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2009年(平成21年)

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2009年(平成21年)
(平 成 21年 )3月 1日
2009年
同窓会報
四 日市 高校
(1)第 66号
恥ず かしくな い行動を
同窓会員の皆様には、ご健勝にて、
ご活躍のこととお喜び申し上げます。
が﹂
いた はず の、武 士道 に代表 さ れ る 日
平素は本校教育活動に暖 か いご支
援ご協力を賜り、心から感謝し てお
で の長 い歴 史 の中 で培 い身 に つけ て
日本 の こ こ
本 人 固有 の伝 統的 精 神 ﹁
ろ﹂ が あ った はず な のに、 今 や そ の
県
学 校 長 大橋 一
最近、と みに気 にな
る こと が あ る。 そ れ
は、官公庁、会社、銀
行、デ パート、交通機
る人たち の客 に対す る
関等 の窓 口業務 に携わ
であ る。 つく られ た マ ニ ュア ル 通 り
応対 の仕方 の味気なさ
学校教育 では、国 では平成 8
1年 に
会 話 。 人 に 操 ら れ て動 い て い る ロ
ボ ツト のよ うだ 。◆ ロボ ット と は、
のセリ フを 忠 実 に守 って い る のみ の
0年 ぶ り に教 育 基本 法 が 改 正 さ
約6
れ、 これ から の教育 のあ るべき姿 と
た感 が し ま す 。 し かし 、昨 年 秋 か ら
委員会 より四日市高等学校長を命ぜ
られ着任 いたしました。非力 ではあ
さ て、私は昨年 4月に三重県教育
指導 要領が実施される予定 です。
育振 興基本計画が策定され、新学習
∼公教育再生 の第 一歩∼﹂ とし て教
育三法 の改 正が提言されました。教
儡 ﹂ と あ る。 ◆幼 児期 よ り 、 T V、
マンガ 、ゲ ー ム機 で育 ち 、 や が て、
力 が な く て地位 に い るだ け の人 。 愧
他 人 に 操 縦 さ れ て動 く 人 。 実
間﹂ ﹁
﹁
複 雑 巧妙 な装
広 辞 苑 ﹂ に よ れば ﹁
置 に よ る 人 工 の自 動 人 形 。 人 造 人
始 ま った 世 界 的 金 融 恐慌 に よ り、 全
て のも のが 原 点 にもど った今 、 精 神
りますが、母校 のために全力尽くす
ケ イ タ イ電 話 に メー ル、 パ ソ コンと
目指す理念が明らかにされました。
翌年 には ﹁
社会総がかりで教育再生
ち は 、 き ち ん と し た教 育 を受 け た 人
的 に もす べて原 点 にもど し 、 国 も企
主なね らいは、学校組織 の力 と当
ります。
た ち であ り ま し ょう が、 なぜ こう
所存 です。よろしくお願 いします 。
す。 ﹁
恥 の文 化 ﹂ と いう 言 葉 も 死 語
に な った のか、 ﹁
世 間 様 に 恥ず か し
為 さざ る こと あ り、 し か る後 に 為す
お く べき か と いう点 で心 に残 った言
人
葉 が あ り ま し た 。 そ れは 孟 子 の ﹁
動 す ると き にど う いう ことを 念 頭 に
た っては これ ら の気 持 ち を 徹 底 し て
る こ と が 出 発 点 であ り、 教 育 に あ
いけ な いと いう こと を身 に つけ さ せ
点 では な いか と思 います 。 良 い こと
を進 め る以前 に、 これだ け は し ては
う決 心 を つけ さ せ る こと が 教 育 の原
への信頼 と当事者能力 の向上と学校
上 で公立高校 の大学入試 での善戦が
昨年 に続き特集され ています。教 員
す るなど生徒 の精進と努力 の成果が
大きく出 ています。
昨春 の特徴として、 いく つか の誌
ます 。私立大学 へは 677名が合格
立大学 に 100名近くが合格し、国
公立大学には 231名が合格し てい
検定協会は、毎年年末に 一年 の世相 ら の信頼獲得 です。
変﹂
さ て、 四日市高等学校は、 日頃 の
漢字 を決定し ています。昨年は ﹁
0
でした。世界金融危機など東海地 区 皆様方 の熱 いご支援に支えられ、 2
年 の春 の大学進学実績 では難関国公
さ れた 指 導 者 が 、それぞ れ の、組 織 ・
適 格 者 合 格 教 員が つく りだ さ れ て い
る時代 であ る。企業 も 学 校 も適 格 と
験 。 大 分 県教 委 に みら れ た よ う な 不
● 最 近、 生徒 と の コミ ュニケ イ シ ョ
れ た ロボ ット 人 間 と 化 し て い る。
は少 な く 、 当 然会 話 も少 な い。 子供
わ り、 それ ま で のざ わ めき が 次 の瞬
こと が 出 てく る、 と いう こと であ り
鶏 肉 に 関 す る 不 祥 事 、 う な ぎ の偽
不 正、 不祥 事 の連 続 でした 。 牛 肉 、
一方 、 世 の中 は、 昨 年 も ま た ま た
ま リカ ネ ・損 得 がす べて の弱肉 強 食
の世 界 であ り、 そ の行 き つく と ころ
ダ ー ド の基 本 は市 場 主義 の徹 底 、 つ
る で し ょう 。 グ ロ ー バ ル ・スタ ン
四日市高等学校は全国的 にも注目さ
次 ページ ヘ︶ヽ
れ ています。 ︵
︵
鈴 木 田︶
校 の、 よ り 一層 の発 展 を 祈 念 す る。
め る教 育 を実 現 し ても ら いた い。 母
以来 、 よ り よ き指 導 者 た る べき 人 間
︲世 紀
を 輩 出 し つづ け て 1 10年 。 2
に 入 リ ロボ ット 人 間だ け は つく ら な
いた め に、
一人 一人 の精 神 性 を た か
謝 す る心 ﹂ であ る。 わ が 母校 は 創 立
少 な く な ってゆ く筈だ 。 ど ん な精 巧
夢
な ロボ ット でも持 てな いも のは 、﹁
感
を み る心﹂、﹁
あ こが れ を抱 く 心 ﹂、﹁
て、 ノル マと責 任 を果 た す べく 、 管
理 ・運営 さ れれば 、 ロボ ット 人 間 は
社 会 の管 理 ・運営 の責 務 を担 ってい
る 筈 で あ る。 適 格 者 が 適 格 者 と し
よ く 聞 く 。 形式 、 名ば か り の資 格 試
ン の出来 な い教師 失 格 教 師 が 多 いと
か ら 大 人 ま で、 I ・T 機 器 に 操 ら
場 にゆ けば 、 終 日、 パ ソ コンと に ら
め っこ。 全 く 、 人 と人 と の対 面機 会
い ﹂ と い った 感 覚 も な く な っ て し
こと あ り ﹂ と いう言葉 です 。 人 間 と
こと を 思 わ せ る ことが 一番 大 事 な こ
﹁恥ず か し い こと は し な い﹂ と い う
ら底 の見えな い不況に大波 乱が起 こ
ま った のか と寂 し く 思 います 。先 進
いう も のは、 まず 、 これだ け は し て
没 入。 そ の後 、密室 化 の車 運 転 。 職
業 も 個 人 も、 カ ネ にか えら れ な い大
ま す 。ど う いう教 育 を受 け た のか 、
か合 理性 ば か り を追 求 す る こと を ひ
い った こと をす る のか と寂 し く 思 い
本 年 は 四日市 高 校 の前身 、 県立 第
2︶ に発
二中 学 校 が 1 8 9 9年 ︵
明3
足 以 来 1 1 0年 を 迎 え ま す 。 ﹁
質実
ど んな教 育 環境 であ った のかを 考 え
さ せ られます 。私 は、 結 局、 倫 理 の
と 休 みし 、 ﹁日本 の こ こ ろ﹂ を し っ
幻想 ︶ の世 界 に
沈 黙 と バー チ ャル ︵
問 題 ではな いか と 思 います 。 日本 の
か り と た て直 し て自 信 と誇 り を 取 り
の自動車産業 も影響を受け、好 況か
事者能力向上と教育におけ る責任 の
剛 健 を 立 校 の精 神 と し て掲げ た 田村
恥 の文 化﹂ とも 言 われ て い
精神 は ﹁
戻 し、 か つて のよ う に世 界 か ら尊 敬
りました。
事 な も のが あ る こと を今 一度 し っか
じ 制 服 、 制 帽 を着 用 し て登 校 し 生 徒
ま し たが 、今 や 恥 も外 聞 も な い こと
さ れ る品 のあ る存在 にな りた いと 思
います 。
明確化、 さらに教員に対す る社会 か
と接 し た 。﹂ライオ ン校 長 と呼ば れ、
﹁
美 髯 を た く わ え た ラ イ オ ン のよ う
が あ ま り に も 多 く 、 勝 つか 負 け る
か、 損 か得 か 、だ けが 判 断 の拠 り 所
か か る環境 下 にあ って、 人 間 が 行
ス テ ッキ を振 りふ り 田村校 長 が 胸 を
間 ピ タ リ と静 ま る。 す ると ま も な く
国 で これ ほど倫 理観 の軸 を失 ってし
り と振 り返 り、 これ を機 に、 効 率 と
な 風 貌 の内 に 威 厳 も 兼 ね 備 え て い
に な って し ま った よ う な 感 が し ま
張 って正門 を くぐ って登場 す る。 二
ま った 国 は、 見当 た らな い の では な
た。 ″ラ イ オ ンだ 。 ライ オ ンが 来 た
ぞ 。″ 校 庭 に 群 が る生 徒 の 一人 が 小
声 で叫 ぶ。 そ の声 は次 か ら次 へと伝
に も ユー モ ラ スな 風景 が ﹃四高 百年
の後 に こう い った こと を せ よ と いう
は いけ な いと いう ことが あ って、 そ
ます 。 これだ け は絶 対 にし な い と い
こ のよう な状 況 にな ってし ま った
い でし ょう か 。
原 因 は、 いろ い ろあ り ま し ょう が 、
1 1 0年 を 経 過 し た今 日、 同 窓会
は 、会 員 4万 6千人 を擁 し、 健 学 の
高 度 成 長 以後 の経済 至 上 主義 、 さ ら
装 、 米 の不 正、 た け の こ の偽 装 に い
は 、ギ スギ スし た社 会 に な り か ね ま
と では な い でし ょう か。
史 ﹄ に記 さ れ て います 。
精 神 のも と に脈 々と発 展、 成 長 し て
お り、 学 校 、 同窓 会 共 々、 今 日 の繁
れ る嵐 に巻 き 込ま れ た結 果だ と 言 え
た っては 何 を か 言 わ んや です 。 日本
せ ん。社 会 のト ップ 層 か ら 一般 の市
にグ ロー バ ル ・スタ ンダ ー ド と称 さ
栄 、 充 実 を喜び た いと思 います 。
中 の企 業 が 、 これだ け コンプ ライ ア
ン ス の徹 底 を叫 ん で いる時 に、 彼 等
てお り、 ま た社会 的 な秩 序 や マナ ー
の荒 廃 は、 大 人 か ら 子 供 に ま で 広
が っていま す 。 日本 人 に は、 これま
民 ま で常識 的 な判 断 が でき な く な っ
は 何 を考 え、 何 を勉 強 し て いた のか
これ ら 不祥 事 に関係 し て いる人 た
と驚 くば か り でし た 。
組織 の力など公教育 の復活とし て、
中 毎 朝 の風 景 であ る。﹂ 厳 し さ の中
左 衛 士 初 代 校 長 は 、自 ら も生 徒 と 同
鞭
葛
霧
了
0年度も残りわず かとな って
平成 2
参 りました。財団法人日本漢宇能力
︵
四高 二十九年度卒︶ 伝 統 的 精 神 もど こか に い ってし ま っ
同 窓 会 長 熊 澤 誠 一郎
挨
︵
前 ペー ジ よ り︶
′部 活動 では陸上部 の2名が全 国高
校総体 に出場しました。文化部 では
放 送 部 が NHK 杯 全国高 校 放 送 コ
ンテスト全国大会 に出場しました。
総 会 で審 議 さ れ た議 案 は次 の通 り
です 。
い学年があ るので、そう いう学年 に
固定化、参加者が減少気味 であると
いう問題に対し て、鈴木 田副会長よ
り、代表 であ る理事が実働し ていな
下 、 学校 側 とも さ ら に協 議 し な が ら
以 上 の議案 に つい て慎 重 な審 議 の
つい て
された県立北星高校に本校通信制課程
継承発展されます。
の理念は生かされ、
お い ては 理事 を 出席 でき る人 に代
え、当該学年 の同窓生に声 をかけ て
る 1 1 0周年 記 念事 業 と いう方 針 の
事 業 を推 進 し て いく と の報 告 が あ り
ま し た。
副会 長
ム〓 長
顧 問
書 記
監 査
︲
︲
︱
︲
︲.
︲
椰
鶉
躙
麒
名 越 一大 通信
5
山本 辮 子 四高 2
7
服部 幸 男 四高 2
0
吉 田 又康 四高 3
︲
鈴 木 清 司 四高 3
小津 博 四高 3
嗣
3
中 村 祐 子 四高 4
3
5
上 野 公 雄 四高 3
7
中 川 宏 四高 3
8
長 谷 川 正統 四高 3
9
山 下 久 三造 四高 3
5
青 山 晶 四高 4
8
秦 欣 二 四高 4
︲
森 公 平 四高 5
5
黒木 誠 四高 5
卒 年度
9
熊 澤 誠 一郎 四高 2
8
鈴 木 田 俊 二 四高 2
2
西脇 壽 郎 四高 3
2
坂 倉 加代 子 四高 3
5
伊 藤 勘 作 四高 3
6
中 島 泰 浩 四高 3
2
杉 本 雅俊 四高 4
村 井 司 教 頭
0
岡 田 卓 也 富 中 4
2
小菅 弘 正 富 中 4
9
吉 田 豊 四女 3
江 川 澄 子 北 女 9
1
大 橋 員 校 長
︲
小林 典 子 四高 5
8
河 西 善 哉 四高 4
︲
伊藤 成 利 四高 3
3
高 羅 英彦 四高 3
0
大 森 智 之 四高 5
7
奈 須 庄 平 四高 3
9
杉 野 慎 二 四高 4
暦1員
バ スケ ットボ ール部 からは国体 選手
0年 度 総 会 は、
5日
6 月 1
平成 2
︵
日︶、 四日市市総合会館 で開催 され
3人 の参加を得 て、定刻通
ました。 9
。
り4
︲時に始まりました
最初 に熊澤会長より、 110周年
は 100周年 のような大きな区切り
ではな いので、簡素 で実質的なも の
にし ていこうと いう基本方針ととも
に、実行委員会 を組織し て事業を進
め て いく と のお 話 を いた だ き ま し
た。
続 いて、本年度本校 に赴任された
大橋校長より、同窓会 の学校 への協
9年度 の卒業生
力 に対し ての感謝、 1
の輝かし い進学実績 の報告、 四高 に
今後 は、県内 で有数 の進学実績 を
参加を増やし ていくと いう形 で会を
簡 素 で は あ る が 実 質 的 で 意 味 のあ
文武 両道 ﹂ の精
誇 る学校 とし て、 ﹁
神を生かし、 四日市高校をさらに進
役 1役
が 1名選出されました。そ の他 いろ
いろな部 活動 で東海大会、近畿大会
など に出場し ています。
また、全国高総合文化祭 では吟詠
剣詩舞部門 に参加し、文化連 盟賞 を
2名 の出
受賞しました。さらに、全国 1
場 という狭き門でしたが全 日本 学生
音楽 コンクール全国大会ピアノ高校生
部門に、さらにエトリンゲ ン国際ピア
ノコンクールに1名が出場しました。
また、大 四日市まつりでは、バトン
部がパレード、踊リフェスタに参加し、
吹奏楽はチャリティコンサートや富 田
地区の敬老会のアトラクションに出演
するなど、
地域活動にも貢献しました。
このような活躍や努力 に応 え る べ
向 けられた大きな期待 に応える べく
結 果、 全 会 一致 で承認 さ れ ま し た 。
ま た 議 事 修 了 後 、 西脇 副会 長 を 実
第 1号 議 案
9年度 事業 報告
平成 1
第 2号 議案
9年度 収支 決算 ・監 査 報 告
平成 1
第 3号 議案
0年 度 事 業 計 画案
平成 2
第 4号 議 案
0年度 予算 案
平成 2
第 5号 議案
推進し、人間とし て大切なも のを見
学校経営 に邁進す る旨 のご 挨拶があ
りました。
行 委 員 長 と し て委 員会 を立 ち 上げ 、
0年度 役 員 ・常 任 理事 改 選 に
平成 2
失う ことがな いように取り組ん でい
また、総会 への出席者 の高齢化と
く、教育環境 の整備をはじめ、生徒
の成 長と夢 の実現 に何が必 要かを充
分 に検討し、また、キ ャリア教育を
きた いと考え ています。
3年設
また、本校通信制課程は昭和 2
置されて以来、0
6年の歴史を今年度末
に開じます。新しい理念のもとに開校
化させ、ますます保護者 の皆様 や地
発展させ ていきた いと のお話があり
ました。
紛れもなく同窓会 の皆様 のご 尽力 の
懇親会〉
〈
(会 場風景〉
職
計
富中、四女、北女卒業生
四高 昭和25年 度 ∼31年 度卒業生
四高 昭和32年 度以降卒業生
域 の皆様から信頼される四日市高等
同窓会 の皆様 のご支援を賜ります よ
賜 と思 います。
学校 とな るよう、教職員 一同、がん
ば って参りた いと考え ております。
うお願 い申し上げ ます。
来春完成す る新富 田駅西 日の ロータ
生 の姿 を見 てくださ い。後輩 のがん
ば りもなかなかす てきなも のです。
リ ー、 す でに改築 済 み のク ラブ 部
室棟、 テ ニスコートなど見 ていただ
き、また元気 にがんば っている高校
母校 のお近くにお越し の際には、
︲年 には 創 立
さ て、 母 校 も 平 成 2
110年を迎えます。本校 の輝かしい
伝統は、激動の時代を生き抜いてこら
れた同窓会の皆様によって築きあげ ら
れたものだと深く感銘しております。
また、 母校 のみならず、今 日 の日
本 の繁 栄 の礎を築 いて来 られた のは
(受 付〉
66号
第
(2)
同窓会報
四 日市 高校
(平 成 21年 )3月 1日
2009年
1 670 000
550 000
保 険料
備等
費
(次 期繰越金
)百 五銀行富田駅前支店普通預金 540,692円
一
・
一一
一
支出の部】
【
︲年度卒業 の打
本年 の記念講演は 5
ア メリカ
田十紀 夫 氏 にお願 いし、 ﹁
備
)
ン・
ギ ター ・
ソ ロの魅力﹂と題し て、
お話を交えながらア コー ステ ィ ツク
予
単位:円
(平 成 19年 4月 1日 ∼ 平 成 20年 3月 31日
lll入
【
の部】
収入の部】
【
ギ ターを演奏し ていただきました。
百 五 銀 行 富 田駅 前 支 店 普 通 預 金
氏は在学中 柔道部主将 を務
め、 成 績 も 常 に 上 位 で、 ま さ に
2 950 000
文 武 両 道 を 地 で いく 高 校 生 で し
た。 さ ら に、 氏 は 当 時 の 四 高 生
会議 費
会 報 印刷 及 び発 送 費
な ら だ れ も が 知 る 人 気 者 で、 文
2 950 000
会拠 出
)
特 別 会 計 積 立 金 (百 五 銀 行 富 田 駅 前 支 店 定 期 預 金
:円
単位
要
椿
化 祭 な ど の 出 し 物 のプ ロ レ ス は
支出の部】
【
藤統彦、橋本直也、松井健大期、斉木
健司、吉川なつこ、橋本奈央子、中島
英之、尾西 一隆、門脇正英、河内駿迪、
水谷純也、佐野由衣帆、前田幸陽、飯
田佳美、中村玲奈、福村沙紀、河 □惇
史、砂原愛紀英、日柴喜陽香、居石麻
衣佳、中川伸吾、梅田康希、山口照弘、
鈴木資子、西脇友美、山路文香、阪井
温香、紀平大貴、服部早慧子、櫻井那
央、佐藤佳世子、平野智士、片山祥 一、
為定悠介、大西藍、濱香緒里、稲塚智
行、大田修平、水谷広樹、杉野幸也、
石原亮太、芳村大輝、高井佑輔、坂倉
功達、山本萌子、植田健大、大倉理恵
子、一
局橋英司、高橋奈々江、高山博行、
西脇安耶、蛭川翔太、水谷日香梨、山
中克明、浅田泉、岡本典也、加藤緑、
金田愛子、河野江美、菊川紗希、後藤
有紀、佐藤里絵、須原妃奈子、瀬古大
也、瀧本悠、田中那々帆、常深恵梨香、
東方由香里、丹羽輝、服部佳大、美濃
田結香、森本実貴、趙詩瑶、笠井千央、
清水亮 一、伊藤真実子、岸李花子、小
泉綾香、佐藤里沙、潮崎恵里奈、清水
費
1.609,984
計
合
単位 :円
‖
入の部
の部1
l
‖又入
全 校 の 喝 采 を 浴 び た の で し た。
2万円︶
○終身会費 ︵
︵そ の雄 姿 を ご 覧 に な り た い方 は
樋 口貴明、宇佐美悠、杉浦貴、倉 田悠
ヽを デ﹂
耳C、ど
︼
︵
で
ど
で
く Sげ“●一
o
﹂
8 oo
﹂
,
も
希、大道貴仁、大井貴裕、練線彩、大
参 照くださ い︶ そんな,
お話 の後、東 津京子、島田昴紀、池田圭吾、谷日駿
京 工業大学理学部を中退されギ ター 平、藤村咲紀子、迫間充宏、東志穂、
の道 に進まれた こと、そし て、曲を 渡部厚志、大田 一志、河西綾子、河西
交 えながら氏 のギ ター の世界を話し 善哉、北平茉莉子、鈴木明日佳、小川
真弥、小橋真理、伊藤大樹、伊藤有希、
ていただきました。
、
、
、
﹁
私 は ア コー ステ ィ ックギ ター に 日中翔太 若井麻美 出口莉早 佐藤
、
、
、
、
出会 ってから、トラデ ィ ッシ ョナル 文香 川合康彦 福田尚也 福岡敬介
中村文香、森川紗貴、植松慶大、今井
なも のにより魅力を感じた。伝統的
亮太、中原穂、田村真善、浜口結衣、
な音楽 には、名もな い多く の人 々が
米島まどか、安田直弘、岡咲由美、伊
過去から積 み上げ てきた喜びと悲し
藤麻由、川戸亜沙子、藤田涼子、秋元
みの思 いが込められ ているから心に 隆宏、市川郁弥、竹中航、河本真以子、
響く のだ ろうか。
﹂と の言葉どおり、 河本祐輔、三宅梨穂、辻良樹、大田尚
ギ ター の音色は、何か懐かし い思い 吾、北川大智、小松直矢、大田美波、
を私たちに感じさせ てくだ さいまし 中尾彩香、高木優香、伊藤俊太郎、伊
、
、
、
、
た。素晴らし い演奏をありがとうご 藤匠 澤田康太 伊藤涼 三嶋大介
、
、
、
ざ いました。
︵
河西︶ 川合祥暢 岩田賢治 水谷明日美 伊
160 000
業
平成 19年 度収支決算書
財 団法人 四高会
387 818
267 86
事
2 950 00
金
立
積
100 000
与
給
平成 19年 度収支決算書
四 日市高校同窓会
全 国 制 1800× 1070メ 、
(平 成21年 )3月 1日
2009年
同窓会報
四 日市 高校
(3)第 66号
打 田十紀夫氏
瑶藤燻燻巡魃祗
千賀、尺長麗、竹村真菜、山下直子、
小島侑也、伊藤太 一、今藤智基、岡本
広太郎、古森裕也、近藤大、堺将悟、 ○納入金額
桜井孝親、庄瀬智大、舘知里、筒井愛
終身会費 2万円
実、西日卓真、早川絵梨、水谷健佑、
毎年納入の場合
三好史哉、安福浩希、渡辺了太、秋元
年会費 千 円
一志、浅井悠貴、伊藤誠扇、片山友貴、 ○納入方法
杉崎祐真、千種法人、中井裕未花、奈
①郵便振替 口座番号
須恵梨香、丹羽由貴枝、松田友香里、
○〇八二〇︱八︱六三六七
水谷駿介、水谷太樹、山田周平、山本
三重県立四日市高校同窓会
智紀、横井亮大、渡辺綾野、市川裕紀、
※専用の振込用紙がありますので
伊藤大祐、伊藤貴之、伊藤直人、上林
ご連絡下されば送付 いたします。
麻衣、梅原周、葛山由樹、金丸美佐保、
②現金書留
小林明日香、佐藤恒亮、佐藤匡憲、杉
△不
館迄ご送金下さ い
浦光、鈴木健太、田端恭平、中村佑太 ︽
お問い合わせは︾
郎、新賞由貴、新美有希、橋本恵里、
四日市高校同窓会館まで
松森文香、伊藤桂子、井上侑紀、河辺
〒五 一〇 ︲八〇二七
文人、久志本尚子、近藤俊介、坂倉将
四日市市茂福六五
史、安達真穂、中澤利之、西尾幸次郎、
廣瀬由佳、藤村美樹、松元和人、村坂
和哉、服部愛、三橋貴仁、安藤卓康、
伊藤潤、今村友穂、柏木太郎、片岡将
伊
藤
治
郎 先生
宏、工藤由佳、倉田桃子、後藤沙絵、
︵
富中 四十 二回卒︶
佐藤優麻、日中千晴、丹羽香央里、丹
0年 3月 ご逝去
平成 2
羽雅也、羽場知世、浜名芳輝、比嘉義
秀、藤井みなみ、村田悠介、村野亜子、
森脇彩、山本佳、山本真由、横田文彦、
由見諒、位田武嗣、奥寄雄也、高松弦
紀、多田光志、田中淳大、田中友季子、
刀根央樹、名和俊平、西日祐美、藤松
先生は、数学 の教諭 とし て昭
宏章、堀貴道、松岡亮太、山本佳奈、
4年度 ま で母
4年度より昭和 4
和2
分部雄大、早川勝彦、平田昭義、片岡
校に て教 べんをとられた。
宏和、中村文子、玉村紳、伊藤八峯、
明快な指導法に、多 く の生徒
清水む つみ、松瀬瑠美子、奈須庄平、
は
先
生
に
親しみを持 った。
花木則彰、徳永恭、加田陽子、藤谷克
、
昭和 3
6年度∼平成元年度 母
彦、山本幸子、松村靖、椎名博之、岩
校 の校長として教職 の道を終 え
田和弘、岩田貴文、山口道子、安垣澄
られた。
子、伊藤登美、柴田浩樹
︵
平成 0年2月現在︶
2
1
山
満
先生
椙
1万円︶ 一
一
○十年会費 ︵
名
︵
富中 四十 二回卒︶
5千円︶ 〓一
名
〇五年会費 ︵
0年 9月 ご逝去
平成 2
3千円︶ 〓一
〇三年会費 ︵
名
千円︶ 〓一
〇 一年会費 ︵
〇四名
会員の皆様、誠にありがとうございま
した。
同窓会の事業はす べて会費により運
営されています。会報の送付なども、財
政上の理由から会費を納めた方だけに
限らせていただいております。納入がま
だお済 みでない場合には、是非お早め
にお願い申し上げます。
先生は、医院経営、多忙 の中
、 風雪
母校創立 0
8周年記念映画 ﹁
八十年﹂を製作され、創立 100
百年 の日に
周年記念講演 にて ﹁
四日市の歴史をふりかえろう﹂と
題して、熱弁をふるわれた。
第 66号
同窓会報
四 日市高校
(平 成21年 )3月 1日
2009年
国際交流
︵
富中 三十 五回卒︶
門脇 一弥
の後 0
1年た った今も交流が続 いてい
るのです。私は日本を識 ってもら い
ささやか
この処 国際親善 の 一環とし て、我
たく て、風景入り のカレンダ ーや日
本音話 の英訳本、森永 のミルクキ ャ
ラメル迫送 ったりしました。向うか
が政府も観光省を発足させるや の状
らは スイ スのチ ョヨレート、風景カ
況にな ってき ているよう です。そ の
の相互理解が必要 であり、 又其 の後
為には先ず 国際交流という外 国人と
の文 通 な り の交 流 が 続 く か ど う か
学生 でした。もう昨年には卒業し て
冬 の間インドネ シアでアルバイト。
ご 両親 は それ に便 乗 し て在 印 中 と
か。妹 のエメリさんは昨年 フランス
すね。今年姉 のミシ ェールさんは、
いる筈 です。それにし ても スイ スの
夏と冬には長 いバカ ンスがあ るので
サー志望、妹は建築家志願 の共 に大
女 のお 子が 二人、 姉 は バ レ ーダ ン
りました。夫はダ クラス社 の技師、
レ ンダー、 スイ スタオル等送られ て
来 て、 い つも英文 の便りが添えてあ
は、夫 々個人 の努力に依 ると思 いま
すが、幸 いにも私 には、もう 0
1年間
も文通 の続 いているスイ ス人 一家 と
の交 流 が あ る の です。 ご 紹 介 し ま
し ょう。
それは、あ のミレ ニアム、丁度 西
0才と金
暦 2000年 の6月、私 の8
0日間
婚 のお祝 いを兼ね て、夫婦 で1
の欧州 4ヶ国 ツアーに参加し てきま
した。総 てが珍しく、歴史と先進 国
の整 備 さ れ た姿 に 圧倒 さ れ、 全 く
参 ってしま いましたが、そ の旅 の4
よう です。
のロアール川沿 いのロマンチ ツク街
日目が スイ スの最高峰 ユング フラウ
登頂 でした。少し高山病気味 となり
ましたが、下山 の途中駅 のクライネ
来 る交流、本当に嬉 しいですね。毎
年を重 ね て
ス部 の皆さんと出演もさせ て頂 い
ております。級会 に出席致します
励 ん でお り ます。 市 の文 化祭 に
は、文化会館 でそれぞ れ の コー ラ
時代 に習 った懐かし い歌や、 又新
し い歌も取り入れ、皆さんと共に
に驚き でした。私も何か見習わね 代 の方も多く、なかなか微笑まし
ば と、以前からや っております俳 い限り です。 コーラスも、女学生
句、水中 エア ロビク ス、 コー ラス
田 中 一子
、
︵
四女 四十 五回卒︶ 等 時間 の許す限り自分なりに続
け ております。道端 に咲 く 一輪 の
この世に生を受け て、 早 いも の 席させ て頂き、約 2時間弱椅 子も 花 を見まし ても、 又雲 の動きにも
、
、
。
で8
7年 の月日がたちました 振り お使 いにならず 立 たれたまま の 心を動かされ 今迄ただ何げ なく
返りますと、大東 亜戦争、学徒動 素晴らしいお話をお聞きし、先生 眺め ていた風景も車窓から見 る景
員、子育 て、伊勢湾台風と、それ のお年を考えました時、ただ ただ 色 の移り変わりもす べて俳句に つ と訃報も耳にしますが、誠 に淋 し
ぞれに大変な苦労を重ね、ど れ程 感動致しました。先生は、 人間は なが り、 メモをとるようになり、 い気持ちになります。出席出来 る
たくさん の方 々にお世話をおかけ いく つにな っても何かにときめ い 私なり の発見 です。体力的には若 幸福を感謝致しております。
恐ろし い ニ ュー スの多 い昨今 で
致 し ま し た こと か、 今 と な って て、前向き の精神 で、年だ からと い方 には敵 いませんが、水中 エア
は、す べてが感謝 の気持ち でい っ は 余 り考 え な い で、 そ の上 ﹁
私 ロビ ク スは、浮力を利 用し てピチ すが、無 理をせず皆様 に御迷惑を
おかけしな いよう、自分なりに努
力をし て、心豊かに残された人生
を歩ん で行きた いも のと思う今 日
此 の頃 です。
ます。 このように理屈を述 べると
発音す ると浪花節か歌謡曲 になり
子音 母音 ﹂
す い のです。多 くが ﹁
で出来 ており、そ のまま離さず 言
葉とし て吟じます。詩 を のば し て
︵
北女十九 回卒︶
笠井 き よ
吟 と の歩 み
ぱ いで、懐かし い思 い出となりま が 100才 のパ ー テ ィー を 開 き ピ チ の若 い先生 の号令と音楽 に合
した。その頃は、若 さ で 一生懸命 ましたら、皆 さん来 て下さ います わせ て身体全体を動かし、若 い頃
生き抜 いて来た ことと思 います。 か﹂ともお っし ゃり、階段を小走 に出来なか った ことを、 この年 に
先 日、 日野原先生 の講演会 に出 りに上が って行かれました。まさ なり楽しく続け ております。同年
幸せを思う
四女 四十 二回卒 ︶
︵
若 井 志げ
0年程前 昭和 5
3年 1
あ こがれ の女学生 にな って新し 山坂を のり こえられた ことは、当 一
今から丁度 3
社︶ 日本詩吟学院
い制服姿 で校門をくぐ ったあ の日 然 のよう でも本当 に幸 せな こと で 一月に縁あ って ︵
¨岳 風会 ︵
東京に本部︶ の津岳風会
から、幾年かあ っと いう間に過ぎ す 。
最近は今ま での行動範 囲を少し 一へ入門しました。北は北海道南 は
去 った 思 い です が、 心 の中 に刻
ま れ た こ の感 動 を残 し た ま ま、 縮め て、居住地 区にある市民セ ン 一沖縄ま で全国に会員が います。私
久しく続 いた私達 学年 の同窓会も ター で行われ る高齢者対象 の行事 ¨達女学生 の時、運よく卒業 はさせ 難し いように思われますが、勉強
2008年に終了致しま した。そ に足を運ん でいます。今ま であま 一てもら いましたが、戦争に始まり し始めます と奥は深いですが健康
の間多く の友を失 っていますが、 り知らなか った のですが、 そ こに 一
終戦 に至 るま で殆ど勉強らし い事 に非常 によいのです。
年 一回の発表会、 二回の昇段試
最後ま で楽しく出席 できた幸 せを は地 区の民生委員、 その他福祉関 ¨はなく、中味は何もなく唯学校 の
ター講座、月 一回 の手作 り料 理 で
う。
﹁
私達 は青春 が な か った ね﹂ と の食事会、レクリ エー シ ョンなど
よく話題になりました。確かに私 を 通じ て、 地 域 の人 々と 共 に学
も共通 の念をも っております。 で び、楽し み、仲間と の輪 を大きく
皆 で喜びあ いました。また変 わ っ 係 の方 々の心 のこも ったやさし い 一門をくぐ ったという事 でした。何 験 の行事があり、気 の休む 暇もあ
た 形 で集 ま る こと も あ る でし ょ 社会がありました。年数 回 のセ ン 一か身 に つくも のはな いかなあ⋮⋮ りません。健康が続く限り視 野を
¨と思 っていたとき知人 に詩吟を勧 広げ 益 々頑張りた いと思 っていま
近づ いて来 ているかと思うと、寂し
さ を 覚 え ます。 有 難 う スイ ス のゴ
ティーヤさん 一家。あ の美しいスイ
も当時、戦災 で住 む家ま で失 った ひろげ ることが でき、 そ こから元 一ら始まり、内容をよく理解す る こ
両親が、私達 一家族をかかえ て再 気を いただ き、 これまた新 しく み ¨とが大切 です。
一
建 に向け て歩 いた苦労を想像す る つけた幸せです。
詩文を何度も正しく読む。吟詠
中に明 日 への希望をも って子供を 母、夫 にも感謝 しながら明 日もま ¨す。言葉 の問合 いを美し い響仮名
育 てあげ、独立 させ、それぞ れ の た幸せでありた いことと、社会 の 一を 一つ 一つ切 って発音す ることが
¨出来ます。種類も少なく表現しや
家族 の幸せを願 って、 ここま での 安穏を願う私 です。
ととは いえ、私 もそれなり の幸 せ 人 々に支えられ て今 の幸 せを得 て 一り詩歌を作 ったり、 又吟ず ること
を み つけ て家 庭 を も ち、 平 和 の い る こと を忘 れず、 今 は 亡 き 父 一あり、 それには腹式呼吸が大 切 で
と、 いささかぜ いたくな思 いか と
何も話さなく ても通じ る家族 の 一の吟とは声を正しく発声 し て吟ず
も考 えます。そ のような環境 のも 愛は勿論 ですが、 こんな に多く の ¨︵
又うめく、 うな る︶ の意 味が あ
一かさ っぱ りわかりません でした。
¨
詩吟とは漢文を正しく詠む ことか
一められました。最初は何がなんだ す。
スの風景や人々の暖かさを忘れませ
ん。皆様も機会があれば 長く交流し
て下さ い。
年 のクリ ス マスは 特 に楽 し みに し
て便りを待 っています。もう 0
1年も
ですよ。 でも私は富中昭和 3
1年卒 の
。
9
8才にな るのです もう先余り永 く
な いですね。 この0
1年 の温かいメー
ル のやり取りも、そろそろ終わりに
い つの間にか こんな情報が入 って
道 で古城を訪ね、卒業論文が出来た
シ ャイデ ツクで下車し、雪 の頂上や
隣 のメ ンヒや アイガー の北壁等を自
慢 の 一眼 レ フで撮 りま く って いた
時、 ふ と背 後 に視 線 を感 じ た の で
す。外 人 の少年が繁 々と私 のカ メラ
を見 つめ ていました。そ こで英語 で
話しかけ ると 9才 の子 でした。が そ
一行 5人 の内 の背 の高 いご
の後は、
婦人 の方が、興味を示し話し掛け て
きました。英語とドイツ語 のチ ャン
ポ ンで、私はヤーバンから ツアー で
や って来たドクター、婦人は スイ ス
人 のド イ ツ語圏に住 み街 で英語教師
0分ば か り話し
をし ている等、色 々2
ている内、彼等 の東行き電車 の予約
時間が来 て、それ ではと、お山を背
に 一写、後 でお送りす るよう アドレ
ス迫書 いてもらいました。グ ッドバ
イとアウ フビーダ ーゼー エンとさよ
う な ら の大 声 で別 れ た こと でし た
が、私が写真を送 った縁 で、実 は其
(平 成 21年 )3月 1日
2009年
同窓会報
四 日市 高校
第 66号
甲 子園 で のご恩 返 し
成瀬 勝巳
︵
四高 三十年度卒︶
る機動力封じ のため、重ねた敷布団
に向 ってボ ールを投げ スローイ ング
の練習をした ことを思 い出す。試合
は 6対 1で完勝し、翌日 の決勝戦 で
四高 生 を 迎 え る鯨 駅
日比 義 三
四高 四十 五年度卒︶
︿
いた のを覚え ています。 そんな思 い
学が便利にな ったと同級生が喜 ん で
もの ︵
大 海 ・鯨 ご への憧 れ であ っ
たらす象徴﹄とされ ていた日本 民族
の伝統を踏まえた 一種 の ﹁
大 いな る
もかかわらず ﹁
鯨船神事﹂が行 われ
ているのは、鯨が ﹃
富貴や幸 いをも
招 待 し スピ ー チを お 願 いし た と こ
準決勝 でまさか
ろ、当時 を回顧し ﹁
出を持 つ私が、 三岐 ・近鉄富 田駅西
も坂出商を 4対 1で破り初出場初優
勝を飾 った。
2年 に四日市高校野球部創部
平成 1
100周年 の記念式典 に滝先生をご
四日市 に負けるとは思 っていなか っ
投 手 と 共 に左 腕 四天王 と 言 わ れ て
いる高橋君を中心にしたバ ランスの
とれたすば らし いチー ムです。私は
四日市高がうらやまし いとさえ思 っ
た ので翌 日の決勝戦 のことば かり考
9年夏 の三岐大会 で宿敵岐阜
昭和 2
高に敗れ甲子園 の夢を絶たれた。守
備重視 からくる打力不足がそ の原 因
打
であ った。翌年当時 の覚井校 長 の﹁
ています。どうし ても っと頑張 ろう
と いう気持ちを出さな いのですか。
私が、 四日市高校 に通 っている昭
5年 6月に三岐鉄道が、近鉄富 田
和4
駅に直接乗り入れし、員弁方面 の通
たねば 勝 てぬ﹂ の言を掲げ 、攻守 に
バランスのとれたチームが編成され
た のだ とす る説もあります。
そ の説を基にした駅舎 コンセプ ト
を、地域 の方 々には伝統行事 であ る
夏 の甲子園大会 の優勝は池内先生
のを感じた。
無 形 民俗 文 化財 に指 定 さ れ て い る
対応 でき るよう考慮しています。
たデザ イ ンとな っています。また、
地球 環境 にも配慮し て太陽光パネル
を設置したほか、バリア フリーにも
の人 々には興味 ︵
疑問?︶深 いも の
とな るようにと ﹁
鯨﹂をイメージし
は当時 は思 っても いません でした。
7回全国高
0年第 3
く話された。昭和 3
校 野球選手権大会 二重県大会に続き
水谷監督 はじめお世話にな った方 々
﹁
鯨 船神事 ﹂ が、 毎年 行 われ て いま
す。伊勢湾最奥部に位置す る四日市
には、捕鯨 の記録が残 っていな いに
え ていた。不覚 でした﹂と会場を笑
わ せた。矢張りあ の 一戦をし っかり
口駅舎 の改築に関わ ることにな ると
す ョ。中京商 も絶対に出場します の
で夏 の甲子園 で逢 いまし ょう﹂と熱
三岐大会 でも岐阜勢を連破し夢にま
で見た夏 の甲子園出場が決ま った。
に対す るご 恩 の結晶と思 い、大切に
四 日市高 は必ず 甲子 園 に出 ら れ ま
た。早速 その成果は現われ、 5月 の
中部 地 区高校 野球大会 で二重 県はじ
ま って以来 の優勝を成しとげ た。
習試合も多くなり、中 でも対中京商
いよいよ甲子園大会が始 まり、多少
抱き続け てま いりた いと思 います。
9日供 用開始 ・ 鯨 船 神 事 が イ メ ー ジ でき親 し みを
︵
駅舎 のみ昨年 H月 2
駅前 ロータリーと駐輪場は本年 4月 持 って貫 い易く、他地区 の駅利用者
業戦は完敗したも のの試合後中商滝
監督 からご指導 いただ いた訓話はな
緊張はしたが芦別高、城東高を破り
受け止め て下さ っていた のだ と確信
し、春 に滝先生から受けた叱咤激励
ぜ か脳裏 に残 っている。 ﹁
今 日 の試
準決勝 で連続優勝 に燃え ているあ の
おかげ で全国レベル の学校と の練
合は情 けな い。四日市高 の力は こん
滝監督 の中京商との対戦 とな った。
この富 田地 区にお いては、国重 要
なも のではな い。中部地区大会 での
前夜監督室 に呼ばれ中京 の武器 であ
完成 予定︶
優勝が それを物語 っております 。新
に対す るご 恩返しが できたと熱 いも
宮 の前 岡、小倉 の畑、米子東 の義原
金持 ちを作 らな い社会
小 黒 正博
四高五十 一年度卒︶
︵
四高同窓会員 の皆さんも新し い鯨
駅から懐 かしい富中 ・四女 。北女 ・
四高時代 に思 いを馳せ てみては いか
が でし ょうか。
鉄道 の駅は、利用し ていた当時 を
思い出させ る何がしか の魅力 を秘め
ているべきも のだ と考え ています。
今 回 駅舎 が新 しく な った のを 契 機
四高 生 ︶
に、 次代 を担う若者た ち ︵
の大 いなる成長を期待す ると共に、
0年 4
0年先 への
会 員 の皆さん自身 の3
思 い出づ くりを スタートさせ て頂き
この駅舎が地域 の方 々や駅利 用者
た いと思 います。
の人 々の話題づくりとなり、 また地
ひと﹂と ﹁
まち﹂
域 活性化に向け て ﹁
を繋ぐ 役割を果たす ことが出来れば
良 いと考 え ています。
利用します。温風を吹き出す エア コ
ンと違 い、気化熱を奪 われ て寒 か っ
たり、肌が乾燥す ることがあ りませ
ん。 レクレーシ ョンルー ムには本質
ペレ ット燃料 のストーブ が南北 に 2
″
星 霜該 に 四十 年 白 亜 の壁 は寂
け て い った のを は っき り覚 え て い
る。
そし て下校時、同級生らと校歌を
音放送を聞いたときは全身 の力が抜
か っただけに、全校生徒が校庭 で玉
戦争 に負けるなどとは思 っても いな
はは っきりし ていたにもかかわらず
統あ る国民性はど こ へ行 った のか、
律儀 で几帳面 で義理人情 に厚 い伝
族愛、愛国心にも繋が っていくはず
であ る。
歌は愛校 心にも繋がり、 ひいては家
が い っぱ い つま っている。そし て校
日本独特 の情緒 と素晴 らし い日本語
童 謡 唱歌 に 目が 潤 む よ う に 小、
中、高、大学 の校歌にはそれぞ れ に
す。
幣 は そ の伸 立 ち をす るだ け の物 で
ベー スにな っています。相手 にと っ
て価 値 の高 い物 を提 供 し、 自 分 に
と って価値 の高 い物と交換す る。貨
本 来 経 済 と いう のは 物 々交 換 が
生き抜 いてき ていますから、 そう心
配す ることもな いのでは ?
今は、百年に 一度 の不況だ とか。
日本 の歴史が 2000年とす れば 、
0回目 の大不況という こと ですね。
2
それ でも日本人は滅亡す る ことな く
活動 の基盤作りにはな っています。
微 々た る物 ですが、彼ら の不安定な
る価格 の半値以下 で入手 できます。
り の材を切り出し て運搬す る追加 コ
スト の負担な ので、ネ ツト で流通す
と か。 薪 は、 間伐 をし てい る森 林
NPO か ら、 杭 とし て出荷 し た残
約 一時間半 で大浴場にお湯が張られ
ま す 。 薪 で沸 かし た お 湯 は 優 し い
職 員さんが出勤するとまず最初 に
ボ イ ラー に火を入れます。新聞紙か
ら小枝、薪 と火が移 っていきます。
経済社会 へのヒント ではな いでし ょ
うか?金持ちを作らなければ 、極端
な貧乏も生まれません。右肩上が り
利 用す ること で、廃棄物を減 らす。
これが、成長を必要条件 としな い、
焼却灰と余 った エネルギ ーを高度 に
は美 し い日本 語 が は町 務 謡 霧 ″ 傷 鮮郵
いつま つて いる 湊製 間は繹 鮮 冥 郵 噌
びたれど 株椙 の葉 風 の囁きも 古
歌 って家路に ついた のも終戦 の日 の
昨今は日本人がどうやら壊れ てきた
昨 秋、 亀 山 市 に新 設 さ れ たデ イ
薪だ け の焼却灰は土質改良材 とな る
ので、近隣 の農家 に無償 で提供しま
台 。木が燃える赤 い炎 の揺 らぎ の癒
し効果と輻射熱による優し い暖房を
き歴史 の香 に匂ふ″
これは旧制富 田中学校歌 の 一節 で
忘 れ得ぬ想 い出 である。私達は憧れ
みた いだ 。今年喜寿を迎え、人生 の
サービ スセンターに木質 バイオ マス
室など、肌をさらす部屋 の壁暖房に
まれる のではな いでし ょうか ?
持続
でなく ても、サ スティナブ ル ︵
可能︶な社会は こんなと ころか ら生
し て、化 石燃料 の使用量を減らし、
山に捨 てられている間伐材 を利用
灰も畑に利用され ています。
提供し ています。もち ろん この焼却
、
あ る。あれから 0
7年 今年は 110
周年を迎えるという。私が入学した
0年、終戦 の年 の4月 であ
のは昭和 2
る。通学は近鉄富 田駅 で下車、降客
は大半が富中生 であ る。出札から出
の富中生 に誇りをも っていた のか、
残り時間が少なくな ったなあと実感
トーブ 程度 のも のですが。
ると最上級生 の号令 で整列し歩 調を
機会あ るご とに大声 で校歌を 回ず さ
す る昨今、 これから の日本がど のよ
だ。
合わせ て校門を過ぎ るとすぐ 右手に
ん でいた。とくに私は 2番 の歌詞が
、
〓
︰
っ
嘲
緑
飾
が
﹄
ド
製
i
ゎ
喘
商
中
﹄
F
陶
嘔
r
祀
製
精
計
み
二
度
卒
︶測
奉安殿 ︵
神事など で使う道具や宝物
好きだ った。
″こ の学び舎 に集 いよ る 七百 の
を利用した設備を設置させ て頂きま
し た。 バ イオ マス の設 備 と 言 って
も、薪 を燃料 にしたボ イ ラーと木屑
を 固 め た ペレ ツト を 燃 料 と し た ス
う な 国 に な る のか気 が か り では あ
一る。
す 。給湯を終えたボイラー内 の熱 エ
ネ ルギ ーは、脱衣場 。トイレ ・静養
を安置す る場所︶があり、奉安殿に
向 か って ﹁
頭右 H﹂を行う のが儀礼
子が明暮れに 誓う理想 の高 うして
学 ぶや文事 執 るや剣″
とな っていた。
このころす でに大東亜戦争 の帰趨
望
「
地元 OB
ではすば らし い点 数 を取 るよ う な優
動 を し て家 に帰 っても翌 日 の テ スト
か り でしたが 、 同 じ よ う に ク ラブ 活
いたし ております。
今、通勤 には毎朝、急行電車 に乗
ていただ いた先生方 のおかげ と感謝
書生不 一
死准鮨
︵
四高 五十 三年度卒︶
だ も の の就 職 では地 元 に帰 ってき
た。もち ろん現在も富 田に住ん でい
る ので、それ こそ四高 のことは毎 日
とうとう私にも四高 同窓会報 に何 せ る。特 に私は、地元 ﹁
富 田﹂ の生
8
か書 いてほしいと いう依頼がきた。 まれ で、富 田小、富 田中、 四高 と 1
﹁
と と
は、 に ち望 ん で 歳 ま で富 田の地を 一歩も外 へ出た こ
う
と
う
別
待
﹂
いた わけ ではな いので ﹁
たま た ま﹂ とがな い。大学 で4年間東京 に住 ん
の方 が適 切 であ る。 ﹁
特 に書 く こと
け 付 け る消 防指 令 セ ンタ ー で仕 事 を
務 し 、 市 民 か ら の 1 19番 通 報 を 受
がな い﹂と言 い つつも引き受け てし
ま った。
り近鉄富 田駅 で普通電車 に乗り換 え
ます。富 田駅 で普通電車 に乗り換 え
い であ った よ う に思 う。 共 通 一次 元
年 の世代 で、確 か に受 験 で煽 ら れ も
し たが 、 今 の比 では な いと 思 う 。 今
は 情 報 が あ り過ぎ る。消 化 し き れ な
いし、 じ っく りと考 え て いる 暇が な
い。 最 近 は随 分 と高 校 生 を 取 り巻 く
環 境 も変 わ って、高 校 教 員 を や り な
け れ ど ど ん な に 環 境 が 変 わ っても
がら ﹁
高 校 生﹂ って大 変 だ と 思 う 。
邁 進 す る のが 四高 生 、 そ し て そ の
O B であ ろう。
0周 年 や
書 を や っ て い る の で、
9
1 0 0周年 では 同窓 作家 展 の 一員 と
︲
し て参 加 さ せ て いただ いた 。 平成 2
年 度 には 創 立 110周年 を 迎 え ると
人︶ 4人とも 四高 の卒業生 であ る。
見 ている。制服が変わ った時も、今
の富 田駅西改修も見 ている。
秀 な 生徒 が た くさ ん いた ことを 思 い
出 します 。
し ています 。 この消 防 指 令 セ ンタ ー
は全 国 でもまだ あ ま り 例が な く 、 こ
運 動 生 理学 に興味 を もち 順 天堂 大 学
い う 。 地 元 の O B と し て密 か に こ
の歴史 を 祝 いた い。
思 えば 私 ど も家 族 ︵
妻 と子 供 2
れ ま で 四 日市市 と隣 の桑名 市 が 個 別
に設 置 、 運 用し てき た指 令 装 置 を昨
の体 育学 部 に進 学 し、 陸 上競 技 の道
くりと流れ ていて、自由があり、勉
私 の高校時代は遥か彼方 にな って
しま ったが、今と比 べると時がゆ っ
るま での数分間、駅 のホー ムから母
年 4月 か ら 両市 が 共 同 し てひと つの
に 進 む こと にな りま し た 。大 学 では
たグ ランドを見ながら、当時 の自分
たちがそ のグ ランドをがむし やらに
違 い で最 近 四高 を 卒 業 し た。 純 度
結 局、 大 学 も陸 上競 技 に関 係 し た
指 令 装 置 に統合 し、 運 用 を開 始 し た
競 技 選 手 とし てはま った く 通用 し ま
な って走 っていた ことをと でも懐か
の が 多 か った と 思 う。 そ し て 何 よ
じ た学 校 であ ったか ら
質実 剛健 の校 風を重 ん
と し て、
一片 の無駄 も無 く 活 か さ れ
てき た よ う に 思えた 。
︵
四高平成元年度卒︶ 全 て の経 験 が、 ここに来 る迄 の過 程
り 、高 校 で理系 を 選び 、大 学 を経 て、
高 校 在 学 中 の私 は勉 強 も ろく に せ
こ そ、 多感 な高 校時 代
海 に つづ く
ことか ら 飛び 込んだ 割 に は 、 得 るも
強にも部活にも楽し いことが い っぱ
私と妻 は同い年 で、子供 2人は 3 つ
高 機 能 型 の消 防指 令 セ ンター です 。
で の全 日本 選 手権 や 正 月 の箱根 駅 伝
せ ん でしたが 、 4年 間 のク ラブ 活 動
しく思 い、富 田駅 のホームに立 って
いる毎 日です。
現 在 では 四日市 市 内 か ら の通報 は桑
の優 勝 を経 験す る ことが でき、 卒 業
名 市 の消 防 本 部 内 にあ る こ の消 防 指
令 セ ンタ ー に集 約 さ れ、 北 は 桑 名 市
し た。
ず ク ラブ 活 動 に熱 中 し、 毎 日、 日が
に 勉 学だ け に時 間 を費
リ エー シ ョンに富む。校内は広く、
課業 間 の移動は常に駆け足。食事 も
は座学教務 と体育訓練等、多種 のバ
海 に つづ く 人生だ った のか も ︰。
学 校 を修 業 し た今 後 は 、艦 船 の保
、
2
私 は昨年 の0
1月 か ら 1 月 ま で
ひ ょんな こと か ら再び 学 生 にな って
いた 。
た のだから。
美し い瀬戸内 の島 の風景と、伝統
が宿 るレ ンガ造り校舎。数 々の ︵
特
殊 な︶規律 に従 って、沢山 の ︵
個性
溢れ る︶教官や同期 の学生と過ご し
た 日 々は、 ︵
色 々な意味 で︶ 浮 世離
れした環境 ではあ ったが、 ひよんな
さ い。︶
町 です。 是 非 観 光 に お 越 し く だ さ
い。 旧海 軍兵 学校 も是 非ご 見 学 くだ
ま す 。穏 や か な気 候 で景 色 の良 い港
る よ う、 日 々精 進 に 励 む 所 存 で あ
る。 こ の仕 事 、 な か な か奥 が 深 い。
︵
現 在 は、 広 島 県 呉 市 に 住 ん で い
り と影 なが ら︶皆 さん のお 役 に立 て
守 技 術 者 の端 く れ と し て、 ︵ひ っそ
海 上自 衛 隊 では毎年 、 技 術 者 の中
入浴も大急ぎ で行うような、時間 の
余裕が全く無 い目が 回るような毎 日
であ ったが、今 にし て思えば 、私が
と が でき、 ま た同 じ よ
試 験 に合格 した のだ が 、 中 途 採 用 で
今ま で娑婆 で吸 って来た諸 々の塵や
え、 野球 部 、 ソ フト部 、 サ ッカ ー部
あ っても自 衛隊 の入隊 初 期 に は 必ず
芥 ︵
あくた︶を洗 い流す良 い機会 で
あ った と 思 う。 前 職 を辞 す るま で
途 採 用 が あ る。 ︵
なぜ か ︶ そ の採 用
何 ら か の合 宿教 育が あ り 、 私 も 広 島
県 江 田島 市 にあ る、 海 上 自 衛 隊 候 補
てき た仲 間が い てく れ
生 学 校 に 入校 した の であ る。
う に ク ラブ 活 動 を や っ
後 は陸 上競 技 に関係す
関 は 、 明治 9年 に開 設 さ れ た ﹁
海軍
兵 学 校 ﹂ を前身 と し た伝 統 のあ る学
私 の場 合 は、 入校 か ら修 業 ま で約
校 であ る。
2ヶ 月半 の短 い教 育期 間 では あ った
が 、 そ こ で受 けた 教 育 は、 私 の人 生
で何 に も換 え難 い経 験 と 思 い出 を残
し てく れ た。
朝 の総 員 起 こし ︵
秋 ・冬 は 6時
0時 の消 灯 ま で、 課業
半 ︶ か ら、夜 1
うに野山や海 辺 で飛んだ り走 ったり
し ているうちに随分と スリムになれ
色 々迷 ったが、 エイヤ ツ、と入校を
決 め て良 か った。中年間際 の腹 の出
たオ ツサ ンが、あたかも中学生 のよ
が 所 狭 し と部 活す る中 を縫 う よ う に
た か ら、 県大会 など で活 躍 す るよ う
き ま せん でし たが、 今
を守 る仕 事 に生 かす こ
と が でき毎 日、充 実 し
江 田島 にあ る海 上自 衛 隊 の教 育 機
走 った も のでした 。 当 時 の陸 上 部 は
な選 手 は お らず 、 和気 謁 々と練 習 し
ていた こと を 思 い出 します 。 今 では
ま で培 ってき た自 分 の
た ことが大 学 進 学 ま で
こ のク ラブ 活動 を 通 し て知 り合 う こ
知 識 と体 力 を 消防 士 と
し て市 民 の安 全、 安 心
指 導 者 が お らず 、 短 距 離 、 跳 躍、
とが でき た仲 間 が卒 業 後 の大 切 な 宝
た 日 々を送 っており ま
の道 を作 った礎 とな っ
物 と な って います 。今 、 彼 ら は さ ま
す 。 これ も 一重 に落 ち
て い ま す。 大 学 卒 業
ざ ま な 分 野 の第 一線 で活躍 し て いま
5年 が 経 ち 、 今
す が 高 校 を卒 業 し て 2
では休 みにな ると高 校時 代 に帰 り、
こば れ の私 を 見捨 てる
ニ ュー を 組 む よ う な粗 末 な も の でし
友 人 た ち と語 り合 え る ことが 何 よ り
ことな く熱 心 に指導 し
長 距 離 と 各部 員 が気 ま ま に 練 習 メ
も楽 し み です 。 勉 学 で の思 い出 は、
る仕 事 に つく ことは で
私 は 毎 日が 補 習 の連続 で辛 い思 いば
社 会 人 で技 術者 の風下 に生 き て来 た
暮 れ るま でグ ラ ンド を走 って いた こ
と を 思 い出 します 。 ク ラブ 活 動 は陸
ラブ 活 動 に熱 中す る こ
やす ことなく 好 き な ク
棚 瀬 社曇心
に は ブ ラ ス バ ン ド 部 の音 楽 が 聞 こ
し か し、 今考 え ると、 文武 両 道 ・
後 の私 の人生 に大 き な 影響 を 与 えま
長 島 町 か ら南 は 四日市 市 楠 町 ま で人
5 万人 の暮 ら し の安 全 を 守 って
口約 5
いま す 。
100%四高卒家族 であ る。冗談だ
が この ﹁
人物往来﹂も家族 4人 で回
校をながめると、音と変わらな いグ
ランドが目に入ります。朝 日を浴び
現 在 、 私 は 四日市 市 消防 本 部 に勤
il
上部 の長 距離 に所 属 し、グ ラ ンド内
四日市消防指令 センター内部風景
第 66号
同窓会報
四 日市 高校
(平 成 21年 )3月 1日
2009年
(7)
四 日市高校
第 66号
同窓会報
2009年
(平 成 21年 )3月 1日
F
卜
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ζ同 窓 生 交 歓摩
富中35回 卒 H201114四 日市都ホテ
,レ
)
鵡
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●︱ ■ ■
一
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一
会
高
四 ︰
中 一
・●一
四 高 51年 度卒 H20816(四 日市都ホテル
)
H20517(札
幌
)
麟臨
∴
襲蔓
富 中40回 H20,14(寿 美屋
)
第 10回 四高桜菜会 H2061(四 日市都ホテル
)
四女42回 卒
通信制課程
H20427(四 日市都 ホテル
H2061(ひ
白聖会
富 中 42回 卒 H201020(四 日市都ホテル
)
)
るがの高原 牧歌 の里
)
富中41回 卒
H2045(四
日市都 ホテル
)
通信制課程 に 4年間在学しました
が、楽 し い事ば かり でも有りま せん
でした。志半ば で私 の子供 のような
クラスメイトが亡くなりました。顔
と名前を覚 えき っていない時期 での
悲し い出来事は、忘れたく ても忘れ
〓羞 奮 撃 だ〓よ■ 一
一
川大地震被災者 へ何か支援 できな
0年度、理事会 の席上 ﹁
◎2
中 国 ・四
いか﹂と提案があり、 そ の場 で募
金を行 い、 2万5000円を救護
も訪れる事が出来 る場所 です。卒業
頂き記念碑を建立 しました。何時 で
4月からは学び舎 に、訪れ る職員
室や教室は有 りませんが、 8
1年 に校
門横 に学校関係者 の方 々の御協力を
田が 鳥 出 神 社 の鯨 船 行 事 の町
完 成 し ま し た。 こ の駅舎 は富
昨 年 H月 い っぱ い で駅舎 が
愛用 のグ ラブ と優勝決定 日発行 の
0年度、第 7回
管 され ている昭和 3
3
甲子園大会優勝時 の高橋 正勝投 手
金とし て、毎 日新聞社、社会事業
団に寄 託いたしました。
仮装行列では男女間 の服装 を全員 で
生 の皆さん、
一度訪れ て下さ い。
る事が できません。
取り替えて運動場を行進しました。
寂しく て、と でも悲 しい事 ですが
近鉄一二三岐富田駅完成﹁
西日広場完成間近
私自身も行進 に参加しました。今思
通信制過程 での思 い出は胸 の中 に開
時は、学年が入学以来 一番盛り上が
い出し ても大変はず かしか った です
が、卒業文集 のアンケート でも運動
な ると思います。
習 ・準備 に邁進しました。誰もが熱
ル の合わな い夏休 み中も朝夕時 間を
見 つけ ては ク タ クタ にな るま で練
多くなく、十分なト レー ニング 器機
を備え ることが できず 、ガ ランとし
た感じ でした。が、 同窓会 のご 理解
2月にト レー ニング場が
平成 9
1年 1
完成した のですが、県から の予算 は
を した ユ ニー クな も のと な っ
て いま す 。 こ の駅舎 に面 し て
0年度 内
駅 前 広場 の整 備 が、 2
の完 成 を 目指 し て急 ピ ッチ で
進 め られ て います 。 こ の広 場
か ら 直接 構内 に 入 る通 用 門 が
︵
係 ・市岡︶
朝 日、毎 日両新聞社発行 の号外が
0回大会開催中、 甲子園阪神資
第9
料館 にて展示されました。
待 つば か り とな って います 。
ぶ り の再会 に 最 初 は ぎ こち な さ が
ま し た 。 それぞ れが 年 を 重 ね、 久 し
私 た ち の学 年 は昨 年 同窓 会 を 開 き
撃〓編薄菫琴一
皐篠鸞I討昨豊
ま た、 便 利 さだ け でな く 、 生
既 に設 置 され、 広 場 の完 成 を
徒 の安 全 を守 ると いう見 地 か
残 っていま し た が、 話 し出 せば 音 の
ま ん ま 。途 切 れ て いた時 間 を 、 すぐ
お ります 。
︵
小林 典 子 ︶
員 の皆 様 か ら のご 連 絡 を お待 ち し て
様 子 に思 いを馳 せ て みま せ ん か ?会
ぜ ひ同窓 会 館 に 足を お 運び くだ さ
い。 展 示物 をご 覧 にな って、 当 時 の
母校 を懐 か し く感 じ られ ま し た ら
ね。
レ ス交 換 が 行 われ て いた の でし ょう
た こと 。 き っとあ ち ら こち ら で アド
か った 人 と盛 り上 が った り ⋮。 中 で
も 一番 の収 穫 は、新 し いご 縁 が でき
に 埋 め てしま う ことが でき ま し た 。
それど ころか、 当時 話 し た こと も 無
ら 、 防 犯 カ メ ラを設 置 いた し
ま した 。
トレ ■● レ 一
グ 器機
大一
いに 充実■
,
く真剣 になり、文字 通リクラス 一丸
とな って取り組んだ 思 い出は、ず っ
一環として総額約 600万円に及ぶ
寄付を いただき、たくさん の器機を
揃えることが でき、充実 したト レー
ニング場にし ていただきました。在
校生が同窓会 の意図に応 え て、大 い
に この施設を活用し、文武両道 の伝
統を守 っていく ことを願 って止 みま
せん。
◎当館 メモリ アル ・ギ ャラリー に保
会行事は、
一番楽しか った思 い出と
の前途更な る栄光 と躍進を心から念
じ ております。
私は 四日市高校 で本当に有意義 で
楽 し い三年間を過ごす ことが できま
した。毎 日の授業 ・部活 ・クラ ス活
また、私は音楽部 と新聞部 に所属
し ていました。部活動 の経験もさる
工事 が進 む富 田駅西 口広場
り 一段と仲間意識が生まれました。
年 3月末に て通信制課程は幕 を下 ろ
文化祭、生活体験発表会。
修学旅行、
[︲
﹃﹃◎︶﹁一●①
Sな
ヨ肛一
¨
い
●∞
﹂
﹁
動を通し て得たも のはたくさんあり
ます。 日々の授業を真剣に受け、も
であ る こと にち な ん で鯨 の形
す事 になります。社会情勢が大きく
戦後、激動す る社会 の中、働きな
3 通信
が ら学ぶ人 々の為に、 昭和 2
年
5年に
制過程は産声を上げ ました。 2
初め ての単位修 了生が巣立 って以来
、
0
6年間約 3700名余り の方 々が
通信制過程を卒業されましたが、本
変動す る教育改革 の大波を受け、 四
し て多く の人が挙げ ていました。
じ込め、残された人生を過ご し てい
初めてのオリ エンテー シ ョンの 一 きます。
最後になりましたが、 四日市高校
泊研修は、通信制課程 でしか味 わえ
4県交歓会 では、他県 の同じ様 に働
な い行事 でした。京都 への 一泊 での
に沢山 の思 い出が有 ります。入学式
きながら勉学 に励む沢山 の仲 間と交
う 一度自分 で考え る。わからなけれ
たと思 います。
友達 ・先生 ・家 族をはじめ、本当
を得 て、創立 110周年記念事業 の
卒業後も信頼 でき る特別な存在とな
に多く の人に支えられた幸せな 三年
間 でした。卒業後も 四日市高校 で学
と忘 れる こと のな い人生 の糧 とな っ
りました。勉強にや る気 の出な い日
も、部活 の為だけに学校に来 て、友
んだ ことを誇りに、頑張 っていきた
いと思 います。
そし て三年間苦楽を共 にした仲間は
達 か ら刺 激 を得 る こと も あ り ま し
た。部活は高校生活 の支 え でした。
なにより三年間 の中 で印象深 いの
は三年生 で迎えた ﹃四高祭﹄ です。
トレー ニ ングに励 む野球部員
日市北高校と統合 となり、新 しく北
星高校とし て船出しました。
勉学に友情に励んだ学び舎、本当
で初 め て出会 ったク ラスメイトと共
に過ご した 4年間 の出来事は、私 に
様な仲間が居 る事を励 みに勉学 に打
.つ
流しました。それ以来 の私は、同じ
と っても大切な思 い出ば かり です。
運動会 での綱引き、最後ま で請め
ち込 みました。
返
た末 の達成感は、大学生活にお いて
も、私を探求 へ駆り立 てる原動力 に
│,│
ことながら、親切丁寧に指導し てく
れた先輩方、支え てくれた後輩達、
ば友人に助けを求め、私も助けとな
り、ともに教え合 う。自分たち でわ
か ら な い ことは 先 生 方 に質 問 をす
る。そうし て理解を深め るうちに、
勉学はただ教科書と向か い合う苦行
ではなく、人間同士 のつなが りで成
長し ていく温かなも のであ ることを
実感しました。先生方 の妥協 のな い
熱心な指導、暗くな るま で教 えあ っ
ステージ発表 に向け て、 スケジ ュー
ず 頑張り抜き、延長戦 の末勝利した
■■■1■ ■
FII 11111:│■
66号
第
¬収
バ
:IJ tt TX l● Jぶ
口
幽
(平 成 21年 )3月 1日
2009年
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