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エッセイ62 ある小さな住宅地の記憶と記録

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エッセイ62 ある小さな住宅地の記憶と記録
62
ある小さな住宅地の
記憶と記録
世田谷区の北東の端に、南北を2つ
され、宮中などに納められた。牛乳
の私鉄にはさまれた“羽根木”とい
よりも小瓶入りの濃厚なクリームが
う小さなまちがある。昭和の初め、
よく売れたとのこと。しかし、定期
ここに生まれた小さな住宅地が「代
的に乳牛を群馬の牧場と入れ替える
田橋分譲地」と名づけられたのは、
必要があるなど、その運営には莫大
南側の私鉄が開通するまで、代田橋
な費用がかかり、累積赤字は増すば
が最寄駅だったからである。18区画
かりであったという。やがて、神津
の多くに住宅が建ち、住民が住み始
家は世田谷農場の土地を三井信託株
めたのは2〜3年後の昭和8(1933)年
式会社に信託し、代田橋分譲地が誕
頃。前年には、関東大震災後の人口
生する。
急増を背景に世田谷区が誕生し、南
の私鉄が開通し、代田橋駅の羽根木
三井信託株式会社の分譲地
側には“帝都西郊の一名物”(*1)で
販売用リーフレットは三つ折りで
ある和田堀給水所の配水池が竣工し
11.5×16.6㎝。牧場らしい南下がりの
ていた。
なだらかな丘の分譲地を向かいの丘
の木々越しに望む表紙の図柄が時代
神津牧場世田谷農場
を感じさせる。配置図、案内図、区
代田橋分譲地は、もと神津牧場だ
画ごとの面積と価格表。説明文には
った。起伏ある地形のせいか水田の
所在地や交通や設備(各宅地ハ幅二
少なかったこのあたりには、他にも
間半乃至三間道路ニ沿ヒ何レモ道路
数箇所の牧場があった。神津牧場は
面ヨリ幾分高ク、樹木アリ、下水完備)
明治20年に群馬に創設された日本初
と三井信託株式会社の業務内容が記
の洋式牧場である。大正3年、乳製品
されている。
の重要増に応じて東京出張所(店舗・
同社は昭和2(1926)年から12年
工場)を赤坂に開設することになっ
間に60件ほどの分譲地を開発した。
た時、その農場として選ばれたのが
“旧式ノ大邸宅ノ不便不利空虚ナ生
羽根木の約3,000坪の土地だった。牧
活カラ逃レテ文化的施設ノ行届イタ
草の植え付けや牛舎の建設などに半
小邸宅ノ充実シタ生活ヘノ憧憬ハ現
年を要したという(*2)。
代人ノ誰モガ抱ク所ノモノデス”と
牧場の照明用に電気が引かれたお
いう開発の思想のもと、宅地規模は
かげで、近くの民家は周辺地域に先
いずれの分譲地も100から180坪ほど。
駆けて電気を引くことができた(*3)。
自動車に配慮した道路幅員が確保さ
乳牛の数は10数頭(*2)あるいは50
れ、都心の先進的な分譲地では共同
頭ほど(*3)。朝夕2回、搾乳は荷車を
浄化槽による水洗便所を設け電線を
曳いて赤坂工場まで運ばれて製品化
地中化するなどした(*4)。
在林館館主・埼玉大学名誉教授
在塚礼子
図1 代田橋分譲地リーフレットの一部
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家とまちなみ 69〈2014.3〉
写真2 住宅地の中通り
(30年前と現在の家並み比較)
写真1 中廊下型住宅の例(昭和30年代半ば、向かいの家に
間借りしていたアメリカ人が撮影)
代田橋分譲地はその初期の開発
たちが、それぞれの理由でここを住
で、2区画から198区画まで幅広く分
まいとした。
布する同社の分譲地の中で18区画は
ここに分譲地と住民の80年を語る
小規模だが、それ以下が過半を占め
紙面はないが、戦災にも生き残り(焼
ており、むしろ典型的ともいえる。
夷弾は落ちたが)
、1990年ごろまでは
宅地規模は116.5から198.5坪。西のは
静かな時を刻んでいた住宅地が大き
ずれという立地などのため、分譲価
な変貌を遂げた契機は、ある区画が
格は坪あたり31〜34円(社内資料で
売却されて5階建てのマンションが建
マジャクシも、遠い記憶となった。
は28円)で、都心の先進事例の4分の
った時だった。区の審査会による不
分譲地と同じ頃に誕生し、リーフレ
1ほど。社内資料では「中流以下向け」
適切な開発との判断にも法的拘束力
ットの案内図にも描かれていた和田
と位置付けられ、世田谷区では“ご
はなく、わずかに設計変更されて地
堀給水所の建て替え工事が始まって
く一般的な分譲地の典型であった”
鎮祭が行われた時、向かいの家の住
いる。生きた文化資産とすべき配水
民はフォーレのレクイエムを流して
池はやがて失われ、拡幅される道路
住宅地の変貌を悼んだのだった。
によって羽根木のまちから切り離さ
分譲地の変貌
もっとも、相続の発生で敷地内に
れる。棲息してきたタヌキも生き場
確かにそこは昭和初期の東京郊外
別棟が建ち始めるなど、70年代から
を失う冬である。
によく見られた住宅地だった。生垣
わずかずつの変化は起きていた。今
に囲まれた道路よりやや高い敷地、
に至る大きな変化に大きく作用した
数段の階段の先に大きめの門と通用
のは用途地域が住居地域とされたこ
門、門かぶりの松。住宅の多くが中
とだろう。当初からの子孫が住民の
廊下型住宅で、
平屋と2階建てが半々。
半数程度、古木の残る庭もある一方、
洋風住宅はわずかだが、洋画家のア
敷地全体あるいは一部にマンション
トリエの大きな洋風切妻屋根がラン
が建つ区画が半分近くを占めている。
ドマークとなっていた。そのほか、
やや離れた庭のテニスコートから
海軍軍人、会社経営者、帝国大学の
聞こえる声も、春になると隣の庭の
物理学者、鉄道省の役人といった人
池から下水溝に流れ出る大量のオタ
(*5)
とされる。
(註記)
*1 東京市水道局「和田堀浄水池工事報告」
『工事畫報』1932
*2 神津醇逸郎『思い出の糸車』私家本 1989
*3 世 田 谷 区『 ふ る さ と 世 田 谷 を 語 る 』
1997
*4 加藤仁美「三井信託会社による住宅地
開発について」
『東京・成長と計画18681988』東京都立大学研究センター、1988
*5 世田谷区『世田谷区まちなみ形成史』
1992
在塚礼子(ありづか・れいこ)
在林館館主・埼玉大学名誉教授。
1948年東京生まれ、日本女子大学
卒業、東京大学大学院修了。工学博
士。著書:
『老人・家族・住まいー
やわらかな住宅計画』
、共著:
『住み
つなぎのススメー高齢社会をともに
住む・地域に住む』ほか
図2 和田堀給水所1号配水池(文1)
家とまちなみ 69〈2014.3〉
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