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Page 1 Page 2 Page 3 という詩が有るが、 陸游は此の詩によって愛国
﹁銀頭鳳﹂詞 陸游︵放翁︶
明治大学教養論集 通巻二七四号︵一九九五・一︶一ー四八頁
唐氏への愛情と追憶
結語
キーワード 南宋 詩人陸游 夫人唐氏
田 中 侃 刀
一
一
1
陸游と夫人唐氏
緒言
唐氏との結婚
一
二
三
四
緒言
南宋の詩人陸游は、字は務観、放翁と号した。越州の山陰︵今の漸江省の紹興︶の人である。宋の徽宗皇帝︵趙借︶
の宣和七年︵=二五︶十月十七日の明け方に生まれた。父は北方の転運副使の陸宰で、時に三十八歳であった。母は
唐氏で、唐介の孫、晃沖之の姪であった。
陸游は寧宗の嘉定二年︵一二〇九︶十二月二十九日に八十五歳で没した。干北山の﹃陸游年譜.増訂本﹄︵上海古籍
出版社、一九八五︶には、この十二月二十九日の下に、﹁公元一二一〇年一月二十六日﹂と括弧に入れて記してあるが、
同書の注に拠れば、没年に就いて陳振孫・銭大所両氏は八十六歳説を採っているが﹁非是﹂︵是に非ず︶としている。
ぜ
欧小牧の﹃陸游年譜﹄︵北京・人民文学出版社、一九八一︶では、﹁宋・寧宗、嘉定三年庚午︵一二一〇︶、春、先生卒。
年八十六。﹂としている。欧小牧の年譜には、﹃銭譜﹄の説を引いているが、銭大所は、﹁是歳先生卒。先生題薬嚢詩有
︿残暑織属爾、新春又及薙﹀之句、又未題詩云︿嘉定三年正月後、不知幾度酔春風﹀。則正月間先生尚無悲。陳氏直斎書
録解題謂嘉定庚午年八十六而終者、蓋得其実。宋史本伝云、嘉定二年、年八十五。殆考之未審耳。﹂と述べている。ど
ちらを採るべきか、筆者は特に調べていないが、多くは八十五歳説を採っているようである。
陸游は長寿であったし、生涯に一万余首の詩を作り、九千余首の詩が現存していると謂われるが、優れた詩人であ
り、今も陸游の詩を欣賞し、研究する人々が後を絶たない。人口に膳麦している陸游の詩としては、最後の作品と謂わ
れる﹁示児﹂と題する
死去元知万事空
一2一
但悲不見九州同
王師北定中原日
家祭無忘告乃翁
という詩が有るが、陸游は此の詩によって愛国詩人と呼ばれている。
幕末の大儒の佐藤一斎は、其の著﹃初学課業次第﹄の中に、﹁剣南・滑南二集﹂を挙げて、﹁南宋ノ詩人、放翁ノ右二
出ル者ナシ、熟読スベシ、﹂と記している。
筆者は、約四十年前に、漢学誌﹃斯文﹄第十二号︵斯文会、昭和三十年三月、一九五五︶に﹁陸詩に於ける人間像﹂
と題する小論を発表した。其の前年に明治大学の教壇に立ったばかりの未だ二十七歳の若輩であった。右の論稿は、板
本の﹃陸放翁詩紗﹄︵全四冊︶と、弘文堂の鈴木虎雄氏の﹃陸放翁詩解﹄︵全三冊︶と、アトリエ社の﹃漢詩大講座・第
七巻﹄中の岩垂憲徳氏の陸詩の解説とだけを材料にして書いたもので、乏しい資料で書いた大胆さに、若者の無謀を感
じるが、当時の筆者の詩人陸游の把握は、年老いた今日になって見ても、其れほど的外れだったとは思えない。筆者の
意図は、右に挙げた﹁示児﹂の愛国詩人の面だけではない陸游を強調したかったのであったと思うが、同稿の終りに、
筆者は次の如く書いている。
放翁は、作詩に際して感情の流露、人為を加えぬ自然のまま、と云う点を尊重している。
彼が生涯の大半を過ごした官吏としての生活は不遇であって、胸を張って意気を示しても覆い隠せぬ失意の淋し
さが詩に溢れている。と同時に、彼は国運の衰退を歎く愛国の官吏でもあり、詩人でもあった。
彼は彼の尊敬する詩人の如く、酒を嗜み、彼の憂欝を酒の酔いに紛らした。彼の詩には酔中から生まれた佳吟も
一3一
多い。
彼は官吏として他郷に久しく客となった。望郷の念の已み難かった彼は、故郷の地に還ってもなお、旅愁を抱く
程であった。
彼は病身であり、若い頃から衰弱を感じていた。老いを歎く詩も亦た多いのである。﹁寛為農夫死 白首負功名﹂
と時に眩く彼であった。
彼は老いて友を失う淋しさに堪えられず、故人を偲び、又、周囲に集う友を愛した。
此の人間に対する愛着は、﹁小雨偶出隣里小児競随吾後不知其意何也﹂と謂う児童への愛情や、己れの妻や子に
対する愛情や、先妻への思い出などに成って、彼の詩に詠まれているのである。
彼の詩を通して、彼の生活や性格を判断して、然る後に描き得た彼の人間像は斯の如きものであった。
筆者は、四十年後の今なお、陸游の詩に頗る魅力を感じている。右の小論を発表してから、今日に至るまで機会有る
毎に、中国や日本で刊行された陸游の詩に関する書を集め、旙いて来た次第である。そこで、周知のことではあるが、
陸游の、夫人唐氏に対する愛情と追憶の詩を挙げて、若干の考察を加えたいと思う。
二 唐氏との結婚
本稿執筆に際して使用した主な資料は、先ず、﹃陸放翁全集﹄︵全二冊、滑南文集・剣南詩藁・放翁逸稟・南唐書・老
學庵筆記・家世蕾聞・齋居紀事を所収、計一千七百三十七頁、台北・世界書局、一九六三年︶で、此れは注などは無い
一4一
が、陸游の殆ど総ての著作が集められていると言っていいだろう。更に、前章に引いた子北山の﹃陸游年譜・増訂本﹄
︵全六百六十八頁、上海古籍出版社、一九八五年︶は、詳細を極めた年譜である。詩の解釈に就いては、簡潔であるが
鈴木虎雄著﹃陸放翁詩解﹄︵全三冊、計一千一百四十四頁、弘文堂、昭和二十九年︶が参考になった。また、何と言っ
ても銭仲聯校注﹃剣南詩稿校注﹄︵全八冊、計四千八百七十三頁、上海古籍出版社、一九八一年︶は、詳細な内容の注
が掲げられている。但し、詩の通釈は無い。﹃剣南詩稿﹄は、陸游の詩が制作順に収められており、﹁詞﹂は入っていな
いが、陸詩の研究資料として扱う上で、利用価値が大きい。以上が主に使用した資料である。
さて、年譜に拠れば、宋の高宗︵趙構︶の紹興七年︵一一三七︶、陸游十三歳の時、彼は﹁好読陶淵明詩、至忘寝
食。﹂であったと謂う。紹興十一年、陸游十七歳の時には、﹁熟読王維詩。﹂であったと謂い、翌年の紹興十二年には、
﹁努力学詩、始従曾幾游。﹂と謂う。少年時代から詩への関心の高かったことが分かる。因みに、﹃剣南詩稿﹄には、此
の年に詠んだ詩から収められている。
紹興十四年︵一一四四︶、陸游二十歳の年に唐氏と結婚したと謂われる。此の年に﹁菊枕詩﹂という詩を詠んでいる
が、残っていない。然し、此の﹁菊枕詩﹂に就いては、﹃剣南詩稿﹄巻十九に、﹁余、年二十時、嘗作菊枕詩、頗伝於
人。今秋、偶復采菊縫枕嚢、棲然有感。﹂︵句読は筆者︶と題して、
采得黄花作枕嚢
曲屏深幌悶幽香
喚回四十三年夢
燈暗無人説断腸
一5一
少日曾題菊枕詩
轟編残稿鎖蛛糸
人間万事消磨尽
只有清香似旧時
の二首が掲げられている。﹃剣南詩稿校注﹄の題解に拠れば、此の詩は淳煕十四年︵=八六、陸游六十三歳︶の冬、
厳州の任所で作ったものという。また、﹁﹃唐宋詩醇﹄巻四十五にく沈園の二絶と同じVとしている﹂とある。
右に挙げた詩句の﹁喚回四十三年夢﹂からも、﹁菊枕詩﹂が二十歳の年に詠まれていることは確かであろう。それは、
陸游の結婚が二十歳の年であったことも意味している。
干北山の﹃陸游年譜﹄には、紹興十六年︵=四六︶、陸游二十二歳の年、﹁与唐氏侃離、蓋為本年事。﹂としている。
同年譜の注に﹁務観与唐氏結婚、当在二十歳。不過一、二年、迫干母命、忍痛分飛。因務観自諺、其詳已不可知。現以
し きよ
其︿年二十時嘗作[菊枕詩]﹀及其所回憶之語言尋繹之、当与新婚生活有関、又長子子虞生干二十四歳三月中、知継配
王氏、当在二十二、三歳時来帰。拠此以定唐氏被棄之年、当無大誰。又、唐氏︿干其母夫人為姑姪﹀之説、未可軽信。
詳見三十一歳部分。﹂とある。陸游自身が唐氏との結婚や離婚の事情に就いて語っていないので、詳細が不明であると
いうのである。なお、三十一歳の項の記事に就いては後述する。
一6一
又
欧小牧の﹃陸游年譜﹄︵北京.人民文学出版社、一九八一年︶の、宋・高宗、紹興十四年の項を見ると、﹁春、先生落
第。夏冬間、姿唐氏。﹂とある。夏冬の間に結婚したとあるのは、陸游に﹁菊枕詩﹂が有ったというこどから、菊花の
季節を推定したのであろう。
欧小牧の﹃陸游年譜﹄には、宋・高宗、紹興十六年の項に、﹁先生二十二歳。先生居山陰、当於是年出唐氏。﹂とし、
翌年の紹興十七年の項に、﹁先生二十三歳。先生居山陰、続姿王氏。﹂としている。欧小牧の考証も詳しいが、唐氏に関
しては、子北山の年譜に従って述べよう。
干北山の﹃陸游年譜﹄には、紹興十七年の項に、王氏と結婚したことは記されていないが、翌年の紹興十八年の項に
﹁三月十七日、長子子虞生。﹂と記してある。
そして紹興二十五年︵一一五五︶、陸游三十一歳の項に、次の如き記事が有る。
務観初姿唐氏、抗麗相得而為姑所悪、迫子母命、忍痛侃離。在封建礼教残酷抑圧抑圧下、美満婚姻終成悲劇結
局。務観対此、思想上有極大矛盾、精神上有無限痛苦、屡在詩歌中以比較隠晦之手法表達其個恨哀怨之心情、至干
さいとうほう し
終身不忘。曾子春日出游、相遇干沈氏園、務観賦︿銀頭鳳﹀以寄意。拠各家筆記所載、蓋本年事也。
右の記事中のく銀頭鳳Vは詞︵填詞などとも呼ぶ︶であって、﹃陸放翁全集・上﹄所収の﹃滑南文集﹄巻四十九の詞六
十七首中の第四十三首目に掲げられている。即ち、
錯 錯。
一懐愁緒、
紅麻手、黄縢酒、 満城春色宮摘柳。
東風悪、歓情薄。
幾年離索。 錯
一7一
桃花落、閑池閣。
莫 莫。
山盟雌在、
春如旧、人空痩、 涙痕紅泪錐納透。
錦書難託。 莫
という詞である。楊光治選注﹃絶妙好詞﹄︵武漢市・長江文芸出版社、一九九一年︶という小冊子に、陸游の此の詞が
収められているが、其の説明をみると、
し
此の詞は陸游の若い頃の作品で、先妻唐娩に対する思慕の情を表現している。唐娩は陸游の従姉妹で、結婚後も
非常に仲が好かったが、母親が唐娩を好きでなかったので、二人に離婚を迫り、後には陸游は別な女性と結婚し、
唐娩も別な男性に嫁した。十年後の或る春の日、陸游は沈園に遊びに行って偶然に唐娩と其の再婚した夫とに出会
った。唐魏は召使を遣って陸游に酒肴を贈って挨拶したが、陸游の心は深い悲しみに陥っていて、沈園の垣根に此
の﹁詞﹂を書き付けたのであった。
始めの三句は唐娩が酒を贈った情景を述べた。﹁紅蘇﹂の美しさに満ちた言葉で唐娩の手を描写して、作者が相
変わらず彼女に対して心から愛し慕っていることを表している。﹁満城﹂の句は春の景色を述べているが、また密
かに、唐娩が﹁宮矯の柳﹂であって、眺められても手に触れ難いことを署えている。﹁東風悪﹂の句は、封建的な
家長の残酷さと憎むべきこととを述べており、﹁歓情薄﹂以下の三句は離婚後の苦痛を述べている。最後の三つの
﹁錯﹂の字は、まだ断固として封建的な礼教に反抗できずに、大きな過ちを犯してしまった烈しい後悔の念を表現
している。
一8一
次の﹁春如旧﹂の始めの部分は、酒肴は有るが恋する人は居ないという嘆息を吐露している。﹁人空﹂﹁涙痕﹂の
両句は、唐娩の悲哀を描いたもので、二人の感情がひたむきであることを説明している。﹁桃花落﹂﹁閑池閣﹂の、
行く春の景色の描写は、悲哀の感情を引き立たせている。続いて、眼前の現実に戻って、﹁山盟錐在、錦書難託﹂
は、一切が既に取り戻せない実情を描いたのである。﹁莫、莫、莫﹂という言葉で、結婚生活を全う出来なかった
悲しみを訴えざるを得なかったのである。詞は、平易な言葉で纏綿として尽きない苦痛を訴えており、人を感動さ
せる。一説では、唐娩は此の詞を読んだ後で此の詞に続けて、
世情薄、人情悪、雨送黄昏花易落。
暁風乾、涙痕残、欲箋心事、
独語斜關。難 難 難。
人成各、今非昨、病魂常似秋千索。
角声寒、夜閲珊、伯人尋問、
咽泪版歓。隔 隔 朧。
という詞を詠んで、間もなく煩悶の中に世を去ったという。
以上の如く述べている。此の陸游の詞﹁銀頭鳳﹂は、よく知られた詞で、 批評も色々有るが、柳光治の批評は簡潔にし
て、而も詞意を十分に把握していると思う。
一9一
えん
此の柳光治の説明中に、陸游の夫人唐氏の名を娩としているが、子北山の﹃陸游年譜﹄の紹興二十五年の項には、名
も含めて、夫人唐氏に関して詳しい記事が有る。其の大意は次の如くである。︵考証は同年譜を参照して頂きたい。︶
こう おばめい
ぞくこてつ おばめい
周密の﹃斉東野語﹄に、陸游の妻は唐閾の娘で陸游の母とは姑姪の関係だと謂われているが、骨肉の間柄で離婚
を迫るのは人情に惇る行為であるから、信じ難い。﹁族姑姪﹂︵遠縁の姑姪︶と見るべきである、と。
①北宋に唐栩という人がおり、鴻臆少卿に成っている。其の長男の闊が、周密が陸游の妻の父親だという人であ
る。
②陸游の母は唐介の孫で、北宋の王珪の﹃唐質粛公墓誌銘﹄に拠れば、唐介は唐末に余杭に乱を避け、其の祖の
うつ
滑の時に、家を江陵に徒した。唐翔と同祖だとしても、陸游の妻の唐氏と、陸游の母の唐氏とは直接の骨肉関係は
ぞくこてつ しゆうとめ よめ
無い。
③陸游の母親と陸游の妻とは﹁族姑姪﹂の関係であったとすべきである。姑と嫁との仲違いは、封建社会では
よく見られる問題である。
けいせん
④陸游の妻の唐氏の名は伝えられていない。唐娩であったとも、唐惹仙であったとも謂われるが、信ずるに足り
ない。
以上のように述べている。︵丁伝靖の﹃宋人軟事睡編﹄中には、娩を碗としている。︶
陸游の夫人唐氏が、なぜ陸游の母親に疎まれたのか、確実には分からないが、之に反して、陸游と夫人唐氏との仲が
好かったことだけは確かである。
干北山﹃陸游年譜﹄には、其の辺の事情も詳しく注記している。ここに注の概略を紹介して置く。
陳鵠の﹃脅旧続聞﹄巻十に、﹁自分が若い頃、会稽に行って、許氏の庭園を訪れたことが有ったが、壁に陸放翁
一10一
が詞を書いて有るのを見た。筆勢は瓢逸であった。沈氏の庭園に書いたのは、辛未の年の三月︵子北山は紹興二十
一年、陸游二十七歳の年に当たると注記︶である。
放翁は、先室の唐氏とは琴麸甚だ和していた。然し、母親との折り合いが悪かったので、離婚してしまった。夫
婦の情としては実に忍びないことであった。唐氏は後に南班の名士︵皇族の子弟︶某と結婚した。邸は庭園も建物
も立派であった。或る日、放翁が庭園を訪れたことを聞いて、別れた妻は酒食を放翁に贈って好意を示した。放翁
は其の心情に感動して、此の詞を賦したのである。別れた妻は其の詞を見て、︿世情薄、人情悪﹀の詞を作ったと
いう。そして幾らも経たない中に、心楽しむこと無く世を去った。話を聞いた者は皆な気の毒に思った。此の沈氏
の庭園は後に許氏の庭園になった。淳煕年間には、放翁の詞を書いた壁は残っていて、好事家が竹や木で壁を保護
していたが、今はもう残っていない。﹂とある。
右の原文には、﹁︵前夫人唐氏が︶後適南班士名某、家有園館之勝。務観一日至園中、去婦聞之、遣遺黄封酒果饒、通
患勲。公感其情、為賦此詞。云々﹂︵南班名士某とする本が有る︶とある。沈氏の園は後に持ち主が変わって、許氏の
園になったらしいが、此の文から見ると、陸游が必ずしも沈氏の園で前夫人唐氏に再会したことにはならないであろ
う。唐氏が再婚した相手の趙士程の邸の庭園とも解釈できる。﹃滑南文集﹄巻四十九所収の詞﹁銀頭鳳﹂には前書が無
く、﹁銀頭鳳﹂という題名が有るだけである。従って、沈氏の庭園で再開した時に﹁銀頭鳳﹂の詞を作ったのかどうか
は判然としない。
陸堅主編﹃陸游詩詞賞析集﹄︵巴蜀書社、一九九〇年︶二九四頁以下に鍾璋の﹁銀頭鳳﹂詞の批評が有るが、その中
に、
﹁銀頭鳳﹂の事情に関しては、南宋の陳鵠の﹃書旧続聞﹄と周密の﹃斉東野語﹄とに、総て記載されている。前
一11一
者は、陸游が紹興二十一年︵=五一︶に唐娩の後夫﹁南班名士某﹂の園館の中で﹁銀頭鳳﹂を書いたとしてお
り、後者は、此の詞は陸游が紹興二十五年︵=五五︶の春の日に沈園で遊んだ時、唐娩と其の後夫の趙士程と、
偶然に出会って、感ずるところが有って沈園の壁に書きつけたものだとしている。
と述べている。そして、時間や場所が、両書で異なっていることに就いて、清の呉審は、﹁後世の物好きが、陸游の詩
や詞から附会した話である﹂としていると指摘している。更に、干北山の年譜には、次の記事も有る。
劉克荘の﹃後村先生大全集﹄巻一七八に、﹁放翁は若い頃、両親の教育や監督が甚だ厳しかった。初め某氏の娘
と結婚して、夫婦の仲が非常に好かった。両親は、仲が好くて学問を怠るのではないかと心配し、放翁の妻を度々
智めた。放翁は両親の気持ちに逆らわず、妻と別れてし裳った。放翁の妻は官吏と再婚したので、再婚相手は放翁
とは官吏として知り合いであった。云々﹂とある。
こてつ
周密の﹃斉東野語﹄巻一の﹁放翁鍾情前室﹂に、﹁陸務観︵陸游︶は初め唐氏を嬰ったが、唐閃の娘であった。
陸游の母親とは姑僅の関係である。夫人唐氏は陸游とは仲が好かったが、陸游の母親とは仲が悪かった。二人は離
婚してからも別れ難くて、別な家を用意して、時々往っては会っていた。母親が気づいたので更に別な場所に移し
たりしたが、結局は隠し切れずに、遂に別れてしまった。唐氏は其の後、趙士程と結婚した。或る春の日に、趙夫
婦が禺 寺の南の沈氏の庭園を訪れると、陸游も偶然に庭園に来ていた。唐氏は夫の趙に事情を説明して、酒肴を
贈ったのであった。陸游は、嘆息して︿銀頭鳳﹀の詞を賦して、壁に書きつけたと云う。実に紹興乙亥歳︵紹興二
十五年︶のことである。陸游は、晩年、帰郷すると、必ず萬 寺の山に登って景色を眺め、懐旧の情に堪えなかっ
たと云う。云々﹂とある。
右に引いた以外にも、干北山は其の注記の中に、夫人唐氏への愛情が窺われる陸游の詩を挙げているが、詩に就いては
12一
後述する。
以上述べて来たことから、陸游と夫人唐氏との関係に就いて、陸游の母親の唐氏と陸游の夫人唐氏とが伯母と姪の間柄
であることに、必ずしも確証を得難いことが分かった。また、陸游と夫人唐氏とは非常に愛し合っていたのに、陸游の
母親唐氏と陸游の夫人唐氏とは折り合いが悪かったことが分かった。更に、陸游と唐氏とが離婚した理由は、陸游の両
親が、陸游と妻とが余りに親密で陸游の学問を妨げると心配した為と、陸游が両親の意向に素直に従ったこととである
と謂われている事が分かった。また、陸游が別れた妻のことを晩年に至まで忘れ兼ねていたらしいことも分かった。
陸游は紹興十七年︵二十三歳︶に王氏と結婚したと考えられており、翌年には長子も誕生している。未だ詳しくは調
べていないのであるが、陸游と王氏との間には七人も男の子が生まれているのに、陸游の詩には、子供に与えた詩など
は見受けるが、夫人王氏を思う詩は見当たらないようである。夫人王氏との安定した生活が有った為に、前夫人唐氏を
偲ぶ詩が作れたのだろうか。或いは、前夫人唐氏は離婚による心の傷が癒されぬまま、早く世を去ったというから、陸
游の追慕の念も強かったのかも知れないし、また、いくら前夫人唐氏を慕っても此の世に存在しなければ、現実の家庭
生活に罐が入ることも無かったに違いない。
干北山の﹃陸游年譜﹄には記載していないが、欧小牧の﹃陸游年譜﹄には、宋・高宗・紹興三十年︵=六〇、陸游
三十六歳︶の項に、﹁是年、先生故室唐氏卒。﹂と記してある。但し、唐氏の年齢は分からない。また、欧小牧の年譜に
は、紹興十七年︵=四七︶の項に﹁続嬰王氏﹂としており、紹興二十五年の項に﹁春末、与唐氏遇干城南沈園・為賦
﹃銀頭鳳﹄詞。﹂としている。
欧小牧の年譜に拠れば、宋・孝宗の淳煕五年︵一一七八、先生五十四歳︶の項に、﹁是年以前、先生嬰妾楊氏於蜀。﹂
とある。同年譜の注には、
一13
宋・陳随隠﹃随隠漫録﹄、﹁陸放翁宿駅中、見題壁云、︿玉階蠕蝉岡清夜、金井梧桐辞故枝。一枕凄涼眠不得、呼
燈起作感秋詩。﹀放翁詞之、駅卒女也。方余半載、夫人逐之。云々
と言う話を引いている。更に清の王士禎の﹃池北偶談﹄巻十三から、﹁此の詩は駅卒女の詩ではなく、﹃剣南集﹄を見る
と、放翁が蜀に在る時の詩である。﹂という話を引き、また、欧小牧の注として、此の詩が﹃剣南詩稿﹄巻八に見え、
﹁感秋﹂という題であることを記している。但し、欧小牧は、陳随隠の話は創作だとしているが、陸游に妾が有ったこ
とは事実だと考えているようで、﹁文集巻二十三﹂所収︵筆者所蔵の﹃滑南文集﹄では巻三十三、年譜は誤植であろう︶
の﹁山陰陸氏女女墓銘﹂に、﹁女女所生母楊氏。蜀郡華陽人。﹂と有るのを根拠とし、且つ陸游の息子の子布は妾の楊氏
の子ではないか、と疑っている。
銭仲聯校注﹃剣南詩稿校注﹄︵上海古籍出版社、一九八一年︶の第二冊所収の巻八に﹁感秋﹂と題する詩が見える。
即ち、
西風繁杵播征衣、
客子関情正此時。
万事従初珈復爾、
百年彊半欲何之。
書堂蠕蜂怨清夜、
金井梧桐辞故枝。
一枕凄涼眠不得、
一14一
呼燈起作感秋詩。
という詩である。
銭仲聯の注記に拠れば、此の詩は淳煕四年︵一一七七、陸游五十三歳︶の七、八月頃、成都で作ったという。欧小牧
が引いた陳世崇の﹃随隠漫録﹄の﹁放翁詞之、駅卒女也。遂納為妾。方余半載、夫人逐之。云々﹂の記事も引いてい
る。また、宋長白の﹃柳亭詩話﹄巻十一より、﹁務観前妻見逐於其母、此妾又見逐於其妻。銀頭讐鳳、大小一揆、盧江
吏、漏敬通、殆合而為一身者乎。﹂という記事を引いている。また、欧小牧が引いた王士禎の﹃池北偶談﹄の記事も挙
げている。﹃剣南詩稿校注﹄の著者・銭仲聯は、﹁感秋﹂の詩に就いて、﹁宋人が此の詩を割って絶句とし、陸游が駅卒
の娘を納れて妾にしたという出鱈目な話を作ったもので、信じられない。﹂としている。然し、陸游は確かに蜀の女を
妾にしていたとして、欧小牧の如く﹁山陰陸氏女女墓銘﹂を挙げて例証としている。此の陸游の妾に関する見解は、欧
小牧の﹁年譜﹂と銭仲聯の﹁校注﹂と、刊行が殆ど同時期であるため、どちらが先に説いているのか、或いは両者が拠
った説が既に有ったのか、現段階では詳らかではないが、ともあれ、陸游に妾がいたということでは、見解が一致して
いる。
陸游は夫人唐氏と離婚後、二十三歳の紹興十七年︵=四七︶に、王氏と結婚しているが、王氏は陸游より二歳年下
で高宗の建炎元年︵=二七︶に生まれている。子北山の﹃陸游年譜﹄の注に拠れば、蜀郡晋安澄州刺史の王鰭、字は
蜴之の娘であった。王氏は、宋の寧宗の慶元三年︵二九七︶五月に、七十一歳で没した。﹃滑南文集﹄巻三十九の末
尾に﹁令人王氏壊記﹂が収載されている。
﹃剣南詩稿﹄巻三十六には次の詩が収められている。
一15一
自傷
朝雨暮雨梅子黄、
東家西家篶蘭香。
白頭老解嬰空堂、
不独悼死亦自傷。
歯如敗履髪如霜、
計此光景寧久長。
扶杖欲起輻朴躰、
去死近如不隔播。
世間万事倶荘荘、
惟有進徳当自強。
往従二士餓首陽、
千載骨朽猶券芳。
﹃剣南詩稿﹄の詩は、制作順の配列になっていると考えられるが、巻三十五に﹁丁巳正月二日、云々﹂の題の詩が有り、
﹁丁巳﹂は慶元三年であるが、其の後の詩の題が、﹁立春日﹂﹁暮春﹂等となっていて、巻三十六の詩になっている。巻
一16一
三十六では、﹁清明﹂﹁初夏﹂などの題の詩が有って、此の﹁自傷﹂の詩になっている。従って此の詩は、婦人王氏の没
ま いた
後、間も無く作られたものであろう。
﹁白頭の巻徽、空堂に黙す。独り死を悼むのみならず、亦た自ら傷む。﹂︵老鰹は、妻を失った年寄りの男。鰹は、ヤ
モオという。︶という詩句は、白髪の老人である自分は一人きりの部屋で泣いているが、亡くなった妻を悼むばかりで
なく、自分自身をも悲しんでいる、という意味である。﹁杖に扶って起たんと欲して、輯ち鉢に什る。死を去るに近き
よ すなわ しよう たお
こと、摘を隔てざるが如し。﹂は、杖に縄って立ち上がろうとしても、ベッドに倒れ込んでしまい、死が迫って来てい
て、死と自分との間の垣根も無くなって来たようだ、という意味の詩句である。
かなり打ちひしがれた作者の気持ちを表現した詩であると言えようが、然し、最愛の妻を失った悲しみよりも、作者
自身の孤独感の方を強く感じて詠んでいるように見える。
﹁自傷﹂よりも少し前に詠んだ作品で、同じ巻三十六に、次の詩が有る。
衰病
衰病集余日、
推移成老翁。
衡門隠者趣、
大布古人風。
几杖坤吟裏、
一17一
山川葬蒼中。
従来世縁薄、
不是坐詩窮。
此の詩で見ると、陸游は、自分の肉体的な衰えをかなり気にしていたらしく、病気や老齢による肉体的な衰えを題材に
した詩は、他にも幾首も見受けられる。
﹁自傷﹂の詩の後に、同じく巻三十六に、﹁夢中遊萬祠﹂と題する詩が有る。陸游の詩には、﹁夢﹂を詠んだ詩が多い
のも特色である。本当に夢を見たのか、それとも空想に耽ったのを夢と称しているのかは分からない。﹃剣南詩稿﹄巻
三十四には、夢の中で仲間と集まって詩を作り、﹁⋮⋮⋮詩成而覚、忘数字而已。﹂という作品まで有る。﹁夢中遊禺祠﹂
の詩は﹃剣南詩稿校注﹄では、慶元三年の秋に山陰で作った詩だと注している。その詩は、
湖上無人月自明、
夢中髪髭得閑行。
庭空満地椴梧影、
風壮侵雲鼓角声。
世異客懐増惨愴、
秋高歳事已岬礫。
長歌忽遇騎鯨客、
一18一
喚取同朝白玉京。
という詩である。此の禺祠に就いて、現段階では、詳しいことを知り得ていないのであるが、陸游の詩や詩の題に、萬
祠・禺廟・萬寺・禺跡寺という名が見えている。此の中、禺祠と禺廟とは同じ廟を指し、萬寺と萬跡寺とは同じ寺を指
すと考えられるのであるが、此れ等は総て会稽県の東南に所在するらしく、銭仲聯﹃剣南詩稿校注﹄の注には、禺廟
︵禺祠︶は会稽県の東南一十二里、禺跡寺︵禺寺︶は、会稽の府の東南四里二百二十六歩の所に在る、とあるが、相互
の位置関係は分からない。禺祠は、先に引いた周密の﹃斉東野語﹄巻一に﹁晩歳入城、必登寺眺望、不能勝情。﹂とあ
った萬寺の近くなのだろうか。夫人王氏没後半年で、前夫人との思い出に関わる地を夢に見ているのであるが、王氏没
後約一年の陸游の詩を見ても特に王氏を偲んだと思われる詩は無い。勿論、先述の、妾としたという駅卒の娘に関する
詩も見当らないから、老齢の陸游にとって、前夫人唐氏の思い出と、自分の健康状態乃至は老衰とが、夫人王氏の死去
よりも大きな関心事であったように見受けられる。
干北山の﹃陸游年譜・増訂本﹄︵上海古籍出版社、一九八五年︶の、紹興十四年︵一
﹁菊枕詩﹂と題する詩を陸游が
一四四︶、陸游二十歳の年の項
三 唐氏への愛情と追憶
に、﹁与唐氏結婚、蓋在此時。﹂とある。先述の如く、今日残ってはいないが、此の頃、
作っていることは、﹃剣南詩稿﹄巻十九にある詩の題から察せられる。
一19
恐らく、紹興十六年には、陸游は夫人唐氏と離婚している。そして、紹興十七年︵陸游二十三歳︶に、王氏と再婚し
ている。
﹃剣南詩稿﹄は、詩の制作順に収載されているとも考えられるが、巻一の第一首の﹁別曽学士﹂と題する詩は、紹興
十二年︵十八歳︶の作であるが、第二首の﹁送仲高兄宮学秩満赴行在﹂と題する詞は、紹興二十一、二年︵二十七、八
歳︶頃の作である。第三首の﹁題閻郎中漂水東皐園亭﹂の詩は、紹興二十四年︵三十歳︶の作である。第四首からは、
嘉定二年︵一二〇九︶十二月の﹁示児﹂の詩に到るまで、各年次の作品が収載されている。
なお、第二首の﹁仲高﹂は、﹃剣南詩稿﹄巻十五収載の詩﹁重楼傑閣筒虚空、紅日蒼煙正欝葱。云々﹂の長い前書に、
﹁紹興中、与陳魯山・王季夷・従兄仲高、以重九日、同遊禺廟。云々﹂と書かれている人である。従って、紹興二十一、
二年の頃、陸游が仲間と禺廟に遊びに出掛けていることが分かる。先述の、陳鵠の﹃脅旧続聞﹄巻十に﹁見壁間有放翁
題詞云⋮⋮⋮筆勢瓢逸。書干沈氏園、辛未三月題。﹂とあるのに、子北山が、﹁拠此、則応在二十七歳時。﹂と、陸游の
﹁銀頭鳳﹂の詞が作られた年代を推定しているが、陸游が屡々萬廟を訪ねているとすれば、二十七歳の頃、近くの沈園
に立ち寄って﹁銀頭鳳﹂を書き付けた可能性が無いとは言えないであろう。但し、通説では、紹興二十五年︵=五
五、﹂陸游三十一歳︶に、﹁曾干春日出游、相遇子沈氏園、務観︵陸游︶賦﹃銀頭鳳﹄以寄意。﹂ということになってい
る。
さて次に、﹃剣南詩稿﹄の数多い作品の中から、陸游が前夫人唐氏を愛し偲んでいる詩を中心に、幾つかの詩を拾い
出して見よう。
陸游が自分の健康状態をかなり気にしていたらしいと言うことは既に述べたが、早くも巻一に﹁病中作﹂と題する孝
宗の乾道元年︵一一六五、四十一歳︶に隆興府で作った詩が有る。詩句は、
一20一
予章瀕大江、
気候頗不令、
孟冬風薄人、
十室八九病。
外寒客肺胃、
下湿攻脚脛、
俗巫医不藝、
鳴呼安託命。
我始屏薬嚢、
治疾以清静。
幻妄消六塵、
虚白全一性。
三日体遂軽、
成此不戦勝。
長年更事多、
苦語君試聴。
一21
という詩であるが、まだ四十一歳なのに、余り健康でないような口ぶりである。勿論、此の詩を作った時に、陸游が滞
在していた土地は南昌の近くで、誰しも健康を害してしまうような土地らしい。然し、陸游の健康状態が良くなかった
ことも確かであろう。乾道三年十月には、山陰で作った﹁衰病﹂と題する詩二首も有る。一首目は即ち、
衰病不浪出、
閉門煙雨中。
葦花添紫暖、
封火試炉紅。
仕宙鎧箕夢、
功名馬耳風。
山翁但更事、
人看作神通。
という詩である。但し、二首目は、﹁病除猶老健、雨止得冬晴。云々﹂という詩だから、深刻な宿痢を抱えていたとは
思われない。同じ乾道三年の十二月に詠んだ﹁十二月一日﹂と題する詩二首の、一首目には、﹁病愈都忘老、晴和已似
春。云々﹂という詩句も有る。
陸游は、紹興二十八年︵三十四歳︶に役人に成ってから、転勤させられたり、誠首されたり、再任されたり、と慌た
だしい生活であったらしく、憂さを晴らすための飲食も必要であったらしい。﹃剣南詩稿﹄巻三に、乾道八年︵=七
22一
﹁宙情は苦だ薄く、 酒興は濃かなり。﹂︵仕官の志は極めて乏しく、酒を楽し
はなは
一日亦可惜。云々﹂と詠んでいる。また、﹃剣南詩稿﹄巻四の、乾道九年の夏
二、四十八歳︶春の作で、﹁酒無独飲理﹂ と題する詩が有るが、﹁酒無独飲理、常恨欠佳客、忽得我輩人、宣計農与夕。
少年事虚名、歳月駒過隙。自従老大来、
の作に﹁凌雲酔帰作﹂という詩が有る。
峨帽月入平苑水、
歎息吾行俄至此。
諦仙一去五百年、
至今酔魂呼不起。
破黎春満琉璃鍾、
宙情苦薄酒興濃。
飲如長鯨渇赴海、
詩成放筆千膓空。
十年看尽人間事、
更覚麹生偏有味。
君不見蒲萄一斗換得西涼州、
不如将軍告身供一酔。
此の七言古詩は、戯れに詠んでいながら、
一23一
む気持ちは大いに有る︶という詩句等に本音が出ているようでもある。。陸游と酒のことは此の程度に止めて置こう。
官吏として各地を転勤していた陸游が、父親を偲んだ詩が、﹃剣南詩稿﹄巻六に有るので、次に掲げて置く。
宿彰山県通津駅大風、
隣園多喬木、終夜有声。
木欲静風不止、
子欲養親不留、
夜調此語涕莫収。
吾親之没今幾秋、
尚疑捨我而遠遊。
心翼乗雲反故丘、
再拝奉膓陳膳差。
陶盛治米声婁嬰、
木甑炊麩香浮浮、
毛墓屑桂調甘柔、
稚竈煮腔長魚脇。
夜敷枕席視裳禍、
24
農起黒籠進衣装。
哀楽此志終莫酬、
有言不聞九泉幽。
北風歳晩号松椴、
哀哉万里為食謀。
陸游の孝心を窺わせるものが感じられるが、親の意見に従って、心ならずも夫人唐氏と別れてしまった事も、此の詩の
如き親に対する気持ちと無関係ではなかったと想像される。
さて、陸游が官吏に成って、約二十年間の赴任による旅の生活から帰郷できたのが、孝宗の淳煕五年︵一一七八︶九
月で、銭仲聯の﹃剣南詩稿校注﹄巻十の﹁派難﹂と題する詩の題解には、其の頃の作だと注しているが、其の後も他郷
に赴任することが有り、本格的に落ち着けたのは、淳煕八年以後のようである。即ち﹃剣南詩稿﹄巻十三所載の﹁辛丑
正月三日雪﹂の詩は郷里で作っている。
﹃剣南詩稿﹄巻十四所載の、﹁夏夜舟中聞水鳥声甚哀、若日姑悪。感而作詩﹂という題の詩が有る。淳煕十年︵一一
八三、五十九歳︶の作である。
女生蔵深閨、
未省窺將藩。
上車移所天、
一25一
父母為宮門。
妾身錐甚愚、
亦知君姑尊。
下躰頭鶏鳴、
杭髪著禰裾。
堂上奉漉掃、
厨中具盤娘、
青青摘葵菟、
恨不美熊踏。
姑色少不恰、
衣挟渥涙痕。
所翼妾生男、
庶幾姑弄孫。
此志寛蹉駝、
薄命来読言。
放棄不敢怨、
所悲孤大恩。
古路傍破沢、
26
微雨鬼火昏。
君聞姑悪声、
無乃遣婦魂。
という詩であるが、陸游が女性の身、即ち既に亡くなった前婦人唐氏の身、に成り変わって詠んだ詩だと考えられてい
る。
銭仲聯の﹃剣南詩稿校注﹄の題解には、次の如く記されている。
此詩淳煕十年五月作於山陰。
銚範・援鶉堂筆記巻四十七云、﹁放翁姑悪詩題云、﹃夏夜聞水鳥声甚哀苦、若日姑悪、感而作詩﹄。按放翁初嬰唐
氏、不得於姑而出。翁暮年沈氏園詩所以作也。翁意未必感此、然非所宜命題也。﹂
按、此詩蓋有感於当前政治上之失意而発。
銭仲聯は、官吏である陸游の政治生活上の失意から生まれた詩と解しているが、干北山の﹃陸游年譜﹄の淳煕七年︵一
一八〇、五十六歳︶の項の一つに、﹁自戊陽取道衙州、至厳州寿昌県界、得旨、許免入奏、傍除外官。陸行至桐盧、始
浸江東帰。旋為給事中趙汝愚所劾、遂奉祠。﹂とある。但し、欧小牧の﹃陸游年譜﹄には、淳煕八年の項に、﹁三月二十
七日、臣僚論先生︵陸游︶不自検筋、所為多越干規矩、屡遭物議。給事中趙汝愚其堤挙准南東路常平茶塩公事新命、遂
罷職閑居。﹂とあって、其の考証も有るが、子北山の年譜よりも、一年ずれている。
銭仲聯の引用する挑範の﹃援鶉堂筆記﹄には、右に挙げた詩の題が﹁夏夜聞水鳥声甚哀苦、若日姑悪、云々﹂となっ
ていて、﹁若﹂の字の前に、﹁苦﹂の字が入っている。世界書局版の﹃陸放翁全集﹄所収の﹃剣南詩藁﹄巻十四の、右の
一27一
詩の題にも﹁苦﹂の字は入っていない。銚範の誤写であろうか。
また、銭仲聯の校記には、明の刊年の須渓本には題を﹁舟中聞姑悪﹂としている、と述べている。原題の短縮であろ
うか。
﹁姑悪﹂は、水鳥の名である。﹃辞海。新版﹄上巻︵中華書局、一九六五年︶の﹁姑悪﹂の項には、次の如く記され
ている。
鳥名。即苦悪鳥。蘇載﹃五禽言﹄第五詠姑悪自注、﹁姑悪、水鳥也。俗云婦以姑虐死、故其声云。陸游﹃夏夜舟
中聞水鳥声﹄詩、云々
と説明しているが、同辞典に拠って﹁苦悪鳥﹂の項を見ると、次の如く記されている。
苦悪鳥︵﹀ヨ凶貫o﹁三ω90①巳o霞二ω〇三器弓ω凶ω︶亦称﹁姑悪鳥﹂、﹁白胸秩鶏﹂。鳥綱、秩鶏科。体長約三十五糎、
背部羽毛茶褐色、前額、頭側以至喉、胸腹和腿部純白色。肛周及尾下黄褐色。翼短、飛翔力弱。行走時低昂不巳。
常在水田或水浜覚取虫、螺或種子為食。鳴声好像﹁姑悪、姑悪﹂。夏季遍布我国長江流域、福州以南各地終年可見。
つまり﹁苦悪﹂と書き、﹁姑悪﹂と表記していることは、鳥の名が鳴声に由来していることを示すものであろう。﹁苦﹂
の呉音はク、漢音はコ、﹁悪﹂は、呉音・漢音ともアク︵わるい、の意︶、及び呉音ウ・漢音オ︵にくむ、の意︶、﹁姑﹂
の呉音はク、漢音はコ、である。﹁秩鶏﹂は、クイナの仲間らしい。
此の詩の前書は、﹁夏の夜、舟の中で、水鳥の声が哀し気に︿姑悪﹀というように鳴くのを聞き、心を動かされて詩
を詠んだ﹂という意味であるから、此の詩の制作動機は、水鳥の﹁姑悪﹂という鳴き声であることは確かで、陸游が頭
の片隅に、亡き前婦人唐氏を思い浮かべていたと解しても、誤ってはいないと思われるが、女性の立場の詩として、謂
わば女性に変身して詠んでいる点から見て、此の詩の場合、前婦人唐氏を偲び、唐氏の心を代弁して詠んだ詩である、
一28一
と言える程には、亡き唐氏への強い追憶が感じられる詩ではないように思われる。但し、陸游の﹁姑悪﹂を詠んだ詩は
しゆうとめ
他にも有って、鳥の名にかこつけて、前婦人唐氏にとって姑であった陸游の母親に対する屈折した感情を詠んでいる
と思われるのである。
ともあれ、﹃剣南詩稿﹄の、右の詩の前にある八首の詩は、﹁軍中雑歌﹂と題されていて、其の終りの二首は、次の如
くである。
漁陽女児美如花、
春風楼上学琵琶。
如今便死知無恨、
不属番家属漢家。
北庭荘荘秋草枯、
正東万里是皇都。
征人楼上看太白、
一29一
又
又
思婦城南迎紫姑。
姑悪の詩と同じ頃に詠んだ詩と考えられるが、内容的に見て、暗く沈んだ心から生まれた詩とは思われないとすれ
ふかで
ば、姑悪の詩に陸游の心の深手を感じなくても、不思議ではあるまい。
因みに、右の二首目の﹁紫姑﹂とは厨の神で、生前、人の妾であったが、正妻に嫉妬されて、常に厨などの掃除を命
じられて虐待され、遂に正月十五日に死去したと伝えられている。其の命日に紫姑を迎えて吉凶を占う習慣が有ったと
いう。
陸游をめぐる女性は、前婦人唐氏、継配の婦人王氏、そして妾の楊氏、と三人いたが、淳煕十年の此れ等の詩の紫姑
や姑悪という語が直ちにそれ等の女性に結びつくとも考えにくいのである。ただ、陸游が官吏生活で失意の境遇に在っ
て、此の詩を詠んだという見方も、詩の内容から離れ過ぎていると思う。
姑悪の詩と同じ年、即ち淳煕十年九月に作った詩に、次の詩が有る。︵巻十五所収︶
紹興中、与陳魯山・王季夷
・従兄仲高以重九日同遊禺
廟。後三十余年、自三橋浸
舟帰山居。秋高、雨舞、望
萬廟楼殿。重複光景、宛如
当時。而三人者皆下世。予
一30一
亦衰病無柳。慨然作此詩。
重楼傑閣僑虚空、
紅日蒼煙正欝葱。
郷国帰来渾似鶴、
交朋零落不成龍。
人生真与夢何校、
我輩故応情所鍾。
涙漬清詩却回樟、
不眠一夜聴鳴蟄。
此の詩の前書は、陸游が禺廟を望み見て、三十余年前に禺廟に遊んだ時を追憶しているのであるが、陸游の此の詩の
心は沈んでいて、人生の虚しさを、真か夢かという形で感じている。姑悪の詩よりは、深刻である。詩の前書にあるよ
うに、共に遊んだ三名は既に此の世を去り、陸游自身も老衰で病弱の身と成っていて、心淋しい生活を送っていたらし
いから、こういう深刻な心境に成ったのであろう。但し、二歳年下の妻王氏︵継配︶は健在であるのに、此のような心
境を詩の前書に綴っていることは、陸游の孤独感を一そう感じさせる。
﹃剣南詩稿﹄巻十七の、淳煕十三年春に詠んだ﹁遊鏡湖﹂と題する詩には、﹁禺祠柳未黄、云々﹂とあり、陸游は時
折り萬祠の近辺に遊んでいたのではないか、と想像される。又、同じ頃に詠んだ﹁宿石帆山下﹂二首は、
一31一
巻地東風吹釣船、
石帆重到又経年。
放翁夜半酒初解、
落月卿山聞杜鵤。
繋船禺廟酔如泥、
投宿漁家月向低。
淫翠撲人濃可掬、
始知身在石帆西。
という詩で、いかにも詩人らしい日常を詠んでいるが、ここにも禺廟︵禺祠︶を詠み込んでいる。
﹃剣南詩稿﹄巻十八所収の、淳煕十三年秋に厳州で詠んだ﹁夜雨枕上﹂の詩は、
秋雨不肯晴、
秋夜不肯明。
32一
又
寸心集百憂、
厭此点滴声。
歳月不貸人、
老病忽到此。
丈夫本憂世、
児女乃畏死。
という詩であるが、六十二歳の陸游には老衰の自覚が強いようである。ただ、﹁寸心集百憂﹂は必ずしも雨の音だけが
原因ではないらしい。光宗の紹興二年、陸游六十七歳の冬に詠んだ﹁雨声﹂と題する詩の句には、﹁雨声点滴朝復暮、
中有詩人絶塵句。﹂とか、﹁雨声不断睡愈美﹂とか、心地良く雨音を聴いている時も有る。
本稿の始めの部分で既に述べた如く、孝宗の淳煕十四年︵一一八七︶、即ち陸游六十三歳の年に厳州の任地で詠んだ
﹁余年二十時、嘗作菊枕詩、頗伝於人。今秋、偶得采菊、縫枕嚢。棲然有感。﹂と題する詩二首︵巻十九所収︶が有る。
故郷を離れて故郷を思い、青春を回顧するに至ったのであろうか。一首目の詩句に﹁喚回四十三年夢﹂とあり、二首目
の詩句には﹁人間万事消磨尽、只有清香似旧時。﹂とあるように、青年時代・新婚時代の思い出が、菊の香から蘇って
来たのである。
山陰に帰ってから、紹興元年の秋に詠んだ﹁故山﹂四首︵巻二十一︶の、第二首は、
一33一
禺祠行楽盛年年、
繍毅争先器書船。
十里煙波明月夜、
万人歌吹早鶯天。
花如上苑常成市、
酒似新豊不直銭。
老子未須悲白髪、
黄公櫨下且閑眠。
という詩であるが、ここでも禺祠を詠んでいるし、自分の老いを意識もしている。陸游が詩の中で、自身を﹁老子﹂と
称したのは何歳頃からかは、未だ特に調べていないが、陸游四十二歳︵孝宗の乾道二年︶の年に詠んだ﹁上巳臨川道
中﹂の詩では、自らを﹁陸子﹂と称しているのだから、体力の衰えの自覚から﹁老子﹂と称するに至ったものであろ
う。なお、紹興二年秋に詠んだ﹁秋雨﹂と題する詩では、自分を﹁老人﹂と称している例も見られるし、紹興三年春に
詠んだ﹁落魂﹂と題する詩では、﹁落魂江湖七十翁﹂︵実際は此の年に陸游は六十八歳︶と称している。同じく紹興三年
秋の﹁雨夜南堂独坐﹂と題する詩では、﹁老夫眼暗牙歯疎、七十未満六十余。云々﹂と詠んでいる。同じ頃に詠んだ
﹁枕上﹂と題する詩には、﹁少時笑老人、其事今好還。薫薫讐白髪、忽忽七十年。宣惟老熊出、已覚衰病纏。﹂という句
が有るが、陸游は自分の老衰に一種の苦味を感じていたらしい。
また、引用は省略するが、紹興二年の春に山陰で詠んだ﹁禺廟﹂と題する五言古詩も有り、紹興三年秋には、﹁舟中
一34一
望萬祠蘭亭諸山﹂という詩も有り、萬廟︵先述の如く銭仲聯﹃校注﹄の注には、嘉泰会稽志を引き、﹁会稽県、萬廟、
在県東南一十二里﹂とある︶に対する陸游の関心が浅くなかったことを示している。
なお、本稿の始めに述べた如く、詳細は不明ながら、此の萬廟︵禺祠︶は、萬跡寺の近くに在り、陸游にとっては、
故郷と青春とを象徴する場所であったと想像される。
紹煕三年秋、六十八歳の陸游は、禺跡寺の南の沈氏の庭園を訪ねて、﹃剣南詩稿﹄巻二十五所収の次の詩を詠んでい
る。即ち
禺跡寺南、有沈氏小園。四十年
前、嘗題小関壁間。偶復一到、
而園已易主、刻小関干石。読之
帳然。
楓葉初丹棚葉黄、
河陽愁髪怯新霜。
林亭感旧空回首、
泉路悪誰説断腸。
壊壁酔題塵漠漠、
断雲幽夢事荘 。
一35一
年来妄念消除尽、
回向禅寵一娃香。
の詩である。本稿の初めの部分に、沈氏園に於ける陸游の四十年前の﹁銀頭鳳﹂詩の件に就いて、干北山の﹃陸游年
譜﹄の記事を引用して説明して置いたが、銭仲聯﹃剣南詩稿校注﹄にも、此の禺跡寺の詩に就いて詳しく説明してい
る。
﹁銀頭鳳﹂詩の所でも、ちょっと触れたことであるが、干北山の年譜に呉籍の﹃拝経楼詩話﹄を引いて、周密の﹃斉
東野語﹄などの﹁銀頭鳳﹂に関わる話は、詩詞によって附会した話だとして、歳月が前後する矛盾を指摘している。銭
仲聯の校注でも、
按、此事当以後村詩話所載為得事実。蓋其説得之曾温伯、自属可信。斉東野語所引諸詩、年代先後有倒置処。此
云﹁河陽愁髪﹂、一般悼亡之作用此典。而本年游夫人王氏尚在、詩語如此、自是傷悼前室、不得如呉審所云語意
﹁或別有所属﹂也。﹃老日旧続聞﹄云放翁題詞沈園為辛未三月、辛未為紹興二十一年、時游年二十七歳、与此題所云
﹁四十年前﹂語合。若野語云﹁紹興乙亥﹂題、則距本年只有三十八年、不得云﹁四十年前﹂也。
考証はともかく、右の詩の前書から、陸游が四十年前に詠んだ前夫人唐氏への情愛の籠もった﹁銀頭鳳﹂の詞と関連
づけて、此の詩を解釈するのが一般的である。前書の﹁読之帳然﹂は、唐氏を思い出したからだろうか。或いは今や老
衰の身となった陸游が、自らの青春を回顧して歎いたのであろうか。勿論、唐氏との幸福な日々が無かったならば此の
詩は生まれていないだろう。﹁感旧空回首﹂は過去を思い出して感動しているが、振り返っても過去は見えないことを
言うのだろう。そして、﹁泉路﹂は、陸游三十六歳の紹興三十年︵=六〇︶に世を去った前夫人唐氏を指しているの
一36一
だろうが、﹁葱誰説断腸﹂の断腸は、今の悲しみというよりも、若き日に経験した悲しみを意味するのではないだろう
か。﹁断雲幽夢事荘荘﹂は、銀頭鳳の詞を詠んだ頃の情熱が、今は夢のように遠く思われると云うのであろう。﹁年来妄
念消除尽﹂の﹁妄念﹂に注意すべきだと思うが、過去の一時期に、唐氏へ愛情を捨て切れなかったことと、現実には、
別な女性と結婚して家庭を持ったこととを照らし合わせて、反省した言葉であろう。そして遠い昔、両親の意見に服従
してしまった事︵唐氏を離別した事︶の、後悔の念も幾らか含まれているだろう。
﹃剣南詩稿﹄巻三十八の終りに、﹁沈園﹂と題して、二首の詩がある。陸游が七十五歳の慶元五年︵=九九︶の作
である。則ち、
一37
沈園
城上斜陽書角哀、
沈園非復旧池台。
傷心橋下春波緑、
曾是驚鴻照影来。
夢断香消四十年、
又
沈園柳老不吹綿。
此身行作稽山土、
猶弔遺躍一法然。
という二首である。此の二首の詩は、前夫人唐氏との再会の思い出である。再会は、本稿の始めに引いた子北山の﹃陸
游年譜﹄の記事にあった事、即ち年譜の、紹興二十五年︵=五五︶、陸游三十一歳の年の、﹁曾干春日出游、相遇干沈
氏園、務観賦︿銀頭鳳﹀以寄意﹂と記されている事を指している。
たかどの
一首目の﹁沈園非復旧池台﹂は、沈園の現況が、嘗て別離した唐氏と再開した折りの池や台︵高殿︶とは様相を変え
ていることを述べ、懐旧の情を新たにしているのである。又、﹁曾是驚鴻照影来﹂の驚鴻︵驚いて飛び立つ白鳥︶は、
神女の形容であり、此の詩の場合は、美しかった唐氏を指すと考えられるのである。
二首目の﹁夢断香消四十年﹂は、先に挙げた﹁萬跡寺南有沈氏小園、云々﹂の詩の、﹁断雲幽夢事荘荘﹂︵千切れ雲の
ような、果敢ない夢となった昔の思い出は、遠くになった︶と略≧同じ意味であろう。﹁此身行作稽山土、猶弔遺躍一
法然﹂は、﹁いずれは故郷の会稽山の土になる身であるが、やはり昔の思い出の地を訪ねれば、涙を禁じ得ない﹂とい
う意味であろう。
此の二首の詩を、今もなお唐氏を愛し続けている、と解することもできるが、単に嘗て唐氏を愛した日々を回顧して
いる、とも解することが出来よう。前者の解が一般的であると思うが、筆者は寧ろ後者の解を採りたい。
陸游の妻王氏は、慶元三年︵=九七︶の五月に没している。今や陸游の立場は自由であって、前夫人唐氏への愛を
表明しても、何も問題は生じないのである。ただ、陸游は既に身の老衰を自覚しており、今更、若き日の愛を再現した
一38一
いとは考えていないと思われるし、前夫人唐氏も妻王氏も共に世を去っている状況の下では、 人生の淋しさ、或いは生
き残った者の孤独感を強く感じているのではないか、と想像されるのである。
﹃剣南詩稿﹄巻三十九に、﹁夜聞姑悪﹂と題する詩がある。即ち、
湖橋東西斜月明、
高城漏鼓伝三更。
釣船夜過掠沙際、
蒲葦薫薫姑悪声。
湖橋南北煙雨昏、
両岸人家早閉門。
不知姑悪何所恨、
時時一声能断魂。
天地大 汝至微、
槍波本自無危機。
秋菰有米亦可飽、
哀哀如此将安帰。
という詩である。これは慶元五年夏に詠んだ詩である。夜半に水鳥︵姑悪︶の声を聞き、何を思い悩んで鳴いているの
一39一
かは分からないが、時折り鳴く其の一声が、陸游の胸に突き刺さるのである。先に本稿に挙げた淳煕十年の作﹁夏夜舟
中聞水鳥声甚哀、若日姑悪、云々﹂の詩と同じく、姑悪の声を哀し気であると聞いているが、前の詩のように、﹁姑悪﹂
という鳥名を、﹁シュウトメ悪し﹂という言葉に擬えて、満たされなかった青春時代の愛を回顧しているとまでは言え
ないと思う。
然し、﹁姑悪﹂という鳴声によって陸游の胸の中に哀しみが湧いていたことは、否定出来ないようである。﹃剣南詩
稿﹄巻四十の冒頭にある﹁夜雨﹂と題する詩も、慶元五年秋に詠んだ詩であるが、其の詩の終りは、﹁姑悪独何怨、菰
叢声若実。吾歌亦已悲、老死終緑緑。﹂と結んでいる。﹁姑悪も鳴き、二人目の妻まで失った老残の吾れも泣く﹂という
心境なのであろう。
寧宗の開禧元年︵一二〇五︶、陸游八十一歳の年の十二月二日の詩が、﹃剣南詩稿﹄巻六十五にある。即ち、
十二月二日夜、夢遊
沈氏園亭
路近城南已伯行、
沈家園裏更傷情。
香穿客袖梅花在、
緑蕪寺橋春水生。
一40
という詩である。此の詩も夢を材料にしているが、現実の陸游の心が増幅されている。梅花の芳香が訪れた者の袖の中
に染み透り、若緑に包まれた寺の境内にある春水に橋が架かっている光景は美しい。陸游の青春時代も、妻王氏との歳
月も、夢のように果敢なく美しい思い出となっていたのだろう。
﹃剣南詩稿﹄巻六十六には、開禧二年︵一二〇六︶、陸游八十二歳の年の春に詠んだ﹁夜聞姑悪﹂と題する詩が有る。
即ち、
学道当於万事軽、
可憐力浅未忘情。
孤愁忽起不可耐、
風雨渓頭姑悪声。
という詩である。此の姑悪の声は孤愁と結びついており、其の孤愁は﹁未だ情を忘れず﹂という心境に起因しているら
しい。そういう情に惹かれる自分を反省しつつ、陸游は老残の日々の中で、往年を回顧しているのであろう。
陸游八十三歳の開禧三年の春に詠んだ﹁禺祠﹂と題する詩が、﹃剣南詩稿﹄巻七十にある。即ち、
祠宇嵯峨接宝坊、
扁舟又繋書橋傍。
鼓添満筋尊糸紫、
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蜜漬堆盤粉餌香。
団扇売時春漸晩、
爽衣換後日初長。
故人零落今何在、
空弔頽垣墨数行。
であるが、銭仲聯の﹃剣南詩稿校注﹄の注では、此の﹁禺祠﹂は﹁萬跡寺﹂で、末二句は故妻唐氏を懐かしんでいる、
としている。禺跡寺の南に沈氏の小園があるから、陸游が其処に書き残した﹁銀頭鳳﹂の詞が、連想されるのである。
﹃剣南詩稿﹄巻七十五に、寧宗の嘉定元年︵一二〇八︶、陸游八十四歳の年の春に詠んだ﹁禺寺﹂と題する詞が有る。
即ち、
禺寺荒残鐘鼓在、
我来又見物華新。
紹興年上曾題壁、
観者多疑是古人。
であるが、此れも銭仲聯の﹃校注﹄では、﹁萬寺﹂は詩句から﹁禺跡寺﹂であるとし、沈氏の小園に於ける﹁銀頭鳳﹂
の詞を詠んだものと解している。﹁疑是古人﹂は陸游も少し得意になっているような感じであるが、此の詞の陸游の心
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境は枯れている。
同じく嘉定元年春の
方舟衝破湖波緑、
聯騎踏残+化径紅。
七十年間人換尽、
放翁依旧酔春風。
竜瑞、
﹁春遊﹂と題する詩四首が﹃剣南詩稿﹄巻七十五に有る。其の一首目は、
︿予年十四、始至萬祠、
今七十一年 。V
である。青春を回顧しつつ、現在の老後を楽しんでいる心境が窺える。四首目は、
沈家園古表+化如錦、
半是当年識放翁。
也信美人終作土、
不堪幽夢太忽忽。
という詩である。沈園の美しさに、思い出の美しさ・空しさとを重ね合わせた詩情のように思われる。
一43
﹃剣南詩稿﹄巻七十七に、嘉定元年秋に詠んだ詩が有る。即ち、
人寿至毫期
人寿至毫期、
如位至王公。
非以徳将之、
往往不克終。
非必皆大悪、
過取固多凶。
吾今垂九十、
追逐群衆中。
筋骸勝拝起、
耳目未盲聾。
強健天所借、
正与富貴同。
一念娩屋漏、
一言証核童。
一44
老無朋友規、
日夜勤自攻。
先に挙げた陸游の、老いを卿つ幾つかの詩から見ると、此の詩は随分元気な老人の詩である。目も歯も耳も衰えていた
筈の老人だった陸游は、﹁耳目未盲聾﹂と言い、﹁強健天所借﹂と言っているのである。同じく嘉定元年秋に詠んだ﹁寓
歎﹂と題する二首の詩の、二首目の詩句に、﹁身今病忘莫求医﹂と有るので、陸游が老いて却って健康状態が良くなっ
たようにも思われるが、同じ頃の﹁秋懐﹂と題する詩の、一首目の句には、﹁病眼自傭開﹂とあり、二首目の句には、
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﹁久病喜秋清﹂とあり、三首目の句には、﹁身老惟貧睡﹂とあり、﹃剣南詩稿﹄巻七十八の、嘉定元年秋に詠んだ﹁感旧﹂
と題する詩の冒頭には、﹁莫笑山翁老欲優﹂とある。また、﹃剣南詩稿﹄巻七十九の、嘉定元年冬の﹁老歎﹂の詩の冒頭
には﹁歯髪衰残久退休﹂とあり、同じ頃の、﹁対鏡﹂と題する詩の冒頭には、﹁鏡中衰顔失敷膜、緑髪已作霜蓬枯、両肩
聾讐似山字、曳杖更有蛮童扶。自驚何以致此老、云々﹂という詩句が有る。この他にも、=年老一年﹂と題する詩に
は﹁一年老︼年、一日衰一日。警如東周亡、宣復須大疾。云々﹂という詩句も有り、嘉定二年春の﹁歯髪歎﹂と題する
詩では、﹁楽天悲脱髪、退之歎堕歯。吾年垂九十、此事已晩 。髪脱防危冠、歯堕廃大囑。云々﹂という詩句が有り、
嘉定二年夏の﹁夏中雑興﹂六首の中の一首には、﹁嵯予亦衰 、心事与誰論﹂という詩句も有る。然し﹁人寿至毫期﹂
の詩だけが元気の良い内容であり、実際、陸游の同遊の友人らは先に世を去ってしまっているのだが、どうして此の詩
ッ陸游が自分の健康を誇っているのか、此の間の事情に就いては、年譜を調べても判然としないのである。
を最後として、それ以降、思い出の地を訪れたことは無かったと思われる。陸游の詠んだ詩の数は極めて多いが、﹃剣
陸游の晩年の身体が老い衰えていたことは確かであろう。また、八十四歳の嘉定元年春に、禺跡寺や沈園を訪れたの
.だ
南詩稿﹄は制作順に詩が並べられていると謂われており、銭仲聯著﹃剣南詩稿校注﹄の﹁題解﹂を見ても其の様であ
る。すべての詩を洩らさず見たという自信は余り無いが、陸游の、前夫人唐氏を思う詩と老衰を自覚した詩とは概ね拾
ったと思う。
四 結語
陸游は二十歳の年に唐氏と結婚したと謂われている。其の時に詠んだ﹁菊枕詩﹂を、四十三年後に思い出して新たに
二首の詩を作っている。唐氏と別れたのは結婚二年後のことらしく、王氏を迎えて再婚したのは、陸游二十三歳の年ら
しい。更に、五十四歳の年に、楊氏を妾にしているが、半年で王氏が追い出したと伝えられている。
また、陸游三十六歳の年に前夫人唐氏が没し、陸游七十三歳の年に妻王氏が七十一歳で没している。
陸游三十一歳の年の春の日、沈氏園で、趙士程と再婚していた前夫人唐氏と偶然にも再会したが、陸游は前夫人への
思いを込めて﹁銀頭鳳﹂と題する詞を詠んでいる。ただ、此の詞が再会した時に詠まれたものか如何かは確定出来な
い。此の沈氏園は禺跡寺の南に在ったと、紹興三年秋の陸游の詩の前書に記している。そして此の萬跡寺の近くに禺廟
があったらしい。陸游にとって、沈氏園・禺跡寺・禺廟は、青春の思い出の地であった。
陸游の詩に関する研究書に、陸応南﹃陸游詩選﹄︵三聯書店・香港、一九八一年︶、陸堅主編﹃陸游詩詞賞析集﹄︵巴
蜀書社、一九九〇年︶、李致株﹃陸游詩研究﹄︵文史哲出版社・台湾、一九九︸年︶等の好著が有る。
右の中、李致沫氏の﹃陸游詩研究﹄は、﹁緒言、陸游詩の背景、詩系、詩論、詩の主要な内容、思索の技巧、風格、
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欠点、詩史上の位置と影響、結語、参考文献﹂から成り立っていて、詳細を尽くしている。其の第四章﹁陸游詩的主要
内容﹂の第三節﹁倫情﹂は、更に、﹁一、親人之情﹂と﹁二、朋友之情﹂とに分けられているが、﹁親人之情﹂の中に、
﹁対前妻唐腕卸有不少詩篇、常流露悲痛之情。﹂と述べて、﹃斉東野語﹄の記事を引き、慶元五年の詩その他を引いて論
じている。
李氏は﹁沈園﹂の二首目の﹁夢断香消四十年、云々﹂の詩を引き、﹁此詩更進﹂歩表露了他的思念唐腕之痛。唐腕離
開人世、已過四十年、自己也不久将入土、還是念念不忘、触景傷情、古今断腸之作無過此者。﹂と述べ、更に、八十四
歳の年の作品﹁春遊﹂の四首目の詩の﹁也信美人終作土、不堪幽夢太勿勿﹂に就いて、﹁従︿也信﹀与く不堪V的心理
矛盾衝突中足見他始終不楡的深摯感情与内心創痛。﹂と述べている。
李氏は、﹁除了追懐唐碗的詩之外、集中更多的是仔写父子、祖孫之情的、成為陸游詩中一大特色。﹂としているが、筆
者の見解も同じである。但し筆者は、陸游が前夫人唐氏や児孫に対する程には、妻王氏に対する愛情を表現した詩が無
いことに注目すべきだと考えている。
李氏は、陸游の詩の欠点を、第七章﹁陸游詩的訣点﹂に挙げている。即ち、第一節﹁詞語複畳﹂、第二節﹁句法雷
同﹂、第三節﹁対侯傷巧﹂︵詞の対句が巧みではない︶、第四節﹁体調滑易﹂︵詩の内容が軽々しい︶、第五節﹁命題欠煉﹂
︵詩の題がよく練れていない︶、の五節にわたって具体例を挙げて詳細に論じている。此の種の研究書には、徹頭徹尾ベ
タ賞めの叙述が多い中で、李致沫氏の此の指摘は公平で冷静で、立派であると思う。
但し、筆者は、約一万首と謂われる詩を残した陸游の作品は、言ってみれば、メモ代わりか日記代わりのようなもの
であって、詩作にあたって、陸游の念頭には文学的に優れた作品を生み出そうという意思は、其れ程強くなかったので
はないか、と想像するのである。そう考えると、李氏の指摘は、文学的な評価を試みる立場からは正鵠を得ているもの
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ではあろうが、或る意味では、陸游詩の鑑賞として、陸游の詩的な人生の一面を無視することにも成りかねないと思う
のである。
陸游は前夫人唐氏への愛情を何故あれほどまでに詠んだのであろうか。両親が二人を引き離したからだろうか。そう
いうことも一原因ではあろう。然し、それ以上に、陸游が初めて愛した女性であったから忘れることが出来なかったの
ではないだろうか。陸游の唐氏への愛のこだわり方を、陸游の純愛と見るだけならば、陸游は妻王氏を愛しては居なか
ったのだろうか。児孫への愛情の籠もった詩は、陸游が家族を愛していたことを物語っていると思う。
また、陸游が詩の中で、自分の健康に就いて、特に体力の衰え、即ち老衰して行くことに、かなりこだわっている事
に注目すべきであろう。老衰を自覚することは、青春回顧の別な表現である。唐氏と別れた頃の自分を懐かしみ、時に
は無理に別れさせた父母に対して、遣り切れない気持ちを覚えることもあったが、初めて愛した女性である前夫人唐氏
の思い出は、唐氏が早く世を去ったことで一そう忘れられなかったのであろう⑩
陸游と妻王氏との愛情関係は、現段階では資料不足で調べられないが、陸游という詩人の、謂わば生活のメモのよう
な作品を見る限り、妻王氏を粗末に待遇するような人間だったとは思えないのである。現実生活の中の妻は王氏であ
り、過去の夢と消えた生活の中の妻もしくは愛人が唐氏だったのであろう。妾の楊氏は、陸游の生涯の中では、一つの
時間が足りないので、原則として引用原文の訳文は省略し、一部分のみ筆者の訳文を掲げた。
小波に過ぎない。青春を夢見ている老陸游にとって、前夫人唐氏は永遠の恋人であったと推測するのである。 ︵以上︶
︻附記︼
ワープロで原稿を作成しているため、特に必要な場合を除き、引用原文の漢字は、日本で使用している新
字体に改めた。又、送り仮名は概ねワープロに従った。
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