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「丸岡」という名前の由来
【古墳】 椀柏山古墳と六呂瀬山古墳について 【丸岡藩砲台跡】 【「丸岡」という名前の由来】 継体天皇は,第2皇子の名前を地名から「椀子皇子」(まるこのおうじ)と名付けられ た。その地名は「魔留古呼加」(まるおのおか)と呼ばれていた。椀子皇子のご誕生の 地である。現在の丸岡城がそびえ立つ丘のことで,「まるこの岡」が『丸岡』の始まりに なっていると伝えられている。 出典「魔留乎迦のたからもの」(社)丸岡青年会議所 【「福井」の由来】 豊臣秀吉に敗れた柴田勝家のあと 「北庄(きたのしょう)」の城主となった松平忠昌 が「北庄」の北が敗北の「北」ということで,地名を「福居」に改称しました。「幸福に居 住できる町」という意味で,福居としたそうです。この福居が簡単な「福井」になったそ うです。 出典「地名の由来を知る事典」 【豊原三千坊】 豊原寺(とよはらてら)は福井でおなじみ泰澄大師が開山だ。あとあと加賀の一 向一揆衆と手を組み一揆衆がこもった。 1574 年越前一向一揆衆は守護代の前波吉継を殺し、越前は門徒持ちの 国となる。 1575 年一揆討滅の軍を起した織田信長は、9 月 16 日敦賀を出発し、各地 で一揆軍を破りながら 28 日に豊原まで陣を進める。この時、豊原寺は信長 軍によって悉く焼き払われている。 越前平定後、柴田勝家の甥で養子の勝豊が入り、しばらくして丸岡に新城 を築き移る。その時多くの寺院は丸岡城下に移り、ここはさびれた。 俗に「豊原千坊小野千坊吉谷千坊あわせて三千坊」といわれ、豊原千坊が正しい 実際に近い呼び方であると考えられる。但し豊原三千坊と呼ぶ場合は、豊原千坊の 外に旧丸岡町内はじめ円陵組の寺院や合併丸岡町付近一帯に、広く分布していた下 寺を総称したもので、かって下寺の存在したことの総称と考えられる。各大字限地籍 絵図に残存する四十ばかりの寺院関係字名を包含し寺院の群集していることを一括 総称して豊原三千坊と呼んでいると解釈するのが妥当で、要するに豊原千坊の下寺 が田屋とか多禰とか付近一帯に群集し分布していたと考えられます。 平成 22 年 8 月の福井新聞に,豊原寺を 10 数年ぶりに坂井市教育委員会が発掘 調査すると記事に出ていました。中世の遺物がいくつか発掘されることになるでしょ う。 【六呂瀬山古墳群と椀貸山古墳】 旧丸岡町内には,いくつかの古墳が発見・発掘されている。北陸地方最大の前方後 円墳が「六呂瀬山古墳の1号墳」です。 また,「継体天皇」の皇子の墓とされている「椀貸山古墳」。これは,丸岡町坪江の山 麓部に位置する前方後円墳です。全長45メートルで周濠をもつが現在は埋め立てら れています。 内部構造は横穴式石室で、九州北部以外では異色の存在である石屋 形が石室にあります。築造年代は6世紀後半と考えられます。 福井県には4000基ほど発掘されており,身近にあるということが現在の私たちの 興味をそそられます。 この写真のど真ん中のふくれた部分が六呂瀬山古墳1号基です。北陸最大の前方後 円墳。 【称念寺】 このお寺に関係する歴史上の人物は,たくさん存在する。そんな古刹である。 関係する人物: 泰澄大師・・・越前の国の僧侶で,白山信仰の先駆者。越知山で修行。 豊原寺・称念寺を開く。 新田義貞・・・1338年,新田義貞公の遺骸が葬られた。 明智光秀・・・1562年,門前に寺子屋をたて,この地で,三女の玉 (細川ガラシャ)が生まれる。 松尾芭蕉・・・1689年,8月芭蕉が訪ねる。「月さびよ 明智が妻の はなしせむ 」 はせを と光秀夫妻の愛を歌っている。 称念寺は,一時は寺領100町歩・30000坪の境内をもっていたこともある。 (参考文献 「たかむく玉手箱」 たかむくのまちづくり協議会 歴史文化部会編 集) http://shonenji.net/ 【橋本左内】 橋本左内は,1833年に越前国で生まれ,1859年に「安政の大獄」で処刑される まで,26年間幕末を生きた志士であり,越前藩士である。家系は,足利氏の一門の ひとつで,桃井氏。今年(2010年)「竜馬伝」がNHKで放送され,坂本竜馬ブームが 起こったが,橋本左内ブームはなかなか全国区とはならない。その理由を考えると, とても真面目なひとでなかったか。いわゆる「くそまじめ」である。よって,竜馬などの 幕末の志士には,いろいろなエピソードがあり,その人物像を膨らませるが,橋本左 内にはそのようなことがないのかもしれない。 しかし,その経歴をみると,16歳で大阪の適塾で蘭方医学を学び,藩医・藩校「明 道館 学監心得」となり,かなりの秀才であった。そのころの適塾といえば,緒方洪庵 や杉田成卿のもと,たくさんの今後幕末に活躍する人々が集まっていました。その交 友関係は,今後の活動の糧となったであろう。また,21 歳のときに,江戸に遊学し,蘭 学のみならず西洋一般の知識を高め,英語・ドイツ語を身につける。ちょうどこの 21 歳のときに,日米和親条約が締結される。この江戸遊学のときに,藤田東湖(水戸藩 士・西郷隆盛らと交流することになる。 24歳のときに,越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、藩医や 明道館の学監心得となり,洋書習学所を設けたりして,学制改革・藩政刷新に力をつ くした。 1857年~58年の「将軍継嗣問題」で,松平慶永・島津斉彬らの下で,一橋慶喜を 次の将軍にするべく,京都などで,西郷隆盛らと擁立運動に奔走する。幕政改革,幕 藩体制は維持した上での西欧の先進技術の導入,日本とロシアの提携の必要性を 説くなど開国派の思想を持ち,攘夷で揺れる幕末期では危険人物とされた。 1858年日米修好通商条約を結んだ大老井伊直弼による「安政の大獄」で,松平慶 永が隠居謹慎を命じられ,主家・藩への累が及ぶのを恐れ,一切の政治運動を断念 する。そのまま,江戸町奉行所において取り調べの上,藩預かり・謹慎処分となる。 1859年 軽輩にもかかわらず将軍継嗣問題に介入したことを不行き届きとされ刑 死する。 さて,今日橋本左内がわれわれに投げかけているものの一つに,15歳のときの手 記である「啓発録」がある。これは,左内自身の自己規範・自己鞭撻の書であり、彼の 思想や行動の根幹を成す。「稚心を去る」「気を振う」「志を立つ」「学に勉む」「交友を えら 択 ぶ」の五項目からなる。 「啓発録」 よ ち し ん さむらひ い ぞん さうらふ 去稚心 ・・・余稚心を去るを以て 士 の道に入る始めと 存 じ 候 なり。 振気 ・・・気とは、人に負けぬこころだ 心 立 てありて、恥辱のことを無念に思ふ処より おこ いきば ふる せっかく ふる た ふる 起 る意地張りの事なり。 振 ふとは、 折 角 自分と心をとゞめて、 振 ひ立て 振 おこ ゆだん ぎ ひ 起 し、心のなまり 油 断 せぬやうに致す義なり。 こ こ ろ ざ し きっと ひとたび 立志 ・・・志を立つるとは、この心の向ふ所を 急 度 相定め、 一 度 右の如く思 さうら いよいよ つねづね こころもち ひ詰め 候 へば、 弥 切にその向きを立て、 常 々 その 心 持 を失はぬや さうらふこと さうらふ うに持こたへ 候 事 にて 候 。 が く すべ おこな 勉学 ・・・とは、ならふと申す事にて、 総 てよき人すぐれたる人の善き 行 ひ、 あとづけ まゐ べん お 善き事業を 迹 付 して、習ひ 参 るをいふ。(学に勉む) 勉 と申すは、力を推し きは うちつづ と さうらふところ じ なにぶん 究 め、 打 続 き推し遂げ 候 処 の気味これ有る字にて、 何 分 久しきを さうら こう さうらふ 積み思ひを詰め申さず 候 はでは、万事 功 は見え申さず 候 。 えがた さうらふあひだ 択交友・・・世の中にえきゆう 益 友 ほど有り難く 得 難 き者はなく 候 間 、 ひとり なにぶん 一 人 にてもこれ有らば、 何 分 大切にすべし。 元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降、男子の成人を示すものとして行われ る儀式のことであり、通過儀礼の一つである。 「丸岡藩」 丸岡藩は,越前丸岡城(坂井市)を居城とした藩です。 1624 年,福井藩二代藩主松平忠直の家臣だった本多成重が,福井藩から独立し, 46300 石の譜代大名となりました。(1626 年には,43300石)。しかし,1695 年,丸 岡騒動によって本多氏は領地を取り上げられます。 代わりに丸岡藩主となったのは,越後国糸魚川藩主だった有馬清純でした。(外様。 後に譜代並)有馬氏は,本多氏の丘陵に一部加えた50000石の藩主となります。 有馬氏丸岡藩の領地は,現在の坂井市を中心とし,あわら市・永平寺町・南越前町 の一部を含んでいました。 (出典 ふくい の先人たち 近世 「福井県立こども歴史文化館 出版)