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大阪経済法科大学論集

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大阪経済法科大学論集
ISSN 0287-9468
大阪経済法科大学論集
第 107 号
永平幸雄教授退職記念号
論 文
トーマス・マンにおける「市民性」
―初期短編から『非政治的人間の考察』まで―
堀 内 泰 紀 (1)
Alternative reproductive tactics in male rose bitterlings:
Effect of density on interaction between frequency
-and status- dependent selection
Yoshihiko KANOH(19)
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々
∼新聞連載「座談会 アメリカ民主主義」を題材に∼
三 井 愛 子 (43)
三輪(ミワ)と三諸(ミモロ)
前 田 晴 人 1
研究業績一覧
(103)
学会消息(2013 年度)
大阪経済法科大学経法学会
2015 年 1 月
前 号(2014年 3 月発行第106号)目 次
論 文
明治11年文部省交付の物理教育実験器械とRitchie社
―器械同定の要としてのカタログ図版―
『赤と黒』の構造(四)
永 平 幸 雄
吉 田 廣
埴土をめぐる古代神事について
前 田 晴 人
翻 訳
学校管理講義 第3版 (その2)
―― 講義Ⅲ.から講義Ⅴ. ――
鈴 木 清 稔 訳
トーマス・マンにおける「市民性」
―初期短編から『非政治的人間の考察』まで―
堀 内 泰 紀
序
トーマス・マン(1875 ~ 1955)の生涯の背景をなす時代、社会は激動に満
ちたものであった。その間ドイツは、第一次世界大戦、敗戦による帝国の解
体とヴァイマル共和国の成立、ナチ進出による共和国の潰滅、第三帝国によ
る第二次世界大戦と敗戦、そして大戦後の東西分裂を経験している。マンも
また、生涯の四分の一に近い18年にも及ぶ亡命生活を余儀なくされている。
マンを我々の同時代人として見るとき、我々は、この時代の真只中にいる彼
を視野に入れないわけにはいかない1。
もう一方で、およそ60年に亘るマンの作家生活から生み出された膨大な作
品に目を転ずれば、激動の時代にもかかわらずそこに行き渡っている内的・
外的な統一感に、我々は驚きを禁じ得ない。晩年のマンは、生涯を回顧しつ
つこう語る。
「私の時代―それは波乱に富んでいました。しかしそのなかで、私の生涯は
ひとつの統一を成しています。私の生涯が数字の上でこの時代に対している
秩序関係は、私があらゆる秩序や整合性に関して感じる満悦の気持ちを与え
てくれるものなのです。1900年のことでした。私は25歳で、処女長編『ブッ
デンブローク家の人々』
(Die Buddenbrooks)が完成しました。今世紀がその
当時の私の年齢と同じになり、私が今世紀の今年と同じ年数の50歳になった
時、
すなわち1925年に『魔の山』
(Der Zauberberg)が世に出たのでした2。」
(GW
XIS.314)
これに続いて語られる言葉は、さらにマンの作品の首尾一貫性を示すもの
−1−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
として興味深い。
「私の壮年期の『魔の山』は、物語作品であるとともに人文主義的な思想作
品でもあったのです。この作品のユーモラスな象徴は「生の厄介息子」、人間、
そして人間の位置と国家とに関する問題を中心に巡っていたのです。この作
品は一冊の人類の書であることを望んだのでした。その後1930年代になって
書き始められたヨゼフの物語もそのような書でしたが、
〔......〕」(GWXIS.
315)
これに加え『ブッデンブローク家の人々』のユーモラスな憂鬱、生からの
脱落者ハノーを重ね合わせて考えれば、マンの作品の跡絶えることなく続く
発展の経緯とそれが形成する内的統一の有様が、くっきりと浮かび上がって
くる。すなわち「芸術の中に籠る孤立状態から、社会との繋がりとそれに伴
う義務の自覚、さらには人類の神話へと発展し、ついに厄介者が祝福された
者になる3」のである。
もちろんこのような簡単な図式でマンの重層的な創作が解明されるもので
はない。しかし、各々の作品が多声的な主題を奏で、それらが纏まって構成
されたマンの創作世界の全体像は、上述したような統一的な小宇宙を成して
いるということも確かである。それはいくつかの主題によって織り成された
巨大な交響曲にも譬えうるであろう。そのいくつかのテーマとは、社会から
疎外されたアウトサイダー、芸術家と社会、市民性、愛、ドイツなどであるが、
それらのテーマは元来互いに緊密な連関を保っており、究極的には全て一つ
に溶け合うものなのである。そこで本稿では、
「市民性(Bürgerlichkeit)
」に
焦点を絞り、マンの創作とそれとの関わりを、マンがそれに賦与した意味内
容を、時代に即して小説や評論などから読み取り、作家トーマス・マンの存
在を際立たせるものとしての市民性の内実の変遷を考察する。
トーマス・マンにおける市民性の問題に関しては、すでに数多くの研究が
なされている。それらは、
『トーニオ・クレーガー』(Tonio Kröger)に代表さ
れるように、市民性を専ら芸術家気質(Künstlertum)との対立要素として
捉える傾向が強いものであった4。そのため考察の中心がマンの初期短編群
−2−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
に偏りがちであった。
「人間的なものを演じたり、ひねくり回したり、効果的に趣味良く表現す
ることができたり、あるいはそもそもそうしようという気になるにはですね、
我々自身が何か超人間的なもの、非人間的なものでなけりゃならないし、人
間的なものに対して妙によそよそしい、我関せずの関係にいなけりゃならな
いんですよ」
(GW VIII S. 295f.)とリザヴェータに語るトーニオは、確かに
当時のマンの自画像であったに違いない。しかし、マンにとっての関心が、
対立の一方に与することにではなく、その対立要素の共存にあることは、独
特の皮肉を含んだトーニオの決意からすでに察することができる。小説の結
びでトーニオはこう語る。
「私は、偉大な、デモーニッシュな美の小道で冒険し、
『人間』を軽蔑する
誇らかで冷やかな人々に感嘆します。―しかしそれらの人々を羨みはしませ
ん。なぜならもし何かあるものが、文士から詩人を作り上げることができる
ならば、それは人間的なもの、生き生きしたもの、そして平凡なものへのこ
の私の市民的愛(Bürgerliebe)だからです。
」
(GWVIIIS.337f.)
マンの創作原理とも言える市民性について考察するには、トーニオのこの
決意がその後どのように修正を加えられ、展開され、実現されていったかが
検討されて然るべきである。本稿では、原則として時代を追って論を進めて
いく。その際、考察の中心になるのは、第一次世界大戦中マンが物語作品の
創作を中断して執筆し、その後の彼の発展を促す貴重な礎石となり、芸術家
としての生涯の分水嶺となった評論『非政治的人間の考察』(Betrachtungen
eines Unpolitischen)
、なかでもとりわけ『市民性』
(Bürgerlichkeit)の章であ
る。
(以下『考察』と略記)
マンの生涯を貫く大きなテーマの一つである市民性について論ずるには、
もとより、第一次世界大戦後のマンにも光を当てねばならない。殊に1921年
の講演『ゲーテとトルストイ』
(Goethe und Tolstoi)以降、マンの胸中で徐々
に重みを増す巨大な先達ゲーテとの関わりの検討を抜きにしては画竜点睛を
欠く。その欠陥を承知の上で、本稿では論述を第一次世界大戦終結までにと
−3−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
どめることにする。
1
生まれ故郷である北ドイツのリューベックを去り、南ドイツのミュンヒェ
ンに移ることによって、父祖の安定した市民社会、つまり自己の幼・少年期
の生活様式と決別したマンは、後に自ら「数編の弱奏の心理的前奏曲」
(GW
XII S. 89)と名付けた短編小説群の執筆で作家生活を始めた。それらが執筆
された時代は、世紀末の真只中であるに加え、マンにとっても社会的に何ら
身分保証のない不安定なものであった。自らをアウトサイダーとして市民と
対置していた当時の彼には、市民性とは、故郷を離れる際に訣別してきた思
い出の世界に生きる豪奢な貴族的生活に他ならない。『小男フリーデマン氏』
(Der kleine Herr Friedemann)
、
『道化者』
(Bajazzo)そして『ルイースヒェン』
(Luischen)などに描かれた世界である。
それらの描写に目を転ずれば、マンの筆致はほとんど変化することなく、
あたかも当時のマン流のライトモテイーフのように繰り返されることに気付
かされる。これは、アウトサイダーを自認していたマンが、市民性に対して
感ずる反撥にもかかわらず、その世界への抑え難い憧憬を胸中に息衝かせて
いた証しである。また一方、描写の変化の乏しさは、このような市民貴族的
な生活の内実がすでに空虚なものと化してしまったことを意識しているマン
の姿勢を示すものでもある。
にもかかわらず、これらの作品の主役であるアウトサイダーが、あるいは
自殺により、あるいは滑稽な死に様により、いとも簡単に片付けられてしま
うのは、市民的なものの崩壊をなおも信じたくはない当時のマンの自画像を
映し出している5。
『ブッデンブローク家の人々』の予想外の売れ行きで成功の渦に巻き込まれ
た新進作家マンは、僅か数年間の遍歴生活に別れを告げ、再びもとの住み慣
れた世界に帰還する。
『ブッデンブローク家の人々』執筆中に腹案ができた
−4−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
『トーニオ・クレーガー』が、主人公トーニオの遍歴とその後の帰郷に至る過
程を主要なテーマとする「市民性へと立ち還りつつある芸術家の物語6」で
あることも、
それに照応している。帰還した姿を短編『予言者の家にて』
(Beim
Propheten)に尋ねてみよう。
予言者の家という「精神の奇妙な領域」
(GWVIIIS.362)に偶然紛れ込ん
できたのが「市民のサークルで読まれていた」
(GWVIIIS.363)一冊の本を
物した短編小説作家である。この場に居合わせる人々のなかで彼が本来繋が
りを持っている世界の住人は、こうした催しに出るのを道楽にしている金持
ちの婦人のみである。朗読会の終了後、予言者ダーニエルを天才だと感嘆す
るこの婦人に向かって、彼はこう語る。
「このダーニエルには前提条件が全て揃っています。孤独、自由、精神的な
情熱、大規模な視覚、自己に対する信仰、それから犯罪や狂気に近いものま
であります。何が不足しているのでしょうか。おそらくは人間らしいもので
はないでしょうか。少しばかりの感情や憧れや愛ではないでしょうか。でも
これは、全くふと思いついた仮説ですがね〔.
.
.
...〕」(GW VIII S. 370)短
編小説家のこの仮説もトーニオの決意も、いずれもマン自身のものに他なら
ない。
『トーニオ・クレーゲル』においてすでに、所謂芸術至上主義に対する疑惑
と不信をリザヴェータに繰り返し表明するトーニオが描かれている。
『予言者
の家にて』のダーニエルは、ファッショ的統率者タイプである『マーリオと
魔術師』
(Mario und der Zauberer)の自称騎士チポルラの原型として把握され
ている7。してみると、
マンにとってこの時期の「市民性」は、従来そうであっ
たように雰囲気的なものにはとどまらず、作家としての存在理由となってい
ると言えよう8。
1909年に完成したマン二作目の長編『大公殿下』
(Königliche Hoheit)は、
宮廷生活が舞台になっている。しかし、そこで繰り広げられるのは、相変わ
らず市民と代表者的存在の関わりである。この長編は紛れもなく『トーニオ・
クレーガー』の後奏曲の相貌を帯びている。ただしこの時期になると、従来
−5−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
見られなかった、時代が生み出す新しいものとの関わり合いの様相が見え始
める。マンもそれを意識している。
「私の三人の王侯兄妹アルブレヒト、クラウス・ハインリヒ、そしてデト
リンデの運命には、我々が当面している個人主義の危機、すなわちデモクラ
ティックなもの、愛への精神的展開が象徴的に描かれているのです」
(GW
XIS.571)とは翌1910年のマンの言である。後年の『人生素描』
(Lebensabriß)
でも、この長編について「一人の若い男が〔.
.
.
.
..〕貴族的で憂鬱な意識と、
当時すでに『デモクラシー』と言う決まり文句にすればすることができたで
あろう新しい諸要求との和解について、ここで寓話を語ったのです(下線原
文イタリック、以下同じ)
」
(GWXIS.119)と語っている。
『大公殿下』に描かれている市民性の像を眺めるには、クラウスと詩人マ
ルティーニの会見に居合わせるのが最適である。象徴的表題の章『高い使命』
(Der hohe Beruf)の後半部で行われるこの会見の主役マルティーニは、生の
喜びや美を熱烈に謳歌しながらも、その実は「作品のために生の禁欲的否定
を本質とする」
(GWXIIS.103)芸術至上主義の詩人である。その意味で彼は、
南の地で放蕩三昧に明け暮れていた頃のトーニオ・クレーガーとその友人ア
ルブレヒトの同類なのである。マルティーニはこう語る。
「私のような者にとりましては現実の世界の欠乏が、あらゆる才能を育む温
床、あらゆる霊感の湧き出る泉、そう、もともと何でもそっと耳打ちしてく
れます守り神でありますことは、
〔.
.
.
.
.
.
〕生の享楽は、私どもには禁じら
れております。〔.
.
.
.
.
.
〕生の享楽とは、何も幸福ばかりではございません。
心配や情熱も、要するに、私どもより真面目なあらゆる生との結びつきなの
でございます。
」
(GWIIS.178)
この言葉の裏返しとして、当時のマンが懐いていた市民性の像がくっきり
と浮かび上がる。そして芸術至上主義の詩人マルティーニ流の存在様式が、
市民性に敵対するものとして拒否される。
「今度もまた、私の人生について物
語ったのです」
(GWXIS.571)と語るマンが、クラウスに託して言わしめた
マルティーニへの所見は
「あの男には何か凄まじいところがあるよ。
〔......〕
−6−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
そう、何といっても確かに、ちょっといやらしいね」(GWIIS.181)である。
生活の雰囲気であるにすぎなかったものから、自己の存在に不可欠なもの
へと変貌を遂げてきたマンにおける市民性の内実は、ここに至って、個人的
な次元を超えて展開される可能性を内包していることが予感される。それは
「じゃあ、君にやっと僕への信頼の念をうえつけて、僕に公共の福祉について
あれほど現実的な研究をさせるようにしたものは、いったい何なの。愛につ
いて知っている者が、人生について全く何も知らないというのかい。高貴と
愛のふたつともをこれからの僕たちの責務にしよう。―厳しい幸福をね」
(GW
IIS.363)という長編を結ぶクラウスの決意が、何よりもよく示している。
この決意が実現されるに先立ちマンを待ち受けていたのが、ヨーロッパの
ありようを根底から変えてしまった第一次世界大戦であった。
2
時代が生み出す新しいものとの関わり合いのなかで、自らの位置を決定し
ようという姿勢がマンに生まれ始めたことはすでに述べた。そのことは『大
公殿下』執筆の前後に書かれた評論、殊に未完の随想『精神と芸術』
(Geist
und Kunst)9に目を通せば一層はっきりする。一例を挙げれば、覚書13には「私
は我々の時代を愛している。それほど興味深いものは皆無だ 10」とある。と
は言うものの、
「過去指向性(Vergangenheitsorientierung)が理性以前の本
性である 11」マンは、現代性には即座には馴染めず、反感を覚えていること
も確かである。
「文学的裸体文化(表現主義のこと〈筆者注〉
)
。今日では誰もが多かれ少な
かれこの傾向に染まっている。精神に免疫を持っていると思われている人々
でもその例に漏れない。そして生への憧憬、肉体活動を崇拝することは、ヒ
ステリックで馬鹿げたものにまで成り果てている。12」
このような批判は、1902年に発表された短編『神の剣』(Gladius Dei)の主
人公ヒエローニムスの口を借りてもなされていた。ヒエローニムス即ちマン
−7−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
の図式は成立しないが、マンの本性は必然的に自らを超時間的な物語の世界
へ導くのである。
『大公殿下』完成後一年にもならない1910年1月には『詐欺師フェーリクス・
クルルの告白』
(Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull)の執筆が開始される。
そしてそれが一時中断され、
「さっさと片付けられる即興的作品、挿話として」
(GW XI S. 123)1911年から書き始められ、結局一年余りを費やして完成さ
れたのが『ヴェニスに死す』
(Der Tod in Venedig)である。完成後マンは再び
『クルル』に戻るが、1913年7月頃には「またしても詐欺師の告白への幕間狂
言として」(GW XI S. 125)当初は短編の予定だった『魔の山』の執筆準備
に取り掛かる 13。同年9月マンはその「短編小説」を書下ろし始めるが、そ
れから一年も経たない翌年8月1日第一次世界大戦が勃発したのである。
『魔
の山』の主人公ハンス・カストルプにとってもそうであったように、大戦の
勃発はマンにとって紛れもなく青天の霹靂であった。開戦僅か2日前の7月
30日付で兄ハインリヒに宛てた私信にはこう書かれている。
「白状せねばなりませんが、僕は現実の恐ろしい重圧によってショックを受
け、決まり悪く感じています。今に至るまで楽天的で、破局を信じようとは
しませんでした。何といっても、こんな途方もないことになるなど、市民的
感覚からすれば考えられもしないに決まっています。14」
こうして否応なく現実に身を投ぜざるを得なくなったマンは、一先ず『魔
の山』
を下山し、
立て続けに二篇の戦時評論を物する。
『戦時の思想』
(Gedanken
im Kriege)と『今日の時局のためのスケッチ』
(Ein Abriß für den Tag und die
Stunde)の副題が附された『フリードリヒと大同盟』
(Friedrich und die große
Koalition)である。どちらもドイツの進攻が続く開戦当初の異常な昂奮と喧
騒のなか生みだされたものであるだけに、随所に激烈な言葉が散りばめられ
ている。しかし、前者で主に論じられている「文化」と「文明」の対立関係
は、すでに『精神と芸術』に胚胎していた命題であり、後者も「歴史小説 15」
として数年前に構想されていたものでもある。
硝煙弾雨のなかで生まれた二篇によって「
『時代と時局』に対する私の責
−8−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
任を果たしてしまい、時代の喧騒のなかでも、戦争勃発前から始めていた芸
術的な仕事にもう一度身を捧げることができると信じていた」(GWXIIS.9)
マンは、再び1915年初頭から『魔の山』に戻ろうとする。同年3月15日の私
信には「今、私は〔.
.
.
.
.
.
〕いなかで私の物語に戻っています。もう中断す
る気はありません 16」と書かれていることから、少なくともこの時期には、
「戦
いを越えて」
『魔の山』執筆に勤しんでいるマンの仕事ぶりが目に浮かぶ 17。
しかし5月にはストックホルムの新聞アンケートへの回答として、またして
も時局に関する論説を寄稿する 18。こうして紆余曲折を経、マンはついに『魔
の山』の稿を継ぐことを断念する。その後ほぼ2年半に亘って、
「骨の折れる
良心の作品」(GW XI S. 126)
『考察』がマンを縛りつけることになる。1915
年マン40歳の秋である。
3
『考察』の内容を検討するに先立ち、そのテクストについて考えておきた
い。そこで問題となるのは、1918年の初版を短縮した1922年の改版である。
それは、思想信条の違いから第一次世界大戦が勃発して以来絶縁状態にあっ
た兄ハインリヒと和解し、マン自身の手で初版の一部が削除されたものであ
る。その経緯から、削除はハインリヒの『ゾラ論』
(Zola)への反駁やロマン・
ロランへの抗議 19が多くなされた『正義と真理に抗して』
(Gegen Recht und
Wahrheit)の章で集中的になされている。後述する1956年版の序文でマンの
長女エーリカも述べている通り、この削除は、論争や反駁の激越な個人的調
子を和らげるためになされた措置であり 20、時代に制約された部分を変化さ
せるにとどまる。それゆえ
『考察』
の執筆動機と内容を問題にするに際しては、
削除自体は副次的なことに過ぎず、その核心である形而上的なものを変化さ
せるものではない。むしろ、執筆当時のマンの偽らざる心情を察知する上で
は、削除は『考察』本来の姿を歪めることになるのである。
第一次世界大戦後ほどなくマンが公的に表明した政治的立場などのため、
−9−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
30年代から40年代を通じて『考察』は絶版状態にあった。そして初版の出版
後38年を経てそれに基づき復刻されたのが、所謂1956年のストックホルム版
である。マンはその前年に亡くなっているが、生前初版復刻に同意し、本来
の『序』
(Vorrede)とは別に序文を附すことを計画していたそうである 21。そ
の父に代わって序文を著したのがエーリカである。彼女はそこで、マンが復
刻に同意していた三つの理由を挙げている。その第一は『考察』が「歴史的」
になってしまったので、この「過ぎ去った時代の一個人の記録」を今の時代
に直接結びつけて考える読者はいないだろうということ。第二に『考察』は、
著者の発展のある局面を特徴的に示すものだけに、全集の自伝的完結性と言
う意味において省くわけにはいかないということ。最後の理由は、これまで
度々噂が立ってきた『考察』の受容がさまざまになされているということで
ある 22。
このストックホルム版『考察』は、その後60年の12巻本全集、74年の13巻
本全集にも受け継がれて収められている。ただし、エーリカの序文は二種類
の全集には収められていない。
4
『ヴェニスに死す』執筆前後から、マンの創作力は沈滞していたかのようで
ある。それは、当時のマンの小説創作だけに目を向けると、
『大公殿下』以降
開戦に至るまで、
『ヴェニスに死す』を含めてもわずかに短編小説を三つ発表
しただけであることにも表れている 23。一方この時期のマンは、1908年の『演
劇試論』
(Versuch über das Theater)などを含め、
『精神と芸術』によって代表
される評論的著作に力を注いでいた。
『精神と芸術』は、マンが精神的・文学的立場を定めることを目論んだ興味
深い随想である。しかし未完に終わったこともあって、マンの生前には、そ
の中で比較的纏まった部分だけが日の目を見たに過ぎなかった 24。
ちょうどその頃、1913年11月8日、マンは兄ハインリヒに宛てて私信を認
−10−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
めている。少し長くなるが、真情の告白として重要な意味を持つので、煩を
いとわず引用する。
「僕はかなり情緒不安定で、うんざりしていることが度々なのです。自分
のことや自分の仕事のことで、市民的人間的な悩みがあまりにも多すぎます。
〔..
.
.
.
.
〕僕を絶えず脅かしている疲労、疑念、倦怠、疑惑という内面的なも
の、そのようなある種の心の傷と弱点があるので、どう攻撃されても心の底
の底までガタガタになってしまうのです。おまけに兄さんと違って僕は、そ
もそも自分を精神的にまた政治的に位置づけできていないという有様です。
ますます募ってくる死への共感は、生まれつき僕の心に深く蟠っていたもの
です。僕の関心は、いつも没落ということに向いていました。進歩というこ
とに僕が関心を示すのを妨げているものは、おそらくそれに違いありません。
〔..
.
.
.
.
〕僕の楽しみは、自分の作品よりも兄さんのこれからの作品です。兄
さんの方が作品を創るのに精神的によりよい状態にあります。何といっても、
それこそが決定的なことなのですから。僕の作家としての勤めは終わったと
思います。いや、それどころか作家などになってはいけなかったのでしょう。
『ブッデンブローク家の人々』は市民的作品で、20世紀にとってはもはや何の
価値もありません。
『トーニオ・クレーガー』はお涙頂戴劇(larmoyant)。『大
公殿下』はくだらない。
『ヴェニスに死す』は中途半端な教養を基に作った贋
物でした。これらは、言ってみれば、今わの際にあたっての最期の認識と慰
めなのです。25」
マンの心中の暗澹たる気分が綴られた私信である。とは言うものの、マン
のこの生の声は鵜呑みにはできない。書簡の行間には芸術家としての存在の
アンビヴァレンツが、延いては自己の芸術に対する自信と使命の自覚が読み
取れる。処女長編『ブッデンブローク家の人々』から一貫して旧来の文学的
伝統の継承に努めてきたマンなればこそ、トーニオ・クレーガーに「私は二
つの世界の間に立っていて、どちらにも住んでいません。だから少々辛いの
です」
(GWVIIIS.337)と告白させたマンなればこそ書けたものである。今
わの際どころか、この私信を認めた時マンはすでに、大戦後「ドイツ教養小
−11−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
説のパロデイー」として長編に膨らむ『魔の山』の執筆を始めていたのである。
しかし、「地球を根底から震撼させた歴史的雷鳴」
(GW III S. 985)である第
一次世界大戦が導火線となり、自己の原点と基盤を大規模かつ徹底的に再検
討するために、その執筆を中断し、艱難辛苦の後産み落とされたのが『考察』
に他ならない。
その執筆の第一の誘因として従来主張されてきたのは、上述のマンの三篇
の戦時評論と兄ハインリヒの『ゾラ論』によって生じた兄弟間の軋轢である。
ところが、マンが当の『ゾラ論』を入手したのは『考察』の執筆を始めて数
か月経った1916年1月のことである。ましてや、『考察』が自己探索の書で
あることを考慮すれば、既述の通り兄弟間の軋轢は執筆の副次的誘因にしか
過ぎない。
偉大な過去の堅牢な基盤の上にあるものとして、従来マンの意識下では自
明であったものが、
「普通ならば何十年もかかってやっと生れ出る数々の変
化を熟させる〔.
.
.
.
.
.
〕典型的に扇情的な時代」
(GWXIIS.466)によって、
その根底を揺さぶられ始めたのである。それはマンならずとも、自己の存在
を脅かされるに等しいことである。
「
〔......〕固定してしまったものを、すでに形式となってしまったものを
再びほぐし、自分の創造力を活動させつづけ、新しい内実を注ぎ込ませ、自
分の生の精神的基礎を拡大し、もっと広く高くそれを築くことができるか、
あるいはそれとは反対に新しい時代環境の下で、繰り返しや沈黙だけを自ら
の分とするかは、実のところ生命力の問題である。」(GWXIIIS.151)
この発言は1940年になされたものであるが、そこで言われている二者択一
は、
『考察』の時期のマンにとって意思の如何に関わらず差し迫った事情で
あった。古いものを継承し、改進しようとするマンは、前者を自分のあるべ
き姿であると判断した。
それ故に、齢四十に達し「個人的な人生の転機が、世界の転機という雷鳴
に伴われて」(GW XII S. 14)訪れたマンは、
『考察』でこれまでの自己の総
決算をあえて試みたのである。もちろん「市民性」もその決算報告から漏れ
−12−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
ていない。
第一次世界大戦によって、従来マンの思考の中心に現れていなかった新た
な問題がクローズアップされることになった。その代表的なものは、マンが
これ以降終生に亘って関わりあうことになるドイツ性(Deutschtum)の問題
である。
赤裸々な帝国主義的戦争という現実を度外視し、マンはこの大戦を形而上
的な次元で捉えた。正義の旗幟を鮮明に、
圧倒的な力で外からも内からも迫っ
てくる「西欧文明」の「ドイツ文化」根絶を目論んだ戦いであると感じ取っ
たマンにナショナリズムが覚醒する。そして「世界の憎悪と軽蔑を浴びて消
え去る」(GW XII S. 185)寸前の古き良きドイツ文化を、是が非でも防衛す
る行動に出たのである。それこそ、芸術家としての存在と教養の基盤を成す
ものだったからである。
「私は精神的本質において、生涯のはじめの25年が属している世紀、すなわ
ち19世紀の真正な子供である。確かに私は、自分のなかにこの時代にではな
く、より新しい時代に属している芸術と形式、そしてまた精神と倫理、欲求
と本能があることを認める。しかし、作家としての私が、自分をシュティフ
ターから始まりフォンターネに終わる19世紀ドイツの市民的な物語芸術の後
裔(もちろん所属する者としてではなく)として感じているように、
〔......〕
私の精神的な重心も世紀の変わり目の向こう側にある。」(GWXIIS.21f.)
19世紀の最後の精神的嫡子を自負するマンは、とりわけ『自省』
(Einkehr)
の章を中心に偉大な非政治的ドイツ人達を文字通り総動員し、当時のマンに
とってはシノニムである「デモクラシー」と「政治」から過去の「ドイツ文化」
を庇護しようとする。
マンは、
「市民性」と新たにクローズアップされた「ドイツ性」とをほとん
ど同一視して捉える。そうすることで、
市民性に時間的・空間的拡がりを与え、
個人的問題をドイツの精神的伝統に列ねるのである。
「ショーペンハウアーの、ヴァーグナーの学校で教育を受けた者が審美主義
者になることはない。そこの空気は、倫理的でペシミスティック、ドイツ的
−13−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
で市民的である。というのも、ドイツ的なものと市民的なもの、それらは同
じものであるからだ。もし『精神』が市民的由来のものならば、ドイツ的精
神は特別に市民的である〔.
.
.
.
.
.
〕
」
(GWXIIS.107)
こう述べた後、マンはショーペンハウアーの、そしてヴァーグナーの生活
様式を詳細に紹介し、政治に無縁であった「ドイツ的市民性」、「教養ある市
民性」
、
「人間的・芸術的市民性」
(GWXIIS.111)の在り方を明らかにする。
政治に対する無条件の、あるいは盲目的な信仰にはマンは大きな疑問符を
付している。しかし萌芽ではあるが、戦後に成熟し驚くばかりの規模に拡大、
深化されることになる人間性について、すでにここで語られていることも見
逃してはならない。
「〔......〕ドイツ的人間性は根底から政治化に反対する。ドイツ的教養概
念にはそもそも政治的要素が欠如している」
(GWXIIS.111)
19世紀の偉大な市民精神に自己を重ね合わせて 26、マンは「ドイツ文化」
と「西欧文明」との間に一線を画し、前者を積極的に援護する。しかしすで
に「進歩を必然的なもの、不可避なものとみなしていた」(GWXIIS.67)彼
は、ドイツ的市民性、ドイツ文化の独自性を主張し弁護するのは、もはや絶
望的な行為であることを自覚していた。にもかかわらず敢えて挑んだ負け戦
である。それは、新しいものに無批判に門戸を開くのではなく、「苦心惨憺
して新しいものを処理し、自分の世界や作品へ取り入れる」(GWXIIS.216)
ために、
「ロマンチックな市民性が、かなり巧妙に仕組んだ、最後の大規模な
退却戦」(GW XI S. 129)に他ならない。
「人間の問題に責任を感じる芸術家
27
」マンは、この戦いを経ずしては一歩たりとも前進するわけにはいかなかっ
たのである。
マンは作家活動を始めた当初から、市民性と芸術家気質との対立という問
題に深く関わっていた。その対立は、彼に宿る二つの魂が引き起こす宿痾と
言っても過言ではない。マンの課題がその対立を超克することにあったのは、
トーニオ・クレーガーの決意がよく示している。
『考察』ではそれが「市民的
芸術家気質(bürgerliches Künstlertum)
」という新しい衣装を纏って登場す
−14−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
る。
「市民的芸術家気質とは実現されたパラドックスの典型である。この精神的
生活形式は、ドイツにおいて正当性があるとはいえ、二重性と分裂性を抱え
ることを免れない。
」
(GWXIIS.108)
市民性と芸術のための芸術との対立関係を考えるなかで、マンはルカーチ
の所説を援用し、市民的芸術家気質を「ひとつの正当な閉じられた生活形式、
さらに詳しく言えばドイツ的生活形式である 28」
と規定する。そしてそれを「作
品のために生を禁欲的に否定することをその本質とする 29」フロベール流の
審美主義と対照させて考える。
『トーニオ・クレーガー』のトーニオとアーダ
ルベルトとの間のそれである。そこでは
「迷える市民」
(GWXIIIS.305)であっ
たトーニオ(= マン)は、今や市民的芸術家気質こそが自己の淵源であるこ
とを確認する。ルカーチは、この生活形式を実現した芸術家の典型として、
メーリケ、ケラー、シュトルムの名を挙げている。マンはこの三人のように
は市民的職業に就いていないものの、自分の場を比喩的にそこに定めようと
する 30。それはあたかも『魔の山』の主人公ハンス・カストルプが、先祖伝
来の洗礼盤を載せている銀の皿の裏面に刻まれた父祖の名が、祖父によって
次々と読み上げられているのを聞きながら、自分の生活と父祖達の世界とを
結びつけている赤い糸を手繰るかのようである。マンは語る。
「あらゆる近代的な疑わしさとヨーロッパ化しようという欲求にもかかわ
らず、個人的には古い市民的、ドイツ的領域を根とする私は、その在り方か
らしてドイツ的、手仕事的な職匠気質のかの代表者達と繋がりを持っている
のである。そしてその人達のうちで、
コンラート・フェルディナント・マイヤー
とシュトルムが私に最も近い存在である。
」
(GWXIIS.106)
しかし既述したように、その正当性を証明しようとした市民的芸術家とい
う生活形式の古さを、誰よりも熟知していたのはマン自身であった。にもか
かわらず、彼は頑ななまでにこの生活形式に執着し、西欧的審美主義、ある
いは「文明の文士」
(Zivilisationsliterat)らの表現主義運動に論戦の鉾先を向
けた。それは、当の彼が文士性を持ち、共感と連帯感を有していると同時に、
−15−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
無制限な文士性が持つ精神のラディカリズムの危険性も十二分認識していた
からに他ならない。
「人というものは、自分を煩わせる必要のないことに、そして何も関知せず、
自分自身のうちに、自分自身の血のなかにそれに関する何ものをも持ってお
らず、
自分とは関係のないことに、
これほど心を痛めないものだ。」
(GWXIIS.
40)
自己の基盤を徹底的に検証し、それを保守する孤立無援の作業を続けるこ
とが、そもそも敵対しているものを推進する結果になってしまったのである。
錯綜した情況によって完膚なきまでに打ちひしがれたマンの顔には「優しさ
もイロニーも見られない 31」と長男クラウスは当時の父を回想して記してい
る。そうした折、懐かしい魂の故郷の世界をマンの眼前に繰り広げ、疲れ果
てた心身を癒してくれたのは、またしても音楽であった 32。
結語
1917年6月12日、バイエルン王立歌劇場でブルーノ・ヴァルターが指揮し
ハンス・プフィツナー作曲の楽劇『パレストリーナ』
(Palestrina)が世界初
演された。
「ショーペンハウアー的、ヴァーグナー的領域、ロマン主義的領域
から生れ出た最後の、しかも最後ということを意識しているこの作品」(GW
XIIS.407)を、マンは間をおかず三度も聴いた。そして『考察』の『美徳に
ついて』
(Von der Tugend)の章で、この曲への限りない共感を披瀝している。
その夏のある日の夕刻、プフィツナーの口から洩らされた、この楽劇の基
調を簡潔に言い表した「死への共感」
(GW XII S. 423)という言葉を耳にし
たマンの脳裏に鮮明に甦ったのは、一年半余り前に去った『魔の山』の世界
であった。
「死への共感」は紛れもなく自分の言葉でもあり、長編に膨らむこ
とになる『魔の山』の「構想の主題をなす構成要素の一つだった」
(GW XII
S. 424)のである。同年10月4日付の私信でプフィツナー協会設立のための
アピール 33執筆予告と同時に、
「物語ることが楽しみでなりません 34」と書い
−16−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
ていることから、マンのガレー船での苦役の終わりの近さも予感される。『魔
の山』の全貌が現れる日も、過去から培われた愛すべき伝統を自家薬籠中の
物とし、それを新たな形式で批判的に継承し続ける日も間近に迫っている。
その日に先立ち『魔の山』の裾野には牧歌の世界が開けている 35。そこを
訪ねたマンは束の間の解放感に浸る。
『考察』脱稿の二日後である 36。
注
トーマス・マンの著作の底本としては下記を用い、本文中の引用(訳文)にはその巻とペー
ジを(GWXIS.314)などで割注とした。
ThomasMann:GesammelteWerkeindreizehnBänden.FrankfurtamMain1974.
1.Vgl.PeterdeMendelssohn:DerSchriftstelleralspolitischerBürger.München1975,S.
15u.S.31.
2.
『魔の山』は、正確には1924年マン49歳の時に出版された。
3.Mendelssohn:a.a.O.,S.16.
4.HansMayer:ThomasMann.WerkundEntwicklung.Berlin1950. が、この傾向を代表
する論考である。
5.V gl. Helmut Koopmann: Thomas Mann. Konstanten seines literarischen Werks.
Göttingen1975,S.84.
6.Koopmann:a.a.O.,S.88.
7.Helmut Spelsberg: Thomas Manns Durchbruch zum Politischen in seinem kleinen
epischenWerk.Marburg1972,S.12.
8.Vgl.Koopmann:a.a.O.,S.87.
9.PaulScherrerundHansWysling:QuellenkritischeStudienzumWerkThomasManns.
BernundMünchen1967.
10.ScherrerundWysling:a.a.O.,S.159.
11.Winfried Hellmann: Das Geschichtsdenken des frühen Thomas Mann(1906-1918).
Tübingen1972,S.5.
12.ScherrerundWysling:a.a.O.,S.189.
13.V gl. Herbert Lehnert: Anmerkungen zur Entstehungsgeschichte von Thomas
Manns Bekenntnisse des Hochstaplers Felix Krull, Der Zauberberg und Betrachtungen eines
Unpolitischen.In:DVjs.,38.1964,S.268.
14.Thomas Mann/Heinrich Mann: Briefwechsel 1900-1949, hrsg. von Hans Wysling.
FrankfurtamMain1968,S.106f.
15.Hans Bürgin und Hans-Otto Mayer: Thomas Mann. Eine Chronik seines Lebens.
FrankfurtamMain1965,S.32.
16.BriefanJuliusBab,5.März1915,zitiertnachBürginundMayer:a.a.O.,S.42.
17.Vgl.Lehnert:a.a.O.S.269.
−17−
トーマス・マンにおける「市民性」(堀内)
18.AndieRedaktiondes《SvenskaDagbladet》.Stockholm.(=GWXIII,S.545-54.)
19.ロマン・ロランは、自著『戦いを越えて』の『プロ・アリス』と『偶像』の二つの章で、
マンの『戦時の思想』を手厳しく批判している。『ロマン・ロラン全集』第18巻 みす
ず書房 昭和34年、17頁と61頁以下参照。
20.Vgl. Thomas Mann: Betrachtungen eines Unpolitischen. Frankfurt am Main 1956, S.
IX.
21.ThomasMann:a.a.O.,S.X.
22.ThomasMann:a.a.O.,S.IX.
23.
『鉄道事故』(Der Eisenbahnunglück 1909)、『殴り合い』(Wie Jappe und Do Escobar sich
prügelten1911)、『ヴェニスに死す』(Der Tod in Venedig1912)の三篇である。
24.1913年に文芸誌『三月』(März)に発表された二篇の評論『文士』(Der Literat)と『芸
術家と文士』(Der Künstler und der Literat)がそれである。
25.TomasMann/HeinrichMann:a.a.O.,S.103f.
26.Vgl.Koopmann:a.a.O.,S.105.
27.佐藤晃一:トーマス・マンの世界 大修館書店 1962年、129頁。
28.ジョルジュ・ルカーチ(川村二郎訳):市民性と芸術のための芸術―テオドール・シュ
トルム―『魂と形式』所収 白水社 1975年、104頁。
29.ジョルジュ・ルカーチ(川村二郎訳):上掲書、103頁。
30.ルカーチは上掲書の141頁でマンの名を挙げている。
31.クラウス・マン(小栗浩訳):マン家の人々―転回点1― 晶文社 1970年、88頁。
32.マンの遍歴時代、すなわち1896年から98年にかけてのローマ滞在中も、故国を離れた
一青年を慰めたのはヴァーグナーの音楽であった。Vgl.GWXII,S.80f.
33.Aufruf zur Gründung des Hans Pfitzner-Vereins für deutsche Tonkunst(1918)のことである。
34.ThomasMann:Briefe1889-1936,hrsg.vonErikaMann.FrankfurtamMain1961,S.
140.
35.1919年にマンは二篇の牧歌的短編『主人と犬』
(Herr und Hund Ein Idyll)と『幼子の歌』
(Gesang vom Kindchen Idylle)を上梓した。
36.1918年3月18日のことである。Vgl.BürginundMayer:a.a.O.,S.49.
−18−
Alternativereproductivetactics
inmalerosebitterlings:
Effectofdensityoninteractionbetween
frequency-andstatus-dependentselection
YoshihikoKANOH
ABSTRACT
The reproductive success of alternative reproductive tactics in male rose bitterlings,
Rhodeus ocellatus, was estimated by field observations and experiments under artificial
conditions.Theaveragenumberofmalesperterritorywas3.0withinastudyareaina
pond.Threetacticsareused;territoriality,sneaking,andgrouping.Thematingtacticsof
themaleschangeddependingontheirsizerelativetotheiropponentsandonlocalmale
density. Larger males usually employed the territorial tactic, and medium-sized males
sometimesemployedatemporaryterritorialbutalsousedsneakingandgroupingtactics,
while small males used only sneaking and grouping tactics. The average fertilization
success in the territorial and sneaking tactics was equal when the male density was
approximately 3.0 in the tanks. Considering an interaction between the size- and the
density-dependence,theaveragesuccessrateperspawningforeachtacticwas:territorial,
sneaking and grouping tactic are 0.61, 0.31 and 0.11, respectively. The average success
rates of the tactics were not equal, but the success rates of the alternative tactics at
an ESS switchpoint of 36 mm standard body length were equal. There was significant
differenceinmatingsuccessofmarkedmalesamongthethreesizegroups.Accordingly,
although the alternative reproductive tactics of male rose bitterlings would be a
conditionalstrategy,averagesuccessofalternativemaletacticsmightbeadjustedtobe
equalaboveamaledensitythresholdwhichwasapproximately3.0.
Key words:isozymeanalysis,status-dependentselection,switch-point,groupspawning.
INTRODUCTION
Not all members of a sex behave in the same way. It is well known
that alternative reproductive tactics are employed by individuals within
−19−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
a sex and even by an individual(Field, 1992; Taborsky, 1994, 2008; Mank
and Avise 2006)
. Social interaction generate the negative frequency-
dependent and/or status-dependent selection that are the driving forces in
theevolutionofalternativereproductivestrategiesandtactics.Alternative
mating behaviors may evolve through several distinct mechanisms(Gross,
1996)
.Ingeneticallypolymorphicspecies,alternativereproductivestrategies
coexist in an evolutionarily stable state at the population level(ESSt: e.g.
ShusterandWade,1991;Ryanetal.,1992;Lanketal.,1995).Ingenetically
monomorphic species, alternative male mating tactics may evolve into a
mixedevolutionarilystablestrategy(mESS)
orasconditionallydetermined
tactics in a conditional strategy. Alternative tactics in the conditional
strategymaydependonsuchfactorsastherelativebodysizeofcompeting
males and the number of males competing. The average fitnesses of
the alternative tactics are not equal, but the fitnesses of the tactics at a
switchpoint are equal. It would be useful to identify the existence of the
switchpoint, because although equal fitnesses are hard to demonstrate,
one would ideally test the equality of fitnesses between tactics at the
switchpoint.
Theliteraturecontainshundredsofexamplesofalternativereproductive
phenotypesthataremostreadilyinterpretedasalternativetacticswithina
conditional strategy(Gross, 1984; Cooke, 1990; Danforth, 1991; Reynolds et
al.,1993;Emlen,1994;Blanchfieldet al,2003)
.Acommonconditionalstrategy
istheuseoffightingorsneakingasalternativematingtacticsdependingon
bodysize.Forexample,inscarabdungbeetles,Onthophagusbinodis,male
alternativematingtacticsdependonbodysizeandhornsize(Cooke,1990);
intheground-nestingbeeperditaportalis,alargefighterphenotypemates
within the nest, while small males mate outside the nest(Danforth, 1991).
Forboththebeetleandbeeitisthoughtthatthissmall-maletacticresults
−20−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
inlessaveragefitnessthanthelarge-maletactic.
Alternative male reproductive tactics are found in many species of fish
wheremalecompeteforaccesstofemalemates(Taborsky,1994,2008).In
most studies, on an individual basis, success rates of small parasitic males
are much fewer than those of large territorial males(Warner et al., 1975;
Warner and Lejeune, 1985; Hutchings and Myers, 1988; Chan and Ribbink,
1990; Rico et al., 1992; Philipp and Gross, 1994; Taborsky, 1994)
. However,
thesehavenotyetbeenwellquantifiedanyfitnessofthealternativetactics
attheswitchpoint.
Males of the rose bitterling, Rhodeus ocellatus, which spawn into the gill
cavityofalivingfreshwatermussel,formaterritoryaroundthemussel.Not
allmalescanoccupythemusselasaspawningbed,becausethenumberof
maturedmalesislargerthanthatofthemussels(theproportionofmales
to the mussels was approximately 2 : 1)
. Thus competitively subordinate
small males participated in mating by sneaking tactics. Generally, in most
externally fertilizing fishes, males using alternative reproductive tactics
spawn simultaneously with the dominant or territorial males. In the rose
bitterling,malesspawnintofreshwatermussels,andcanreleasespermover
the inhalant siphon of the mussel both before and after egg-laying. I term
ejaculatingbehaviorbymalesbeforeegg-laying‘pre-ovipositionejaculation’
(Kanoh, 1996, 2000)
. Potential of sperm to fertilize eggs is lost almost
completelyat4minafterreleaseofthesperm.Smallsneakermalesintrude
frequentlyintotheterritoryofdominantmalesandperformpre-oviposition
ejaculation
(Kanoh,1996)
.
Females deposit their eggs into the gill cavity from the exhalant siphon
of the mussel through their ovipositor. This spawning by the females is
repeatedatintervalsof6-9days(Shirai,1962)
.Thefemaledeposits10-20
eggsduringonespawningcycle,with1-3eggsperegg-laying(Nakamura,
−21−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
1969; Kanoh, 1996)
. Each mussel is used by plural females; chasing
movements are observed between the females. Although the mussels
sometimes contain more than 200 eggs of the rose bitterling in their gills,
theyarenotkilledbytheeggs
(Nagata,1985;Kanoh,1996).
Fieldobservationsandexperimentswereconductedfrom27Aprilto22
July, 1989. I have previously scored through behavioral data the success
rate per spawning in each tactic, on an individual basis. The average
reproductivesuccessperspawningforeachtacticwas:territoriality(0.61),
sneaking(0.31)and grouping(0.11)
, and thus the success rates of the
tacticswerenotequal.Accordingly,itwassuggestedthatthereproductive
strategy of the rose bitterling was presupposed a conditional strategy
(Kanoh,1997,2000)
.
However, there existed a negative size-dependent advantage in the
fertilizationsuccessofthesneakermales.Itwasshownthatsneakersgain
almostequivalentsuccesstoterritorialmalesonanindividualbasisinpair
spawningswithsneakers,andthatsmallersneakershavehigherfertilization
ratesthanlargersneakermalesintanks
(Kanoh,1996).
Inthepresentstudy,Iinvestigatethereproductivebehaviorofmalerose
bitterlings under natural conditions, and analyze the fertilization success
of sneaking and territorial tactics using isozymes as genetic markers
under artificial conditions. From this I am able to; 1)estimate fertilization
success for each mating tactic depending on male density; 2)compare
success measured at both individual and tactic levels; and 3)discuss the
evolutionarymechanismfavoringthisreproductivestrategy.
METHODS
Field site
Thefieldsitewasasmallpond(about700m2)inYaocity,Osaka,Japan
−22−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
with a natural population of rose bitterlings(see also Kanoh, 1996)
. The
mainstudysectionwasa2×5mstretchinwaterrangingindepthfrom40-
60 cm. The bottom of the pond consisted of a mud surface over clay. To
maintain observations, I arranged 13 mussels, as they might be found on
othernaturalspawningsites,atintervalsof15-120cmalongtheshoreline.
Isecuredeachmusseltoaplasticvesselburiedinthebottomofthepond.
Cylindricalnets
(60cmindiameterand30cminheight)
undereachmussel
wereusedtocapturematingfishnearthemussel.Thewatertemperature
rangedfrom16.5℃to25.0℃ overthebreedingperiod.
Data collection
Fieldobservationsandexperimentswereconductedfrom27Aprilto22
July, 1989. I have previously demonstrated the following field observation
data(Kanoh, 1997)
. The frequency of the three spawning patterns-pair,
pair with sneakers, and group-were observed at a small pond in Yao city,
Osaka.Of229spawningactsexaminedoveronebreedingperiod,82
(35.8%)
involvedasinglespawningpair(territorialmaleplusfemale);106(46.3%)
hadaspawningpairaccompaniedbyoneormoresneakers;and41(17.9%)
weregroupspawnings.Themostcommonpatternhadpairspawningswith
sneakers, next pair spawning, and finally group spawning(X2-test, X2=
28.32, df=1, p<0.001)
. In the peak breeding season, when the most males
participated in mating, the group spawnings were observed at only local
spawningsite.Thesespawningpatternsdidnotchangesignificantlythrough
thebreedingperiod.Thelocalaveragenumberofoperationalmalesforeach
spawning pattern was: pair spawning(1.0)
, pair spawnings with sneakers
(3.2)
, and group spawning(9.0)
. The operational sex ratio also differed
significantlyamongthethreespawningpatterns:pairspawning(1.0;male/
female)
,pairspawningswithsneakers(3.3)
,groupspawning(4.9;Kruskal-
−23−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Wallistest,H=75.97,p<0.001)
.Inthe61pairspawningswithsneakers,the
averagenumberofsneakerswas2.2±1.4SD.
Inthepresentstudy,toestimatethefertilizationsuccessofeachmating
tactic and male individual, I collected the using of alternative mating
tactics by marked males at each mussel site(n=13)
. A total of 58 males
and 30 females were captured with the nets. They were then marked for
identificationbycuttingasmallpartofftheirfins,andreleasedbackintothe
pond.Thespawningsiteswerescannedformultiplemales,andthenumbers
offish,otherthantheterritorialmale,wererecorded.Afterobservationsof
spawningactivity,Ipulledeachcylindricalnetandcapturedthefishwhich
hadparticipatedinmating.Ithenmeasuredtheirstandardbodylength(to
thenearest0.1mm)
andrecordedthebrightnessoftheirnuptialcoloration.
Reproductivebehaviorswerealsorecordedbyan8mmvideocamerafrom
the bank and were observed by using a mask and snorkel while kneeling
neareachmusselsite.
Spawning patterns and male mating tactics
Spawningbehaviorwasdividedintothreepatterns:
(a)
pairspawning;
(b)
pairspawningwithsneakers;and
(c)
groupspawning(Kanoh,1997,2000).
(a)
Pairspawning:Pairspawninginvolvesonlytheonemaleandtheone
female.Thus,allmalesemployedonlytheterritorialtacticinpairspawning.
Aterritorialmaledefendsanareaaroundamussel,leadsamaturefemale
towardsthemussel.Thefemalearrivesatthemusselanddepositshereggs
through her long ovipositor into the exhalant siphon of the mussel. After
the female oviposits, the male performs ejaculation movements, which are
almost always accompanied by ejecting sperm, over the inhalant siphon of
themussel
(Nagata,1976;Kanoh,1996)
.
(b)Pair spawning with sneakers: Pair spawning with sneakers includes
−24−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
one or more sneaking males intruding into the territory of a courting pair
andperformingejaculationmovementsbeforeand/orafterthepairspawns
(Wiepkema, 1961; Kanoh, 1996, 2000)
. I have defined the term‘sneaking
tactic’as meaning to intrude into the territory and eject sperm. Sneaking
tactics are further categorized into two types. A‘type 1 sneaking’is
intrusion behavior of a medium-sized male which forms a temporary
territoryandintrudesintoneighboringestablishedterritories,whilea‘type
2sneaking’isusedbyacompetitivelysubordinatesmallmalewhichseldom
formsaterritory
(Kanoh,1997,2000)
.
(c)
Groupspawning:Groupspawningoccurswhenaterritoryisbroken
downbytheintrudingbehaviorofmanysneakermales.Groupingtacticof
males does not use courtship movements. In group spawning ejaculation
movements by males and egg-layings by females take place continuously.
Pair spawning with sneakers is distinguished from group spawning by
whether courtship movements are shown. If the spawning starts out as
territorialplussneakersandthenmovestogroupspawning,Iclassifiedthe
tactics of the males by whether courtship movements were shown at the
spawningtimeoffemale.Inshort,itisthought,ifthesecourtingbehaviors
ofterritorialmaleswerenotobserved,thesneakerscouldnolongersneak,
asitwas,andthatthereforeallmaleswereusingthegroupingtactic
(Kanoh,
2000)
.
Fertilization success
Isozyme electrophoresis
Isozyme analysis was conducted on tissue from adult fins and larvae
by standard horizontal starch-gel electrophoresis and staining techniques,
as described in Shaw & Prasad(1970)
. APM-citrate buffer at pH 6.0 was
modifiedfromClayton&Tratiak
(1972)
.Lactatedehydrogenase
(LDH)and
−25−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
6-phosphogluconate dehydrogenase(6PGD)loci are polymorphic(Nagata
et al., 1996; Kanoh, 1996, 1997, 2000)
. They appear to be encoded by two
alleles(1dh-aand1dh-b;6pgd-dand6pgd-e)
.Thefrequenciesofthealleles
and tests of Hardy-Weinberg were conducted for the study pond in 1988,
1989, and 1994. Chi-square tests of observed versus expected frequencies
were consistent with the alleles in Hardy-Weinberg equilibrium(df=1, all
p>0.1)and provided no generational shifts in allele frequencies between
observationyears(df=2,allp>0.1)
.Accordingly,therewasnoevidenceof
non-randommatingfromeitherofthetwoenzymes.
Density-dependent fertilization success in tanks
In 1988, 1990 and 1994( from May to July)
, experiments on density
dependent fertilization success were conducted indoors in small tanks(60
×30×40cm)
.Allthefishwerecollectedfromthesamepondusedforthe
fieldobservations.Ineachtank,thewaterwasmaintainedat20-25℃ ,and
filteredthroughglasswool.ThefishwerefedTetramin.
A total of 12 territorial males, 20 sneakers and 17 females were used
in the experiments. Encounters between a territorial male and from one
tofour sneakers werearrangedforeitheroneor two days in small tanks.
For each experiment, the sneakers and the territorial male had different
. I introduced the males and a female in
isozymes(LDH and/or 6PGD)
a tank containing one mussel in which no eggs had been deposited. The
processwasrepeatedwithdifferentgroupingsoftheterritorialandsneaker
males.Aftereachoftheobservations,thepaternityofthemaleswasjudged
by using isozyme analysis. A small part of the fin of each fish was cut off
to identify it and for isozyme analysis. The eggs were taken out of the
musselandincubatedat20±1℃inaPetri-dishforabout20days.Wholebodyextractsofthelarvaeexceptforyolk,weremadeforisozymeanalysis.
−26−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Differencesbetweenthefertilizationsuccessofthesneakersandthatofthe
territorialmalesweredeterminedusingtheG-statistic(replicatedgoodnessof-fittest;Sokal&Rohlf1995)
.
Although type 1 sneakers sometimes fought, they always lost in my
experiments.Theysometimesperformedleadingandcourtshipmovements
butwerealwayschasedawaybytheterritorialmaleandcouldnotspawn.
Theyweresometimessuccessfulatsneaking.Type2sneakersneverfought,
and instead always adopted the sneaking tactic. The mating tactics of the
individual males depended on relative size and thus the tactics were fixed
duringanexperimentofonegrouptrialinatank.However,thetacticsofan
individual sometimes varied among the trials of different groups according
tohisrelativesizetherein.
RESULTS
Male density and sex ratios
Theaveragenumberofmaleswas23.2
(±9.5SD,n=6:numberofcounted
days)and the average number of territories was 7.73(±1.42 SD, n=11:
numberofcounteddays)
onastudyareaoveronebreedingperiod.Inthis
study, the average male density(number of males per territory)within
the study area was approximately 3.0(the average number of males/the
averagenumberofterritories=23.7/7.73)
.
The pond sex ratios(males : females)were 1.2 : 1(total number of
individuals=246, 27 June)and the average operational sex ratio(males/
females)was 3.3(±1.0 SD, n=6)on the study area during the active
breedingseason.
Ratio of mating tactics
Themalesswitchedmatingtacticsaccordingtotheirbodysizerelativeto
−27−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
opponentsatthespawningsite.Thestandardbodylengthoftheterritorial
males(37.8mm±2.6SD,n=55)
wassignificantlygreaterthanthatofthe
sneaking males(34.5 mm ±2.1 SD, n=84; Mann-Whitney U-test, z=6.80,
p<0.001)
.Therewasnosignificantdifferenceinbodysizebetweensneaking
and grouping males(34.9 mm ±2.5 SD, n=64; z=0.819, p>0.1). The body
lengthofmarkedtype1sneakingmales
(36.2±0.8mm,n=12)
wasgreater
thanthatofthefemales(33.7mm±3.0SD,n=47;z=3.295,p=0.001),but
there was no significant difference in body size between the females and
smalltype2sneakers
(34.2mm±1.9SD,n=8;z=1.181,p>0.2)
.
Althoughthedistributionsofbodysizeforterritorialandsneakingtactics
wereofapproximatelynormaldistribution
(X2-test,territorial:X2=3.348,df=
4,p>0.5,sneaking:X2=4.66,df=5,p>0.3)
,thebodysizeofmaleswhichhad
takenpartingroupspawningsdidnotindicateanormaldistribution(X2=
13.77,df=5,p<0.05)
.
The relationships between standard body length and the mating tactics
adoptedin30males,whichweremarkedandrecapturedatthespawningsite,
areshowninFigure1.Useofthesneakingtacticwasnegativelycorrelated
withbodylength
(Kendall’srankcorrelation,τ=−0.648,z=−4.46,p<0.001;
Figure 1-b)while that of the territorial tactic was positively correlated
with body length( τ=0.706, z=5.03, p<0.001; Figure 1-a)
. There was,
however, no significant correlation between use of the grouping tactic and
malebodylength(τ=−0.212,z=−1.43,p>0.1;Figure1-c).Theexclusive
use of the sneaking tactic was shown in males with less than a 33 mm
bodylength,whilethebodylengthofmalesusingonlytheterritorialtactic
was above 38 mm. The switchpoint between the sneaking and territorial
tactic is an approximately 36mm body length. The body size of males
which participated in group spawnings ranged from 32-39 mm(n=16)
.
Thus, use of mating tactics depends on body length. The males’ length of
−28−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Figure 1
Relationships between the adopting ratio of each mating tactic and the standard body
lengthonthemarkedmalts(n=30).
visittotheobservedspawningsitedidnotcorrelatesignificantlywiththeir
bodysize
(τ=0.047,z=0.357,p>0.1)
.
Density-dependent fertilization success
In the one-to-one encounters, fertilization success of territorial males
(average 68%; ranging 28.6-100%, n=11)was significantly higher than
−29−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Table 1-a: Fertilization success of males in the tanks based on isozyme analyses.
that of sneakers(G test; pooled G=10.509 df=1, heterogeneity G=40.225
df=10, both p<0.01, Table 1-a)
. In the one-to-two encounters, there was
no significant difference for the fertilization success per individual male
between territorial(32.9%)and sneaker(33.6%; G test; pooled G=0.552
df=1,heterogeneityG=4.333df=4,bothp>0.1,Table1-b).Asthenumber
of sneakers increased, the fertilization success of the territorial males
decreased(Figure 2-a)
. Although the fertilization success per individual
territorial male was negatively correlated with density of males(Kendall’s
rank correlation, τ=−0.71, z=4.38, p<0.001; Figure 2-a)
, the absolute
fertilization success per individual sneaker did not correlate directly with
−30−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Table 1-b: Fertilization success of males in the tanks based on isozyme analyses.
density of males( τ=−0.269, z=−1.66, p>0.1; Figure 2-c)
. When the
number of sneaker males increased, the fertilization success was lower
only in the territorial males, because time-budget data of the territorial
males indicated a trade-off between chasing and courtship behavior, while
the sneaking males were able to intrude and eject sperm easily(Kanoh,
−31−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Figure 2
Relationship between the fertilization success of males(a: territorial males; b: sneakers;
c: sneakers on an individual basis)and the number of parasitic males. And relationship
between the success rate on an individual basis(d: sneaker/territorial male)and the
numberofsneakermales.Opentriangle=theaverageofpercentage.
1996, 1997, 2000). Thus, the relative success rate of sneakers to territorial
males(success of sneaker/that of territorial male on an individual basis)
was positively correlated with density of males(τ=0.453, z=2.79, p<0.01;
Figure 2-d). The relative fertilization success per individual became
approximately equivalent at a ratio of 1 : 2 territorial males to sneaker
males. Moreover, on an individual basis, the relative fertilization success
ofsneakingmaleswashigherthanthatofterritorialmaleswhenthelocal
populationdensitybecamefourormoremales.Undersuchconditions,one
wouldexpecttheterritorytobreakdownandgroupspawningtotakeplace,
becausetherelativefertilizationsuccessoftheterritorialmaledecreasesas
localpopulationdensityincreases.
In the one-to-one encounters, there was no significant difference in
−32−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
fertilization success between type 2 sneakers and territorial males(G
test; pooled G=0.2294 df=1, p>0.1, heterogeneity G=11,927 df=6, p>0.05;
Table 1-a)
. And the fertilization success of type 2 sneakers significantly
exceeded that of type 1 sneakers(Mann-Whitney U test, U=1, p=0.006;
Table 1-a). Also in the one-to-two encounters, the fertilization success of
type 2 sneakers was significantly greater than that of type 1 sneakers(G
test; pooled G=16.450 df=1, heterogeneity G=10.793 df=2, both p<0.01).
Accordingly, there was negative size dependent advantage in fertilization
successforthesneakingtactics.
Estimating the success of each mating tactics
Thereproductivesuccessofthematingtacticscanbeestimatedinthree
differentways.
First, I had already estimated the success rate per spawning in each
tactic, using pair spawning equivalents, that is, the fertilization success per
spawning of each male is divided by the total number of males that have
participated in the spawning(Warner et al.,1975)
, through behavioral data
from fieldobservationsin1989(Kanoh1997,2000)
.Inthefieldobservations
thespawningrateswere:pairspawning(36%)
,pairspawningwithsneakers
(46%)
andgroupspawning
(18%)
.Ineachspawningpattern,thelocalaverage
number of operational males were: pair spawning(1.0)
, pair spawnings
with sneakers(3.2)
, and group spawning(9.0)
. The females spawned
approximately only one egg per egg-laying into the mussels(0.95±0.3 SD,
n=19;numberofmussels)
.Therewasnosignificantdifferenceforbodysize
ofterritorialmalebetweenpairspawningandpairspawningwithsneakers
(in
pairspawning:38.8mm±4.2SD,n=11;inpairspawningwithsneakers:38.8
mm ±4.5 SD, n=15; Mann-Whitney U-test, U=78, p>0.1)
. Accordingly, the
averagereproductivesuccessperspawningforeachtacticwas:
−33−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
territoriality=
(0.36×1+0.46×
(1/3.2)
)
(0.36+0.46)=0.61,
/
sneaking=1/3.2=0.31,and
grouping=1/9=0.11,
andthusthesuccessrateofthetacticswerenotequal.
Another method is by performing isozyme analysis of fish in tanks. The
averagenumberofsneakingmalesinpairspawningswithsneakerswas2.2
infield observations(Kanoh,1997)
.Thefertilization success of each tactic
can be calculated from the approximate curve of the relationship between
fertilizationsuccessandthenumberofparasiticmales(Figure2)
.
Theapproximatecurveforterritorialmalesis:
y=111.64e −0.5919x
whenx=2.2,y=30.4
(Figure2-a)
.
Therefore, the average success of the territorial tactic is:(0.36×1+0.46×
0.30)/(0.36+0.46)=0.61. While, the approximate curve for sneaking males
onanindividualbasisis:
y= −1.147x2+1.830x +32.92
whenx=2.2,y=31.4
(Figure2-c)
.
Thus,theaveragesuccessofthesneakingtacticis0.31.Finally,thesuccess
Table 2 Size-dependence in mating success on an individual basis
−34−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
rateofthegroupingtacticis0.11
(1/9.0)
.
Accordingly, the average mating success per spawning of territorial,
sneaking and grouping tactics is 0.61, 0.31 and 0.11, respectively. The
estimate by isozyme analysis supported the behavioral estimate using pair
spawning equivalents. However, both ways of estimating disregarded the
negativesizedependenceinmatingsuccessforthesneakingtactic.
Success of individual males
First, success of individual males was estimated from behavioral data
by using pair spawning equivalents. I estimated the mating success per
spawningof30markedmalesbymultiplyingtheratioofmatingtacticsused
byeachindividualbysuccess(0.61:0.31:0.11)
perspawningineachtactic.
The switchpoint of alternative reproductive tactics was an approximately
35 mm body length. Total success rate per spawning correlated with
standard body length for each individual(Kendall’s rank correlation, τ=
0.6328, z=4.911, p<0.001)
. The relative mating success of each individual
was calculated by multiplying the estimated success per spawning by
the number of observed spawnings for each individual. In the 30 marked
individuals, there was a positive relationship between mating success of
individualsandstandardbodylength
(τ=0.2907,z=2.256,p<0.05).
The switchpoint between alternative reproductive tactics was
approximately 36 mm. The total success rate per spawning for each
individual is shown in Figure 3-d. The relative mating success of each
individual was calculated by multiplying his estimated success per
spawningbythenumberofobservedspawningshemade.Inthe30marked
individuals, a significant correlation was not indicated between mating
successofindividualsandstandardbodylength(Kendall’srankcorrelation
test,τ=0.2072,z=1.588,p>0.1;Figure3-e)
.
−35−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
Figure 3
Relationship between mating success per spawning in tactics(a: territorial; b: sneaking;
c: grouping; d: total)and standard body length on the marked males(n=30)based on
isozyme analysis. And(e)relationship between relative mating success and standard
bodylengthonthemarkedmales(n=30).
DISCUSSION
Reproductive strategy
Inthisstudy,malerosebitterlingsemployedmatingtacticsdependingon
therelativesizeandnumberofencounteredopponents.Markedindividuals
undoubtedly employed plural mating tactics depending on the social
situations. Thus, each individual is genetically monomorphic for deciding
the adopting tactics. In the present population, the average reproductive
success of alternative mating tactics was not equal, and the switchpoint
was approximately 36 mm of standard body length. The success of both
territorial and sneaking tactics at the switchpoint was equal. Accordingly,
−36−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
itissuggestedthatthereproductivestrategyoftherosebitterlingcouldbe
takentobeaconditionalstrategy.
However,infact,thereexistbothpairspawnings,inwhichsize-dependent
selectionleadstomatingsuccessofalternativetactics,andgroupspawnings,
in which size-dependent selection scarcely operates in the rose bitterling.
Therefore, it is suggested that the reproductive success of each tactic
dependsnotonlyonrelativesizebutalsolocalpopulationdensity.
Recent findings suggest that almost all alternative reproductive
phenotypesareduetoalternativetacticswithinaconditionalstrategy
(Eadie
and Fryxell, 1992; Karino, 1993; Brockman, 1994; Emlen, 1994; Taborsky,
1994, 2008). A complete theory for the evolution of alternative tactics has
yet to be developed. Gross(1996)insists on the need for new theoretical
modeling to combine frequency -and status- dependent selection and solve
fortheirjointequilibrium.InGross’smodel,whenthefitnessesofalternative
tactics are functions of both the frequency of the tactic and the status of
the individual, the switchpoint that evolves must balance these two often
opposingselectionpressures.
Intherosebitterling,ifterritorieswerealwaysmaintainedbyterritorial
males, a switchpoint between the alternative tactics would usually exist.
However,groupspawningexistsandtheswitchpointmaydisappearinthis
form of spawning. Since local male population density influenced spawning
patterns, one has to consider the special effects of local male density on
successforalternativematingtacticsofthisspecies.
Severalexamplesofswitchpointadjustmenttoecologicalevents,including
local density and/or operational sex ratio, exist(Eadio and Fryxell, 1992;
Radwan, 1993; Carroll and Corneli, 1995; Lucas and Howard, 1995; Gross,
1996). In the acarid mite, Caloglyphus berlesei, which has fighter and nonfighter male phenotypes, not only does density influence the potential
−37−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
success of the alternative tactics, but the individual choice of tactic is
sensitivetothedensityaswellastobodysize(Radwan,1993).Eadieand
Fryxell(1992)considered combining frequency -and density- dependent
selection, and developed a simple model to explore the alternative female
breeding tactics in a cavity-nesting bird, the Barrow’s goldeneye. Their
results showed that there was a density threshold above which frequency
dependenceplaysaprominentrole.Inshort,successofalternativetacticsis
equalataspecificdensitythreshold,butnotequalatotherdensities.
In this study, the average number of males per territory within the
study area was 3.0(the average number of males/the average number
of territories=23.7/7.73)
. This average number corresponded with local
maledensity(3males)
whenthesuccessofterritorialandsneakingtactics
were approximately equal in the tanks. This coincidence involved the fact
thattheaveragenumberofmalesperterritorywithinthestudyareawas
affectedbythereproductivesuccessofthemales.Anditissuggestedthat
an ESS switchpoint of alternative mating tactics is a 36 mm body length
withanabove-3.0maledensityinthisstudypopulation.Accordingly,despite
aconditionalstrategy,theaveragesuccessofalternativemaletacticsmight
beadjustedtobeequalaboveamaledensitythresholdwhereintheaverage
numberofmaleswithinaterritorywasapproximately3.0.
Inotherpopulationsoftherosebitterling,ithasbeenestimatedthatthe
life span for most male individuals dose not exceed two years(Solomon
et al., 1985)
. In this study, the males’ length of visit to the observed
spawning site did not correlate significantly with their body size. If most
males participate in mating during only one breeding period, small type 2
sneakersandlargeterritorialmaleswouldbeequivalentinlife-timefitness
in the study population(Kanoh, 1996)
. Presented data and the mentioned
reportssupportedanewmodel,thatis,modifyingGross’smodelineffectof
−38−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
density on interaction between frequency -and status- dependent selection
foralternativereproductivemaletacticsintherosebitterling.However,at
thepresenttime,Ican’tdeterminethelife-timefitnessoftherosebitterling
frommyempiricaldata.
On the other hand, as the average operational sex ratio is 3.3 in this
studyarea,itcanbecalculatedthatapproximatelyone-thirdofthefemales
in a pond will visit a spawning site(1/(operational sex ratio of spawning
site/operational sex ratio of whole pond)=1/(3.3/1.2)
≒1/3)
. In short, this
averagemaydependonthespawningcycleoffemalerosebitterlings.
Further, to explain the occurrence of the grouping tactic, we must
compare the cost-benefits in local and non-local situations. Locally, the
groupingtacticcanbeawaytomakethebestofabadsituation,butfrom
a universal point of view, the success of the grouping tactic for individual
males will be relatively low. Why does such a difference of success occur
between local and non-local situations? The difference may be related to
finite information among individuals. In the future, it is necessary to study
theinteractionofmalesandfemalesoftherosebitterling.
ACKNOWLEDGEMENTS
I would like to thank Y. Nagata and M. Imafuku for critical comments
and stimulating discussion on this work. I am also grateful to M. R. Gross,
M. Hori, S. Mori, M. Kon and K. Maekawa for critical reading, advice and
commentsonthismanuscript,andtoJ.L.Yohay,L.Ethier,andS.Kanohfor
editingassistance.IamindebtedtocoworkersatOsakaKyoikuUniversity,
O.SaitohandmembersoftheBiologyclubofSeifuHighSchool,T.Endoh,
Y.Atarashi,andY.Takawashi,fortheirassistanceincarryingoutthefield
study.
−39−
territoriality,sneaking,andgroupingtactics(Kanoh)
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−42−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々
~新聞連載 「座談会 アメリカ民主主義」を題材に~
三 井 愛 子
1.はじめに
1)研究の目的
本稿は、戦後日本におけるアメリカ観の形成がどのようにして行われたか
を調査・検討するために、戦後日本の民主主義がどのようにマス・メディア
で取り上げられてきたのかを当時の主たるマス・メディアである新聞を対象
にした考察のひとつである。
現在のメディアでは、近隣諸国との関係が過去最悪であるとか、日本社会
が右傾化しているとか騒がれる中、その反動であるかのようにこれまで以上
に「民主主義」を改めて問い直すような様々な方面からの様々な方向性を
持つ言論が、より多く取り上げられているように感じられる。アラブ社会の
民主化運動に活用されたソーシャル・ネットワークをはじめ、情報を伝達す
るメディアを中心に民主主義をめぐる多様な動向がマス・メディアにも多
く取り上げられている。日本国内での「民主主義」に関する議論も大手マ
ス・メディア以外の、より直接的な発信・発言の場であるソーシャル・ネッ
トワーキング・サービスなどを使って活発化しており、この点でも「民主化
(democratization)
」
「民主主義(democracy)
」はある種の世界的規模の動向
ともいえるかもしれない。そのような中で戦後日本の民主主義を問い直すよ
うに、
「なぜ日本はこうなったのか」という現在の日本のあり方を論じるもの
も内外を問わずいくつも登場している。そこには戦後日本で形成されてきた
アメリカ観の見直しというものも一部含まれており、憲法改正などの議論で
もよく使われるひとつの要因ともなっている。では問い直されつつある戦後
−43−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
日本の民主主義の原点はいったいどこにあるのかということを考えると当然
行き着く2つの地点がある。1つは明治政府による限定的に行われた民主化
であり、2つめは1945年8月15日の敗戦に伴った民主化への外部からの影響
力を主体としたものである。
日本が現在の民主主義体制に入ったのは1945年8月15日の敗戦以降のこと
である。この敗戦の日から1945年が終わるまでのわずか数カ月の間に、日本
のその後の方向性の多くが示されていった。1945年はまさに現代日本の出発
点といえる時である。その新たな社会体制である民主主義と言論活動、特に
「言論の自由」は切っても切れない関係にあり、そこには必ずマス・メディア
の存在がある。さらに付け加えれば、社会教育とマス・メディアの関係も同
様である。そこで本稿では戦後最初にマス・メディアが民主主義について取
り上げた事例として、
『朝日新聞』掲載の「座談会 アメリカ民主主義」を調
査・検討の対象とし、改めてこの出発点について考察するものである。当時
の新聞は給紙制限のため紙面が非常に限られていた。にもかかわらず、なぜ
このような連載が4日間にわたって、紙面の1/4ほどを使って行われたのか、
その記事と登場する人物をひとつの法則をもとに調査・検討を行った。
2)研究の方向性
本稿では『朝日新聞』に掲載された連載記事と特にその座談会で対談した
5名の人物の来歴に焦点を当てている。その理由として、前述のように戦後
の新聞記事の中で“最初に”民主主義を取り上げたというだけでなく、内容
や量など他の複数の要素がより重要なのではないかということが1つ目にあ
げられる。2つ目に、この座談会に登場する5人の人物には様々な共通点、
共有される要素が見られるという点である。それぞれの人物は戦後になって
いきなり登場したわけではなく、それ以前から日本社会の中でその存在が広
く認識されていた人びとである。その特徴が座談会の開催及び内容の背景に
なる部分に一つの大きな流れを作り出していると思われるため、これら座談
会メンバーが語る終戦直後の日本における「アメリカ民主主義」がどのよう
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
なもので、何を目的としたのかを検討してみたい。
3)基盤となる情報の構造
戦後日本のアメリカ観の形成過程に関わるこれまでの研究において、一般
的に情報発信には1つの法則があることを述べてきた。情報には発信する上
で、目的・内容・タイミング・効果という4つの要素がある。そして特に内
容には「質」
・「量」の2つの成分が含まれる。これらの要素の関係を表すと
以下のようになると考える。過去に発表した論文では数式のように表してい
たが、様々な改善の指摘をいただき、下のような図に改良した。
情報には発信されるための目的があり、その目的がすべての要素に影響を
及ぼす。それは日常的なレベルでは発信側が意図しなくても、何らかの形で
受信した側がその意味を受け取ることから、目的の部分は「意味」または 「
意図」と言い換えてもよい。マス・メディアを主要な媒体とする場合、情報
は目的もなく発信されることはないと考えてよいため、ここでは 「目的」と
いう言葉を当てはめておく。
「意図」という言葉も類似の意味を持つため、場
合によっては使うことができるだろう。
内容は、情報の質と量で大きく変化する。情報の内容を判断するには、情
報を理解する側に十分な知識が必要になるが、我々の社会生活において多く
の場合マス・メディアからの情報とそれまでの知識の蓄積が発信された情報
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
の理解・解釈の基盤になる。そう考えると、情報の「質」および「量」は、
情報を理解する側の質、ある意味では「理解者としてのレベル」と深い関係
を持つことになる。発信される情報の質の高さ・低さが意図的に調整される
ことは当たり前に行われているため普段あまり注目されることは少ないが、
ことの重要性をあまり知られたくない場合、意図的に情報の質を下げること、
わかっていても発信しない情報がある。また、質の高い情報を大量に流せば
レベルの高い理解者が増えるというものでもなく、逆に質の低い情報ばかり
を流せば当然だが理解・解釈をもとにした判断力は社会的には形成されにく
いだろう。それは温水、
冷水の出る蛇口のようなものである。風呂に入れた時、
熱すぎれば(質が高すぎて理解できなければ)中に入って温まること(提供
された情報は使い道)に困る。冷たければ(あまりに簡易な情報だけを提供
すれば)手を入れてみるだけで入ることはできず(理解の範囲は非常に狭く)、
少しずつ慣らすことはできるかもしれないが、決して望んだものとは異なっ
てくる
(理解の度合いは低く狭い中ですぐに上限に達してしまう)。ところが、
常にほどよい温度のお湯をたくさん使えば(わかりやすいレベルの情報を大
量に流せば)
、刺激になれて感じなくなるように、その状況に慣れてしまう。
そのため重要性を判断することは難しくなってしまい、情報の価値が損なわ
れる場合も考えられる。そのため、いずれは見向きもされなくなるだろうし、
そんな情報ばかりを得ている社会の質と価値は低下することになる。このよ
うに、質と量は1つの重要な要素である。
また、情報を発信するタイミングは様々な部分での決定的な意味を持つ要
素である。とても重要な情報を、人があまりふれることのできない時間(深
夜や人の働いている昼間)に、限定的な媒体で流せば当然だが重要性への認
識は期待できるものではない。あまり知られたくないが、発信しておかない
と後で問題になる場合は発信したという事実だけを残すということが目的と
なるためこの方法が効果的だろう。より多くの人が触れることのできるタイ
ミングであれば最大限の効果を生みだすことも可能になる。このように情報
を発信する側が望む効果を得るのに最適なタイミングというのがある。
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
いつ、どのような媒体に、どれだけの情報を流したのか、というのは単に
視聴者・読者のみを対象としているわけではない。背後にいて影響力を持つ
スポンサーや社会的権力に向けてのプロモーションやパフォーマンスである
場合も考慮する必要がある。巨大スポンサーの広告をあまり人が見ない場所
や時間帯に流したり貼り出したりはしない。報道でも同じことがいえる。本
来は視聴者・読者が最大のスポンサーであり、支援者であり、クライアント
であるべきだが、実際には巨大企業や社会的に影響力の強い組織である場合
がおおく、たとえばそうした組織に悪い影響を与える事実は、何かしら関連
性のある情報を報道したとしても、手中の情報のすべてではなく流さない情
報がある場合や、繰り返し及び継続的に行わない場合もあり、人のあまり見
ない場所や時間帯などを選ぶことも可能である。また一般的な報道番組では
最初の方に流すのではなく、ある程度順位、順番を下げて報道すると言うこ
ともできる。
当たり前のことといえば当たり前のことだが、我々一般的なメディアの利
用者はとっさの時にこうした当たり前を置き去りにしてしまうことがある。
能動的でありながら「慎重で賢いメディアユーザー」であることが今後求め
られる視聴者・読者のありかたであるとすれば、1つの流れの中の異なった
時代の報道を分析する上でも重要な役割を果たす1つの法則として前掲の図
式は、活用できると考える。今後メディアのあり方が変わり、社会的な価値
観の変化によって変更は必要になるであろうが、現時点での有効性は十分に
得られているものと考える。
本稿ではここで提示した法則に基づいて、今回の調査・検討対象であった
「座談会 アメリカ民主主義」をいくつかの角度と分野に分けて考察してみ
た。敗戦の前と後の日本政府を区別するために、新政府ができるまでの日本
政府をあえて「帝国政府」とする。敗戦後の政府については「新政府」
「日本
政府」などの表現をつかう。
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
2.「座談会 アメリカ民主主義」とその時代背景
1)敗戦直後の新聞
戦時における日本のマス・メディアが厳しい言論統制の下に置かれたこと
は、すでに多くの研究がなされてきた。本稿ではそれら多くの研究で明らか
にされた事柄を参考に、占領期の言論監理について考察してゆく。戦前から
占領期にかけて監理する側は変わったが、新聞の発行はすべて監督機関の下
で管理されていた事実は変わらない。全国紙は『朝日新聞』『毎日新聞』『読
売新聞(読売報知:当時)
』などが中心であり、地方紙は各県1紙、用紙もす
べて配給制であり、すべて事前検閲が行われていた。極端な物資の不足によ
り、敗戦後の日本の新聞は特別に認められたり指示されたりしない限り1枚
のみで裏表2面の新聞である。
戦前から内閣情報局1が中心となって、日本のマス・メディアは管理統制
されていた。内閣情報局の活動については、高桑幸吉著『マッカーサーの新
聞検閲』2 にいくつもの興味深い記述がある。高桑によると、GHQ からの指
定された情報や特定の事柄であっても、ある部分は書いてもよいが、ある部
分についてはふれないようになどといった細かい指示が1945年9月末まで続
いた。一方で、GHQ もまたマス・メディアに対しての直接支配を始めており、
この双方の方針が正面からぶつかったのが9月27日の天皇のマッカーサー訪
問時の写真の掲載の差し止め、および解除に関わる指示、指令の攻防である。
この写真の出所は、アメリカ人記者グループの入手したものが各新聞社に流
されたものであるらしい。この写真は内閣情報局がすでに通達していた、
「宮
内省発表および記事資料並びにマッカーサー司令部発表以外に取り扱わざる
ようご注意相成たし」3という通達に反するものであった。内閣情報局は、こ
れに対して「厳重注意処分に値するが如きものは断乎発禁の挙にでる方針」
という8月16日に出された通達が発動され配布の禁止となったが、GHQ がこ
れをただちに解除したという事件は有名である4。このように、この時期の
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
日本のマス・メディアを中心とした様々な言論・表現活動の各分野は、GHQ
と内閣情報局の二重の検閲・支配構造のもとにおかれた時期であった。
2)連載概要と時代背景:タイミング
「座談会」それじたいと記事の掲載が行われた時期の時代的背景は、言い
換えれば情報が発信されたタイミングがどのようなものであるのかというこ
とである。1945年10月というのは8月15日以降の日本において2度目の転換
を迎えたときである。これまでずっと抑圧され監理されていた言論の「自由」
を日本の歴史上初めて一般市民やメディアが公的に手に入れ、そして行使し
ていくことになるのがこの10月である。このとき、現代日本は最大の転換期
を迎えていたといってもよいだろう。そのような「タイミング」というのは
大きな「効果」を生み出すことにつながっている。そして最大の「効果」で
あり同時に課題であるのは民主化である。その中心となるのは、政府そのも
のの変革が要求されるということであった。
3)10月1日 内閣情報局の幕引き
「座談会 アメリカ民主主義」は、2ページしかない新聞の第2面におおよ
そ4分の1ほどの紙面を使って、1945年10月2日から5日までの4日間にわ
たって掲載された。実際にこの連載期間に政治的、社会的に特段表立って目
立った動きは見られない。しかし、先に1945年10月は日本の歴史的転換期で
あると述べたように表面化していないだけで、実際にはマス・メディアを中
心とした言論統制における二重の検閲・支配構造の終わりという10月1日か
ら始まっている。
『マッカーサーの新聞検閲』によると、内閣情報局からの通達が各社に届い
た。以下のものは『読売報知』に届いたものである。
差し止め解除 10月1日午後6時10分 内閣情報局
今般連合軍最高司令部よりの従前内務省、情報局より発令中の内務省差し止め
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
および記事編集上の注意事項は爾今これを解除したるにつき御承知相成たし5
高桑によると、内閣情報局は「この一見さりげない通達を最後に歴史的な
幕を閉じ」た。内閣情報局の活動については註1に記したが、GHQ の駐留が
始まった後も、新聞各社に対して様々な指示・通達をし続けていた。この通
達の中には、GHQ からの指示のあったものも日本側の検閲を受けるように指
示するものがあった。もちろん GHQ の支配力が絶対であることが浸透しつ
つある時期ではあるが、こうした二重の監理構造は日本のマス・メディアの
活動において、様々な変革と揺らぎを生み出した。毎日新聞社の民主化改革
から、朝日新聞社の「十月闘争」または「十月革命」と称される社内紛争、
そしてマス・メディア業界最大級の労働争議である「読売争議」などへつな
がっていく。
4)1945年10月5日 東久邇宮内閣解散と幣原喜重郎内閣の成立
連載の最終日10月5日は最後の皇族首相内閣である東久邇宮稔仁内閣が
解散した日である。当初空席だった文部大臣の席であったが、しばらくして
後に「座談会」のメンバーでもある前田多門が東久邇宮内閣の文部大臣に就
任している。10月9日から発足した幣原喜重郎新内閣では、外務大臣吉田
茂、陸軍大臣下村定、海軍大臣米内光政、厚生大臣松村謙三、そして文部大
臣前田多門が前内閣からの留任となる。松村謙三のみが厚生大臣から農林大
臣に代わるが、吉田、下村、米内、前田は引き続き同じ大臣の職に就いてい
る。これらの人物が留任することになった理由があるはずである。本稿では
前田多門のみをとりあげるが、前田は GHQ とも決して悪い関係ではなかっ
たようである。特に教育問題においては、民間情報教育局長 K.R. ダイク准将
(Kermit R. Dyke)の提案により、前田自身の公職追放後に行われた米国教
育使節団の派遣と、教育刷新委員会の設置に関わる合意が両者の間でなされ
ていたようである。このように、GHQ との協力関係を持つことのできる前田
の幣原内閣での留任は不自然なものではない。
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
5)1945年10月5日 GHQ より各新聞社に事前検閲の通達
GHQ による情報監理体制については前から計画されており、綿密に作られ
たその計画を見ると、いかにアメリカが多様な方面からの日本統治について
研究していたかがわかる。進駐からおおよそ1カ月後のこのとき、大手新聞
社を中心に、新聞各社への事前検閲の通達が行われた。日本の降伏が予想よ
りも早まったこともあり、すでに準備されていた計画の手直し、人員の確保、
さらに検閲部の作業場所の確保を少なくとも新聞流通の範囲にあわせて設置
する必要があった。この時点で準備が完全ではなかったとしても、すでに充
分に活動できる状態であったことがわかる。
10月5日までにすでに多くのマス・メディアに関わる多くの指令が出され
ており、その方針は概ね各社に伝わっていた。言論に関する主な通達でマス・
メディアに直接関連するもので、これまでに多くの研究が行われてきた。「言
論及ビ報道の自由ニ関スル覚書」
(9月10日)
「日本ニ与フル新聞遵則」
(9
月19日)
「新聞ノ政府ヨリノ分離ニ関スル覚書」
(9月24日)の3つはメディ
ア学分野でも占領期の研究においても最も注目された指令である。
検閲そのものについては戦前から日本政府が行っていたため、日本のマス・
メディアもある意味慣れているといえる。ところが日本政府の検閲と GHQ
による検閲には大きな違いがあった。日本政府の行った検閲では、論文その
ものを発禁処分にしたり、ある部分を削るとそのまま空白になったり、伏せ
字などを使っていた。そのため読み手にはどの部分が検閲の対象になったの
かがわかった。ところが GHQ の検閲ではその痕跡が残らないように行われ
たのである。こうした GHQ の監理手法により、国民は言論統制について多
くを知ることができずにいた。
6)1945年10月9日から幣原喜重郎内閣の発足、および新聞の事前検閲の
開始
GHQ による占領統治の体制が固まりはじめると、方向性の大枠と手法が
徐々に明らかになり始めるのがこの1945年9月末から10月の初旬である。こ
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
の時期の覚書・通達は言論関連のみならず、多種多様なものが毎日のように
出された。その中で GHQ による事前検閲が通達されたのは同年10月5日で
あり、その4日後の10月9日から大手新聞社を中心として実際に検閲が開始
される。
内閣情報局の事実上の廃止、様々な覚書や通達、帝国政府の発行した軍国
的な法律の廃止、そして組閣のし直しなど、すでに GHQ が強い影響力を発
揮しはじめていた。間接統治の最初の段階ではあるが、GHQ の意向を受けた
内閣が組閣されたと考えるのが当然であり、戦後2番目となった幣原内閣も
また長くは続かなかった。1945年12月18日に衆議院が解散され、戦時色の一
掃が図られた。ただし GHQ は日本側の消極的な民主化への改革姿勢を理由
に総選挙の期日を延期する。翌1946年4月10日に総選挙が行われ、大敗した
ものの第2次幣原内閣の存続を図ったが、野党の激しい反発と身内からの離
反などにより、結局1946年5月22日までの短命な内閣となった。政治も社会
も経済も国民には全く見通しがつかない時期であったろう。そのようなとき
に情報の重要性が社会の中で高まる。その大切な情報が検閲により監理・統
制されていたのであるから、日本人の戦後の思想、思潮はまさにここから始
まったのかもしれない。
3.座談会の5人
1)質的要素(1)
:人物
この連載には当時様々な形で社会的影響力のある5人の人物が登場してい
る。
『朝日新聞』の連載に紹介された順番に従うと、前田多門、賀川豊彦、西
山勉、伊藤道郎、そして朝日新聞社の編集主幹であった細川隆元である。こ
の5人はそれぞれの分野が異なるとはいえ、日本と他国、特にアメリカとの
関係をつなぐ上で重要な役割を果たした人物たちであり、当時の第一線にい
た「知識人」であり「要人」である。質的要素を考える場合「なぜ」これら
の人物が選ばれたのかという点が重要になる。
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
大井浩一は「メディアにおける知識人」について次のように定義している。
ある程度多くの人びとにとって意味のある(あるいは魅力的な)見解や表現の「内
容」をもち、かつ、それを提示する的確な「言語表現力」をもつ人物6
この定義に加え、終戦直後のこの時期は特に「社会的権威または信頼のあ
る地位なり、社会的位置づけのなされた人」である必要があり、さらにこの
時期の場合「日本政府にも GHQ にも認められている人物」であることが求
められる。公的な職に就いているという面では前田と西山は新政府の主要な
人物である。しかし後に「公職追放」の対象となることを考えると、戦前・
戦中の言動及び社会的地位が問題になったのであるから、GHQ に認められて
も GHQ の定めたルールの適応を免れることはできなかったわけである。こ
れら座談会の5名の来歴については、この後詳しく検証するが、様々な要素
が背景に見えてくるのは非常に興味深い。
ここからは主に登場人物の来歴などについて個別に検証してみる。順序は
『朝日新聞』が紹介した順に従う。記載内容および量については人物によって
大幅に異なる。
「アメリカ民主主義」を語り実践する上でより大きな役割を果
たしたと思われる人物の来歴や過去の言動の詳細を記載した場合もあり、ま
たすでに十分な先行研究がある場合はそれらを元に簡潔にまとめたものもあ
る。前田、賀川、細川に関しては著書も多く個別の研究も多くなされている。
本稿に何らかの関係、影響のある時期をランダムに選んで取り上げるため、
人物によって調査・検討の方法と結果に多少の差異があることを断っておく。
(1)前田多門(文部大臣)
前田多門は東久邇宮内閣、及びその後継内閣である幣原喜重郎内閣での文
部大臣である。前田多門は戦後日本の教育基盤を築いた人物として本稿の研
究目的においても非常に重要な対象である。前田は文部大臣就任直後からラ
−53−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
ジオ、新聞などマス・メディアに多く登場し国民に対して教育の面から戦後
日本の方向性を示している。GHQ からの至上命題ともいえる民主化には教育
の担う役割は最も重要であり、文部大臣の発言は疑うべくもなく多大な影響
力を持つ。そのため、就任から公職追放に至るまでに文部大臣前田多門の発
した言葉は慎重に検討する必要がある。
前田多門について『朝日新聞』は1945年8月19日に文部大臣就任の際に次
のような紹介記事を掲載している。
…新文部大臣前田多門氏は内務官僚として経験を持ち且つ新聞人として、國際人
として多彩な経験の持ち主である、明治四十二年東大獨法科卒、静岡縣駿東郡郡
部長を振出しに内務省地方官局課長、東京市第三助役、国債労働局政府代表、駐
佛大使館参事官を経て朝日新聞社に入り約十年間論説委員として筆陣を張り退社
後ニューヨークの日本文化会館館長として我が国文化の紹介に努め大東亜戦争勃
発後交換船で帰朝、昭和十八年東条内閣の下に地方行政協議会設置されるや新潟
県知事に就任、北陸地方行政協議会会長を兼ね、本年二月同協議会解消と共に新
潟県知事を辞任、貴族院議員に勅任された、大阪府出身、本年六十二歳
7
就任後の履歴については、
『歴代の文部大臣』
に次のように記されている。
前田多聞:東久邇宮内閣文部大臣 昭二十 . 八 . 十八~二十 . 十 . 九
幣原内閣文部大臣 昭二十 . 十 . 九~二十一 . 一 . 十三
まえだ・たもん。大阪府、前田喜兵衛の長男。明治十七年五月生。明治四十二年、
東大法科卒。群馬県利根郡長、内務省都市計画課長、東京市助役、東京朝日新聞
論説委員、ニューヨーク日本文化会館長、新潟県知事、貴族院議員を経て、昭和
二十年、文部大臣。後に社会保険制度審議会委員。日本ユネスコ国内委員長。大
日本育英会会長。なお大正十二年から四カ年、国際労働機関日本代表としてスイ
スに駐在。
−54−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
前田は東京大学予備門から改称された第一高等中学校の嘱託教員を務めた
札幌農学校出身(明治38年卒)の内村鑑三から聖書を学び、第一高等学校に
おいて新渡戸稲造の薫陶を受けた人物である8。キリスト教の教えを理解し、
晩年にはキリスト友会(通称クェーカーと呼ばれる)の一員となっている。
イギリスを始まりとしたキリスト教の一派であり、世界規模でもそれほど大
きな集団ではないが、アメリカ東部のフィラデルフィアには現在も一大拠点
があり、GHQ の幹部クラスにも多くこの信者がいる。こうした背景も戦後の
日本において少なからず影響しているといえるだろう。内村鑑三のもとで学
んだ一高生、一高卒業生の集まりを内村は「柏会」と名付けた。この柏会の
主要な顔ぶれのひとりが前田多門であり、ほかに後の同盟通信社長岩永祐吉、
宮内庁長官田島道治(元ソニー株式会社会長)
、厚生大臣鶴見祐輔、前田の後
任となる文部大臣田中耕太郎などがいる9。これらの人物とは別に、内村の
薫陶を受けた人物で、前田が公職から追われた後に、文部大臣となった安倍
能成、天野貞祐もともに一高の卒業生であり後年校長でもあった 10。新渡戸・
内村共に W. S. クラークの札幌農学校系列の人物であり、内村はクラークの
出身校でもあり、同志社大学の新島襄が学んだアマースト大学に留学してい
る。つまり内村は古典的なアメリカ型の人文・科学教育を受けており、こう
した人物のもとで前田多門が学んでいるということは、アメリカ政府にとっ
て好ましいといえる人物が教育を指導してゆく立場にあるということになる
と考えることができる。また前田は新渡戸稲造との関係は多くの関係者が語
るほど親密であった。
前田多門は1928年(昭3)から10年にわたり『朝日新聞』に論説委員とし
て在籍していた。後述する細川隆元が戦前戦時の朝日新聞社についてその著
書でふれているが、その中で前田多門は敗戦時に情報相であった元朝日新聞
の緒方竹虎に請われて入社し、幹部候補と目されてきたが定年とともに朝日
新聞社を去ったと記されている 11。この当時、同じく論説委員室には柳田国
男などがいた 12。5.15事件の判決に関する社説、及び軍国化してゆく日本の体
制を批判したことが原因となり、朝日新聞社を退社し、1938年にニューヨー
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
クの日本文化会館館長となって渡米する 13。その後、戦争が始まったために
1943年に第一次交換船で日本に帰国している。帰国後の前田多門は、東条内
閣のもとで新潟県知事、その後勅撰で貴族院議員など常に帝国政府に近い場
所にいたのである。こうした背景からも前田多門が実際には世界の流れの中
にある日本の位置を見定めることのできる国際派でありながら、その一方で
体制の本流の中で日本の政治家の路線を忠実にたどってきている。
文部大臣に就任してから、前田多門は新聞・ラジオに少なくとも2度登場
している。2度とも少年・青年層にむけて文部大臣として今後の教育の方向
を示す放送であった。本稿ではラジオにおける発言の要旨は、主として新聞
紙面で掲載されているものを取り上げる。
1945年8月18日に文部大臣に就任した前田多門について「政府は戦後にお
ける思想教育行政の重大性を鑑み至急専任文部大臣の設置の方針を持って臨
み銓衡の結果、前北陸地方行政協議会会長貴族院議員前田多門氏を専任文相
に奏請することとなり…」として、その選任理由をあげている。「思想教育行
政」とは民主主義思想を定着させ、軍国的・超国家的思想の廃絶が日本の課
題であるということを意味し、ここから考えると当時の政界からの人選は非
常に難しいといえる。
若年層に対する様々なレベルの教育はやはり学校などの教育機関が重要な
役割を果たす一方で、時代を経たとしても教育機関を離れた一般国民のため
にマス・メディアが果たす教育的役割は欠かすことのできない責務でもあっ
た。社会におけるものの考え方を形成するというその役割を考えれば、マス・
メディアと学校の果たす役割は個別に考えることが難しい面がある。そのつ
ながりの一面として、マス・メディア出身の政治家の存在があげられる。井
上久雄は『歴代の文部大臣』14で次のような特徴をあげている。歴代の文部
大臣をふり返ると戦前では西園寺公望が『東洋自由新聞』出身であることを
はじめとして七名の文部大臣が報道機関出身であることがとりあげられてい
る。また、戦後では松村謙三が『報知新聞』
、前田多門が『朝日新聞』である。
これらの人物以外にも新聞社出身の大臣や政治家は多くいるが、こうした関
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
係は時代を背景とした特徴としている。多くの文部大臣が海外への留学や出
向などの経験を持ち、その多くの人物が海外への出向を自ら志願しているも
のが少なくないという 15。教育に携わる人間は、社会を多角的にとらえるこ
とのできる経験と素質が必要であるという理由であれば、マス・メディアに
おいて論説委員などの役職を経験している人物、海外での教育を受けた経験
のある人物が適当である場合が多いと考えられたのかもしれない。その一方
で、国外へ出ることに厳しい制限があり教育機会にも様々な制約があった当
時において、大学などでの教育がうけられ海外にまで出かけることのできる
人物はそれほど多くはない。つまり、それだけの社会的な特権や資産を持つ
非常に限られた人にのみひらかれた道である。前田多門はここにあげられて
いる政治家として、また文部大臣としての特徴をもち、日本に要求されてい
る欧米型民主主義を充分に理解している人物と目されたことは不思議ではな
い。
就任の発表のあった翌1945年8月19日、前田多門の考えを表す文章が『朝
日新聞』に掲載された。
「思考力を昂揚 基礎科学に力注ぐ」
(
『朝日新聞』1945年8月19日1面)
前田新文相は18日午後初登庁、抱負に訓示ののち記者団と会見したが、戦争終結
後の文教の諸問題について左のやうに語つた
我が国は今後ポツダム宣言を履行せねばならぬが、ポツダム
戦後教育の大本
宣言には教育のことについては一句も云々してゐない、宣言をそのやうに広義に
解釈出来るとすればわが方としては一日も早く態勢をはつきりときめてかかつて
毅然たる態度を持し、先方の誤解を解かねばならない、教育の大本は勿論教育勅
語をはじめ戦争終結の際に賜うた詔書を具体化していく以外にあり得ない、その
線に沿つて今後教育の諸問題を解いていきたい
単なる科学だけの分野ではなく広く文化をもひつくるめたもの、日
科学教育
本人のしまり思考力といふものをもつと昂揚していきたい、原子爆弾をただ凌駕
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するものを考へていくといふやうなことでなくもつと大きなものをきづいていき
度い思ふと同時に基礎科学をももつと深くやつていきたい、また自然科学だけを
奨励して人文科学を考へないのは人類への罪悪である、日本を除く世界は人文科
学の歩みが自然科学よりも遅れてゐるのである、この際日本は文弱ではいけない、
大きな教養を世界に範として示していくのが途である
ここからわかるのは、前田多門は一方に明治天皇の示した「教育勅語」、も
う一方に人文科学を含む「科学教育」を掲げている。上記の文の下から3行
目にある「日本を除く世界は人文科学の歩みが自然科学よりも遅れてゐるの
である」としている部分について、日本の人文科学が進んでいるとする根拠
がこの短い文章では明確ではない。ただ、自然科学分野に敗戦原因がある点
を強調している政府としての立場には則したものではある。
就任してからの前田多門は『座談会』よりも前に文部大臣としてラジオに
2度登場している。疎開中の学童に向けたものは8月27日に、青年層に向け
た放送は9月9日に行われた。
1945年8月27日夕刻に、学童達に向けて行われたラジオ放送では「少國民
へ告ぐ 前田文部大臣が放送 さあ、新しい元氣で いゝ體、智慧を磨きま
せう」として敗戦後の日本の混乱と不安を少しでも和らげるために、親元を
離れて暮らしている子供達に向けて放送されたものである。この放送は、今
すぐ廃墟と化した日本を背負わなければならない青年層に向けたものではな
く、その次の世代である少年層を対象としたものである。放送された内容の
全文は明らかではないが、新聞に掲載されている要旨からおおよその事が判
断できる。
戦争の終結をロシアの参戦、原子爆弾等を理由に天皇が国民の生命を思い
「尊い御仰せに従って今まで武器をとって勇ましく戦っていた兵隊さんは残
らず戦をやめることになった」として戦争が終結したのは天皇が国民の生命
を大切にしたいと望んだからであるとしている。そして、
「私どもは謹んで
−58−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
御詔書を承り、御示しになりました通り、致さねば」ならないとして、戦後
の社会を生き抜く子供達に直接かかる負担に耐えて国の再建に尽くすように
促している。そのために、
「学問を起し、みんなの道徳心を高め、世界の人々
が将来日本の気高さに感服してくれるように」これまで以上に勉強せよとし
ている。そこであげられた3つの点は次の部分を強調しているとおもわれる。
① これから一層天皇陛下の有難いことを悟ってその仰せによく従い、思召
しのままに動くこと
② 戦 をやめたらさっぱりとして相手の手を握る武士道のしきたりを守り、
自分さえ良ければよいという気持を持たず、両親や兄弟の苦労を自分の
身にも分かち苦労をいとわず元気に仕事をすること
③ ど んな苦しい中でも仕事をやり通して、立派な日本を立てるためには、
身体を逞しく鍛え智慧を磨き上げねばならない
こうした苦労をどうして彼らが背負ってゆかねばならないのかということ
についてはふれた様子はなく、ただ間違いなく直面する厳しい現実を、天皇
の望み通り耐えて生き抜けと言い続けることにとどめている。
続いて9月9日に前田多門は青年層に向けたラジオ放送を行った。青年層
は、戦争にいかなかった世代が中心であり、青年といっても現在では少年に
あたる世代と考えることができるのではないだろうか。この「青年」は、そ
の成長を待ってもらうことすらできないまま、大混乱の社会経営のための重
要な働き手である。この放送の記録については、
1945年9月10日の『朝日新聞』
の2面に掲載され、また『歴代文部大臣式辞集』16にも全く同じものが記録さ
れている。放送が何分にわたって行われどのような番組の中で行われたのか、
これらの資料からは明らかではない。
ここで、前田は「武士道」をあげて自己の規律を呼びかけている。前田が
強く影響を受けたと考えられる、新渡戸稲造、内村鑑三の両者は「武士道」
については最も著名な近代の推進者であり、両者共にキリスト教との関係を
−59−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
主張していたのである。新渡戸は国際的な著書『武士道』でも有名である。
両者の考えの中には、西欧社会のようなキリスト教を中心とした社会とは若
干異なり、日本では宗教の代わりを充分につとめうる倫理・道徳の役割を果
たしたとしており、前田はこうした2人の影響を強く受けている 17。
青年向けのラジオ放送で語られた中に次のようなくだりがある。
戦争中の戦線および銃後における諸君の勇戦奮闘と尽忠報国に対する感謝感激は
真に言葉に尽くせないものがある、流石は学徒ばらではと思はるる大きな業績を、
諸君は、男女を問はず、あらゆる方面において挙げた、然るにも拘わらず、この
敗北を見、諸君を窮状に陥れたのは、吾等先進者の深く自責せねばならぬところ
である、しかし、転禍為福は何時如何なる場合にも考へねばならぬところである
ここに見られる「吾等先進者の深く自責せねばならぬところ」という表現
は、おそらく敗戦の責任を公に認めた非常に初期段階の発言の一つと思われ
る。しかし、この限られた紙面上でその責任について深く取り上げられるも
のでもなく、取り上げることもまた困難であったと思われるが、その直後に
は次のようなくだりがある。
諸君は今回の大詔渙発につき、不幸な出来事のうちにも、国体の有難さを見出し
たであろう、聖断一決、国民は立場と意見の相違を捨てて、みな一気に承詔必謹
の実を示した、若しかやうな事柄でなかったら、このやうな場合如何なる混乱が
起り、それこそ一国全然焦土に化すの帰結を見るにいたったかも知れないのであ
る
つまり、戦争を遂行したものは厳しく反省すべきである一方で天皇を中心
とした国体は変わることなく安泰であり、天皇の統治がなければ日本はもっ
とひどい目に遭っていただろうから国に感謝しなくてはならないといってい
る。1945年8月15日以降の日本はわずか10日間でも大きく社会が動いた時期
−60−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
である。放送のあった8月27日と9月10日の間は2週間ほどの日数しかない
が時局は大きく変化している。このためこれら2つの放送の影響は同じカテ
ゴリーで見ることはできない。ただどちらも戦後の混乱と困難の時に厳しい
生活を強いられる若年層に対して、教育を司る大臣が今後について述べるこ
とで精神的な団結を促す役割を果たすことを目的としていたと考えられる。
そこで、国家的団結の中心となり指導者となるのはこれまでどおり天皇であ
ることを改めて確認したということだろうか。構造として戦前とさほど代わ
りがないとみられるが、GHQ が占領統治をする上で天皇制の維持を効果的で
あると考えていたことは確かである。敗戦の前と後ではこの部分に大きな違
いがある。
1945年9月15日、文部省は「新日本ノ建設ニ資スルガ為メ従来ノ戦争遂行
ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ文化国家、道議国家建設ノ根基ニ培フ文教
諸施策ノ実行ニ努メ」るとして「新日本建設ノ教育方針」を発表した。これ
は、主として11の項目からなるもので、今後の日本における教育のあり方に
ついてその目的と方向性を明らかにしようとしたものであると考えられる。
項目は次の通りである。1,新教育の方針、2,教育の体制、3,教科書、4,
教職員に対する措置、5,学徒に対する措置、6,科学教育、7,社会教育、
8,青年団体、9,宗教、10,体育、11,文部省機構の改革について。
方針は軍国主義の廃絶がその基礎にあり、これまでの軍国的教育方針を改
めて文化国家の建設、世界平和と人類の福祉に貢献するといったことを中心
として、科学の発展を重視したものである。
宗教に関する部分では、特に明治以降の近代日本においては神道と皇室、
そしてその臣民というつながりを第一としてきた面があるが、
「各教宗派教団
をしてそれぞれの特色を活かしつつ互いに連絡提携して我が国宗教の真面目
を一段と発揮せしむるよう努めている」とし、特に神道を第一としていない
ところが注目に値する。一方で方針の第一項新教育の方針では、
「今後の教育
は益々国体の護持に努むるとともに…」とあり、国体の護持と宗教教育との
−61−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
つながりが曖昧なままにされている。
「新日本建設ノ教育方針」は同15日に新聞にも掲載された。文部省の公式
な方針発表としてその内容は、前田がどのような政治的な立場にあったのか
がよくわかる非常に重要な発表である。文部省の発表した重要なものである
が、これもまた限定された新聞の紙面においては要約され、要点のみを簡潔
にまとめて伝えている。ただ、編集権の持つ機能に注目すれば、掲載記事の
編集は必ずしも要約のためだけにあるわけではない。
第一項新教育の方針は「…軍国的思想及施策ヲ払拭シ平和国家ノ建設ヲ目
途トシテ謙虚反省只管国民ノ教養ヲ深メ…」とある。しかし、この文章の「謙
虚反省」の部分は新聞紙面からは削除されていた。長い一文の中でこの言葉
だけが削除されているのは意図的であると考えるのが妥当なのではないだろ
うか。なぜなら、紙面上をみれば文末には4文字を入れるだけの充分な文字
間が残されているのである。この編集が文部省によって指示されたものであ
るのか、朝日新聞社の編集部によってなされたものであるのかは明らかでは
ない。この一言が、敗戦直後の混乱と荒廃のまっただ中にある情報の枯渇状
態にある国民にとって影響力が大きすぎると考えられたのだろうか。先のラ
ジオ放送では、戦争に対する反省がわずかに示されていたが実際には「そん
なことよりも、これからのこと」という色合いが強い。同じく公式な発表・
発言とはいえ、こちらは政府の文書として正式に残されるものであり、前田
一人に帰するものではない。文部大臣が交代することになってもこの方針は
GHQ が認めるものであり、日本政府・日本の社会の方針となるわけである。
公式な方針の発令をおこなう上で GHQ から様々な指示があったと考えられ
るが、実際にその詳細が国民に知らされることはほとんどない。国民が政府
の方針を知るのは新聞での発表中心である。それが、マス・メディアの普遍
の役割であり、その上で社会権力の影響を考えれば、当該の4文字が削られ
たことに何らかの意図がある可能性は充分にある。
前田多門が「座談会」掲載以前に文部大臣として国民に直接向けて行われ
−62−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
た主な発言は以上である。これにも公開・公表されていないものがあったと
推測できるが、メディアで取り上げられたものに限定した。前田多門につい
て補足をすれば、新潟県知事であったことなどが原因となり、この後まもな
く公職追放になり、娘婿に当たる井深大(ソニー会長)らの誘いで東京通信
工業(現ソニー)の社長に就任する。そして、柏会(一高出身の会)の同窓
である田島道治(元宮内庁長官)が前田との関係で実質顧問となり、田島と
のつながりで帝国銀行(現三井住友銀行)の頭取万代順四郎が関わるように
なる。その万代と後のソニー社長盛田昭夫も長年にわたるつきあいであった
とある。ソニーの世界的な躍進の立役者として、
前田多門の存在が背景にあっ
たことがわかる 18。
(2)西山勉(終戦連絡中央事務局次長)
終戦連絡中央事務局は、1945年8月26日に設置された政府機関である終戦
連絡事務局のなかの中心となる事務局であり、地方事務局が横浜、横須賀、
京都、大阪、札幌、仙台、館山、名古屋、和歌山、佐世保、松山、呉、福岡、
鹿屋の14カ所に設置された。この終戦連絡中央事務局は終戦直後に GHQ の
要求で設けられた日本政府の間の連絡機関であり、外務省の外局として始
まった。終戦後、時が経つにつれ各省庁が直接 GHQ との連絡を行うように
なり、1948年に廃止されるまでに事務局の機能や規模は徐々に小規模になっ
てゆく。しかし、終戦直後の段階において終戦連絡事務局の役割は大きなも
のであったと考えられる。外務大臣(重光葵:当時)の下に事務局総裁がお
かれ初代長官は岡崎勝男であった。長官のしたにおかれている次長が実務面
で重要な役割を果たす立場にある。また、西山のいた中央事務局は東京に設
置されたものであり、地方事務局等とは異なり直接政策などに関わる重要文
書の相互のやりとりのために仲介をする役割を担っていた。
敗戦直後の日本にとって、終戦連絡事務局という重要な役割を果たす場所
には、当然アメリカと日本の政府の間に入り充分な影響力を行使できる人物
が配置されていると考えるのが自然である。その東京の事務局次長に西山が
−63−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
就任した。西山が次長だった頃に内閣参与だった白洲次郎も西山の公職追放
後この次長の職に就いている。能力の高さが試される職であり、外国語を使
う高い語学の能力とさらに国際レベルでの交渉力のある人物がこの職に就く
必要があったはずである。このことからなぜ西山がこの役職に就くことに
なったのかを知るために、終戦連絡中央事務局次長就任以前の経歴が重要に
なってくる。そして、さらにその職場が果たしていた国家における役割が重
要であることがわかった。
西山勉の経歴について『高知県人名事典』に次のように記されている。
西山勉(1885 ~ 1960)銀行家、外交官。明治十八年四月十八日香美群富家村新宮
(野市町)に生まれる。父秀治は医師。野市小学校、高知高等小学校、海南中学校
をへて上海の同文書院に入ったが一年で帰国、東京高等商業学校に入り明治四十
年首席で卒業、横浜正金銀行に入り、香港・大連・神戸・ニューヨーク各支店支
配人をつとめ、昭和十二年には取締役となった。同十三年日銀・大蔵省から懇望
され駐米財務官となり、
帰国後の昭和十八年満州中央銀行総裁の任につく。戦後は、
終連中央事務局次長に就任したが昭和二十一年追放により退官。その後は佐世保
船舶工業相談役、同二十七年駐米財務官、ついで初代インド大使などになったが、
広い国際知識と達者な外国語と雄弁とで知られていた。昭和三十五年九月東京幡
ガ谷の自宅で病没した。七十五才 19。
終戦連絡中央事務局次長に就任前の西山勉は主に銀行業務・財務官僚を中
心に活躍したようである。銀行家である西山が財務官僚に懇望されたことと
横浜正金銀行と満州中央銀行の帝国政府の政治的役割を無視することはでき
ない。そこでこの二行に注目しその組織的役割について調査をおこなった。
この二行が帝国政府にとってどのような存在であったのかふり返ってみた
い。
−64−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
横浜正金銀行
横浜正金銀行は1879年(明治12年)に創立され1947年(昭和22年)に閉鎖
されるまでのあいだ、
外国為替を中心とした特殊銀行である。「正金」とは『広
辞苑』によれば「強制通用力を有する貨幣であり、紙幣に対して金銀貨幣を
いうもので、現金と同じ」意味である。
横浜正金銀行の業務は帝国政府との関わりが強く、幹部から内閣総理大臣、
大蔵大臣、日銀総裁や副総裁などを多く出している。創立と共に取締役に中
村道太(明治・大正期の実業家)
、堀越角次郎(丸文株式会社の創業者)
、小
泉信吉(慶應義塾2代目総長、海軍主計大尉、東宮の教育責任者であった小
泉信三の父)
、小野光景(横浜商法学校を創設、絹糸輸入業小野商店創業者)、
木村利右衛門(貿易商、横浜共同電灯会社(後の東電)社長)
、西脇悌二郎、
中村惣兵衛、水野忠精を選出し、頭取を中村道太、副頭取に小泉信吉が就任
した。創成期の三恩人として大隈重信(大蔵卿当時)、福沢諭吉、松方正義が
上げられている。2代目頭取に小野光景、3代目に白洲退蔵(白洲次郎の祖
父)
、4代目に原六郎、5代目園田孝吉、6代目有馬永胤、7代目高橋是清と
つづき、16代目高橋逸喜が最後となる。
横浜正金銀行の特徴として、山崎広明は「正金を一言でいえば、規模最大
かつ収益性も抜群の普通銀行業務を兼営する外国為替銀行なのである 20。
」と
している。正金銀行の払込資本金1億円という額は、1929年時の特殊銀行で
第2位であった日本勧業銀行の7,587万円を遙かに上回っている。日銀は3,750
万円ほどであり、普通銀行最大の三井銀行の6,000万円と比較してもその規模
は圧倒的なものである。
西山勉が入行したと思われる明治40年頃の頭取は高橋是清である。
『横浜
正金銀行全史』第6巻 21の正金史年表に西山勉の名前が出てくるのは1922年
(大正11年)4月からである。
「首藤正寿上海・西山勉香港両支配人が頭取席
へ英米為替のニューヨーク店集中を連名で上申」というものである。同じ月
には、後の頭取となる大久保利賢ロンドン支店支配人がジェノア会議日本全
−65−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
権の随員を嘱託され貨幣信用為替分科会の委員に指名されるなど、横浜正金
銀行の存在は帝国政府において重要なものであることがわかる。
その年の内外のできごととして、1月に大隈重信が没し、香港で海員・港
湾労働者の大ストライキが3月まで起こったことが記されている。また、2
月にはワシントンで海軍軍備制限及び中国に関する9カ国条約が調印されて
いる。そして、3月に日本が山東撤兵条約に調印し、4月にはレーニンから
スターリンへと政権が交代している。
「正金史年表」には西山勉について次のように書かれている。
・ 大正十四年(一九二五年)十二月、武内・五十嵐両取締役が安部監査役・大久
保本店支配人・西山頭取席欧米課次長・渡辺同席東洋課次長を帯同大連へ出張、
乙竹大連支店支配人・橋爪上海支店支配人を交えて主に為替方針を協議
・ 昭和二年(一九二七年)九月、頭取席為替課が西山勉課長の下に実務開始、従
来の本店に代わり対外為替金融の全局的指示に当たる(十七日)
・ 昭和十三年(一九三八年)三月、一宮・武内・最上の三取締役および西巻監査
役が辞任、代わって野原大輔・西山勉・有馬長太郎が取締役、山崎秀太郎が監
査役に新任、取締役の頭取席及び各店事務管掌を次の通りに決定:…中略…西
山取締役 大阪支店支配人…後略
・ 昭 和十三年(一九三八年)七月、西山取締役が華北へ出張(日銀正貨準備中
三億円(純金量目八十七トン・保有価格一円につき二九〇ミリグラム)を割い
て外国為替基金を設定、正金はじめ為替銀行に重要輸出品の原料品輸入金融に
利用させるために、日銀外貨勘定預金を正金ロンドン・ニューヨーク支店に分
置)
・ 昭和十三年(一九三八年)十月、野原取締役が満州国債シンディケートの視察
団に参加出張:西山取締役が満州・華北を経て上海へ出張
・ 昭和十四年(一九三九年)一月、西山取締役の大阪支店支配人兼務、および有
馬取締役の横浜本店支配人兼務を解き、両取締役に頭取席外国課の事務共管を
−66−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
委嘱
・ 昭和十四年(一九三九年)二月、西山取締役、ニューヨークへの出張のため秩
父丸で横浜出帆
・ 昭和十四年(一九三九年)四月、西山取締役が大蔵省駐米財務官に転出のため
辞任(二十二日)につき、慰労金九万五千円を贈呈
・ 昭和十七年(一九四二年)八月、抑留中の北米・南米方面の行員三十六名・家
族四名、第一次日米交換船浅間丸及びコンテヴェルデ号で横浜着帰還・西山本
取締役も浅間丸で帰朝(二十日)
・ 昭和十八年(一九四三年)五月、西山元取締役に対し十万円贈呈:昭和十四年
四月二十三日退職当時酬ゆるはずのところ、海外駐剳財務官退任に際し過去に
遡り慰労のため(十三日)
・ 昭和二十年(一九四五年)九月、西山勉終戦連絡中央事務局次長が GHQ から
聴取した情報に従えば、閉鎖機関に指定の基準は、内外地においてもっぱら日
本の戦争経済推進に関与したか否かにより、また、平和日本のためにその存在
を要するか否かを参考にする由(三十日)
当初中国大陸を中心に活動していた西山だが、金融の中心地であるロンド
ン、ニューヨークでの仕事も多かったようである。中国大陸へ侵攻中の帝国
政府にとって金融を中心とした様々な場面で大きな役割を果たす巨大特殊銀
行は政治的にも重要な存在であったといえる。横浜正金銀行と皇室の関係に
ついても戦後の日本を独自の視点から観察し記録してきた外国人ジャーナリ
ストの日記に以下のような記述が見られる。
皇室は日本銀行の発行株数の六十パーセントを所有する最大の株主で、残りは当
然財閥が所有していた。財閥と同様に皇室も征服の儲けの分け前にあずかってい
る。開戦の前夜皇室は横浜正金銀行の株の二十二パーセントをもっていたが、同
銀行の主たる関心は日本の占領地域乃至は狙いをつけた地域の搾取にあった 22。
−67−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
これはマーク・ゲインの『ニッポン日記』の1946年3月28日の記録である。
ここでは日本銀行、横浜正金銀行の役割の一部と日本国家そして皇室との関
係について、その一部を記したものである。前述の『高知県人名事典』にも
あるが、西山は日銀や大蔵省に請われて財務官になっており、横浜正金銀行
を介した西山と皇室との関係は浅いものではないと推測することができる。
ゲインが取り上げている株の所有にかかわる記録は GHQ からの情報であろ
うと思うが、皇室の財産の一部がどれほど巨額なものであるかを示し、その
運用についてジャーナリストが記録した非常に珍しいものである。
1946年の段階の株主構成を見てみると、全体が100万株で、そのうち宮内
省は約22万5,000株を所有している。第一生命保険、三菱銀行が第2位の2万
2,000株ほどであり、
宮内省の所持株数が群を抜いている。また、この22万5,000
株(正確には22万4,912株)は、その所持数が1940年から明らかになってお
り、西山勉が正金銀行で手腕を振るっていた期間の内、1927年から39年まで
は“資料欠”として株で得られたであろう収入を推測できる情報は記されて
いない。この時期は、ゲインの日記にあるような日本の占領地や狙いをつけ
た地域の搾取を行っていた時期とほぼ一致することを考えると、金銭に関わ
る部分は闇の中のようである。記録されている中で見ると、1925年(大正14年)
を例にとると、22万7,712株を宮内省が所有しており、配当金年率12%、1株
につき6円となっている。持ち株数が最も多い1921年には23万4,200株、年率
12%、1株につき6円である。
具体的な情報が少ないのでいったいどれほどの額が皇室の収入となってい
たのかは明確ではないがその金額が莫大なものであることは推測可能であ
る。正金銀行の資料が提示されていない27年から39年は中国大陸を中心とし
た軍事的な活動が活発な時期であり、国内においては政治犯、思想犯が摘発
され、
「国家総動員法」を含める戦争に向かって突き進んでゆくための様々な
法が布かれた時期にあたる。
西山勉は、1939年(昭和14年)にアメリカに出張しそのまま在米の財務官
−68−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
に転出している。出国から転出まで、その間わずか2カ月という短い期間で
の転出である。ニューヨークに向けて出帆した西山が財務官として勤務して
いた時期にどのような役割を果たしてきたのかを今回見いだすことができな
かったが、政府の役人としてのその役割は帝国政府とアメリカ政府との間に
おける重要なものであったと考えて当然だろう。後述の細川隆元の項でも記
したが、西山が渡米してまもなく1941年7月には米国内にある日本の資産は
凍結されてしまう。そのような時を迎えるこのときすでに西山はアメリカ政
府との強い関わりを作り上げようと努力し、凍結の回避を試みたはずである。
その後1942年(昭和17年)に交換船で帰国するまでの3年間、西山は正金史
年表には登場しない。
哲学者鶴見俊輔の体験を中心に記された『日米交換船』23に西山は一度だけ
登場する。第1次交換船のグリップスホルムズ号にどのような人物が乗船し、
どのような暮らしをしていたのかについてかかれている部分がある。米国務
省が部屋の割り当てを行ったらしく、最上等の部屋には野村吉三郎(駐米大
使)
、来栖三郎(特派駐米大使)
、若杉要(駐米公使)、前田多門(日本文化会
館長)
、西山勉(駐米財務官)の5名に割り当てられていたようである 24。
駐米財務官として交換船で帰国した後、西山は継続して帝国政府の中心に
近い位置にとどまり続けた。それが満州中央銀行総裁就任である。横浜正金
銀行の歴史のなかに記録されている最後の登場は、終戦連絡中央事務局の次
長として、横浜正金銀行の閉鎖に関わる情報を伝達する役割を果たしている。
1947年に正金銀行が閉鎖されることとなるがその時西山自身も終戦連絡事務
局から離れている。
満州中央銀行
満州中央銀行は、満州国が建国されてからわずか3カ月で設立された特殊
な銀行である。関東軍が満州事変の年(1931年)に満州国建国に先立って準
備を進めていたためであるとされる。その背景には、大陸における幣制が統
一されておらず混乱した状態にあり満州国建設にあたり最も重要な問題の1
−69−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
つであったということが上げられる 25。
『満州中央銀行史』26によると西山勉は58歳であった1943年(昭和18年)5
月から満州中央銀行の総裁に就任している。前記の『横浜正金銀行史』年表
と照らし合わせると、1942年に帰国し、43年5月に横浜正金銀行から退職の
報奨金を受け取っている。その同月に満州中央銀行総裁として赴任し、終戦
と共に満州中央銀行の業務は停止となる。西山勉はその満州中央銀行の最後
の総裁であった。
ゲインの指摘のように横浜正金銀行が搾取のために興された銀行であると
いうのであれば、満州中央銀行は幣制の統一の他にいったいどのような役割
を担うために設立されたのかという疑問が持ち上がる。おそらく政府の財源
になっていたであろうと思われるが、このような2つの銀行と深い関わりを
持っていた西山は、8月18日に日本政府の特命により急遽帰国し、敗戦に伴
う銀行の業務停止と最終の処理をしたのではなかったようである。その特命
というのが終戦連絡事務局の中央事務局次長就任である。
終戦連絡中央事務局
終戦連絡事務局は、先述の通り占領期間中、日本を間接統治するとしてい
る GHQ と日本政府との間をつなぐ機関として設置された。中央事務局と地
方事務局があったが、重要であったのは GHQ の駐留本拠地である横浜事務
局と日本政府との連絡を行うための中央事務局である。設置後最初の事務局
長官は岡崎勝男であったが、
「座談会」の連載が始まった10月2日の『朝日
新聞』
2面には、
終戦連絡事務局の改組が掲載されている。新しく総裁をおき、
その任を児玉謙次、次長を2人制にして情報局総裁兼外務次官に河相、兼任
で同局次長に西山、そして同次長西山とある。西山は情報局次長と終戦連絡
中央事務局事務局次長の2つの次長をしていたと思われる。1945年8月下旬
以降、敗戦後の収拾と占領統治への準備と完成にむけて極端な軍国主義者で
ない限り有用と思われ、また英語ができる人物はその政治の中枢に残って何
かしらの役割を果たしていた。
−70−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
西山は2つの銀行業務から欧米各国の経済・金融の事情に通じており、外
国とのつながりを持ち、そして外国語能力に長けていた。西山もまたその広
い見識により世界の中の日本の位置づけがわかる人物であり、帝国政府から
GHQ の示す新しい政治・社会体制への移行の中でその調整を行う上でその能
力が請われた人物といえるようである。
(3)賀川豊彦(キリスト教社会活動家・内閣参与)
現代社会における「賀川豊彦」という名前がどれほどの認知度と重要度を
持っているのかは不明だが、少なくとも戦前戦後の日本、そしてアメリカに
おいて賀川の名前は相当な認知度があったと思われる。これまでにすでに数
多くの賀川研究が国内外で行われ、この時点でさらなる賀川研究・考察を本
稿で行うことは控える。ここでは賀川について取り上げた2つの特徴的な資
料を参照し、賀川が戦後日本でどのようにとらえられていたのかについて見
てみたい。第1の資料として横山春一の『賀川豊彦伝』を参考とした。初版
は1950年に新約書房から、そして51年にキリスト教新聞社から出版されてい
る。本稿では1959年に警醒社から増訂版として出版されたものを参考にして
いる。第2の資料は、1951年4月の『文藝春秋』臨時増刊号に掲載された大
宅壮一による賀川豊彦に関するものである。どちらの人物も賀川に近い、ま
たは肯定的にとらえている人物であるが、当時の賀川の動向、賀川観を知る
上で興味深いものである。
キリスト教社会事業家と称され、戦前戦後に多くの社会事業をおこない
様々な救済事業を行っていた日本屈指の事業家である。キリスト教徒として
の洗礼を賀川から受けたと自ら語る大宅壮一によれば、賀川は戦後の日本の
社会・政治における中心的人物であるとし、その知名度は日本国内よりもア
メリカでの方がその比ではないほど高いとしている。
…日本の思想運動、社会運動のある時期には、私たちのようなものでさえも、そ
−71−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
の中に巻き込まれずにはおかなかった強い、大きな流れがあった。そしてその流
れの中で主役を演じ、最大の影響力を持っていたのが賀川豊彦である。その後時
代の移り変わりと共に、かれの演ずる役割の質も変わってきているが、戦後かれ
はまた「時の主役」として世人の前に大きくクローズ・アップされてきた 27。
そんな賀川がアメリカ民主主義について語り、敗戦後の日本の取るべき道
について語る『朝日新聞』の座談会に出席していることには不自然さは全く
ない。当時における当然といえる人選の裏に、やはり当然の理由があるのだ
と考えることができる。
賀川の1945年刊の著書『新日本の衣食住』の最後に次のようにその略歴が
示されている。
明治二十一年生。徳島中学を卒へ、明治学院より神戸神学校に転、同校在学中に
神戸貧民窟に入り、伝道事業に献身。渡米してプリンストン大学に学び帰朝後、
宗教運動、消費者組合運動、労働組合、農業組合の指導をなす。大正十二年、東
京に基督教産業青年会その他を興し、後東京社会局嘱託、内閣経済委員会委員。
昭和二十年東久邇内閣幕僚。現在神戸、大阪、東京その他三十有余の社会事業を
経営す。主なる著書「貧民心理の研究」「主観経済の原理」
「涙の二等分」
「死線を
越えて」「一粒の麦」
「愛の科学」など。
今回の座談会メンバーを見る上で、賀川について着目すべき点はアメリカ
でも有名なクリスチャンであること、プリンストン大学に学んでいること、
そして内閣経済委員会委員・東久邇内閣幕僚などの重要な役割を担っている。
ほかにも国民栄養協会理事長、厚生省嘱託、日本協同組合同盟設立、日本教
育者組合創設・会長、後に貴族院議員など彼は、帝国政府に非常に近い場所
にいる社会事業家である。
大宅壮一は1951年4月に出版された『文藝春秋』の臨時増刊号で11ページ
−72−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
にわたり賀川について書き記したものがある。その中にも記されているが、
賀川について大宅壮一は先述の同年に発行された横山春一著の『賀川豊彦伝』
を参考にしたとある。本書ではその行動範囲などについて知るには1959年に
別の出版社から発行された同書を参考とした 28。その大宅壮一の著作の中に
は賀川が日本ではなくむしろアメリカで知名度も人気もあり、また賀川自身
の様々な価値観などの基本がアメリカにあることをあげている。
アメリカのどこかの新聞で、日本人の人気投票をしたとすれば、戦前において
も戦後においても、トップはもちろん賀川豊彦であるばかりでなく、二位との間
にたいへんな開きが生じるのではあるまいか。その点で、吉田ワンマン首相など
は問題にならぬだろうと消息通はいっている。アメリカにおける対日感情の変化
にともなって、多少の変動はあるにしても、アメリカにおける彼の人気は、内地
にいてはちょっと想像もつかないものらしい 29。
戦時中アメリカの日本向け放送で、「連合軍が勝利した暁には、賀川が総理大臣
になってアメリカに協力するであろう」といったのは、日本人にはあまりピンと
来なかったが、アメリカにおけるかれの人気というものをたいていの日本人は知
らないからである。賀川の認識において、賀川を生んだ日本と、かれを大きく評
価しているアメリカとの間には、大きな食い違いがあるのである 30。
上記2つの抜粋からもわかるように、当時日本人には「ピンと来ない」賀
川豊彦はアメリカでは非常な人気があった。その思想や価値観などの基盤に
なったのが、家族が破産したことにより金銭的にも社会的にも多くを失った
賀川を支えた2人のアメリカ人がいたからであると大宅壮一は次のように記
している。
賀川を導いた人たち
毀誉褒貶は別としてとにかく今では世界的存在になっている「賀川豊彦」を今日
−73−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
あらしめる上に、もっとも大きな感化を与え、またその原動力となったものは、
日本人よりもむしろアメリカ人であり、日本文化よりもアメリカ文化である。そ
の中でも直接個人的にかれを援助し、指導したのが、前にのべたマヤス博士とそ
の義兄にあたるローガン博士である。
…中略…
この二人が、賀川豊彦の事実上の両親であるともいえよう。肉親的にも精神的
にも孤児となり、財政的にも見すてられた豊彦は、かれらの手に拾い上げられて、
半ばアメリカ人として成長したのである。日本の腐敗した封建的環境の中で芽生
えたこの新しい芽が、健康なアメリカの台木の上に接ぎ木されたのである。
大宅壮一じしんが先述の通り、賀川によって洗礼を受けた身であり恩恵を
受けた人物であるからこの著作全体を読むと多少シニカルな表現ではある
が、全体的に賀川に好意的に書かれている。これを読んだ読者は賀川に対し
てポジティブな印象を受けたであろう。
一方で、アメリカの新聞記者マーク・ゲインは彼の著書で1951年度のベス
ト・セラーとなった『ニッポン日記』31のなかに賀川豊彦について少なからず
ふれているがその大半は非常に厳しい表現で記されている。1946年1月22日
は4頁に及ぶ長い日記の記された日だが、その大部分を賀川についての事柄
にあててある。
軍で発行している『スターズ・アンド・ストライプス』紙の編集幹部四人との
昼食は大変有意義だった。彼らは軍の検閲でおさえられた記事の話を山ほどして
くれた。その削除のやり方は、軍の首脳部が米国市民からなっている我が軍隊に、
日本のある点については知らせまいとする奇妙な考え方をよく説明するものだっ
た。(中略)最後に、クリスチャンで社会事業家として知られている賀川豊彦なる
男についての批評がましい記事は一切禁じられている 32。
−74−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
賀川は、いまのところ政界の星座では重要な星である。前の月、すなわち昨年
の十二月には総司令部の幹部の多くが彼を総理大臣の最適任者と見ていたことは
周知の事実である。ところが賀川の進路は、スターズ・アンド・ストライプス紙
が彼の戦時中の経歴を掲載したので一時遮られた形になった。
(中略)
私は今朝始めて賀川に逢った。約二時間ばかり話したのだが、ほかのことはと
もかくとして彼の抜け目のなさだけには感心した。肉体的には彼は恵まれていな
い、―小柄な、まるで鳥みたいな老人で、シワクチャの洋服を着ていた。しかし
彼の頭脳は鋭く、最近の経歴に対する私の質問をたくみにかつ敏捷にはぐらかし
た。
彼は、富の統制、土地の再分配、封建制度の絶滅をあくまで支持するといった。
封建制度には反対だが天皇制には賛成だった。彼は語調を強めていった、
『我々は天皇を必要とする。(中略)我々には裁決者が必要だ。今上天皇は悲劇の
人だ。私は天皇に同情する。戦争の責任は国民と国会にある。天皇には責任はない。』
『平和』という言葉は彼の楯だった。一九四〇年には『平和運動に携わったかど』
で三週間禁錮されたと彼はいった。また一九四一年にアメリカを訪問し、帰国後、
国会でルーズヴェルト大統領は平和主義の人だと演説したともいった。
(中略)
アメリカから帰国して、賀川は一九四一年十月四日国会の外務委員会で演説し
た。この演説の内容は国会の速記録から削除されている。が、かれは『米合衆国
に於ける世論の分裂』について演説したと記されている。この演説はある雑誌に
再録されているが、賀川はルーズヴェルト大統領を平和主義者だとはいっていな
い。気休めのお題目はアメリカの孤立主義の勢力である。
(中略)
推察するのだが、賀川に関する証拠は彼を総理大臣官邸にかつぎこもうと望ん
だ総司令部の首脳将校たちももとよりこれを利用することが出来たのである。いっ
たい何が彼らにこれらの記録を無視させたのだろう?そしてまた GI たちに賀川の
経歴に関する知識を与えることを禁ずるよう軍検閲官に命じた理由は一体何なの
−75−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
だろう?
そして、続く3月26日の文章でもわずかながら、賀川について触れた文章
がある。
一九四六年三月二十六日
今日は記念すべき日だった。私自身の眼で政治勢力回復の一幕を見たのだから。
神としての天皇の有用性は降伏の日と共にいたく減少した。今や宮廷の中の、ま
た宮廷を取り巻く抜け目のない老人達は新しい神話を作成しつつある、−国民の
福祉に熱心な関心を持つ民主的な君主に関する神話である。これは日本国民およ
び、我々がその確立の援助を約した、かの民主主義の観念に対する恥ずべき裏切
りだ。
私はこの一大運動を主導している人のことをすべて知っているわけではないが、
折にふれ断片的な事実が現れてくる。戦犯として裁かれるよりは死を選んで四ヵ
月前に毒を仰いだ近衛公が、その『大変革』のチャンピオンの一人だったことは
彼の親友の話でも明らかだ。新宮内大臣の松平伯もこの策謀中の一人だというし、
吉田茂外相もそうなら、『貧民窟の掃除屋』賀川豊彦も、日本のクリスチャンにこ
の神話を売りつけるのに大きな役割を買っているという 33。
1月22日付の一文に、賀川は GHQ によって批判されないよう保護されて
いる立場にあったことが記されている。そして、総理大臣の候補としてアメ
リカ政府に認識されていた。大宅壮一の文にも同じようなことが記載されて
おり、賀川豊彦の注目点の1つであろう。賀川には日本政府からも重用さ
れ、その背景にアメリカの強力な支持があると言うことがわかる。東久邇宮
内閣解散直前のこの時期に GHQ から次期総理候補と見なされていた賀川が
「座談会」に登場したのは偶然とはいいがたい。
『朝日新聞』の細川も帰国後
かなり頻繁に GHQ の本部に出入りしていた様子が自身の著書に多数出てく
ることから、こうした情報は得ていたであろう。そう考えると賀川が「座談
−76−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
会」のメンバーであることには表面には現れていない意味があるように思わ
れる。
座談会に登場した人物の中で、賀川は唯一 「日米捕虜交換船」のどちらの
便にも乗らず日本に帰国した人物である。
(4)伊藤道郎(舞踏家)
伊藤道郎は1893年(明治26年)
、東京市に生まれた。伊藤は当時の日本人
として国際的に著名な舞踏家であり芸術家、そして文化人の1人である。戦
後はアーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)で公演されたブロードウェイ・
ミュージカルの振り付けなどを行い、非常に高い評価を得た人物である。戦
前では特に海外で、戦後、主に占領期には日本での活躍が特に注目される。
伊藤の戦時中及び戦後の言動について調べてみると、非常におもしろい。伊
藤道郎については藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う 太陽の劇場をめざし
て』34に詳しいため、主としてこの書籍を参照した。
伊藤家の子供たちは両親の熱心な教育への意識により最高の教育を与えら
れることを約束されていた。伊藤家の長男が夭折したため、事実上長男となっ
た伊藤道郎は父、伊藤為吉の支援していた片山潜の設置したアメリカ式の幼
稚園に入園し、その後高等師範附属小学校に入学した。母方の伯父が東大教
授の飯島魁であり、帝大への進学を両親に望まれていた。音楽の道に入った
ことで母親との関係が悪化した。その後慶応普通部に入学し、さらに芸術へ
の関心が高まったとされる。依然母による反対が厳しく、激しい対立が起こっ
た。遊興が度を超して慶応を退学させられ、名古屋に移されたがここでも騒
動を起こして東京に戻され、紆余曲折の末、青山学院で最終学年を迎える。
この頃母との関係はますます悪化していたが、その後教会の牧師の口添えに
より母親の理解が得られると一変当時最高の音楽の教育を受けることができ
るようになった。現東京芸術大学の教授等を家庭教師に迎え、ピアノも買い、
ドイツ語の家庭教師も手配したのはこの母親であった。ドイツに留学し、そ
−77−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
の間に山田耕筰に出会い一流の歌手等からの教育をうけ、同時にこの頃舞台
芸術へとその進路が確定していくことになる。第一次世界大戦の勃発により
ロンドンへと渡る。その後、父伊藤為吉の事業が失敗し仕送りが困難になる
中、戦争の影響でロンドンでの芸術の勉強に困難が生じた。その頃にイギリ
スの富豪で芸術の庇護者等の前で踊りを披露する機会に恵まれ、時の英国首
相と出会う。その後の伊藤道郎の活躍は日本でも報じられるほどになった。
イギリスでのエズラ・パウンド、ウィリアム・イェーツなどとの出会いから
伊藤道郎は舞踏家として一流と認められることになる。その後、ニューヨー
クからの招待状によりその活躍の場をニューヨークへと移していく。当時、
ヨーロッパほどに芸術のレベルが成熟していなかったといわれるニューヨー
クに移住した後も伊藤道郎は活躍の場を広げていった。英国女王のみならず、
時のアメリカ大統領の前でも演じている。そして拠点をロス・アンゼルスに
うつし、それまでとは少し異なった路線を進むがやはり成功した 35。
日米開戦までに2回帰国している。1912年(明治45年)に19歳で海外に出
た伊藤道郎が初めて帰国したのは20年後の1931年(昭和6年)38歳の時、そ
して1939年(昭和14年)46歳の時である。この後の帰国は日米の第2次捕虜
交換船によるものだった。この間に最初の妻ヘイゼル・ライトと離婚し、2
番目の妻となる艶と結婚している。伊藤には2人の子供ダノルドとジェリー
が前妻ヘイゼルとの間にいる。ジェリーは日本でも映画『モスラ』やテレビ
番組『英語であそぼ』で知られる、ジェリー伊藤である。彼は父道郎に会う
ために米兵として占領日本にわたり、苦労の末再会を果たした。
伊藤道郎の二度目の帰国の頃、その時日米間はすでに戦争に向かっている
状態にあった。このとき、伊藤は開戦を回避するために精力的に動いている。
米国大統領の前で踊ったこともあり、英国首相と語らったこともある伊藤は
コーデル・ハルなどとも面識があったようで、様々な伝手をたどって陸軍参
謀本部の会議にも出席している。そして、表だったものではない形ではある
が、アメリカとの交渉を行うことを帝国政府からも認められたとされている。
姉の夫は陸軍中将古荘幹郎(没後大将に特進)だが、戦地で脳溢血を患い勅
−78−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
命で帰国していた。しかし病床に伏していたため義兄の助力は得られなかっ
たが自力でつながりを得た。アメリカに戻った伊藤はアメリカ向けの日本に
関する宣伝(PR)映画作成の交渉を進めたが、うまくゆかず豪邸を借りて連
日日米の要人を招いてのパーティーを開き外交の場を演出した。数少ない民
間の和平工作を行った1人が伊藤であった。
日米間の捕虜交換は真珠湾攻撃の後まもなく決められるが、伊藤道郎は12
月8日に家族の目の前でアメリカ連邦捜査局(FBI)に連行された。その後、
モンタナ州ミズーラ収容所、オクラホマ州フォート・シル収容所、ルイジア
ナ州リヴィングストン収容所 36、最後にニューメキシコ州サンタフェ収容所
へと移り住んでいく 37。収容所生活の厳しさはこれまでにも多くの著作、記
録写真・記録映像がありここではふれないが、かなり過酷なものであったこ
とは間違いない。
1943年11月、伊藤道郎は第2次捕虜交換船で帰国する。第1次の交換がす
んだ後、第2次の捕虜交換が実行されるまでに時間がかかった。しかし帝国
政府側の提出した人選名簿はかなり早い段階にできていたようで、その中に
伊藤道郎の名前があった 38。
アメリカ連邦政府にとっても、帝国軍部にとっても伊藤道郎は要注意人物
である一方、和平工作に尽力した伊藤の情報量は軍部にとっても重要なもの
であり、帰国後の伊藤のもとには次々と幹部たちが訪れて情報を得ていった。
このとき、伊藤道郎と艶夫人は山王ホテルに滞在することが許されていたか
ら、決してわるい扱いを受けていたとはいえない。
伊藤道郎はずいぶん前から 「太陽の劇場」という構想を持っていた。小さ
な島を買い取りそこに芸術を指導するものと学ぶものを世界中から集めそし
て世界中に飛び立たせるというものであった。その構想を「大東亜文化運動」
として大東亜舞台芸術研究所計画を作り上げ、1944年2月頃大東亜省に提出
され同年9月頃受理されたようである。この書類には、当時の戦況分析と思
われるものがかなり詳細に書かれており、伊藤の構想する芸術運動がどれほ
ど国家に貢献するかが強くアピールされたと思われる。当時の状況を考える
−79−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
と、民間人である伊藤道郎が戦況の詳細を分析すれば大事になったはずだが、
罪に問われるどころかむしろ支援を受けたとあることから、やはり伊藤は相
当な厚遇を受けられる立場にあったと考えられる 39。
終戦をむかえ、伊藤道郎は戦犯にも問われず処分もなかった。アメリカでの
活躍や開戦直前まで行われた和平工作などが影響したと考えられる。1945年
11月には東京宝塚劇場から改名された 「アーニー・パイル劇場」の総演出兼
顧問となり、46年2月には第1回公演『ファンタジー・ジャポニカ』
、10月に『ミ
カド』
、47年8月には『ラプソディー・イン・ブルー』の演出を立て続けに行い、
海外でも紹介される高水準の舞台演出を行ったことが記録されている。占領
期当初から戦後日本の芸術に多くの影響を及ぼし、東京オリンピックの開催が
決まり、その開会式、閉会式の総演出を引き受けている。残念ながら1961年
11月に脳溢血で死去したため、オリンピックの開催を見てはいない。
(5)細川隆元(朝日新聞社編輯委員)
『朝日新聞』は終戦直後から「朝日騒動」
「十月革命」「社内革命」40などと
呼ばれる民主化に関わる動向が非常に早くからみられたマス・メディアのひ
とつである。連載が掲載されていた時期に、この「騒動」は背後でその規模
を拡大し、細川隆元はまさに渦中の人であった。
これまで見てきた人物に関しては主としてその来歴のかなり長い期間に視
点を当ててきた。細川隆元に関しては『朝日新聞』の社員としての背景のみ
を取り上げる。細川が朝日新聞社員としての活動以上の注目すべき点は連載
の時点までにはなく、むしろ『朝日新聞』を離れた後の彼の行動の方が社会
的にも影響を持っている。そのため、本稿では戦時中、及び連載の時期を主
として取り上げる。
この当時、大学まで進学する人物は多くが特別に裕福であった場合がほと
んどであり、非常に恵まれた環境にあった人物である。細川についても、お
そらく同じことがいえるだろう。細川の基本的な情報は以下の通りである。
−80−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
1900年(明治33年)熊本生まれ。旧制第五高等学校を卒業。1926年(大正15年)
東京帝国大学法学部を卒業し朝日新聞東京本社に入社。1936年(昭和11年)に政
治部長、1940年(昭和15年)にニューヨーク支局長、1944年(昭和19年)編集局長。
1945年(昭和20年)朝日新聞社参与、後に社友。1946年(昭和21年)に社会党か
ら衆議院議員に立候補し当選。中央教育審議会、選挙制度審議会、国語審議会、東
京放送番組審議会などで委員をする。政治評論家として活動し、TBS のテレビ番
組「時事放談」で司会を務めた。1994年(平成6年)脳梗塞により95歳で死去 41。
細川によれば、朝日新聞社は日本で初めて試験制度を利用して社員の採用
を行った。そして、細川がその第1期生であり、入社は1923年であった 42。
この頃から大学卒業者が新聞社に入社し始めた頃だという。同期には後にい
くつもの大臣職に就く河野一郎がいたという。その10年後1934年政治部の次
長になっている。このとき編集局長だった緒方竹虎が主筆になっている。36
年に政治部長、そして1940年10月にニューヨーク支局長になり渡米している。
翌41年7月25日の Associate Press(AP)がホワイトハウスの発表が伝えら
れ、在米日本資産の凍結がローズヴェルト大統領によって発表された。これ
は当然のことながら、前田多門が館長を務めた日本文化会館や、新聞社であ
る朝日新聞社などを含め、多くの在米企業などに影響を与えることになった。
『朝日新聞』のニューヨーク支局では特派員の生活にも制限が生じ、その
後日米の衝突は時間の問題と判断したと細川は記録している。そのため、中
立を長く保つであろうと考えられるアルゼンチンのブエノスアイレスに支局
を設置、人員を動かしてメキシコにも増員することを本社に提案し、人選を
本社に任せたとしている。その人選を誰が行ったのかは社内では明らかに
なったと思われるが、細川はその名前を記していない。ただ返信については、
ニューヨークから発信した宛名人の野村秀雄らになっており、その野村らか
らの返電であった 43。この人選を行った人物のためにその後細川は『朝日新聞』
社内を含め国内では「逃亡記者」と呼ばれることになった。
本社からの人選は、支局長である細川をブエノスアイレスに、そしても
−81−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
う一人をメキシコにというものであり、支局長を動かすという異例の人選で
あった。また、
出発は現地で判断せよとされており、細川によると『朝日新聞』
の支局長が任地を離れることに対して在米邦人の間に日米関係の悪化に関す
る不安と混乱が起こったという 44。
出発の前夜、41年8月28日には『朝日新聞』の先輩であり、日本文化会館
の館長で会った前田多門を含めた4名で別れの食事をした。しかし、この昼
にはブエノスアイレスへの出向を中止する命令が届いていた。ところが、す
でに出国手続きをしたため中止することはおそらく不可能であったようで、
そのことを本社にも打電している。また、この同じ午後にニューヨークで販
売されている新聞の夕刊の早版には「日本、米国に降参す(サレンダーとい
う字が目に入ったことを今でも記憶している)
。日本政府、近衛首相とルーズ
ベルト大統領との会見を申し入れる」45という一面記事でスタンドに並んでい
たとある。細川はすでに妻を亡くしており、ニューヨークへの出向にも一人
娘を同行していた。その娘を連れて予定通り出国した細川はリオ・デ・ジャ
ネイロで一旦下船したが、そこにも本社からニューヨークに戻るようにとい
う指示がきていた。9月末にブエノスアイレスに到着したが、11月末には日
本から差し向けられた引き上げ用の船浅間丸に乗って日本に帰るように指示
が出される。パナマからの乗船のために手続きをし、12月7日をむかえた。
真珠湾攻撃が行われたことにより日米開戦となり、パナマからの引き上げは
不可能になった。細川は1943年の秋までブエノスアイレスにとどまり、ブラ
ジルから日米開戦関連情報を日本に打電しつづけている。帰国後それらの記
事が新聞の一面を飾っていたのを見たという 46。
細川の帰国は終戦よりも前であり、1943年の秋にあった第2次日米交換に
娘を連れて乗船している。アメリカ側が娘の教育の問題などに配慮したもの
であろうとしている。この第2次交換船には先述の舞踏家である伊藤道郎が
乗船している。インドでスウェーデン船のグリップスホルムズ号から日本の
帝亜丸に乗り換え、1943年11月に横浜に到着した。細川は、グリップスホル
ムズ号での待遇とくらべ、帝亜丸での待遇のあまりの劣悪さを記している。
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
横浜に到着すると、同僚の他に当時主筆であった緒方竹虎が前日から泊ま
り込みで、車を用意して細川を迎えた。ニューヨーク駐在の命令に背きブエ
ノスアイレスに逃げ、身の安全を図ったと言われ続けた「逃亡記者」を主筆
がわざわざ出迎えたことに細川は 「一番不思議に思った」47。
細川がアルゼンチンにいる間に『朝日新聞』では尾崎秀美による「ゾルゲ
事件」がおこり、社内の責任問題が発生していた。そのため、一部人事異動
があり緒方竹虎も編集責任担当者の任を解かれている。翌年に細川の帰国が
決まり、再び 「逃亡記者」問題が大きく社内で取り上げられた。緒方竹虎自
身も細川を批判する側にあったが、細川を援護する側にいる仲間の協力によ
り当時ニューヨーク支局の特派員だった2名からの詳細の聞き取りと記録を
行い重役会に報告書が出された。これにより緒方は自身が真実を知らされて
いなかったことで、事実を隠していた側に「当たり散らした」とあり、細川
に対する認識が変わったことがこの出迎えにつながったようだと細川は記し
ている 48。
その後細川は社内の大幅改革の中で、東京、大阪、九州の3社間の連絡事務
を東京で総括することになった、連絡本部という新たに作られた部署の初代
本部長となった。その一方で主筆という役職がなくなり、緒方竹虎は副社長
になる 49。このとき様々な社内構造の改革が行われた。1944年7月に緒方竹
虎は小磯内閣・米内内閣で国務大臣兼情報局総裁となり、朝日新聞社を離れ
た。
そして1945年8月15日をむかえる。無条件降伏に終わった日本の戦争は、
当時厳しい言論統制下にあったマス・メディアにも多大な影響を与えた。そ
んななか、朝日新聞社では村山社長と編集局部長による会議が行われ、当面
の方針についての確認が行われた。
「仕事は平常通りやっていこう。何も動揺することはない。今まで一億一心とか、
一億団結とか、玉砕とか、醜敵撃滅とかいう最大級の言葉を使って文章を書き綴っ
て、読者に訴えてきたのに、今後はガラリと態度を変えなければならない。これ
−83−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
はしかたのないことだが、それだからといって、昨日の醜敵が今日の救世主に変
わったような、歯の浮くような表現もとられまい。まあだんだんに変えていくこ
とにしようじゃないか。マックアーサーが乗り込んできても、新聞に関するかぎり、
日本が占領地でやったようなバカげたことはやらぬと思う。何ごとによらずあん
まり先走ったことはよそう。ポツポツいこうじゃないか。とにかく落ち着いてや
りたいから、各部でもそういう方針でやってもらいたい。」
と、ざっくばらんに私の編輯に対する心構えと根本的方針を述べた。村山も、
「それがよかろうな」といった。政治部長の長谷部も、
「もう社員の間には、この際新聞は百八十度転換した態度をとるべきだという議論
も出ているが、そう一ぺんに現金な態度の転換は良心が許さぬし、まだ読者にも
相済まぬような気がするから、あまり不自然な敗戦迎合の態度はやめたい。」
と、これも私の方針と全然一致する発言をした 50。
ところがこの後『朝日新聞』にも親米新聞製作派が台頭し始め、当初細川
等の方針に賛成していた社長村山長挙が親米派についたため、1945年10月15
日には細川を始め「穏健改革派」と思われる幹部クラスの人物がその役職か
ら追放された。この人事異動がその後大きく波紋を広げ始める「朝日騒動」
へとつながっていく。
開戦直前から連載が終わるまでの間、細川と朝日新聞社の当時の動向は以
上の通りである。もちろん、細川本人の著書を中心に流れを追ったため他の
視点から見れば別の動きとしてとらえることができる。この点については今
後さらなる調査が必要となるが現時点ではここまでの調査にとどめる。
2)質的要素(2)
:人間関係
人物の背景を見るとこれら5名の人物にはこの当時それぞれに、様々な社
会的な影響量を持っていることがわかる。そして5名の共通点の最初のひと
つとしてあげられるのが「アメリカ」であることは明らかであろう。さらに
−84−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
これらの人物がある時期にほぼ同時にアメリカにいたことがわかる。
前田多門 1938年10月−1942年6月(第1次日米交換船で出国)
西山 勉 1939年2月(出国)−1942年6月(第1次日米交換船で出国)
賀川豊彦 1941年4月に5度目の渡米300有余回の講演を行う(8月に龍
田丸で帰国)
伊藤道郎 1940年6月日本からロス・アンゼルスに戻る。1943年9月(第
2次日米交換船で出国)
細川隆元 1940年10月−1943年9月(第2次日米交換船で出国)
細川隆元のところでふれたように細川と前田は朝日新聞社というつながり
があり、細川が社の命令でブエノスアイレスへ移動する際に共に別れの宴を
催しており、それぞれの立場から考えても様々なレベルでの交流があったと
考えるのはごく自然である。細川が新聞広告を出さなければならなかったよ
うにニューヨークに滞在している日本人は互いに面識があったことからも、
より政治的・社会的影響力のある立場の人物同士の交流は当然である。そし
て、西山の本来の出国目的は、ニューヨーク支店への赴任であった。途中職
務内容が変わったが在米財務官として滞在していた。さらに、前田と西山は
第1次交換船で同船しているだけではなく、グリップスホルム号の最上等の
客室は野村吉三郎(駐米大使)
、来栖三郎(特派駐米大使)
、若杉要(駐米公
使)
、前田多門(日本文化会館長)
、西山勉(駐米財務官)が使っていたこと
が記録されており、前田と西山の扱いが他の大使、公使等と同等であり VIP
扱いである 51。前田と西山は帰国までの長い航路を共に過ごしている。
賀川、伊藤の2人はこの当時アメリカでの知名度は日本では理解できない
ほど高く、敬意を表される扱いを受けていた人物である。そんな伊藤でも収
容所に入れられるということを避けることはできなかったが、帰国後の伊藤
への待遇は大幅に変わった。伊藤、賀川の両氏に交流があったという資料は
残念ながら今回見いだすことができなかったが、アメリカだけではなく、ヨー
−85−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
ロッパも含めると、この2人に接点がなかったとは考えがたい。前田、伊藤、
細川はキリスト教徒であるから賀川について認識がないと考えるのは難し
い。それぞれの知名度、関連性、社会的重要性を考察すればこれら5人がラ
ンダムに選ばれたのではないだけでなく互いに面識があったと考えるのが自
然である。すでに各人の詳細を検討したことからもわかるように、それぞれ
に日本国内でもその社会的地位と認知度がたかく、そして「アメリカが認め
る」人物ということが選ばれた理由の1つと考えて間違いないだろう。さら
に、開戦直後までアメリカにいた人物ばかりである。特に交換船での帰国に
は双方の国家の同意が必要であり、彼らの情報はアメリカ側も充分に持って
いる。こうしたことから考えると、アメリカ側の日本に対するある種の「空
気」をすでにある程度知っており、そしてそれを読むことができる人物であ
り、やはりアメリカ側がどう見るかを意識して選ばれた5名であるといえる
だろう。こうした面で考えると質的要素としてのこの座談会メンバーは設定
された目的に対して非常に高い質を備えたものとなっていると考えられる。
3)質的要素(3)
:
「座談会」言説
座談会そのものは一度行われた座談会を内容に合わせて4回に分けて掲載
されたものと考えられる。全体の文字数が16,000文字ほどあり、500 ~ 1,000
文字程度の差はあるが、だいたい4,000文字前後にまとめられている。毎回
の連載にそれぞれに見出しがつけられており、細川隆元が座談会のテーマを
順々に進めていくように構成されている。
各日の見出しは次の通りである。
1945年10月2日 ① 学ぶべき社会訓練・家族間にも真の自由
1945年10月3日 ② 裏付けは社会的統制・時と共に進むその内容
1945年10月4日 ③ 他人の人格を尊重・光圀の“皆が楽しむ政治”
1945年10月5日 ④ 地方にも世界の文化・萬事、自治精神で動く
これら4日間の見出しはそれぞれの回の中心的な話題であるが、見出しは
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
そもそも内容に合わせてつけられるため、当然ながらその最も重要なポイン
トを明確に表現されている。この見出しのみを並べてみても、現在の日本人
にとっても改めて考えさせられる部分が多いが、
一見「自由主義」
「民主主義」
を特に意識して語るものとは思えない。軍国主義一色だった日本人、特に軍
国教育しか受けていない若い世代にとってこれらの見出しが紙面に載ってい
るのを見てその印象はどれほどのものだったのか想像がつかない。新聞社側
も細川の言葉にもあったようにいきなり刺激的な言葉を載せることは避け、
より受け入れやすい表現をあえて選んだのではないだろうか。
初日の10月2日はまずこの座談会の参加者5名がまさに座談している写真
が掲載され、その左側に座談会の主旨が述べられている。
故ルースヴエルト大統領はこの戦争は民主主義擁護の為の戦争だといつた、ト
ルーマン大統領も「圧制に対して遂に自由が勝つた」といつたが、ポツダム宣言
もマツクアーサー司令部も日本は民主主義、
自由主義になれといつてゐる、では「自
由主義」といひ「民主主義」とはどんなものであるか、これを単に観念や知識と
してではなく、国民の誰もが、その身に即したものとして体得することは、今後
の日本を再建するうえの最急務である、ここに座談会を開いて、アメリカの民主
主義を中心にして、その解明に当たるとともに、これが日本における方向を検討
するものである。
アメリカが日本と戦争をした理由が「民主主義擁護のため」であり、
「圧制
に対して自由が勝った」として、日本は今後「民主主義」と「自由主義」の
国家になることがアメリカによって方向付けられていることをここで示して
いる。日本人がこれを受け入れることが前提条件であり、今後のあり方につ
いて国民がより理解を深めるためにこの「座談会」が行われたという主旨も
示されている。細川が「座談会」の進行を行うがそこに選ばれた人物は、ま
さに「アメリカに造詣の深い」人物であり、
アメリカを1つの見本にして政治、
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
経済、社会、文化について具体的に説明してもらえる人物である。政治に関
しては、文部大臣前田多門、終戦連絡中央事務局次長の西山勉、内閣参与と
いう立場であり、また次期総理と名指しされたことのある賀川豊彦、GHQ か
らの信頼も厚く、日本政府との関係の浅からぬ伊藤道郎の4人全員が適任と
見なすことができる。経済については、そもそも銀行家で財務官僚の西山勉、
そして宗教界を背景に相当な社会活動を行ってきた賀川も関係があると思わ
れる。社会に関しては、西山、伊藤がアメリカ以外にもヨーロッパに滞在し
ていた経験があり、賀川に至ってはあらゆるところに旅している。文化につ
いても伊藤は芸術家であり、当時屈指の欧米文化に精通した人物であり、宗
教と文化の強いつながりのあるアメリカをよく知っている賀川、前田は内務
省官吏としてアメリカ、イギリス、フランス、スイスを訪問、国際労働機関
の仕事でジュネーブに家族で移り住み、ニューヨークでは「日本文化会館」
の館長であった。このように全員がこれらのテーマについて語ることのでき
る人物として当時の貴重な適任者達である。
細川の進行に続き最初に前田はここで精神面での民主主義の実践について
の実例を挙げている。経験談として紹介したのは、知事が現れればそれまで
わいわいと話し合っていた人びとが一斉に起立し、知事が着席すればその後
はその身分など関係なくそれぞれが官僚と民衆の区別なく話し合いをすると
いうものである。ただし、自分の選んだ官吏に対する敬意をもつことなど、
そうした社会訓練は学ぶべきであるとしている。
西山は民主主義について次のように解説している。これを読むと1回目の
連載から、「アメリカの」政治制度に少々否定的な考えが表されていることが
とても興味深い。終戦連絡中央事務局の幹部である西山がこれを述べること
ができたのはおそらく、この時期にすでにここでいう 「イギリス流」、つまり
国王(天皇)を国家元首としていただいたまま総理大臣を中心とした議会政
治を維持することがほぼ決まっていたのではないかと推測できる。
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
西山:民主主義とは平凡な教科書的にいへば、国民が選挙によつてつくつた立法
府によつてこしらへられた法律というふものに服従する、服従するのみならず敬
意を表する、とにかく多数の人々の意志の表現であるからといふさういふ約束だ
らうと思ふ、しかし根本はやはり何かといふと独断的な専行が少いといふのが特
徴ぢやないかと思ふ、実践的結果から目的を判断するといふ考へ方が、今のアメ
リカの言葉で現された傾向ぢやないかと思ふ、主義として自由、平等、均等、こ
れだけは競争してゐても変わりないが、多数の意志によつて自由自在に結果を見
て目的、方法に逆算して行くといふ考へ方が、アメリカの民主主義の特徴ではな
いかと思う、しかしアメリカのデモクラシー政治には難しい点もある、政府に辞
職がない、議会に解散がない、イギリス流に解散と辞職の二つの安全弁で調節し
てゆく政治とは全く違ふ、この点はわれわれは大体米国の真似もできない。矢張
り日本が実際にやつて行くには、今まで多少真似もした、辞職と解散と両方調節
してゆくといふ、英国の方がわれわれの手本になるのではないかと思ふ
国体の護持が1つの方針であったことから考えると、西山は間接的にここ
で国民に対して「天皇は今後もその地位にある」ことを政府は求めていくこ
とを示唆しているとも考えられる。
この後賀川が社会的な面において宗教、特にアメリカ社会におけるキリス
ト教について歴史的な流れを語る。当時の日本社会でどれほどキリスト教に
関する知識があったのか疑問が残るが、かなり専門的な内容を語っており、
アメリカ社会とキリスト教徒の強い関連性がここで示されている。
この回の最後の語り手は伊藤道郎である。細川は伊藤に 「アメリカの愛国、
社会道徳がどうして個人主義から生まれるのか」について問うている。伊藤
はアメリカでもいわゆる“セレブ”の分類に入るため多少「一般的な」市民
の生活とは違う生活を送っていたとはいえ、アメリカでアメリカ人の妻と家
庭を持って子育てをした人物である。その伊藤が「アメリカの家庭が民主主
義なのだ」という。「家庭では個人を尊重し、…自分をレスペクトすることで
他人をレスペクトする気持ちが生まれてくる。これの延長したものが社会道
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
徳が立派なものに作り上げられるといふこと」だと1つの方向性を示して第
1回目の連載は終わる。
2日目、10月3日の連載は次のように始まる。
本社:権利義務が結局社会、経済、政治の上で民主主義、自由主義の一つの約束
になつているやうに思ふが
そして、これに最初に答えるのが西山である。そして、この日に西山の意
見が非常に多く採り上げられている。まず自由主義についての解釈が行われ、
非常に専門的な知識を要すると思われる内容を具体的な例をもってわかりや
すく説明し、アメリカでの中心的な自由主義に対する解釈であると西山が理
解しているものが述べられている。
旧式の自由主義、金を儲けること勝手たるべしといふ派に対して起こつた進歩派
は、結局平等といふこと、正義といふことに違反した金儲けはいけないといふこ
とから、かなり長い年月を経ている大事業に対する反感が非常に強い、…(中略)
…これも機構が大きくなつたからである、革命的な大鉈を揮はぬ限りとても能率
は上がらぬと思ふ、少しばかりの整理では駄目です、ブランデイーズといふ新し
い思想の人は、昔からの自由奔放の、何をしても構はぬといふ考へ方ではなくして、
平等とか社会正義の概念に違反するものはどしどし征伐せよといふ、かういふの
が私は米国の有力な思想だらうと思ふ、だからその考へ方は日本人もよく呑み込
んで、実際日本の経済にも関係があることですから、よく考へておかないといけ
ないと思ふ
マクアーサー司令部の方針かという細川の問いに対して違うとしながら
も、
「権利義務の上から新式の考え方」をいったのみだと述べている。細川は
ニューディール政策にふれ、西山は先のブランディースの「大鉈を揮う」必
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
要性について財閥解体を絡めて発言しており、ニューディール政策の意図し
たところを財閥解体への国内外の関心に再びかぶせるように発言している。
…ニユーデイールにもいろいろ説明の方法はあるが、いままで米国は経済界の悩
みに遭つて、例へば人口の何パーセントにあたるものは国民所得の二割何分をと
つているといふインイクオーリテイとインセキユアーリテイ、不平等と不安定、
この不安定を救ふのがニユーデイールの大きな目的であつたでせう、…(中略)
…よくいふ人もあり、悪くいふ人もあるが、公平について大体成功したといつて
よからうと思ふ
この発言から察するに、西山は財閥解体は必要であると考え、民主主義、
自由主義においても国民所得の不平等の調整に対して反対していない。皇室
の財産管理を行っていた横浜正金銀行に勤め、満州中央銀行に勤めた西山が
その解体について否定していないというのも非常に興味深い。
この後、前田多門が「経済デモクラシー」について自由放任主義の自由主
義の民主主義ではなく、政治的のみならず経済的なデモクラシーが必要だと
述べている。そのなかで、前田はこのときおかれた日本の現状にたいして次
のように、非常に悲しんでいる様子を表している。
今日日本は敗戦によつてポツダム宣言を課せられ、これを実行する立場になつて、
あの文句だけ見ると初歩的な自由主義、民主主義を回復、強化することに、日本
の政府がその障碍を除去しなければならぬといふことになつているが、考へて見
ると、情けないやうな気がする、いまさらこの時代二十世紀の半ばに来て、初歩
的な自由主義、民主主義をこれから回復していかなければならぬといふことは、
われわれとして非常に考へさせられるものがあると思ふ
前田はニューヨークで文化会館の館長をしていたが、その文化会館はすで
に関係の悪化しているなかで、日本のことを理解してもらうためのもので
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
あった。戦時中の言動がどのようなものであったかはともかくも、この時点
での前田の姿勢はここから読み取ることができる。経済についてのトピック
ではあるが、この2日目も民主主義とはどうあるべきかということが全体と
して語られ、前田もここで再び本来望まれる形の民主主義について加えて次
のように示している。
ただ問題は自由放任といつた自由主義、政治的なデモクラシーといふことだけに
止まらないのであつて、もつと奥底にあるものを掴んで、本当に社会正義が維持
出来るやうにわれわれは努めて行かなければならない、また何としても社会的の
統制、それは保守的、軍国主義的統制ではなしに、社会的統制に裏づけられた自
由主義が出て来なければならぬことを痛感する、自由主義を回復するとか、強化
するとかいふ声に踊らされて、ただ自由放任的な自由主義をやつていてはとても
今日二十世紀の半ばになつて間に合はないとおもふ
この言葉が示している民主主義を現在の我々が十分に理解し今に至ってい
るかについては別の議論が必要ではあるが、すでにこの時点で将来への懸念
を明らかにしている。
つづいて労働組合の結成について、そして今後の民主主義を基本とした教
育制度について語られている。1日目と異なり2日目は全体として1,000文
字ほど多く、内容が多岐にわたり、また1日目よりもより具体的で専門的な
内容が多い。労働組合については前田よりも賀川が多くを語り、過激になり
かねないことを予測し国民の一部が共産主義化することを示唆している。教
育では西山と前田が哲学者であり実践教育を自ら学校を作って推進したジョ
ン・デューイ、憲法と政治について多くの著書のあるチャールズ・ビアード
という2人を取り上げ、少なくともその弟子を日本に招聘して教育に関わる
相談相手としたいなどのことが語られた。
−92−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
連載の3日目10月4日も2日目の最後のテーマである教育について引き続
き前田、伊藤が語り、特に教育の中でも「公民学」というテーマで、前田、
西山が語っている。前田はこれからの民主主義教育は明治のものがお手伝い
をすることができるとして、教育勅語を見直し実行することが重要であると
している。連載初日には細川が「年寄層としても自由主義とは昔に帰ること
だけといふ誤つた考え方をもつてゐるものもある」と、民主主義ではないに
しろ、こうした“昔に戻る”様なものを否定している。極端な軍国主義から
一気に民主主義に移行することが困難であると考えた前田はこの連載以外の
部分でも「教育勅語」を見直し、実行することを提言している。伊藤はこの
時から約1年後の46年9月に出版する『アメリカと日本』という著書の中に
も冒頭に出てくる「人間の成長史」52について語り出す。原始の時代から原子
力の時代までの流れをとき、人類の進化から考えた人間教育が重要であると
主張している。最後に賀川が「民本主義」を水戸光圀の国の統治のしかたが
今の日本に合っているといい、天皇を中心とした国体が良いということが示
唆している内容とも読める。ここでは賀川も「教育勅語」を重要視している。
連載最終日10月5日はこれまで国家的レベルでの話をしてきた中で、民
主主義の根幹でもある「言論の自由」についてようやく取り上げられた。と
ころが、西山はいきなり「フリープレス」について語り出しているが、現在
においても「フリープレス」が何であるかがはっきりとわかる人はそれほど
多いとは思えない。敗戦直後、まだ軍国主義の帽子を被ったままの日本人に
それがいったい何であるのか理解ができたのかについては大いに疑問が残
る。ここでいっているのは、おそらく政府などに検閲されない、言論統制を
されない、そして権力を監視する、第3の社会構造としての報道活動のこと
を指しているのだろうと思われる。つまりアメリカ合衆国憲法修正第1条の
“FreedomofPress”のことであると思われるがそのようには説明はしていな
い。
前田は今の日本人が「自由」を得るとどうなるのかということを次のよう
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
に表している。
前田:断食をした人が急に断食をとかれて、一気に御馳走を食ふとお腹を悪くす
る(笑声)お粥から順々に食べて行くといふわけだな、ただ急に自由にされると
どう自由にしていいか、見当がつかない
つまり、いきなり日本人に自由を渡しても何が自由なのかがわからないと
いう。それに対して西山は、都会であればまだ自由についての理解が進むか
もしれないが田舎ではそうはいかないだろうとして、地方での報道機関の役
割について指摘している。
これからの日本の政治は、良き村長なら良き知事になれる、良き知事なら良き総
理大臣になれるといふ風になつて行くのが本当だと思ふ、それには矢張り田舎の
方の新聞紙なぞは、これから社会状態も変らう、学校の卒業生も都会で給料取り
なるといふことでなくて、田舎へ帰つてあるひは百姓をする、あるひはいろいろ
な他の仕事をするといふ風になるだらうと思ふが、さういふ傾向を助長して、智
能の程度を漸次高めるやうにして行かなくちや、片輪な自由主義ができるのぢや
ないかな
そして次に地方自治についてもやはり教育の問題が多く取り上げられ、幅
の広い知識を持つ国民を育てることが重要であるとし、自治的組織運営の重
要性も提唱している。最後に、
「早く選挙をしたい」と西山、前田、賀川は
同意している。特に冬になったら投票がしにくくなる地域があるため、冬に
なる前の選挙を期待しているようである。だが、それに続くように、議員の
歳費(給与)が安すぎて政治に専念できないとして、もっと給料を上げるべ
きだとしてこの連載が締めくくられている。民主主義のために活躍する議員
の生活の保障が大切であるといいたかったのであろうが、民主主義について
理解を深めるための座談会にしては代議制民主主義における議員の役割につ
−94−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
いて充分に説明しているとはいえない。紙面制限のある中での連載であると
いってしまえばそれまでではあるが、議員を自ら選ぶことの重要性について
はほとんど触れられておらず、民主主義国家の参政権には立候補する権利と
投票する権利の両方があることなど、国民、特に選挙権のなかった女性に理
解を促すものとなっていない。これには当初新政府が起草していた新憲法に
女性の参政権を認める文章が入れられていなかったということもその背景に
あるだろう。しかし、民主主義であるというならば現代の解釈では男女の平
等がその基本にある。この時代、非常に制限された「民主主義」がその思想
の根底にあり、その上にたっての座談会と見るべきかもしれない。
4.連載とその目的:求めるべき解
1)連載日数と紙面占有率
当時の『朝日新聞』の各紙面の基本的な構成は1段15字、おおよそ95行、
13 ~ 15段で一番下の段は現在と同じく広告が掲載される 53。また、当時の新
聞の特徴として、読点「、
」のみが使用され、句点「。」は使われていない。
連載各回の文字数は、1日目は約3,280文字、2日目は約3,880文字、3日目は
約4,340文字、4日目は約4,270文字と各回の文字数はきわめて多いというほど
ではないとしても、紙面の占有率からみれば充分に大きな連載であったとい
える。
なぜ連載で「民主主義」というテーマを取り上げたのか、なぜこの人選で「座
談会」という形式で行われたのかということは、この連載を調査・検討する
上で最も重要な要素であり、情報発信の「目的」または「意図」を探ること
である。「目的」は情報発信において最初に設定されるものであるが、情報
を受け取る側は多くの場合情報から目的を推測することになる。この連載の
目的が何かという部分が、先に提起した法則に置き換えると求めるべき 「解」
“x”に当たる。内容の質と量、タイミングを調査検討することで、なぜこの
連載が行われたのかを求めてみた。ただし、社会科学の領域では当然ながら
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
その「解」は1つであるとは限らず、
また時代背景からも、政策的な面からも、
現時点ではまだ未確認のこともあるため、あくまでも推測の域を超えること
のできない「解」も出てくるのである。
これまでの調査・検討から考えられるのは、第1に国民に対してこれから
の「民主主義」とは何かを語ることであることは明白である。これまでの軍
国主義から一大転換することが最も日本に求められている時期であり、
『朝
日新聞』が最初に「民主主義」を大々的に解説することに乗り出したことは
国内外に注目されることは意識されているはずである。第2に現在の日本で
も正しくその理解が進んだとはいいがたいと思われるが「アメリカ的価値観」
を紹介することであろう。伊藤道郎とスタンフォードで学んだ賀川を除いて
は純粋にアメリカ社会に 「暮らす」というレベルではないにせよ、ヨーロッ
パを含め海外で2,
3年の滞在経験のある人物がほとんどである。その滞在先
の多くがキリスト教文化圏であり、アメリカ的価値観をそれぞれ異なった形
ではあるが、理解するものが日本にいるということ、そしてそれを国民に伝
えていこうとしたという国内的なものだけではなく対外的な印象を意識して
いたと推測できる。基本的なマス・メディアの社会的役割として国民のため
の教育機関という能力を持つことからも「必要性」の部分においてその役割
を果たす一方で、実際には朝日新聞社の民主化への積極性を示すことがその
背景にあるもう1つの大きな目的であると考えられる。そして、その積極性
で GHQ が日本に、日本国民に要求していることが何であるのかを伝えると
いう役割を果たそうとしている。その一方で、先の「お腹をこわす」という
部分からもわかるように、一足飛びには不可能な面もまた現実であった。そ
こで西山がいうように「イギリス流」が良いと示し、すべてがアメリカ式、
何でもアメリカ式ではないということを国民だけではなく支配者たる GHQ
にも改めて示すという幾層にも重ねられた目的によってこの連載が組まれて
いると考えることはゆきすぎた推測であるとはいいきれない。
質的な要素にしても登場人物は国内外でも一級品の価値のある人物がそ
ろっており、
『朝日新聞』は発行部数では当時最大の『毎日新聞』には及ばな
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
いにしても、知識人層に読者が多いといわれてきた。その点で内容に非常に
専門的な情報が入っていることも、また同時に一般市民にもわかるようなか
みくだいた様な表現が使われていることにも納得できる面がある。
朝日新聞社の内部で様々な動きがある中で、細川のおそらく最後の仕事の
1つといえるこの座談会は、多くの意味で注目に値するものであることが今
回少し明らかになったのではないだろうか。
5.終わりにかえて
・困難な効果の検証
法則に基づく検証の重要な点の一つである 「効果」については本稿で充分
に検証することができなかった。当時は世論調査も行われておらず投書など
を掲載する紙面の余裕もない中で、いったいどのような効果があったのかを
推測する資料を見いだすにいたらず、今後さらなる検証の必要性を多く残す
こととなった。当時の人がこの連載をどう読み、どれほど理解し、そしてど
のように実践したのか、今後も手がかりを探してゆくことが求められるだろ
う。
その大きな理由の1つとして、占領期のマス・メディアがおそらく最も大
きな影響を与えたであろう戦後の日本のアメリカ観形成に関わり、この連載
は1つの大きなスタート地点であったと考えられるからである。もちろん他
にもアメリカについて、アメリカ兵について、アメリカ文化についてふれて
いる記事はいくつかある。しかし思想や価値観、社会観や宗教観、家族観に
至るまで4日間にわたってふれたものはこの「座談会」の連載が唯一といっ
てよい。そのことからも、今改めてこの「座談会」記事を読む価値はあった
と考える。ただ先述したとおり、知識人達が自分たちの共通の理解レベルで
の会話に少しだけ解説を加えたようになっており、非常に専門的な内容、専
門知識を必要とする言葉や思想、人物などが登場し、民主主義では何が今ま
でと違うのか、その端緒となる部分について充分に触れていない。この後に
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メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
くる新憲法に影響することは一切語ることができなかったのではないか、と
いう別の原因も考えられる。
実際に現代に暮らす我々にとって、
「座談会」の内容は大して目新しいもの
とはいえない。しかし、外部の情報を一切伝えられることもなく、また伝え
る役割を果たすべきマス・メディアは支配の下におかれている中で、何を求
め、何を受け入れ、何を捨てていかねばならないのか、その決断をいきなり
迫られることになった多くの日本国民にとって、前途は多難に満ちていたは
ずである。その中で、産業体としても、言論機関としても、民主化を様々な
形でむかえたマス・メディアがここで大きく成長する機会を得ていたはずで
ある。現在それが充分に成し遂げられてきたかといえば、残念ながらあまり
に隘路ばかりを邁進し、本道を通ることを避けてしまった部分のツケが来て
いるようにも思える。しかし、軍国時代と比べ日本のマス・メディアは飛躍
的に民主化し、国民にも多くの面で一定の民主的価値観を定着させることに
つながっているということはできるのではないか。
その一方で、日本では政治も経済も文化も 「なにごともアメリカの通りに」
という風潮がまるで当然のような市民権を得ている。なぜこのようなことに
なったのか、それは「日本人再教育プラン」というアメリカの政策・教育方
針がその背景にあるはずである。その「再教育」がこの後どのように日本を
変えていくのか政治、経済、文化、社会、教育の多面的な形での検証が必要
になるのだろう。現在日本では「日本を見直す」ことが多く行われており、
その主たるプレーヤーの1つはやはりマス・メディアである。このことから
も、戦後日本におけるアメリカ観形成に関する検証はまだ進むべき長い道の
りがあると考える。
1)内閣情報局:「強大な国家情報機関として新聞、雑誌の報道統制、指導、用紙の割り当
てなどの権限を持ち、言論統制の元締めの座についたのは昭和15年12月6日である。
内閣情報部が発展的解消して、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、外務省情報部、内
務省検閲課などを統合し、総員約350名でスタートしている。初代総裁伊藤述史、以後、
天羽英二、緒方竹虎、下村宏、再び緒方竹虎、河相達夫の諸氏が歴任、戦局に関する「大
−98−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
本営発表」以外の政治、経済、文化、社会、国民生活などすべての分野で広く深くマ
スコミの「文化統制」を行ったのである。主として国務相で情報局総裁を兼任した形
式をとっていたが、終戦直後の東久邇内閣では緒方竹虎が内閣書記官長に就任、情報
局総裁(再任)を兼任している。(以下略)」出典:高桑幸吉『マッカーサーの新聞検
閲 掲載禁止・削除になった新聞記事』読売新聞社 1984 p.54
2)高桑幸吉『マッカーサーの新聞検閲 掲載禁止・削除になった新聞記事』読売新聞社 1984
3)高桑 前掲書(2)p.45
4)高桑 前掲書(2)p.45 「天皇、マッカーサー元帥ご訪問」写真
5)高桑 前掲書(2)p.49
6)大井浩一『メディアは知識人をどう使ったか 戦後「論壇」の出発』勁草書房 2004 p.3
7)井上久雄『歴代の文部大臣』広島修道大学研究叢書第四三号 広島修道大学総合研究
所 1987 pp.96-7
8)馬場広明『大志の系譜 一高と札幌農学校』北泉社 1998
9)馬場 前掲書(8)pp.318-9
10)馬場 前掲書(8)p.320
11)細川隆元『朝日新聞外史〈騒動の内幕〉』秋田書店 1965
12)黒沢英典『戦後教育の源流』学文社 1994 p.9
13)黒沢 前掲書(12)p.10、前田多門『前田多門 その人・その文』1963 掲載の野村秀雄
「朝日新聞時代の前田さん」pp.157-61
14)井上 前掲書(7)
15)井上 前掲書(7)p.23
16)文部省大臣官房総務課編『歴代文部大臣式辞集』大蔵省印刷局 1969 pp.442-3
17)馬場 前掲書(8)pp.298-9
18)前田多門『前田多門 その人・その文』1963 井深大 「前田多門とソニー」 p.253
19)『高知県人名事典』高知県人名事典編集委員会 1972 pp.271-2
20)加藤俊彦・山口和雄編 『両大戦間の横浜正金銀行』1988 日本経営史研究所 p.60
21)『横浜正金銀行全史』第六巻 東京銀行編集 東洋経済新報社 1984
22)マーク・ゲイン『ニッポン日記』井上威夫訳 筑摩書房 1946 pp.129-30上 1951
23)鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』新潮社 2006
24)鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創 前掲書(23)p.315
25)満州中央銀行史研究会編 『満州中央銀行史』東洋経済新報社 1988 p.39
26)前掲書(25)『満州中央銀行史』p.336
27)大宅壮一「 世界人 賀川豊彦の秘密 日本よりむしろアメリカで有名なのは何故か」
『文藝春秋』春の増刊第2人物読本 1951 p.14上段
28)横山春一著『賀川豊彦伝』キリスト教新聞社 1951 はその後1950年に警醒社から出
版され、本稿では後者を参考としている
29)大宅 前掲書(27)p.14中段
30)大宅 前掲書(27)p.15中段
31)鈴木敏夫著『出版 好不況下 興亡の一世紀』 出版ニュース社 1970 p.309
32)マーク・ゲイン 前掲書(22) 上巻 p.86下段
−99−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
33)マーク・ゲイン 前掲書(32) 上巻 p.124上段
34)藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う 太陽の劇場をめざして』武蔵野書房 1992
35)藤田 前掲書(34)pp.15-94
36)藤田 前掲書(34)pp.136-42 藤田はリヴィングストン収容所を同じモンタナ州内に
あるとしている。
37)鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創 前掲書(23)p.385
38)藤田 前掲書(34)pp.144-5
39)藤田 前掲書(34)p.151
40)田中哲也『或る戦後史 『朝日新聞』の軌跡』汐文社 1978 pp.46-7
41)履歴出典:細川隆元『昭和人物史 政治と人脈』文藝春秋社 1956、『朝日新聞外史』
1965 秋田書店、『隆元のはだか交遊録―時事放談こぼれ話』山手書房 1978
42)細川 前掲書(11)p.10
43)細川 前掲書(11)p.110
44)細川 前掲書(11)p.111
45)細川 前掲書(11)p.112
46)細川 前掲書(11)pp.116-7
47)細川 前掲書(11)p.120
48)細川 前掲書(11)pp.120-4
49)細川 前掲書(11)p.125
50)細川 前掲書(11)p.162
51)鶴見・加藤・黒川 前掲書(23)p.314
52)伊藤道郎『アメリカと日本』八雲書店 1946 pp.8-27
53)1945年8月15日の『朝日新聞』には「告知」のような「広告」の掲載も最小限であり、
16日から2面に広告が掲載され始める。いわゆる 「商品広告」などは15日も小さく数
カ所に分けて掲載されている。
【参考文献】
青木冨貴子 『占領史追跡 ニューズウィーク東京支局長 パケナム記者の諜報日記』 新
潮文庫 2011
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アンドルー・ゴードン 『日本の200年 徳川から現代まで』 みすず書房 2006
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熊倉正弥 『言論統制下の記者』 朝日文庫 1988
久野 収・鶴見俊輔 『思想の折り返し点で』 岩波書店 2010
久野 収・鶴見俊輔・藤田省三 『戦後日本の思想』 岩波書店 2010
−100−
メディアに見る終戦直後の民主主義を語る人々(三井)
式 正次 『新聞外史』 新聞之新聞社 1958
高桑幸吉 『マッカーサーの新聞検閲 掲載禁止・削除になった新聞記事』
読売新聞社1984
田中哲也 『或る戦後史 『朝日新聞』の軌跡』 汐文社 1978
鶴見俊輔 『戦後日本の大衆文化史』 岩波書店 2001
東京銀行 『横浜正金銀行全史』 第四巻 東洋経済新報社 1982
東京銀行 『横浜正金銀行全史』 第六巻 東洋経済新報社 1984
馬場広明 『大志の系譜 一高と札幌農学校』北泉社 1998
半藤一利・竹内修司・保坂康正・松本健一 『占領下日本』(上・下) 2012
保坂康正 『昭和の戦争を読み解く 戦争観なき平和論』 中央公論社 2006
保坂康正 『新版 敗戦前後の日本人』 朝日文庫 2007
日高六郎 『戦後資料 マスコミ』 日本評論社 1970
細川隆元 『朝日新聞外史 〈騒動の内幕〉』 秋田書店 1965
増田 弘 『公職追放論』 岩波書店 1998
松浦総三 『占領下の言論弾圧』 増補決定版 現代ジャーナリズム出版会 1969、1977
松浦総三 『松浦総三の仕事2 戦中・占領下のマスコミ』 大月書店 1984
森 恭三 『私の朝日新聞史』 田畑書店 1981
マーク・ゲイン 『ニッポン日記』 上下 筑摩書房 1946
満州中央銀行史研究会 『満州中央銀行史』 東洋経済新報社 1988
百瀬 孝 『事典 昭和戦後期の日本 占領と改革』 吉川弘文館 1995
文部省大臣官房総務課編『歴代文部大臣式辞集』大蔵省印刷局 1969年
山口和雄・加藤俊彦 編 『両大戦間の横浜正金銀行』 日本経営史研究所 1988
山本武利 『占領期のメディア分析』 法政大学出版局 1996
油井大三郎 『なぜ戦争観は衝突するか 日本とアメリカ』 岩波書店 2007
吉田 裕 『日本人の戦争観 戦後史の中の変容』 岩波書店 1995
渡辺武達 『メディアと情報は誰のものか』 潮出版 2000
渡辺武達 『メディア・トリックの社会学』 世界思想社 1995
渡辺武達、山口功二 『メディア用語を学ぶ人のために』 世界思想社 1999
【参考論文】
荒瀬 豊 「占領期における報道表現の変容」『東京大学新聞研究所紀要』 No. 31 1983
pp.145-58
内川芳美 「占領期のマス・メディア」『マス・メディア法政策史研究』 有斐閣 1989
pp.239-532
加藤周一 「日本人の外国観」『思想』1962.8 pp.1-12
高畠通敏 「戦後民主主義とは何だったか」『戦後民主主義』戦後日本 占領と戦後改革 第4巻 岩波書店 1995 pp.1-21
作田啓一 「戦後日本におけるアメリカニゼイション」『思想』No. 454 1962. 4 pp. 44655
渡辺武達・野原仁 「資料から読み解く日本のメディアと社会権力 (第一部) ―放送法の
成立・改訂・運用を中心として―」 『評論・社会科学』 六十二号
『朝日新聞』 復刻版 1945年8月1日~ 12月31日 日本図書センター
−101−
三輪(ミワ)と三諸(ミモロ)
Ⅰ 三輪と三諸
(1)
前 田 晴 人
奈良盆地の東南部、南北に伸びる春日山地が初瀬川の渓谷でいったん途切れる場所に聳える山が三輪山である。
標高四六七メートルを計る優美な円錐形の独立峯で、桧・杉の巨木に覆われた山体そのものが古来より聖なる御神
体として崇められてきた。そのため三輪山への無断登拝は現在も原則として禁止になっているが、麓に鎮座する狭
(2)
井神社に申告し祓の儀礼を済ませれば入山することができ、筆者もこれまで一度だけであるが家族全員で山頂に
立った経験を持つ。その三輪山の名は『日本書紀』では次に引用する二つの記事に初出する。
是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以て、三輪山に放ち養ふ。而して終に蕃息らず。
(
『日本書紀』皇極二年是歳条)
向つ嶺に 立てる夫らが 柔手こそ 我が手を取らめ 誰が裂手 裂手そもや 我が手取らすもや
志紀上郡言さく、「人有りて、三輪山にして猿の昼睡るを見て、窃に其の臂を執へて、其の身を害らず。猿猶
合眼りて歌ひて曰はく、
−1−
(
『日本書紀』皇極三年六月条)
其の人、猿の歌を驚き怪びて、放捨てて去りぬ。此は是、数年を経歴て、上宮の王等の、蘇我鞍作が為に、膽
駒山に囲るる兆なり。
(3)
皇極二年と三年は六四三年・六四四年に当る。前の記事は百済義慈王の子余豊璋の来倭に関わるもので、豊璋は
試験的に蜜蜂の飼養を三輪山で行ったものの成功しなかったとする。数多くの万葉歌から想像して三輪山は杉・桧
などの針葉樹が卓越する原生林に覆われた山だったので、蜂の飼育のみならず蜂蜜を採取するには適しない自然環
境にあったと考えられる。
後者の記事は、三輪山が所属する志紀上郡(城上郡)の郡司から朝廷への上申内容を記したもので、三輪山で出
会った猿にまつわる怪異のことが書かれている。しかるに引用された歌謡はいずこかの衢の歌垣で採集された女性
の民謡風の歌であり、三輪山の猿の件とは直接関連性がなく、強引に上宮王家滅亡事件の予兆とみなされた作文の
挿入歌とされた。皇極朝には郡制はおろか評制もまだ施行されていなかったことから、明らかに文章全体には造作
(4)
の手が加えられている。しかし、右の記事から書紀編纂時に近い七世紀中葉頃には三輪山の名が実在したことを否
定することまではできない。
次に引用するのは『万葉集』巻一に載せる三輪山を詠じた著名な長短歌である。
額田王の近江国に下りし時作る歌、井戸王すなはち和ふる歌
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに
つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや
−2−
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや
(『万葉集』巻一―十七・十八)
右二首の歌、山上憶良大夫の類聚歌林に曰はく、都を近江国に遷す時に三輪山を御覧す御歌そ。日本書紀に
曰はく、六年丙寅の春三月辛酉の朔の己卯、都を近江に遷すといへり。
題詞からわかるように、これらの歌は天智天皇の近江大津宮遷都時のものであり、天皇御製歌とする一説を記す。
天智六年は六六七年に当り、飛鳥から近江に移住する王族・貴族らは、大和・山背国境の奈良山を越える時に三輪
山との別離の想いを歌に託したのである。そうすると、七世紀後半期には三輪山の山名は確かに存在したことにな
る。
ところで、読者の中には三輪山は古来より一貫して三輪山と呼ばれていたのではないか、それは常識であって今
さら何を問題にするのかという疑問を懐く人がいるかも知れないのであるが、検討してみればわかるように三輪山
(『万葉集』巻二―一五六・一五七)
の名は早くとも七世紀になってから登場する新しい山名で、それ以前は三輪山とは呼ばれていなかったと考えられ
るのである。次に引用する万葉歌が初源の山名を探る手がかりとなるだろう。
十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の御作歌
三諸の 神の神杉 夢にだに 見むとすれども 寝ねぬ夜ぞ多き
三輪山の 山辺真麻木綿 短木綿 かくのみ故に 長しと思ひき
−3−
(5)
十市皇女の死没は天武七(六七八)年四月である。書紀は皇女が急病により宮中で薨じたとし、遺骸を赤穂に埋
葬したとする。赤穂は城上郡忍坂郷の赤尾であると推定される。高市皇子は皇女の異母兄で、壬申の乱において皇
女の夫大友皇子を征討する側の大将軍の地位にいた人物であり、不幸な状態に追い込まれていた皇女に心を寄せて
い た よ う で あ る。 天 武 天 皇 と と も に 皇 女 の 喪 葬 の 場 に 参 会 し た 皇 子 は 、 埋 葬 地 の す ぐ 近 く に 聳 え る 三 輪 山 を 想 起 し
つつこれらの歌を作ったのではあるまいか。その中で皇子は「三諸の神」と「三輪山」とを同時に詠じている。前
者の表現では三輪山を「三諸」という神に見立て、神山に生い繁る神杉(触れることのかなわない存在である皇女)
をせめて夢の中にだけでも見てみたいという願望を述べている。後者は山辺の木綿が神聖な木綿であることを言う
)
(9)
−4−
ために三輪山の名が用いられている。なぜこのような二つの表現が同時にとられているのであろうか。
(8)
「三諸の神」とは神体山である三輪山の神を指し、「三諸」が三輪山の源初の呼び名であったことを暗示する。「三
(6)
(7)
諸」という山名・地名に関しては、大和国内では飛鳥の神奈備山(神岳)や平群郡の神岳神社が鎮座する山を「三
(
諸」
・
「三室山」と呼んだ事例があり、山背国相楽郡の鹿背山・紀伊郡の御諸神社(御香宮)
・宇治郡の三室戸山(三
室戸寺)などはいずれも神体山の信仰と関係があるようであるが、三輪山ほどの古い歴史的由緒を保持するもので
三諸つく 三輪山見れば 隠口の 泊瀬の桧原 思ほゆるかも
「三諸つく」とは「三諸」を築くという意味だとされている。「三諸(御諸・三室)」の語義については、
『時代別
(
『万葉集』巻七―一〇九五)
う名で呼ばれていた神山なのである。そのことを端的に示す歌を次に引用しておこう。
はなく、むしろ神名・山名の起源は大和の三諸山にあるとみなしてよいであろう。三輪山は本来「三諸の山」とい
((
国語大辞典』
(上代篇)に「神の降り来臨する場所。神を斎き祀る樹叢。神社(もり)。また、神座としての樹。神木、
神籬の類」と説き、『岩波古語辞典』は「〔ミは接頭語。モロはモリ(杜)と同根、神の降下して来る所〕鏡や木綿
をかけて神をまつる神座」と解説している。『万葉集』巻三―四二〇の長歌に「わが屋戸に 御諸を立てて」とあ
るように、「御(三)諸」は屋外にも家宅内にも造られる神座であり、巻七―一三七七の歌には「木綿懸けて 祭
る三諸の」とあるように、どこにでも作られる小規模な神座が一般的であった。
「諸(モロ)」の本来の語義がなお
学問的には確定していないようであるが、神が依り憑く場所を意味していることは間違いなさそうであり、三輪山
は山体そのものが「三諸」と観念されていて、単なる自然の山ではなかったことが重要なのである。殊に三輪山中
には大規模な磐座群が存在し、山麓部にも磐座が散在している。先ほど引用した高市皇子の歌には全山を覆い尽く
(
)
(
)
((
−5−
す神杉のことが歌われていた。このように「三諸」とは神霊の座そのものであるとみなされた三輪山の山体そのも
のを表す語であったと言えるのである。
(
『万葉集』巻九―一七七〇)
次に同じく『万葉集』には、天武・持統朝頃に活躍した大三輪朝臣高市麻呂の歌が収められている。
大神大夫の長門守に任けらえし時に、三輪川の辺に集ひて宴する歌
三諸の 神の帯ばせる 泊瀬川 水脈し絶えずは われ忘れめや
((
西麓に鎮座する大神神社の神官家(大神神主)であり、三輪の神だけには特別に「神=三輪=美和」と読み習わす
((
大神大夫は大三輪朝臣高市麻呂のことである。三輪氏の歴史において議政官に就任し最も著名な事績を遺した人
( )
( )
物は高市麻呂を措いてほかにはない。神の字は一般に「加微(カミ)」と訓まれたが、大神(大三輪)氏は三輪山
((
(
)
慣例が形成された。高市麻呂は大宝二(七〇二)年正月長門守に任ぜられ、一族の者が初瀬川のほとりに参集し任
官を祝賀する宴を開いたのである。祝宴の場所を題詞には三輪川の辺とするが、三輪山の南西麓の辺りでは泊瀬川
の流れを三輪川と呼び習わしたからである。なぜかと言うと、「三諸の神の帯ばせる泊瀬川」と記すように、その
部分の泊瀬川は「三諸の神の帯」と観念されていたからであり、山麓から泊瀬川のラインまでが「三諸の神」の神
威が及ぶ聖域であったと想定することもできる。
本歌について興味深いのは、「神=三輪」を氏名とする高市麻呂が三輪山を敢えて「三諸の神」と詠んでいるこ
とにあり、「三諸」と「三輪」、あるいは「三諸山」と「三輪山」とは内容において同じものではなく、異質な概念
なのではないかと考えられるのである。正確な言い方をすると、高市麻呂にとって「三輪山」と「三諸」とは明確
に区別すべき存在であったのではなかろうか。つまり三輪山という山名が出現するのは先ほど述べたようにかなり
新しい時期のことであり、「三諸」あるいは「三諸山」というのが源初以来の山号であったと考えられるのである。
これまでは「三輪」と「三諸」とを厳密に区別しようとする意識が希薄で、「三諸山」と「三輪山」とを同じもの
として扱う習慣が根づいてしまっているように思われるが、史料に対するこれまでの姿勢を少し変えてみるだけで、
我々の前には別の世界が開けて見えてくるのである。
三諸の その山並に 子らが手を 巻向山は 継ぎのよろしも
(『万葉集』巻七―一〇九三、
一〇九四)
そこでさらに、柿本人麻呂歌集に載せる短歌を二首紹介しておこう。巻七に「山を詠む」とある三歌のうちの二
首がそれである。
我が衣 色どり染めむ 味酒 三室の山は 黄葉しにけり
−6−
((
(『万葉集』巻二―九四)
三輪山に隣接して巻向山が聳えている。人麻呂はそれらの山並の光景の良さを称賛しているのであるが、三輪山
を「三諸のその山」「三室の山」と呼んでいるのは、これらの名称が人麻呂には馴染み深いもので、三輪の山名を
歌に詠み込むことをはばかる心意が働いていた可能性を窺わせる。
内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌
次の歌も作者が題詞通りであれば七世紀後半のものである。
玉くしげ みむろの山の さなかづら さ寝ずはつひに ありかつましじ
或る本の歌に曰はく、玉くしげ三室戸山の
「みむろの山(「三室戸山」)」を引き出す枕詞の「玉くしげ」は、後で引用する『日本書紀』崇神十年九月条に載
せる伝承に由来するようである。その伝承には神の籠る山のことを「御諸山」と書いており、三輪山ではなかった。
鎌足や鏡王女の時代には「三輪山」の名はまだそれほど宮廷社会にも普及し定着していなかったことを暗示してい
ると思われるのである。
Ⅱ 『日本書紀』の「三諸山」伝承
本章では『日本書紀』に出てくる三輪山の伝承を網羅的に検討しようと思う。前章で引用した『万葉集』など
の文献には三輪山のことを「三諸」「三室」などと表記していることが明らかになったが、
『日本書紀』は関連記事
−7−
十一カ条を掲載している。それらのうち「三輪山」の名は意外にも前章の冒頭で引用した皇極紀の二つの記事にし
か出てこず、他の古い伝記にはすべて「三諸山」または「御諸山」「御諸岳」の名が記されているのである。記載
順を追って史料ごとに逐条解釈を施しながら問題点を明らかにしていきたい。
〔史料①〕
(
『日本書紀』神代上・第八段・一書第六)
神なり。此の神の子は、即ち甘茂君等・大三輪君等、又姫蹈韛五十鈴姫命なり。
は日本国の三諸山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち宮を彼處に営りて、就きて居しまさしむ。此、大三輪の
然なり。廼ち知りぬ。汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処にか住まむと欲ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾
「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対へて曰はく、
「吾は是汝が幸魂奇魂なり」といふ。大己貴神の曰はく、
「唯
時に、神しき光海に照して、忽然に浮び来る者有り。曰はく、「如し吾在らずは、汝何ぞ能く此の国を平けましや。
吾が在るに由りての故に、汝其の大きに造る績を建つこと得たり」といふ。是の時に、大己貴神問ひて曰はく、
この神話は大三輪の神と大己貴神の問答から成っている。話の舞台は大和ではなく出雲であるが、焦点とされて
いるのは「日本国の三諸山」である。大己貴神は出雲に幽居していることになっていたので、大三輪の神はわざわ
ざ出雲にまで出向き大己貴神と対面交渉を行うことにしたのである。
さて、海に浮かんでやってきた大三輪の神が大己貴神に対して、汝の国作りの功績は自分にもあるのだときわめ
て横弊なことを言い、自分は汝の幸魂・奇魂であると主張したのを受けて、大己貴神はその発言をすべて容認し、
しからばどこに住みたいかと問うと、自分は「三諸山」に住みかを得たいと述べたので、宮を造営して居住させた
−8−
と記す。文章の最後に「此、大三輪の神なり」とあり、またその子孫は甘茂君・大三輪君らだと記すので、この神
(
)
の正体は大物主神とみなしてよい。因みにこの神話は甘茂(鴨)氏の家記にある文章が採択されたものとみられる。
話の最も肝心なところは、大物主神が大己貴神に対して自己の神霊(幸魂・奇魂)の同化を主張し容認されてい
ることであって、この容認を受けて大物主神は「三諸山」に居住することが認められたのである。ただし、注意す
べきはこれ以後すぐに大物主神が「三諸山」の神になったのではなく、
「宮を彼處に営りて、就きて居しまさしむ」
と記述する通り、山の麓の「宮」に鎮座したということである。問答の主体は大己貴神であり、またこの神は当時
には出雲に幽居していたとはいえ、「三諸山」こそが大己貴神の本来の住処であったと考えなければならない。大
己 貴 神 を「 三 諸 山 」 の 地 主 と 考 え な け れ ば こ の 問 答 で 問 題 に な っ て い る 諸 事 項 が ま っ た く 成 り 立 た な く な る か ら で
ある。
書紀に引用する右の神話は三輪山の根源的な神霊が何であるのか、また大三輪の神と呼ばれた大物主神がどのよ
うな形で三輪山麓に鎮座するに至ったのか、大物主神がなぜ「大三輪の神」と呼ばれたのかなどの歴史的由来を究
明するための重要な言説であると言えるであろうし、さらに三輪山の本源的な名が「三諸山」であったことを示す
貴重な素材ともなっている。「三諸山」は大己貴神に対応する山名だったのであり、「三輪山」は大三輪の神=大物
主神の鎮座と密接な関係のある山名であると判断できるだろう。もっと別の言い方をするならば大物主神は「大三
(
)
輪」という地名の成立と深い歴史的関係にあった神であると判断することができるのである。
『出雲国造神賀詞』は杵築大社を奉祀する出雲臣が都において行う服属儀礼の際に唱えた祝詞の詞章である。そ
の文章のなかに大物主神の鎮座次第が記されている。
−9−
((
(上
略)すなはち大穴持命の申し給はく、『皇御孫命の静まり坐さむ大倭の国』と申して、己が命の和魂を八咫
((
の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛𤭖玉の命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
(下略)
。
大己貴神の和魂(分霊)とされる大物主神の神体を憑依させた八咫鏡が「大御和の神奈備」にもたらされたとす
る。大物主神の分霊を依り憑かせた神体が鏡だと明言していることと、もうひとつ「御諸の神奈備」ではなく「大
御和の神奈備」に神が鎮座したとあるのが重要で、大物主神は三輪の神という本質を保持する神だったことがわか
るのである。
〔史料②〕
是の後に、倭迹迹日百襲姫命、大物主神の妻と為る。然れども其の神常に昼は見えずして、夜のみ来す。倭迹
迹姫命、夫に語りて曰はく、「君常に昼は見えたまはねば、分明に其の尊顔を視ること得ず。願はくは暫留り
たまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を覲たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく、「言理灼然なり。
吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏に
密に異ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂に美麗しき小蛇有り。其の長さ大さ衣紐の如し。則ち驚きて叫啼
ぶ。時に大神恥ぢて、忽に人の形と化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、
「汝、忍びずして吾に羞せつ。吾還
りて汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚を踐みて、
御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て、
悔いて急居。
則ち箸に陰を撞きて薨りましぬ。乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。是の墓は、
日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手逓伝
にして運ぶ。時人歌して曰はく、
大坂に 継ぎ登れる 石群を 手逓伝に越さば 越しかてむかも
−10−
(『日本書紀』崇神十年九月条)
右の説話は神妻である皇女と夫である大物主神との聖婚儀礼と箸墓造営伝承とを一続きの話にまとめたもののよ
う で あ る。 皇 女 の 行 為 が 神 を 怒 ら せ 聖 婚 が 破 綻 し た の に 立 派 な 墓 が 造 ら れ た と い う 筋 書 き は 明 ら か に 矛 盾 し て い る
が、いずれにせよ、大物主神の籠る山が「御諸山」であるというのは〔史料①〕の解釈に大きく抵触する。私見に
よれば「御諸山」の本来の神は大己貴神であったのだから、この説話は原話にあった大己貴神の名を伝記の作者が
大物主神に書き換えたことを推定しなければならず、また皇女も同じく書き換えられた架空の女性であり、本来は
女王卑弥呼の聖婚のことと王陵の造営にまつわる伝承であったとしなければならない。箸墓は『魏志』倭人伝に出
(
)
来臨するというのが源初の祭儀形態であったと推考される。大型建物群は女王宮というより王権を支える首長会議
のための政庁と推定され、「御諸山」こそが初期ヤマト王権の最高守護神大己貴神が鎮座する聖山であったと考え
−11−
る卑弥呼の陵とみなしてよいからであり、説話の筋書きに矛盾が生じているのは原伝承が大幅な改作を受けた証拠
であると言える。
)
社の神殿建築に類似するという結論から、王宮内に神が祀られていたとする解釈が行われているが、そのような見
(
ところが当時の祭式はそうではないとする議論がある。初期ヤマト王権の時期には神と天皇が「同殿共床」の状
態であったとする解釈、すなわち纒向遺跡で発掘された三世紀前半期の大型建物群の復元構造が伊勢神宮・出雲大
人格神との聖婚儀礼という形式で執行したのであり、大己貴神は「御諸山」の神霊であったとされねばならない。
「御諸山」に鎮座した大己貴神は祭儀の行われる夜に女王宮に来臨し聖婚祭儀が執行された。別稿でも論じたよ
うに大己貴神は本邦初発の人格神であったと考えられ、四世紀以前の初期ヤマト王権は女王の祭儀を「御諸山」の
((
解は記・紀記述との整合を強引に図ろうとする誤解であって、神は宮外の聖地にとどまり、そこから時期を限って
((
られるのである。
〔史料③〕
治らむ。弟は是悉く四方に臨めり。朕が位に継げ」とのたまふ。
(
『日本書紀』崇神四十八年正月条)
を食む雀を逐る」とまうす。則ち天皇相夢して、二の子に謂りて曰はく、「兄は一片東に向けり。当に東国を
刀す」とまうす。弟活目尊、夢の辞を以て奏して言さく、「自ら御諸山の嶺に登りて、縄を四方に絚へて、粟
明に、兄豊城命、夢の辞を以て天皇に奏して曰さく、「自ら御諸山に登りて東に向きて、八廻弄槍し、八廻撃
天皇、豊城命・活目尊に勅して曰はく、「汝等二の子、慈愛共に斉し。知らず、曷をか嗣とせむ。各夢みるべ
し。朕夢を以て占へむ」とのたまふ。二の皇子、是に、命を被りて、浄沐して祈みて寝たり。各夢を得つ。会
崇神天皇の二子(豊城命・活目尊)が皇嗣の資格を有していた。天皇はいずれに嗣位を継承させるかを案じ、夢
占で決めることにした。二子はいずれも「御諸山」に登り独自の行為をそれぞれ行う夢を見たが、弟の所作が天下
統治に適う行為と判定した天皇は皇嗣を活目尊(垂仁天皇)に譲ったという。
次期天皇を決定するのに「御諸山」への王族の登拝が慣例になっていたことを推定する解釈は誤りであろう。二
子はあくまでも夢を見ただけであって、実際に登山したわけではないのである。「御諸山」が王権にとって重要な
聖山としての性格を有する山であったこと、また伝承によると「御諸山」は神体山とは言えしばしば人間が登拝し
た形跡があることも理解でき、また「御諸山」の巓が何らかの王権祭儀の舞台とされた事情を推定することも可能
であろう。しかし、皇嗣の決定に関わるそのような慣例の存在はこの伝記以外には典拠がないので認めることはで
−12−
(
)
きない。それよりも、何らかの宮廷伝承に基づいて作られた右の伝記に三輪山の名が出てこないのは、この伝記が
大物主神の祭儀とは無関係な系統から出たものだったからであると考えられる。
( )
『新撰姓氏録』にも豊城
『古事記』崇神段には豊木入日子命(豊城命)は「上毛野、下毛野君等之祖也」とあり、
入彦命は上毛野朝臣・下毛野朝臣・池田朝臣・住吉朝臣・池原朝臣・上毛野坂本朝臣・車持公など北関東出身の諸
氏族の共同の先祖とされていること、蝦夷征討に関わる伝承を伴っていることから、毛野国に蟠踞した有力な諸氏
((
族が創成した虚構の祖先とみられ、『日本書紀』景行五十五年二月条によると、
「彦狭嶋王を以て、東山道の十五国
の都督に拝けたまふ。是豊城命の孫なり。然して春日の穴咋邑に到りて、病に臥して薨りぬ。是の時に、東国の百
姓、其の王の至らざることを悲びて、窃に王の尸を盗みて、上野国に葬りまつる」とあり、さらに次の伝記には豊
城命の曽孫御諸別王の事績を記す。
〔史料④〕
き政を得つ。時に蝦夷騒き動む。即ち兵を挙げて撃つ。時に蝦夷の首帥足振辺・大羽振辺・遠津闇男辺等、叩
頭みて来り。頓首みて罪を受ひて、盡に其の地を献る。因りて、降ふ者を免して、服はざるを誅ふ。是を以て、
東、久しく事無し。是に由りて、其の子孫、今に東国に有り。
(
『日本書紀』景行五十六年八月条)
この伝承では「御諸」は王族の名とされている。「御諸山」での豊城命の夢占が子孫の王名の由来となっている
「汝が父彦狭嶋王、任さす所に向ること得ずして早く薨りぬ。故、汝専東国を領めよ」
御諸別王に詔して曰はく、
とのたまふ。是を以て、御諸別王、天皇の命を承りて、且に父の業を成さむとす。則ち行きて治めて、早に善
−13−
((
のであろう。御諸別王はもとより架空の人名であろうが、王の系譜上の祖先とする勢力が「御諸山」の神を地元に
勧請し蝦夷征討を遂行した事績を、王権への最も重要な仕奉事項として書き記したものが書紀に採択されたのであ
る。上野国群馬郡伊香保神社・山田郡美和神社、下野国都賀郡大神神社・河内郡二荒山神社・那須郡温泉神社・同
(
)
郡三和神社などの延喜式内社は、「御諸山」の神が実際に当地方に広く勧請されていた事実を物語っており、天武
十年に上毛野君三千が書紀編纂部局員のひとりに任命されたことが、彼らが保持していた祖先伝承が伝記の採択に
関わっている可能性がきわめて高いであろう。
〔史料⑤〕
是今、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり。
(『日本書紀』景行五十一年条)
是本より獣しき心有りて、中国に住ましめ難し。故、其の情の願の隨に、邦畿之外に班らしめよ」とのたまふ。
里に叫び呼ひて、人民を脅す。天皇聞しめして、群卿に詔して曰はく、
「其の、神山の傍に置らしむる蝦夷は、
則ち朝庭に進上げたまふ。仍りて御諸山の傍に安置はしむ。未だ幾時を経ずして、悉に神山の樹を伐りて、隣
初め、日本武尊の佩せる草薙横刀は、是今、尾張国の年魚市郡の熱田社に在り。是に、神宮に献れる蝦夷等、
昼夜喧りとよきて、出入礼無し。時に倭姫命の曰はく、「是の蝦夷等は、神宮に近くべからず」とのたまふ。
の東国遠征を契機として尾張国の熱田神宮に献上され、その後「御諸山」の麓の地域に移置され、さらに教化の度
天皇の統治に服した東国辺境の蝦夷を内国各地に分居させる政策を描いた文章である。右は大化以前の例として、
( )
地方の佐伯直の統率下に置かれた佐伯部が西日本各地に配属された事情を記す。服属蝦夷らは分居以前に日本武尊
((
−14−
((
合いが進展した段階で一律に佐伯部の名を授け各地に分居させたとする。この文章には「神山(カミノヤマ)」と
いう語が二カ所にみえており、「御諸山」のことを表した語で、これを三輪山と訓読していない点に留意すべきで
ある。これも三輪君の家伝とは別系統の伝承に由来があるからと考えられる。
〔史料⑥〕
たまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷とす。
(『日本書紀』雄略七年七月条)
したまはず。其の雷虺虺きて、目精赫赫く。天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れ
曰さく、「試に往りて捉へむ」とまうす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒
天皇、少子部連蜾蠃に詔して曰はく、「朕、三諸岳の神の形を見むと欲ふ。 或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為
ふといふ。或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。汝、力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。蜾蠃、答へて
勇猛な雄略天皇の事績として著名な説話である。神をも恐れぬ天皇は「三諸岳の神」の正体を実見したいと思い、
臣下に神の捕捉・連行を命じたが、その化身が荒ぶる大蛇であったので、畏怖の念に囚われた天皇は神を山に放却
せざるを得なかったとする。分註に「此の山の神をば大物主神と為ふといふ」とあるのは、大物主神を奉祀する三
輪君の家記に出る伝記と推定され、本文に書かれた「三諸岳」の神が大己貴神であることを暗黙のうちに認めるも
のと言える。この史料の典拠は少子部連の家記であろう。
−15−
〔史料⑦〕
(『日本書紀』継体七年九月条)
隠国の 泊瀬の川ゆ 流れ来る 竹の い組竹節竹 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴す 御 諸 が 上 に 登 り 立 ち 我 が 見 せば つ の さ は ふ 磐 余 の 池 の 水 下 ふ 魚 も 上 に 出 て 歎 く や す み し し
我が大君の 帯ばせる 細紋の御帯の 結び垂れ 誰やし人も 上に出て歎く
「御
この歌は天皇の送葬に関わる挽歌としての性質を帯びている。いつの時代のものかは判断に迷うが、初瀬川・
諸」・磐余池などが歌の題材になっており、「御諸」に登り笛を吹き、眼下の磐余池を望むという構図によって、磐
余付近に宮都が置かれていた六世紀代のいずれかの天皇の葬礼歌とみなすことができるであろう。
〔史料⑧〕
むとす」とのたまふ。是に綾糟等、懼然り恐懼みて、乃ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面ひて、水を歃りて盟
ひて曰さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、 古語に生児八十綿連といふ。清き明き心を用て、天闕に事へ奉らむ。
臣等、若し盟に違はば、天地の諸の神及び天皇の霊、臣が種を絶滅えむ」とまうす。
(
『日本書紀』敏達十年閏二月条)
東国辺境の蝦夷を王都に集め服属儀礼を挙行した記事である。初瀬川の川原で「三諸岳」に向かって子子孫孫に
「惟るに、儞
蝦夷数千、辺境に寇ふ。是に由りて、其の魁帥綾糟等を召して、 魁帥は、大毛人なり。詔して曰はく、
蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬し、原すべき者は赦す。今朕、彼の前の例に遵ひて、元悪を誅さ
−16−
わたって天皇への仕奉を盟約する文言を唱えさせたものである。大足彦天皇の世を持ち出すなどは造作とみなすこ
(
)
とができるが、服属儀礼の内容として川原での禊祓と「三諸岳」の神への誓いという行為は具体性に富み、東国政
策が盛行した欽明・敏達朝期の史実として認めてもよいと考えられる。なお、文章の最後に「天皇の霊」という言
葉が出ていて、「三諸岳」に代々の「天皇の霊」が籠っているのだと解釈される向きも多いのであるが、
そうではなく、
あくまでも「三諸岳」は大己貴神の「三諸」であると解釈すべきである。
〔史料⑨〕
穴穂部皇子、炊屋姫皇后を奸さむとして、自ら強ひて殯宮に入る。寵臣三輪君逆、乃ち兵衛を喚して、宮門を
重璅めて、拒きて入れず。穴穂部皇子問ひて曰はく、「何人か此に在る」といふ。兵衛答へて曰はく、
「三輪君
逆在り」といふ。七たび「門開け」と呼ふ。遂に聴し入れず。是に、穴穂部皇子、大臣と大連とに謂りて曰は
く、「逆、頻に礼無し。殯庭にして誄りて曰さく、『朝庭荒さずして、浄めつかへまつること鏡の面の如くにし
て、臣、治め平け奉仕らむ』とまうす。即ち是礼無し。方に今、天皇の子弟、多に在す。両の大臣侍り。詎か
情の恣に、専奉仕らむと言ふこと得む。又余、殯内を観むとおもへども、拒きて聴し入れず。自ら『門を開けよ』
と呼へども、七廻応へず。願はくは斬らむと欲ふ」といふ。両の大臣の曰さく、「命の隨に」とまうす。是に、
穴穂部皇子、陰に天下に王たらむ事を謀りて、口に詐りて逆君を殺さむといふことを在てり。遂に物部守屋大
連と、兵を率て磐余の池辺を囲繞む。逆君知りて、三諸岳に隠れぬ。是の日の夜半に、潛に山より出でて、後
宮に隠る。 炊屋姫皇后の別業を謂ふ。是を海石榴市宮と名く。逆の同姓白堤と横山と、逆君が在る處を言す。穴穂部皇子、
即ち守屋大連を遣りて 或本に云はく、穴穂部皇子と泊瀬部皇子と、相計りて守屋大連を遣るといふ。曰はく、
「汝往きて、逆君
并て其の二の子を討すべし」といふ。大連、遂に兵を率て去く。蘇我馬子宿祢、外にして斯の計を聞きて、皇
−17−
((
子の所に詣でしかば、即ち門底に逢ひぬ。 皇子の家の門を謂ふ。大連の所に之かむとす。時に諫めて曰さく、
「王た
る者は刑人を近つけず。自ら往すべからず」とまうす。皇子、聴かずして行く。馬子宿祢、即便ち隨ひて去き
て磐余に到りて、 行きて池辺に至るぞ。切に諫む。皇子、乃ち諫に従ひて止みぬ。仍りて此の處にして、胡床に踞
坐げて、大連を待つ。大連、良久しくして至れり。衆を率て報命して曰さく、
「逆等を斬し訖りぬ」とまうす。
或本に云はく、穴穂部皇子、自ら行きて射殺すといふ。是に、馬子宿祢、惻然み頽歎きて曰はく、
「天下の乱は久しからじ」
といふ。大連、聞きて答へて曰はく、「汝小臣が識らざる所なり」といふ。 此の三輪君逆は、譯語田天皇の寵愛みたまひ
し所なり。悉に内外の事を委ねたまひき。是に由りて、炊屋姫皇后と馬子宿祢と、倶に穴穂部皇子を発恨む。
(『日本書紀』用明元年五月条)
敏達天皇の殯宮儀礼の際に皇位を窺う穴穂部皇子の策動が顕在化する。天皇の寵臣であった三輪君逆は皇子が殯
宮に押し入ろうとするのをあくまでも拒み続けたので、皇子とその背後にいた物部大連守屋に命を狙われるのであ
る。逆は磐余の池辺から逃げ出して本拠地の「三諸岳」に隠れ、引き続いて炊屋姫の別業にも逃げ込んだが、その
居場所がついに発覚して殺されることとなる。三輪君逆の動向を軸に文章が組み立てられていることが知られるの
だが、この長文は宮廷に伝えられた文書を典拠としており、三輪山のことを「三諸岳」と記しているのも伝記の出
所が何であるかを示唆するものと思われる。六世紀後半から末期の頃には三輪山の名はまだ存在していなかったと
言わなければならないだろう。
*
「三
以上の検討の結果、『日本書紀』には三輪山の源初の名を「三諸山」「御諸山」「御諸岳」などと書いており、
輪山」の名が初めて登場するのは七世紀中葉の皇極朝前後の時期であると推断することができ、しかもその時期に
−18−
はまだ三輪山の名は宮廷社会全体に認知されていたわけではなかったのである。
なぜこのような現象が起きているのかと言えば、「三諸山」という山名が神体山の初源の名であり、初期ヤマト
王権が祀った初発の人格神・大己貴神が籠る聖山だったからである。ところが、六世紀中葉ないし後半期に三輪君
の一族が大物主神を奉戴して「三諸山」の麓に入部し、彼らの居所を自ら「三輪・美和・神」と称するようになる
と、神名をも「大三輪の神」と唱え、やがて「三諸山」にもその論理を押し及ぼそうとして「三輪山」と称する動
きが出てくるのである。「三輪」と「三諸」とは歴史的に由来の異なる概念であって明確に区別すべきであり、大
物主神が「大三輪の神」と呼ばれているのは、この神が「三輪」あるいは「大三輪」の神域で祀られていたからに
)
他ならず、「三諸山」は大物主神の神体であったのではなく、あくまでも大己貴神の神体山だったと考えなければ
(
((
−19−
ならないのである。
そもそも「三輪」は「三諸山」の広大な神域全体からみれば山麓部のほんの一角の地域に過ぎず、そこが三輪君
の拠点となり、三輪君が政治的に成長することにより大物主神を「三諸山」の神体に擬する動きが起こるようにな
前章では『古事記』に記載する関係伝承からの引用を全て省いておいた。書紀とは編纂方針が異なることを重視
( )
したからである。本章では『古事記』が三輪山をどのように扱っているのかを検討してみることにする。
Ⅲ 『古事記』の「三諸山」伝承
証であると考えなければなるまい。
るのである。「三輪山」という山名が遅れて登場するのは、山麓でそのような動きが萌し始めたことに即応する徴
((
〔史料A〕
答へ言りたまひき。此は御諸山の上に坐す神なり。
(『古事記』神代巻)
ししく、「然らば治め奉る状は奈何にぞ」とまをしたまへば、「吾をば倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉れ」と
我が前を治めば、吾能く共與に相作り成さむ。若し然らずば国成り難けむ」とのりたまひき。爾に大国主神曰
是に大国主神、愁ひて告りたまひしく、「吾独して何にか能く此の国を得作らむ。孰れの神と吾と、能く此の
国を相作らむや」とのりたまひき。是の時に海を光して依り来る神ありき。其の神の言りたまひしく、
「能く
国作りの助成を愁い願う大国主神のもとにある神がやって来て、私をきちんと祀るならば国作りを協賛してやろ
うと語ったので、大国主神が、ではどのようにすればよいのかと質せば、その神は「私を大和の山並の東の山の上
に祀れ」と応えた。この神こそは御諸山に坐す神であるという筋書きである。この伝承は前章で引用した〔史料①〕
の内容に対応する神話で、大国主神と名を明かさない神との対話の形式をとっているのも同様である。
この文章には「三輪山」も「三輪」という地名もともに出てこない。ある神が「倭の青垣の東の山」と指示して
いる山は明白にも三輪山のことなのであるが、両神のやりとりが出雲国で行われたためにこのような回りくどい言
い方になったのであり、文章の作者は最後に念を押す形で「御諸山」のことだと断りの文言を付け加えているので
ある。
ではなぜ三輪山の名が用いられず「御諸山」と断らねばならなかったのかと言えば、ある神が鎮座しようと指示
した山はもとから「御諸山」という名であったからだと答えるしかないだろう。この山の源初の名が「御諸山」だっ
たので、当然のごとく「御諸山」と書き記したのである。もし三輪山の名が初めから存在していたならば三輪山と
−20−
書くべきところを、そうではなかったので「御諸山」とせざるを得なかったのである。ということは、論理的には
ある神が「御諸山」に鎮座するようになって以後、「御諸山」が三輪山とも呼ばれるようになったという経緯を想
定しなければならないであろう。
前章では三輪山が「御諸山」と「三輪山」という二つの山名を有していた事実を明らかにした。また、三輪山の
山号はようやく七世紀中葉頃に初めて登場し、源初には「御諸山」と呼ばれていた事実も明らかになった。そうす
ると、三輪山が「御諸山」と呼ばれていた当時の神は一体何なのかという疑問が湧いてくるであろう。ある神が「御
諸山」に鎮座することになるより前の時期には、それとは違う神がこの山の主であったと推測することができるか
らである。だが、答えはしごく簡単である。出雲に幽居した大国主神こそが「御諸山」の本源の神であったと考え
(『古事記』神代巻)
−21−
ることができる。大国主神は諸国を巡遊した後に出雲国に辿りつき、そこで天孫に国譲りをして杵築大社に鎮座し
たのである。右の神話は、大国主神の本居である「御諸山」に、海を照らしてやって来たある神が大国主神と交替
する形で鎮座した事情を述べているのだと言えるだろう。だから、文章が両神の対話の形式をとっているのである。
しかるに、私は前章で「三諸山」の根源神を大己貴神であると判定した。だが『古事記』は明白にも大国主神と
している。神名が記・紀で異なる根拠は一体何なのかと言えば、次に引用する記述が今の疑問に対する答えになる
だろう。
( )
大国主神。亦の名は大穴牟遅神と謂ひ、亦の名は葦原色許男と謂ひ、亦の名は八千矛神と謂ひ、亦の名は宇都
志国玉神と謂ひ、并せて五つの名有り。
((
『古事記』の編者は国作り・国譲りをした国ツ神の主役を大国主神とした。ところが大国主神と同じような働き
をしたとされる神は他にもおり、それらの神々にまつわる神話が『古事記』には混在しているのである。大国主神
はある場合には大穴牟遅神の事績と入れ代えられたり、葦原色許男の話に転化されたりしているのである。右に挙
示された五神の名はいずれも異なっているが、皆一様に同質・同類の国家創成神とされており、神格において同質・
同類であるということが亦名の列挙という簡便な手法で実現されているのである。
し か し、 そ も そ も 神 名 が 異 な る と い う こ と は こ れ ら の 神 々 の 神 格 の み な ら ず 歴 史 的 由 来 が 異 な る こ と を 意 味 し て
おり、多様な性格や由緒を無視して同一神としている理由は、大国主神を国ツ神の総帥にまつりあげ、高天原の主
神 で あ る 天 照 大 神 と 対 応 す る パ ン テ オ ン の 構 図 を 創 り 出 す 目 的 か ら で あ っ た と 言 わ ざ る を 得 な い。 天 照 大 神 も 大 国
主神も記・紀神話を構成するために案出された最新の神なのであり、大穴牟遅神は大国主神以前の神話における古
い国家創成神であったとみなすことができる。
このように〔史料①〕と〔史料A〕の比較検討によって大己貴神こそが「御諸山」の主神であったことが明らか
になったが、『古事記』には王権すなわち天武天皇の意向が強く反映していると考えることができ、天照大神(高
天原)―大国主神(葦原中国)の構図が律令神祇体制の基本構想になったと言うべきである。
次は『古事記』神武段の説話を引用する。
〔史料B〕
故、日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶して生める子は、多芸志美美命、次に岐須美美命、
二柱坐しき。然れども更に大后と為む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく、「此間に媛女有り。是を
神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿麗美しかりき。
−22−
故、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れ下り
て、其の美人の富登を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎。乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に
置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、
亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂ふ。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり」とまをしき。
是に七媛女、高佐士野に遊行べるに、伊須気余理比売其の中に在りき。爾に大久米命、其の伊須気余理比売を
見て、歌を以ちて天皇に白しけらく、
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし枕かむ
とまをしき。爾に伊須気余理比売は、其の媛女等の前に立てりき。乃ち天皇、其の媛女等を見したまひて、御
心に伊須気余理比売の最前に立てるを知らして、歌を以ちて答曰へたまひしく、
かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
とこたへたまひき。爾に大久米命、天皇の命を以ちて、其の伊須気余理比売に詔りし時、其の大久米命の黥け
る利目を見て、奇しと思ひて歌曰ひけらく、
あめつつ 千鳥ま鵐 など黥ける利目
とうたひき。爾に大久米命、答へて歌曰ひけらく、
媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目
とうたひき。故、其の嬢子、「仕へ奉らむ」と白しき。是に其の伊須気余理比売命の家、狭井河の上に在りき。
天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして、一宿御寝し坐しき。
話の内容はこうである。日向から大和に東征した神武天皇は、大和平定後に新たな后妃を探そうとした。そこで
−23−
親衛隊長の大久米命が天皇の意を体して高佐士野に遊ぶ七媛女を見出し、イスケヨリヒメと交渉した結果彼女が后
妃となることが決まった。イスケヨリヒメの母はセヤダタラヒメという女性で、
「美和の大物主神」に見染められ
て身籠った「神の御子」であった。イスケヨリヒメは狭井河のほとりに住んでいたが、そこは「御諸山」の麓に当
る聖域であり、天皇はわざわざヒメの家に出向いて一夜を共にしたとする。
当該説話の主旨は、大和を平定した天孫の神武天皇が国ツ神の血を引く嬢子と結婚し、これから生まれ来る天皇
の子孫は皆国ツ神の加護と承認を得て大和国の統治を行うことができるようになったということに尽きる。その場
合、大和国を代表する神が「美和の大物主神」とされているのは、大物主神が大和国内で最も勢威ある国ツ神とさ
れていたからであるのだが、問題は、ここで初めて「美和の大物主神」という神名が明確になることであろう。〔史
神ではなかったのである。
)
−24−
料A〕では新たに「御諸山」に鎮座することになる神の名が明記されていなかった。〔史料B〕で初めてその神名
が明かされたわけであるが、注意すべきは「美和の大物主神」と名乗っていて、「御諸」または「御諸山」の神と
は記されていないことである。なぜ大物主神は「御諸山」の神とされず、わざわざ「美和」を冠称としているので
あろうか。それは大物主神が「御諸」ではなく「美和」に所縁のある神だと認識されていたからである。
(
「美和(ミワ)」とはすでに述べたように三輪山の西麓に開けた小地域で、奈良時代以後は「大神(於保无和)郷」
と呼ばれ、初瀬川右岸の桜井市三輪・金屋・芝付近が該当する地域である。「美和」は大神神社の所在地であると
同時にその神官家である三輪君一族の本拠地でもあった。大神神社の公式名称は「大神大物主神社」であり、通称
)
ミワ)
」は聖なる三輪の意味の地名であって、「美和の大物主神」という表記は「大神大物主神社」の社名と対応し
(
としては「大神神社」(神祇令・天神地祇条、同季春・鎮花祭条、同仲冬・上卯相嘗祭条)であった。「大神(オホ
((
ていることがわかる。つまり、大物主神は「大神=美和」の地に鎮座する神なのであって、本質的に「御諸山」の
((
〔史料C〕
此の天皇の御世に、疫病多に起りて、人民死にて盡きむと為き。爾に天皇愁ひ歎きたまひて、神牀に坐しし夜、
大物主大神、御夢に顕れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古を以ちて、我が御前を祭ら
しめたまはば、神の気起らず、国安らかに平らぎなむ」とのりたまひき。是を以ちて駅使を四方に班ちて、意
富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努村に其の人を見得て貢進りき。爾に天皇、「汝は誰が子ぞ」
と問ひ賜へば、答へて曰ししく、「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘売を娶して生める子、名は櫛御
方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕意富多多泥古ぞ」と白しき。是に天皇大く歓びて詔りたまひしく、
「天の下平らぎ、人民栄えなむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以ちて神主と為て、御諸山に意富美
和の大神の前を拝き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命に仰せて、天の八十毘羅訶を作り、天神地祇の社を定め
奉りたまひき。又宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、又大坂神に墨色の楯矛を祭り、又坂の御尾の神及河の瀬
の神に悉に遺し忘るること無く幣帛を奉りたまひき。此れに因りて役の気悉に息みて、国家安らかに平らぎき。
此の意富多多泥古と謂ふ人を、神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依毘売、其の容姿端正しかりき。是に
壮夫有りて、其の形姿威儀、時に比無きが、夜半の時にたちまち到来つ。故、相感でて、共婚ひして共住る間
に、未だ幾時もあらねば、其の美人妊身みぬ。爾に父母其の妊身みし事を恠しみて、其の女に問ひて曰ひけら
く、「汝は自ら妊みぬ。夫无きに何由か妊身める」といへば、答へて曰ひけらく、「麗美しき壮夫有りて、其の
姓名も知らぬが、夕毎に到来て共住める間に、自然懐妊みぬ」といひき。是を以ちて其の父母、其の人を知ら
むと欲ひて、其の女に誨へて曰ひけらく、
「赤土を床の前に散らし、閉蘇紡麻を針に貫きて、其の衣の襴に刺せ」
といひき。故、教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通りて出でて、唯遺れる麻は三
勾のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。
−25−
故、其の神の子とは知りぬ。故、其の麻の三勾遺りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。 此の意富多多
泥古命は、神君、鴨君の祖。
(『古事記』崇神段)
崇神天皇の世に疫病が大流行し人民が死に絶えるという危機に見舞われた。その現象の原因が大物主神の意志に
よるものだと察知した天皇は、神の告げに現れたオホタタネコという人物を河内に探しあて、彼が大物主神の子孫
であることを知って神主に任じることにし、「御諸山に意富美和の大神」を拝祭させることにしたという。そして、
オホタタネコなる人物の素姓を詳しく調べてみると、母である活玉依毘売のもとに夜な夜な通ってくる男の正体が
わからず、一計を案じて調べてみたところ、男の住まいが「美和山」の「神の社」であることが判明したため、オ
ホタタネコが「神の子」であったことがわかったとし、最後にオホタタネコは神(三輪)君・鴨君の先祖であると
記される。
この伝記は明らかに三輪・鴨両氏らの家記から採択された文章で、大物主神を主体としてオホタタネコの出自を
記す目的で書かれたものである。まず、興味深いのは文章中に「御諸山」と「美和山」が重ねて出てくることで、
前段では「御諸山に意富美和の大神」を拝祭せよと命じ、「意富美和の大神」つまり大物主神を「御諸山」の神と
して祀ることがうたわれている。『古事記』の論理では「御諸山」は大国主神が鎮座する山であることをすでに指
摘しておいた。大物主神はあくまでも「意富美和の大神」なのであって、右の主張は三輪君らの僭上的あるいは希
望的な心意・目論見を吐露したものと考えてよい。すなわち三輪君らは自分たちの奉祀する大物主神を「御諸山」
の神に据えるという欲求を露わにし、王権もそのことを承認して書かれた文章であると思われる。
伝記の後段では、正体不明の男の住まいが「美和山」の「神の社」にあったと記されている。ここではなぜか「御
−26−
諸山」がいつの間にか「美和山」という名にすり変わっている。その理由はすでに読者が察しているように、「御
諸山」は大己貴神に固有の山名なのであり、その他の神が恣意的に名乗れるものではなかったからである。そこで
三輪君らは「御諸山」の名を「美和山」に変更し、大物主神は「美和山」の神であるかのように書き記したのである。
ところが、大物主神の具体的な奉祀形態はすでに指摘しておいたように「宮」つまり神殿祭祀の形態であった。だ
から正体不明の男は「神の社」に留まったと記したのである。「神の社」は『日本書紀』に引用する次の伝記には「神
宮」あるいは「三輪の殿」とある。
天皇、大田田根子を以て、大神を祭らしむ。是の日に、活日自ら神酒を挙げて、天皇に献る。仍りて歌して曰はく、
此の神酒は 我が神酒ならず 倭成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
如此歌して、神宮に宴す。即ち宴竟りて、諸大夫等歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を
茲に、天皇歌して曰はく、
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を
即ち神宮の門を開きて、幸行す。所謂大田田根子は、今の三輪君等が始祖なり。
(
『日本書紀』崇神八年十二月条)
右の伝記は大物主神の祭儀とそれに関わる酒宴を描いている。天皇・大田田根子らは「神宮」で行われた酒宴の
後朝に「三輪の殿」から「殿門」を開いて散会していく。「三輪の殿門」は「神宮の門」とも言いかえられていて、
「神宮」=「三輪の殿」という関係が成り立つ。これを強引に現在の大神神社の社殿構成に当てはめることは誤りで、
−27−
(
)
「神宮=三輪の殿」は大物主神を奉祀した神殿であると解釈すべきである。
(
)
大神神社はおそらく歴史的には最も早く神殿建築を採用した神社と推定することができる。大物主神は「御諸山」
でも「美和山」でもなく、実際には三輪山麓の神殿で祀られた神であったと言うべきであろう。
「美和山」はその
とまをしき。是に天皇、大く驚きて、「吾は既に先の事を忘れつ。然るに汝は志を守り命を待ちて、徒に盛り
で八十歳を経き。今は容姿既に耆いて、更に恃む所無し。然れども己が志を顕し白さむとして参出しにこそ」
き。爾に赤猪子、答へて白ししく、「其の年の其の月、天皇の命を被りて、大命を仰ぎ待ちて、今日に至るま
し事を忘らして、其の赤猪子に問ひて曰りたまひしく、「汝は誰しの老女ぞ。何由以参来つる」とのりたまひ
悒きに忍びず、とおもひて、百取の机代物を持たしめて、参出て貢献りき。然るに天皇、既に先に命りたまひ
く、命を望ぎし間に、已に多き年を経て、姿体痩せ萎みて、更に恃む所無し。然れども待ちし情を顕さずては、
ひて、宮に還り坐しき。故、其の赤猪子、天皇の命を仰ぎ待ちて、既に八十歳を経き。是に赤猪子以為ひけら
赤猪子と謂ふぞ」とまをしき。爾に詔らしめたまひしく、「汝は夫に嫁はざれ。今喚してむ」とのらしめたま
亦一時、天皇遊び行でまして、美和河に到りましし時、河の辺に衣洗へる童女有りき。其の容姿甚麗しかり
き。天皇其の童女に問ひたまひしく、「汝は誰が子ぞ」ととひたまへば、答へて白ししく、
「己が名は引田部の
〔史料D〕
神殿に奉仕していた三輪君の熱望によって唱え出された新しい山名と考えなければならないのである。
((
の年を過ぐしし、是れ甚愛悲し」とのりたまひて、心の裏に婚ひせむと欲ほししに、其の極めて老いしを憚り
御諸の 厳白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原童女
て、婚ひを得成したまはずて、御歌を賜ひき。其の歌に曰ひしく、
−28−
((
といひき。又歌曰ひたまひしく、
引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましもの 老いにけるかも
とうたひたまひき。爾に赤猪子の泣く涙、悉に其の服せる丹摺の袖を湿らしつ。其の大御歌に答へて歌曰ひけ
らく、
御諸に つくや玉垣 つき余し 誰にかも依らむ 神の宮人
日下江の 入江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも
とうたひき。又歌曰ひけらく、
(『古事記』雄略段)
とうたひき。爾に多の禄を其の老女に給ひて、返し遣はしたまひき。故、此の四歌は志都歌なり。
)
の貞潔と頑固さを称賛する内容になっているようである。
(
)
読すると天皇が身分の低い女性を蔑にした悲劇的で侘びしい話のようにみえるが、この説話は神に仕え通した女性
説明する。天皇は驚愕したものの老齢の彼女をどうすることもできず、禄を与えて追い返してしまったとする。一
子は命令に従い天皇の召しを待つが、八十歳に至るまでも声がかからなかったので、ついに御前に参向して事情を
に「神の宮人」とあるのがそれで、天皇はその場で彼女に対して宮中への召し出しを待てと命じたのである。赤猪
族の支配下にある部民出身の童女で大物主神に仕える巫女であったと推定される。四首の歌謡のうち第三首目の歌
((
−29−
(
雄略天皇が野遊びして美和河の辺りを訪れた。初瀬川中流域の美和の付近で、大物主神のテリトリーと考えてよ
い地である。そこで天皇は美麗な童女と邂逅する。引田部赤猪子という名であった。引田は延喜式内社の曳田神社
が鎮座する桜井市白河付近の地名で、当地には三輪引田君を名乗る三輪君の同族が居住していた。赤猪子はこの豪
((
赤 猪 子 が 童 女 の ま ま 八 十 歳 の 老 齢 に 至 っ て し ま っ た と い う 筋 書 き は、 神 に 仕 え る 巫 女 の 一 生 を 暗 示 す る も の で あ
る。美和の地に踏み込んだ雄略天皇は大物主神の下級巫女を強引に召し上げようとした。天皇の権力を振りかざし
たのである。しかし巫女は神の妻であるから決して天皇の命令には従えないのである。赤猪子は死ぬまで神妻であ
り続けたと言うべきであって、天皇が赤猪子のことをど忘れしてしまったというのは説話作者のさかしらによる造
作であり、赤猪子は自身に課せられた天職を全うしたと言うべきなのである。
この伝記には「御諸」を詠み込んだ二首と、ストーリーに適いそうな創作歌及び河内日下の民謡が二首付け加え
られている。これらの歌は赤猪子の件とは内容的に関係があるようには思えない。とりわけ、赤猪子の印象を「御
諸」に奉祀する「白橿原童女」と重ねようとする態度は矛盾に充ちている。赤猪子はその出自や天皇との邂逅の場
から推考して大物主神に奉仕する巫女なのであり、一首目に出てくる「白橿原童女」は大己貴神に仕えた巫女であ
ると考えられる。「御諸」の神とは大物主神ではなく大己貴神を指すのであり、知ってか知らずか説話の作者は「美
和」と「御諸」の歴史的・本質的な相異を混同し、赤猪子を「御諸」の神に仕える巫女に準えようとしたのである。
「御諸」に奉祀する「白橿原童女」の原像は次の二つの史料に登場する皇女とみるべきだろう。
〔史料ア〕
百姓流離へぬ。或いは背叛くもの有り。其の勢、徳を以て治めむこと難し。是を以て、晨に興き夕までに惕り
て、神祇に請罪る。是より先に、天照大神・倭大国魂神、二の神を、天皇の大殿の内に並祭る。然して其の神
の勢を畏りて、共に住みたまふに安からず。故、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託けまつりて、倭の笠縫邑
に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。亦、日本大国魂神を以ては、渟名城入姫命に託けて祭らしむ。然るに渟
名城入姫、髪落ち体痩みて祭ること能はず。
−30−
〔史料イ〕
(
『日本書紀』崇神六年条)
(
『日本書紀』垂仁二十五年三月条所引一云)
一に云はく、天皇、倭姫命を以て御杖として、天照大神に貢奉りたまふ。是を以て、倭姫命、天照大神を以て、
磯城の厳橿の本に鎮め坐せて祀る。然して後に、神の誨の隨に、丁巳の年の冬十月の甲子を取りて、伊勢国の
渡遇宮に遷しまつる。
)
−31−
。次の垂
天照大神を崇神天皇の世に「倭の笠縫邑」の「磯堅城の神籬」で祭ったのが豊鍬入姫である〔史料ア〕
仁朝には倭姫命が「磯城の厳橿の本」に鎮座させて祭ったとする〔史料イ〕
。おそらく「笠縫邑」の「磯堅城の神籬」〔史
(
料ア〕と「磯城の厳橿の本」〔史料イ〕とは同じ場所・同じ祭場を指しており、
「御諸山」麓の聖域で天照大神つま
り太陽神が皇女の手で祀られた由来を伝えるものである。
表している。この祭壇に仕えた巫女が「白橿原童女」すなわち書紀に記された二人の皇女像であろう。
観を想像してよいだろう。〔史料ア〕ではこの祭場を「磯堅城の神籬」と表現しているが、石列で囲まれた祭壇を
右の史料に記す「磯城の厳橿の本」〔史料イ〕とは磯城の地にある大きな橿の樹の根元を意味し、この橿が先の
歌に出る「御諸」の「白橿」を指していると考えられる。「白橿原」は橿の樹叢を表すので、橿の樹が群生する景
((
Ⅳ 結語
本論を執筆した主な目的は、「三輪山」と「三諸山」が歴史学的にも神話学的にも異質な山であることを究明す
ることであった。両者は同一の山を指すのであるが、山名の背後に隠れている異質性をあぶりだし、それぞれの山
名が別個の神の祭儀・信仰と対応することを明らかにしようとした。結論を言うならば、「三諸山」は大己貴神の
神体を意味し、「三輪山」は大物主神の神体山に擬せられた。これまでの研究では両者は同じものとして把握され、
そのために「三輪山」と大物主神の関係が古来より一貫して続いてきたとする考え、さらに大物主神を奉祭する大
神神社は最古の神社であるというような誤解に充ちた観念・イメージが学界にも一般社会にも定着してしまったの
である。われわれはそのような思い込みをもはや払拭する勇気を持つ必要があるだろう。
「 三 諸 山 」 の 大 己 貴 神 は 初 期 ヤ マ ト 王 権 の 親 祭 の 対 象 と な っ た 国 家 創 成 神 で、 本 論 で も 指 摘 し て お い た よ う に 本
邦初発の人格神にして唯一の王権守護神であった。記・紀神話によれば大己貴神は諸国巡遊の後に出雲に至り杵築
大社に幽居したとされ、神話の筋書きに沿って大己貴神の出雲鎮座とその承認を経て大物主神が「三諸山」の神に
なったと考えてきた。ところが、大物主神の奉祀形態を調べてみると、
「神の宮」
「神の社」という神殿祭祀の形態
をとっていることが明らかであり、大物主神は「三諸山」の神ではないことが明確になったのである。
大物主神を奉祀したのは王権の核を成す王族ではなく三輪君・鴨君などの祭官氏族で、とりわけ三輪君一族は六
世紀以後彼らが本拠地とした土地を三輪(美和・神)と称し、その政治的勢力が拡大するにつれて「大三輪」の神威、
換言するならば大物主神を「三諸山」の神とみなす動きが生じ、「三輪山」という新たな山名が生まれるようになっ
たのである。「三諸山」は大己貴神の神体山であり続けたからであって、大物主神がこの山の名を僭称することは
できなかったからである。そこで、平安初期になり三輪氏らは氏祖神たる大物主神に代えて大国主神の後裔である
−32−
ことを強調するようになり、大国主神が「御諸山」に鎮座した由来を述べることによって自分たちの年来の希望を
適えようと画策したようである。左に引用した祖先伝承がそれである。
大神朝臣は素佐能雄命の六世の孫、大国主の後なり。初め、大国主神は三嶋の溝杭耳の女玉櫛姫を娶る。夜未
だ曙けざるに去り、未だかつて昼に到らず。ここに玉櫛姫は苧を績み衣に係け、明るに到りて苧に隨いて尋ね
(
『新撰姓氏録』大和国神別・大神朝臣条)
覓むるに、茅渟県の陶邑を経て、直ちに大和国の真穂御諸山を指す。還りて苧の遺りを視るに、唯だ三縈のみ
有り。これに因り姓を大三縈と号す。
)
−33−
大国主神は〔史料A〕にある通り「御諸山の上」に坐す神とされ、記・紀神話に大国主神と大物主神は同体の神
であるとされていた。そこで巧みな論理を駆使して「真穂御諸山」は自己の先祖の神の鎮まる山であると主張され
ているのである。だが、三輪氏は氏姓の根源とみなす苧の「三縈」遺るとする伝承にこだわったために、「御諸山」
と「三縈」とをどうしても整合的に解釈できず、内容的に不自然な文章になってしまっているのである。
ところが平安時代末から鎌倉時代初め頃に三輪の地で次のような新たな動きが顕在化した。それまで大物主神を
大神神社の神殿において祀ってきた三輪氏は、拝殿のみを遺して神殿を破却し、この祭祀形態が本来のあり方であ
(
ることを確認し主張しようとした。藤原清輔(一一〇四~一一七七年)の『奥儀抄』中之下に次のごとき伝聞が記
されている。
或人云、このみわの明神は、社もなくて、祭の日は、茅の輪をみつつくりて、いはのうえにおきて、それをま
((
つる也。社のおはさぬあやしとて、里のものどもあつまりてつくりたりければ、からす百千いできたりて、く
ひやぶりふみこぼちて、その木どもをば、をのをのくはへてゆきさりにけり。其後神のちかひとしりてつくら
ずとぞ。
三 輪 明 神 に は 古 来 神 殿 が 無 い の だ と い う こ と を 疑 問 視 し た 里 人 ら は 集 ま っ て 神 殿 を 造 営 し た が、 烏 の 群 れ が や っ
て来てことごとくその建物を食い破ってしまった。その後は神の誓いとして神殿は造営しなかったと書かれている。
三輪の神官家は自らが神殿を造営したことはないという言い訳のために、里人がそれを造営したことにし、烏の怪
異を持ち出して神殿破却の正当化を図っているのだと言えるだろう。大神神社から大物主神の神殿が消えたのは平
−34−
安末期のことと考えられる。その後、神官家はさらに次のような解釈を施して「三輪山」の神の体系化を図ったの
である。
( )
当社は古来宝殿無く、唯だ三箇鳥居有るのみ。奥津磐座は大物主命、中津磐座は大己貴命、辺津磐座は少彦名
命なり。
(『大三輪神三社鎮座次第』)
諸山」の最も高所に所在する磐座群の神霊となったのである。この措置がその後現代にまで続く大三輪祭祀の原型
い的な行為だったと考えることができる。そして、大物主神は右に説明されているように、遂に歴史上初めて「三
右は鎌倉時代の嘉禄二(一二二六)年に大神神社の神官が著した書の冒頭部分に記された文章である。神殿破却
の影響をもろに受けたのは言うまでもなく大物主神である。破却の意図は大物主神を「三諸山」に祀るための露払
((
だということを明確に認識しなければならない。そして忘却すべきではない肝心なことは、大己貴神の神座が「三
諸山」に遺されたということであろう。「三諸(みもろ・みむろ)」という古代語が現代に至るまでも決して廃滅し
−35−
なかった由緒がここにあると言うべきである。
〔註〕
景山春樹『神体山』
(学生社、一九七一年)。大神神社史料編修委員会『大神神社史』
(一九七五年)。三輪山文化研究会編『神奈備・
(1) 大神・三輪明神』
(東方出版、一九九七年)。中山和敬『大神神社』
(学生社、一九九九年)。前田晴人『三輪山―日本国創成神の原像』
(学生社、二〇〇六年)。
本論で使用するテキストは日本古典文学大系『日本書紀』上・下(岩波書店、一九六五年、一九六七年)である。
(2) 『日本書紀』舒明三年三月条に「百済の王義慈、王子豊章を入りて質とす」とある。
(3) 本論で使用するテキストは日本古典文学大系『万葉集』一~四(岩波書店、一九五七年、一九五九年、一九六〇年、一九六二年)
(4) である。
『日本書紀』天武七年四月七日条に「十市皇女、卒然に病発りて、宮中に薨せぬ」とあり、同月十四日条に「十市皇女を赤穂に葬る。
(5) 天皇、臨して、恩を降して発哀したまふ」と記す。
『万葉集』巻三―三二四、九―一七六一、十三―三二六六などの歌にみえる神岳・神名火山・神辺山。岸俊男は明日香の橘寺の南
(6) 側に聳える山の巓付近に小字「ミハ山」のあることに着目し、この山を飛鳥の三諸と推考した。岸俊男『宮都と木簡』(吉川弘
文館、一九七二年)、同『日本古代宮都の研究』(岩波書店、一九八八年)、同『日本の古代宮都』(岩波書店、一九九三年)
。
延喜式内小社の神岳神社は生駒郡斑鳩町神南の標高八二メートルの三室山(神奈備山)に鎮座する。『万葉集』に散見する磐瀬
(7) の杜との関係は不明である。
鹿背(賀世)山は聖武天皇の恭仁京造都計画の主軸とされた山(『続日本紀』天平十三年九月十二日条)で、『万葉集』巻六―
(8) 一〇五九の長歌に「三諸つく鹿背山」とある。
『延喜式』神名帳・山城国紀伊郡の項に「御諸神社」を著録する。現在は京都市伏見区桃山御香宮門前町の御香宮となっている。
(9) 社名の「御諸」の由来が明確ではないが、北隣の伏見稲荷神社が稲荷山の「磐境」信仰を本質としていることを考慮すると、
豊臣秀吉の伏見築城以前に神奈備山の信仰が存在した可能性があるだろう。
)『山
州名跡志』(雄山閣、一九七六年)巻之十五、宇治郡三室戸の項参照。
(塙書房、一九六一年)。
)『懐
風藻』に極位・極官として「従三位中納言大神朝臣高市麻呂(年五十)」と記す。直木孝次郎『壬申の乱』
(
(
11 10
井上辰雄「三輪朝臣高市麻呂」(『大美和』一二三号、二〇一二年)を参照。
『日本書紀』神代上・第五段・一書第七に「岐神、此をば布那斗能加微と云ふ」とあり、皇極三年七月条にも「柯微」の訓がみ
( ) えている。
三輪君(大三輪朝臣)に関しては前掲註(1)論著のほか、志田諄一「三輪君」
(『古代氏族の性格と伝承』雄山閣、一九七二年)。 ( ) 阿部武彦「大神氏と三輪神」(『日本古代の氏族と祭祀』吉川弘文館、一九八四年)。佐々木幹夫「三輪君氏と三輪山祭祀」(『日本歴史』
四二九、一九八四年)。和田萃「三輪山祭祀の再検討」(『日本古代の儀礼と祭祀・信仰』下、塙書房、一九九五年)。平林章仁『三
輪山の古代史』白水社、二〇〇〇年)。鈴木正信「神部直氏の系譜とその形成」(『日本歴史』七八〇、二〇一三年)。同「大神氏
の系譜とその諸本」(『日本古代氏族系譜の基礎的研究』東京堂出版、二〇一二年)等を参照。
( )ミワという地名・氏名の由来については須恵器・神酒・蛇体・紡麻三勾(苧遺三縈)などさまざまな語釈があり不明である。
私見は「ミ(聖なる)+ワ(吾・我)」と解釈し、大物主神の鎮座を起源として成立した語と考えている。オホミワはミワをさ
らに讃美する意味を帯びる語である。
『続日本紀』大宝二年正月十七日条。
( ) 神霊の分化・同化の問題については拙稿「倭大国魂神の創祀について」(『大阪経済法科大学論集』一〇五、二〇一四年)で論じ
( ) ている。
日本古典文学大系『古事記・祝詞』(岩波書店、一九五八年)所収。
( ) 前田晴人「女王卑弥呼の聖婚祭儀と三諸山伝承」(別稿予定)。
( ) 黒田龍二『纒向から伊勢・出雲へ』(学生社、二〇一二年)。同「古墳時代から律令時代における神社成立の諸相」(『古代文化』
( ) 五九四、二〇一三年)。黒田は崇神紀六年条にみえる「天照大神・倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之内」の記述を史実と解し議
論を進めているが、これは書紀神代下・第九段・一書第二に記載された天照大神の祝言、「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、
常に吾を視るがごとくすべし。與に床を同くし殿を共にして、斎鏡とすべし」との文言に基づく紀編者の造作文と判断すべきで、
律令制以前の祭祀形態を反映するものではないと考えている。
( )佐伯有清『新撰姓氏録の研究』本文篇(吉川弘文館、一九六二年)。
佐伯有清『新撰姓氏録の研究』考證篇第一・第二(吉川弘文館、一九八一年、一九八二年)。中林隆之「古代和泉地域と上毛野系氏族」
( ) (『和泉市史紀要』第十一集、二〇〇六年)。
『日本書紀』天武十年三月十七日条。
( ) 押部佳周「佐伯直と凡直」(『芸備地方史研究』四四、一九七二年)。
( ) 熊谷公男「蝦夷の誓約」(『奈良古代史論集』一、一九八五年)。
( ) 律令制の郷名に「大神郷」があるが、大神神社境内を中心とする現在の桜井市三輪・金屋・芝を含む地域が該当すると考えられる。
( ) −36−
12
13
14
16 15
19 18 17
21 20
25 24 23 22
(
(
(
(
(
(
(
(
)本論で使用するテキストは日本古典文学大系『古事記・祝詞』(前掲註( ))。
)『日
本書紀』神代上・第八段・一書第六に、「一書に曰はく、大国主神、亦の名は大物主神、亦は国作大己貴命と号す。亦は葦
原醜男と曰す。亦は八千戈神と曰す。亦は大国玉神と曰す。亦は顕国玉神と曰す」とあり、亦名の論理を用いて国ツ神の同一
神化を図っている。斎部広成撰『古語拾遺』には「大己貴神〈一の名は大国主神。一の名は大国魂神なり。大和国城上郡大三
輪神是なり〉と少彦名神〈高皇産霊尊の子。常世国に遁きましき〉と共に力を戮せ心を一にして、天下を経営りたまふ」と記し、
大己貴神が大三輪神の中軸だとする見解を提示している。
)大神神社の摂社・大直禰子神社(大御輪寺)境内の発掘調査により、付近一帯が六世紀以後三輪君本宗の居館や大神寺が所在
した土地であるらしい事実が解明されている。前園実知雄「大直禰子神社と前身遺構」(『大美和』一一二号、二〇〇七年)。
)前掲註( )を参照。
)大物主神を奉祀した古代神殿の所在は明らかではないが、現在の拝殿・三箇鳥居のさらに奥の禁足地に所在した土壇(「御正殿
跡」)がその遺跡である可能性が高いと考えられる。禁足地では三世紀後半に遡る土器片だけでなく、子持勾玉・滑石製模造品・
有孔円板・臼玉・須恵器などが出土しており、継続的な祭祀遺跡としての性格を保持している場所であることがわかる。
)神社及び神殿建築の起源・実相については多様な論議があるところで学説的にはまだ帰一していない。最新の研究としては『古
代文化』五九四号〈特輯・古墳時代から律令時代への祭祀の変遷(上)二〇一三年〉を参照。住吉大社の場合には露天の「沙庭」
が祭儀空間とされていたような記述があり(仲哀記)、源初には海浜の聖域で祭儀が行われていたと推考されるが、書紀では皇
后が「斎宮」に入って神祭を執行したと記す(神功摂政前紀)。斎宮は祭儀のつど建て替えられた可能性が高く、これが住吉造
神殿の祖型とみられるであろう。杵築大社に関しては、斉明五年是歳条に出雲国造に命じて「修厳神之宮」とある。書紀神代下・
第九段・一書第二の「汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の
宮を造る制は、柱は高く大し。板は広く厚くせむ」とあり、この言説を大社造神殿の初見とみなす見解も多いが、六世紀に大
己貴神を大和の三諸山から勧請した際に杵築の神宮が初めて建設されたと推定する。その場所は『古事記』神代巻に「出雲国
の多芸志の小濱に、天の御舎を造りて」と伝えているように、現社殿とは別地であった可能性もある。前田晴人『古代出雲』(吉
川弘文館、二〇〇六年)。
)『和
名類聚抄』に大和国城上郡辟田郷を著録する。郷域は不明で諸説あるが、桜井市白河付近とする通説に従っておく。
)『日
本書紀』天武十三年五月条に三輪引田君難波麻呂の名がみえ、『続日本紀』神護景雲二年二月七日条には「大和国人従七位
下大神引田公足人、大神私部公猪養、大神波多公石持等二十人賜姓大神朝臣」とあり、三輪引田氏は本宗家である大三輪朝臣
氏の分岐氏族とみることができる。『大神神社史料』第一巻・史料篇(吉川弘文館、一九六八年)所収の『三輪高宮家系』によ
ると、「引田君之祖」は宇留斯の子牟良であると記し、『大神朝臣本系牒略』には赤猪の尻付に「大神引田朝臣祖」とある。
)前田晴人前掲註( )論考、同「欽明天皇の磯城嶋金刺宮について」(『大阪経済法科大学地域総合研究所紀要』六、二〇一四年)
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参照。
『大神神社史料』第一巻・史料篇(前掲註(
( ) 『大神神社史料』第一巻・史料篇(前掲註(
( ) 36 35
))所収。
))所収。
33 33
−38−
執筆者紹介(執筆順)
堀 内 泰 紀 教養部教授
加 納 義 彦 教養部教授
三 井 愛 子 教養部講師
前 田 晴 人 教養部教授
2015年1月20日 印刷
2015年1月31日 発行
編 集 兼
発 行 者
大阪経済法科大学経法学会
発 行 所
〒581-8511 大阪府八尾市楽音寺 6 丁目10番地
大 阪 経 済 法 科 大 学
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FAX (072)941-4426
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Edited By
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6-10 Gakuonji, Yao City, Osaka, Japan, 581-8511
January, 2015
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