史と政権
けるのつまり,
ブレジネブ新政権がプノレシチゴブ解在後Hlした 唯 一 の 公 式 戸 別
10月 14日付『プラウダ』論説〉は,
(
19641
F
フルシチョア(名ざしではないが)の「主観主義,
夢 想 計 画 , 尚 早 の 結 論 , 現 実 遊 離 の 行 動 , 大 言 壮 語 , 無 駄 口 」 を 非 難 Lた幻 130 また
1
1I
国も後継ブレジネフ政権がフルシチョフの路線でなく方法のみを変えようとしていると持
食した (
1フルシチョフなきプ/レシチゴプ路線 J)272)。
J
さらに宅
見ピ -F
イズム
尚日i
も
, 仮にもプノレシチ
スタイル
ョ フ 主 義 、 な る も の が あ る と す れ ぽ 273入 そ iuヱ「速度と手法 J (坑.フランクランド)274)に
パーツナ
Fテ イ
あ り , 伎 の 失 脚 事 由 も そ の f個 性 と 統 治 ス タ イ ル に 求 め ら Jしねばならな Lづ (
P
.E
.モー
ズリー)275)と解釈していたのであるの
誌 に つ い こはとくに激しく弾劾され,それがソル
プノレシチョブ的子法のうち農業指導えi
γ
シチョフ批判の第三点となっている。 6
.と 7
.はブノレシチョブの名前が明示されている三つ
の伊iJにすぎず,その他彼の名称の討及なしに彼の農業指導の失敗を批判している箇所は枚
肢がな L、
27630 そして,ここでも,
挙 にi
指 導 の 「 主 観 主 義j 的 方 法 が 論 難 の 決 ま り 文 句 と
なってし、る ο 「フノレシチョブが熟慮を欠いた主観主義的な措置をとった結果,
E
2業指尊の
面で重大なあやまちがおかされたJ
:,
)
7 1
農業生産性がこれほど急激に低下した原丙は一
H
相当程度,指導における主観主義……の欠陥によるものだった
へ11962-64年 の あ い だ
j
2
7
一実際の農業指導は,主観主義的,怒意的な措置や行動がますますき,くなり,農村の事態
ず
, ~1-も木村) .等々の
に 悪 影 響 を お よ ぼ し て い た J27())(傍点 L、
『ブレジネフ六九年版』におけるフルシチョフ農業:詣導批判は,
るレッテんで、の綜合的なものにとどまらず,
たんに
IY観 主 義 j な
i
)
つぎのごとき具件的劉面にまで及ぶ(") (
1962年プ/レシチョフがおこなった党を農業←工業の二部門 t
二分割する機構改革を,
「正当
l
l
aHHaH)J
.r
漂 っ た (0出 H60l.IHa兄)
J, 1人 為 的 (HCKyccTBeHHa兄)
J
な 根 拠 を 欠 い た (HeonpaB,
な や り 方 と み な し た 2品
。
ら
(
i
i
) フルシチョフがスターリンから受け継ぎ陪黙樫の前提と L
ていたコルホーズ結少論を,
r
コノレホーズ体制の活力とコルホーズが発展する大きな i
可能
性 を 過 少 評 価 し た か ら こ そ は じ め て 起 っ た 傾 向 J ときめつけた 281)0 (
i
i
i
) フノレシチョフ末
期 に 加 え ら れ た コ ル ホ ー ズ 員 , 犠 員 , 労 働 者 の 倍 人 副 次 菜 園 2切に加えられた制限を,
1J
:
.
観 主 義 的J
,1
愚 か な (Hepa3yMH副長)J
. II、われない (Heo60CHoBaHHhze)j ぷ り と 非 難 し
2
7
1
) “He3bI6
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見 1
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.
1
.
2
7
2
) たとえば. Iフ ル シ チ ョ フ は な ぜ 退 持 し た か J
, !f車工主主~ (北京:外交出版社, 1
9
6
4年 21=22合 併
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J
)
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eForeignStudentCenterで お こ な わ れ た ドh
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l
i
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2
7
5
) フルシチョフ解任事件直後, コ ロ ン ビ ア 大 学 t
E
. Mosely (同大学前ロシア研究所長で当時ヨーロヅパ研究所長〉の講演から引剤。
2
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,628,629,630,6
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E道・
2
8
2
) 木 村 汎 「 ソ ピ エ ト 家 庭 菜 圏 一 社 会 主 義 社 会 に お け る H 在 的 な も の " の 地 位 と 機 能- j, 猪 木 I
I
I
I村 真 一 編 F
共産簡の政治・経済の動向I
J(大阪:関西経済セシター, 1972年刊予定)参照。
47
木村
汎
7
こ283)。
ここで農業指導の失敗こそフルシチョフ失調の真困との解釈に誘惑する資料に出くわ
す。民jち.
u
ブレジネフ六九年抜党史』がフルシチョフ解任という
1964年 10月 14日の壁
テーマ
史 的 事 件Jこ 数 れ て い る の は , ま さ に 以 上 の 農 業 問 題 を 正 面 の 主 題 と し て 論 じ て い る 箇 所 の
J
tV
こ挿入する形だからだ。この記述形式から読者は,ごく自然に,農業指導失敗の責任に
よりブノレシチョブが解託され,後継者の任務もまた農業指導方法の改善にあったとの印象
を受ける。だが,
もちろん,
われわれはそこで歴史の叙述=真実でないという歴史学の
ABC を 想 起 せ ね ば な ら な L、。つまり,
u
プレジネフ六九年版』によって指摘されたフル
シチョフのも罪状もと彼の失脚の真菌とはたしかに,恐らく無関係ではなく事実上重複し
ているであろう。だが,それは理論上あくまで'~Ij個独立の二つの事柄で、あるからして,そ
の1
mに つ ね に 厳 密 な 一 線 を ひ い て 完 全 な 同 一 視 を 回 避 す べ き 筋 合 の も の で あ る 。 ( 極 端 に
いえば,
ブノレシチョフ失民!の真国詰, ~皮が要するにクレムリン内の権力関争に敗れたとい
う至極単純な事実に尽きるのであり,彼のイデオロギー,政策,手法と全く無関孫なこと
もありうるのだ。) ましてや,
当のブノレシチョフを追出して政権に就いたグループによっ
て編纂された党史の説明がそのまま真の解在事由をなすと却断することは薮に戒しめるべ
Eプ レ ジ ネ フ 六 九 年 版 党 史 』 が
r
権力集中J
,r
主観主義」とならんで. r
農 業 指 導 の 失 敗 Jv
こ最
きことである。にもかかわらず,抱ブjこのことは,なにも
ブノレシチョフ斜弾のさい,
大の力点をおいている事実そのものの意味をいささかも減ずるものではなし、。そして,さ
らに上記の限界を十分弁えれば,いぜ、んとしてフルシチョフ解告の真因解明のための一つ
の員-重な手掛りを提供するものなのである。
I
1
I
. ブレジネフ政権
一「同志諸君,われわれは,科学技術革命の成果を
社会主義経済体舗の優位と有機的に結合し,社会
主義国有の科学と生産の結合形態を広く発展させ
るという壁史的重要性を持つ課題に直面してい
る
。 J(プレジネフ )284)ー
フ 7'"
ス
きヲジデイ
「スターリン時代は悲離であり,
ブノレシチョブ持代は笑事j
であり,いよいよこれから本
格 的 な ド ラ マ が は じ ま る の だ 」 一 こ れ は , プ レ ジ ネ ブ 政 権 発 足 重 後 の 1964年 10月モスク
ワで、場かれた小話という 28530 そ の 後 ブ レ ジ ネ フ 政 権 下 に 果 し て ド ラ マ ら し い ド ラ マ が 展
開したか大いに疑問ではあるが,われわれ政治学的分析を箆命とする者にとってはもスタ
ーリン h
もフルシチョフ、問題を検討した後,党史を用いて円、よいよ本格的な」課題と
2
8
3
) HcmopuHKllCC (
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),
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T
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.岱 3
.
2
8
4
) 静点ー原文イタリツク。 J
l
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. EpeJIC1le8, Om切 m1lblUδo1C./ladl
1
K KllCCXXIγ coe3δy
KllCC(30.Mapma1971 z
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. (MocKBa:日OJI沼TH3)laT,
1
9
7
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),
C
T
p
.1
0
1
2
.
.11'ロシア文学の罵辺 J
. (東京:読売新開. 1971), p. 326: や 与 類
2
8
5
) 木 村 浩 「 モ ス ク ワ か ら の 報 告J
訟の比鳴として, r
スターリンの暗黒 (
d
a
r
k
n
e
s
s
) 時代, フ ル シ チ ョ フ の け ば け ば し い 但amt
h
ef
a
c
e
l
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岱
managers) 時 代 J というのも
boyance) 時 代 , プ レ ジ ネ フ の 無 表 管 の マ ネ ー ジ ャ ー (
ある。乱1
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nPage,TheDayKhrushchevF
e
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. (NewYork:Ha
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.
1
6
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.
4
8
党史と政権
し て の 現 ブ レ ジ ネ フ 政 権 に 取 組 む 頗 番 が 来 た と い わ ね ば な ら な L、 と こ ろ で , 今 回 の fブ
レジネフ六九年版党史』がプレジネフ政権自身について語っている個所の検討に移るまえ
に,今まで紹介したもスターリン h tフルシチョフ、問題からまず何か言えないだろうか
こ の 党 史 の 二 つ の 勘 ど こ ろ を 検 討 Lた後に結論として言いうるのは,
アムピグ 7VY7
2
プレジネフ政権の
二面価植性である。『六九年抜党史 i は一方においてフノレシチョフ〈主観主義〉を痛烈に
弾 劾 し な が ら , 他 方 に お い て ス タ ー リ ン の 全 面 的 「 復 権Jもおこなわなかった。すなわち,
スターリンのプラス面(?)を積極的に評価し I
Hしたがそのマイナス面である「個人崇拝J
批判の態度を堅持したのである O 要するに,ブレジネフ政控i
にもスターリンもとももフル
シチョブもとも同-{とせずに,も第三の途、を歩もうとしているようである。では,その
も第三の途、と;ヱなにか
2
寡黙, ~愛昧模糊,態度決定の嫌いなブレジネフ政権からそれ
を窺い知ることは至難の技である。しかし F
六九年版党史』カるらそれらしきものを探索
L,
その実現可能性を併せて険討してみよう n
A.
r
集団指導制!
-r総 会 は , こ ん ご , 同 ー の 人 物 が 中 央 委 員 会 第 一 書 記 と ソ 連 関 僚 会 議 議 長 と の 職 務 を
兼任することは不適切である,と認定した……総会は,党中央委第一書記にブレジネフ
を選出した。これと同時に,最高会議幹部会は,コスイギンをソ連関僚会議議長に任命
した。
ソ連共産党中央委員会 10月総会は,
党の歴史に重要な一時期を劃した総会で・あ
l
る の ー … 総 会 は も っ と 重 要 な レ ー ニ ン 的 原 則 , す な わ ち 墜 酎 唇 面 副 が徴動さえしない
ことを強謁しは
こ
f
た ο 総胎会の晴決定臥
は
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主
.
t
,
i霊
j
E割をきれひび;江川し以く無鯨条件仰俳
に
Iこ守科ろう日と
…
…
べ
ぺ智
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以
入
j、下同じ〉λ
戸
2
剖 汚哨
の
G)
(
三
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ト
一
木
料
十
村
ナ
!怠在につらぬカか込;れ}れ工ている i
ウ
ブレジネフ政権は,前任者スターリン,
円
フルシチョフの政権が L、ずれもよ七類ない「権力
集中」を特色とするワン・マン独裁に終ったことを反省¥集団指導舗と L寸 未 曾 有 の 実 験 に
挑戦しているように見える。最近とみにブレジネフ書記長の権力が強化されたと診断すべ
!
) primus i
n
t
e
rp
a
r
e
s にすぎずスター
き多くの証左があげられる反面,彼がし、ぜ、ん(?
リン,
フ/レシチョフの如き独占的権力を手中に収めていないことは確かである c と は い
え , そ の 結 果 成 立 し て い る 「 集 団 指 専 制 Jを た だ 単 に 現 政 権 担 当 者 た ち の 意 識 的 な 努 力 の
所 産 と の み 理 解 し て そ れ が 永 遠 に 続 く も の と 早 会 点 し て は な ら な L、。その理由は,少くと
も二つある。ーは,
¥
1に「集団指導;じむを否定する契機が搭んで
ソビエト・イデオロギーの r
衛」概念を中核とするかぎ
い る か ら で あ る の 即 ち , ソ ビ エ ト 体 制 は , そ れ が レ ー ニ ン の はH
り
,
ローザ・ノレクセンプルクやトロッキーがつとに警告 L亦 現 実 の ソ 連 史 そ の も の が そ の
なによりの生き証人で‘あるように究極的には歴史法則の唯一の正 Lい解釈,適用者として
のワン・マ γ独 裁 者 に ま で 取 数 す る 原 理 的 必 然 性 を 内 臓 Lている。二は,現ソ連の{再然 (
0
でプラクティカノレな事情が「業団指導 1
t
1
JJ成 立 の 真 閃 と 疑 わ れ る か ら で あ る o !
I[Jち.現在
のクレムリンには,かつてのスターリン,フルシチニ?フのごとき偶人崇拝の対象となるに
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cmopuJl KnCC (
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),
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r
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49
木村
十分な強烈で「色彩豊かな
Fヲ -1;
(
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r
f
u
l
)j287) 人材を欠いている。
I
;v
イ
存在するのは,
汎
媛小な
スーツ
書 記 官 28幻ないし「灰色のフランネノレの背広を着た j28め マ ネ ジ ャ ー ・ タ イ プ ば か り o そ し
て,これら小粒リーダーたちの競立・均衡・妥協(現象的には「議会主義に類似した一種
の デ モ グ ラ シ _j290)のノレールが作動さえしているわ-これこそが,
ソ連史上稀有な「集
J
Jを 期 せ ず し て 成 立 さ せ て い る 真 梧 な の で あ る 。 だ と す れ ば , こ の よ う な 特 殊 事
団指導需l
情の喪失,すなわち隔絶したカリスマ的指導者の登場によって,ブレジネフ「集団指導
制j は 早 晩 崩 壊 す る 過 渡 的 現 象 と も み な し う る で あ ろ う O
B
. ~客観主義》
- 1党 中 央 委 員 会 は , 軽 卒 に 流 れ ず , 大 げ さ に 騒 ぎ た て る こ と な し … 国 の 社 会 生 活 と
経済の実態を深く霊mv~1 分析し,共産主義建設の課題をいっそうみごとに解決する方
途 を さ だ め た j29l)0
一「党と中央委員会は…・社会主義の室面│法問に応じながら,科学的に裏づけられ
た 経 済 指 導 方 法 の 作 成 に 若 手 し た の で あ る j292)O
既 述 の ご と く 『 ブ レ ジ ネ フ 六 九 年 版 党 史 Jは,フノレシチョフ政権のー較的統治スタイル
を
,
1
軽 卒j, 1
現 実 遊 離j,なかんずく〈主観主義〉なる語で総括して攻撃した。そして,
このこと自体すでにブレジネフ致権がこれらのレッテノレで、表わされるのと正反対の方針で
統治に臨む決意を十分物語っていたが, [j'同党史』は,
ブレジネフ致権のモットーがすべ
. 1科 学 的 (Hay留め j, 1客 観 的 (06oeKTIIBHO)Jqこ処する点
て 物 事 を 「 慎 重 (B瓦YMqIIBO)J
にあることを,正面から宣言している。だが,
〉
政 敵 論 難 の 常 去 語 句 で あ り 剖 8,
{主観主義》なるレッテノレはソ連における
なにもブレジネフ政権によるフノレシチョフ向け使用をも
って鳴矢となすわけではなし、。それ故,
フルシチョフ《主観主義~ v
s
. ブレジネフ《客観
主義》の対照函式は格別漸新なものではない。
ところが,
《科学主義》というスローガン
となると事情立大いに異なってくる。それは,ブレジネフ政権をしてフルシチョフを含む
2
8
7
) SeverynB
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r 発言。“ TheNewRussianLeaders,"米田 WNBC 放送 OtenMindシ リ ー ズ
特集座談会 (
1
9
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4年 1
1月 15日 p.m.12:与 a.m.1:∞
〉
。 その後, プノレシチョフに比べ伎の後継
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l
o
r
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u
l
)J と規定するのは常套的となった。たとえば, The
者たちを「より色彩の乏しい(le回 c
New YorkTimes (
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l4,1965;May2
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y 1917- 67.(NewYork:Frederick A.Praeger
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. (New York:ColumbiaUniversity
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.ど。
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. 15 以来の常套句。
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,No. 17,O
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orkTimes (Apri
14,1965). た~ L,こ
の「灰色のフランネノレ・スーツを着た共産主義者」と Lづ表現は,すでにフルシチョフ指導部を部
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,
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n Gray Frannel S
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12,1964),p
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) 前出注 2
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0
) (46ベージ〕参黙。
50
党史と政権
ソ連歴代政権からとくに際立たせる表看板ととらえるべきである。では,何故そうであり、
そこにはいかなる問題点が含まれているのカ‘? 最後に,これにつきやや詳しく論じて,
本稿の結びとかえよう。
c
. '¥科学 i
:
,義》とそのジレンマ
一「党は.ひとつの鎮のようにつながった共産主義建設のなかで,基本的な一環を正 L
く規定 Lた の で あ る 。 そ れ は , 同 民 経 済 の 全 分 野 で 科 学 ・ 技 術 上 の 進 歩 を 最 大 援 に 促 進
するという事であったの
│科学・技術の最新の成果 iを ひ ろ く 生 産 に と り い れ る こ と が ど う Lても必要なのは,
共産主義社会の建設が i
科 学 ・ 技 術 革 命 iとLづ 状 況 の も と で 進 行 す る も の だ か ら で あ
る。……党は科学・技術の進歩│を労働生産性向上の主要な方途とみなしている。..
I
科 学 ・ 技 術 的 進 歩 の 最 大 限 の 促 進i
を全面的に促すような
i
亡しい技能政策│をたて,
社会主義的国民経済の組織形態を模索することが,
ソ連の社会生活を党が指導
L
. 方向
づける役割の重要な現われのひとつとなったσ ……党,党組織,党員の使命は,学者.
設計者,技師,技術者,労働者およびコルホーズ員の創造的イニシアティヴを,もっとも
科学・技街の成果の生産への早急な導入│に向けること
電要な!科学的諸問題の解決 と i
l
にある。
党 は , こ れ ら の 諸 問 題 を そ の E常活動の中心にすえた」知的〈務点-罪文イタリソケ〉。
もちろん,ブレジネフ以前の歴代のソビエト指導者たちが,科学技術の重要性に注目し
なかった訳ではない。否,むしろ技術進歩こそは. I
民 長 的 目 標 ほoal) で
,
ロシア共産
主義支配のこtな正当性(legitimation)J (G. グロスマン)2()5)だったと言うべきであるつ
,
主
ーニンは│共産主義と i
ソビエト権力プラス全問の電化」と定義し却の,
レ
スターリンも
[ポリシヱヴィキは技術を取得せねばならぬ j と 叫 ん だ 郎 元 と は い え , 全 体 と し て 当 時 は
まだ科学技街よりも人海戦街的に動員された労(動力の総和が経済発展の決め手となる時期
だった σ そして,この「人間労働力 (Tpy~ qe~OBeKa)J の物神性は,
で引き継がれた。「労働によって,
そ Lて労拐によってのみ,
フルシチョフ期にま
共産主義の物質的・技術的
基 盤 を 造 り だ す こ と が で き る J(フノレシチョフ )
2側 、 こ れ は , 鉱 山 労 働 者 か ら 身 を 輿 し た フ
ルシチョフによる自己の人生育学の国家的規柁への拡大の-['liJであるが,客観的・経済状
況は,政策の転換を強く要求してレた。そして,ブレジネフ政権の成立とともに.きわめ
て遅まきながら,科学技術への力点移動が官三きわた円
1
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t学技術の進歩一一そわは,共産主
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,CTp.3
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.邦訳『レーニン全集J] (東京:大月書 J
6
',1964),第 31巻
, p.422.
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.TOM. 1
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p
.4
1;邦訳 Fス
ターワン全集J], (東京:大月書!ん 1
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8
),
第
一 33巻
, p.63.
.n.φHrypHoB,CmpOUmeJlbCm80 KO.M.MyHU3.Ma U pocm 6AazococmoflHufl Hapo
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,
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b 1962),CTp. 204 か ら 再
引用。その控,類似の発言と Lて ,Jl
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1
木村
汎
義の物質的・技術的基盤をつくるための主要な挺子で、ある J (ブレジネフ)299)0 かくして,
曾 っ て レ ー ニ ン 期 に お い て 円 精 神 的 ) 情 熱J
,スターリン期において I(物理的)強制IJ
j
,
フノレシチョフ期におし、て
I
(物 質 的 ) 報 酬J が 占 め て い た 地 位 を , プ レ ジ ネ フ 期 に お い て
は円科学的)技術」が占めることになったので、ある。
し か し , ブ レ ジ ネ フ , コ ス イ ギ ン &C
o
.が科学技術を重視する 300)の は , な に も 彼 ら が
技 術 屋 出 身 と い う 事 情 に ば か り 基 く の で は な い 。 彼 ら が 私I
1
青を超えてこの問題に真剣に立
ち 向 か わ な け れ ば な ら な い 客 観 的 状 勢 が 存 在 す る の で あ る c それは,
一言でいって最近
10-20年にソ連邦と世界の先進国との間に広がった技術革新におけるギャップである。た
スプートエ F
しかにソ連は世界に先駆けて人口衛星を打ちあげ.石炭,鉄錦生産額でも米国に追いつき
追いっこうとしており,おそらくミサイル
世界主要国のコ γ ピュータ設量台数
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名
アメリカ
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西ドイツ
イギリス
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兵器の貯蔵でも米国を追い越すに違いな
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年
L、。だが,その反
,
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62
5,
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350
6,
910
5,
4,
500
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陸では米国の後塵を排し
トランジスタ,
エレクトロニクス,コンピュータ等の超先
進工業部門では日本にもいちぢるしく立遅
れ,自動車,プラスチヅク,化学製品など
∞
,
5
4
2
,
730
200
200
130
優秀な消費物資を国民に提供しえないでい
るC 一 例 と し て , コ ン ピ ュ ー タ を と っ て み
よう。「電子技街時代
(technetronicera)J
301)たる現代文明の象徴といわれるコンピ
日 本 経 営 情 報 開 発 協 会 編 fコンビュータ白書 1
969
,
1
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1Jlなどから作成腕〉。
ュータ設置台数におけるソ連の劣勢は,左
表から一日瞭然であろう。
これが. I
従来
科 学 技 術 の 成 果 を 国 民 経 済 に 導 入 す る 問 題 が わ が 国 の 計 画 に ト 分 反 映 し て い な か っ たj
(ブレジネフ)303)結果なのである。そして,もしこのような状態が続けばソ連がほどなく二
流工業国に転落してしまうとの憂慮の戸すら国内から発せられている。その代表者のひと
り
A
.サーハロフは,ソ連首脳宛て公開状で警告する。ド第二の産業革命、が到来した 70
年代はじめの今,われわれはアメザカに追いつくどころか,ますます後方へ転落しつつあ
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) 刀. H.5pe>KHeB
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) (MOCKBa:日OJlHTH3瓦aT,1971
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0
) 1968年 10月 に f
科学技慌の向上と国民経済への科学および技術の成果の利用の提進についての
諸方策にかんする」党中央委合同布告が発布されたのはほんのその一部。“ oMeponpH匁T活気Xno
争 eKTHBHOCτ沼 pa60TbI Hay朝 日 X opraHH3au
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CKopeHHIDHCnOJlb30BaHH匁
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.21 も参照。
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∞
.
52
党史と政権
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)と
るJ
。
さきに長々と引用した,
[jブレジネフ六九年版党史 J に お い て 執 劫 に 操 り か え さ れ て い
r
る i生 産 へ の 科 学 技 街 の 或 果 の 導 入 j, 科 学 技 衝 の 進 歩 こ そ 労 働 生 産 性 向 上 の 主 要 な 方
途 jの ス ロ ー ガ ン は , こ の よ う な 深 刻 な 事 態 に た し 、 す る プ レ ジ ネ フ 流 の 治 療 策 な の で あ
るつだが,このようなスローガンやモットーの徒らな連呼(それにソピエト国民は倍み能き
ているれによって事態が一向に改善されず,
r
知 的 自 由 の 保 存 J以 外 に そ の 技 本 的 解 決 策
r
開題の解決には,
の な い こ と が 内 外 で 指 摘 さ れ て い る C ソ連内での論者サーハロフ日く,
Aく 情 報 と ア イ デ ィ ア の 交 換 を
経涜体(閣のあらゆる水準に幾百万民衆が創造的に参加し , J
305
) だが,
おこなうことが要求される。 J
たとえ知的自由一般が真に鋭意工夫を録証するも
社 会 主 義j の 中 核 を な す 一 党 独 裁 票 理 を 浸 触 す る も の と し
のだとしても,それがソ連型 f
て断国峻拒されねばならむことは, 1968年 の チ エ コ の 経 験 か ら 島 ま り に も 現 較 で あ る C
現指導部は,
r
科 学 技 指 の 刷 新 Jを 呼 ぶ 傍 ら , 必 ず 能 方 に お い て 「 労 働 規 律 の 強 化J
,r
イ
デオロギー昂揚」というタガを引締める処置を忘れない。つまり,現政権の胸中にあるの
は,科学とイデオロギーとの円溝な結婚という東独枝の〈科学志向型共産主義国家
ence-oriented communist s
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)>主的(一そこでは. 「プロシヤ流規律,
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ドイツ的科学能率.
マルクス主義思想、の結合 j30η が 意 図 さ れ て い る 一 〉 の 青 写 真 の よ う で あ る 。 し か し 本 来
合理的な科学思想は特定のイデオロギーにたし、する盲百的捻拝にも批判の隈を向け,
そ
の非合理的基盤を衝かなければや主ない性質をもっつそこに科学の許容点の限界が生れ
る
。
以上のように,ブレジネフ政権の科学的技術の導入を捷子とする経詩発展の、第三の途、
もまた行き詰る運命にある。即ち,一方でいくら創意,イニシアティヴを奨励しても.地
方で知的自由一般の制限,労傍規穿,イデオロギ一関争を強化するのでは.
r
アクセノしを諮
み な が ら ブ レ ー キ を か 汁 る J30吟 よ う な も の で あ る 。 こ の よ う な ジ レ ン マ の を 担 っ た 経 済 改
革が,その鳴りもの入りの宣伝にもかかわらず,低迷するソ連経済の打開策となりえなか
治 癒 す べ き 疾 病 の 症 候 群 (symptorns) で な く . 真 の
ったのは,なによりの通例である o r
原因 (causes)j309)Vこメスを入れる仕事は,どうやらブレジネフ,
コスイギンでなく,次の
政権へ持ちこされたように思われる O
〔付記〕
~i(4)
本稿は昭和 4
6年 度 文 部 省 科 学 研 究 費 に よ る 研 究 成 果 の 一 部 で あ る 。
A. D. Sakharovand o
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. (No. 76
,Summeτ1970),p
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. 極論として周知のごとく「ソ連法 1
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4年ま
で 生 き の び る か ?Jと L寸 間 を 提 出 す る ソ 連 の 歴 史 家 も い る 。 A
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,Autumn1969),p
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l Freedom. (London: Penguin
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) Andrei D
Books
,1968),p
. 25. 上甲太隠・大場寿一訳 f 進歩・平和共存および知的自由~ (東京:みすず書
房
, 1
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), p
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71.ただし支章を一部変えた。
3
0
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) 堀 健 三 fソ連経済と利潤 j (東京:弘文堂, 1
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),p
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. た xし文章を一部変えた。
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) Gertrude E
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1XIX,No. 5,Sept.-Oct.,1970),p
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