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島根県大森町における文化観光の可能性

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島根県大森町における文化観光の可能性
 島根県大森町における文化観光の可能性 ─文化観光学から見た石見銀山の「まちおこし」について─ アントニエッタ・エイコ 2007 年 7 月 島根県立大学大学院北東アジア研究科博士前期課程 アントニエッタ・エイコ・久保・脇山 (指導教官:井上 厚史)
1
目 次 論文要旨 序章 まえがき 第1章 観光の捉え方 第1節 観光とは何か 第1項 観光の歴史 第2項 ヨーロッパの観光の歴史 第3項 日本の観光の歴史 第4項 ヨーロッパと日本の観光の捉え方の違い 第2節 現代の観光 第1項 現代の観光現象と概念 第2項 現代観光の種類 第3項 現代の観光の問題点 第4項 持続可能な観光および観光計画の重要性 第2章 文化観光とは何か 第1節 文化現象としての観光 第2節 文化観光について 第3節 文化観光のインパクト 第3章 大森町と観光客(アンケート調査による) 第1節 大森町石見銀山地区の概要 第2節 大森町石見銀山の観光に関する調査分析 第1項 大森町の観光整備および情報について 第2項 大森町の文化および石見銀山の歴史的体験講座 第3項 大森町の文化的活動および地域活性化 第4項 石見銀山についてのシンポジウム 2
第3節 観光アンケートの分析 第1項 アンケートが示すもの 第2項 グラフの関連性の分析 第3項 アンケート結果 第4章 大森町への提案 第1節 世界遺産登録に関する政策の評価 第2節 他の世界遺産登録地の事例 第1項 スペイン 第2項 メキシコ 第3項 ブラジル 第4項 世界遺産登録の光と影 第3節 大森町の新しいアイデンティティ 第1項 中村俊郎氏の貢献 第2項 地元の団体 第4節 文化観光学からの提案 第5章 結論 3
序章 現代社会における人々の移動は、グローバル化の進展により、国境を軽々と超えて行わ
れており、観光旅行を目的としたいわゆる観光客の数も増加の一途をたどっている。今や
観光は巨大現象となり、観光関連産業は 21 世紀の基幹産業として位置づけられるまでにな
っている1。確かに、世界各地で進む観光開発には巨大な資本が投下され、現地の環境や文
化・伝統を無視した大規模なリゾート開発が行われることもあり、観光産業は巨大なビジ
ネスとして世界経済に大きな影響を与えている。しかしその一方では、観光による自然破
壊、環境汚染、観光地の人々の生活基盤の破壊など、様々な弊害が世界各地で指摘される
ようになり、観光開発のあり方に対して様々な議論がわき起こっている。そうした中で、
従来のような巨大資本による開発とは異なるもう一つの観光開発のあり方として、「持続可
能な観光」が世界的に注目されるようになった。「持続可能な観光」では、地域の環境、文
化、社会に対して破壊的影響を与えないような適正規模の開発を行い、地域住民もそこに
参加することが重視されている。 このような観光に対する考え方の変化の中で、近年の観光に関する研究は、文化人類学、
社会学、地理学などに分野を拡大し、観光と文化の関係に光をあてながら、「文化現象」と
して観光をとらえようとする動きが出てきている。そこでは、文化を所与の静態的なもの
としてではなく、つねに変容し続ける動態的なものとしてとらえることにより、観光や観
光開発が、観光地で生活する人々にどのようなインパクトをもたらすのか、また地域の文
化変容にどのような影響を与えるのか、という問題が活発に議論されている。 本研究においても、そのような観光研究の最新成果を取り入れ、観光化が地域の人々の
生活や意識にどのような影響を与え、それがどのような新しい文化・アイデンティティの
形成をもたらすのかについて、島根県大田市大森町を事例として検証してみたいと思う。 島根県大田市大森町にある石見銀山は、中世の頃から銀の採掘が進み、一時は世界的に
も知られた銀山であった。その後採掘量が減ったものの、戦前まで銀の採掘が行われてい
た。戦後は鉱山町としての町並みや、資料館の整備、銀の製錬所跡や坑道(間歩)などを
活かした観光地として生き残ってきたが、近年で「世界遺産」登録を目指した運動が起こ
り、本年(2007 年)7 月に正式に世界遺産登録が決定している。こうした大森町の観光へ
の取り組みの歴史を振り返ってみると、大規模な観光開発が行われてきたわけではなく、
1
山下晋司、1996、『観光人類学』、新曜社、5 頁。 4
住民が主体となってまちおこしに取り組んできたことがわかる。この意味で、大森町は過
去もそして現在も「持続可能な観光」開発が行われてきた地域と言えるだろう。しかし、
世界遺産の登録を実現した大森町が、今後どのような方向性に向かって変貌していくのか
を検証することは、非常に重要な作業であると思われる。 本研究は、大森町がどのような観光開発に力を入れてきたのかについてのヒアリング調
査、およびアンケートによる住民や観光客の「観光」に対する意識調査を行うことにより、
石見銀山という重要な観光資源を有する大森町民が、自らの生活の中でどのように遺産を
位置づけ、活かしてきたのかを明らかにしたい。その際、観光客を主体とした観光文化と
いう視点からではなく、住民を主体とした「文化観光」の視点から、観光とまちおこしと
の関連を理論的に分析していくことに本研究の特徴がある。そして最後に、分析結果をふ
まえて、今後の大森町における文化観光の可能性、すなわち世界遺産を活用した観光とま
ちづくりの進むべき方向性についていくつかの提言をしたいと思う。 本論文の構成は以下の通りである。 第1章では、「観光」という概念を起源から歴史的に振り返り、ヨーロッパと日本の観光
のとらえ方の違い、さらに現代の世界的な観光現象について、その特徴や問題点、課題な
どを概観する。 第2章では、「文化観光」の概念を整理した上で、文化観光が、地域の活性化につながっ
た世界の事例を紹介し、文化観光的な視点の重要性を解説する。 第3章では、フィールド調査に基づく調査結果の分析を行う。調査地である大森町の近
年の観光に関する動きを、世界遺産登録運動とも絡めながらまとめ、さらに大森町民や観
光客の現在の大森町の観光のあり方についてどのような意見や感想を持っているかを調べ
た。 第4章では、第3章の結果をふまえ、大森町を観光地として整備していく上で中心的役
割を果たしてきた中村俊郎・仁美夫妻の貢献について明らかにし、その結果どのような住
民アイデンティティが育まれてきたのかを考察し、世界遺産登録後に見すえた大森町への
提案を行う。 第5章の結論では、文化観光学の視点から、大森町の今後の観光開発に不可欠な長期的
な観光計画立案の必要性と、大森町にふさわしいまちおこしのあり方についてまとめてい
きたい。 5
第 1 章 「観光」のとらえ方 第 1 節 「観光」とは何か 第1項 はじめに 「観光」とは何かを考えるには、まずその起源や歴史から振り返ってみる必要がある。
また、西洋と東洋では、ずいぶん異なった観光の歴史を有しており、今日のようにグロー
バリズムが進展していても、異なった歴史的背景をもつことによる移動パターンの違いや
考え方の違いも見られる。 そこで、本章では、まず「観光」の起源であるヨーロッパにおける観光の歴史を概観し、
その基本的な特徴を抽出することにする。次に、日本における観光の特徴を明らかにする
ために、前近代におけるヨーロッパと日本の観光のとらえ方の違いがどこにあるのかを考
察する。そして最後に、1960 年代以降、世界的な価値の共有化が進み、人々が地球規模で
移動しはじめた現代における観光の新しいあり方を考察し、その問題点を抽出することに
する。 第2項 ヨーロッパにおける観光の歴史 ヨーロッパにおける「観光」という言葉の語源は、ラテン語の“tornus”から生まれた
とされている。
“tornus”とは「廻って、また戻ること」、そして“traveling for pleasure”
すなわち「楽しんで旅行すること」を意味していた2。 古代より、人々は様々な目的で移動してきた。遊牧民による生存競争のための移動の他
にも、時代の流れによって様々な移動がなされてきた。とくにヨーロッパにおいては、キ
リスト教の巡礼の他、戦争による移動もあった。しかしながら、移動する人々の数はそれ
ほど多くはなかったとされている。このような人々の移動と、いわゆる「観光」とは同じ
ものではない。なぜなら観光には、「計画」「レジャー」、そして「旅行後、住まいへ戻るこ
と」の各要素を含んでいるからである。 16世紀に入ると、ヨーロッパでは新教徒による宗教改革によって、人々の考え方が大
2
徳久・塚本・朝水、2001、『地域・観光・文化』、3頁。 6
幅に変化した。すなわち、人々は外部世界に対する知的関心を増大させたのである。貴族、
中産階級、資本家等が他国に移動し始め、17世紀から18世紀には「グランドツアー」
(grand tour)と称される旅行も盛んになった3。グランドツアーとは、中産階級の子弟4や
その家庭教師が他国へ留学して文化交流の一翼を担い、そして外国での諸経験を通して、
国家運営の方法等を学ぶことを目的とするものであった。こうした旅行は、貴族が渡航行
代金を全額補完してくれる場合が多々あった。これらの経済的助成により、学者、外交官、
企業家などは一層移動しやすくなり、旅行というものがそれまで以上に身近なものとして
実感されるようになったのである。 18世紀になると、グランドツアーは、クラシック・グランドツアーとロマンチック・
グランドツアーに分岐した。クラシック・グランドツアーは、グランド・ツーリストと称
される新しいタイプの旅人によって始まった。彼らの目的は文化愛好であり、旅行を楽し
むことを基礎としていた。伝統文化や文化遺産の見学を目的として旅立ち、馬上より途中
の景色を眺めることを楽しみとしていたために、このタイプの旅行は文化愛好者の旅行と
呼ばれるようになった5。 クラシック・グランドツアーの出現は、Goulart によれば、「文化観光」時代への突入を
意味する6。グランドツアーの参加者は、中産階級出身者で20代半ばの男性が多く、女性
はあまり参加しなかった。また、ロマンチック・グランドツアーとは、景色見学の比重が
高かった旅行を指したとされている7。 グランドツアーは2つの段階を有している。第一段階は、ロンドンからイギリス沿岸ま
での身近な旅を意味し、この段階では言語問題は生じなかった。しかし第二段階に入ると、
半年から3年間にわたる旅行が出現するようになった。この旅行形態の出現により、ホテ
ルあるいは宿(tavern)がヨーロッパ中に生まれ、現在に至っている。なおこの頃、ヨー
ロッパにおいて初めて旅行記が出版され、人々の旅への関心を高めたと言われている。 しかし当時、「観光」と言う用語は現在とは違う意味で使われていた。当時、中産階級の
間では主に「旅人」あるいは「旅」という言葉が使用され、それは今日の「レジャー」「レ
クリエーション」に相当するものであった。これに対し「観光」は、社会的地位が低い階
3
Salgueiro. 2002.
『Grand Tour: uma contribuicao a historia do viajar por prazer e por amor a cultura』. Revista brasileira de historia. 290~291 頁。 4
ジェントリー(gentry)と呼ばれていた、同上。 5
同上、294~297 頁 6
Goulart; Santos. 1998.『Uma abordagem historica-cultural do turismo』19~25 頁。 7
同上、24~25 頁。 7
層で使用されていた言葉であった。19世紀から現在まで使われている「観光」という概
念は、この時代の影響を引きずっている。 「観光」という概念が一般に普及したのは、18世紀末から19世紀初頭にかけてであ
ったと言われている。この時代は産業革命によって交通手段が発達し、旅行期間が短縮さ
れた。当時の観光客の大半は中産階級の人々であり、彼らの主な観光目的は、社会的地位
を顕示することではなく、外国の文化を学ぶことにあった。その背景には、この時代に生
じた大きな社会的変化、すなわち交通手段の改良、職場における階層分化、給料の上昇、
安定した生活の出現などがあり、これにより観光を楽しむ人が増え始めたといわれている8。 19世紀に入ると、鉄道建設やインフラ整備が進み、観光形態は大きな変化を経験する。
ヨーロッパやアメリカでは、組織化された旅行が開始された。イギリス人トマス・ベネッ
トは個人パック旅行を開始し、ロベルト・スマートは船舶旅行の代理店を設け、トマス・
クックは旅行会社を創設し、電車を利用した団体旅行を組織化した。彼は、「旅行会社」と
いう概念を作り出し、観光客をグループにまとめて観光させるという「革命」を遂行した
とされている。クックの旅行会社はイングランド中に広まり、その後世界各地に広まって
いった。クックが「旅行会社の始祖」と称される理由はここにある 9。この後、観光は社会
的地位の高い人々のみならず、一般の人々も行うようになり、観光をする人々は世界各国
に広がっていった。この時代における観光の主流は、ほとんどが団体観光であった。 その後、ヨーロッパにおける観光は、第一次世界大戦で一時中断するものの、1919 年に
再開され、1924 年にピークを迎えるが、1929 年の大恐慌により再び停滞することとなった。 こうして、ヨーロッパの観光は、時代や社会の発展により変化してきたが、最も特徴的
なことは「観光の大衆化」、すなわち貴族だけではなく一般の人々も観光するようになった
ことにあるといえよう。 第3項 日本における観光の歴史 日本においても、古来移動は様々な目的で行われてきた。食料を獲得するための狩猟や
遊牧、交易、領土拡大のための戦争、未知の世界を探索する冒険、宗教上の理由などから
の移動が行われていた。もちろん、これらを全て「旅行」と称することはできない。ただ
8
9
Barreto. 2000.『Turismo e legado cultural』19~22 頁。 Ashton,Mary Guerra. 2001.『Turismo sinais de cultura』96~98 頁。 8
米田は、「定住地を離れて移動し、また元の場所に戻ってくる行為全般を旅行と考えれば、
これらの事象はなんらかの形で旅行という現象と関わりをもつものである」とも指摘して
いる。 白幡は、「旅」と「旅行」の違いに注目している。「旅」という言葉は、記紀万葉の時代
から受け継がれてきた長い伝統を持ち、聞く人々に深いイメージを喚起させるという10。一
方「旅行」は、近代の用語であり、楽しむ意味、すなわち軽いイメージがある。たしかに、
古代・中世でなされてきた移動は、
「旅行」より「旅」という表現がふさわしい。なぜなら、
古代の移動は食糧を求めるための狩猟、物々交換、近隣の村との交流が主目的であったか
らである。当時の旅は困難なものであり、途中で亡くなる人も少なくなかった。しかし、
703 年には古代七道(東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海)が完成し、時間の経過
とともに駅制が発達し、宿舎が整備されるようになった。当時にあっても、庶民に比べて
公使・官吏は比較的安楽な旅をしていたことが記録されている11。 ところで、日本の旅行を特徴づける一つに温泉がある。古代から「温泉旅」が存在して
いたことは、
『万葉集』にも見られる。当時の天皇、貴族は湯治を行っていたことが記録さ
れているが、それは現在のような温泉旅行ではなく、療養を目的とした温泉旅であったよ
うである。彼らが頻繁に出かけていた温泉は、道後温泉(愛媛県・松山市)、鉛山温泉、牟
婁温泉、そして有馬温泉であった12。 古代・中世においては、芸人、商人、僧侶以外は、私的な旅を行う場合には許可が必要
であり、武士でさえ私的な旅は行えなかった。ただ、病気治療のための温泉湯治、あるい
は伊勢参りなどの場合には許可が出され、それは庶民も得ることができた。 中世は戦争の移動に関する記録が数多く残存している時代であるが、一方で宗教関係の
「旅」が盛んになされたことが記録されており、現代の宗教観光と類似した側面を有して
いる。平安時代から信仰の旅は盛んになり、
「観音霊場の巡拝となり、貴族による遠隔参詣
といわれる社寺参詣・巡礼が盛んに行われるようになり、道や宿坊・宿院がしだいに整備
されていった」ようである13。鎌倉時代(1185~1333年)になると、観音霊場が関東にも作
られ、公家、武士、僧侶、修験者が参詣の旅に出かけるようになり、さらに室町時代(1336
10
白幡、1996、『旅行ノススメ:昭和が生んだ町民の「新文化」』、4 頁 米田、1996、
『現代観光研究』
「観光の日本略史」、73 頁。北川、2001、
『観光と社会:ツーリズム』
「わが
国の旅と交流」、81 頁 12
北川、2001、『観光と社会:ツーリズム』わが国の旅と交流、82 頁。 13
香川、1996、『現代観光研究』、73 頁。 11
9
~1573年)には、庶民も参詣、巡礼するようになった14。江戸時代なると、伊勢詣をする“係
員”がいて、それらを案内する人は「御師」と呼ばれていた。彼らは、道の案内、宿の確
保や食事の手配をしていた。特に伊勢参詣は、日本全国に広まり、熱狂的な信者を集める
ようになった。白幡によれば、伊勢参詣の組織化がなされたのはこの時期であったとされ
ている15。日本的な独特の文化、風俗、社会が生れたのは、江戸初期から中期であった。当
時の日本は鎖国政策によって外国との接触を有しなかったために、社会的、文化的な特徴
が顕在化したと考えられ、現在でもその文化的痕跡を見て取ることが可能である。 1868年の開国後は、西洋の技術を学ぶために、欧米に留学する事例が増大した。この点
に着目した場合、ヨーロッパにおけるグランドツアーとの共通点があるように思われる。
彼らもまた、国家のために他国に留学していた(第1章「ヨーロッパ」を参照)。と同時に、
白幡が指摘するように、留学する人物は国益に関する認識以外にも、
「今でいうならあこが
れと同質の気分もあっただろう」と考えられるのである。 明治時代(1868~1912)になり、封建制から帝国主義に移行することにより、日本の社
会、政府、経済、文化は大きな変化を経験した。西洋文化はあらゆる分野で大きな影響力
を行使した。和食から洋食へ、和服から洋服へ、さらに髪型も西洋風になったほどの変化
に対して、北川は「明治維新以後の西洋文明の導入のなかで、地方の人々の生活と最も密
接な関連をもって発達したものの第一は、交通通信機関の整備と発達である。江戸期の政
策で、道路交通網や川・海の船運は大いに発達していたが、新たに鉄道網の展開や、蒸気
船による外洋航路などの開通により旅行者の移動範囲も格段の進歩を遂げることになっ
た」と述べている16。こうして、観光の面でも明治時代以降は「憂いもの辛いもの」の旅か
ら、「楽しむ」旅行に移行したのであり、現代的な観光はここから始まったといえよう。 1894年、日本に外国観行客を受け入れようと、外客誘致・斡旋機関である貴賓会17(Welcome Society)が設立された。会の名である「貴賓」は、“自分を訪れる賓客があることを心か
ら喜ぶ”という意味を表したものである、と白幡は述べている。貴賓会の目的は、外国人
14
同上。 「伊勢参詣を目的として組織された伊勢講は、全国各地の村や町で多くの成員を集めて結成され、一定
額の講金を集めて運営資金とするものである・・・旅行業者としての御師がかかわっていた。あたかも現
代の旅行業者が団体旅行の参加メンバーを求めて宣伝活動を行なうように、御師も講への参加者獲得をめ
ざし、熱心な勧誘に努めた。」白幡、1996「旅行ノススメ」、15~16 頁。 16
「大政奉還後、明治新政府は、まず幕府の直轄地と旗本領を県にあらためた。・・・そしてわが国の近代
社会は、開国による洋風文化の導入が盛んとなり、さまざまな分野で地域社会のシステムの改革が展開さ
れることになり、現代社会の基盤となる、まさに夜明けの時代」。西川、2002、『観光・旅・文化』、18 頁。
17
現在の日本観光協会-JNTO のこと。 15
10
観光客の不便を解消すること、そして日本への旅行に積極的な便宜を図り彼らを歓待する
ことであった18。そしてそのことを通じ、外交的にも好ましい結果を得てさらに収益も得ら
れれば、と考えたのであった。なおこの事業の具体的な活動としては、旅館の営業者に対
し設備改善の方法を勧告すること、善良なる案内者を監督奨励すること、景勝地、旧跡、
公使建築物、学校、庭園、製造工場の観覧視察上の便宜を図ること、旅行者を歓待し貴族
に紹介の労を執ること、完全なる案内書および案内地図類を刊行すること等であった19。 一方、日本国内においても、交通機関(鉄道や航路)やホテル業の発達により、旅行、
参詣、修学旅行、温泉旅行等、様々なことを目的とした旅行が広まっていった。元来、交
通と観光は密接な関係にあるが、日本の修学旅行は、交通機関の発達に支えられて国内の
みならず外国さえも行き先としてきた。近年の修学旅行の目的地は京都や奈良が多いが、
歴史的な地域を訪れることそれ自体は、過去にもなされてきた伝統的な旅行の系譜に連な
るものであるといえよう。 こうして日本の観光史を概観してみると、伝統的な「旅」は重い意味、あるいは困難な
ものというイメージを有する一方で、「旅行」という言葉は近代以後に使用され始めたもの
であることが分かる。そしてこの「旅行」という概念は、「楽しむ」「仕事上の渡航ではな
くレジャーを意味する」ものであったことに注目したい。この観光概念の変化は、まさに
日本の発展期である明治時代に生じたものであり、ヨーロッパの大きな影響下で、文化や
生活習慣が変化する中で、観光も大きな変化を経験したといえよう。 第4項 ヨーロッパと日本における観光のとらえ方の違い 以上述べたように、ヨーロッパにおいても日本においても、観光は近代以降の観光産業
の成立に大きな影響を受けているが、両者とも古くから人々は「旅」や「旅行」を行って
きた。ヨーロッパのグランドツアーは、近代的な観光の原点ともいえるものであり、当時
から、文化に関心を持つ旅行(文化を学ぶ旅、あるいは留学など)は存在していた。一方、
日本においても、温泉旅行や、お正月の伊勢詣り、修学旅行、留学など、やはり文化に関
心を持つ旅行の伝統を持っている。したがって、近代以降のヨーロッパと日本における観
光の共通点は、宗教目的の移動や留学のための移動等、文化的関心をもつ観光の歴史を有
18
白幡、1996、『旅行ノススメ:昭和が生んだ町民の「新文化」』、19 頁。 19
香川、1996、『現代観光研究』、3~84頁。 11
していることにあるといえよう。 一方、ヨーロッパと日本における旅行の違いは、日本では、明治維新以降の近代期にお
いてヨーロッパに旅行をする、あるいはヨーロッパの観光客を招待することは、多分に国
家を意識したものであった。しかし、同時代のヨーロッパのグランドツアーでは、単なる
新しい文物・文化・景色に興味をもって他国へ旅行していたと考えられ、国家意識が前面
に出ることはなかった。 当時、観光は現在のような発達したメディアによる情報提供はなかったため、国内旅行
にしろ外国旅行にしろ、独特な文化、服装、生活習慣、食生活をゆっくりと味わうことが
できた。それは、現代的な観光旅行とは大いに異なる楽しみであったと思う。時代ととも
に文化変容が進むのは当然なことであるが、観光産業の面からみると、今やほとんどの観
光地で観光客の嗜好に合せるためにファスト・フードやその地域に不釣り合いな建物を造
ることが珍しくなくなってきており、どこに行っても風景は似ている。 次に、こうした現代的な観光のあり方とその問題点について述べたい。 第2節 現代の観光について 第1項 はじめに 第二次世界大戦後、観光現象にも大きな変化が訪れた。人々は休暇期間をストレスの発
散のために楽しんだり、未知の場所を体験することを目的とするなど、さまざまな旅行を
するようになった。つまり、レジャーのために、行き先である観光地、交通手段、宿泊施
設などを自分の好みに合わせて計画し、観光をするようになったのである。他方、戦後に
観光は世界的な現象となり、世界各地の経済に大きな影響を与えるようになった。しかし、
経済発展や利益を優先させるあまり、問題点も発生するようになった。 ここで、現代の観光現象、観光の種類、観光が引き起こす問題点、そして最後に持続観
光と観光計画の重要性を取り上げ、新たな観光のあり方について述べたいと思う。 第2項 現代の観光のとらえ方 第二次世界大戦後(1949)に観光が盛んになった理由としては、世界平和の復活、自由主
12
義の浸透、人々の消費習慣の変化、生活水準の向上、休息時間の確保等を挙げることがで
きる。さらに交通・インフラの整備、テクノロジーの発達などにより、マス・ツーリズム
という大規模な観光が行われるようになった。「人々はものを買う手段を手にし、戦後形成
された『遊ぶために働く』という新しいレジャー観」の登場によって、マス・ツーリズム
が発達したと考えられている20。 戦後の観光は、1950 年に世界で 2 億 5300 万人が外国旅行をし、約 2100 万米ドルの経済
効果があった。その 40 年後である 1990 年には 4 億 1600 万人が外国旅行をし、2 億 3000 万
米ドルの経済効果があった。観光客が国の内外で使用した総額は、2750 億米ドル。この事
実からだけでも、観光産業がいかに世界経済に莫大な影響を与えているか容易に理解でき
る。この数字は、日米を除いた国々の国内総生産の総額を越える金額であり21、観光産業は、
今や世界の経済発展に大きな影響を与えている。観光の重要性はすでに社会的事象であり、
定量的な面から言えば、世界中で年間 60 億人が旅行し22、1998 年には 45 億米ドルの動きが
あった。 こうした世界経済に大きな影響を与える観光現象を説明するために、世界観光機関23は
「観光」という概念を整理し、
(1)24時間以内に違う町へ出かけること(日帰り旅行)、お
よび(2)60日以内に住まいへもどること、を条件とし、
「楽しみを目的とする旅行(traveling for pleasure)」であると定義している。この定義が示唆するのは、観光は決して地域や国
の経済発展にのみ関わるものでないということである。世界観光機関の第3条第1項によれ
ば、観光は国際的理解、平和、繁栄、相互尊重、文化交流を目標としていると記されてい
る。一方、Trigoによれば、仕事の目的で旅行をする人、例えば、会議、協定締結などを目
的とする渡航も、また観光に含まれるべきだと言う。このような渡航目的の人も、ホテル、
交通(飛行機)、レストランを利用し、会議後には娯楽産業に触れ、地域の観光施設を利用
すると考えられるからである。ただ一方で、世界観光機関が下した観光概念は幅が広すぎ
るという研究者からの指摘も見られる。また、観光を分析する際には、概念的側面や技術
的側面に着目すべきだとの指摘もある。概念的側面からは、
「観光が社会に対していかなる
意味を有するのか」という点から、レジャーと生活水準の関係が主要議題となっている。
一方、技術的側面からは、観光は多目的であるため、商業、経済、法律の各方面から観光
20
村本、1999、『持続可能な観光と地域発展へのアプローチ』、4 頁。 Jafari,Jatar. La cientifizacion del turismo.『Estudos y perspectivas en turismo』.1994. 7 頁。 22
Banducci Jr,Barreto M,2001.20 頁。 23
WTO-World Tourism Organization のこと。 21
13
を分析することが重要かつ必要であると、アセレンザは述べている24。 さらに、インド人のジャファリは、観光を4つ25のパターンに分けて分析するべきだとい
う。第一の「観光の良いインパクト」では、観光の肯定的な面を取り上げている、本世紀
初めの10年、すなわち特に戦後以降にはさまざまな国が経済を復活することにより、各国
で観光を一つの手段として利用し、経済開発に成功した。当時「さまざまな国で観光は国
の経済発展に活用している。そのため、我々も同じ政策を始めなければならい」26という発
言もなされた。つまり、このパターンでは観光での経済発展以外にも、文化交流、自然・
文化遺産保護、世界平和に貢献することも含めているが、観光経済に関わる人や企業の構
想から始まったプラットフォームであり、いわば観光のプラス面だけに注目したパターン
である。 しかし、第二の「観光のネガチィブインパクト」では、
「観光の良いインパクト」に対す
る批判が起こるようになった。このパターンでは、学者や自然・文化を保存する組織によ
って、観光は自然・文化を破壊し、受入地域の商品化、または単なる観光産業や観光に関わ
る大企業しか経済発展に関与していないという、観光のマイナス面が指摘されている。こ
の方向に研究が進んだのは、経済面に注目するあまりいろいろな問題が発生し、学問的な
面から観光に注目するようになったからである。 第三の「適応性のプラットホーム」では、肯定面と否定面の両方を分析しているが、マ
イナス・インパクトを減少させるという発想から、オルタナティブ観光に注目した。つま
り、この段階では観光開発の方向へ歩むことに主眼があり、観光を分散化させることであ
った。要するに、
「適応性のプラットホーム」のポイントとなるのは、受入地域の観光開発
を行うことである。 第四の「観光の科学的な面」は、観光の理論的な研究開発を主目的とするものであり、
前に述べた3つの観光パターンを全体的に分析するものである。その目的は、観光の理論
を深めることにある。しかし、ジャファリは、このパターンは現在では理論は形成されて
いるが、今後さらなる検討を必要とすると述べている。 24
Acerenza. 2002.『Administracao do turismo: conceito e organizacao』.24 頁。 Jafari(1994)の観光分析による観点のパターンとは、Plataforma defensora(el bien)観光の良いインパ
クト、Plataforma de Advertencia(el mal)観光のネガティブ・インパクト、 Plataforma de Adaptacion
適応性のプラットホーム、Plataforma basada en el conocimiento(el porque)観光の科学的な面を意味す
る。 26
Indian Hotelier.1971.『Editorial: Realities must be faced. Indian Hotelier and Caterer』.17
頁。
25
14
また、ベニは、ジャファリ同様に、観光の理論及び概念について、人類学、経営学、経
済学、地理学、政治科学、生物学、都市計画の研究を含めるとしているが、Beni の注目す
べき点は、さらにそこに、マーケティング、法律学、経済学や心理学的な観点からの分析
を加えていることである。ベニは、観光事業を三つの相互に関連したシステムから構成さ
れているものととらえる。そのシステムとは、第一に環境関係のグループ(環境、社会、
経済、文化)、第二に社会構造の構成グループ(上部構造、インフラ)、そして第三に運用
上の行動形態グループ(観光業者が提供しようとするもの、観光客が望むもの)である。 ベニによれば、システムとは可変的なものであり、
「原因と効果」が同時関連しているも
のである。すなわち、変化し分割不可能なものである。それは、脳が無数の細胞によって
形成され相互関連しているように、観光もまた家族や文化等と相互関連しており、各要素
を隔離して理解することはできず、一つの全体的なシステムとして分析されなくてはなら
ない27。観光学とは、社会・経済・文化に関わる事業であり、先進国、発展途上国の相互に
影響を与えている。観光は様々な概念を内包しており、結果として幅広くかつ複雑である。
というのも、観光が経済と社会の両側面に関わっているからである。 以上のように、世界観光機関の定義や、トリゴ、アセレンザ、ジャファリ、ベニ等によ
る最新の研究成果を検討してみると、今や観光は全体的な視点から分析する必要がある現
象であり、それこそ現在の世界的に展開している観光のあり方を示しているといえよう。 第3項 現代の観光の種類 観光が世界的に分散化するようになったのは、前述したように、1960 年代以降に交通網
の発達、自由主義の獲得、貴族だけではなく一般の人々もレジャーのために団体で旅行す
るなど、マス・ツーリズムによって観光客が増大し、観光産業が世界各国に発生したことに
起因していた。その後も、観光産業の世界では観光客の嗜好、趣味、年齢などの違いに的
を絞ったパック旅行が企画され、また観光産業内の激しい競争によって “新商品”を売る
ための観光開発がなされるようになった。エンターテインメント・テーマパーク観光28、刺
27
Beni. 2001.『Analise estrutural do turismo』.7~48 頁。 エンターテインメト・テーマパーク観光とは、ディズニーランド、ユニバーサル・スタジオなどを観光
すること、つまりエンターテインメトが集合している場所への観光を指す。刺激的観光とは、社員の実力
に刺激を与えるために、プレミアムとして行われる観光を指す。GLBT 観光とは、GLBT(Gay, Lesbian, Bisexual, and Transgendered)つまり同性愛の人たちのための観光を指している。 28
15
激的観光(incentive tourism)、ビジネス観光、GLBIT 観光、イベント観光、宗教観光、シ
ングル観光、宇宙観光などがその一例である。 一方、研究者の間では、1960 年代の大規模な観光開発によって誕生したマス・ツーリズ
ムが、世界各国の受入地域でしだいに、エコ・ツーリズム、ソフト・ツーリズム、ロウ・
インパクト・ツーリズム、カルチャル・ツーリズムなどといった新しいコンセプトにもと
づく観光形態が生じてきたことに着目するようになった。すなわち、マス・ツーリズムが
受入地域にもたらすネガティブな影響をできるだけ防ごうとする考え方が生じてきたので
ある。特に、1999 年カナダのバンクーバーで開催された「グローブ 90 コンファレンス」で
は観光が引き起こす環境問題や持続可能な観光等が提案された点で、画期的な会議であっ
た。 現在、観光の種類は多様であり、一種類の観光の中がさらに分岐している。一例として、
「文化観光」に分類される観光を取り上げてみても、博物館、エスニシティ、文化遺産な
ど、観光が目的とする対象により分析する視線も異なってくる。そして、おおざっぱな一
般理論を細かく分散化させることは、一見煩瑣な作業のように見えるが、受入地域に観光
によるマイナスのインパクトを最小化させる大切な作業なのである。 第4項 現代の観光の問題点 以上のように観光の歴史をふり返ってみると、観光はさまざまな領域に衝撃を与えてき
たことがわかるが、理想論では受入地域全体(住民、文化、経済、社会、景観など)にポ
ジティブな衝撃を与えるべきものと考えられる。しかし、現実的には、観光が経済に恩恵
を与える一方で、社会、文化、自然など、受入地域全体に大きな変化を及ぼすという問題
点が生じている。セオボールドによれば、経済的な衝撃は計量可能なものであるが、経済
的な恩恵ばかりが計量され、受入地域に発生した問題点が見過ごされてきたと指摘する。 観光のインパクトは、受入地域の観光開発のプロセスに従って発生する。それは、環境、
方向性、そして多様性(diverse magnitude)の方面で現れるが、結局は共通するものであ
り、観光客や受入地域、受入手段は、相互作用によってインパクトを与え合い、資源や文
化に影響が及ぶ場合には方向転換をすることができないと言われている29。 観光は 50 年ほど前から世界中に広まり、世界中の研究者が観光現象を理論的に研究して
29
Ruschman.1997.3 頁。 16
きた。生物学者や生態学者は、観光が自然環境に与えるダメージを問題視している。社会
学者や人類学者は、観光がその文化に与える影響を分析している。歴史学者や建築家は、
観光が物質文化(例えば、文化財や文化遺産)にいかなる影響を与えているか、に着目し
ている。また地理学者は、様々な分野でフィールド調査を実施し、観光学と地理学を統合
させた「観光地理学」を創設し、現在では世界各地の大学で教育、研究がなされている。 観光産業は、1960 年代以前には経済目的を最優先させ、マス・ツーリズムの楽しさを盛
んに喧伝した。その結果、自然、文化、場合によっては村全体を商品化したことも少なく
なかった。この点について、村本正夫は「マス・ツーリズムの弊害は、受け入れ地域に凝
縮された形で現れる。適正規模をはるかに超えた大規模な観光開発と大量の観光客誘致に
よる「ハイ・インパクト」な観光が自然環境のみならす社会環境に影響を与えている。そ
れは都市の生活環境に関わる諸条件や地域景観、歴史的街並み、文化財などの歴史的・文
化的蓄積などを含む環境を資源として大量に消費し、その結果自然破壊、環境汚染、快適
性の破壊といった形で、地域の生産基盤・生活基盤をなす環境を破壊しただけでなく、地
域の社会秩序や住民の生活を撹乱させ、地域に深刻な影響をもたらしたのである」30と述べ、
マス・ツーリズムが地域にもたらした影響の深刻さに警鐘を鳴らしている。 こうして、1960、70 年代から人類学、社会学、環境学、地理学、文化学などの領域で観
光が重要な研究テーマとして扱われ始めた。中でも人類学者は先鋭的な研究を行ってきた
が、彼らは観光が受入地域に対して与える否定的側面に注目し、観光地が観光客によって
持ち込まれる外来文化にさらされることの危険性を指摘し、中には、観光そのものを否定
する研究者もいるほどである。しばしば指摘されてきたのは、観光客の悪いマナーや観光
客が訪れた結果生じた自然破壊などであり、その対処策を緊急に考案することの重要性が
指摘されている。 しかし、こうした研究が進む一方で、観光の受入地域では、経済的利益のみに注目した
結果、環境、文化、社会に弊害を蒙っている地域も少なくなく、この点こそ観光産業の大
きな問題点となっている。「文化交流」「相互理解」は極めて重要な目的であるが、観光
を産業化するにあたっては、長期的な計画を立案し、観光客の収容力を考慮し、そして場
合によっては観光客による伝統行事への参加禁止措置等も必要となるだろう。観光産業は
地域を扱うものであるだけに、商品と違い、使用後に廃棄することはできないのだから。 このように、現代の観光には様々な問題があり、それらのダメージをいかにして最小に
30
村本、1999、『持続可能な観光と地域発展へのアプローチ』、6~7 頁。 17
するかという観点から、観光計画や持続観光が注目されている。観光計画とは、長期計画
にもとづいて受入地域の被害を最小化し、そこに住む人々を観光計画に巻き込みながら、
具体的に現地を調査し、受入限度や受入期間などを確定することを目的としている。入念
な観光計画によって持続可能な観光戦略を立案し、そして執行するには、観光計画・開発・
操作が重要となってくる。 第5項 持続可能な観光、および「観光計画」の重要性 現在、観光学で特に注目を集めているのが、長期計画にもとづいて観光地の被害を最小
限にすることを目的とした観光計画であり、そして自然・文化保存を提唱する「持続観光」
である。持続可能な観光開発の提案は、IUCN31を嚆矢とする32。IUCN によれば、持続観
光開発とは、破壊および資源枯渇を防ぐことを目指し、あらゆる資源を現代と将来の世代
に伝えていくことを目標としている。したがって、観光計画を立てることは、すなわち持
続可能な観光に直結するものである。
また、東徹(1999)によれば、カナダのバンクーバーで行われグローブ 90 会議において、
持続可能な観光を成し遂げる上で以下のことが重要になると指摘されたという33。 ・持続可能な観光を行う際、観光そのものが自然、文化および人間環境に与えている影響
を勘案する。 ・持続可能な観光は、利益と費用の公正な分配を確保する。 ・観光は、観光部門のみならず、関連する部門や資源管理部門の地域雇用を生み出す。 ・観光は、ホテルその他の宿泊施設、レストランその他の食事サービス、交通システム、
工芸、案内サービスなどの国内産業を育成する。 ・観光は、国のために外貨収入を生み出し、地域経済に資本と新たな資金を注入する。 ・観光は、特に農業雇用が十分ではない地方においては、地域経済を多様化させる。 ・持続可能な観光は、観光と他の資源利用者の共存を図るため、地域住民を含めた社会の
あらゆる部門を通じた意思決定が要請される。また観光開発計画を立案する際、エコシス
テムの受容限度に適合するような具体的土地利用を検討する。 31
IUCN: The World Conservation Union. Murphy.2001.『Turismo e desenvolvimento sustentado』.187~204 頁。 33
出展)Glove’90 Conference, Tourism Steam, Action Strategy adapted at Vancouver, BC, Canada.*
塚本、1999、『持続可能な観光と地域開発へのアプローチ』、15 頁。 32
18
・観光は、交通、通信その他の地域インフラの改善を促進する。 ・観光は、国内および海外観光客のみならず、地域住民も利用可能なレクリエーション施
設を生み出す。また観光は、歴史的建造物の遺産化、史跡の保存を促進させ、そのための
費用も生み出す。 ・自然観光は、広大な土地を自然の植生のまま保全し、農業に不向きな土地の活用を促進
させる。 ・文化観光は、地域コミュニティの評価を高め、さまざまな背景をもつ人びとの間の意思
疎通や相互理解をより促進させる。 ・環境面での持続可能な観光は、コミュニティの経済的・社会的繁栄にとって自然および
文化資源が重要であることを証明するものである。 なぜ「持続可能な観光開発」が重要になるのかといえば、観光は単なる自然破壊だけに
とどまらず、環境、物理、人間、文化、遺産、お祭り、伝統習慣などを「商品」として扱
う結果、バランスのとれた開発を計画するす前に「商品化」が急がれ、観光作りがなされ
てしまうからである。観光の影響を監視・評価・管理し、環境上の責務に対処する確かな
方策を開発するとともに、ネガティブな影響が生ずる場合には対策を講じなければならな
い。「持続可能な観光」は、言うまでもなく周到な観光計画にもとづくものである。 一方、持続的な観光開発により、受入地域は観光のライフ・サイクルを長期的に維持で
きる可能性が高くなる。ライフ・サイクルとは、観光地の“人生”を意味している。Butler
は、観光には期間があると定義しているが、観光の長期的な開発について理論的考察を深
めている観光学者の重要性はますます高まっていると言えよう。 バトラーは、観光のライフ・サイクルには六つの連続的な仮説的進化段階があるという
(図1参照)。それは、探検(exploration)、関与(involvement)、発展(development)、
統合(consolidation)、停滞(stagnation)、衰退(decline)である34。探求段階とは、少
数の観光客が訪れる段階であり、興味をもつ個々人が訪れる状況である。この段階では、
観光客によって当該地域の環境が破壊されることはない。次に、観光客が規則性を有しな
がら増加するようになると、当該地域は関与段階に入り、観光客のための施設が作られ始
める。観光シーズンや組織的な観光が見られるようになり、それにともない、観光のため
の各種インフラ整備が必要となってくる。 34
Pearce, Douglas.1995.『Tourism Today: a geographical Analysis』. Ed. Longman.12 頁。 19
図1)出典35Butler(1980)
発展段階は、観光客が急激の増加する段階であり、観光施設をはじめとして地域の外部
からの関与が強まり、地域住民が選考したものではない観光も出現する段階である。次の
統合段階は、観光客の増加率が減少し始め、観光客としての機能の再検討が必要となる段
階である。停滞段階は、訪問客がピークに達し、受入限度(carrying capacity)の限界、あ
るいはそれを超えた状態が出現し、環境、社会、経済問題が生じ、新たな観光の拡大策が
検討される段階である。衰退段階は、他の観光地と競争できなくなり、衰退に直面する段
階である。もはや観光客の多くが週末や日帰り客となり、観光関連施設も他用途への転換
が進むという段階である。こうした六段階のプロセスを経て観光地はその「一生」を終え
るというのが観光地ライフ・サイクル説であるが、Butler はさらに衰退段階後の推移とし
て「再興(rejuvenation)」のプロセスをたどる可能性を主張している 36。しかし全ての観
光地がこの段階を順番どおりに通過するわけではなく、Bluter が研究した事例中での平均
像であるに過ぎない。平均的な観光のライフ・サイクルは、20 年間を絶頂の期間とする。
観光のライフ・サイクルを長期的に保つことは可能であるが、そのためには長期的な視点
からの観光計画が必要となってくる37。 Butler のこの観光地ライフ・サイクル説には、観光客のタイプも関連して考察されてい
る。探究段階における観光客は、バックパッカーや探検家たちである。彼らの目的は、観
光地として整備されている地域ではなく、自然や文化を発見し、新しい経験や地域の文化、
生活習慣を実感することを目的としており、大量の観光客の到来や観光地化を防いでいる。
35
Pearce, Douglas.1995. 『Tourism Today: a geographical Analysis』.12 頁。 塚本、1999、『持続可能な観光と地域開発へのアプローチ』、131~133 頁。 37
Rushmann.1997.『Turismo e planejamento sustentavel』.104 頁。 36
20
大量の観光客とは、アロセントリック(allocentric:珍しがり屋)である。アロセントリッ
クが訪れ、観光客が増加し始めると、インフラ整備は急速に発展し、また新たな観光客タ
イプが訪れ始める。それを超えると、ピシコセントリック(psychocentric:流行を追いか
ける人々)タイプの観光客が訪れる。全ての観光施設が調っている場所、観光地で最も有
名な観光地、場所そのものはあまり重要ではなく、単に「有名」で「楽しみ」を求めるタ
イプの観光客である。このタイプには、裕福な人が多い。最後に、ミッドセントリック
(mid-centric:中庸な人々)は、マス・ツーリズムに参加する観光客であると言うことが
でき、バトラーの表では、停滞段階に属するものである38。 以上、第一章では、観光の歴史、現在の観光、観光が起こす問題点、持続可能な観光に
ついて分析してきた。次章では、「持続可能な観光」として注目されている「文化観光」に
ついて述べるとともに、なぜ島根県大田市大森町に「文化観光学によるまちおこし」が重
要であるかを理論的に分析することとする。 38
Rushmann.1997.『 Turismo e planejamento sustentavel』.94~95 頁。 21
第2章 「文化観光」とは何か 第1節 はじめに 文化現象として観光をとらえるということは、観光客については彼らが文化的な観光地
を訪れることに注目することであり、また観光地については文化を守り続ける一つの手段
としての観光のあり方に着目することを意味する。
岡本伸之によれば、「文化は所与のもの、自明のものではない。不断に再構成、再創造さ
れる動態的なものである。そして観光は、現代社会においてこのような文化の再構成、再
創造を促す重要な機会のひとつになっている」というように、観光地に住む人々にとって、
観光とは自分たちが住む場所の文化や歴史の記憶を回復する装置として、また自分たち
が住んでいる土地の歴史的価値に対する意識を改めて高める装置としての役割を果た
していると考えられる。 しかし、観光地では、逆に文化やお祭りが商品化し、文化を失ってしまうケースが多い。
岡本はこの点をとらえて、観光には「文化」が対象として新たに形作られていく過程を見
ることができるゆえに、観光現象における「文化」の重要性は今後も増大していくと述べ
ている。こうした具体例として、観光客向けに伝統舞踊を復活させ、ショーやパフォーマ
ンスを行っているケースをあげることができる。観光客のタイプや好みによって演出され
る観光の内容は異なるので、類型化に注意を払いながら分析することが求められる。
本論文で取り上げる島根県大田市大森町は、島根県西部にあって最も歴史的な価値を有
する町であり、現在世界遺産登録を目指して活発な運動がくり広げられているほど評価の
高い町でもある。したがって、大森町の観光を分析するにあたっては、文化と観光の関連
について充分に留意する必要がある。そのため、本章では、まず「文化観光」とは何かを
明らかにし、次に大森町における文化観光の重要性について述べることにする。
第2節 文化現象としての観光 「文化 culture」のラテン語の語根である colere の意味は、耕作したり住むことから、
はては崇拝したり守ることにまでおよぶ。この語根 colere のなかでも「住む」という意味
はラテン語の colonus から進化してきたもので、現在の「植民地主義 colonialism」でと変
22
化した。そのため「文化と植民地主義」というタイトルの本があれば、そのタイトルは、
やや数語反復のきらいがあると言わねばなあない。しかし、colere はまだ、ラテン語の
cultus を経由して「崇拝 cult」という宗教用語になったが、これらは、現代において文化
の概念そのものが宗教にとってかわり、衰退する信仰心や超越感覚の代役をつとめるにい
たったことと符合する。文化真実―たとえそれが高級芸術であれ民衆の伝統であれ―は、
往々にして神聖なもの、守られ尊ばれるべきものである。したがってまとめれば文化は宗
教的権威という威風堂々たる装いを継承しながらも、占拠し侵略するということとも気が
かりな類縁関係を持つ39。クラシュトンは、19 世紀になり、「文化」という言葉は美的と知
的の二つのアスペクトから意味が変化したと述べている。ユネスコは、文化を「社会や社
会集団を特徴づける固有の、精神的、物質的、知的かつ感情的な特徴からなる一つの集合
体であり、美術や文字だけでなく、生活様式や基本的人権、価値システム、伝統や信仰を
も含むものである」40と定義しているが、クラシュトンはこのユネスコの「文化」の定義を
意味範囲が狭いと批判し、「文化」に対する「自然」のグローバルな解釈にもとづく世界
的な理解と変容を見すえた一つの全体的なシステムとして、あるいは、そのシステムの関
連性について「生命」のアスペクトをも含み込んだコミュニティの表現(科学的、経済的、
美術的や家政的)という観点から分析すべきであるとしている。 また、サントス41によれば、この地球上には様々な集団が存在しているが、かつてはそれ
らの団体どうしの接触はなかった。生活するには、ある場所に住みつき、生活方法を発見
し、農業に従事し、動物を飼いならすことなどによって、社会組織は徐々に発展してきた
のであり、文化とは、現実に存在する組織のあらゆる外観を分析しなければ分からないも
のであると述べており、文化の総体性に注目するよう喚起を促している。一方、山上は、
文化はそれ自体が「目的」であり、田園的、精神的、知的であるのに対して、文明は生活
諸条件をコントロールするシステム、いわゆる生活の「手段」であり、都会的、技術的で
ある。そして、文化とは芸術、道徳、宗教などに関する価値観、ないし規範の問題である
と述べている42。また、バレットは、文化を新世代に伝えることは過去の歴史に向き合うこ
とであり、文化を継承することによって、今日のわれわれの文化やアイデンティティ、歴
39
高橋、2006、『文化とは何か』、3~4 頁。 40
Claxton.1994.『Culture and development』.11 頁。 Santos.1985.『O que e cultura?』.35~37 頁。 42
山上、2000、『京都観光学』、26 頁。 41
23
史、遺産、習慣、伝統などは保持されているという43。文化は時代の流れによって変容する
が、その本質は変わることなく受け継がれる。また、人間は社会集団を形成することによ
って存在している。なぜなら、人間は自分たちの過ごしやすい社会や環境を求めるからで
ある。 クラシュトン、サントス、山上、バレットの主張を総合すれば、文化とは同一集団内の
閉じられた要素から構成されるものではなく、つねに外部との往復運動、すなわち時間的
な外部である過去や空間的な外部である他集団との往復運動を通して、刻々と変容し続け
る価値観であることがわかる。したがって、建造物、美術品・工芸品など、歴史的に記録
された場所や物を「文化遺産」として記憶することは、そのような記念碑が過去と現在を
結びつける媒介としての機能を果たし、自国の歴史と他国の歴史を対等のものとして扱う
ことを可能にする装置であるということを明らかにしている44。さらにゴンサウベス 45は、
個人や家族が自らのアイデンティティの証拠として記念物を世代から世代に受け継いでい
くように、国家のアイデンティティも記念碑、すなわち文化遺産を通して過去、現代、そ
して将来に伝えられる一つのサイクルを構成しており、結局は過去との繋がりを証明する
装置であると述べている。 現在、「文化遺産」のコンセプトはより幅広くなり、有形文化だけでなく、無形文化(伝
統文化、お祭り、音楽、習慣など)も文化遺産として扱われるようになっている。しかし、
バレットは無形文化の複雑性について注意を促している。無形文化は時代の流れによって、
有形文化よりもより激しく変容することがわかっているからである。 とくに注意すべき点は、文化はこれまで政治的な観点から記録されてきたということで
ある。記録の政治性を考慮し、文化の「社会的歴史」46が重視されるようになったのは、第
2 次世界大戦以後のことであった。 現在、文化遺産や文化財を維持・保護するためには、ユネスコ47や国家が制定した文化・
自然を保護する組織や財団による認定を必要としている。日本では、戦後に文化遺産を保
護する組織が誕生した。1949 年に世界最古の木造建築物である法隆寺金堂が消失し、貴重
43
Barreto.2000.『Legado e turismo cultural』.43 頁。 同上、9~10 頁。 45
Goncalves.1988.『Estudos historicos』.267 頁。 46
社会的歴史とは、人々の生活習慣の記録、つまり世界的に重要であったできごとの記録だけでなく、
“petite histoire”少数の歴史:社会や日常生活、人間の自然との関わりや文化、宗教、音楽、教育、
などを指している。 47
ユネスコ:UN Educational Scientific and Cultural Organization。1972 年に UNESCO が行われた総会
で採択され、1975 年に発効した「世界の文化・自然遺産の保護に関する条約」のこと。 44
24
な文化遺産が失われたことをきっかけとして、1955 年に文化財保護法が成立した。文化財
保護法の目的とは、「文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もっと国民の文化的向上に
資するとことともに、世界文化の通歩に貢献すること」であった。文化財保護法成立後、
「有
形文化財」「無形文化財」「民俗文化財」「記念物」「伝統的建造物群(町並み)」など、有形
文化財だけにかぎらず、無形文化財も含めた財団が成立した。また、1996 年には、重要文
化財ではない建造物に対しても、有形文化財として登録する制度が導入された48。 1972 年にユネスコで開かれた総会で、「世界文化遺産」が制定された。「世界遺産とは過
去から引き継がれてきた人類の宝でもあり、今も共に生き、次世代に引き継いでいくもの
である49」という目的で制定された制度である。制定に伴って多くの委員から忠告されたの
は、世界の文化遺産が自然破壊や経済的・社会的な条件の変化によって年々破壊されてお
り、その要因の一つとして観光が関係しているということであった。文化や自然遺産を保
護する制度や理論も重要であるが、それらは中立ではなく、いざ実行するとなると多様な
問題点があり、一つのイデオロギーに従うことへの懸念も表明された。 文化を保護することは、保持と維持の両側面を持つ。
「保持」とは、遺産を将来のために、
腐敗、破壊、減衰等から守ることである。「維持」とは、保存、すなわちそのままの状態を
持ち続けることである。「保持」は静的作業であり、「維持」は動的作業に属するものであ
り、文化は両方のプロセスを総合することによって初めて完成する50。有形文化財や伝統的
建造物群などに対しては、しばしば遺産をどのように利用するかが議論される。しかし、
遺産を利用して利益を求めるだけではなく、遺産を保護することによって得られる利益も
あるのであり、それこそ現在観光に求められている役割でもあるだろう。 シュアーブルック51は、グローバル化時代の到来を迎え、飛躍的なメディアや技術の発展
によって各国・各地の文化が均質化しており、独特の文化や伝統が減少し、多文化を実感
する旅行も様々な独自文化を体験することが難しくなっていると指摘している。ゴールド
ナー52も、他地域に行っても驚くような特徴がなく、ほとんど住んでいる所と似通っており、
地域の特徴が急速に失われていると述べている。マリオ・デ・アンドラーデの『マクナイ
ーマ』というヒーロー物語には、「ヒーローがお風呂から上がった後、白人のように目が青
48
山上、2000、『京都観光学』、31 頁。北川、2002、『観光と社会:ツーリズム』、273 頁。 山上、『京都観光学』、34 頁。 50
Barreto.2000.15 頁。 51
Swarbrooke.2000 年.38~39 頁。
52
Goeldner, C. 2002.『Turismo: Principios, praticos e filosofias』Turismo cultural e internacional para enriquecimento da vida. 192 頁。 49
25
く、水が彼の“色”を洗った。彼の姿を見たら、誰もその人がタパンニュウマスという部
族の息子だと示すことができなかった」53と記されている。現代文明は、今もなおこの「マ
クナイーマのお風呂」のように“色”を洗い流し続けている。留まるところを知らない消
費社会の浸透やマス・メディアの発達は、世界中の人々の考え方や嗜好性を同一化し、「同
じ商品を消費したい」という時代を迎えている54。 1972 年に開かれたユネスコ総会で、観光が文化遺産を破壊することについて議論された
が、現在でもそのような観光による破壊にさらされている観光地が世界各地に見られる。
無形文化は、そこに住んでいる人々の習慣、文化、お祭り、儀式、伝統など、住民の生活
様式全体を「商品」として観光客に提示し、無形文化財はいつも「売られる、あるいは商
品化」され続けている。彼らの伝統的な文化自体は重要性を失い、単なる商品として扱わ
れるケースが後を絶たないのである。無形文化財は、破壊現象に遭遇すると、物としての
商品と違い、元の文化や習慣を復元することはもはや不可能である。 このように、文化遺産としての無形文化は、観光スポットになることにより破壊されや
すく、それゆえにこそ、第一章で述べた観光計画や地域を含めた観光づくりが重要となる。
そうすることにより、受入地域の文化遺産の破壊を防ぐような観光づくりやまちおこしを
可能する理論も展開されつつあり、実際に成功している観光地も見られるようになってき
た。 次節では、「文化観光」という概念と、「受入地域を中心とするまちおこし」について述
べることにする。 第3節 「文化観光」の定義 「文化観光」とは、人間が作りだしたモノ・コトである文化的観光資源を活用した観光
の総称である。そして、それぞれの地域や都市に形成されてきたローカル性、すなわち歴
史的遺産や固有の伝統的な生活習慣、そしてそれらを基盤とした民俗芸能や伝統行事など
との接触を目的とした観光行動も「文化観光」と呼ばれている。 文化観光の理論的説明には様々な系統があり、その含意するところはかなり幅広い。一
53
Mario de Andrade.ブラジルの作家.『Macunaima』.2001 年.4 頁。 Reichert,Ines Carolina.2001.『Legado cultural e turismo: Sobre lugares, memorias e outras historias』. 39~40 頁。 54
26
般的に、文化観光の原点は、第一章グランド・ツアーでも述べたように、ヨーロッパが発
祥地であるとされている。古代から精神の啓発や宗教的真理の追究としての巡礼が存在し、
これがルネッサンス期に歴史・地理的・科学的真理の追究に変容し、「文化観光」を誕生さ
せた。その当時は、歴史遺産や博物館、教会堂を訪れたり、文化的な交流をすることがさ
かんであった55。 こうした文化観光は、ヨーロッパだけに限らず、地球上の様々な地域で普遍的に見られ
る現象である。どんな地域にも、自然・文化資源、施設、固有の地場産業の成立によって
培われた住民の生活様式など、歴史的・伝統的に形成された特有の地域文化が形成されて
いる。独自の文化形態は、地域固有の有形・無形の文化財として、生活風習、伝統的な地
場産業など、地域特性にそった地域観光や文化観光が形成されてきたのである56。 「文化観光」とよく似た言葉に、観光文化という言葉がある。両者の違いは、観光文化
が、①社寺仏閣のような建造物、史跡・名勝など、一般公開の容易な文化財、②美術工芸
品や無形文化財のような、博物館、美術館、歴史民族資料館、宝物館、文化センターなど
の施設において公開されることが多い文化財、を対象としている点に求められる。文化財
が観光対象物となるには、観光客への五感を訴求できるだけの価値・魅力が必要であり、
「文
化遺産」たるにふさわしい説明や証明が必要となる。文化財を化石化するという凍結した
考え方ではなく、新しい文化を創造する能力を培いつつ、新しい文化と芸術の創造活動を
柔軟に融合させていく施策が重要とされる57。この点について岡本は、観光文化は観光客向
けのパフォーマンス・ショーであり、また観光が生みだす文化である。また、単なる観光
が既存の文化を利用するという状況に留まるのではなく、観光を契機として新たな文化が
創出されるという点に「観光文化」という概念の特徴がある58と述べている。 一方、「文化観光」という概念は、前述したように、観光文化よりも幅広い角度から観光
を分析しようとするものである。しかし、観光とは本来、文化現象の中で類型化され、文
化的風景によって理論分析に違いが生じるものである。観点をどこに設定するかによって、
文化観光と観光文化は重複する場合もある。その一例として、ブラジルのオウロプレット
市をあげることができる 59。オウロプレット市は世界文化遺産をもつ観光地として知られ、
55
岡本、2006、『観光学入門』179 頁。 山上、2000、『京都観光学』38 頁。 57
山上、2000、『京都観光学』35 頁。 58
岡本、2006、『観光学入門』、180 頁。 59
オウロプレット市はブラジルのミナスジェライス州に位置している。17 世紀に金を採掘していた町であ
る。1980 年に世界文化遺産と登録された。 56
27
観光開発は文化観光開発の開始以降に行われた。金採掘に関する文化財の他に、その地域
特有の石造の伝統的な鍋があったが、これが観光開発によって取り上げられ、今では観光
客の土産用の工芸品に生まれ変わった。観光業者は、当初受入地域の人々を観光づくりに
参加させなかったが、異なる文化コードが遭遇し、それが統合されて新たなコードが生み
だされるにつれ60、多様な問題や伝統破壊が注目されるようになり、現在では観光業者、受
入地域の住民、行政、大学、NPO などと連係しつつ、長期的なまちおこしの計画(観光計画)
が実行されている。このように、オウロプレット市では、観光文化の視点からの観光開発
からスタートしたものの、しだいにその地域の固有性を再発見する「文化観光」へと変貌
してきたといえよう。ベニが指摘していたように、観光は全体的な面から分析すべきであ
り、観光開発という一側面だけから分析すべきものではないのである。 また観光は、文化観光の中でも様々に類型化されうる。エスニック観光61、ヘリティジ文
化観光62、文化人類学観光、エコ・ミュージアムなど、その種類も形態も様々である。一般
的に、文化観光はエコ・ツーリズムと比較されることが多い。というのも、エコ・ツーリ
ズムも、文化観光のように観光計画を立てて観光客の数を制限しない場合には、当然のご
とく自然破壊が起こり、自然も一度破壊されるとふたたび元の状態に復元することは不可
能に近いからである。 最後に、文化観光は歴史的価値を有する地域で活用されるものであり、第一章で述べた
ように、地域活性化とつながりつつ、地域の文化、習慣、お祭りなどを回復する役割も果
たしている。成功事例としてあげることができるのは、ウルグアイのコロニア・デル・サ
クラメント市63の取り組みである。同市では、1680 年にポルトガルとスペインの間で論争が
生じ、当時植民地にするために、また独立戦争後にも、最も歴史的に重要であった部隊が
活躍した場所であった。しかし、1970 年代に同市のシュール(Sur)町は売春地帯となり、
当時の歴史的価値を失いつつある。若者は Sur 地域に住んでも将来性がないため、人口は
減り続けていたが、ウルグアイ文部科学省の協力により、遺産担当官が研究や調査を開始
した。約 20 年後の 1996 年には、コロニア・デル・サクラメントはユネスコによって世界
遺産登録された。現在シュール(Sur)町のエレア地区は、小さいながらも週末には約3千
60
岡本、2006 年、『観光学入門』、180 頁 エスニック観光は、先住民や未開人の風変わりな習慣を観光対象とする観光形態である。つまり、イグ
ザティクな文化がある所。Smith,1989『Host and guest』4 頁 62
ヘリティヂ観光は英国で heritage based tourism と呼ばれ、この概念で観光は文化遺産が主のアトラク
ティブとなっている。Barreto,2003『Turismo e legado cultural』29 頁 63
Colonia del Sacramento, Uruguai 61
28
人の観光客が訪れている。人口 20 万の地区であるが、地域住民も含めたまちおこし活動に
より、人口の半分は町の観光に関わる仕事をしている。この事例で最も重要なことは、単
なる観光の経済面だけに注目するのではなく、地域住民自らが自分たちの住んでいる地域
の歴史の価値やアイデンティティを回復する活動に従事しているということである64。 島根県大田市大森町も、コロニア・デル・サクラメント市のように、国内だけでなく世
界に向かって石見銀山の歴史を評価するよう、現在世界遺産登録運動をしている。両者の
共通点は、世界遺産登録運動が始まり、大森町民のプライドや歴史に対する興味が高まっ
ていることだろう。後述するように、アンケート調査が示すのは、大森町民のアイデンテ
ィティや郷土愛への高い関心であり、「町は自分たちで守る」という意識が見られる。こ
の点は、コロニア・デル・サクラメント市との大きな類似点である。
ライヘルトは、歴史や遺産は“商品”となることによって文化変容が起こるが、受入地
域の歴史をみすみす失ったり、歴史的・伝統的な建造物を破壊することよりも、観光を「手
段」として利用し維持する方が好ましいと述べている65。すなわち、観光計画にもとづいた
まちおこしを実施するにあたり、受入地域の調査や研究をした上で観光計画を立案し、実
行することによって、観光と遺産をポジティブに活用することができるというわけである。
文化観光は、観光開発による弊害を最小限にすることを目的とするが、もう一つの目的と
して、観光を手段として活用し、歴史、文化、伝統的な習慣を回復する役割も担っている。
つまり、文化観光的な視点から観光を考えることは、自分たちの住む場所や祖先が残した
価値を再び回復することを可能にする手段なのである。 持続的な文化観光の成功事例としてしばしば取り上げられるのは、フランスの「音と光
のスペクタクル:La Cinescenie」である。「音と光のスペクタクル:La Cinescenie」は、
毎年6月にフランスのピュイ・デュ・フウ市(Puy-du-Fou)のヴァンデ県エコ・ミージア
ム(Ecomusee de la vendee)で行われており、地域の過去の歴史を復元し、時代劇のよう
な衣装に身を包んだ 1000 人以上の人々によるお芝居によって、地域に伝わる昔話や由来を
自分たちでライブ上演している。村人が上演参加者となってお城で行われ、イベントで得
た収益金は、文化遺産の保存や文化活動、そして村人の生活費に当てられている。さらに
近年では、考古学クラブの創設、村の伝統の研究センター、エコ・ミュージアムの拡張、
村独特の舞踏の支援もし始めた。この見せ物は元来観光客のために組織されたイベントで
64
Reichert, Ines Carolina.『Legado cultural e turismo: sobre lugares e outras historias』.47~
48 頁。 65
同上。
29
あるが、観光を利用しながら、本来の目的である地域文化を回復させ、社会的にも経済的
にも成功を収めている。この事例で特に注目すべきことは、受入地域の人々自らが積極的
に取り込みに参加し、イベントを自ら組織し運営しているからこそ可能になっている点で
あり、長期的な観光計画や地域の歴史研究の積み重ねの結果といえるだろう。 このような
成功事例が明らかにするのは、第1章で述べたように、受入地域が行政や観光者とともに
観光計画を活用している点であり、それこそが最も重要なことである。 しかし、観光業者や行政は、観光開発をしている際中には受入地域を含めることを重要
と考えていても、理論的な計画立案およびその実行となると、受入地域を除外したまま計
画を実施するケースが少なくない。なぜなら、彼らが目的とする観光と受入地域が望む観
光では視点が異なっており、受入地域を除外して観光業者が望むような観光づくりを実施
する方が「楽」であり早いからである。受入地域を除外して観光開発を実行した地域にお
ける結果は、そのほとんどがネガティブなものであったことは注目に値するであろう 66。 では次に、文化観光が及ぼすインパクトについて述べる。 第4節 「文化観光」がもたらすインパクト 1854 年、アメリカ大統領のフランクリン・ピアースは、アメリカ・インディアンに対し、
彼らの土地を買い上げ、交換条件として他所の土地を提供するという提案を行った。部族
のチーフであったシアトルは、その提案に対する回答を手紙に記し大統領宛に送った。そ
の手紙には、彼らが住んでいる場所や自然に対する切々たる思いが記されていた。「この
“土地”全てが我々にとって宝である。白人の魂は亡くなると自分たちの原点である“土
地”を忘れるのでしょうか。我々の亡くなった魂は永遠にこの美しい土地を忘れない。な
ぜなら、それこそ我々インディアンの母親だからである。我々はこの土地の一部であり、
この土地は我々の一部だからである。白人が我々の文化や習慣を分からないことは知って
いる。土地は、彼らにとってただの土地だと思っている。よそ者が我々の土地に来て、彼
らが必要とするもの全てを奪い取る。土地は彼らの“兄弟”ではなく、敵だと考え、獲得
し、その後何もなかったようにまた歩き出す。祖先の墓を置き去りにし、それに対して不
快な気分になることもない・・・」67。ここには、自らの文化や住んでいる「土地」に対す
66
Silva V, Borges C, Rosa V.『Resgate cultural e oportunidade do turismo em Ouro Preto』 67
国連がシアトルの手紙を環境や自然を大切にするよう出版した。 30
る愛情、すなわち郷土愛が鮮明に表明されている。 文化観光にとって、「土地」は受入地域の文化、習慣、アイデンティティ、伝統に匹敵
するものである。観光業者や観光客は、まるで「白人やよそ者」同様に、受入地域の文化、
習慣、儀式、伝統などを自分の都合の良いように理解し、あらゆる手段を使ってそれらを
商品化し、その地域を「ただの土地」として利用した後も不快な気分にならないまま、そ
こを探検する。もしその時、観光のライフ・サイクルの衰退期であれば、その受入地域は
回復不可能な状態に陥るだろう。そうなった時、観光による文化の破壊を経験した受入地
域の人々の気持ちは、かつてのアメリカ・インディアンの気持ちと同じではないだろうか。 島根県大田市大森町の町民は、大森町を最も大切にして来た。彼らは昔から村を維持す
るために様々な活動をしているが、現在世界遺産登録運動が始まり、以前のように住民だ
けの力では対応できなくなっており、行政や観光業者との交流が重要となってきている。
しかし、次章のアンケート調査の分析結果が示すように、住民と彼らの観光に対する考え
方やまちおこしのあり方に対する理解にはギャップが見られ、事態の推移を不安に思って
いる住民も少なくない68。 観光は、マス・ツーリズムの発達により、文化遺産を有する受入地域に大量の観光客を
送り出す。文化観光が提唱されるようになったのは、マス・ツーリズムが与えるダメージ
によって文化遺産の破壊を経験したからである。マス・ツーリズムの発展は、現在では、
文化観光、エコ・ツーリズム、レジャー・ツーリズム等、様々に分化している。それにと
もない、文化、習慣、伝統的お祭りは商品化され、観光は経済効果ばかりが注目され、歴
史的建造物への観光客の出入りが制限されることはなく、それにより文化遺産が大きなダ
メージを受けても、受入地域の住民の思いは尊重されないまま放置されることが多い。文
化遺産を商品化するために必要なことは、それをいかに“エキゾチック”なものとして宣
伝できるかということである。 現在では、衛星テレビ放送、音楽、映画などの影響により、文化は加速度的に同質化し
つつあり、独特な文化はいわば不足した状態にある69。独特な文化こそ「エキゾチック」な
ものであり、特に発展途上国の文化や閉鎖コミュニティ(例えば、アメリカ・インディア
ンやマオリ族等)はその代表例である。しかし、「エキゾチック」という表現は、その文
化に対する差別であるとも言えよう。自国の文化とは異なる独特な文化をもっていれば、
68
69
第3章 大森町民と観光客の観光に対する意識調査(アンケート調査による)を参照。 Swarbrooke、2000『Turismo sustentavel』35~37 頁 31
観光業者はそれを商品として利用しようとする。商品は珍しければ珍しいほど良いのであ
り、特に経済発展していない国や少数民族の文化は、格好の標的となる。 ブラジルのアマゾンのインディオ族は、彼らの文化様式では、服装は全て自然を利用し
て作り、生活習慣や伝統的儀式は近代文明と大きく異なっている。それゆえ、観光業者は
彼らの文化を最も「エキゾチック」なものと考え、彼らを商品として扱おうとすることが
問題となっている。また、メキシコのハニツィオ(Janitzio)島は、かつて島の生業は漁
業であったが、現在では大企業の船会社によって支配されている。しかし、経済的に村を
支えているのは、観光業者がシミュレーションしたタラスカ文化の儀式である。その儀式
は亡くなった人を祭るもので、10 月 31 日から 11 月 1 日にかけて死者の墓まで蝋燭や線香
を運ぶ。グワレス(Guares)という青い布を巻き、ブァザラリ(buatzallari)という黄色
い花を飾った輪の中に、砂糖やパン、菓子をイメージした絵をぶら下げて墓に供え、死者
の持ち物もいっしょに供える。儀式には蝋燭の光だけを使用し、男性は夜が明けるまでは
参加してはいけないという規則があったが、1979 年に七千人の観光客が訪れ、それまで守
られてきた規則は尊重されず、蝋燭の光はカメラのフレッシュによって遮られてしまった。 カンクリー二によれば、こうした事例は資本主義の影響によって、伝統文化をショー・
ビジネス化し、儀式の本来の意味を喪失させ、すべては経済的な損得関係によって調節さ
れるようになったと指摘している70。また、ライヘルトは、ヘゲモニーに対抗する文化を創
るためには、一般的な文化儀式、祭り、社会習慣、そして資料や本等を維持することだけ
では不十分であり、住民自らが受入地域の文化的アイデンティティを理解し、守り、そし
て全てを彼ら自身が支配することが一番重要であると述べている71。 したがって、本論文で扱う大田市大森町における文化観光においても、これまで述べて
きたような文化観光のプラス面とマイナス面に留意することが大切である。大森町は文化
遺産を有する地域であり、石見銀山の世界遺産登録を目指していることにより、観光客が
急速に増加しつつある。この時点における大森町のまちおこしで最も大切なことは、地域
住民を含めた観光づくりである。 したがって、次章では大田市役所の石見銀山課、大森町民、観光客にアンケート調査を
行い、現在の大森町における観光のあり方や、大森町民の観光のとらえ方、そして観光客
のタイプ等について分析し、大森町の住民の観光に対する思いを明らかにすることにする。
70
Reichert,Ines Carolina.2001.『Legado cultural e turismo: Sobre lugares, memorias e outras historias』. 44~45 頁。 71
同上、47 頁。 32
第3章 大森町と観光客の観光に対する意識調査(アンケート調査による) 第1節 はじめに 本章では、島根県大田市大森町に関する基礎的データを提示するとともに、三回にわた
って実施した同町でのアンケート調査の結果を分析し、大森町の行政と住民、そして観光
客が「観光」に対してどのような考えを持っているかを明らかにする。
第一節では大森町の基礎的な情報を提供に努めた。第二節ではブラジルの大学で学んだ
「観光に関する調査」(inventario turistico)に基づいて、2006 年 11 月に実施した大田市
石見銀山課へのアンケート、大森町に関する資料、新聞、石見銀山関係のインターネット
のサイト等を利用し、大森町の観光情報について分析した。「観光に関する調査」の重要性
は、行政と町民の活動やその関わり、大森町で開催されている文化活動や講座に注目しな
がら、大森町の観光施設や現在起こっている問題点を明らかにすることにある。アンケー
トは、2006 年 11 月末にアンケート用紙を石見銀山課に渡し、二週間後に回収した。
第三節では、大森町の観光計画にどの程度町民の意見が反映されているかを検証するた
めに、大森町で実施されているまちおこしや世界遺産登録運動に関わっている観光業者、
行政、観光客との関係等について町民を対象にアンケート調査を行った。一回目のアンケ
ート調査は 2006 年 10 月 24 日から 11 月 27 日にかけて実施し、二回目のアンケート調査
は 2007 年 5 月 18 日から 6 月 1 日に行った。
第四節では、大森町を訪れる観光客へのアンケートを実施し、その結果を分析する。ど
のような観光客が大森町の石見銀山を訪れるのかについて、観光客のタイプ、年齢、目的、
滞在する期間などを調査し、また観光客の大森町や石見銀山に対する意見を集計した。し
かし、2005年8・9月に実施したアンケートであるため、もし現時点で同じアンケート調査
を行うと異なる結果が出る可能性が高い。なぜなら、世界遺産登録に向けての運動が活発
化し、特に2006年は石見銀山の宣伝が広がり、その結果観光客数が増加しているからであ
る。
第2節 大森町石見銀山地区の概要 石見銀山遺跡は島根県のほぼ中央に位置し、旧温泉津町、旧仁摩町を含めた大田市の広
33
い範囲に分布する遺跡であり、大森町はその中心地である。大森町は、現大田市の南西部
に位置し、人口 449 人、世帯数 187 の小さな町である(2005 年現在)。 石見銀山は、16世紀から17世紀の約 100 年間に大量の銀を採掘したが、それには1
6世紀半ばに導入された灰吹法という新しい製錬技術が大きく貢献したと言われている。
銀の産出量の飛躍的増加により、日本の銀を求めていた中国やポルトガルなどに輸出が行
われるようになった。17世紀前半の最盛期には、年間 32,000〜40,000kg を産出していた
と推定されている。 石見銀山の経営は、15世紀中頃には戦国大名であった毛利氏によって行われ、採掘され
た銀が毛利氏の財政的基盤を支えた。現存する石見銀山遺跡は、「大森ゾーン」「銀山ゾー
ン」「周辺ゾーン」の三つに大きく分けられるが、毛利氏が支配していた時代は、主に銀山
ゾーンの開発が進んだようであり、当時の資料から、すでにそこに多くの人々が居住して
おり、商人も住んでいたことが確認されている(下図参照)。 石見銀山の位置と範囲72 72
島根県文化財課世界遺産登録推進室のホームページより。
http://www2.pref.shimane.jp/ginzan/outline/s0101.html
34
16世紀半ばには、清水寺、神宮寺、報恩寺、極楽寺などが建立されていたようだが、
その後も寺院の数は増え続け、17世紀初頭には、鉱山都市として大きく発展していたこ
とが、税の徴収資料などから推測可能である73。 江戸時代にはいると、石見銀山は幕府の直轄地となり、17世紀半ばには大森町に代官
所が置かれ、以後「大森ゾーン」は石見銀山領 150 余村の政治経済の中心地として発達し
た。代官所周辺には役所や郷宿(ごうやど)と呼ばれる公用で代官所に来た人々が宿泊す
る宿などが建てられ、しだいに武家屋敷や商家が混在する町並みが形成されていった。江
戸時代初期に最盛期を迎えた銀山だったが、それ以後は産出量が落ち始め、しだいに衰退
していく。明治時代には大森区裁判所が開設され、大阪の会社の藤田組が銀山開発に着手
するが、大正時代についに休山するに至った。 このように、すでに戦前に鉱山としての使命を終えた石見銀山であったが、戦後になっ
て、日本における鉱業開発の先駆的役割を果たした産業遺跡としての価値が認められ、1969
年に代官所跡や間歩などが国定史跡に選ばれ、遺跡の保存・整備が進められることになっ
た。また、建造物の保存をめぐっては、1976 年に、代官所跡に建てられた旧邇摩郡役所の
取り壊しに反対する有志によって旧役所をそのまま活用した「石見銀山資料館」が開設さ
れ、1987 年には、大森町の町並み約 2.8km が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定
されるなど、住民の間から町並み保存の機運が高まり、観光地としての整備が進められて
現在に至っている。 第3節 大森町石見銀山の観光に関する調査分析 第1項 基礎的インフラの整備状況 大森町のゴミ管理はきちんと分別され、週に二回大田市役所が収集し、ゴミはリサイク
ルされている。ゴミの分別およびリサイクルは、環境問題に直結するものであり、受入地
域の観光のあり方にも大きく関わってくる。現在のように石見銀山世界遺産への登録が間
近に迫っていることにより74、観光客が爆発的に増えつつある状況では、週に二回では不十
分ではないだろうか。また、観光客へのゴミの分別の徹底も気になる点である。
73
仲野義文監修『石見銀山 歴史ノート』2003、3〜4 頁。 2007 年 6 月 27 日、石見銀山は正式に世界遺産に登録された。
74
35
清掃は大森町民によって行われている。2006 年に二ヶ月間大森町に滞在して聞き取り調
査を行っていた時に町民から聞いた話では、観光客が増えてからは、自分たちの家の前な
どを前より気をつけて清掃をするようになったという町民もいた。彼らは、それだけ外部
に人に良い印象を伝えたいということを意識するようになっている。
一方、大森町の観光施設(町並み地区)で観光客が利用できるトイレは、代官所前、町
並み交流センター、銀山公園、龍源寺間歩の五ヶ所に設置されている。トイレは障害者専
用のものも設置されている。
安全性については、消防署や救急車は大森町内にはない。しかし、町並みがほとんど木
造建築であることを考えれば、消防署等の整備は不可欠ではないだろうか。また、医療設
備について、大森町内には郷原医院があるが、これは観光地から 3km 離れている。そのた
め観光客や町民に急病等が発生した時の対処・保護・手当ては大丈夫だろうか。安全性は
観光にとって重要なポイントである。ブラジルで観光計画が取り上げられる時に最も注目
されるのは、観光客の安全性でもある。また、交番も観光地には欠かせない施設であるが、
大森町には一ヶ所ある。
交通については、町並み地区には駐車場が二ヶ所(代官所と石見銀山公園)にあり、ト
ータルで 120 台駐車することができる。その他にも、清水寺前と龍源寺間歩に二ヶ所設置
されている。龍源寺間歩の駐車所以外は無料である。清水寺から龍源寺間歩までの道路は
道幅が狭く、車が一台しか通れないところもあり危険である。また、大森町は、二月には
積雪によって通行できないこともあるが、観光客への情報としては流されていないようで
ある。
昨年(2006 年 10~11 月)の秋には大勢の観光客が訪れ、交通機関や駐車場の問題が発
生した。2006 年 11 月 26 日の朝日新聞によれば(2006 年 11 月 04 日(土曜日)に取材し
た大森町の交通について書かれたもの)、大森町では土地が狭いために、駐車場の確保は大
きな問題であり、そこで問題の解決方法として石見銀山交通検討委員会は、2006 年 11 月
03 日から 06 日まで車を遠方の二つの駐車場、すなわち①ふれあいの森公園(150 台:遺産
中心から約 2km 離れている)、②大田三中の臨時駐車場(80 台:遺産中心から約 1km 離れ
ている)に誘導し、そこから循環バスを遺産へ走らせる『パーク・アンド・ライド』と呼
ばれる社会実験を試みた75。しかし、結果的には町並み地区の駐車場も①②の駐車場も満車
朝日新聞、
「観光ツーリズンの石見銀山へ行ってみた:あふれる車 増す悩み」2006 年 11 月 26 日朝刊
28 頁、島根全県版。
75
36
になり、さらに②の駐車場では係員から満車で送迎バスも来ないと言われたうえ、「よそへ
行って下さい」と言われたという。大田市観光課の和田亮課長は、「駐車場がすべて満車に
なるのは予想しなかった。係員のレベルを把握せず、『おもてなしの気持ち』も不十分だっ
た」と書かれている。大田市は大量の観光客が訪れることを予想してボランティア・ガイ
ドを募集したが、ガイドは外部の人が多く、大森町の観光地も知らない等、さまざまなト
ラブルが発生した。そこで、今年(2007 年)のゴールデン・ウィークには、
「石見銀山おた
すけ会」という大森町民の組織がガイドを行った。この会は元々あった会でもあり、それ
を大森町が復活させたわけである。やはり、外部の人間よりも受入地域の住民がガイド役
を務めれば、観光客に対するサービスも向上し、また大森町の管理をスムーズに実施する
ことができるのは、言うまでもないだろう。
大森町は大量の観光客を受け入れることができない地域であり、ゴミや生活環境の破壊
問題等、今後も様々な問題が発生する可能性が高い。当初の行政の施策だけに頼っていた
ならば、観光客だけではなく、受入地域である大森町民にも悪影響があったとも考えられ
る。
世界遺産登録運動が始まって以来、大森町は観光客の急増をむかえたが、町民はそのプ
ラス面として「商品の売り上げがのびた」をあげる一方で、マイナス面として「ゴミが捨
てられている」「車のマナーが悪い(スピード・騒音)」等の問題点があげられた。それ
に対する行政の解決方法は、「車の通行に規制を設ける」「一定のルールを作る」という
ものであった。有形文化や無形文化の破壊を防ぐために、「流入客数を制限する」という
考え方である。 現在、大森町の観光客数は制限されていない。世界遺産登録運動が始まって以来、特に
2005 年から 2006 年にかけては観光客数が飛躍的に増加していると同時に、ビジネス・チャ
ンスを狙って外部からやってくる商売人も増えている。しかし、それらに対する条件も現
在のところない。 バレットによれば、世界の有名な観光地、例えばスペインのマドリードやフランスのパ
リ市内では、車ではなく地下鉄を利用するようになっていたり、またイギリスのロンドン
のように、環境に配慮して観光専用のバスを使うことによって駐車場問題を解決した例も
ある76。観光地の交通問題として心配されるのは、単に駐車場の確保だけでなく、自家用車
や観光バスで大量の観光客が訪れることによる環境へのダメージである。今後大森町でも、
76 Barreto.2004.80
頁。 37
必ずこのような問題が出てくることが予想される。
また、パンフレットの地図によれば、町並み地区、交流センター、龍源寺間歩では、障害
者も観光ができることが示されている。
第2項 大森町の観光整備と情報について 1966 年に、大森町観光開発協会が発足している。同協会はこれまで、石見銀山保存会と
共同で『大森の歴史を訪ねて』というガイドブックを作成し、絵葉書、キーホルダーの製
作販売を行ってきた。また色々な委託事業、例えば島根県からは中国自然歩道の清掃委託、
大田市からは銀山公園や休憩所管理などの委託を受け、見学者向け施設の維持管理も行っ
ている。協会の発足当時は、会員約 70 人の会費(1,000 円)で運営されていた。また、
「梅
まつり」を主催し、「市民の祭り・天領さん」等のイベントのサポート役をつとめたり、案
内図、パンフレットの作成等も行っている。これらの住民活動からは、文化財保護と観光
をセットにして地域活性化に努めてきた経緯を読みとることができる77。
このように、大森町では約 40 年前から、大森町の文化や歴史遺産を維持しつつ、観光を
一つの手段として利用してきた。しかし現在、下表78の観光客動向に注目すると、世界遺産
登録活動の影響により、観光客数が急速に増加し始めていることがわかる。
年度 観光客数 2003 年 310,000 人 2004 年 318,000 人 2005 年 340,000 人 2006 年(*11 月まで) 360,000 人 大森町は、年間を通じた観光シーズンのピークは 5 月から 9 月までの期間であり、季節
による観光客数の変動が激しい。落ち込む季節は 1 月から 3 月の冬の期間である。その他
77「住民のボランティア活動等を活かした歴史的文化的資源の保存活動と地域活性化に関す調査」
報告書、
2002 年 3 月。70 頁。
78 2003 年~2004 年のデータは島根県大田市の「統計おおだ平成 16 年版」49 頁の資料から引用。2005 年、
2006 年はアンケートを答えた石見銀山課からのデータである。
38
の時期は、石見銀山課の説明によればほぼ安定しているという回答があった。 大森町町並み地区では、こうした観光客の急増に対処しようと、2006 年 7 月の観光客の
多い時期に自家用車の乗入禁止や一方通行を試行した。試行に先立ち、2006 年 4 月 15 日か
ら大田市観光協会の情報サイトには、「平成 19 年 7 月の世界遺産登録へ向けて大詰めを迎
えた石見銀山遺跡。最近、注目度が高くなってきており、多くのお客様に訪れていただい
ております。しかし、残念ながら石見銀山は、町並や遺跡の形状等からして、多くのお客
様を一時に受け入れることが出来ない地域であり、受入体制も十分に整備されていないの
が現状です。」79という文章が掲載された。 大森町には、二つの観光案内所がある代官所と、2007 年春石見銀山公園内に設置された
大田市観光協会の事務所とがある。しかし、観光案内所は、パンフレットや地図は利用で
きるものの、係員は常駐していない。また、観光ガイドの利用は可能だが、有料であり、
事前の予約を必要としており、当日の利用は不可能である。観光ガイドを利用するコース
には、二つのタイプがある。町並み熊谷家住宅+龍源寺間歩という二時間のコースと、石
見銀山街道+温泉津沖泊道という約 5 時間コースである。
第3項 大森町で開催された石見銀山体験講座 大森町では現在、世界遺産登録に向けて町民や町外の人々を対象にした、石見銀山に関
する様々な講座や講演が開催されている。その一つである「石見銀山体験講座」は、2004
年から年に一度毎年開かれている。2005 年 08 月 8 日から 12 日に行われた体験講座を、実
際に筆者も受講した。参加者は約 50 人で、全国各地の大学生が参加していた。講座の内容
は、
「石見銀山と周辺の自然景観」
「石見銀山遺産調査の現況」
「伝統地区と京都の取り組み」
「戦国織豊期の石見銀山」などであり、こうした石見銀山の歴史に関する講座を受講した
後に、大森町の町並み、龍源寺間歩、石見銀山の銀を最初に輸出した現仁万町の港、そし
て温泉津の港や町並みを見学し、さらに普段は一般公開していない仙ノ山や大久保間歩も
見学することができた。三日目には、韓国のソウル大学校環境大学院長であり ICOMOS 韓
国委員会委員長でもある黄琪源(ファン・ギウォン)氏が「世界遺産の“文化的”意義と
その課題」について、大田市“あすてらす”で講演をした。最終日には、グループに別れ
て今回の講座で学んだことや疑問点などをまとめて発表し、その後町民との交流会があっ
79
大田市観光情報サイト:http://www.visit-ohda.jp/news.html#061118 より。
39
た。
こうした体験講座は、実際に石見銀山の歴史と触れ合いながら色々な体験ができるため、
石見銀山にたいする興味もより深まり、観光教育に近いものである。しかし、不足してい
ると感じたのは、町民との触れ合いであった。彼らの石見銀山に対する気持ちや今日の大
森町民の生活に関する情報交換、そして石見銀山に対する個人間での意見交換等があれば、
過去(講座で学んだこと)の石見銀山と現在(町民の意見)の石見銀山をより身近に理解
し、町民との交流をもっと深めることができたであろう。そして、外部の人々との意見交
換が深まれば、町民自身も実際に自分たちが住んでいる町の歴史や場所に対する興味がさ
らに強まるのではないだろうか。
2006 年9月 16日から18日にかけては、
“分かりにくい”といわれる同遺跡のフィール
ド・ワークを行うことを目的とした「石見銀山を歩いて学ぶ」というイベントが開かれた。
町並み見学では石見銀山ガイドの会が紹介し、夜の勉強会では石見銀山課職員が「石見銀
山遺跡とその文化的空間の価値」について講義を行った。
2006 年 10 月 24 日から 28 日にかけては、
「銀の道ウォーク・尾道ルート」が催され、石
見銀山を歩いて学ぶ体験講座が行われた。主催は NPO 法人しまね歴史文化ネットワークも
くもく(石見銀山課)である。講座の内容は、「石見銀山行動計画:石見銀山を未来に引き継
ぐために」と題するもので、石見銀山協働会議を組織した。行動計画の目的は、「官民協働
事業を中心にしながら世界遺産登録を迎える銀山の諸活動に係る計画を体系的にとりまと
め、石見銀山に関わる活動が拡がることを目的に策定したものです。世界遺産登録による
石見銀山への関心の高まりにより地域での活動が盛り上がり、その活動がまた石見銀山へ
の感心につながるような、持続可能な地域の活性を目標しています」と唱われている。行
動計画にもとづくセクターの一つが、体験講座である。講座は三つのコースに分かれ、①
コースには 15 人が参加、②コースには 26 名、そして③コースには 10 人が参加した。
また、「町並みガイド養成講座」「石見銀山歴史講座」も開催された。「トレッキング・ガ
イド養成講座」は、2006 年 05 月 28 日から 11 月 28 日の間に 7 回開かれ、「町並みガイド
養成講座」は、2006 年 06 月 05 日から 2007 年 01 月 29 日の間に 20 回が開かれている。
これらは、大田市役所観光課大田市地域雇用創出促進事業によって促進されている。講座
の対象者は、石見銀山遺産の総合ガイドとして活躍が期待される人々であった。「石見銀山
歴史講座」はサンレディ大田で開催され、現地の人もそれ以外の人も参加できるものであ
った。
40
第4項 大森町の文化活動と地域活性化 大森町が現在のように世界遺産登録を目指すことになった背景には、大森町民の石見銀
山の歴史や文化的景観保持に対する誇りや努力があり、それは過去を振り返ることにより
明らかにすることができる。大森町民は 1950 年代後半から町並み地区を保存する意識を高
め、伝統的な建造物や自宅を維持するために修理や修景を行ってきた。文化庁文化財部建
造物課の報告書によれば、1957 年に「大森町文化財保存会」が発足し、町民全戸から毎月
30 円の会費と市からの活動補助金が集められている80。
大森町には、大小様々な文化的・歴史的活動団体が存在している。2002 年までに約 50
団体が登録され、参加者数は約 500 人である。
「町並み保存対策協議会」や「文化財保存会」
には、町民全員が参加している。「文化財保存会」は、町民自らが町の遺産、文化財、歴史
を大切にし、町内の文化遺産の掃除を行うことを目的としており、夏には町民総出で大森
町の文化遺産の掃除を行っている。「明日の大森町を考える会・一心会」は、地元に住む・
住んでいた 50 歳代の人たちによって構成された会である。また、各自治会は若者を集めて
別動隊を組織し、「城跡遊歩道の草刈」を実施してきたが、近年高齢化で休止となり、その
後は市内の企業や労働団体などがボランティアで取り込むようになっている。これらの団
体は昭和 20 年代から存在しており、大森町民が中心となって文化財保護活動を広めてきた
証である。
一方、大森町や石見銀山に興味を持つ外部の人々が参加できる団体もある。「石見銀山ボ
ランティアの会」「石見銀山世界遺産を目指す会」「銀の音色実行委員会」「石見地域デザイ
ン計画研究会」などである。これらは、最近になって組織された団体である。外部の人が
興味を抱いて団体に参加し活動することは、町民との交流を深めることに役立ち、大森町
の将来にとってプラスであることは言うまでもない。
また、大森町にある唯一の小学校、大森小学校では昭和 47 年(1983 年)から継続して
「石見銀山」に関する授業を行っている。また昭和 42 年からは、「石見銀山遺産文化財愛
護少年団」という団体が組織され、児童全員で遺産を見学し、地元の人が講師となって歴
史学習や遺産の掃除活動なども行っている。現在、大森小学校は全校で 15 人の生徒がいる
80
「住民のボランティア活動等を活かした歴史的文化的資源の保存活動と地域活性化に関する調査報告
書」、文化庁文化財部建造物課、2002 年 3 月。
41
81。月に一度、大森町の老人といっしょに石見銀山の史跡清掃を行ったり、歴史学習をして
いる。幼い時から自分たちが住んでいる地域の歴史を老人と接触しながら学ぶことは、文
化観光にとって最も重要なことである。老人は、いわば地域の大切な生きた財産といえる
だろう。
なお、1986 年頃から石見銀山の世界遺産登録をめぐって、行政と町民が大森町の将来に
ついて意見交換を行ってきた。会議は二ヶ月に一度開かれ、地域の人たちがもっと石見銀
山の歴史や史跡を理解するように、前述した体験講座や勉強会、シンポウジム等が開催さ
れ、平均 50 人から 100 人が参加している。
第5項 石見銀山に関するシンポジウム これまで筆者は、2005 年 12 月 3 日に「世界遺産登録と地域の将来像」を考えるシンポ
ジウム、2006 年 5 月 28 日に「石見銀山遺産国際シンポウジム:鉱山遺産の文化的景観:
石見銀山遺産の未来を考える」シンポウジムに参加した。前者は石見銀山の歴史と価値、
また石見銀山と国土経営に関するものであり、そこで議題とされたのは交通の便について
であった。後者の内容はタイトルが示す通りだが、そこで注目されたのは受入地域を遺産
保護や地域活性化に巻き込む必要性を訴えたジョン・ロジャー氏の講演であった。彼は、
イギリスのブレナボン景観を例として取り上げ、地域住民がもっと地域活動に関心を深め
る作戦を紹介したが82、大森町における文化観光を考える際に大いに参考になると思われる
ので、ここで簡単に紹介してみたい。
ブレナボンでは、「ブレナボン・パートナーシップ」という組織を作った。そこにはウェ
ールズ政府の関係機関、地方政府の関係機関、NGO、そして英国で遺産関係で最も重要と
いわれている「ハートシップ」という組織も加入している。「ブレナボン・パートナーシッ
プ」の目的は、世界遺産の保護、紹介、推進であり、中でも“地域の連携”を非常に強調
している。「この美しい世界遺産を今、また未来の世代に残していきたい」。この目的に向
かって、自分たちの生活にあまりに密着しているために文化的価値を十分意識していない
81
http://www.iwamigin.jp/school/ohmori/
82
ブレナボンは、ロンドンから 2 時間半離れたところに位置し、19 世紀にブレナボンのサイスウェールス
で炭鉱や鉄鋼を採掘が盛んであり、1900 年代には、カーディフというウエールズノの首都は世界にとって
最も重要な石炭の積出港であった。ブレナボンは 2000 年に文化世界遺産に登録された。
42
サウスウェールズの人々を対象に、宣伝活動(ポスターをバスの車内に掲載することなど)
を行っている。また、地域の人たちと「世界遺産登録を記念」祝賀イベントを開催し、住
民のほとんどが参加してイベントについて討議したり、準備活動に取り込んだりした。「サ
ウスウェールズの首都であるカーディフに一つ組織があって、それは、学校に通う子供た
ちが、先ほどの世界遺産の日の行事のときにパフォーマンスをする」という地域活性化の
あり方にロジャー氏は注目していたことが、記憶に残る。またロジャー氏は、地域の人た
ちがボランティアとなって訪れる観光客のために、「世界遺産の価値を自分自身で学んで、
それをその人たちに説明をして伝えていく役割を果たしている」ことも紹介し、そして最
後に「過去を十分に意識し、評価していくことで、より明るい未来、将来が築かれていく
のだということを、誰もが信じ、活動することが大事ではないかと思います」という言葉
で締めくくった。
こうしたロジャー氏の説明により、ブレナボンでは、地域がいっしょになって文化遺産
を維持しようとする意識をとても大切にしつつ、活動が行われていることが明らかにされ
た。二つのシンポウジムはほぼ満席であったが、大田市のあすてらすで開催されたために、
大森町民の参加者を目撃することができなかったのは、大変残念であった。
第4節 大森町民へのアンケート結果の分析 第1項 はじめに 大森町民に対して行ったアンケートの目的は、石見銀山や大森町に対する思い、また世
界遺産登録運動によって観光客が増えつつあることに対する意見、そしてどのような「ま
ちおこし」に取り組んでいるか、などを明らかにすることであった。しかし、世界遺産登
録が間近になるにつれ、観光客が急増し、町民の意識に変化が感じられるようになった。
そこで、半年間の時間をはさんで、二回アンケートを実施し、町民の意識変化も把握する
ように努めた。
第一回目のアンケート調査は、2006 年 10 月 24 日から 2006 年 11 月 27 日の間に 100 枚
のアンケート用紙を用意し、町並み交流センターに 84 部、
(株)中村ブレイスに 11 部、豆
腐屋さんに 2 部、銀のお店に 1 部、置かせてもらった。有効回答数は 52。町並み交流セン
ターでは、婦人会、老人会などの会合がある日を利用し、アンケート調査への協力を依頼
43
した。(株)中村ブレイスでは、社員 11 名に協力してもらった。
第二回目のアンケート調査は、2007 年 5 月 18 日から 2007 年 6 月 1 日の間に 62 枚のア
ンケート用紙を用意し、町並み交流センターに 60 部、中村ブレイスに 2 部、置かせてもら
った。有効回答数は 32 であった83。
では、町民のアンケート調査の結果を比較し、分析を行う。
第2項 アンケートに参加した大森町民の基本情報 二回にわたるアンケート調査の結果は、以下の通りである。
アンケートに参加した大森住民の性別は、一回目が女性 57%、男性 43%、二回目が女性
66%、男性 34%であった。年齢構成は、一回目が 10 代 2%、20 代 15%、30 代 14%、30 代
14%、40 代 10%、50 代 10%、60 代 21%、70 代 14%、80 代 14%、二回目が 10 代 4%、
20 代 3%、30 代 7%、40 代 14%、50 代 21%、60 代 24%、70 代 17%、80 代 10%であった。
結婚率は、一回目のアンケートが 80%、二回目が 83%であり、そのうち女性は一回目の 29%
が主婦で、二回目が 25%であった。
職業については、一回目が自営業 12%、会社員 25%、公務員 4%、無職 14%、学生 0%、
その他 16%であり、二回目が自営業 14%、会社員 18%、公務員 0%、無職 25%、学生 4%、
その他 7%であった。二回のアンケート結果で女性率がやや多かったことが、職業にも影響
しているといえよう。勤務先は、一回目が大森町 64%、大田市 9%、その他 27%、二回目
が大森町 72%、大田市 21%、その他 7%であった。
大森町で生まれたかどうかについては、一回目の 41%が大森町出身、また大森町出身で
ない人が大森町に住み始めたきっかけとしては、地元の人との結婚 47%、仕事 23%、結婚
後社宅に住んでいるため 10%、大森町に魅力を感じた 7%、その他 13%である。大森町に
住んでいる期間は、0 から 5 年間 14%、6 年から 10 年間 18%、11 年から 20 年間 7%、21
年から 30 年間 18%、31 年から 40 年間 14%、41 年から 50 年間 11%、51 年間以上 18%で
ある。二回目のアンケートでは、大森町出身が 48%、大森町出身ではないが 52%であった。
また住んでいる期間は、0 から 5 年間 7%、6 年から 10 年間 15%、11 年から 20 年間 7%、
21 年から 30 年間 14%、31 年から 40 年間 29%、41 年から 50 年間 14%、51 年間以上 14%
である。データの結果から、外部から大森町に住み始めた人たちも長期間住んでいること
83
使用したアンケート用紙や、各設問に対する具体的な回答は、巻末の資料を参照。
44
がわかる。
第3項 石見銀山の歴史に関する知識 石見銀山の歴史に関する知識については、一回目のアンケートでは、幼い時から 28%、
小学校・中学校で学んだ 12%、自分で調べたり、興味を持っている 25%、世界遺産登録の
話を聞いて興味がわいた 17%、その他 9%、知らない 9%である。そのうち大森町で生まれ
た人たちについてみると、幼い時から 48%、小学校・中学校で学んだ 24%、自分で調べた
り、興味を持っている 12%、世界遺産登録の話を聞いて興味がわいた 16%となっており、
後から住み始めた町民の結果は、幼い時から 12%、小学校・中学校で学んだ 3%、自分で調
べたり、興味を持っている 34%、世界遺産登録の話を聞いて興味がわいた 19%、その他 16%、
知らない 16%となっている。これらの結果から、大森町出身であろうとなかろうと、全体
的に大森町民は石見銀山の歴史に関する知識があるといえよう。また、後から住み始めた
町民の方が、大森町出身者より石見銀山の歴史を自分で調べて学んだが 9%ほど多いことが
わかる。
二回目のアンケートでは、幼い時から 35%、小学校・中学校で学んだ 24%、自分で調べ
たり、興味を持っている 29%、世界遺産登録の話を聞いて興味がわいた 6%、その他 6%で
あった。そのうち大森町生まれた人たちについては、幼い時から 50%、小学校・中学校で
学んだ 27%、自分で調べたり、興味を持っている 14%、世界遺産登録の話を聞いて興味が
わいた 4%、その他 5%、後から住み始めた町民の結果は、幼い時から 8%、小学校・中学校
で学んだ 17%、自分で調べたり、興味を持っている 59%、世界遺産登録の話を聞いて興味
がわいた 8%、その他 8%であった。二回目に行ったアンケート参加者の年齢に注目すると、
一回目のアンケート参加者より比較的年齢が高いこと、また昭和時代には石見銀山が講談
などの歴史物語に登場していたこと等が関係して、このような結果になったと考えられる。
二つのアンケート結果を比較して目につくのは、六ヶ月間に、自分で調べたり、興味を持
つようになった大森町民が増えていることがあげられよう。
第4項 世界遺産登録について 一回目のアンケート調査では、世界遺産登録に関して、大森町民のほとんどが賛成であ
45
り、賛成している大森町民の多くが、石見銀山の歴史的・文化的価値を再び全国や世界に
知られることを幸福であると答えていた。「大森の町が昔のように活気ある町になってほし
い。遺産に登録されることで遺産の保護や清掃活動に力が入ると思うから。もう一度世界
から注目されたいから」「世界的に貴重な石見銀山遺跡ですから、幕府を、いや日本を支え
た銀山です。町民は勿論、市民・県民一同で、誇りを持って努力すべきだと思います」等
の積極的な意見が見られる。また、次世代に伝えることや誇りに思うという意見もある。
「自
分の住んでいる町の歴史が世界の中で価値を評価されることは非常に嬉しいことであるし、
誇らしいことだと考えているから」
「登録されることによって後世に遺産が保存される。又、
そうあるべき歴史的、文化的遺産である(先人の御苦労を多とした保存と開放)。」
「銀山の歴
史が多くの人に知ってもらえるから。子供達にとって自分の故里が誇れるから」など、説
得力のある意見がみられる。
しかし、二回目のアンケート調査では、2007 年 5 月 12 日に諮問機関であるイコモスの
評価報告で世界遺産登録の延期勧告が公表されたためか、あるいは急増している観光客の
せいか、結果は変化していた。一回目のアンケートでは 89%だった賛成率が、二回目のア
ンケートでは 48%に下がっている。二回目のアンケートに見られる町民の意見には、
「登録
になればそれでいいと思う」「賛成でも対応でもありません。どちらでしても、私はこの大
森町が好きです」「貴重な文化遺産ではあるが、役所と一部の人たちのみがあがいているよ
うに感じる。この地に生まれ育ったものとして、もっとゆっくりと、あせらず、おごらず、
静かにじっくりと事を進めていくべきと思う。亡くなるものではなし、あせりすぎ・・・」
などがあった。
また、世界遺産に賛成ではない理由としては、大森町が観光化しすぎないこと、大勢の
観光客でインフラ(駐車場、トイレ)の整備が整っていないこと、行政と町民の目線の違
いなどがあげられている。「観光客が増えて静かな町並みを壊されないか心配」「世界遺産
になることはすばらしいと思うが、観光地となって今の生活リズムがくずれそうなので、
あまり賛成とはいえない」「文化遺産を残すことに伴い、行政が町民の意見とは関係なく進
められていくことに、大森の将来の不安がある」という意見もあった。
二回目のアンケートで、石見銀山の世界遺産登録について分析してみると、よい 52%、
不安 44%、よくない 4%という結果である。プラスの意見には、多くの人に石見銀山のこと
を再び知られることが非常に嬉しい、後世に守り伝えて行く、知名度があがるなどの意見
が多く、「多くの世界の人たちに、手つかずの石見銀山の歴史的事実を知っていただき、永
46
久に保存される」「石見銀山の研究がさらに進展すると思う」「世界的に評価される」とい
う意見もあった。また「不安」と感じていることとしては、治安の問題が発生する、大森
町の雰囲気の変化することへの不安等が主であり、「多数の人・車の流入で、交通・治安が
心配」「市の対応が、登録になった時の状況についていけるのか、とても不安です」という
意見もあった。 第5項 世界遺産登録運動や NPO 活動、シンポジウム、大森町で開催された会議等への
参加について 大森町民による石見銀山の世界遺産登録運動への参加率に関する質問について、一回目
と二回目のアンケート結果を比較すると、一回目のアンケートの参加率は 31%だが、二回
目のアンケートでは 86%に跳ね上がっており、六ヶ月間に町民の興味が非常に高まったこ
とがわかる。
また、シンポジウムや会議への出席率も増加している。一回目のアンケートでは 62%だ
が、二回目のアンケートでは 93%に上昇している。意見交換会については、一回目では「聞
く一方で、意見までにはいかない」「将来の大森町はそのようにしたい。住民に対しての生
活はどうなるのかがあまり分からない」などの意見が出されたが、二回目では、
「役員の方々
の前で自分の意見をいっても、否定されると思う。少しいいかけたこともあるが、すでに
決まったことの報告会という感じの会議ばかりで、自由に発言出来るような空気ではない。
ボランティアに協力していない人間に発言権などないという感じがする」「こうした会でし
か、様々なことを知る機会がないので、もっぱら聞くだけ」「先人の残してくれた伝統、風
習など、そのまま受け継いで行きたいが、町外の人は聞く耳をもたないという感じがあり、
云いたくない(一度思い知らされたので)。若い人達の意見も大事だけれど、しきたりは変
えたくない。頑固に守りたい。市の係も返事だけは長いが…町民と親身に話し合う態度が
見られない、「長」になる人ほど」などの意見が見られる。大森町民が世界遺産登録に興味
を示し、積極的に取り込んでいることは注目されるが、その一方で、町民の意見が会議な
どで取り上げられないことに対する不満も、少なからず表明されている。
第6項 世界遺産登録運動による大森町への観光客数増加により、町内での生活習慣が
変化することに対してのプラス面とマイナス面 47
すでに述べたように、大森町では 2004 年から 2006 年までに 42,000 人の観光客が増え、
2007 年のゴールデン・ウィークには 8,000 人の観光客が訪れた。このような大量の観光客
の来訪が大森町民の生活に及ぼす影響のプラス面とマイナス面を分析することにする。
一回目のアンケートのプラス面としては、静かな町が賑やかになった、観光客と接触す
ることで自ら石見銀山や大森町について勉強し始めた、という意見が大勢を占めている。
「静かなまちだったのが、にぎやかになり活気づく」「町が賑やかになり、明るくなった」
「連日賑やかで、活気に溢れている。町が若返った感じがする。個人的にはもっと地元の
ことを把握し、銀山の歴史を勉強したいと思うようになった」「観光客の人達にいろいろ質
問されるうちに、自分でも勉強するようになった(答えるために)。観光客の中に学生時代の
先生や同級生などがあり、再会や出会いが増えたと思う。いつ、誰に見られているか分か
らないので、家の周りや畑などをきれいに掃除するようになった」「地域住民以外の方々と
接する大切さ(この観光地を利して、自らの発見を新たにする)」「町が活気づいて来て、
特に町並みがすばらしくきれいになった。観光客が多くなって静かな歴史の町の味わいが
たたれて残念な気もしますが、過疎からは逃れたようですので、嬉しいことです。町民一
同が、世界遺産が決定することを念じて居られると思う。念願が叶うことを祈るばかりで
す」などの意見があった。観光が受入地域の住民のプライドを高める効果があることを証
明する事例である。
二回目のアンケートでは、経済的効果がある、有名になった、外部の人たちと話す機会
が増えた、という答えが大勢を占めた。「経済結果はあるが、それだけ」「お店がもうかる」
「お店の売上が多くなった。テレビや雑誌などで紹介されて、石見銀山が有名になった」
「さ
まざまな人との出会いがある。遺跡のすばらしさを理解させていただく」「観光客に町の歴
史を知っていただくとともに、お客さんの活気が住民にも伝わり、プラスになると思う」
などの意見があった。
マイナス面としては、一回目のアンケートでは、インフラの問題、交通が不便になった、
観光客のマナーが悪い、などが主な意見であった。「大森町民をはじめ、大田市民の意識の
低さを改めて思い知らされることになり、分裂した住民同士の意識差を悲しく思うように
なった」「町並みに住んでいる方のプライバシー等の問題があると思う」「いろいろな決ま
りがあり、まどわしい」「家を開けられるのが怖いのと、一度出かけると車を置く場所がな
い」「行政の無能、無責任に気がついた」「行政の対応が、町民の意見を聞きながら後手、
48
後手に廻り心配だ。例えば、公衆トイレの不足、駐車場の整備、拠点施設の建設場所、巡
廻バス、車の乗り入れ等、不安ばかり」などの意見がある。二回目のアンケートでは、大
量な観光客や、観光による町の変化に対する不安や治安などに関する意見が目についた。
「人が多すぎて、今までの大森ののんびりとした所が好きだったのに・・・本当に好きで
来る人がすくないような。世界遺産=観光地にはなってほしくない」「さまざまな規制が決
められ、不便さを感じることが多い。町並みをみやげ通りと勘違いしている観光客がいて、
住民が住んでいることをわかっていない。勝手に民家に入り込んでくる。せまい町並みを
車がひんぱんに通るので危ない」「静かな町でなくなった」「地元の人々が守ってきた町の
雰囲気が、外から入ってくる人たち(町内で商売をしようとする人々)によって損われる」
「1.あまり多くなると静かな町が守れない。2.もうけ主義だけの業者が入ってくると、大
森らしさがかける」「大勢の人が狭い道いっぱいに歩くため、高齢者で足の悪い人にとって
は、自分の都合のよい時に外出しにくい。外出時、戸締まりの習慣があまりなかったため、
治安面で大いに心配。商店(小売り)によって売上げに大きな差が生じており、見えない
問題があるのかもしれない」「行政指導による交通ルール作りで一番被害にあうのは住民で
ある。以前のようにお年寄りでも気楽に散歩もできない」という不安意見が出されている。
第7項 観光客との関わりと印象、および大森町の観光について 大森町民の 85%が観光客との接触を経験している。そして、観光客に対するプラス面と
しては、心から歓迎し、石見銀山を知ってほしい 43%、関わることで石見銀山に興味を持
った 21%、マイナス面としては、マナーが悪い 31%、関わりたくない 5%であった。
「観光
客の平均年齢は高い状態なのでほとんどの人が紳士的である。他の観光地も沢山行ったり
していると思うので、良い印象を持ってもらうためにも良い受け答えを心がけたい」「国内
の他の世界遺産と同じ感覚で見に来てほしくない。歴史も分からずに理解できる場所では
ないと思う」「観光というより、先人の方々の歴史的な物を感じてもらいたい」「観光する
なら、少しは予備知識を得て来てほしい。一目見て分かる観光地ではない。トイレが少な
いので、場所を聞かれたり貸してあげたりした(子供連れ)。龍源寺間歩への距離を聞かれた。
歩くにはあまりにも遠い」というコメントも見られた。総じて、石見銀山の歴史や大森町
の現在の状況を、訪れる前にいくらかでも意識した上で訪れれば、もっと理解でき、観光
を楽しめるのでは、という声が多かった。
49
第8項 大森町が今後予想される海外との交流やグローバル化について アンケート結果から読み取れる大森町民の際だった特徴は、いくらグローバル化した町
になっても、現在のような大森町の特性を保ち、訪れる人に歴史や文化を味わってもらい
たいという意見が多かったことである。「マナーが守れればとても良いことだと思う。特別
変わっていくというか、変える必要はないと思う。ありのままの大森町を守ることが大事
だと思う」
「歴史・文化・技術を風化させないことが一番大切だと思います」
「歴史・文化・
技術を風化させないことが一番大切だと思います」という意見が多かった反面、「大森に興
味のある人には、どんどんきてほしいけど、外国人の犯罪がこわい」「活性化とか町おこし
とかでなく、静かな、ゆっくりとした時をもてる大森に来ていただき、物をしのんでいた
だくような街づくりを、行政も今一度考えなおしてほしい」「地域そのものの新しい活性化
は望んでいません。むしろ、多くの世界の人たちに穏やかでゆったりした生活の場を実感
していただけることが希望です」という慎重論も見られる。
第9項 大森町の観光開発やまちおこしについて 大森町の観光開発やまちおこしに対する大森町民の意見としては、一回目のアンケート
では、インフラ整備、新規の観光施設の提案や、大森町の雰囲気を壊さない観光開発をし
ていきたい、という意見が多かった。「駐車場、トイレなど、沢山観光客が来た時に対応出
来ない。身体の不自由な人は見学出来ない所が沢山ある」「元々の良いところ(避暑、静か、
空気が美味しい、歴史)をなくさず、個性的な観光地となっていければと思う。各年齢層が
みんな満足できる所を目指すのは困難であるため、比較的高齢な方々が喜ぶであろうサー
ビスなどを充実すれば「また来たい」と思うのでは?」「アクセスの問題があり、高齢な方
はマイカーなどで来ないといけない。又、田舎の町なので、せっかく来てもらっても本当
に史跡に興味がある方じゃないと楽しめないかとも思う」「商売で、ただ売るだけを目的で
お店を構えることに対しては、しっかりとした規制などを設けた方がよいと思う。今まで
大森で流れていた時間が狂うことがないようにしていただきたい」「遺産を守れるかどう
か」などの意見も出された。
二回目のアンケートでは、大森町民の 47%が大森町のまちおこしに満足し、53%が満足
50
していないことがわかった。多くの人が取り上げたのは、若い人たちがもっと取り組んで
ほしいこと、住民の気持ち・意見を評価してもらえないことなどである。「一番の「まちお
こし」は、人が住むことだと思います。もっと若い人が住むような方法を考えなければな
らない。町は住む人が守っていくのだから」「もっと若い人たちも参加しないと、お年寄り
ばかりの集まりではいけないと思う。引きついでいくことが大事」「住民の気持ちを察して
もらっていない気がする。お役所仕事的な対応がイヤだ」という意見も出されている。ま
た、大森町民の意見を聞かずに行政が行動していることや、外部からのくる商売人が大森
町を理解せず、ただ金だけを目当にして営業していることへの不安、そして大森町の雰囲
気を守り続けたいという意見も多い。「大田市や自治会がもっと町民の意見を聞くことが必
要。集会に出られない人たちにも、アンケートや聞きに行ったりしてほしい。町民は高齢
化しているのでまちおこしもむずかしいと思う」「世界遺産登録を目指し、これまで行政と
一体となって検討を重ねてきたが、住民の意見はほとんど聞かれない。予算がないと逃げ
られ、駐車場の整備、トイレ問題など、登録実現と併せて、今後何年か続く問題です」「観
光客から云われるさまざまな苦情を住民はどこに投げ出せばいいのか、きちんとした連絡
先、責任者を教えてほしい。市の人に伝えても、私に言われてもという対応。そうではな
く、その件に対してはどこで受け付ますといってほしい。会議を開いて、意見を述べさせ
るのではなく、リアルタイムにでてきた問題に対しての意見のとりまとめをつくって知ら
せてほしい。そんな期間があるなら、その情報を町民に伝えるべきだと思います。わたち
たちはただ大森町に住んでいるだけなのに、観光客の受け入れシステムが悪いといわれて
も困ります。住民には何の利益もありません。負担あるのみです。静かな大森町のたたず
まい、自然、文化的遺産こそが町民の宝です。それを守って欲しいのです」「外部の人がく
る=もうかるという意識で、町へ入って来られる人や事業がこわい」「一番大切なことは、
大森の雰囲気を壊さないことです」などの意見が出されている。 大森町民は、大森町を単なる観光地としてではなく、石見銀山の歴史を活かし、観光客
にそれを学べるような観光地になってほしいという意識が最も強い。しかしながら、そう
した住民の考えと、観光業者や行政の考え方にはズレがあることが、今回のアンケート分
析から明らかになったように思う。 第5節 観光客へのアンケート結果の分析 51
第1項 はじめに 観光客へのアンケートは、2005 年 08 月 22 日から 2005 年 09 月 23 日にかけて実施した。
アンケート用紙は、一つは、大森代官所前の駐車場に車を止める観光客に直接アンケート
に答えてもらうやり方と、平日には観光客数は少なかったため、町並み交流センターとブ
ラハウスにアンケート用紙を置かせてもらい、訪れる観光客に自由に答えてもらうという、
2つの方法で回収を行った。サンプル数は 80 枚であったが、無効回収が 10 枚あった(到
着したばかりの観光客や、町並み交流センターとブラハウスで自由で答えてもらうという
やり方であったために、ほとんど記入されていないものがあった)。 第2項 大森町にやってくる観光客の基本情報 大森町を訪れる観光客は、31%が広島県から訪れ、16%が島根県大田市、松江市、出雲市、
浜田市などの県内観光客である(グラフ 1)。同じ中国地方でありながらやや少ないのが、
鳥取県、山口県、岡山県であり、大阪府や東京から訪れた観光客もいた。島根県以外から
観光客が意外に多いことがわかる。 アンケートを答えてもらった観光客のうち、51%が男性であった(グラフ 2)。女性との
差は 2%しかないが、家族連れで訪れる観光客が多く、そうした場合、家族の代表者である
「男性」が答えることが多く、日本では伝統的な家庭形態が残っていることをアンケート
調査の最中に感じた。ブラジルで行った観光客へのアンケート調査でも、同じような結果
が出た。国や文化、習慣の違いがあっても、家庭となると、やはり現在でも男性が家族の
代表者であるという意識が強いようである。 大森町を訪れた観光客の平均年齢は、30 代から 40 代であった。50 代から 60 代が 35%、
20 代が 11%で、70 代は 13%であった(グラフ 3)。また 67%が結婚しているという結果が出
たが、これは大森町を訪れる観光客の年齢に関連していると思われる(グラフ 5)。 学歴については、54%の観光客が大学生、あるいは大学を卒業しており、40%が高校を卒
業していた(グラフ 4)。職業については、ほとんどが会社員、続いて主婦、公務員、自営
業などであった(グラフ 6)。 大森町への交通手段としては、80%の人が自動車で訪れており、定期バスや貸し切りバス、
電車を利用して訪れた観光客はわずかであった(グラフ7)。この結果には二つの要因が
52
関係していると思われる。一つめは、ほとんどの観光客が家族連れ(55%)や友だちとグ
ループで来ていた(33%)ことが関係しているだろう(グラフ 8)。二つめは、七〇代以上
の観光客は電車やバスを利用せざるをえなかったことが考えられる。交通の便が良くない
ため、どうしても自家用車に依存せざるをえないのが現状である。電車やバスの問題点に
ついては後述する。 大森町を訪れた目的としては、「観光」、続いて「家族旅行」「仕事」であり、わずか
ではあるが「文化・歴史を調査」しに来た人がいた(グラフ 9)。観光客の滞在時間として
は、32%が 3 時間、30%が 4 時間以上、26%が 2 時間、6%が 1 時間であった。 また、初めて大森町を訪れた観光客は 22,47%であるが、2 回、または 3 回から 5 回とい
う人が合わせて 18%となっている(グラフ 11)。この結果によれば、再び大森町を来訪す
る可能性のある観光客が少なくないことがわかる。実際、再び大森町に訪れたいかという
質問に対して、98%が「はい」と答えている。こうした忠実な観光客(日本ではしばしば
「リピーター」と呼ばれている)を大切にすることは、最も重要なことであろう。 大森町を訪れたほとんどの観光客は、個人で計画し、旅行会社を利用した人は2%のみで
ある(グラフ12)。大森町を知った手段としては、石見銀山の世界遺産登録運動が色々な
メディアで放送されているために、雑誌で知った人が24%であり、友達や家族からの勧めに
よる口コミも有効な手段となっていることがわかる。その他、ガイドブック、新聞等で知
った人もいた。 観光客が使った金額については、千円から3千円を使った観光客が 49%であった(使っ
た金額)。中でも注目すべきことは、30 代~40 代の独身女性が 5 千円以上の金額を使って
いることである。この年齢の女性は経済的に余裕があり、観光とともにショッピングにも
興味があり、またこの年齢の女性が独身であることも影響しているだろう。 大森町へのアクセスについては、自家用車が多く(グラフ7)、道路や交通標識につい
てはほとんどが問題ないと答えているが84、電車やバスを利用している観光客からはかなり
批判がある。「バスの本数が少ない」「自動車ではいいけど、電車やバスではとても不便」
などの意見が多かった。公共交通機関を利用する観光客は、大田市、あるいは仁万町まで
は電車を利用し、その後バスで大森町までたどり着くが、バスの本数がとても少ない。仁
万町から大森町、大森町から仁万町のバスの本数は、一日に5便のみである85。さらに、益
84
85
グラフ 16
事例として表の1と 2 に注目。
53
田市・浜田市から仁万町方面の電車、あるいは鳥取市・松江市・出雲市から仁万町方面の
電車が到着した後、仁万町から大森町のバスの乗り換えにもかなりの時間を要する。 大田市から大森町に向かうバスは、一日13便ある。観光に最も重要なのが交通の便で
あるが、自家用車を極力減らす方向で交通機関を整理し、受入地域の駐車所問題や環境問
題を悪化させないような取り組みが求められる。とにかく、現状では電車やバスの本数が
あまりに限られているために、自家用車に過度に依存しているといえよう。 発車時刻
到着時刻
発バス時
到着時刻
発バス時
到着時刻
発車時刻
到着時刻
益田市
仁万町
刻仁万町
大森町
刻大森町
仁万町
仁万町
益田市
(JR)
(JR)
(駅前)
(代管所)
(代管所)
(駅前)
(JR)
(JR)
7:04
08:21
08:30
08:45
7:48
8:03
08:43
10:21
07:44
09:17
10:20
10:35
9:48
10:03
10:54
12:30
10:31
12:15
13:40
13:55
13:18
13:33
15:16●
16:58
14:40*
16:19
16:35
16:50
16:13
16:28
17:18*
18:55
16:09*
17:56
18:35
18:50
18:12
18:27
20:11
21:19
*(特急)大田市で、JR 山陰本線に乗り返り
●
江津市で乗り返り *浜田市で乗り返り 表1 表 2
観光地の運営については、施設の管理や衛生面について「良い」と答えた人がほとんど
であるが、町並みの交通については、道が狭く、人と車が通行するため「危険」と答えた
人が少なくなかった(グラフ 17)。また、駐車場が車を止めるのに不便だと答えた人も多
かった。これは、町並の交通(グラフ 16)や安全性とも関連しているだろう。 大森町の観光標識については、「良い」と「あまり良くない」と答えた人がほぼ半々で
あった。この理由としては、案内所が一ヶ所しかないために、パンフレットだけでは大森
町の観光スポットにたどり着くことがむずかしく、民家と資料館を勘違いすることもしば
しばである。その一方で、風景や景色にはほとんどの人が満足しており、「懐かしみを感
じる」、世界遺産に登録してほしくない」という意見も見られた。 町並みの伝統的建造物の保存については、ほとんどの人が「良い」と答えている。一方、
レクレーション施設に関しては、大森町には見学する施設が多く、レクレーションや体験
コースなどが頻繁に実施されてはいないために、答えていない人や疑問符をつけている人
54
が多かった。 第3節 グラフの相関性の分析 大森町を訪れる観光客のほとんどが、島根県を中心とする周辺地域からになっている理
由としては、距離的に近いことで日帰りができることや、自家用車で訪れることができる
距離であるという要因が関係していると考えられる。これは、家族連れやグループ旅行が
多いという結果にも関連しているだろう。 大森町に滞在する平均時間は、自家用車で訪れる観光客の動向に左右されている。ただ、
わずかではあるが、東京、大阪、兵庫県など遠方からきた人たちは、他の交通手段(飛行
機、電車、バス)を利用しており、彼らは 1 泊 2 日、2 泊 3 日で湯温津町の温泉宿に宿泊し
て大森町を訪れている。彼らの年齢平均は 60 代であり、退職して時間や金銭の余裕がある
人で、石見銀山の歴史に興味を持って来た人々であると考えられる。 一方、大森町内に宿泊設備がないために、日帰りの観光という形態になっているが、単
に素通りしていく観光客は少ない。観光客のほとんどが平均 3 時間から 4 時間以上大森町
に滞在し、大森町の観光スポットを見学している。この点でも、家族連れで来ることが多
いため、子供たちに石見銀山の歴史や文化的風景を実感させることが観光の目的となって
おり、石見銀山の過去を自然に見学しながら学ぶように配慮することが大切だろう。 島根県内や広島県から来た観光客の 25,51%は、2 回あるいは 3 回以上大森町を訪れてい
る。彼らが複数回大森町を訪れているということは、石見銀山や大森町に深い関心や意識
を持っていることが考えられ、注目に値することである。しかし、彼らの中には「大森町
が世界遺産登録してほしくない」というコメントを残している人も少なくない。こうした
指標が高いのは、世界遺産登録と大量の観光客とが強い相関関係にあり、受入地域にダメ
ージを与えることが懸念されるからであり、実際これまで世界遺産になった地域がそうし
たダメージに苦しんでいる事例も報告されているからである。 また、「住んでおられる人たちがとても優しい」「大森町を訪れると懐かしみを感じる」
という答えもあった。たしかに、現在のようなグローバル化時代を迎え、あらゆる観光地
が観光化しすぎ、どこを訪れても個性的なものや独特な文化は見られず、同じような風景
や景色に飽き飽きしている観光客は、自分たちの知っている過去がそのまま変わらずに(実
際には再現されたものだが)残る大森町を懐かしく感じ、日本人としてのアイデンティテ
55
ィを再確認していると思われる。すでに述べたように、大切なことは、こうした忠実な観
光客をどのように保持していくかである。 自家用車で訪れた多くの観光客数は日帰りであったが、宿泊した観光客のほとんどは県
外(岡山県、大阪、兵庫県など)から訪れ、利用した交通手段は電車、バスそして飛行機
であった。また、50歳代の人が多く、そのうち友達や家族連れで来ている人がほとんどで
あった。地域、交通手段、年齢が、滞在した目的と関連していることがわかる。 距離と相関する要因は、使った金額であった。長距離の観光客は、平均 3 千円以上大森
町で使っている。一方、島根県内からの観光客は、平均千円から 3 千円であった。また、
女性の方が男性より使った金額が多い。千円から3千円の場合、男性は約 57%、女性は 23%
に対して、3 千円から 5 千円の場合、男性が 24%、女性は 41%という結果であった。 使った金額 女性 男性 1 千円~3 千円 23% 57% 3 千円~5 千円 41% 24% 5 千円~1 万円 18% 14% 1 万円~3 万円 18% 5% その理由としては、大森町にある「ブラハウス」という服飾品の店が関係していると考
えられる。「ブラハウス」は、ほぼ女性をターゲットしたお店であり、そこで多くの女性
が買い物したことが予想される。また、滞在期間と使った金額の相関関係を分析してみる
と、短期的な滞在の場合は、3千円~5千円でそれを超えない範囲である。しかし、今回
の調査で、滞在期間が長いほど使われた金額が高いことがわかった。一方、年齢と使った
金額の相関関係を調べてみると、30 代以上の観光客の経済力が高いことがわかる。しかし、
40 代の人たちの結果に注目してみると、滞在時間の短さと使った金額が必ずしも相関して
いない。この年代の人たちの購買意欲が、他の世代よりもはるかに高いことが予想される。 また、改善して欲しい点としては、「土曜日ですがお店などが少ない、さみしいです」、
「もう少しお店があれば」「パン屋の看板を作ってほしい」「休憩する飲食場が欲しい」
などの回答があった。 大森町を訪れた観光客の 67%が結婚しており、家族連れで来訪している。この点に注目
すると、大森町の観光ターゲットは、年齢的には 30 歳以上で、学歴や地位が高く、大森町
56
のような歴史遺産を有する観光地に興味や関心を持っている人々ということになる。特に
忘れてはならないことは、この年齢層の人々は2回以上訪れることが少なくなく、また大
森町に対するプラス評価がマイナス評価を上回っているからである。また、初めて石見銀
山を訪れた観光客のほとんどが、事前に雑誌、テレビ、インターネット、新聞などである
程度知識を得た上で訪れていることである。現代の観光と情報化が密接に結びついている
ことを、再確認させてくれる。 最後に、観光客のコメントを分析してみると、交通面での疑問や不安が圧倒的であった。
「駐車所が少ない」「自動車の制限」「自動車ではいいけれど、電車ではとても不便」「道
路が狭いので一方通行にしてほしい」「歩道として車を停めてほしい」「バスの本数が少
ない」「狭い道にも車が入り込んで、非常に危険」「街中は車内を入れるべきではないと
思う」という提案が多かった。このアンケート結果は、2005 年の夏に実施したものだが、
現在でも交通面での問題は依然として続いている。 石見銀山の世界遺産登録については、「世界遺産にならないでほしい」「どんなに町が
変わるか見てみたい」「もう少し保存に力を入れ、観光客が分かりやすいようにしたらよ
いと思う」「歴史的な苔のはえた跡を見たい」といった意見があった。特徴的なのは、何
回か訪れている観光客ほど、世界遺産登録に反対する人が多かったということである。た
だ、世界遺産に登録されることと、観光化しすぎることは同じではなく、両者を混同して
いる人が少なくないと思う。問題は、大森町が今後どのような「観光計画」を立案し、実
行していくかである。観光は、単なる遺産を維持するための一つの手段であり、観光をう
まく利用しながら遺産を守り続けることが最優先されるべき課題であろう。 57
第 4 章 大森町の持続可能な観光によるまちづくり 第1節 はじめに 大森町石見銀山遺跡は約 500 年の歴史を有し、日本国内に留まらず、世界経済や文化交
流にも大きな役割を果たしてきた文化遺産である。しかし、銀の産出もストップし、人口
が減り続け、現在では約 400 人の人々が暮らしているにすぎない。町民は、1970 年代から
町の歴史的文化遺産を守り続けるために様々な努力をしてきた結果、事前の延期勧告を逆
転し、2007 年 6 月 28 日に正式に世界遺産に登録されることになった。今回の石見銀山遺跡
の世界遺産登録にあたっては、大森町民の長年にわたる自主的な保存運動と自分たちの居
住する地域の歴史に対する誇りと情熱が大きな役割を果たしたことが明記されるべきであ
ろう。しかし、その一方で、世界遺産登録をきっかけに予想されるこれまで以上の大量の
観光客の到来、また改めて求められる詳細な石見銀山遺跡の情報発信に対処するためには、
本論文で分析してきた大森町民へのアンケート結果、および観光客へのアンケート結果が
示す問題点の改善に早急に対処する必要があることも明らかである。 その意味で、大森町出身であり、つねに住民による遺跡保存運動の中心人物として活動
し、私財を投じてまで大森町の活性化に尽力してきた中村俊郎・仁美夫妻を取り上げ、両
氏が果たしてきた役割を改めてふり返ることにする 86。とくに夫の中村俊郎氏は、(株)中
村ブレイスの社長を務めるかたわら、石見銀山資料館の理事長、世界遺産を目指す会の理
事、ユネスコ石見支部の会員でもあり、幼い頃から大森町の歴史や文化を再び世界に紹介
したいという「夢」を抱きながら、資料調査や文献収集のほか、約 30 件にも及ぶ伝統的な
町並みの修復・保存に尽力してきた人物である。 最後に、本章を締めくくるにあたり、文化観光学からいくつかの提案を試みたい。「文化
観光」をまちづくりの一つの手段として活用することは、大森町の持続的なまちおこしに
必ず貢献するものと信じている。 第2節 大森町の新しいアイデンティティの創出 86
以下の中村俊郎・仁美夫妻の引用は、すべて 2007 年 5 月?日におこなった聞き取り調査によるものであ
る。 58
第1項 中村俊郎・仁美夫妻の貢献 中村俊郎氏は、大森町で生まれ、現在義肢装具製造企業である(株)中村ブレイスを経
営している。1974 年に中村ブレイスを創業し、1982 年には「中村ブレイス株式会社」へと
成長させた。中村氏は、大森町石見銀山遺跡に対して最も情熱的な人物の一人であり、こ
れまで実に様々な活動を行ってきた。町並み交流センター職員・鹿毛氏の話によれば、2007
年 5 月 12 日に石見銀山遺跡の世界遺産登録延期が勧告された時にも、大森町民にその「夢」
を諦めないよう、そして自信を持つことを熱く語ったそうである。 俊郎氏は、幼いころから父が話す石見銀山や大森町の魅力を聞いてきた。俊郎氏の父は、
石見銀山や大森町の歴史の重要性を正しく認識していた。当時、銀山開山によって町は衰
退し、大森町の人口が減少していた。俊郎氏の記憶では、このまま寂れていけばゴースト
タウン化すると思えるほど、幽霊が出てきそうな古い家が多かったそうである。そんな時、
俊郎氏の父が、「誰かこの町を活性化するような人物が出ないかな。今は寂しいけれども、
この銀山の歴史は、マルコポーロの頃から考えていくとすごい歴史遺産だ。だけれども、
今はもうみんな飯を食べていけないからと、夢を失って持たなくなっているけれど、この
歴史のある町で、たぶん新たに何かまた元気づけてくれるような若者が将来出てきて欲し
いものだ」と、俊郎氏に話しかけたそうである。 その願いを俊郎氏は幼い頃から記憶に留め、18 歳で大学に行くためにいったんは大森町
を離れたが、8 年後に父との約束を果たそうと、あるいは父の願いを叶えようと思い、再び
大好きだった大森町に戻り、アメリカで学んできたことを故郷の大森町で活かすことを決
心する。そして、技師装具製造企業である中村ブレイスを大森町で立ち上げ、現在の妻で
ある仁美氏と出会い、結婚した。 俊郎氏は、現在 70 人近くの若者を会社に雇用しており、彼らの大半が大森町に住んでい
る。そんな若者に対して、
「周囲の人も、地域の若者もまた育てて行きたい。学校ではなく、
中村ブレイスという会社なので、会社で仕事をしてお金をもうけようとすることは当然だ
けれども、それ以上に、この中村ブレイスという会社で地域の若者たちを育ててみたいと
思った。自分の力で。人を育てることは大事。どんな地域にいても世界へ情報発信するこ
とはできる。400 人の小さな町から、石見銀山を世界へアピールができたのではなかいと思
う」と、俊郎氏は語る。 俊郎氏は、会社経営のかたわらで、前述したように、これまで大森町の約 30 件の伝統的
59
な町並みの修復・保存に尽力してきた。そのうち、伝統家屋を修復・移築し、現在新たな
目的を持つ施設として活用されている 15 件の事例、および大森町とモンゴルを舞台にした
映画制作を列記しておく。 俊郎氏が新たに移築・建造した施設 1 中村館(元銀行) 9 ギャラリー 2 メディカルアート(元酒蔵) 10 山吹(社員寮) 3 岡邸(武家屋敷、県指定) 11 さくら(社員寮:独身用) 4 銀の店 12 新町(社員寮:2 世帯) 5 うめの店 13 海名榴(社員寮) 6 味の店 14 あじさいハウス(社員寮) 7 小さな店 15 資料館(中村ブレイスによる改築) 8 水仙の店(元町医者) 16 映画「アイラブピース」の制作 資料館は、(株)中村ブレイス所有の建物ではないが、大森町がガイダンス施設を作る予
定であったが、施設の完成が世界遺産登録決定に間に合いそうにないため、俊郎氏が(株)
中村ブレイスの名義で資料館の改修料全額を寄付したものである。 このように、大森町の町並み保存に絶大な貢献をしている俊郎氏であるが、「私一人がど
うこうすることはできません。町の人や大田市の行政の人たちとも協力していかなければ
できないことです。ただ私としては、やはり楽しいまちになってほしい。……やっぱり世
界の宝物なんだから、そこに住む人間が楽しくないと意味がないでしょう」と、俊郎氏は
大森町のまちづくりのあり方について語っている。 「地域づくり」に詳しい丸太一は、地域アイデンティティについて「どんな地域にも膨
大な歴史があるが、その時々の住民が地域に関心を持たないかぎり、それは何の意味もな
い切り離された情報である。この意味で、現在の地域には歴史がない」87と述べている。大
森町は今や、「世界遺産」という新しい町のアイデンティティを獲得した。しかしそれは、
地域の住民が関心を持ってこそ初めて意味のある「地域の歴史」になるのである。この意
味で、俊郎氏が、過去・現在・将来にわたって石見銀山の歴史を継承し、「世界の宝物」を
87
丸太一、2007、『ウェブが創る新しい郷土』、講談社現代新書、69 頁。
60
次世代に伝えることによってまちづくりを行おうとしてきたことは、高く評価されるべき
であろう。「私たちもそうだけれど、次の若い世代に、世界の人に、貴重なこの歴史を伝え
ていきたいなぁという気持ちがある」という言葉からは、若い世代に石見銀山の歴史と伝
統を継承させたいという俊郎氏の熱意が伝わってくる。 しかし、一方で、世界遺産登録は急激な観光客の到来をもたらし、駐車場問題や観光客
のマナー問題など、不安材料が多いことも事実である。この点について、俊郎氏は、「気持
ちよく Welcome!、Hello!と挨拶ができるような、気持ちよく観光客を迎えられるような
町にしてきたい」と話す。世界遺産登録による経済発展は、大量の観光客を目当てにした
店舗の建設や、ゴミによる自然破壊など、遺産そのものの破壊につながっている事例も少
なくない。こうした新たな危機が予測される中で、俊郎氏は観光について、「観光化は、私
としてはあまり慌てることはないと思うんです。それよりも、山にいって、今竹藪に埋も
れている世界の鉱山や坑道が、いい意味で開発されるべきだと思うんです」と述べている。
文化遺産を、単なる「商品」として扱うのではなく、先人の本当の歴史を理解するために
遺産を修復し、復元する。それは何も急ぐことはなく、これまでの大森町の生活のリズム
を壊すことなく、実施されるべきだというのである。 「ただ観光で、あそこに行けば、お金がもらえる・稼げるっていう施設として見てはい
けないと思います。あくまでも文化施設。昔の人たちが命をかけて仕事をしたところです
から。値打ちというか、それだからこそ世界の宝だといわれるような、そういう所を見て
欲しいだけです。行ってみて下さい、そして入場料を払ってくださいっていう場所にはし
たくない」と、俊郎氏は述べている。だから、俊郎氏が考える世界遺産登録とは、急いで
金儲けをする施設を作ることではなく、観光客が大森町の歴史と町並みを愛するきっかけ
となることであると言えよう。 さらに、俊郎氏は、「文化の香りが高いとか、文化性をもっているなとか、ここは寂しい
と思っていたけれど、町の人たちは非常に明るい人たち、親切な人たちだなぁ……という、
人としても魅力がある町になればいい」と、大森町のまちづくりについて述べている。住
民へのアンケートでは、観光客の増加に対して、「人が多すぎて、今までの大森ののんびり
とした所が好きだったのに・・・本当に好きで来る人がすくないような。世界遺産=観光
地にはなってほしくない」という意見も見られた。しかし、実際に世界遺産登録が決まっ
た現在、こうした否定的な意見をどう取り扱うべきだろう。
丸太は、こうした変わりゆく地域のあり方について、「地域は、変質した地域イメージを
61
受け入れることが重要である。地域の実態と地域イメージを重ね合わせてズレを確認しな
がら、地域イメージに合わせて地域の側を変えていくのである。こうした反省と努力によ
って地域は、地域への期待値を取り込んだ新しい個性を獲得する」88と述べている。地域の
イメージが変質することを恐れず、むしろ「地域イメージに合わせて地域の側を変えてい
く」必要性を説いている。この点についても、俊郎氏の意見は前向きである。これまであ
まり外部の人間が訪れなかった大森町に、大勢の人が押し寄せてくる。しかし、そうした
人たちを排除するのではなく、むしろ「気持ちよく観光客を迎えられるような町」になる
ように努力する一方、観光客に対しても「昔の人たちが命をかけて仕事をしたところ」を
じっくりと見学して欲しいという要求を持っている。つまり、地域も観光客も、世界遺産
を一時的なものとしてではなく、もっと本質的な「世界の宝」として扱う姿勢を養ってい
くことが大切だと言いたいのではないだろうか。 俊郎氏の願いは、大森町を訪れる人に感動を与えることであるという。このような心づ
かいによって、石見銀山遺跡は他の世界遺産と「一味」違う世界遺産になりうるのであり、
そうした準備を怠りなくすることで、石見銀山の歴史や大森町の文化と伝統に興味をもち、
学びにくる観光客を増やすようなまちおこしを望んでいるのである。 しかし、そのような観光客を獲得するためには、どうしてもマーケティング・プランが
必要となる。そのためには、大量の観光客への対処だけを急ぐだけではなく、俊郎氏をは
じめとする大森町民と行政がいっしょになって、大森町をどのような観光地にしていきた
いのかを再確認し、短期的だけではなく長期的なまちおこしの計画を立案することが重要
である。しかし、現状では、大森町民のアンケート結果が示すように、町民と行政の意見
のズレは明らかである。文化観光学での重要性は、第2章で述べたが、観光を手段として
利用し、文化遺産の活用方法や受入地域を含めた観光づくりが、今こそ大森町に求められ
ていると思われる。そのリーダーとなることができるのは、中村俊郎氏を措いて他にはな
いだろう。 中村仁美氏は、俊郎氏の妻である。岡山県出身であるが、大森町に約 30 年間住んでおり、
大森町で行っている団体や会議にも積極的に参加し、俊郎氏の活動や大森町の内部事情に
も詳しい人物である。大森町の全体を見わたすことのできる仁美氏は、石見銀山の世界遺
産登録で注目される大森町の観光とは、これまで通りの町の日常の延長線上にあるものと
考えている。例えば、観光客が町並みを歩きながら楽しめるように町民自ら竹を切って、
88
同、67 頁。
62
その竹で竹筒の花入れを作ってそこに花を飾ったりしていることに注目し、「観光客を歓迎
したいという住民はいるのね。花をかざったりということはその表れだと思っている」と
述べている。 世界遺産登録を目前にした頃から、町に観光客が押し寄せるようになった。そのため、
観光客に対する不安が町に広がっている。仁美氏も、「観光客がたくさん入ってきて生活が
乱されるのが反対なのかっていうと、生活が乱されるから反対であって、世界遺産反対と
はつながらないと思う」と述べているように、問題は世界遺産登録自体にはなく、住民が
大切にしてきた「生活が乱される」ことへの不安なのである。おそらく、高齢者の中には
これまでの穏やかな日常がおびやかされることへの恐怖から、観光客を嫌う人もいるだろ
う。しかし、世界遺産への登録と大勢の観光客の到来は不可分であり、その現実から目を
そらしてはならないはずである。 そこで要請されるのが、行政の働きである。仁美氏は、行政に対して、「世界遺産を起爆
剤にして経済が良くなっていけば、それは良いことだと思う。だけど、大森町に住んでい
る私たちから見て、大森町の町が乱れてしまって、もうこの静かなたたずまいで穏やかに
暮らしている生活がダメになってしまったら、いくら経済が発展したって、それは絶対許
されることではない。だから、この今の大森の良さを大事に保存して、次の世代へ伝えて
行って、なおかつ地域が潤うのでなければ、行政の仕事にならないでしょう」という注文
を付けている。また、「他所から入ってきた人たちは、他所の感覚をもってきてお店を作っ
て、目立てばいいという感じ。お客さんを呼べればそれでいい。そういう看板を作ったり、
そういう目立てばいいというようなお店を作られた場合、町の人は言いにくいでしょ、そ
の人たちに、そんなことしちゃいけないって。で、私たちが期待するのは、行政の方が町
のルールでも作って、そういう人たちを指導してもらいたいな思います。住民ではいえな
いもの、なかなか」と話しているように、町内でのトラブルの調停役を行政に期待されて
いる。都会であれば、住民同士の話し合いによって、あるいは条例の制定によって、雰囲
気に合わない出店計画の差し止めが行われるところだが、大森町のような田舎の町では、
お互いの住民感情が悪化しないようにするために、行政に調停役を期待する習慣が根強い。
仁美氏は、そういう点を十分に心得た上で、地域の伝統と経済発展の調和、住民同士のト
ラブル解消という二つの大きな役割を、行政に期待している。「他所」から大森町に来た仁
美氏だからこその、貴重な意見であると思われる。 そして、仁美氏は、大森町の理想のまちおこしについて、「理想としてはね、本当に大森
63
が好きな人が、今日はここに行ってみましょうか、で、ノンビリそこを歩いて、また次に
今度はここに行ってみましょうか、今日は足をのばして山の方へ行ってみましょうかって。
本当に大森のことが好きな人が、石見銀山を色々勉強して、理解して、何度も太く短くで
はなくって、細く長くっというのが一番いいと思う」と言っている。「本当に大森が好きな
人」が、「ノンビリ」と、自分の興味に従って、毎回違う場所に「足をのばして」散策でき
るようなまちづくり。つまり、観光客が急いで観光地を回って、レストランで食事をして、
ショッピングを楽しむというような、観光地化を目指したまちづくりではなく、大森町や
石見銀山を本当に好きな人が、何度も足をのばせるような、伝統文化を尊重したまちづく
りを、仁美氏は強調している。 そして、世界遺産についても、仁美氏は「世界遺産というのは、観光客のための世界遺
産じゃないから。遺産を大事に守って、後世に伝えるための世界遺産だから、本当の意味
での世界遺産にならなければならない。この雰囲気をいつまでも残して、後世に伝えてい
かなければならない。だからむやみに世界遺産になってほしいわけではなくて、世界遺産
になってこの雰囲気を大事に守っていかなければならない」と話している。「世界遺産とい
うのは、観光客のための世界遺産じゃない」という言葉は大変印象的である。アンケート
結果も示していたように、大森町の大半の住民は、世界遺産になってお金を儲けることよ
りも、石見銀山の価値とともに、自分たちの穏やかな生活の価値も伝えようとしているよ
うに思われる。仁美氏の「世界遺産になっても、この雰囲気を大事に守っていかなければ
ならない」という言葉は、まさにそうした住民の思いを代弁しているだろう。 世界遺産登録が、町民に町への誇りをよみがえらせ、何世代にもわたって守ってきた遺
産や、町の雰囲気、文化、歴史を保存する勇気を与えることになれば理想的である。 以上見てきたように、大森町に生まれ、地元で企業を興し、私財をなげうってまで町並
みの保存・修復を行っている中村俊郎氏と、岡山出身で大森町で長年生活しながら、外の
視点で住民、行政、観光客を冷静に見つめている仁美氏の存在は、大森町にとってかけが
えのない財産と言えるだろう。そして、お二人の献身的な努力があったからこそ、石見銀
山遺跡の世界遺産登録が可能になり、そして今大森町の新しいまちづくりも可能になって
いるのだと思われる。 第2項 文化観光学からの提案 64
石見銀山遺跡は、2007 年 6 月 28 日クライストチャーチ(ニュージーランド)で開かれた
ユネスコの世界遺産委員会で、「銀山遺跡とその文化的景観」が世界文化遺産への登録が決
定した。ユネスコの諮問機関が事前に登録延期を勧告していたので、日本が推薦した候補
では初の登録見送りが懸念されていたが、逆転で世界遺産入りが決まった89。世界遺産登録
決定により、今後大森町・石見銀山は、国内だけでなく世界へ再び情報発信をすることに
なった。 世界遺産になったということは、それだけ人々が注目する対象になったということを意
味する。もはや観光客の到来を防ぐことは、ほぼ不可能になったといえよう。決定以前か
ら、大森町には大量の観光客が訪れている。しかし、本来「観光」とは、第 1 章および第 2
章で述べたように、受入地域それぞれの特性に合わせた「持続的可能な文化観光」こそを
目指さなければならない。なぜなら、大森町は歴史的な町であり、遺産、町並み、資料館、
歴史や文化を実感することができる地域である。入念な「観光計画」を立案し実行するこ
とによって、初めて町を長期的に保つことができるのである。 本間義人が、地域再生の条件について「今日まで地域を活性化させるうえで、地域開発
や地域振興の名のもとに主導的な役割を果たしてきたのは霞が関であり、都道府県庁でし
た。しかも始末が悪いことには、関係者は官僚制の庇護のもとに、その国土計画や地域政
策の度重なる失敗にも誰も何の責任をとることなく、失敗の結果を地域に押しつけて、つ
ぎつぎに新しい国土計画をつくってきたのでした。しかし、いま求められているのは、地
域の人々が自ら策定し、自らそれに参加して進める地域の活性化計画であり、あるいは地
域の創造計画ともいうべき計画です。それに基づいた政策を展開していくことが必要です」
90
と述べているように、現在求められているのは、行政主導の観光計画ではなく、「地域の
人々が自ら策定し、自らそれに参加して進める地域の活性化計画」こそが必要なのであり、
行政は「それに基づいた政策を展開していくこと」が必要なのである。 まちおこしに不可欠なのは、①受け入れ地域、②町民、③行政、④観光業者、⑤観光客、
⑥研究者、⑦ガイドなどの組織の相互連関性である。これまで見てきたように、大森町の
まちづくりの特徴は、中村俊郎・仁美夫妻をはじめとする大森町民の極めて高い自主性で
あるといえよう。彼らは、世界遺産の話が出るずいぶん前から、大森町の町並み保存や町
の活性化のために活動をしてきている。 89
90
朝日新聞、2007 年6月 28 日朝刊。
本間義人、2007、『地域再生の条件』岩波新書、156 頁。 65
ヨーロッパで成功した地域では、まずさまざまな領域の研究者や受入地域の住民がとも
に地域の特性を把握する作業を行い、その上で、どのような観光施設が相応しいか、また
マイナス・インパクトを与えないような施設にするにはどうすればよいか、などの計画を
策定している。それぞれの施設に特色を持たせ、観光客が選択できるような施設も設置し
ている。例えば、観光客がどのようにすれば地域の歴史や文化を学べるか、方法や内容を
工夫しながら楽しく学べるシステムを開発したりしている。 大森町では、大量の観光客に対する問題が取り上げられてが、まちおこしに取り組んで
いる研究者や、観光業者、そして地域住民がともに話し合う場を設け、大森町の長期的な
発展を視野に入れた「観光計画」を作成することが、今一番必要なことであると思われる。
世界遺産登録のニュースは、またたくまにメディアを駆け抜け、すでに観光客が殺到しつ
つある。こうした状況下で、いかに冷静に観光を考えることができるかが問われている。
歴史学者、社会学者、考古学者、地理学者、経済学者などの学者をもっと大森町に引き込
み、彼らの意見を参考にしながら、「地域の人々が自ら策定し、自らそれに参加して進める
地域の活性化計画」を立てること。観光客を主体とした「観光文化」ではなく、地域住民
を主体とした「文化観光」への移行は、そうした綿密な観光計画がなければ実行不可能で
あることを、改めて指摘しておきたいと思う。 66
第5章 結論 観光について、観光客側の視点から考察した先行研究は数多くあるが、地元住民側の視
点から考察した研究は少ない。とくに、本論がテーマとしている「文化観光」、すなわち「人
間が作りだしたモノ・コトである文化的観光資源を活用した観光」という視点から観光開
発を考えたまちづくりは、日本ではこれから盛んになる分野のように思われる。
第3章、4章で取り上げた大森町の場合、他の観光地と比べて著しい特徴がある。それ
は、地元住民自身が自分たちの町を本当に大事にしているということであり、ただ観光地
化させたいのではなく、石見銀山の歴史を見るだけではなく学ぶこともできるような何か
を得るための「まちおこし」を望んでいるということである。大量の観光客の来訪を望む
のではなく、もっと世界遺産の歴史や文化に関心を持つ観光客に来てほしいと願っている
のである。
しかし、町民のアンケート結果によると、「文化遺産を残すことに伴い、行政が町民の意
見とは関係なく進められていくことに、大森町の将来の不安がある」という意見が出され
ているように、これまでのところ行政(大田市や島根県)は、観光客向けの開発を急ごう
としており、行政の意向と町民の意向の方向性がズレている。また、行政は地元住民の意
見を聞き入れるということを名目として、月に 1 回、地元住民との会議を開くなどの対応
を取ってはいるが、実際のところ、「自由に発言出来るような空気ではない」という意見も
出されるなど、地元住民の意見が十分に聞き入れられないような会合になってしまってい
る。「大田市や自治会がもっと町民の意見を聞くことが必要」という意見も出されており、
住民の意向が政策に反映されていないことが心配される。
住民と行政の観光化への思いのズレは、観光客の受け入れで最も期待できる経済効果に
対する考え方にまで及んでいる。大森町の条例は、地元住民が望んでいるようには整備さ
れておらず、現状では誰でもどんな景観の店でも自由に建てられるようになっている。し
かし、地元住民としては、「大森町に、地元住民ではない外部からの商売人が入るという点
には頷けるが、全く大森町の景観にそぐわない店を作ってしまうため、そういう人たちに
は入ってもらいたくない」という意見をもっているようである。
しかし、住民側にも問題はある。大森町には高齢者が多いせいか、観光の否定的側面が
必要以上に強調されているように思われる。住民は、
「観光」という概念を、観光客の来訪、
住環境の悪化という点からとらえる傾向が強いが、世界遺産登録を有効活用すれば、住民
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の間に新しい町のアイデンティティを確立することもできる。「まちおこし」とは、やはり
住民・行政・観光客の三者が一つになって考えるべきものであり、それぞれが別々に考え
ていては、本当にその地域にとって効果な観光計画を立案することはできないだろう。
住民・行政・観光客の三者のメリットやディメリットを十分に話し合った上で、「観光」
の目的や方向性をしっかりと見定めた観光計画を立てて「まちおこし」を実行しなければ
ならない。そうすることによって、町民は、これまで以上に町のアイデンティティや歴史
に関心を持てるようになり、行政と町民と一丸となって観光化を進める気運も生まれ、来
訪する観光客も満足できる観光ができるのである。
最後に、文化観光学における「まちおこし」とは、日本でよく見られる新しい観光施設
を建設し、観光客の利便性を高めるという観光化が目的なのではなく、地元住民が参加し
た観光化こそが最も重要であるということを明記しておきたい。実際に、地域のことをよ
く知らない行政や外部のコンサルタント・学識経験者だけで「まちおこし」を行った場合、
序章にも記したとおり、しばしば地域の環境や文化・伝統という文化的背景を無視した観
光開発が行われ、自然破壊、環境汚染、観光地における住民の生活基盤の破壊などの弊害
を起こす可能性が高く、文化遺産の維持・保護を目的とした「世界遺産」登録の意味がな
くなってしまう。
したがって、地元住民の意向が十分にくみ取られた「まちおこし」こそが最重要なので
ある。特に、石見銀山は他の世界遺産と違って、景観を見てすぐに理解できるものではな
いため、歴史や文化を知った地元住民と行政との協力が不可欠である。しかし、すでに何
度も述べたように、大森町には中村俊郎・仁美夫妻など、大森町をこよなく愛し、地域の
歴史と文化を尊重しながら活動している住民グループが存在している。こうした動きに連
動するような形で行政や観光業者が協働できれば、島根県という過疎と高齢化が進んだ地
域であっても、理想的なまちおこし、理想的な文化観光の実践が可能になると思われる。
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