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(第2章)1
第2章 難波宮跡の概要 (1)難波宮跡の概要-発掘調査の成果 1) 宮殿中枢部 大阪市中央区法円坂1丁目一帯から、奈良時代の瓦が出土することが契機となり、昭和 29 年より発掘調査が始められた。今日まで 50 余年にわたる調査により、2時期の宮殿跡の 中枢部がほぼ明らかにされている。ふたつの宮殿は中軸線を共有して位置しており、北に内 裏、南に朝堂院を置く類似の殿舎配置をとっている。 このうち「後期難波宮」と呼ぶ宮殿は、使用された屋瓦や伴出する土器の特徴から、聖武 天皇が神亀3年(726)から造営を始め、天平 4 年(732)頃におおむね完成した難波宮で あると考えられている。これに先行する宮殿は、宮域に推定される大手前4丁目から戊申年 の年号を記す木簡が出土し、これが西暦 648 年と断定できることから、孝徳天皇が白雉元 (650)年から同 3(652)年にかけて造営した難波長柄豊碕宮であると考えられる。これ を「前期難波宮」と呼んでいる。 前期難波宮 前期難波宮の建物はすべて掘立柱形式で、 屋根は板か檜皮といった植物性の材で葺かれて いた。造営に使用された基準尺として、天平尺よりもやや短い1尺 29.2 ㎝前後が復元され る。宮域の中心軸上に北から内裏、その南に朝堂院を配すが、藤原宮以降の殿舎配置に共通 してみられる内裏・朝堂院が分離した形態とは異なり、両者は左右に曲折する複廊で囲まれ ていて連続している。そのため内裏前殿とよぶ内裏の中心となる建物は、同時に朝堂院の正 殿としての機能も備えていたことがわかる。 大極殿の成立を考える上で重要な遺構といえよ う。内裏北半部は未調査部分がほとんどであり、実態はよくわかっていない。 内裏南門の両側には、複廊によって囲まれた区画内に八角形建物が置かれる。この建物が どのような用途に使用されたか明確でないが、外観上宮殿の中心部を荘厳化する目的があっ たとおもわれる。それまでのわが国の宮殿には例のないものであり、大陸の宮殿造営思想の 影響によるものとおもわれる。 その南側に広がる朝堂院には、東西対称に少なくとも一四堂の朝堂が配置されており、藤 原宮以降に続く 12 朝堂形式と異なる。このなかでは第一堂と第二堂を他と比べて特別な扱 いとしていること、そのなかでも第一堂をより優位に位置付けていること、全体の配置計画 より判断して第七堂の両側にさらにもう一棟置かれていた可能性があることなどが注目さ れる。 朝堂院南門の南側には、朝集殿と思われる南北方向の建物があり、この南側に「朱雀門」 に相当する建物が検出されている。 「朱雀門」の東西両側には複廊が取り付く点に特徴があ る。翼廊形式となり、宮殿の正面を飾っていたものであろう。 2 図 1 難波宮殿舎配置図 (「平成 21~25 年度(独)日本学術振興会科学研究費補助金基礎研究(A)課題 番号 21242031 大阪上町台地の総合研究」による) 後期難波宮 一方後期難波宮は、 大極殿院や朝堂院などの宮殿中心部の建物を大陸式の建築様式で飾る。 造営にあたっては1尺が 29.8 ㎝前後のいわゆる天平尺が用いられたようである。 内裏は東西 180mの区域を掘立柱の複廊で囲み、その中央南半部を区画しその中に内裏正 殿と前殿を置いている。その南側に位置する大極殿院の中央やや北よりに建つ大極殿は、基 壇の規模や階段の位置から推定して、桁行 9 間、梁間 4 間に復元される。軒廊により後殿 と連結しこれに回廊が直接取り付く形態は、 平城宮の第2次大極殿上層遺構と同様のもので あり、相互の関係が注目される。 朝堂院は 8 棟の朝堂を配置する構造である。第一~三堂を南北棟としその南側に置いた 第四堂を東西棟とする形態は長岡宮の朝堂と同様であり、建物規模も等しい。朝堂院の南側 3 で発見されている東西溝の位置や瓦の出土から、この位置に朝集殿院が想定される。 大極殿院の西方には、南北約 200mの範囲を掘立柱塀で囲んだ区画がある。三等分する位 置に桁行 5 間の門が開いているが、五間門は最上級の格式をもつ形式であることから、こ の区画はかなり重要な意味をもつことが推測される。 2) 官衙地域の調査、推定される宮域 検出された官衙遺構 宮殿中枢部の周辺で、官衙とおもわれる一群の遺構が2カ所で発見されている。 「内裏西 方倉庫群」は、複数の倉と1棟の側柱建築を配置したものであるが、その中には3つの倉に 連続した屋根をかけた、 正倉院を桁行に拡大したような特殊な構造の宝物庫とおもわれる倉 が含まれる。その南西側には高床式倉が南北方向に5棟検出された。東側にも同規模の倉が 1棟検出されている。西側を区画する塀は北側塀との交点よりもさらに北側に延びており、 この北側にも別の区画が存在する可能性がある。西側塀のさらに西約 24mの位置に南北方 向の塀がある。これらの建物群は大規模な倉庫が計画的に配置されていることから、 『日本 書紀』天武天皇元年の火災記事にみる「大蔵省」にあたると考えられている。また持統天皇 6 年(694)に記載のある「難波大蔵」との関係も注目される。 図2 内裏西方倉庫群遺構配置図 もうひとつの遺構群として、内裏・朝堂院の東側で、 「東方官衙遺跡」が発見されている。 内裏の中心から東へ約 200mほど離れたところから東側にひろがっている。遺構は大きく西、 中央、東の 3 区画に分かれる。それぞれが回廊や塀によっていくつかの小区画にわかれる。 まず西区は直行する塀および回廊(単廊)によっていくつかの区画に分かれる。中央区は南 半部に、掘立柱塀によって区画されたなかに、高床式倉庫と複数の側柱建物が配置されると 4 いう類似の区画が2つ並んでいる。この両区画の遺構はさらに南側にひろがっている。北半 部は塀による小区画があるが、詳細はわからない。これらは実務をおこなう官衙と考えられ る。前期難波宮の段階で官衙が形成されていたことがわかり、わが国の古代国家形成を考え るうえで非常に重要な遺構といえる。東区は回廊によって区画された内部の中心に、縁 (庇?)をもつ南北棟の建物が配置されている。建物の南側には当初は桁行3間の門(八脚 門)であったが、後に桁行5間の門とされている。これにあわせて回廊の内部、南北棟建物 の周囲が小石敷きとされている。この施設は単なる官衙などではなく、極めて格式の高い空 間と考えるべきといえる。 東側にひろがる内海の眺望を楽しみ、宴会などをおこなう施設で、 はまだい 史料にみえる「濱臺」のようなものではないかという説がある。 図3 東方官衙遺跡 推定される宮域 前期難波宮の宮域のうち南限については「朱雀門」およびこれの東西に連なる複廊が検出 されたことにより確定できる。西限については、先に記した内裏西方倉庫群を区画する塀の さらに西方約 24mのところに位置する南北塀がこれにあたると考えられている。これ以西 では難波宮期の遺構は発見されていないこと、この塀の南側延長部で同様の柱列がみつかっ ており、 この位置が重要な意味をもっている可能性があることなどの理由によるものである。 難波宮中軸線から西へ約 307mの位置にある。 東限はよくわかっていない。現在のところ東方へ約 320mの位置で「東方官衙遺跡」の遺 構群が発見されており、この位置から東は地形が急激に落ち込んでいることから、東限はこ の遺構群の東側あたりと考えるのが自然である。 そうすると中軸線を挟んで東限のほうが距 離が長くなり、東西方向については対称にならないことになる。 北限は明確ではないが、 大阪府警察本部敷地の調査で発見された東西方向の柱列がこれに あたる可能性が強い。これの北側には北西方向から谷筋が入り込んでいて、地形が落ち込ん 5 でいくことからもこの推定は妥当性があるとおもわれる。 図4 難波宮域推定図 6