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主権原理についての考察
成嶋, 隆
一橋研究, 2(1): 32-47
1977-06-30
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/6481
Right
Hitotsubashi University Repository
主権原理についての一考察
成 嶋 隆
1.はじめに一70年代主権論争
近代市民憲法の基本原理である主権(SOuver直nit直t,souverainet6,sover−
eignty)の問題は,依然として憲法学における主要な論争的主題である。憲法
が国家の基本法であり,主権原理が国家の本質たる国家権力の憲法的構成原理
あるいは「国家権力の帰属関係の法的表明ω」とされるにもかかわらず,まさ
にこの中核的問題に関していまだ統一的認識に到達していないというのが憲法
学界の現状である。
日本における主権論争史は,戦後,日本国憲法が天皇から国民へ主権主体を
転換させたことを契機として起こったいわゆるr国体論争」に端を発する。す
でに多くの論者がその分析と評価をおこなっているので,ここでは立ち入らな
いω。この論争が「宮沢説的国民主権論の通説化ω」という形で一応終息した
後,1970年代に至るまで主権問題が論争という形態で扱われることはなかった
とみてよい(4〕。主権論を再び論争の組上にのせたのは,1970年秋の日本公法学
会において主権論の報告を担当した杉原泰雄,樋口陽一,影山日出彌の三教授
による新たな理論活動であった‘舳〕。三教授を主要な当事者とする{’70年代主
権論争”の特徴は以下の諸点に求められよう。
第一は,論争の主要な当事者が「社会科学としての憲法学」ないし「憲法科
学」を標榜する立場から,科学的認識の問題として主権論を構成していること
である。あるいは解釈論を展開する場合であっても,常に科学的認識とのレヴ
ェルの相違を自覚していることである。それに規定されて,第二には,主権論
の再構成がいわゆるrイデオロギー批判(7〕」の手法をとって行なわれているこ
と,そして,一現状隠蔽機能”を果たす「非科学的なイデオロギー」としての
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主権原理についての一考察
通説的国民主権概念に対置されるべきr科学的な国民主権概念」の探求という
課題が提唱されていることである。第三の特徴は,従来,無自覚的に混同され
てきた「国民主権」(または「natiOn主権」)と「人民主権」(または「peup1e
主権」)とを,主権主体および構造を異にする主権原理として区別してとらえ
る視角が導入されてきていることである。そして,(とくに杉原・樋口教授に
特徴的であるが)この両原理の対抗関係を把握するための素材として,近代市
民革命の典型としてのフランス革命の研究,および,それに関連して,現代ま
でに至るフランス公法学における主権論ωの検討が重要な位置を占めているこ
とである。最後に第四の特徴として,主権原理の問題が,「純粋代表制」・「半
代表制」・「直接民主制」といった組織原理や「人権」原理との関連において考
察され,その構造把握が緻密化してぎていることがあげられよう。
2.基本的争点
このような特徴点に示される70年代主権論争は,その争点=論争軸の形成に
おいて複雑多岐をきわめている。しかし,争点が複雑多肢であるということ
は,主権原理についてのもっとも根源的・基底的な次元において争点が形成さ
れていることを予想させる。「原理における原理」(影山)のレヴェルでの争点
があるというこζである。主権論争が,その過程において必ずといってよいほ
ど「主権抹殺論」・「主権概念不用論」ω〕といわれるものを登場させていること
は,主権原理それ自体が,解釈論の武器としても認識の道具概念としてもその
レーゾン・デートルを原理的に間われる宿命をもっていることの証左でもあ
る。
では,主権原理のレーゾン・デートルにかかわる基本的争点は何か。筆者
は,以下に掲げる三教授のいくつかの命題の中にそれが表現されていると考え
る。
①「国民主権についての学説は,国民を積極的ないし消極的に統治権の行便
に参与させる法原理として把握する立場と,これを単なる法ないし政治の理念
として把握しようとする立場とに大別される〔1ω。」(杉原)
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一橋研究第2巻第1号
②「一定の所有関係を確認する基本法が『憲法』であり,それを国家権力に
よって維持するための支配関係を明示するものが当該憲法における主権原理で
ある。支配関係は,国家権力の帰属関係であり,主権原理は,国家権力の帰属
関係の法的表明にほかならない。」{ユエ〕(杉原)
③1……主権原理は,一般意思を決定しかつ執行する法的能力の帰属にかん
する法原理である……。」α2〕(杉原)
④rr主権』=r憲法制定権』は,直接には,あくまでも権力の正当性の所在
の問題であって権力の実体の所在の問題ではない,というふうに概念構成され
るべきでありましょう。その点があいまいにされると,建前=到達すべき目標
にほかたらぬものが実体=到達された成果であるかのように誤認されて,r主
権』は,もつぱら,そのときどきの権力の現実を正当化するイデオロギーとな
るようにおもわれます。」㈹(樋口)
⑤r主権は建前・理念としてのみ把握できる問題であるのだろうか。……主
権概念が国家権力の源泉一正当性の観念として近代憲法学により構成されたこ
とは疑いないとしても,それは主権の科学的た概念であるか否かは疑問であ
る。……権力の正当性の観念に限定された『実体なき主権概念』を批判できる
ようた一定の実体ある概念の再構成のためには,『統治権』(権力)と『主権』
(正当性)・・一の分離が,まず克服されなければならない。」ω(影山)
以上の諸命題から確認できIることは,主権の概念構成そのもののレヴェルに
おける対立が存在することである。表面的にみれば,.村立の一方の極には「建
前」・「理念」・「正当性の観念」・「権力の正当性の所在」といった規定があ
り,他方の極には「帰属関係の法的表明」・「法原理」・「権力の実体の所在」
といった規定があるようにみえる。しかし,これらの諸規定相互の間には論理
的次元の相違があり,こうした平板な図式は成立しえない。ただ,少くとも,
「主権とは何か」という根底的な問題次元で明らかな対立が存在するというこ
とが以上の命題からうかがい知ることができ乱そうした概念構成のレヴェル
での争点の内容をさらに吟味してみよう。
前提的なこととして指摘しておかねぱならないことは,論争の三人の当事者
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主権原理についての一考察
間において主権のr実体規定」(影山)については共通認識があるということ
である。すなわち,三教授の間では,主権のいわゆる三つの歴史的用法のう
ち,「国権つまり国家の包括的統一的支配権,国家の:支配的意思力(pOuVOir
de volont6commandante)自体α5〕」という意味で主権が論じられているこ
とである。ここで「国権」(Staatsgewalt,Puissance d’Etat)等々の用語は法
学上のタームであり,社会科学一般に通用する実体概念はr国家権力」であ
る。したがって,「主権の実体は,国家権力なのである」(16〕という実体規定が
導かれる。このレヴェルでは三者の間に対立はないように思われる。
争点は,この国家権力が誰に帰属するかという意味での「主体規定」(影山)
のレヴェルで形成されている。そして「r主権』の固有の問題性は,国家権力
の『帰属』をどのように規定するかということにあるということがでぎるα7〕。」
樋口教授の命題④に即して言えばr正当性」の帰属かr実体」の帰属かが問題
となるのである。この問題がまさに主権原理のレーゾン・デートルをかけて争
われている,といってよい。
3.「帰属」の意味
それ自体観念的に転倒したイデオロギーである「法律的国家論」を前提とし
なけれぱ,国家の本質規定は以下のような諸命題によって与えられる。一一「階
級的支配の特殊なシステム」㈹,「階級社会において,支配階級が,その階級的
支配の諸条件を全社会的規模において維持するための組織化された権力㈹」,
r狭義には一定の領域において,支配階級が被支配階級を支配する公的権力,つ
まり国家権カベ…・・(広義には)狭義の国家とそれが支配する被支配階級を中
心とする全住民との支配一被支配関係の総体,あるいは幻想上の共同性として
の国家権力によって公的に総括されている階級社会Ωo〕」,「物質的生産関係(資
本主義所有=搾取関係)の再生産=拡大再生産をつうじて形成される階級的支
配=従属関係の全社会的規模での編成=虹〕」。
以上のような国家の本質規定に従えば,杉原教授の命題における「支配関係」
は階級的支配関係であり, 「国家権力の帰属関係」は階級的帰属関係にほかな
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一橋研究第2巻第1号
らない。そして,国家権力がいかなる階級に帰属しているかという問題は,
quaeStio juriS(法律問題)ではなくquaeStiO faCti(事実問題)である。杉
原教授は命題③のあとで「(主権原理は)法外の政治的な最強の実力が官僚機
構,軍,資本あるいは外国にあるかどうかとは一応別の次元の問題である(22〕」
と正しく指摘している。また影山教授が「国家権力は,これを階級的主体規定
から把握するかぎり,国民をどう規定するにせよ,国民に現実に帰属している
わけではないから,この『帰属』の意味が問題となる㈱」 と述べていること
も上記の趣旨にそうものである。
こうした理解に立では,quaeStiO juriSとしての主権原理が権力の「実体の
所在」ではたく「正当性の所在」を示すものでしかないとする樋口教授の見解
(命題④)は,一定の説得性をもつ。また,その限りで,rrpeup1e主権』の観
念が統治の実力の所在と統治の正当性の所在との分裂をおおいかくす窮極的た
イデオロギー㈹」として働くこと,つまり「『民意による政治』という観念の
イデオロギー的機能(洲」を果たすという論理も理解できよう。しかし,このよ
うな見解に対しては,さしあたり次のような批判が成立しうる。
第一に,主権原理を国家権力ないし統治のr正当性の所在」のみを表示する
原理であるととらえることによって,とりわけフランス革命期に特徴的であっ
た主権原理をめぐる熾烈な階級闘争の現実を説明しうるかという問題がある。
「正当性の所在」は「実力の所在」と分裂しているのであるから,「peuple主
権」または「nation主権」は,統治=国家権力の現実の帰属とは無関係の原理
であるということになり,その区別は相対化されざるをえたい。しかし,歴史
的現実としてのrpeuple主権」と「natiOn主権」の対抗関係は,主権原理が
国家権力の実体的帰属関係を何らかの仕方で規定するものでなければ形成され
えたかったはずである。
第二の問題点は樋口教授が次のように述べていることに関係する。一「r国民
主権の形骸化』といわれているようた現実を明らかにするという科学の任務
は,『国民主権』の概念を『実質化』あるいは『実体化』することによってで
はたく,逆に,『主権』が権力の実体でなく正当性の所在を示すものでしかな
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主権原理についての一考察
いことを明らかにするような概念構成をすることによって現実を冷たく分析す
ることなしには,はたされえないでありましょう。……そしてさらに,解釈
論・立法論という実践の場面では,『国民主権』という観念の使用をわれわれ
はむしろ避けるべきではないか,という問題提起をいたしたいと考えます。す
たわち,『国民主権の貫徹』というかたちで主張されてきたところの実践的要
求は,権力と国民の一体化を想定する『真の国民主権』の観念によってではな
く,権力に対抗する人権という観念一これは,権力の実体と国民との分裂を前
提として,両者の緊張関係を前提とする観念です一によっておこなうべきでは
ないか,と考えます。」㈹
これは,直接的には解釈論上の見解であるが,問題はこうした問題提起の基
礎にある認識の次元にある。すなわち,もし主権原理が権力の実体的帰属をあ
らわす原理ではないことを理由として解釈論上の有効性を否定されるならば,
それと同程度において人権原理の有効性も間われるであろうということであ
る。特定の人権が規範的に定着することと,それが現実に保障されることとは
別問題である。別次元の問題であるにもかかわらず,「人権規範の存在」が「人
権の実現」と混同され,そのことがr現状隠蔽的機能」を果たすという可能性
が,主権の場合と同じ程度において存在するのである。この点は,主権原理に
ついての樋口説に対する間接的た批判を構成する。
第三に,教授の方法的基礎であるrイデオロギー批判」そのもののもつ問題
性が指摘されうる。教授は「イデオロギー」=「虚偽表象」という規定を前提
としているが,虚偽意識としてのイデオロギーは,加古祐二郎教授のいわゆる
イデオロギーのr特殊的性格」{27)の問題であり,それは,r社会的意識の一形
態」としてのイデオロギーのr一般的性格」を前提としてとらえうるものであ
る。「社会的意識形態」としてのイデオロギーは,対象的世界=物質的社会関
係の相対的に正確な反映の側面と虚偽表象としての側面を有するのであり,イ
デオロギーの虚偽表象への転化の論理を明らかにすることが「イデオロギー批
判」の方法的役割でなければたらない。それによってはじめて「イデオロギー
性を客観化する科学的概念」㈱が構成されうるのである。
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一橋研究第2巻第1号
権力の正当性の帰属の問題に限定する主権の概念構成が以上のような批判を
まぬがれえないとすれば,影山教授の命題⑤にいうところのr一定の実体ある
概念」としての主権概念はいかに構成されねぱならないであろうか。考察の手
がかりとして,樋口説を批判する杉原教授の所説を検討してみよう。
教授によれば,フランス公法学における主権概念の把握は,例えばデュギー
(L.Duguit)の「〔主権とは〕国家の支配権ないしはその領土に存在するすべ
ての個人に対する無制約な命令を発する権力㈱〕」という規定に代表される。そ
して「主権原理は,そのようた支配権一政治的には『支配する権力』(pOuvOir
de commander),法的には,r支配する権利』(droit de com血ander)一の
国内における帰属の問題として,あるいは帰属の確保の問題として論じられて
いた。……ポーダソやルソーが一般意思の決定権(立法権)の帰属を重視して
主権原理を論じている場合には,『支配する権力』自体の帰属を指示する原理
としてよりは,その帰属を確保する原理として論じているということもでぎる
㈹。」
ここでいわれているのは,主権原理が権力の実体的帰属そのものを指示(表
示)する原理でも,権力の正当性の帰属をあらわす原理でもなく,権力の現実
的な帰属を確保する原理として論じられているということである。そこでは,
r支配する権利」=r法的能力」 (杉原命題③)の帰属が問題となっているの
である。あるいは,帰属の現実(Sein)ではなく帰属の要請(So11en)の問題
であると言ってもよいであろう。
主権原理をこのようにとらえることによって,第一に, 「まだ現実の国家権
力の帰属=所有の実現が現実に確保されていない場合でも,概念上,自立する
主権の原理があったこと(31〕」が合理的に説明されうる。つまり,フランスの
アンシャン・レジームのもとで「国民または人民に現実の国家権力それ自体を
帰属させる思想と運動の原理」としての「国民主権または人民主権の原理(3,〕」
が存在したということ,および,「国民主権の原理を確立したのちの資本主義
国家の政治支配を批判し,それに対抗する」「主権理念㈱」が成立するという
ことを論証しうるのである。ここでの主権概念はまさしく「抗争的概念」(ein
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主権原理についての一考察
po1emischer Begri膿拠〕)としてr公然と政治的なものであり,・一・実定法
超越的な論理構造をもつもの㈹」である。第二に,さきに樋口説に対する批
判点としてあげた「peuple主権」と「natiOn主権」の対抗関係もこのようた
理解によって把握できる。そこで実定憲法原理として承認されたのはrnatiOn
プープル
主権」であり,他方,rpeuple主権」が排除されたのは,それがrr人民』に国
家権力の帰属を確保すべく,一般意思の決定権とその執行についての監視権を
『人民』に一帰属させようとするものであった㈹」,つまり「人民」に現実に国
家権力が帰属することを規範的に要請する原理であったからである。 「規範的
に要請する」ことの意味は,規範命題が制度的裏付けと国家権力の物理的強制
に媒介されて現実の社会的存在に転化する可能性をもつ,換言すれば存在拘束
性をもっということである(37〕。憲法規範原理㈹としての主権原理は,この存
在拘束性を媒介として権力の実体釣帰属に結びつくのである。
4, matiOn主権の欄造
主権原理を「国家権力の現実的な帰属の確保を規範的に要請する原理」と理
解したうえで,次に,ブルジョア的支配関係の樹立をその歴史的課題とした近
代市民(ブルジョア)革命を経て実定憲法上定着する主権原理が,natiOn主
権または「抽象的国民主権㈹」という表象形態をとることの必然性が論証さ
れねばならない。つまり,ブルジョア革命が,国家権力のブルジョア階級への
政治的た帰属として結果したにもかかわらず,なにゆえにその階級的帰属関係
がnatiOn主権として総括されたかということである。もちろん,政治的な帰
属とその「法的表明」としての主権原理とは別次元の問題であることは先述し
たとおりである。一見“むしかえし”のように見えるこの問題を再びとりあげ
るのは,ブルジョア革命におけるnatiOn主権原理の確立の論理を明らかにす
ることによって,主権原理が「正当性」原理として表象され,その限りで虚偽
表象として機能することの一定の論理的根拠を提出しうるからである。
さて,この問題は,視点を変えれば,nation主権という表象形態のもとでい
かにしてブルジョア的支配=ブルジョア階級への国家権力の帰属が実現される
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一橋研究第2巻第1号
がという問題に置き換えられる。そして,この点の解明のためには,まず,
natiOn主権=抽象的国民主権原理の規範論理的構造が明らかにされねばならな
い。
杉原教授は,国民主権(筆者は,これと,natiOn主権,抽象的国民主権を,
ここでは等置する)原理の範型をフランスの1791年憲法にもとめ,r規範論理
的な認識」とr歴史科学的社会科学的認識」とをr統一」させつつ(40〕,その構
造を分析している。それによれば,国民主権の基本構造は概ね以下のように要
約される。
①主権とは, 「国民」の意思力であり,包括的統一的な国権である。
②主権主体は,一定の時点におけるr市民」の総体としてのr人民」(Peu−
ple)ではなく,観念的抽象的存在としての「国民」(Nation)である。
③r国民」は,それ自体としては自㌣の亡.竃、力をもたない観念的な存在であ
るから,自然人によって構成される「国民代表」に主権を行使させることが不
可避となる(41〕。
教授は,このような国民主権が「現状隠蔽的機能」=「体制イデオロギー的
機能」を果たす根拠として,国民主権原理における二つの「擬制」を指摘す
る。一つは,「r人民』とは異質の法概念でありながら日常の社会生活において
は『人民』とたえず混同される『国民』という表現を用いてこれを主権主体と
したところ」にあり,もう一つは, r国民」とr国民代表」との関係を説明す
るr代表委任諭」が「委任の実体を全く欠いているにもかかわらず,『国民』
と『国民代表』の関係を委任関係とみせかけたこと」であるω〕。国民主権=
natiOn主権が,ブルジョア階級への権力の帰属=ブルジョア的政治支配を保障
する主権原理となりえたのは,この二つの擬制に基づくといってよい。すなわ
ち,第一の擬制によって,ブルジ目ア階級は自らに帰属する権力の「淵源」と
して「国民」を援用することにより,自らの階級支配を「正当化」することが
でき,第二の擬制によって,「国民代表」=議会の多数を構成するブルジョア
階級に権力が集中することが可能となったのである。このような法的擬制が意
味をもちうるのは,擬制が規範化され,権力的強制に媒介されて実体に転化す
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主権原理についての一考察
るからにほかならない。 r正当性」の観念としての主権原理のもとで,ブルジ
ョア階級への権力のr実体」的帰属が実現する論理の一端がここに示されてい
る。
次に,ブルジョア階級への権力帰属がnatiOn主権の表象形態をとることの
必然性を別の視角一いわばrゲネシス論」的な視角一から考察してみたい㈹。
市民革命は,封建国家類型ω〕の末期的形態である絶対主義国家が,分封的
領主支配と教会支配とに対抗する闘争をへて,r市民社会」から分離しかつ自
立する「政治権力」を独占する国家として登場したのち,この「市民社会と政
治的国家との分裂㈹」を完成させる政治革命として生起する。ここで,「政治
権力」が「公的権力」として成立する論理を,藤田教授は次のように説く。
「商品生産の全面的展開は,純粋な私的所有を前提とする。私的所有が純粋
な私的所有として運動するためには,それは,共同体的・ギルド的・領主制的
制約等々から,要するに社会の中の私的諸権力から解放されたければならな
い。それと同時に,私的所有の運動が充分に保障されるためには,政治権力は
全社会的規模で集中化され,この運動に統一的流路を設定し,これを保障す
る,公的権力とたらなけれぱたらない。こうして,商品生産の展開は,市民社
会を私的権力より解放するとともに,市民社会の『外に』公的権力を成立せし
める。このようにして成立する公的権力は,自らの発現形態を市民社会の論理
に適合させることによって,すなわち,公的に定立された規範化によってのみ
存立し,かつそれにしたがってのみ行動するという形をとって,市民社会の
『中に』入る㈹。」
ところで,政治権力=公的権力が成立する過程で「直接生産者の諸集団は,
二重の抽象過程をへて国家権力から現実的に疎外される㈹。」二重の抽象過程
とは,直接生産者が,一方では「人間」(homme)としての,他方では「市民」
(CitOyen)としての規定をうけとる過程である。こうして階級国家である資本
主義国家は「抽象的市民」の「集積」としての「市民国家二(4日〕」の表象をうけ
とる。そして「『抽象的市民』への抽象された国家権力の帰属=主権という表象
の実体では,国家権力は『市民階級』に帰属し,同時にr市民社会』における直
41
一橋研究第2巻第1号
接生産者から疎遠で彼等にとって敵対する疎外とたっている.(49〕」のである。
最後に「抽象的市民」に帰属する主権がnatiOn主権として観念される理由
の解明が残されている。これは,近代資本主義国家がナショナル・ステーツと
して成立する論理必然性の問題であり,経済学的には,資本主義経済がなにゆ
えに国民経済として成立するか,という問題である。また,本来の主権論につ
いていえば,この点の解明が,「国民主権」と「国家主権」の関連の問題に何
らかの示唆を与えると思われる。紙幅の制約上,叙述は省略するが,この問題
については田口教授(50〕,藤田教授(51〕および岩間教授(;里〕が試論を提出している
ことだけを指摘しておく。
きわめて雑駁な考察であるが,以上で本稿をとじることにする。本稿は,70
年代主権論争の基本的争点とみられる,国家権力の「帰属」の意味の確定を中
心とする主権概念の再構成の課題にとりくんだものであった。しかし再構成の
ためには残された問題が多い。それは本稿が主としてr原理論的」考察に限定
されているからに他ならない。今後,本稿で提示されたr仮説」を検証するこ
とに努めたい。
(注)
(1)杉原泰雄『国民主権の研究』,岩波書店,1971年,54頁。
(2) 「国体論争」については以下を参照。長谷川正安「憲法学史(下)」『講座日本
近代法発達史9』,動草書房,1960年;大須賀明「戦前の憲法論争の歴史的役割
と限界」鈴木安蔵編『日本の憲法学』,評論社,1973年;杉原泰雄・前掲『国民
主権の研究』;同「戦後憲法論争史一政治機構関係」r公法研究』31号・1969年;
影山日出彌「主権論」r法律時報』41巻5号・1969年,後に,影山『憲法の基礎
理論』,勤草書房,1975年,所収。
(3)杉原・前掲『国民主権の研究』,9頁。なお,「通説的国民主権論」に属するも
のとして以下参照。美濃部達吉r新憲法の基本原理』,国立書院,1947年;河村
又介『新憲法と民主主義』,国立書院,1948年;横田喜三郎「新憲法における主
権の概念」憲法研究会編『新憲法と主権』,永美書房,1947年;中村哲『主権』・
法律学体系第2部法学理論篇41.1952年。
(4) もちろん,それまでに主権論の展開が全くたかったわけではない。とりわけ長
谷川正安教授の1950山60年代の主権論に関する以下の諸論稿は,国家主権と国民
42
主権原理についての一考察
主権の関係を論じたものとして貴重である。長谷川「国家の自衛権と国民と自衛
権」『法律時報』27巻1号,1955年;同「マルクス主義国家論における主権につ
いて」r思想』11954年10月号,いずれも,長谷川r国家の自衛権と国民の自衛
権』,勤草書房,1970年,所収。
(5)三教授の主権論に関する論文・著書は以下のとおり。杉原泰雄「国民主権の構
造一生として・ルソー的人民主権との対比において一(上)(下)」『一橋論叢』53
巻2・3号・1965年;同「国民主権の憲法史的展開(一)」r一橋大学研究年報法学
研究6』,1966年;同「いわゆる『半代表制』(1e gouvemement semi−repr6−
sentatif)の構造について」『一橋論叢』65巻1号,1971年1回「フランス革命と
国民主権一国民主権の科学的検討のために一」r公法研究』33号・有斐閣・1971
年;同・前掲『国民主権の研究』;同「国民主権と人民主権」『世界』319号,
1972年;同「国民主権と国民代表制」奥平康弘・杉原泰雄編『憲法学4一統治機
溝の基本間題I』,有斐閣,1976年;同「主権と自由」芦部信喜編r近代憲法原
理の展開I』・東京犬学出版会,1976年;同「現代議会制と国民代表の原理ロコ川
圧」r法律時報』49巻1…4号・1977年。樋口陽一「現代のr代表民主制』にお
ける直接民主制的諸傾向」r法学』28巻1・2号,1964年,後に,樋口r議会制の
構造と動態』,木鐸社,1973年・所収;同「議会制民主主義と直接民主主義一そ
の神話と現実」r現代の眼』10巻10号,工969年,後に,樋口・前掲書,所収;同
「r国民主権』とr直接民主主義』」r公法研究』33号(前掲),後に・樋口r近代
立憲主義と現代国家』,勤草書房,1973年,所収;同「『半代表』の概念をめぐる
覚え書き一『議会制の構造と動態』再説一」芦部編・前掲『近代憲法原理の展開
I』;同・書評「長谷川正安『国家の自衛権と国民の自衛権』」r法律時報』43巻
6号,1971年。影山日出彌「社会主義国家の主権」『公法研究』33号(前掲);同
r四六年憲法の原点と視点」r現代法ジャーナル』1972年8月号…1973年4月号,
動草書房・いずれも・影山・前掲『憲法の基礎理論』所収;同「今日における主
権論争と主権論の再構成」r法律時報』48巻4号,1976年。
(6)主権論争史をこのように把握するものとして,渡辺良二 「『国民主権』論の検
討(1)・(2)」r彦根論叢』175・6・179号。なお,影山・前掲「今日における
主権論争と主権論の再構成」の中に「五○年代から六○年代の『国家主権論争』
(r従属国家』論を含む)」という記述がある。これは安保体制と日本の国家主権,
国際法における国家主権制限論等々を論点とする議論をさすものと思われるが,
論争の形態を備えていたかどうか疑問である。
主権論の方法次元からみれば,戦後,日本の法学界が経験したいくつかの論争
一生なものは「法社会学論争」・「法解釈論争」・r判例研究方法論争」一が,今日
の主権論争に直接間接の影響を及ぼしていることは否めない。これらの論争につ
いては以下を参照。潮見俊隆編『戦後の法学』,日本評論社,1968任;シンポジ
43
一橋研究第2巻第1号
ウム「憲法学の方法」『法律時報』40巻11号,1968年;藤田勇・江守五夫編『文
献研究日本の法社会学』・ 日本評論社・1969年;長谷川正安編r法学の方法』法
学文献選集1・学陽書房・1972年;長谷川正安『法学論争史』・学陽書房・1976
年。
(7) ケルゼン(H.Ke1s㎝)の「イデオロギー批判」(Ideologie Kritik)の方法を
導入した宮沢教授によれば・rイデオロギー」とはrその本質ト現実と一致した
くてはならぬ科学的概念として自らを主張する表象であって実は現実と一致しな
いもの」であり・その現状隠蔽的性格を暴露することが科学の任務であるとされ
る(宮沢俊義r国民代表の概念」r憲法の原理』,岩波書店,1967年)。樋口教授
も宮沢教授にならいr虚偽表象」・r現実陰蔽的観念」という意味で「イデオロギ
一」という用語を使用している(樋口・前掲rr国民主権』とr直接民主主義』」)。
なお,「イデオロギー論」および「イデオロギー批判」の問題性格については以
下を参照。沼田稲次郎「法のイデオロギー論」片岡島編『現代法講義』, 日本評
論社,1970年;藤田勇『法と経済の一般理論』(とくに第二章の一,三),日本評
論社,1974年;影山日出彌「現代日本の国家イデオロギー論」r現代と思想』2,
青木書店,1970年,後に,影山『国家イデオロギー論』,青木書店,1973年,所
収。
(8)その代表的なものは以下のとおり。
M.Hauriou,La souverainet6nationa王e,1912;A.Esmein,E16ments de
dmit constitutionnel frangais et compar6.1921;Carr6de Ma−berg,Con−
tribution主1a th6orie g6n6raIe de rEtat,1922;J.Laferriさre,Manuel
de droit constitutionneI,1947;G.Vedel,Manue1616mentaire de droit
constitutionnel,1949.
(9) 「抹殺」や「不用」の意味はそれぞれに異なるが,その代表的な論者としてあ
げられるのは,ケルゼン,デュギー(L.Duguit),尾高朝雄教授などである。
今日の主権論争においては,樋口教授がこの立場に立つ。なお,この問題につい
ては,宮沢俊義「国民主権と天皇制」前掲r憲法の原理』,および「シンポジゥ
ム・主権論」前掲r公法研究』33号,参照。
(10)杉原『法学研究』論文,4頁。以下,引用⑤まで傍点は筆者。
(11)杉原『国民主権の研究』,53∼54頁。
(12)杉原『法律時報』論文,100頁。
(13)樋口『公法研究』論文,27頁。
(14)影山『憲法の基礎理論』,107頁。
(15)杉原『国民主権の研究』,41頁以下。他の二つの用法は,r国権の属性」(最高
独立性),および「国家の最高機関の権限つまり国家意思を最終的に決定統一す
る機関権限」である。
44
主権原理についての一考察
(16)
影山『憲法の基礎理論』,131頁。
(17)
同上,132頁,傍点は原著者。
(18)
影山日出彌「r幻想』の国家論と国家のr幻想』論」r現代の眼』1969年11月
号,後に,影山『憲法の原理と国家の論理』,動草書房,1971年,所収。引用は
『憲法の原理……』,170頁。
(19)
田口富久治「国家論の現状と課題」『現代と思想』2・青木書店・1970年・後
に,田口『マルクス主義政治理論の基本問題』,青木書店,1971年,所収。引用
は『現代と思想』,28頁。
(20)
田口富久治・佐々木一郎・加茂利男r政治の科学』(改訂新版)・青木書店・
1973年,r第1章・政治学の基礎概念」(執筆田口),40川41頁。
(21)
藤田勇r国家概念について」r法律時報』41巻1号,1969年,後に,藤田・前
掲『法と経済の一般理論』,所収(第2章補説)。引用は『一般理論』,113頁,傍
点は原著者。
(22)
杉原『法律時報』論文,lOO頁,傍点は筆者。
(23)
影山『憲法の基礎理論』,132頁,傍点は筆者。
(24)
樋口・前掲「r半代表』の概念をめぐる覚え書き」,73頁,傍点は原著者。
(25)
同上。
(26)
樋口『公法研究』論文,28頁,傍点は原著者。
(27)
加古祐二郎『近代法の基礎穣造』,日本評論杜,1964年,81頁。
(28)
影山・前掲「今日における主権論争と主権論の再構成」・31頁。
(29)
L.Duguit,Manuel de droit constituti㎝nel,4日ed.,1923,p.81,杉原『法
(30)
杉原『法律時報』論文,1OO頁,傍点は筆者。
(31)
影山『憲法の基礎理論』,123頁。
(32)
同上,傍点は原著者。
(33)
同上,125頁,傍点は原著者。
(34)
G.Jeunek,A王1gemeine Staats三ehre,3.Aufl.,1922,S.435ff.
(35)
樋口『公法研究』論文,26頁。
(36)
杉原『法律時報』論文,101頁。
(37)
国家権力の帰属関係が国家権力自体によって媒介されるというのは一種の循環
律時報』論文,1oo頁に引用。
論法であるが,主権原理はそもそも「階級の支配の自己主張」 (影山)の原理と
してそのような性格をもつ。そして,この性格が「決定」(Entscheidung)を標
識とするシュミソト(C・Schmitt)の決断主義の主権論を成立させるのである。
影山『憲法の基礎理論』,146頁;杉本幹夫「カール・シュミットにおける規範主
義と決定主義」『龍谷法学』3巻1号,1970年,後に,杉本r憲法の階級性と普
遍性』,日本評論社,1975年,所収,参照。
45
一橋研究第2巻第1号
(38) このようた用語法は・主権原理が憲法現象ないし憲法体系の中でいかなる位置
を占めるかという問題を意識してのものである。憲法現象の論理構造論について
は以下を参照。長谷川正安r新版・憲法学の方法』,日本評論社・1968年;影山
日出彌r現代憲法学の理論』,日本評論社,1967年。
(3g)I.Krbek,Repr盆sentationnachderDoktrinderVo1kssouver自ni倣,影
山『憲法の基礎理論』,125貫に引用。
(40)杉原r国民主権の研究』,36頁。
(41)同上,273頁以下。教授自身の要約から本稿の論旨に関連する部分のみを抜粋・
要約した。
(42) 同上,326}327頁。
(43) この問題を国家論の側から提起したものとして田口教授の次の指摘を参照され
たい。「資本主義国家の理論的考察にあたっての最大の難問は・この国家が一つ
の階級国家であることを証明することの困難性にあるのではたく・むしろこの国
家が,一つの階級国家でありながら,とくにそのブルジョア民主主義的形態にお
いては,その制度がr諸個人』の自由と平等の原則によって組織される『人民1
ナシオン ● ● ● ● ■
国民』の国家として,さらにr法治国家』としてあらわれるのはなぜか・という
問題である。」(田口・前掲「国家論の現状と課題」rマルクス主義政治理論の基
本間題』,66頁,傍点原著者)。
(44)「国家類型」,「国家形態」等,国家論の基礎範嬢については以下を参照。藤田
勇「国家論の基礎的カテゴリー」r現代と思想』18,青本書店,1974年;ソ連邦
科学アカデミー国家・法研究所,藤田勇監訳rマルクス・レーニン主義,国家・
法の一般理論』上,日本評論社,1973年(とくに第5章);平野義太郎『国家権
力の構造』、理論杜,1954年;中村政則「近代天皇制国家論」r大系日本国家史』
4,近代I,東京大学出版会,1975年;影山・前掲「r幻想』の国家論と国家の
r幻想』論」;日コロ他・前掲『政治の科学』第1章。
(45) マルクス「ユダヤ人間題によせて」『マルクス=エンゲルス全集』第1巻,邦
訳,大月書店・1959年。r市民社会と政治的国家の分裂」の問題,「市民社会」概
念については以下を参照。高島善畿『民族と階級一現代ナショナリズム批判の展
開』,現代評論社,1970年;平田清明r市民社会と社会主義』岩波書店,1969年;
田口富久治・田中浩編r国家思想史』上近代・第6章rマルクスー初期における
国家と市民社会の関係の把握を中心に一」(執筆田口),青木書店,1974年;望月
清司『マルクス歴史理論の研究』,岩波書店,1973年;田口・前掲「国家論の現
状と課題」;影山・前掲『国家イデオロギー論』。
(46)藤田勇r法と経済の一般理論」r講座現代法』7,岩波書店・1966年,後に,藤
田・前掲『法と経済の一般理論』,所収,引用は『講座』、10∼11頁,傍点は原著
者。
46
主権原理についての一・察
(47)影山・前掲r憲法の基礎理論』、141頁,傍点は原著者。
(48)影山・前掲『国家イデオロギー論』,n3頁。
(49)影山『憲法の基礎理論』,141頁。
(50)田口・前掲「国家論の現状と課題」rマルクス主義政治理論の基本問題』,74頁
以下。
(51)藤田・前掲r国家概念について」r法と経済の一般理論』、l12頁以下。
(52) 岩間一雄「中国におけるナショナリズム」r季刊社会思想』1巻4号,23山24頁。
(筆者の住所:国立市谷保1544)
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