...

Page 1 Page 2 ー在京同窓会活動の ますますの発展をー 1948年に

by user

on
Category: Documents
68

views

Report

Comments

Transcript

Page 1 Page 2 ー在京同窓会活動の ますますの発展をー 1948年に
一一一一
…
室昌雲
一一
z二一
難
一
昔の仲間, 今 の 仲 間
蕊
蔭=堂
…
菱調
一
雲雪騨
恩師短信
一一
へ一一
一二
壁農
一二
一垂
喧呉室
長崎西高創立印周年を祝う
l在京同窓会活動の
ますますの発展をI
ひ仁壷へl自律﹂をなく肩
ているのだろうと考えていま
も大切にした校風にもとづい
す。これからも、母校で得た
青春時代の友悩を大きな樋と
して、同窓会活動が発展して
ところで、私が在京同窓会
いくことを願ってやみません。
の会長に選出されてから早く
おぼえ、在敢脚窓会に集う皆
を迎えたことには深い感動を
月1日をもって卵歳の誕生日
わが長崎西高等学校が本年n
1948年l産声をあくた
皆様方に献身的なご準備をお
さんをはじめとする妬回生の
になりました。今回は上瀧緑
第妬回の総会を開催する運び
への緋l﹂のテーマのもとに
FORFUTUREl未来
じめ役此の方々にも変わらぬ
会で新しく決定される会長は
し上げるとともに、今回の総
ざいます。ここに深くお礼申
皆様の厚き支援のおかげでご
の方々、そして多くの会員の
中村、永田の三副会長と幹事
長崎西高在京同窓会
会長寺井一弘
も任期3年を終えることにな
りました。会長就任当初は、
さまざまな抱負をもっていた
ものの、私自信の力不足のた
め十分な成果をあげることが
できなかったのは心苦しいと
ころではありますが、年を追
うごとに、在京同窓会の活動
が狩実に発展してきましたの
様方とともに、心からお祝い
願いすることになりましたが、
は、私を支えてくれた野田、
申し上げたいと思い勤王鬼半
私は、かねがね﹁遅刻坂﹂
みを続け、同窓会の皆様が健
会が虹世紀に向けて力強い歩
母校の長崎西高と在京同窓
第です。
ご協力をお願い申し上げる次
陛の感謝の気持ちを述べさせ
この紙面をお借りしまして深
経ながら、全国各地、各界で
ていただきます。
世紀という憂い歳月の風雪を
活跳される多くの卒業生を送
のある高校に学んだという縁
りだされてこられた母校の先
生方のご尽力に改めて敬意を
の挨拶とさせていただきます。
ことを心からお祈りして退任
本当に有り雌うございました。
康で有意義な人生を送られる
いることに雌きの念を禁じえ
だけで、多くの方々がこれほ
そして、長崎西高在京同窓
ないでいたのですが、これは
ど熱く在京同窓会に連帯して
会も本年は﹁創立卵周年記念
表するものであります。
総会﹂として﹁BONDS
長崎県立長崎西高等学校
在京同窓会会則
第九条本全の般商機関は総︿ぞじ.脈
年とし、会是.副会促はⅢ任しない。但
一”雁一孟些︾一二一F一二F戸﹄一王唾一口却亜J−蝿杢手二拍︾﹄一︵駈一﹄唖壬生■■■一一﹃E一里程癌一一F平︼︷且︼F幸一︶凸
第一条本会は及鮒県立及峨西商郡学
年一回、これをⅢく。
第十条総会は、幹那会の識を経て、会
は、臨時総会を期くことができる。
会躍または幹那令献必妥と腿めたとき
し再脈を雌げない。
第八条本会の役飢の任川は、すべて三
校在京同窓会と称する。
を因り、母校との巡係を糖にして、その
第二条本会は、会仙柵互の親睦と交流
発展に寄与することを目的とする。
総会の識憂には副会長があたる。
長が招蝶する。
る場合は、出席者の過半数をもって法す
第十一条総会で議決を要する那項があ
を卒業もしくは在籍したことのある者で、
第三条本会の会貝は、焚崎西商等学校
東京およびその近眼に在住する識もし
蛎肴の三分の二以上の焼成を要する。
る。但し、会則を改正する場合には、出
くは、在住したことのある巻で特に希望
する者によって椛成される。
第十一条ノー水会は会貝の納める年全
及崎西商等学校の教職胤もしくは教職
貝であった巻は、本会の特別会蚊となる
に始まり、一二〃三一脚に終る。本会の
によって雌フ。会帥年皮は征年一冊一Ⅲ
会計は、財政担当粥柾齢淋が杵肌する。
曲、総会間寄付金およびその他の収入
肋を披け、閃東地区に慨く。
ことができる。
第四条本会を通謝するため、次の投仙
第十二条水今ぼ.毎年一回.会戯州互
第吉案ノー本会は述絡拙側として耶務
を慨く。
副会曇若干名
凧する布圭謀らの協畢茶器思って龍でる。︶
︵その経班は、会員および本会の目的に侭
の交流をはかるため、機関誌を発行する。
会災一禍
稚任幹那若干名
幹雅会において、定めることができる。
第十三条本会則の施行に必要な細則は、
会計監盃二名
労のあった群が栄鉾ぞ受けまたは死亡し
一在#耐憩争星章会のえ銅篭.聡罵功
幹蛎数十名
職間蒋干譜
第玉条会艮.刑全奨常柾幹碓会計
監盃は、枠恥全の推蛎にもとづき、総会
幹珊は、各剛より一編以上進出する。
にて逸出する。
たときに、祝金または蘇典を州る。
二在京岡や愛ぶは、唯裂あく箭哩が栄播を
おいて決定する。
賊与は、会災、副黛璃粥任枠珊聯に
即側は会及の嬰硝にもとづき、枠蛎会
幹蛎および幹恥によって柵成され、会の
節六条幹恥会は、︿誇典副会及、滞伍
当会の名をもって花、花環蛍たは況弛、
受けまたは死亡したときに蝿永お布志が
の承鯉を経て、委噺することができる。
齢哩胤郡蕊然拶し、日紺伽恥瀦ぞ処即ずる・
する。
得るものとし、その凹川は布志の負担と
きは事後速やかに会量、副会没の承鵠を
曇副会畏の許可管裾、止むを得ないと
鮒﹄ず一長は電報等の発信は、邪曲に会
弔飛事︾踊ることを認める。
第七条会挫は、木会を代炎し、一切の
会務を統括する。
副会長は、会長を補佐し、全農に雅放
常任幹蛎および幹蛎は、会曇を補佐し、
あるときは、その職務を代行する。
荊任幹刑は、渉外、企山圃細識、財政.
会務を処理する。
崎西高のい50歳″を祝う
一平成10年11月1日、母校にて記念式典一
−
−
全
胃げ
蝋峨
心
挨拶をする小山曙美校垂
ホテルニュー長崎の祝賀会会喝は80除名の同窓生で一杯
記念式典には在校生1,200名、来賓200名が列席
‘
手
鏡開きの後の乾杯
遅刻坂正門にもお祝いのアーテ
一
艮・畏崎市長︵蝿回生︶ガ万
記念識演では草野仁氏︵テ
歳三鴫して締めくくった。
レビキャスター・皿回生︶が
﹁いつもチャレンジ精神で﹂を
テーマに在校生1200名に
つづいて会場を移し紀念祝
熱いメッセージを送った。
班会を開催し、附窓生等800
有余名が西高釦周年を祝った。
産 a
二 一 ー
産
両
山西(旧姓荒木)美佐子先生のピアノ伴奏
草野仁氏の記念講演
。鯛立長崎西高等学綾創立50跡、
●ヘーヴ
【一Z
在京同窓会からも多数が出席
祝賀会のフィナーレは校歌斉唱
謙
一一
が燕痔率三一.翠害窪穆.:︶↑た・患ので一一
愛称﹁かしわ君﹂のその名の
に親しみを感じます。
とおり愛嬢のある温かい笑顔
シンポルテーマは、
﹁潮け柏の森の若人よMA
これは、生徒から募集して、
KEANEPOCH!﹂
たのです。それもn月1日の
をすれば、夢にも思わなかっ
わろうとは、月並みな言い方
周年記念にこのように深く関
るものとして、その快い響き
ように、長崎西高校を象徴す
耳で聞く﹁自律の鐘﹂と言う
され、目で見る﹁自律の像﹂、
の像﹂と対になるように設髄
スト等を多く取り入れて面白
高五十年史﹂は、写真、イラ
集長として編纂した記念誌﹁西
諭でもある山口勝利先生が編
として、”回生で、現母校教
また、学校主催の記念事業
の森﹂に育った若人。それは、
十年記念の折り造園された﹁柏
込みが込められています。三
する長崎西高校生の夢と意気
した。これから幻世紀に活躍
作品を合わせたものになりま
大浦愛美さんと宮崎浩二君の
志は尚き青雲の
眉秀でたる若人の
水面に映ゆる我が母校
今年3月に卒業した卵回生、
記念式典 と 祝 賀 会 を も っ て 一
は登下校の生徒に親しまれて
く、読みやすい記念誌となっ
はてしない未来を見つめる青
流れは早し五十年
ります。
草野仁氏による記念講演があ
幕を閉じます。ここに満足か
います。母校の思い出として
ています。
ま手も
年﹁自律の像﹂の姿でもあり
てつくられました。シンボル
やなぎ葉ゆれる浦上の
と問われれば、そうではない
長く卒業生の心に響いてくれ
シンボルマーク・シンポルテ
一幸郡︾↑﹂吟辛三型u三華碓−1一一︾﹂一碓琴一二一﹄一舜一︿一﹃・一
と明確に答えることは出来ま
ーマも今回在校生の手によっ
校長室に置かれている校旗、
今回の記念事業のメインと
後6時半に﹁赤トンボ﹂、﹁長
午後1時と生徒が下校する午
に﹁校歌﹂を、昼休み時間の
ンジ精神で﹂の演題で予定さ
式典終了後に、﹃いつもチャレ
業としては、n月1日の記念
年記念歌︵二、三番略︶
・長崎西高等学校創立五十周
録として後代に残し、さらに
長崎西高等学校の総合的な記
生徒の生活等︶を収録して、
崎の鐘﹂等の懐かしい曲を奏
れているテレビキャスターの
でています。母校へお出での
NAGASAKINISHlHIGHSCHOOL
一﹄﹄岬唯r一一一m一一︿一一一一一寺I■一︾﹄昨一一一▲一一︽”一一一一一函一一一一■︾一睡一一悔一凸幸一和一
文、各分掌、各係による研究
また、今回作られた五十周
1日に贈呈式がおこなわれま
なものが完成し、これも9月
校の美術教諭の加野尚志先生
発表や生徒及び保謹者を対象
体育館ステージの鍛帳も立派
なるものは、何と言っても覇﹁自
した。スクールカラーの落ち
によって合唱されました。こ
とした意識実態調査と分析等
はじめ、校歌、応援歌等を収
律の鐘﹂です。オランダ製の
着いた鍛帳と二代目の校旗よ
の記念歌は、皿回卒業の現母
1日の記念式典で演奏、合唱
カリョン鐘で、コンピュータ
り一回り大きくなった、朱色
校教諭、不肖私、鶴田正悟の
念紀要を発刊します。
を記戦した、研修部編集の記
年記念歌は、式歌としてn月
ーで制御され、如曲の曲目の
が目に鮮やかな三代目校旗。
歌詞に、現2年生、醜回生の
マークは現在2年に在校して
瀧奏が可能です。去る、平成
中央に刺繍された校章は、
高木直子さんが曲を付け、編
いる神坂有紀さんの原案に母
加年9月1日に学校への贈呈
﹁W﹄の文字が銀色から金色の
この他に、教職員の研究論
式と鳴らし初め式が執り行わ
刺繍に変わりました。これも
忘れてならないのは、記念
録したCDを製作しています。
れ、それは長崎新聞を始め各
曲を犯回卒業の福岡教育大学
の母校の姿︵校舎学校行事、
ビデオの製作です。創立以来
され、祝賀会では9回生の合
新聞の長崎版でとりあげられ
同窓会の寄贈によるものです。
助教授、原田大志先生に依頼
唱団、コール・アンジェラス
たのですが、現在朝8時別分
さらに同窓会主催の記念事
して完成したものです。
言うのが端的な感想です。
るものと思っています。
現在﹁自律の鐘﹄は﹁自律
折りは是非お聴き下さい。
L
−
島
創立五十周年
記念を
振り返って
鶴田正悟︵副回生︶
思えば奇すしき因縁とでも
言えると思うのですが、高校
貢
せん。﹁ 長 い 3 年 間 で し た ﹂ と
時代に自分が母校の創立五十
、
3
必要I応じ一改編し学校紹
塞局との野球部の交流戦、記
大橋球場︶での兄弟校である
高校総体も印回目Ⅱ
で在校生と卒業生との記念シ
をみんなで考え継承する趣旨
機に、長崎西高に脈打つ伝統
館で、創立五十周年の節目を
展示コーナー﹁西高おたから
記念品を集めた、西高の歴史
品も含めて、長崎西高校縁の
の前身である旧制四校の記念
文化祭︵西高祭︶では、母校
西交流会などが行われました。
西高からは妬種目に276人
月5日から4日間行われた。
育大会第印回記念大会が、6
るように、長崎県高校総合体
印周年記念式典の露払いをす
n月1日の長崎西高校創立
念文化祭における文化部の東
ンポジウムが行われました。
展﹂が設けられ、現在も公開
が参加。昨年より高校生の応
4月”日︵月︶に母校体育
介等に利用する予定です。
基調講演者に長崎南高出身で、
展示されています。それから、
る記念演奏会が開催されまし
部・吹奏楽部・ギター部によ
の今年の入選作﹁輝こう!
なった高校総体のスローガン
募作品から採用されることに
長。挨拶をした高体連会長は、
7 −
4
山岳部、空手道女子準優勝!
マッハヤ社長の松本博氏、コ
今年3月には第一回の、音楽
橘口泰介氏、パネリストとし
た。さらに、来年3月幻日に
スターは、美術部2年の稲田
この3年間、実行委員会、
(現役のみ)
西高生の進路状況
体操女壬水泳男子優勝!
テレビ長崎プロデューサーの
ーディネーターは四回生で、
の竹田頼 正 氏 ︵ 皿 回 生 ︶ 、 き き
て、三菱重工業長崎研究所長
華諾己子さんの作品で、二人は
・本間圭奈さんのコピー。ポ
くのいろいろな記念行蛎や記
それぞれの今﹂は、西高2年
念事業が企画実行され、加月
た。開会を宣言したのは、本
総合開会式の前に表彰を受け
は第二回の記念演奏会が開か
妬日現在、n月1日の記念式
っ外科医院皮噛科医師の喜々
専教授の 田 崎 弘 章 氏 ︵ 羽 回 生 ︶
芸術祭賞受賞者で、佐世保工
典と記念祝賀会を残すのみと
津京子氏︵”回生︶、九州文学
らを迎え、在校生から現3年
れる予定です。このように多
生梶原健佑君、現2年生畑尾
なっております。
西高の小山曙美校長と、西高
校教諭の小野良介高体連理小
朋子さんが出席しました。
常任理蛎会、理眠会、企画会
幻世紀に飛蹄する長崎西高
と長崎西高卒業生の在り方生
せ、浅科作りなど記念事業の
実行に携わって来ましたが、
議など諸々の会議、打ち合わ
にこれからの長崎西高校の精
それは、充実した日々であり、
き方を考え、長崎西高等学校
神のよりどころの確立を図る
はないかと思っています。
その成果も満足できるもので
への深い愛校心を培うととも
に受け継ぐものl﹂のテーマ
目的で、﹁ザ・西高l幻世紀
余すところを句に詠めば、
’一︸︾
就 蝋
した。
秋天の青一色の広さかな
空人
各種大言
早稲田大当
水産
合計
合 刷
東京大学
工学
学
大阪大学
480
医学
431
慶応大学
歯学
薬学
149
経済
公立大雪
京都大学
1
6
:
私立大曽
短期大学
平成10年卒
平
嘆
晶
年
卒
!
18
29
15
九州大学
合格者訓
合格肴数
合格者敷
平成9年卒:
平成10年卒
平成9年卒
平成10年卒
204
170
国立大与
で活発な意見交換がなされま
それから、雨のため、幻に
予定されていた、ビッグN︵前
終わりましたが、6月明日に
男子が見事優勝した水泳部
羨螺難溌灘職瀞
瀧霊撫職樵套;灘撫
先生
お元気ですか?
もう一つは﹁運動会﹂。美術
つの間にこれ程の物を作った
会問題、民族等から選び、い
ノレード﹂テーマを歴史社
が炎を囲んでフォークダンス。
した。制服に着替えた生徒達
熱は“階美術室の窓際臭・達一︶
の後方に立てる5メートル四
ン﹂である。4色班別応援席
たならば﹂では三年生担任は
あがり、﹁もしも教師でなかっ
見事なパレードに感嘆の声が
り練習したのか統制のとれた
の燃焼とその感動は終わるの
暮れなずむ秋空に青春の一日
一一一﹄一︸一一一口
部員が描く﹁バックスクリー
方の布に、意気高揚をはかる
嫌だ嫌だとこぼしながら、本
音と蒸気を含む鉄くさい空気、
長崎新聞社とその一帯︶の騒
た三菱製鋼第二工場︵現在、
態である。私としては、一人
座の中で同時進行する学習形
イン、彫塑の3コースを一識
を生かし、絵画︵油絵︶、デザ
ードを盛り上げていたものだ。
タワーやマスコットと共にム
ける。それが班毎のシンポル
れるのを避けて﹁風穴﹂をあ
描きあげ、布が風をはらみ破
競技を終え、パレードやマス
を浴びていた。惜しまれつつ
気をかもし出して温かい拍手
と一体となり、和やかな雰囲
番での演技はクラスの生徒達
補修授業はしないことに教師
西高は自学自習をモットーに
み切った時も、自律の園わが
ため、いわゆる補習授業に踏
市内の高校が進学率を上げる
つめた学習生活へと一変した。
事で大行事の後の静譲で張り
﹁けじめをつける﹂、これも見
だった。
研究し、時間ギリギリまでに
絵を描くのだが、何を描くか
それに浦上川の臭いを感覚し
何役も果たすつらさはあった
コット等の解体と焼却、その
り入れた﹄生徒の意欲と特性
ながら、遅刻坂のこぶし大の
種目で特筆すべきは﹁西高
きだった。
そういう校風がたまらなく好
に好成績をもたらした。私は
も生徒も誇りをもち、結果的
が、今でも実行してよかった
思い出﹄
﹃川美術室からの
四角な石の舗装を踏みしめ、
学校行事の一つ﹁文化祭﹂
と思っている。︵中略︶
では、美術部作品展はA棟3
は環境芸術と称して光、音、
一定の年限が来ると愛する西
として”広域人事“が始まり、
階の二教室で展示し、美術室
今のA棟の奥は貧弱な木造校
動きを駆使し、美術室という
し、間もなく北側天窓のある
育館がある所︶へ美術室を移
室となった音楽室︵現在の体
だと言われたくないと創蹴工
いだ事とはいえ、前回と同じ
するのだが、先錐から受け継
すべて美術部風が立案し実行
オバサンだろうかて思われて
まよ﹂﹁私たちどこのオジサン、
﹁変わってる﹂﹁ここはそのま
うでⅡ﹂と遅刻坂をのぼった。
た。翌朝﹁西高に行ってみゅ
話の顔は皆西高生に戻ってい
いに集まってくれた。思い出
美術部卒の方々が私の還暦祝
昨秋躯回生、正月に鋼回生
したい。
かけてしまったことをお詫び
を覚え、近隣の人々に迷惑を
うしようもない不条理と恢り
高を去らなければならず、ど
そういう中で県の教育方針
舎と意外に狭い運動場、続く
空間を見事な異空間に設定し
︵美術担当︶田川稔
工砺で整備も十分でなく、映
素哨らしい美術室が完成、建
夫をこらしていた。ステージ
域に入ることをやっていた。
築の音も跡まり、安定した﹁西
音、動きで斬新な空間を演出
得られなかったものの、光、
したあの大阪万博以前からや
発表と違い少数の参観者しか
もらった。週2単位という限
の環境整備に随分金を出して
られた時間だが、西高という
にも溢れていたということで
っていたのだから進取の精神
と県下で初めてコース制を採
資賀の高い生徒達なら可能だ
商﹂になった。美術室として
やがてB棟半分が出来て空
﹁インスタレーション﹂の領
その頃は校舎改築の最中で、
年のことであった。
の校門をくぐったのは昭和“
私が長崎県立長崎西高等学校
浦上駅から高い塀に囲まれ
一 一 一 Z 一 で = = 一 一 = 一 万 一 = 可 一 石 一
苧 z j J も 三 ・ ・ ニ マ ダ ら
てしまうのである。今言う
一 『 ー
画のセットの襲側さながらで
圃
あった。︵中略︶
唖』唖匡匪例醒f涯L鍵Y△z曹寧型坐42,理些lf必皿型測唾輿ら蝿袈璽吟哩智』16LI型洲r占竺型型目
も同じような緑で面白くない
責任を痛切に感じました。
重なでて平和の有り難さと
い出です。
のよき頃の時代の想
曲を得るための仕蛎で、行き
て来て、幼い時から食柵を、学
敗職後難民同様で引き揚げ
お一屑健康には留意なさり在
す。そういう時勢ですからな
巻く濁水の如しという世情で
変、様々な問題で先行きは渦
て卒業するまでの四
信制生徒達が入学し
になり、ちょうど通
西高通信制にお世話
和三九年四月から、
一一m一宮一・二。︼鋸、﹂ロ叩こ壷〃一重・﹄一・一・・三↑産⋮︶一”︲﹄今津・
ので、そのうち秋色に誘われ
託して卒業生は帰っていった。
京諸兄姉の皆様の益々のご活
私は西高には、昭
ると、﹁ 今 日 は ﹂ と 元 気 よ く 部
その西高も創立卵周年を迎
カンボジアの遡跡で物売りし
たい所へ行けなかった時代⋮。
人心の荒廃、地球環境の異
て出かけ§工疋です。
える。﹁西高三十年史﹂を紐解
﹁頑張れ よ ﹂ と 後 飛 達 に 願 い を
活の生徒から声をかけられた。
くと、昭和銅年の学生改革以
かしい想いがあります。と申
私は西高というと特別に懐
がれた︵?︶かもしれません。
校風がその後も西高に引き継
言われていました。この頃の
浦i筆琴校はぐ参一カラ学校:こも
石垣の間にたくさん居ました
手ながえび︵通称ダクsが
でいました。昔の浦上川には
︵原爆中心地のすぐ横︶に住ん
のは戦後のことです。松山町
が出来芯車が住吉まで延びた
日曜祝祭日でも自らすすんで
した。その頃の生徒諸君は、
それ以上の成果をあげていま
校にはひけはとらず、むしろ
も西高の大学合格率は他の三
要望はありましたが︶それで
われませんでした。︵PTAの
しているような補習は全く行
二・三年の持ちあがり形式で
謹挿一・恥晋・二二一・叩.︶・一に一・毎令一龍︷卿仙︽・一幸署一画
ていただき全日制に
年間で私も卒業きせ
離を祈っております。
﹄晶口︸ニヨュ﹄一一一一・・一一F︾■﹂研︾一一一■■一ロ■■且︶一二L一五年一王一︾&一︽申︾一と一一一︾︾一一一唖一怪一■一■■一
しますのが、現在の西高の前
戦後になりますと、この四校
し、松山橋付近までは﹁しら
学校に行き教室などで勉強し
三替わりの計九年間お世話に
の印周年である。来るn月1
身は、旧制の県立塑浦中学校
を一緒にして、おおよその地
うお﹂があがってきたり、六
たり、放課後も自ら居残って
駅前から大廻りをして大学病
日の式典には参加できない在
があった所で、私もこの戦浦
区で束高と西高の二校に分か
七十糎のスズキがとれる位に
勉強したものでした。このこ
院の真下を通り下川止りで下
京の皆さんの思いも預かって
中学校の出身だからです。今
れ男女共学になりました。東
川も締麗でした。また橘の上
とが西高の伝統である自学自
は夏期補修は別として他校が
是非出席したい。終わりにな
から五十有余年前は皆様と同
高が県立高等女学校の校舎に、
から投網をうつ人をよく見か
なりました。その頃の西高で
ったが、卒業後、東京や国内
じように通学をしていました。
酉億か職蒲中学校の校舎に︵原
けました。また潮が引いたと
川に車庫が出来ました。その
外各地、 各 方 面 で 活 躍 中 の 皆 々
戦前の長崎にはこのような中
爆後に建てられたものです。︶
後大橘まで延び、大橘に車庫
様のご健康と益々のご発展を
学校︵旧制の中学校は小学校
昔ながらのチコク坂や土手の
︵数学担当︶馬場弘
自律精神に歴史あり
ている子供達に自分の体験が
来、様々な変遷を垣間見るこ
とができる。その流れを遅刻
坂の上で 原 燥 を 受 け な が ら 雄 々
しく生きている大楠は静かに
見守っているのである。縁あ
って西高を共にした一人ひと
祈りつつ筆を置きます。
卒業時に受験して五年間の中
りが創り上げて来た長崎西高
私、お陰様でこの三月定年
Iフロフ錆.⋮:ルーⅡⅡⅡⅡO
学校︶が公立で四校︵男子校
た。この文字を刻んだ碑が現
中学校の校訓が不携不屈でし
退職し主竿中泊の気ままなス
いました。また戦後ですが下
在校門右方に西高のお世話で
す。尚壇浦中学校の名残りは、
流の方では﹁アサリ﹂も多数
習の精神そのものだったので
在の山王神社から真直ぐ岩川
捕れていました。戦後の食柵
きは、川の中に﹁ウナギッカ﹂
町に出た角の所で裏には巾約
で残って居ます。
立派な公園︵?︶のような形
が多数見かけられ鯉も揃れて
立高等女学校︶でした。長崎
三米の瀞があり、その側には
雌の頃でたくさんの人が畑を
す。私は小さい頃は岩川町︵現
中学校は市の中心部方面の子
山王神社の一の鳥居︶におり
た。五十年昔といいますが昔
掘り食樋の足しにしていまし
樟の樹などなつかしく思いま
勤務先で足を痛め、毎朝夕の
息が、璽浦中学校は市の周辺
ました。龍車も昔は茂里町に
が長崎中学校・激浦中学校、
送迎で身動きがとれなくなり
部や浦上地区方面の子息が多
車庫があり浦上駅までしかあ
女子校が県立高等女学校と市
ました。彼女の足はよくなっ
かったようです。その頃は長
っていましたところ、女一勝が
たんですが、この暑さに夜も
崎中学校は坊ちゃん学校、壇
ケッチの旅をしようと張り切
ゃないし、全国どこへ行って
車は焼けて寝つかれたものじ
室穿二季=_三舎三.二三等-号号湾二?萱2¥岩室==?今更雫=三雲§星垂
レシアに一八駐在しテァ
絵を描きたいと思っています
自然農法を実践したいと考え
故郷のサバ州で百姓になって、?
妻のマギー︵マレーシア人︶
ところで、日本も大変です
結局は大人次第
ていま幸も
が、今は全然時間がありませ
は猫の額ほどの庭で、有機野
ん。
クワークで自分の好きなよう
くらいで幸も△了までの搬琉が
順洲に運ぶようになり、怖い
菜作りに精を出しています。
際鰹小を始めてから、全てが
プラスのエネルギーに転じた
海外から見ていて、バブル
ね。
前特に1985年のプラザ
現地で有機肥料を製造販売し
合意の後から日本はおかしく
ようです。この波に乗って、
なっているなと思っていまし
いてのアドバイスや、英語、
マレーシア語の翻訳、その他
たが、やはりこれまでの体制
ている邦人が、私に農業につ
をよく頼んできますので、有
が動脈硬化を起こしたようで
りで幸恥
KL︵クアラ・ルンプール︶
機肥料がダダで手に入ります。
これからも精進していくつも
ただ私は仕事に追われてい
の山奥で加年間艇業指導をし
かけ、ただで水泳を楽しんで
ールに毎土剛日午後家族で出
り、彼のコンドミニアムのプ
くに住む邦人と知り合いにな
せん。いずれ、私自身も妻の
舎が懐かしくて仕方がありま
ド不シア、ケランタン州の田
年間過ごしたボルネオ、イン
みたいな大都会にいると、吃
による殺傷事件にしろ、私た
相次いでいる中学生のナイフ
私生活も頑張っています
るばかりではなく、最近、近
私は↓︽し。⋮.シァの首都クァ
てきたほか、インドネシアに
います。
を落ち着け、﹁子供の森計画﹂
95年からマレー半島部に腰
は学校でボーイスカウト、日
ブロフイ・⋮.〃
ち大人が豊かな生活の中で自
﹁サカキバラ﹂にしろ、最近
す。
ラ・ルンプールに昨年4月か
も2年間駐在しました。19
仕駆は、民間国際協力団体
このほか、長男は毎月唯日
ら住んで お り ま 李 恥
︵NGO ︶ で あ る ﹁ 財 団 法 人 オ
暴風雨で死者川名以上を出した
サバ州の村へ支援品寄贈
城山小∼測中∼西一角
週2回の英語と算数の塾。近々、
附刺は近くでテッコンドー、
学へ入学。
西高卒業後、立命館大
シアのオイスカ活動全般を扱
てもらうことにしています。
知人の日本人から剣道を教え
団体︵NGO︶である、
卒業後、民間国際協力
を展開してきて、今はマレー
っています。私は農業専攻で
長女は週3回の中国語、英
マレーシア全土での熱帯雨林
はなく、南北問題解決に寄与
語、算数の塾と毎土唯午前の
イスカ﹂の駐在代表として、
の森計画﹂推進、日本へ現地
再生プログラムである﹁子供
したいと思って妬才の時にオ
ンドネシアを中心に農
修後、マレーシア、イ
青年の農業研修派遣、各地の
どちらも私の血を引いてい
財団法人オイスカに入
るせいか、私が教えもしない
険魂在、↓.﹄⋮シア
イスカに入り、それから犯代
ンティアで経済的見返りが少
のに絵を描くのが好きで、長
のクアラルンプールに
農業プロジェクト巡回指灘
なく、文化的帆榛にもまれ、
男など小学校時代の私のよう
て熱畿雨林再生等の活
り、フィリピンにて研
植林ツアー受入れ、その他の
農業面の未熟さのために一向
にマレーシア語で漫画を描い
動を展棚中℃
うかと考えているところです。
業務をこなしています。駐在
に芽が出ず、悩んでばかりい
ているのを見て、びっくりし
美術教一毛ピアノも習わせよ
日本人は私一人ですが、マレ
ました。現地で結婚して子供
ました。私も暇ができたら油
で仕事をしていました。ボラ
ーシア各地のオイスカ農業研
ができても、ずっと将来が不
までは毎日田んぼで泥まみれ
修生OBを活用して切り回し
安でした。如才になって西マ
政府や関係機関との連絡・傭
ています。私はマレーシア滞
報交換、日本からの視察団や
在が皿年になり、ボルネオ島
季︾考一か“︾︾十・・口︶・クロ込宮駈症・一・一二﹄一ラ︵︶一・一・画Lこ・↑﹂一二悪一仁塞︽
を置くあまり、社会に無関心
になり、社会生活の中でのあ
大人次第です。
するのも悪くするのも、結局
一染まn三参供を良く
山を丸裸にすると、ボルネオ
目をつけられ、フィリピンの
まずフハリピンのラワン材力
野生動物の声が響き渡るジャ
い、夜は降るような星空の下、
オ島サバ州の通気も水迩もな
いきません。私自身、ボルネ
︽一更原始生活l戻るわIlは
を決め込むからです。
心でなくても、見て見ぬふり
ぎるからです。或いは、無関
奴lは社会のことに無関心一﹃
れれば言葉もありません。し
前は何ができるんだ、と言わ
偉そうなことを言って、お
いのです。
ていると歯がゆくて仕方がな
これまで述べてきたところ
何か、えらい説教調になっ
ワク、パプア・ニューギニア
るべき規範、遊徳や粥識を無
て申し訳ありません。私自身
のサバ、カリマンタン、サラ
視、経視、或いは反発してき
子供たちが一様に青白くぶよ
ん。また、温室効果ガスを排
は人を脱教する資格も見識も
私事になりますが、私は2
た、そういう自己中心的な私
ぶよして無表悩なのに戦傑を
元々常緑広葉樹林︵フナー
出するとわかっている自助水
ないのですが、今の日本を見
年毎に日本へ帰る度、日本の
たち大人の態度が、子供たち
覚えていました。また、テレ
カシ、クリなど︶が多かった
得ません。
も、仕事のために使わざるを
ち自身の問題だと思います.
に投影していると思います。
ビ稀組のくだらなさ、俗悪さ、
日本の山に人工的な杉の械林
しかし、世界雌高水準の生
を言言で言うなら、全部私た
はっきり箇って、大人が凹
文字通り目も当てられません。
って各地で地盤が軟弱になっ
をしたものだから、近年にな
ングルの中で数年過ごしまし
倣を持って子供を叱れないの
3年前に西マレーシアへ転
は、本当に地球寅源の無駄適
活を送っている日本人の生活
と次々と森を剥いでいったわ
が問題だと思います。大人に
任する前嫡オイスカを辞めて、
て崖崩れを起こしたり、また
たが、炭りたいとは思いませ
はっきりしたモラルがないか
杉の花粉が大雌に飛散して、
ここ数年、私は日本を外か
いなのです。
子供に日本で教育を受けさせ
花粉症という一苛前まで聞い
ようかと迷っていましたが、
●十供の教育環境としてはひど
口先だけなら黙ってろとなれ
かし、言わずにいられません。
たことのなかった病気が英延
タマゴッチ、テレビゲーム等
に無関心になって、日本全体
ば、結局、社会全体がお互い
ら見ていて、例えば朝シャン、
はな,∼てもどうというこ,との
の流行を見て、日本という国
す。
一軒の家を建てるためにど
けです。
一人一人は無力ですが、お
が転落の道へ向かっていくだ
ことから何かの展望が側ける
互いにもっと意見を言い合う
ない製品を作り出し、無理や
内需拡大を要求するアメリ
っているなと思っていました。
れていることか。そして、熱
れだけ多くの熱帯雨林が切ら
しているのはご承知の通りで
すぎる、と思っていました。
らです。・寸供は白紙ですから、
現地の.“学生↑三池農業の生徒二人と
シナモンの木を植林
結局、戦後のモラル崩壊が
尾を引き、こういう事態にな
です。
ったのだというのが私の意見
垂獣と思わない感性のマヒ
の国でどれだけ多くの農民が
り需要を喚起して、それでカ
村を総てて、スラムに住まざ
ネを回して、やっと経済が保
しており、特に熱帯雨林の消
カの圧力かもしれませんが、
ピンやインドネシア、その他
失に関しては日本の責任は垂
るを得なくなり、どれだけ劣
鉦厳なことに惜しげもなく金
帯雨林が破壊されて、フィリ
大であると流感しています。
悪な条件下で藤らしているこ
を浪費する姿は異常です。そ
私は環境問題関係の仕聯を
熱帯材輸入を止めようとしな
とか。
ことが悪いと言うつもりはあ
私はマイホームの夢を持つ
異常だと思っています。
自ら感じていない点がもっと
れを、日本国民がおかしいと
を植え、インドネシアの海岸
奥の田んぼにて泥まみれで稲
の三角州﹄を意味します。山
ルとは、マレーシア語で﹁泥
般後に、クアラ・ルンプー
ものと信じます。
い日本の企業に倫理観が感じ
日本が熱帯林を大並輸入す
りません。ただ、私たちの何
なぜ、感性がマヒするのか?
います。
にふさわしい地名だと思って
られないのです。
気ない日常生活が外の社会と
で胸まで泥に浸ってマンダロ
るようになったのは、第2次
密接な関係を持っていること
国民一般が他人のすること、
ーブを植えてきた私が住むの
して、各地で杉の植林を実施
環境、環境と言うあまり、
の例として、書いただけです。
のマヒが一番問題なのです。
無駄を無駄と思わない感性
大戦後に住宅用の材木が不足
何十年と時間がかかるので、
しましたが、収穫するまでに
ざ
.推恩師よりの短信小
野田良一
小生は1950年から、平戸か
ら佐世保南、長崎工業をへて19
62年に長崎西高に勤めることに
なり1979年までⅣ年間お世話
になりました。その後野母崎、長
ました。それから長崎東、南山、
崎南に移り、1985年に退職し
総科大附属に講師として勤めまし
たが現在は無職です。n才になり
ましたが近頃は病院にかようこと
が次第にふえてきて何とか無事に
小生の西高での思い出は何とい
すごしています○
っても学生運動とその後の進学体
制です。自律の園という精神がは
げしく間われ学校全体がゆり動か
されました。その後小生は長崎市
内の他校に勤めたり見聞したりし
ましたが西高のよさとい岸フものは
なつかしさと共にうかび上がって
きます○今でもその独自性は脈々
と伝わっていると思います。
天野紘
皆さんのふるさと長崎の街も少
しずつ変わっています。福田遊園
地・長崎水族館が閉鎖されました。
皆さんが子供の頃から行楽に出か
か。また毎日大回りで不便に感じ
けた思い出の地ではないでしょう
ていた通学路、浦上駅から其っ直
ぐに西高の下まで浦上川に歩道橋
が架かりとても便利になりました。
西高創立卵周年、西高も少しずつ
変わっています。長崎では今出島
の復元作業が行われています。
lふるさとは遠きにありて思ふ
が心温かくふるさとを語る。本当
ものl同じふるさとを持つ人々
の長崎の良さを知っているのは、
ふるさとを離れて暮らしている皆
さんかも知れません。
・唇査査・cx査査査査尋査雪辱査壱尋査査琴査蓉写査査尋査舎畢査蓉辱査査尋査雪辱
︾。●凸。。︾︽一屯ロ・●●・pm−G−0Go︾o●由一・・酔・凸
冷がさき苔の
ふま︽,。
含め、9人の先生方にご登場頂き
しゃったため、ピンチヒッターも
や、連絡のつかない先生もいらっ
一部、お亡くなりになられた先生
特築が組まれる事となりました。
という会話の中から、今回の先生
︽ある日の編集会議において︾
そうね、それがいいわね。︵H︶
かやっか。︵O︶
生たちに総登場してもろうたらよ
▼おいたちの3年の時の担任の先
なかか。︵M︶
▼そうやな、先生特集でよかとや
だよな。︵1︶
り懐かしかとは、当時の先生たち
▼卒業して妬年もたつと、やっぱ
アはなかかな?︵U︶
れたんだけど、何かよかアイディ
は、当番幹事の我々妬回生に任さ
▼今年のコミュニティの特集記事
夕
1
与垂査芋雪査=尋査壱尋査垂冬査壱尋査巻尋査壱苓査含尋査壱等窪壱辱査壱冬
与査査季垂査査査斗査強ra手査蚕畢査壱等☆錘尋査強r尋査垂等査哲辱査査辱了堂詮方等
山村彰
時の流れは速いもので、あの遅
刻坂を右手の大きな楠を見上げな
で辞令交付をうけたのが釦有余年
がら額に汗して登りつめ、校長室
前。必年間の西高勤務は私の教育
活の大きな支えともなっていった。
観・教師観の原点であり、教師生
多くの先誰・同族教師には言葉で
の生徒達には教えたつもりが教え
はなく行動で教えられ、また多く
られる日々で、当時を思い出すと
赤面のいたりである。当時の私は、
空手の取り柄を生かして空手同好
会を発足させた。当時は誤解と偏
ることのなかった空手道であった
見で高校スポーツとして認知され
が、県下の高校空手の先鞭をつけ
る活動をなし得たことは記憾に新
しい。現在、この一粒の種は高総
体の正式種目となって結実し、西
高空手道部が大活躍しているのは
喜ばしい限りである。
皆様のご活蝿を祈念いたします。
目です︽|ここには西高八回生以降
するので親子とも御縁︵悪縁?︶
の方の御子弟が毎年加人以上入学
長崎西高在京同窓会の本年度幹
いです。もう満n歳を過ぎたので
の続く親子が多く西高の延長みた
山村裕美
唾墨委雁躍の出身意から昭︸和
蛎に妬回生が当り、御苦労様です。
松本剛
娼年大学卒業と同時に柳行李と布
来年は放免されるでしょう。体力
妬回生は私にとって最初の学年主
の如きは授業できず、入試対策の
ここは一応進学校なので﹁長恨歌﹂
真面目な授業をしています。西高
が衰えたので剣道は見るだけです。
たが、振り返ってみると全国の高
で、未年生れであったので平穏な
校すべてが必ずしも平穏な時代で
つも同窓会に招いて戴きますので
で御縁があった卒業学年からはい
楽しいことが多く、いつの間にか
はなかったようでした。入学され
を中止する事態になり、その余波
計理・5年間お世話になった西
高はいつまでも心の故郷です。皆
長崎人になって住み着いています。
様の御健勝を祈ります。
が商校にも波及し私も、新聞部か
してつまらぬ学年主任であったと
のんびりと楽しんでいます。吃年
年の漢文授業だけの非常勤講師で
勤務しています。現在、高2.3
に退職し、続いて私立雲墨言高校に
平成元年の前年、西高を定年前
でお誠いをして貰いましたぺ中略︶
で内輪で淵神社の宮司さんに校庭
とっての不幸が短期間に続いたの
職のま含鬼締に入るという西高に
その後続いて2人の先生が西高現
の先生は現職のま鱈亡くなられ、
︵国文大和一男︵社又浦原正也︵社︶
皆様の心にも残っている松本一信
のある時代でもありました。特に
行など西高生にとってはまだ余裕
夏の修学旅行、勉強抜きの九重旅
の顔は明るく楽しそうです。暑い
アルバムを開いて見ますと生徒達
今も尚思っています。一方、卒業
ら陥るし上げのビラを撒かれたり
る2年前に学生紛争で東大が入試
3年間であって欲しいと願いまし
任の学年でした。上靴の色が緑色
以前三十周年記念那業として建立
盟日久し振りに西高を訪ねました。
かけましたが生憎の大雨で中止、
ていた野球の東西対抗戦観戦に出
として、去る6月的日に計画され
ことであります。記念事業の一つ
を迎えられることは誠に喜ばしい
さて、長崎西高校が創立卵間年
います。
し、いまでは普通の生活を送って
申し上げます。お蔭様で一年経過
なきにいたりましたことをお詫び
のため、直前になって欠席の余儀
お招きいただきながら、体調不良
昨年度の長崎西高在京同窓会に
つい先日のように思われます。そ
の間、長崎西高には、通算肥年間
勤務させていただきました。いわ
をここまで育ててくれたのは長崎
ば、何も知らずに教員になった私
西高であり、卒業生のみなさん及
ております。自分自身、卒業生の
び職員の皆様には深く感謝いたし
皆さんが西高を愛している以上に
凹高を愛する一人と自負いたして
おります。今後とも別周年を節目
とし、古き良き伝統を引き継ぎな
がら、創造性豊かな西高であって
妓後になりましたが、長崎西高
ほしいと 思 い ま す 。
在京同窓会のますますのご発展と
会員の皆様方のご健勝とご多幸を
祈念いたしましてヨミュニティ﹂
す。
に寄せる言葉とさせていただきま
・造園された﹁自律の像﹂・﹁柏
の森﹂の周辺に﹃自律の鐘﹄が建
こうした諸々の記念事業も長崎
立されるとのことでした。
る組織があってこそで、それゆえ
西高同窓会という歴史と伝統を誇
に同窓生の皆さんのご苦労のほど
も察せられますが、母校発展と後
眺のほどを祈念しております。
推達のため一層のご尽力と、ご活
0
山西責
孝塁雪査至善査畢雪査亭考査季雪害令迅審査与香査査やr畢査査尋査壱等査査尋査壱二
団袋一つで長崎にやってきたのが
与雪輩。C』舎雪*査函手窒垂孟李査壱画一窒謬盲畢☆奄司・査雀r畢査.芦電・☆哲尋 査 垂 辱 査 査 尋
山道害久治
長崎西高創立印周年誠におめで
とうござ い ま す 。
私は、昭和知年から、娼年間長
崎西高にお世話になり、その間6
回3年担任をしましたので、運動
会での﹁もし教﹄も、いろいろし
ました。妬回生の時は、﹁幼稚園の
先生﹂でしたが、洋裁専門の保護
者が、衣装を本格的に作り、また
私も生徒に指導されて、生徒と共
に練習に励んだものでした。
その他夏の学年旅行など勉学だ
けでなく、学校行事にも祇極的に
し何と言っても夏の甲子園出場が
取り組んでいたと思います。しか
強く印象に残っています。昭和弱
年長崎東高との東西対決で、墓局
おかげで、私も初めて甲子園球場
を降し長崎県代表となりました。
で応援できました。
最後になりましたが、在京同窓
会の発展と会員皆様のご健勝、ご
活躍をお祈りいたします。
暮雪査辛雪査与査雪辱雪査与雪査与垂査芋雪査査壱尋査壷等査垂尋査雪尋☆壱尋
小川正弘
今教育界では、荒廃した世相、
若者の心の回復をめざして教育改
革が進められている。﹁ゆとり﹂の
中で﹁生きる力﹂を育み、豊かな
人間性の陶冶を願ってのことであ
る。思えば、西高では、創設期か
ら一貫して、自ら学び、考え、意
欲的に課題を求め、自らの意志に
﹁自律﹄を校定として教育実践がな
より生活規純を立て行動するなど、
されてきたのである。校歌も、人
としての生き方、在り方を示唆し、
終生、理想を追い求め常に青春の
人たれと願う、思いを込めて作詞
されているように思う。校訓﹁自
律﹂も卵年経った今も新鮮であり、
生きる力の醸成にも欠くことので
初代校長小谷巨三郎先生の教育
きないものである。︵中略︶
る昨今である。
に対する思い、先見の明に感服す
仁査査季垂査与査査与蚕査季考査や考査与玄査査査辱☆雪辱査査辱査奄尋査査尋
中本誠一
創立釦周錘年月を重ねる阜さ
私にとって、まさに西高は古里
を改めて感じています。
です。西高7回生であると同時に
母校で逓年教覗に立つことができ
たことで、あの雀が丘に育ったか
ての校舎でした。教室には裸電球
らです。勿論私達の頃は木造建
が下がり、旧制中学からの流れを
も傘には誇り︵竣り︶のある懐か
汲む、伝統︵電灯︶のある、しか
しい校舎でした。恒例の予賎会は
三菱会館︵現在はない︶で行いま
囲んで乱舞したファイアーストー
一人一人を当時のアルバムで懐か
今回のお世話役妬回生の皆さんの
頃作られたと、管一ています。またゞ
した。夕暮れ迫る校庭で焚き火を
ムは青春の思い出を作ってくれま
しく確認しながら、母校西高で送
した。西高の自律的な校風はこの
られたことが、とても現在の私を
し教﹂をやった︵やらされた︶運
幸せにしてくれています。あの﹁も
動会︵体育祭とは言わない︶のシ
﹁フレンチカンカン﹂だったんだと
ーンを見て、そうだったこの時は
懐かしみ、みんなで登った久住で
った自分の姿を見つけ苦笑しまし
はトランシーバーを手にした若か
年月は経ち、昨年私は定年退職
た。
しました。現在再び数学の山道先
生と一緒に私学に勤めています。
います。
皆さんの益々のご活躍を期待して
ブ
ソードは ?
Q・思い出に残る種目やエピ
直子︶
でうれしかった。︵”回生山下
藍言作製時は必ず着用︾連帯感
担任の先生が教師でなか︵た
西一同ハレード
製毎年大作に挑職!︶
変身プログラム。︶
ら何がお似合いかという
もしも教師でなかったら
A・大仏棚眼閉じてい
先生﹀︵犯回生西田隆徳︶
− − =
先生の思い出
った。︵狐回生千賀れいこ︶
がら解いてくれるのが楽しか
茶際・長崎ちやんめん
上駅横の査本歴・民芸喫
川うどん店・たらみ・浦
A・アイワ・トラヤ・西
は?.
Q・よく立ち寄った店
放課後の思い出
︵先生達の教え方は、バラエテ
ィ
ーー
にに
富窟
みみ
、、個
・イ
個性
性的
的な
な先 生が
多かつたと思います。︶
・塚原先生︵古典︶
いつも口癖で﹁どしがた
い人達ね!﹂と嘆かれて
いました。︵”回生中西
・山西先生︵日本史︶
正知︶
ナイスミドルということ
一・﹄う︼一龍畢宰壁詫聖一W左一帳一一一夕一・毎︿チ
インデーのチョコレートはす
・山迦先生︵数学︶数学の
ごかった。︵別回生八尾裕子︶
問題を﹁パララッ﹂と言いな
族を再認識中。︵妬回生坂本
?・一です。
A・子育てから離れた後は陸︵皿回生永田美穂︶
の自分自身の第二の人生今一一・メール友達募集中/・
ろいろ︶
︵円熟期あり、子育てまつ肢伸夫︶
中あり、西揃卒堆生の人生い.人生はいつもピュアなまま
ください?
Qあなたの今〃を教えて・単身赴任の境遇Iなh家
鍵蕊鳶蔵義蕊
代。︵8回生池松潔︶ました。兎回編集部一同︶辺
代のつもり、まだまだ青春時った皆様、ありがとうござい
的にも肉体的にも、まだ釦歳アンケートに回答してくださ
・昨年還暦を迎えたが、精神
ています。︵犯回生西田隆徳︶生朗︶
いずれ長崎に帰りたいと恩ったいものです。︵妬回生内野
直子︶
鱗撫騨欝蟻叫矧
懐かしく思い出して下さい。
︵各クラ ス で ア イ デ ア を 競 い 作
た眼を開かせることに成
−た言たか︾︽ぞ⋮.
.[裸のビーナス]を歌う郷
・弁慶勧進帳︿久間先生﹀
作りはなぜか全
ひろみ︿天野先生﹀︵妬回生商
功!
一疹加。︵鈍回生八
野しおり︶
︵”回生中西正知︶
裕子︶
・ハクション大魔王︿田崎先
︵”回生吉井恵理子︶
・ザ・ガラクタ
彦︶
生、土井先生﹀︵蛇回生噌川明
・エースをねらえ︿伊東
音楽隊の よ う な も の 。 ︵ 8 回 生
・水戸蔽門補習はいや
高垣悦子︶
・理科の白衣なぜかパレー
︵8回生池総潔︶
やめて茄鉾にしろ﹄と一喝。
・ギタークラブのコンサート
Q・どんな淡目や、出し物が
マスター自分のアレンジし
印象深いですか?
︵運動会と並んで、もうひとつ
︵妬回生奥田義彦︶
曲を油奏、気分は最高!
行行
事事
。文
文化ク
の秋
秋の
のお
お楽
楽し
しみみ
ラブ〃おひろめ会“︶
A・前亦塗丞のファイヤー
ストーム﹁ああ夕陽
︵せきよう︶山に燃鼻璽皆
零
西高独自のファイヤース
唇駐
土
∼あの頃の私達∼
袋
一
q
』
j
迫る丘の上∼﹂で始まる
:扉・・⋮ムの歌かあうた︵三︾回生
・夜食の う ど ん に 、 も や し を
F 尾 。
当時の高校時代の汗も、笑いも、涙も、
│
鯉
西高創立50年を振り返り、卒業生の皆
様から思い出のアンケートを募りました唇
霊
雲
狩野裕光︶
入れようとしたら、モヤシ先
生︵斉藤先生︶が﹁モヤシは
B・F.Fアンケート
第一回
…
ン
…
第二回
第三回
7 6 6
26287
へ へ へ
日日日
日日日
れ晶式・“..︶・た一号中窪蓋一一”言毎三・一:こ安
くしてよ∼﹂というお客さん
たくさん売れた
おねえさんたちに﹁あのだい
がやってるフリーマーケット
お母さんの西高の時の友達
くといいね。﹂とにこにこ笑っ
なんだ。お客さんが買ってい
たほうのおれいさんが﹁そう
のだったんだよ。﹂と言うとか
にのっているぬいぐるみ、私
お客さんをうまくまるめこん
のお手つだいに行きました。
ったと思いました。そのすぐ
て言いました。私はあ−よか
匿川美沙︵小4︶
で︵笑︶売りさばいていまし
んは、﹁今日は、あんまり、絵
電車に乗ってるあいだお母さ
もいらっしゃったのですが、
た。私はただポーッとみてい
妬回生はみんな商売上手で、
ただけなのですが、予想に反
さんが、そのぬいぐるみをよ
あと、高校生ぐらいのおれい
校生ぐらいのおねえさんが、豆の
ろこんで買いました。その高
くなくてちょうどいいね。﹂と
ームからでると、とても暑く
−、よかった、このぬいぐる
言いました。でも、施耶のホ
て、お母さんの言っていた事
のでビックリしました。
卒業してから何年も経って
と、大ちがいだなと思いまし
して次々に品物が売れてゆく
いるというのに、こうして一
﹁あ、売れた。﹂とつぶやくと、
致団結して、普通じゃやらな
がいました。そのおねえさん
が﹁あ、おれいちゃんの人形
あの笑ってくれたおねえさん
って買っていきました。私は、
回生のみなさんの当時と変わ
した。私がお母さんに、﹁店ば
たちは、アルバイトのようで
売れた。﹂と一富いました。私は、
売れたね。﹂と言うと﹁うん、
みさがしてたんですよ。﹂と言
の調子で同窓会に向けてます
らぬ愛校心を感じました。こ
んしてもいい﹂と聞くと、﹁い
そのおれいさんが、私のこと
いてみると2人のおねえさん
私は、長崎西高妬回卒業生
いよ。でも、お店の方は、日
た。ついて、お店の方をのぞ
が主催するフリーマーケット
ますがんばって下さい。また、
があたっていてあついから、
いようなフリーマーケットま
あたる今年の在京同率愛ェを未
令のもと、西高創立印周年に
に、6月7日︵日︶だけ参加
フリーマーケットという企画
でやってしまうところに、妬
来への礎にしようと衝戦した
はとてもいいと思うので、ぜ
です。約、分間だけ、いつ−ぱ
れたのがすごくうれしかった
させていただきました。母は
とけば﹂と言いました。でも
いお客さんがあつまりました。
ので一部ここに紹介させて頂
しいと思います。
私は、﹁え−やだ−なんかはず
その中で、わかいお母さんが
を、おれいちゃんと言ってく
アンケート調査では帥年と
季節に似合わずとても寒い日
かしいもん。﹂と言うと、お母
お店で売っているぼうしかり
いう歴史を持つ我が長崎西高
でした。それなのにこうして
さんは、﹁じゃ、タオルかぶつ
子どもづれでお店に来ました。
ひこれからも続けていってほ
のイメージ調査を︵あわよく
るみなさんの団結力や同窓会
早朝から集合して準備を始め
とけば。﹂と言いました。私は、
準備のために朝早くに会場へ
ば、総会時のゲームの材料に
に対する意気ごみには、とて
よ1,
の話が出来る事は楽しかった
た。高校時代の友と理屈ヌキ
い血を吸う目的で企画しまし
ュア・エイジ・クラブでは若
止まって品物をみていってく
で、何人ものお客さんが立ち
みなさんの呼びこみのおかげ
くさんの店が並んでいる中、
店を見つけました。他にもた
くして会場へ着き、母たちの
そして父と妹と私もしばら
思いました。私は思いきって、
ねえさんたちと遊びたいなと
んがいました。私は、あのお
いしょに見た2人のおねえさ
方に行きました。すると、さ
た。タオルをかぶるとお店の
よりは、ましかなと思いまし
ま、売りもののぼうしかぶる
よく売れるね。﹂と言われまし
から、おれいちゃんのものは、
さんが、豆の、本当だ。さっき
売れたよ。﹂と言うと、おれい
れいさんに﹁私のティシヤッ
買っていきました。私は、お
ていたティシャッをいっぱい
そのわかいお母さんが私のき
ットでは妬回生である我々幹
フリーマーケット開催︵明治
も感心しました。
公園にて︶
事連の意識高揚を、そしてピ
しようと 思 い ︶ 、 フ リ ー マ ー ケ
向かったのですが、その日は
設楽ちひろ︵中日︶
参加して
うじIマーケぃ琴一卜に
月月月
きます。
さん︵通称、緑チャン︶の号
︵?︶いや、幹事長である村田
始まりました。我々のお局様
から我々妬回生幹事の悲劇は
崎センタービルに集合した時
在住の西高同窓生が銀座の長
思えば今年の初めI東京
-50周年総会一
3
た言私は.うれ⋮︶かラたです“
私は、次にほかのお店を見に
朋西高同窓会夏祭り
市である妬回生の中力ら世話
人を出し、多くの若い世代の
2時過ぎには残念ながら雨
一みません力
参加しました。実は、フリー
6月犯日、7月妬日の2回
をしたメンバーも居たとの事
ら泊り込みで宴会の﹁練習﹂?
には張り切りすぎて前の晩か
外伝によれば、世話人の中
いの近況を語りあって﹃長崎
を越えた仲間が集まり、お互
郷いでしたが、ひととき世代
スポーツイベントはできず仕
が降り出して、予定していた
マーケットは何回も経験済み
配回生庚川純子
んが、ネックレスとブレスレ
トがありました。私は、ねだ
でしたが、西高同窓生のみん
行くと、かわいいブレスレッ
ットをあわせて、四百円で、
参加を得る事ができました。
たかかったけど買いました。
西高﹂の同窓生としての結束
です。
した。
を深めた楽しい一日となりま
BONDSFOR
FUTURE
を買って出る者、犬と遊ぶ子
ケート、窺簿整挫噸フリーマー
このテーマのもと、金員アン
l未来への紳I
供達縄と周りも羨むようなチ
し、料理を手伝う者、子守り
っていても自ずと役割を分担
高﹂という共通項の賜物、黙
りでしたが、そこは﹁長崎西
面の人も多かった今回の集ま
集まったメンバーには初対
なと一緒というのが何よりも
ピュア。エイジ・
おねえさんにみせようと思っ
ひっくり返したような大雨に
雨でも楽しい
︵iベキュー大会
クラブ
新鮮でした。途中、カンカン
先生に見せると、﹁かわいいし、
も遭いましたが、どんな時で
照りで暑かったり、バケツを
オシャレだね。﹂と言いました。
もみんなの笑顔が、あの刀歳
ので、ちかくにいた、みどり
私は、うれしかったです。ば
の頃と少しも変わってないの
たけど、どこかにいっていた
かにもいろいろ買いました。
が、一番うれしかったⅡ
実際、他のどのお店よりも
とうとうフリーマーケットが
終わりにちかずきました。フ
ケット、リサイクル回収、若手
去る9月妬日土雌日埼玉県
鉛回生松尾和成
は浦和の近く秋ケ瀬公園にて、
りを、先祁千万に﹁オイ、オイ
時には、私達の純粋な突っ走
売り子さん︵妬人ぐらい︶が
多く、異様に目立っていまし
にあり、ピクニックの森を中
浦和駅から車で訓分ほどの所
リーマーケットが終わると、
たが⋮。時々長崎弁でおしゃ
かれました。
待望のバーベキュー大会が開
会開催と、多くの新しい試み
お母さんの友だちたちの前で、
べりしながらのおにぎり︵毎
ームワークを発揮した一日で
﹁今日は、おつかれさまでした。
回菅井夫妻のお手製︶も、格
の悩みもどこか遠くに吹き飛
て⋮﹂、﹁白髪がちらほら⋮﹂
﹁お腹が雌近出てきちゃっ
野生味溢れる料理を囲んで、
卵余人十犬2匹の参加により、
鯛回生と妬回生までの翠家族、
を若さの箪頭に羽回生、泥、
かったにも拘わらず、妬回生
当日は朝から雲行きが怪し
紙飛行機を飛ばすにも最適な
ボール大会やドッジボール、
こいの場所です。
バーベキュー大会にはもって
心に大きな広場が隣接した、
とても素敵な巡り合いの季節
をを今一度感じさせてくれた、
達というかけがえのない存在
されたり⋮etc・当毒奇枠事
チョット待て!﹂と叱嘩激励
をさせていただきました!
今日、お手つだいのちびっこ
ばしながら、さながら﹁肥西
中にサイクルロードが走り、
広場があり、周囲には、緑の
会場となった秋ケ瀬公園は
たちです。おつかれさまでし
別でした。
した。
た。﹂で終わりました。
高同窓会夏祭り﹂のようなこ
を楽しむ事ができました。
ひとときのアウトドアライフ
念行事の一環として、﹁若い世
今回の行事は創立印周年記
ら大人まで家族で一日過ごし
りも楽しめる、小さな子供か
近くの池ではブラックバス釣
HEARTが皆様に伝わりま
でもありました。
同作妙奉の楽しさや大変さ、友
間が大人になり再び集い、協
のこの1年は、一勧校時代の仲
の企画を、参加している誰も
代﹂にも在京同窓会を楽しん
すよう、願いを込めて⋮あり
晴れていれば、皆でソフト
が楽しんでいました。集まっ
イベントとしても大成功に終
ても飽きない自然あふれる公
当一苛枠事長上瀧緑︵妬回生︶
そんな私達のピュアな
わって心から良かったと思っ
でもらおうと企画されたもの
がとうございました。
た商品もほとんど完売でき、
ています。参加した皆さん、
園です。
皆さんもぜひ一度足を運ん
で、その名も﹁ピュア・エイ
ジ・クラブ﹂として、当悉幹
3日間一雲暴“様でした!
卒
巳回生一三候会﹂
力その総数を数えてみると
り気味で、今回も⑬名しか参
会費千円を納める人の数も減
会を開催しているが、段々年
ころ5年毎に泊まりがけの総
したのでご紹介します。松尾
方︶へハイキング遠征をしま
続きオーストリア︵チロル地
は2年前のスイス遠征に引き
︵水︶第皿回生卒ハイキング部
7月鯉日︵金︶∼8月5日
たことです。
ング、景色と観光に専念出来
いし、もっぱら隊員はハイキ
ことはプロの松尾隊長にお願
す。全体に関して写真をとる
倍増出来、もう一つは写典で
ケーションを図り、楽しさを
もいて、従来以上のコミュニ
受けて、2年間準備された人
間程度道に迷い大騒ぎ、又は
イキングで隊長と隊員が1時
した。
光オンリーもチャレンジしま
り窓へ最後にベルギーへの観
グ、オランダの風車と〃かざ
ルック、音楽の街ザルッブル
にチロルの西の古都インスブ
他には、ハイキングの合間
ることが出来ました吟一
加しなかったが、島原の南風
隊長、近藤副隊長︵オランダ
亭手はPC扇盾冒の一角24
ス、︾バツ語の通信講座を
模で楽しい一日を過ごすこと
駐在︶のもとに隊員女性6名、
の扇自存ヨョの山々を見ながら
00,級の岩の切り立つ
第巳回欧州の旅
が出来た。東京二八会からは
男性2名の合計加名が参加し
男子247名、女子163名
4名参加、また内8名はゴル
ました。前回の経験を活かし
計410名であった。このと
フもやった。総会宴会後も二
車で移動中に追い越しをかけ
に対する気圧と空気の薄さに
冨&の夷o耳の岩場を登り標高
らし、次は2760mの山
し手を骨折するというアクシ
干1名ではりますがスリップ
の最後に後100mを残し若
て危機一髪の瞬間あり、最後
いろいろな事があります。ハ
しかし、大人、人集まれば、
部屋に別れて皆遅くまで飲み
局の努力でかなり正確に会員
慣れました。この時は頂上か
の。、呂湖を一周して、足腰を慣
の動静を反映した名簿を更新
書面ではチロルの良さ、旅
て、反省も含め英会話のレッ
うとしたら、健忘症なのか、
してくれたが、なんと死亡が
行の楽しさ、仲間のすばらし
を兼ねた5回生の歴史と現状
八会﹂は続けようという事に
なる。帥歳になるまでは﹁二
と遍%が居なくなったことに
z胃号へ4時間半のハイキン
に2335mの山国芝g静?
度は山あり谷ありの体力強化
により心にくいほどのストー
隊長の1年前から現地の調査
体をまとめる心配り、近藤副
面をお借りして松尾隊長の全
申し訳ありませんが、この紙
っとも変わらない。また事務
さっぱり覚えていない。代わ
ら3797mのg陣のg島︲
さ等を十分に表現できなくて
かつ話し合ったが若い時とち
りにといっては何だが、西高
鉛名で一割を越えている。音
を眺める事が出来ました。今
言胃の雪に囲まれた氷河の山々
アンケートについて答えよ
卵周年記念、5回生卒業妬周
廻名いるので、それを入れる
信不通で住所がわからぬ者が
について書かせていただく。
の訓練を集大成するがごとく、
グをしました。最後に今まで
デントもありました。
れに出席したので、その報告
年記念同窓会が開催され、そ
5回生は男子245名、女子
で、今からが同窓会は楽しい
なったが、皆停年も過ぎたの
が出来、隊員一同感謝する次
162名、計407名が卒業
とも言える。ゴルフや囲碁将
の言置農房目行山へ頂上を目
谷の詩昌の街から30gum
天気に宙噌まれ、○冨旦・崖言いの
かの声もチラホラでてますが、
また次は何時に遠征しよう
だき無事に大遠征を終える事
リーある計画を提案していた
事務局長深堀一敏君で﹁二八
棋だけでなく、山口松博君が
した。現在、会長高橋市郎君、
様々なアクシデントを乗り越
え、予定の山行を全て消化。
会﹂を組織し、折りに触れ集
まっているが、深堀君の話に
や、俳句和歌等﹁二八会﹂同
の笑顔
牧歌的世界に大満足した一行
遠征の報告とします。
楽しかったオーストリアの大
腿回生佐藤院
峰がつながる360度の展望
の世界を思わせる景色をも見
ができ、かつ牧歌的なハイジ
この一週間で最も素晴らしい
始めたグラウンドゴルフの会
よると、卒業はともかく、同
人雑誌でも出来るかもしれな
第です。
じ学年に在籍したものは誰で
い。とにかくこれからが長い
指して登りました。この日は
も加入OKとしたと言い、し
のである。
5回生山口義人
たがって名簿にのっている者
の総数は425名となる。卒
業に際し、記念写真を撮った
グ
mm皿加
新宿ルミネ・ホールアクトに
票商在京同窓会か昌麗認盟
東高在京同窓会
が用意されていた。
イズ等、盛りだくさんの催し
の挨拶や、東高にちなんだク
下校長を始め6人の恩師の方
に交代となる報告があり、川
回生︶から古川さん︵猫回生︶
がらの解放的でアシトホーム
も心地よく、広場も利用しな
したが、手作りの感じがとて
り、約和人位の小規模な会で
参加者の興味をひく企画もあ
ただでお持ち帰りコーナーと、
物産シ一一・孟琴ブ手作罷六ザ.L
て開催された。
全体的にはまじめな感じが
の初々しい若手も4人参加さ
ロー︽︾巳。一躍昌一輩一一亘圭鐸一八︾へ一F﹄一F一画一F雲器恥罰一目垂︻一・ユ恥牢一︵宇一醒宰吟一
天気にも恵まれて約300名
強いが、西高同様、同じ長崎
れており、幅のある年代がよ
当日は.西高の将来を示す
あり、ゴルフもさることなが
の参加で、西高同様訓周年と
出身の雰囲気があふれており、
くまとまっている感じがしま
長崎西高在京
至夏回唾統三露2回一三二
シングルの腕前のパートナー
ら他のほうで力を発揮して、
言う事も有った為、異様な熱
同窓生ではない私でも充分に
優勝は中村君︵旧回︶
かのような素峨らしいゴルフ
が平成9 年 n 月 晦 日 ︵ 土 ︶ 、 千
気の中でのスタートとなった。
楽しむ事が出来た。
只、一つだけ悔しかったの
今回は3名の女性の参加が
ました。
日和のなか、熱戦が展開され
葉県茂原市の房総カントリー
が大たたき︵ゴルフ始めて以
私も寺井会長、藤島顧問と
第巳回ゴルフコンペ
クラブ東コースで、記名を集
来最悪のスコア⋮本人の弁︶
共に本年度の当番幹小の代表
は、西高にはないインターネ
ットコーナーが設けられ、東
こし、訓年の歴史を感じさせ
も若い世代の卒業生を掘り起
今年は我が西高在京同窓会
した。
また、今年卒拳亡たばかり
な楽しい同窓会でした。
め開催さ れ ま し た 。
ではの楽しい一幕もありまし
をするといった、同窓会なら
った為、東高出身の従弟︵虹
として初めて参加する事とな
回生︶を無理矢理引き連れて
高在京同窓会のホームページ
結果は大方の予想に反して
た。︵?︶
︵すみません!︶中村君が優勝、
出席をした。
幸い、我が西高在京同窓会ま
が展示されていた雛であった。
皆さんが楽しめる会になれば、
ます。老若男女、先誰後雅の
る総会を開きたいと思ってい
新宿駅で待ち合わせをして
運がよければ催藤岬できること
た。︵ダブルペリア方式︶
では、まだ半年が残されてお
を身を持って示してくれまし
いる時に、東商のはつぴを着
り、それまでには西高在京同
当稀紳邪としても幸せではな
っており、従弟は初めての参
た案内係りの方が数人前に立
いかと思います。
H羽・8N乃・2︶
と心に決め、会場を後にした。
窓会のホームページを作ろう
南高在京同窓会
北高在京同窓会
妬回生田尾正行
から遠く離れた東京で長崎東
高と言う文字を見た瞬間から、
った。
感激で一杯となった様子で有
月鯛日︵二曜日︶東京都
如月配日︵金︶丸ノ内の郵
長崎北校同窓会東京支部発足
京同窓会に出席した時も、東
船ビルにて、長崎北校同窓会
過年前に私が初めて西高在
妬回生内野生朗
加という事も有った為、長崎
1位中樹術︵弱l幻l叩
2位石橘圃畷︵ぬl⑲l
兜H型・0N惣・0︶
3位西村敏︵“I蝿I蛇
H娼・0N惣・0︶
B・B永田園︸守︵万l師
I剛H詑・0NⅧ・0︶
東京支部の第1回総会が開催
されました。
庁の中にあるプチモンドで行
に、寺井会長他役員の先誰方
われた、長崎南高在京同窓会
と一緒に、当番枠躯妬回生を
た事が思い出された。
開会後、数人の友を探して
流を醤い合いました。
者が出席し、今後の末永い交
京で歌う校歌に非常に感激し
いたところ、同回生で同じ運
ました。
代表して出席させていただき
西校在京同窓会からも代表
であった友の弟︵泥回生︶と
したカフェテリアで、長崎の
会場は都庁の中の広場に面
動︵水泳︶を通じての大親友
を咲かせる事となった。
出会い、しばし思い出話に唯
6
長崎西高在京同窓会・幹事名簿
山崎比呂志
村田征仁
狩野信二
,│'尾智子
‘1,恥加代子
輔川明彦
葛西隆
Q︼︽b旬04詮1︽戸UR︺貝︶4君向乙只︾nU1△nU︹bq︾︵己でlnU1−PD︹U︻rワ︾ん詮P。︽CQ︺nJPDPD句。、。、︶Q︶1▲6Q︶︽Uワ︾︽D︽○
︵Uq︺︵DnU旬f︻りん老”f︽D1壬nUPD︵U,]︵b︽ひ︹。R︶︵U”fQ︾Q︺q︾︵己旬in︺1︽︵U痔rnUのdR︺Q︾R︶︿U11Q︾、d︽J︽○︵0.4
F、ハロ戸、戸。ワ︾Q︾ワ︼毎1,.1︽負︶︵Und︽bQ︾へdワ﹄︵U勺上へ。Q︾︽。︵U︿Uのるん竃ワ︼”fワ己︽b一口︵ろ︻rワ︼︽DP、5戸○1︽︽b︹b毎J
木戸川充彦
掛,剛批子
粟津智之
14noPDq︾庁J︿Uq﹀n﹀庁f毎J守上q︾4今﹃上の色PDR︶︽b再fQ︺司上〆bワ︼Q︾、︶︵UQ︾nUの。︽○毎Jj4戸0︵U旬QFD︽ご︻r﹃L︽。Q︾q︶
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
理塑酪錨鯛型艶艶鯛ね妬田拓鎚弱卵犯訂加硫露師翫鯉誕ね瓢、認訓師鯛妬測伽娼誕昭幻瓢配哩
一7
一7
一3
一4
一一
8一
8一
23
4−
27
−−
53
一4
一1
一3
一0
一7
一5
43
97
一4
一9
一3
一1
一3
4一
8一
25
−3
33
9−
33
93
75
39
−−
4−
33
45
75
93
3
4
7
6
4
42
47
47
45
48
43
4−
33
46
45
46
47
47
47
48
46
4一
3一
32
42
48
42
47
4−
35
43
42
4−
3−
37
4一
3一
3一
38
44
45
4一
3一
3一
3一
3
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
斉藤脚
03-3425-9738
03-3994-6748
03-3956-0960
043-278-4474
0473-24-4725
小林敬旦
狩野祐釧
平井吉当
後田春篇
藤島満q
吉川悦猿
臼井友理ラ
03-3934−6263
0424-84-4887
いよく響き渡った。あっけに
独特のハイトーンの歌声が勢
は馴染みのサウンドが流れ、
ら、懐かしい、僕らにとって
ら調整してきたスピーカーか
ときのために開場3時間前か
がステージに注がれた。この
高田先誰より、総会、幹事会
年初に、前年の当番幹事、
気分で当番幹事の年を迎えた。
何とかなるだろう﹂の安易な
な励ましが心地よく﹁まあ、
な状況だったから﹂という妙
方々からの﹁我々も似たよう
れていた。先雅の当番幹事の
してしつの頃か皇か登録さ
誰の方々の叱略激励を頂救し
常任幹事や各学年幹事の諸先
中村副会長をはじめ、顧問、
マイルストンに、寺井会長、
り、スタート。幹事会開催を
期のメンバーも加名程が集ま
用させて頂いた。
間のバイブルとして大いに活
でいい。やった!﹂何とも言
から見て取れた。﹁よし、これ
人、様々な反響が司会の位澄
なの?と不思議そうに眺める
理されており、これから1年
るファイルは、きっちりと整
ズで優に皿センチの厚さはあ
勘所を伝授頂いた。A4サイ
関係の盗料の引き継ぎを受け、
た餓品が思うように染まらな
ションで罰いた。予定してい
ることができた。
ながら、なんとか順調に進め
毎年恒例とは言え、蛇歳の
厄年に在京同窓会の持ち回り
て私は、と言えば、ここ数年、
当番幹事が回ってくる。そし
同窓会総会への出席者が、1
名ないし2名という極めて成
縦の芳しくない学年の幹事と
当番幹事に一任して頂き、再
アトラクションの出し物は、
なことはない、等々。結局、
る人はいないよ、いや、そん
ンネリ、景品目当てに参加す
すると、クイズやゲームはマ
い。幹那会で協力のお願いを
が、9月になり、アトラク
えぬ安附感と充実感が心に広
準備の方は、コアになる同
とられている人、本当?本物
123466788,廻理理晦逼躯通過廻加加迦塑羽泌泌塑弱妬妬諏鎚鯛瓢錦妬犯羽如蛇拓鞭
幹幹幹幹紳紳紳紳紳幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹紳紳幹幹幹幹幹枠幹枠幹幹幹幹幹幹幹幹幹幹
﹄官■■a■■■■酉■■■■︾■■■■ロ■■■■■凸■■■■■■■コマ■■■■室■■■■■■■■■■■■■a■■■■二■■■■︾“■■■句a■■■凸■■■■一岳■■■酉隼■■■字■■■■■▲■■■a■■■■一■■■■一■■■■︾■■■■己▲■■■a■■■■一■■■■一■■■■一■Ⅲ小■︾■■■■ロ凸■■■■凸■■■ヨニ■■■■■■■■一■■■■字巳■■■ロ■■■■■■■■■ロ垂■■■“凸■■■■▲茸■■■一画■■■−
1■宜■﹄■。aF■▼。■■■二■”凸■■■P■■ェ■■■■叩▲▼▲P■■■▲■上■L■。■。■。■r・■Far凸■凸■、■■■日凸甲凸■里守一口■■■■
▲■■甲画■﹄申勺■﹄■▲■L■a■■。■■字F■F画■■﹄■■■■■■E■﹃岳守守。■■■今■﹄■一曲L■L五一口戸■吟守■■﹄●一■垂■■L■一qFTF画﹄画二百壱画曲■﹄岳一■L■▲1写字再■・■二■画可庵■﹄申毎■一寺凸■﹄■︽■垂■凸■才一一守宮一■■﹄可再■﹄耳■■﹄●卓凸込■︽■L■一凸L■﹃二巳一か▼F■︾で再■一画
池田弘
0466-88−1358
本田洋肩
がっていった。⋮⋮⋮
坂本伸夫
上瀧緑
0425-23-4334
0467-85-6792
畏艮災畏那那蛎堺蛎鞭馴堺砺事酬鞭戦
fffffffffffff
会会会榊僻蹴榊織鱗蹴鋤醗鋤榊鋤織
会副副副総溌繍撚粥術徽術常総常粥術
梁瀬三千代
03-3398-2317
何〃﹄一胡〃単銅剣UdqpP南山〆嗣辿飼刷凹も8G勺Ⅱ4飼引四4回a堺伊LFjJP猟L銅も画亀日凸点Jw
守口陽子
村田輝夫
044−987-1540
会場のラバトカ徐々I蹄く
西村劇
03−3370-0176
なり、スポットライトが中央
池田健二
遮謝実
田中仁
0436-43-1305
のステージを照らし出した。﹁ク
田近多恵子
0473-54-6251
リスタルキングの登場です。
浜本正幸
中村扶美子
上村常治
043-255-8145
どうぞ!﹂一瞬、会場にどよ
磯田玲子
0425-77−0164
めきがおこり、次の瞬間、方々
澗浦孝司
新垣恒噸
百瀬和子
柵淳敬
池松淵
械田喜美子
>l'山雅子
谷忠耐
03-3396-0481
のざわめきが消え、皆の視線
ロー気唾マー・榊挙qm5唾汽屡や。"早一弄弗4翫11'翠心 ヤF両LL部苛再弱
宮城孝
関町芳行
中尾晋士
045−823-9209
■
草野仲介
後藻大角l
福崎宏子
森山鰯
城戸克子
恩師斎藤実先生挨拶
03-3385-7131
第副回
在京同窓会を終えて
■
常任幹ヨIF
会針監査
0473-63-1394
同窓会便')
mmi
自宅/TEL
寺井一轍
野田典戸
lllllllllllll23
や Q 口 凸 P ・ 可 ・
n ・
mmi
m.mi
03-3303-6357
i
m
i
mim
Mi│!ll
03-3999−9135
中村篭
永田国笥
今村鯉二
水山素リ
内堀勝乏
木村一脚
油屋和子
吉雄敬、
楠 篭
浦田信恩
石堂武ii;
男沢浩一
持永鼻
水城裕三
伊礁利用
0429-95-1654
氏憩
役騎
1998年10月現在
弦楽四重妻
ア
I
﹃〆斗
‘
0
四壱Ⅱ
一一一
職
篭
稲
妻
│
“
噌
● 句
ロ
下
鰯‘1
割一
麓患
鱈患錘
会場の風景(輪になって二コ1,
本物1クリスタルキングのステージ
窯
潔輔屋罫権蕊
塗
噌&鳶農かれン上いで頃を
す
割言るく、層織:#傷耀
るを葉アメいん、出弁、に
こ忘に卜リかで肝‘活が会、
とれ、ラハにし心や飛場ア
例年、総会を盛り上げよう
鰻
郷
湖Wそ剛織熱
し'Kンいいいう告、らシリ
検討することになった。
満
翻鞄
と、ア‘トラクションにそれぞ
て当クリもまの近びの|、の
会
零第24回長崎西高在京同窓会 総
25回生と同総会役員の方々との記念撮影
とオつ不面かい2る徹ギ彼マ九し(
にピて調放したm弦談ヤら才、州て
なジしで映のIll生楽中ラのl出い幸
つユまTのビi胸の四に、
/ミジ身る↓
蝿な錨
甚湖│澱総量門冊滞
が面だ.様さの朋心ンとスの楽
淡、-/でつl子ん生音にサいタ木Iv
出とのたナをよ減大、iうル戸務
でオ鑑がl映り奨学開卜こキー所
臨l賞、へし提、生場/-、とン成を
画舗茜侭腕瓢イで箭灘
会場の風景(料理を前に:
苧
│
− − − . − − 4 1
竜
肉
;溌識撫燕
クリキンと記念スナップ
編・集・後・記
▼いやあ∼、ばんまに疲れた。
ぶって下さい。︵哲︶
恩師の皆様、内容には目をつ
▼初めてで最後のコミュニテ
てことは絶対ない。︵磯︶
ィ締集、クセになりそう。っ
▼みんなで一つの躯をやりと
げる楽しさを、久しぶりに味
わう邪ができました。︵利︶
璽畷腿
るが、今回は超越してた。︵義︶
:
緩
▼人間には色々限界が存在す
i
m
▼思った以上の難作業で、冗
淵
なまじめな私達でした。︵純︶
細
談とばす余裕もない、まじめ
⑳谷口利恵子
スタッフ⑧永田美穂
⑳野口義徳
の伊藤利和
⑳庇川純子
⑳内野生期
⑳三浦哲朗
⑳奥Ⅲ義彦
⑳磯Ⅲ寿
﹁コミュニティ﹂第肥号
平成加年n月皿日発行
発行人宮本喜代子
戸01の空1句OIF、ハU可上︵碓小牢狐︶
発行所長崎西高在京同窓会
〒伽︲岬東京都立川市錦町
窓04251詔14334
8
撫
雛
職
I
黙
熱
紬i害撫鞭騨緋醐純謬織鯛
校歌
畔をあげよ涯遠く
風かがやかし丘の上
こころは清く漂として
眉秀いでたる砦人よ
自律の園をまもらずや︵くり返し︶
ああ新生の歌 声 に
わが山々よこだませよ
一一
r
一一‘一二一国
明るき学園の窓ひろく
白亜に映る空青し
眼はひろく陰騎なく
自由にたてる創造の
=
1...9企〃一蓉図停呼90曾$宜啄・畠︲蓮や6.、
PB一
一
一の③函二○・︽一の
蕨.
叡智は薫るかんぱしく︵くり返し︶
ああ若々し学舎に
行く白雲ょほほ笑めょ
入江は深き新潮に
世界の船の集いきて
文化の蕊明あらしめし
歴史は旧りず永遠に
平和 の 鐘 は 鴇 り つ づ く ︵ く り 返 し ︶
ああ美しき長崎の
夢あたらしく花嘆けよ
︽弓ミ三一テ一筆長崎西高在京同窓会ニュ#ス
bondsforfutur
一 一
』二
三
Fly UP