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第2章 作品と様式
第2章 作品と様式 第2章 作品と様式 37 第2章 作品と様式 はじめに 佐藤功一博士が建築家として限りなき多くの作品を私どもの社会に遺してゆかれたこ とは、日本建築界の発展進歩に大いなる足跡を刻んだものと申さなければならない。建 築家の仕事が人類社会を背景とする建設に重要な役割を果すものであるから、その建設 に従事した人々の貴い働きに対して私共は万腔のよろこびと感謝とを捧げなければなら ないことは申すまでもないことであつて、博士が作品の上に示された全生涯の功績には ただ絶対の感謝があるばかりである。 (今井兼次「佐藤功一博士と作品」1) ) 今井兼次によれば、佐藤功一が建築家としての39年間に建設(設計ではない)した作品 は233件 に及び、これは佐藤の作品が二ヶ月に一作づつ地上に建設されていった計算にな るという2) 。今井はさらに「先生の作品を初期、中期、後期の三段階に分類することを許 されるならば、大正8年頃までが初期と称せらるであろう3) 」と述べている。前述の「建 築家としての39年間」 という事柄と没年(昭和16年)をあわせ考えるならば 、東京帝国 大学を卒業した明治36年(1903)から大正8年(1919)を初期と見ているのであろう。 だが、筆者としてはこの区分には異論がある。まず大正8年という根拠が不明である。 序論でも述べたように、佐藤が小石川の私邸に建築事務所を開設したのは、大正7年8月 である。建物が竣当時の所員はわずか2名、住居の一部を製図室としていたということも あり、この時期の作品は、震災後と比較し明らかに精彩を欠く。むしろ、大正12年 (1923) の関東大震災以後、設計依頼が急増し、旧住居部分を全て事務所に使って「白 山匠房」と名付けた以降、すなわち佐藤功一のデザインが質量ともに本質的に開花する時 期をもって「中期」の始まりとすべきであろう。 一方、中期と後期の境界に関して今井は「後期の作に、博士最大の珠玉とも称すべき帝 室林野局庁舎(昭和12年) を挙げねばなるまい」と述べるのみで、明言を避けている。し かしながら、後述するように、帝室林野局が建った昭和12年(1937)以降の作品、 とく に庁舎建築には、晩年に近づいて佐藤が至った著しい新境地が見受けられ、それまでの建 築観と一線を画する時期として特化し得る。 以上のことから、本論では、初期(明治36∼大正 11)、 中期(大正12∼昭和9)、 後 期(昭和10∼昭和16)と 区分することとする4) 。なお、前述したように、佐藤の遺した作 品数はきわめて多く、それらすべてに言及することは不可能である。したがって、本章で 38 第2章 作品と様式 は各期において、とくに重要であると思われる作品、言い換えればその時期の佐藤の建築 観を象徴すると思われる作品を抽出し、論考を進めることとする。 第1節 初期の作品 今井兼次の区分によれば、「初期」は佐藤が東京帝国大学を卒業し、早稲田大学建築学 科の草創に尽力した時期であり、「博士自身が建築教育に心魂を傾けて子弟教育に没頭せ られておられたから、作品を世に出す機会も比較的少なく、おもむろに創意を練り、その 学述蘊蓄を実社会の建築に適用せられていた程度であった」5) 。 この時期の作品としては、建築家としての出発点ともいうべき東京帝国大学工科大学建 築学科の卒業設計「A PHOTOGRAPHIC STUDIO(写真館)」が重要である。佐藤が卒 業した明治36年(1903)の卒業生は 計8名。同期の卒業生たちのテーマは、以下の通り であった。 佐野利器 :A CEREMONIAL HALL 大熊貴邦 :A RAILWAY STATION 田辺淳吉 :A CAFE AND RESTAURANT 北村耕造 :A PUBLIC BATH-HOUSE 堀内智三郎:A PUBLIC LIBRARY 松井清足 :A MONUMENTAL PANORAMA AND ARMOURY 渡邊浚郎 :A MUSIC SCHOOL 佐藤の卒業設計は、左右非対称の全体像に「塔」を象徴的に附加している。この手法は、 シンメトリーを採用した佐野利器、松井清足、渡邊浚郎を除く他の卒業生たちの作品にも 指摘されるものであり、特に佐藤特有のものではない。むしろ興味深いのは、「様式」的 色合いの薄さとテーマ設定である。 佐藤の作品は、同期の他の卒業設計と比較しても、特に「様式」的性格が弱い。少なく とも、後に早稲田大学教授として表出するルネサンスを中心とした様式への強い傾倒は、 ここには見られない。むしろエントランス部分の幾何学化された装飾などには、当時最新 のゼツェッシオンの影響を指摘することもできる6) 。 また、切妻屋根を多用した素朴な作風からは、大建築への志向よりは小規模な「住宅」 的特質を見ることもできよう。実際、「写真館」というテーマ設定自体、「私的」性格が 39 第2章 作品と様式 図22 佐藤功一:"A PHOTOGRAPHIC STUDIO"7) 図23 佐野利器:"A CEREMONIAL HALL" 図24 松井清足:"A MONUMENTAL PANORAMA AND ARMOURY" 40 第2章 作品と様式 図25 大熊貴邦:"A RAILWAY STATION" 図26 田辺淳吉:"A CAFE AND RESTAURANT" 図27 渡邊浚郎:"A MUSIC SCHOOL" 41 第2章 作品と様式 強く、それ以前の卒業生の作品と比べても、「国家性」、「公共性」という点において一 歩引いた感がある 。その点において、以下の佐藤の述懐は興味深い。 明治三十六年、これは私共八人の卒業の年であつたが、十九年に工部大学が帝国大学 に合併せられて工科大学となつて以来建築学科の最高教授として立つて居られた辰野博 士が前年の三十五年に辞任され中村達太郎博士が中心首脳者となられてからの最初の卒 業生は私共であつた。前年度あたりから卒業計画はごく実際のものを主とするやうにと のことで、空想的のものや奇想を凝らさうとする傾向は薄らぎ厖大なプランは人々の避 くるところとなつた…中略…プランも小さく階数などの余り大きなものはなかつた。卒 業計画に対する教室の斯ういふ方針は私共の前後数年に亘つたように記憶するが、その うちでも私共のときが一番極端であつたやうに思われる8) 。 ここで佐藤は「一番極端」だったのは、明治36年( 1903)卒業生の計画に共通であっ たかのように記しているが、各々を比較して見ても、「学校の卒業計画を実際的合理的の ものたらしめ」9) ていたのは 、佐藤功一自身であったのは明白である。卒業設計ですでに 「住宅」への傾倒が見られると指摘するのもあなが ち的はずれではないように思える10) 。 この他、初期の作品としては、明治記念新潟県立 図書館(大正5)がある。ルネサンスを基調とした 総二階建ての建物に寄棟屋根を載せたもので、今井 兼次はこの作品を、初期における「佳き一例として 図28 明治記念新潟県立図書館11) 挙げ得ると思う」と述べている 12) 。 日清生命保険本社(大正6)は、き わめてユニークな作品である。この建 物は、橋本舜介の懸賞設計当選案に基 づき、佐藤功一・内藤多仲・松下新作・ 金田恭介が実施設計を行ったものであ る。3階建ての洋風の躯体に巨大な入 母屋屋根を載せた、和洋折衷の建築で 図29 日清生命保険会社13) 42 第2章 作品と様式 ある14) 。躯体部分はルネサンスを基調としながら、細部の装飾にゼツェッシオンの影響が 見られる。また、煉瓦と石による色彩的対照は、大正3年に竣工した辰野金吾の中央停車 場(現東京駅)を意識したものとも考えられる。和風の屋根には多数の千鳥破風が配され、 懸魚、鬼板などの要素も見られる。ピラスターからせり出した軒下の片持梁は、垂木を意 識したものであろう。佐藤はこのような洋風の躯体+和風の瓦屋根という手法をこの後も 数点試みている15) が、これほど大規模なものは珍しい。ただし、建物のデザインにどれだ け佐藤功一の意向が反映されているかは疑問である。 日清生命保険大阪支社(大正9)は、地上6階、地下1階という当時の世相を反映した 大規模オフィスビルである。しかしながら、意匠的には上質とは言いがたい。いわゆるア メリカ式オフィスビルの定型である三層構 成をとらず、基壇から上を一気に同意匠と している。露出された柱に挟まれた三連窓 は、敷地の制約からか、時に二連窓になっ てしまっているなど、デザイン密度に欠く。 建物が竣工した大正9年は、佐藤が私邸に 事務所を開設したわずか二年後であり、前 述のような悪条件を鑑みても無理もないこ 図30 日清生命保険大阪支社 とかもしれない。 大正11年竣工の下野新聞社は、佐藤の出身県である栃木県に現存する作品として貴重な 存在である。鉄筋コンクリート造3階建ての建物は、2階から上をドリス式のジャイアン トオーダーとしたルネサンス様式で、 軒下にはドリス式の特徴であるトライ グリフが彫られている。ここには佐藤 功一の「個性」といったものはほとん ど見られないが、反面「様式」に依拠 した時代の作品として、興味深い建築 である。 図31 下野新聞社16) 43 第2章 作品と様式 第2節 中期の作品 震災復興期以後の時代は、質量ともにもっとも充実した建築家・佐藤功一の黄金期とい える。この時期に竣工した作品数はあまりにも多いので、ここでは、代表的な10作品を竣 工年順に見ていく。 実業ビルディング(大正13) は、中期におけ る最初の力作といえよう。大正後期のオフィスビ ルの常道であった大規模なボリュームと三層構成 を採りながら、基準階部分の柱は壁と一体化され ている。一方、三層構成の「基壇」がきわめて控 え目であるのと対照的に、最上層を独立柱の列柱 によって古典的な構成としている点が注目される。 このような最上層の処理は、後の作品にもしばし ば見られる手法である。また、軒廻りをロマネス ク風にまとめるのも佐藤が好んだ方法であった。 図32 実業ビルディング この作品で特にユニークなのは、外壁の窓三つ?三層分あるいは二層分を将棋の駒のよ うに枠取りしたデザインである。この部分のみ石張りとすることによって、タイル張りの 全体像との色彩的対照も企図されている。赤煉瓦と石によるコントラストは、辰野金吾を はじめ、明治期以来の建築家がしばしば試みてきた手法であるが、いわゆる「辰野式」の ような法則性によらず、「感覚的」に素材感の差異化を試みている点は特筆すべき事例と いえよう。なお、建物の角を切り、建物への導入とするのは佐藤功一の常套的手法である。 三会堂(昭和2)は、実業ビルディング 図33 三会堂 図34 三会堂1階平面図 44 第2章 作品と様式 と同様、三層構成のアメリカ式オフィスビルの形式をとりながら、柱を外観に露出するこ となく、また装飾を廃することにより、モダン化が図られている。ロンバルディア帯を思 わせる軒下飾りや、建物の角を削り、エントランスとする手法も実業ビルディングに共通 する「佐藤好み」である。一方、最上層をユニークな形状の開口とし、玄関部分に様式的 な性格を持たせている点は、この作品の大きな特徴となっている。八角形の煙突、窓のサッ シュ割り、最上層のユニークな窓形状等は、以後の佐藤の作品に頻出する要素である。 早稲田大学大隈記念大講堂(昭和2)は、佐藤の代表作の一つであるのみならず、日本 の講堂建築中屈指の名作である。この作品については、佐藤功一の「建築−都市」観が象 徴的に表れている。よって次章で詳しく論じることとする。早稲田大学出版部事務棟(昭 和2)も同様に次章で詳述する。 岩手県公会堂(昭和2)は、大隈講堂より4ヶ月早く竣工した公会堂建築。上層になる にしたがって太さが逓減していくバットレスと中央の 高塔が垂直性を強調するゴシック様式の作品である。 後の大隈講堂や日比谷公会堂等に比べるとデザイン上 の魅力に乏しい点は否めないが、佐藤の現存する最古 の講堂建築として重要である。なお余談だが、この建 物が建つ向かいには佐藤武夫の遺作である岩手県民会 図35 岩手県公会堂 館が建っており、師弟の競演が興味深い。 勧業銀行有楽町支店(昭和3)は、コリント式の大オーダーを並べたいわゆるアメリカ 図36 勧業銀行有楽町支店 図37 同左内部 45 第2章 作品と様式 ン・ルネサンス様式の建築である。銀行建築や保険会社の建物は当時、こうしたスタイル とするのが半ば常道であった。この作品においても、施主の意向を含め、様式的色合いの 強い作風となったのであろう。しかしながら、石張りの柱に対し、壁面を煉瓦タイルとす る手法は、前述した実業ビルディングにもまして、外観全体に強い個性を与えている。さ らに、大オーダーの柱を円柱でなく、16角形としている点は、佐藤功一ならではのユニー クな手法である。「様式」に寄りながら、徐々に「自己」を加味していく胎動を、この時 期の作品に見て取ることができる。 東京市政会館及東京市公会堂(昭和4)については、大隈講堂と同様の理由により、こ こでは論じないこととする。 協和銀行芝支店(昭和5)は、興 味深い作品である。前述した勧業銀 行有楽町支店と同じく銀行建築とい うこともあり、全体の骨格はアメリ カン・ルネサンス様式をとっている。 しかし、大オーダーはここでは八角 形とされている。すなわち、この様 図38 協和銀行芝支店 式が本来とるべき「円柱」からの距離が、勧業 銀行よりも更に顕著になってきているといえる。 また、4階部分の窓を柱形状と呼応するように 八角形としている点も注目される。「様式の引 き寄せ」が、次第に顕著になっていく過程を見 ることができる作品である。 宮城県庁舎(昭和6)は、佐藤のもっとも得意 図39 同上内部 としたビルディング・タイプであった庁舎建築のいち早い作品である。基壇部分をルス ティカ積みのアーチ窓とし、煉瓦タイル張りのトスカナ式大オーダーが軒を受ける。建物 両端のせり出しはわずかに抑えられるが、そのかわりに中央部分を強調し、最上層に佐藤 功一らしさを示す楕円形の開口を設けている。ドーム天井の装飾は豊潤であり、後の庁舎 作品の質朴な性格と対照的である。また、ドーム天井でありながら、外観は八角形の塔屋 に仕上げている点は、きわめて「佐藤らしい」表現である。 46 第2章 作品と様式 図40 宮城県庁舎 図41 同左ドーム見上げ 丸の内野村ビル(日清生命館・昭和7)は、 やはりアメリカン・ルネサンスを骨格としな がら、交差点に面する部分に時計塔を配し、 ゴシック的アクセントを加えている。また、 他の3つの角にも小尖塔を配し、垂直性を加 味している。前述の三会堂と同様、柱は壁と 一体化しているが、三連窓のリズムが、様式 的香りをわずかに伝えている。また、最上階 をペア・コラムの列柱によって特化する手法が 図42・43 丸の内野村ビル 詩情に満ちた陰影を建物に与えている。外壁の 外観(上)と小尖塔(右) テラコッタやブロンズの彫刻など、佐藤の作品中でもとくに質の高いも のの一つである。なお、現在、この建物は改築に伴い、ファサード保存 がなされているが、極めて粗悪な部分保存の事例と言わざるを得ない17) 。 富山房(昭和7)は丸の内野村ビルとほぼ同時期に竣工 した書店建築である。佐藤のオリジナリティーがもっとも 強く表出された作品の一つといえる。SRCの躯体にテラコッ タ及び御影石を張った外壁には、水平性を強調する二本の 目地が一定間隔で入り、塔屋の垂直性と巧みな対照を為す。 9枚のガラス窓を正方形状に構成した開口部は、当時とし ては斬新な大窓である。もっとも個性的なのは、中央部分 である。書店ビルということから、明らかに本の背表紙を 形態化した表現主義的な造形は、他に類がない。佐藤功一 47 図44 富山房 第2章 作品と様式 の「遊び心」というべきものをもっとも顕著に体現した建築である。 津田英学塾(昭和7)は、重要な 建築である。建物の外観としては、 ルネサンスのモダン化を基調としな がら、池原義郎も指摘するように18) 、 いわゆる「帝冠式」処理が加えられ たユニークな性格を指摘できる。し 図45 津田英学塾19) かしここで重要なのは、外観よりも平面計画 である。全体的な形状は何の変哲もない「コ の字型」プランであるが、注目すべきは廊下 の配置である。通常なら、中庭に沿って廊下 が囲む配置を採るべきところであるが、この 建築では、廊下全体が北西に寄せられている のである(図46、以後この手法を本論では 図46 同上平面図 「寄せ廊下」と称する)。これは明らかに、各居室の採光を考えた上での処理であろう。 伊藤三千雄が的確に指摘するように、「建築は生活を支える科学であるという立場」によっ て、「建築の機能性、合理性を実証的に論じ」、「様式芸術に固執する伝統的な狭い世界 から一歩踏み出し、次の時代の幕開けを告げるプレリュード」20) を奏した建築家こそ、佐 藤功一であった。津田英学塾のプランには、「住みよさ」を科学的に探求した姿勢の結実 を読み取ることができる。さらに言うならば、学校建築をも「住宅」の延長として捉える 視点を、この時期の佐藤は獲得したと言え るのである。 マツダビル(昭和9)は、全面に張られ た茶褐色のタイルや、短スパンで林立する バットレス等、日比谷公会堂とほぼ同様の 手法によるオフィスビルである。建物の角 を切り、塔屋によって強調している点は、 日比谷公会堂と異なる点である。かつて佐 図47 マツダビル 藤功一の事務所に在籍していた大矢信雄は、「先生は、都市の町並みのなかにたてるもの 48 第2章 作品と様式 としてはルネッサンス、何か記念的な独立した建物 にはゴシック、そういった考えでやられたように思 われる」という興味深い発言を行っている21) 。たし かに、数寄屋橋のたもとに建っていたこの建物は、 多くの絵葉書の題材になるなど、界隈を象徴するビ ルディングであった。その意味で、「町並みのなか」 に建っていながらも、「独立した記念性」を託され た作品であったといえよう。因に、角を切る手法は 再三述べているように佐藤得意の手法であるが、こ 図48 マツダビル平面図 こではその部分をエントランスとせず、玄関は他に設けられている(図48)。これは、渡 辺仁の旧服部時計店(現・和光ビル/昭和7)と同様の手法であり、あるいはその影響も あったのかもしれない。 第3節 後期の作品 1)東京瓦斯株式会社関係の一連の建築 佐藤功一後期の作品のうち、特異な産物ともいうべき なのが、一連の東京瓦斯株式会社関係の建築である。東 京瓦斯渋谷営業所(昭和10)を筆頭に、同荏原営業所 (昭和11)同荒川営 業所(昭和12)という3作品は、い ずれもインターナショナル・スタイルによっている。と くに渋谷営業所のファサードには、バウハウスを彷彿と 図49 渋谷営業所 させる大開口が設けられており、モダニズ ムの最先端の表現がなされている。他の2 作品も基本的には同様で、水平連続窓をテー マの基幹としながら、構成主義的な塔屋に よるダイナミズムを加味しており、随所に アール・デコ的な感覚も織り込まれている。 これらは何れも確かなプロポーション感覚 を持った作品には違いないが、少なくとも 図50 荏原営業所 49 第2章 作品と様式 それまでの佐藤の作風とはまったく別次元の作品と言わざる を得ない。 これらの作品について、村松貞次郎は「新しい時代の動き を感じさせるものがある。しかしけっして崩れたり度をすご したりしたところは少しもない。一貫したデザインの印象は 少しも変わっていない」と述べているが22) 、明らかに無理が ある。たしかに「新しい時代の動き」はとうに佐藤の周囲に は蔓延していたし、実際、土浦亀城自邸(昭和10)、原邦造 邸(昭和13/渡辺仁)等、モダニズムの名作が同時代に生 図51 荒川営業所 み出されている。モダニズムのデザインをこなす技量も佐藤功一は十分に備えていたであ ろう。だからといって、そうした潮流に佐藤が自分の意志によって飛びついたとは考えら れない。 おそらくは、東京瓦斯株式会社という施主の意向が強かったのではないだろうか23) 。各 営業所が竣工した当時の東京瓦斯社長は、大正・昭和期の実業家として知られる井坂孝 (1869-1949) であった。井坂は明治29年(1896)に東大法科を卒業後、 あえて官吏を 望まず、明治・大正期の企業家浅野総一郎に見込まれて、浅野系の東洋郵船(のち日本郵 船に合併)に入社、明治41年(1908)専務取締役に就任した。 大正4年(1915)には横 浜火災に迎えられ、同社を横浜隋一の火災保険会社に躍進させ、昭和初年には横浜商工会 議所の会頭はじめ横浜の財界人として活動した。昭和7年(1932)に内紛のあった東京 瓦斯の社長に請われて就任、太平洋戦争中までその任を務めた24) 。また日本工業倶楽部理 事長、日本経済連盟会会長、枢密院顧問官などを歴任した人物である25) 。 昭和10年(1935)、 東京瓦斯は創立50周年に当たり、 「記念行事」を行った。同年10 月1日の記念祝宴の席上で、社長の井坂は以下のように述べている。 瓦斯事業は独占に非ざれば断じて合理的の経営はできないのである。然るにこれに困っ て競争者を有せざるの弊はややもすれば経営者及び従業員の懈怠を誘致し易いから、吾 人は寸時もこれに対する警戒を怠ってはならない。なるほど瓦斯そのものには競争はな いとしても、広き意味において電気も石炭も原油もあるいはまた薪炭もことごとく競争 者であるのである。さらにまた世人は当社の成績と大阪、名古屋または他の大都市の瓦 50 第2章 作品と様式 斯会社との成績を対照批判するから、吾人は断じて惰眠を貪り得ないのである。いわん や独占の対価として吾人は最良の瓦斯を最低の価格で供給することを要求せられている から、その目的を達成するための学問、技術の研究を寸時も怠ってはならないのである。」 26) (以上、傍点筆者) 上記の言葉には、非常に厳しい経営上の問題意識が反映されている。またこの記念行事 の一環として「我等の標語」が募集されたが、選ばれた標語には「進取改善」の四文字が 盛り込まれた。他のエネルギー産業との競争・差異化の必要性、そして「進取改善」の意 志が、当時最先鋭のモダニズムのデザインを呼び寄せたと考えることは不自然ではなかろ う。また、上記引用文の傍点箇所からも推察されるように、井坂の頭の中には大阪ガスの 存在が当然大きな存在としてあり、必然的に安井武雄によるモダンな「大阪ガスビル」 (昭和8)をしのぐモダン・デザインを欲したと考えられよう。いずれにせよ、これらの 三作品を、佐藤功一の作風の変遷過程上に位置づけるのは困難であり、施主の強い意向に よる「特異な事例」とせざるを得ない。 2)晩年の庁舎建築 佐藤功一後期の活動として、もっ とも重要なのは一連の庁舎建築であ る。昭和初期の時点ですでに佐藤は 群馬県(昭和3)、宮城県(同6) 図52 帝室林野局庁舎 の各庁舎を手がけていたが、昭和12 年から13年にかけて、帝室林野局庁 舎(昭和12)、滋賀県庁舎(同13)、 栃木県庁舎(同)という3つの庁舎 建築がたて続けに竣工している。 これらの3庁舎は、いずれも大オー ダーのピラスターを並べ、ルネサン ス的骨格を基調としているものの、 図53 滋賀県庁舎 様式的装飾は、極限にまで抑えられている。とくに滋賀、栃木の両県庁舎におけるピラス 51 第2章 作品と様式 ターの柱頭はいずれのオーダー にも属さない独自の装飾となっ ており、様式の「引き寄せ」が 顕著に見受けられる。 さらに注目したいのは、建物 の平面計画である。ここで、栃 木県庁舎を例にとってみよう。 当庁舎については、平成15年(2 図54 栃木県庁舎 003)6月、改築に伴う移転準備の際、3,000点余に及ぶ公文書関連資料が発見された 27) 。 それによれば、設計段階の平面計画には、数パターンのものが存在していた。そのうち特 に重要と思われるのは、以下の3種である。 1)日の字型平面のもの(図55) 2)ロの字型平面で、廊下を寄せていないもの(図56) 3)ロの字型平面で、廊下を北西に寄せたもの(実施案/図57) 図55については 作成時期が不明であるが、石 田潤一郎氏も指摘するように28) 、日の字型は大 正・昭和戦前期の庁舎建築において支配的な位 置を占めたものであり、同案もそれに乗っ取っ た初期案であると思われる。 一方、ロの字型は、建物が竣工した昭和13年 の時点では「時代遅れ」の形式であった。あえ 図55 新発見資料・1 図56 新発見資料・2 図57 実施案1階平面図 52 第2章 作品と様式 てそれを採用した背後には、広々とし た中庭をとろうとした佐藤功一の意志 を読み取ることができる。しかしなが ら、図56のプランでは廊下配置に工夫 がないため、同案では各部の採光バラ ンスにおいて問題が生じたであろう。 新資料によれば、昭和11年(1936) 6月4日の委員会に提出された図面で は、図56の廊下配置がとられていた。 一方、同月7日の委員会以降、廊下を 寄せた図57の平面が提示されるように 図58 宮城県庁舎1階平面図 なる29) 。石田氏も指摘するように、 「日の字型平面の最大の欠点である 採光の悪さを回避しつつ、その美点 である動線の簡明さと意匠的完成を 保」30) とうとするこの案が生まれた 要因は如何なるものであろうか。 ここで興味深いのは、中期の作品 に属する津田英学塾本館(昭和7) である。前述したように、この作品 図59 帝室林野局県庁舎1階平面図 で佐藤は、すでにこの「寄せ廊下」 の手法を用いていた。一方、津田 英学塾と同時期竣工の宮城県庁舎 (昭和6)の平面(図58) では、 採光に関する特別な配慮は見られ ない。それに対して、昭和12∼13 年に竣工した3つの庁舎建築では、 いずれも「寄せ廊下」が採用され ている。 図60 滋賀県庁舎1階平面図 53 第2章 作品と様式 佐藤功一がいち早く「住宅学」の重要性に注目し、建築教育のカリキュラムに導入した 建築家であったことは前章で述べた。おそらく佐藤は、住環境における最重要素とした 「採光」への配慮をまず学校建築の設計に導入し、さらに晩年に至り、庁舎建築まで応用 したのだと考えられる。換言すれば、栃木県庁舎の計画案と実施案における差異31) 、さら に中期の庁舎建築と晩年の庁舎建築の差異は、庁舎建築を「住宅」の延長としてとらえよ うとした佐藤功一晩年の建築観を顕著に示すものであり、「様式」への依拠から「生活実 践の場」へと展開した佐藤の様式観の終着点を顕示するものであるということができよう。 小結 佐藤功一の建築家としての生涯は、実質中・後期、すなわち大正8年(1919)以降、 没する昭和16年(1941)ま での22年間で あった。初期の佐藤の建築観は、古典とゴシッ クを両軸とする「様式」に強く依拠したものであり、そこに建築家・佐藤功一の「自己」 を見いだすことは困難であった。しかし、中期以降、佐野利器が言うような「鋭い直線が 通って、角が立って、明暗がはっきりした」特徴(佐藤張り)をはじめとする自由な造形 意志が表出され、佐藤独自の作風を形成していく32) 。 そして晩年に至り、様式の「引き寄せ」は、著しい域に達する。「ロの字型」平面、ジャ イアント・オーダーといった「様式」的語彙を用いながら、それら本来のルールを逸脱し た表現手法を佐藤は試みた。庁舎建築のような大建築においてさえも、彼は俯瞰的な「様 式」よりも、「生活」からの視線を重視するに至るのである。それは、「西洋建築様式」 への憧憬に端緒を持つ自己の建築家としての人生を自覚しつつ、「様式」そのものを自ら 解体しようという強い意志の表象であったといえる。佐藤功一の建築観の変遷は、以上の ような「様式」に対する「依拠」、「引き寄せ」、そして「解体」の過程として捉えるこ とができる。 注記 1) 前掲、『佐藤功一博士』所収。 2) 前掲、今井兼次「佐藤功一博士と作品」。 3) 同上。 4) なお 、 村松貞次郎は「中期は関東震災の頃から昭和十年ころまでである」としており、 本論にお ける 時代区分 と 近似した見解を示している(前掲、 『日本近代建築史ノート 明治・ 大正を建て 54 第2章 作品と様式 た人びと』)。 5) 前掲、「佐藤功一博士と作品」。 6) 佐藤 は 、 「セゼツシヨンといふ名が今の京大教授武田博士に依て紹介されたのはたしか明治三十 八九年頃 と 思 ふがその 新鮮にして簡素なデテールは、 それ以前にアカデミー・ アーキテクチユア や 或 は 美術雑誌 スツヂオ などを 通して私共の若い頭脳へシツクリと来た」と述べている(東京帝 国大学工学部建築学科内木葉会編『東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集 明治 大 正 時 代 』 1928 年、洪洋社。 7) 前掲、『東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集 明治大正時代』より。以下、図 28 まで同じ。 8) 同上。 9) 同上。 10) 余談だが、明治 43 年(1910)卒業の安井武雄は、帝大の卒業設計で文字通り「住宅」を提出し、 辰野金吾の怒りを買ったといわれている。 11) 前掲、『佐藤功一博士』より。以降、本章の図版で注記のないものは同書からの引用。 12) 前掲、「佐藤功一博士と作品」。 13) 高杉造酒太郎編『明治大正建築写真聚覧』1936 年、建築学会より。 14) この 建物 が 竣工したのは大正6年( 1917)であるから、「帝冠式」と呼ぶのはふさわしくない であろう。 15) 津田英学塾(昭和7)、 大東京火災海上保険京都支部(同9)、 山陽記念館(同 10)など。な お昭和9年竣工の神田神社(大江新太郎との合作)は、SRC による純和風建築である。 16) 下野新聞社所蔵。 17) 村松貞次郎によれば、この建物で佐藤は「意匠のために往々不合理をあえてし」、「意匠上から、 まったく 盲 になっている 窓 がある 」。 弟子 の 佐藤武夫 がその 点 を 指摘 したところ 、 佐藤功一は 「大家 でないとできないよ 」 と 答 えたという(前掲、 村松『日本近代史ノート−西洋館を建てた 人々−』)。 18) 前掲、池原義郎『光跡−モダニズムを開花させた建築家たち』。 19) 同上『光跡−モダニズムを開花させた建築家たち』より。 20) 前掲、『日本の建築 明治大正昭和 8 様式美の挽歌』。 21) 前掲、神代『近代建築の黎明−明治・大正を建てた人びと』。 22) 前掲、村松『日本近代史ノート−西洋館を建てた人々−』。 23) モダニズムの名作・原邦造邸の施主、原邦造も東京瓦斯株式会社の社長(第9代)を務めていた。 しかし 、 原 が同社社長の地位にあったのは昭和 18 年6月 28 日∼同 20 年3月 10 日であり、 原邸 のモダニズムと東京瓦斯株式会社のモダニズムを繋ぐ人物とは考えられない。 24) 『朝日人物事典』1990 年、朝日新聞社。 25) 『新潮日本人名辞典』1991 年、新潮社。 26) 『東京ガス百年史』1986 年、東京ガス。 27) 栃木県立文書館がこれを引き継ぎ、修復・整理を行っている。筆者は、同文書館の協力を受け、 宇都宮大学教授・ 小西敏正氏、 栃木県立宇都宮工業高等学校校長・ 岡田義治氏 らとともに 建築 史 の視点から同資料の分析を行っている。 28) 石田潤一郎『都道府県庁舎−その建築史的考察』、平成5年、思文閣出版。 29) 栃木県立文書館指導主事・内木裕氏のご教示による。なお同氏によれば、当時の知事・松村光麿 は、電気代節約のため採光を重視するのが好ましいとの発言をしていたとの記録もあるという。 30) 前掲、『都道府県庁舎−その建築史的考察』 31) 新発見資料によれば、外観においてもゴシック調のデザインを採用した案が示されている。これ については 、 別稿(米山勇・ 岡田義治「栃木県庁舎 の 設計変更 について」『日本建築学会大会学 術講演梗概集』2004 年)を参照されたい。 32) このような様式の「引き寄せ」は、「自由様式」で知られる建築家・安井武雄のスタンスに近似 55 第2章 作品と様式 したものであったといえる。 56