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豊かな河北潟に・夢のある干拓地に

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豊かな河北潟に・夢のある干拓地に
豊かな河北潟に・夢のある干拓地に
河北潟は水に浮かんでいた
人も水のふところに生きていた
その水に戦いを挑み、僕らは土地を手に入れた
いま、潟は乾きに苦しんでいるように見える
僕らも渇きの中に立っている
風にはもう水の匂いがしない
砂ぼこりをまき散らし目と心を痛めつける
河北潟の乾きをいやす時が来ている
もう一度水の世界を呼びもどそう
古い水ではなく、新しい水のうるおいを
心がひからびてしまう前に
河北潟将来構想
−
− 多様な水辺の
多様な水辺の 再
再生
生・
・農
農業
業と
と野
野生
生生
生物
物の
の共
共生
生−
−
失われつつある河北潟との共生
農業と野生生物の対立
−現在の河北潟− 河北潟の恵みを受けてきた湖岸の人々の暮らし。その恵みのもとは潟の水とそこに棲む生物
たちでした。今は、河北潟と人々の暮らしの接点が失われつつあります。
多様な水辺の消失
以前の河北潟には湖岸に幅広い沈水植物帯が広がり、周辺
の水路にもオニバスなどのたくさんの水草が生育していたと
考えられます。しかし、そのほとんどはきちんとした調査も
されないままに消滅してしまいました。このことは干拓前に
存在していた複雑な形状の湖岸や多様な水辺環境が次々と消
失していったことと深い関係があります。
河北潟干拓に伴って河北潟の湖岸はほぼ100%人工化され、
矢板による護岸やアスファルト護岸となっています。効率だ
けを求めた単調で直線的な護岸は、波が激しくぶつかるため
に水草が定着できず、現在の潟に残された植物帯は水面全体
の5%の面積にしかすぎません。河北潟に豊かな植生を再生す
るためには早急な対策が望まれます。
農業はもともと野生生物を排除することにより生産性を上げ
てきましたが、その結果現代ではむしろ、農村地域での生物多
様性が重要視されるようになってきました。しかし、河北潟で
は現在でも野生生物による農業被害があるため、野生生物を排
除する対策が必要とされています。ハス田ではカモ類による食
害に対抗するために防鳥網を張っています。ノネズミがかじっ
た作物は、味は変わらなくても商品にはならないため、費用を
かけて殺鼠剤をまいています。これらは河北潟の農家が苦労し
ている深刻な問題です。しかし見方を変えれば、このことは河
北潟にはまだ多くの野生生物が生息していることを物語ると同
ハス田の網に掛かったノスリの死骸
時に、河北潟が人の健康を守る作物=生命を育てる場としてふ
さわしい、優れた地域であることを示しています。
野生生物をむやみに排除することは、河北潟干拓地のもっている農地としての良好な質を低下させるこ
とにもつながりかねません。これからは農業が野生生物と折り合いをつけていくことを考える必要がある
のではないでしょうか。
最近の変化
直線的な護岸堤
潟面積の減少と淡水化・水質の悪化
潟面積が 1/3 以下になったことから、潟への海水の流入
が起こりにくくなりました。また、防潮水門を建設したこ
とにより完全に潟内は淡水になりました。かつてのボラ、
スズキなどの汽水性の魚は姿を消しまし
た。同時に伝統的な潟漁もみられなくな
りました。
潟の汚れでもあるプランクトンや浮遊
有機物を濾過してくれるシジミやゴカイ
はほとんどいなくなりました。流域から
の負荷の増加もあり、河北潟の富栄養化
が一気に進行しました。
湖岸に溜まったゴミ
ゴミは一時期よ
りも少なくなって
きていますが、相変わらず河北潟での深刻な環境問題です。潟周辺
から出るゴミとともに、農業廃棄物として出される大量のビニール
ゴミの処理も重大な問題です。
水質の悪化やゴミの増加、美しい湖岸風景の消失など、河北潟の
環境が悪化したことによって、周辺の人々の暮らしの中での河北潟
との接点が少なくなり、潟の自然への関心が失われつつあります。
干拓により出現したヨシを中心とする広大な草原は、チュ
ウヒなどの草原性の野鳥の恰好のすみかでした。耕地化のた
めに草原が減少し、入植が進むとともにこれらの種は窮屈に
生活するようになりました。最近ではブラックバスをねらう
釣り人が増え、繁殖場所のヨシ原の中にまで人が入り込むこ
とにより、落ちついて繁殖できなくなってきています。
ブラックバス、ブルーギル、ウシガエル、アメリカザリガ
ニ、セイタカアワダチソウなどの外
来種は在来の生物を脅かし、河北潟
を席巻しています。これらをすべて
繁茂するセイタカアワダチソウの群落
排除することはできませんが、これ
までよりも多様な環境をつくることにより、
様々な種が生き残れる工夫が求められ
ます。幸いにアサザ、コウホネ、ミクリ、ミズアオイなど、全国的に絶滅が心配さ
れる種が河北潟周辺の水路や湿地にかろうじて生存していることがわかりました。
また、最近では水路の改修や圃場整備の際に、こうした希少生物を保全しようとい
う動きも出てきました。
かつての豊かな水辺の生き証人ともいえるこれらの種を絶
河北潟の貴重な植物
(アサザ・ミズアオイ)
滅させないために、多様な水辺の復活が求められます。
最近では、河北潟の環境問題に関心を持つ人が増えてきました。ゴミも以前のよ
うに簡単には捨てられなくなりました。干拓地を訪れる人も増えてきました。産直
やブドウ狩り、アイスクリームスタンド、ひまわり畑など、干拓地農業にも少しずつ活性化の兆しが見え
ています。河北潟を美しくしようという運動も現れました。しかしながら、外来者の増加は、野生生物の
保護を考えた場合には慎重に扱わなければならない問題です。河北潟の豊かな自然は観光資源としても有
効です。潟の自然と野生生物を守りながら、干拓地の発展を考えていくことが求められています。
湿 田
かつての河北潟、多様性の高い豊かな水域
−
だんだんと河北潟は堆積が進み小さく
なっていきました。堆積したあとを開拓し
たり小規模の干拓を繰り返して水田を広げ
ていきましたが、もともと低い土地である
ため、潟近くのほとんどの田は大雨が降る
と冠水する湿田でした。また、舟で稲刈り
をするために櫛の歯状に溝を切り込んだ
うねだ
「畝田」もみられました。これらの湿田での
収穫はあまり良くなかったようですが、渡
り途中のシギ・チドリ類にとっては、恰好
干拓以前の水域環境−
かつての河北潟の水域環境に関する資料は決して多くないのですが、古い地図や文献、聞き取
りなどからは、多様な水域を有する水郷地帯であったことがうかがえます。
フ ゴ 成立当時の河北潟は広大な面積を持っていましたが、堆積
によりだんだんと小さくなっていきました。しかし比較的深
いところは陸化せずに、孤立した窪地として残されました。こ
の窪地が沼となりフゴ(不湖)と呼ばれていました。フゴは
泥が深く人には利用しにくい環境であったようですが、徐々
に開田されていきました。大正時代に編纂された石川県河北
郡誌には内高松のフゴについての記述として「前田利常の時、
今の大谷川の河床に堀切を作りて其水を排出し、以て約 15 町
歩の水田を作り」と記されています。またフゴを干拓した場
所では「全水量を落下せしめしも、尚沼澤の痕跡を存し蘆葦
の生ずるに放任せしが(中略)而も尚年々新しき土壌を加う
るに非れば耕作に適せざる部分ありといえり」と書かれてい
ます。
人にとっては開発が困難な場所であったことは、フゴに棲
む動物にとっては逆に棲みやすい生息環境であったことが想
像されます。
内高松フゴ
の採餌環境であったと考えられます。
狩鹿野フゴ
舟橋フゴ
中条フゴ
太田フゴ
潟の水は海水と淡水の混じる汽水でしたが、その濃度は
場所により異なり、海水に近い場所からほとんど淡水の場
所までがありました。塩分の濃い場所では海水魚が往来
し、海から離れた北端では淡水魚が獲れました。それぞれ
の濃度には異なる生物が生息し、多様性の高い生物相が存
在していたことが考えられます。
地点
向粟崎
大根布 A
大根布 B
大 崎
塩素イオン濃度
(Cl-mg/l)
650
560
360
270
1958年の河北潟の塩分濃度に関するデータ
(金綱 1973 より)
水生植物が繁茂する水辺
1826 年(文政9年)の加州河北郡図より作成
複雑な河口域
河口に堆積した泥湿地の上にはヨシが繁茂し、延々と続く高茎の草原が存在していました。河口部は流
路が枝分かれして、複雑な湖岸が形成されていました。こうした環境は野鳥の隠れ場として、また繁殖場
うっそう
所として利用されていたと考えられます。鬱蒼とした抽水植物帯は一度入り込んだらなかなか出ることは
ちみもうりょう
できず、人間からみれば、まさに魑魅魍魎の住む世界であったようです。
水 路
昭和 35 年頃の森下川河口域。河口の中洲が発達し、水路(舟入川)が農
地の中を縦横に走っている。
(
(財)日本地図センター(1997)より改変)
海水∼淡水までの濃度差を伴う潟水
潟の水辺は水生植物が繁茂していたようです。
舟で潟に出るときに誤って水草の茂っているとこ
ろに入るとクロモなどの沈水植物や、ヒシ、アサ
ろ
ザなどの浮葉植物が櫓にからみつき、前にも後に
も進むことができず苦労したそうです。
かつて河北潟は「蓮湖」と呼ばれていました。
石川県河北郡誌には「蓮湖の名は古来蛇蓮と称
し、黄色の花を著くる蓮を生ずるが故に名くとい
う」と書かれています。「蛇蓮」とはオニバスの
ことで、かつては潟を代表する水草であったこと
が考えられます。また、蛇蓮が黄色の花をつける
と書いてありますが、実際にはオニバスは赤紫色
の花をつけます。河北潟には黄色い花をつけるア
潟縁にはもともと道はなく、移動は舟でおこ
なっていました。周辺の集落では家と家、家と
田を結ぶイタニと呼ばれる小舟の通る水路(舟
入川)が縦横に走っていました。そのため内陸
部にまで水路による水域ネットワークが構成さ
れていました。ある水路では、現在では河北潟
から姿を消してしまったオニバスが繁茂し、舟
の通行の邪魔にさえなっていたといいます。水
路は、多様な水生植物が繁茂し、メダカや水生
昆虫の恰好の棲み場所であったことが推測され
干拓後に生まれた新しい環境
ます。
チュウヒです。干陸後しばらくの間、河北潟はこのチュウヒを初め、ケアシノスリ、マダラチュウヒなど
サザやコウホネがたくさん自生していて、これをオニバスの花と勘違いしたのかもしれません。
干拓によりヨシを中心とする広大な草原が出現しました。日本においては低地は、人為による開発が進
んでいる場所であり、大きな草原はほとんどありません。干拓地に形成された広大な低地湿性草原は、か
つての失われた環境が復元された貴重な場所となりました。こうした環境を求めて、たくさんの生物が進
入してきました。こうして河北潟の野生生物群集に新しいメンバーが加わりました。その代表は猛禽類の
の珍鳥も訪れる、日本有数の野鳥の宝庫でした。
河北潟の舟と舟小屋
河北潟で使われていた舟は平底の舟で、櫓や竿を使って操作
しました。各家はヨシで屋根を葺いた独特の舟小屋をもってい
て、そこに舟を入れていました。家によっては何艘もの舟を
もっていて、漁のときや稲を運ぶときだけでなく、日常の移動
手段として使われていました。舟小屋は河北潟の湖岸に独自の
風景をつくっていました。舟小屋の名残は現在でも、大根布や
宮坂の県道8号沿いの車庫にみることができます。
古代―――河北潟周辺は恵みの地
5000 年前
1000 年前
5000年前に内灘砂丘の伸長が進み、河北潟は海からしだいに切り
離されつつありました。この頃、河北潟周辺に住む縄文人は潟や周
辺の川から貝類を採集していました。宇ノ気町にある上山田貝塚の
出土品がこのことを物語ります。
また、金沢市梅田町で見つかった弥生時代の水田跡や森本丘陵に
点在する古墳群は、河北潟周辺の肥沃な地域が古くから人々に利用
されてきたことを想像させます。
河北潟と子どもたち
河北潟の周辺の集落の子どもたちにとっては河北
潟が遊び場でした。5∼6年生にもなると各家から
舟を持ち出して潟に集まり、子どもたちだけで潟の
深いところまで漕いでいきました。夏休みには、潟
で泳いで遊びました。
男の子たちはフナ釣りを楽しみました。泥の中に
いるフナを手づかみで獲ることもできるほど豊富で
した。女の子たちは学校が終わると、夕食のおかず
にするシジミ貝を潟に採りに行きました。深いヨシ
原をかき分けていき、ヨシキリやバンなどの巣を見
つけて、卵を採って茹でて食べたりしました。鳥も
ちを使って小鳥を獲ったりもしました。
江戸時代―――加賀藩の管理下
1802 年∼ 1850 年
イノシシ・シカ
ニホンオオカミ
山麓線
野獣害分布図 (千葉徳爾 1995 より改変)
河北潟周辺を含む加賀平野全般は藩主の鷹狩りの地となってお
り、領民が野生動物を獲ることは固く禁じられていました。この
政策のおかげでしょうか、河北潟周辺ではシカ、イノシシ、ニホ
ンオオカミなどが目撃されており、大型ほ乳類は多く生息してい
たようです。また、河川や湖沼には「御止場」と呼ばれる魚類の
繁殖保護地が設けられました。河北潟においては、各村ごとに使
用できる漁具漁法が定められていました。
領民にとってはさまざまな制約を受けるものでしたが、そのこ
とによって資源としての野生生物が守られていたと考えることも
できます。農業生産
は自然の制約を受け
ていましたが、害虫
防除などには、野生
生物が積極的に利用
されていたようです。
河北潟の漁法と漁獲
河北潟では、
「底袋網」という定置網漁や、
「狩曳」という船曳網、
カワギス刺網、多くの漁船で魚群を包囲する巻打などの投網漁が盛
つ け ぼ え
んでした。特殊な漁法としては、
「根掛杪漬」と呼ばれる柴漬漁があ
りました。これは魚の習性を利用した漁で、あらかじめクリ、ナラ
その他
ボラ
ハネ
明治∼昭和初期
河北潟は、周辺で生活をする漁民の重要な漁場でした。漁業
を行う場合には、漁業権の制約がかかりました。これによって
漁具・漁法に地域的特色があり、向粟崎の袋網や大根布の狩曳
網など潟ではさまざまな光景が見られました。
河北潟ではフナ
などの淡水魚に加えてスズキ、ボラ、サヨリ、シラウオ、ヤマ
トシジミなど汽水性の魚の漁獲もありました。
女性たちはこの
魚介類を金沢や、遠くは福光方面に振り売りに歩きました。
大野川を通じて数トンもの大きな舟が潟と海とを行き交って
いました。海の魚介類が現在の向粟崎辺りまで運ばれ、周辺の
人々は舟小屋から舟を出して買いに出かけました。
網に引っか
かって売り物にならないイワシは田んぼの肥料として使われていました。現在の内灘町など、生活の基盤
を漁業に依存していた集落では、ほとんど農業を行わなかったようですが、花園や才田など東岸から南岸
の集落では水田農業に力を入れていました。潟周辺の田んぼには水路が縦横に走り、舟は農作業にも欠か
せないものでした。
内灘町の河北潟における漁獲高
の内訳
(昭和35~37年)
ウナギ
ゴリ
シラウオ
アマサ
ギ
フナ
シジミ
内灘町史(1982)より
などの枝約 300 本を束ねたものを水
中に沈めておき、それを隠れ家とし
て集まってくる魚を一網打尽にする
ものです。河北潟では、海水魚から淡
水魚までのさまざまな魚が獲れまし
たが、水揚げ高からみると、ウナギ、
フナ、シジミが潟漁業の主要な対象
であったようです。ウナギは一時期
シジミ漁の様子
放流もされていました。
自 然 復 元 ・ ビ オ ト ー プ 創 造 (中央図A−E)
環 境 教 育 施 設 (中央図F−G)
保 全 対 象 区 域 (中央図赤枠Ⅰ−Ⅴ)
かつての河北潟の環境要素を部分的に復元します。また現在ある環境を改良してビオ
トープ(野生生物の生息空間)化します。
河北潟は低地や湿地の生物を観察することができる野外教育には絶好の場所です。河北潟に環境教育を促進するための施設を建設します。
河北潟の中で優れた環境を有する区域を保全対象区域として選定しました。保
全対象区域内では、できるだけ人為的な改変をおこなわず、野生生物の生息場
所として保全することをめざします。
F 環境学習センター(エコステー
ション)と湿地林観察舎
A 人工島
人の近づくことができない潟の中央に直径20mほ
どの人工島を造成します。この島は野鳥の楽園とし
て、
また、
他の生息環境との間を結ぶ飛び石ビオトー
プとして機能することが期待されます。人工島を造
成するにあたっては、外郭に波よけ用のブロックを
設置したりしますが、できるだけ水面に露出しない
しゅんせつ
ように設置し、
その内側には浚渫土を盛ります。
土質
からはハンノキなどから構成される疎林と、ヨシや
ガマなどの抽水植物が生育することが予想されます。
疎林はサギ類などの絶好のねぐらとなるでしょう。
この本体部分のほかに水流によって自然に砂州の半
島部分ができることを想定しています。砂州は疎林
をねぐらとする鳥類の恰好の餌場となることでしょ
まがたま
う。ねぐらと餌場をもつ勾玉状の人工島は河北潟再
G 湿地林
現在の河北潟には、マツの植
林を除くと樹林がほとんどあり
ません。太古の河北潟周辺には
ハンノキ・ヤナギ類などから成
る湿地林が広がっていたものと
思われます。現在の日本では、
湿地林のあった場所は、人間の
長い間の活動により水田や都市
などに変わっています。かつて
日本に普遍的に存在した環境を
干拓地の一部に、自然公園とし
て復活させます。今回の提案で
は、大崎橋の近くの、現在は
しゅんせつ
浚渫土を貯めている場所を候補
地としています。
河北潟の北端、内日角地区の水辺はカヌー
の練習場もあり、公園も整備されているため
に人が利用する親水空間となっています。こ
こに河北潟の自然と農業を学習するためのセ
ンター(エコステーション)を建設します。セ
ンターでは河北潟の変遷や、現在潟に生息し
ている生物、環境保全と農業の関係などを学
べるようにします。
また、
自然観察会や学習会
などをおこなう場として、センターを市民に
開放します。水辺を回り込んだ干拓地内の一
部に昆虫の集まる湿地林を造成し、観察舎を
設けます。湿地林の中は遊歩道を整備して散
策できるようにします。
Ⅰ 西部承水路(室橋
∼大崎)
ここは西部承水路の中
では比較的広い場所で
す。ハスの群落が密生し、
その他ヨシ、マコモ、ヒメ
ガマなどの抽水植物も豊
富な場所です。かつての湖岸の名残を残していま
す。また鳥類の重要な生息環境でもあります。堤防
で隠されていることもあり、
野生生物にとって安心
できる場所の一つです。
河北潟の水辺の風景を伝え
る場所として、また野生生物の生息環境として、最
重要の保全対象区域として選定しました。
生の始まりを象徴する構造物です。
Ⅱ 東部承水路のヨシ
帯
B 幹線排水路
干拓地内の幹線排水路は、水域の少ない河北潟干
拓地の中では重要な水辺環境です。水際の構造を工
夫することにより、
富栄養的な環境ではあるものの、
河北潟にもともとみられる野生生物の多くが生息可
能な場所とすることができます。
また、
下流部の左岸
側には比較的広い土地が未使用のまま残っています。
排水路とこの空き地を含めた広大な水辺ビオトープ
を造成します。この水辺ビオトープでは植生を伴う
緩やかな傾斜をもった水辺を創設します。また、ク
リーク(細い水路)やワンド(水の流れの緩やかなく
ぼんだ水際)などの多様性のある水辺環境を造成し
ます。
さらに、
この水辺ビオトープは道路下のトンネ
ルにより潟の岸と結ばれます。水際植生をもつ排水
路には、水質浄化機能も期待できます。
Ⅰ
Ⅴ
B
かくらん
G
F
A
Ⅲ 森下川河口
C
Ⅳ
もりもと
D
Ⅲ
Ⅱ
河北潟干拓地内にはまっすぐで長い自動車道路が
何本か通っていますが、
こうした道路は、
野生生物の
移動の障害となり、生息場所を分断するものとなっ
ています。
高速で自動車が通過するために、
野生動物
の交通事故が絶えません。近年河北潟を通過して通
勤する自動車はますます増加しています。潟と干拓
地を分断している才田大橋∼内灘大橋の堤防沿いの
道路と中央幹線道に、小動物が通過できるトンネル
をつけることにより、干拓地内および干拓地と潟の
連続性が改善されます。
これにより、
小動物の移動中
の事故が減ることが期待されます。
森下川河口には、上流
より運ばれてきた土砂が
堆積し、中洲を形成して
います。この堆積物は川
の氾濫の原因ともなりま
すが、鳥類や、砂地を生
息環境とする動物の重要な生息環境です。
ここには
国際的な希少種であるクロツラヘラサギもやってき
ました。砂質の干潟は河北潟では多くなく、この森
下川河口の中洲は保全すべき貴重な環境です。
しか
し、
堆積が進行すると植生が成長して別の環境に変
わります。
中洲の一部を残した浚渫を実施すること
により、砂州の状態を保つことができ、環境保全と
治水対策の両立が可能となります。
野生生物に配慮した農業形態・農地整備
干拓地は農地であり、農業をおこなう中で野生生物との共存のあり方を追求していきます。野生生物に配慮した農業のあり方、農地整備
D エコロード
は人為的な攪乱を避けたい場所です。
ヨシ原の部分
だけでも保全されるべきで、
今回保全対象区域とし
ました。
E
C 直線的な護岸の改修
才田大橋∼内灘大橋にかけての直線的な護岸は、
波が強く当たるため植生が育たず、生物の生息環境
としては適していません。湖に突き出た堤防や消波
ブロックを設置することによって、堤防の内側に
徐々に土砂が堆積し、人工的でない水際環境が少し
ずつ形成されていくことが期待されます。植生の遷
移も緩やかに進み、
将来的には水際にはヨシやガマ、
マコモといった抽水植物の群落が形成され、半閉鎖
的となった堤防内側には、アサザなどの浮葉植物が
繁茂することが予想されます。こうした植生が育つ
ことにより、
河北潟の水質の向上も望めるでしょう。
また、水草は水生動物の生育場所や繁殖場所として
も機能することが考えられます。計画ではこの水際
は全体を自然公園として保全し、
部分的に、
市民が生
き物とふれあう空間を設置することも想定していま
す。
東部承水路の両岸は広
いヨシ原となっていま
す。河北潟の周辺地域を
含めて、これほどの面積
のヨシ原はみることはで
きません。
この場所はチュウヒやツバメなどがねぐ
らとして利用するなど、
ヨシ原を生息場所とする生
物にとって、
たいへん貴重な環境ということができ
ます。また津幡川河口付近は、一部に泥が堆積した
浅瀬があり、鳥類の餌場になっています。現在、水
面は漕艇競技などに使用されていますが、
基本的に
Ⅳ 金腐川の河口
かなくさり
金腐川の河口は土砂の堆
積が進み、抽水植物やハン
ノキからなる比較的広い湿
地となっています。ここで
は多くの水鳥が観察され、
そのほかにも多様な生物が
交錯する生息環境となっています。
また干拓前の河
北潟の湖岸や河口域を連想させる数少ない地域で
す。この河口の周辺は、最近になって河川整備や改
変が進められていますが、河口部分は、できるだけ
人為的改変をおこなわずに、
保全することが求めら
れます。
を考えていきます。
各支線排水路の活用
河北潟干拓地は各区画に必ず排水路
が設けられています。またこの排水路
は幹線排水路により結ばれています。
各支線排水路を有効に利用して、水域
ネットワークをつくることができます。
水路周辺の草地を残し、さらに帯状の
樹林をつくることによりコリドー(野
生生物が移動するための回廊)として
の機能を発揮させることができます。
点在するミニビオトープ
E 中央幹線道路の改善
中央幹線道路は干拓地を二分していますが、幹線
道路の下には、排水路の支線が横断して幹線排水路
につながっています。この水路のトンネルにステッ
プをつけ、
陸生動物のための通路とします。
また幹線
排水路の岸には植物が生育できるようにして、水路
のトンネルに小動物を導入するためのきっかけをつ
くります。幹線排水路と支線排水路の連絡をスムー
ズにすることにより、干拓地内のビオトープネット
ワークをつくりだします。
また、
水辺の植生は水陸両
方の環境を必要とする動物の生息空間になることが
期待され、さらに植生の浄化能力が発揮されること
により、排水路の水質改善にもつながることが予想
されます。
干拓地内には未耕作地や農業施設の
余地を利用してさまざまなミニビオ
トープを創設します。それぞれのビオ
トープはかつての河北潟の環境要素を
再現するものとします。ビオトープ
ネットワークの観点からそれぞれのビ
オトープは幹線排水路両岸のヨシ帯と
の連結を重視します。潟周辺部でも、農
業用水路や休耕田を利用して、アサザ
やミズアオイなどの希少植物や渡り鳥
のためにミニビオトープを創設します。
野生生物の生息空間としての農地
農地は作物や家畜を育てる場であり、もともと生物が生息しやすい環境です。農業を営む上では野生生物を排除し
なければならない場合もありますが、部分的に農地を野生生物に提供することはできないでしょうか。例えば収穫後
から次の作付けまでの間を野生生物に解放することにより、
農地を野生生物との共存可能な場所とすることができます。
使
われていないハス田ではシギ類が餌をとる姿が確認できます。また、
耕耘した後にムクドリやカラス、
トビが群れて餌を
探します。一方で、野生生物間の食物連鎖をうまく利用することにより、害獣・害虫のコントロールができるかもしれま
せん。
干拓地では野ネズミの被害がみられますが、
河北潟に棲むチュウヒやノスリ、アオサギは野ネズミを好んで食べま
ひな
す。
チュウヒは1時間の間に10匹ものハタネズミを雛に与えることもあります。
これら野鳥に生息環境を提供しながら農
業をおこなうことは、
生産者にとって決してマイナスになることばかりではありません。
農作物の安全性が問われる今日
にあっては、
野生生物の棲む安全な農地からつくられる作物には商品としての付加価値も期待できます。
豊 か な 河 北 潟 に ・ 夢 の あ る 干 拓 地 に (河 北 潟 将 来 構 想 )
かつての河北潟は豊かな自然・野生生物と人々の暮らしが共存していました。河北潟をよみがえらせるためには、新しい共存関係をつくることが求められます。湖岸を自然公園
化して、草原の種が引き続き生息可能な環境を残すとともに失われた多様な水辺環境を復活させること、そして干拓地は農地として、野生生物との共存を考えることが重要です。
Ⅴ 野鳥観察舎周辺のヨシ原
野鳥観察舎周辺から金腐川河口へとつながるヨシ
原は人が近づきにくい環境となっています。夏、ヨ
シゴイが近づく姿に出会ったり、
カンムリカイツブ
リの交尾を目撃したりするのも、
この岸辺のもたら
す恵みです。
大根布防潮水門の建設によって新しく
生まれた環境ですが、
現在では安定した環境となっ
ています。冬にはカモ類が多く観察されます。鳥類
が安心して生息できる環境として、
人目から隠され
たまま保全したい地域です。
河北潟を代表する野生生物
チュウヒ (中川富男氏撮影)
河北潟の一部が干陸化し始めたのは 1970 年です。
チュウヒは潟の中に降りてゆく場所を見出しました。
1974 年には繁殖が初めて確認されます。
乾燥化と水辺、ヨシ原と草地、チュウヒは両方を必要と
しています。
河北潟の自然バランスの中心で揺れている鳥、それが
チュウヒなのです。
冬になるとノスリがやってきます。
春、秋にはシギたちの渡りに出会えます。
夏にはオオヨシキリの声で賑わいます。
チュウヒは表情を変える季節の中を飛んでゆきます。
その先に未来のヨシ原は広がっているのでしょうか。
河北潟将来構想
アサザ
開花の瞬間を見届けようと、ふくらんだ一つのつぼみの
前でじっと待っていたのに、ほんの少しよそ見をしてい
たら、もう半開きになってしまいました。
いつの間にかあちらにもこちらにも、さっきまでのつぼ
みが、もう開いています。
見渡す限りの水面に黄色の宝石をちりばめた場所が、か
つてあったかどうかも、私たちはすでに知りません。
ありふれていたはずの風景が、そうでなくなったことに
気付くのは、それをずっと見守ってきた人だけ。
世が移り、世代も変われば、それが失われた過去があっ
たことさえも誰も知らない時代がくるでしょう。
潟の片隅の小さな場所で、はかない命の一日花の、たっ
た一日だけの朝が今日もはじまります。
−多様な水辺の再生・農業と野生生物の共生−
オオヨシキリ この将来構想は河北潟に残された自然と野生生
物を守りながら干拓地農業の発展を考えるための
たたき台になることを願って作成したものです。
オオヨシキリは河北
潟の夏なのです。
今年は4月29日に、去
年は5月6日に初鳴
きを聴きました。
作成にあたり以下の方々のご協力をいただきま
した。(敬称略)
アドバイザー:大串龍一 定塚謙二 中川富男
写 真 提 供:矢田新平 中川富男
資 料 提 供:清水武彦 松田正男 竹内正勝
発 行 特定非営利活動法人河北潟湖沼研究所 生物委員会(発行責任者 高橋 久)
石川県金沢市二口町ハ 58
TEL(076)261-6951 FAX(076)265-3435
1999 年 10 月発行
制 作 川原奈苗 三浦淳男 平松新一 白井伸和
永坂正夫 石原一彦 西原昇吾 高橋 久
挿 絵 藤原直子
その日から河北潟の
夏は始まったのです。
夏の中にわきかえる
オオヨシキリの声こ
そ、潟が力強く生きて
いることを僕らに教
えてくれるのです。
(矢田新平氏撮影)
このパンフレットは 1998 年度の PRO NATURAファンドによる助
成金によって作成されました
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