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ウクライナからのスピーチ原稿 ヴァレンティン・ヘルマンチュク 尊敬する紳 淑 の皆さん、
ウクライナからのスピーチ原稿 ヴァレンティン・ヘルマンチュク 尊敬する紳⼠淑⼥の皆さん、尊敬する⽇本国⺠の皆さん、 私はヴァレンティン・ヘルマンチュクと申します。ウクライナのジトーミル市から参りました。 お話を始めるにあたって、⽇本国⺠の皆さんに対し、支援活動を⾏っていただいているすべての⽅々に対し、 皆さんの温かいお気持ちに感謝したいと思います。ご自分の抱えている困難にもかかわらず、皆さんは私たちの ために、チェルノブイリ被災者の治療に充てる支援をする可能性を⾒つけて下さっています。⼼にいっぱいにな っている感謝の⾔葉のすべてをお伝えすることは本当に難しいです。皆さんと皆さんに近しい⽅々のご健康と平 穏をお祈りいたします。 では、自分について簡単に申し上げます。⼩さな地区の中⼼地、キエフ州のポレススコエ町で、1950年7⽉7 ⽇に⽣まれました。1975年、私はチェルノブイリ原発の建設のため引っ越しました。原発の第1期⼯事が完了し た時、私は建設中だったチェルノブイリ原発の原⼦炉第1班で働かないかと勧められました。私たちの班は、燃 料棒の組み⽴てと原⼦炉への装荷に携わりました。同様の仕事を2号炉でも⾏いました。1082年、私は原⼦炉第 2班での放射線制御装置の運転員の仕事に移りました。事故の起こった時、私は原発で勤務し、家族とともにプ リピャチ市に住んでいました。 この町はチェルノブイリ原発4号炉から1㎞離れたところにありました。住⺠の平均年齢は28歳でした。特に ⾔っておきたいのは、プリピャチ市での出⽣率はウクライナの他の町の数倍だったということです。 極めて残念なことに、チェルノブイリ原発での事故は突然起こり、1⽇のうちに⼈々はほとんどすべてを失っ てしまいました。仕事、住まいを失い、重大な健康上の問題を抱えこみ、多くの⼈は数時間から数年のうちに放 射線障害で亡くなり、⽣き残った者たちはさまざまな病気で障害者になりました。 ⼼に痛みを覚えることなくして、事故後の最初の数時間、数⽇を思い出すことは不可能です。それは私の記憶 に⼀⽣残り続けるでしょう。なぜ原⼦炉が爆発したのか、最もありえないことが⽣じた時にさえも起こってはな らないことがなぜ起こったのでしょうか。1986年4⽉26⽇の朝7時、私と私の当直班を職場に連れて⾏くバスを 待ちながら、このことを考えて私の頭は割れそうでした。私はその停留所で、4号炉で事故が起こったことを知 ったのです。バスは遅れ、私は家に⾛って帰ろうと思いました(家は停留所から50mのところにありました)。妻 に、アパートを出ず、すべての予防措置を取るようにと警告したかったのです。その時、私たちには2⼈の⼦ど もがいました。10歳の⼥の⼦と9ヶ⽉の男の⼦です。しかし義務感と、家族には誰かが警告してくれるだろうと いう期待で、私は思いとどまりました。 職場に着くと、甲状腺をヨウ素131から守る錠剤が渡されました。私は⺠間防衛本部に派遣されました。事故 直後には、破壊の規模や空間放射線量を調べ、設備の電源を切り、4号炉の送電網にたどり着いてそれを遮断す るために建屋の破⽚を⽚付け、そして最も重要なこととして、稼働中の原⼦炉を停⽌しなければなりませんでし た。我々はこれらの作業を、1986年4⽉26⽇から27⽇にかけて⾏いました。線量測定器は2台しかなく、1台は すぐに壊れてしまい、もう1台はそれが保管されていた建屋が破壊されていて、たどり着くことができませんで した。原発職員たちは危険を冒して、課せられたすべての課題を遂⾏しました。4号炉の爆発の瞬間、主循環ポ ンプの運転員が亡くなりました。彼は爆発で建屋の下敷きになり、遺体はついに⾒つかりませんでした。もう⼀ ⼈は朝のうちに、⽕傷で亡くなりました。 チェルノブイリ原発の職員と救助にあたった者34名は、急性放射線障害に⾒舞われ、4⽉27⽇朝モスクワの第 6病院に運ばれ、数⽇から数ヶ⽉の間に亡くなりました。医療関係者のうち2名は、被曝した原発職員たちを護 送する際に被曝し、モスクワに残って治療を受けることになりました。 4⽉26⽇、私が職場に向かった時、妻と9ヶ⽉の息⼦は散歩しようと外に出、娘を学校に送って⾏きました。 息⼦は、妻によればなぜかすぐにベビーカーの中で寝ついたそうです。彼⼥は、説明できない息⼦の振舞いのせ いで、うちに戻らなければなりませんでした。被曝の危険について、街の住⺠たちに知らせる⼈は誰もいません でした。私の家族がどんな線量の被曝をしたか、どれだけの放射性の埃が体に⼊ったのかは、神のみぞ知るで す。 原⼦⼒災害の中⼼地となったプリピャチは、軍によって封鎖され、市外との通話はできなくなっていました。 モスクワ-フメリニツキーの列⾞は⾼速で、それまでは停⾞していたヤノフ駅を⾛り抜けました。⼈々は、チェ ルノブイリ原発事故の規模についての情報が明らかにされないよう、外界から隔離されていました。避難に関す る決定がとられたのは非常に遅くなってからでした。それまでに、⼦どもを含むプリピャチの住⺠たちは多量の 被曝をしてしまいました。避難の⽇、プリピャチ市の空間線量は、基準値の500倍を超えており、時々刻々と線 量は上がっていきました。もし避難が2⽇遅れていて、放射性物質を含む雲から⾬が降っていれば、避難すべき ⼈はもはや⼀⼈もいなくなっていたでしょう。 1986年4⽉27⽇15:00、私たちは家族を避難させるため帰宅を許されました。ラジオの放送では、必要最⼩限 のものを3⽇分――⾝分証明書、⾷べ物と⾐類と持って出るようにとのことでした。私は⾞を持っており、自分 の家族と妻の弟の家族(その時弟は実家のある村でジャガイモを植えていました)をキエフ州ポレススコエ町の私 の両親のうちに連れて⾏きました。プリピャチの⻄60㎞のところです。⺟が近くに住んでいて、⾏き先があっ たのは私たちにとってまだ運がよかったのです。他の⼈たちにとっては状況はより困難でした。彼らはホテルや ペンション、サナトリウムに収容されました。⼦どもたちはキャンプに⾏かされ、後になって親たちはウクライ ナ中で⼦どもを探し回ることになりました。プリピャチで近所に住んでいた⼥性が、ポレススコエで私たちを⾒ つけ、娘を⾒つける⼿助けをしてくれないかと頼みました。彼⼥は、⼦どもが⾏ったと思われるおよその⽅向を 教えられただけだったのです。 特に⾔っておきたいのは、避難のためのバスを待ちながら外に⽴っていたプリピャチの住⺠たちは、全くパニ ックに陥らなかったということです。勇気に満ちた顔は⽯の仮⾯のようで何の感情も⽰さず、ロボットを思わせ ました。お腹の大きさから⾒てもうすぐ出産と思われるような妊婦たちもおり、中にはさらに2⼈の⼦どもと⼿ をつないだ⼈もいました。夫はおそらく出張中か勤務中だったのでしょう。私はこの妊婦たちの⼼中を思いやり ました。持ち物をどこに置くのか、どう運んでどこに積み込むのか。バスの席は限られていて、⼦どもを含めた 3⼈分の服や⾷べ物といえば、⼿に余る重荷だったからです。 事故直後、政府は住⺠から健康状態についての情報を隠し、私たちには「放射線恐怖症」、つまり放射線に対 するいわれのないやみくもな恐怖という診断名がつけられました。その後、事故の影響についてのうわさが広ま り始め、そうでなくとも傷ついていた⼈々の⼼にトラウマを残し、恐怖感と無⼒感を強めました。その結果苛⽴ ちと不眠、⼀般的な健康状態の悪化が引き起こされました。 1086年5⽉1⽇、⺠間防衛本部は、ポレススコエ町の空間放射線量が上がってきており、⼦どもたちを即刻避 難させなければならないと通告しました。私たちはポレススコエから200㎞離れたジトーミルの、私の⺟親の親 戚のところに⾏きましたが、彼らはすぐに私たちを引き取ることに同意したわけではありませんでした。 避難者たちをどのように迎えたか、TVでの放送があったばかりです。私たちは怖がられ、汚染されていると 思われ、⾔葉で侮辱されることもしばしばでした。親戚のところに⾏ったものの、門前払いを⾷わされるという ようなこともありました。⼈々のこのような辱めや冷淡さに耐えられた⼈は決して多くありません。 妻が後に私に告⽩したところでは、避難者がどうなるかといううわさ、彼らを待ち受けている恐ろしい出来事 と病気についての話から、死にたくなったといいます(彼⼥はすべてを真に受けたのです)。⼦どもたちのいるこ とが彼⼥を思いとどまらせました。彼⼥は⼦どもたちの健康を守って闘わなければならなかったのです。 90年代に⾄るまで、私たち避難者は事故の被災者とは全然思われていませんでした。外来病院その他の医療 施設では、事故の影響に関連のある病気のことなど誰も耳に⼊れようとしませんでしたし、プリピャチ市のこと はどこでも⼝にされませんでした。それはすべて、⼈々が非常に体調を崩し、突然意識を失い、恐ろしい頭痛に 悩まされ、⼦どもたちが⿐血を流していたにもかかわらず、です。結果として私たちは障害者になり、多くはす でに亡くなり、まだ⽣きている者たちは甲状腺疾患、消化器疾患、神経疾患や循環器疾患、関節の激しい痛みに 苦しみ、腫瘍に罹る者も増えています。皆重いトラウマを抱えています。プリピャチ市⺠たちには、事故処理作 業者同様特別な地位を認めるべきでした。法律では、もし⽴⼊制限地域に4⽉26⽇から7⽉31⽇までの間、1労 働⽇(8時間)とどまったなら事故処理作業者と認定される旨規定されているのですが、私の家族やその他のプリ ピャチの住⺠は、そこに38時間とどまっていたのです。 1986年9⽉、私と私の家族は、エネルギー省から3DKのアパートを支給されました。アパートに⼊居しまし たが、私たちは何も持っていませんでした。服も、家具も、⾷器も。すべてはプリピャチに置いてきたのです。 私たちは床で眠りました。最初はまだ⽔もガスもなく、エレヴェーターは動きませんでした。9階まで⽔をバケ ツで運び、浴槽を充たしました。洗濯、⼦どもたちの⼊浴、調理に足りるようにです。⼦どもたちは⼀緒に、あ るいは順番に病気になりました。娘は授業中に時々意識を失い、時々原因不明の⿐血が出ました。医師たちは被 曝との関連を認めませんでした。 ジトーミルで⾒つけた仕事は、しょっちゅう出張がありました。妻は私のいない間大変な苦労をしました。⽣ 活条件、また⼦どもたちと妻が頻繁に病気に罹っていたためです。私たちは私の⺟親に⼿伝いに来てもらうこと にしました。彼⼥は、やはり介護の必要だった⽗を⼀⼈にして、ポレススコエからジトーミルにやってきまし た。⽗は1939〜1945年、戦争の全期間に参戦していました。残念なことに、私の両親は⼆⼈ともすでに亡くな りました。彼らの冥福を祈ります。彼らの⼈⽣には多くの試練がありました。1933〜1934年の大飢饉、第⼆次 世界大戦、戦後の経済復興、そしてチェルノブイリ惨事。 私たちは精神的、そして⾦銭的にとても大変でした。働いていたのは私だけで、お⾦は足りず、いつもなんと かやりくりをするという状態でした。体調がどうなるか、家族を支えるためにどれほど⻑く働けるか、あるいは 家族の重荷になってしまうのか、私にはわかりませんでした。私は精神的に大変つらく、自分の体調を家族に隠 すようになりました。彼らに余計な⼼配をさせたくなかったからです。 時とともに私は仕事がしんどくなり、⾼血圧の発作、だるさ、頭痛、めまい、吐き気がしばしば起こり、働け なくなって、病院で疾病証明書をもらうようになりました。職場では同情してくれましたが、仕事はしなければ なりませんでした。1993年、私は2級障害者の資格を与えられ、健康状態が理由で、⼒の許す限り残ってきた職 場を離れることになりました。 ⼦どもたちは成⻑しました。娘はジトーミル⼯科大学に進学しました。学費無料のコースには⾏けませんでし た(被災者として、法律上彼⼥にはその資格があるのですが)。国の予算の⼈数はもういっぱいだという理由で。 5年間学費を払いました。妻はその時もう働いていましたので、いくらか楽になりました。その後私たちは息⼦ が大学を出るサポートをしました。彼は卒業前の数年、仕事を⾒つけ、自分で学費の支払いをし始め、また給料 の⼀部は家計に⼊れました。⼦どもたちは私たち夫婦の誇りです。あらゆる困難にかかわらず、⼦どもたちは成 ⻑し、よい教育を受けることができました。私たちの⼦どもたちを知っている⼈たちからは、育ててくれてあり がとうとの感謝の⾔葉を聞くばかりです。今彼らも自分の家庭を持っています。 残念なことに、チェルノブイリ原発事故の影響は、何年も経った後にも私たちの娘を避けて通ることはしませ んでした。最初の妊娠は、検査の結果中絶することになりました。娘の涙と苦しみを⾒て、助産師は真実を語る ことに決めました。「あれは⼦どもっていうんじゃなくて、怪物だったよ」と。今、娘には2⼈の⼦どもがいま す。息⼦と⼩さな娘です。 このお話を終えるにあたって、私は被曝した国⺠への社会保障というテーマに触れたくありません。何もいい お話はできないからです。被災した住⺠の健康問題に対する国の無責任さは、年々悪化していくだけです。 2015年、サナトリウムでの療養の保障は、チェルノブイリ障害者だけに残されました。医薬品と病院での治療 は自⼰負担で、インフレを考えると、いくつかの輸⼊薬は私たちには単に⼊⼿不可能になってしまいました。今 ⽇、チェルノブイリ原発事故のようなことが起これば、⽣き残っている事故処理作業者たちは、事故処理に自ら 進んで⾏くようにとは誰にも⾔わないでしょう。 チェルノブイリの惨事は、ウクライナだけでなく、すべての賢明な⼈類に過酷な教訓を与えました。チェルノ ブイリ原発事故は、現存及び建設中の原発の信頼性と安全性を⾒直させ、それを向上させるための措置を取らせ ました。安全基準の些少な違反でさえも、また自然現象も、最も恐ろしい結果を引き起こし得ますし、それで苦 しみ死んでいくのは⼈々であり、⼦どもたちです。チェルノブイリ事故と福島第⼀原発事故は、自らの過ちを認 め、未来のための教訓を引き出すようにという、⼈類への最後の教訓なのかもしれません。 ご清聴ありがとうございました。