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道徳の授業の中から 完全なる良心の麻痺

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道徳の授業の中から 完全なる良心の麻痺
道徳の授業の中から
完全なる良心の麻痺
H17.10.24
「あなたなら食べますか、食べませんか?」
20 日の道徳の中心授業での主発問だった。
指導された内容項目は、小学校中学年の 4(1)「約束やきまりを守り、公徳心をもつ」
で、資料は「心ゆたかに」に掲載されている
「あんまん」だった。
使われた資料は、かなり普及しているもの
だからご存知の方が多いと思う。わたしとい
う主人公(ゆかり)が友だち(ひろみ)が歯
医者にいくというので、もう一人の友だち(と
しえさん)とともについて行った。治療が終
わって、ひろみさんはついてきてくれたお礼
にとあんまんを買ってくる。まだ下校途中で、
主人公はそのあんまんを食べていいものかど
うか悩むが、としえさんも「今度だけもらっ
ておこうか」という中で、次第に食べる方向
に傾斜していくという内容だ。
この種の葛藤資料はいくつかあって、「絵
はがきと切手」も今や古典的な資料になって
いる。こちらは料金不足の絵はがきが転校し
た友人から届いてそのことを友人に知らせる
か知らせないで悩むが、結局は知らせること
が真の友情だという話。
こういう資料に「あなたならどうする」と
いう切り込み方をしたのがこの授業だった。
柚野小の昨年度の最初の公開授業も同様で、
柚野小では事後の全体研修会で参観した他校
の教師から、子供の反応が「これからはしっ
かりやる」という決意表明だったことが指摘
され、おしつけがましい道徳で、道徳的心情
の深まりは期待できないという指摘をいただ
いていた。研究校柚野小にはもはやこのよう
な問いは一切見られないが、そこに1年半に
及ぶ道徳研究の成果があるのであろう。
これからはしっかりやると決意表明したと
ころで、それは「団結頑張ろう!!」と同じ
で、おつきあいのようなものなのである。
「あなたなら食べますか、食べませんか」
と問われたら 9 割方の子供は「食べない」と
答えるであろう。下校途中にものを食べるの
は買い食いできまり違反。きまりを守らなけ
ればならないのは、抵抗したり反抗したりす
るのでなければ当たり前のことで、中学生と
もなれば、このような決まり切った問いには
沈黙しか返ってこない。沈黙の中で「聞くな」
と叫んでいるのである。
そうでなければ、先生はどうするの?と問
い返しがあることもある。
先生はどうするか。実は、その答えを持ち
合わせていないのが教師で、問い返されたら
相当に困惑するに相違ないのだ。きまりを守
らなければおこられる。おこられるからきま
りは守る、そう考えている子供が多い。これ
は道徳ではなく、処世術で道徳の時間をここ
に導いてはいけない。電車の中でお年寄りに
席を譲る。席を譲らなければ格好が悪い。こ
れも道徳的実践ではない。かぼちゃのつるも
同様。車にひかれて痛い目に遭う。痛い目に
遭うからわがままはいけないよでは道徳では
ない。
しかし、先生はどうするか、と問われたら
叱る人はいないから、自己の問題として道徳
的価値によって判断するのか、処世によって
判断するのか選択が迫られ、良心が鋭敏な大
人なら、処世によることを潔しとせず、悩み
苦しむであろうが、多くは逡巡することなく
友人関係を優先するであろう。マジ?で育っ
た世代は特にこの傾向が強いはずだ。
そうでありながら、
「買い食いはいけない」
「きまりは守るべき」と実に明るく軽々と説
いたり、時には「いいか」などと道を説き始
めるたりするが、その身勝手さに気づいてい
る教師は少ないのである。
そんな光景に出会うと、私などは、「この
偽善者!」と一喝したくなったり、そっと近
くによって「…さびしからずや道を説く君」
と囁きたくなったりするのである。
南小の授業では一人の子供が、「食べれば
先生に怒られる。食べなければ友だちに怒ら
れる。どちらに怒られるのを選ぶのかいえば、
まだ先生に怒られる方がいい」と答えていた
が、よく先生を考察している。先生だって食
べるだろう。だから、怒ったって本気ではな
い。友だちに怒られて関係がまずくなる方が
はるかに怖い。選択はいずれかを捨てること
で、友だちは捨てられない。子供はそう感じ
取っている。それが見事に顕れた反応だった
と思うのである。
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道徳の時間は、価値内容が指導内容で、教
科なら教科書の記載事項のようなものだ。し
かし、どうもこのことが理解されていないよ
うで、資料の指導に偏重しているのが道徳指
導の実態になっている。
道徳の時間は、「本時の目標」ならぬ「本
時のねらい」とされているが、ねらうのは指
導すべき価値の内容の深まり、高まり、ある
いは広まりであるから、価値内容の低学年、
中学年、高学年、中学校に至る体系はもちろ
んのこと、そこに示された指導者の主体的で
深い理解が必要なのである。それがなければ、
子供の道徳的価値の自覚の深まりなど見取る
こともできなければ評価することもできない
はずなのである。
そこに道徳指導の難しさがある。資料の多
くは、こうしたねらいに迫られるように価値
が揺さぶられる状況が書かれており、自らが
内包してきた生き方が問われるように仕組ま
れているのである。
芥川龍之介の残した言葉に「道徳の与える
損害は完全なる良心の麻痺(まひ)である」
(侏儒の言葉)というのがあるが、それは教
えられる子供に向けた言葉というより教える
側の教師に対する言葉と理解すれば、実に言
い得て妙だ。良心が鋭敏になれば、かような
状況の中でいかに自分が危うい存在かに気付
くはずで、とてもではないが、気楽に道は説
けないはずなのである。
中学校の道徳の資料に「命のビザ」という
のがある。日本のシンドラーと言われ、1986
年にイスラエルから、「諸国民の中の正義の
人賞」を贈られた、杉原千畝の話を資料かし
たものだ。
ナチスドイツのポーランド侵攻で祖国を追
われたユダヤ系ポーランド人にリトアニアの
首都カウナスの領事代理だった杉原千畝が日
本の外務省の訓令に背きビザを発給し続け
6000 人のユダヤ人を救った。しかし、終戦
後帰国した杉原に待っていたのは外交官の職
からの追放であり、その名誉が回復されるの
は、イスラエルから「諸国民の中の正義の人
賞」が贈られた 1986 年(杉原 86 歳)から、
さらに 14 年後の 2000 年のことで、すでに杉
原は没して故人になっていた。
これを道徳の資料に、世界の中の日本人と
しての自覚をもち、国際的視野に立って、世
界の平和と人類の幸福に貢献する(4-10)や
公徳心及び社会連帯の自覚高め、よりよい社
会をの実現に努めること(4-3)を指導してい
るが、どの授業も本国からの訓令に反してま
でユダヤの人々の命を救うために 6000 枚に
のぼるビザを書き続ける杉原千畝の偉業を称
える授業構想になっている。杉原のなしたこ
とは確かに人類の幸福に寄与したし、普遍的
な人類愛に根ざしたもので光り輝く偉業に違
いない。しかし、そのために彼は外交官とし
ての地位を追われるのである。杉原の生き方
に共鳴すればするほど彼の人生からは偉業ど
ころか痛ましさの方が迫ってくる。
人命を救うという普遍的な人類愛に則った
行為が、外務省の訓令違反になり、その後に
は、その違反が問われ、職を失い名誉を失い
人生を失う結果をもたらす。彼の中でも悔や
んでも悔やみきれない思いが皆無ではなかっ
たはずだ。
杉原に決断を迫ったのは、人間の命の尊厳
と訓令に従う義務と、この二つの価値のいず
れを人生をかけて選択するのかということだ
ったが、その決断も良識をもった人間であれ
ば、この二つの価値が両者ともゼロ価値では
なく、しかも人命を尊重しようとすれば、自
らが計り知れないリスクを負うという、"決断
の苦しさ"を伴っていたのである。
道徳の資料から、この杉原のその後の人生
の悲惨さを覆ったとしても、この資料には指
導価値として「法やきまりの意義を理解し、
遵守するとともに…義務を確実に果たして、
社会の秩序と規律を高めるように努める」
〔4(2)〕も存在しており、人類愛との間に矛
盾が生じてしまうのである。
言い方を変えれば、現実社会はこのような
矛盾が当然のごとく存在していて、しかもそ
れらが順列をもって存在しているのではない
ということだ。柴原調査官が時折ルービック
キューブを取り出しながら、価値が輻輳して
いることを形で示されることがあるが、世の
中を洞察すればするほど世の中は矛盾の塊の
ようなもので、道徳はスローフードでいきま
しょうとしか言えないのである。
だから、軽々に「あなたならどうしますか」
とか、「こうすべきだ」と問うたり結論づけ
たりできないわけで、そもそもが道徳の指導
はこうした矛盾に対して自分の中で価値決定
を図り、道徳的価値の自覚を深めていくとこ
ろにあって説けば深まる性質のものではない
のである。
芥川の道徳についての「完全なる良心の麻
痺(まひ)」ということばは、このような現
実社会の価値矛盾に真正面から対峙しないな
かでは道徳的思索はできず、安易に価値を求
める行為は、それこそ良心を麻痺させるしか
できないことですよという警告なのである。
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